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Loginはこちら【897】[1013]フフホト通信(山東省青島市から)
石井裕之が青島からフフホト通信をお送りします。
いい加減「チンタオ通信」にしたらどうだ、というお叱りのメールを頂いておりますが、自分自身「フフホト通信」に愛着を感じております。
真に勝手ながら、暫くこのままのタイトルで続けさせて頂きます。
さて、今回は青島及び煙台(山東省)、大連のレストラン事情についてです。
現在、青島では「青島ビール祭」が開催されています。
市の東側に位置する国際展示場の西隣の巨大ショッピングモールの屋上スペースを利用してのものです。さながらビアガーデンの超巨大版といった風情でしょうか。敷地内に様々なバーベキューの出店が立ち並び、ステージの上では野外コンサートが開かれております。
また、青島ビールの生ビールは最高に美味いですね。
スッキリしているのに、妙にコクがあったりもします。
これは本当にヤミツキになってしまいます。
もうすぐ世界各国のビールもお目見えするとのこと。
中国の大連方面に出張予定の人は、是非とも青島まで足を伸ばしてみて下さい。一見の価値ありです。
また、青島の市内には様々な日本料理が堪能出来ます。
居酒屋は豊富な種類を誇っておりますし、結構美味いラーメン屋もあったりします。焼き鳥、鉄板焼き、蟹料理・・・なんだ日本に帰らなくても良いじゃん。
日本に比べると安いとは言え、こちらの物価を考えると結構な値段です。
大体一人当たり5000円程度でしょうか。
それでも夜は予約を入れていないと中々ゆっくり食事が出来ないほどの人気です。
煙台では、実に美味いマグロ料理が堪能出来ます。
聞くところによると、マグロの集積基地が煙台にあるのだとか。
日本の食品加工工場もここ煙台に集中しているそうです。
贅沢な話ではありますが、トロを大皿にコンモリと並べられても、そう沢山食べられるものではないですね。
これはにぎって欲しかった。
大連は日本人が非常に多い街ということでも有名です。
二百三高地で有名な「旅順」が、観光地として去年から一般公開されているそうです。
今後は観光開発されていくそうですので、一度行ってみては如何でしょう。
野木将軍の墓もあるのだとか。
大連の街中にも、日本食レストランは沢山あります。
この間行った焼き鳥屋さんは、日本人が炭火で焼いてくれていたので、非常に美味しい焼き鳥を堪能出来ました。
私は焼き鳥が大好物なのですが、なかなか中国では美味い焼き鳥がありません。以前上海や北京で食べた焼き鳥が最低だったので、今回の大連の焼き鳥はホームランです。
大連の「勝利広場」の周りにはこういった美味い日本食レストランが豊富に存在します。
そしてそれぞれの店に共通して言えることは、どこも客が一杯ということです。
青島や大連には、店舗改装専門の日系企業が多数存在しますが、どこも仕事を山ほど抱えているようです。
今、中国の外食産業は正に「花盛り」状態なのですね。
先日、大阪の知り合いの寿司屋の大将が青島を訪ねてくれました。
この大将のにぎる寿司はちょっと他所では観られないほど見事な「業」で、私も大好きな味なのですが、最近の日本ではやはり寂しいそうです。
売上や利益も去ることながら、料理人としてお客さんの「美味い!」という声ほど嬉しいものは他にないそうですが、今の日本では外食を楽しむ習慣が減ってきているため、件の寿司屋も本当に寂しい状態が続いているそうで、どうにも仕事に張り合いがない、と語っておられました。
「どうですか、青島でもう一勝負してみませんか?」と声を掛けたら、是非にもということで、今出店準備を急いでいるところです。
こうしてまた一人、日本の財産の海外逃避の手伝いをしてしまっている今日この頃です。
【896】[1012]福島本部活動日誌です90
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
(転載始め)
2012年5月23日の日誌です。
未明の3時20分、パトカーが事務所の脇で一般車両に職務質問していました。
パトカーに起こされてしまったので、腹立ち紛れにスパゲッティを茹でて、炒めていた茄子とミートソースに絡めて食べました。
草刈りをしました。1時間で結構進みました。その後、すぐに風呂に入りました。
電話・ネット回線代を振り込みました。7159円でした。うち5460円がネット回線代分です。
洗濯をしました。
ガソリンスタンドに今年冬の灯油のお礼としてレトルト食品を持っていったら、店主のWさんに地元の人2人と暫く話すことになりました。
「原発でここら辺で働いている人は、地元の人夫出しの人のとこに話し持ってっている。私は誰なのかわからない」
「ある町の町長は、3億寄付した、という噂をどこかで聞いた」
「288号線を直進するのは原発に向かう車で、399号線を通るのは大体が除染の車」
「安積高校の先生はエリートさん。その人がいるだけで、信用が全く違う」
「ら・ら・ミュウは、以前は安かったんだけれど、今は他県産だから高い」
と言っていました。
夕食は、卵と豚バラとピーマンと人参を入れた炒飯、納豆、ヨーグルト、でした。
炒飯がますます下手になってきています。単純に作ったほうが美味しいです。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月24日の日誌です。
草刈りを1時間しました。崖側は一通り出来ました。
一時的に草刈り機が動かなくなったのですが、充電の失敗だったようです。
レシートの整理をしました。
蚊を駆除しました。
蚊取り線香(←嫌いなのですが・・・)で、正面玄関に群がっていた100匹ほどを駆除しました。
夕食は、余っていたミートソースのスパゲッティ、余っていた炒飯、お茶、でした。
明日、秋葉原に行くことが急遽決まりました。無理にでも楽しみます。
(転載終わり)
【895】[1011]福島本部活動日誌です89
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
現在、画像が表示できない状態ですが、文字データだけでも転載します。
(転載始め)
2012年5月19日の日誌です。
洗濯をしました。
ソファーと布団を干しました。
なお、ソファーを中に入れるのを忘れ、一晩中外に置いたままにしてしまいました。
最近は虫が大量に出てきたので、外に干すのも考え物です。
とは言っても、建物の中に既に毛虫が5匹入ってきているのですが・・・。
夕食は、大蒜と葱と卵を入れた炒飯、昨日の残りのスープ、でした。
前者はジャンクフードの一歩手前ですが、栄養バランスを余り考えないこの様な単純な食事が、一番失敗がないです。
