重たい掲示板
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Loginはこちら【817】[926]福島本部活動日誌です76
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年3月10日の日誌です。
情報の取捨選択が出来ていませんが、ご容赦下さい。・・・これでも非常に削りました。
午前6時に起床し、外出する準備をしました。外に積もっているかなりの雪は、そのままにしておくしか有りませんでした。
午前7時、バスに乗って船引駅に行き、磐越東線で郡山駅に行きました。
午前8時、郡山駅に着きました。
駅には予備校の宣伝と、テレビの地上デジタル化についての広告がありました。福島も3月31日でアナログ放送が終了します。
なお、地デジカを見ると、ネット上のAAであるクマー(英語圏ではPedobear)を思い出してしまいます。
郡山駅前では、雪の5センチ積もったバスが走っていました。
午前8時半、郡山駅前では「郡山元気発信フェスティバル」というイベントの準備がされていました。
お笑い芸人やミュージシャンを呼んで行われるイベントのようでした。
ふくしまFM、生協、その他企業などのテントがありました。
その中でも、郡山の陸上自衛隊のテントが、開始前からがかなりの数の人が尋ねていました。
活動中の写真や作業服、それにマスクや手袋等が展示されていました。
最初のステージでの演奏が、郡山の陸上自衛隊による演奏が予定されていたこともあり、ステージ上で打ち合わせをしていました。
駅前から少し離れた通りでは、商工会議所のテント、飲食物を用意したテント、田村市船引町のテントなどが設営されていました。
午前9時半、「郡山元気発信フェスティバル」の開催式がありました。
市長など、代表して挨拶をした4人の中に、遠藤雄幸川内村村長がいました。
(写真の向かって一番右に写っている人です)
午前10時、郡山駅前のビッグアイでやっていた「原発いらない地球のつどい」という反原発のイベントに行きました。
(あらかじめ申し上げておきますが、私はこの集会に来た人の大部分とは、かなり考えが違います。念のため。
彼らの主張も聞いておきたかったので、行ってみました。
・・・ただ、こういうイベントに出るということは、反原発の人間だとみなされてしまうのでしょうか・・・。)
エレベータ付近の部屋では、食品の放射能測定が行われていました。
来ている人は、独特の雰囲気を持っている人が多かったです。(わかりにくい例えですが、経産省付近に行った時、道を歩いていたスーツ姿の人達と反対の雰囲気でした。)
3月11日もそうだったのですが、マスクをしている人が1割いました。
福島の空気は吸いたくない、という気持ちなのでしょうか・・・。
大会議室では、大型のシンポジウムが行われていました。
第一会議室では、原発関連の映画の上映会がおこなわれていました。
第三会議室では、「ふくしま集団疎開裁判」の会による記者会見があったそうです。
特別会議室では、健康相談をしていたそうです。
私は午前10時から午後0時20分まで、第二会議室で行われた「福島原発の現状は?」という説明会に行って、話を聞いていました。
これがとても良かったです。
講演者は、チェルノブイリの事故後に反原発運動をしてきたらしい「たんぽぽ舎」の、原田裕史氏でした。
原田氏は冷静に、東電のサイトの情報を使って話をしていました。(正直、原田氏の後も、こういう話を聞きたかったのですが・・・)
原田氏の話で覚えているものを書き出しますと
「現場には1.5mSv/h(1500μSv)という場所もあり、原発作業員が「去年までとは桁が違いすぎる」と言っていた。去年までは20mSvになるのは全国で十数人だったのだが、今年は作業員が片っぱしから20mSvになってしまっている」
「原発労働者は、一ヶ月どころか、数日で20mSv溜まってしまう。電力会社での仕事は1ヶ月ごとの契約なので、そうなるともう、被爆労働ができなくなってしまう」
「ICRPの勧告によると、一年当たり20mSvの被爆を50年間受け続けると、5%の人が癌になる」
「今働き盛りの人が、「20mSvになったから、貴方はもうここで働けない」と言われて、納得するかという問題になる。自分も、「65歳で癌に5%なるけど、仕事する」と言われれば、仕事をする方を選ぶと思う」
「3月から、作業員は250mSvまでOKという話があった。(←聞き間違い?)本当は、緊急事態でも100mSvまでなのだが・・・」
「原発労働者は、12月に終息宣言が出てから、危険手当が出ていない。東電も年度末なので予算をケチっていて、それで更に水漏れ等で被爆が増えている。これはネットに載った情報や、作業員に直接聞いた話」
「20mSv/yの基準だと、明らかに作業員が足りなくなるだろう。来年には足りなくなるだろう。人数自体を増やすか、20mSvという基準を緩和するか、になる。かといって、強制は出来ないので、原発での作業が、皆が仕事したくなる所にしなければならない」
「放射性物質の農作物からの検出は、思ったより低い」
「福島の人間が黙っているのに、東京の人間が郡山ででもやるな、と言われた。福島の人が声を挙げてもらえないと・・・」
「海に流れた放射性物質は、対策は無い。海の底に沈んでいくのを放置するしかない。水産資源についてだが、ひじきでは出ているけど、三陸のわかめでは出ていないなど、局所的な影響」
「(原発は米国の技術なのだから、指揮系統も米国に任せたらどうか、という意見に対して)米のメーカーの設計だけれど、それが米政府の責任かと言うとそうではない」
「(仏の核技術についての質問に対して)私は仏の核技術を信用していない。ぼられるだけ」
「原発作業員の日当は、¥12000らしい。三年前の放射性業務従事者は75988人で、殆どは1mSv以下。7人だけが20mSvをover。今年のデータがどうなるか怖い」
「放射線の害にはもちろん閾値が無いが、小さければ小さいほど問題ない。100mSvを下回るデータは、誤差が大きくなりすぎて、よくわからなくなる」
「放射線業務従事者は、20mSv/yが50年間続くと、5%の人が、その仕事を選んだという理由で死ぬが、大人がきちんとした説明を受けて、それでその仕事を選ぶか、という問題になる。もっと危険な職業は一杯ある。「これくらいの危険がありますが、貴方はこの給料で働きますか?」と言われて、NOと言う自由があるのなら、それでいいじゃないか、というのがICRPの考え方。リスクを引き受ける人と利益を受ける人が同一人物ならば、リスクと利益は見合っているか、という問題になる」
「実は医療で使われるレントゲンからの被爆は相当に大きく危険な作業。ある英の学者の計算では、日本の癌の3%はレントゲンによるものだとしている」
「(今後の見通しを訊かれて)少なくとも10年くらいは落ち着かないだろう。今にも倒れそうな建物中に、使用済み燃料があるのは、とても不安。2年以内に取り出し始めて欲しい。本当は、使用済み燃料を取り出しても、安心できないのだが。融け落ちた燃料を回収するのは、何十年とかかるだろう」
「自分はどうも安全寄りに見る癖があるようで・・・甘かったら申し訳ない・・・」
「(余震について訊かれて)今の福島第一原発の状況だと、大して強くない余震でも大事になりそうなので心配。今一番心配なのは4号機。東電はプールの下に鉄骨入れてコンクリートを流し込んだようだ」
「(はやぶさについて)はやぶさを喧伝することに疑問があるというのは、はやぶさの成功というのは、実は日本が、大陸間弾道弾の技術を完成させたということ、つまり、潜在的核抑止力を持ったということ。それを世界に示しているから」
「潜在的核抑止論の立場から見ても、2基の東海村にある型の原発があれば大丈夫。54基も軽水炉を持っておくのは、国防上疑問」
「(コンクリートを突き抜けているのではないかと訊かれて)私はそれは無いと思う。一年経って抜けていないのだから、これからも突き抜けることはないと思う」
「東電が放射性物質を撒き散らした事はとても許せないが、致命傷でないものにどれだけのコストと労力をかけて対応できるかは、非常に難しい。社会全体で余裕が有れば、その分だけ皆の被爆を減らしていける」
といったものでした。
質疑応答で
「郡山で新幹線を降りたら、放射能の影響か、空気が痛いと感じた」
「放射線の線量が高い所に行くと、喉がひりひりするとか、頭痛がするとか、そういう体験が私にはある」
という質問者がいました。
「それは、標高が少し高いからか、あるいは排ガスのせいじゃないのか、あるいは、偽薬効果ではないのか」と突っ込まれたらどうするんだろう・・・とは思いましたが、自重しました。
是非、国道399号線の北半分を通って、体がどの地点でどのように反応したか、記録していただければ幸いです。(冗談でなく、ちゃんとした記録になると思うのですが・・・。)
(・・・ところで「放射能は知覚出来ないから怖い」のではなかったのでしょうか?)
