重たい掲示板

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大川晴美 投稿日:2012/09/03 07:55

【957】[1084]日本原子力学会が事故調査委員会を設置

会員の大川です。日本原子力学会の「東京電力福島第一原子力発電所事故に関する調査委員会」について、考えたことを述べます。

今年(2012年)8月17日、日本原子力学会は「東京電力福島第一原子力発電所事故に関する調査委員会」(以下「学会事故調)の発足を発表した。2013年末を目途に調査結果を公表するという。
http://www.aesj.or.jp/info/pressrelease/PR20120817R.pdf

福島第一原子力発電所の事故については、これまでに政府、国会、東電、民間が調査報告書を公表している。事故の現象面と教訓については政府の最終報告書に書かれているが、未だ事故の核心に迫っていないもどかしさを感じた。

たしかに報告書では、東電と政府の対応や住民避難に関する問題と教訓などはわかりやすく書かれている。しかしながら技術的な観点、たとえば原子炉の設計そのものに欠陥はなかったのか、40年前の古いタイプであることと関係があったのか、沸騰水型と加圧水型で事故発生の可能性は違ったのか、などの疑問には答えていない。つまり、今回の事故は、技術面において福島第一原発ならではの特殊な事故だったのか、それとも原発全般に適用し得る問題があったのか、という点が解明されるべきなのだ。

なぜなら、これらの技術的な疑問が解明されなければ、現在日本に存在している他の原発も同様の事故を起こし得るのか、異なるタイプであれば起こり得ない事故だったのかなど、「他の原発の安全性をどのように考えるか」という議論に発展させることができないからである。さらに、原発はすべて廃止すべきなのか、あるタイプの原発のみ廃止すべきなのか、安全性を高めた最新型の原発に全て置き換えるべきなのか、というような議論にもつながらない。

原子力発電所は様々な技術の集合体で、多様な分野の専門家が協力して設計・稼働するものであるから、今回の事故の検証においてもこれらの専門家の英知を結集し、協力して解明しなければならない。技術面の解明は、たとえ理工系でも専門が違えば不可能である。だから、原子力の専門家が集まる場である日本原子力学会による事故調査・検証は、絶対に必要なのだ。

とはいえ、学会の構成員はそれぞれが独立した科学者・技術者である。事故に対する意見は当然異なるだろう。しかし、意見が異なる時に、学会の政治力学や外部からの介入や「偉い先生」の意見で決まるようなことがあってはならない。今まで散々批判されてきた「原子力ムラ」から脱却するために、個々の科学者・技術者の良心のみに基づいて事故の調査・検証に取り組むことを、強く希望する。また、報告書は一般の者にもわかりやすい言葉で書いてほしい。そして、一般の者ももっと原子力の勉強をして、専門的な報告書でも必死に読んで理解すべきだ。勉強もしないで、どうして原子力のことを語れるだろうか。

以下、8月17日のプレスリリースから抜粋する。

(転載始め)
 学会事故調は、原子力の専門家で構成される学術的な組織の責務として、今回の原子力事故とそれに伴う原子力災害の実態を科学的・専門的視点から分析・把握し課題を抽出するとともに、背景と根本原因を明らかにして、原子力災害につながる事故を二度と起こさないことはもちろん、原子力の安全の継続的な向上を図るよう改善策の提示、提案を行うことを目的としています。また、自らの組織的・社会的な問題点とも向き合い、事故を防げなかった要因を明らかにして、必要な改革を行うことも重要な目的です。学会事故調の検討結果は、今後の学会の組織や原子力安全研究を始めとする学会の活動などに確実に反映させていきます。
 委員長は、田中知 東京大学教授(平成23年度会長)が務め、委員は、専門分野毎に設置されている部会等を代表する委員を中心に構成されています。(別添リストのとおり)
(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 06:00

【956】[1083]福島本部活動日誌です103

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年8月5日、6日の日誌です。

5日は疲れていて、ほぼ一日休んでいました。
朝起きて、昨日酒を飲んだ時に残ったものを食べました。カツオの刺身は変な味がしましたが、構わず食べました。
布団を干し、少量ですが洗濯をしました。

午後にHさんは、川内であったバイクの集まりに顔を出しに行きました。
http://hitonoekidaihyou.blog89.fc2.com/blog-entry-694.htmlでしょうか?)
夕食は、船引の洋食屋にHさんに連れて行って貰いました。大変有難う御座いました。
船引の公民館の反対側にある店で、普通に食べられる店でした。
帰り道の288号線は、民家の灯りが随分ついていました。ただし、元から殆ど街灯がついていません。

6日の午前8時50分のバスで、Hさんは帰りました。
この後、福島市で用事があったそうです。
なお、帰る前に
「4日のNHKのディレクターは写真に撮っておけばよかった。残念だった」
と、二人一緒に嘆きました。
確かに、NHKのイメージとはかけ離れた、素敵な人でした。

6日午後1時、東邦銀行の車両型店舗が川内方面に走っていきました。

http://www.kawauchimura.com/category/delicious/を見る限り、川内村の飲食店が二店再開しているようです。

午後、プラスチックゴミを捨てに行きました。中が梱包のビニールなど外に出しておいても大丈夫なものでした。

夕食は、ご飯、4日の夜にお酒を飲んだ時に余ったイカのリング揚げと焼き鳥、でした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月7日、8日の日誌です。

7/7の日誌をやっと書き上げました。
仕上げるのに二日間かかりました。
気を紛らわせるために、豚ばら肉300グラム、ゴーヤ、ピーマン、茄子、チンゲン菜、ブロッコリー、をそれぞれ別に炒めて、食べました。

布団を4枚干しました。
燃えるゴミを出しました。

明日から秋葉原に行くので、その準備をしました。
明日から暫く、PC前から離れます。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月9日、10日の日誌です。

9日の午前中は、洗濯や皿洗いなど、できるだけの家事をしました。
それが済んだら、体を休めました。
今回は、企業ブースでの買い物(の代理購入)を頼まれていたので、気合を入れていきました。
http://0taku.livedoor.biz/archives/4265823.html

午後3時46分のバスに乗り、磐越東線と東北本線と京浜東北線で秋葉原駅に午後9時20分に到着しました。
(午後4時35分のバスより、圧倒的に効率良く都心に到着できます。)
東北本線内は、帰省する人が多いのか、スーツケースを持っている人が過半数でした。
このままコミケの会場まで行く人は何人いるのか、少しだけ興味がありました。

宿泊のために、ネットカフェに入りました。
「ゆりゆり」を読んで「きゅひぃひひ」と奇声を発するようになった私の汚れた心を、「女子高生Girl’s Live」を読むことで浄化しました。

(大島永遠先生の「女子高生Girl’s High」は、男だったら、幻想を破壊するための必読書だと思います。
「マリア様がみてる」、「ゆるゆり」、「ハツカレ」、「ニセコイ」といった作品を読んだ後に読むと、天国から地獄にドラッグをやりながら落ちていく感覚が・・・わかるかもしれません。
女子高の「ムダ毛の処理」、「生理」、「衛生観念」、「性欲」といった事柄が、コメディタッチで・・・ありながら生々しく描かれています。
「性病」などの重くなりがちなテーマは微妙に外してあるのも、商業作家さんとしては優れています。
12歳の頃に、本当に正しい情操教育がしたいなら、↓の4ページは文化遺産だと思って熟読しておくべきです。この本に6年前ではなく、16年前に出逢いたかったです・・・。


たとえ二次元に逃避するにせよ、その前に、「二次元のヒロイン達も、主人公と会う前に、ムダ毛の処理などをしているんだろうなぁ」くらいは想像しておくべきです。
なお、私は寧ろ、そういう二次元のヒロインの方が萌える・・・というか愛おしいです。ま、結局三次だと惨事なのですが・・・。
なお、大島永遠先生は、コミケ3日目に出展されていたのですが、予定がつかず、並べませんでした。
http://oshimatowa.blog42.fc2.com/blog-entry-450.html

ネカフェを9日午前4時37分に出て、京浜東北線、京葉線、りんかい線を使って、国際展示場駅に行きました。
りんかい線の始発で来たので、超満員の電車で、改札は写真のようになっていました。熱射病対策として2lの水を持っていったので、重くて大変でした。

http://www.youtube.com/watch?v=I2SeUI405d8&feature=related
列に並ぶ時には、既に正門前に(10000人くらい?)列が出来ていました。

http://www.youtube.com/watch?v=gZCdIFtZd4o&feature=youtu.be
(参考までに、昨年冬の正門前の行列を挙げておきます。http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=QwfZZG4Q_FE
これの他に、東門の駐車場の方に、さらに長い行列があります。)