作る時に卵を一個落としてしまい、大ショックでした。
(夜中に以前にtwitterで話す中国の人から教えて貰った事を思い出して、なかなか寝付けませんでした。
李克強の英語での意見発表について、
「こういうのは李源朝が添削してたりするのかな」
と書いたら、
「こういう中共政府高官のは、個人がどうこうするものではなくて、中共全体の意見発表なんだ」
と教えて貰いました。
普段はZさん以上にエロゲの話題しかしていなかった人ので、突然の真面目なツイートに驚いてしまいました。)
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月20日の日誌です。
昨日と全く同じ炒飯を作りました。今日は失敗気味でした。
夕食は、その炒飯、カレーの余り、一昨日のスープの余り、焼そばの余り、をそれぞれ少しずつ食べました。
大広間に掃除機をかけました。また、掃除機自体を洗いました。
モップをかけました。7ヶ月ぶりのモップがけになるかと思います。
シーツを3枚、洗濯して干しました。
今日は忘れずにソファーを取り込みました。その際に蚊が部屋に入ってきてしまいます。
下の写真のように、蚊が建物に(おそらくですが200匹ほど)とまっている状態です。刺さないとは言え、寝ている時に起こされそうです。
11時43分、外国の人を乗せたバスが国道288号線を帰っていきました。
このバスは古道体育館前の駐車場に停まっていたり、検問所方面に走っていく等、取材に来た様な動きをしていました。
12時に、気になって古道体育館に行ってみたのですが、写真の通り撤収されていて、何も変化ありませんでした。
公民館前の駐車場にトラック2台と2人の人が居るだけでした。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月21日の日誌です。
288号線、399号線共に、コカコーラのロゴが入ったトラック等、普通の車が通ることが多くなりました。
それでもやはりクレーン付の輸送トラックが多いです。
昨日は掃除をしたままの体で寝てしまいました。
朝起きて、すぐに汚れていた足だけはシャワーで洗いました。
燃えるゴミを捨てました。カメムシの遺体が40ヶ入っているゴミだったので、もう少し早めに捨てればよかったかもしれません。
生ゴミを入れているゴミ箱を洗いました。
水道代1620円をJAに払いに行きました。
ストーブに入っていた灯油を、全て使い切りました。
不良灯油になる可能性があるのは、風呂用ボイラーのタンクに入っている灯油だけです。
13時、唐突に常葉町にケーキ屋が新しく出来ていたことを思い出しました。
とはいえ、嗜好品を往復1780円のバス代をかけて買いに行くのも馬鹿馬鹿しいので、(というよりもケーキ自体が余り好きではないので)、南瓜をレンジで加熱した後、オリーブオイルで炒めてケーキの代わりにしました。
14時、点検も兼ねて、久し振りに外風呂に入りました。問題なく入れて安心しました。
但し、入浴中は、ミツバチが周りを飛んでいます。
ミツバチから逃げるように風呂を出、建物の中に入ると、大型の蜂の遺体がありました。いっそ外で風呂に入っているほうが安全かもしれません。
夕食は、南瓜の残り、炒飯もどき、でした。
炒飯もどきは、卵、豚バラ、葱、玉葱、大蒜、人参で炒飯を作ろうとしたのですが、玉葱の水分が出てしまい、炊き込みご飯に近いものになりました。
食べられるものが出来たので良かったです。
1週間前は、料理を作る以前に、食べる気力が湧かなかったので、やや改善したのだと思いたいです。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月22日の日誌です。
6時29分古道車庫発のバスで船引駅に行き、磐越東線で郡山駅に行きました。
ネットカフェの様な宿泊施設がやっている630円のモーニングメニューを食べました。
1時間の制限時間内で、野菜が大量に摂れて満足でした。
郡山駅前近辺を徘徊してみたのですが、以前と同様に何も見るべきものを発見出来ませんでした。
駅前の道路が一部、陥没していた跡があるくらいでした。
郡山は人口が30万人居て、いわき程ではないですが面積も広いので、駅前だけに偏って見るのは間違っているのだと思います。
(郡山に詳しい方、原発関連で見るべき場所を教えて下さい・・・。最近こればかりですが・・・。)
(なお、
「事故時の住民の避難区域の設定について、距離をどの程度にするのが適当だったのか」
という議論があるらしいのですが、60km弱の郡山や40km強のいわきまで含むとなると、相当に難しいものになったと思います。)
(地震後の道路が壊れた状態では、浜通りの人達は国道114号線を3時間かけて川俣方面に避難した、と福島民報にあります。
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/05/post_3842.html
http://www.minpo.jp/pub/topics/jishin2011/2012/05/post_4002.html)
駅前にある、うすい百貨店に行き、9Fのジュンク堂でずっと本を読んでいました。
開店前の9時40分、店の前で放射線の調査をしていると思われる2人がいました。
エレベータ内には、安全性を強調する張り紙がありました。
久々の本屋で、気持ちが安らぎました。
10Fでは福島県産品の物産展をしていました。
客層は東京の百貨店と同様に、お年を召された方ばかりでした。
駅前のモニタリングポストは0.284μSv/hでした。
駅前のバス停には、ビッグパレット再開の広告が貼ってありました。
アニメイトでは女学生2人が同人誌を見ていました。将来有望です。くれぐれも、「少年センター補導員」のような人達に目を付けられないで欲しいです。
郡山駅15時10分発の電車で船引駅に戻ってから、直接、古道車庫にバスで帰りました。
大体のものは揃っているので、ダイユーエイトには寄りませんでした。
なお、ダイユーエイト近くの、中の内というバス停から2人バスに乗ってきました。
バス路線で買出しに出ている人が居るようです。
(夜に、下の映像の34分からを見ていて大笑いしていました。
http://twitcasting.tv/asat8/movie/4810516)
(この日誌を書いていて、読点の使い方がいつも心配です・・・。
日本語にも「読点を出来る限り打つ」や「英語のように単語の間はスペースを空ける」といった、明白な決まりがあったら、と思ってしまいます。)
(転載終わり)
【894】[1010]福島本部活動日誌です88
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