原田氏の講演が終わった後、第一会議室で上映されていた映画の一つを作った日本人と、アイルランド人の反核活動家(?)の人が、飛び入りで挨拶をしました。
前者の日本人は
「例えば、事故の後に鼻血が出た子供たちが多く出たというのは事実であり、それは放射能とは関係無いという知ったかぶりをしている学者はたくさんいるが、そういう人の話は聞く必要はない。僕ら自分自身が感じていることを大事にして欲しい」
と言っていて、かなり退きました。
(話を聞いて反論するべきだと思うのですが。それは思考停止では・・・。)
外国人のカメラマンと思われる人もいました。
終わった後に原田氏は、講演を聞いていた人と話していて
「原子力とは太陽信仰。1950年代に科学者は『太陽のエネルギーを自分たちも使えるようになった』と思った」
「もちろん東電が放射性物質を拡散させたことは大変腹が立つし、責任を追及しなければならないが、放射性物質による人体への害はどうも無さそうだ」
と言っていました。
午後0時半、大会議室を覗いてみました。
経産省前の反原発テントで見かけたバッジが売っていました。
緑の党のチラシが配布されていました。
私が気になったのは、とあるチラシに書いてあることでした。(写真を撮っておけなかったのが失敗でした・・・)
そのチラシの団体は、自分達の活動の一つとして、風力発電に反対しているようでした。
私自身も風力発電には反対ですし、堂々としていて立派だと思いました。
それでも、今後のこの団体は脱原発の中で肩身が狭くなってしまわないか、少し心配しました。
午後0時50分、郡山駅前を通りがかった際、郡山駅前の寄せ書きはカラフルになっていました。
(下の画像は、それから2時間弱経ってからの画像です。女性を撮影しているカメラマンの人がいました。)
午後1時から午後2時まで、「郡山元気発信フェスティバル」の食品を売っているテントを覗いてみました。
出ているテントが多すぎたので、迷ってしまって、結局食べないでしまいました。
相馬双葉漁協か南三陸町が出していたテントで食べてあげればよかったです・・・。
あるテントでは、どういうわけかレトルトの水戸納豆カレーが置いてありました。
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/50919414.html
学校が集まって出している箇所では、車への寄せ書きがされていました。
大通りを挟んで反対側200メートルほどの所には「放射能防護食と言われる葉酸米を使用」という表示のあるテントがありました。
午後2時、疲れたので、うすい百貨店で少し休みました。
うすい百貨店は、銀座や新宿にある百貨店と同じような店が入っていました。
amazon等の影響は少ないのか、都内にある百貨店よりも賑わっていました。
9階には、大変立派なジュンク堂が入っていました。
これだけ立派な本屋があれば、東京より立派な文化的生活が出来ると思いますし、お勉強にも困らないはずです。
ライトノベル系の品揃えも早く、ちょうど発売日だったものが既に本棚に並んでいました。
(下の画像は、一応学習参考書ですが、外観はライトノベル風でした・・・。)
10階では、北海道の物産展が開かれていて、200人くらいの客で混み合っていました。
ROYCEという洋菓子店には40人弱の列が出来ていました。
(←写真では列が続いているのが確認し辛いです)
・・・休みに入ったはずが、疲れて百貨店を後にしました。しかも何も買いませんでした。
午後2時45分にビッグアイに戻りました。
ずっと続いていた大型シンポジウムの声明が発表されているようでした。
大会議室の入り口では、「西日本中心の減農薬野菜」が無料配布されていました。
カメラマン達が最前列に出て、写真を撮っていました。海外からのカメラマンもいました。
郡山駅で少し休みました。
郡山駅に入っている本屋の原発コーナーで本を物色しました。
レジ近くに置いてあった『東日本大震災原発事故ふくしま1年の記録』(福島民報社)を購入しました。
午後3時半から午後5時半まで、鎌田慧氏の講演会を聞きました。
会場は超満員で300人以上は居た筈です。
鎌田氏は、1982年以来の強固な反原発の人です。
(http://www.amazon.co.jp/日本の原発地帯-1982年-鎌田-慧/dp/B000J7PYS2/ref=sr_1_5?s=books&ie=UTF8&qid=1332168436&sr=1-5)
ある質問者は「福島第一原発30km内にある自治体に葉書を1万通送って、原発の再稼動に賛成しないように働きかけている運動をしているが・・・」と発言していました。
私は唖然としましたが、この場にいる人たちにとっては、この行動は「正しい行い」のようで、異論は無さそうでした。
午後5時半、主催者の女性の一人が、とりあえずの区切りの挨拶をしました。
その際、
「福島県民の方は、差し支えなければ、手を挙げて貰いたいんです」
と言って、挙手してもらった後
「福島の状況を多くの方に見て頂きたいと思って、県外からおいで頂きたいのはあたりまえなのですが、福島県内でこういう会場に足を運んでくださる方は、実は、もうかなり少なくなっています。当初の頃は、本当に『どうなっているんだ!』ということで、来て下さる方たくさんいたんですけれど、そういう中で今日の講演会だったので、ちょっと心配していたんですけれど、今日は多いようで安心しました」
と言っていました。
午後5時57分、郡山駅前で「春蛍」という名前がつけられた、キャンドルライトの点灯式がありました。
(ただ、午後8時に雨が降り出した後、急いで片づけられていました。)
午後6時20分、郡山のアニメイトに行きました。
何かを買ったわけではなかったのですが、いるだけで心が落ち着きました。
午後6時40分、店仕舞い間際の、うすい百貨店で夕食を買いました。
半額以下になっているものを購入できて満足でした。
同じ食料品フロアで洋菓子を売っている店は、売り切れの商品が多かったです。
どうも、物資不足という感じではなく、人気があるから売り切れていたようです。
午後7時、再びビッグアイの反原発イベント会場に戻りました。
ヨガ、ダンス、(ジョン・レノンの歌った)imagineの演奏、などをしているようでした。
私には合わなかったので、外に居ました。
「思いやり予算を凍結し、被災地救援に充てることを求める要請」に署名をしている人は、東京都、静岡県、千葉県、と住所欄に書いてありました。
『「さようなら原発」一千万人署名市民の会』による署名の紙も置いてありました。
(「呼びかけ人 内橋克人 大江健三郎 落合恵子 鎌田慧 坂本龍一 澤地久枝 瀬戸内寂聴 辻井喬 鶴見俊輔 〒101-0062東京都千代田区神田駿河台3-2-11 総評会館1階 原水禁気付 」と書いてありました。)
午後8時5分、ネットカフェに向かいました。
途中で見たバスの絵柄は、1年前に流れていたACのCMを思い出させました。
http://www.youtube.com/watch?v=Bsk2ioK0Lrg
ネットカフェに行ってみると、料金が定額になるのは、午後9時からだったので、暫く待っていなければなりませんでした。
午後9時、ネットカフェに入りました。
とてもうるさかったのですが、その割には休めました。
ACのCMを思い出したことから、以下のような動画を見ていたので、心が落ち着いたのかもしれません。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm13936200
その後、茫洋とパソコンをいじっていると、インドネシアであった、芸能人の流出性行為動画に辿り着きました。
http://jp.wsj.com/japanrealtime/blog/archives/4435/
ネットカフェで観るのは回りに迷惑かと思い、観ませんでした。
そこに映っているらしい芸能人の画像を見て
「恋愛は美男美女がするものであって、俺がしても3流のコントにもならんなぁ」
と再確認しました。
寝る間際になってから
「脱原発運動による獲得目標って、古い原発を新型の安全とされる原発に置き換える~せめて安全装置を新しくする、という、まずは次善の対応を求めるものにはならないかな・・・。それは脱原発を主張する人達にとっては、原発が確実に残るという事だろうから、やっぱりならないだろうな」
「50年前の原子力って、今の再生可能エネルギーみたいな期待を受けてたのかな。もしも、将来の再生可能エネルギーが、今の原子力発電のような鬼っ子になってしまったら、やっぱり袋叩きにあうのかな。そしてその場合、誰が責任を取るのかな。・・・それ以前に、今回の原発事故で、誰が責任を取るべきで、実際に責任を取ったんだろう」
「原子力の出す廃棄物とそれに伴う被爆と、石炭&石油の出す大気汚染、どちらの方が良くないのだろうか。それについてのデータはあるのだろうか」
「会場で聞いた「原子力発電を止めるべきであり、且つ、電力料金の値上げは許されない」という会話は、心情的には理解できないでもないけど、やはり弱いと思う。この前聞いたラジオ番組で「東電に金がなくなった事で、原発作業員の安全対策が弱くなってしまった」と言っていた。まず最初に、とある物事を主張した本人が、率先して身銭を切らなければ、説得力は生まれない」
「もしも、どうしようもなく電気が足りない、となったら、やはり原子力発電は再開されるのかな・・・」
「これから中国やベトナムは原発を作るって聞いてるけど、それについて事故を起こした日本が関与していくのは、説得力が有るのか無いのか、どっちなんだろう。多分ないだろうな・・・。それ以前に、他国に口出すのはNone of your business.とか言われてしまいそうだな。とりあえず、事故が起こったときの沈静化は日本の経験が役に立つだろうけど(汗)」
「日本の採るべき対応ってどんなのだろうか。日本国内では、事故が起きてしまったという事実が重たいので、原発推進は出来ないしすべきではないと思う。海外での日本が関連する原発事業は進めつつ、それ以外の他国がする原発の推進は今回の事故を喧伝して抑制する、という二重基準を振りかざす事くらいしか思いつけない」
