重たい掲示板
書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。
旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください
書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください
※ログイン後に投稿フォームが表示されます。
Loginはこちら【1067】[1210][
「アジア人同士戦わず」の思想の系譜を探る(2)
田中進二郎です。今日は「アジア人同士戦わず」の源流についてさかのぼってみたいと思います。どういう遡行なのかといいますと、副島隆彦~久野収(くの おさむ)~狩野亨吉(かのう こうきち)~安藤昌益(あんどう しょうえき)というルートです。
●久野収著「30年代の思想家たち」から
「30年代の思想家たち」(岩波書店)は戦前知識人のリーダーたちを批評した本である。
久野収氏(1910~1999)は副島先生の「五人の先生」の一人である。久野収氏の家に副島先生が住んでいたこともあるそうです。「羽仁五郎(はに ごろう)の兄貴分が久野収だよ」とおっしゃっていました。石堂清倫(1904~2001)と並んで戦前から左翼運動、言論活動を行った人であり、戦前は羽仁五郎と同じく治安維持法で検挙、投獄されている(1937~1939年)
「30年代の思想家たち」でとりあげられているのは、狩野亨吉・三木清・本田謙三・戸坂潤・中井正一・久保栄・林達夫・羽仁五郎・北一輝・マハトマ=ガンディーの十人である。
この本で取り上げられている人物のうちの七人までは中公新書の「日本の名著」と重なっているので、彼らの主著についてはそちらで知ることもできるのであるが、久野収氏の本のほうが1930代の重苦しさが伝わってくる。
三木清に120ページが割かれているのに対し、狩野亨吉には冒頭の20ページしかあてられていないのであるが、久野収は狩野氏の「晩年のほとんどただ一人の弟子であった」p2ことを明かしている。
狩野亨吉は圧倒的な学者であり、京都帝国大学文学部の初代学長にわずか42歳でつく。(1907年)が、内藤湖南(ないとう こなん)を文学部に招いたときに、文部省が妨害したため、当局と衝突となった。
「官吏として生きることと学者として生きることとが両立しない」と悟った狩野は「二度と官職にはつかないという固い決意を秘めて、(京都大学を)退職した。」(p14)1907年44歳のことである。
Wikipediaによると、狩野亨吉が京大文学部にいたころには内藤湖南のほかに、幸田露伴も招かれ波紋をよんだ。上の二名には正規の学歴がなかったからである。
さらに夏目漱石も英文学科に招いていたが、漱石はこれを断って、朝日新聞社に入った。そしてそのあと「坊ちゃん」が誕生することになるのだ。狩野亨吉の構想力の大きさがわかると思う。
彼は京都大学を退職」してのち、亡くなるまでの30年にわたって、書画の鑑定売買を業とする生活を送るのである。官職を辞した後は、ほとんど赤貧のままだったようだが、「毎日自己の仕事に精を出して、余暇があれば古書を調べたり、文献を読んだり、職業上少しでも珍しい書物が手に入ったりすると、青写真にとったりして楽しまれた。またアインシュタインやディラックのような物理学者が講演する場合は必ず出席して、新しい知識の吸収につとめられた。」(p17)
(以下p18より引用します。引用開始)
最後に先生と戦争について、一言述べなければならない。太平洋戦争の勃発は、その勝敗の帰結を予知されていただけに、先生にとって実に大きな憂慮の種であった。昭和17年の正月(真珠湾攻撃の直後)には
「実に大変なことになった。自分はもうなんといってよいかわからない気持ちだ」と暗澹(あんたん)とした顔つきで語られた。同年9月ごろ、友人のK氏が訪ねられたときには
「鉄が足りない、銅が足りない。とにかく科学と宗教との戦いだ。西洋では18世紀に勝敗の定まった問題を二十世紀の今日またくりかえそうというのだ。神がかりや曲学阿世の徒が、国家を滅すことになった。もう二年もすれば、アメリカの飛行機が空をおおうて来襲し、ここら一帯は全部焼野が原になる」と語られたという。
(引用おわり)
久野収のこの短い狩野亨吉伝には「真理の迂回戦法」というサブタイトルがつけられている。これは真理が、信仰の狂暴な挑戦をうけたときには、真理の側に立つ側は、信仰や信念と対等なところまで下りて戦ってはいけない、という狩野亨吉の教えである。「真理は、
信念と衝突することを意識的に避けて、自己の持ち場で静かに、水が高所から低所へ向かって流れ出てゆく機の熟するのを待つという態度である。」(p10)
●「われは兵を語らず。われは戦わず」-安藤昌益
夏目漱石の「淋しき個人主義」との血縁を、久野収は指摘している。
(p11より引用開始)
(狩野の個人主義とは)他に対して自己の理論を啓蒙したり、宣伝したりは決してしない。そのかわり自己は自己の理論に従ってあくまでいきぬいてゆき、他の干渉を許さないというものである。
先生が安藤昌益の「わが道には争いなし。われは兵を語らず。われは戦わず。」という言葉を繰り返し、述べられたのは、上記のごとき事情であるからと思われる。あの過激な革命的思想の持ち主でありながら、このような言葉を吐いた安藤昌益の人柄に、先生は自己の写しを見られたであろう。晩年、筆者と対談のおり、談たまたまフランス唯物論の先輩、ジャン・メリエに及んだとき、先生はメリエの生き方に心から同感の意を表された。そしてメリエは、生前カソリックの忠実な村司祭として、自己に課せられた任務を果たし、死後、その遺言状に大胆な唯物論、無神論、社会主義の理論をのこした人物なのであった。
(引用おわり)
ジャン・メリエ遺言書は「古今東西最大の遺言書」らしい。17世紀末から18世紀初頭、フランスの一田舎司祭ジャン・メリエは、深夜灯火のもとで教区民のために営々と驚くべき文章をつづり続けた。神々と宗教の虚妄なることを論証したこの「覚書」は死後、啓蒙期の代表的地下文書として流布し、旧体制を根底から震撼させた。
これは安藤昌益(1703~1762 青森県八戸の医者)の「自然真営道」(じねんしんえいどう)と「統道真伝」(とうどうしんでん)ときわめて似ているにちがいない。(「メリエの遺言書」は法政大学出版社であるらしいが、古本屋でも図書館でも私は見たことがありません。)
ただ安藤昌益には弟子がいたことがわかっていて、晩年には八戸で「安藤昌益を囲む会」(笑)
を決行した。全国から集まったその数は14名という。
E・H・ノーマンの「忘れられた思想家」(岩波新書)によれば、安藤昌益の「わが道には争いなし。われは兵を語らず。われは戦わず。」の思想は、昌益のまわりにいた弟子たちが、反封建体制の武力闘争に立ち上がろうとするのを抑える、現実的目的もあっただろう、ということである。.
その証拠に安藤昌益の手紙の中に「金を確かにいただいた。だがまだ立ち上がる時ではない。」という手紙などがあることも指摘しており、何者かが資金を提供し、安藤に決起を促した可能性もある、と書かれている。
由比正雪(ゆい しょうせつ)の乱(1651年)に似た動きではなかったか、とノーマンは示唆しているのだ。
すくなくとも安藤昌益が秘密結社をつくっていたことは事実であろう。
さて「自然真営道」や「統道真伝」の思想について考えることは今回はできません。
ただ「統道真伝」の下巻の仏教批判と副島先生のブッダの生きざまの評価がわかれているのが面白い。副島先生がブッダの精神性の高さを評価するのに対して、昌益は「働かずに
食べ物を恵んでもらうことをよしとする生き方は間違っている。それに自分の親が敵国に攻められて殺されているのに、自分だけのうのうと生き残っているのは、自然の孝心からはずれているではないか!」と厳しい。
最後に安藤昌益の「自然真営道」を発掘し世に問うた、狩野亨吉の「安藤昌益」論文がサイトで読めますので↓に付記しておきます。「今日のぼやき」でいうと、2本か3本分ぐらいありますので、読むのに覚悟がいりますが、大変な名文であると思います。
1928年(昭和3年)に発表されたものです。
http://www.aozora.jp/…/2653_20666.html
田中進二郎拝
【1066】[1209]「アジア人同士戦わず」の思想の系譜を探る(1)
「アジア人同士戦わず」の思想の系譜を探る(1)
田中進二郎です。今日は副島先生の「アジア人同士戦わず」という思想がどのような、背景をもっているのか、という点について考えたことを述べさせていただきます。
尖閣諸島での日中衝突は、水鉄砲の掛け合い、あるいは放水の段階を超えて、レーザーを放つという危険な「戦争ごっこ」を演じています。水遊びから、「危険な火遊び」になっていくかもしれません。日本国民は無謀な太平洋戦争に突っ込んでいった1930年代、40年代のときよりも、戦略・戦術(strategy,/tactics)のない戦争に導かれていくのでしょうか?
