重たい掲示板

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川端優美子 投稿日:2011/05/28 08:04

【497】[549]豪志、おぬしもワルよのう。

群馬のゆみこ(川端優美子)です。一週間ほど前だったか、父とテレビの原発ニュースを見ていたときのことです。テレビでは、最初からメルトダウンしてました、とか、高濃度の汚染水が出てます、とか「危ない、危ない」を言っていました。
まだまだ原発は危ない派の父が「ほれ、見ぃ。お父さんが言うてた通りや!な、最初からお父さんがあかんて言うてたやろ。今頃なに言うてんにゃ」と言いました。わたしは「でもさ、最初は大丈夫、安全ですってゆってて、3月末か4月の初めに、危ない、危険だ、に変わったんでしょ。そういう転換期があったん?」と聞くと、父は急に真剣な顔になって「んー・・・細野豪志が出てきてからやな・・・」と言いました。
それを聞いて、わたしは頭の上のほうがピカっとしました。そうか、細野豪志が「危ない」言い出したんか。豪志は原発屋やアメリカと手を握ったんだな。20km圏内に核廃棄物処理場を作ることにしたんだな。さすが、豪志。「わたしは好き嫌いで政治をやっていない」と言っていた豪志。よく分かんないけど、なんか大人の政治家っぽいやね。ヒロシマ・ナガサキ後遺症で、「放射能」と聞けばちっとんべぇでも許せない精神年齢12歳の日本土人とは違うな。(12歳ってさ、ティーンにも入れてもらえない、まるっきり子ども扱いだよね。)

現に日本に56基も原発があって、そこから出る核廃棄物はどこかで処理しなくてはならない。青森県六カ所村の中間貯蔵施設の計画も、高知県東洋町(とうようちょう)の処理場の計画も頓挫(とんざ)している。日本人は、すぐに感情的になり、まともに冷静な議論なんかできない土人ばかりだ(わたしもできないけど)。処理場を作る話し合いを持ちたいと思っても、「話しなんか聞いたら負けだんべ!」てな感じだぃね。
核廃棄物はどんどん出る、処理場を作らせてくれる場所は無い、そこへ3.11で福島原発が壊れて放射能が漏れて住民を避難させた。さあ、あなたが日本国を運営する立場なら、どうする。日本人の精神年齢が20歳になるまで待ってたら、使用済み燃料棒がプールからあふれちゃうよ。

「あたしは甘ちゃんじゃぁないんだぜぇ」と思いながらこれを書いたけど、どうなんでしょう。わたしの頭がピカッと光ったところからは、ぜんぶわたしの想像です。すごい情報収集と冷静な分析は中田安彦さんの「今日のぼやき」【「1220」「日本再占領」”Re-Occupied Japan”という現実と向きあうこと(1)国家が統治能力を失うということの意味 2011年5月27日 中田安彦・記】をお読みください。 以上です。

松尾雄治 投稿日:2011/05/27 17:55

【496】[548]「福島原発敷地を放射性廃棄物の貯蔵施設に」

松尾雄治です。今日は2011年5月27日です。

昨日、ブルームバーグに、「福島原発敷地を放射性廃棄物の貯蔵施設に」という記事が出ましたので、貼り付けます。

(貼り付け始め)

Wire: BLOOMBERG Japanese News (in Japanese) (JBN) Date: May 26 2011 9:14:21
福島原発敷地に放射性廃棄物の中間貯蔵施設を-原子力学会で浮上

【記者:佐藤茂】
  5月26日(ブルームバーグ):東日本大震災で被災し放射能漏れを
起こした東京電力福島第一原子力発電所の敷地内に、放射能に汚染され
たがれきなどを中間貯蔵する施設を建設する案が日本原子力学会で議
論されている。

  東京大学の諸葛宗男教授(原子力・エネルギー環境政策専攻)が25
日、ブルームバーグ・ニュースのインタビューで明らかにした。同学会
は原子力研究者、エンジニア7000人からなる団体で、原子力政策につ
いて政府に助言する。

  諸葛教授は「われわれは福島第一原発の汚染除去や、そこに核廃棄
物の貯蔵施設を建設する案を集中的に討議している」と述べた。同教授
は50人から構成される汚染除去委員会の一員。東電や経済産業省関係
者もオブザーバーとして分科会に参加している。

  諸葛氏によると、貯蔵施設の建設には数兆円かかり完工までに少な
くとも10年かかる。核廃棄物を貯蔵する前に除染作業に5年かける必
要があるという。

  東電は、福島第一原発1~3号機でメルトダウン(炉心溶融)があ
ったと発表した。3月11日の東日本大震災に伴う大津波で、原発に想
定以上の打撃があったことがデータで裏付けられつつある。東電の松本
純一原子力・立地本部長代理は24日の記者会見で、炉心の損傷状態に
ついて「1、3、2号機の順番で大きい」と述べた。

  4月17日に発表され、その1カ月後に改定された原発事故収束に
向けた「工程表」では原子炉を安定的に停止させる「冷温状態」への移
行について、6~9カ月程度をめどにするスケジュールとなっている。

  東電広報担当の岩下恵氏は電話で、「福島第一原発をどうするかや
除染後のがれきをどう処理するのかは決まっていない。政府の助言に従
って適切な時期に決定する」と述べた。

  福島第一原発では1986年のチェルノブイリ原発事故で起きたよう
な原子炉爆発は起きていない。しかし、炉心溶融などによる放射性物質
が外部に漏れ、「レベル7」のチェルノブイリと並ぶ史上最悪の原発事
故に位置付けられている。福島第一周辺20キロ内は避難地域に指定さ
れ、約10万人が避難生活を送っている。

  近畿大学原子力研究所の伊藤哲夫所長は「福島第一をどうするか、
集中的な討議が必要だ。政府が最終的な責任を取り決断すべきだ」と語
った。

(貼り付け終わり)

松尾雄治 拝

会員番号5980番 投稿日:2011/05/27 16:43

【495】[547]川内村 獏原人村

TV Bros 5月28日号より

川内村 獏原人村

思いによって数値は変わる 反原発活動家が当事者になった日

「この測定器だと、放射線の数値がいつもの3倍くらいあるのね。
で、実際に当事者になってみてわかったんだけど、どう思いたいかに
よってこの数値の解釈が違ってくるんだ。俺はここに住みたいから、
ここが好きだから、どうしてもちょっと甘くなってしまう。これな
ら住めるだろうと思っている」
 
なるほど

 「ところが、現場から遠くなれば遠くなるほど、数値を見る目が厳
しくなっていく。原発に興味がなかった人がパニックになってるん
だ。俺も最初の頃は緊張感でピリピリしてたけどさ」
 
数値に振り回される?

