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副島隆彦を囲む会 投稿日:2011/06/12 17:22

【521】[573]『原発事故、放射能、ケンカ対談』

副島隆彦を囲む会から、お知らせします。
次の本が6月末に 幻冬舎から出版され、全国の書店で発売になります。

平田 投稿日:2011/06/12 13:25

【520】[572]人が、がんや病気になる本当の理由

会員の平田です。
昨日、「そういえば、国立がんセンターが放射線とがんのリスクについて、そんなに気にすることはないと発表して、そのあと政府から怒られたとか、なんとかっていうことがあったよねー」と知人と話しました。それで、その記事を探してみました。
現在、日経新聞のサイトからは削除されていますが、記事を転載します。

(転載はじめ)
●「 放射線のがんリスク、100ミリシーベルトで受動喫煙なみ 」
2011年4月25日 日本経済新聞

放射線を健康に影響が出るとされる100ミリシーベルト程度浴びた場合でも、がんの発生するリスクは受動喫煙や野菜不足並みにとどまることが、国立がん研究センターの調べでわかった。肥満や大量の飲酒、喫煙に比べると低い。低線量の放射線による健康影響を考えるうえで、ひとつの目安になりそうだ。

<放射線と生活習慣の発がんの相対リスク比較>
受動喫煙の女性 1.02~1.03倍
野菜不足 1.06倍
100~200ミリシーベルトを浴びる 1.08倍
塩分の取りすぎ 1.11~1.15倍
200~500ミリシーベルトを浴びる 1.16倍
運動不足 1.15~1.19倍
肥満 1.22倍
1000~2000ミリシーベルトを浴びる 1.4倍
毎日2合以上の飲酒 1.4倍
2000ミリシーベルト以上浴びる 1.6倍
喫煙 1.6倍
毎日3合以上の飲酒 1.6倍
(注)相対リスクは、例えば喫煙者と非喫煙者のがんの頻度を比較した数字

広島、長崎の原子爆弾で被爆した人のうち約4万4000人が、その後、どの程度の割合で肺がんなどを発症したかを長期間にわたって追跡調査した放射線影響研究所などの論文と、国立がん研究センターなどが実施してきた生活習慣によるがん発生リスクの疫学研究とを、津金昌一郎・予防研究部長らが比較検討した。
原爆で100ミリ~200ミリシーベルトの放射線を浴びた集団は浴びていない集団に比べてがんになるリスクが1.08倍だった。生活習慣によるリスクと比較すると、1日1箱たばこを吸う夫を持つ妻が受動喫煙でがんになるリスク(夫が禁煙の妻と比較して1.02~1.03倍)や野菜嫌いな人のリスク(野菜を食べる人と比較して1.06倍)よりもわずかに高い程度だった。
肥満や運動不足、塩分の取り過ぎなどでがんを発症するリスクは1.1~1.2倍程度で、放射線を100ミリ~200ミリシーベルトを浴びた場合よりも高い。
一方、男性の喫煙者はたばこを吸わない人よりも1.6倍がんになりやすい。放射線の被曝(ひばく)量でみると2000ミリシーベルト以上浴びた場合のリスクとほぼ同じだという。
津金部長は「がんは様々な要因が複雑に絡み合って発症する。放射線リスクだけを気にしすぎないようにしてほしい」と話す。
(転載おわり)

私は、この記事を読んで、100ミリシーベルトが1年間あたりなのか、1度に浴びる放射線量なのかが明確でない書き方であることが気になった。しかし、この記事は放射線に対する過剰な「コワイコワイ」を避ける意図があるのだと思う。
今、盛んに「放射性物質が危険だ」「内部被ばくが問題だ」という、放射線がキケンだキケンだ、コワイコワイと喧伝している人たちに私は言いたい。
「そんなに怖くて、不安ならば、自分が安全だと思うところへ、さっさと避難すればいいではないですか。日本から出ていけばいいではないですか」と。
原発事故が起こってしまった以上、この現実を受け止めて、生きていくしかない。現に福島市や郡山市の方々は自分の家に住み続けている。

私は、人がガンを含め病気になる要因は、その人の気持ちの持ち方に左右されると考えている。人は約60~80兆個の細胞で構成されるという。その細胞ひとつひとつにも、私は意識があると考えている。だから、私の本体が放射線、放射性物質のせいでガンになるかもしれない、病気になるかもしれない、と恐れていたら、私を構成する細胞のひとつひとつもガンや病気を恐れて、カラダに不調をきたすと考える。だから、私は心配や恐れを抱かずに暮らしている。
この日経の記事が、がんと比べているので、次の書籍を紹介したい。医学博士の土橋重隆先生の著書『ガンをつくる心 治す心』(主婦と生活社、2006年刊)である。この『ガンをつくる心 治す心』は、参考になる1冊である。
土橋医師は、「なぜ、ガンになったと思いますか?」とガン患者へ質問して統計をとった。一例をあげれば、右乳ガンには「家庭内の問題」、左乳ガンには「肉体の酷使」があったことがわかった。ここでは詳しくは述べないが、肺ガン、胃ガン、大腸ガン患者の回答にも特徴があった。
本書のなかで、「心理的ストレスこそガンの原因の中でもっとも重要なものの一つであり、再発や移転の防止にも大きくかかわっていると私は考えています」と土橋医師は述べている。

