重たい掲示板
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Loginはこちら【937】[1061]性とお金を語るなら
学問道場としての「重たい掲示板」を標榜するこのサイトに於いて、「性とお金」についての議論に於いて、どなたかフロイトのリビドー(Libido)をご提案なさるのをお待ちしていましたが、ないようなので議論の参考までに・・・。
http://bit.ly/MUDvJs
【936】[1060]福島のもも『あかつき』収穫が始まりました。報告#2
副島隆彦 学問道場 会員 福島県出身、泉浩樹です。
いつも「福島」を応援頂きありがとうございます。
また、昨年は福島をふくめた被災地への状況を ご理解、お力 を頂き あらためて厚く感謝を申しあげます。
⁂ 福島のもも『あかつき』の収穫 ⁂ 8月3日より 収穫がはじまりました。
桃『あかつき』が収穫に入ると 須賀川市浜尾の有我果樹園より連絡が入りました。
今年も好天に恵まれており 品質の高い桃が お届けできそうです。
昨年の風評を乗り切り、皆様に「もも」をお届けできることを 嬉しく思います。
福島の真夏の”味覚”をご堪能ください。
※訂正:一箱に入る桃は「4kg」になります。
1箱/約10~15個入り、送料別 3,500でおねがい致します。
外気温の低い早朝から収穫した桃を 同日発送です。
遠方発送以外は”常温”での発送です。(果実は急な温度変化が苦手です)
※ご注文はFAX 0248-76-7384 にて おねがい致します。
Faxは自動受信です。そのまま発信してください。「学問道場」の紹介と一言お書きください。
※FAX記入事項:
(送り主/受け取り主)とも:郵便番号、住所、氏名、電話/携帯番号、受け取り希望時間帯、をご記入下さい。
ご注文順に発送致します。(注:収穫の様子で発送が変わります。)
※収穫状況により希望の到着日/時間帯に添えない場合が御座います。ご容赦頂きたくお願い申し上げます。
くろねこヤマト宅急便発送。
発注者さまに振込用紙が同梱、若しくは郵送されます。
尚、合計金額等は事前に お確かめ願います。
※ 4kg1箱/約10~15個入り、送料別 3,500。※
生産者連絡先
******************************
もも生産者:有我果樹園
Fax : 0248-76-7384
962-0812 福島県須賀川市大字浜尾字猫沼58
収穫予想:「あかつき」は8月中旬ころ迄の収穫
9月初旬「ゆうぞら」という品種の収穫予定。
※ 4kg1箱/約10~15個入り、送料別 3,500。※
******************************
福島県人は元気にしております。
皆様。おいしい福島の桃を食べ 酷暑を 乗り切り下さい。
泉浩樹 拝
【935】[1057]野村に業務改善命令 金融庁、増資インサイダーで
松尾雄治です。
日経新聞電子版から転載します。
(貼り付け始め)
野村に業務改善命令 金融庁、増資インサイダーで
金融相「社内体制、根底から見直しを」
2012/8/3 12:57
金融庁は3日、上場企業の公募増資をめぐるインサイダー取引問題で、情報管理や法令順守体制に不備があったとして、野村証券に金融商品取引法に基づく業務改善命令を出した。野村がすでに公表した改善案を含め、再発防止策の定期的な報告を求める。
松下忠洋金融相は同日午後「野村証券の全社員が処分を重く受け止め、新経営陣が先頭に立って社内体制を根底から見直す覚悟を持って改革を推し進めてほしい」と述べた。金融相は処分内容について「自浄作用を慎重に見極めて判断した」とした。
野村は処分に先立ち、親会社である野村ホールディングスの渡部賢一最高経営責任者(CEO)が辞任したほか、情報漏れがあった機関投資家営業部を再編するなどの改善策を出した。金融庁はこうした点も考慮し、より重い業務停止命令までは踏み込まなかった。
増資インサイダー問題をめぐっては、野村の機関投資家営業部がみずほフィナンシャルグループなど3社の公募増資の情報を公表前に投資家に漏らしていた。証券取引等監視委員会は7月31日、未公表の増資情報が事前に漏れることが常態化するなど不正行為を防ぐための体制が不十分だったとして、野村の行政処分を勧告していた。業務改善命令は、中国人の元社員によるインサイダー取引に関して処分した2008年以来となる。
(貼り付け終わり)
松尾 雄治 拝
【934】[1056][隠された歴史〕を読んで
副島先生の新刊「隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?」(PHP研究所)を読んで
この2ヶ月ぐらい、ずっと待っていた本が発売されました。副島先生の仏教論です。
私が鎌倉仏教について書いていたのも、じーっと待っているだけではだめで自分なりに研究しないと、副島先生の本を理解できないだろう、という思いがあったからです。
鎌倉仏教の歴史のさらにほんの20年~30年ぐらいの期間にも、私ごときはてこずってしまっていますが、1500年の仏教史をどのように副島先生が斬りまくっていくのか、興味がどんどん膨らんでいきました。
これまで、書店にならんでいる仏教本の多くは、仏教に外側から接近しようという人にむけて書かれたもの、高僧の伝記や思想の紹介、それからやたらと専門的なお経の解説書というようなものに満ち溢れています。けれどもそれらを読んでも、「何故に無宗教の現在があるのか?」とか、「日本国民と仏教徒の関係」みたいなことは実はわからないままではないか?