列に並んで場所を取った後、体力温存のため、近くのホテルのモーニングバイキングを食べに行きました。
1470円もかかってしまいますが、実は喫茶店に入るより、こっちの方が安いですし、体力温存にもなります。
(なお、この方法を発見できたのは最近です。また、列を離れますので、戻れなくなる危険もあります。)
(ここから撮った動画もあります。http://www.youtube.com/watch?v=lsI6kj1JO74&feature=youtu.be
トイレを済ませた後、午前8時40分に列に戻りました。午前8時45分には列に戻っていなければいけないので、危なかったです。
それから、ペットボトルの水を衣服に少しずつかけて、暑さを凌ぎました。(←飲むとトイレに行きたくなるので、周りに迷惑をかけないよう気を払った上で、体に少しずつかけるのが安全です。)

午前9時30分頃から入場のために列が少しずつ動き出したのですが、外人さんたち5人ほどが、私の10m前の列の所から割り込んでいました・・・。
午前10時の開場から30分して、ようやく企業ブースのある西会場に入れました。更に2時間列に並んで、絶対に確保すべきものを買えました。
ここから更に3時間かけて、頼まれていた企業の販売物と無料配布物を取り終えました。全部で10個ほど、金額にして4万円ほどかかりました。
こんなキツい回り方をしたのは、雪のコミケの時以来です・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=m-6mlFqm7-g
に、企業ブースの半分が紹介されています。が、私が回ったのは、映像で紹介されていないもう半分の方です・・・。)
会場から帰る途中、流石に直射日光の中7時間並んでいたので疲れましたので、ゆりかもめ豊洲駅で2時間弱休んでいました。
そのため、反原発デモの撮影には行けませんでした(スミマセン・・・)。
http://www.youtube.com/watch?v=atzqeJmAlm8

午後7時、秋葉原でZさんと夕食を食べました。
購入した4万円のうち1万円分をあげました。
また、残りの3万円分を、代わりに郵送してもらうことになりました。(最終目的はドイツですが、無事税関等を突破して届くのかはわかりません・・・。)

午後11時5分、ネットカフェに入って休みました。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 05:50

【955】[1082]福島本部活動日誌です102

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月28日、29日の日誌です。

(菊池さんはここの二階に、8月に入居するそうです。
移って来てみてからどうなるのか、予想はつきませんが、・・・・・・・・・・・・ま、月の半分なら、問題ないかとも思います。)

菊池さんが、南相馬の野馬追に29日に出店を出すので、それに行くことになりました。

28日午前11時に3人が車で来て、そこに荷物を積み込んだ後、私も南相馬に行きました。午後1時45分に野馬追の会場に着きました。
会場では、割と静か目の初日が行われていました。

道路を、衣装を着た人が乗った馬が、時折通り過ぎていきました。

馬つながりで、ゲル(http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲル_(家屋))を出店の場所に建てる予定だったらしいのですが、作り方が十分に分らなかったのと地面が凸凹だったので、断念して普通のテントをたてることになりました。

午後3時前後で初日は終わったようで、行列になって脇の門から出て行きました。

午後4時、レンタルのプロパンガスが来ました。
一人は必ずテントに居るように、とレンタル会社の人から念を押されました。

午後9時、あるビジネスホテルの風呂に入りに、男3人で行きました。
途中で見えた南相馬の道の駅は、キャンピングカー等で満杯でした。
夕食は、道の駅近くの焼肉屋で食べました。
Kさんは、昨日から運転し通しで疲れていたようで、閉店する29日午前1時まで休んでいてもらいました。

Nさんは、なかなか格好良い大学生でした。
お父さんがイラン人で、バンクーバーに長く居たそうです。
(被災地を見られなくて残念そうだったので、写真を見せました。)

(←二枚目は、29日準備中の写真です)

29日午前2時にテントに戻り、私は持ってきた寝袋を使って休みました。(酷い寝床でした・・・。)
KさんとNさんは、車(ハイエースだったと思います)で休みました。

29日の午前7時から準備が始まりました。

午前8時、お手伝いのSさんという女の人が来ました。
作業をしながら、南相馬のことを少し訊きました。
午前8時40分、もう一人のお手伝いの女の人が来ました。
どちらのお手伝いの人も
「地元の人は、飽きちゃって来ない人も多いんですよね~」
と言っていました。

作ったのは、キルギスのうどんと水餃子でした。

午前10時に開店しました。
私は玉葱を切るのを手伝った後、水餃子を大量に包み、客の呼び込みをしました。

とても暑かったので、売れ行きは良くなかったです。

昼ごろに野馬追会場の観客席を見てみると、人で一杯でした。
(←この写真では、上のほうしかわかりませんが・・・)

午後0時半ごろ、消防士の人2人が手伝いに来ました。
余ってしまった餃子を、消防士の人が揚げ餃子にして、新商品に加えました。


午後3時まで売って、店仕舞いとなりました。

2日目の道路は、結構本格的な甲冑を身にした人が、騎乗していました。

28日よりも馬の数は多かったです。


読売旅行社のツアー団体が近くを歩いていました。

店を片づけた後、一度、荷物の積み下ろしのために、ビジネスホテルに行きました。
南相馬のビジネスホテルには、原発関連と思われる車両が停まっていました。

午後4時に南相馬から帰りました。
途中で野馬追帰りの渋滞に巻き込まれ、更に川俣町山木屋を通るルートを通ったこともあり、1時間半遅れて、午後8時に事務所に帰り着きました。
Kさん達は、さらにこの後東京に戻ったのですが、レンタカー返却期限の午前0時に間に合ったのか心配でした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月30日、31日の日誌です。

野馬追で使ったものの片づけをしました。
燃えるゴミを出しました。
掃除機をかけました。
洗濯をしました。
車のエンジンを10分かけておきました。
外用サンダルを干しました。
駐車場の草を毟りました。
布団とソファーと枕カバーを干しました。

唐突に「海に行きたいかも・・・」などと呟いていました。
8月10日から有明に行くので、別にいいか、とすぐに思い直しました。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月1日~3日の日誌です。

(菊池さんから、入居は10月からになりそうだと、メールがありました。
一度実家に戻って、諸事を済ませなければならないそうです。)

古道体育館に工事の人達が入っていました。
公民館の方にプレハブが建っていました。
話を聞いてみると、外壁に多数の割れ目があるのと、館内の床が酷い歪み方をしているそうです。

1日、野馬追の出店で余った食材を、大家さん、Yさん、みや古旅館、ガソリンスタンドのWさん、に配りました。
配ったのは、ナツメヤシ、短角牛のひき肉を冷凍させたもの、うどん、でした。
なお、Yさんからは、お返しとして野菜類と漬物を頂きました。

2日、布団を干しているフェンスを、たわしで2時間洗いました。
フェンスはすぐに乾いたので、布団を6枚干しました。
運動靴を洗いました。
ソファーを干すついでに、冬用の防寒靴を干しました。

3日、草刈りを3時間しました。
直射日光の中の草刈りは堪えます。
草刈りの途中で中田先生から電話がかかって来て、福島に避暑に行くべきか訊かれたので、止めておいた方が賢明だと答えました。
気温の差が大きいと、日中は余計に暑く感じます。
それ以上に、都路は虻が多くて、夏こそ長袖と長ズボンでいなければなりません。

3日午後4時、Sさん一家(Sさん、奥さん、息子さん)が来ました。
4月のツアーにも参加した方です。
焼き菓子を頂きました。
ペットボトルのお茶とゼリーをお出ししました。
この後、おそらく車で検問所方面に行ったようです。

相も変わらず、食材の残りで酷い食べ物を作りました。
焼き鳥のタレを使った炒飯もどき、でした。
衛生上だけ気をつけるのが精一杯です。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月4日の日誌です。

午後2時、事前の連絡通り、Hさんと、ご友人のKさんが来ました。
(Kさんはhttp://www.r-system.co.jp/の社長さんです。ヨット仲間だそうです。)
お二人が都路灯祭り(http://www.minpo.jp/news/detail/201208052892)で水羊羹を無料配布するので、そのお手伝いに私も同行しました。

(以前、ビッグパレットでの炊き出しもお二人でされたそうです。
「イベント屋としては、震災の状況でも動けるのを示せる事こそ後々の財産になると思った」という発言に感心しきりでした・・・。)

午後2時半から8時半まで、水羊羹を配布し続けました。
2000個弱配布しました。
なお、私はひたすらに、スプーンを入れてパックを閉じて必要な分だけビニール袋に詰めていたのですが、3個落としました・・・。

午後3時から、特設ステージの方で演歌や合唱等が始まりました。

午後3時半前後に、地元のテレビ局と思われる人達がインタビューをしていました。

福島民報社の人と朝日新聞社の人が来ていて、水羊羹を食べていました。
NHKのディレクターが来て、Hさんとしばらく話をしていました。Hさんがここに出店するきっかけとなったドキュメンタリーを作ったディレクターさんだったそうです。