だから、私は、今ある放射性物質を怖がる必要はないと思う。そんなに放射性物質が気になるならば、放射性物質を無害化する技術に目を向ける方が現実的である。EM(有用微生物群)やゼオライトの有効活用だ。これについては調べて、次回、投稿したい。
今は、お互いを批判しあったりするのではなく、日本人みなが協力して、目の前にある困難に立ち向かい、問題を乗り越えていくことが大切だ。

川端優美子 投稿日:2011/06/10 22:12

【519】[571]「東電の背広たち」と「避難所を出るということ」

群馬のゆみこ(川端優美子)です。

知り合いの避難民から、さっき電話で聞いた話です。

ひとつめは、避難している旅館から赤紙が来て([535]参照)、原発に働きに行っている作業員の人の話。4日間仕事に行って、3日間休みで帰ってくるんだって。仕事に行くときは、本当にみんなで毎回送り出してやってるんだって。
上等の背広を着た東京電力の社員が東京からJヴィレッジまで来るそうです。その作業員の人が同じ部屋に入っていくと、その東電の社員は「お前らはここに来ないで、さっさと仕事に行け!」と言われたそうです。そして、「こんな放射能濃度の高い、危ないところに来るのは嫌だ」とか言うのだそうです。
あるときは、東電の背広たちがひとつのパソコンの前に群がっていたので、その作業員の人がなんだろうと思って覗(のぞ)くと、ゲームをして遊んでいたんだそうです。
また、あるときは、その作業員の人が、仕事が終わって、あの暑い防護服を脱いでシャワーでちょっと汗を流してから帰ろうと思い、東電の社員にシャワーを使っていいか聞くと、「お前らはダメだ。社員専用って書いてあるのが見えないんか」と言われたんだって。

もうひとつは、避難している旅館に東京電力の社員が3人、説明に来た話です。なんの権限もないその東電の社員は、型どおりの説明をして、あとはこちら(避難民)の話を聞いて頭を下げるだけ。お話を聞いて上に伝えます、という係り。わたしの知り合いの避難民の人は、作業員から聞いた上記の話をして、泣きながら文句を言ってやったって。「東京のど真ん中に原発を持って行け!」と言ってやったってさ。

その人は、原発避難民です。津波の被害はなかったけど、20km圏内に家があるので帰れません。でも、このたび避難している旅館(むなしい三食昼寝つき)を出ることを計画しているそうです。なぜなら、以前の仕事に戻れそうだからです。それには職場(お店)に通えるところに家を借りなくてはなりません。「通えるところに家を借りられたら連絡してくれ」と店長に言われたそうです。仕事をしたいけど、そのためには住むところが要る。住むところを借りるには、仕事(お金)が要る。なかなか大変な状況です。よく旅館を出る決心をしたなあと感心します。実際にやるのは大変なことです。そういう気力が出てきて、よかったなあと思います。 以上です。

川端優美子 投稿日:2011/06/10 19:27

【518】[570]福島復興活動事務所開き 報告2:国道288号線 原発から20km封鎖地点

群馬のゆみこ(川端優美子)です。

6月4日(土)に学問道場・福島復興活動事務所開きでみなさんと原発から20km封鎖地点に行った報告です。

午後1時からの副島国家戦略研究所(SNSI)メンバー・高野亮さんと副島先生の講演会が始まる前に、副島先生を先頭にして、お弟子さんと会員のみなさん(総勢30人くらいかな)で、すぐ近くの20km封鎖地点にぶらぶらと歩いて行きました。わたしたちがたどり着く前に、機動隊員が警察のワゴン車に付いている拡声器で「道路に広がらないで下さい」「一般の交通がありますので、広がらないで、歩道に上がって下さい」と大きな音で言いました。封鎖で行き止まりなんに、車なんか来(き)ねぇだんべ。

先頭の副島先生が、マスクをして手術用ゴム手袋みたいなのをはめた機動隊員(静岡県警のわけえし4人くらい)のところに着くと、さっそく怒鳴り始めました。「余計なことを言うな!」「おまえらが大きい声で何か言えば、こっちが怖がって言うことを聞くと思っているのか!」わたしは、きゃ~、副島節キター!と喜んで周りを見回すと、みんな真面目な顔をしている。ゆみこ、喜びすぎ。不謹慎。

副島先生「なんで封鎖してるんだ」

機動隊員「危険だからです」

副島先生「何という危険があるんだ」

機動隊員「・・・」

副島先生「なんという法律に基づいて封鎖してるんだ。言ってみろ」

機動隊員「・・・」

ケンカ番長・副島先生を先頭に、いい大人が30人もぶらぶらやって来て、怒られたり、難しくて答えられないことをいろいろ聞かれた機動隊員たち、おやげない。危険を感じた機動隊員の一人がワゴン車の中の通信機で本部に連絡をしている。応援を呼んだのでしょうか。

機動隊員はあまり賢くないことが分かったので、もういいか、ということで、みんなで立ち入り禁止の看板や機動隊員の前で副島先生と記念撮影。わたしは自分が先生と撮り終わったので、隣にいた機動隊員に聞きました。「おまわりさんも、先生と一緒に写真撮る?」すると「いえ、職務中ですから」と断られました。