「・・・そもそもこんなことを私がここで考えたって仕方ないよな。・・・そんなことよりオナニーだ!(http://dic.nicovideo.jp/a/そんなことよりオナニーだ!)・・・いやいや、ここでは、周りに迷惑だからしないけどさ。っつーか、生きててスイマセン」
と漠然と考えました。
やはりこういった物事は、半分寝たような足りない頭で考えるべきものではありませんでした。
よくもまあ、汚い文字でこんなメモをしていたものです。ローリンソンやシャンポリオンの気持ちを、少しだけ分かった気分になりました。
(転載終わり)
【816】[925]福島本部活動日誌です75
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年3月7日の日誌です。
3月10日と11日に郡山で「原発いらない地球のつどいプログラム」という脱原発の集会があるので、時間があったら行ってみます。
原発で働いていた人の記事を、しみじみ読みました。
http://fukushima20110311.blog.fc2.com/blog-entry-54.html
こちらも、しみじみ聞いてしまいました。
http://www.youtube.com/watch?v=U0qs591EOfo
午後7時半、クローズアップ現代で「アニメを旅する若者たち“聖地巡礼”の舞台裏」を放送していました。
夕食は、ご飯、納豆、カレー、味噌汁、ほうれん草を炒めただけのもの、でした。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年3月8日の日誌です。
燃えるゴミを2袋出しました。
洗濯をしました。
珍しく、朝食を食べました。
ご飯、長井さんから頂いたフライドチキン、カレー、でした。
金が有ったら、これ買いたいです。特に今の時期は、このアニメの原作中に出てくる岩手県代表の学生達には、是非頑張ってほしい所です。
けど、牌は勿体無くて使えません。というか、そもそも私麻雀のルール分かりません・・・。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B005QUKOOQ/newakibacom00-22/
(転載終わり)
(転載始め)
2012年3月9日の日誌です。
ビンのゴミを、迷った末に出しませんでした。あと一月なら大丈夫そうです。
一日、雪が降り続いています。
(3月10日午前6時現在、さらに雪が降り積もっています。)
明日は郡山に行く用事があるので、心配です。
(転載終わり)
【815】[924]福島本部活動日誌です74
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年3月6日の日誌です。
4月末の「難民キャンプ見学ツアー」で、ビッグパレット以外で、郡山駅前で見られるところが無いか、探しに行きました。
なお、結論から言うと、4月に見るべき所はありませんでした。(←別に郡山駅前を馬鹿にして言っているわけではないです、念のため。4月に行くところが変わっているからです。多くの人を激しく惹き付ける観光地、というものが、そうそうこの世にあるわけはないです。秋葉原だって、本当の良さは1年通い詰めてみないとわからないです)
午前6時29分発のバスで船引駅に向かいました。
古道小学校前で一人、岩井沢小学校前で一人、高校生が乗車しました。
午前7時26分船引駅発の電車で郡山駅に向かいました。
磐越東線は、通勤通学の人がかなりいました。
郡山駅前では「安積高校運動部」と背中に書かれた服を着た高校生が、バスに乗り込むところでした。
この人達がTさんのような有為の人材になっていくのか・・・と思い、胸が熱くなりました。私もこういった、都道府県内でトップのエリートさんになってみたかったです。
郡山のコンビニで、電気代を振り込みました。40339円でした。
朝食を食べる所がなかなか見つからなかったのですが、630円のバイキングがあったので、そこで食べました。
美味しくはありませんでしたが、安くてよかったです。
(なお、ワシントンホテルの朝食は、非常事態ということで、宿泊者限定となっていました。)
郡山駅前にある複合施設のビッグアイでは、1階で、漫画家のサインの展示会が行われていました。
なぜか、頭の中に「電源交付金、倍プッシュだ」という言葉が「ざわざわ・・・」という効果音と共に浮かんできました・・・。
その言葉が出てきたのは「太陽のせい」と言いたかったのですが、生憎、今日の郡山は曇り空で時折雨が降っていました。きっと、寝不足のせいです。
ビッグアイには、高層部に、アストラゼネカや武田薬品工業、ソニー生命などが入っていました。
高校や、公共施設、レストラン、花屋、服屋、も入っていました。
郡山駅西口は、0.426μSv/hでした。
午前11時20分、船引に電車で戻りました。
船引パークに行きました。
船引パークのタクシー待合所には、60歳くらいの人達が座っていました。
「ずっと昔、原発で働くと一日8000円になった。それで満足して自分たちは何も考えなかったから、今度の事故が天罰として起きた」
と言っていました。
スーパーの待合所などで一日中時間を潰すのも、意外な情報収集になるのかもしれません。
船引駅から南に1kmほどのところにある仮設に行こうとしたのですが、迷って行けませんでした。
リオンドール近くに建築中のアパートは、既に満室御礼となっていました。
cctv(中国中央電視台。日本のnhkに相当。資金が豊富らしい)の取材陣が、リオンドールに来ていました。
店員にインタビューをしていました。「放射能の影響は無いと、このスーパーでは考えているのか?」と質問していました。
野菜の陳列所を重点的に撮影していました。
インタビュアーは、少し外の喫煙所でタバコを吸っていました。
その後、買い物客にインタビューしていました。
地元の生産者が作った野菜を置いてある場所が、取材陣の特に興味を引いたようでした。
駐車場から車で去る前に、店舗全体を撮影していました。
車は、足立ナンバーで車はハイエースでした。
東京のレンタカーでしょうか。
cctvの取材陣が帰っていった後、バスまでの時間が無かったので、急いで550円だけ買い物をしました。
バス停に向かうと、偶然、みや古旅館のご主人が349号線と288号線の交差点で私を見つけ、事務所まで乗せてくれました。
大変に助かりました。
車内でご主人と話したのですが、今年はかなりの雪だそうで、いつもはこんなには降らないそうです。
事務所に戻ってから、灯油を60リットル補給し、ボイラー用のタンクに補充しました。
灯油は2円値上がりして、1リットルあたり95円になりました。
陽当たりの悪いところにある雪を、30分かけて退かしました。
ホットハウスの駐車場に、ナンバーの無い車と、神戸ナンバーの電気工事車両が駐車してありました。
今日は常葉公民館で午後6時半から、健康に関する説明会があったのですが、バスの時間の関係上、私は行けませんでした。
外風呂の近くに、首が取れた鼠の死骸がありました。
(転載終わり)
【814】[923]福島本部活動日誌です73
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(転載始め)
2012年3月2日の日誌です。
建物の外は、一日中雪が降り続き、かなりの積雪になりました。
吐き気は収まって、悪寒だけになりました。
午後5時、長井さんが来ました。
夕食として、酒類、ご飯、Kさんから頂いたちゃんこ鍋、をお出ししました。
ご飯を食べながら長井さんが「都路の辺りは人が住むのに適した場所じゃないなあ」と言っていたのが印象的でした。
長井さんに無理を言って、明日のお味噌汁を作ってもらいました。
長井さんは、なんと外風呂に入りました。雪見風呂とは・・・風流な方です。
長井さんにホワイトアルバム2というエロゲーをお貸ししました。PCにインストールして頂けるかどうかは、神のみぞ知るところです。
午後10時48分、大型トラックが事務所脇の288号線で、ハザードランプを点灯させながら停まっていました。
通りがかったパトカーと応答してすぐ、問題が解決したようで、288号線を帰っていきました。
3日午前1時、どうしても雪を退けておかなければならない所を、雪かきしました。
・・・風邪でもなんでも、やらなければなりませんでした。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年3月3日の日誌です。
朝起きて、ご飯と味噌汁だけで長井さんと朝食を頂きました。長井さんの味噌汁は美味しかったです。
朝食を食べた後、長井さんは南相馬に出発しました。
朝、Zさんからチャットで、円安はどれだけ続くのか訊かれました。
どう答えたらいいのかわかりませんでした・・・。
雪を適当に退けました。
やっぱり風邪引いてる最中は、余りやらない方がいいです。
夕食は、余り物を処分するためのカレーと味噌汁でした。自分で言うのもなんですが、マシなものができました。
カレーには、キャベツ、豚肉、ピーマン、砂肝、ハーブのオリーブオイル漬け、が入りました。
味噌汁には、豚肉、豆腐、納豆、雪菜、しめじ、チンゲン菜、ネギ、舞茸、が入りました。
・・・まあなんといいますか、全部、風邪を引いていた頃に食べられず、半分腐っていた食材ばかりでした。特に豆腐は、賞味期限が2週間切れていました。
たまにはこういった、豪勢なのか残飯なのか判断に苦しむ食事もいい、と思いたいです。
なお福島では、オリーブオイルが寒さで凍結してしまうので、オリーブもこみち(http://spon.me/archives/51740538.html)になるのは、なかなか難しいです。
ご飯を食べられるようになったので、風邪がこのまま治ってほしいです。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年3月4日の日誌です。
一日ぶっ倒れて休んでいました。ある程度は快復しました。
