重たい掲示板

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。
旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

吉見 おさむ 投稿日:2012/03/23 23:04

【814】[923]福島本部活動日誌です73

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年3月2日の日誌です。

建物の外は、一日中雪が降り続き、かなりの積雪になりました。

吐き気は収まって、悪寒だけになりました。

午後5時、長井さんが来ました。
夕食として、酒類、ご飯、Kさんから頂いたちゃんこ鍋、をお出ししました。
ご飯を食べながら長井さんが「都路の辺りは人が住むのに適した場所じゃないなあ」と言っていたのが印象的でした。

長井さんに無理を言って、明日のお味噌汁を作ってもらいました。

長井さんは、なんと外風呂に入りました。雪見風呂とは・・・風流な方です。

長井さんにホワイトアルバム2というエロゲーをお貸ししました。PCにインストールして頂けるかどうかは、神のみぞ知るところです。

午後10時48分、大型トラックが事務所脇の288号線で、ハザードランプを点灯させながら停まっていました。
通りがかったパトカーと応答してすぐ、問題が解決したようで、288号線を帰っていきました。

3日午前1時、どうしても雪を退けておかなければならない所を、雪かきしました。
・・・風邪でもなんでも、やらなければなりませんでした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年3月3日の日誌です。

朝起きて、ご飯と味噌汁だけで長井さんと朝食を頂きました。長井さんの味噌汁は美味しかったです。

朝食を食べた後、長井さんは南相馬に出発しました。

朝、Zさんからチャットで、円安はどれだけ続くのか訊かれました。
どう答えたらいいのかわかりませんでした・・・。

雪を適当に退けました。
やっぱり風邪引いてる最中は、余りやらない方がいいです。

夕食は、余り物を処分するためのカレーと味噌汁でした。自分で言うのもなんですが、マシなものができました。
カレーには、キャベツ、豚肉、ピーマン、砂肝、ハーブのオリーブオイル漬け、が入りました。
味噌汁には、豚肉、豆腐、納豆、雪菜、しめじ、チンゲン菜、ネギ、舞茸、が入りました。
・・・まあなんといいますか、全部、風邪を引いていた頃に食べられず、半分腐っていた食材ばかりでした。特に豆腐は、賞味期限が2週間切れていました。
たまにはこういった、豪勢なのか残飯なのか判断に苦しむ食事もいい、と思いたいです。
なお福島では、オリーブオイルが寒さで凍結してしまうので、オリーブもこみち(http://spon.me/archives/51740538.html)になるのは、なかなか難しいです。

ご飯を食べられるようになったので、風邪がこのまま治ってほしいです。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年3月4日の日誌です。

一日ぶっ倒れて休んでいました。ある程度は快復しました。
(休むなどと言っておきながら、空いている時間で溜まっていた日誌を、出来るだけ書きました。こんなんだからいつまでも風邪が治らないのかもしれません。)

夕食は、カレーライス、味噌汁、ヨーグルト、でした。

5日午前1時20分、長崎県警の人が事務所に来て、見回りに来たと言って、いくつか尋ねてきました。
いわきの方から見回りに来ているそうです。
長崎は雪が降らないので、ここは大変だと言っていました。
また、20km内外共に、人が少ないので、今でも空き巣の被害が多い、と言っていました。
警察官が帰ってから、雪が激しく降り出しました。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年3月5日の日誌です。

ガイガーカウンターの電池を替えました。
変えた時点で、6605時間経過し、γ線の累積が1.673mSvでした。

昨日から、検問所方面から帰ってくる車が目立っています。

喉はまだおかしいですが、快復した、と思いたいです。

過去の日誌を書き切りました。長かったです。
いつまた、大量に溜まってしまい、四苦八苦するのでしょうか・・・。

髪をバリカンで坊主にしました。

夕食は、カレー、味噌汁、長井さんから頂いたフライドチキンでした。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/03/23 22:55

【813】[922]福島本部活動日誌です72

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年2月27日の日誌です。

風邪でダウンしていまして、どうにも上手く体と頭が動きませんでした。

午後2時、事前の電話通りにIさんが来ました。

少し無理を言って、午後3時まで時間を貰って、駄目になりそうな食材に火を通しました。(というかぐずぐずしていてスミマセン。)
その際、昼食にするつもりだったレタスを食べ忘れました。

午後3時15分、Iさんの運転する車で、Kさんの家に向かって出発しました。
船引三春ICに向かう途中、船引では、小学生が下校中でした。

郡山ICのあたりは、通行に支障はありませんが、20cmほど陥没した所をアスファルトで埋めているなど、道路にそれなりに損害があるところが目立っていました。
野木沢駅でKさんと合流しました。野木沢駅には高校生が居ました。

Kさんの家にお邪魔しました。
Kさんのプライバシーがあると思いますので、写真は掲載しておりませんが、ご容赦下さい。

五右衛門風呂に入らせてもらいました。かなりの高温でした。

アイディア出しに取り掛かろうとしたのですが、Kさんの用意された夕食を食べながらでしたし、・・・お酒が入った事もあり、はかどりませんでした。

メモを見てみると、
「私は、Kさんとセックスレス夫婦になればいい、と言われてるらしい。マジ勘弁」
「Kさんは中国人と偽装結構したらしい」
「Kさんのお見合いは、相手の欲深さに退いてしまった」
「シベリアの方に、日本の風俗のアイディアを取り入れて、そういう店を作ったら、本当にヨーロッパの金持ちが来るようになったらしい」
「吉見はIさんと喧嘩しろ」
など、碌なことが書いてありませんでした。
割とまともなこととしては
「福島は、本当に、どこの高校を出るかが大事。Tさんの件だけじゃなく、例えば『自分だけでなく郡山女子高をお母さんも出てる』とか、見合いでプラス評価される」
「田舎の現実は、寂しい」
「猟師町は、ガラ悪い」
「会津は、景気の良い話ばかり。来年の大河ドラマも会津」
「来ている他県の警官と仲良くなって、どこでなにをしているか聞きだすべき。(注:宿泊しているのは、磐梯熱海です)」
と書いてありました。

取り合えずまず今やるべきは、バスについて調べることと、その予約だ、となりました。
あと、先生の作ったもので大体いいと思うので、それに飽きないようなイベントを肉付けしていく方向が良い、となりました。

0時に布団に入ったのですが、風邪の体を持て余し、なかなか寝られませんでした。

風邪をIさんに移してしまわなかったか・・・心配です。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年2月28日の日誌です。

午前8時15分に起きると、既にIさんもKさんも起きていらして、会議中でした。
私も遅ればせながら、脇に座らせてもらいました。

アイディア出しが終わった後、Kさんがお餅と椎茸の味噌汁と三つ葉をご馳走してくれました。
とても美味しかったです。

Kさんのお隣の家に、50m歩いて挨拶に行きました。
その家の椅子の配置を直して、いつの間にやら帰ることになりました。

事務所に、Kさんが管理している白河のペンションにあった、使われていない椅子と机を持っていくことになりました。
河原さんによると、途中のあるペンションは、地震の影響で基礎部分から壊れてしまったために、全壊扱いだそうです。
机が大型で分解できなかったため、建物の外に出せず、椅子のみ事務所に持っていくことになりました。

Kさんとは、中島村の辺りで別れました。

船引に帰る途中、矢吹町のあたりに民主党の看板がありました。

また、午後4時21分、春山小学校のロータリーの下に、スクールバスが来ていました。

Iさんとドトールで、少しだけ時間を潰しました。
併設されているTSUTAYAは、原発から真西方面では、最寄のちゃんとした本屋です。
写真ではなぜかいつも、人が少ないような印象を受けてしまいます。私の撮影が下手なのでしょうか。

船引の日本料理屋に行って、Iさんと夕食にしました。
飲み屋のようなお店だからか、馬鹿の様に高かったです。2人で6810円もしました。大失敗でした・・・。

事務所に戻って、椅子を降ろした後、Iさんは帰りました。
帰る前に、ロシュフォール10を差し上げました。

やっぱりまだ寒気が酷いです。体を労わって寝たいのですが、なかなか難しいです。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年2月29日の日誌です。

一日、かなりの大雪でした。

Kさんが事務所に来て、バスの仮予約をしました。
3日で30万円です。大型も小型も料金は変わらないそうです。
運転手込みで、45人乗りです。
浪江に行く道を通れるか心配です。
また、かわうちの湯はゴールデンウィーク中も営業しているそうです。

なにか喋るだけでも辛い状態なので、しばらく日誌は休ませて下さい。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年3月1日の日誌です。

一日中布団の中で、体を温めていました。
なんとか水分だけは摂りました。

(転載終わり)

いそがい 投稿日:2012/03/21 17:57

【812】[921]一般論ですが

チェルノブイリの原発事故後、甲状腺がん発症のピークは事故後4年を経過してからです。
2015年の正月あたりから急増しないと同事故と福島原発事故との整合性がなくなります。
甲状腺がんになったのは、かなり高い放射性物質を含んだえさを食べていた乳牛から搾った牛乳が主因だと言われています。