現在、画像が表示できない状態ですが、文字データだけでも転載します。
(転載始め)
2012年5月3日の日誌です。
雨が降っていたので、あまり片付けが進みませんでした。
カメムシを5匹駆除できたのには安心しました。今年は既に、40匹は駆除しています。
午前10時42分、街宣車など5台の車が288号線を走って、大熊町境の検問所方面に向かっていきました。
午前11時1分、先ほどの5台の車は、288号線を郡山方面に帰っていきました。検問所で追い返されたのだと思います。
ゴミ捨て場を見たところ、既に金曜に出すべきもので一杯だったので、缶とペットボトルのゴミを急いで捨ててきました。
食器洗いは量が多すぎで、半分で断念しました。
夕食は、饂飩、味噌汁、アスパラガスとオクラを茹でただけのもの、麦茶、でした。
饂飩に少しカビのようなものが生えていました。早く食べ切ってしまわなければなりません。
大川さんから頂いたカレーは、まだ食べられなさそうです・・・。
先日の日程表を見返してみたのですが、各場所への滞在時間見通しが長過ぎでした。特に三日目は、3時間早く予定が終わってしまい、冷や汗ものでした。
ビール代と部屋割りで結構失敗がありました。
やはり被災地であり、トイレ休憩が上手くいかないなど、わからない中で進めるしかない事が多かったです。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月4日~9日の日誌です。
4日、5日、6日は、ツアー後のメール返信や過去の日誌等で時間が過ぎていってしまいました。
なかなか動けなくて焦れったかったです。
7日、自転車で浪江町手七郎集落付近に行きました。
出発する前に郵便局で電気代を振り込みました。32336円でした。
途中の国道399号線沿いの数少ない家は、車が置いてありました。
(←ここはまだ田村市都路町岩井沢です)
葛尾村の役場付近には、タクシーが駐車してありました。また、双葉砕石のダンプカーが行き交っていました。
葛尾村役場は、車で一杯でした。駐車場に、住民による自警団が建てたと思われるプレハブがありました。
ここは0.388μSv/hでした。
役場隣の学校は、校庭表面土の除去をしているようでした。
(←見難いですが、ブルドーザーが動いています)
津島の辺り(googleの地図で「37.553877,140.736706」の辺り)には、長泥のものと同じ、「積算線量測定中」と書かれた木箱が置いてありました。
もう少し進むと「警戒区域に立ち入られる皆様へ」という看板があります。
(下の写真に見える信号を直進して国道114号線を1km進むと検問所があり、立入りが出来ません。そこから更に3km進むと、赤宇土地区という線量が高いらしい地区があるようです。)
国道399号線と国道114号線の分かれ道の所は、3.62μSv/hでした。
なお、4/29にバスで通った際は、バスの車中は1μSv/hほどでした。
更に1kmほど国道399号線を進むと、線量がすぐに6.83μSv/hに上がりました。
ここに犬の死骸があり、カラスに啄ばまれていたので、どうにかしてあげたかったのですが、どうしようもありませんでした・・・。
津島の赤宇土付近への脇道は、立入り禁止になっていました。
以前はもっと障害物が少なかったのですが、少なくとも自動車は入れないようになっていました。
自転車ならば入っていけるのですが、後日警察官にそれとなく聞いてみたところ、「間違って迷って立ち入り禁止区域内に入った場合でも大事になってしまう」と言っていました。
)
この付近で399号線沿いにある民家は3軒だけでした。
国道399号線には見通しのいい場所が2箇所あるのですが、その奥にある所から、赤と白の縞模様の鉄塔が見えました。
399号線から海と原発が見えるところがある、と聞いていたので、一瞬5号機と6号機の側にある鉄塔かと思いました。
ただ、事務所に戻ってから見直してみると、送電の為のただの鉄塔なのではないか、と思い直しました。
但し、ここからは114号線がある谷間、つまり放射性物質が北西に流れていった谷間が明確に見えます。この事の方が貴重かもしれません。
ここは16.37μSv/hでした。
ここから更に200mほど進んだ所が、最も線量が高く、18.09μSv/hでした。原発性門前の二倍です。
更に進むと手七郎集落の看板があります。
国道399号線沿いには、3箇所に木箱が括り付けられた木がありました。日付から見るに、設置されたばかりだと思われます。
帰り道の途中、松本農園まで1kmの所で、警察に呼び止められました。
疲れていたので、唯々諾々と笑顔で応じてしまいました・・・。
(そういえば警察は、国道399号線の線量の高い所は見回りをしていませんでした。やはり恐怖心があるのかもしれません。)
8日、昨日ともう一度同じ所に行って、最も空間線量が高い所の土(正しくは、土の上の枯れ葉など)を取って来ました。
カメラを置いてきたので記録が残っていませんが、その場では30μSv/h前後ありました。
事務所に戻ってきて、ガイガーカウンタを近づけたのですが、5μSv/hだけでした。
(5/18現在、2.5μSv/hまで下がっています。)
国道399号線沿いで一番空間線量が高い所は、アスファルトの上が約12μSv/h、その脇の土の上が約30μSv/h、崖側の上が約50μSv/hです。
9日は雨が振ってしまったので、事務所で大人しくしていました。
同時に、7日と8日にお茶以外何も食べていなかったので、饂飩、味噌汁、サンマの塩焼き、レタス、冷蔵庫に残っていた悪くなってた漬物のようなもの、を食べました。
余っている食材を消費する為にカレーも作りました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月10日~17日の日誌です。
この頃は心身共に不調な時期で、ややダウン気味でした。
食事は、ご飯、サンマの塩焼き、カレー、味噌汁、などなどを適当に食べていましたが、美味しくはありませんでした。
朝の気温が5度くらいまで下がり、昼は20度を超えるので、体に良くないです。
5月10日は変わった車の往来が多かったです。
早朝の2時15分、直径4mほどの歯車のような部品を載せたトラックが、検問所方面から郡山方面に走っていきました。スカイツリー建造中に国道6号線で見た、建材の3分の1くらいの大きさでした。
午前3時、さっきのトラックが郡山方面から来て、川内方面に走っていきました。
午前5時22分、大きな鉄パイプの太いものを積んだクレーン付トラックが、国道288号線を郡山方面に帰っていきました。
午後4時42分、テレビ局の車が288号線を帰っていきました。
午後5時45分、警察が都路大橋の前でネズミ捕りをしていました。すぐに開放されたので、車の形から言っても、原発からの作業員を乗せた車だったのだと思います。
