重たい掲示板

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副島隆彦 投稿日:2012/09/15 11:03

【961】[1088]さあ、秋の闘いが始まりました。何があろうが元気に言論で闘う。

副島隆彦です。 今日は、2012年9月15日(土) です。

 夏が終わって、秋になって、世界の動きが ようやく騒がしくなって来ました。私は、この時期をじっと待っていました。 夏の間はどうせ何があっても動かない。

 マリオ・ドラギ ECB(ヨーロッパ中央銀行)総裁)が、いかにもヨーロッパ貴族らしく、「(夏のヴァカンスから戻って)さあ、仕事を始めるか」という感じで、動き出しました。危機に陥っているスペインやイタリアなどの国債の「無制限の買い入れ」策だ。

(転載貼り付け始め)

●「欧州中銀、債務危機国の国債買い入れへ 1~3年債を無制限に」
AFP  2012年09月07日

 欧州中央銀行(ECB)は6日の理事会で、債務危機に陥った ユーロ圏諸国の国債を無制限に買い入れる計画を承認した。 (以下、略)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 このあと、一昨日、13日に、アメリカのFRBのバーナンキ議長が、金融緩和、量的緩和(りょうてきかんわ)の第三弾のQE3、「住宅ローン担保証券を月に400億ドル(3兆円)ずつ」(いつまで続けるかは言わない。そんな資金があるのか?)を実施すると発表した。

 いよいよ、秋の闘いが始まった。私は、今から突貫工事で、私の金融本を書き上げる。 副島隆彦がこの12年間、ずっと築きあげてきた、「アメリカ帝国は、裏付けのない“じゃぶじゃぶマネー”で生き残ろうとする。が、無理だろう。抱えた正味の隠し負債(50兆ドル、4千兆円)が巨額すぎる」理論のとおりの動きだ。 

 サブプラムローン危機(2007年8月)から5年、リーマン・ショック(2008年9月)から4年で、次の巨大な、金融崩れの波が襲い掛かって来つつある。私、副島隆彦の出番である。私には、たいていの先の見通しは立つ。夏の間は、私は、ずっと、「ミケランジェロ、メディチ家、ルネサンスとは、本当は何だったのか」を書いていた。今もまだ書いている。

 テーマが巨大過ぎて、まとまりがつかなくなった。なんとか締めくくらなければ。大きなナゾは解いた。日本知識人としての 業績にするだろう。この8月に出した、私の仏教論「 隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?」(PHP刊)に続く、衝撃の論考であり、それのヨーロッパ500年史版である。

 私と弟子たちとは、9月の初めに夏の合宿をやった。16人がまじめな研究発表をした。それらは、次々と、ここの会員ページに発表されるだろう。

私の判断で、一番、優れていたのは、庄司真(しょうじまこと)君の、「アベナリウス、エルンスト・マッハから フッサールへ」論だった。

「世界は仮象であり、感覚だけが実在する。実体はない。主観、客観もない。現場に行って見つめ続けることで、真実を見つけ出さなければいけない」論だ。これが、20世紀の初頭のウイーン学団、オーストリア学派の真髄である。今の諸学問の基礎だ。庄司くんが、サラリーマン生活の過酷さに負けないで、知識人として成長することを先生として祈っている。

 石井利明(いしいとしあき)君の、「政治的クリオールのメモランダム」は、論文として十分に練られたあと一冊の本になるだろう。

 桑原義明(くわばらよしあき)君の「ディーゼル・エンジンについて」は、私たちSNSIの「エコロジーという洗脳」、「放射能のタブー」本のテーマを今も引き継いでいる。 こつこつと掘り下げてください。

 藤森かよこ女史の「アメリカにおけるアイン・ランド受容の変遷と、日本人にとってのアイン・ランド」は、私たちにとっての重要な思想課題なので、必ず、近いうちに私たちの定例会(講演会)で彼女に話してもらおうと思います。

 津谷侑(つやひろし)君は、まだ大学院を出たばかりで若い人だが、彼が発表した、「戦争阻止のネットワークの日本における最高司令官は、東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王(おう)だった。稔彦王を押しのけて東条首相を推薦した木戸幸一(きどこういち)はロックフェラー家のスパイである」論の発表は秀逸である。

 西園寺公一(さいおんじきんかず)、一晃(かずあき)、そして渋沢正雄(しぶさわまさお)、原田熊雄(はらだくまお)ら、日米開戦を阻止しようとして闘い、そして敗北していった優れた政財界人たちのことを、私たちは、本当の日本史の真実として、今から掘り起こさなければいけない。

 アメリカCIAの見苦しい、醜(みにく)い手先に成り下がっている文藝春秋と新潮社が作ってきた、戦後68年間の、嘘八百の文春・新潮・サントリー文化人(系の歴史評論家ども)が書いて、日本国の読書人階級を、大きくウソの歴史観で、洗脳してきた事実に、私たち学問道場(SNSI)が、真実の火柱を立てる。 真実を探り当て、表(おもて)に出すことにおいて、私たちは一切、遠慮しない。 

 今の野田佳彦たちと全く同じで、アメリカの言いなりになって、日本国民に地獄の戦争を強いた、木戸幸一、阿部信行(あべのぶゆき)、重光葵(しげみつまもる)らの悪業(あくぎょう)の数々を、ブツブツ書き残し、脇にどかされた本人や、周辺の人々の証言、証拠を拾い集めながら、私たちは突き進みます。

 「血盟団、井上日正(いのうえにっしょう)とは何者であったか?」を発表した、吉田祐二(よしだゆうじ)君は、もっと、このテーマを掘り下げて欲しい。

 私、副島隆彦は、昨日は、ずっと三島由紀夫(みしまゆきお。1970年、今の防衛省で、45歳で自刃した)の「豊饒(ほうじょう)の海」四巻の「春の雪」と「天人五衰(てんじんごすい)」を42年ぶりに読み返していた。 西伊豆(にしいづ)の海が舞台だ。

 清水港の隣りの興津(おきつ)に今も残ってる、坐魚(ざぎょ)荘の、西園寺公望(さいおんじきんもち)への襲撃事件こそは、この三島の遺作の4巻のひとつ「奔馬(ほんば)」の舞台だ。この事実を知っている人は歴史評論家レベルでもあまりいない。

 私は坐漁荘に10年前に行って調査している。住友銀行の堀田庄三(ほったしょうぞう) らが出して旧宅を立て直していた。最後の元老、西園寺は、脅されて身動きが出来なくされていた。

 私、副島隆彦は、必ず、三島大社のそばにいた 山本玄峰(やまもとげんぽう)という禅僧のところに寄り集まっていた、井上日正らアメリカの手先のワルたちの動きを解き明かすだろう。私にとっては30年来の課題だ。

 田中進二郎(たなかしんじろう)君の「ブレジンスキーとネオコンとシオニズムについて考えたこと」は、まだ断章だが、きっとそのうちまとまりのある世界政治図の一部となるだろう。 

「中国との関係を持つ上で、知っておきたいこと」を発表した加地亮太(かじりょうた)君は、まだ学生で若いのだが、自分の頭をすっきりと纏(まと)めることが出来る人だ。それをサラサラと文章にできる。 

 我らが学問道場の会員たちで、すでに人生経験を積んだ人々で、おそらく多くは思慮深く、ものごとの裏側まで見る力のある優れた人々がいる。が、自分で書くということ、書いて発表するということに執着しなかった人々だ。それは人それぞれの人生の選択だ。 私たちの学問道場は、自分の考えと研究を書いて発表することに主眼を置いている。 
 
 古村治彦(ふるむらはるひこ)君の「三木武夫研究  “クリーン三木”の裏側」は、すでにプロの政治評論文の書き手として成長しつつある古村くんの研究の一部である。

 六城(ろくじょう)つねあつ君が、「小室直樹の『新戦争論』を読む」を発表したが、すぐに会員ページに載るだろう。 

 下條竜夫(げじょうたつお)君は、大学の物理学者であるが、「福島原発事故においてマスコミで発表されない真実」を 発表した。彼は、今も、福島第一原発の爆発事故の真実を学問的に地道に追究している。おそらくこの下條研究が、最も正確で緻密な事故の原因究明だろう。 この論文は、やがて彼が出す一冊の本の一部となる。

 根尾知史(ねおともし)君は、「なぜ日本人は、すぐとなりの国で起きている変化に、目が向かないのか」という 金融情勢論を発表した。『北京コンセンサス』(2010年刊)という本をテキストに使った。 

 甲斐修(かいおさむ)君は、「アメリカによる日本農業支配 」(今後の生きのびるべき 農業ビジネス)のことについて、発表した。これは、すぐに会員ページに載るでしょう。

 須藤義直(すどうよしなお)君は、「“棄民”とは何か。ハンセン氏病の施策に見る 日本政府が取った行動」を発表した。須藤くんは、自分がこれまでに集めて来た膨大な政治映画の史料をどのように整理して、日本にこれまで伝えられて来なかったもの(意図的に秘密にされて、日本国内への流通を遮断されたもののも多い)をどのように整理してどんどん本の形にしてゆくかが課題となる。

 奥村哲也(おくむらてつや)君は、「ソフトパワーとしてのスポーツ」論を発表した。フットボールとサッカー、ラグビーの発生以来の政治的な意味まで到達しようとして、なかなか行き切れない、という感じだ。オリンピックやワールドカップ(サッカーの世界大会)で、世界民衆を世界規模で「パンとサーカス」で飼いならし洗脳する仕組みへの、大きな切り込みをやりたいのだが、なかなか刃(やいば)が届かない。自分たち自身が、世界恐慌の下の貧しい民衆をやっているので、「あれらの壮大なスポーツお祭りもの」に対して私たちが、微(かす)かにも高みにたつ余裕が無い。 