長井大輔さんが「クラウゼヴィッツとイルミナティ」について書いていましたが、クラウゼヴィッツの名言(「戦争論」)に「戦略の誤りは戦術によって取り返すことはできない」というのがあります。企業活動の場合、「戦略を転換する」ことは可能でしょうが、一国家の運命が左右される「戦争」は「間違えたから、方針転換、軌道修正します。」などとはできないものである。もし戦争が起こってしまったら、現在の「大政翼賛会」政治家たちはジャパン・ハンドラーズの連中たちに、「どうか、戦争の指揮をとってください」とでもいうつもりだろうか。安倍政権や「維新の会」、そして「菅-野田」民主党ラインにいる政治家たちは、太平洋戦争(べつに大東亜戦争でもいいが)からいったい何を学んできたのだろうか。
「戦略の失敗は戦術ではとりかえせない」という、クラウゼヴィッツの言葉であるが、
戦略というのは英語でstrategyだ。一方、戦術はtacticsだ。何が違うか。Strategyは単数形でtacticsは複数形だ。だから国家戦略というのは、練りに練って生まれたものでなくてはならない。その結果出来上がったひとつの重要戦略を是が非でも遂行するためにたくさんの戦術が要請される。一大目的のために手段が必要になるのだ。当然のことだ。小学生でもわかることだ。だが、日本史をさかのぼると、戦略とよべるものが戦前日本にもない。国体についての思想や、論文についてはあった。だが結果としては、世界の支配者たちのいいようにあやつられ、だまされたのが、太平洋戦争の歴史ではないのか。
まあ1941年12月8日の真珠湾攻撃の当初から、「八百長」戦争であったわけで、フランクリン・D・ルーズベルトはハワイのパールハーバーに、太平洋艦隊を囮(おとり)として攻撃させる戦術(作戦)を用いた。また日本軍は日本軍で、太平洋艦隊を「奇襲」攻撃した後、第二次攻撃の命令を待っている航空隊に、「攻撃は終了、帰って来い」という命令を出している。
そのころ、ルーズベルト大統領はパーティーで婦人たちに、「もうすぐ、日本が攻撃してくるころだ。ハハハ」と笑みをうかべていた。
そして、その後にあの有名な“Remember Pearlhabour”の演説となるのである。
(参考 「真珠湾の真実」(ルーズベルト欺瞞の日々)ロバート・スティネット著 文芸春秋 ほか この本は副島先生も「必読だ。」と著書で書かれている。)
以下先生の近著「ぶり返す世界恐慌と軍事衝突」より引用します。
(p66・67より引用開始)
フランクリン・ルーズベルトとチャーチルとスターリンの連合国側の3人の合意事項で戦後の世界体制が決められた。ヤルタ=ポツダム体制という。ヤルタ協定を土台にして、日本に降伏を勧告した「ポツダム宣言」を日本政府は受諾した。そして今の日本がある。誰も否定できない。
(p73・74より引用つづき)
「尖閣は日本の領土だ、固有の領土だ。昔からそうだ。古い地図もある。」と、日本人は感情的になって主張する。だが、それは相手との交渉がなければ決められないことである。何らかの合意がなければだめである。相手の意思を十分に聞こうともせずに一方的に主張するのは、おかしいを通り越して見苦しい。(中略)
中国人たちが「日本人は国際社会のルールを知らない。歴史の勉強ができていない」と主張しているのは、おそらくこのことだと思う。私たちは相手の意見を聞くために、中国政府の高官や言論人を、テレビ、新聞社が招いて、自分の考えを十分に言わせるべきなのだ。
それをまったくやらせようとしない。(中略)
日本政府(外務省)も、これだけの争いになってようやくハッと気づいたようだ。だから実効支配というコトバを、もう積極的には使わない。国際社会(世界)に向かって、「尖閣は実効支配していますから」では説明にならない。居直っているとしか思われない。みっともないったらありゃしない、である。野田首相は、よくもまあ国連総会(昨年9月26日)で「国際社会の法と正義に訴える」といえたものだ。「国際社会」とは何かが、わかっていない。国際社会とは「戦後の世界体制」のことであり、「ヤルタ=ポツダム体制」のことなのだ。
だから何としても話し合いをして、日本の主張と中国の主張を戦わせながら、折り合いをつけなければならない。何があっても話し合いで決着するべきだ。この海域の共同管理、共同開発で折り合うべきだ。アジア人同士で、まただまされて、戦争をすることになったらどうするのだ。「アジア人同士戦わず」は、長年の私の血の叫びだ。
(引用終わり)
田中進二郎です。「アジア人同士戦わず」というコトバはシンプルで力強いと、初めて目にしたときから私はそう思っていた。これは副島先生の信条でもあり、戦略でもあり、宣言でもあるだろう。これは左翼が唱える「何がなんでも反戦平和」という絵空事と同列に扱ってはならないことはいうまでもない。次のようにも書かれている。
-人類(人間)は、70年から80年に一度、どんな国でも必ず戦争をしている。これは歴史の法則であって、この運命から私たちも逃れられない。このように諦観(達観)すべきである。「戦争だけはするな」と、ずっと書いてきている私の考えと違うではないか、といわれてもかまわない。そのように努力することと、現実は違うのだ。このことをわかることもまた人生だ。-(同上書 p127より引用)
ベトナム戦争の北ベトナム爆撃に抗議したベ平連(正式名称 ベトナムに平和を!市民連合)のスローガンとは違う。余談ですが最近、ユースタス・マリンズ著の「世界権力構造の秘密」(太田龍、天童竺丸訳 日本文芸社)に、「ベトナムのホー・チミン(ベトナムの革命家)もOSS(CIAの前身組織)の工作員に育成された」と書かれているのをみて衝撃をうけた。「ホーおじさんよ、お前もか!」と叫んで倒れそうになりましたが。
これが真実なら、副島先生が言う「ターミネーターと戦う、人類の生き残りの戦闘部隊のリーダーはターミネーター」ということになってしまいますね。
また、この本にはレーニンをスイスのチューリッヒから特別列車に乗せてロシアに帰国させて、ロシア革命を引き起こさせたのは誰か、資金は誰が出したのかについても言及がありました。
石堂清倫(いしどう きよとも 1904~2001年)が97歳の高齢でなくなられるまえに
グラムシ・シンポジウムというのがあった。アントニオ・グラムシ(イタリア共産党の創設者のひとり ベニト・ムッソリーニのライヴァルだった。)研究家や社会思想家が石堂さんを囲み、グラムシ思想について研究の発表をするという会で、確か、ロマーノ・ヴルピッタ氏が開会の辞を述べていた。ヴルピッタ氏というのは「ムッソリーニ」(中公叢書)の著者で、昨年の六月に「今日のぼやき」(1310 広報ぼやき)で吉田祐二さんが紹介されたの
でご記憶の方も多いだろう。また石堂さんはまさにロシア革命からソ連邦崩壊までの社会主義の世界をずっと生きてきたような、日本の左翼知識人の元祖である。
だがその会で、「私は世界を支配している大きな覇権というのがあるということを知らなかった。」と言ったらしい。(どういう文脈でいったのかはさだかではないのだが、人生を総括(そうかつ)してそういったのだろうと、私は解釈している。)
理想に燃えて、社会主義に飛び込んでいった、世界中の活動家たちは大きくだまされていたのであろう。マリンズの前掲書を読んでいるとジキル島に集まって、アメリカに「連銀」
(FED)をつくった金融勢力が、もう片方の手でレーニンにソ連邦を作らせたのだなあ、という大仕掛けが少しずつ見えてきました。感慨深いので、また明日以降に続きを書こうと思います。今度はだまされなかった知識人たち(アジア人同士戦わず、の系譜)です。
田中進二郎拝
【1065】[1208]「アイドル」という概念には「処女懐胎」が要求されているのだろうか
「人類が仏教の阿弥陀さま、観音さま、すなわちマリアさまにすがりついて生きてきた姿
は今、日本で生まれたオタク文化の中で生きながらえている。」
副島隆彦『隠された歴史』 PHP研究所 第9章 現代の阿弥陀如来の姿 より
少し話題が古いですが、AKB48 峯岸みなみさん(20)の丸刈り騒動の件、
この批判の元となる思想や、アイドルの概念、恋愛禁止のルールについて考えると、