福島原発事故直後から少なくとも3ヶ月は福島県の牛乳が出荷停止になり、現在いる乳牛は県外から持ち込んだえさを食べて牛乳を製造しています。

ところで、健康診断や人間ドックにはいると想定外の結果が出ることが多いようです。

確たる証拠はありませんが、今まで全く検査をしていない人を検査したら以前からあったものがでてきてしまったと考えるのが一般的だと思いますがどうでしょうか。

以上です。

副島隆彦 投稿日:2012/03/21 09:33

【811】[920]私は、24日の定例会で 重要な金融の話をします。

副島隆彦です。 3日後に迫った 私たちの 定例会(自力の講演会)
演題「 今、世界経済がどう変質しつつあるか 」で、私は、金融・経済についての 重要な話をします。 

3月になって、急激に 円安(=ドル高)と株高(日と米の両方で)が起きて、副島隆彦の金融予測(予言)が外(はず)れた、と 私の金融本の読者たちだけでなく、金融業界でも ウワサになっているそうだ。

 私は、この4ヶ月に何が起きていたかを、精密に調査、分析した。

それは、 ゴールドマン・サックスの ジム・オニールという ワル( この男が、BRICS =ブリックス、新興5大国 =というコトバを創ったのだ)が、日本の官僚トップの 勝栄二郎と 武藤敏郎 を あやつって、野田政権を動かして、 「日本も 株高 と 円安 にしてやる。なんなら日本国債の暴落までやってあげよう」 と 秘かに日本に何度も来て、金融庁の幹部たちまで 操っていた。

 ゴールドマンは、ヨーロッパ投資で大失敗して( 200兆円ぐらいの損)潰れそうなので、米財務省に屈服して、”世界協調 ジャブジャブ”(副島隆彦が作ったコトバ。日銀の白川総裁らも 自民党”上げ潮派”=ローレンス・クライン・モデル派 に ひどく 脅迫されている。「もっと金融緩和しろ」と) をやっている。

ヨーロッパの大銀行に対して、 ”ドラギ・マジック” で年末から、100兆円(1兆ユーロ)が突っ込まれた。  副島隆彦は、前の金融本「金・ドル体制の終わり」(2011年10月26日に書き上げた。そのあと、急激な動きがどんどん起きた)を書いて、「ヨーロッパで20個の大銀行が潰れる」と 一覧表にした。

 一行も潰れないじゃないか。副島隆彦のウソつき、 と 私に向かって、言える者が、いるか。

ユーロの無制限、無期限の 裏からの供給で、大銀行たち(とくに フランスの3大銀行)を、狂ったように 救済している。 そんなことをやっていいのか?  そうすると、このあと、世界は、一体、どういうことになるのか。 だから、こんどの講演会の 演題は、「 今、世界経済がどう変質しつつあるか 」なのだ。

 大銀行がバタバタ、連鎖倒産するのを、世界権力者たちが、黙って放っておくわけがない。 アメリカの大銀行もバタバタゆく。だから、彼らは、必死の反撃 、すなわち 問題の先送り = あと2年、生き延びれないい。だから、円安(ドル高)と株高を 人工的に演出して、 インチキの 景気回復を 日本でもやってやる。 日本の 輸出大企業の株は、1月16日のドン底から、軒並み、40% も上げた。 昨年3月の地震・大津波、ゲンカツ事故のときに、一斉に投げ売りしたものの買い戻しでもある。

だから、景気回復なのか?

 1ドルは、95円の手前まで行く(5月には一度、落とすが)と、ジム・オニールらが指揮する ヘッジファンドどもが仕組んでいる。

 事態は、急激に変化している。しかし、この「奇妙な動き」の4ヶ月を、私、副島隆彦は、すべて解読し、読み破った。 またしても、彼らにダマされて、”の提灯をつけられて” そして、ドット落とされて、また大損をしたい人は、すればいい。 私は、冷酷にすべてを見通す。

 私の、以上の文に、心底、震え上がらない、金融、経済業界のプロたちがいたら、お目にかかりたい。 私、副島隆彦が、金融・経済の分野でも、日本では最高度の 管制高知(コマンディング・ハイツ )を維持する。

 24日の私たちの講演会の当日券はまだあるそうです。 会員の人で時間のある人は来てください。 副島隆彦が、次に出す本の核心点を、すべて話します。  副島隆彦拝 

大内なんでかな 投稿日:2012/03/21 00:48

【810】[919]2012年3月1日号の 週刊文春の 「 郡山 4歳児と7歳児に『甲状腺がん』の疑い!」の記事

(転載貼り付け始め)

郡山4歳児と7歳児に「甲状腺がん」の疑い!衝撃スクープ 

福島からの避難民11人に深刻な異常が見つかった

医学的にありえないしこりと嚢胞・・・。
山下俊一福島医大副学長は「検査するな」とメールを

__________________________________________________________________________________________________________________________________________________

福島から北海道に避難してきた児童2人の甲状腺から「がんの疑い」のある深刻な異常が見つかった。他の子供たちは大丈夫か?福島第一原発の爆発事故の影響は? 
しかし、学会では検査を控えるようにとの指示が回されていた__。この事実から目をそむけてはならない!

___________________________________________________________________________________________________________________________________________________

自由報道協会理事
 おしどりマコと本誌取材班

「今までにこんな例は見たことがありません」
超音波の画像を診た医師はそうつぶやいたという。
 7歳女児(検査当時・以下同)の小さな喉にある甲状腺に、八ミリの結節(しこり)が、微細な石灰化を伴って見られたのだ。
「児童にはほとんどないことですが、がん細胞に近い。二次検査が必要です」
 呆然(ぼうぜん)とする母親。だがショックはそれだけに留まらなかった。「二歳の妹さんにも、二ミリの石灰化したものが見られますね」__。
           
         *

「北海道に自主避難している親子の中で、甲状腺に異常が見つかった。幼い子供が数人いる。すぐに来てほしい」
 そんな電話が入ったのは一月二十五日の晩のことだ。
 聞けば、昨年末から、福島第一原発事故を受けて札幌に避難をしている親子参百九名(子供百三十九名、大人百七十名)を対象に、地元の内科医がボランティアで甲状腺の超音波(エコー)検査を行っているという。
「4歳児で十ミリと四ミリの結節がある子がいる。郡山から来た七歳の女の子や、その他にも異常が出ている。みんな、福島からの自主避難者だ」

チェルノブイリ事故後に激増 

 小児甲状腺がんは、チェルノブイリ原発事故で唯一公式に認められた被曝による健康被害だ。
 事故から十年後の一九九六年、オーストリアのウィーンで開かれたIAEA(国際原子力機関)、WHO(世界保健機関)、EU(欧州連合)の三者による合同国際会議において「原発事故と因果関係が明らかである」と総括された。
旧ソ連のベラルーシでは、事故までの十年間に甲状腺がんが見つかった子どもは七人。事故後はその数が五百八人に上っている。
それでも札幌からの報告を受けたとき、私の中ではまだ半信半疑の気持ちが強かった。
 奇しくもその日、福島県で第五回「県民健康管理調査検討委員会」(以下、検討委員会)が行なわれ、一八歳以下の甲状腺エコー検査の結果が発表された。
それによると、福島では五・一ミリ以上の結節および二十・一ミリ以上の嚢胞(のうほう)が、三千七百六十五人中二十六人に見つかったが「全て良性」されていたからだ。
 福島県立医大の鈴木眞一教授も会見で、
「二十六名はいずれも六歳以上。五ミリ以上の結節、二十ミリ以上の嚢胞が五歳以下で見つかることはありえない」 
 と明言していた。
 それに甲状腺がんは通常、進行が非常に遅いはずだ。旧ソ連においても発症が確認され出したのは事故の約四年後のことだった。何かの間違いでは__。
 だがそんな思いは、事実の前にあっさり裏切られた。