「夫婦の間ですら変わってくるんだよ。妻は俺に比べて厳しいし。観
測者のポジションによって変わってくる。相対性理論みたいだよね」

確かに。

「自分たちの安全のために、独立した理想郷を築きたくてここを拓
いたけどさ、どんなに文明を否定したところで、自分だけが矛盾か
ら逃れることはできない人だな。なぜ自分が当事者になったのか。
『やっぱ俺たちの言ってた通りじゃないか』と元気に反対運動が
できない今、ニュアンスが変わってきた」

 というと?

「今、文明のありようが問われていると思うんだ。これまではひた
すら開拓しては壊し、使い捨てできた。ある程度まではそれでやっ
てこられたんだけど、それが一定のスケールを超えて大きくなると、
質が変わる。汚水だってそう。自然の浄化作用を超えれば犯罪にな
るでしょ」

そうですね

「そのやっていい範囲というラインを研究している人がいないんじ
ゃないかな。もう呑気な時代は終わったよ。これからは自分自身で
勉強していかなくちゃ」

おっしゃる通りだと思います

「逃げまくったところで何の解決にもならない。誰も信じられない
なら、自分を信じられればいい。自分がいいと思える最初の人にな
ればいい。渋滞にはまって、なんで詰まってるんだよ!と他人のこ
とを言う前に、『俺がいるから渋滞しているんだ』と思えるように
なればいい」

その発想はありませんでした。

「じゃあ、ここに留まるためにはどうしたらいいのか。こないだ、
表土の除去を自分でやってみた。放射線は下がるね、やっぱり。絶
望ばかりではないよ。それに、「ごれから一体どうすんのか?」
っていうみんなの怒りを受け止める場所が今ないよね。ここでは毎
年7月か8月の満月の夜に「満月祭」をやっているんだけど、今年
は入場無料にして、その受け皿になれればいいなと考えているよ」

とても楽しみにしています!

「今いるところを良くしていく、
それが世界を良くすることとイコールだと信じているんだ」
 話を聞き終え、僕らは村の敷地に出たり春爛漫の土地の緑は鮮や
かで、菜の花が咲いていた。

副島隆彦を囲む会 投稿日:2011/05/27 13:24

【494】[546]会員の方からのメールの転載

※以下に転載する文章は、副島隆彦先生宛てにいただいたメールです。公共に益する内容ですので、副島先生の御指導を受け、こちらにも転載します。※

(転載はじめ)

**さまへ

副島隆彦から

**様の 文と情報は、ものすごく重要です。 この「Aさん、Bさんやらが一体何者であるかを」 を、 アルル君とかが、探ってください。 おそらく *** などが、からんでいますから、やっかいです。

**様。私は、ものすごく忙しいので、私宛に、このような貴重なメールを送ってくださいましても、これをうまく処理して、重掲に乗せるのは、大変なことなのです。

どうか、以後は、ご自身で、重たい掲示板に、うまく どんどん書く、というのはどうでしょうか。何を書いてもかまいません。
恐れる必要はありません。 よろしくお願いします。

副島隆彦記

—– Original Message —–
Date: Thu, 26 May 2011 21:07:46 0900
From: **
Subject: [fukushima:00002] Re: [fukushima:00001] Re: [ml:00335] **の住民用の
 ミニ講演会 の チラシ
To: **

お世話になっております。

福島県在住の**です。

仕事で今日一日、郡山市役所近くにある勤務先の**で会議をしていました。
社内の人間が集まると放射能の話が日常会話になっていますので自然にでてきます。
最近、線量計を持つ人も増え、福島県民では一家に一台、体温計のような存在になってきました。

福島県内の**あたりにいる私は危機感もほとんどなくなり購入していませんが、福島、郡山あたりの小学生の子持ち同僚(大体40代)は心配なので、3~5万円程度のものを購入しています。

福島だと大気中が1マイクロ、室内が0.5位、側溝や水たまりが出来やすいところが10ぐらいでるそうです。

郡山で、同僚と一緒に見ましたが、室内だと0.5位。屋根の樋から水がたまるところあたりになると、やはり10ぐらいでています。

面白そうなので、今日は、仕事の合間に線量計3種ほどでいっしょにはかり比べをしました。

測定器は色々あるようですが、2万円ぐらいの差(ロシア製と中国製に国籍不明)でしたが、安物と高価なものでも数値はほとんどかわりませんでした。

安物でも一応OKのようです。

ところで、福島、郡山の住人で、測定値が高くて気になった側溝、吹きだまりなどは、みなさん水で洗い流しています。

特に、洗車用の高圧放水の効きがよいそうです。

普通のホースで10から1ぐらいまで下がる。高圧洗車用放水(ホームセンター当たりで売っているホースの先端を絞るものですが)を使うと0.1から0.05位に劇的に下がるそうです。

福島県の郡山、福島あたりの皆さんが本気になって流した水は阿武隈川を経由して仙台湾に流れていきます。

宮城県の方はどうなるのでしょうか。

福島市在住の小学生2人の子持ち同僚(40代)がPTA大好きなので、文科省へデモに付き合わせられそうになったりしたり、山下俊一教授(二本松)の講演にも行ったそうです。

ここだけの話になりますが(このあたりからから掲示板に掲載するかどうか迷ってしまう境目になります)、福島県に全く関係がない中年男性(Aさん)、中年女性(Bさん)(福島市在住の同僚PTA大好きで会長になったI君が話していたので間違いはありません)が、目立ちたがりらしく、福島の郡山、福島あたりの保護者を扇動(になりますか)しているとのこと。

どうやら扇動者はこの2人のようです。

なんたら「被害者の会」あたりになると必ず出てくるおかしな輩のようですが、Aさん、Bさんが頑張ってしまうので、地元の人にとっての具体的に本当に心配な事が質問出来なかったと嘆いています。

Aさん、Bさんらが福島で開かれた専門家講演会の質疑応答から文科省前あたりでのわめきたてていることには地元民が唖然としています。

地元民とAさん、Bさんやらが講演会の質疑応答などで乖離してしまい、浮きまくってくると「あなたたちのために代わって質問しています」とか「あなたたちがしっかりしてないからこんなことになっています」とかはじまるようです。