ところが現実に、宗教団体の内側にいる人は自分が属している宗派の優等性を盲目的に信じるよりほか、なにも残されていない。一般大衆にとっては「あほだら経」にすぎないお経を今日も唱え続けるよりほかはないだろう。まず16宗派=浄土宗・天台宗・浄土真宗・法相宗・真言宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗・三論宗・成実宗・倶舎宗・華厳宗・律宗・黄檗宗ほか(区分の仕方はひとつではないようだ)とやたらに数が多い。「仏陀の教え」と称しているセクトの数の多さがかえって、ブッダの教えそのものから人々を遠ざけているようにも見える。この背景には、鎌倉時代以来の、沢山ある教義のなかから、どれかひとつを選んでいいよ、という選択(せんちゃく=choice)という考え方があることも一因ではあるだろう。それぞれのお経の本当の意味などわからなくてもどれかひとつを選んで一生懸命念仏すればそれで救われますという考え方は、法然が唱え始めたものだ。(選択本願念仏集)もっとも現代の日本人にとって、主体的にどれかひとつの宗派に自分から帰依しようなどということは、まず考えにくい状況だが。
16もの宗派が残っている消極的な要因として、真っ先にあげるべきものは、江戸時代の初期に幕府がとった、宗門改め(しゅうもんあらため)・檀家制度による、民衆統制政策に寺社が利用されたことであろう。伝説になりはじめてもいる小室直樹博士記念シンポジウムにおいての副島先生の演説で、
「檀家制度の下で、江戸時代の農民は毎週寺で何時間も説教をきかされた。・・・今でも東大法卒の官僚がよくわからないやたらと難解な言葉を使って、民衆をだましつづけているが、『俺らはどうせ頭が悪いしなあ』とお上のいうことに従わされる。・・・そういう民衆たちの坊さんへの怒りが一回だけ爆発したのが、明治初期の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動だ」
とおっしゃっていましたね。
檀家制度、宗門改めはキリシタン摘発という口実で、民衆の思想統制を幕府が巧妙に進めていったので、これらはきっと、われわれ日本人の無意識の層に影響しているのである。
たとえば学校などで昔よく、いたずらをした子供は先生に正座をさせられたものであるが、正座が体罰になったのは、寺請制度で檀家にむりやりされた農民たちの肉体的苦痛、精神的苦痛が呼び覚まされるからだろう。少なくとも、「正座しなさい!」と命令する教師が、反省させて悟りを開かせようと思っているわけではない。そんな教師がいたら本当にこわい。
島原の乱(1637年)以後、最初はキリシタン(邪宗門)の人間を密告した者に対して、300両(五人家族が4年生きていける金額だという)の褒賞を与えるという幕府のお触れがだされた。民衆にとっては半信半疑、宝くじ当たるよ、みたいなうれしいニュースだっただろう。絵踏みだって、マリア像を踏むだけでいいのだから楽勝である。(クリスチャンの人が読んでたらすみません)でも実際、踏み絵に町家の娘たちは年中行事みたいに着飾って行ったということである。
しかし、気づいたときには全民衆が統制網にかけられていたのである。仏教寺院も末寺に位づけされたところではなにが起こっているのか、さっぱりわからなかったかもしれない。寺請け制度、宗門改め人別帳(にんべつちょう 所属する宗派が記録された戸籍台帳、)、などとともに五人組の相互監視体制もしかれていくことになる。