 中田安彦君は、もうすぐ出版される 自分の本の内容紹介(書名を失念しました。ビジネス社から出ます)のようなことをした。私、副島隆彦も、来週出る「陰謀論とは何か」(幻冬舎新書)の紹介でお茶を濁した。

 以上のような 弟子たちとの 夏合宿の内容です。 去年の夏合宿の成果は、「放射能のタブー」(KKベストセラーズ刊、2011年11月)となったのに、あれほどの真実を、日本最高峰の集団研究としてやったのに、日本国内のほとんどの勢力から無視された。たったの2万部ぐらいしか売れなかった。それで、私たちは、がっかりして、どうも今も元気が出ない。 こういうことも事実なのだろう。

To: ‘SNSI・副島隆彦を囲む会’
Subject: ご登録情報確認のお願い

SNSI・副島隆彦を囲む会の皆様
会員番号****番  石田 正彦です。

重たい掲示板で群馬のゆみこ様が以下書かれているように
[978]『今月の弟子』が読みたい 投稿者:川端優美子 投稿日:2012-06-11
18:08:35 [976]お弟子さんのファンを増やす 投稿者:川端優美子 投稿日:2012-06-10

 私も定例会で、お弟子さんたち の活動報告聞いてみたいです。お1人、3分でも5分でも結構ですし、数人分どなたかが代表してでも良いと思います。
 
 私も、数年前、副島先生の本を読み、巻末の「私は前途ある優秀だが貧しい若者たちを育てています。会員になって支援してください。」のメッセージ読んでから、会員になり、先生及びその関係者の新刊出るたびに本を購入するようにしております。対談本であっても、立ち読みはやめ、購入しております。

 定例会も、主催は別ですが金融セミナーにも極力毎回参加しておりますが、そろそろ、その 若者たち が育った姿(育ちつつある姿)見てみたいです。よろしくご検討いただきたく、お願いします。  9/9 石田

石田 正彦 さまへ  
2012年9月10日 

副島隆彦から

 メールをありがとうございます。石田さまが、私たち学問道場の会員として、長い間、私たちをご支援くださっていることに感謝申し上げます。石田さまが、上記で提案なさっておられるとおり、 そろそろ 私たちも 熱心な会員に限定して、会員と私の弟子たちとの 交流の 研究発表の機会を作ってみようと思います。  

 会員の中の、大半の「読むだけ、聞くだけ」の人たちではない、自分も学問道場で学んでいるのだ、という 自覚のある人たちが、50人でも進んで集まってくださるようなら (実際に、いざ集まるとなると、それだけでも大変なのです)その機会を作るべきだと、私、副島隆彦は 思います。

 この石田さまの 提案を、弟子たちに 発案してみますので、お待ちください。ただし、 弟子たちの 研究発表を 熱心な会員たちが「聞くだけ」だったら、何にもなりません。意見の交換が出来るような場にしなければいけません。 そうすると、 たったの一日、数時間で何ができるのか、ということになります。 政治集会とかではないのですから。

 石田さま。このことを、お考えください。 たったの数時間、立川に、会員の中の有志の皆様が、集まってくれて、私、副島隆彦の話や、他の数名の弟子の 話を聞く、ということだけのことに やっぱりなってしまわないか、このことを 私は 危惧します。人間が集まって、そして、意思一致して 何かを行うということは、大変なことです。 

 ですから、講演会や 演奏会や、 福島原発バス旅行(石田さまにも参加していただきました)や、宴会(懇親会)をやるぐらいのことでしか、人は集まりようがない。  

 私の弟子たちでも、自分が生きて行くことで精一杯で、若い30代の人間としての苦しみをそれぞれに抱えています。 私自身が、この現状に対して、どうにも動きが取れない、というのが現状です。

 私自身が、次から次に 原稿書きに追われて、他のことが何もできない、という 現実です。 のんびりと余裕のある暮らしなど、一体、いつになったら出来るのか。 よっぽどの 達観 と 世捨て人の覚悟がなければ、出来ないことです。石田さまの、再度の ご提案を、 お待ちします。 あるいは、私の携帯*********に遠慮なくお電話ください。

 石田さまからの ご提案を 真剣に受け止めて、次の定例会(講演会)で、会場に集まる熱心な会員たちに、直接、私から意見を求めてみようと 思います。このことは、必ず行います。

 私たち学問道場は、言論集団、政治勢力としては、まったく孤立状態で、追い詰められていて、どこにも開かれてゆく契機がありません。しかし、このことは、私たちだけの問題ではなく、日本の現状のすべてが、そのように どこの集団、団体も そして大企業で、追い詰められているのだと、思います。

 今は、日本維新の会(橋下徹たち)だけが、華々しそうにやっていて、 何と「統治機構の 改造をする」 というコトバを公然と使い始めて、危険なファッシズムの動きを示しています。 私は、あーあーあー とため息をついています。

 「統治機構(とうちきこう)の改造」というコトバが、どれぐらい危険なコトバであるかを、普通の人たちは理解できません。 東大法学部では、3年生の600人に、「憲法Ⅰ」という授業と、「憲法Ⅱ」という授業をします。 

 「憲法Ⅰ(いち)」は、「人権 編」です。人権、諸人権、基本的人権の尊重・・・を教えます。 宮沢俊義(みやざわとしよし)が始めた。そして、「憲法Ⅱ(に)」が「統治機構(とうちきこう)」です。清宮四郎(きよみやしろう。ハンス・ケルゼン学者)が始めました。 

 Ⅰ(いち)で、国民の人権、人権 とやっておいて、「はい。次は、Ⅱ(に)の、統治です、統治機構です。皆さんは、しっかり国民を統治(とうち)してください」と 教えるのです。これが東大法学部という 官僚(上級公務員)養成の仕組みなのです。 統治機構(の改変)というコトバは、それ自体が恐ろしいコトバなのです。このことを相当なインテリでも、分からない。

 一体、今の日本の どこから、次の新しい、清新な国民運動、政治改革運動 が現れるのでしょうか。それに私たちが総意をもって、喜んで参加できるようなものとなるでしょうか。私は、じっと情勢を見つめています。 私たち弟子たちの夏の合宿も、9月初めに終わりました。

 その研究成果を、どんどん 会員ページに公表する段階に今は、あります。 これ以上のことを、一体、何ができるのかを、そういう余裕が私たちにあるのか、私は、本気で考えています。

今後とも 「副島隆彦の学問道場」 をよろしくお願いします。副島隆彦拝

(転載貼り付け終わり)

 副島隆彦です。以上のような経緯(けいい)です。ここの 重たい掲示板に、どうぞ会員の皆さまから、どんどん熱心な会員の皆さんの道場への積極的な参加の仕方での提案をしてください。遠慮入りません。私たちには、一切の気取りはありません。

 一人ひとりが生きてゆくだけでも厳しい現実という制約条件(せいやくじょうけん)の下でも、自分たちは、自分たちに出来るかぎりのことを皆で創意工夫して、実行してゆかなければならないと思います。

 松下忠洋(まつしたただひろ)金融大臣(73歳)が、9月10日に死去して、それが自殺であるのか、他殺(殺人)であるのかの、疑惑については、私の考えを、近いうち書きます。私は情報と知識を集めてます。現役の金融担当大臣が、突然、死去するということは、国家体制上は重大な問題です。彼に、どのような圧力と脅迫がかかっていたのかを、考えなければ済まない。

 まだあと郵貯・かんぽの 260兆円は、アメリカに奪い取られないで、しっかり、と国内にある。亀井静香(かめいしずか)と自見庄三郎(じみしょうざぶろう)が作った 国民新党は、この、日本国民(の老人たち2千万人)の最後の虎の子(とらのこ)の 守り神、ガード、ゴールキーパーたちだった。ここには、自民党も、民主党のアメリカの手先どもも、手を出さない、という政治家たちの暗黙の了解があった。

 「金融大臣としての大臣署名をしない」ということで、ゴールドマンサックスの運用にまかせる、として、さらに次の10兆円がアメリカ財務省に奪い取られることを、拒絶して、松下忠洋は、逍遥(しょうよう)として自分の腹を切ったのである。あるいは、やっぱり殺人だ。殺された中川昭一(なかがわしょういち)に続く、愛国者政治家の死である。

 私は、松下忠洋とはかつて一度だけ、さる選挙事務所で、立ち話をしたことがある。実直でまじめな人物だった、と人物評にあるとおりの人だった。

 愛国者の政治家が、ひとりずつ順番に、人柱(ひとばしら)になることで、日本民族としての抵抗(ていこう)の厚みが増す。それがいいことだ。
自分の番を自覚して、それを粛然として受け入れて、黙って死んでゆくのが本当の政治家の有るべき姿だ。

 続けて副島隆彦です。 中国の国家副主席で、次の国家主席になる予定の習近平(しゅうきんぺい)氏が、北京の政治の舞台に、9月4日ぐらいから現れないということで、騒がれていた。この 2月の重慶(じゅうけい)での薄煕来(はくきらい)事件は、軍事クーデターの動きであった、とする説などが今もあります。

 クーデターに失敗した薄煕来の残党たちが、命がけで、上海閥(しゃんはいばつ)を裏切った習近平の命を狙った、という説が流れました。が、以下の新聞記事にあるように、肝臓の腫瘍の摘出手術だったようだ。もうすぐ公務に復帰するのだろう。 だが、健康不安説が出ると世界規模(きぼ)の政治(世界史の一部となる)では、やはりその先が危ぶまれる。