日本人の思想の背景に、思いを馳せることとなります。
・謝罪はファンにたいして向けられるべきのものか。利害関係者へ向けられるべきのものか。
・恋愛禁止のルールは、ファンにとって必要なものなのか、利害関係者にとって必要なものなのか。
・商品価値が下がったアイドルの活用方法、として「話題性」は商売上有効か。
・アイドルを労働力ととらえて、その有効活用はどこまで倫理的に許されるのか。
・裏の高級売春と対極的な、表の封春、防春による、「みんなの清純像」はアイドルの条件か。
※「封春」、「防春」(筆者が便宜上つくった単語:恋愛や性行為を我慢して行わないという意味)
「恋愛禁止ルール」とは、ひとびとの倫理や嫉妬心などの影響を考慮したうえでの、
「商売上最大限の成果をあげるための行動指針」ではないのだろうか。
だとしたら、謝罪はルールを作った利害関係者へのものとなる。
いっぽう、恋愛禁止がファンにとって、アイドルの条件だとすれば、
そのファンの思想背景には、たんに嫉妬心などのほか、
「禁欲主義」「婚前交渉の是非」などが、ちりばめられているのではないだろうか。
謝罪の方法を、商業的に利用することへの批判は、労働者の扱いについて、
「人身売買」への批判、労働力を所有権の様にととらえる考え方への批判へ通じる。
アイドルの条件が、売春の対極としての、封春、防春だとすると、
その思想は「聖母マリアの処女懐胎」の思想の様だ。「尼さん」の禁欲の様だ。
その意味で、尼さんの様な「丸刈り」はアイドルという概念への「風刺」ともとれる。
【1064】[1207]私の通称「ミケランジェロ本」を読んで感想をくださったフィレンツェ在住の読者からのメール
副島隆彦です。 以下に載せるのは、私が書いた 『隠されたヨーロッパ血の歴史 』(KKベストセラーズ、2012年10月刊 )への感想文です。まさしくこの本の舞台である ”ヨーロッパ500年の中心の都市”であるイタリアのフィレンツェにお住まいの女性からです。 私の本を好意的に読み、そして積極的にその意義を評価してくださって、私は嬉しく思いました。
私、副島隆彦にとって、この通称『ミケランジェロ本』は大事な本です。私は、これを書いてヨーロッパとは何者だったのかを自分なりに解明したと思いました。
やはりフィレンツェこそは、ヨーロッパの中心です。 副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
Sent: Tuesday, January 29, 2013 6:40 PM
To: gze03120@nifty.ne.jp
Subject: 本を読みました。 フィレンツェより
副島隆彦先生へ
2013年1月29日 フィレンツェ在住の A より
去年12月に「囲む会」のスタッフの方が、はるばるイタリアのフィレンツェまで本を送ってくださったことを感謝します。ついに先日本を読み終わりました。
私は、先生に手紙を書くほどの人間でもなく高学歴でもなく、ごく普通の現地で働いてるただの一日本人で、知識人でも、読書人すらありません。ただ、現地の生の情報を、普通の日本人よりも知っているだけで、それを十分承知した上で先生のお言葉に甘えて率直な感想や自分の知っている事などを書かせていただきます。
現地話として色々くだらない話も書きますが、長文をお許しください。
まず簡単に言うと、この本でフィレンツェのルネッサンスの真の意味、バチカンに対抗する運動があったことを知って、素晴らしい! と思いました。 興奮・感激しながら読み続けることが出来ました。( 最初は本のタイトルと説明書きを見たとき、どうやったらルネッサンスがバチカンに対抗する血みどろの戦いと結びつくのか判らなかったのです。しかし、非常に気になったので、海外発送をお願いするメールをさせていただきました。)
わかりやすい言葉で細かく説明していただいたおかげで、実は私が全くわかっていなかったルネッサンスという文化を理解できたことによって、また違う目でフィレンツェを見ることが出来るようになりました。
私はもう何年も前から、フィレンツェにいることが好きでなくなっていました。 唯一ここにいる理由はここで結婚してイタリア人の主人がここにいるから、という漠然とした理由でした。 しかし、フィレンツェという都市が、私がさんざん知ってしまった 「ただの観光客を食い物にするだけの、金儲け主義たちが集まる汚い街」 というだけではなかったのだ、ということを初めて知って、私は自分がここにいる意味、有意義さを少しでも感じ取ることが出来て、自分の苦しみは一種の喜びにも変わりました。
また、ただの「華美を賛美する為の芸術」、「似たようなことを書き続けている宗教画」が、私にとっては「意味の無い、つまらない物」から その内のいくつかが、「500年前からの時を超えた貴重なメッセージだ」 という事がわかり、これまでの自分の理解であった、お金持ちメディチ家の、金のかかるの趣味に過ぎない、という否定的な印象から、 ただの金持ちの趣味ではない、自分たちの強力な財力を生かしつつ、芸術を通してソフトに真実を暴こうとしたのだということを知りました。
そしてメディチ家は、人文主義者(じんぶんしゅぎしゃ、umanista 、初期のヒューマニスト)の運動家たちや芸術家たちを、カトリック教会の弾圧から、財力があるという立場で、うまくその存在感を利用して庇護したのだと知りました。
彼らのパトロンであるメディチ家という、このパトロンというコトバの本当の意味も私はこの本を読んで、すっきり理解できました。今まで、パトロンというと、「資金を出す人」という意味にしか取れなかったのですが、なるほど、そういうことだったのかと、やっぱり教科書の中の説明だけでは、本当の、真の意味が理解できなかった。教科書はそのようにわざと真意がわからないように書かれているのだと思いました。
私は海外生活にあこがれて、とにかくヨーロッパがいい、という強い願望があり、イタリアは(当時は)物価が安かったから、自分の貯金でしばらく生活できる、フィレンツェは他の主要都市に比べて比較的治安がいい、と留学ガイドブックに書いてあったために、たったそれだけの理由で、私はこの街を選び、半年間の語学留学をしながら、イタリアで観光を楽しみました。やがてここでの生活が快適に思うようになり、しかも当時は日本人観光客がたくさんいたので、現地で仕事を見つけることが出来ました。
その後は現地の人と恋をし結婚もして、ほぼ永住することに決まったわけです。しかし、しばらくすると、やっぱり日本での生活が恋しくなったり、自分が外国人であるがゆえに色んなハンディキャップを背負っていることを思い知りました。 イタリア人との習慣のちがい、日本とは比べ物にはならないほどの世知辛いイタリア社会に嫌気が差して、逃げ出したい気持ちでいっぱいでした。
このままイタリアで年金もらうまで、このような状況で、あと30年もしくはそれ以上を働く人生を考えると、非常につらく、重い気分になることばかりでした。はたからみれば、イタリアで自力で仕事を見つけ、働いて、結婚もして優雅なところで生活して羨ましいと思われる事もしばしばです。
しかし、実際は、意地悪で嘘つきで、見栄っ張りで、隙さえあれば容赦なく人をだまそうとする習慣のあるイタリア人たち (全員ではありませんが、結構な率で多いです。フィレンツェ人だけでしょうか?) と、常にいつ自分がひどい目にあうか分からない疑心暗鬼雰囲気があるこの国で、自分はこのまま一生を過ごすのかと思うと不安になりました。
先が全く見えず、何故この街で結婚したのだろう、やっぱり日本人は日本にいるのが一番良かったのに、外国で経験をつんで自国に帰れば今、自分がイタリアでしているよりも、もっと良い条件の仕事や、生活が出来ただろうにと、悔やみ、自分の将来を暗い重い気持ちで見ていました。
3.11の日本の大地震から以降ですが、私は色々とネットで調べ上げ(先生のサイトもその内の一つです)、地球規模で色んな政治的陰謀があるのだということを知り、世界を牛耳る大銀行家の存在や、それよりもさらに上まる地球上の真の権力者が、実はバチカンであるだろう、ということも、その後にいろんなブログ等で知りました。