5月12日午後2時50分、Sさんが来ました。
検問所を案内しました。来た時点でSさんに余り時間の余裕が無かったので、急ぎ足での案内になってしまいました。
大阪県警の人で、写真だけ撮りに来たことを伝えると、
「ここはそういう場所ではないので」
と返ってきました。
ではどういう場所なのか聞いてみたかったのですが、時間が余り無かったので
「前は良くて今駄目なのは何故か?個人用の写真を撮るだけだが」
と言うと、撮影は大丈夫だと返ってきました。
事務所を急いで案内した後、16時35分のバスに一緒に乗りました。
船引の仮設住宅までバスと徒歩で一緒に行って、案内しました。
船引の途中の道では、新しいアパートと住宅の展示場が出来ていました。
駐車場のアスファルト上に新しく、「A8-4」といった番号が書いてありました。
その後、船引駅まで歩き、郡山駅まで電車で同行しました。
電車の中でSさんが
「バスの中で地元の人が『畑は、もう一年放置しておくと、本当にダメになってしまう』」と言っていた」
と言っていました。
郡山駅前では民主党の人が演説をしていました。
郡山駅でSさんを見送ってから、駅前を歩いて時間を潰しました。
郡山駅の食品スーパーは耐震工事をするので、暫く別フロアで営業するそうです。商品は順調に売れていました。
21時、ネットカフェに入りました。
13日の朝、郡山駅前のモニタリングポストはついていませんでした。
テロ対策特別警戒実施中、という張り紙を見て、懐かしくなりました。郡山はそんなことは全く無いですし、288号線沿いは、原発災害関連特別警戒実施中、という方が正確な状態です。
郡山駅の待合室は、一夜を過したと思われる人達が7人ほど眠っていました。
午前8時1分の電車と午前8時50分のバスで事務所に戻りました。
船引駅には、田村市の犯罪発生状況が掲示されていました。
都路は0件となっていました。
つまり、以前警官にいわれた「今でも警戒区域で空き巣が起きている」というのは、嘘だったということになります。
バスから見えた船引小学校では、サッカー関連の集まりで、小学生が一杯いました。
17日午前6時に検問所方面に行ってみました。
288号線脇の電灯がついていました。(「通行と一時的な帰宅は自由だけれど宿泊は禁止されている地域」であっても、電気は夜も通っているようです。)
民家に自動車が停めてありました。
4月初旬とは違い、カーテンが開いている民家が多かったです。
ゴミ捨て場には、食器類、炊飯器、電子レンジ、などが捨ててありました。集積場にはとても入りきらない量で、脇においてありました。
道路の脇に、「046-0063-0000」と書かれたガムテープが数個貼ってありました。
帰り道の途中、クレーン付トラックが、検問所方面に走っていきました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月18日の日誌です。
朝、ダンボールゴミを捨てました。
今日は珍しく朝食を食べました。
椎茸で出汁を取った後、4/27にHさんから頂いた冷凍餃子、もやし、ラー油、K先生から頂いたコンソメスープの素、を入れて少しだけ加熱しました。
摩訶不思議なワンタンスープになりました。結構美味しかったです(ホントです)。
朝食を食べた分、夕食はお茶だけでした。
13時ごろにKさんが来ました。
葛尾村や飯舘村に行って少し土を取って来るようでしたので、同行させてもらいました。
葛尾村広谷地の通行止めになっている所に行きました。(おそらくgoogleの地図で「37.522014,140.779016」の地点です。)
ここの線量が4.09μSv/hでした。地面が14.1μSv/hでした。
空間線量はあるのですが、地面の土からはあまり高い値が出ませんでした。
帰るときに立ち入り禁止の場所から、車が三台連続して出てきました。最後の車は「環境省」と書かれていました。
立入禁止区域での調査からの帰りだったのかもしれません。
環境省の車は葛尾村役場の駐車場に入っていきました。
浪江町津島手七郎の畑に行きました。
ここも空間線量は4.44μSv/hあるのですが、畑の表面はあまり高い数値は出ませんでした。
飯舘村長泥十文字(4/29に行った所、googleの地図で「37.612651,140.749164」)に行きました。
ここの雨樋の下の泥水が数値が高かったので、少し持ち帰りました。
もう少し県道62号線を東に進んで、飯舘村蕨平の通行止めになっている所まで行きました。
東に行くと線量が段々と下がっていき、通行止めの所は、1.5μSv/hほどでした。
事務所に戻って、Kさんは帰りました。
5/20現在、長泥の十文字で採って来た泥水は、20μSv/h出ました。
飯舘村の畑近くの家から採って来た土は、2μSv/hです。
(転載終わり)
【893】[1009]福島本部活動日誌です87
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
現在、画像が表示できない状態ですが、文字データだけでも転載します。
(転載始め)
2012年4月24日の日誌です。
洗濯をしました。
溜まっていた皿洗いをしました。
布団を干しました。
台拭きを雑にしました。
台所とコンクリート通路にブラシがけをしました。
トイレを2箇所掃除しました。
・・・結構疲れました。特にブラシがけは、冬季は出来なかったので、大掃除になってしまいました。
出来たらモップがけしたい所があるので、明日も晴れていて欲しいです。
午後1時30分にYさんの奥さんが来て、かわうちの湯に連れて行って貰いました。
午後4時まで入っていました。
夕食は、ご飯、カレー、味噌汁、でした。
こう書くとちゃんとした食事のようですが、全て余り物です。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年4月25日、26日、27日の日誌です。
(もう覚えていません。誤り等があります。)
25日の午後3時にFさんが来ました。
Fさんには、原発難民ツアー中の留守番をお願いすることになりました。
一番つまらないお仕事だったと思いますので、心苦しかったです。
その他、ツアー前の細かな事など、色々とお世話になりました。
25日午後4時、かわうちの湯に行きました。
1時間ほど入っていました。
帰りに蕎麦屋にも寄ってみましたが、品切れで休みでした。
夕食は、2日前から食べていたチーズ入りカレーをFさんの方にしました。
私は、2週間前の納豆汁を無理矢理に食べました。
26日、Fさんの運転で、旅館までの所要時間と旅館周辺の道を調べました。
夕食は、船引の中華料理屋で食べました。その際に2日目の弁当代60000円を、さきに払っておきました。