Aさん、Bさんやらが一体何者であるかを時間と暇とお金があったらじっくりと調べあげようと思っています。

これは明確にしたいので、どうすればよいのか皆様方からのご教示を頂ければ幸いです。

地元民からは「あのおかしなやつらは一体全体何様か?」という素朴な疑問から、はっきり言ってAさん、Bさんは軽蔑の対象になっています。

Aさん、Bさんと、いっしょになって騒いでいた国会議員の方は第三者なので、具体的な事情はよくわからなかったと、個人的には好意的な行動と一応解釈はしています。

本題ですが、私、個人として、「福島復興活動本部」が、AさんとかBさんとのように福島県民から呆れかえられている意味不明の無様なやつらと同様に扱われると大変残念です。

副島先生のここ一番の行動力に期待しています。

当方できる限りご協力しますが、一つ間違えると「売名ソエジマ」になります。

売名か、本気かは、福島県民にとっては、紙一重(よりも薄いと思いますし、時勢でその厚さも日々変わります)です。

とはいっても、お弟子さんも頑張っていらっしゃるようですので「福島復興活動本部」開所は盛会になるでしょう。

仮に一般的な誤解があっても、福島県民一同、風評被害(実害ですが)で肝が据わっていますので、ここ一番のご活躍を期待しております。

よろしくご指導のほどお願いします。

Aさん、Bさんについては冗談抜きで許せないので、是非皆様方の情報提供をお願いいたします。

(転載おわり)

副島隆彦を囲む会 投稿日:2011/05/27 13:13

【493】[545]警戒区域の報道は疑問(メールの転載)

※以下に転載する文章は、副島隆彦先生宛てにいただいたメールです。公共に益する内容ですので、副島先生の御指導を受け、こちらにも転載します。※

(転載はじめ)

** さまへ

副島隆彦から

メールをありがとうございます。 
現在は 東京のお住まいの、小高出身(ここは、一面、津波でがれきの山です)の**様から、緊急で、重要なご指摘がありました。ありがとうございます。

私は弟子たちと 学問道場というサイトをやっています。ご存知のことと思います。
どうか、会員になっていただいて、**様ご自身が、自分で、重たい掲示板に、以下の文をそのまま投稿してください。 

私、副島隆彦 宛てに、知らされましても、このあとどうすることもできないのです。
あなた自身が、発信人になって、一日5万人が見に来る 私たちのサイトで、どんどん書いてください。 あなたの見識は、私の考えと全く同じです。 よろしく。

副島隆彦拝

—– Original Message —–
From: ****
To:
Subject: 警戒区域の報道は疑問
Date: Thu, 26 May 2011 11:03:19 0900

はじめまして、****と申します。南相馬市小高区の出身です。

5月25日に南相馬市の一時帰宅があったが、NHKの報道には失望した。
防護服を着せられた一時帰宅者は放射能が少ないことは当然気がついているはずだが、

批判や不満は一切報道されない。もう二度と戻れないという意見ばかり放送される。
国民から受信料を取って、警戒区域は放射能が充満していると国民を洗脳している。

添付資料
岡田幹事長が原発19.9Kの工場を視察し、警戒区域にも例外措置を認めるとし、それに対する枝野の回答であるが、何者かに直ちに削除された。
桜井市長や工場員が普通の作業服なのに、岡田側は防護服だった。
これに関してYahoo質問箱が選んだベストアンサーは「放射能に対して無防備過ぎる。市長は市民を皆殺しにする気か。」だった。Yahooの正体は何なんだ。
正解は「防護服を脱ぐと、民主党が放射能がないことを認めたことになるから」だよ。

菅首相は村長や市長の言い分を一切聞かなかった。
小高区や浪江町の町うちから海岸までは放射能はわずかである。

住民2,3万人はすぐにでも帰せるはずである。万が一の時(緊急時ーーそんなことはないだろう)は避難すればいいだけである。

帰したほうが地域のためであり、東電の負担を減らし、国のためになるのである。
菅社会主義的全体主義者は何を考えているのか。賠償金は東電が払えばいいと思っているらしい。

マスコミは警戒区域内の人々を見捨てた。マスコミの薄情さに愕然としている。触らぬ神に祟りなしと。

この活動を知り、救われた思いです。警戒区域の不当をマスコミが取り上げてくれることを望んでいます。

住所:****

(転載おわり)

副島隆彦を囲む会 投稿日:2011/05/27 12:56

【492】[544]陸前高田市へボランティア活動

※以下に転載する文章は、副島隆彦先生宛てにいただいたメールです。公共に益する内容ですので、副島先生の御指導を受け、こちらにも転載します。※

(転載はじめ)

—–Original Message—–
From: ****
Sent: Friday, May 27, 2011 11:07 AM
To: snsi@mwb.biglobe.ne.jp
Subject: 陸前高田市へボランティア活動?

副島先生、おはようございます。初めてメールをさせていただきます。会員番号****番の****と申します。私は、奈良県明日香村で農薬や化学肥料、除草剤、生長促進剤等を使わないで肥料は発酵肥料のみ与えるという限りなく自然農法に近い栽培方式と取り入れながら、百姓をやっております。そして、自ら仕留めたイノシシの肉や自然蜂のハチミツ、養鶏による卵なども含めた総合的な農産物販売を目指しています。今年8月、37歳になります。

さて、***という組織に入っている私は、この5月9日~13日にかけて陸前高田市へボランティア活動をして参りました。その折りに作成し***へ提出したレポート(若干改編しています)を、副島先生にもご報告したいと考え、思い切ってメールさせて頂くことにしました。まだまだ、世の中のことやいろいろな見識も備わっていない私ですが、今後とも先生の講演や書物でご指導して頂き、そして自分なりに考えながら生きていきます。

陸前高田市ボランティア活動
レポート?

****です。陸前高田市でボランティア活動をして参りました。主な活動は、炊き出しです。報道やいろいろな情報からおおまかには被災地の状況を把握していましたが、実際現地に到着して感じたのは、想像を通り越していました。そして、幼い子供がいる自分が同じ状況下であればどのような思いで生活しただろうか?というのを考えながら、ボランティア活動に臨みました。

とにかく、支援物資についてはいわき市の嫁の友人の友人に送り届けたりしていましたし、情報を精査していますと行き届いている被災地と行き届いていない被災地が相当数に上ることが想像できます。そんな中で、炊き出し(豚汁とおでん風煮物)という活動をするわけですが、現地に向かう前から私なりに味付け等のシュミレーションしていました。50人分や100人分の食事なんて作ったことがありませんし、おいしくて温かい料理を食べていただきたいですしね。また、現地の交通状況も行ってみないとわからないところがありますし、限られた時間内で作業することになるかもしれませんから。。。