それを知った時、「まさか!」と思ったものの、すぐに「いや、ありえる」と私は思いました。それはイタリア人の超偽善性、拝金主義、目に見える貧富の差、沢山あるイタリア社会の問題、民衆のおそろしいまでの快楽主義、自分さえ良ければよいという行動をとるのを当然とし、荒(すさ)んだ生き方をしている、カトリック教会の総本山がある、この国の国民を見ていて私は「何かおかしい。
教えとは全く反対に行動している人間たち、これは信仰してる宗教そのものからの影響ではないか」と常々察していた為、カトリックの歴史と、今あるイタリアを考えると、確かに2000年も前から、嘘と偽善を教えられてたらきっとこうなるよな、と納得でした。
しかし、長くこちらで暮らし、ネットでバチカンの表と裏を知ってしまっても、まさかこのルネッサンスが、今から500年前にそのバチカンに対抗する運動の中心地だったとは私は思いもよりませんでした。
副島先生がこの本でお書きの、フィレンツェの空にたくさんの怨霊がいるということも私は分かります。私には霊感はないし幽霊など見たこと無いのですが、この私ですらも、なんとなく似たような事を感じ取っていました。この街に来たばっかりの時、当時学校で知り合った日本人同士で話したことなのですが、 道端でたまに見かける、ここでの現地生活が長そうな 「肌も髪もかさかさ、ぼさぼさ、鬼ばばのような形相をしたひどく荒んだ日本女性」を見てびっくりした、という話をよく聞きました。
やっぱり、海外で、しかも日本とは比べ物にならないくらい厳しい社会で一人で暮らしてると、それに対抗するがために、もしかしたらイタリアの一番悪いところに感化してしまったがためにああなってしまうのか?と、疑問に思っていました。もし、日本に住んでいたら、ここまで恐ろしい形相にはならないだろうと思います。 実際にイタリア人の顔を見ても、年齢よりも老けて見える人が多いし、嫉妬したり、厳しい形相をした人が少なくないです。
おっとりとした顔をしていると、人からなめられる確率が高いので、いつも自分をガードしてバリアを張っているということもあると思います。こういうことにもフィレンツェの空に沢山いる怨霊の影響があるのではないか、と思いました。
話はかわりますが、ここからは私が本を読んで自分なりに考えたり、ウィキ等でネットで簡単にですが調べた事によって新たに知ったことなどを書きますので、先生はすでに知っていることであるかもしれませんが少しお付き合いください。
!
先生がこの本に書いたように、偉大なるロレンツォと思想家たちが勉強会を開いたという場所の一つである、メディチ家の別荘のあるカレッジという地域には、大学病院があるので何回もバスで別荘の前を通ったり、カステッロの別荘には無料で一般に公開されているので散策をしに、何回か訪れた事があるのですが、
(カレッジという地域にあるメディチ家の別荘)
ヴィッラ カレッジ
http://it.wikipedia.org/wiki/Careggi
(カステッロという地域にあるメディチ家の別荘)
ヴィッラ・メディチェア・ディ・カステッロ(又はヴィッラ・レアーレ・ディ・カステッロといいます)
http://it.wikipedia.org/wiki/Villa_medicea_di_Castello
WIKIを読んでいたら、このヴィッラ・メディチェア・ディ・カステッロの寝室の為に、あのボッティチェッリの「春」と「ヴィーナス誕生」が書かれたとかかれていました。 なんだ~、そういう歴史のストーリーがこの場所にあったのか、と思うとうれしくなり、親近感がわきました。 残念ながら、このヴィッラ自体は一般公開されていないので、私も中に入ったことはありません。しかしウィキ掲載の写真を見たらわかるように、美しい庭があり、散策することが可能で私も数回訪れたことがあります。
ちなみにヴィッラ・メディチェア・ディ・カステッロという別荘があるカステッロという場所は
http://it.wikipedia.org/wiki/Castello_(Firenze)
古代ローマや、古代ローマよりさらに前に存在していたエトゥルリア人が集落を作っていたところで、当時から castellum カスッテルム と呼ばれていたそうです。その名前から今もほぼ同じ名前で呼ばれているみたいですね。この場所から、街まで水を送る場所であったそうです。
カレッジやカステッロなどは GOOGLEMAPS の衛星画面などで キーワードを careggi, castello firenze といれれば、位置関係などを見ることが出来ます。 よろしければ先生のご参考になさってください。私の話がイメージしやすくなると思います。
さて、カレッジのほうのヴィッラですが、こちらは私は一回も中まで訪れたことがありませんが、たまに、バスでこの横を通ることがあります。
バス通り沿いにあるこの別荘地を、私は一体何なのか全く知らずにいたのですが、高い塀越しにヴィッラの屋根というか、上の部分が見えるのを見ながら、古い建物・外観からして恐らく数多くあるメディチ家か何かの別荘だったところだろうと想像していました。
そして何故か、「ここには何かある、何かメディチ家に関係するものがあるような気がする」と、通るたびに何かもやもやした物を感じていました。
それと、銀行家出身の貴族であるメディチ家が、全くの汚い人間で大昔から世界征服を企む集団に関わるる人だったのか、それとも悪の組織に対抗する良い人たちなのか、と、
$! BGr$J$N$ 9u$J$N$ $H$I$C$A$ A4$/$o$ $s$J$$$J!A$H!”5?Ld$K;W$C$F$! $$^$7$?! #
銀行家と言えば、大体黒い人たちの集まり、と相場は決まっているので、大体でいえば黒だろうなあ~、でも違うのかなあ~、と毎回通るたびに、何故か私の頭に何か考えさせるものがありました。 知りたい、一体なんなのか知りたい、という思いがいつもそのバス通りを通るたびにありました。
今思うと、これはかつて500年前にこのカレッジのヴィッラに集まった人たちの念(ねん)と言うのか、もしくは霊(れい)などが私に送ってきたテレパシーに似たものではないのかと思います。 私には霊感はありませんが、色々なネット情報などから情報を得て、3.11 以降は、目に見えないけど実際に存在する不思議な事を信じるようになりました。
今となってようやく、何故、私がそこを通るたびにいつも頭に浮かぶ疑問があったのか、わかった気がします。こういう疑問も、先生の本のおかげで、すっきりさせることが出来ました。
先生の本を読むまでは、まさか自分の生活と間近に関係あるとは思いませんでした。ルネッサンスは芸術だけだと思い込んでいました。だから、どうやってそれが反バチカン運動につながるのか全く分からなかったし、
メディチ家が芸術家たちのパトロンだったことの存在の意味、フレスコ画や絵画にちらほら見受けられる不思議なこと (UFOが描かれていたり ヴェッキオ宮殿 フィリッポ・リッピ
http://utukusinom.exblog.jp/13716545
フィレンツェの複数の教会の最後の晩餐のフレスコ画で、どうしてもサン・ジョバンニが女性に見えること、
http://ameblo.jp/firenzenoamakakerufune/entry-1143751
http://it.wikipedia.org/wiki/Cena_in_Emmaus_(Pontormo))など、
今まで「どうして???」 と疑問に思っても、ストーリが全くつながらず、それ以上分からなかった事も、私の中で「大体の何故 ??? が解明された」と思いました。
この本を読んでからは私はリナッシメント (イタリア語、ラテン語のルネサンス。副島隆彦注記)について、親近感をもてるようになり、サンタマリア・ノヴェッラ教会やドゥオーモ、サンロレンツォなどの教会にも見学に行き、500年前にかかれた時を超えたメッセージである
ルネッサンス文化を感動しながら、最近、見てきました。もちろん私は絵画を理解するほどの特別な知識はありませんし、全てをわかったとはいいません。だけど、大まかに言ってやっと、彼らの伝えたかった事を理解し始めたという感じでしょうか?
