重たい掲示板

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。
旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください

吉見 おさむ 投稿日:2013/02/16 01:26

【1074】[1217]福島本部活動日誌です111

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年12月18日、19日の日誌です。

18日は暖かかったのですが、19日は最高気温がマイナス2度でした。
それ以上に風が凄かったです。

これからしばらく都路を離れるので、ごみ捨て、水道料金の支払い、洗濯など、用事を済ませました。
残っている食材も、大体は食べ切りました。

19日午前9時40分、除染で集められたあとに丸められた藁が5個、軽トラで郡山方面に輸送されていきました。

2日とも過去の日誌を書いていました。一応の目処がつきました。
やっつけ仕事に近かったですが、やっと終わりました。
ですが、書いている途中で、広瀬隆氏の
「(IAEAみたいなのを、)こんなのを招いてるあんたら福島県がおかしいんじゃないか」
という講演会での冒頭の発言を思い出してから、ずっと嫌な気分でした。
東京の人が、福島に上から目線になるのだけは、気をつけておいたほうがいいです。
自戒も含め、そう思います。「東京の殆どの人は、元は田舎者」であっても、です。(←「元は田舎者」『だからこそ』、という方が正確かもです。)
もっと言えば、IAEAにやり返していいとするなら、福島県民だって、東京都民の広瀬氏に「やり返し」ていいということになってしまいます・・・。

福島香織氏によれば、中国から見ると野田首相は
「もっとも嫌がることを、悪気はないんですよという顔をしながらしゃあしゃあとやってのける老獪な政治家」
だそうで、笑ってはいけないと思いつつ、大爆笑しました。
見事に当たっていると思います。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20121217/241177/?P=2

(転載終わり)

(転載始め)

2012年12月20日、21日の日誌です。
(ほぼ福島関係有りませんが、書きます。)

20日の午前中と午後を使って、家事の類を終わらせました。

20日午後4時35分発の船引駅行きのバスに乗る予定だったのですが、30分待ってもバスが来ませんでした。
福島交通に抗議したのですが、予定通り運行されているとの一点張りで、埓が開きませんでした。
バスの予約を済ませてしまっていたので、仕方なく、タクシーで船引駅まで行く羽目になりました。

郡山駅前で、午後9時から21日午前1時50分まで、成田空港直行のバスを待っていました。
深夜は郡山駅が閉まってしまうので、待つ場所が全く無く、とても困りました。
(こう言ってはなんですが・・・、こういう地味な所で「気が利かない」ように出来ているのが、地方なるものの本性です。郡山でさえこれですから、ましてや田舎は・・・お察し下さい。)
一時的に中華料理屋などで寒さを凌ぎましたが、その分金がかかりました。

午前1時50分発午前6時10分着の夜行バスで、成田空港に行きました。
飛行機は第一ターミナルからの出発だったのですが、先ずは写真に撮りたい場所があったので、第二ターミナルに行きました。
ストラスブールに行く目的は、とあるゲームの舞台探訪(大袈裟な言い方では、聖地巡礼)だったのですが、成田空港付近も舞台になっている箇所が多かったからです。
京成電鉄の空港第二ビル駅、第二ターミナル南ウイング案内所、見学デッキ(南)、コーヒーショップ、の順でゲームのモデルを撮影できて、幸せでした。



成田空港第一ターミナルでは2万円だけ両替しました。
空港の本屋にあった週刊誌で、中国や韓国の事が表紙で取り上げられていて、やっぱり微妙な気持ちになりました。

スーツケースを預け、手荷物検査と出国審査を済ませた後、アイフォンの充電を搭乗口前のUSBコンセントで出来ました。

午前11時55分発のKLMの飛行機で、アムステルダムのスキポール空港に行きました。
11時間居た機内は、丁度空調が当たる所で、非常に寒かったです。それでも隣の2席が空席だったので、前に座っていた人同様に横になれました。
ただ、やはり眠るのは無理でした。
なお、KLMのエコノミーは、(安い価格を考慮しなくても)行きも帰りもとても良かったです。

アムステルダムの現地時間で午後3時に到着しました。
乗り換えまで5時間の余裕があったので、現地のdocomoのローミング機能で、ストラスブールのアンツハイム空港で落ち合う人にsmsで連絡をしました。
スキポール空港の手荷物検査の係員さん達が、異常な程に格好良かったです。顔といい、服装といい、俳優さん以上で、写真に撮りたいくらいでした・・・。
本当はいけない事なのですが、どうしようもなく疲れてしまい、次の飛行機を待つ搭乗口の椅子で、2時間寝てしまいました。危なかったです・・・。

午後8時40分エールフランスの飛行機で、ストラスブールのアンツハイム空港に行きました。
エムブラーエルによる小型機でした。結構ボロかったですが、使う分にはこういった飛行機で充分なのかもしれません。
午後9時半にアンツハイム空港に到着しました。
アンツハイム空港のエスカレーターは、北京国際空港と同じ、ティッセンクルップによるものでした。
スーツケースを待っていると、柵越しに、今回お世話になったドイツ在住の中国の人が私を見つけてくれて、挨拶しました。(←以下、Zさんとします。)
なお、なかなかスーツケースが出てこなかったのですが、荷札がなくなってしまった荷物の方に行っていました。
(↑どうも、フランス人の対応ではよくあること、のようです。)

駅までの終電がなくなってしまったので、ホテルまでタクシーで行きました。
hotels.comの予約状況はZさんに伝えてあったので、Zさんが既にチェックイン済みでした。
ホテルは、ゲーム内で主人公がクリスマスイブに泊まったホテルと外観は同じでした。内装は別のホテルが同じものでした。
ホテルに戻って、Zさんと改めて挨拶し、アイスワインで乾杯しました。
それから贈り物を互いに交換しました。
疲れていたにもかかわらず、日が変わるくらいまでは、話していました。

Zさんは
「ギリシャに父と行ったとき、正午から4hしか働かないのを見て、いずれこの国が駄目になるのは明白だった。父が『先に豊かになった国がちょっとでも努力し続けると永遠に追いつけないから、これは助かる』と言っていた」
「カルフールで買ったこの水は不味い。海水から半透膜で作ってるのかもしれないけど、ああいうのは膜が半年でダメになっちゃう」
「samsungとLGが強いのは認めなければならない。オランダにおいても、Philipsでさえもモニタの競争で負けた」
「日本のある企業のお偉いさんは、本当にすごい。実はお酒が大変に好きな人だったのに、仕事に近い場では、お酒を出されても一切口にしなかった」
「友人が二人ほど東大に行ったけど、一人はラブひなを読んで東大に入る事を決意した」
「(別のゲームで出てくる)八橋大学のモデルになった一橋大学に入れるんだったら、何をおいても勉強したと思う(←私も、同感です!!)」
「12年前にやったエロゲがなければ、今頃は日本語を、日本鬼子の言葉だと思ってたはず」
と言っていました。
(↑もっともっと、小林一三とか、色んな事を話して貰ったのですが、覚えてないです・・・。)
・・・日本人の女の人ってのは、確かに国際競争力が非常にあるんじゃないかと思いますよ・・・。
競争力のない野郎の俺は、下みたいな薄い本でオナニーして寝ます。晩安世界…