娘二人に異常が見つかり・・・

 札幌で甲状腺エコー検査を実施した内科医が言う。
「しこりのあった七歳女児と四歳男児の二人に加え、十九歳以上の『大人』九人の計十一人に、甲状腺がんの疑いがありました。うち成人女性一人は既に甲状腺がんが確定、切除手術を行なうことも決まっています。
いくら『五歳以下で五ミリ以上の結節ができることはない』と言われても、今回検査をして、これが出たことは事実です」
 甲状腺は成長に関するホルモンを分泌する。大人は急激な被曝の影響を考えにくく、放射線に対する感受性の強い子供の方に影響が出やすいのだ。いびつな形の嚢胞が見つかった例もあった。
 ちなみに札幌の甲状腺エコー検査は、福島での検査と同じ方法で実施された。
 この内科医は、知り合いの甲状腺専門医を通じ、「検討委員会」座長でもある山下俊一・福島県立医大副学長と連絡を取り合い、福島におけるエコー検査の手法を確認した。しかし、山下副学長は「独自の検査は遠慮してください」とも付け加えていたという。
「自費で技師を二人雇い、甲状腺専門医と一緒に、三日間に分けて約百人ずつ検査を行いました。最初は、まさかこんな結果が出るとは思わなかった」(同前)
 甲状腺学会員が解説する。
「甲状腺がん自体は、命に別状のある病気ではありません。しかしサイズが大きい場合や患部がリンパ節に近い場合、転移すれば命を失う危険もあるため、切除する必要があります」
 気になるのは、今回深刻な所見が出た四歳男児、七歳女児の二人がともに、福島県から避難しているという点だ。女児の二歳の妹にも、がんの疑いはないものの、小さな石灰化したものが見られた。
「石灰化も時間をかけて非常にゆっくり進行するものなので、幼児にみられることは極めて稀です。
 私は年間に二千人ほど甲状腺の手術を行いますが、しこり自体、小学校に上がる前にできる可能性はほとんどない」(同前)
子供たちはいずれも原発事故の後、三ヵ月以上、福島で暮らしていたという。
 私は今年の二月十一日にトークショーのため郡山市を訪れたが、いまだに、室内でも毎時一・八マイクロシーベルトの値を計測していた。郡山は計画的避難区域以外で、最も空間放射線量が高い町の一つとして知られている。
 姉妹の母親、坂本舞子さん(仮名)が語る。
「私たちが札幌に自主避難してきたのは去年の六月。郡山では正しい情報が入って来なかったんです。原発事故の後、『避難する』と言うと、学校のお母さん方からは『気にしすぎじゃない?』とも言われました」
 坂本さんは、避難が元で離婚を余儀無くさせられた。「初めのころ、外気が入ってこないように家の戸締まりをして、窓枠にテープを貼っていたら、主人に『周り見ても、こんな事やってる家ないだろ!』と。
でも私は周りは周りだと思っていたし、二歳の娘を仕方なく外に出すときは、ジャンパーにくるんでなるべく空気を吸わせないようにしていました。
 納得しない夫を置いて札幌に避難すると、親戚中から責められました。今回、子供たちの甲状腺にしこりが見つかった話を、福島の友達にすると、『そうならないために避難したのに、バカみたいだね』と言われます。
一方、先に避難した親友からは『だから早く避難しろって言ったのに、自業自得だよ』って・・・・・・・。本当に辛くて、長女と二人でずっと泣いていました」
 なおも坂本さんを不安にさせるのは、エコー診断後の二次検査の結果だ。七歳の長女の甲状腺にできたしこりと腫瘍は、他の子供に先立って二月中旬に行われた血液検査の結果「良性」と診断され、細胞組織を検査する「細胞診」は必要ない、とされた。しかし、
「エコー診断で異常が認められた場合、血液検査はあくまで参考値に過ぎない。通常は、細胞診を行わなければ、がんであるかどうか判定はできません。また細胞診自体は予防接種程度の負担で出来るもので、幼児に実施しても問題はありません」(甲状腺専門医)
 また、「良性」であったとしても、将来に深刻な不安が残るという。
「たとえ良性であっても、ウチの子みたいにしこりがあると、将来、がん化する可能性がある、と医師から聞かされました。小児甲状腺がんは非常に珍しくて、データがないんだそうです。 
 診てもらった北海道大学の先生も、今までに十四歳未満でがんになった子供を二回しか診たことがなく、『いつ、がんになるかわからない』と。でも、しこりを切除手術してしまうと、今度は一生ホルモン剤を飲み続けないといけなくなるというのです。
だから今は下の子も含めて、経過を観察するしかないんですが・・・・・・」(坂本さん)
 
〈追加検査は必要がない〉!?

 では、やはり「良性」と判断されたものの、しこりや嚢胞が発見されている福島県で検査を受けた二十六人は、本当に「安全」と言い切れるのだろうか。
 現在、福島県が行っている甲状腺検診は、原発事故当時、十八歳以下だった全福島県民を対象に、三年間をかけて一巡目の検査を行う事業である(その後、時間をおいて追跡調査を行う必要がある)。
実施するのは「検討委員会」の山下座長が副学長を務める福島県立医大だ。
原発事故後数年間の甲状腺被爆データを得られる、この調査には、非常に大きな意義があるのも事実だ。
「チェルノブイリでも、事故後五年間、被曝者のまとまった検診データは皆無でした。事故から五年後、日本の笹川財団が三十五億円をかけて調査団を派遣。ようやく住民の甲状腺の組織的な検診活動が始まったのです」(前出・甲状腺専門医) 
 山下氏も当時、同調査に加わっていた。その「チェルノブイリ笹川医療協力プロジェクト」の総括には、調査の遅れを悔やむような一文がある。
「重要なのは事故直後の放射線被曝がどの程度であったかを調査すること」(「放射線科学九九年十一月号)
 にもかかわらず、今回の福島県での調査では、原発事故直後に、住民の内部被曝の調査は行われなかった。
 山下氏は、チェルノブイリでの経験を忘れてしまったのだろうか。
 内部被曝の調査において、事故直後の測定に次いで有効なのが、現在、行われている小児甲状腺エコー検査である。しかし、ここでも専門家から取組みの遅れが指摘されている。
 福島の調査は、事故から三年をかけて一巡目が行われるというが、
「動物実験のレベルでは、被曝しても一年で発がんすることはない、という結果が出ています。
しかし、チェルノブイリで事故直後のデータをフォローしていない以上、放射線に対して感受性の高い一歳や二歳の子どもが、事故から一~二年後まで受診出来なくても大丈夫だと言いきれるかは疑問。
子どもたちや保護者などの不安を軽減させるためにも、早期検査が望ましいことは言うまでもありません」(甲状腺学会関係者)
 しかも、福島では甲状腺エコー検診を受けても、エコー写真を見せてもらうこともできない。子供たちの健康を守り、不安を取り除くよりは、研究データの収集に重点が置かれている気がしてならない。 
 さらに問題なのは、福島県内ではセカンドオピニオンを仰ぐことすら困難であることである。しかも、それは、座長である山下氏自ら「検査を受けないよう」働きかけているためなのだ。
 一月十六日、山下氏は全国の日本甲状腺学会員宛てに、次のようなメールを送った。
〈一次の超音波検査で(中略)五mm以下の結節や二十mm以下の嚢胞を有する所見者は、細胞診などの精査や治療の対象にはならないものと判定しています。先生方にも、この結果に対して、保護者の皆様から問い合わせやご相談が少なからずあろうかと存じます。
どうか、次回の検査を受けるまでの間に自覚症状等が出現しない限り、追加検査は必要がないことをご理解いただき、十分にご説明いただきたく存じます〉
 
従来の常識が通じない可能性も

 つまり、いま甲状腺にある程度の異常が見られたとしても、"一巡目"が終わるまでの二年間は追加検査を受け付けるなというのである。実際、福島県内で追加の甲状腺検査をしようとしても、「福島県立医大に行け」と門前払いされるケースも出ているという。
 坂本さんがこんな疑問を投げかける。
「二年間待たされている間に、がん化したらどうするんでしょう?ウチの下の子は二歳で、いまは良性だけど、北海道大学病院では、どう急変するかわからないから半年ごとに診察しよう、と言われました。福島ではこういう診察が受けられないということですよね」
 別の甲状腺専門医もこう警鐘を鳴らす。 
「従来の理論では、一~二年ですぐに嚢胞やしこりは大きくならないかもしれない。しかし、あくまでそれは『これまで普段見てきたもの』を基準にした場合です。原発事故が起こった今、『今まで見たことがないもの』を見ている可能性がある。従来の基準が絶対とはいえないのでは。
 ただ、むやみに危険をあおり、安易に異常部分を切除してしまうのもいけません。甲状腺を摘出すれば、ホルモン剤を飲み続けなければいけないことに加え、不慣れな医師による手術で声帯に傷がつき、声が嗄(か)れてしまうケースもあります」
 大切なことは、セカンドオピニオンをとり、甲状腺の状態を小まめにフォローしておくことだ。
 その意味で、はたして個人の受診機会に制限を設ける福島県のやり方は正しいと言えるのか。
 郡山市で講演を行なっていた山下氏を直撃した。

__福島から札幌に避難している四歳の男の子に十ミリと四ミリの結節、七歳の女の子に八ミリの結節が見つかりました。

「それは、画像見ないといかんな。今出たっていうこと?」
__はい。

「それは、ある一定の頻度で出るということでしょうね。何万人に一人という」

__約百四十人のうち二人なのですが。

「データを見ないとわからない」
__三年かけて検診している間に、受診を待たされて甲状腺がんが見過ごされるような小児が出た場合、責任をどう取られるのですか。

「よくわからない。責任という言葉は問題です。おかしな発言ですね、今のは」

__追加検査を控えるよう、メールも出していますね。

「はい。学会のホームページにも載っていますよ」

前出の札幌の内科医は、こう訴える。
「今までに我々が蓄積した広島や長崎やチェルノブイリの知識からは想像がつかないことが起こっている可能性がある。従来の常識から外れるからありえない、と決めつけるのではなく、今いる子供たちの事実から物事を考えたい。医者の真実は患者の側にある。
甲状腺エコーは一日でも早く行なったほうがいい」
 坂本さんも言う。
「私の子は二人とも女の子です。この子たちが無事でも、次に生まれてくる子供たちの事まで考えないといけない。この子たちを守るのも自分の役目だけど、その後の将来も守ってあげなきゃって思った時に、避難する決心がついたんです」
 今、求められるのは、現実を直視する勇気である。