「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」という言葉は江戸期のこういう背景から生まれてきたのだ。ついでながら、これらの仏教を通した思想統制政策の元締めは、どうやら寺社奉行ではなく、大目付であったようだ。では寺社奉行は何をしていたのか。(寺社奉行というのは鎌倉時代からあったらしいが)これは、三重県の紀伊長島町にある、有久寺(ありくじ)という寺の住職からうかがったことであるが、寺社奉行は年に一度全国にある本山(ほんざん)の僧侶たちを集めて、各藩の内情を報告させたそうだ。だから僧侶は大名のスパイの役割も果たしていたのだ。「それは大目付の仕事ではないのか」、と思うかもしれないが、江戸幕府は二重、三重の監視体制を敷いていたのである。それは大名以外の監視対象についてもおなじことがいえる。
以上のような幕藩体制下の仏教の腐敗に対して、時代が下るにつれて、批判者が現れてきす。安藤昌益(あんどう しょうえき1703-1762 陸奥国八戸の医者)は自然真営道(じねんしんえいどう)の中で、法然や日蓮など聖人とされる高僧を口汚くののしっている。安藤昌益は封建制度の中で仏教が救いがたいほど腐っていることを訴えたのだ。私はこのような批判言説というのもアリなのだろう、と思っている。時として周辺から中央を批判する場合にはこのような言い方しかできない場合もあるのだ、と。私は農本主義というものをあえて敬遠していたので、詳しくはしりませんが、封建主義の批判者としてこれから少しは読もうと思っています。
さて前置きが長くなってしまったが、副島先生の『隠された歴史』では先生の他の著作と同様、外からの批判というのはしない。それはこの本のすべてに一貫している。つまり副島先生の毒にみちみちており、(ここでいう毒とは、たとえばワーグナーの音楽には毒があるというような意味です。)人生の中で出会われた人々への重たい思いが詰まっているのである。私がこんなことを書いているのは明らかに僭越なのであるが。
日本仏教16宗派の淵源や意味が、ブッダそのものの言葉と生き方から解明されていく。しかしまず、巻頭では中宮寺の如意輪観音像と広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟像(はんかしゅいぞう)は明らかに女性の像である、そしてそれらはマグダラのマリア像だ、といきなり読者はぶつけられる。このことについて少しだけ調べてみたのですが、仏像の名前にはいろいろあって、詳しいことはまったくわからないのですが、これは「女性だ(マリアだ)」と決定できるのはやはり「弥勒または観音菩薩立像」と「如意輪観音像」と名前がついている仏像で、「如来」と名前がついているのはだいたい男性像であるということです。(阿弥陀如来がすべて男性像だけとは断言できませんが。)「小金銅仏の魅力(中国・韓半島・日本)」村田靖子著という本を参考にしました。この本には10cmから30cmくらいのマスコット仏像(4世紀から13世紀)の写真が数多く収録されています。
ついでながら、小金銅仏には右手だけ頭上に高く上げた、上半身裸の男の子の像もあります。このポーズの像は誕生釈迦如来像(たんじょう しゃかにょらいぞう)というのですが、(「天上天下唯我独尊!」(てんじょうてんがゆいがどくそん)と叫んでいるところでしょう。)これは、なんだろう?と考えてみると、日本の太子信仰(聖徳太子信仰)とつながっているものなのかもしれない、と私は思います。「菩薩や観音はまだ仏になっていないのだ」という考えも中世日本にはあったそうで、太子もまだ天皇(または王)になっていないから同じという考え方が、東アジアに一般的に広まっていたそうなのですが、(小峰和明著 「中世日本の予言書」岩波新書p74)
それと、誕生釈迦如来がなんらかの関係がありそうだな、と勝手に考えています。
これまで観音菩薩や弥勒菩薩、如意輪観音が女性像(マリア)だということなどは一切いわれてこなかったのはなんでだろうか?いや隠されてきたのは何でだろうか。
みなさんも知のカーニヴァルのような『隠された歴史』をお読みになり、色々に考えてみられたらいかがだろうか?