27日、正午頃に、Iさん、Iさんが、午後2時頃に、Sさん、Oさんが来ました。
酒盛りが始まりました。
午後9時に、ツアー参加者のHさんが来ました。鳥取からいらした方です。
簡単な酒のつまみなどしかお出しできませんでした。
(原発の近くの線量が載っていたので、ぼんやり見ていました。)
(福島第一原発の敷地内は、流石の線量です。浪江の手七郎付近の半分の空間線量があります。
事務本館北側の2mSv/h(=2000μSv/h)は凄いです。
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/f1/images/f1-sv-20120216-j.pdf
http://www.tepco.co.jp/nu/fukushima-np/f1/images/2012monitoring/f1-mp-2012050512-j.pdf)
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月1日の日誌です。
(覚えていないので、簡略です。)
9時30分、庭匠のご主人が来ました。先生と暫く話していました。
(「動いてはいけない筈の双葉砕石が、今でも操業している」と言っていました。)
10時、先生、Kさん、Rさん、Iさんが帰りました。
Rさんは自転車で川内方面を通って帰りました。
12時半、残っていた食材でヤバいものを食べられる、または日持ちするようにしました。
それでもいくつか無駄になってしまったものがあります。
15時から、後片付けを開始しました。17時頃、ほぼ原状に戻れました。
夕食は、ご飯、サンマの塩焼き、残っていた野菜炒めのようなもの、ラーメン、でした。
食べ過ぎました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年5月2日の日誌です。
原発難民ツアーにお手伝いいただきました皆様、参加された皆様、大変お世話になりました。
先ほど、金銭の計算が大体合いました。
忘れ物は「赤のKEYCOFFEEのロゴのあるジャンパー」「石鹸、歯ブラシ、歯磨き粉」「歯ブラシ」「寅壱というロゴのある黒いタオル」でした。
また、原状への復帰も、食器洗い以外は済みました。残っていた食料品も、味噌汁にするなどして、無駄にしない目処がつきました。
ゴミは5袋捨てられたのですが、あと4袋を5/4に出さなければなりません。
これから寝ます。
(転載終わり)
【892】[1008]福島本部活動日誌です86
以下に、MLに投稿した内容を転載します。
現在、画像が表示できない状態ですが、文字データだけでも転載します。
(転載始め)
2012年4月9日~15日の日誌です。
かなり忘れてしまったので、簡略版です。
気象情報を見る限りでは、未明前後に時折マイナス1度になっているようです。
それでも大変暖かくなりました。
(最近は、最低気温が5度くらいと、かなり暖かくなっています。)
燃えるゴミ、ビンのゴミ、を出しました。
洗濯機の洗濯槽を掃除しました。
Kさんから、大量のレトルト食品を頂いてしまいました。
後日、ちゃんとお支払いした方がいいかもしれません。
夕食は、ご飯、茄子、オクラ、アスパラガス、ふきのとうを油で炒めたもの、味噌汁、カレー、海苔、蕎麦、いりこ、をリスの様に少しずつ食べていました。
12日の午前中に、大家さんの奥さんが来ました。
20日に地震災害保険の人が来ることを伝えられました。
ふきのとうを頂きました。お返しにレトルトのカレーを差し上げました。
12日の正午頃、国道288号線を自転車で走って、検問所まで行ってみました。
入り口で大阪府警の2人に呼び止められました。なかなか感じの良い警察官でした。
「(怖くないのか訊いてみた所)住民の人が普通に暮らしているし、心配じゃない」
「タイベックスーツを着ている警視庁の人達は、原発の相当奥まで入っていくので、あの格好でなければならない」
と言っていました。
近くの立入禁止の看板は、倒されて表示されないようになっていました。
2kmほど先に行くと、牛舎だったと思われる所がありました。牛は居なくなっていました。
民家のある辺りまで行くと(googleの地図で「37.417073,140.824971」の辺りです)、民家はどこも掃除中で、燃えるゴミが玄関に置いてありました。
窓やカーテンが開いて、日差しが入っている家が多かったです。
集落の集会場はきれいになっていました。
集会場の中には、放れ牛、放れダチョウ、についての注意書きが貼ってありました。
共同通信のカメラマンの人が居て、少し話しました。
「自転車で来る人は珍しいので気になった」
「畳が駄目になっているらしい」
「電気は通っている」
「特にガスは、一冬そのままだったので、使えなくなっている所が多いらしい」
「住めるようにするには、まだまだ労力が必要になりそうらしい」
と言っていました。
民家のいくつかの玄関には「パトロールカード」が貼ってありました。
検問所の少し手前に木材店がありました。当然ですが、営業はしていません。
近くに「15」と書かれたテープが地面に貼ってありました。原発まで15kmという意味でしょうか。
この近くのゴミ集積所に書いてあった線量の測定値が、0.65μSv/hと、都路よりやや高めでした。
ゴミ置場には、新しいゴミが置いてありました。
ただ、おそらくですが、検問所の先にあるらしい2つのトンネルを抜けると、線量はずっと上がっていくはずです。
4/19にJAのテレビで見た、大熊や双葉の線量は、5μSv/hや12μSv/hといった数値です。
(4/19の画像です)
検問所は、前に出ていました。
正式な検問所は、4/1に撮影した所で、おそらくそこが大熊との境だと思うのですが、どうも昼間は前に出ているようです。
13日、1/6にも事務所に来た都路の人が来ました。
(「放射能のことは自身で調べて、自分も大丈夫だと思っていたのだが、先生が余り根拠無く断定するので、逆に心配になった」
と言っていました。)
「生態系維持の観点から、田に水を張りたいのだが、役所に働きかけて大丈夫だろうか」
と尋ねられました。
「ご近所との兼ね合いもあるだろうし、・・・私の素人判断としては大丈夫だと言いたいが、簡単に判断することは出来ない」
と答えるしかありませんでした。
(夜にTさんに電話して聞いてみたところ、やはり難しい問題になっているものだと教えて貰いました。
プールの汚泥の処理などは、県庁などでも苦慮している問題だそうです。)
14日、Yさんの奥さんに、かわうちの湯に車で連れて行って貰いました。
Yさんの奥さんは
「やはり警戒区域内だと線量の高いところがある(。Yさんが除染の関係で入った後、すぐに線量が限度まで溜まった。1日あたり2時間くらいしか仕事できない。)」