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2013/02/16 01:15

【1073】[1216]福島本部活動日誌です110

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年12月14日~17日の日誌です。

14日の朝、とても大型のパイプが川内方面にトラックで輸送されていきました。
この近所の橋や旧街道、あるいは川内で新しく建設中の橋など、公共事業で使われるのか、それとも小野富岡線で原発に輸送されるのかはわかりません。

14日の未明から正午までは全て、気が狂ったように、過去の溜まっていた日誌を書くのに費やしました。それでも1日分終わりませんでした。

午後1時に都路を出て、郡山に向かいました。
途中の民家に、わずかですが除染のための足場が建設されていました。

郡山駅についたら、「例の」福島県の選挙ポスターの新バージョンが貼ってありました。


「あの夏で待ってる」というアニメの、谷川柑菜というキャラを思い出しました。
(中田先生が仰るように、この福島希望さんを「使える」ように、薄い本が出て欲しi・・・いえなんでもないです。)
また、駅前には15日~17日に郡山のビッグパレットで開催された、国際会議の張り紙や旗が多数立っていました。

ホテルハマツの近くで行われていた、広瀬隆の講演会に行ってきました。資料代500円がかかりました。


話す内容は別にして、広瀬隆氏の話し方は、副島先生にそっくりでした。こりゃあ、対談なんかになってたら、エラい事になったと思います。
「IAEAが郡山に乗り込んできた」
「IAEAは原子力の推進機関で殺人鬼。悪魔たち」
「みなさん、殺されてたまるのか。殺しに来るのだからやり返せ」
と発言していました。
成程、アジテイターとはこういうものか、と思いました。

15日の朝、郡山駅は厳戒な警備が敷かれていました。

既出かもしれませんが、佐藤雄平現知事の出身大学の広告がありました。

改札の前で、野田首相が川内村を訪問した祭に「お世話」になった、会津のAさんという警官に会いました。私服でした。
どこに行くのかなどを訊かれました。
17日までの国際会議は、閣僚級会議なので、大変警備が厳しいと伝えられました。
重たい掲示板を見ているそうで、川内村の件で「会津弁のきついAさんって書かれちゃって・・・」と言われました。
広瀬隆氏の話していたことを伝えてみたら、「IAEAって原子力の使い方を規制するところだから、理解が間違ってんじゃない?」と言っていました。
「それを彼らに言っても聞く耳を持たないでしょう」と答えました。

ビッグパレットに行ってみましたが、駅以上の厳戒な警備がなされていて、立ち入り禁止でした。

この会議は、IAEAと国が郡山市に対して、とりあえず黙っとけ、と脅しつけるためのものなのかな、と思いました。
・・・普通に、東京でやれば問題等も起きなかったんじゃないかと思います。
仕方ないので、すぐに郡山駅に戻りました。
駅に戻るバスから、50人ほどビッグパレットの会議に反対する人たちが横断幕を掲げているのが見えました。
後で確認したら、このような人たちは200人ほどいたようです。

郡山駅の新幹線改札では、ピンク色の外套を着た案内員と思われる人たちが、バス乗り場まで配置されていました。


午前8時20分、中国語で話している人たちが新幹線入口の近くにいました。

午前8時半から、多数の外国からの人たちが降りてきました。
皆スーツとコートが立派でした。



午前10時10分、郡山駅前とロータリーを、スピーカを流しながらIAEAを非難している車が走行していました。

すぐに警察官4人ほどが集まって、「対処」の準備をしているようでした。

午後1時前後、駅前のビッグアイ近くで、再びAさんと会いました。
これからの予定を訊かれました。

午後5時の駅前のモニタリングポストは、0.263μSv/hでした。晴れたことによる影響かもしれません。
雨が降っていた朝は0.240μSv/hでした。
μSv/h

午後5時40分から、太田かずみ議員と応援に来た谷亮子議員が、商店街で演説しました。
http://www.youtube.com/watch?v=CsDvYFBM-MQ&feature=youtu.be


その後、商店街を握手して歩き、駅前の国道4号線で再度二人で演説をしていました。

ホテル前で、おそらく今日の国際会議に参加した、外国からきた人と、谷議員が握手をしていました。
おそらく、今日の国際会議に参加した人だと思います。少なくとも谷議員の主張を聞いた上での握手ではないと思います。
金メダリストという肩書きは凄いもので、道行く人が次々に握手をしていました。
なお、太田議員は落選しました。
http://senkyo.yahoo.co.jp/kouho/s/fukushima/2/

郡山駅前は、潤沢にライトアップされていました。

午後6時35分、駅前のロータリーは、タクシーが一台も待機していなくなりました。
ホテルハマツやアネックスホテルに会議の出席者を送迎に行ったと思われます。

ビッグアイでは、広瀬隆氏の講演を企画した人たちが交流会をしていました。

津田大介氏の講演もやっていました。

午後9時まで時間を潰し、それからネットカフェに入りました。
テレビではビッグパレットの様子が放送されていました。

行ってみようかと思って諦めた、脱原発を目指す全国首長会議の様子も取り上げられていました。
桜井南相馬市長が写っていました。
(次の南相馬市の市長選はどうなるのでしょうか・・・。)

16日の朝、郡山駅には早朝から案内員が配置されていました。
三たび、Aさんと会い、今日の予定を訊かれました。
何かなかったか訊かれたので、昨日の太田議員と谷議員の応援演説について、握手をしている際に人だかりができて、交通事故が起きかねなかった事を伝えました。
選挙活動の自由や表現の自由の兼ね合いで難しいところだ、という返事が返ってきました。
真面目で熱心な、良い警官の方だと思います。

郡山の結婚式会場で行われた、ベラルーシの閣僚や大使を招いての会議に行きました。
女性県議が中心となって急遽開催したもののようで、200人まで一般人も自由参加でした。

前半は、ベラルーシの非常事態大臣が、おそらくビッグパレットでも使ったものと同じパワーポイント?の資料で、ベラルーシの事例について説明していました。

その後、大使の話や、ベラルーシの子供達の避難の紹介ビデオ放映がされていました。
ベラルーシとしては、福島の子供を招待したいそうです。

後半は、福島の高校生による、体験や事例の紹介でした。
余った時間で、協力している支援団体の紹介があったのですが、どうも主張が広瀬隆氏を招待した所と似通っていました。