田中進二郎拝
【933】[1054]「お金」と「性」、盛り上がってきました!
群馬のゆみこ(川端優美子)です。
きのう、『声に出して読みたい日本語』の齋藤孝(さいとう たかし)先生が書いた『座右のニーチェ』を図書館で借りてきて読みました。とても共感できるので、「この、ニーチェって人とは、気が合いそうだよ」と言ったら、母があきれているようでした。
ハル(2505)さんの【 [1047]お金と性に!私の場合】は、とっても面白いです。外国では、性に対してもっとリラックスした感じなんですね。性的な話をすると、そのあとうまく行く、というのは、大学時代に言語学の授業で聞いたことがあります。その先生はアフリカのまだ記録されていない言語を調べて記録していて、一年の半分はアフリカでフィールドワークをしているということでした(だから半年間は、よそからきた先生が授業をしていた)。この先生の授業はすごく面白かったです。そのアフリカでの話で、現地の男性たちから言葉を教えてもらうのですが、そのときに、女性器はどう呼ぶのかと聞くと、喜んで教えてくれて、そこからはすごく仲良くなれるそうです(この話をするとき、先生は「ここには女性もいるから、こういう話をするのはあれなんだけど・・・」と気を遣ってくれたので、わたしは、この先生はまじめでいい人だ、と判定しました)。
やっぱり「性」は世界共通!全人類が共有する悦(よろこ)びなんだ、と思います。
あと、お客さんに本音で対する、というのは素晴らしいです!やっぱり、お互い人間なんだから、本音でやって、それで意見が合わなければ、また今度ね、というのがいいと思います。ハル社長、すてき!
中国人に同化している(!)石井裕之さんの【[1050] [1053]フフホト通信(山東省青島市から)】を読んで、書きます。
わたしも石井さんと同じく、中国のカラッとした取り締まりのほうがいいです!うちの近所の道でも、よくネズミ捕りをしています。やるほうのおまわりさんも、この暑いのに大変だねえ、と思いますが、やっぱり嫌な感じがします。おまわりさんも暇だねえ、と思う。
それで、坊さんのことなんですが、石井さんのおっしゃるように、現代の坊さんは本来の仕事を忘れてしまっています。でも、他人(ひと)を変えるということはできないので、こちらが坊さんに対する見方を変えるしかない、とわたしはスピリチュアル本から学びました。
坊さんは偉そうにお説教するけど、自分はどうなんだ、ということですよね。副島先生がおっしゃる「言ってることと、やってることが違うじゃないか!」ということです。それを聞いて、普段ぼーっとしているわたしなんかは、ハッと気づくわけです。「ああ、そうか、現代の坊さんはおかしいんだ」と。なんかおかしいな、とうすうす感じてはいたけど、先生みたいな「知識人」とか、あとはこの学問道場に集まるレベルの高い人たちに教えてもらって、やっぱりそうか、と自信を持てるわけです。・・・ということは、石井さんの坊さん批判はとても価値がある、ということか・・・(ゆみこ、自問自答)。
あ、わかりました。わたしは、坊さんがおかしい、ということをすでにはっきりと分かったから、次の段階に行ったんです。次の段階とは「許す」という段階です。坊さんたちは、見かけは立派だけど、本当(中身)はまだレベルの低いところでうろうろしているんだな、それも学びだ、という風です。「レベルが低い」と言うと、偉そうですが、ほかにどう表現していいか分からないので、そう書きました。べつに、「レベルが左のほう」でもいいんですけど、それじゃあ分かりにくいから。
祖母の家であった法事で、いつも来るお坊さんは、当時、一世を風靡(ふうび)していた細木和子を批判していました。嫉妬心 丸出しでした。そして750ccのバイクに乗って帰っていきました。兄はそのバイクを「煩悩(ぼんのう)マシン」と呼びました。でも、そのお坊さんの上げるお経の最初の二、三分は、素晴らしい声でした。さすがはプロです。あれを聞かせてもらっただけで、ありがたい、と思いました。(お経って、最初だけ声張って、ええ声でやって、あとはごにょごにょとやるんですね。) おわり