「富岡で一番高い所は、空間線量で30μSv/hらしい」
「かわうちの湯の休憩所で休んでいたのは、ほとんど都路の人」
「以前は、公民館内にあった図書館で仕事をしていた」
と言っていました。
googleの地図に、仮設住宅がかなり詳細に載っていました。
(福島県郡山市南1丁目93辺りを検索して拡大すると、何棟あるかなどもわかります)
(とあるアニメは、ジャンルとしては超能力麻雀なのですが、強い高校が、東東京、西東京、北大阪、南大阪、福岡、と大都市圏に集中しており、妙に現実的です。
世知辛い世界観です・・・。被災地では、福島や茨城は名前しか出てきませんでした。岩手がまだ残っていて、そして一番魅力的に描かれていて、嬉しいです。
ただ岩手の高校は、ニュージーランドから来ている留学生が大量失点したことが響いて、負けてしまいそうです。・・・・・・よりにもよってニュージーランドというのは、確信犯なのでしょうか。)
(他にも、ほぼ全ての高校で先鋒に一番強い人間を置いている、一巡先が見える超能力のあるキャラは麻雀自体は手が小さくて下手、など、妙な所で現実的です。)
(転載終わり)
(転載始め)
2012年4月16日の日誌です。
朝起きて外を見たら、古道小学校の崖崩れがあったところは、上から緑化されていました。
ソファーと布団4枚と座布団を干しました。
2階と大広間の半分に掃除機をかけました。
車のエンジンを10分間かけました。
午前10時30分、川内村に自転車で出発しました。南相馬の警戒区域見直しがあっても私は行けず、仕方が無いので川内に行ってみました。
都路と川内村の境目までは上り坂で、そこから川内村の街中までは下り坂でした。やっぱり途中で警察官から声をかけられました。
崖崩れの場所が一箇所あります。また、川内村に入る直前に「東電南いわき開閉所」があります。
川内村の民家から大量のゴミが出ていました。
(ストーブ等、仮設に居れば新しく貰える物が多かったです。)
399号線で壊れていた箇所が、補修工事が始まっていました。
(二枚目は帰り道で撮った写真です)
399号線脇の木が、大胆に剪定されていました。
川内村の街中では現職村長の選挙活動が行われていました。
(←前を歩いているスーツで後姿の人が遠藤村長です)
テレビ局と思われる人が居ました。
近くをご老人が歩いていました。
なお、午後5時にもう一度寄った時には、選挙事務所は誰も居ませんでした。
食器等には上から新聞紙が被せてありました。
事務所には必勝祈願の垂れ幕や達磨などが置いてありました。
午後0時、川内村の蕎麦屋に寄って、昼食を食べました。
壁には「ふくしまの今」という記事が貼ってありました。
ここの蕎麦屋は、6/2と6/3に釣りの企画をしているようです。
川内村役場は、改修が終わって再開していました。役場には、大きな垂れ幕がかかっていました。
期日前投票所が出来ているからか、駐車場が一杯でした。
役場の写真を撮っていると、たまたま399号線をバスが通ったところでした。
福島県の仮設住宅についての地図で、川内村に50戸あるとされるところに行ってみましたが、まだ建設中でした。
http://maps.google.co.jp/maps/ms?brcurrent=3,0x602004816ddcd52f:0x341fa6c1d0d6465c,0&ie=UTF8&oe=UTF8&msa=0&msid=208687479192919771060.00049f7777451fd3dc6d9
川内村宮ノ下集会場には、モニタリングポストが設置されていました。0.310μSv/hでした。
掲示板は、例の酷いポスターが剥がれかかっていました。
川内村では、除染作業が大規模に行われていました。
公園の崖も10人ほどで除染されていました。
側溝が一部開けられていました。
どうも、青いビニールで出来た土嚢の土を使って、土を交換しているように見えました。
また、道路脇の木や植え込みを、出来るだけ取り去っているようでした。
県道36号線小野富岡線を、行ける所まで行ってみました。
以前検問所が有った所は、電光掲示板とパトカーが置いてあるだけでした。
(←見にくいですが、パトカーの先の部分が写っています)
一箇所、マンホール側に大きな穴がありました。
途中で微妙な看板がありました。
826mある割山トンネルでは、トンネルを抜ける前の所の空間線量が0.4μSv/h、トンネルを抜けた所の空間線量が1.0μSv/hでした。
(←トンネルを抜ける前は撮り忘れました)
トンネルを抜けた後、100mの橋を渡った先が検問所になっていました。
先には汚染検査場があるそうです。
・・・この後、川内の街中まで戻る道がなかなか厳しい道でした。
午後3時、かわうちの湯に寄りました。
疲れていたので、休憩室で1時間寝てから帰りました。
帰り道で、立入禁止の筈のいわなの郷に入っていった二台の車がありました。
一台は富士山ナンバーでした。その他にも、秋田ナンバーなど、他県からの車が意外に多かったです。
午後6時に事務所に戻ってから、布団等を取り込みました。午後6時までなら、まだ外が明るいです。
その後に5日前の味噌汁で夕食にしました。
(転載終わり)
(転載始め)
2012年4月17日~23日の日誌です。
原発難民ツアーの準備をしながらだったので、記録が充分に残っていませんので、覚えているものだけです。
17日前後にIさんが旅館との打ち合わせをしたので、それに同行させてもらいました。
帰る際に、若松屋旅館の女将さんから、サービスでお風呂に入っていくように言われました。
19日、ダンボールのゴミを出しました。水道代を振り込みました。
20日、大家さんがJAの人と来て、建物にかけてあった地震保険の見積もりをしました。
二階に上がる階段が危険なので、そこには保険金が降りるそうです。
建物自体は杭を打ってから建ててあるので、しっかりしていたそうですが、崖側の下がってしまった箇所は、保険の範囲外だったそうです。
帰り際に大家さんが、どこの建物も余り保険金が出ないので皆苦慮している、と言っていました。
21日、都路で警戒区域が解除になった所を、線量を測りながら自転車で走ってみました。
事務所から2km行ったところにある、今は動いていない自販機の前は、ほぼ事務所と同じ0.40μSv/hでした。
ゴミ捨て場はどこも、住民が掃除をした後のゴミで一杯でした。
国道288号線沿いに、放射線量の測定をしていると思われる人達がいました。乗っていたのは山形ナンバーの軽自動車等でした。
更に1km程行くと、民家が10軒ほど集まっている所があり、そこは0.36μSv/hでした。
ある民家は、屋根の補修をしているように見えました。(それともこれは、除染でしょうか?)