ベラルーシといえば、ルカシェンコ大統領がどうしても有名ですが、・・・そういえば、日本には独裁者を女性化したムックが発売されており、風刺画として大変よく出来ています。
いつか偉い人に怒られるまで、頑張り続けて欲しいものです。

(またルカシェンコを日本風に短くしたら「ルカ子」になってしまうのですが、これはシュタインズ・ゲートの「だが男だ」と良く言われるキャラのステマになってしまいます・・・。)
なおこのムック、最初がヒトラーなんですが、絵を以前Ricotteというゲーム(1000円で、今は亡き古川電気で買った、名作です)で「お世話」になった野々原幹先生が担当されていて、泣きたくなりました。

会場にいた女性の一人が、ソードアートオンラインというMMOを題材にしたライトノベルを読んでいました。

私はまだ読んでないので、羨ましいです。
(アニメ化はされていて、その関係で女性作家さんの描いた薄い本は2冊だけ持っているのですが・・・。)

16日の午後には天木直人氏が出た集会が郡山女子大であったらしいのですが、体力が保たず、午後1時18分の電車とバスで、都路に戻りました。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/45337(天木直人氏の出た集会の映像です)
都路のバス停付近にある民家は、木が「除染」されていました。

都路に戻ってみたら、洗濯機の防雨カバーが、強風でなくなってしまっていました。
戻ってから、選挙のことが気になりつつも、疲れていたので泥のように寝てしまいました。

17日の午前5時に起きたのですが、選挙結果を見て、一時間ほど声が出ませんでした。

そもそも福島県では、原発問題が一番のテーマだったのか、微妙なところです。
私は、一番最初に来ていたのは、無力感がある中でどうするか(ぶっちゃけ、どう復興するか・・・どうしようもねーや)、で、その次に、除染等で発生する公共事業とその分配(ぶっちゃけ、生活、特に仕事)、がテーマになった、と感じました。
http://www.minpo.jp/globalnews/detail/2012121701001513
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121217-00000165-jij-pol
多分私の感想も表層的な見方なのだとは思います。

12月7日にZさんに選挙について訊いてみた時は、「余り日本の政治に興味はないけど・・・自民党勝つでしょう」という答えでした。
ドイツにいるzさんは、先日書いた通り、「中国軍の面子のため、小さい衝突が起きる可能性は高い。そうなれば、簡単には収まんない。そうしたら、(zさんのお父さんの会社の)日本への可能性もなくなっちゃう」と言っていました。
もう尖閣諸島関係で、小さな衝突が起きるのは仕方ない、と覚悟してます。
その上で、なんとか小さな衝突で収まってくれる事と、日中間ができるだけ腹の裡ではわかりあった上での「仲の良い衝突」(←変な表現ですが)である事を願うのみです。

(転載終わり)

福田 博之 投稿日:2013/02/14 21:52

【1072】[1215]桜咲く 散った桜に 桜咲く

「つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめて またはじまるを」 (良寛)

桜咲く 散った桜に 桜咲く (筆者)

岡 末雄(会員番号6720) 投稿日:2013/02/13 17:05

【1071】[1214]第3回目投稿(亡き長兄・妹の想い出)

会員番号6720の岡 末雄です。
本来であれば、第3回目投稿は、「私の基本戦略ー日本人民が日本国民となり、真に自由であることを追求していくために」の序文を掲載しなければならないところですが、プロフィールを書いている間に、聡明にして文筆達者であった兄(昭和9年1月2日生まれ、平成24年7月7日死去、享年78)が唯一遺した随筆「亡き長兄・妹の想い出」の存在に気づき、掲載させて頂くこととしました。
戦中・戦後の困難期を生きた人間の魂の叫び、簡潔にして論旨明快、人の心に染みいる名文だと思います。

亡き長兄・妹の想い出   平成19年4月  岡 聰

 先の大戦が終わって間もなく、短い生涯を閉じた長兄と妹のことを、書き遺しておきたい。
 兄 岡 賢一郎 昭和6年10月12日 福岡市姪浜で生まれる。義太          郎・ヤス長男
 妹 岡 利江  昭和14年10月13日 朝鮮大邱府で生まれる。義太         郎・ヤス長女

1 朝鮮へ
 亡父義太郎は、福岡県庁土木部書記であったが、昭和14年2月、朝鮮総督府へ転任となった。一家6人(長男~四男)は、海を渡って大邱の北龍岡町に落ち着いた。利江はここで生まれた。
 しかし、翌年7月には北朝鮮の興南へ転勤となり、(父は)取りあえず単身で任地へ赴いた。
    *大邱(テークー) 釜山(プーサン)の北方
    *興南(フンナム) 北朝鮮・元山(ウォンサン)の北方
 母子6人家族が大邱に残った理由はよく解らない。おそらく先方の官舎の空きがなかったのであろう。ところが父が居なくなると、今まで住んでいた
宿舎を明け渡す破目になり、小路の奥の日当たりの悪い狭い住まいに追いやられた。
 福岡から異境への転居(母は身ごもっていた)ー利江出産ー父の転任ー劣悪な住まいへの引っ越しー僅か1年5か月の間の著しい環境の激変が、母体ひいては胎児・赤ん坊に重大な影響をもたらしたであろうことは疑いない。
 
2 興南
 母子6人が興南へいつ転居したか記憶がない。太平洋戦争が勃発した昭和
16年12月の厳しい寒さの中、小旗を振り振り行進したのをはっきりと憶えているので、遅くとも16年の初期であったろう。

 ♪勝ったぞ日本 断じて勝ったぞ
  米英今こそ撃滅だ
  太平洋の敵陣兵は・・・・

 官舎は九龍里の海辺にあって、目の前には白い砂浜が広がっていた。弟の俊文(五男)は、ここで生まれた。当地には2年半程滞在していたので、利江は興南で2~3歳を過ごしたことになるが、その挙動には憶えがない。推定であるが、この地で既に「結核性脊髄カリエス」にかかっていたものと想われる。

3 釜山
 昭和18年8月末、父の転勤に伴い釜山府の土城町へ引っ越してきた。利江は4歳になろうとしていたが、歩くことはおろか、立つことさえできない悲しさであった。
 戦況は厳しく昭和20年4月、米軍は遂に沖縄に上陸、本土決戦の掛け声のもと、40歳の父にも招集令状が届いた。出征していく父を見送るのは女子供だけ、男性はほとんど招集されていたのである。

  ♪わが大君に召されたる 命栄えある朝ぼらけ
   讃えて送る1億の  歓呼は高く天をつく
   いざ行け 若者 日本男児

 父を真ん中に兄と自分が両脇から腕を組み、大声で歌いながら釜山駅まで送っていった。
 とにかく食べるものに事欠き、少しでも多くの「おから」を手に入れるため、母と2人で代わる代わる並んで、親子7人の空腹を満たした。米の配給も僅かで「どんぐり」の粉で作った真っ黒なパンを弁当にした。兄は成績も良く、国民学校(小学校)6年では副児童長(ナンバー2)、釜山中学に合格し、教練と学徒動員に明け暮れていた。
 そのうち学校も休校となり、終戦を迎えた。しかしながら終戦のとき日本に最も近い釜山に住んでいたことは実に幸運であった。前任地の興南だったら、無事日本へ帰れたかどうか?