【932】[1053]フフホト通信(山東省青島市から)
[1050]に続き、石井裕之がお伝えします。
香港のハルさまから、中国当局によるインターネットのアクセス規制の件をお伝え頂きました。非常にセンシティブと思しき「キーワード」をブロックしている可能性がある、というものです。
これは以前から感じていることですが、こちらに居ますと時期によって特定のサイトにアクセスしにくくなる傾向があります。
中国では、ユーチューブやツィッターにアクセス出来ないのは有名な話ですが、例えばヤフー日本語版に繋がりにくくなる時期もあるようです。
また、これも噂話に過ぎませんが、アジアビーチ大会がこちらで開かれていた大会期間中、周辺の携帯電話の通話を公安が傍受していたようです。
地元の中国人が口々に「気をつけろ」と私に耳打ちしてくれましたので、恐らく間違いないのでしょう。
これは国民性の違いとでも言いますか、非常に面白い傾向です。
日本だと同様のことを政府がやっていたとしても、役人が綺麗に隠蔽してしまい国民側からはそれと伺い知ることがありません。
少し違う話かもしれませんが、中国では交通取締りが日本ほど陰湿ではありません。道路の危険区域と思われる箇所には、一定距離毎に速度違反監視カメラが設置されており、ドライバーは否がおうでもそれを意識せざるを得ません。勢い、交通の流れ(自動車の速度の管理)を上手くコントロール出来ているように感じてしまいます。
これが日本だとどこで「ネズミ捕り」を仕掛けているのか判らず、結局メリハリのある運転が不可能になってしまいます。
本来、人の安全を管理するための役人が、自ら作ったツール(法律)を守らせるためだけに存在しているような始末です。本末転倒ですね。
何が言いたいか、と言いますと。
「ここは危ないよ」と声高にアナウンスしてくれるのが今の中国です。
逆に日本ではどこが危ないのか、役人に覆い隠されてしまっています。
双方に一長一短がありますが、私は何となく中国流が好きです。
【931】[1050]フフホト通信(山東省青島市から)
中国の山東省青島市から、石井裕之がフフホト通信をお送りします。
今回は話題豊富です。
先ずは尖閣諸島問題から。
1週間ほど前にアマゾンで「日本の国境問題~尖閣・竹島・北方領土」という本を、「テルマエ・ロマエ」等と一緒に注文して青島に送ってもらうように指定しました。いつも通りの手順です。
ところが、何と中国の税関で引っ掛かってしまったのです。「日本の国境問題~尖閣・竹島・北方領土」の1冊だけがどうしても入国出来ません。
理由は、高度に政治的な内容に触れている恐れがあるから、とのこと。
今まで何冊もアマゾンから中国に本を送りましたが、こんなことは初めてです。
結構ホットでジャストナウな題名の本をピックアップしていたのね、と感じ入っております。
では、日本にはこの手のことがないのか、というとそんなこともありません。
例えば、かの有名なブルース・リーの師匠の話が映画化されました。2部作です。結構な興行収入を記録しましたが、作品中の日本軍の扱いが非道すぎる、ということで、日本では配給会社が出てきませんでした。僕も大好きな映画だったので残念で仕方ありません。
最近では「フラワー・オブ・ウォー」という、チャン・イーモウの監督作品が大変話題になっています。彼の作品らしい、非常に綺麗な映像構成になっています。正にタメ息ものです。
しかし、日本軍による南京攻略が基本テーマになっていますので、日本での上映はタブーですね。配給会社がやはり決まりませんでした。
これにはオチがつきます。上海在住の雑誌記者(結構有名な経済雑誌に寄稿している、本当に有名な人)がこの映画を称して、「また反日教育が一段と激しさを増してきている」と言っていました。
なるほど、そういう見方もあるんだ、と感心させられてしまいまうのです。
「お前日本語が上手いな」と青島人に言われて一人ニヤつきながら、中国人に同化してしまっているので、どうも私の感覚がニブくなっているかもしれません。
閑話休題。
内蒙古で頑張っている筈の石井が、どうして青島なんだ?!