20km圏の住人は許可証があれば中に入れるそうです。封鎖しているすぐ後ろ脇に民家があったので、「あのお家の人も許可証が要るんですか」と聞くと、「あそこの人は要りません。厳密に言うとここは20km地点よりちょっと出たところなので。厳密に20km地点で封鎖すると、Uターンとか出来ないのでここで止めてます」とのこと。へえ。

またぶらぶらとみんなで歩いて復興活動事務所に戻りました。
すると、さっき呼ばれたのであろう応援のパトカーや大きな青いバスや黒塗りのワゴン車がやって来ました。副島先生が大きな青いバスの警官とやりとりをしているのを、わたしは遠くから見ていました。しばらくすると、副島先生が警官に「行ってよし」という合図をしているのが見えました。ふつうとは完全に立場が逆転しています。さすが、番長!あとで先生に聞いたら、先生は警官に「わざわざ来るな」と言ったんですって。そしたら警官が「はい」だって。先生は「やっぱりわざわざ来たんだよ。人間本当のことを言われると、はい、とか言うんだな」とおっしゃっていました。なるほど~。

それから、機動隊員たちが華奢(きゃしゃ)で弱っちかったので、先生が「あいつら静岡県警でいじめられてる奴らだったりして。お前ら行ってこい、とか言われたのかな」なんておっしゃってました。ほんと、そんな感じでした。彼らもワケが分からずに、ふつうの人と同じように「放射能こわいなあ、でも仕事だからなあ」と思いながらあそこに居たのかもしれません。わたし達がマスクも何にもつけないで大勢来たので、「あれ?放射能ってもう大丈夫なのかな」と内心ほっとしたかもしれません。

わたしたち学問道場のメンバーは、20km封鎖地点に仕事で仕方なく居る機動隊員たちを、安心させてあげました。いいことしたな。  以上

いそがい 投稿日:2011/06/09 21:31

【517】[569]最終処分場

処分場の件
読まれた方も多いと思いますが、時事通信にでていました。
筋書きはもうできているようです。

最終処分場、福島県内に=放射能がれき処理で―環境次官
時事通信 6月9日(木)17時4分配信
 南川秀樹環境事務次官は9日、東京電力福島第1原発事故で放射性物質に汚染された、福島県内の災害廃棄物の焼却灰などを埋め立てる最終処分場について「県外は考えにくい」と述べ、同県内に整備する考えを示した。福島県庁で佐藤雄平知事と会談後、記者団の質問に答えた。
 ただ、南川氏によると知事は会談で最終処分場の県内受け入れには「今『はい』と返事はできない」と即答を避けたという。 

西&田端 投稿日:2011/06/09 10:07

【516】[568]道場開きに参加しました

広島の西です。
 6月4日(土)の福島復興事務所開きに参加しました。副島先生はもとより、準備をされたスタッフの方々、料理をして下さった副女の皆さん、ありがとうございました。広島くんだりから行った甲斐が十分ありました。
まず会の開始前に、道場から徒歩15分程の関所(?)まで歩いて行くことに。その途中、道場から目と鼻の先にある坪井モーターズという地元の自動車修理工場の事務所にいらっしゃった方と目が合いご挨拶。関所を見学した後、またご挨拶したら親切にも中にお招きいただき、お茶をご馳走になりました。
 事務所はちょっとしたミニサロンのような状況で、地元の人達が立ち寄っては、今後のことも含めた話をされているようでした。私達がお邪魔した際も、オーナーご夫妻の他、非難区域20km圏内に家がある為、現在は別の地区のアパートで暮らしている方も来ておられました。その方は津波で被災した人達の住宅を作って受け入れることを考え、地元の若い人達に話をしてNPOを立ち上げる構想もあるとのことです。
 またその後道場で話した、いわき市の男性は、地元で会社を経営しておられ、今後は自社製品は風評被害を受け県外での売り上げ減は避けられないとの見通し。しかし、それだからこそ、福島県内で持ちつ持たれつという精神でお互いに協力して流通させる仕組み作りに向けて話し合いを開始されているとのことでした。
 このように地元では復興に向けて、自ら考え行動する気概を持つ人々もおられることが分かりました。いずれの方も「ここで生きていくわけですから」といったようなことを仰ったのは、あきらめという消極性ではなく、ある種の郷土愛に基づいた、腹の据わった考え方だというのが感じられました。恐らくは66年前の広島、長崎もこのようにして復興してきたのでしょう。私自身被曝2世ですので、私の祖父母の世代の人達が、当時は全く危険性が分かっていなかった放射能まみれの中、町や産業を復活させてきたその精神を福島の人達の中に見た思いがしました。
 今回の原発事故やそれに至る道筋またその後の後始末などは、ここ何年か何十年かの日本で、小さいことから大きいことまで通奏低音のように響いていることが象徴的に凝縮されている感じがします。つまり、『面倒なことや考えたくないことは全て人に丸投げし、かつ、結果起こった不利益も人のせいにする、終始一貫して無責任』ということです。もちろんこれは私にも当てはまります。全く持って不徳と致すところです。政治家も企業も国民もいつの間にかこんな感じになっていた、、、そんな気がします。副島先生が「ヒトゴトとしてではなく、自分のこととして」と繰り返しおっしゃいましたが、福島に行ったことによって、私自身が責任感を持って復興するためのメンバーの一人であるという意識が高まりました。