 以下の新聞記事の 最新の情報源となった 「 中国人権民主化運動情報センター(本部・香港)」というのは、盧四清(ろしせい)という若い人が代表で、この 盧四清(ろしせい)は、中国本土での反政府活動ののち香港で民主化運動をやっている人物で、偏(かたよ)りのない正確な情報を出し、優れた中国分析を行う人です。 ですから、とりあえず、私、副島隆彦は、この「中国人権民主化運動情報センター」の発表を信じます。

(転載貼り付け始め)

●「 習近平氏、腫瘍摘出手術か=中国 」
2012年9月13日 時事通信
http://www.jiji.com/jc/c?g=int_30&k=2012091300430

中国人権民主化運動情報センター(本部・香港)は13日、中国の次期最高指導者に内定している習近平国家副主席の動静が不明となっていることに関して、習氏が今月2日に人民解放軍301病院で健康診断を受けた際、肝臓に極めて小さな腫瘍が発見され、今週摘出手術を行ったと伝えた。来週、公の場に現れる予定だとしている。
 習氏をめぐっては、日課としている水泳中に背中を負傷したとの見方が出ているが、中国では国家指導者の健康状態は機密事項となっており、中国政府は一切、コメントしていない。

(転載貼り付け終わり)

 私は、突貫工事で、今年の秋の金融本を書き上げたら、すぐに、中国に行って、中国の最新の情報を得て、私の5冊目の中国研究の本を書きます。

 今は、まだミケランジェロ、メディチ家、ルネサンスが持った、人類史での本当の重大な意味の解き明かしに拘泥(こうでい)していて、私の脳(=頭、思考)は忙しいです。

副島隆彦拝

ハル(会員番号2505) 投稿日:2012/09/13 18:35

【960】[1087]中国、経済と政権の二重危機 「革命」に転じる恐れも

【大紀元日本9月13日】の記事によると今の中国結構危険そうだな。実際はどうなんでしょう?

(引用開始)
【大紀元日本9月13日】「中国共産党上層部の内紛は天安門事件の時よりも深刻で、『革命』に転じる恐れもある」。米ブルッキングス研究所の主任研究員・李成(Cheng Li)博士がイタリアで開かれた政策研究会議アンブロセッティ・フォーラムでこのように指摘した。同会議を取材した英紙デイリー・テレグラフのベテラン記者アンブローズ・プリチャード氏は10日、李博士のスピーチは「深刻でショッキング」だったと伝えた。

 十年に一度行われる共産党の指導部交代と同じ時期にして、中国経済はハードランディングしている。「経済危機と政権危機の2つがお互いを増幅させている」。そのため、政権の継承や上層部の権力闘争の実態について高度な見識を持たない限り、中国経済を読み解くことは難しいと博士は言う。

 博士によると、中国当局は経済において基本的な政策過誤をしている。慎重な引き締め政策により製造業をそのままの状態に維持しながら、不動産景気だけを沈静化しようと目論んでいたが、「市場がこれほど敏感に反応し、経済全体が縮小するとは当局は予測できなかった」と博士は分析した。

 さらに、資産バブルも不安材料の一つ。国際格付会社フィッチは先週、中国の銀行業界の資産が異常なスピードで増えており、08年末の9兆ドルから21兆ドル規模に急増していると警鐘を鳴らした。「これは、ちょっとした衝撃で全業界の収益が消える可能性があることを意味する」とも警告した。

 経済への見方をさらに悲観的にしているのは、政治モデルの崩壊不安だという。「共産党政権の正当性は1989年(天安門事件時)当時よりも疑われており、共産党史上でもっとも危機的な時期を迎えている」。今の危機はさらに深まり、「革命」を引き起こす恐れさえあると博士は見ている。

 秋に控える第18回共産党大会では、1949年からの共産党政権以来、もっとも大規模な指導部交代が遂行されると見られる。7割に上る党・軍の幹部が入れ替わるため、熾烈な座席争奪戦が繰り広げられている。「これが資本逃避の理由でもある」と博士は指摘。権力闘争で敗北することに備え、ほぼすべての高官が自らの資産を国外に移動しているという。

 高官らの財産も共産党政権の正当性が問われる材料の一つだ。重慶市元トップの薄煕来氏の不正蓄財が1000億円だとされており、鉄道部の劉志軍・前部長はさらにその倍を超し、2200億円に達する財を着服している。「このレベルの腐敗は中国史上でも、世界でも例を見ないものだ」と博士は批判した。

(翻訳編集・張凛音)
(引用終わり)

澤田正典 投稿日:2012/09/12 20:29

【959】[1086]郵政民営化担当大臣の死はおかしい。

 澤田正典です。今日は平成二十四年九月十二日です。こんばんは。
 松下郵政民営化担当大臣が亡くなりました。自殺と扱われており、私はなんら特別な情報源を持っておりませんから、それを否定する方法を持ちません。ただ、これだけは言えるのだけど、それによって一番利益を得られるのは、アメリカでしょう。

 アメリカのヒラリーが、中国の習近平へ金の無心に行ったが門前払いとなったようで、そのせいでQE3を進めたくても、もはやどこにも、財源がないのでしょう。それならば仕方ない、手っ取り早く、最後のアテの、ゆうちょを根こそぎ、獲ってしまおう。それには、郵政選挙で気骨を見せた気骨の政治家が郵政民営化担当大臣では、こまる。そうあめりかは考えたに決まっているよ・・・とほほ・・・

 いくら属国といっても、これでは、まるで戦争しているみたいだ。我が国の現職の大臣は、ひとたびあめりかに逆らったら、いとも簡単に命を奪われてしまう。本当に、終戦は成立しているのかい?まだ戦争中だったっけか?あめりかさん、あんたたち、日本人を皆殺しにする気かい?こんなにまで国をめちゃくちゃにされたら、自治なんて成立しないんだよ。そこまでするか?

 いったい、あといくら金が欲しいんだい?あめりかさんよ。あと何人殺せば気が済むのかな?あめりかさん。あなたたちには、本当に困った。呆れたよ。

 でもね、私たちはまだまだ余裕だよ。いくらでも踏ん張って、我慢比べして、あめりかなんて、そのうちひっくり返してやるぞ。人はだれでも追い詰められるほどに、弱いほどに、智慧は勝手に湧いてくるものさ。

 澤田正典 拝

石井裕之 投稿日:2012/09/09 17:50

【958】[1085]フフホト通信(山東省青島市から)

中国山東省青島から石井裕之がフフホト通信をお送りします。
本日は香港ネタです。
実は先日、ほぼ20年振りに香港に行ってきました。
20年前は当然中国への返還前。現地の人たちは中国への返還に際して嫌がっている、という話を聞いた覚えがあります。
また、香港で働くイギリス人官僚たちのクルーザーが破格の値段で売りに出ている、なんて話も。
街角はゴミゴミとしていて猥雑な印象を受け、夜はダンサーが500人は集まるというナイトクラブだけが当時香港を訪れていた日本人の息抜きの場所でした。
飛行場からして非道いものでした。街の真ん中にビルを掻き分けるようにして飛行機が着陸していくのです。よく事故をしないものだと感心したものです。

ところが、今の香港はどうでしょう。
セントラルのオフィス街を歩いてみると、そこが香港であると俄かに信じ難くなってきます。金髪比率が高いことも相まって、アジアの地方都市の雰囲気とは完全に異質です。
以前見受けられた、ビルから横にニョキッと突き出ている看板も姿を見せません(場所によっては残っていました。安心です。)。
旨い日本料理に舌鼓を打ちながら夜景を楽しんだり、彼女とまったりした時間を楽しめるパブリックショットバーが軒を連ねていたり。
もしかしたら、街全体が六本木ですか?!
みたいな雰囲気です。

今回の訪香港も不動産関連の打ち合わせでした。
相手は台湾華僑という枕詞の付く、香港マフィアの大物です。
若かったころ、日本の広域指定暴力団の「山○組の田△」さんが、相談に見えられていたそうです。どうりで、香港の日航ホテルに泊まっていても、GMが挨拶にくる筈です。
日本語を巧みに操りますから、今回は妻の出番は無しです。
でも、相手が相手だけに、シクジったら香港湾に浮かんでしまうかも・・・。

香港ではハルさんにもお会い出来ました。
ハルさんが香港でどのような生活を送っていらっしゃるのか、詳しい情報が欲しい方はハルさんに直接連絡を取って教えを請うて下さい。
ただ、ハルさん同様、香港現地に法人を設立し、香港IDを持って毎日を送っていらっしゃる日本人は沢山いらっしゃいます。
では、香港で生活することの何がメリットなのか。
これをハッキリ書いてしまうとちょっと怖い気もしてしまいます。
私個人的な見解としては下に挙げるような事柄がメリットとし享受出来ます。
・事業主の場合、税制面での優遇措置がかなりある。
・相続税がない。
・現金資産を色々なポジションで保有出来る。
・勿論、無制限に海外に送金出来る。
・金融情報が集まりやすい。
・会計監査基準が日本と違い、経費を大幅に認めてくれる。

では、香港に永住権を持ち、香港政府のサービスを受けられるようにする為にはどうすれば良いか、それは1億日本円(1000万香港$)の現金預金を香港内に開設するか、若しくは香港に法人(株式会社)を設立させることです。

この前日本でキャノンのデジカメ(G1X)を7万円で購入しました。安い買い物をしたと喜んでいたのですが、香港では同じものが3.5万円で売っておりました。本当にビックリです。
また、ローレックスに代表されるような腕時計も、シャネルの化粧品も概ね香港の方が安く購入出来るようです。
中国に帰国する前日に、仕立て屋にフラっと立ち寄り、2万円のスーツを注文しました。僕の身体を丁寧に計測し、デザインを一緒に決めてくれたそのスーツは、翌日のチェックアウト前には、ホテルに届けられていました。ちょっと感動です。こんなことなら、打ち合わせする前に(香港に入る前に)スーツをオーダーしておくのだったと、ちょっと後悔したくらいです。