軽トラックが畳と家電製品を運んできたところでした。
このあたりのポストは、投函出来ないようになっていました。
道路から見える畑にトラクターが入って、耕しているように見えました。
(写真は、耕し終えて288号線に戻ったトラクターです。)
更に1km程進むと、空間線量が少し上がって、0.58μSv/hになりました。
更に2km程行った検問所付近が、0.74μSv/hでした。
22日、川内村に行ってみました。
途中の大久保小学校のあたりで、テレビ局の車とすれ違いました。
民家が一軒、壁が崩れており、崩れないよう3本の棒で支えにしていました。
残念なことに、かわうちの湯は休みでした。蕎麦屋さんも休みでした。
なお、かわうちの湯の建物には「電源地域振興・産業基盤整備支援事業」というプレートが入っています。
川内村長選の日だったのですが、村長の選挙事務所含め、特別なことはなさそうでした。
(転載終わり)
【891】[1007]鎌倉仏教の謎を解く
鎌倉仏教の謎を解く (訂正の回)
ここまでのところで事実誤認や訂正を要するところがいくつかありますので、お詫びして訂正します。
第二回(重掲999)より 後半「慈円の心を歌った和歌には宋学の影響が見られると思う。・・・北宋の思想家 周敦頤(しゅう とんい1017-1073)の存在を慈円(1155-1225)が知らなかったとは考えにくい」と書きましたが、宋学の祖といわれる周敦頤の存在が知られるようになったのは、彼の死後南宋の朱熹(しゅき1130-1200)によって、評価された後だということである。
宋学を最初に日本にもたらしたのは真言宗の僧俊芿(しゅんじょう)で1199年ともいうが明らかではないそうだ。ちなみに周敦頤については、時代ははるかに下るが、江戸末期の陽明学者大塩平八郎が「洗心洞箚記」(せんしんどうさっき)で取り上げている。
やはり慈円の「無技巧の技巧」(「慈円」多賀宗準著 吉川弘文堂)ともいうべき自由闊達な和歌の表現の源を宋学にもとめるのは厳しいか?私には慈円において突如として個人の志操が和歌で詠まれるようになったことが不可思議に思えてならない。
間違いの上塗りになるかもしれないが、漢詩に対する対抗意識が慈円の中で強く作用していたせいかも知れない。ちなみに慈円の和歌は伝存するもので六千首あり、七、八万ぐらい詠んでいたのではないかと推定されているそうだ。慈円にとっては和歌を詠むのは「息をすることと同じようなもの」と上記の慈円の伝記には書かれていた。(人間じゃない)
第四回(重掲1002)より 「ちんちくりんの陳和卿(ちんなけい)は坊主」であるだけではなく宋から渡ってきた工人で、大工の棟梁のようにグループを率いていた。学僧でもあり、また南宋のスパイであるという可能性も高い。平家の兵火によって焼けた大仏と大仏殿の再建に重源とともに活躍した。時代が下り、三大将軍源実朝に鎌倉で謁見したあと、
実朝の渡宋計画を実現すべく唐船を建造するが、船は海に浮かばなかった。(吾妻鏡 1216年)これは北条義時と大江広元による妨害工作にあったためであり、実朝暗殺後、陳和卿も火事のどさくさの内に殺されたという説もある。(いいだもも著「日本」の原型 p227)
吾妻鏡では「渡宋計画」のくだりは実朝の乱心のように書かれているが、愚管抄では大江広元、北条義時が、実朝をじわりじわり追い詰めていって、最後に御家人三浦義村と手を組んで殺したという見方を記している。(巻第六)頼朝の不審死に始まり、頼家、実朝、公暁ら源氏の血脈を次々と消し去っていった裏には北条時政、義時のほかに、大江広元がいる。その大江広元は実朝暗殺事件の前に、失明したと愚管抄には記されているが、慈円は「ふふ、悪行の報いよ」とでもいいたげな口調である。
訂正については以上です。いろいろ調べているうちに頭が混乱してきましたので、残念ながらきょうはここまでです。ご不満な方は、「副島隆彦の論文教室」にある長井大輔さんの「日本権力闘争史」をお読みください。副島先生の仏教論もそこにあるよ。それでは。
田中進二郎拝
【890】[1006]鎌倉仏教の謎を解く
鎌倉仏教の謎を解く 第6回
今回以降二、三回の主なテーマ
・愚管抄(ぐかんしょう)執筆の動機とその転換
・慈円はなぜ、源氏の血につらなる、親鸞や九郎義経をかくまったのか?
・「未来記」にとりつかれた人々。慈円、重源(ちょうげん)、後白河法皇について
・唯円著「歎異抄」(たんにしょう)の永きにわたる誤読の伝統
「愚管抄」の全体の中で慈円の筆は、ものの道理をわきまえない同時代の人間に対する冷たい侮蔑などが、散見できるのであるが、慈円が冷血人間であったと考えるのは間違いである。仏教用語では、すぐれた洞察力をもつことを天眼、法眼などというが、慈円の目がまさにそういうものなのだ。
「愚管抄」はおそらくもともとは新「日本書紀」のつもりで書き始められたものではないか、原文をざっとみてみると、全7巻の中で巻一と巻二が歴代天皇の年代記(84代)となっている。
そしてこの部分は、今の若い日本人がみればゲッとなる、ほとんど漢字だけの世界である。巻二の終わりから突然、カナ文字(片仮名は寺の僧侶たちの発明品である。)の世界が姿をあらわし、冴え渡る口調で進んでいく。それが巻七の最後まで続く。巻三からは、歴代天皇の治世からみた「ものの道理」の考察を行っている。巻三が藤原道長の治世の最後まで、巻四が保元の乱まで、巻五の最後が、前回とりあげたが義経の死と頼朝の奥州制定までである。巻六が源実朝の暗殺と後鳥羽上皇が挙兵を決意するまで。そして最終巻がこの本の執筆の動機と慈円の歴史観の総括、そして末法の世への嘆きとなって、最後は世の中を立て直す案を自問自答しながら、途中でしりきれトンボのように終わる。
(現代語訳は講談社学術文庫で、原文は「ひらがな愚管抄」でグーグル検索したら読める。)
興味深く思えるのは、漢文オンパレードの巻二の終わりに、突然いきいきした日本語を用いることの重要性を述べ始めていることで、同時にここが文体の転換点ともなっていることである。してみると、「愚管抄とはなにか」を問うときの重要な章といえるだろう。
本稿の第二回(重たい掲示板999)で「後で引用する」といったままだったので今度は引用しよう。(これより「愚管抄」巻第二の終わりを原文のひらがな変換したものを引用する。)
「ひとえに仮名に書つくることは、是も道理を思ひて書るなり。先是をかく書かんと思ひよることは、物しれる事なき人の料也。此末代ざまのことをみるに、文簿にたづさわれる人は、高きも卑も、僧にも俗にも、ありがたく学問はさすがする由にて、わづかに真名(まな 漢字)の文字をば読ども、又其義理をさとり知れる人はなし。男は紀伝・明経の文多かれども、みしらざるがごとし。僧は経論章疏あれども、学するものすくなし。日本紀以下律令はわが国の事なれども、今すこし読とく人ありがたし。(だからといって今度は)仮名に書くばかりにては、やまと詞の本体にて文字にえ書からず。