そして、その当日。**さん達と相談しながらスムーズに作業を進め、みんなで切った食材を大鍋にぶっこみながら、味を合わせていきました。特に、困難だったのは最終日の100人分のおでん風煮物でした。料理の提供までに1時間弱しかない状況でしたので、とにかくみんなで切った火が通りにくい堅い野菜を先に大鍋にぶっこみ、水をひたひたにした状態で沸騰させ柔らかくさせてから、順次野菜やお肉を入れていき、と同時に味を合わせていきました。時間内ぎりぎりのフィニッシュでしたが、まずまずの味が出せてホッとしました。

被災された方々は、楽しそうに食べていらっしゃったし、私もそれを見ていて何かうれしくなってしまいました。食事が終われば、帰り際に何度も元気にありがとうありがとうとおっしゃっていただいたし、こちらこそ、逆に元気をいただいてありがとうと感謝の気持ちでいっぱいになりました。秋、田んぼでイノシシとの格闘が終われば、また被災地に支援活動に出向きたいと考えています。今度は、子供たちと野球をしたいな~。

H23/5/15 ****

(転載おわり)

副島隆彦 投稿日:2011/05/27 11:10

【491】[543]ウクライナの首都キエフからチェルノブイリの今。キエフ在住の読者からのメールを載せます

副島隆彦です。ウクライナの首都キエフ在住の読者からのメールを載せます。ウクライナの首都キエフから、チェルノブイリの今がわかります。よく読んでください。

—–Original Message—–
From: ***@***.com
Sent: Thursday, May 05, 2011 8:00 PM
To: snsi@mwb.biglobe.ne.jp
Subject: 真摯な心に敬意を表します(ウクライナのキエフ市より)

 初めてメールを差し上げる者です。
私は石田朝子と申します。現在ウクライナのキエフ市に住んでおります。当地に住んで15年目になります。

 福島第一の事故以来、副島様のサイトを拝見するようになりました。福島のかたがたと痛みを分かち合う副島様の真摯な姿勢に深く共感するとともに、これについてまったく誰も発言しない、無関心を装う私の祖国の内情に大きな驚きを覚えています。

 当地ではチェルノブイリ原発での事故から25周年ということで、私もいろいろな新聞記事を読みました。しかし、私が見た範囲に限って申し上げれば、25年前に住み慣れた土地を強制的に追われた人々の当時の苦しみ、あるいは彼らが今どんな暮らしをしているのかということについて触れた記事は、ただの一つもありませんでした。

 唯一の例外は、先週地元の書店でやっと見つけた本です。著者は女性民俗学者で、チェルノブイリを含む周辺地域をフィールドワークした結果をまとめた内容なのですが、避難民のお年寄りを避難先に訪ね、当時の思いを聞き書きした文章もふくまれているのです。家族や祖先の記憶がしみこんだ土地を離れ、そこに永久に戻ってこられない、見ることさえかなわないということがどんなに恐ろしく悲しいことであるか。読みながら涙が出ました。

 この本によれば、プリピャチ( 副島隆彦注記:ウクライナの北部にある市。チェルノブイリ原発から4キロ離れた街だ )周辺の農村から避難させられたお年寄りは、今でも知らない土地に与えられた湿気の多い粗末な家に住み、ガスもなく、わずかな補償は最初のうちだけで後はなしのつぶて、肉親も知り合いもいない、という暮らしを送っています。15年ウクライナに住んでいる私も、今回関心を持ったがゆえに避難民のことを「思い出した」のであって、それ以前は彼らがどこにいて何をしているのか知ることもなく、知ろうとすらしなかったのです。

 私は仙台の出身なのですが、祖先が福島の出で、農家の知り合いも福島におります。彼は桃農家で、今年の出荷の見通しもないまま、黙々と果樹の世話をしています。
 今や私が上に書いたお年寄りの痛みを味わっています。福島を「なかった」ことにされるわけにはいかないと感じています。土地というのは私たちの記憶、よりどころであり、生活です。言葉に出来ないほど重いものなのだと思います。鉄条網で囲んで、あたかも存在しなかったかのごとくにしたり、あるいは逆に洗浄して「はい、これでクリーンになりましたよ。あなたのお子さんは安全ですね。よかったですね」などというものではないと感じるのです。このように言う人たちは、なぜあくまで物質的なレベルで考えることしか出来ないのか。私には理解出来ません。

 独白のような見苦しいメールをどうぞお許しください。日本から遠く離れてはおりますが、ご健勝をお祈りしています。最後にもう一度、副島様の自己を顧みない真摯な心に深く敬意を表します。

2011年5月5日 在キエフ市 石田朝子

ウクライナ国の キエフ市にお住まいの 石田朝子さまへ

副島隆彦から

 早くにメールをいただいており ありがとうございます。
福島の原発事故のことに強い 関心をお持ちで、私の弟子たちが運営しています 学問道場のサイトをお読みくださいってありがとうございます。 地震・大津波、そして原発事故から2か月が経ちまして、大分、日本は落ち着いてきました。
 福島からの放射能漏れと広がりのことも、 一部の国民以外は、気にはなるけれども、目先の自分の仕事に追われて、テレビで見る程度で、それほどの関心を示さなくなりました。 被災地と血縁でつながる人たちは、友人、親戚を助けるために岩手、宮城を訪れるようです。 しかし、福島の 原発のそばには、この5月の連休にも、あまり人が近寄りません。

 住民たちでも、まだ、避難したままの人が多いです。とくに小さな子供たちや、小学生、中学生は、50キロ離れた学校に間借りして、そこの空いている 教室を貸してもらって、授業をやっています。30キロ圏内の 南相馬市は、小学校も、中学校も開いていません。 住民は 6割ぐらいは帰って来ているようです。 

 石田さまがお住まいのキエフ市は、チェルノブイリから南に100キロのところであり、国の首都であり、ウクライナ民族の誇り高さでは、モスクワ(ロシア人)たちが、タタールの頸木(くびき)で、モンゴルに屈服して、モンゴルの言いなりになって繁栄したことへの反感 で成り立っている ウクライナ人 の 反ロシアの 民族感情が今も強いところだと、私は理解しています。自分たちウクライナ人が、この 東ヨーロッパ地帯の 本当の 中忍民族なのだ、という気持ちがあるのだろうと推察いたします。私はまだ行ったことがないので、遠くからの勝手な知識です。

 チェルノブイリの原発事故から25周年の 記念日が、4月26日に 、日本のフクシマ事故があったことで、ものすごく注目を集めたということだけは、日本でのニューズ報道で チェルノブイリの原発前での 式典の様子を チラリと見ましたので、それぐらいの理解しか私にはありません。