船引の仮設住宅からバスが出ていたようで、避難している地元の人が来ていました。

5時ごろだったと思うのですが、村の偉い人と並んで、玄葉光一郎外相が挨拶しました。
そのため一時間ほど前からSPの人達がスーツ姿で警戒していました。

「外務大臣を辞めた後は地元に戻って地元の土になるなんとかかんとか」と言っていました。

他の人も含めて、挨拶が長過ぎでした。
挨拶後に、拍手も何も起きない、全くの無反応だったのが気になりました。
いっそ野次が飛んだ方がまだ楽だったのではないかと思います。
Hさんが「SPに聞こえるように『東京で言ってみろよ。野次来るぞ』と言ったら、SPは苦笑いをしていたよ」と言っていました。
(玄葉外相の地元は船引なのですが、果たして都路は地元と言っていいのかわかりません。
既出のことですが、都路は田村市全体の中で船引より力がないので、何かを市でする際も後回しになっていることが影響しているのかもしれません。)

夜になって、竹筒に入った蝋燭に火が灯されました。

午後8時半、羊羹を配り終え、事務所に戻りました。
会場を後にする時、下の駐車場では、絆という文字を竹灯で作っていた事に気づきました。
参加者からKさんに「有難う」と声が飛んでいました。

事務所でお酒を飲みました。
その後、外風呂に入りました。
Hさん、Kさん、共に格好良く、感激しました。(Kさんの漢らしい話を聞いてしまったのですが、書くと性的嫌がらせだと思われてしまいそうですので、止めておきます。)
午後11時前後に順次眠りました。

Kさんは8/5も仕事があるようで、午前4時に起きて、東京に帰っていきました。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 05:39

【954】[1081]福島本部活動日誌です101

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月18日の日誌です。

午前7時発の電車で船引駅に戻りました。
船引駅のあたりは、船引中学と船引高校に通う学生で一杯でした。

仮設住宅下にバスが停まっていました。
仮設住宅の子供たち20人ほどが乗り込んで、3人の母親が見送りに来ていました。

仮設住宅の近くにヤマダ電機が新しい店舗を開く準備をしていました。

セブンイレブンで、銀行口座にお金を入れました。アマゾンで使う必要があるので、かなり減っていました。
ダイユーエイトに行って合鍵を作りました。ついでに半額の食料品を購入しました。
多分これで、菊池さんが入居する際の細かな用事は済んだ、・・・と思いたいです。

午前10時53分のバスで、事務所へ戻りました。

午後4時55分、事務所の写真を撮っている二人の人がいました。
車で写真を撮って、すぐ去って行きました。(ただの見物人だと思います。)

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月19日~24の日誌です。

この期間は、気温変動が余りに激しく、東京に避難したくなる程でした。
22日の最高気温は室内で22度(外の最低気温は15度だったようです)だったのですが、23日の最高気温は32度を越えていました。
(対応にもかなり疲れました。)

19日午後2時39分、上海グループと書かれたバスと田村市のバスが、原発方面から郡山方面へ走っていきました。
黒いガラス越しでは中は見えなかったのですが、普通の人がいるようでした。
これまでは川内に向かうトラックが目立っていたのですが、原発に行き来する車の量も戻ってきました。

22日午後10時半、警視庁の二人の人が見回りと言って訪ねて来ました。
葛尾あたりを巡廻しているそうで、福島に来るのは三回目だと言っていました。電気がついている家を時々訪問させてもらっているそうです。
なにか変な人物はいないか聞かれたので、私の方が教えて欲しいくらいだ、と答えました。
なかなか丁寧な対応で、岐阜県警のように不快になることはありませんでした。顕名した警官は初めてだったので、むしろ好感をもちました。

23日の午後は建物の裏の草刈りをしました。晴れたので、ついでに自分の布団とソファーも干しました。
木の切り株が雑草で隠れているので、裏の草刈りが危険です。怪我しそうになることがあります。
生憎と快晴の日で、草刈り機のモーターを気にしながらだったので、余り進みませんでした。
午後3時40分頃に疲れて、道具をしまい始めたら、雨が降ってきました。偶然とはいえ幸運でした。

食事は、ご飯、サンマ、カレイの味噌漬け、豚肉を焼いただけのもの、味噌汁もどき、キャベツ、レタス、生のピーマン、セロリ、白菜と人参とチンゲン菜を炒めただけのもの、牛乳、お茶、ヨーグルト、を適当に食べていました。
サンマとカレイについては、お客様用に冷凍してあるものだったのですが、出せる機会もなく保存期限の大幅切れを迎えてしまい、自分で食べることになりました。
お客様にお出しするもの、については、お茶とペットボトルのお茶「だけ」あれば、充分のようです。(菓子類などは、あっても邪魔になるだけでした。)

19日の午前中に、ダンボールと大量の新聞紙を捨てました。

写真とビデオですが、「とりあえず何をどこまでどうしたらいいのかわからない状態」という、良くない状態に陥ってしまっています。
もうしばらく、解決には時間がかかりそうです。

(転載終わり)

(転載始め)

重たい掲示板に画像を載せるため、その作業にかかりきりでした。
なんとか画像を載せられましたが、まだ慣れないです。
西槙さんにとてもお世話になりました。

布団とソファーを干しました。
ただ、返す返すも天候が急変するので、干しにくいです。
これで、小物も含めた干すべきものは、完全に一通り干せました。安心しました・・・。

掃除機をかけました。
でもやはり下手なので、脇のほうにゴミが残っています。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 05:30

【953】[1080]福島本部活動日誌です100

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月8日~11日の日誌です。

7/8は、7/6と7/7の疲れが出て、余り動けませんでした。

菊池さんが二階に住める様に、整理等をゆっくりしていました。

掃除機をかけましたが、私が下手なので、余り上手くかけられていません。

布団を干しました。4日間で19枚干せました。あと8枚残っています。
冬があることを考えると、どうしても布団の枚数が多くなってしまっています。
併せて、ソファーと座布団を干しました。
外用のスリッパも干せました。

11日の11時ごろ、妙に掃除をしたくなりました。
トイレ掃除と通路のモップがけをしました。
台所に食べ物が置いてなければ、台所とコンクリート通路のブラシがけもやりたかったです。
腹立ち紛れに、車のエンジンを10分かけました。我ながら変なストレス解消をするものです・・・。

蜘蛛の巣をとりました。けっこうアブがかかっていました。

駐車場の割れ目から生えている草を毟りました。
地味に大変でした。

流しを掃除しました。

小さい蜂の巣が、建物の階段裏に出来ていたので、駆除しました。アース製薬のマグナムジェットの効果は絶大です。
ついでに蜂を3匹、アブを5匹、駆除しました。

蚊取り線香で蚊を駆除しました。締め切っていても、どこかから蚊は入ってきているようです。

食事は、豚ばら肉を焼いただけのもの、ニラと葱と卵の炒飯、ラーメンに南瓜やセロリや小松菜やモヤシを炒めて入れたもの、人参と里芋を炒めて添えたレトルトカレー、でした。
ゆっくり三日かけて同じものを食べました。
なんだか野菜ばかり食べていて、偏った食生活になっているかもしれません。

10日午後4時ごろ、「Hazama」(http://www.hazama.co.jp/index.html)というロゴの入ったバス2台が、原発方面から郡山方面に288号線を帰っていきました。
11日も、ほぼ同じ時刻に同じバスが1台通りました。
乗っていた人は、いかにも作業員という格好でした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月12日~15日の日誌です。

菊池さんから電話があり、16日に引越しする、との予定を伝えられました。

天候不順で、除湿機を取り出しました。今が梅雨のような天気です。
殆ど布団を干せませんでした。
雨の降っていない時間に、駐車場の草毟りと、草刈り機の届きにくい箇所の草取りをしていました。一日2時間ほどだったので、あまり進みませんでした。

13日午前11時30分、豚を乗せた家畜運搬車が川内方面に走っていきました。

14日午後4時26分、FTV8と書かれたテレビ放送車が、原発方面から郡山方面へ帰っていきました。なにか調べる事を私は見落としていたのでしょうか・・・?
常葉町のムシムシランドの再オープンが14日だったのですが、そのj関連ではないはずです。
ムシムシランドにも行きたかったのですが、天候不順だったので諦めました。

14日の夕方、なぜかストレスを感じたので、石井魚店に行って大量の食材、特に豚肉を買い、ご飯を炊いて、食べました。
食材だけで1489円もかかってしまいました。

15日午後0時42分、「かねあき交通」の二台のマイクロバスが、川内方面から郡山方面に帰っていきました。
中に乗っていた人が、作業員なのか、警戒区域の避難民なのかは、区別できませrんでした

この4日間は、Hazamaの車は見かけませんでした。

食事は、ご飯、納豆、ヨーグルト、もずく、生のキャベツとピーマンとレタス、スパゲッティ、レトルトのカレー、人参や里芋を炒めただけのもの、矢吹さんの奥さんから頂いた蕗と蕨の炒め物、豚肉、ニラと葱の炒飯、を順に食べていました。