(転載貼り付け終わり)

加地 龍太 投稿日:2012/03/20 21:08

【809】[918]キネシオロジー体験講座で学んだこと

「副島隆彦の学問道場」学生会員 会員番号7416番
加地 龍太(かじ りょうた)です。
以下「~だ。~である。」調にて、本日3月20日に参加した「キネシオロジー体験講座」で学んだことを記載します。

キネシオロジー体験講座にて、キリスト教において「人間関係の天使」とされている「メーア」のカードを引いた。
メーアは、同じような志を持った人間をまず3人出会わせ、繋げる仕事をしている天使だという。

このメーアのカードを引いたということは、「同胞を集めよ。」という天命(天からの命令)だと感じた。
私の天命を支えてくれる同胞を集めるべきだと考えた。

そして、人間関係の基本は支え合いだ。
リバータリアン派の実業家を目指す私の立場としては、主体は「個人」である。
私と同じような志を持った人物が私と繋がった場合、私も形而下的=現実的に可能な限りで、私の同胞の天命を支える。

何かご意見がありましたら私のアドレスにメールを送って下さい。
「同胞宣言」も「この野郎、何を言ってやがる的な意見」も歓迎します。
宜しくお願いします。

加地 龍太 拝

副島隆彦 投稿日:2012/03/18 02:02

【808】[917]革命思想家 吉本隆明(よしもとりゅうめい)の死 に 際して

副島隆彦です。 今日は、2012年3月17日です。

昨日16日の朝の2時13分に、思想家の吉本隆明(よしもとりゅうめい)が死んだ。
 
私は、吉本隆明の死を以下のネット記事で知った。この知らせを聞いた初めは何の感慨も湧かなかった。ついに吉本さんも死んだか、87歳だ、と思っただけだ。

 私は、今も吉本主義者(よしもとしゅぎしゃ)である。
 私は、自分が18歳の時(すなわち今から丁度40年前)から、ずっと吉本主義者だ。このように公言して憚(はばか)らない。私は、吉本から多くを学んだから、ウソをつかないで本当のことを書いてきた知識人だ。他の多くのうそつき有名知識人たちとは違う。

 私は、この吉本主義者という、自己規定を隠したことはないしそのように表明してきた。 他の言論人たちで、今、自分の内心に恥じることなく、このように言える者はいないはずだ。 皆、ある時期に、歴史的な事件のあるごとに、吉本を批判し、裏切った者たちだ。

 以下の新聞記事にあるとおり、吉本は、私たち60年代、70年代世代の 政治発言を嫌(いや)がらない政治青年たちに、圧倒的な影響を与えた。 私はこのことを今になっても隠さなさい。吉本隆明の本をついに全く理解できなった、新左翼のくせに、頭の悪い人間たちもたくさんいた。

吉本は、激しい論争をしたとき、かつて書いた。「民衆とは何か。それは、私の本なんか読まない人たちだ。だが、お前の本も読まないよ」 と相手に言った。

(転載貼り付け始め)

●「吉本隆明氏が死去 よしもとばななさん父 戦後思想に圧倒的な影響 」

スポニチ  2012年3月16日 (金) 6時49分配信

■2010年、東京都文京区の自宅でインタビューに答える吉本隆明氏

 文学、思想、宗教を深く掘り下げ、戦後の思想に大きな影響を与え続けた評論家で詩人の吉本隆明(よしもと・たかあき)氏が16日午前2時13分、肺炎のため東京都文京区の日本医科大付属病院で死去した。

 87歳。東京都出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長女多子(さわこ、漫画家ハルノ宵子=よいこ)さん。今年1月に肺炎で入院し、闘病していた。次女は作家よしもとばななさん。

 1947年東京工大卒。中小企業に勤めるが組合活動で失職。詩作を重ね、「固有時との対話」「転位のための十篇」などで硬質の思想と文体が注目された。戦中戦後の文学者らの戦争責任を追及し、共産党員らの転向問題で評論家花田清輝氏と論争した。

 既成の左翼運動を徹底して批判。「自立の思想」「大衆の原像」という理念は60年安保闘争で若者たちの理論的な支柱となった。詩人の谷川雁氏らと雑誌「試行」を刊行し「言語にとって美とはなにか」を連載。国家や家族を原理的に探究した「共同幻想論」や「心的現象論序説」で独自の領域を切り開き、「戦後思想の巨人」と呼ばれた。

 80年代はロック音楽や漫画、ファッションに時代の感性を探り、サブカルチャーの意味を積極的に掘り起こした「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」を刊行。時代状況への発言は容赦なく、反核運動も原理的に批判した。

(転載貼り付け終わり)

 副島隆彦です。 私は、自分の人生に決定的な影響を与え続けた吉本隆明という人の死に際して、これから書くべきことをすべて書いて公表しよう、と思う。彼の死から丸2日がたって、そのように思うようになった。それは、私一人の思い出話ではない。その内容は、日本国民にとっての公共領域(パブリック・ドメイン)における公共の課題(パブリック・インタレスト)に関わる大事なことばかりだ。だから、すでに ここの学問道場の掲示板の 下の方で予定しているとおり、 来たる6月2日の 「政治思想、政治の歴史 講演会」で、思想家・吉本隆明 のことも しっかり話そうと思う。

 私は、今、不愉快である。むっとしている。
さっき、ようやく新聞各紙の吉本への訃報(ふほう)の記事と追悼コメントをひとおおり、読んだ。それで不愉快になった。 皆、いい気なもんだなと思った。

 どの新聞も一様に、ひとしなみに、「戦後思想に大きな影響を与えた思想家の死」 と横と並びで書いていた。それでおしまい、か。死者を鞭(むち)打つ必要はない、か。あれほど吉本の言論の存在を嫌った者たちが。自分たちの悪の所業を言われることを、いやがった者たちが。

 私は、はっきりと書く。 吉本隆明は、”過激派の教祖”と呼ばれた人物である。そして、本人は、このことをあまり好かなかったと思う。しかし、遠くから仰ぎ見るようにして、吉本の本を熟読し(この40年間で、その冊数、実に300冊を超える)、吉本が話す講演会に機会をとらえて参加した自分がいる。だから、私はそれらの訃報記事を読んで不愉快になった。

 浅田彰(あさだあきら)は、なぜ吉本の死に際して、従来通り、一言はケンカを売らないのだ。
 
 吉本隆明は、たしかに文学者であり詩人であった。本人もそのようにして穏(おだ)やかな渡世(とせい)を一面ではしたかっただろう。だが、吉本の半分の顔は、明らかに革命家の顔でありつづけた。 そして、それは、日本で民衆革命に何度も 失敗した失意の革命家の人生だった。
 
 彼は、この50年間に、おのれの激しい言論のために、事あるごとに、孤立し、保守・体制派どころか、左翼、リベラル系のあらゆる政治勢力からも忌避され、いやがられ、政治言論人としては、おのれの思想と見識を堂々と発表する機会と場を奪われ続けた、日本で一番すぐれた政治知識人(ポリィティカル・インテレクチュアル)だった。 

 この吉本の 深い孤立感と「これでは 自分が筆一本で食べてゆくのさえ、なかなか困難だ」という生活者としての恐怖感を、私はいつも肌身に感じて、彼のそばで見ていた。 

 吉本は、日本共産党や、社会党や、その他の大きな労働組合とか、社会団体とかから、忌避されて、自分の言論の影響力が、なかなか大きく外側に、一般国民のところにまで、届かず、広がらないで封殺されることへの焦燥感と、苛立ちをずっと持っていた。彼の表面の穏やかな物腰の、誰に対しても温和な達観(たっかん)の姿とは程遠いものだった。 革命が挫折し続けたことへの、絶望感をずっと、彼は背負い続けた。吉本の悲劇はいつもそうして有った。私は、ずっと彼のこの姿を目撃していた。吉本は、明らかに日本のカール・マルクスだった。

 いつも大衆のいるところにいて、大衆と共に生きて、大衆の愛するものを愛して生きた人だった、と皆、声をそろえて、彼の死後になって、吉本を形だけ称賛するが、なあ、おまえたちよ。 

 たしかに、吉本が言った「大衆の原像へ向かう生き方」は、私たち吉本主義者の教理(きょうり)の一つだ。「共同幻想の解体」と、「擬制(ぎせい)の終焉(しゅうえん)」などと共に吉本思想の柱を成すものだ。 だが、日本の大衆が勝利することは一度もなかった。最近の小沢一郎革命(国民のための無血革命)も同じような感じで、いまにも圧殺されそうな感じだ。 私たちが感じるのは、またしても激しい幻滅と絶望感だ。

 民衆革命、民衆・国民のための政治革命は、いつもいつも敗れて、敗北して、今に至る。 だから、本当は革命家であり、敗北した革命家としての吉本隆明の、真の姿を、私は、この40年間ずっと見つめ続けたと、吉本の同行(どうぎょう)の衆(しゅう)としても言える。

 終始一貫して過激な言論人であった吉本隆明の発言や思想表明は、ほとんど国民大衆にまで届かず、理解されることなく、いつも、いつも日本の悪辣(あくらつ)な大メディア(テレビ、新聞)から意図的に、隅に追いやられ、どかされ、忌避され、押しつぶされてきた。