という話は以前に少しお伝えしたと思います。
40代以上の人にとって懐かしいと思いますが、昔「トゥナイト」という深夜番組がありました。藤本義一さんが司会をしていた、あの有名な番組です。
その「トゥナイト」で、一時、毎週木曜日に日本各地の温泉を紹介する、というコーナーがあったのを覚えておいででしょうか。
そのコーナーを担当していらした加賀尾雄介さんと言われる日本屈指の温泉プロデューサーが居るのですが、何とその方と一緒に今、青島で仕事をやっているのです。
日本では、中国の不動産業界が冷え切っている、という報道のされかたをしていると思います。ここ2年くらい、倒産している不動産会社が沢山あるのも事実です。さながら、今の日本の建設業界を観る様に、中国の不動産業界を捉えている人が多いと思うのです。
・・・・・が、事実は全く違います。
もの凄い勢いで、業績を伸ばしている会社も沢山存在します。
何が起きているのでしょう。
実は、「作ったら作っただけ売れる」という時代が終わりを告げ、「売れるべきものが売れる」という当たり前の世の中になってきただけなのです。業界が成熟してきたと言い換えても良いでしょう。その為に、特徴の無い会社が淘汰されただけなんだ、という解釈の仕方で良いのだと思います。
すると、普通にマンションを作って販売するだけ、というビジネスモデルは成り立たなくなってしまった訳ですから、ディベロッパーが次に考えなければならないのは、イカに自分たちのプロジェクトに特徴を持たせるか(普遍的な付加価値の創造)ということに尽きます。
その付加価値の創造に、日本式温泉が一役買っている訳なんです。
不動産開発計画の一等地に温泉を置き、それを取り囲むようにマンションやホテルが配置されていく、というモデルなら政府の開発許可が下りやすいのです。
そして、一旦認可を得るとそこに投資させろと、全国から金持ちが集まってきます。数十億円規模のプロジェクトに、投資家が次々と集まってくるのです。
誰ですか?中国人は貧乏人ばかりだ、なんて未だに思っている人は居ませんか?
日本では仕事のなくなった温泉プロデューサーですが、今の中国では引っ張りだこ状態なのです。ビックリではないですか?
因みに、中国で各地に我々が配布している温泉企画書が欲しい人(見てみたい人)が居たらメール下さい。日本語バージョンのものを送って差し上げます。
「群馬のゆみこ」さま
私の投稿をお褒め下さり痛み入ります。
クソ坊主のクダリですが、坊主に対する私の解釈はこうです。
坊主は民百姓の現世における苦痛を和らげる為に存在します。知識のない民を諭すのが仕事なんですね。
すると坊主自らはしっかりと苦行を積んで悟りを開かねばなりません。
何故なら、徳の無い坊主の話など「屁のツッパリ」にもならないからです。
そして、その行は毎日の生活の中にも戒めを作って、自らはそれを守ることによって研鑽に励み続ける必要があります。民はその坊主の真摯な姿の一点においてのみ尊敬の念を抱くのですから。
日本にもこのような立派な坊さまが沢山いらっしゃいます。
その方々は日々民百姓を救っていらっしゃる訳ですから、彼等の集めるお布施に課税なんかしてはいけません。だってみんなの為に働いている訳ですから。言ってみれば公共事業みたいなものです。
しかし、大方のクソ坊主は戒めを平気で冒しております。お布施も戒名料金も自分と自分の妻子の生活の為に使います。
こやつらは職業坊主ですから、納税の義務が生じます。
税務署も副島先生を虐めて楽しんでいる暇があるのなら、全国のお寺巡りを始めるべきですね。これホント!