 チェルノブイリの事故で、果たして何千人の 作業員が、現場の封じ込め(石棺づくり)作業に参加して、5年後くらいから白血病や癌で死んだのか、私なりに調べましたが、 まず 「4000人の作業員 が 5年後ぐらいから発病して死んだ。決死隊で炉心に近づいて応急の 制御棒の挿入作業をやったのですぐに死んだ、急性の放射能障害の死者は、 26人と それから 16人である 」 という事実しか知りません。
作業員たちは、事故の後、現場で数年間働いていますから、きっともっと多くて、2万人ぐらいは、10年以内に発病して死んだのではないか、とう私は勝手に推測しています。  彼らの話は、探しても 表に出ません。

 米軍の兵士たちで、1950年代の ネバダ砂漠で ずっと続けた核実験 を 直接 並んで座らされて 爆発を 目撃して、被曝して光線や爆風を浴びて(遮蔽物もなく) そのために、 5年後、10年後に死去した 米兵たちの 放射能の人体(生体)への健康被害の資料(データ)も、私たちは、この フクシマ原発事故で大騒ぎしていた2か月間に、少しも出て来ません。 放射線医学の専門医たちも誰も 何も発表しません。
 それなのに、 彼ら、放射線医学の専門家たちの発言を、原子炉学者と同列に置いて、”御用学者”の焼印を押して、冷静に聞こうとしません。
「 放射能は、ほんのわずかでも危険だ、危険だ、非難しなければ」の 集団ヒステリーの、頭の悪い 人間たちの 狂騒(きょうそう)が、4月に入ってから、突如、起きまして、それへの 防戦で、私は、疲れ切りました。

 この 放射能恐怖の 集団ヒステリー を扇動した人間たちを、私は、一人ずつ摘発して、今から、筆誅を加えます。 
今の私、副島隆彦は、「体制派(保守)からも政府批判派(反体制)の 両方から 危険人物扱いされている」されて完全に無視されているのだそうです。 私は、そういう低劣な評価など全く気にしません。

 大事なことは、「どれぐらいの 放射能なら安全で、どの基準値(限界値、上限)を超えたら 人体に危険なのか、の冷静な議論である」はずなのです。 集団ヒステリー派は、あとしばらくは、この冷静さを取り戻さないでしょう。
 それでも、いくら東京も危ない、で 九州まで逃げて、熊本市の喫茶店に溜まっている、この扇動された,考えの足りない人々もお金がなくなれば、戻って来ます。  

 石田さまがお書きの、ウクライナのプリチャピ市は、チェルノブイリから 10キロぐらいの町だったでしょうか。今はゴーストタウンになっているのか、それとも、コーカサス(チェチェンやグルジアなどのある地方)から戦争や内乱を逃れてきた農民たちが住んでいるのでしょうか。チェルノブイリ原発から30キロ圏は、今の 厳しい立ち入り制限があるのか、それとも割と 緩やかになって勝手に戻ってきている人々がいるのか、私たち には分かりません。

石田様。 出来ることなら、ご自身で、チェルノブイリまで行って、実情を観察して、本当のところは、今はこうなっていると、日本に居る私たちに、お伝えくださいませんでしょうか。そして、その報告文を、私たちの 学問土壌のサイトで 公表させてください。
それが、日本人を勇気づけます。真実だけが人間を 感動させ、そして、勇気づけます。 
 メールを いただきました御縁だけで、まことに勝手なお願いをいたします。 

 この 20キロ、30キロ圏の 強制避難、立ち入り禁止の問題は、現在、福島でものすごく重要な  喫緊の 焦点となっています。
チェルノブイリの 強制立ち退きと 30キロ圏の金網による完全封鎖 が、日本政府の フクシマ での 先例になってしまって、頭の固い 日本のバカ官僚たちが、その世界事例の 先例 に拘束されて、それで 、福島の避難住民を 地獄の苦しみに陥れています。

石田様。 どうか、私の希望を、福島の原発近くの 住民たちの 叫び声 の代理だとお考えくださいまして お聞きください。
どうせ ウクライナ国でも、普通のウクライナ人たちや、ウクライナ政府の役人たちでも、日本のフクシマの悲劇は知っていても、それに、チェルノブイリの 前例が どれほど重大に関わるかまでは、全く考えないでしょう。日本からの 原発担当役人たちが、応急でチェルノブイリの封鎖(立ち入り禁止)の様子の 現地視察をしに来ているでしょうから、その動きも、出来れば お伝えいただきたいです。

 勝手なお願いをして申し訳ありません。
遠く日本から、キエフに在住なさる 石田様に、今後とも「副島隆彦の学問道場」サイトを よろしくお願い申し上げます。更に ご連絡ください。

副島隆彦拝

—–Original Message—–
From: Asako Ishida
Sent: Monday, May 16, 2011 10:22 PM
To: GZE03120@nifty.ne.jp
Subject: 現在のチェルノブイリに関する記事翻訳(キエフ市の石田より)

副島隆彦様

 こんにちは。1週間ほど前にサイト「学問道場」を通じてメールを差し上げた
キエフ市在住の石田朝子です。

 心のこもったお返事、ありがとうございました。
このような熱心なお手紙を受け取るとは、正直思っておりませんでした。
たいへん感激しております。

 副島様から、「ぜひチェルノブイリへ行ってみてほしい」というご提案がありました。

実は、福島の事故が起こるかなり前から、プリピャチには行ってみたいものだと考えていたのですが、いまだに実現できないでいます。
プリピャチ市には誰でも行くことが出来ます。キエフから出ているツアーに参加するのが条件ですが、それがかなり高額だというのが理由です。

ただ、あくまで経済的な問題ですから、そのうちにひょんなきっかけで解決するかもしれません。その時には行って、自分の目で見てくることが出来るでしょう。
ただ、今のところは「必ず行きます」とはお約束できません。
副島様は大変真摯な方ですから、私もメールとはいえ、いい加減な口約束だけはしたくないのです。今ご期待に添えないのは残念ですが、どうぞこちらの事情をご理解ください。

そこで、いつになるか分からない私のプリピャチ訪問よりも、今ご提供できる情報のほうが有益かもしれないと考え、ある雑誌の記事で興味ぶかいものがありましたので、こちらを翻訳してお送りいたします。

”Vokrug sveta” という、ロシアの雑誌からの記事です。ナショナル・ジオグラフィックの ロシア版とでもいうような雑誌で、原文はロシア語です。
本文の図版もご覧いただけるよう、ページをデジカメで撮影したものを添付しました。

・“Vokrug sveta”誌の画像(1)

・“Vokrug sveta”誌の画像(2)

・“Vokrug sveta”誌の画像(3)