話は少し戻りますが、先生はエトゥルリアの文明については少しご存知でしょうか? なぜかというと、私の勘では、ウマニスタ達は、エトゥルリアの文明があの時代でかなり進んだ技術を持っていたとか、あるいは凄い力があったのではないかとか知っていたのではないかと思うのですあくまで私の想像、または推理です)。
先生はウマニスタ達が「ギリシャ時代のように」と、描写されていますが、エトゥルリアについて知ってる人が少ないのということと、エトゥルリア人がトスカーナを中心とした地域にいた、という事実、それ以外の今のイタリアの国土には当時ギリシャの植民地があったということで、ひっくるめて、「ギリシャ時代のように」と先生はおっしゃったのではないですか? といっても、15世紀の頃に、エトゥルリア人という言葉自体が認識されていなかった可能性もあります。
何故、私が、エトゥルリアの事を書いてるのかというと、前の方で書きましたが、カステッロのヴィッラのすぐ近くにはエトゥルリア時代の墓跡が残っています(これは、私はまだ見たことがないです)し、カステッロから紀元前2世紀頃に作られた水道がそこからカレッジに向かった方向で遺跡として存在するなど、とにかく、この両地域は古代の文明にゆかりのある土地だと思うので、もしかしたら、当時からこのエトゥルリア文明の事を、メディチ家をはじめとするフィレンツェ人たちは知っていたのではないか。この事を知ったことによって、紀元前の方が実は文明が優れていた、そしてその超人的な技術等をみて、(はっきりとした時期はわからなくても大体)キリスト教が誕生してからは人間は非常に無力で無知になったことを彼らは悟ったのではないか、と私は思うのです。
もちろん、フィレンツェの街全体に、紀元前の遺跡がごろごろ残ってる、といわれています。 カステッロやカレッジという場所だけの話ではありません。中心街はそれらが今でも地下を掘り起こせば沢山でてくる、という話はみんな知っています。そのせいで、フィレンツェには地下鉄がないのだ、という話もあります。地下を掘ろうとすると遺跡が出てくるので工事にストップがかかって全く進まないからだそうです。
多分、15、16世紀のルネッサンス時代や、それよりも少し前の時代に、フィレンツェに沢山ある立派なヴィッラも建築しようとされるたびに、遺跡が見つかっていたのではないかと私は想像します(地下をどれだけ掘ったかのにもよりますが)。 こういうのもあって、コンスタンティノープルから学者が来て、彼らから色んな話を聞くたびに、フィレンツェ人たちは、「ああ、そうかも!」というひらめきのようなことが度々あったのかもしれませんね。
話が非常に長くなって申し訳ありませんでした。最後に一つだけ、間違いらしきものがあったので、ご連絡をさせていただきます。p54に、ダヴィデ像が自治都市の代議会場(500人広間)もある、その建物の正面玄関の入り口の脇におくことが決まった。
と、書かれているのですが、この意味だと、ヴェッキオ宮殿の正面脇に本物のダヴィデ像を置かれている事と解釈されます。しかし、p17には、ダヴィデ像のレプリカはヴェッキオ宮殿前のダヴィデ像、これはレプリカで本物のダヴィデ像はアカデミア美術館に展示されている、と先生は書かれています。
ダヴィデ像の レプリカをどこに置くために、わざわダヴィンチやミケランジェロが集まっただろうかと考えると、私は違うのではないかと思うのですが。
確かにダヴィデ像はフィレンツェに合計3体(本物1体、レプリカ2体)あって、どれも有名な観光地で沢山の観光客が知っています。レプリカだと知らない人たちもいます。
しかし、先生はp17でレプリカであると既におっしゃってるので、もしかしたら、少し混乱されたか、書き間違いではないか、などと思いました。どうかご検討をお願いします。
本当に、素晴らしい本を書いてくださいまして有難うございました。本はこれから、友人達にまわして沢山の人に読んでもらおうと思っています。それと、日本にいる友達で、以前フィレンツェで美術作品の修復の仕事をしていた友人、その昔、語学学校で知り合った方で、今もフィレンツェに時々来るのを楽しみにしている友人ら、その他、南アフリカやイスタンブールにいるネット上の友人達などにも先生の本を薦めておきましたよ! 私自身も少しづつ身近な人から、ルネッサンスのもつ真実の意味を知ってもらえるように頑張って行きたいと思います。
有難うございました。
2013年、1月29日 フィレンツェ在住のAより
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1063】[1206]世界で起こっている異常気象と災害(人災)について
寺平さんが、オーストラリアの年明けからの打ち続く自然災害について、報告してくれました。(重掲1201「OZは異常気象」)。かの国では、ダムの水を貯めすぎても洪水を起こすからダメ、また不足しても、産業に支障をきたすからダメというのは異常気象のときは放水のタイミングが難しそうですね。
『オーストラリアにおける「不都合な真実」の悲惨な結末』 矢澤豊という方(オーストラリアに留学中か?)が書いたサイトの記事を読むと、オーストラリアの山火事の災害がこんなに大きくなっているのは、「ばかなグリーニー(Greenies 地球環境保護論者)たちのせいだ」と怒っているオーストラリア人の説を紹介していて、興味深かった。三年前の記事のようですが、引用します。
agora-web.jp/archives/627410.html
(引用開始)
2009年2月7日前後に、オーストラリアのヴィクトリア州で大規模な山火事(ブッシュファイア)が同時発生し、200人近くが死亡、約500人が重軽傷を負い、約2,000世帯が住まいを失うという大惨事がありました。(一部略)幸い私の周りには、身内や知り合いに直接被害を受けた人はいませんでしたが、知り合いのオーストラリア人弁護士が吐きすてるように言った次の言葉が印象に残りました。「バカなグリーニーたち(Greenies=環境保護主義者)の責任だよ。」どういうことか聞いてみると、つまり次のようなことだったのです。主に中国経済に牽引され好景気が続いたオーストラリアでは、ちょっとした不動産ブームがすすみ、ここ数年間に郊外エリアの外環部での宅地造成がすすんだ。以前からオーストラリアの内陸部に住む人たちは山火事対策として家屋周辺の森林を伐採することで延焼予防を施し、雨季には森林管理の目的で人工的に山火事を発生させ、枯れ草/枯れ木など燃えやすい燃焼材を人為的に処分するのが通常だった。しかし都市計画を牛耳る地方政府が、森林愛護や、山火事による二酸化炭素排気への反対を主張する環境保護団体の圧力により、このような計画的伐採や人工的山火事による予防策を禁止したという。それでもあえて住居周囲の木々を伐採した人は、刑事犯として罰金刑を科せられていた。それが今回の大惨事をきっかけに、 住民が蓄積してきた知恵と経験を無視し、感情論的なエコ政策を無理強いすることにより、災害被害の悪化を招いたとして、環境保護団体に非難が集中している(以下略)
(引用終わり)
田中進二郎です。
オーストラリアの自然災害は山火事にしても、洪水にしても人災の側面がかなりあるのでしょう。昔から住民が蓄積してきた知恵をないがしろにすると、大災害になってしまう。
東日本大震災でも、三陸海岸で、「ここから先は人が住んではいけない。」という言い伝えを破って、海岸近くに居を構えた人たちが多く家ごと津波に飲み込まれた。大津波に襲われる前、岩手県田老町ではコンクリートの日本一の防潮堤をつくって、世界からの視察団(2007年のスマトラ沖地震の後は、インドネシアからも来ていた)に自慢していた。(高さ10メートル)そして海岸線にそって住宅を作った。その安心が仇(あだ)となったのだ。『千年震災』(都司 嘉宣著 ダイヤモンド社)より。また都司氏は、この防潮堤の工事の過程で大きな誤りがあったのではないか、と疑いをはさんでいる。