(休むなどと言っておきながら、空いている時間で溜まっていた日誌を、出来るだけ書きました。こんなんだからいつまでも風邪が治らないのかもしれません。)
夕食は、カレーライス、味噌汁、ヨーグルト、でした。
5日午前1時20分、長崎県警の人が事務所に来て、見回りに来たと言って、いくつか尋ねてきました。
いわきの方から見回りに来ているそうです。
長崎は雪が降らないので、ここは大変だと言っていました。
また、20km内外共に、人が少ないので、今でも空き巣の被害が多い、と言っていました。
警察官が帰ってから、雪が激しく降り出しました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年3月5日の日誌です。
ガイガーカウンターの電池を替えました。
変えた時点で、6605時間経過し、γ線の累積が1.673mSvでした。
昨日から、検問所方面から帰ってくる車が目立っています。
喉はまだおかしいですが、快復した、と思いたいです。
過去の日誌を書き切りました。長かったです。
いつまた、大量に溜まってしまい、四苦八苦するのでしょうか・・・。
髪をバリカンで坊主にしました。
夕食は、カレー、味噌汁、長井さんから頂いたフライドチキンでした。
(転載終わり)
【813】[922]福島本部活動日誌です72
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年2月27日の日誌です。
風邪でダウンしていまして、どうにも上手く体と頭が動きませんでした。
午後2時、事前の電話通りにIさんが来ました。
少し無理を言って、午後3時まで時間を貰って、駄目になりそうな食材に火を通しました。(というかぐずぐずしていてスミマセン。)
その際、昼食にするつもりだったレタスを食べ忘れました。
午後3時15分、Iさんの運転する車で、Kさんの家に向かって出発しました。
船引三春ICに向かう途中、船引では、小学生が下校中でした。
郡山ICのあたりは、通行に支障はありませんが、20cmほど陥没した所をアスファルトで埋めているなど、道路にそれなりに損害があるところが目立っていました。
野木沢駅でKさんと合流しました。野木沢駅には高校生が居ました。
Kさんの家にお邪魔しました。
Kさんのプライバシーがあると思いますので、写真は掲載しておりませんが、ご容赦下さい。
五右衛門風呂に入らせてもらいました。かなりの高温でした。
アイディア出しに取り掛かろうとしたのですが、Kさんの用意された夕食を食べながらでしたし、・・・お酒が入った事もあり、はかどりませんでした。
メモを見てみると、
「私は、Kさんとセックスレス夫婦になればいい、と言われてるらしい。マジ勘弁」
「Kさんは中国人と偽装結構したらしい」
「Kさんのお見合いは、相手の欲深さに退いてしまった」
「シベリアの方に、日本の風俗のアイディアを取り入れて、そういう店を作ったら、本当にヨーロッパの金持ちが来るようになったらしい」
「吉見はIさんと喧嘩しろ」
など、碌なことが書いてありませんでした。
割とまともなこととしては
「福島は、本当に、どこの高校を出るかが大事。Tさんの件だけじゃなく、例えば『自分だけでなく郡山女子高をお母さんも出てる』とか、見合いでプラス評価される」
「田舎の現実は、寂しい」
「猟師町は、ガラ悪い」
「会津は、景気の良い話ばかり。来年の大河ドラマも会津」
「来ている他県の警官と仲良くなって、どこでなにをしているか聞きだすべき。(注:宿泊しているのは、磐梯熱海です)」
と書いてありました。
取り合えずまず今やるべきは、バスについて調べることと、その予約だ、となりました。
あと、先生の作ったもので大体いいと思うので、それに飽きないようなイベントを肉付けしていく方向が良い、となりました。
0時に布団に入ったのですが、風邪の体を持て余し、なかなか寝られませんでした。
風邪をIさんに移してしまわなかったか・・・心配です。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月28日の日誌です。
午前8時15分に起きると、既にIさんもKさんも起きていらして、会議中でした。
私も遅ればせながら、脇に座らせてもらいました。
アイディア出しが終わった後、Kさんがお餅と椎茸の味噌汁と三つ葉をご馳走してくれました。
とても美味しかったです。
Kさんのお隣の家に、50m歩いて挨拶に行きました。
その家の椅子の配置を直して、いつの間にやら帰ることになりました。
事務所に、Kさんが管理している白河のペンションにあった、使われていない椅子と机を持っていくことになりました。
河原さんによると、途中のあるペンションは、地震の影響で基礎部分から壊れてしまったために、全壊扱いだそうです。
机が大型で分解できなかったため、建物の外に出せず、椅子のみ事務所に持っていくことになりました。
Kさんとは、中島村の辺りで別れました。
船引に帰る途中、矢吹町のあたりに民主党の看板がありました。
また、午後4時21分、春山小学校のロータリーの下に、スクールバスが来ていました。
Iさんとドトールで、少しだけ時間を潰しました。
併設されているTSUTAYAは、原発から真西方面では、最寄のちゃんとした本屋です。
写真ではなぜかいつも、人が少ないような印象を受けてしまいます。私の撮影が下手なのでしょうか。
船引の日本料理屋に行って、Iさんと夕食にしました。
飲み屋のようなお店だからか、馬鹿の様に高かったです。2人で6810円もしました。大失敗でした・・・。
事務所に戻って、椅子を降ろした後、Iさんは帰りました。
帰る前に、ロシュフォール10を差し上げました。
やっぱりまだ寒気が酷いです。体を労わって寝たいのですが、なかなか難しいです。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年2月29日の日誌です。
一日、かなりの大雪でした。
Kさんが事務所に来て、バスの仮予約をしました。
3日で30万円です。大型も小型も料金は変わらないそうです。
運転手込みで、45人乗りです。
浪江に行く道を通れるか心配です。
また、かわうちの湯はゴールデンウィーク中も営業しているそうです。
なにか喋るだけでも辛い状態なので、しばらく日誌は休ませて下さい。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年3月1日の日誌です。
一日中布団の中で、体を温めていました。
なんとか水分だけは摂りました。
(転載終わり)
【812】[921]一般論ですが
チェルノブイリの原発事故後、甲状腺がん発症のピークは事故後4年を経過してからです。
2015年の正月あたりから急増しないと同事故と福島原発事故との整合性がなくなります。
甲状腺がんになったのは、かなり高い放射性物質を含んだえさを食べていた乳牛から搾った牛乳が主因だと言われています。
福島原発事故直後から少なくとも3ヶ月は福島県の牛乳が出荷停止になり、現在いる乳牛は県外から持ち込んだえさを食べて牛乳を製造しています。
ところで、健康診断や人間ドックにはいると想定外の結果が出ることが多いようです。
確たる証拠はありませんが、今まで全く検査をしていない人を検査したら以前からあったものがでてきてしまったと考えるのが一般的だと思いますがどうでしょうか。
以上です。
【811】[920]私は、24日の定例会で 重要な金融の話をします。
副島隆彦です。 3日後に迫った 私たちの 定例会(自力の講演会)
演題「 今、世界経済がどう変質しつつあるか 」で、私は、金融・経済についての 重要な話をします。
3月になって、急激に 円安(=ドル高)と株高(日と米の両方で)が起きて、副島隆彦の金融予測(予言)が外(はず)れた、と 私の金融本の読者たちだけでなく、金融業界でも ウワサになっているそうだ。
私は、この4ヶ月に何が起きていたかを、精密に調査、分析した。
それは、 ゴールドマン・サックスの ジム・オニールという ワル( この男が、BRICS =ブリックス、新興5大国 =というコトバを創ったのだ)が、日本の官僚トップの 勝栄二郎と 武藤敏郎 を あやつって、野田政権を動かして、 「日本も 株高 と 円安 にしてやる。なんなら日本国債の暴落までやってあげよう」 と 秘かに日本に何度も来て、金融庁の幹部たちまで 操っていた。
ゴールドマンは、ヨーロッパ投資で大失敗して( 200兆円ぐらいの損)潰れそうなので、米財務省に屈服して、”世界協調 ジャブジャブ”(副島隆彦が作ったコトバ。日銀の白川総裁らも 自民党”上げ潮派”=ローレンス・クライン・モデル派 に ひどく 脅迫されている。「もっと金融緩和しろ」と) をやっている。
ヨーロッパの大銀行に対して、 ”ドラギ・マジック” で年末から、100兆円(1兆ユーロ)が突っ込まれた。 副島隆彦は、前の金融本「金・ドル体制の終わり」(2011年10月26日に書き上げた。そのあと、急激な動きがどんどん起きた)を書いて、「ヨーロッパで20個の大銀行が潰れる」と 一覧表にした。
一行も潰れないじゃないか。副島隆彦のウソつき、 と 私に向かって、言える者が、いるか。
ユーロの無制限、無期限の 裏からの供給で、大銀行たち(とくに フランスの3大銀行)を、狂ったように 救済している。 そんなことをやっていいのか? そうすると、このあと、世界は、一体、どういうことになるのか。 だから、こんどの講演会の 演題は、「 今、世界経済がどう変質しつつあるか 」なのだ。
大銀行がバタバタ、連鎖倒産するのを、世界権力者たちが、黙って放っておくわけがない。 アメリカの大銀行もバタバタゆく。だから、彼らは、必死の反撃 、すなわち 問題の先送り = あと2年、生き延びれないい。だから、円安(ドル高)と株高を 人工的に演出して、 インチキの 景気回復を 日本でもやってやる。 日本の 輸出大企業の株は、1月16日のドン底から、軒並み、40% も上げた。 昨年3月の地震・大津波、ゲンカツ事故のときに、一斉に投げ売りしたものの買い戻しでもある。
だから、景気回復なのか?