福島の方々にとってじかに参考になるかどうかは分かりませんが、些細であっても何がしかのヒントが得られましたら幸いです。

ところで、数年前、在ウクライナ日本大使館で働いていた日本女性が「プリピャチに行ってみた」と話をしてくれたことがあります。
その話の内容とは、

・プリピャチは現在無人である。人っ子一人いない。
・町全体が事故当時のまま。時間が止まったような感じ。
・日用品などは何も残っていない(略奪にあったから)

というようなものでした。
プリピャチには決まった「観光コース」のようなものがあり、それに沿って参加者を案内する、という風になっているのかなと私は想像しています。

 副島様が推測しておられるような、ロシアでの紛争を逃れてきた難民が住み着いている、
という事実は、少なくとも私は聞いたことがありません。
 プリピャチはまったく無人であり、自主的に戻ってきて住み着いている人々は、主にその周辺の廃村で、ほそぼそと自給自足の生活を送っているウクライナ人のお年寄りたちです。しかも、チェルノブイリで生まれ育った土着の人々であり、たとえばよその食い詰め者が流れてきて住み着いている、という話はないようです。
 ウクライナの農村生活は過酷で、手間ひま惜しまず働かなければ生きていけませんので、 いくらか生活の楽な都市部においてさえ生きて行けなくなった者が農村を、しかもライフラインすらないチェルノブイリをめざす、ということは、私の生活実感としてちょっと考えられません。
その土地に愛情があって、どうあってもよその土地で死ぬ気にはなれない…
そういう人たちがチェルノブイリに住んでいるのでしょう。

 ついでながら、チェチェンの難民について私が聞いたことがあるお話を書きます。
姑の甥っ子が、ドニエプロペトロフスク州のとある村に住んでいるのですが、彼が言うに、近くには「チェチェン人ばかりが住んでいる村」があるそうです。
 もちろんロシアから逃れてきた人々ですが、彼らはものすごくお金持ちで、家一軒にトラクター1台は当たり前(一般的なウクライナ人農民は手でたがやしています)、衛星テレビもちゃんとあるという具合だそうです。
どこからそんなお金を得ているのかは分からないそうですが、不幸な難民というイメージからは遠い、それは事実のようです。

 話をチェルノブイリに戻します。
副島様はメールで「これまでに蓄積されてきたはずの、放射能が人体に与える影響のデータは今回の事故でも全然出てこない」と指摘されていますが、私も同感です。
 ただ、私の疑問はもっと素朴で、たとえばウクライナには今でも毎年のように広島大学あたりから専門医がやって来て、チェルノブイリ被爆者の検査にあたっている「らしい」のに、なんでそういうお医者さんたちが福島のことでいろいろ言ってくれないのかな、というものなのですが。

 ウクライナ人にとっては、日本は頼りがいがある存在ということになっています。
広島・長崎の惨禍をくぐりぬけ、膨大なデータと経験を蓄積しているはずだから。
しかし、本当にそうなのか。これを考え始めると、不快になってきます。

 退避区域○○キロという問題についてですが、チェルノブイリでは30キロ圏内が一般立ち入り禁止になっています。
しかし、聞いた話によれば、これは厳密なものではないようです。
今現在は、定規で引いたように30キロ圏内を金網でおおっている、というわけではないそうです。
しかし、これ以上のことは残念ながら分かりません。

 退避区域内に住み着いている人の経験談として、ときどき民警(警察官)がやって来て 出て行くように説得しているという話も聞きました。
たぶん90年代半ばのことです。たぶん、上司に言われておざなりに来ているだけだったのではないかと思われます。今でも民警が訪問しているかどうかは不明です。

 私が読んだ新聞記事の中には、事故当日のキエフ市(原発から直線距離で120キロほど)の放射線量は
34マイクロシーベルト/毎時 だったと書かれてありました。風向きの関係で、大部分の放射性物質は北のベラルーシに流れた、というのは周知の事実です。
今、私がいる部屋の中は0.07です。外は0.10くらいでしょうか。
私の夫の職場には、事故当時キエフ市の小学生だったという同僚がおります。
「逃げられる人はみんな逃げていったけど、私たちはキエフに残った。がらんとしたキエフが印象的だった」
と、夫に話していたそうです。
私はこの人に会ったことがありませんが、子供もおり、健康で快活な方のようです。

 4月に地元で「チェルノブイリの25人」という写真展があり、見に行きました。
事故収拾作業にあたった人25人と、事故当日にキエフ市で生まれた人25人の顔写真とその言葉を展示したものです。
前者はすでに老人で、後者は若者たちです。

 若者たちは、特に健康被害もなく、今を楽しく生きるのに一生懸命という印象でした。
もと軍人であった老人の一人が 「放射能とは奇妙なものだ。ある者の命はすぐに奪い去る。また別の者はしばらくの間生かしておく」 という言葉を残していたのが印象的でした。

 さらに、複数の老人が、「チェルノブイリの事故はソ連崩壊を誘発するために仕組まれた人為的事故だった、と私は信じる」 と証言していました。

 内容にまとまりがなく、読みづらいメールで申し訳ありません。
私が見聞きしたことが、少々でもお役に立てましたらうれしく思います。
副島様にありましては、くれぐれもご自愛ください。

在キエフ市 石田朝子

川端優美子 投稿日:2011/05/26 21:45

【490】[542]「がんばろう日本」と言って思考停止させる

群馬のゆみこ(川端優美子)です。

3.11以降、世間では「がんばろう日本」という言葉が流行(はや)っています(または、マスコミが流行らせようとしている)。わたしは、この言葉を「思考を停止させるスイッチだ」と考えました。

「がんばって」というのは、一種の挨拶として遣われています。挨拶というのは、その言葉の意味を深く考えずに遣います。例えば、「今日テストなんだ~。」「ああ、そうなんだ・・・がんばって。」のように遣われます。もしくは「付き合ってる彼の連帯保証人になったら、そのうち彼が失踪(しっそう)しちゃってぇ、結局わたしがすごい借金抱えちゃってさぁ、しかも最近体調悪くて、もう最悪。」「へぇ・・・大変だね・・・がんばって」のようにも遣われます。
つまり、相手が大変な目に遭っているとき、気の毒だなあと思うときに、これさえ言っておけば良いという言葉が「がんばって」です。これさえ言えば、その相手の大変な境遇についてもうこれ以上考えなくていい。その切り替えスイッチが「がんばって」です。

「がんばろう日本」というのは「がんばって東北」ではないので、一応「東北から離れたところに住んでいるわたしたちも他人事(ひとごと)としてではなく、自分のこととして3.11を捉(とら)えていますよ」というニュアンスが入っています。でも、津波にも地震の被害にも遭わずに自分の家に住んでいられて、原発からも遠く離れていれば、みんな日常に追われていつもと変わらずに過ごしている。でも、それでは人として冷たいような気がするから、とりあえず「がんばろう日本」と言って、日本赤十字社にいくらか寄付をすれば、それ以上福島のことはしばらく忘れていてもいい、考えなくてもいい。
そうして日本人を思考停止させて、アメリカは再占領しにくるんだ。