 吉本の言論と発言が、あらゆる議論の最中に、圧倒的に強力であり、正当であり、正義であった。 だから、日本の公共言論(商業メディアと体制メディアを含む) は、吉本隆明を心底、毛嫌いし、敵対視し、危険視して、彼が大衆、国民に影響を与えることを、封殺した。自分たちが国民をあやつり、欺き、洗脳し、上から押さえつけている、この国の支配者なのだと、自覚していたからだ。 

 吉本の激しい孤立感と焦りを、私は何度も近くで見ていた。

 吉本隆明は、300冊以上もの本を書いた(対談本や講演記録を含めて)人だから、日本国でもっと正当な評価と、有力な立場を占めるべき人だった。彼は、呼ばれれば(招かれれば)どこへでも行って、どんなことに対しても、「状況への発言」をし、おそらく 国会の場へでも出て行って、そして、その場から、日本国民に、大声て、必死に真実を訴えかけたかった人なのだ。そして国民が自分たち自身のために、決起すべきことを。私には、そのことが痛いほどわかる。

 本がたくさん出ていたから、それなりにも認められていたのだから、それで、いいじゃないか、と冷淡に人々は思うだろう。 それでは済まないのだ。問題は、吉本一個の生き死にのことではないのだ。 

 吉本隆明は、この国で、不当に低く取り扱われた、不遇の言論人だった。そして本当に不遇に終わっていったのだと、私は断言する。

 今はすっかりアメリカの手先になりはてて変質をとげた朝日新聞は、岩波書店もそうだが、吉本隆明に40年間、絶対に、書かせなかった。徹底的に無視し続けて干しあげた。全く発言させなかった。1960年安保闘争のあとから、ずっとそうだった。 以来、52年間になる。彼の言論を、日本のメディアは完全に封殺した。吉本の方が、あらゆる政治問題、社会問題において、発言を拒んだことは一度もない。

 ただひたすら、発言させなかったのだ。 それなのに、吉本が70歳を越して、1996年(16年前)に海で溺(おぼ)れて病気になって、体が弱くなったと見たら、吉本に近寄って、ほんのすこしだけ発言させるようになった。もうそろそろ牙(きば)も毒気(どくけ)も抜けて、自分たちに、襲いかかってくることはなくなったろう、と踏んで。

 本当の 危険思想家であり、生来の 過激派の言論人である吉本の発言を、そのまま全部、はっきりと掲載する商業出版物は無かったのだ、と私は思う。吉本が死んでから、「戦後最大の思想家だった」という献辞を一様に訃報として、新聞各紙は書く。が、彼らこそは、日本の民衆革命を圧殺した側の、張本人たちだ。自分たちが、日本国をあやつる支配者、権力者の側にいることを、彼ら自身はよくよく知っている。その中の、個々の記者や編集者が、自分は 善良であり、善意であり、吉本の思想をよく理解した、などというふりなどしてみても、何の言い訳にもならない。

 日本の戦後もまた、ずっと裏切られた革命と、民衆の生活苦と、喘ぐように生きるサラリーマン大衆の苦しい日常が続いている。自分がいつ会社を首になるか分からない恐怖感の中で、大企業エリート社員たちまでが、脅(おび)えなら生きている現実が続いている。ちっともいい国にはならなかった。

 過激派の教祖として、永遠の革命家(マルクス・レーニン主義者)として生きた吉本隆明が、不遇のまま終わった、というのは、それはそれで当然のことだ、という冷酷な判断も一方でなりたつ。戦いに負けた方の人間なのでありその理論指導者だったのだから。

 日本の戦後を生きた すべての政治知識、政治運動への関与人間たちは、すべて敗北者であるのに、その自分たちの敗北を今も全く、自覚せず、その責任を感じて引き受けようとした者は今も少ない。どうせ頭の鈍い人間たちなのだ。自分のことしか眼中にないで、ペラペラと話す者たちだ。 この吉本が言った、「敗北の構造」を抱きしめたまま、私たち吉本に後続(こうぞく)する世代までが、無残な夢破れた、あれこれの政治参加のあとの、慙愧の無念の 残生(ざんせい)を生きているのである。

 私は、もっともっと吉本隆明について、彼の死を契機にして、書きたいことがある。追い追い書いてゆく。それに連れ添う一人一人の同時代の日本知識人たち(今や、私の同業者たちだ)への素描や、厳しい評価もこれから書いてゆく。私は、なにごとも隠さないで自分が知っている限りのことを正直に書いて残してゆくつもりだ。

 吉本が死んだ知らせを受けて、私は、すぐに彼の家に行こうと思った。が、親しい編集者から「家族だけで、ひっそりと葬儀をするそうだ。騒がないで静かにしていてほしい」と言われたので、私は、吉本隆明の家に弔問に行く時間を昨日、逸した。 ところがその編集者は、自分は吉本の家に上手に入って、吉本の死に顔を、昨晩、拝んでいるのだ。しまった、と私は思ったがもう遅い。他の編集者たちは、メディアの人間たちと一緒に吉本の家の前で、ずっと昼過ぎまで立っていたという。 

 その人からも話は聞いた。 そして自分の知るかつての吉本主義者たちに、連絡を取ってみた。が、ほとんどは、もう耄碌(もうろく)ジジイになり果てていて、自分自身が、70歳が近くなって、身動きが取れないような状態の者ばかりだ。老いさらばえたかつての活動家たちの姿だ。

 今日17日の夜がお通夜で、明日が告別式(葬式)だと聞いた。どこの斎場で式が行われるのかも、まだ分からないが明日は、私も出かけてみようと思う。

 死者を送る、野辺送りが、「本人と家族の意思で、そっとしておいてほしい」ということであれば、そのようにしてあげるのが、たしかに思慮のある人間の取る行動だ。しかし、本当にそれでいいのか。 吉本隆明の遺体(死体)は、その家族(遺族)のもの(所有物)であるから、その処分の判断に従わなければどうせ済まない。 吉本隆明自身は、「家族葬か、出来れば町内会の主催でやってほしい」と言っていたという。もうそういう時代でもない。

 だが、密葬で、家族・近親だけで静かに執り行いたい、と言われて、はい、それに従います、というだけでは、私はどうも済まない気がする。公人(パブリック・パーソネッジ public personage )には、公人としての 果たすべき役割がある。いくら敗北した民衆革命の悲劇の指導者、革命家の死であると言っても、ひっそりと済ませて、葬儀の場所も公表しない、ということでいいのだろうか。

 すすんで自分も葬儀に参加したい、というかつての吉本隆明の本の熱心な読者たちを葬儀場に受け入れるだけのことは、するべきではないのか。 往年の吉本主義者たちは、今は、もうほとんどが65歳以上のジジイ、婆(ばばあ)たちだ。それを全共闘世代(ぜんきょうとうせだい)という。 

 そういう人が、まだ少なくても一万人ぐらいは生きている。 私は、今58歳で、吉本主義者の下限の年齢の人間だ。本当に私より若い歳の人間で、過激思想家・吉本隆明に のめり込んだ者はあまりいないはずだ。糸井重里(いといしげさと)と坂本龍一(さかもとりゅういち)でも私より数歳は、上だ。

 社会的に公人(こうじん)の死者の死体(遺体)は、本当に家族、血縁者たちだけの所有、処分物でいいのか、と私は思う。 言論人、作家、芸能人 も民間人であるから、公職にないから、私的な私人としてのひっそりとした死に方を選ぶなら、それでいい。 だが、敗北した民衆革命の偉大な思想家の死 を(そう思う人たちが現に、一万人ぐらいは今もいる以上 )それを、国民的な課題として大きな葬儀が行なわれない、というのは、私は、どうも間違った考えだと、今、思うようになった。

 死んでしまった吉本を、偉大な思想家でしたと、称賛するだけなら、それは口先だけのことだ。ふざけた連中だ。 しんみりとしてみせるだけの、自分が温厚で、世間体(せけんてい)と秩序を大事にする常識人として振る舞いたいだけの 偽善有名人たちの 偽善者の追悼のコメントを、私は、読んで、本当に腹の底から不快がこみ上げた。 

 石原慎太郎というアメリカへの買弁(ばいべん)人間の元文学者 ( 三島由紀夫とは比べ物にならない、愚劣な、反革命の右翼人間だ )までが、吉本を褒めて追悼していた。吐き気がする。どうして、石原は、あれほど毛嫌いしたはずの、敵の吉本を、褒めるのだ。お前は民衆を毛嫌いする反革命なのだ。それが、死者を弔うに当たっての、大人の態度だからということになるの、か。本当に、ここまで悪質な完全な政治人間にまでなりあがったものだ。自己愛しかないくせに。

 今の、ひどい不況下(本当は恐慌のさなか)の日本では、「もう葬式はいらない、戒名(位牌、いはい)もいらない、坊主のお経もいらない、墓もいらない。骨は砕いて草木に撒けばいい(樹木葬)」という時代である。そういう本が、何冊も出て理解者を増やしている。