また、別の知り合いは香港の海岸沿いのリゾートマンション(プール付きのゴージャスなやつ)で、優雅に生活していらっしゃいます。毎月の家賃を聞いたらさほど高くもないのです。
インターナショナルスクールも沢山あるので、子供の為にも(実は自分の為)香港に拠点を設けなくてはならない、と決意を新たにした次第です。

大川晴美 投稿日:2012/09/03 07:55

【957】[1084]日本原子力学会が事故調査委員会を設置

会員の大川です。日本原子力学会の「東京電力福島第一原子力発電所事故に関する調査委員会」について、考えたことを述べます。

今年(2012年)8月17日、日本原子力学会は「東京電力福島第一原子力発電所事故に関する調査委員会」(以下「学会事故調)の発足を発表した。2013年末を目途に調査結果を公表するという。
http://www.aesj.or.jp/info/pressrelease/PR20120817R.pdf

福島第一原子力発電所の事故については、これまでに政府、国会、東電、民間が調査報告書を公表している。事故の現象面と教訓については政府の最終報告書に書かれているが、未だ事故の核心に迫っていないもどかしさを感じた。

たしかに報告書では、東電と政府の対応や住民避難に関する問題と教訓などはわかりやすく書かれている。しかしながら技術的な観点、たとえば原子炉の設計そのものに欠陥はなかったのか、40年前の古いタイプであることと関係があったのか、沸騰水型と加圧水型で事故発生の可能性は違ったのか、などの疑問には答えていない。つまり、今回の事故は、技術面において福島第一原発ならではの特殊な事故だったのか、それとも原発全般に適用し得る問題があったのか、という点が解明されるべきなのだ。

なぜなら、これらの技術的な疑問が解明されなければ、現在日本に存在している他の原発も同様の事故を起こし得るのか、異なるタイプであれば起こり得ない事故だったのかなど、「他の原発の安全性をどのように考えるか」という議論に発展させることができないからである。さらに、原発はすべて廃止すべきなのか、あるタイプの原発のみ廃止すべきなのか、安全性を高めた最新型の原発に全て置き換えるべきなのか、というような議論にもつながらない。

原子力発電所は様々な技術の集合体で、多様な分野の専門家が協力して設計・稼働するものであるから、今回の事故の検証においてもこれらの専門家の英知を結集し、協力して解明しなければならない。技術面の解明は、たとえ理工系でも専門が違えば不可能である。だから、原子力の専門家が集まる場である日本原子力学会による事故調査・検証は、絶対に必要なのだ。

とはいえ、学会の構成員はそれぞれが独立した科学者・技術者である。事故に対する意見は当然異なるだろう。しかし、意見が異なる時に、学会の政治力学や外部からの介入や「偉い先生」の意見で決まるようなことがあってはならない。今まで散々批判されてきた「原子力ムラ」から脱却するために、個々の科学者・技術者の良心のみに基づいて事故の調査・検証に取り組むことを、強く希望する。また、報告書は一般の者にもわかりやすい言葉で書いてほしい。そして、一般の者ももっと原子力の勉強をして、専門的な報告書でも必死に読んで理解すべきだ。勉強もしないで、どうして原子力のことを語れるだろうか。

以下、8月17日のプレスリリースから抜粋する。

(転載始め)
 学会事故調は、原子力の専門家で構成される学術的な組織の責務として、今回の原子力事故とそれに伴う原子力災害の実態を科学的・専門的視点から分析・把握し課題を抽出するとともに、背景と根本原因を明らかにして、原子力災害につながる事故を二度と起こさないことはもちろん、原子力の安全の継続的な向上を図るよう改善策の提示、提案を行うことを目的としています。また、自らの組織的・社会的な問題点とも向き合い、事故を防げなかった要因を明らかにして、必要な改革を行うことも重要な目的です。学会事故調の検討結果は、今後の学会の組織や原子力安全研究を始めとする学会の活動などに確実に反映させていきます。
 委員長は、田中知 東京大学教授(平成23年度会長)が務め、委員は、専門分野毎に設置されている部会等を代表する委員を中心に構成されています。(別添リストのとおり)
(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 06:00

【956】[1083]福島本部活動日誌です103

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年8月5日、6日の日誌です。

5日は疲れていて、ほぼ一日休んでいました。
朝起きて、昨日酒を飲んだ時に残ったものを食べました。カツオの刺身は変な味がしましたが、構わず食べました。
布団を干し、少量ですが洗濯をしました。

午後にHさんは、川内であったバイクの集まりに顔を出しに行きました。
http://hitonoekidaihyou.blog89.fc2.com/blog-entry-694.htmlでしょうか?)
夕食は、船引の洋食屋にHさんに連れて行って貰いました。大変有難う御座いました。
船引の公民館の反対側にある店で、普通に食べられる店でした。
帰り道の288号線は、民家の灯りが随分ついていました。ただし、元から殆ど街灯がついていません。

6日の午前8時50分のバスで、Hさんは帰りました。
この後、福島市で用事があったそうです。
なお、帰る前に
「4日のNHKのディレクターは写真に撮っておけばよかった。残念だった」
と、二人一緒に嘆きました。
確かに、NHKのイメージとはかけ離れた、素敵な人でした。

6日午後1時、東邦銀行の車両型店舗が川内方面に走っていきました。

http://www.kawauchimura.com/category/delicious/を見る限り、川内村の飲食店が二店再開しているようです。

午後、プラスチックゴミを捨てに行きました。中が梱包のビニールなど外に出しておいても大丈夫なものでした。

夕食は、ご飯、4日の夜にお酒を飲んだ時に余ったイカのリング揚げと焼き鳥、でした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月7日、8日の日誌です。

7/7の日誌をやっと書き上げました。
仕上げるのに二日間かかりました。
気を紛らわせるために、豚ばら肉300グラム、ゴーヤ、ピーマン、茄子、チンゲン菜、ブロッコリー、をそれぞれ別に炒めて、食べました。

布団を4枚干しました。
燃えるゴミを出しました。

明日から秋葉原に行くので、その準備をしました。
明日から暫く、PC前から離れます。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月9日、10日の日誌です。

9日の午前中は、洗濯や皿洗いなど、できるだけの家事をしました。
それが済んだら、体を休めました。
今回は、企業ブースでの買い物(の代理購入)を頼まれていたので、気合を入れていきました。
http://0taku.livedoor.biz/archives/4265823.html

午後3時46分のバスに乗り、磐越東線と東北本線と京浜東北線で秋葉原駅に午後9時20分に到着しました。
(午後4時35分のバスより、圧倒的に効率良く都心に到着できます。)
東北本線内は、帰省する人が多いのか、スーツケースを持っている人が過半数でした。
このままコミケの会場まで行く人は何人いるのか、少しだけ興味がありました。

宿泊のために、ネットカフェに入りました。
「ゆりゆり」を読んで「きゅひぃひひ」と奇声を発するようになった私の汚れた心を、「女子高生Girl’s Live」を読むことで浄化しました。

(大島永遠先生の「女子高生Girl’s High」は、男だったら、幻想を破壊するための必読書だと思います。
「マリア様がみてる」、「ゆるゆり」、「ハツカレ」、「ニセコイ」といった作品を読んだ後に読むと、天国から地獄にドラッグをやりながら落ちていく感覚が・・・わかるかもしれません。
女子高の「ムダ毛の処理」、「生理」、「衛生観念」、「性欲」といった事柄が、コメディタッチで・・・ありながら生々しく描かれています。
「性病」などの重くなりがちなテーマは微妙に外してあるのも、商業作家さんとしては優れています。
12歳の頃に、本当に正しい情操教育がしたいなら、↓の4ページは文化遺産だと思って熟読しておくべきです。この本に6年前ではなく、16年前に出逢いたかったです・・・。


たとえ二次元に逃避するにせよ、その前に、「二次元のヒロイン達も、主人公と会う前に、ムダ毛の処理などをしているんだろうなぁ」くらいは想像しておくべきです。
なお、私は寧ろ、そういう二次元のヒロインの方が萌える・・・というか愛おしいです。ま、結局三次だと惨事なのですが・・・。
なお、大島永遠先生は、コミケ3日目に出展されていたのですが、予定がつかず、並べませんでした。
http://oshimatowa.blog42.fc2.com/blog-entry-450.html

ネカフェを9日午前4時37分に出て、京浜東北線、京葉線、りんかい線を使って、国際展示場駅に行きました。
りんかい線の始発で来たので、超満員の電車で、改札は写真のようになっていました。熱射病対策として2lの水を持っていったので、重くて大変でした。

http://www.youtube.com/watch?v=I2SeUI405d8&feature=related
列に並ぶ時には、既に正門前に(10000人くらい?)列が出来ていました。

http://www.youtube.com/watch?v=gZCdIFtZd4o&feature=youtu.be
(参考までに、昨年冬の正門前の行列を挙げておきます。http://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=QwfZZG4Q_FE
これの他に、東門の駐車場の方に、さらに長い行列があります。)