 続いて、一緒に参加した田端から一筆令状を。
ともあれ福島に行ってみよう見てみよう…との単純な動機による「福島復興活動本部」事務所開きへの参加でした。学問道場の会員ではありません。
遅蒔きながら3・11から副島隆彦氏の発信に共感するようになりました。そして導かれるかのように20キロ地点に…。今も残って頑張っている住民は「ここらは原発で生きてきたんだから、事故処理は住民もしなきゃ。それが落とし前よ」と力強く語り、事務所開きの講演会にも参加されていました。
 美しい阿武隈山系に囲まれた緑豊かな田園地帯での暮らしを取り戻すには、住民自らの強い意志と行動力が何より大切だと思います。そのための支援をするのが学問道場福島復興本部なのだと認識しました。微力ながら奈良から応援を続けます。

大川晴美 投稿日:2011/06/09 01:48

【515】[567]活動本部に行きました

6月4日と5日、福島復興活動本部の事務所開きに参加しました大川晴美です。
活動本部では学問道場会員の皆様、地元の方々、スタッフの皆様とお会いして、原発や放射線のことなど様々なお話を伺うことができました。焼き鳥、おにぎり、福島県産のネギ、しいたけ、きゅうり、レタスも美味でした。そして!!!尊敬する副島先生にお会いして興味深いお話を伺ったり(人間よりも猫がお好きとか)、一緒に写真を撮ったり、最後は握手までしていただきまして、副島先生のファンとして夢のような時間を過ごすことができました。ありがとうございました!!!

ところで、年間の被爆放射線量は、何ミリシーベルトまでなら健康に影響がないと言えるでしょうか。

午後の講演会で、高野先生は年間20ミリシーベルトまで、副島先生は200ミリシーベルト以上でも大丈夫、と意見が分かれましたが、私は発がんリスクという観点から年間100ミリシーベルトまでが基準になると考えます。1つの根拠は、山下俊一長崎大学教授による「広島・長崎の調査では、年間100ミリシーベルト以下の被爆では統計学的に発がんリスクに明らかな影響は見られなかった」という説で、東京工業大学の松本義久准教授も同様の説明をされています。
しかしながら、がんのリスクは年齢、体質、生活習慣(たばこ、飲酒、食事、運動、ストレス)の影響も大きいうえに、同じ放射線量でも一回に浴びると影響が大きく、長期にわたって少しずつ連続的に浴びた場合は影響が小さいのだそうです。また、がん以外の不妊、胎児への影響、脱毛、白内障などでは、それぞれ「しきい値」(境目)が相当異なります。

結論:これらの情報を参考にしながら、各自のライフスタイルや価値観に基づいて、最後は自分で判断するしかありません。そのためには、避難するかしないかを含め、選択の自由も保証されるべきでしょう。

根尾知史 投稿日:2011/06/08 09:55

【514】[566]福島で見聞きしたこと。【第三部】

【第三部】

根尾知史です。福島復興活動本部として借りている元コンビニの建物の大家さんの奥さまが、震災当日の様子を話してくださいました。

大屋さんご夫婦も、福島第一原発から20キロ圏の検問所から、1キロくらい外側の場所に住んでいます。

3月11日(金)の地震があった日の夜は、富岡町や浜通りなど他の町からたくさんの人たちが、わっと避難してきたそうです。

その夜は、その人たちのためにおにぎりを握って、差し入れをしてあげたりしていたそうです。

ところが翌3月12日(土)になって、家の近くに見たこともないくらいたくさんの車が押しかけてきた。どうやらそれは、東電の職員たちで、彼らは住民よりも先に、逃げて行ったそうです。

そのうちに、町内放送で「集会所に避難してください!」と流れたので、自分たちも訳もわからず、着の身着のままで避難した。

そのときは、まさかそれから2ヶ月も避難所生活が続くとは、さすがに思わなかったわ、と言っていました。

このとき避難した地元の方たちの中には、原発20キロ圏内に住んでいた方たちもいて、その人たちは結局、3月11日以来いちども自宅に帰っていそうです。衣類とかを取りに帰りたいと言っているそうです。

福島第一原発から20キロ圏内の人口はおおよそ7万人で、約27,000世帯いるそうです。

復興活動本部がある福島県田村市の都路(みやこじ)という地区は、とてものどかな田園地帯で、海風も吹いてすがすがしく、夏もそれほど暑くはならず、自然が豊かで美しい場所です。

地震が起こる前は、田舎暮らしを求めて都会から移り住んでくる「リタイア組」に人気がある地域であったそうです。
坪当たり1万~5万円くらいの単価で一軒家を購入できるので、都会の人は喜んで家を購入していたということです。

地元の方と話していて、避難した地域の家庭で買われていたペットの話になりました。彼女はしみじみと、「犬、猫が一番かわいそうだったよ」と言っていました。

地震のあと飼い主が急にいなくなって、1ヶ月も2ヶ月も戻って来ないまま餌ももらえず、家の中に閉じ込められたり、鎖に繋がれたままにされていたからです。

知り合いのところで飼われていた犬は、地震のあと、20日間くらおいてけぼりにされたショックでボケてしまっていて、主人が戻っても分からなくなってしまっていたそうです。
名前を呼んでも、ぼーっとしているだけで反応を示さなくなって、感情が無い犬になってしまったそうです。ただ、餌をやると餌だけは食べるから本当かわいそうだ、と言っていました。