 ごくごくの近親者だけの、内密の密葬(みっそう)で家族葬だけでやっておしまい、というのは、一般人の場合は、それでいい。もう葬式どころか、家族もいなくて、アパートで孤独死して、死体を市役所の職員が片づけに来る、という死に方が増えてゆくだろう。 だが、吉本隆明までも、そのような貧しい庶民の葬式でいいとは、どうも私は納得がゆかない。 一切の華美で派手な形だけの葬式は、もう贅沢で醜悪なだけだ、という時代なのか。
 
 だが、私は、この考えと風潮に逆らう。そのようにたった今、決めた。
吉本隆明の魂(たましい)を十分に引きずっている私は だからこそ自分の葬式は、公然と、きちんとやってもらおうと思う。今のうちから家族(奥さんと息子)と、それから弟子たちに頼んでおく。これからその手順の希望を彼らに提出する。
 
 自分の死体が、病院から出されたら、そのまま葬儀場(メモリアル・ホール)に運んでもらって保冷剤で冷やしたまま、3日間、通夜と告別式まで、ずっとそこに置いて、棺桶の中の死体を、衆参者に見せるべきだ。
 それが世界基準(ワールド・ヴァリューズ world values )の葬式というものだ。 だから私の場合は、3日間の間、葬儀場に死体があるから、時間の都合のつく人で来たいという人には全員来てもらいたい。そして、そこに、そまつな食事と安い酒をふんだんに準備して、盛大に3日間、宴会をやってほしい。葬儀場は料金さえ払えば、これぐらいは当然してくれる。

 そこには、私の筆で、「ここでは余計な話はしないで、副島隆彦のことだけ話してください。悪口はいくら言ってもいいです。マイクを準備しておきますから、発言したい人はどんどん発言してください 」 と書いて遺しておこうと思います。それが、人が集まってこその葬式(野辺の送り)というものだ。
 
 私は、今、「阿弥陀如来(あみだにょらい)と、観音菩薩(かんのんぼさつ)と、弥勒菩薩(みろくぼさつ)というこの3人の ”女神”は、一体、何者なのだ。どこから来た人たちなのだ。お釈迦様(ゴータマ・ブッダ)と別人じゃないか。

 本当は、イエス・キリストの奥様だった、マグダラのマリアさまだろう。この2千年間、ウソばっかり、民衆に教えるなよ」という本を書いている。この本は、絶対に夏までに出す。

 阿弥陀さま、観音様に、すがりついて「助けてください。助けてください。私たちを、動物みたいに残酷に扱わないでください」 と、「弥陀(みだ)の本願(ほんがん)」にすがりついた、貧しい民衆を、キリストも 釈迦(ブッダ)も 「よし。助けてあげよう」 と、必死で闘った。 ・・・・そして、実は、民衆を救済(サルベーション)することは出来なかった。 

 裏切られた革命だ。 人類の歴史は、そのようにして、ずっと悲しく、みじめに続いて、今に至る。 吉本隆明は、この他力本願(たりきほんがん)の、浄土門 の親鸞上人(しんらんしょうにん)の 、民衆救済 の思想を生きた思想家だ。 

 それに比べて、中国で、7世紀に起きた 禅宗(ぜんしゅう)は、日本にも伝わったが、その本態、本性は、小乗(しょうじょう、ヒーナーヤナ)仏教であり、「民衆の救済などできない。ありえない。自分一人を救済するための修行に打ち込め」という自力(じりき)の思想の、いやらしい エゴイズムの仏教である。こっちが金持ちと、支配者のための仏教となる。 

 この世は、自力(じりき)だけであり、他人の救済など知ったことではない、という悪意の 十分に、真この世の、大人(おとな)たちの支配する世の中である。

 私は、吉本隆明から、40年間、学ぶだけ学んだから、何でも受け継いでいる。 吉本隆明を支えた革命への幻想、あるいは幻想の革命 から、少し離れて1994年からは、自分の足で歩き始めた。革命はもう無いあとの、自分の生き方を必死で切り開いた。ここでは、私は、自力本願に学んだ。 

 だが、それでも、私、副島隆彦もまた、吉本の後に続いて、最期まで、民衆救済のための知識人、言論人として生きて、死んでゆこうと思う。 

 自分は、権力者や支配者の冷酷な自力(自分だけの救済で十分だ)の思想の方には行かない。だから私のために、集まってくれる人が集まって、私の葬式をにぎやかにやってもらいたい。 

 日本が生んだ悲劇の民衆思想家として、その恵まれず、かわいそうだった 吉本隆明 の魂を、私は引き継いで、ひきずってもうあとしばらく生きよう。そして、次の世代に、日本における 真の過激派の思想 というものの 強靭な遺伝子をあとに繋(つない)いでゆく。この灯を消すわけにはゆかない。  

追悼、吉本隆明 先生 。

副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

● 「 時代と格闘したカリスマ 若者を引きつけた吉本思想  」

2012年3月16日 スポニチ 

 16日亡くなった評論家吉本隆明さんは、常に時代と真正面から向き合い、格闘を続け、鋭い言論で若者たちに大きな影響を与えた「カリスマ」だった。

 既成の左翼運動を徹底批判して新左翼の理論的支柱になった吉本さん。1968年に刊行した「共同幻想論」は難解な思想書でありながら、全共闘世代の若者に熱狂的に支持され、同書を抱えて大学のキャンパスを歩くのが流行した。

 高度消費社会を積極的に評価した80年代には、女性誌「アンアン」にコム・デ・ギャルソンの服を着て登場。その姿勢を批判した作家埴谷雄高さんと資本主義や消費社会をめぐって激しく論争した。

 若者を引きつけた吉本思想の根底には、一般の人々の生活を立脚点とする「大衆の原像」と呼ばれる理念があった。「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に繰り込んでいくこと」。自らも含めた知識人の思想的課題をこう定めた吉本さんは、60~70年代の新左翼運動でも、消費社会化という時代の転換点でも、常に「大衆」と共にあった。

 戦後知識人の転向問題からアニメ「新世紀エヴァンゲリオン」に至るまで、批評の対象は驚くほど多岐にわたり、文学も思想もサブカルも同列に論じた。残された数々の著作は、一貫して時代と格闘し、「大衆」と共に歩んだ「知のカリスマ」の足跡でもある。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

副島隆彦 投稿日:2012/03/14 11:47

【807】[916]次の3つの企画のお知らせと、私の近況報告。

副島隆彦です。 私が、前回ここに、ようやく春らしくなった、と書いてからすでに20日が立ちました。 日本の気候は、なかなか暖かくなりませんでした。 こんなにみぞれ混じりの寒い日が続くとは、思いませんでした。 私は、自分の持病の慢性気管支炎で、寒いこの時期は体調がよくないです。

昨日、ここの今日のぼやき の広報ページに 3つのことをお知らせしました。
(1)4月の末の、 連休の初めの3日間、福島の現地で、「福島難民キャンプ見学ツアー」を開催します。 会員の皆さん、来れる人は来てください。あれから丁度、一年ですが、福島に一度は行ってみたいという人は参加してください。私が、つきっきりでバスガイドをやります。 今日のぼやきの方を読んでください。

(2)は、6月2日(土)に、東京の真ん中の会場で開く、200人限定の政治思想、政治の歴史の講演会をやります。 これには政治問題に関心のある会員だけ集まってください。 質問も歓迎します。私は、この10年、ずっとやりたいと思っていた講演会です。 

(3)は、今、書店に並んできる 発売されたばかりの 私の弟子のひとりの医師で、すでに数冊の医療問題、健康問題の本も書いている 崎谷博征(さきたにひろまさ)君が、身を振り絞って書いた『医療ビジネスの闇』(学研)という本のご紹介です。崎谷くんは、

この学問道場で、「近代医学・医療掲示板」の管理人をやっています。 彼が、現在の日本の医療が陥っている地獄のことを 詳しく書きましたので、関心のある人は買って読んでください。

 さて、私は、2月の末まで、マレーシアとシンガポールに金融問題の調査の旅行に行っていました。 いろいろと勉強になりました。 日本人の大金持ち(富裕層)の一部は、本当に日本から逃げて、すでに外国に自分の住居を作っています。「放射能コワイコワイ」と 次の地震がコワイので、カナダやヨーロッパに逃げた人たちもいます。が、やはり、東南アジアの諸国に逃げて、ゆったりと暮らしている人たちがいます。彼らに私は、つてを頼って会って、インタビューをして来ました。 

 それからシンガポールの金融や投資の現状を視察してきました。これらのことは、5月の連休前までには出版しなければいけない、私の次の金融本に書きます。待っていてください。

 ちょっとぐらい円安(円高にはなかなかならない)になろうが、仕組まれたヤラセの株高の演出だろうが、ヨーロッパの金融危機の無理矢理での、CDS実行せずの、インチキの強引な解決だろうが、権力者どもが勝手にやるがいい。どうせそのうち爆発が起きます。 