1ドルは、95円の手前まで行く(5月には一度、落とすが)と、ジム・オニールらが指揮する ヘッジファンドどもが仕組んでいる。
事態は、急激に変化している。しかし、この「奇妙な動き」の4ヶ月を、私、副島隆彦は、すべて解読し、読み破った。 またしても、彼らにダマされて、”の提灯をつけられて” そして、ドット落とされて、また大損をしたい人は、すればいい。 私は、冷酷にすべてを見通す。
私の、以上の文に、心底、震え上がらない、金融、経済業界のプロたちがいたら、お目にかかりたい。 私、副島隆彦が、金融・経済の分野でも、日本では最高度の 管制高知(コマンディング・ハイツ )を維持する。
24日の私たちの講演会の当日券はまだあるそうです。 会員の人で時間のある人は来てください。 副島隆彦が、次に出す本の核心点を、すべて話します。 副島隆彦拝
【810】[919]2012年3月1日号の 週刊文春の 「 郡山 4歳児と7歳児に『甲状腺がん』の疑い!」の記事
(転載貼り付け始め)
郡山4歳児と7歳児に「甲状腺がん」の疑い!衝撃スクープ
福島からの避難民11人に深刻な異常が見つかった
医学的にありえないしこりと嚢胞・・・。
山下俊一福島医大副学長は「検査するな」とメールを
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福島から北海道に避難してきた児童2人の甲状腺から「がんの疑い」のある深刻な異常が見つかった。他の子供たちは大丈夫か?福島第一原発の爆発事故の影響は?
しかし、学会では検査を控えるようにとの指示が回されていた__。この事実から目をそむけてはならない!
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自由報道協会理事
おしどりマコと本誌取材班
「今までにこんな例は見たことがありません」
超音波の画像を診た医師はそうつぶやいたという。
7歳女児(検査当時・以下同)の小さな喉にある甲状腺に、八ミリの結節(しこり)が、微細な石灰化を伴って見られたのだ。
「児童にはほとんどないことですが、がん細胞に近い。二次検査が必要です」
呆然(ぼうぜん)とする母親。だがショックはそれだけに留まらなかった。「二歳の妹さんにも、二ミリの石灰化したものが見られますね」__。
*
「北海道に自主避難している親子の中で、甲状腺に異常が見つかった。幼い子供が数人いる。すぐに来てほしい」
そんな電話が入ったのは一月二十五日の晩のことだ。
聞けば、昨年末から、福島第一原発事故を受けて札幌に避難をしている親子参百九名(子供百三十九名、大人百七十名)を対象に、地元の内科医がボランティアで甲状腺の超音波(エコー)検査を行っているという。
「4歳児で十ミリと四ミリの結節がある子がいる。郡山から来た七歳の女の子や、その他にも異常が出ている。みんな、福島からの自主避難者だ」
チェルノブイリ事故後に激増
小児甲状腺がんは、チェルノブイリ原発事故で唯一公式に認められた被曝による健康被害だ。
事故から十年後の一九九六年、オーストリアのウィーンで開かれたIAEA(国際原子力機関)、WHO(世界保健機関)、EU(欧州連合)の三者による合同国際会議において「原発事故と因果関係が明らかである」と総括された。
旧ソ連のベラルーシでは、事故までの十年間に甲状腺がんが見つかった子どもは七人。事故後はその数が五百八人に上っている。
それでも札幌からの報告を受けたとき、私の中ではまだ半信半疑の気持ちが強かった。
奇しくもその日、福島県で第五回「県民健康管理調査検討委員会」(以下、検討委員会)が行なわれ、一八歳以下の甲状腺エコー検査の結果が発表された。
それによると、福島では五・一ミリ以上の結節および二十・一ミリ以上の嚢胞(のうほう)が、三千七百六十五人中二十六人に見つかったが「全て良性」されていたからだ。
福島県立医大の鈴木眞一教授も会見で、
「二十六名はいずれも六歳以上。五ミリ以上の結節、二十ミリ以上の嚢胞が五歳以下で見つかることはありえない」
と明言していた。
それに甲状腺がんは通常、進行が非常に遅いはずだ。旧ソ連においても発症が確認され出したのは事故の約四年後のことだった。何かの間違いでは__。
だがそんな思いは、事実の前にあっさり裏切られた。
娘二人に異常が見つかり・・・
札幌で甲状腺エコー検査を実施した内科医が言う。
「しこりのあった七歳女児と四歳男児の二人に加え、十九歳以上の『大人』九人の計十一人に、甲状腺がんの疑いがありました。うち成人女性一人は既に甲状腺がんが確定、切除手術を行なうことも決まっています。
いくら『五歳以下で五ミリ以上の結節ができることはない』と言われても、今回検査をして、これが出たことは事実です」
甲状腺は成長に関するホルモンを分泌する。大人は急激な被曝の影響を考えにくく、放射線に対する感受性の強い子供の方に影響が出やすいのだ。いびつな形の嚢胞が見つかった例もあった。
ちなみに札幌の甲状腺エコー検査は、福島での検査と同じ方法で実施された。
この内科医は、知り合いの甲状腺専門医を通じ、「検討委員会」座長でもある山下俊一・福島県立医大副学長と連絡を取り合い、福島におけるエコー検査の手法を確認した。しかし、山下副学長は「独自の検査は遠慮してください」とも付け加えていたという。
「自費で技師を二人雇い、甲状腺専門医と一緒に、三日間に分けて約百人ずつ検査を行いました。最初は、まさかこんな結果が出るとは思わなかった」(同前)
甲状腺学会員が解説する。
「甲状腺がん自体は、命に別状のある病気ではありません。しかしサイズが大きい場合や患部がリンパ節に近い場合、転移すれば命を失う危険もあるため、切除する必要があります」
気になるのは、今回深刻な所見が出た四歳男児、七歳女児の二人がともに、福島県から避難しているという点だ。女児の二歳の妹にも、がんの疑いはないものの、小さな石灰化したものが見られた。
「石灰化も時間をかけて非常にゆっくり進行するものなので、幼児にみられることは極めて稀です。
私は年間に二千人ほど甲状腺の手術を行いますが、しこり自体、小学校に上がる前にできる可能性はほとんどない」(同前)
子供たちはいずれも原発事故の後、三ヵ月以上、福島で暮らしていたという。
私は今年の二月十一日にトークショーのため郡山市を訪れたが、いまだに、室内でも毎時一・八マイクロシーベルトの値を計測していた。郡山は計画的避難区域以外で、最も空間放射線量が高い町の一つとして知られている。
姉妹の母親、坂本舞子さん(仮名)が語る。
「私たちが札幌に自主避難してきたのは去年の六月。郡山では正しい情報が入って来なかったんです。原発事故の後、『避難する』と言うと、学校のお母さん方からは『気にしすぎじゃない?』とも言われました」
坂本さんは、避難が元で離婚を余儀無くさせられた。「初めのころ、外気が入ってこないように家の戸締まりをして、窓枠にテープを貼っていたら、主人に『周り見ても、こんな事やってる家ないだろ!』と。
でも私は周りは周りだと思っていたし、二歳の娘を仕方なく外に出すときは、ジャンパーにくるんでなるべく空気を吸わせないようにしていました。
納得しない夫を置いて札幌に避難すると、親戚中から責められました。今回、子供たちの甲状腺にしこりが見つかった話を、福島の友達にすると、『そうならないために避難したのに、バカみたいだね』と言われます。
一方、先に避難した親友からは『だから早く避難しろって言ったのに、自業自得だよ』って・・・・・・・。本当に辛くて、長女と二人でずっと泣いていました」
なおも坂本さんを不安にさせるのは、エコー診断後の二次検査の結果だ。七歳の長女の甲状腺にできたしこりと腫瘍は、他の子供に先立って二月中旬に行われた血液検査の結果「良性」と診断され、細胞組織を検査する「細胞診」は必要ない、とされた。しかし、
「エコー診断で異常が認められた場合、血液検査はあくまで参考値に過ぎない。通常は、細胞診を行わなければ、がんであるかどうか判定はできません。また細胞診自体は予防接種程度の負担で出来るもので、幼児に実施しても問題はありません」(甲状腺専門医)
また、「良性」であったとしても、将来に深刻な不安が残るという。
「たとえ良性であっても、ウチの子みたいにしこりがあると、将来、がん化する可能性がある、と医師から聞かされました。小児甲状腺がんは非常に珍しくて、データがないんだそうです。
診てもらった北海道大学の先生も、今までに十四歳未満でがんになった子供を二回しか診たことがなく、『いつ、がんになるかわからない』と。でも、しこりを切除手術してしまうと、今度は一生ホルモン剤を飲み続けないといけなくなるというのです。
だから今は下の子も含めて、経過を観察するしかないんですが・・・・・・」(坂本さん)
〈追加検査は必要がない〉!?