その女性の息子夫婦が、郡山(こおりやま)に住んでいて、奥さんが妊娠しているそうなのですが、震災後は、その息子夫婦の家を訪ねても、放射能が(移るから?)危ないから、嫁さんには近寄らないでくれ、と言われるのだそうです。

野菜などおみやげで持っていっても、「都路(みやこじ)の野菜は持ってこなくていい」と言われた、と寂しそうに言っていました。「都路の野菜だって、ちゃんと放射線量を測定してもらって、食べても大丈夫だと言われているのにねえ」ということなのです。

「とにかく、人が帰ってこないのよ。放射線量も測ってもらって大丈夫だと言われてるのに。もう帰ってきても大丈夫だよと、(政府に)言ってもらえたらいいのにねえ」と、やるせない表情でつぶやいていました。

調査や作業やに来ている東電の人や自衛隊の隊員たちも、20キロ検問所の警備のために全国から呼ばれている警察官たちも、20キロ圏の境界線から一番近い、この都路(みやこじ)にある旅館に泊まればいいのです。

それをわざわざ、これ見よがしに、そこからさらに車で一時間も離れた飯坂まで帰って、寝泊りしてるんだよ、とも言っていました。

都路の地元の方々は皆、あと1年は、今の状況が続くだろうと考えているそうです。

避難所生活では、朝昼晩の三食がただで食べられて、皆でいられて楽しい、と思ってしまって、おじいちゃん、おばあちゃんや、あるいは、もらえる物をできるだけもらおうとして居続けて、家も壊れてないし、放射能汚染ももう問題ない数値になっているのに、避難所からいつまでも離れない避難者たちもいます。

副島先生が、津波をかぶって家も何もすべて失った「被災者」と、原発のせいで無理やり避難させられている「避難者」とは、はっきり区別しなければならないと言っている意味を、もういちど、私たちも、自分たちの頭の中でもよく考えて、より正確な、現場の現実を理解する必要があります。

私が訪れた都路(みやこじ)の古道(ふるみち)の人たちは、家も壊れていなくて、放射線量も1日3回、各行政地区ごとの役場から公共放送が流れて公表されていて、数値的に問題ないレベルにまで下がっています。

それなのに、20キロの境界線のすぐそばの21キロの地点に住む住民は、まだ今でも半分以上が家に帰っておらず、30キロ圏内でもまだ不安だからといって、いつまでも政府が用意した避難所に住み着いて、自宅に帰ろうとしない人々が大量に出てきているのです。

こうした人たちが今後どのようになって行くのか。すでに現在でも、ただでもらえる支援物資や食料や、そして、一番問題の補償金をどれだけもらえるか、ということばかり考えるようになっているという現実があるのです。

周りから「かわいそうな避難民」というレッテルを張られて、そのなかで福島県民全体が、「かわいそうな県民」として、どんどん堕落していくことが恐ろしいと、副島先生が復興パーティーで話されたとおりです。

最後は、「世界のフクシマ」とおかしく世界に認識されるようになって、まるで他国から「チェルノブイリ」のように、扱われる地域になってしまうでしょう。
これが、世界が(アメリカが)、福島県を「世界の核廃棄物処理場」にすると決めた、恐ろしい計画を遂行するために利用されるのです。

これまでに繰り返し書いてきたとおり、福島県の20キロ地点の地域は、すでにすべてが平常に戻っています。

違うのは、20キロ地点に警察が勝手に検問所を置いて、法的にも科学的にも根拠が限りなく曖昧なままなのに、勝手に違法な立ち入り禁止命令を言い続けていることです。

そしてそのために、いつまでも避難所から帰ってこない住民が、まだ8割くらいもいるという事実です。

「避難所から避難してきたんだよー」と言っていた、元気な農家をやっているおばあちゃんの以下の言葉が、正しい真実を物語っています。

「あんなところにいたら、人間がおかしくなっちまうよ。とっとと帰ってこなきゃだめだ!おれは、先にさっさと逃げ帰ってきたよ。いま、自宅を掃除してきれいにして、野菜とか自分の分だけでも軒下で植えて、今年はダメだっけども、来年また、農作業を始められるように、今から準備はじめねばならねんだ。避難所で、ぼーとして、喜んでる場合でないって。だから、先に出てきたおれの方が頭いいんだってば」

根尾知史拝

根尾知史 投稿日:2011/06/08 09:46

【513】[565]福島で見聞きしたこと。 【第二部】

【第二部】

根尾知史です。次に福島に行ったのは、5月28日(土)、29日(日)でした。29日の日曜は、福島復興本部となる都路(みやこじ)の古道(ふるみち)にある元コンビニの建物の掃除や修復などをしました。

このときに、翌週末の6月4日(土)、5日(日)の二日にそれぞれで行われる、復興パーティのために用意する焼き鳥やバーベキューなどの食材の手配などもしました。

そのときに、ある地元の女性のかたに初めて聞いた、避難所にいる人々の実態が衝撃的でした。

その女性はすでに、自身の商売を再開しようとして避難所から戻って来ていました。都路の自宅に戻って、普通に生活をしていました。

彼女の第一声は、「とにかく、都路(みやこじ)は、家も壊れてないし津波があったわけでもなくて大丈夫なんだから、もう避難所にいることなんかないんだよ。だから、みんな早く帰ってきたらいいのよ」という言葉でした。