作家の吉村昭氏(よしむら あきら)が存命であったらきっと、田老町のひとびとに警告を発していたであろう。吉村氏は生前三陸海岸をこよなく愛していたのである。
そういえば、昨年の春の福島難民キャンプツアーの折、いわき市の海岸の被災地をバスが走っているときに、副島先生が「太平洋は外洋であるから、津波や高潮などの被害を受けざるをえない。ゆくゆくは日本の各産業も、軸足を太平洋から、内海である日本海に戻していかざるをえない。それが必然的な流れである。」という『環日本海経済圏』の話を少しされていた。「戻していく」というのは江戸時代の北前船(きたまえぶね)が走っていたころに戻っていくということである。
確かに東京、名古屋、大阪の三大都市の50キロ圏内に日本の全人口の40パーセント以上が住んでいるという、今の「太平洋ベルト」の時代にもう大きな発展性なんてないのかも、と私には漠然と思える。
それより、歴史家の網野善彦氏(あみの よしひこ)がいった、日本をユーラシア大陸から見て、外から囲む弧状列島のように見る視点を持つことによって、アジアおよびロシアとの交易をさかんにすること。こちらのほうが長い長い目で見れば大事なのだろう。そして副島学問道場の綱領である「アジア人同士戦わず」も、長期的な戦略として捉えられるべきであろう。「アジア人同士戦わず」については別の機会に考えたことを述べてみたい。
(ところで以上のことはオーストラリアに住んでいる方なら、簡単に理解されるだろう。なぜなら、オーストラリアの地図は南が上になっている、というから。)
さて話が戻ってしまいますが、今年1月のオーストラリアの自然災害は、日本のマスメディアではあまり報じられていません。やっぱり「対岸の火事」みたいに思われているようです。
それより世界の気象との関連でいえば、今度は北京、天津などの華北の諸都市や長江・珠江デルタの諸都市の光化学スモッグの問題が深刻になっている、というニュースが報道されるようになってきました。スモッグの中に含まれる微粒子状物質(Particulate Matter)のPM2.5やPM10の濃度を「空気の品質インデックス」というので見てみました。これが中国でも爆発的にアクセス数を伸ばしているようですね。私も一中国人になったつもりで検索してみました。
「河南省の一部では空気品質指数が500を超える、観測不能の汚染となった。」と1月12日の人民日報が伝えた。中国中央テレビは「PM2.5の値は、いずれも700を超え、、北京市通州区では900という値を記録した。」(1月15日)と報じている。これはWHO(世界保健機関)の基準値の36倍であるという。まあ、空気品質指数700とはどれくらいなのかがはっきり知らなくとも、あのスモッグの色をみれば、有毒であることは明白だと思われます。
この2日間ほどで、北京で雨が降ったことによって、大気中のPMが地上に落ちたことによって、スモッグはいったん警戒レベルを脱したようである。北京の空気品質指数がPM2.5が200、PM10が72となっている。東にソウルはPM10が34(PM2.5のデータは見つからず)、福岡市中央区はPM2.5が69でPM10が24。広島市西区がPM2.5は39
PM10が20(これはきれいな空気ということらしい。)大阪市此花区がPM2.5が35。
名古屋市がPM2.5が48、PM10が16だった。(2月3日午前4時現在)やはり中国からの距離が大きくPMの濃度と関係しているようである。また東京ではPM2.5の濃度が高いときでも50ぐらいだそうだ。
放射能の次はスモッグの微粒子状物質が、西日本の人たちの不安になってきている様ですね。やっぱり放射能と違って、黄砂ははっきり、大気の色で感じとれますから。私も関ケ原(岐阜県)あたりを境にして、西と東で空気の色が違うなと感じることがあります。(東海道新幹線で東京から大阪へ移動すると、滋賀県に入ったとたんに空が黄色くなったなと感じます。黄砂は伊吹山や鈴鹿山脈でかなりさえぎられているのではないでしょうか・・・)
うすく放射性物質や微粒子状物質のもやがかかった国、それが日本の空気なのでしょう。
結論がうまく出せませんでした。
次は副島先生の「アジア人同士戦わず」の思想の系譜を探る、という題で書きます。
田中進二郎拝
【1062】[1205]クラウゼヴィッツとイルミナティ
長井大輔(ながいだいすけ)です。
ピーター・パレット『クラウゼヴィッツ 『戦争論』の誕生』(以下『伝記』)という本に、イルミナーティ(イリュミナート、光明会)のことについて、書かれていたので紹介します。カール・フォン・クラウゼヴィッツ(1780-1831)はプロイセン軍の将校であり、彼の著書『戦争論』で展開された戦争理論は、後世に多大な影響を与えたとされる。
『伝記』によれば、フランス革命戦争中の1795年、15歳の青年クラウゼヴィッツはオスナブリュック(ドイツ西部の都市)滞在中にイルミナーティの影響を受けたという。彼は、イルミナーティに触れたことにより、「一介の兵士としていい気になっていた私は目を開かれ、突如として思索的になり、高邁な大志を抱くようになりました(P63)」と書くほど、強烈な印象を受けた。1780年代ころ、イルミナーティはオスナブリュックに拠点を持っており、読書サークルや巡回図書館によって、自分たちの考えを広めていた。
『伝記』は、イルミナーティについて、次のように説明している。
(引用開始)
十八世紀後半に形成された「フリーメースン」や「イリュミナート」などの秘密結社は、ドイツの新しい啓蒙思潮の担い手を自認する人たちを結集させる役目を果した。こうした結社はまた、当時のドイツ諸侯国内の日常生活にまだ色濃く残っていた宗教改革ならびにこれによって誘発された対抗改革のイデオロギーに反対する人たちに、教会に代る何らかの同志グループに属しているような感じを与えた。信仰と知性の新しいよりどころを求めて孤立していた人たちは、この集まりに加わることで心をほぐした。(P64)
(引用終了)
「イルミナーティ」結社の創立者アダム・ヴァイスハウプトについては、次のように書かれています。
(引用開始)
彼(引用者註:ヴァイスハウプト)もまた、筋金入りの理想主義者たちのこの秘密組織が、知識人にも社会にも役立つ大きな力になってほしいと願わずにはいられなかった。より優れた者はより高き位置に序せられるという峻厳な自然の法則に従い、人間の知性を自由に羽ばたかせよと要求するエリートの味方になることによって、「イリュミナート」は同志らの人格を、学問を国中に広め、すべての人間をより高き頂きに導くことが出来るのではないかと彼らは考えた。(中略)人間の存在が自然の法則に完全に一致するとき、これまで人々を隷属させてきた古い宗教や政治制度は崩壊するはずだ。(P65)
(引用終了)
クラウゼヴィッツは秘密結社としてのイルミナーティには好感を持たなかったようですが、思想としてのイルミナーティは彼の人格形成に大きな影響を与えたようです。彼は、「人間は自分を知る方法を学ぶことによって、自己改革ひいては社会改革も出来るという彼らの発想」に深い感銘を受け、「人間は自分自身の思い込みを捨て、自己を解放することが出来る。これを勇気と決断力をもって実行すれば、他者に導かれなくても、自分の知的能力を自分で自由に羽ばたかせることができること」を学んだそうです(P66)。
長井大輔 拝
【1061】[1204]ご卒業おめでとうございます。
高校の卒業式は今日あたりがピークでしょうか?