 まあ、見ていなさい。というのが、私、副島隆彦の態度です。 まさしく、まあ、見ていなさい。です。

 私が日本に居ない間の2月の末に、AIJ(エイ・アイ・ジェイ)という投資顧問会社が、預かった運用資金の2000億円を 吹き飛ばしている事件が、突然、浮かび上がっていました。 このAIJ(経営陣はすべて 野村證券の元社員たち)なるバクチ屋に大切な 年金資金 や共済掛金を預けていたのは、新聞に載っていたとおり、全国の各県の トラック業者や タクシーの運転手たちの 年金団体などでした。ひとつの業界団体で、50億円から70億円ぐらいが吹き飛んだ、となっています。最新の記事を一本だけ載せます。

(転載貼り付け始め)

「AIJ投資顧問、今月中にも強制調査へ」

TBS=JNN 2012年 3月13日(火) 配信

 「AIJ投資顧問」による巨額の年金消失問題で、証券取引等監視委員会が今月中にも強制調査に乗り出す方針を固めたことがわかりました。

 AIJ投資顧問をめぐっては、全国の年金基金などから集めたおよそ2000億円の大半がなくなっていたことがわかっていて、金融庁では、AIJに対して出していた業務停止命令が今月23日で期限を迎えるのを前に、AIJの登録を抹消することを検討しています。

 これを受けて証券取引等監視委員会では、月内にも金融商品取引法違反の疑いで強制調査に乗り出す方針を固めたことがわかりました。

 容疑には契約時、顧客にウソの説明をすることを禁じた金融商品取引法の「契約に関する偽計」が適用される見通しで、証券取引等監視委員会は刑事告発も視野に調査をすすめる方針です。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。この AIJなる、誰も聞いたこともない投資顧問会社に、自分たち貧しい運転手たちの年金団体が、資金の運用を頼んだ、ということは、その背後に、「ここに任せれば、安心して高利回りの 収益が出るよ」と 唆(そそのか)したと言うか、強く推薦した者たちがいる、ということだ。

 それは、これらの企業年金・共済団体に 天下っている 社会保険庁・厚労省の 幹部公務員たちだけではない。それよりも、もっと上の、それこそ、財務省と金融庁の幹部どもが、こういう投資業を営んでいるのだ。 汚(よご)れているのは財務省や金融庁(その一部が、証券等監視委員会。金融庁のあるコモンゲート・ビルの中のある) のである。

 それなのに、自分たちが、監督庁だから、ということで上記の記事のように、「厳しい監督を行う。刑事告発も辞さず」などと、自分たち自身の汚れた実態と実体を覆い隠そうとする。 これらの大損した 企業年金の自主運用団体のせいで、トラックやタクシーの運転手たちは、40年近く年金を掛け続けて、やれやれ 20万円ぐらいは毎月、老後の年金がおりる、と思っていたら、それが、おそらく月10万円に減らされるだろう。 厚生年金への拠出義務のお金もどうせ払っていない。業界がやせ細っていてとても払えないのだ。

 金融庁と 証券取引等監査委員会は、このAIJにこれまでの8年間の間に一度も監査に行っていないとバレてしまったそうだ。 運用の大失敗(2008年のリーマン・ショックの時期の大損に決まっている)を見破れなかったもなにも、自分たちのOB官僚たちが天下っているのだから、とても、手が出なかったのだろう。

 金融庁は、よごれまくっている自分たち自身を、刑事告発したらいいのだ。

 どうせボロボロと実態は明らかになる。 こんな AIJなどという チビコロの資金運用会社などの たった2000億円ぐらいの損失が明らかになった程度で、済むはずがない。もっと大手の証券会社や、信託銀行などの、年金資金の運用の大失敗の実情が、これからつぎつぎと明らかになる。

副島隆彦です。今日あと、私が書いて置きたかったのは、 週刊文春の 捏造(ねつぞう)記事の件だ。たしか、私が、マレーシアに出発する直前の新聞各紙に、でかでかと、週刊文春の 宣伝が出ていた。 それは、以下の記事にもあるとおり、

 「『週刊文春』3月1日号 (副島隆彦注記。ということは、その一週間前が発売日だから、2月の23日だったろう。) は 「衝撃スクープ」

と銘打ち、「郡山 4歳児と7歳児に『甲状腺がん』の疑い!」と報じた」

なのである。 週刊文春 またしても、よくもやりやがったな。と、私は、その週刊誌のデカデカの大文字の広告を見て、苦虫を噛み潰した。 この 週刊誌記事は、すべて 誤報(ごほう)どころか、大嘘つきの、嘘八百の 捏造の 扇動記事だった。そのことは、すぐに判明して、ネット上に、週刊文春を 非難する情報がたくさん出たらしい。 私は、直後にはそれらの情報を追いかけていないので知らない。

 福島の郡山市(原発から50キロ。福島県で一番大きな市)で、「4歳児と7歳児に甲状腺がんの疑い」などと、報道したら日本国民が、また青ざめるではないか。
・・・・そして、それは、すべてウソだった。 文春は、今も、謝罪の広告も出さないし、社長が記者会見して、「誤報を報道して申し訳ない」と誤ってない。

 文藝春秋というのは、ここまで堕落した、謀略出版社である。1973年に愛国政治家・田中角栄を政治スキャンダル攻撃で、葬るために、「金脈問題」「ロッキード裁判」で謀略の報道やって以来の、ゴロツキ出版社だ。自分たちでは、高級一流出版社だと思い込んでいる。 私は、週刊文春を、週刊新潮と併せて、”ウイークリーCIA (週刊CIA 日本版)”だと思っている。とんでもない売国奴どもだ。日本国民を、脅(おど)して喜んでいるような マゾヒストどもだ。 そのうち 日本国民から嫌われて倒産、消えてゆくだろう。

 福島の現地では、誰一人として、放射能のせいで発病したものはいない。子供も赤ちゃんも元気だ。お金に余裕があって、他県に逃げたい人たちは逃げ出せばいい。みんな元気なんだ。 この現状を、気になる人は、皆、自分の目で現地まで見に来なさい。 現地に一度も来もしないで、遠くの方から、「危険だ、危ない、そのうち発病する」などと、バカことを言っているな。

 自分自身の脳が、どれぐらい洗脳されているか、すこしは自分自身に向かって語りかけ省察(せいさつ)したらどうか。

(転載貼り付け始め) 

「 週刊文春「郡山2児に甲状腺がん疑い」で検査した医師困惑 」

2012年3月5日 週刊ポスト 誌 小学館 配信

週刊ポスト 2012年3月16日号

 2月23日、テレビ朝日『報道ステーション』が、緊急時避難準備区域だった福島県南相馬市内の歩道の所々に黒い藻のようなものが発生し、そこだけが高い放射線量を記録していると報じた。これ以外にも、無責任に危険性を煽りまくるメディアが後をたたない。

 その中でもお粗末だったのが『週刊文春』だろう。3月1日号では「衝撃スクープ」と銘打ち、「郡山 4歳児と7歳児に『甲状腺がん』の疑い!」と報じた。

 概要はこうだ。
札幌市内の内科医らが、福島第一原発事故に伴う放射能の影響を調べるため、市内に避難している親子309人(大人139人、18歳以下の子供170人)を対象に甲状腺検査を実施した。

 その結果、甲状腺エコー検査を実施した内科医の話として、「しこりのあった7歳女児と4歳以上の男児の2人に加え、19歳以上の『大人』9人の計11人に、甲状腺がんの疑いがある」と報じたのである。

 しかし、この表現は真実とは言い難い。

 正確には、検査を受けた18歳以下170人のうち、5ミリ以下の結節や20ミリ以下の襄胞が認められたのが30人、5.1ミリ以上の結節や20.1ミリ以上の襄胞が認められた(B 判定)のが4人である。

 これはすべて「良性腫瘍」の話である。悪性(C判定)であれば、すぐさま細胞診の必要があるが、これに該当した子供は1人もいなかった。週刊文春は、この良性の甲状腺結節 でB判定となった子供たちが細胞診を受けていないから、「甲状腺がんの疑いがある!」と言い張るのである。

 放射線科が専門の中村仁信・大阪大学名誉教授がいう。

「医学的に見て、大腸を除いて良性腫瘍(結節)が悪性腫瘍(がん)になることはまずない。真実は『診断の結果は全く問題なかった』ということ。記事の冒頭には、“今までにこんな例は見たことがありません”という医師のコメントが掲載されていますが、それは当然です。

 そもそも小さい子供に甲状腺のエコー検査をすることはほとんどないからです。検査をすれば、良性の結節が発見されることに何の驚きもない」

 さらに記事は〈7歳女児(検査当時)の小さな喉にある甲状腺に、8ミリの結節(しこり)が、微細な石灰化を伴ってみられた〉と書く。

 チェルノブイリでは、小児甲状腺がんの兆候が見られたのは、被曝から4年ほど経ってからだった。原発事故から1年も経たずに「石灰化」しているのなら、それは当然原発の影響ではない可能性が高い。

 母親たちの不安を煽るだけ煽った疑問符だらけの記事。発売後のリアクションは無残なものだった。

 エコー検査をした当人である「さっぽろ厚別通内科」の杉澤憲(すぎさわけん)医師が、弁護士を伴い文春の記事に大反論を展開。 自身のコメントについて「そのような話はしておりません」と全否定した上で「良かれと思ってやったことが、このように(記事として)出されてしまったことで多くの人を不安に陥れてしまった」と苦悩を滲ませた。