そして、避難所にいつまでもだらだらといる人たちは、「そこにいれば、朝昼晩のただで三食が食べられるし、お年寄りの仲間がみんないるし、わがままも聞いてもらえるし、企業からの支援物資ももらえて、たとえば、資生堂の椿シリーズの上等な化粧品とかスニーカーとか、色んなものがもらえるのよ。だから帰りたがらないんだ」と、避難所の実状を教えてくれました。

避難所は、実際それほど遠くない、20キロ地点の検問所から車で30分ほど走ったところにある、田村市船引町(ふねひきまち)の春山という地区にある春山小学校の体育館でした。

自衛隊が仮設のトイレや風呂を設営し、お湯を沸かしてくれて、湯あかをまめに取ってくれたり、きれいに掃除してくれたり、一生懸命やってくれるのだと、避難所から帰ってきたもう一人の年配の女性の方も話してくれました。
その方は、それが申し訳なくて落ち着かなかったと言っていました。

家も壊れてないし、直接の被災はも受けていないけど、食べ物や支援物資がもらえるから、自宅と避難所を何度も行ったり来たりしている人たちがいるのよ、と言っていました。

「そうやって、ただで援助物資を余分にもらって集めている人たちもいるんだよ。こういう人たちは、欲で動いているからどうしようもないね。家も流されて、もっとひどい目にあってる人が、浜の方にたくさんいるんだから、そっちのほうにあければいいのにね」と、やるせない風に言いました。

政府からの補助金が最近出て、地域住民には、避難していてもいなくても、とりあえず一律で75万円と40万円の合計115万円の補助金が、振り込まれたそうです。

この補助金の支払いは、田村市の船引(ふねひき)という駅前にある行政所の管轄で行われたそうです。住民票がなくても、1年以上この地域に住んでいる人たちには、同じように支払われたそうです。

それほど裕福ではない住民にとっては、普段、半年ぐらい働いても115万円も稼げないという人もいるから、とくに家が壊れたりとしなかった都路の住民は、口には出さなくても補助金がもらえるこをとても喜んでいるたち人もいるよ、とも言っていました。

いっぽうで、農家の人たちにしてみれば、放射能のために農作業がいっさい禁止されてしまっていて、その損害を考えると、115万円などでは全然足りないという現実もあるそうです。

個人に対する補償金のほかに、商店や中小企業、農業、旅館など、商売をやっている住民に対する「営業補償」は出るのだろうかと、みな心配しているということでした。

営業補償が支払われるとすれば、それぞれの業界団体を通してだろうと言われていました。だから、農家の場合はJA(農協)を通してということになると、また農協がお金を配る立場になって、さらに権力を握ってしまうことになりかねいという心配もあるようです。

6月3日(金)の夜には、復興活動本部から近くの旅館に、地元の商工会の幹部の方たちと、佐藤栄佐久元福島県知事とが集まって、何かの会合が開かれていました。

おそらく、国からの補償金をどう振り分けるかという話し合いではないか、と副島先生がおっしゃっていました。
一社あたり2億円とかそういう単位だろう、個人には百万、2百万円くらいで適当になだめて、それ以上は上の人間たちが全部持っていってしまうだろうから、払われないだろう、ということでした。

現在も、20キロ圏の外であるにもかかわらず、30キロ圏内までには含まれる地域の田畑では、「土を動かすこと」が禁止されているのだそうです。
そのため、新たに農作物を植えることができない状況のままです。

都路の付近で畑を持っている農家も多いのですが、皆、商売の農業ができず、収入がないまま、とりあえず蓄えを切り崩しながら不安な気持ちで暮らしているということです。

土を掘り起こしてはいけないと言われてるから、他の作物も作らせてもらえないということです。農家にしてみれば、畑の土というのは、何年もかけて耕したり肥やして作り上げてきた農業のための事業資産なのです。

放射能に汚染されているかも知れないから、などと言って、ブルトーザーで土をぜんぶ掘り返して持って行って、どこかよそから新しい土を持って来ればいいというものではないそうです。

同じ土をもう一度作るのにはまた何年もかかるそうで、そのことを考えると、「避難所でのんびりして、ただで暮らせると言って喜んでる場合じゃねぇべ、と言ってるんだけど、聞いてもらえないんだわ」と話していた、都路で農業をやっているおばあちゃんが正しいことがよく分かります。

彼女は、避難所生活がきつくて、「避難所から避難してきたんだわ」と言って笑っていました。

避難所はせまい体育館で、大人数が段ボールで仕切られて暮らしています。トイレや風呂もひ人を気にしながら、寝る時間やら起きる時間、外に散歩に出掛けたりするのさえも、いつも回りに気を遣いながら過ごさなければならなかったそうです。人と違うことをしたり言ったりすると、集中攻撃でいじめられるそうです。

こんな窮屈な避難所生活に耐えられなくなって、とっとと戻ってきたんだぁ、と言っていました。それでも、大震災の当日から2カ月は、避難所にいなければならなかったと言っていました。

だから「あんなところに今でもダラダラいて、三食ただでもらえるから楽しいとか言っているのはおかしいよー。人間がダメになるー」とも言っていました。

そのおばあちゃんに、補助金のことを聞いたら、「もらったよー。でも、お墓を修理するのでほとんど使っちまった」と言っていました。地震のせいで、墓地に建てられていた墓石はみな倒れたり崩れたりしていて、新しいお墓を作るのに全部で百万円近くかかるから、それで補助金は消えてしまったそうです。