4 引揚げ
 順番がきて、終戦の年の10月下旬、釜山港から旧海軍の海防艦で博多港に引揚げてきた。どう乗り継いできたのか、唐津線の東多久駅に着いた時は、日もとっぷり暮れ、真っ暗闇の田舎道を桐野に向け歩き出した。とりあえず、母の叔母ウメの嫁ぎ先である不動寺家を頼ったのである。すでに8か月の身重の母は、利江を背負い両手に荷物、子供たちも各々荷物を背負って、3キロ夜道をとぼとぼと歩き続けた。
 桐野に着いて感心したのは、闇船で送った布団類がちゃんと届いて居たことである。大和魂の一環をかいま見た一事であった。
 時は麦蒔きの季節、14歳の兄は健気にも連日、馴れない鍬を振っていたが、忽ち身体を壊してしまった。不動寺家は、昔の庄屋の子孫で、当時、馬一・ウメ夫婦、長男の良資、それに西山兄弟の5人家族であり、そこへ食べ盛りの親子7人が飛び込んで来たのだから、いかに大百姓と言えども歓迎される筈がない。更には良資さんの結婚を控えていてこともあり、とても長居できる情況ではなかった。

5 入野村へ
 唐津の西方、入野村の鶴牧炭坑に、母の弟、八久保叔父がおり、世話を受けることになった。残務整理を終え帰国した父を加え親子八人、先方の家族5人と合わせ総勢13人が、余り広くもない社宅に犇めきあった。しかし、叔父のお陰で漸く小学校に通えるようになった。実に半年ぶりの教室であった。
 12月10日、六男恒夫誕生。大戦中からの食糧難、終戦、引揚げ、入野への引っ越しと波乱の時期を切り抜けて来たものの、母子への心身への影響は想像に余りある。
 明けて1月、寝たきりになっていた長兄は、食事も与えられず「母ちゃん、母ちゃん」と連日、叫び続け27日、あえなく息をひき取った。享年14歳。顧みれば、兄は満州事変勃発直後に生まれ、以後、日中戦争、太平洋戦争と戦禍の真っ直中に生き、終戦まもなく夭折してしまった。民主主義や自由の何たるかをも知らず、家族の為にと信じ、鍬を振るって倒れてしまったのである。 合掌。

6 西多久へ
 卯一郎叔父が福岡県山田市の炭坑へ移ることとなった機会に、一家は、西多久に独居していた八久保平太郎叔祖父(母の叔父)宅の世話を受けることとなった。昭和21年2月11日、西多久の藁葺き農家に落ち着いた。以後、60有余年、当地が第二の故郷となる。
 平おんちゃん(愛称)は、子供に恵まれず、小城の江島繁二さんを養子に迎えていたが、繁二さんは陸軍に招集され、ビルマ戦線において戦死された。配偶者の今朝千代さんは、子供3人と共に小城駅前で「江島羊羹」を営んでいた。
 平おんちゃんは典型的な水呑み百姓、三反足らずの田圃と一反ほどの畑を耕作していた。採れた米は自己の食い扶持を残して売却、辛うじて現金収入を得ていた。従って我々8人は高価な米を求めることも出来ず、よもぎ団子や芋・南瓜等で飢えを凌いだ。
 利江は既に6歳に達していたが、相変わらず立つことさえ出来ず、いつも同じ着物を着て、囲炉裏の外の片隅に横臥したままであった。もちろん、小学校には通えない。暇をみては母が読み書きや計算を教えていた。ある日、「予科練の歌」の前奏曲を口ずさんでやったら、「そんな曲が大好きや」と目を輝かしていた。貧窮のわが家にはラジオさえなかったのである。

  ♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
   ぐんと育てば荒海越えて  行くぞ敵陣殴り込み
       *当時は軍歌しか知らなかった。

7 終曲
 この世に生を亨けて7年余、立つこと歩くことさえ出来なかった利江も、輝いた一瞬があった。ある日突然、立って歩けるようになったのである。これぞ、余りにも哀れな妹のために神が力を与え給うたとしか考えようがない。家の前の坪(中庭)を、実に楽しそうに溌剌と走り回っている姿が忘れられない。本人はもちろん、母にとってもこんなに嬉しいことはなかったであろう。
 しかし、その僥倖も3月とは続かなかった。前の小さな池に落ちて水をしたたか飲み、肺炎を患い昭和22年6月16日、天に召された。
 戦時の最も厳しい時期に粗食に耐え、横臥の運命に耐え忍んだ余りにも過酷な短すぎる生涯・・・一体何のために生まれてきたのであろうか?唯ただ冥福を祈るのみである。 合掌

 兄も妹も戦争中の真っ直中に生き、その短い一生を終えた。
それでも、兄はまだ好運だった。小学校を卒業し中学校にも通えた故。妹は余りにも酷すぎた。学校も全く知らず、友だちもできず、やっと歩けるようになった時、もう死が待っていたのだから。
 60年以上たった今でも、幸薄かった兄妹のこと、そして硫黄島や沖縄戦線で亡くなった人々、特別攻撃隊で散っていった20歳(はたち)そこそこの若者達、更には特攻戦艦大和等々、時折偲んではいたたまれない気持ちに襲われるが、最近、「千の風になって」の詩を口ずさむと、気分がすっと晴れるようになった。

   ♪千の風になって  作詞 不詳 訳詞・作曲  新井 満

  私のお墓の前で 泣かないでください。
  そこに私はいません 眠ってなんかいません

        (中略)

  千の風に 千の風になって 
  あの大きな空を 吹きわたっています
                              完

  追悼文(岡 末雄)

 動乱の朝鮮・北朝鮮そして終戦による引揚げ、西多久への定住、その間、耐え難い程の軽蔑・差別・侮辱を受けたと聴いています。 それをおくびにも出さなかった聰兄よ、偉い!
 極貧と飢餓を耐え抜き、2人の愛し子を失いつつも、死を選ぶことなく、家族の為に生き抜いた母よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 青春を知ることなく14歳・7歳の幼さで生を終えた、相まみえることのなかった賢一郎兄・利江姉よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 長兄・妹を早くに失い、6人兄弟の長として艱難辛苦を舐め、最後まで兄弟を助け、その行く末を案じた聰兄よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 今、私がこうして安穏と生きておれるのは、あなた方のお陰です。