ツイッターでよく話す中国の人から記事を紹介してもらいました。
記事の「大意はドイツのエネルギー企業(主E.on、RWEとEnBW)は政府の脱原発の決定によって最低150億ユーロの損失を被る。そして政府を告訴する」とのことでした。
http://www.tagesschau.de/wirtschaft/atomausstieg242.html
(関連して「わたしにはそれも理解できないわけじゃないけれど。なんと言うか、万が一何か起きたら(福島みたいな)、流石に日本にとってその ダメージは大き過ぎるだ。日本の面積はこういうぱいで大問題だ。でもそれ故に資源が乏しいの日本にとって、原発は目前に唯一の道だ。この矛盾の解答はいないだろ、新エネルギーが実用化されるの前。」とツイートしてました)

(ツイッターで
「・・・なんでみんなそんなにアニメ見る体力があるんだよ。」
と泣き言を言ったら、中田先生から
「甘いな。」
と返されてしまいました。)

(転載終わり)

(転載始め)

布団とソファーを干しました。

菊池さん、Nさん、それから共同通信の記者さん(と思われる人)が、午後3時半に来ました。
途中で長泥のあたりを通ってきたそうで、長泥には見物客がいたそうです。
菊池さんの荷物を、皆で二回に運び込みました。
菊池さんに事務所の鍵を渡しました。
共同通信の記者は、時間が無いとのことで、来て10分ほどで帰りました。これから仙台空港経由で帰るそうです。
菊池さんとNさんは、出したペットボトルのお茶と餅のような菓子だけ摂った後、菊池さんが7/18に東京で仕事とのことなので、帰りました。
この際、何本かのペットボトルのお茶は、あらかじめ冷蔵庫で冷やしておいた方が良い事に、昨年の夏に続き気づきました・・・。
菊池さんに生活等で伝えておいた方がいい事は、次の機会に説明します。(いざとなったら電話で伝えればいいですし、そもそも差し迫って伝えなければならない事は無いです。)

明日から飯舘村長泥地区は、立入が正式に制限されます。
http://www.minpo.jp/news/detail/201207162502

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月17日の日誌です。

午前7時半、事前の連絡通り、会員のEさんが来ました。昨年の6/4と6/5にも来た人だそうです。
Eさんは足を怪我されていて、ご自分の車で回るのに、案内役として同行させてもらいました。
(なお、Eさんが話したことで一番印象に残ったのは
「放射性物質が有害か無害か以前に、あれだけ影響が出るって自分達で思い込んでる人がいるんだから、その思い込みによって影響が出るだろう」
という言葉でした。)

大熊町境の検問所に案内しました。
兵庫県警でした。
Eさんがカメラを忘れたので、私のカメラで撮って、後でメールで送ることにしました。
いざ、検問所前でカメラを取ろうとしたら、私のカメラにバッテリが入っていませんでした・・・。
ここでの撮影は諦めました。

事務所に一度戻って、カメラのバッテリを取りに行きました。

岩井沢付近から国道399号線を北上し、バリケードのあるあたりまで行きました。
途中の看板が新しくなっていました。
バリケード前には人が一人いて、脇に停めてあった車には環境省のような表示のある旗のようなものがありました。



なにか声をかけてくる訳でもありませんでした。
また、丁度バリケードの内側から警察車両のような車が来たのですが、私たちがいるのを見てか、バックで走って戻っていきました。、
但し、乗っていた人の服装は、警察官のものではありませんでした。
Eさんが「まるでホラー体験だ」と言っていました。
私も同意見です。

再オープンしたばかりの常葉町にある、ムシムシランドに行きました。
一年前に陥没していた入り口付近の道路が補修されていました。
遊具類が置いてある立入禁止になっていたスペースも、草刈りなどの手入れがされていました。後で使えるようにするのではないでしょうか。

0.534μSv/hと、山の上だけあって、少し線量は高いです。

宿泊施設には二組の予約が入っていました。

レストランで食事にしました。客は私達だけでした。

Eさんが天麩羅定食で、私がカツカレーでした。私の口には合いませんでした。
レストランから出るときに店員さんに話したら、
「7/14は2000人ほど、その後の連休中もかなりの人が来た。ただ、平日は余り人が来ない」
と言っていました。

船引の仮設住宅を案内しました。車から降りない形で案内しました。

乗用車で見て回るだけなら、ここはとても見やすいです。(入り口の坂が大変ですが・・・)

郡山の仮設住宅を案内しました。
ガスボンベの上にも、雨避けの屋根が設置されていました。

仮設住宅の隣にはパチンコ屋があったことを、Eさんが発見しました。私は意識に留めていませんでした。

郡山の駅前まで送って貰い、そこで別れました。
郡山駅前の階段等に、復旧工事がなされる旨の表示がありました。

確かにここは後回しでも大丈夫な箇所だったと思います。隣のエスカレータは動いています。
郡山駅西口は0.259μSv/hでした。

郡山東口のモニタリングポストは動いていませんでした。

(駅前のローソンに「スマイルプリキュア(という、「大友(←大きなお友達の略です)が俗に言う、土曜32時30分からやっている」アニメ)とのタイアップ企画の旗がありました。

先週の放送は、週刊ジャンプ以上にアツ苦しかったらしい事、それからキュアピースというキャラが使っているのは電気系統の能力だったこと、を思い出しました。)
駅前のうすい百貨店の駐輪場には、安積高校のシールが張られた自転車がありました。安積黎明高校のシールは見つけられませんでした。

ビッグアイ(という郡山駅前の高層ビル)の22階に登って、夜景を撮影しました。(・・・考えようによっては、けっこう感慨深い夜景なのかもしれません。)
http://www.youtube.com/watch?v=5zgbCxG3p3o&feature=plcp
http://www.youtube.com/watch?v=9JGUjvu52g0&feature=plcp

明日、船引で済ませる用事があったので、郡山駅前のネットカフェに泊まりました。
新聞で16日に川内村で祭りがあったとの記事を見て、無理してでも行けばよかったかと、少し後悔しました。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 04:42

【952】[1079]福島本部活動日誌です99

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月5日の日誌です。

午前4時頃は、凄い雨が降っていました。
午後7時に、再び豪雨になりました。

布団と枕を干しました。
2階にあったタオルを、一度全て洗濯中です。
3~5月とは違い、強風がなくなったので、建物の外で布団と洗濯物を干せるようになりました。
地元の人が
「4月か5月に事故が起きていたら、風向きの関係で、こっちにも放射性物質が飛んできただろう」
と言っていたことを思い出しました。
午後1時40分に、一分だけ凄い雨が降り、一回取り込まなければなりませんでした。

ここ三日ほど、川内方面から郡山方面へダンプカーが走っています。
うち一台は土を満載して運んでいました。
おそらく除染した土ではないと思います。
除染した土は、青いビニールの土嚢の状態で運ぶはずだからです。

昼食は、ご飯、納豆、でした。
夕食は、ご飯、納豆、でした。
せめて葱を刻んで入れればよかったです。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月6日の日誌です。

午前8時50分発のバスとJRを使って、午後4時に秋葉原駅に到着しました。
秋葉原で必要なものを買いました。時間が無かったので、パソコン関係の品物を一個買い逃しました。
折角秋葉原に来ても、殆ど回る時間が無いのは残念でした。

官邸前のデモを見に行きました。
(自分で撮ったものは、
http://www.youtube.com/watch?v=_MWawK3q770&feature=youtu.be
http://www.youtube.com/watch?v=dLcybqYd9Yg&feature=youtu.be
http://youtu.be/MoCRPWUiH-U
http://www.youtube.com/watch?v=4h9wfwucznY&feature=plcp
ですが、初心者の下手な撮影になってしまっています。)
霞ヶ関駅を出ると、経産省前で10人くらいの人が、スピーカを使って抗議のマイクパフォーマンスをしていました。
そこから歩いてデモの方面に行ったのですが、警察の交通規制が上手く、前のほうには辿り着けませんでした。
永田町は、近くに新党大地の選挙カーが停まっているなど、やはり変わった所でした。
6/22の時も思ったのですが、首相官邸付近は、とても高そうな車が走っていました。
(下世話な話ですが・・・、今までに見た中で一番凄そうな車は、北京清花大学の構内で見ました。)
雨が降っていたので皆傘をさしていたこと、それから人数自体がかなりいたので、移動するのが大変でした。
途中で傘が壊れてしまい、家電量販店の袋を傘代わりにしました。
途中で半ば心が折れて、霞ヶ関駅に戻りました。
そして、経産省前でのマイクパフォーマンスを撮っていました。
「経産省はAKBと呼ばれてるんだ。アホ、カス、バカの略だ」
というのを聞いて、これは無関係なドルヲタ(アイドルオタク)を退かせてしまうのではないか、と思いました。
ある人の
「自分の住んでいる所は0.3μSv/hだ。具合が悪くなって病院で血液検査をしたら、甲状腺機能の低下が見られた」
という主張を聞いて、
「この人、399号線の北側通ったら、どうなっちゃうのかな」
と変に心配になりました。
(なお、7月初めに既に、飯舘村長泥と浪江町津島の境にはバリケードが設置されているそうです。
バリケードは、住民は通れるそうです。
8月下旬時点で、住民以外は399号線は一部のみ通行できる状態です。〔←注:殆どの399号線は通れない、と思っていた方がいいです〕
http://www.minpo.jp/news/detail/201207022265
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120702-00000005-maiall-soci
「福島県人も同じ日本人なんだ。福島を見に行くべきだ。郡山では4μとかがザラの中で子供達が遊んでいる。国に避難を呼びかけよう」
などの主張もありました。
福島県出身者の人は、中間処理施設が出来つつあることについて述べていました。
やはり地元の人は、情報に対する反応が東京の人よりも、やや鋭いです。
通行人で2人ほど、「うるせー」と言った人と「Fuc〇 you.」がいました。
マイクパフォーマンスをしていた人達は、かなり激しく反応して言い返していました。