もう仮設住宅が、60軒ぐらいは出来たけみたいだけど、そこではガス、電気、水道代は自分で払わねばならないから、避難所から移りたがらない人もいるだろうなー、とも言いました。

今この時期に収穫されたきゅうりなど野菜も、放射能汚染を怖がって誰も食べたがらないから売ることもできず、すべて余ってしまって困っているそうです。

だから、今回のバーベーキューのために、復興活動本部と同じ敷地内にある焼き鳥屋の女主人が、普段の半額ぐらいの値段でまとめて買い取ってくれて、今回、特性の味噌をつけて新鮮なまま食べられるように用意してくれました。私も食べましたが、とても美味しかった。あと、付近の山に採りに行った山菜やよもぎの天ぷらも旨かった。

政府が地元の農作物は「危ない危ない」とばかり言うから、地元の農家の方たちまでが、自分の畑で採れた作物なのぬ食べたがらない。

地元の人たちが、自分自身で安全性を確かめたり、考えることを放棄させられているのです。

地元から離れた東京や日本各地に住んでいながら、くだらないネット情報を信じ込んで真に受けて、「世界のフクシマはチェルノブイリ並みに危険な地域になったのだ」と、本気で思い込んで、「あぶない、あぶない、今でもまだ危ない」と、何か分かった気になって騒いでいる連中は、こうして現地の人たちの実情を知りもしないで、勝手なことを言い続けていることで、どれだけ地元の農家の人々を苦しめ続けているか。

東京で「放射能、こわいこわい、危ない危ない」 ばかり言い続けている人間たちは、とっとと気付かなければならないのです。

【第三部へ続く】

根尾知史拝

根尾 投稿日:2011/06/08 09:36

【512】[564]福島で見聞きしたこと。【第一部】

SNSI研究員の根尾知史です。

私は、5月7日(土)、8(日)、5月28日(土)~30日(月)、6月3日(金)~5日(日)にそれぞれ福島へ行きました。そのときに、私が見聞きした現地の状況を書きます。

その時々にメモした内容をまとめて文字に起こしているだけなので、詳細の情報に多少の誤りや誤差がある可能性もあります。
しかし、少しでも早いうちに、現地で見聞した現場の実際の情報を、記録として残すために、まずは文章にしたいと思います。

それぞれ、三回の訪問なので、第一部~第三部の三回に分けて投稿します。

【第一部】

震災後最初に福島を訪問したのは、5月7日(土)、6日(日)の二日間でした。

福島第一原子力発電所から約60km離れたJR福島駅に着いて最初に話をしたのは、駅の東側にある福島県庁のそばで事業をされている経営者の方でした。

震災から2カ月が過ぎた5月7日の時点でしたが、震災以来ずっと、放射能の汚染状況への不安が収まらないままです、と言っていました。

これからまだ、原発の新たな爆発や放射能漏れがあるのではないかと心配していて、今からでも避難をした方が良いのかどうか、迷っていると言っていました。

その方は、いてもたまらず、ご自身でガイガーカウンターを入手して、4月1日から毎日、室内、屋外、地面と三ヶ所の放射線量を測定して記録をつけ続けていました。

数値は、当初4月1日が、室内0.85マイクロシーベルト(μSV)、屋外が2.123μSV、地面が24.75μSVあったものが、日々、あきらかに減少しているのが分かり、5月6日の時点では、室内で0.239μSV、屋外0.874μSV、地面4.919μSVだと教えてくれました。

およそ1ヶ月の間に、放射線量は3分の1かそれ以下にまで減少していました。

この日の夜は、福島駅から車で40分くらいの場所にある土湯(つちゆ)という小さな温泉街の旅館に泊まりました。温泉旅館にはどこも、避難者の方たちが宿泊していました。

避難者の方々には、「三食・昼寝付き、5000円」という特別料金で宿を提供しているということでした(私はもちろん通常料金でした)。

私が泊まった旅館には、全30室ぐらいあるうち、半分の14室近くに波江町から避難されてきた方たち44名が、宿泊されていました。

旅館の廊下には、波江町の町内連絡掲示板としてホワイトボードが置かれており、泊まっている方たちの名前と部屋番号などの基本情報から、町役場主催する無料健康診断のお知らせや、無料法律相談会の案内などがありました。

さらに、町内会の行事やイベント予定や町役場の事務員募集の連絡、雇用相談の情報、新たに同じ旅館に宿泊しにくる避難者の方の紹介情報、波江町や双葉郡で保護された飼い犬や飼い猫たちの写真を集めて飼い主を探すポスターまで、ホワイトボードいっぱいに、所せましと張り出されていました。

宿屋にしてみると、避難者の方々でどこも満室であり、ちょっとした特需になっていて、「これで避難されている方たちが戻ってしまったら、また商売上がったりになってしまうよね」という、皮肉な本音も聞かれました。

翌5月8日(日)の夕方には、いわき市から国道6号線で、海岸線沿いの津波で被災した地域も車で見に行くことができました。

その惨状は、すさまじいものでした。戦争を知らない私のような世代の人間でも、町が一斉の空襲を受けるとこういう状態になるのだろうと、破壊された家々の残骸のなかを呆然と歩きながら、ただそういう考えが浮かんでいました。