列に並んで場所を取った後、体力温存のため、近くのホテルのモーニングバイキングを食べに行きました。
1470円もかかってしまいますが、実は喫茶店に入るより、こっちの方が安いですし、体力温存にもなります。
(なお、この方法を発見できたのは最近です。また、列を離れますので、戻れなくなる危険もあります。)
(ここから撮った動画もあります。http://www.youtube.com/watch?v=lsI6kj1JO74&feature=youtu.be
トイレを済ませた後、午前8時40分に列に戻りました。午前8時45分には列に戻っていなければいけないので、危なかったです。
それから、ペットボトルの水を衣服に少しずつかけて、暑さを凌ぎました。(←飲むとトイレに行きたくなるので、周りに迷惑をかけないよう気を払った上で、体に少しずつかけるのが安全です。)

午前9時30分頃から入場のために列が少しずつ動き出したのですが、外人さんたち5人ほどが、私の10m前の列の所から割り込んでいました・・・。
午前10時の開場から30分して、ようやく企業ブースのある西会場に入れました。更に2時間列に並んで、絶対に確保すべきものを買えました。
ここから更に3時間かけて、頼まれていた企業の販売物と無料配布物を取り終えました。全部で10個ほど、金額にして4万円ほどかかりました。
こんなキツい回り方をしたのは、雪のコミケの時以来です・・・。
http://www.youtube.com/watch?v=m-6mlFqm7-g
に、企業ブースの半分が紹介されています。が、私が回ったのは、映像で紹介されていないもう半分の方です・・・。)
会場から帰る途中、流石に直射日光の中7時間並んでいたので疲れましたので、ゆりかもめ豊洲駅で2時間弱休んでいました。
そのため、反原発デモの撮影には行けませんでした(スミマセン・・・)。
http://www.youtube.com/watch?v=atzqeJmAlm8

午後7時、秋葉原でZさんと夕食を食べました。
購入した4万円のうち1万円分をあげました。
また、残りの3万円分を、代わりに郵送してもらうことになりました。(最終目的はドイツですが、無事税関等を突破して届くのかはわかりません・・・。)

午後11時5分、ネットカフェに入って休みました。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 05:50

【955】[1082]福島本部活動日誌です102

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月28日、29日の日誌です。

(菊池さんはここの二階に、8月に入居するそうです。
移って来てみてからどうなるのか、予想はつきませんが、・・・・・・・・・・・・ま、月の半分なら、問題ないかとも思います。)

菊池さんが、南相馬の野馬追に29日に出店を出すので、それに行くことになりました。

28日午前11時に3人が車で来て、そこに荷物を積み込んだ後、私も南相馬に行きました。午後1時45分に野馬追の会場に着きました。
会場では、割と静か目の初日が行われていました。

道路を、衣装を着た人が乗った馬が、時折通り過ぎていきました。

馬つながりで、ゲル(http://ja.wikipedia.org/wiki/ゲル_(家屋))を出店の場所に建てる予定だったらしいのですが、作り方が十分に分らなかったのと地面が凸凹だったので、断念して普通のテントをたてることになりました。

午後3時前後で初日は終わったようで、行列になって脇の門から出て行きました。

午後4時、レンタルのプロパンガスが来ました。
一人は必ずテントに居るように、とレンタル会社の人から念を押されました。

午後9時、あるビジネスホテルの風呂に入りに、男3人で行きました。
途中で見えた南相馬の道の駅は、キャンピングカー等で満杯でした。
夕食は、道の駅近くの焼肉屋で食べました。
Kさんは、昨日から運転し通しで疲れていたようで、閉店する29日午前1時まで休んでいてもらいました。

Nさんは、なかなか格好良い大学生でした。
お父さんがイラン人で、バンクーバーに長く居たそうです。
(被災地を見られなくて残念そうだったので、写真を見せました。)

(←二枚目は、29日準備中の写真です)

29日午前2時にテントに戻り、私は持ってきた寝袋を使って休みました。(酷い寝床でした・・・。)
KさんとNさんは、車(ハイエースだったと思います)で休みました。

29日の午前7時から準備が始まりました。

午前8時、お手伝いのSさんという女の人が来ました。
作業をしながら、南相馬のことを少し訊きました。
午前8時40分、もう一人のお手伝いの女の人が来ました。
どちらのお手伝いの人も
「地元の人は、飽きちゃって来ない人も多いんですよね~」
と言っていました。

作ったのは、キルギスのうどんと水餃子でした。

午前10時に開店しました。
私は玉葱を切るのを手伝った後、水餃子を大量に包み、客の呼び込みをしました。

とても暑かったので、売れ行きは良くなかったです。

昼ごろに野馬追会場の観客席を見てみると、人で一杯でした。
(←この写真では、上のほうしかわかりませんが・・・)

午後0時半ごろ、消防士の人2人が手伝いに来ました。
余ってしまった餃子を、消防士の人が揚げ餃子にして、新商品に加えました。


午後3時まで売って、店仕舞いとなりました。

2日目の道路は、結構本格的な甲冑を身にした人が、騎乗していました。

28日よりも馬の数は多かったです。


読売旅行社のツアー団体が近くを歩いていました。

店を片づけた後、一度、荷物の積み下ろしのために、ビジネスホテルに行きました。
南相馬のビジネスホテルには、原発関連と思われる車両が停まっていました。

午後4時に南相馬から帰りました。
途中で野馬追帰りの渋滞に巻き込まれ、更に川俣町山木屋を通るルートを通ったこともあり、1時間半遅れて、午後8時に事務所に帰り着きました。
Kさん達は、さらにこの後東京に戻ったのですが、レンタカー返却期限の午前0時に間に合ったのか心配でした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月30日、31日の日誌です。

野馬追で使ったものの片づけをしました。
燃えるゴミを出しました。
掃除機をかけました。
洗濯をしました。
車のエンジンを10分かけておきました。
外用サンダルを干しました。
駐車場の草を毟りました。
布団とソファーと枕カバーを干しました。

唐突に「海に行きたいかも・・・」などと呟いていました。
8月10日から有明に行くので、別にいいか、とすぐに思い直しました。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月1日~3日の日誌です。

(菊池さんから、入居は10月からになりそうだと、メールがありました。
一度実家に戻って、諸事を済ませなければならないそうです。)

古道体育館に工事の人達が入っていました。
公民館の方にプレハブが建っていました。
話を聞いてみると、外壁に多数の割れ目があるのと、館内の床が酷い歪み方をしているそうです。

1日、野馬追の出店で余った食材を、大家さん、Yさん、みや古旅館、ガソリンスタンドのWさん、に配りました。
配ったのは、ナツメヤシ、短角牛のひき肉を冷凍させたもの、うどん、でした。
なお、Yさんからは、お返しとして野菜類と漬物を頂きました。

2日、布団を干しているフェンスを、たわしで2時間洗いました。
フェンスはすぐに乾いたので、布団を6枚干しました。
運動靴を洗いました。
ソファーを干すついでに、冬用の防寒靴を干しました。

3日、草刈りを3時間しました。
直射日光の中の草刈りは堪えます。
草刈りの途中で中田先生から電話がかかって来て、福島に避暑に行くべきか訊かれたので、止めておいた方が賢明だと答えました。
気温の差が大きいと、日中は余計に暑く感じます。
それ以上に、都路は虻が多くて、夏こそ長袖と長ズボンでいなければなりません。

3日午後4時、Sさん一家(Sさん、奥さん、息子さん)が来ました。
4月のツアーにも参加した方です。
焼き菓子を頂きました。
ペットボトルのお茶とゼリーをお出ししました。
この後、おそらく車で検問所方面に行ったようです。

相も変わらず、食材の残りで酷い食べ物を作りました。
焼き鳥のタレを使った炒飯もどき、でした。
衛生上だけ気をつけるのが精一杯です。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年8月4日の日誌です。

午後2時、事前の連絡通り、Hさんと、ご友人のKさんが来ました。
(Kさんはhttp://www.r-system.co.jp/の社長さんです。ヨット仲間だそうです。)
お二人が都路灯祭り(http://www.minpo.jp/news/detail/201208052892)で水羊羹を無料配布するので、そのお手伝いに私も同行しました。

(以前、ビッグパレットでの炊き出しもお二人でされたそうです。
「イベント屋としては、震災の状況でも動けるのを示せる事こそ後々の財産になると思った」という発言に感心しきりでした・・・。)

午後2時半から8時半まで、水羊羹を配布し続けました。
2000個弱配布しました。
なお、私はひたすらに、スプーンを入れてパックを閉じて必要な分だけビニール袋に詰めていたのですが、3個落としました・・・。

午後3時から、特設ステージの方で演歌や合唱等が始まりました。

午後3時半前後に、地元のテレビ局と思われる人達がインタビューをしていました。

福島民報社の人と朝日新聞社の人が来ていて、水羊羹を食べていました。
NHKのディレクターが来て、Hさんとしばらく話をしていました。Hさんがここに出店するきっかけとなったドキュメンタリーを作ったディレクターさんだったそうです。

船引の仮設住宅からバスが出ていたようで、避難している地元の人が来ていました。

5時ごろだったと思うのですが、村の偉い人と並んで、玄葉光一郎外相が挨拶しました。
そのため一時間ほど前からSPの人達がスーツ姿で警戒していました。

「外務大臣を辞めた後は地元に戻って地元の土になるなんとかかんとか」と言っていました。

他の人も含めて、挨拶が長過ぎでした。
挨拶後に、拍手も何も起きない、全くの無反応だったのが気になりました。
いっそ野次が飛んだ方がまだ楽だったのではないかと思います。
Hさんが「SPに聞こえるように『東京で言ってみろよ。野次来るぞ』と言ったら、SPは苦笑いをしていたよ」と言っていました。
(玄葉外相の地元は船引なのですが、果たして都路は地元と言っていいのかわかりません。
既出のことですが、都路は田村市全体の中で船引より力がないので、何かを市でする際も後回しになっていることが影響しているのかもしれません。)