午後8時のデモが終わった頃、別行動でデモ隊を見に行っていたUさんから電話が入りました。
デモ隊が警官隊を破りはじめた、とのことだったので、急いで行ってみました。
ですが、私がついた時には、ごく一部で、デモ隊の3人と警官隊が見詰め合って喋っている(←変な表現ですみませんが、本当にこう見えました)くらいでした。(ネット上の俗語でいう、アッーという状態でした。)
その後、デモの主催者が歩道に戻るように言って、騒動のようなものは次第に無くなっていきました。

映像は
http://www.youtube.com/watch?v=s6ZIINl3KBg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=fzeUUuY0wTs&feature=related
に上がっています。

(なお、ビデオについてですが、当たり前といえばそうなのですが、ビデオを撮っていると、カメラは撮れないことに気づきました・・・。
一枚も今日のデモの写真が残っていません。)

地下鉄霞ヶ関駅の改札近くで、UさんUさんの友人と合流しました。
デモの最中も電話で連絡は取っていたのですが、凄い人で合流するのは無理でした。
Uさんは「反原発デモは、最後の一瞬だけ暴徒化したが、その後すぐに主催者の指示を聞いて落ち着いた」と言っていました。
確かにデモの主催者は、(良くも悪くも、)警察の指示に従った管理・運営をしていました。

Uさんたちと夕食を食べた後、ファミレスで休みました。
明日は、ほぼ始発の新幹線で都路に帰って、その足で川内に行かなければならないので、眠るわけにはいきませんでした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月7日の日誌です。
(色々な情報が一遍に入ってきて、書き漏らしがあります。)
(今思うと、言わなくても良い事を答えているのですが、これでもあの時には精一杯の対応をしたつもりでした・・・。)

午前5時53分の山手線で上野駅に行き、そこから新幹線、磐越東線、バス、を使って都路に戻りました。
すぐに、ビデオとカメラだけを持って、川内村に自転車で向かいました。雨だったので、体に辛い天候でした。
川内村に午前11時に到着しました。まだ野田首相は到着していませんでした。
川内村役場の村長室(と思われる部屋)は電気がついていて、人が二人いました。
川内村役場の駐車場にパトカーが停まっていました。

小学校に行ってみると、中に入って何かの作業をしている人がいました。

体が冷えたので、個人商店に入りました。ここのお婆さんにとてもお世話になりました。
カップ麺とパンケーキを購入しました。カップ麺にお湯を入れてもらいました。
店をやっているお婆さんと話して、野田首相は午後に来ることを教えて貰いました。
「今はまだいわきだってテレビでやってた。2時に、ゆふね。で、2時50分に小学校。その時刻に従って、集落ごとに人が集められてる。まだまだ時間ある」
とのことでした。
暫くして地元の人や都路町大久保の人が来て、雑談をしながら皆でお昼ご飯を食べることに、なぜかなりました。
「288号線と399号線の交差点の・・・」と言うと「ああ、あそこの人かぁ」と返って来ました。
途中でテレビ東京の人が二人でやって来て、パン等を買っていきました。
「遠藤村長は、村の中では色々言われている。あっちを立てればもう一方は立たない。かわいそう」
「都路の人は、川内は合併してなくて良かったね、と言うけど、市町村の平成の大合併のとき、川内はどこからも合併を嫌がられた、というのが本当のところ」
と言っていました。
(店のおばあさんは川内の別のおばあさんと、北海道に避難していたときのこと、・・・もっと言えば、北海道に避難して皆良くしてくれたけどやっぱり気が引けて川内に戻ってきてしまった事、について話していました。
病院について、「医者は仕事だから助けようとするのはわかるけど、次の3回目の心臓発作が来たら、そのまま死にたい。だから、定期健診とかは行くの自体大変だし、行かない」と言っていました。)
都路町大久保のお婆さんは、加藤さんが仮設住宅で演奏会をした時に、少し話した人でした。

午後1時20分、川内小学校にもう一度行ってみると、地元の警官だという人に話を訊かれました。
スーツ姿でした。
隣の村の者で、写真を撮りに来た、と言ったら、納得して笑っていました。

近くの駐車場には、福島放送の車がありました。

川内小学校で午前中からしていた作業は、ほぼ終わっているようでした。

午後1時半、体が寒くなりすぎたので、かわうちの湯のサウナに入りました。
併せて服を乾かしました。
そこに居た人達から話を聞けました。
「事故以前から原発に、記者やジャーナリストがスパイのように労働者として入っていた」
「自分は都路の20km圏内の人間だけど、原発に働きに行ってる。除染等もやってるけど、効果は無さそう」
と言っていました。

午後1時50分、かわうちの湯は、SPの人が駐車場を見張っていました。

午後2時11分、川内村のコンビニ付近をうろうろしていると、隣を車の集団が通り過ぎました。しばらくして、野田首相が、かわうちの湯の駐車場に来たことに気づきました。

普通の車が5,6台、マイクロバスが2台でした。今考えると、マイクロバスにはマスコミ関係者が乗っていたのだと思います。

野田首相は、かわうちの湯ではなく、隣の今は食品検査場になっている建物を視察しているようでした。

自転車に乗っていた私は、SPの人に
「警備の関係上、ここで止まっていて貰えますか?すみませんね。こんな遠くからで」
と言われて、遠くから写真を撮るだけでした。
川内小学校の方で待っていいか訊くと、そのまま真っ直ぐ行くように言われて、開放されました。
途中で消防士の人たちが駐車場の方に走っていきました。

午後2時26分、川内小学校に行ってみると、校門前でビデオカメラを構えている4人がいました。

小学校には既に住民が集まっていました。午前中に行った個人商店のお婆さんも来ていました。

小学校の駐車場にも車が一杯でした。

午後2時28分、野田首相が到着して、奥の建物(おそらく体育館?)に行きました。

首相が来ると思われるところには、住民と報道陣のカメラが集まっていました。

色んな所の映像を撮ろうとビデオを回していると、スーツ姿の警官に、脇にあった車に連れて行かれました。
Aさんという会津の警官の人でした。(やはり、会津弁は、独特にドスが利いています。)
どうも「反原発デモには核マルや中核派の人がいるので、その警戒中だったが、ビデオを録ってるので怪しい人間に見えた」ということのようでした。
(官邸前デモはビデオを回している人が多かったので、余り気にも留めずにビデオを回していました。
また、官邸前デモに過激派が入っていてビラを配っていたのは確かなのですが、参加者の殆どは、一寸変わっていたとはいえ、「普通の人」でした。)
「288号線の学問道場と描いてある看板の・・・」と説明してみた所、「会津から連れて来られたんで、地理がよくわからない」と返事が来ました。
もう一人いたスーツ姿の警官の人が、双葉署の人で、助け舟を出してくれました。
「学問道場と書いてある288号線と399号線の交差点の近くの・・・」
と言ったら、
「ああ、あそこね。本読んでます。」
と返ってきました。
(福島県警が先生の味方、というのは、案外本当かもしれません。)

野田首相が川内小学校で話している間、私はずっと警察の車(但し、パトカーではなく、普通の車です)に居て、話を訊かれていました。
(そもそも警備には、普通にパトカーを使うべきなのではないかと思いました。
・・・反原発デモの周辺を走っていた普通の車も、警察関係車両があったのだろうな、と、今やっと思い当たりました。)
ですので、首相の写真等は撮れませんでした。
先生の名前を出して、アメリカ政治思想研究が専門だと言ったら、Aさんは変な顔をしていました。
首相の大学の先輩で、話したことがある人だと言ったら、どうも問題は無さそうだと判断されたようで、空気が落ち着きました。

次の首相は誰なのか、と聞かれました。
先生は石破茂だと言ってる、と答えたら、黙った?というより、安心して落ち着いた?ようでした。

石原慎太郎東京都知事の尖閣諸島購入について
「ああいった発想はなかなかできない」
と評価するような事を言っていました。
併せて
「日本は中国の属国じゃないんだから」
と言ってました。
ここで先生の属国日本論や孫崎亨氏の考え(http://www.news30over.com/archives/6490744.html)を言ったら、どういう反応をするのか、目茶目茶興味ありましたが、場を穏便にすることを優先して、押さえました。
(でも今となっては、やっぱり言ってみるべきだった、折角の機会だったのに勿体無かった、と、大変に残念です。)