 週刊文春編集部は「記事は、福島などから自主避難した人々の甲状腺に異常が見つかったこと、その事実を受けて、現状に沿った健康被害への対策を講じる必要がある、と主張したもの」で「煽り報道とは考えておりません」と抗弁するが、記事の根幹が崩壊してしまったことは間違いない。

“面白ければ間違いでもいいや”という無責任と、科学的に正しいことと正しくないことは明確に区別されるという当然のリテラシーの欠如がはっきりうかがえる。報ステと全く同じだ。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 文春は、今も居直って、「自分たちは煽り報道をしたとは考えていません」と 居直っている。 文春のこの見苦しい態度は、厳しく糾弾されなければならない。ウソと誤報を、繰り返して、それで日本国民を脅迫し続けて、恐怖心のなかで生活させることで、この「ショック(による扇動)・ドクトリン」で、さらにアメリカによる日本人の奴隷化を、促進する気だ。その尖兵、お先棒を担(かつ)ぎ続けて、文藝春秋という買弁(ばいべん)アカ新聞は、やがて歴史の藻屑(もくず)となってゆくだろう。

 私、副島隆彦は、上の記事の中に出てくる、「放射線科が専門の中村仁信(なかむらひろのぶ)・大阪大学名誉教授」とメールのやりとりをしている。放射線の人体への影響を臨床医としても研究し続けている立派な医学者だ。こういう専門家たちの主張を、圧殺しながら、日本の 腐れ果てた テレビ・新聞・大手雑誌 たちの 国民洗脳は、続いている。

 あとは、今日のぼやき の方を読んでください。 会員の皆さん、一度は、時間を持見つけて福島の空気を吸いに来てください。何もありませんが。

 原発事故による放射能の人体への被害の問題については、私たち学問道場(SNSI)が15人で書いて出した『放射能のタブー』(KKベストセラーズ 2011年11月刊)を、ぜひ 読んでください。この本以上に、わかりやすく福島第一原発事故の真実の全体像を描き出した本はない。そのように自負します。

 それから最後に、上記の3月1日号の 週刊文春の 「 郡山 4歳児と7歳児に『甲状腺がん』の疑い!」の記事を全文、会員のどなたか、そこらの公立図書館に行って、文字おこしして、この 重たい掲示版に 貼り付けてくださいませんか。

ようやく春になって、暖かくなった。今年の冬は本当に寒くて私の身体にこたえました。 副島隆彦拝

桑原義明 投稿日:2012/03/14 03:28

【806】[915]スパリゾートハワイアンズ

桑原義明です。

3月11日に、小学生の頃から行ってみたい、と思っていた、スパリゾートハワイアンズ(旧常盤ハワイアンセンター)に行ってきました(1966年開業)。
http://www.hawaiians.co.jp/

その日は、テレビ朝日系で夕方の4時から、フラガールのドキュメンタリー番組が放送されるということだったので、その時間に行けばフラダンスを観れるのでは?と思い、福島県のいわき市に向かった。途中、せっかくだから喜多方に立ち寄って喜多方ラーメンを食べようとも思っていたのだが、立ち寄ったら最後 、いわきまで辿り付けないと判断し、スパリゾートハワイアンズに車を走らせた。
いわき湯元インターを降り、しばらく走ったところの高台に、巨大な温泉リゾート施設はあった!

日帰り用の駐車場に車を停めて、入場口を目指す。時間は3時40分だ。
入場料は、感謝企画期間(平成24年3月19日まで)だったので、1500円で入場できた(3月20日以降は3150円)。
外は寒かったので、ダウンジャケットを着た状態だったのであるが、さすがにウロチョロしている途中で、暑くて脱がざるを得なかった。
温水プールでは、老若男女、特に若者らがウオータースライダーなどを楽しんで賑わっていたのが印象的だ。
そこでは、水着(ビキニ)姿のピチピチギャルも意外といて、目のやり場には少々戸惑いを覚えたのも事実だ。
私は、エスキモーのような厚着をしていたので、「このスケベオヤジ、変態、痴漢!」くらいに思われていたかも知れないことは容易に想像できた。
もしも、警察官が近くにいたならば、職務質問を受けて任意同行を求められていた可能性すらあっただろう。
それ位、場違いな服装をして館内をウロチョロしていたのである。

そうこうしているうちに、時間は4時を過ぎているではありませんか。
温泉入浴施設のどこかでテレビ中継(フラダンスなどを)しているのでは?という期待は、見事に外してしまっていた情けない姿の自分がそこにいた。
3月の末まで、テレビの取材が入ることがあります。という張り紙が貼ってはあったのが虚しく見えたのは言うまでもない。
その近くに貼ってあるフラガールのポスターを見ると、どうやら13時30分(フラガールポリネシアンレビュー)と、20時10分(グランドポリネシアンショー)の2回の公演ということのようだ。
夕方の4時過ぎからは、何やら子供がステージに上がってレッスンやら楽器を使って体験している様子が伺えたが、帰って来て調べてみたら、「いっしょに南国タイム」という、フラガールやバンドメンバーと近くでふれあえるイベントが行われていたのだということを知った。

メチャ暑いので土産物売り場のほうに逃げ込んだ。そこは、まだ温水プール(ビーチシアター)の方よりは少しは快適だった。
ジェラートを食べ、マンゴージュースを飲んで体を冷やして温水プールのほうにリベンジするも、敢え無く挫折。
土産物売り場のほうへ退散。見る人から見れば私は不審人物だと思われていただろう(よく捕まらなかったと自分でも感心している)。
とてもじゃないが、フラダンス(フラガール)を観るまでの時間が潰せないと判断。
後ろ髪を引かれながら常盤ハワイアンセンター(現スパリゾートハワイアンズ)を後にした。

せっかく、ここまで来たのだから、小名浜港に向かった。
漁港には中型漁船を中心に停泊していたが、時間が時間(夕方の6時近く)だけに人影はまばらだった。
が、近くに鮮魚市場があり、行ってみたものの、6時で閉店(ガーン)。
夕闇も迫り暗くなってきたので、この辺で帰宅することとする。
いわき中央インターより高速に乗って郡山方面に向かう。時間があれば『福島復興活動本部』に立ち寄ろうと考えていたのであるが、阿武隈高原SAで休憩をした時点で夜8時。そうこうしているうちに、あっという間に辺りは雪化粧で道路は積雪状態。都路まで行くことは断念(次回に持ち越しです)。

桑原義明拝

加地 龍太 投稿日:2012/03/14 00:31

【805】[910]実業家=商売人としての心構え

「副島隆彦の学問道場」学生会員 会員番号7416番
加地 龍太(かじ りょうた)です。
以下「~だ。~である。」調にて、実業界の人間としての心構えを思考した文章を書かせていただきます。

私の家の近所に某神社がある。その神社はパワースポットとして凄まじく効果的だという。私には、人のオーラが見えたり霊体が見えたりする特殊能力はない。
だが、私のような凡才でも「居心地の良い場所」と「居心地が悪い場所」の判断はつく。それくらいの感性は持っている。
今日(と言っても13日)、その某神社に行ってきたが、上記の話を聞いた後に行くと何やら感覚が違った。境内に入り、一度深呼吸をしてみて判った。
空気が澄み切っているのである。「居心地が良い。」と感じた。

これは商売をするときの心構えに繋がると思った。クライアントは「居心地が良い店」に来店することを望むであろう。いかなるサービスを商品にしている場合でも、対人商売(客商売)をしている店であるならば、クライアントに「居心地の良さ」を提供するのは必須である。
私が昔から通っている床屋の人たちは、私に「居心地の良さ」を感じさせる。それゆえ、私はずっとその床屋に通い続けているのである。

「居心地の良さ」の理由は、気さくな応対とその場で働く人物たちの自分の仕事に対する誇り・意識である、と私は思う。
その場で働く人物たちが自らの仕事に誇りを持っていれば、自然とその職場の雰囲気は良くなる。私の通っている床屋の人たちは、理髪という自分の仕事に誇りを持っているので、自然と店の空気(ニューマ)が良くなるのだ。
それゆえ人が集まり、店が保っているのであると思われる。

ジョン・ダヴィッドソン・ロックフェラー1世の言葉に「成功の秘訣は、当たり前のことを、特別上手にすることだ。」というものがある。
ロックフェラー1世については、リバータリアニズム的実業を壊滅させたり、敵対するロスチャイルド系のアメリカ内資本を叩き潰して自らが所有する資本でアメリカ国内の経済が立ち回るようにする、という目的で1929年の世界恐慌を引き起こしたり、と文句は多々あるが、実業家としてはやはり超一級品の人物なのだろう。
彼の語った言葉には、納得させられることが多々ある。上記の言葉もそうだ。
丁寧な応対、気配り、礼儀正しさ、などの当たり前のことを人一倍 上手にすることが、仕事を成功させることに繋がってゆくのだろう。
私、加地龍太は、この心構えを忘れない。

何かご意見がありましたら、私のアドレスにメールを送って下さい。
宜しくお願いします。

加地 龍太 拝