夜になって、竹筒に入った蝋燭に火が灯されました。

午後8時半、羊羹を配り終え、事務所に戻りました。
会場を後にする時、下の駐車場では、絆という文字を竹灯で作っていた事に気づきました。
参加者からKさんに「有難う」と声が飛んでいました。

事務所でお酒を飲みました。
その後、外風呂に入りました。
Hさん、Kさん、共に格好良く、感激しました。(Kさんの漢らしい話を聞いてしまったのですが、書くと性的嫌がらせだと思われてしまいそうですので、止めておきます。)
午後11時前後に順次眠りました。

Kさんは8/5も仕事があるようで、午前4時に起きて、東京に帰っていきました。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 05:39

【954】[1081]福島本部活動日誌です101

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月18日の日誌です。

午前7時発の電車で船引駅に戻りました。
船引駅のあたりは、船引中学と船引高校に通う学生で一杯でした。

仮設住宅下にバスが停まっていました。
仮設住宅の子供たち20人ほどが乗り込んで、3人の母親が見送りに来ていました。

仮設住宅の近くにヤマダ電機が新しい店舗を開く準備をしていました。

セブンイレブンで、銀行口座にお金を入れました。アマゾンで使う必要があるので、かなり減っていました。
ダイユーエイトに行って合鍵を作りました。ついでに半額の食料品を購入しました。
多分これで、菊池さんが入居する際の細かな用事は済んだ、・・・と思いたいです。

午前10時53分のバスで、事務所へ戻りました。

午後4時55分、事務所の写真を撮っている二人の人がいました。
車で写真を撮って、すぐ去って行きました。(ただの見物人だと思います。)

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月19日~24の日誌です。

この期間は、気温変動が余りに激しく、東京に避難したくなる程でした。
22日の最高気温は室内で22度(外の最低気温は15度だったようです)だったのですが、23日の最高気温は32度を越えていました。
(対応にもかなり疲れました。)

19日午後2時39分、上海グループと書かれたバスと田村市のバスが、原発方面から郡山方面へ走っていきました。
黒いガラス越しでは中は見えなかったのですが、普通の人がいるようでした。
これまでは川内に向かうトラックが目立っていたのですが、原発に行き来する車の量も戻ってきました。

22日午後10時半、警視庁の二人の人が見回りと言って訪ねて来ました。
葛尾あたりを巡廻しているそうで、福島に来るのは三回目だと言っていました。電気がついている家を時々訪問させてもらっているそうです。
なにか変な人物はいないか聞かれたので、私の方が教えて欲しいくらいだ、と答えました。
なかなか丁寧な対応で、岐阜県警のように不快になることはありませんでした。顕名した警官は初めてだったので、むしろ好感をもちました。

23日の午後は建物の裏の草刈りをしました。晴れたので、ついでに自分の布団とソファーも干しました。
木の切り株が雑草で隠れているので、裏の草刈りが危険です。怪我しそうになることがあります。
生憎と快晴の日で、草刈り機のモーターを気にしながらだったので、余り進みませんでした。
午後3時40分頃に疲れて、道具をしまい始めたら、雨が降ってきました。偶然とはいえ幸運でした。

食事は、ご飯、サンマ、カレイの味噌漬け、豚肉を焼いただけのもの、味噌汁もどき、キャベツ、レタス、生のピーマン、セロリ、白菜と人参とチンゲン菜を炒めただけのもの、牛乳、お茶、ヨーグルト、を適当に食べていました。
サンマとカレイについては、お客様用に冷凍してあるものだったのですが、出せる機会もなく保存期限の大幅切れを迎えてしまい、自分で食べることになりました。
お客様にお出しするもの、については、お茶とペットボトルのお茶「だけ」あれば、充分のようです。(菓子類などは、あっても邪魔になるだけでした。)

19日の午前中に、ダンボールと大量の新聞紙を捨てました。

写真とビデオですが、「とりあえず何をどこまでどうしたらいいのかわからない状態」という、良くない状態に陥ってしまっています。
もうしばらく、解決には時間がかかりそうです。

(転載終わり)

(転載始め)

重たい掲示板に画像を載せるため、その作業にかかりきりでした。
なんとか画像を載せられましたが、まだ慣れないです。
西槙さんにとてもお世話になりました。

布団とソファーを干しました。
ただ、返す返すも天候が急変するので、干しにくいです。
これで、小物も含めた干すべきものは、完全に一通り干せました。安心しました・・・。

掃除機をかけました。
でもやはり下手なので、脇のほうにゴミが残っています。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 05:30

【953】[1080]福島本部活動日誌です100

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月8日~11日の日誌です。

7/8は、7/6と7/7の疲れが出て、余り動けませんでした。

菊池さんが二階に住める様に、整理等をゆっくりしていました。

掃除機をかけましたが、私が下手なので、余り上手くかけられていません。

布団を干しました。4日間で19枚干せました。あと8枚残っています。
冬があることを考えると、どうしても布団の枚数が多くなってしまっています。
併せて、ソファーと座布団を干しました。
外用のスリッパも干せました。

11日の11時ごろ、妙に掃除をしたくなりました。
トイレ掃除と通路のモップがけをしました。
台所に食べ物が置いてなければ、台所とコンクリート通路のブラシがけもやりたかったです。
腹立ち紛れに、車のエンジンを10分かけました。我ながら変なストレス解消をするものです・・・。

蜘蛛の巣をとりました。けっこうアブがかかっていました。

駐車場の割れ目から生えている草を毟りました。
地味に大変でした。

流しを掃除しました。

小さい蜂の巣が、建物の階段裏に出来ていたので、駆除しました。アース製薬のマグナムジェットの効果は絶大です。
ついでに蜂を3匹、アブを5匹、駆除しました。

蚊取り線香で蚊を駆除しました。締め切っていても、どこかから蚊は入ってきているようです。

食事は、豚ばら肉を焼いただけのもの、ニラと葱と卵の炒飯、ラーメンに南瓜やセロリや小松菜やモヤシを炒めて入れたもの、人参と里芋を炒めて添えたレトルトカレー、でした。
ゆっくり三日かけて同じものを食べました。
なんだか野菜ばかり食べていて、偏った食生活になっているかもしれません。

10日午後4時ごろ、「Hazama」(http://www.hazama.co.jp/index.html)というロゴの入ったバス2台が、原発方面から郡山方面に288号線を帰っていきました。
11日も、ほぼ同じ時刻に同じバスが1台通りました。
乗っていた人は、いかにも作業員という格好でした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月12日~15日の日誌です。

菊池さんから電話があり、16日に引越しする、との予定を伝えられました。

天候不順で、除湿機を取り出しました。今が梅雨のような天気です。
殆ど布団を干せませんでした。
雨の降っていない時間に、駐車場の草毟りと、草刈り機の届きにくい箇所の草取りをしていました。一日2時間ほどだったので、あまり進みませんでした。

13日午前11時30分、豚を乗せた家畜運搬車が川内方面に走っていきました。

14日午後4時26分、FTV8と書かれたテレビ放送車が、原発方面から郡山方面へ帰っていきました。なにか調べる事を私は見落としていたのでしょうか・・・?
常葉町のムシムシランドの再オープンが14日だったのですが、そのj関連ではないはずです。
ムシムシランドにも行きたかったのですが、天候不順だったので諦めました。

14日の夕方、なぜかストレスを感じたので、石井魚店に行って大量の食材、特に豚肉を買い、ご飯を炊いて、食べました。
食材だけで1489円もかかってしまいました。

15日午後0時42分、「かねあき交通」の二台のマイクロバスが、川内方面から郡山方面に帰っていきました。
中に乗っていた人が、作業員なのか、警戒区域の避難民なのかは、区別できませrんでした

この4日間は、Hazamaの車は見かけませんでした。

食事は、ご飯、納豆、ヨーグルト、もずく、生のキャベツとピーマンとレタス、スパゲッティ、レトルトのカレー、人参や里芋を炒めただけのもの、矢吹さんの奥さんから頂いた蕗と蕨の炒め物、豚肉、ニラと葱の炒飯、を順に食べていました。

ツイッターでよく話す中国の人から記事を紹介してもらいました。
記事の「大意はドイツのエネルギー企業(主E.on、RWEとEnBW)は政府の脱原発の決定によって最低150億ユーロの損失を被る。そして政府を告訴する」とのことでした。
http://www.tagesschau.de/wirtschaft/atomausstieg242.html
(関連して「わたしにはそれも理解できないわけじゃないけれど。なんと言うか、万が一何か起きたら(福島みたいな)、流石に日本にとってその ダメージは大き過ぎるだ。日本の面積はこういうぱいで大問題だ。でもそれ故に資源が乏しいの日本にとって、原発は目前に唯一の道だ。この矛盾の解答はいないだろ、新エネルギーが実用化されるの前。」とツイートしてました)

(ツイッターで
「・・・なんでみんなそんなにアニメ見る体力があるんだよ。」
と泣き言を言ったら、中田先生から
「甘いな。」
と返されてしまいました。)

(転載終わり)

(転載始め)

布団とソファーを干しました。

菊池さん、Nさん、それから共同通信の記者さん(と思われる人)が、午後3時半に来ました。
途中で長泥のあたりを通ってきたそうで、長泥には見物客がいたそうです。
菊池さんの荷物を、皆で二回に運び込みました。
菊池さんに事務所の鍵を渡しました。
共同通信の記者は、時間が無いとのことで、来て10分ほどで帰りました。これから仙台空港経由で帰るそうです。
菊池さんとNさんは、出したペットボトルのお茶と餅のような菓子だけ摂った後、菊池さんが7/18に東京で仕事とのことなので、帰りました。
この際、何本かのペットボトルのお茶は、あらかじめ冷蔵庫で冷やしておいた方が良い事に、昨年の夏に続き気づきました・・・。
菊池さんに生活等で伝えておいた方がいい事は、次の機会に説明します。(いざとなったら電話で伝えればいいですし、そもそも差し迫って伝えなければならない事は無いです。)