かまをかける質問だったのかもしれませんが、それでも、公務員、それも警察官が政治に関することを言ってしまうのは、問題かと思います。

このことは外に言わないようにと言われました。
最後に、警察の車の番号が映っている映像は、公開しないように言われて、開放されました。
(なお、公開はしていませんが映像は残っていますし、ビデオを止めるように言われるまで録音は続いていましたので、記録は残っています。
・・・そもそも、ビデオを撮ってはいけない、と警察官が言う事自体に問題があるのではないかと思います。
でも、検問所にいた他県の警察官なんかも、同様の問題のある態度を取ることが多いです。
中国の公安みたいなことはあまりしないのだから良しとすべきなのかもしれません。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120801-00000045-yonh-kr

とってつけたような言い方で何ですが、一般的に見れば、Aさんはかなりいい警官なのだと思います。
もっと酷い警官は、一杯見ました。

福島県の田舎の気質というのは、右寄りというよりも、封建主義的、というものだと、私は思いました。
(8/4にHさんは、「それ以上に、権威主義的だ」と、より正確な表現をしていました。)
(やや福島の田舎を擁護しますと、権威主義的に回りに流されるようになるし、それで生きていくのに問題は無いのだと思います。・・・・・・擁護になっていないでしょうか。実際の所、私の地元も、あまり大差ありませんが、盲目的にお上を信用する事は無いです。(←まあ、その分、余計性質悪いのですが・・・)
それとも佐藤栄佐久『知事抹殺』の117ページに「私には「都会には人は育たない」という言葉が、強く印象に残った。」とあるように、こういった場所でこそ、新しい考えを育てるべきなのでしょうか。私にはわかりません。)

野田首相が帰った後、出てきた親と子たちが取材されていました。

かわうちの湯の休憩所で休みました。
個人商店で知り合った人達の紹介で、休憩所で休んでいる人達と話しました。
自己紹介をするだけで終わりました。
その後、隣の食品検査場に行ってみましたが、電気がついているだけでした。

午後5時に小学校に行ってみましたが、既に誰一人いませんでした。

午後5時半から自転車で一時間かけて、事務所に戻りました。
戻ってすぐに風呂に入りました。

最後に、これは日誌を外れるかもしれませんが・・・、昨日首相官邸前で抗議に行った人は、いわきや福島県庁ならば行きやすいと思いますが、そっちには行ったのでしょうか?
川内村には、おそらく一人も来ていませんでした。
(こういうのは、Aさんには悪いのですが、抗議したいなら、川内村がやりやすかったと思うのですが・・・。)

(転載終わり)

川端優美子 投稿日:2012/08/24 21:04

【951】[1078]「分別(ふんべつ)」 とは 「残りかす」 のこと

群馬のゆみこ(川端優美子)です。

皆さんのいろいろな投稿を、すごいなあ、楽しいなあ、と思って読んでいます。長井大輔さんの投稿はなんだかすごいし、田中進二郎さんの投稿は、書くのが楽しい、という感じが伝わってきて、こちらも楽しくなります。これからも、みんなで学問道場を盛り上げていきましょう!福島の桃も最盛期でおめでとうございます!

それから、[1045]で「非難することは無意味」というのを書いてから、わたしはもやもやしています。他人が何かを非難する自由を制限するような発言だった、という気がして、もやもや・・・。それを解消させるヒントを、先日わたしの兄との会話から得たのですが、まだうまく書けないので、書けるようになったら書きます。

それから、副島先生の投稿[1077]の3.で、坊さんにも「理論坊主」と「生活坊主」とがいる、と知りました。本屋さんの奥のほう(わたしがいつも行かない場所)に行ったら、仏教の本がたくさんあって、ははあ、これが理論坊主か、とわかりました。先生が『欧米日 やらせの景気回復』でお書きになっていた、「銀行お金」と「生活お金」の区別みたいな感じですね。先生の表現はわかりやすくて、本当にありがたいです。

ということで、思うことはいろいろあるのですが、今日は、いま書きたい、「客観」なんて、本当は無いのではないか、ということを書きます。

先日、ある老紳士と小一時間お話した時のことです。初対面だったのですが、お互いに「難しい話ができそう」とピンと来た(と思う)ので、話し込みました。その方は、ギリシャ哲学とか仏教の話をされ、「空(くう)って、何だと思いますか」などとわたしを試すので、難しかったですが、「仏教なら、副島先生の『隠された歴史』で勉強したばっかりだ」と、がんばりました。

その老紳士は、ご自分の発見などをわたしにお話になり、わたしも自分の発見を、どう思われるか、聞いてみました。

わたしは、「“客観”って、言葉としては在るけれども、本当はそんなものは無いのじゃないか、と思うんです。それぞれの人の見方(=主観)しか、本当は存在しないんじゃないですかねぇ」 と言いました。すると、老紳士は、そのとおりだ、でも、たくさんの人の見方を集めて、そこから主観を除いた、共通の見方(理解)を 「分別(ふんべつ)」 とお釈迦さんは呼んだ、とおっしゃいました。そこで、わたしはピカッと来ました。

「ああ!分別(ふんべつ)って、“残りかす”のことですね!」

この日の 「ピカッ」 は、かなり良かったです。  おわり

副島隆彦 投稿日:2012/08/19 06:46

【950】[1077]夏の盛りの終わりに、書いておきたいこと

副島隆彦です。お盆休みも今日で終わりです。

 熱帯夜で寝苦しい夜が続きましたが、それもあと数日でしょう。 クーラー(冷房機)を付けたまま寝ると、クーラー病になって体に非常に悪い。おそらく扇風機が広く復活しているだろう。

 ロンドン・オリンピックの「民衆にはパンとサーカスを与えておけ」も終わって、もうテレビの材料もない。世の中は、死んだようになって、世界中、沈滞したまま続いてゆく。秋の経済変動のことを気にしている。

1. 8月10日に、消費税の増税法案が参議院でも可決して法律となった。税金の徴収すなわち貢納制度(こうのうせいど)こそは、国家の本質である。政治国家(幻想の共同体)と実社会(実在の世の中)を取り結ぶのは、唯一、税金だ。 

 そして無理やり集めた税金を権力者がどのように使うか、だけが、本当の政治実態だ。貢納と権力分配だけが国家の実在だ。それ以外は虚構である。カール・マルクスは確か25歳で「経哲(けいてつ)学草稿」でそのように書いた。  税金(の徴収)のことだけが国家なるものの実在なのだ。それ以外は虚妄だ。 

 だから、日本の経営者、資産家階級が、自民党支持だろうから、「それぐらいの増税なら受け入れる」と多数派として承認したというのなら、それは日本国家としての承認だ。 どうせ消費税増税分を実際に払うのは、商店主(スーパーが大きい)と企業だ。 国民から薄く広く「納めさせる(=取る)」と言っても現実に払うのは企業経営者たちだ。法人税は赤字決算にして払わないで済ませるが、消費税は、必ず、徴収される。その正体は、売り上げ税(sales tax セールス・タックス)だからだ。

 アメリカに一千兆円も貢(みつ)いでおきながら、「まだこれでも財政赤字は続く。消費税25%への更なる増税が必要だ」と言い出している。財務官僚どもの、アメリカへの忠犬ハチ公ぶりは目に余る。谷垣禎一(たにがきさだかず)は、アメリカに尻を蹴飛ばされて、「さっさと野田政権と、増税法案を可決しなさい」(ジェラルド・カーティスとケント・カルダー)に言われて動いた。これで谷垣は終わりだ。何にも悪いことができない立派ないいひとだ。 「いい人、いい人というのは、どうでもいい人のこと」を言う。

2. 私は、夏の暑さのせいもあるのか、仕事のし過ぎなのか、足に痛風(つうふう)が出て、それから前立腺肥大の老人病の初期の症状だ。びっこ(跛)を引きながら、棒につかまったりして片ちんば(差別用語か?)で動くしかなかった。

 それも治(おさ)まった。歳相応で老いてゆく。私は、人よりも10年は生き急いで来たから、実年齢よりも10年早く老いてゆくだろう。体の各部を万遍(まんべん)無く使い込んで、静かに老いて行ければそれでいい。 100歳どころか「120歳まで生きよう運動」をしているバカたちがいる。本当に穀潰(ごくつぶ)しの、若い人たちのことなど何も考えない、醜悪老人どもだ。

 私は、「生き方上手」などという本を書いたあの「100歳医者」が嫌いだ。生き方は、下手な方がいい。

3. 私が、書いて出した「隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?」(PHP刊)が、それなりに売れている。 理論坊主 (本山で修行して、自分は仏教理論をしっかり勉強したと思い込んでいる僧侶たち)が、私の本に怒っている。よくも裏の秘密を暴いたな、という感じだ。あと500人ぐらいの理論坊主を怒らせるだろう。