高校生の会員さん、おめでとうございます。社会に出て、あるいは上の学校に進まれる方、ここからが本物の勉強です。
高校三年生の保護者の皆様、おめでとうございます。
※投資関係の仕事をしている都合、失礼ながら名乗ることが出来ません。
【1060】[1203]春闘[
金融プチバブルをつくっても、いずれ、はじける。
消費的支出を増やしても、国は、豊かにならない。
国家は労働の果実を略奪し、さらに、成熟によるデフレの恩恵をも破壊する。
春闘始まる。
「春闘」は、総理の所信表明演説にある、
「額に汗して働けば必ず報われ」るかどうかを、検証する機会だ。
オーストリア学派の論理が妥当かどうか、
「物価上昇率」と「ベースアップ」(和製英語)の関係を確認することで考えてみたい。
「物価上昇率」と対比すべきは、「ベースアップ」だ。 「定期昇給」では無い。
「定期昇給」0%とは、
あなたの1年間の、労働における知識技能の向上、経験をつんだ事による、
労働による社会への貢献が、「報われたのが」0%だ、という事を意味するのではないか。
以下、上記を考える為のキーワードの参考資料を貼り付けます。
メディアは、今こそ「ベースアップ」と「定期昇給」の違いを、分かりやすく国民に説明するべきだ。
必要最小限の説明や、誤解を招く事実の提示が、行為として道徳原則に適うとしても、
その意図するところ、目的が、「国家による国民への詐欺行為の加担」であれば、
道徳原則に反していると言えるのではないだろうか。
●日本経済新聞「春季労使交渉が開始 経団連と連合、賃上げ巡り応酬」
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFL290FM_Z20C13A1000000/
「(経団連側は)危機的な経営状況にある企業は定期昇給(定昇)の凍結、
延期を協議せざるを得ないと指摘した。」
「経団連は賃金体系全体を引き上げるベースアップについて
「実施する余地はない」との姿勢を示している。
●NHKニュース「春闘スタート賃金引き上げで隔たり」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130129/k10015134621000.html
「経団連側は、厳しい経営環境が続いているとして、
基本給を一律に引き上げるベースアップについては実施の余地はなく,
定期昇給についても、延期や凍結を協議せざるをえない場合もあるという方針を示しました。」
●Wikipedia「ベースアップ」
http://ja.wikipedia.org/wiki/ベースアップ
「賃金の上昇額や率を計測する概念には、他に定期昇給(定昇と略すことが多い)があるが、
賃金交渉の実務上は、ベースアップと定期昇給は区別される。」
「1年間の給与の伸びは、ベースアップ部分と定期昇給部分に分解できる。」
「ベースアップ額はすべての労働者の名目賃金を底上げするものであり、
インフレなどの貨幣的な要因の他、資本装備率の向上などによる
企業全体の生産性向上を反映したものである。
一方、定期昇給額は特定年齢層の従業員が
1年勤続を積みますことで得られる賃金の伸びに対応するものだから、
その年齢層の教育訓練がもたらした労働生産性向上部分に相当する。」
「ベースアップにあるもう一つの機能は、
インフレ率に応じて名目賃金を調整するという働きである。
たとえば、インフレ率が3%であり、名目の売上額が3%増加している状況で、
名目賃金が従来通りならば、実質賃金は3%目減りしてしまう。このとき、
名目賃金を3%上昇させてはじめて、実質的な労働条件は以前と等しくなるのだから、
従前同様の人材を確保するためには、いずれ名目賃金の底上げが必要となってくる。」
●copyrght(c).金融政策と展開.all rights reserved「インデクセーション」
http://kinyouseisakutotenkai.rash.jp/kinyou/22.html
「インデクセーションとは物価スライド制、価値修正、物価指数化制度などとも言われます。
賃金、金利、社会保障費、企業資産、債権、債務などを物価指標の動きにスライドさせ、
インフレに伴う所得や資産の減価や分配の歪みを是正する制度で、
インフレそのものを抑える政策ではなく、
インフレにともなう苦痛を和らげる役割を果す政策と言えます。」
●kotobank 「物価スライド制賃金」
http://kotobank.jp/word/物価スライド制賃金
「今や日本でも春闘による賃上げに加えて物価スライド制を導入することが,
実質賃金を維持し向上させるうえで重要になってきているといってよい」
●星人事労務コンサルティング「カテゴリー別用語集」
http://hoshi-consulting.com/page_word5_1.html
「エスカレーター条項:escalator clause/li>
労働協約で、賃金を消費者物価指数や売上高などの変動に応じて自動的に調整することを決める条項。」
●PDF『インデクセーションの累型と効果』松水征夫
http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/metadb/up/kiyo/AN00126877/SeikeiRonso_25-5_1.pdf
【1059】[1202]牛肉規制緩和について
2005年以降、BSE問題で、米国、カナダ産牛肉は月齢20ヶ月以下に限定して輸入していたのが、今年2月より30か月齢まで輸入拡大するようです。
〈転載開始〉
牛肉輸入緩和、2月から
2013年1月22日(火)2時2分配信 共同通信
政府は、牛海綿状脳症(BSE)対策として実施している牛肉輸入規制を2月初旬にも緩和する方針を決めた。関係者が21日、明らかにした。現行規制で牛の月齢が「20カ月以下」に限り認めている米国とカナダからの輸入について「30カ月以下」に拡大、現在は輸入を認めていないフランスとオランダからの輸入も同じ基準で認める。輸入に際しこれまで求めてきた脳や脊髄など特定危険部位の除去も、今後は求めない。
〈転載終わり〉
内閣府食品安全委員会のホームページによると、「牛海綿状脳症(BSE)対策の見直しに係る食品健康影響評価の概要」の中で、牛の感染状況は、「評価対象の5カ国(日本、米国、カナダ、フランス、オランダ)では、2004年9月以降これまでの8年間に生まれた牛にBSE感染牛は確認されていない。」とあります。ところが、別のニュースソースによると、昨年米国でBSE感染牛がみつかったと報告されています。
〈転載開始〉
農業情報研究所>狂牛病 >ニュース:2012年4月25日
アメリカで6年来初めてのBSE 非常に稀な非定型BSEというが徹底的検証が必要
アメリカ・カリフォルニアの乳牛の狂牛病(BSE)感染が確認された。この乳牛は4月18日、レンダリング前の死亡牛が保管されるBaker Commodities Inc. の施設(カリフォルニア・ハンフォード)に持ち込まれ、ルーチンの検査でBSEが発見された。
~中略~ 非定型BSE自体、なお謎に包まれた病気である。その発生のメカニズムも、ひとへの伝達についても解っていないことが多い。「古典的BSEやその人間版である変異型クロイツフェルト・ヤコブ病(vCJD)よりも感染性と病原性が強い上に、MM2型と呼ばれる人の稀なCJDに非常に似た症候や脳損傷のパターンを持つことを示唆する」研究さえある。イギリスの伝達性海綿状脳症委員会(SEAC)は、このBSEは自然発生したものらしいと言いながら、他の可能性も排除はできない、経口伝達は確認できていないが、その可能性も排除はできないと言っている。
だが、米国がやめてしまったような(米国 狂牛病サーベイランス計画縮小へ 米国の狂牛病は「歴史」の闇に,06.7.21)アクティブ検査でこのようなBSEの発見は可能、人間の感染の発見はもっと難しいが、このような場合にも、現在の飼料規制や特定危険部位の除去等の対策で動物と人間は護ることが出来だろうとも言う。逆に言えば、古典的BSEが減り、撲滅されたとしても、なお飼料規制や特定危険部位除去やサーベイランスの徹底など、厳重な警戒が必要ということである。
~中略~アメリカ産牛肉の輸入規制緩和のリスクを評価中の食品安全委員会、今回は発見されたケースの仔細な検証に加え、非定型BSEのリスクやアメリカのBSE対策の改めての徹底的検討を迫られよう。それなしに輸入規制緩和を認めるようなことがあれば、日本国民は決して納得しないだろう。現段階で明白なことは、今度のケースが何時どこで生まれ、どこで育てられたかも分からないように(少なくとも発表がない)、これらを迅速かつ正確につきとめる個体識別システム、すなわちBSE対策の基本中の基本がアメリカには欠けていることである。
なお、2011年にOIEに報告された世界のBSEのケースは、イギリス7例、スペイン6例、ポルトガル5例、フランスとアイルランドが各3例、スイス2例、カナダ・オランダ・ポーランドが各1例の計29例だった。うち、オランダの1例とスイスの2例の計3例が非定型とされている。2012年(今年)はポーランド、スイス、イギリスの各1例が報告されているが、ポーランドとスイスのケースが非定型とされている。今後、非定型BSEへの注意を強める必要がある。
〈転載終わり〉
また、先程の内閣府食品安全委員会のホームページによると、「飼料規制等のリスク管理措置」の欄に、「飼料規制はBSE発生抑制に
大きな効果があった」と書かれています。飼料規制とは(釈迦に説法ですが)BSEが大発生するまでは、牛に共食いをさせていた、牛の解体処理の残りの部分を飼料としていた~それを禁止したということです。禁止されたあと、どうなっているのか?