明日から飯舘村長泥地区は、立入が正式に制限されます。
http://www.minpo.jp/news/detail/201207162502

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月17日の日誌です。

午前7時半、事前の連絡通り、会員のEさんが来ました。昨年の6/4と6/5にも来た人だそうです。
Eさんは足を怪我されていて、ご自分の車で回るのに、案内役として同行させてもらいました。
(なお、Eさんが話したことで一番印象に残ったのは
「放射性物質が有害か無害か以前に、あれだけ影響が出るって自分達で思い込んでる人がいるんだから、その思い込みによって影響が出るだろう」
という言葉でした。)

大熊町境の検問所に案内しました。
兵庫県警でした。
Eさんがカメラを忘れたので、私のカメラで撮って、後でメールで送ることにしました。
いざ、検問所前でカメラを取ろうとしたら、私のカメラにバッテリが入っていませんでした・・・。
ここでの撮影は諦めました。

事務所に一度戻って、カメラのバッテリを取りに行きました。

岩井沢付近から国道399号線を北上し、バリケードのあるあたりまで行きました。
途中の看板が新しくなっていました。
バリケード前には人が一人いて、脇に停めてあった車には環境省のような表示のある旗のようなものがありました。



なにか声をかけてくる訳でもありませんでした。
また、丁度バリケードの内側から警察車両のような車が来たのですが、私たちがいるのを見てか、バックで走って戻っていきました。、
但し、乗っていた人の服装は、警察官のものではありませんでした。
Eさんが「まるでホラー体験だ」と言っていました。
私も同意見です。

再オープンしたばかりの常葉町にある、ムシムシランドに行きました。
一年前に陥没していた入り口付近の道路が補修されていました。
遊具類が置いてある立入禁止になっていたスペースも、草刈りなどの手入れがされていました。後で使えるようにするのではないでしょうか。

0.534μSv/hと、山の上だけあって、少し線量は高いです。

宿泊施設には二組の予約が入っていました。

レストランで食事にしました。客は私達だけでした。

Eさんが天麩羅定食で、私がカツカレーでした。私の口には合いませんでした。
レストランから出るときに店員さんに話したら、
「7/14は2000人ほど、その後の連休中もかなりの人が来た。ただ、平日は余り人が来ない」
と言っていました。

船引の仮設住宅を案内しました。車から降りない形で案内しました。

乗用車で見て回るだけなら、ここはとても見やすいです。(入り口の坂が大変ですが・・・)

郡山の仮設住宅を案内しました。
ガスボンベの上にも、雨避けの屋根が設置されていました。

仮設住宅の隣にはパチンコ屋があったことを、Eさんが発見しました。私は意識に留めていませんでした。

郡山の駅前まで送って貰い、そこで別れました。
郡山駅前の階段等に、復旧工事がなされる旨の表示がありました。

確かにここは後回しでも大丈夫な箇所だったと思います。隣のエスカレータは動いています。
郡山駅西口は0.259μSv/hでした。

郡山東口のモニタリングポストは動いていませんでした。

(駅前のローソンに「スマイルプリキュア(という、「大友(←大きなお友達の略です)が俗に言う、土曜32時30分からやっている」アニメ)とのタイアップ企画の旗がありました。

先週の放送は、週刊ジャンプ以上にアツ苦しかったらしい事、それからキュアピースというキャラが使っているのは電気系統の能力だったこと、を思い出しました。)
駅前のうすい百貨店の駐輪場には、安積高校のシールが張られた自転車がありました。安積黎明高校のシールは見つけられませんでした。

ビッグアイ(という郡山駅前の高層ビル)の22階に登って、夜景を撮影しました。(・・・考えようによっては、けっこう感慨深い夜景なのかもしれません。)
http://www.youtube.com/watch?v=5zgbCxG3p3o&feature=plcp
http://www.youtube.com/watch?v=9JGUjvu52g0&feature=plcp

明日、船引で済ませる用事があったので、郡山駅前のネットカフェに泊まりました。
新聞で16日に川内村で祭りがあったとの記事を見て、無理してでも行けばよかったかと、少し後悔しました。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2012/08/26 04:42

【952】[1079]福島本部活動日誌です99

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年7月5日の日誌です。

午前4時頃は、凄い雨が降っていました。
午後7時に、再び豪雨になりました。

布団と枕を干しました。
2階にあったタオルを、一度全て洗濯中です。
3~5月とは違い、強風がなくなったので、建物の外で布団と洗濯物を干せるようになりました。
地元の人が
「4月か5月に事故が起きていたら、風向きの関係で、こっちにも放射性物質が飛んできただろう」
と言っていたことを思い出しました。
午後1時40分に、一分だけ凄い雨が降り、一回取り込まなければなりませんでした。

ここ三日ほど、川内方面から郡山方面へダンプカーが走っています。
うち一台は土を満載して運んでいました。
おそらく除染した土ではないと思います。
除染した土は、青いビニールの土嚢の状態で運ぶはずだからです。

昼食は、ご飯、納豆、でした。
夕食は、ご飯、納豆、でした。
せめて葱を刻んで入れればよかったです。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月6日の日誌です。

午前8時50分発のバスとJRを使って、午後4時に秋葉原駅に到着しました。
秋葉原で必要なものを買いました。時間が無かったので、パソコン関係の品物を一個買い逃しました。
折角秋葉原に来ても、殆ど回る時間が無いのは残念でした。

官邸前のデモを見に行きました。
(自分で撮ったものは、
http://www.youtube.com/watch?v=_MWawK3q770&feature=youtu.be
http://www.youtube.com/watch?v=dLcybqYd9Yg&feature=youtu.be
http://youtu.be/MoCRPWUiH-U
http://www.youtube.com/watch?v=4h9wfwucznY&feature=plcp
ですが、初心者の下手な撮影になってしまっています。)
霞ヶ関駅を出ると、経産省前で10人くらいの人が、スピーカを使って抗議のマイクパフォーマンスをしていました。
そこから歩いてデモの方面に行ったのですが、警察の交通規制が上手く、前のほうには辿り着けませんでした。
永田町は、近くに新党大地の選挙カーが停まっているなど、やはり変わった所でした。
6/22の時も思ったのですが、首相官邸付近は、とても高そうな車が走っていました。
(下世話な話ですが・・・、今までに見た中で一番凄そうな車は、北京清花大学の構内で見ました。)
雨が降っていたので皆傘をさしていたこと、それから人数自体がかなりいたので、移動するのが大変でした。
途中で傘が壊れてしまい、家電量販店の袋を傘代わりにしました。
途中で半ば心が折れて、霞ヶ関駅に戻りました。
そして、経産省前でのマイクパフォーマンスを撮っていました。
「経産省はAKBと呼ばれてるんだ。アホ、カス、バカの略だ」
というのを聞いて、これは無関係なドルヲタ(アイドルオタク)を退かせてしまうのではないか、と思いました。
ある人の
「自分の住んでいる所は0.3μSv/hだ。具合が悪くなって病院で血液検査をしたら、甲状腺機能の低下が見られた」
という主張を聞いて、
「この人、399号線の北側通ったら、どうなっちゃうのかな」
と変に心配になりました。
(なお、7月初めに既に、飯舘村長泥と浪江町津島の境にはバリケードが設置されているそうです。
バリケードは、住民は通れるそうです。
8月下旬時点で、住民以外は399号線は一部のみ通行できる状態です。〔←注:殆どの399号線は通れない、と思っていた方がいいです〕
http://www.minpo.jp/news/detail/201207022265
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120702-00000005-maiall-soci
「福島県人も同じ日本人なんだ。福島を見に行くべきだ。郡山では4μとかがザラの中で子供達が遊んでいる。国に避難を呼びかけよう」
などの主張もありました。
福島県出身者の人は、中間処理施設が出来つつあることについて述べていました。
やはり地元の人は、情報に対する反応が東京の人よりも、やや鋭いです。
通行人で2人ほど、「うるせー」と言った人と「Fuc〇 you.」がいました。
マイクパフォーマンスをしていた人達は、かなり激しく反応して言い返していました。

午後8時のデモが終わった頃、別行動でデモ隊を見に行っていたUさんから電話が入りました。
デモ隊が警官隊を破りはじめた、とのことだったので、急いで行ってみました。
ですが、私がついた時には、ごく一部で、デモ隊の3人と警官隊が見詰め合って喋っている(←変な表現ですみませんが、本当にこう見えました)くらいでした。(ネット上の俗語でいう、アッーという状態でした。)
その後、デモの主催者が歩道に戻るように言って、騒動のようなものは次第に無くなっていきました。

映像は
http://www.youtube.com/watch?v=s6ZIINl3KBg&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=fzeUUuY0wTs&feature=related
に上がっています。

(なお、ビデオについてですが、当たり前といえばそうなのですが、ビデオを撮っていると、カメラは撮れないことに気づきました・・・。
一枚も今日のデモの写真が残っていません。)

地下鉄霞ヶ関駅の改札近くで、UさんUさんの友人と合流しました。
デモの最中も電話で連絡は取っていたのですが、凄い人で合流するのは無理でした。
Uさんは「反原発デモは、最後の一瞬だけ暴徒化したが、その後すぐに主催者の指示を聞いて落ち着いた」と言っていました。
確かにデモの主催者は、(良くも悪くも、)警察の指示に従った管理・運営をしていました。