この5月8日(日)の時点ではまだ、3月11日(金)に津波に襲われた当日から2ヶ月も経っていても、津波で廃墟と化した町並みは、そのままの状況でした。さらに一ヶ月後、震災から三ヶ月経ったいまでもそのままです。

保険金がおりるまではそのままだろうと言われました。お金がいつどれだけ流れてくるのかということが、すべての復興作業の工程を決めるのです。

いわき市から四ツ倉をとおって、6号線をさらに北上しました。原発から19キロの地点にあるJヴィレッジにたどり着きました。

Jヴィレッジは、20キロ圏内なので中に入ることはできないだろうと思っていたのですが、入り口が封鎖されているようなこともなく、人もいなかったので、そのまま車で敷地内に入りました。

敷地の道路わきの駐車場には、自衛隊の真っ赤な放水車や深緑の装甲車が5台ぐらいずつ停まっていました。時間も夕方5時ごろだったこともあったからか、人影があまりなく、ときどきすれ違う職員の方らしい車も、誰も私たちのことを気にする様子もなく、注意されて追い出されるだろうと構えていたので、拍子抜けしました。

Jビレッジを別の出口から抜けると、そのすぐ先の交差点には20キロ地点の検問所があり、そこからさらに北へ向かう道路に入っていくことはできないようになっていました。

しかし、20キロ圏内のJビレッジに一般人が自由に立ち入りできたことは、「20キロ」という立ち入り制限の規制が、Jビレッジ(政府側)の都合で恣意的に勝手に決められているかを物語る事実だと言えます。

原発からは50、60キロはなれた、福島駅周辺の地域に住むその経営者の方も、原発近辺の住民がみな東電で働いており、普通の東電職員よりもかなりいい給料(10倍?)という話は聞いていると言っていました。

その上役あたりになると、高級車を乗り回して、地元では「お大名様」みたいに威張っていたようだよ、と言っていました。

町に原発が来たことで、道路はきれいになるし、立派なグラウンドもできて、住民は電気代がただになるとか、補助金を受け取っていたとも聞いていたそうです。

そうやって、地元の人々にはいろいろな恩恵を与えて、いい給料の仕事まで与えて丸め込んで、という構図は「沖縄の米軍基地と沖縄県民の関係と同じだよね」と言っていました。

「だから、今回の原発事故はその見返りかも知れないね。最後には、必ず清算されるということだろうね」とも、言っていました。

同じ5月8日(日)には、福島第一原子力発電所から真西へ20キロにある、都路(みやこじ)の古道(ふるみち)という地区にある、福島復興事務所となった、元コンビニの空き家の建物を訪れました。

さらにその付近の宿屋をいくつか訪れて、次の週の週末、6月3、4、5日には、総勢100名近い人たちが訪れる復興パーティーを行うので、この日に営業しているかどうか、まとめて複数の部屋に宿泊できるかどうかを聞いて回りました。

この際に、原発20キロの検問所地点から1キロくらい外側の地区にある旅館を訪れました。復興活動本部となる建物からは、歩いても5分くらいのところでした。

付近の住民の8割くらいは避難しているそうで、町はがらんとして静まり返っていました。

この旅館は電気も看板もついておらず、営業していない雰囲気でしたが入り口からのぞき込むと、ちょうどその日に避難所から戻ってきたところだという、この宿屋の主人が出てきてくれました。

最初は不振そうな様子で私たちのことを見ていましたが、私たちがなぜ今のこの時期に、この場所にいるのか、その理由を話しました。

すると、とても気のいい親方で、その趣旨を理解してくれ、この宿の営業を再開するかどうかまだ迷っていたけど、それじゃ営業しなきゃなんねーなあ、と言っていました。

中にいれてくれて、色々と話をしてくれました。とにかく、宿屋の主人はいまはまだ、原発の状況がはっきり分からなくて、まだ放射能が漏れているとか、これからさらに大きな爆発があって、もう一度、避難しなきゃならなくなることもありうる、という噂を聞いていて、どうしていいかわからなくて、いまはまだ混乱しているんだ、と言っていました。

震災があってから、昨日まで、ずっと避難所にいたけど、たまたま今日、掃除でもしようかと思って戻ってきたところだということでした。

まかないができるから、避難所でもずっと調理を担当していたそうです。大きな鍋で何十人分の食事を作っていたんだ、と話してくれました。

この宿の主人が一番怒っていたのは、政府があいまいなことしか言わないから、逃げていいんだか、戻っていいんだか、それを決められなくて宙ぶらりんの状況にさせられてあいるということでした。

放射能が本当に危ないのなら、はっきり決断して、避難しろ指示を出してくれればいいのに、それも無いままで、すぐ数百メートル先の検問所では、放射能が危ない地区だから立ち入り禁止だといって住民はみな追い出されている。20キロ圏のぎりぎりのすぐ外側に住んでいて、こうして客商売をやっている人間にしてみれば、まわりの住民もみんな立ち退き命令がなくても、怖がって避難所に逃げたっきり戻ってこないし、もちろんお客さんも来ないし、商売を始めていいんだか、避難してるほうがいいのか、決めかねている、ということで悩んでいました。

政府や東電から補償金をもらうために、営業なんかしないで避難所にいる方がいいのかとか、そのあたりのことも考えなければならない、と言って、混乱して結構弱っている様子でした。

【第二部へ続く】

根尾知史拝