原発のことを身近に考えるには、とりあえず原発の近くに行けばいい。みんなで学問道場の福島復興活動本部の事務所開きに行こう。ね。

下仲もとゆき 投稿日:2011/05/25 13:15

【489】[541]福島復興活動本部からの報告

5 月 23 日から福島復興活動本部に現地入りしている下仲もとゆきです。

福島は地震がまだまだ続いており、大小の地震が数時間おきに来ます。今朝5時半すぎには震度5弱の地震がありました。小さな地震はテレビや新聞では報道されませんが、その地域に住む人にはジャブのように疲労や不安が蓄積されていきます。そのことを身をもって経験しています。

以下に、私がSNSIのメーリングリストに書いた文章の一部を転載します。

(転載開始)

Subject: 5 月 23 日の福島復興活動本部からの報告

本日、福島復興活動本部に現地入りしました。
建物に「学問道場」の看板がついていて、雰囲気がありました。

以下に時系列順に、今日の活動記録を記します。

予定時刻通り船引駅に到着し、駅から出て私がキョロキョロしていたら、Kさんの方から声をかけてくれました。
その後、Kさんの車で道中にあるスーパーに買い出しに行きました。
冷蔵庫が動いているということなので、数日分の食料を買いました。
そしてホームセンターで鍋と米10kgを買い、ケーズデンキで炊飯器を買い、昼食を食べて本部に向かいました。

本部に着き、二階に上がり、ドアを開けると新しい畳の香りに包まれました。Kさん、ありがとうございます。
冷蔵庫はあまり冷えていなかったので、とりあえず食料を冷凍庫に入れました。
(凍るのも良くないので、しばらくしてから冷蔵庫に移しました。夜に確認したら、今のところ冷えていました。)

Kさんの車で大家さんの家に行き、お土産を渡し、ご挨拶をしてきました。庭に大きな犬が二匹いました。
本部に戻り、Kさんと別れました。

お土産を持って、本部の近くにある民家に挨拶回りをしました。
バイクの修理会社では、事務所に上がらせていただき、この近辺の話を聞かせていただきました。人がいなくなって、商売がやっていけるのか心配だということを話してくれました。当然私も、どういう人たちが来るんですかと質問されました。

夜になったので、炊飯器でご飯を炊きました。
ガスコンロが使えたので夕食を作り、食べました。

今日のところは以上です。

2、3時間に一回、震度3前後の地震が来ます。
つい先ほども大きい地震がありました。

今日は気温があまり上がらず、肌寒いです。布団にくるまってすごしています。
日中は暑くなるそうなので、来られる方は温度の調整ができる服装にした方がいいです。

現地で生活をしていると、こういうものがあった方がいいとわかってくると思いますので、
明日以降、特に車で本部に来られる方に持ってきて欲しいものをこのメーリングリストでリストアップしていきます。
もし自宅に余っているものがある場合は、名乗りを上げてくださると大変助かります。

2011年5月23日

(転載終了)

(転載開始)

Subject: 5 月 24 日の福島復興活動本部からの報告

今日は、福島復興活動本部に現地入りして2日目です。

以下に時系列順に、今日の活動記録を記します。

朝は地震で目が覚めました。
起きたら、二階の窓ふきをしました。
本部の二階は三方が大きな窓になっています。その窓は汚れており、蜘蛛の巣がはっていたり、虫の死骸がサッシにはさまっていました。
三面ともふき終わると、部屋に明るい光が入ってくるようになりました。

下に降りると、ちょうどF電気工事店さんが来ました。息子さんとお母さんの2人でした。
外灯を取りつける工事をしてもらいました。
外の明るさに応じて、自動で点灯、消灯するタイプのものは手元になかったので、2時間ほど作業をされたのち、一度戻られました。

近くの民家でごみの捨て方を尋ねました。
すると、1キロ先の検問所の手前にごみ捨て場があると教えてくれました。
そこで歩いて、検問所まで行きました。
検問所には機動隊員が2人立っていました。車の往来が意外とあり、道を回るように指示していました。
わかりにくいのですが、木の屋根になっている小さな小屋がごみ捨て場になっていました。
もやせるごみは月、木。プラスチックは水。缶、ペットボトル、びん、紙類、もやせないごみはそれぞれ第一、二、三、四金曜日・・となっており、五種類の指定のごみ袋が決められています。

道中、機動隊の車とすれ違いました。
わずかな時間に、反対車線に3台、同じ側の車線に1台・・です。
ここの道路(国道288号線)を通って、20km圏内に入っているのでしょう。

本部に戻ると昼になっていたので、昨日の残りのご飯にレトルトカレーをかけて食べました。
ガスコンロはプロパンガスが来ているので使えます。

Kさんが車で来てくださり、この数日の寒さを考えて、石油ストーブと電気ヒーターを持ってきてくれました。大量のネギももらいました。
この建物は複雑な電気配線になっているので、どのスイッチとどの配線が対応しているのかをわかる範囲で確認しました。
Kさん、本日もありがとうございました。

午後は、徒歩で本部の周辺を散策しました。

まず大家さんの家に行き、奥様に再びご挨拶をしました。この近辺のバスは止まっていると教えてくれました。車以外の移動できる手段を探していましたが、しばらくは再開する見込みがないとのことです。
大家さんの家の隣の橋は工事中です。作業員が交代で、軽トラックで食事に出かけていました。

次に古道小学校、都路中学校に行きました。平日にもかかわらず、どちらも誰もいませんでした。
古道小学校は入り口から少し入ったところの石柱に、片方だけ立ち入り禁止の黄色いテープがぐるぐる巻きになっていました。見張りの人もいなくなったということです。実際、敷地内には誰もいませんでした。
グラウンドには、子どもたちの足跡がたくさん残っていました。雨が降っても足跡がくっきり残っているので、粘土性の土です。通常、長期休暇中でも部活動でグラウンドを使うので、トンボかけを行い、足跡は残らないものです。このことから、ある日突然、立ち入り禁止になったとわかります。
都路中学校は山の上にありました。通学路の草は膝の高さぐらいまで伸びていました。しばらく誰も通っていないのでしょう。
100段以上の階段を上がると、校門がありました。途中、階段が崩れているところがありました。
校門前には、福島ナンバーの白のワゴンが一台止まっていました。ワックスがかかっていて綺麗だったので、職員が一人来ているのでしょう。しかし人の気配はしませんでした。姿も見当たりません。それでも、校舎の時計は正確に時を刻み続けていました。
グラウンドには、山からイノシシかシカのような足跡が続いていました。獣の通り道になっているのでしょう。広くて立派なグラウンドです。山から降りる途中には野球場もありました。部室なども見ましたが、破壊されたところはありませんでした。
中学校から車で降りていく方の道は、地割れをしているところがたくさんありました。それぞれの場所に、注意を呼びかけるコーンがたっています。