仮名に書たるも、猶よみにくき程のことばを、むげの事にして人是をわらふ。はたと・むずと・しゃくと・どうと、などいふことばども也。是こそ此やまとことばの本体にてはあれ。此詞どもの心をば人皆是を知れり。
あやしの夫とのゐ人(殿上人)までも、此の言の葉やうなることぐさにて、多事をば心得らるるなり。
是をおかしとて書かずはばた(結局)、真名をこそ用いるべけれ。此道理どもを思ひつづけて、是は書き付け侍りぬるなり。」(以下略 引用おわり)
上の文章には、より多くの人々に自分の言葉を届けようとする慈円の熱意が感じとれよう。
また慈円はこの後、漢文調をぴたりとやめているのであるから、自分に向けて書いているようにも取れる。ただ研究家の中では、この箇所は後から追記した文であることのようだが、前か後かなどということはあまり問題ではない。サルトルの言葉に「批評とは自分を変えることだ。」というのがあるが、慈円も古色蒼然たる紀伝体に自分から、一気に別れを告げていったのだ。
田中進二郎拝
【889】[1005]鎌倉仏教の謎を解く
鎌倉仏教の謎を解く 第5回
悪人正機説は法然が創始した教えであるということを、前回、前々回から書いてきていますが、「証拠があるのか。」と文句を言いたい方もおられるでしょう。
私も前々回の法然と親鸞の悪人正機説の違いを述べたところがまだ歯がゆいと感じており、
くどくなってしまうことを承知でもう一度根拠をあげ、説明を試みてみます。ここらへんが浄土宗、浄土真宗解明のひとつの鍵と私は考えます。
前回、平重衡(しげひら)の最期について述べた箇所で、「法然讃歌」(寺内大吉著 中公新書)という本をおすすめしましたが、この本がなぜ書かれたのかというと、浄土宗の宗務総長の地位にいた著者が浄土宗の教条主義化に危惧を抱いて、法然像の見直しを図ったとあとがきにかかれていた。「愚痴の法然房」(愚痴とは愚かで知恵がないこと。愚禿親鸞と同じである。)を自称していた法然がニーチェの「超人」のように自説を高唱するはずがない、聖人化されてしまった法然をある意味でひきづりおろそうという試みであるとも。
1916年(大正5年)に真言宗醍醐寺で勢観房源智(せいかんぼうげんち 法然の最期をみとった弟子)によって書かれた「法然上人伝記」(醍醐本ともいう)が発見された。
それには「善人尚以往生、況悪人也」(善人なおもて往生す、いわんや悪人をや)と記されていて、善人は善人なりに悪人は悪人なりに念仏を唱えれば往生するという法然の教えから飛躍がある。記した源智自身この意味が理解できず、三日三晩熟考したという。そして、「悪の機縁を持つ者が往生を遂げるということが道理にかなっている、ということを習い得た者は良く浄土宗を学んだことになる。浄土門は悪人を手本として善人をも救う。聖道門(しょうどうもん 自力本願を旨とし、聖人になることをめざす)は善人を手本として悪人をも救うという違いである。」という法然の言葉に腑に落ちたという。
「選択本願念仏集」(せんちゃくほんがんねんぶつしゅう)は法然の主著とされるが、
九条兼実(くじょうかねざね)が関白職を解かれて失脚した時期に、法然に専修念仏の奥義をまとめてもらいたいと頼まれて著した書である。易行道が聖道門よりもすぐれていること、易行道の念仏を唱えれば、十悪のものも往生を遂げることなどが説かれる。これだけでも、十分に危険な書とされ、法然一門の後鳥羽上皇による弾圧の一因となっていく。法然は危険を十分に承知していて、源智に言ったような悪人正機説は口で伝えていたのであろうと、私は推測する。
親鸞の悪人正機について述べる前に。
ここで副島先生からのメールを一部紹介します。以下は、「その1」(重たい掲示板990)を書いた後でいただいたものです
「愚管抄を書いた 天台座主でもあった慈円の目はものすごく重要です。兄の 九条兼実と共に 冷ややかに全てを見通しています。 しかも自分たちが 危険な中で 源氏を支え続けていることにも自覚があった。 がんばりなさい。」
以上、引用おわり。
慈円の目は恐ろしい。親鸞が源義朝の娘の子である(つまり源頼朝の甥にあたる)という梅原猛氏の説を第一回でとりあげたのですが、(その後どうも、親鸞と義経がダブって見えてならなかった。)義経は兄頼朝に追われる立場に立ったとき慈円にかくまわれて、その後奥州平泉までたどりついたと「愚管抄」の中にきちんと書いてあった!
(慈円 「愚管抄」巻第五 大隈和雄訳 講談社学術文庫p306より引用)
「九郎義経はしばらくの間時節を待とうと、身を隠しながらあちこちと移動していた。無動寺(延暦寺東塔にあった別院で、当時は慈円が管理していた 訳者注)に財修という下級の僧がいたが、その僧房にしばらくの間九郎をかくまっていたと、のちになって伝えられた。こうして九郎はついに逃げおおせて、陸奥国の藤原泰衡のところに行ったのである。この逃亡のことは驚くべきことであると評判されたが、泰衡は九郎を討ち取ってそのことを頼朝に報告した。しかし、陸奥国の人々は「殺さなくてもよかったのに、悪いことをしたものだ」と語りあったということである。」(引用 ここまで)
さらに、このページには、九郎義経に逆心を植えつけたのは御白河法皇で、義経を利用して頼朝追討の宣旨(せんじ)を出したのであるが、法皇に「宣旨を出す理由などどこにもない」と反論したのは、公家の中で九条兼実だけであったということもかかれている。
慈円はのちの後鳥羽上皇の起こした承久の乱との関連で、義経の没落を記述しているのだろう。承久の乱よりずっと以前に、律令国家と天皇が早晩没落することを、慈円は見据えていたであろう。慈円は歴史を書きながら未来を見ていたのである。
田中進二郎拝
【888】[1004]はじめて投稿します
はじめて投稿致します。私は会員番号6524番の津谷侑太(つやゆうた)と申します。現在22歳で2012年3月に愛知県のある大学の文学部歴史学科を卒業しました。現在はフリーターをしています。
副島先生の御著書は50冊ほど拝読させていただいております。私はインターネットで2009年あたりから植草一秀氏のブログに傾倒していた時期があり、植草氏がしばしば副島先生の「副島隆彦の学問道場」のサイトの文章を引用して紹介されていたので興味を持ち、会員となった次第です。
私が現在、最も関心があるのは、歴史についてです。
日本での歴史研究はレベルが高いと賞賛されてきました。しかし、一部のおかしな歴史研究者(半藤一利や秦郁彦ら)たちによって日本の歴史研究が事実とかけ離れた創作の世界にいこうとしているとのだと副島先生の著作『時代を見通す力 歴史に学ぶ知恵』を読んで気づかされました。
阿川弘之(あがわひろゆき、91歳)や司馬遼太郎のような史実無視の捏造作家に洗脳された読書人階級を救い出して、阿川や司馬たちに誹謗中傷を受けた日本国民の側に立って闘った偉人である近衛文麿(このえふみまろ)や乃木希典(のぎまれすけ)の名誉を回復する必要性を強く感じている次第です。
これから学問道場で勉強させていただこうと思っています。どうぞ、ご指導のほどよろしくお願い申し上げます。
津谷侑太拝