 平成25年2月13日 まどろみの後、昼食から夕刻にかけて
  岡 末雄(陶岡白雲)拝

 

 

 

 

  

アルルの男・ヒロシ 投稿日:2013/02/13 11:26

【1070】[1213]ブルームバーグ・竹中平蔵・オニール

Abe Aids Bernanke as Japan Seen Buying Foreign Debt – Bloomberg http://t.co/34Bzkx4E

Japan PM Adviser Heizo Takenaka: Yen Still Has Room to

Weaken Further – http://t.co/OfywHG3z http://t.co/gAcj4Svl
ゴールドマンのオニールが「We want Abe!」というニュースレターを出しました。http://t.co/rVukSv3k

以上が重要な記事です。

岡 末雄(会員番号6720) 投稿日:2013/02/13 07:37

【1069】[1212]第2回目投稿

私のつたない第1回目の投稿に目を通して頂いた方への追加です。
殴り書き的にパソコンのキーを叩いたものですから、漏れ(別に漏れてもどうってことないんですが)がありましたので追加しておきます。

6性格の自己判断に追加
 幼年時代から63才になった今日まで変わらない性格が、ユーモア及び悪戯好きです。ただしブラック・ユーモア及び下ネタが多いのが欠点です。

11副島先生との出会いの衝撃・感動
 (8)日本の新聞・テレビの政治・経済記事は一切読まないことにしたこと。と言うより、購読(朝日新聞)自体を止めました。政治・経済その他情報は、学問道場の他は、ネットのYaHOO NEWS、ロイター、ブルームバーグ、ウオール・ストリート・ジャーナル、ファイナンシャル・タイムズから得てています。それと行きつけの病院に置いてある週刊ポスト。
 因みに、何気なしにゲーテの名言を紐解いてみたら、次の言がありました。
「新聞を読まなくなってから、私は心がのびのびし、実に気持ちが良いです。人々は、他人のすることばかり気にかけて、自分の手近の義務を忘れがちなのです。」
新聞を読まなくなった私にとって、全くの快哉です。

 平成25年2月13日朝食前にて 岡 末雄(陶岡白雲)拝  

岡 末雄(会員番号6720) 投稿日:2013/02/13 06:31

【1068】[1211]初めての投稿

 会員番号6720の岡 末雄(実名)です。会員になって2年、やとその気になって(満を持して)投稿しました。まずは私のフェイス・シートです。(ペンネームは陶岡白雲です)
1出自について
 佐賀県多久市西多久町(貧しい寒村です。ただし、平家の落人とかいわゆる部落とかではありません。))にて誕生。
父は福岡県福岡市姪浜の出身で、先祖は大地主で神主と聞いています(ただし、曾爺さん(?)の時代に投資・賭け事に失敗して没落)。
母は、佐賀県多久市中多久(美智子皇后陛下の祖父の出身地です。)の生まれで、家業は染め物屋だったそうです。
私の両親は、当時(昭和初期)としては珍しく恋愛結婚です。事情はこうです。母方の家業が失敗して、夜逃げして福岡市に移り住み、母は食堂で働いていたそうです。そこへ客として父が日参したと言う訳です(母は、とても美しかったです)。
 昭和25年1月8日生まれの63才です。
2誕生地について
 父母は北朝鮮・韓国からの引き揚げ者です。親類・縁者の家を転々として、やっと落ち着いた先が私の故郷です。戦中・戦後の父母と兄達(私は8人兄弟の末子です。故に名前が末雄です。)の艱難辛苦は、涙なくしては語れません。)
3学歴
 昭和43年3月 佐賀県立小城高等学校卒業
 昭和43年4月 九州大学経済学部経済学科入学
 昭和47年3月 九州大学経済学部経済学科卒業(学んだのはマルクス経         済学で、ゼミは景気変動論でした。ただし、大した勉強         はしていません。極貧のため4年間を通して生活費を稼         ぐ必要があったこと、また70年安保・学内封鎖の時代         だったこともありまして・・・言い訳)
4職歴
 安田生命(現明治安田生命)相互会社 1年6か月勤務して退社。
      現会長の関口憲一氏(東大法学部卒)は、安田生命の同期入社      でした。
 福岡県職員 定年(60歳)にて退職(40年間勤務)
5ライフワーク
 (1)音楽、特に合唱活動
 (2)経済学全般、特に景気変動論
 (3)比較宗教学
 (4)国際関係学
 (5)国際投資
6性格の自己判断
 20代、30代、40代、50代と変遷してきていますので、確定したことは言えませんが、天上天下唯我独尊、天の邪鬼(人と特に多数意見に従うことはまずありません)、謙虚であること(謙虚であることを学んだこと)、人と人との間に発生するいかなる事件も、その50%は己の責任であると考えること くらいだと思います。
7今日までの痛恨事
(1)糟糠の妻を卵巣がんで失ったこと(発見が遅れ、助ける事が出来ませんでした。50才でした。)
(2)いかに生きるべきかに苦悶し、又、人間関係に悩み、結果、精神疾患に陥り、思うように(期待されていたように)昇進できなかったこと
(3)61才で自殺した竹馬の友を、そのチャンスがあったのにもかかわらず救えなかったこと
8今日までの快哉事
(1)県職員時代に、他の職員が処理出来ず長年放置されていた事案を解決したこと(全8事案)
(2)私の下に配属された新採用職員を徹底教育し、出藍の譽れの地位に彼がいること。
9好きな言葉 Nec aspera terrent!(どんな困難にも負けるな!)
10尊敬する人物
 釈迦 聖フランチェスコ B・ディズレリー B・ムッソリーニ 田中正 造 マザー・テレサ以上の歴史的偉人 そして亡き我が母  
11読了した副島先生の著書
 平成23年1月 The road to hell is paved with good intensions(この英題が付いていなければ、まず購入することはなかったと思います!)以下全24冊
12副島先生との出会いの衝撃・感動
(1)出る新刊書、出る新刊書のつまらなさに読書人生を半ば放棄していた私を再び、読書の虫に導いてくれたこと
(2)26才の時に衝撃を受けた「Small is Beutiful(人間復興の経済)」以来の私の政治的経済的立場(副島先生と出会うまでは、ぼやーとした立場で、県職員という仕事の上でも極々少数派でありました)が、Libertarianismであり、多くの仲間が入ることを知ったこと
(3)小室直樹先生そして、森嶋通夫先生この偉大な2人の学者を知ったこと
(4)先生の著書「アメリカの秘密 ハリウッド政治映画を読む」「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」で先生の博覧強記の才能に驚き、又、映画に関する新たな視座を発見したこと(大学時代、映画研究部に席だけは置いていました)この2著書が、私にとっての副島先生の最高峰です。
(5)同様に、この著書から「薔薇の名前(Umberto Eco著)」を知り、その知性の高さに驚愕したこと。読了すること自体が大変です。日本語訳なのに!目下、2回目に入っています。
(6)ライフワークとなった比較宗教学・国際関係学は、当然ながら先生の著書を通してこれから研究して行こうとする分野です
(7)退職金の運用に先生の著書が感謝仕切れぬ程役だっています。つまり、投資に禁物である「迷い」が消失したのです。