【930】[1048]武道と五輪
渡邉様
ご教示ありがとうございます。
野口昭子「朴葉の下駄」は現在ちくま文庫で『回想の野口晴哉』として再販されています。所有していましたが読んでいなかったのでざっと目を通しました。「真意」という断章で自殺前日の近衛が描かれています。
野口晴哉『整体入門』も目を通しましたが、いわゆる整体ではなく「気」を中心として身体を整える霊術なので眉唾(まゆつば)です。しかし自分で実際に出来るようになれば信じてしまうかもしれません。
武道系はやはりヤクザネットワークに分類されると思います。ヤクザはまた右翼とつながり、右翼は皇室とつながります。こうして武道・身体研究系と皇室がつながります。近衛の娘と整体師野口晴哉がつながるのも納得です。
西園寺公一はIPRですから私の分析ではロックフェラー系です。同じくIPRのオーエン・ラティモアを通じて毛沢東を操ったのがロックフェラー系で、それの日本側カウンターパートが尾崎秀実になります。しかし津谷侑太論文ではイギリス留学時代の人脈に焦点をあてているので逆の結果になるので面白いですね。
さて世間はオリンピック一色です。オリンピックは欧州貴族の利権ですが、日本でも事情は同じです。旧皇族竹田宮の末裔がオリンピック委員に就任しています。
(転載開始)
<IOC>委員就任の竹田氏「20年五輪招致、私の責任で」
毎日新聞 7月27日(金)9時47分配信
日本人として13人目の国際オリンピック委員会(IOC)委員に就任した竹田恒和・日本オリンピック委員会(JOC)会長(64)が26日(日本時間27日)、ロンドン市内のジャパンハウスで記者会見。「今までやってきた五輪ムーブメントを広めることに携わっていきたい。特にアジアでのスポーツの推進に貢献していきたい」と抱負を述べた。
父恒徳(つねよし)氏と親子でIOC委員になったことについて「父を通して五輪を若い頃から見てきた。父がやってきた仕事で自分ができることをしていきたい」と語った。また、当面の課題として挙がっている来年9月に決まる20年五輪の招致について「IOCの仲間に入って新しい情報を得ることができる。20年の招致の勝利は私の責任にかかっていると思っている」と覚悟を示した。【百留康隆】
(転載終了)
そういえば「ロード・オブ・ザ・リングス」が原題で広瀬隆訳の『黒い輪』(ヴィヴ・シムソン他著、光文社)というオリンピックの内幕本があります。夏休みの課題図書にいいかもしれません。
【929】[1047]お金と性に!私の場合
「お金」と「性」は、そっか、人間関係か!に少し乗せて頂きます。
インテリの弱点かどうかは知りませんが、私の知合いのインテリだと思う日本人 は皆お金と性を大事にしてるし性を語らない人を信用しないとまで言います。
私 は今香港を拠点に中国を学んでいます。(今は2週間程成都へおりますが明日か ら桂林に行きます)。
私は歴史や学術やスピリチュアルとかは分かりませんが体 験を通して思う事は、男の最も大事なのは性で女はお金ですね。だから男はお金 を必要とするのでしょう。
私は昨年の今頃イスタンブールへ行きましたが、トル コ人とも性に関しては話しましたがとても凄いです。私はどこへ行っても彼らと 直ぐ性の話をしますが大体はうまく行きその後は本音の話し合いが可能となりま すね。
(日本とアメリカでは性の話はしない方がいいと思ってます。日米は庶民 が教育されすぎて行儀よすぎるから)。
その点中国人も実に凄い。さすがに中国 もトルコも大国だなと思います。トルコ人は親日で。。。とガイドブックに書か れてますが性の話をして本音の話になると彼らは今の日本をバカにしてます。は っきりといいます。トルコは日本と異なり大統領が立派だからとか平気で言う。 それで私がまあトルコもGDPが世界5位くらいになればもっと縛られるよと言っ てあげましたが彼らは気にしません。
今の日本程庶民の統制がうまくできてる国 は少ないのではないかと思ってます。
ビジネスをしても「お客様は神様」とか言 って社員にもそんな教育をする会社すらある。それでは日本の会社が世界で儲か るはずが無い。私は昔から社員に「お客様は悪魔だと思え」と言ってます。お客 様には本音で厳しく対応せずして儲かるはずがないと私は思ってます。私はいつ も本音で語るようにしてます。お金と性を語らず理解し合えるとは思えないです。
【928】[1046]場所の力
会員番号1149番の茂木です。
建築について書いたブログ記事をこちらにも転載しておきます。
http://celadon.ivory.ne.jp
眼目は、
「世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。」
というところです。これは建築だけではなく、物理や医学その他sciece全般に言えることだと思います。ご意見などいただければ嬉しく思います。