 自分の名前を出して、私に論争を挑むほどの仏僧が出てくるか、を私はじっと待っている。 他の大半の、生活坊主(せいかつぼうず)は、評論本など読まないから相手にしない。彼らは、「これは私の職業であり、これで食べていますから」と平然と言う。私はこの生活坊主たちの生活の邪魔をする気はない。習俗(カスタム)になりきっている仏教に、私が暴いた真実が影響を与えることはない。 この本への反響は、そのうちまとめてここに載せます。

4. 私は、次は、「怨霊、悪霊を含めた 霊の世界はあっていい。それが人間の頭(脳)の病気との闘いの切実な、長い長い歴史なのだから。救済は、加持祈祷(占いと呪=まじな=い)にしかなかっただろう。仕方のないことだった」という本も書く。真言(しんごん、マントラ)の意味も解明する。

5. 私は、先週、幻冬舎新書から出す「陰謀論者と呼ばれて」という本を書き上げた。9月の末には出版されるだろう。今は、次の、 フィレンツェ、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、メディチ家(偉大なるロレンツオ)、ルネサンス(たった60年間ぐらいで弾圧されて消滅している)とは、本当は何だったのか、を書いている。日本では誰も説明しないままに、50年が過ぎた。

 政治思想闘争の意味がカラきし分からない美術史家たちに任せていたら、日本国民を無知蒙昧(むちもうまい)のままにして、とんでもないことになっていた。 

 今こそ偉大なる先人の羽仁五郎(はにごろう)先生の『ミケルアンジェロ』(岩波新書、1939年、思想弾圧の時代)と『都市の論理』(勁草書房、1968年)に戻らなければ、そして復権させなければいけない。 ミケランジェロとダ・ヴィンチの“大ブランド”を、私が放ったらかしにするわけがない。

6. ここでアメリカの最新の情報をひとつ書いておく。以下のことは私以外の日本人は誰も知らない。だから、各新聞社の外信部の部長たちも襟を正して読みなさい。

 オバマ大統領は、すでに2回、倒れている。黒人男性に特徴的な呼吸器の病気だ。肺がんではないようだ。ということはどうせ倒れる、ということだ。 ということは、11月6日の本選挙には勝つだろう(共和党のロムニーとポール・ライアンは立派なアメリカ人だが、どうせ勝たせない)が、オバマは病床に伏せてやがて辞任ということになるだろう。そうすると次は誰がなるか。たまには自分の頭で考えてみなさい。誰だ?

 そしたら、ヒラリーもまだ、さらにその次を狙う。ヒラリーは、どんどん太って、ひっつめ髪にして今や老婆だ。あのマデレイン・オルブライトに似てきたから、ハーフブライト(半分賢い)と言われてる。この権力女(けんりょくおんな)は、アメリカ帝国を存続させるためなら、どんな狂暴なことでもする。今もネオコン派の総帥だ。古村治彦著の「アメリカ政治の秘密」(PHP刊)に、詳しく書いている。

7. 目下のシリアの内戦の凄(すご)さは、日本のニューズでも流している。私は、バシャル・アサド政権を支持する。アサド政権は何も悪いことをしていない。住民虐殺などウソだ。

 アラブ世界の各国の民衆は、皆、このことを知っている。しかし、アルジャジーラ放送局(カタールのドーハにある)が、予定通り、その本性を露わにして、下部のレポーター(記者)たちはアラブ世界の大義のために真面目なのだが、アルジャジーラが出来た時からの、後ろ暗い資本関係で、これもアメリカが操(あやつ)っている。アルジャジーラの偏向報道が始めから起きていた。

 シリアでの戦争の 真実は、3000人の アルカイーダの最精鋭部隊を、シリアに投入していることだ。アルカイーダ(アラブ世界の国際義勇兵たち)は、第一次アフガン戦争(1979年、80年ごろ)に、アメリカのCIAとイスラエルのモサドが作った。オサマ・ビン・ラディーンもその輝ける指導者のひとりだ。彼は、2001年の12月に、アフガニスタンのトラボラ渓谷で肺炎で死んでいる。

 アメリカとイスラエルは、(日本の山口組に対するのと同じで)自分たちが育てたアルカイーダに対して、「もう、こういう穢(きたな)い連中は、要らない。いつ自分たちに襲いかかってくるか分からない。処分せよ」ということで、シリアにまとめて投入して、シリア正規軍の戦車部隊と正面戦をやらせて、全部、始末する気である。 

 現実の政治とはこのように恐ろしいものだ。素人のアホたちが、聞いたようなモノ真似の政治評論などするものではない。「散々、利用しておいてから消す」が、政治の一番おそろしい場面だ。今、私が書いたことが分からないようなら、頭が悪いのだから、このことが分からないようなら学問道場に近寄るな。

アルカイーダを作ったのは、戦略家(ストラテジスト)のズビグニュー・ブレジンスキーである。オバマを育てて、デイヴッド・ロックフェラーに具申(ぐしん)して、「いいのがいますよ」で大統領にしたのも、ブレジンスキーだ。 私が、これまでに、いくら本に書いても、まだ、ほとんど読み手に理解力がない。

 政治思想(ポリティカル・ソート)の勉強こそは最高の学問なのだ。分からない人間にはどうせ分からない。分かりたくない人間も分からない。「卑屈であることだけが組織内で生き延びる道」か。

8. 尖閣諸島 や 竹島(あんなに韓国に近いのだから、韓国にくれてやればいいではないか。駄目か? そんなにけちん坊であることが、「オレは愛国者だ」か。バカどもめが。副島隆彦がこの問題でも黙ると思うな)の問題で、アメリカが、東アジア諸国を分断して、互いに反目、反発させる作戦に出ている。

 アーミテージたちが動き回っている。アーミテージは、フィリピン海軍の船に乗って、スカボロー岩礁で、「あの中国の船にぶつけろ、ぶつけろ」と指揮を取っていた。米海軍中佐あがりの 世界の麻薬の密売人の総元締め(CIAと米特殊軍の裏資金づくりの最高責任者)だから、荒っぽいことを自分でする。 

 それでも、フィリピンの今の大統領の ノイノイ・アキノは、CIAに殺されたベニグノ・アキノとコラソンの息子だから、中国と仲良くやろうと努力する。それでも日本と同じで、アメリカの手先勢力(親米派)が、たくさんいるから、彼らが中国との領海紛争を殊更(ことさら)にやろうとする。 

 魚釣島(うおつりじま)に情けなさそうに上陸して、待ち構えていた日本の警察に捕まった、あの香港の活動家たちというのは、香港のテレビ局の経営者の雇われ者たちで、その裏には、アメリカがいる。アメリカがけしかけているのだ。中国政府ではない。

 こんな騒ぎを起こさせて一体、誰が得をするのかを自分の頭で考えてみなさい。 私、副島隆彦のことを、こいつは中国の手先だと、言って切り捨てるこができるなら、やってごらんなさい。私と言論戦をやって勝てると思うか。

 以上のとおり、痛風で、足が腫れて、痛いな、と言いながらも、私は真夏にも元気です。私は、年内にあと、4冊、本を出す。「そんなに どんどん出されても、読む暇がないよー」という読者の皆さんの愚痴は、私もよく分かります。でも、私も、フーフー言いながら、一枚一枚、書いているのです。 私はまだ手抜きはしない。手抜きをしたら、読者(お客さま)にバレるのだと、肝に命じている。  

皆、それぞれ自分の息苦しい人生を自分なりに生き抜いてください。そうするしかないのだ。 知識、思想、学問なら私が教えます。

副島隆彦拝

田中進二郎 投稿日:2012/08/17 23:04

【949】[1076][

副島先生著「隠された歴史」を読んで(2)の続き
(以下 しばらくはグーグル検索で「日本の恩人フェノロサ」・「法隆寺と『ヨハネの黙示録』その2」を見ながらおつきあい願いたい。この二つを流れにそってまとめてみました。)
フェノロサは古寺社の宝物調査にも尽力した。有名なのは1884年岡倉天心らとともに法隆寺の夢殿の開扉を行ったときのことだ。内部には救世観音像(ぐぜかんのんぞう 等身大の聖徳太子とされているようだが・・・何かおかしい)があるものの、住職でさえ見ることのできない「絶対秘仏」とされた。寺の僧侶たちは調査団に激しく抵抗した。フェノロサの「東亜美術史綱」にはその時のことがこう記録されている。
「法隆寺の僧は伝説を語りて、いわくこの内には推古天皇の時、朝鮮より輸入したるものあり、(ここを覚えておいてください 筆者)然れども、二百年(ここも注意が必要 キリシタン弾圧後ということだろう 筆者)よりかつて一度も開扉したることなしと。かくのごとき稀世の宝物を見るに熱心なる余は、あらゆる議論を用いて開扉を破りたり。寺僧は、若しこれを開扉せばたちまち神罰あり、地震は全寺を毀つべし、とて長く抗論したり。」                                          

このあとついに調査団は僧侶を押しのけ、扉をひらく。すると、夢殿の中には木綿でぐるぐるまきにされた中から、救世観音が出てきた。フェノロサは陶酔感に包まれた。
残念なことにこのときの僧侶たちの泣き叫ぶ醜態が描かれていないのだが、私田中の想像では、調査団と僧侶の姿は好対照であっただろう。そして法隆寺の僧侶すべてにとって、「毛唐」のフェノロサは不倶戴天の、呪うべき人間と映ったことだろう。

しかし、このときフェノロサはあまりの達成感に少し理性がにぶったのかもしれない。
なぜ法隆寺の僧侶たちはそんな迷信を信じているのか、と。そして救世観音の名前の意味をもうすこし考えてくれていれば、これが救世主(メシア)のことであると気づくこともできたであろうに。そして僧侶たちのなきさけぶ様と迷信の構造が黙示録と同じであるということにも。以下この仏像の謎解きについては上記のサイト「法隆寺と『ヨハネの黙示録』その2」を熟読されたい。すでに6世紀7世紀にキリスト像が伝来していることが考証されている。でも、如意輪観音や弥勒菩薩がマグダラのマリアだという説は「隠された歴史」が本邦初なんでしょう。真実は爆発的に流行する・・(かな?)