 以上、プロフィールが長くなってしまいましたが、これをもって、私の第1回投稿とさせていただきます。
次回からは、「私の基本戦略ー日本人民が日本国民となり、真に自由であることを追求していくために」と大仰に考えているテーマ(現在20策)を、会員の皆様に読んで頂くに耐えうる程度に仕上がり次第、投稿して行きたいと考えています。
 よろしくお願いいたします。

 平成25年2月13日 丑三つどき 岡 末雄(陶岡白雲)拝

田中進二郎 投稿日:2013/02/12 01:21

【1067】[1210][

「アジア人同士戦わず」の思想の系譜を探る(2)
田中進二郎です。今日は「アジア人同士戦わず」の源流についてさかのぼってみたいと思います。どういう遡行なのかといいますと、副島隆彦~久野収(くの おさむ)~狩野亨吉(かのう こうきち)~安藤昌益(あんどう しょうえき)というルートです。

●久野収著「30年代の思想家たち」から
「30年代の思想家たち」(岩波書店)は戦前知識人のリーダーたちを批評した本である。
久野収氏(1910~1999)は副島先生の「五人の先生」の一人である。久野収氏の家に副島先生が住んでいたこともあるそうです。「羽仁五郎(はに ごろう)の兄貴分が久野収だよ」とおっしゃっていました。石堂清倫(1904~2001)と並んで戦前から左翼運動、言論活動を行った人であり、戦前は羽仁五郎と同じく治安維持法で検挙、投獄されている(1937~1939年)

「30年代の思想家たち」でとりあげられているのは、狩野亨吉・三木清・本田謙三・戸坂潤・中井正一・久保栄・林達夫・羽仁五郎・北一輝・マハトマ=ガンディーの十人である。
この本で取り上げられている人物のうちの七人までは中公新書の「日本の名著」と重なっているので、彼らの主著についてはそちらで知ることもできるのであるが、久野収氏の本のほうが1930代の重苦しさが伝わってくる。

三木清に120ページが割かれているのに対し、狩野亨吉には冒頭の20ページしかあてられていないのであるが、久野収は狩野氏の「晩年のほとんどただ一人の弟子であった」p2ことを明かしている。
狩野亨吉は圧倒的な学者であり、京都帝国大学文学部の初代学長にわずか42歳でつく。(1907年)が、内藤湖南(ないとう こなん)を文学部に招いたときに、文部省が妨害したため、当局と衝突となった。
「官吏として生きることと学者として生きることとが両立しない」と悟った狩野は「二度と官職にはつかないという固い決意を秘めて、(京都大学を)退職した。」(p14)1907年44歳のことである。

Wikipediaによると、狩野亨吉が京大文学部にいたころには内藤湖南のほかに、幸田露伴も招かれ波紋をよんだ。上の二名には正規の学歴がなかったからである。
さらに夏目漱石も英文学科に招いていたが、漱石はこれを断って、朝日新聞社に入った。そしてそのあと「坊ちゃん」が誕生することになるのだ。狩野亨吉の構想力の大きさがわかると思う。

彼は京都大学を退職」してのち、亡くなるまでの30年にわたって、書画の鑑定売買を業とする生活を送るのである。官職を辞した後は、ほとんど赤貧のままだったようだが、「毎日自己の仕事に精を出して、余暇があれば古書を調べたり、文献を読んだり、職業上少しでも珍しい書物が手に入ったりすると、青写真にとったりして楽しまれた。またアインシュタインやディラックのような物理学者が講演する場合は必ず出席して、新しい知識の吸収につとめられた。」(p17)
(以下p18より引用します。引用開始)

最後に先生と戦争について、一言述べなければならない。太平洋戦争の勃発は、その勝敗の帰結を予知されていただけに、先生にとって実に大きな憂慮の種であった。昭和17年の正月(真珠湾攻撃の直後)には
「実に大変なことになった。自分はもうなんといってよいかわからない気持ちだ」と暗澹(あんたん)とした顔つきで語られた。同年9月ごろ、友人のK氏が訪ねられたときには
「鉄が足りない、銅が足りない。とにかく科学と宗教との戦いだ。西洋では18世紀に勝敗の定まった問題を二十世紀の今日またくりかえそうというのだ。神がかりや曲学阿世の徒が、国家を滅すことになった。もう二年もすれば、アメリカの飛行機が空をおおうて来襲し、ここら一帯は全部焼野が原になる」と語られたという。
(引用おわり)

久野収のこの短い狩野亨吉伝には「真理の迂回戦法」というサブタイトルがつけられている。これは真理が、信仰の狂暴な挑戦をうけたときには、真理の側に立つ側は、信仰や信念と対等なところまで下りて戦ってはいけない、という狩野亨吉の教えである。「真理は、
信念と衝突することを意識的に避けて、自己の持ち場で静かに、水が高所から低所へ向かって流れ出てゆく機の熟するのを待つという態度である。」(p10)

●「われは兵を語らず。われは戦わず」-安藤昌益
夏目漱石の「淋しき個人主義」との血縁を、久野収は指摘している。
(p11より引用開始)
(狩野の個人主義とは)他に対して自己の理論を啓蒙したり、宣伝したりは決してしない。そのかわり自己は自己の理論に従ってあくまでいきぬいてゆき、他の干渉を許さないというものである。
先生が安藤昌益の「わが道には争いなし。われは兵を語らず。われは戦わず。」という言葉を繰り返し、述べられたのは、上記のごとき事情であるからと思われる。あの過激な革命的思想の持ち主でありながら、このような言葉を吐いた安藤昌益の人柄に、先生は自己の写しを見られたであろう。晩年、筆者と対談のおり、談たまたまフランス唯物論の先輩、ジャン・メリエに及んだとき、先生はメリエの生き方に心から同感の意を表された。そしてメリエは、生前カソリックの忠実な村司祭として、自己に課せられた任務を果たし、死後、その遺言状に大胆な唯物論、無神論、社会主義の理論をのこした人物なのであった。
(引用おわり)