〈転載開始〉
牛や鳥の生産者は、いまだに飼料に食肉処理プロセスから出た動物の血液や内臓など体の一部を混ぜることでタンパク質成分を水増ししている。狂牛病(BSE=Bovine Spongiform Encephalopathy)の発生以来、血液や内臓、屑肉などをそのまま牛の飼料に混ぜることは違法になったが、牛の血液や内臓を鶏や豚の餌に混ぜることは依然として違法でない。さらに、安上がりなタンパク、カロリー源として重宝されているフェザーミールと呼ばれる、鶏舎に溜まった鳥の羽やこぼれたトウモロコシなどのゴミを集めて牛の餌にすることも合法だ。そのため、BSEに感染した牛から出たプリオンが鶏の消化器官を経由して牛の飼料中に戻る可能性は否定できない。
~「食の終焉」 ポール.ロバーツ著、P321より~
〈転載終わり〉
今回の規制緩和の前段階と思われるこんな措置のニュースがありました。
〈転載開始〉
ブラジル産牛肉を輸入停止
2012年12月9日(日)0時13分配信 共同通信
政府は8日、ブラジルで初の牛海綿状脳症(BSE)の発生例が確認されたとして、同国からの牛肉製品の輸入を停止したと発表した。国際獣疫事務局から8日入った連絡によると、BSE感染が判明したのは2010年12月に13歳で死んだ雌牛1頭。ブラジルからの11年の牛肉輸入量は約1400トンで、全世界からの輸入量の0・3%にとどまる。ブラジルは口蹄疫の発生国であるため生鮮牛肉の輸入はこれまでも認めていない。
〈転載終わり〉
2003年当時、BSE問題に対して、日本政府は米国産牛肉の輸入規制を行う一方で、オーストラリア産とブラジル産の牛肉を増やしてきました。それが、最近ブラジル産牛肉の輸入を禁止していますが、記事を読めばわかるように、2010年に13歳で死んだ牛の話です。
前述した2012年の米国感染牛の話とで、理屈が噛み合いません。
〈転載開始〉
国際獣疫事務局、日本など5カ国にブラジル産牛肉の輸入禁止解除を要請
2013/01/10 15:56
国際獣疫事務局(OIE)は、日本や中国、南アフリカ、サウジアラビア、ヨルダンの加盟5カ国に対し、先月にブラジル産食肉牛のBSE(牛海綿状脳症)感染が発覚したのを受けて同国産牛肉の輸入禁止措置を講じたのは行き過ぎだとして、輸入禁止を撤回するよう要請した。中南米専門の通信社メルコプレスが8日に伝えた。
〈転載終わり)
日本国内では、全頭検査とトレーサビリティー(固体識別管理法)で、牛肉の質が維持されてきました。しかし、輸入牛肉は各国の規制で事情が異なり、国内の厳格な規制に慣れてしまっている一般庶民がそうと気づかず輸入牛肉を飲食して問題が起きねばいいが。。と思っています。外食産業の中や、加工食品の中に(例えばカレー粉やすなっく菓子など)入ってくるでしょうから。
思い出すのは、2011年夏の生ユッケ事件。あの生ユッケの材料が米国産輸入牛肉である事がわかったとたん、当局の問題姿勢の腰が砕け、本当は「どの段階で、病原性大腸菌に汚染されたか」を調べるべきなのに、うやむやのうちに飲食店だけ潰れ、生ユッケ禁止なんてことになってしまった。。米国産食肉について、上記「食の終焉」の他、「ファストフードが世界を食いつくす(エリック.シュローサー著)」等によれば、夏場であれば牛の50%以上が病原性大腸菌陽性であり、食肉処理場において機械処理するために、1頭の感染がその日処理する数千頭に拡散してしまうようです。。
暗い話になってしまいましたが、ちょっといい話もあります。
〈転載開始〉
オランダの食品安全プログラムを実施しているのは、農政当局ではなく、公衆衛生当局だ。ここでは、きびしい規制が食肉生産のすべての側面に及ぶ。動物性廃棄物を飼料に混ぜることを禁止し、成長促進剤としてのホルモンの投与を禁止し、輸送中の牛のストレスを緩和させ(それによって糞便中の細菌の数を減らし)、汚染肉を差し押さえる。。。。
(転載終わり)
規制緩和後のお勧めはオランダ牛肉でしょうか~ちなみにEUは、米国産牛は残留ホルモンが問題であるとして輸入禁止措置を続行しているはずです。
【1058】[1201]OZ(オージー)は異常気象
はじめまして会員番号7617番の寺平浩です。
こちらはゴールドコースト、オーストラリアからですが、先週末から昨日までサイクロンと大雨で大変でした。
只今29日火曜日、仕事場では停電が明日の朝まで続きそうなので働くことができません。なのでこの時間と重掲を利用して最近のOZ(オーストラリアのこと)をQLD州(QUEENSLAND STATE)から語ろうと思います。
今日はホットな洪水の話ですがこの話をするには2011年まで遡ります。2010年末に始まった大雨は大方の予想に反し2011年初のQLD州各地の洪水を発生させました。特にひどかったのが首都ブリスベンでブリスベン川周辺の町および都市部が水浸しになり1ヶ月程はビジネス活動に影響を与えました。
この問題、ブリスベン川に限って言いますと天災だけでなく人災でもあることが後に明らかにされつつあります。当時のQLD州プレミア、アンナ=ブライはウィバンホー ダムの放流が遅れた為に下流地域の洪水の被害が拡大された可能性をわからないということで逃げの一手をうっていたが、のちの報道では同ダムの最大貯水量は210%とされており190%程になったところで流入量と同量を放流し始めている。その時期がロッキヤーバレー地区を流れ降ってきた洪水と一致している。そして今回と前回の大きな違いはこのダムを運営している民間会社の迅速な対応(事前の放流)だろう。それはそのはず2011年の件で被害者の方々から集団訴訟も検討されている為、今日正午にブリスベンのブリスベン川(言いにくい)の水位はピークを迎えたが大きく下回っただろう。
しかし反対の側面から見るとおもしろい。
1974年の水害の教訓からブリスベン北西に築かれたウィバンホーダムは水利も兼ねている為、干害の続いたこの地域で大雨に備えて空にしておくこともできない。しかし貯めておきすぎると大雨の際に洪水貯水の余裕がなくなる。
現在、OZ全土は異常気象の真っ只中でTASMANIA、VICTRIA and NEW SOUTH WALES州では未だに干害が続き山火事がいたるところで起きているが今回のQLD州水害がやってきて、なんとNEW SOUTH WALES州(首都シドニー)では火に続き水そして風と自然災害が止まらないとはなんという皮肉だろうか。
ということで今日のオーストラリアの庶民ニュースは終わります。
Hiro Teradaira