さて、この「法隆寺夢殿開扉事件」については、開きかけた真実の扉は、のちに再び閉じられることになる。これを閉じたのは、ほかでもない「隠された十字架」法隆寺編(新潮文庫)を著わした梅原猛(うめはら たけし)である。この真実の扉の閉め方には古来の呪術的ともいえる目くらまし言論術が駆使されているので(北陸、関西に根強い、民間の「聖徳太子信仰」をもちいた隠ぺい工作である。)このレトリックについても論じてみたいものである。広瀬隆氏の反原発の言論的手法については、「架空ケンカ対談」で書かせていただきましたが、梅原猛氏の場合はハイデッガー的な手法であるとでもいっておこうか。関西にはこのような言論がうようよあって、ぼくもけっこう真面目に(みじめに)だまされてきたとおもいます。みなさんも新刊の五木寛之(ひろゆき)・梅原猛対談集「仏の発見」(平凡社)などにも目を通し、体制側の人間がどのように適度な真実もおりまぜながら、民衆を慰撫(いぶ)しているのか研究されてみてはいかが?ちなみに「仏の発見」ではキリスト教の異端のアリウス派が浄土信仰などに影響している可能性を指摘していますが、まあしぶしぶなんだろうな。どうせこのレベルです。はい。

二か月にわたる私の仏教研究の旅も取り合えずこれでおしまいです。親鸞の「増上慢」(ぞうじょうまん)は正しいという「教行信証」(きょうぎょうしんしょう)の教えに従って書きました。お盆が終わり、明日からまた社会の一兵卒にもどります。
最後に、お勧めの仏像画について、フェノロサが狩野芳崖(かのう ほうがい)に描かせた「悲母観音」(ひぼかんのん)という傑作もぜひごらんください。みなさんご静聴ありがとうございました。そして副島先生「隠された歴史」の完成おめでとうございます。万歳!
副島道場のみなさまに三拝九拝。田中進二郎

田中 進二郎 投稿日:2012/08/17 03:43

【948】[1075]隠された歴史を読み解く!

新刊「隠された歴史  そもそも仏教とはなにものか?」を読んで(その2)
副島先生の本格的仏教論の紹介が、今日のぼやきに掲載されていますが(アルルの男中田安彦さんによる)、この壮大な試みについて、若干の解説というか、この書が生まれるまでの伏線を考えてみようと思います。というのも、仏教文化・思想というものに遠ざかっているわれわれ「現代人」=「末人」(まつじん ハイデッガーのことば)がいきなりこの本を読むと、朦朧状態になるのではないですか。私はそうでした。

いきなり読者はカウンターパンチを浴びせられます。私も2か月間予習をして(「鎌倉仏教」の範囲に限るが)、立ち向かいましたが、予期していた通り、かなりの衝撃でした。
加地君にもからかわれたのですが、「北魏時代(472年)に浄土宗は正式には曇鸞のあと、道綽(どうしゃく)、善導などの浄土教の高僧を輩出した。・・・そして、この玄中寺で大きくなった浄土宗が法然、親鸞たちによって13世紀に大流行した。と言われてもなあ。フランチャイズ(支店網)じゃないか。」(p110)あそこはカクーンとずっこけそうになった。(笑)やはり、日本の中でみていたってだめなのだ。

まあ人生諦めが肝心だ。グチグチ鎌倉仏教をこれ以上私が言ったところで、仕方ないので、路線変更して第1章の最初の10ページが生まれるまでの経緯(? 正しい表現が見当たらない)について思いめぐらせたことを書かせていただきます。
表題は「中宮寺の如意輪観音像(奈良)と広隆寺の弥勒菩薩の半跏思惟像を日本民族がマグダラのマリア(女)と気付かされるまで」とでもさせてもらいます。

(以下本文)
日本人が如意輪観音や、半跏思惟像が女性像であることを知って拝んでいた時代がかって存在したかという疑問も当然わいてくるのであるが、それは後回しにすることにして、
日本人がそれに気づくべきタイミングが歴史的に一度だけあっただろう。この機会はあと少しのところで逸してしまった。それは明治の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)運動のさめやらぬころ、一人のアメリカ人によってなされていたかもしれなかった。その名はアーネスト・F・フェノロサ。ややフェノロサの解説が長くなるが、ご勘弁を。

日本仏教美術が廃仏毀釈のさなか、ほとんどゴミ、二束三文で売られたり、たたきこわされていたなかで、フェノロサがいち早く、日本美術の素晴らしさに気がつき、それを蒐集して破壊から守ったのであった。明治11年(1878年)に来日してから、約20年の間に2万点以上の美術品が買い集められたという。(このほかエドワード・モースが陶磁器5000点を、ビゲローも浮世絵を中心に数万点を蒐集して、これらはボストン美術館「東洋部」のコレクションとなった。)明治初期の廃仏毀釈は決して仏教寺院関係のものだけが捨てられたのではない、伝統的な価値全体そのものが打ち捨てられた時代なのであった。
モースも、フェノロサもボストンから25キロほどはなれたセーラム市(マサチューセッツ州)の出身でモースがフェノロサを誘ったという。フェノロサは東京大学でJ.
S.ミルやカント・ヘーゲルを講義して、明治の人材を多く育てた。セーラムという町は奇怪な歴史を持っており、アメリカで唯一魔女裁判があった町なのだ。『フェノロサと魔女の町』(久我なつみ著 河出書房)には、有名な「緋文字」(ひもじ)を書いたホーソーンの一族の邸宅も保存されているということであるが、キリスト教の因習が強く残る土地柄であることがご理解いただけるだろう。そしてこの町で父親(スペイン人)が自殺をしてしまったのである。このことでフェノロサは町の人々から冷たい目でみられることになった。彼がモースとともに来日することになったのは、キリスト教の世界から追いたてられるようにであったという。上記の本の著者は,今もってフェノロサがセーラムの町でなんの顕彰碑もないことを嘆いている。

この点は同じマサチューセッツ州(アッシュフィールド)からやってきたクラーク博士(札幌農学校の初代教頭となったあのクラークです)とは全く状況が反対である。彼の方は、日本にくる途中、(1876年)船中で黒田清隆(のちに2代総理大臣となる)と大激論を繰り返し、「邪宗門=キリスト教は絶対にだめだ、頼むからそれだけはやめてくれ!」という黒田をとうとう説得してしまった。(『日本の農業につくした人々』筑波常治著 絶版より)

言ってみれば、フェノロサはキリスト教(プロテスタント)の価値観の世界から捨てられたから、日本で捨てられていた仏教を拾うことができたのだろう。フェノロサもビゲローも浄土真宗に帰依し、のちにフェノロサは園城寺(おんじょうじ 滋賀県大津市 天台寺門宗)で受戒した。フェノロサは井上円了らとともに仏教界の再建をはかるグループも形成していった。近代浄土真宗復興運動のリーダーといわれる清沢満之(きよさわ みちゆき)もフェノロサからヘーゲル哲学を習っていただろう。

『フェノロサと魔女の町』にはフェノロサの息子カノー(画家の狩野 芳崖かのう ほうがいから名前をつけた。)の葬式のときに次のようにつぶやいたと書かれている。「私の息子は復活するだろう。輪廻転生(りんねてんしょう)なのだから。」と。

そのフェノロサは、中宮寺の如意輪観音像について次のように書いています。
(Epochs of Chinese and Japanese Art 「中国および日本美術の諸時代」フェノロサ晩年の大著より引用 拙訳)
The impression of this figure ,as one views it for the first time,is of intense holiness.
No serious,broad-minded Cristian could quite free himself from the impulse to bow down before its sweet powerful smile.  
-この像を人が初めて目にする時に受ける印象はものすごい神聖さである。まじめで、広い心をもっているキリスト教徒ならばだれでも、この甘美な微笑の前に頭を下げたくなる衝動から逃れることはできないであろう-
(後半につづく)
田中進二郎拝