ジャン・メリエ遺言書は「古今東西最大の遺言書」らしい。17世紀末から18世紀初頭、フランスの一田舎司祭ジャン・メリエは、深夜灯火のもとで教区民のために営々と驚くべき文章をつづり続けた。神々と宗教の虚妄なることを論証したこの「覚書」は死後、啓蒙期の代表的地下文書として流布し、旧体制を根底から震撼させた。

これは安藤昌益(1703~1762 青森県八戸の医者)の「自然真営道」(じねんしんえいどう)と「統道真伝」(とうどうしんでん)ときわめて似ているにちがいない。(「メリエの遺言書」は法政大学出版社であるらしいが、古本屋でも図書館でも私は見たことがありません。)
ただ安藤昌益には弟子がいたことがわかっていて、晩年には八戸で「安藤昌益を囲む会」(笑)
を決行した。全国から集まったその数は14名という。

E・H・ノーマンの「忘れられた思想家」(岩波新書)によれば、安藤昌益の「わが道には争いなし。われは兵を語らず。われは戦わず。」の思想は、昌益のまわりにいた弟子たちが、反封建体制の武力闘争に立ち上がろうとするのを抑える、現実的目的もあっただろう、ということである。.
その証拠に安藤昌益の手紙の中に「金を確かにいただいた。だがまだ立ち上がる時ではない。」という手紙などがあることも指摘しており、何者かが資金を提供し、安藤に決起を促した可能性もある、と書かれている。
由比正雪(ゆい しょうせつ)の乱(1651年)に似た動きではなかったか、とノーマンは示唆しているのだ。
すくなくとも安藤昌益が秘密結社をつくっていたことは事実であろう。

さて「自然真営道」や「統道真伝」の思想について考えることは今回はできません。
ただ「統道真伝」の下巻の仏教批判と副島先生のブッダの生きざまの評価がわかれているのが面白い。副島先生がブッダの精神性の高さを評価するのに対して、昌益は「働かずに
食べ物を恵んでもらうことをよしとする生き方は間違っている。それに自分の親が敵国に攻められて殺されているのに、自分だけのうのうと生き残っているのは、自然の孝心からはずれているではないか!」と厳しい。

最後に安藤昌益の「自然真営道」を発掘し世に問うた、狩野亨吉の「安藤昌益」論文がサイトで読めますので↓に付記しておきます。「今日のぼやき」でいうと、2本か3本分ぐらいありますので、読むのに覚悟がいりますが、大変な名文であると思います。
1928年(昭和3年)に発表されたものです。
http://www.aozora.jp/…/2653_20666.html
田中進二郎拝

田中進二郎 投稿日:2013/02/11 06:28

【1066】[1209]「アジア人同士戦わず」の思想の系譜を探る(1)

「アジア人同士戦わず」の思想の系譜を探る(1)
田中進二郎です。今日は副島先生の「アジア人同士戦わず」という思想がどのような、背景をもっているのか、という点について考えたことを述べさせていただきます。

尖閣諸島での日中衝突は、水鉄砲の掛け合い、あるいは放水の段階を超えて、レーザーを放つという危険な「戦争ごっこ」を演じています。水遊びから、「危険な火遊び」になっていくかもしれません。日本国民は無謀な太平洋戦争に突っ込んでいった1930年代、40年代のときよりも、戦略・戦術(strategy,/tactics)のない戦争に導かれていくのでしょうか?

長井大輔さんが「クラウゼヴィッツとイルミナティ」について書いていましたが、クラウゼヴィッツの名言(「戦争論」)に「戦略の誤りは戦術によって取り返すことはできない」というのがあります。企業活動の場合、「戦略を転換する」ことは可能でしょうが、一国家の運命が左右される「戦争」は「間違えたから、方針転換、軌道修正します。」などとはできないものである。もし戦争が起こってしまったら、現在の「大政翼賛会」政治家たちはジャパン・ハンドラーズの連中たちに、「どうか、戦争の指揮をとってください」とでもいうつもりだろうか。安倍政権や「維新の会」、そして「菅-野田」民主党ラインにいる政治家たちは、太平洋戦争(べつに大東亜戦争でもいいが)からいったい何を学んできたのだろうか。

「戦略の失敗は戦術ではとりかえせない」という、クラウゼヴィッツの言葉であるが、
戦略というのは英語でstrategyだ。一方、戦術はtacticsだ。何が違うか。Strategyは単数形でtacticsは複数形だ。だから国家戦略というのは、練りに練って生まれたものでなくてはならない。その結果出来上がったひとつの重要戦略を是が非でも遂行するためにたくさんの戦術が要請される。一大目的のために手段が必要になるのだ。当然のことだ。小学生でもわかることだ。だが、日本史をさかのぼると、戦略とよべるものが戦前日本にもない。国体についての思想や、論文についてはあった。だが結果としては、世界の支配者たちのいいようにあやつられ、だまされたのが、太平洋戦争の歴史ではないのか。

まあ1941年12月8日の真珠湾攻撃の当初から、「八百長」戦争であったわけで、フランクリン・D・ルーズベルトはハワイのパールハーバーに、太平洋艦隊を囮(おとり)として攻撃させる戦術(作戦)を用いた。また日本軍は日本軍で、太平洋艦隊を「奇襲」攻撃した後、第二次攻撃の命令を待っている航空隊に、「攻撃は終了、帰って来い」という命令を出している。
そのころ、ルーズベルト大統領はパーティーで婦人たちに、「もうすぐ、日本が攻撃してくるころだ。ハハハ」と笑みをうかべていた。
そして、その後にあの有名な“Remember  Pearlhabour”の演説となるのである。
(参考 「真珠湾の真実」(ルーズベルト欺瞞の日々)ロバート・スティネット著 文芸春秋 ほか この本は副島先生も「必読だ。」と著書で書かれている。)

以下先生の近著「ぶり返す世界恐慌と軍事衝突」より引用します。
(p66・67より引用開始)
フランクリン・ルーズベルトとチャーチルとスターリンの連合国側の3人の合意事項で戦後の世界体制が決められた。ヤルタ=ポツダム体制という。ヤルタ協定を土台にして、日本に降伏を勧告した「ポツダム宣言」を日本政府は受諾した。そして今の日本がある。誰も否定できない。
 
(p73・74より引用つづき)
「尖閣は日本の領土だ、固有の領土だ。昔からそうだ。古い地図もある。」と、日本人は感情的になって主張する。だが、それは相手との交渉がなければ決められないことである。何らかの合意がなければだめである。相手の意思を十分に聞こうともせずに一方的に主張するのは、おかしいを通り越して見苦しい。(中略)