山を下り、道なりに歩いて行きました。
途中で自衛隊員が三人立っているところがありました。
自衛隊の車も止まっていました。
このときは、なぜここに自衛隊がいるのかわかりませんでした。

JAの前では、職員の中年男性が暇そうにタバコを吸っていました。

交番には真面目そうな警官が一人、駐在していました。

福島県警のパトカーが一台、巡回していました。

そして都路行政局(役場)に行きました。
なぜか入り口前の時計の時刻がずれていました。
人がいないのかなと思ったら、自動ドアが開き、中に入れました。職員も数人いました。男性の職員数人(みな中年)は作業服を着ていました。
窓口の職員(中年女性)にこの辺りのことを尋ねました。小中学の生徒は全員、船引やその他の地域に転校したと教えてくれました。もちろん家族も一緒にです。
ごみを出す日のカレンダー、パンフレット、各種指定のごみ袋をもらいました。なぜか別の女性職員に「大山こま最中」ももらいました。
古道体育館に避難した人の名簿が貼り出されていました。合計435人。それぞれの住所、連絡先が書かれていました。大熊町などの人が避難してきていたそうです。今は船引や郡山、あるいは親戚をつたって県外に移って行ったと職員は言いました。
古道体育館は先ほど、自衛隊員が立っていたところです。避難者がいなくなったあとは、自衛隊の駐屯地になったということでした。ここで謎が解けました。自衛隊はここから20km圏内に出入りを繰り返しているようです。表に立っていた自衛隊員に過度の緊張感や疲労感はなく、人がうまく回っていることがうかがえました。

本部に戻ると、再び外灯工事に来てくれたF電気工事店さんと、水道工事に来てくれたM設備工業さんが作業をされていました。
F電気工事店さんには、1階のクーラーも見てもらました。
お蔭様で、自動点灯、消灯する外灯がつき、自動ドアも動くようになり、1階のクーラーも動くようになりました。水もれをしていたトイレの水回りも直りました。

夕方になると、焼き鳥屋「天国」のYさんご夫妻が車で本部を尋ねてくれました。
6月4、5日の打ち合わせをしました。
都路に人が来てくれることを、2人とも喜んでくれていました。
そこで腕を振るって、焼き鳥に加えて、山菜の天ぷらなどを出してくれると言っていました。

夜になると、夕食を作って食べました。

今日のところは以上です。

数時間に一回、大小の地震が来ます。
先ほども震度4ぐらいの地震がありました。
建物の被害はありません。

本日、Kさんが持って来てくれた石油ストーブと電気ヒーターのお蔭で、暖かくなりました。Kさん、ありがとうございます。
冗談で、「今日の朝には東京に帰っちゃったんじゃないかと思って来た」とKさんのお父さんが言っていたほど、昨日は寒かったです。

日中は一転して、窓を全開にしなければいけないほど暑くなります。
体調を崩さないように気をつけます。

シャワーをまだ一度も浴びられていません。
明日は近くの旅館を訪ねる予定ですが、どうなるかわかりません。

冷蔵庫は牛乳などはあまり冷えていませんが、野菜などはある程度冷えています。
冷凍庫はしっかり冷えています。

ガスコンロはプロパンガスが来ていて、使えます。
これで調理をしています。
水道も使えます。

電気も来ています。
コンセントにプラグインすれば、充電できます。

SoftBankの基地局が敷地内にあるそうです。
そのため、奇跡的に山中でiPadが使えています。

布団は昨日届きました。
2セットあります。
畳が敷かれているので、十分寝られます。

トイレはちゃんと流れています。においはしません。
今日の工事で水もれもなくなりました。

コインランドリーは車で行ける範囲にあるようです。
徒歩で行ける範囲にはありません。

生活に必要なことでは、以上です。

2011年5月24日

(転載終了)

下仲もとゆき拝

大川晴美 投稿日:2011/05/24 23:30

【488】[540]なぜ事故原因の説明がないのか

 福島第一原発の事故原因が、2か月以上が経過した現在も明らかにされていない。日本国民と全世界を恐怖のどん底に陥れた未曾有の大事故だったのだ。事故を二度と起こさないために、東電と政府の責任者は事故原因の究明に命がけで取り組むべきではないのか。
 5月16日、東京電力は原子力安全・保安院の指示に従って、福島第一原発事故直後の詳しいデータを初めて提出した(同社ウェブサイトで公開)。これによると3月11日14時46分に地震が発生、1号機は直ちに原子炉が緊急停止(自動スクラム成功)、2号機も14時47分に停止したが、この後の正確な状況がわからない。明らかにすべきなのは次の点である。

1.1号機と2号機の原子炉建屋、中央制御室、緊急冷却装置を動かす電気系統・配管等に、それぞれ何時何分に何メートルの津波が到達したのか。
2.津波の水はどこにどの程度侵入したのか。扉、窓、床、配管、装置類にどのような防水対策が取られていたのか。それらは機能したのか、しなかったのか。
3.非常時に原子炉を冷却する装置が、1号機と2号機それぞれで何時何分に作動して、何時何分に停止したのか。
4.停止した原因は何か。津波の侵入による故障か、作業員が止めたのか、地震の揺れで停止したのか、津波以外による故障・破損・爆発等のために止まったのか、製品の欠陥によるものか、複数の要因によるものか。
5.津波の到着時刻と、緊急冷却装置の停止時刻と、どちらが先だったのか。
 津波が到着する前に冷却装置が停止したのであれば、これまで報道されてきた「想定外の大津波のために電気系統が故障して冷却装置が動かなくなった」という説明は間違いだったことになる。

 以上については、今回のデータと併せて、事故発生当時まで現場にいた社員や作業員に確認すればかなりの程度わかることであり、「放射線のために現場の調査ができない」というのは理由にならない。

5月24日東京新聞朝刊:
「大津波が到着する前に、1、2号機の原子炉冷却に使う水タンクの配管などが地震によって損傷していたことが、東京電力の公表資料から分かった。東電は事故の主な原因を津波としているが、今回判明した損傷などの評価によっては、耐震設計の見直しも迫られそうだ。」