では、やはり「良性」と判断されたものの、しこりや嚢胞が発見されている福島県で検査を受けた二十六人は、本当に「安全」と言い切れるのだろうか。
現在、福島県が行っている甲状腺検診は、原発事故当時、十八歳以下だった全福島県民を対象に、三年間をかけて一巡目の検査を行う事業である(その後、時間をおいて追跡調査を行う必要がある)。
実施するのは「検討委員会」の山下座長が副学長を務める福島県立医大だ。
原発事故後数年間の甲状腺被爆データを得られる、この調査には、非常に大きな意義があるのも事実だ。
「チェルノブイリでも、事故後五年間、被曝者のまとまった検診データは皆無でした。事故から五年後、日本の笹川財団が三十五億円をかけて調査団を派遣。ようやく住民の甲状腺の組織的な検診活動が始まったのです」(前出・甲状腺専門医)
山下氏も当時、同調査に加わっていた。その「チェルノブイリ笹川医療協力プロジェクト」の総括には、調査の遅れを悔やむような一文がある。
「重要なのは事故直後の放射線被曝がどの程度であったかを調査すること」(「放射線科学九九年十一月号)
にもかかわらず、今回の福島県での調査では、原発事故直後に、住民の内部被曝の調査は行われなかった。
山下氏は、チェルノブイリでの経験を忘れてしまったのだろうか。
内部被曝の調査において、事故直後の測定に次いで有効なのが、現在、行われている小児甲状腺エコー検査である。しかし、ここでも専門家から取組みの遅れが指摘されている。
福島の調査は、事故から三年をかけて一巡目が行われるというが、
「動物実験のレベルでは、被曝しても一年で発がんすることはない、という結果が出ています。
しかし、チェルノブイリで事故直後のデータをフォローしていない以上、放射線に対して感受性の高い一歳や二歳の子どもが、事故から一~二年後まで受診出来なくても大丈夫だと言いきれるかは疑問。
子どもたちや保護者などの不安を軽減させるためにも、早期検査が望ましいことは言うまでもありません」(甲状腺学会関係者)
しかも、福島では甲状腺エコー検診を受けても、エコー写真を見せてもらうこともできない。子供たちの健康を守り、不安を取り除くよりは、研究データの収集に重点が置かれている気がしてならない。
さらに問題なのは、福島県内ではセカンドオピニオンを仰ぐことすら困難であることである。しかも、それは、座長である山下氏自ら「検査を受けないよう」働きかけているためなのだ。
一月十六日、山下氏は全国の日本甲状腺学会員宛てに、次のようなメールを送った。
〈一次の超音波検査で(中略)五mm以下の結節や二十mm以下の嚢胞を有する所見者は、細胞診などの精査や治療の対象にはならないものと判定しています。先生方にも、この結果に対して、保護者の皆様から問い合わせやご相談が少なからずあろうかと存じます。
どうか、次回の検査を受けるまでの間に自覚症状等が出現しない限り、追加検査は必要がないことをご理解いただき、十分にご説明いただきたく存じます〉
従来の常識が通じない可能性も
つまり、いま甲状腺にある程度の異常が見られたとしても、"一巡目"が終わるまでの二年間は追加検査を受け付けるなというのである。実際、福島県内で追加の甲状腺検査をしようとしても、「福島県立医大に行け」と門前払いされるケースも出ているという。
坂本さんがこんな疑問を投げかける。
「二年間待たされている間に、がん化したらどうするんでしょう?ウチの下の子は二歳で、いまは良性だけど、北海道大学病院では、どう急変するかわからないから半年ごとに診察しよう、と言われました。福島ではこういう診察が受けられないということですよね」
別の甲状腺専門医もこう警鐘を鳴らす。
「従来の理論では、一~二年ですぐに嚢胞やしこりは大きくならないかもしれない。しかし、あくまでそれは『これまで普段見てきたもの』を基準にした場合です。原発事故が起こった今、『今まで見たことがないもの』を見ている可能性がある。従来の基準が絶対とはいえないのでは。
ただ、むやみに危険をあおり、安易に異常部分を切除してしまうのもいけません。甲状腺を摘出すれば、ホルモン剤を飲み続けなければいけないことに加え、不慣れな医師による手術で声帯に傷がつき、声が嗄(か)れてしまうケースもあります」
大切なことは、セカンドオピニオンをとり、甲状腺の状態を小まめにフォローしておくことだ。
その意味で、はたして個人の受診機会に制限を設ける福島県のやり方は正しいと言えるのか。
郡山市で講演を行なっていた山下氏を直撃した。
__福島から札幌に避難している四歳の男の子に十ミリと四ミリの結節、七歳の女の子に八ミリの結節が見つかりました。
「それは、画像見ないといかんな。今出たっていうこと?」
__はい。
「それは、ある一定の頻度で出るということでしょうね。何万人に一人という」
__約百四十人のうち二人なのですが。
「データを見ないとわからない」
__三年かけて検診している間に、受診を待たされて甲状腺がんが見過ごされるような小児が出た場合、責任をどう取られるのですか。
「よくわからない。責任という言葉は問題です。おかしな発言ですね、今のは」
__追加検査を控えるよう、メールも出していますね。
「はい。学会のホームページにも載っていますよ」
前出の札幌の内科医は、こう訴える。
「今までに我々が蓄積した広島や長崎やチェルノブイリの知識からは想像がつかないことが起こっている可能性がある。従来の常識から外れるからありえない、と決めつけるのではなく、今いる子供たちの事実から物事を考えたい。医者の真実は患者の側にある。
甲状腺エコーは一日でも早く行なったほうがいい」
坂本さんも言う。
「私の子は二人とも女の子です。この子たちが無事でも、次に生まれてくる子供たちの事まで考えないといけない。この子たちを守るのも自分の役目だけど、その後の将来も守ってあげなきゃって思った時に、避難する決心がついたんです」
今、求められるのは、現実を直視する勇気である。
(転載貼り付け終わり)
【809】[918]キネシオロジー体験講座で学んだこと
「副島隆彦の学問道場」学生会員 会員番号7416番
加地 龍太(かじ りょうた)です。
以下「~だ。~である。」調にて、本日3月20日に参加した「キネシオロジー体験講座」で学んだことを記載します。
キネシオロジー体験講座にて、キリスト教において「人間関係の天使」とされている「メーア」のカードを引いた。
メーアは、同じような志を持った人間をまず3人出会わせ、繋げる仕事をしている天使だという。
このメーアのカードを引いたということは、「同胞を集めよ。」という天命(天からの命令)だと感じた。
私の天命を支えてくれる同胞を集めるべきだと考えた。
そして、人間関係の基本は支え合いだ。
リバータリアン派の実業家を目指す私の立場としては、主体は「個人」である。
私と同じような志を持った人物が私と繋がった場合、私も形而下的=現実的に可能な限りで、私の同胞の天命を支える。
何かご意見がありましたら私のアドレスにメールを送って下さい。
「同胞宣言」も「この野郎、何を言ってやがる的な意見」も歓迎します。
宜しくお願いします。
加地 龍太 拝
【808】[917]革命思想家 吉本隆明(よしもとりゅうめい)の死 に 際して
副島隆彦です。 今日は、2012年3月17日です。
昨日16日の朝の2時13分に、思想家の吉本隆明(よしもとりゅうめい)が死んだ。
私は、吉本隆明の死を以下のネット記事で知った。この知らせを聞いた初めは何の感慨も湧かなかった。ついに吉本さんも死んだか、87歳だ、と思っただけだ。
私は、今も吉本主義者(よしもとしゅぎしゃ)である。
私は、自分が18歳の時(すなわち今から丁度40年前)から、ずっと吉本主義者だ。このように公言して憚(はばか)らない。私は、吉本から多くを学んだから、ウソをつかないで本当のことを書いてきた知識人だ。他の多くのうそつき有名知識人たちとは違う。
私は、この吉本主義者という、自己規定を隠したことはないしそのように表明してきた。 他の言論人たちで、今、自分の内心に恥じることなく、このように言える者はいないはずだ。 皆、ある時期に、歴史的な事件のあるごとに、吉本を批判し、裏切った者たちだ。
以下の新聞記事にあるとおり、吉本は、私たち60年代、70年代世代の 政治発言を嫌(いや)がらない政治青年たちに、圧倒的な影響を与えた。 私はこのことを今になっても隠さなさい。吉本隆明の本をついに全く理解できなった、新左翼のくせに、頭の悪い人間たちもたくさんいた。
吉本は、激しい論争をしたとき、かつて書いた。「民衆とは何か。それは、私の本なんか読まない人たちだ。だが、お前の本も読まないよ」 と相手に言った。
(転載貼り付け始め)
●「吉本隆明氏が死去 よしもとばななさん父 戦後思想に圧倒的な影響 」
スポニチ 2012年3月16日 (金) 6時49分配信
■2010年、東京都文京区の自宅でインタビューに答える吉本隆明氏
文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。
87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長女多子(さわこ、漫画家ハルノ宵子=よいこ)さん。今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。次女は作家よしもとばななさん。
1947年東京工大卒。中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位のための十篇」などで硬質の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員らの転向問題で評論家花田清輝氏と論争した。
既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争で若者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。国家や家族を原理的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。