中国人たちが「日本人は国際社会のルールを知らない。歴史の勉強ができていない」と主張しているのは、おそらくこのことだと思う。私たちは相手の意見を聞くために、中国政府の高官や言論人を、テレビ、新聞社が招いて、自分の考えを十分に言わせるべきなのだ。 
それをまったくやらせようとしない。(中略)

日本政府(外務省)も、これだけの争いになってようやくハッと気づいたようだ。だから実効支配というコトバを、もう積極的には使わない。国際社会(世界)に向かって、「尖閣は実効支配していますから」では説明にならない。居直っているとしか思われない。みっともないったらありゃしない、である。野田首相は、よくもまあ国連総会(昨年9月26日)で「国際社会の法と正義に訴える」といえたものだ。「国際社会」とは何かが、わかっていない。国際社会とは「戦後の世界体制」のことであり、「ヤルタ=ポツダム体制」のことなのだ。

だから何としても話し合いをして、日本の主張と中国の主張を戦わせながら、折り合いをつけなければならない。何があっても話し合いで決着するべきだ。この海域の共同管理、共同開発で折り合うべきだ。アジア人同士で、まただまされて、戦争をすることになったらどうするのだ。「アジア人同士戦わず」は、長年の私の血の叫びだ。
(引用終わり)

田中進二郎です。「アジア人同士戦わず」というコトバはシンプルで力強いと、初めて目にしたときから私はそう思っていた。これは副島先生の信条でもあり、戦略でもあり、宣言でもあるだろう。これは左翼が唱える「何がなんでも反戦平和」という絵空事と同列に扱ってはならないことはいうまでもない。次のようにも書かれている。

  -人類(人間)は、70年から80年に一度、どんな国でも必ず戦争をしている。これは歴史の法則であって、この運命から私たちも逃れられない。このように諦観(達観)すべきである。「戦争だけはするな」と、ずっと書いてきている私の考えと違うではないか、といわれてもかまわない。そのように努力することと、現実は違うのだ。このことをわかることもまた人生だ。-(同上書 p127より引用)

ベトナム戦争の北ベトナム爆撃に抗議したベ平連(正式名称 ベトナムに平和を!市民連合)のスローガンとは違う。余談ですが最近、ユースタス・マリンズ著の「世界権力構造の秘密」(太田龍、天童竺丸訳 日本文芸社)に、「ベトナムのホー・チミン(ベトナムの革命家)もOSS(CIAの前身組織)の工作員に育成された」と書かれているのをみて衝撃をうけた。「ホーおじさんよ、お前もか!」と叫んで倒れそうになりましたが。
これが真実なら、副島先生が言う「ターミネーターと戦う、人類の生き残りの戦闘部隊のリーダーはターミネーター」ということになってしまいますね。
また、この本にはレーニンをスイスのチューリッヒから特別列車に乗せてロシアに帰国させて、ロシア革命を引き起こさせたのは誰か、資金は誰が出したのかについても言及がありました。

石堂清倫(いしどう きよとも 1904~2001年)が97歳の高齢でなくなられるまえに
グラムシ・シンポジウムというのがあった。アントニオ・グラムシ(イタリア共産党の創設者のひとり ベニト・ムッソリーニのライヴァルだった。)研究家や社会思想家が石堂さんを囲み、グラムシ思想について研究の発表をするという会で、確か、ロマーノ・ヴルピッタ氏が開会の辞を述べていた。ヴルピッタ氏というのは「ムッソリーニ」(中公叢書)の著者で、昨年の六月に「今日のぼやき」(1310 広報ぼやき)で吉田祐二さんが紹介されたの
でご記憶の方も多いだろう。また石堂さんはまさにロシア革命からソ連邦崩壊までの社会主義の世界をずっと生きてきたような、日本の左翼知識人の元祖である。

だがその会で、「私は世界を支配している大きな覇権というのがあるということを知らなかった。」と言ったらしい。(どういう文脈でいったのかはさだかではないのだが、人生を総括(そうかつ)してそういったのだろうと、私は解釈している。)

理想に燃えて、社会主義に飛び込んでいった、世界中の活動家たちは大きくだまされていたのであろう。マリンズの前掲書を読んでいるとジキル島に集まって、アメリカに「連銀」
(FED)をつくった金融勢力が、もう片方の手でレーニンにソ連邦を作らせたのだなあ、という大仕掛けが少しずつ見えてきました。感慨深いので、また明日以降に続きを書こうと思います。今度はだまされなかった知識人たち(アジア人同士戦わず、の系譜)です。
田中進二郎拝

福田 投稿日:2013/02/10 07:45

【1065】[1208]「アイドル」という概念には「処女懐胎」が要求されているのだろうか

「人類が仏教の阿弥陀さま、観音さま、すなわちマリアさまにすがりついて生きてきた姿
は今、日本で生まれたオタク文化の中で生きながらえている。」
  副島隆彦『隠された歴史』 PHP研究所   第9章 現代の阿弥陀如来の姿 より

少し話題が古いですが、AKB48 峯岸みなみさん(20)の丸刈り騒動の件、
この批判の元となる思想や、アイドルの概念、恋愛禁止のルールについて考えると、
日本人の思想の背景に、思いを馳せることとなります。

・謝罪はファンにたいして向けられるべきのものか。利害関係者へ向けられるべきのものか。
・恋愛禁止のルールは、ファンにとって必要なものなのか、利害関係者にとって必要なものなのか。
・商品価値が下がったアイドルの活用方法、として「話題性」は商売上有効か。
・アイドルを労働力ととらえて、その有効活用はどこまで倫理的に許されるのか。
・裏の高級売春と対極的な、表の封春、防春による、「みんなの清純像」はアイドルの条件か。
 ※「封春」、「防春」(筆者が便宜上つくった単語:恋愛や性行為を我慢して行わないという意味)

「恋愛禁止ルール」とは、ひとびとの倫理や嫉妬心などの影響を考慮したうえでの、
「商売上最大限の成果をあげるための行動指針」ではないのだろうか。
だとしたら、謝罪はルールを作った利害関係者へのものとなる。

いっぽう、恋愛禁止がファンにとって、アイドルの条件だとすれば、
そのファンの思想背景には、たんに嫉妬心などのほか、
「禁欲主義」「婚前交渉の是非」などが、ちりばめられているのではないだろうか。

謝罪の方法を、商業的に利用することへの批判は、労働者の扱いについて、
「人身売買」への批判、労働力を所有権の様にととらえる考え方への批判へ通じる。

アイドルの条件が、売春の対極としての、封春、防春だとすると、
その思想は「聖母マリアの処女懐胎」の思想の様だ。「尼さん」の禁欲の様だ。
その意味で、尼さんの様な「丸刈り」はアイドルという概念への「風刺」ともとれる。