Uさんたちと夕食を食べた後、ファミレスで休みました。
明日は、ほぼ始発の新幹線で都路に帰って、その足で川内に行かなければならないので、眠るわけにはいきませんでした。

(転載終わり)

(転載始め)

2012年7月7日の日誌です。
(色々な情報が一遍に入ってきて、書き漏らしがあります。)
(今思うと、言わなくても良い事を答えているのですが、これでもあの時には精一杯の対応をしたつもりでした・・・。)

午前5時53分の山手線で上野駅に行き、そこから新幹線、磐越東線、バス、を使って都路に戻りました。
すぐに、ビデオとカメラだけを持って、川内村に自転車で向かいました。雨だったので、体に辛い天候でした。
川内村に午前11時に到着しました。まだ野田首相は到着していませんでした。
川内村役場の村長室(と思われる部屋)は電気がついていて、人が二人いました。
川内村役場の駐車場にパトカーが停まっていました。

小学校に行ってみると、中に入って何かの作業をしている人がいました。

体が冷えたので、個人商店に入りました。ここのお婆さんにとてもお世話になりました。
カップ麺とパンケーキを購入しました。カップ麺にお湯を入れてもらいました。
店をやっているお婆さんと話して、野田首相は午後に来ることを教えて貰いました。
「今はまだいわきだってテレビでやってた。2時に、ゆふね。で、2時50分に小学校。その時刻に従って、集落ごとに人が集められてる。まだまだ時間ある」
とのことでした。
暫くして地元の人や都路町大久保の人が来て、雑談をしながら皆でお昼ご飯を食べることに、なぜかなりました。
「288号線と399号線の交差点の・・・」と言うと「ああ、あそこの人かぁ」と返って来ました。
途中でテレビ東京の人が二人でやって来て、パン等を買っていきました。
「遠藤村長は、村の中では色々言われている。あっちを立てればもう一方は立たない。かわいそう」
「都路の人は、川内は合併してなくて良かったね、と言うけど、市町村の平成の大合併のとき、川内はどこからも合併を嫌がられた、というのが本当のところ」
と言っていました。
(店のおばあさんは川内の別のおばあさんと、北海道に避難していたときのこと、・・・もっと言えば、北海道に避難して皆良くしてくれたけどやっぱり気が引けて川内に戻ってきてしまった事、について話していました。
病院について、「医者は仕事だから助けようとするのはわかるけど、次の3回目の心臓発作が来たら、そのまま死にたい。だから、定期健診とかは行くの自体大変だし、行かない」と言っていました。)
都路町大久保のお婆さんは、加藤さんが仮設住宅で演奏会をした時に、少し話した人でした。

午後1時20分、川内小学校にもう一度行ってみると、地元の警官だという人に話を訊かれました。
スーツ姿でした。
隣の村の者で、写真を撮りに来た、と言ったら、納得して笑っていました。

近くの駐車場には、福島放送の車がありました。

川内小学校で午前中からしていた作業は、ほぼ終わっているようでした。

午後1時半、体が寒くなりすぎたので、かわうちの湯のサウナに入りました。
併せて服を乾かしました。
そこに居た人達から話を聞けました。
「事故以前から原発に、記者やジャーナリストがスパイのように労働者として入っていた」
「自分は都路の20km圏内の人間だけど、原発に働きに行ってる。除染等もやってるけど、効果は無さそう」
と言っていました。

午後1時50分、かわうちの湯は、SPの人が駐車場を見張っていました。

午後2時11分、川内村のコンビニ付近をうろうろしていると、隣を車の集団が通り過ぎました。しばらくして、野田首相が、かわうちの湯の駐車場に来たことに気づきました。

普通の車が5,6台、マイクロバスが2台でした。今考えると、マイクロバスにはマスコミ関係者が乗っていたのだと思います。

野田首相は、かわうちの湯ではなく、隣の今は食品検査場になっている建物を視察しているようでした。

自転車に乗っていた私は、SPの人に
「警備の関係上、ここで止まっていて貰えますか?すみませんね。こんな遠くからで」
と言われて、遠くから写真を撮るだけでした。
川内小学校の方で待っていいか訊くと、そのまま真っ直ぐ行くように言われて、開放されました。
途中で消防士の人たちが駐車場の方に走っていきました。

午後2時26分、川内小学校に行ってみると、校門前でビデオカメラを構えている4人がいました。

小学校には既に住民が集まっていました。午前中に行った個人商店のお婆さんも来ていました。

小学校の駐車場にも車が一杯でした。

午後2時28分、野田首相が到着して、奥の建物(おそらく体育館?)に行きました。

首相が来ると思われるところには、住民と報道陣のカメラが集まっていました。

色んな所の映像を撮ろうとビデオを回していると、スーツ姿の警官に、脇にあった車に連れて行かれました。
Aさんという会津の警官の人でした。(やはり、会津弁は、独特にドスが利いています。)
どうも「反原発デモには核マルや中核派の人がいるので、その警戒中だったが、ビデオを録ってるので怪しい人間に見えた」ということのようでした。
(官邸前デモはビデオを回している人が多かったので、余り気にも留めずにビデオを回していました。
また、官邸前デモに過激派が入っていてビラを配っていたのは確かなのですが、参加者の殆どは、一寸変わっていたとはいえ、「普通の人」でした。)
「288号線の学問道場と描いてある看板の・・・」と説明してみた所、「会津から連れて来られたんで、地理がよくわからない」と返事が来ました。
もう一人いたスーツ姿の警官の人が、双葉署の人で、助け舟を出してくれました。
「学問道場と書いてある288号線と399号線の交差点の近くの・・・」
と言ったら、
「ああ、あそこね。本読んでます。」
と返ってきました。
(福島県警が先生の味方、というのは、案外本当かもしれません。)

野田首相が川内小学校で話している間、私はずっと警察の車(但し、パトカーではなく、普通の車です)に居て、話を訊かれていました。
(そもそも警備には、普通にパトカーを使うべきなのではないかと思いました。
・・・反原発デモの周辺を走っていた普通の車も、警察関係車両があったのだろうな、と、今やっと思い当たりました。)
ですので、首相の写真等は撮れませんでした。
先生の名前を出して、アメリカ政治思想研究が専門だと言ったら、Aさんは変な顔をしていました。
首相の大学の先輩で、話したことがある人だと言ったら、どうも問題は無さそうだと判断されたようで、空気が落ち着きました。

次の首相は誰なのか、と聞かれました。
先生は石破茂だと言ってる、と答えたら、黙った?というより、安心して落ち着いた?ようでした。

石原慎太郎東京都知事の尖閣諸島購入について
「ああいった発想はなかなかできない」
と評価するような事を言っていました。
併せて
「日本は中国の属国じゃないんだから」
と言ってました。
ここで先生の属国日本論や孫崎亨氏の考え(http://www.news30over.com/archives/6490744.html)を言ったら、どういう反応をするのか、目茶目茶興味ありましたが、場を穏便にすることを優先して、押さえました。
(でも今となっては、やっぱり言ってみるべきだった、折角の機会だったのに勿体無かった、と、大変に残念です。)

かまをかける質問だったのかもしれませんが、それでも、公務員、それも警察官が政治に関することを言ってしまうのは、問題かと思います。

このことは外に言わないようにと言われました。
最後に、警察の車の番号が映っている映像は、公開しないように言われて、開放されました。
(なお、公開はしていませんが映像は残っていますし、ビデオを止めるように言われるまで録音は続いていましたので、記録は残っています。
・・・そもそも、ビデオを撮ってはいけない、と警察官が言う事自体に問題があるのではないかと思います。
でも、検問所にいた他県の警察官なんかも、同様の問題のある態度を取ることが多いです。
中国の公安みたいなことはあまりしないのだから良しとすべきなのかもしれません。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20120801-00000045-yonh-kr

とってつけたような言い方で何ですが、一般的に見れば、Aさんはかなりいい警官なのだと思います。
もっと酷い警官は、一杯見ました。

福島県の田舎の気質というのは、右寄りというよりも、封建主義的、というものだと、私は思いました。
(8/4にHさんは、「それ以上に、権威主義的だ」と、より正確な表現をしていました。)
(やや福島の田舎を擁護しますと、権威主義的に回りに流されるようになるし、それで生きていくのに問題は無いのだと思います。・・・・・・擁護になっていないでしょうか。実際の所、私の地元も、あまり大差ありませんが、盲目的にお上を信用する事は無いです。(←まあ、その分、余計性質悪いのですが・・・)
それとも佐藤栄佐久『知事抹殺』の117ページに「私には「都会には人は育たない」という言葉が、強く印象に残った。」とあるように、こういった場所でこそ、新しい考えを育てるべきなのでしょうか。私にはわかりません。)

野田首相が帰った後、出てきた親と子たちが取材されていました。

かわうちの湯の休憩所で休みました。
個人商店で知り合った人達の紹介で、休憩所で休んでいる人達と話しました。
自己紹介をするだけで終わりました。
その後、隣の食品検査場に行ってみましたが、電気がついているだけでした。

午後5時に小学校に行ってみましたが、既に誰一人いませんでした。

午後5時半から自転車で一時間かけて、事務所に戻りました。
戻ってすぐに風呂に入りました。

最後に、これは日誌を外れるかもしれませんが・・・、昨日首相官邸前で抗議に行った人は、いわきや福島県庁ならば行きやすいと思いますが、そっちには行ったのでしょうか?
川内村には、おそらく一人も来ていませんでした。
(こういうのは、Aさんには悪いのですが、抗議したいなら、川内村がやりやすかったと思うのですが・・・。)

(転載終わり)