80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運動も原理的に批判した。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 私は、自分の人生に決定的な影響を与え続けた吉本隆明という人の死に際して、これから書くべきことをすべて書いて公表しよう、と思う。彼の死から丸2日がたって、そのように思うようになった。それは、私一人の思い出話ではない。その内容は、日本国民にとっての公共領域(パブリック・ドメイン)における公共の課題(パブリック・インタレスト)に関わる大事なことばかりだ。だから、すでに ここの学問道場の掲示板の 下の方で予定しているとおり、 来たる6月2日の 「政治思想、政治の歴史 講演会」で、思想家・吉本隆明 のことも しっかり話そうと思う。
私は、今、不愉快である。むっとしている。
さっき、ようやく新聞各紙の吉本への訃報(ふほう)の記事と追悼コメントをひとおおり、読んだ。それで不愉快になった。 皆、いい気なもんだなと思った。
どの新聞も一様に、ひとしなみに、「戦後思想に大きな影響を与えた思想家の死」 と横と並びで書いていた。それでおしまい、か。死者を鞭(むち)打つ必要はない、か。あれほど吉本の言論の存在を嫌った者たちが。自分たちの悪の所業を言われることを、いやがった者たちが。
私は、はっきりと書く。 吉本隆明は、”過激派の教祖”と呼ばれた人物である。そして、本人は、このことをあまり好かなかったと思う。しかし、遠くから仰ぎ見るようにして、吉本の本を熟読し(この40年間で、その冊数、実に300冊を超える)、吉本が話す講演会に機会をとらえて参加した自分がいる。だから、私はそれらの訃報記事を読んで不愉快になった。
浅田彰(あさだあきら)は、なぜ吉本の死に際して、従来通り、一言はケンカを売らないのだ。
吉本隆明は、たしかに文学者であり詩人であった。本人もそのようにして穏(おだ)やかな渡世(とせい)を一面ではしたかっただろう。だが、吉本の半分の顔は、明らかに革命家の顔でありつづけた。 そして、それは、日本で民衆革命に何度も 失敗した失意の革命家の人生だった。
彼は、この50年間に、おのれの激しい言論のために、事あるごとに、孤立し、保守・体制派どころか、左翼、リベラル系のあらゆる政治勢力からも忌避され、いやがられ、政治言論人としては、おのれの思想と見識を堂々と発表する機会と場を奪われ続けた、日本で一番すぐれた政治知識人(ポリィティカル・インテレクチュアル)だった。
この吉本の 深い孤立感と「これでは 自分が筆一本で食べてゆくのさえ、なかなか困難だ」という生活者としての恐怖感を、私はいつも肌身に感じて、彼のそばで見ていた。
吉本は、日本共産党や、社会党や、その他の大きな労働組合とか、社会団体とかから、忌避されて、自分の言論の影響力が、なかなか大きく外側に、一般国民のところにまで、届かず、広がらないで封殺されることへの焦燥感と、苛立ちをずっと持っていた。彼の表面の穏やかな物腰の、誰に対しても温和な達観(たっかん)の姿とは程遠いものだった。 革命が挫折し続けたことへの、絶望感をずっと、彼は背負い続けた。吉本の悲劇はいつもそうして有った。私は、ずっと彼のこの姿を目撃していた。吉本は、明らかに日本のカール・マルクスだった。
いつも大衆のいるところにいて、大衆と共に生きて、大衆の愛するものを愛して生きた人だった、と皆、声をそろえて、彼の死後になって、吉本を形だけ称賛するが、なあ、おまえたちよ。
たしかに、吉本が言った「大衆の原像へ向かう生き方」は、私たち吉本主義者の教理(きょうり)の一つだ。「共同幻想の解体」と、「擬制(ぎせい)の終焉(しゅうえん)」などと共に吉本思想の柱を成すものだ。 だが、日本の大衆が勝利することは一度もなかった。最近の小沢一郎革命(国民のための無血革命)も同じような感じで、いまにも圧殺されそうな感じだ。 私たちが感じるのは、またしても激しい幻滅と絶望感だ。
民衆革命、民衆・国民のための政治革命は、いつもいつも敗れて、敗北して、今に至る。 だから、本当は革命家であり、敗北した革命家としての吉本隆明の、真の姿を、私は、この40年間ずっと見つめ続けたと、吉本の同行(どうぎょう)の衆(しゅう)としても言える。
終始一貫して過激な言論人であった吉本隆明の発言や思想表明は、ほとんど国民大衆にまで届かず、理解されることなく、いつも、いつも日本の悪辣(あくらつ)な大メディア(テレビ、新聞)から意図的に、隅に追いやられ、どかされ、忌避され、押しつぶされてきた。
吉本の言論と発言が、あらゆる議論の最中に、圧倒的に強力であり、正当であり、正義であった。 だから、日本の公共言論(商業メディアと体制メディアを含む) は、吉本隆明を心底、毛嫌いし、敵対視し、危険視して、彼が大衆、国民に影響を与えることを、封殺した。自分たちが国民をあやつり、欺き、洗脳し、上から押さえつけている、この国の支配者なのだと、自覚していたからだ。
吉本の激しい孤立感と焦りを、私は何度も近くで見ていた。
吉本隆明は、300冊以上もの本を書いた(対談本や講演記録を含めて)人だから、日本国でもっと正当な評価と、有力な立場を占めるべき人だった。彼は、呼ばれれば(招かれれば)どこへでも行って、どんなことに対しても、「状況への発言」をし、おそらく 国会の場へでも出て行って、そして、その場から、日本国民に、大声て、必死に真実を訴えかけたかった人なのだ。そして国民が自分たち自身のために、決起すべきことを。私には、そのことが痛いほどわかる。
本がたくさん出ていたから、それなりにも認められていたのだから、それで、いいじゃないか、と冷淡に人々は思うだろう。 それでは済まないのだ。問題は、吉本一個の生き死にのことではないのだ。
吉本隆明は、この国で、不当に低く取り扱われた、不遇の言論人だった。そして本当に不遇に終わっていったのだと、私は断言する。
今はすっかりアメリカの手先になりはてて変質をとげた朝日新聞は、岩波書店もそうだが、吉本隆明に40年間、絶対に、書かせなかった。徹底的に無視し続けて干しあげた。全く発言させなかった。1960年安保闘争のあとから、ずっとそうだった。 以来、52年間になる。彼の言論を、日本のメディアは完全に封殺した。吉本の方が、あらゆる政治問題、社会問題において、発言を拒んだことは一度もない。
ただひたすら、発言させなかったのだ。 それなのに、吉本が70歳を越して、1996年(16年前)に海で溺(おぼ)れて病気になって、体が弱くなったと見たら、吉本に近寄って、ほんのすこしだけ発言させるようになった。もうそろそろ牙(きば)も毒気(どくけ)も抜けて、自分たちに、襲いかかってくることはなくなったろう、と踏んで。
本当の 危険思想家であり、生来の 過激派の言論人である吉本の発言を、そのまま全部、はっきりと掲載する商業出版物は無かったのだ、と私は思う。吉本が死んでから、「戦後最大の思想家だった」という献辞を一様に訃報として、新聞各紙は書く。が、彼らこそは、日本の民衆革命を圧殺した側の、張本人たちだ。自分たちが、日本国をあやつる支配者、権力者の側にいることを、彼ら自身はよくよく知っている。その中の、個々の記者や編集者が、自分は 善良であり、善意であり、吉本の思想をよく理解した、などというふりなどしてみても、何の言い訳にもならない。
日本の戦後もまた、ずっと裏切られた革命と、民衆の生活苦と、喘ぐように生きるサラリーマン大衆の苦しい日常が続いている。自分がいつ会社を首になるか分からない恐怖感の中で、大企業エリート社員たちまでが、脅(おび)えなら生きている現実が続いている。ちっともいい国にはならなかった。
過激派の教祖として、永遠の革命家(マルクス・レーニン主義者)として生きた吉本隆明が、不遇のまま終わった、というのは、それはそれで当然のことだ、という冷酷な判断も一方でなりたつ。戦いに負けた方の人間なのでありその理論指導者だったのだから。
日本の戦後を生きた すべての政治知識、政治運動への関与人間たちは、すべて敗北者であるのに、その自分たちの敗北を今も全く、自覚せず、その責任を感じて引き受けようとした者は今も少ない。どうせ頭の鈍い人間たちなのだ。自分のことしか眼中にないで、ペラペラと話す者たちだ。 この吉本が言った、「敗北の構造」を抱きしめたまま、私たち吉本に後続(こうぞく)する世代までが、無残な夢破れた、あれこれの政治参加のあとの、慙愧の無念の 残生(ざんせい)を生きているのである。
私は、もっともっと吉本隆明について、彼の死を契機にして、書きたいことがある。追い追い書いてゆく。それに連れ添う一人一人の同時代の日本知識人たち(今や、私の同業者たちだ)への素描や、厳しい評価もこれから書いてゆく。私は、なにごとも隠さないで自分が知っている限りのことを正直に書いて残してゆくつもりだ。
吉本が死んだ知らせを受けて、私は、すぐに彼の家に行こうと思った。が、親しい編集者から「家族だけで、ひっそりと葬儀をするそうだ。騒がないで静かにしていてほしい」と言われたので、私は、吉本隆明の家に弔問に行く時間を昨日、逸した。 ところがその編集者は、自分は吉本の家に上手に入って、吉本の死に顔を、昨晩、拝んでいるのだ。しまった、と私は思ったがもう遅い。他の編集者たちは、メディアの人間たちと一緒に吉本の家の前で、ずっと昼過ぎまで立っていたという。
その人からも話は聞いた。 そして自分の知るかつての吉本主義者たちに、連絡を取ってみた。が、ほとんどは、もう耄碌(もうろく)ジジイになり果てていて、自分自身が、70歳が近くなって、身動きが取れないような状態の者ばかりだ。老いさらばえたかつての活動家たちの姿だ。
今日17日の夜がお通夜で、明日が告別式(葬式)だと聞いた。どこの斎場で式が行われるのかも、まだ分からないが明日は、私も出かけてみようと思う。