—————————————-
場所の力(7/31/2012)
先日「都市の中のムラ」の項で、建築家隈研吾氏の“新・ムラ論TOKYO”(清野由美氏との共著)を紹介したが、“場所原論”隈研吾著(市ヶ谷出版社)は、同氏が、己の建築思想をさらに自作18事例と共に語った優れた本である。副題には、“建築はいかにして場所と接続するか”とある。まず解剖学者養老孟司氏の書評から引用しよう。
(引用開始)
生きものは「場所」に生きている。昆虫を調べていると、しみじみとそう思う。同じ森の中でも、特定の場所でしか見つからない。
それに対してヒトは生きる範囲を徹底して広げた。さらに近代文明は遠い場所どうしを縦横につないで、途中をいわば「消して」しまった。横断の典型が新幹線であろう。それによる被害を回復しようとして、海山里連環学や、川の流域学が生まれてきている。著者が場所と人の身体との関係性の回復をいう言葉の中に、私は似た響きを聞き取る。世界の重要な部分を切れ切れにしてしまった現代文明に対して、そこには未来の息吹が明らかに感じられる。(中略)
著者は現代建築が現代建築になってしまったそもそもの始まり、そのいきさつを最初に語る。「建築の歴史をよく検討してみれば、悲劇から新しいムーブメントが起きている」。その典型として、一七五五年のリスボン大地震を挙げる。この地震を契機として近代が始まったと著者はいう。人々は「神に見捨てられた」と感じ、「強い建築」に頼ろうとした。それが最終的には鉄とコンクリートによる高層の建物を生み出す。もちろん著者がこう述べる背景には三・一一の大震災がある。ここでもまた、大きくか、小さくか、人々の考え方が変わり、歴史が変わるに違いない。「建築の『強さ』とは、建築物単体としての物理的な『強さ』のことではないのです。建築を取り囲む『場所』の全体が、人間に与えてくれる恵みこそが強さであり、本当のセキュリティだったのです」(後略)
(引用終了)
<毎日新聞 6/3/2012>
養老氏と隈氏には、今年2月に出版された“日本人はどう住まうべきか?”(日経BP社)という共著もある。
水や石、木や和紙などを巧みに使った18の事例はどれも素晴らしいが、この本には、インターナショナリズム、ユートピア主義、アーツ・アンド・クラフツ運動、モダニズム、ポストモダニズムといった西洋建築思想の流れが、プラトンとアリストテレスから始まりデカルト、カント、ハイデッガー、デリダに至る西洋哲学の変遷と併せて記述され、その上で、隈氏の考えるこれからの建築のあり方が提示されている。詳しくは本書をお読みいただきたいが、大雑把に言えば、これまで西洋建築思想は、普遍主義をベースに、プラトン的な「客観的構造論」とアリストテレス的な「主観的空間論」との間を行ったり来たりしていたけれど、これからは、「コトの起こる場」をベースに、この二つ(「客観的構造論」と「主観的空間論」)のバランスを取っていくことが求められるというものだ。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の項で述べたように、これからの時代、建築は、建物という「モノ」自体よりも、「コトの起こる場」の力を大切にする考え方が重要になってくるわけだ。
私の「複眼主義」に引き付けていえば、「客観的構造論」は脳の系譜、「主観的空間論」は身体の系譜に分類できる。その二つをバランスさせる「場所」は、「都市の中のムラ」であり、そこに暮らす人々である。隈氏の「場所」の定義を本書から引用しておこう。
(引用開始)
場所は単に体験の対象ではなく、生産する開口部なのです。その開口部から地に足のついた建築が生み出され、大地と一体となった生活が生み出されるのです。
「生産」という活動に目を向けたとき、突如として、「場所」は光り輝き始めます。開口部(場所)の力によって建築と生活とがひとつに結ばれ、建築をきずなとして、場所と生活とがひとつにつながれるのです。
「開口部」という言葉に注目してください。開口部とは本質的に小さいものなのです。小さいからこそ、それを開口部と呼ぶのです。だだっぴろく、とりとめのない大きな世界の中に存在する、小さな開口部が「場所」なのです。
場所とは、そもそも小さいものです。小さいからこそ、ものをふるいにかけ、生産を行なうことができるのです。「国家」という場所は、すでに大きすぎるのです。もっと小さな場所こそが、場所と呼び得るのです。
(引用終了)
<同書 30ページ>
隈氏のいう生産のための「小さい場所」とは、「ヒューマン・スケール」の項で紹介した平川克美氏の「いま・ここ」(小商いの場)という概念とも重なる。
世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。