死者を送る、野辺送りが、「本人と家族の意思で、そっとしておいてほしい」ということであれば、そのようにしてあげるのが、たしかに思慮のある人間の取る行動だ。しかし、本当にそれでいいのか。 吉本隆明の遺体(死体)は、その家族(遺族)のもの(所有物)であるから、その処分の判断に従わなければどうせ済まない。 吉本隆明自身は、「家族葬か、出来れば町内会の主催でやってほしい」と言っていたという。もうそういう時代でもない。
だが、密葬で、家族・近親だけで静かに執り行いたい、と言われて、はい、それに従います、というだけでは、私はどうも済まない気がする。公人(パブリック・パーソネッジ public personage )には、公人としての 果たすべき役割がある。いくら敗北した民衆革命の悲劇の指導者、革命家の死であると言っても、ひっそりと済ませて、葬儀の場所も公表しない、ということでいいのだろうか。
すすんで自分も葬儀に参加したい、というかつての吉本隆明の本の熱心な読者たちを葬儀場に受け入れるだけのことは、するべきではないのか。 往年の吉本主義者たちは、今は、もうほとんどが65歳以上のジジイ、婆(ばばあ)たちだ。それを全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)という。
そういう人が、まだ少なくても一万人ぐらいは生きている。 私は、今58歳で、吉本主義者の下限の年齢の人間だ。本当に私より若い歳の人間で、過激思想家・吉本隆明に のめり込んだ者はあまりいないはずだ。糸井重里(いといしげさと)と坂本龍一(さかもとりゅういち)でも私より数歳は、上だ。
社会的に公人(こうじん)の死者の死体(遺体)は、本当に家族、血縁者たちだけの所有、処分物でいいのか、と私は思う。 言論人、作家、芸能人 も民間人であるから、公職にないから、私的な私人としてのひっそりとした死に方を選ぶなら、それでいい。 だが、敗北した民衆革命の偉大な思想家の死 を(そう思う人たちが現に、一万人ぐらいは今もいる以上 )それを、国民的な課題として大きな葬儀が行なわれない、というのは、私は、どうも間違った考えだと、今、思うようになった。
死んでしまった吉本を、偉大な思想家でしたと、称賛するだけなら、それは口先だけのことだ。ふざけた連中だ。 しんみりとしてみせるだけの、自分が温厚で、世間体(せけんてい)と秩序を大事にする常識人として振る舞いたいだけの 偽善有名人たちの 偽善者の追悼のコメントを、私は、読んで、本当に腹の底から不快がこみ上げた。
石原慎太郎というアメリカへの買弁(ばいべん)人間の元文学者 ( 三島由紀夫とは比べ物にならない、愚劣な、反革命の右翼人間だ )までが、吉本を褒めて追悼していた。吐き気がする。どうして、石原は、あれほど毛嫌いしたはずの、敵の吉本を、褒めるのだ。お前は民衆を毛嫌いする反革命なのだ。それが、死者を弔うに当たっての、大人の態度だからということになるの、か。本当に、ここまで悪質な完全な政治人間にまでなりあがったものだ。自己愛しかないくせに。
今の、ひどい不況下(本当は恐慌のさなか)の日本では、「もう葬式はいらない、戒名(位牌、いはい)もいらない、坊主のお経もいらない、墓もいらない。骨は砕いて草木に撒けばいい(樹木葬)」という時代である。そういう本が、何冊も出て理解者を増やしている。
ごくごくの近親者だけの、内密の密葬(みっそう)で家族葬だけでやっておしまい、というのは、一般人の場合は、それでいい。もう葬式どころか、家族もいなくて、アパートで孤独死して、死体を市役所の職員が片づけに来る、という死に方が増えてゆくだろう。 だが、吉本隆明までも、そのような貧しい庶民の葬式でいいとは、どうも私は納得がゆかない。 一切の華美で派手な形だけの葬式は、もう贅沢で醜悪なだけだ、という時代なのか。
だが、私は、この考えと風潮に逆らう。そのようにたった今、決めた。
吉本隆明の魂(たましい)を十分に引きずっている私は だからこそ自分の葬式は、公然と、きちんとやってもらおうと思う。今のうちから家族(奥さんと息子)と、それから弟子たちに頼んでおく。これからその手順の希望を彼らに提出する。
自分の死体が、病院から出されたら、そのまま葬儀場(メモリアル・ホール)に運んでもらって保冷剤で冷やしたまま、3日間、通夜と告別式まで、ずっとそこに置いて、棺桶の中の死体を、衆参者に見せるべきだ。
それが世界基準(ワールド・ヴァリューズ world values )の葬式というものだ。 だから私の場合は、3日間の間、葬儀場に死体があるから、時間の都合のつく人で来たいという人には全員来てもらいたい。そして、そこに、そまつな食事と安い酒をふんだんに準備して、盛大に3日間、宴会をやってほしい。葬儀場は料金さえ払えば、これぐらいは当然してくれる。
そこには、私の筆で、「ここでは余計な話はしないで、副島隆彦のことだけ話してください。悪口はいくら言ってもいいです。マイクを準備しておきますから、発言したい人はどんどん発言してください 」 と書いて遺しておこうと思います。それが、人が集まってこその葬式(野辺の送り)というものだ。
私は、今、「阿弥陀如来(あみだにょらい)と、観音菩薩(かんのんぼさつ)と、弥勒菩薩(みろくぼさつ)というこの3人の ”女神”は、一体、何者なのだ。どこから来た人たちなのだ。お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)と別人じゃないか。
本当は、イエス・キリストの奥様だった、マグダラのマリアさまだろう。この2千年間、ウソばっかり、民衆に教えるなよ」という本を書いている。この本は、絶対に夏までに出す。
阿弥陀さま、観音様に、すがりついて「助けてください。助けてください。私たちを、動物みたいに残酷に扱わないでください」 と、「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」にすがりついた、貧しい民衆を、キリストも 釈迦(ブッダ)も 「よし。助けてあげよう」 と、必死で闘った。 ・・・・そして、実は、民衆を救済(サルベーション)することは出来なかった。
裏切られた革命だ。 人類の歴史は、そのようにして、ずっと悲しく、みじめに続いて、今に至る。 吉本隆明は、この他力本願(たりきほんがん)の、浄土門 の親鸞上人(しんらんしょうにん)の 、民衆救済 の思想を生きた思想家だ。
それに比べて、中国で、7世紀に起きた 禅宗(ぜんしゅう)は、日本にも伝わったが、その本態、本性は、小乗(しょうじょう、ヒーナーヤナ)仏教であり、「民衆の救済などできない。ありえない。自分一人を救済するための修行に打ち込め」という自力(じりき)の思想の、いやらしい エゴイズムの仏教である。こっちが金持ちと、支配者のための仏教となる。
この世は、自力(じりき)だけであり、他人の救済など知ったことではない、という悪意の 十分に、真この世の、大人(おとな)たちの支配する世の中である。
私は、吉本隆明から、40年間、学ぶだけ学んだから、何でも受け継いでいる。 吉本隆明を支えた革命への幻想、あるいは幻想の革命 から、少し離れて1994年からは、自分の足で歩き始めた。革命はもう無いあとの、自分の生き方を必死で切り開いた。ここでは、私は、自力本願に学んだ。
だが、それでも、私、副島隆彦もまた、吉本の後に続いて、最期まで、民衆救済のための知識人、言論人として生きて、死んでゆこうと思う。
自分は、権力者や支配者の冷酷な自力(自分だけの救済で十分だ)の思想の方には行かない。だから私のために、集まってくれる人が集まって、私の葬式をにぎやかにやってもらいたい。
日本が生んだ悲劇の民衆思想家として、その恵まれず、かわいそうだった 吉本隆明 の魂を、私は引き継いで、ひきずってもうあとしばらく生きよう。そして、次の世代に、日本における 真の過激派の思想 というものの 強靭な遺伝子をあとに繋(つない)いでゆく。この灯を消すわけにはゆかない。
追悼、吉本隆明 先生 。
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
● 「 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想 」
2012年3月16日 スポニチ
16日亡くなった評論家吉本隆明さんは、常に時代と真正面から向き合い、格闘を続け、鋭い言論で若者たちに大きな影響を与えた「カリスマ」だった。
既成の左翼運動を徹底批判して新左翼の理論的支柱になった吉本さん。1968年に刊行した「共同幻想論」は難解な思想書でありながら、全共闘世代の若者に熱狂的に支持され、同書を抱えて大学のキャンパスを歩くのが流行した。
高度消費社会を積極的に評価した80年代には、女性誌「アンアン」にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場。その姿勢を批判した作家埴谷雄高さんと資本主義や消費社会をめぐって激しく論争した。
若者を引きつけた吉本思想の根底には、一般の人々の生活を立脚点とする「大衆の原像」と呼ばれる理念があった。「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰り込んでいくこと」。自らも含めた知識人の思想的課題をこう定めた吉本さんは、60~70年代の新左翼運動でも、消費社会化という時代の転換点でも、常に「大衆」と共にあった。
戦後知識人の転向問題からアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に至るまで、批評の対象は驚くほど多岐にわたり、文学も思想もサブカルも同列に論じた。残された数々の著作は、一貫して時代と格闘し、「大衆」と共に歩んだ「知のカリスマ」の足跡でもある。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