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寺平 浩 投稿日:2013/02/17 10:48

【1077】[1220]OZのボス

OZ(オージー)庶民ニュースの寺平浩です。

今年は水害からスタートしたクィーンズランド州ですが、ゴールドコーストは無事でした。中部バンダーバーグは一帯が水びたしになり今はどうにか水が退いたようですが、家々ライフラインともに大きなーダメージを負い、復興にはまだまだ時間とお金がかかるようです。

今回のテーマは一転かわりまして政治経済です。
「OZ(オーストラリア)のボスは誰ですか?」
ということに焦点を合わせようとおもいます。最初にイメージするのはジュリアギラード首相、いやいやあそこは英国連邦だからエリザベス女王に違いない(ちなみに2018年にコモンウェルスゲームはゴールドコーストで開催予定です。)と思われますがこれも違います。答えは大手資源採掘会社のオーナー達です。2011年輸出統計からみる鉱物、燃料の構成費はなんと64.7%鉄鉱石、石炭だけでも42.4%あります。

なぜOZのボスが民間会社の社長達かというのに一つの面白い事例があります。2008年総選挙で政権を奪取した労働党ケビン=ラッド前首相は、目玉の政策に鉱山超利潤税を提案し、その財源をもとに国民の福祉やインフラに分配するとして資源採掘会社達と戦いました。結果はケビンの惨敗。彼らは一斉に反鉱山利潤税キャンペーンを 貼り、ロビー活動で与党の重鎮までも動かしました。その後ケビンはみなさんご存知のジュリア=ギラード首相にすり替えられました。後にジュリアは鉱山資源使用税を前鉱山税のかわりに発表しましたが資源採掘会社に配慮した結果、抜け穴だらけで30億ドルを2012年後期に予定していたが実際は1億2600万ドルだったと今月に修正している。

2012年は鉄鉱石、石炭を採掘会社にとって苦難の年でした。中国、インドを中心とする需要が急激に落ちこみ、そのことが価格に反映され一時は売るに売れず港に山積みになっている鉄鋼石、石炭をニュースでよくみたものです。これによってOZ経済は実質2012年7月から不況に突入したと思われます。後にファーガソン資源大臣がここ数年の資源ブームにより経済を強力に牽引し、人々がその恩恵を受けたが、ついにこの資源ブームは終わったと率直に認めました。ところがどこかから横槍がはいり翌日訂正している。

今までOZの資源は鉄鉱石、石炭のことを指していましたがこれからは天然ガスとウランが加わります。これは鉱物から燃料に変わることを意味します。天然ガスは3.11震災後我が国日本の需要によるもので国際石油開発帝石(インペックス)、ガス会社、電力会社そして商社がこぞってダーウィンからブルームにかけての新しいプロジェクトに参画しています。ウランに関してはまだ未知数なところがあります。なぜならこれまでOZはウランの輸出を原則禁止していましたが昨年のジュリアのインド訪問でウランのトップセールスを始めたことで解禁となりました。ただいま天然ガスとウランのプラントを建造中で2015~2017年に主なプラントが創業予定となるためこれが軌道に乗るまでは不況が続きそうです。

最後になりましたがOZの都といえばシドニーもしくはメルボルンでしたがこれにも変化が現れています。天然ガス市場の活況により西のパース(ダーウィンも)の人口そして地下上昇率、そして人手不足ととんでもないことになっています。現在オーストラリアの経済を牽引しているのはまぎれもなくウェスタンオーストラリア(首都パース)とノーザンテリトリー(首都ダーウィン)
でしょう。これにより経済の軸足も東海岸から西海岸へと大移動中という意味ではOZはまだまだ発展の余地がありそうです。

ということで今日のOZ庶民ニュースは終わりにします。

Hiro Teradaira

吉見 おさむ 投稿日:2013/02/16 01:51

【1076】[1219]福島本部活動日誌です113

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年12月24日~26日の日誌です。
(ほぼ福島関係有りませんが、書きます。こんなにも難産だったのは、初めてです。)

24日は、疲労で二人とも正午前まで寝てしまいました。

午後1時、外に昼食に行きました。


ここら辺でストラスブールの店の料理の事が、大体わかりました。
私には量が多く、決して安くはなく、塩気が足りない・・・というよりは日本の料理の方が塩分を使いすぎ、なのだと思います。
ドイツとの国境にあるからか、兎に角、量がありました。特に、肉とチーズやクリーム等の結構重いものが多かったです。
はっきり言って、ストラスブールの人、食べ過ぎです。(パリなんかは、また違って、美味しいけど少ないらしいですが・・・)
隣の席に、巨体の女の人が二人で、ずーっと食べていましたが、周りの人もこの人たちのような状態にいつかなるんじゃないかと心配してしまいます。
価格は、二人で7000円位でした。日本の観光地ならば、もう一寸低く抑えられる筈です。
(築地で寿司屋に行って、一人3500円位だと考えれば、適正かもしれませんが。)
誰かのサイトで、この10年のヨーロッパの物価上昇について言及している人がいましたが、私にとっては、最初のヨーロッパなので比較しようがありませんでした。何れにしても、お金が日本よりもずっとかかる印象でした。
(私が覚えているのは、1991年の深圳が、舗装道路が一本もなく、軽犯罪者を押し込んでいた牢屋の人が、賄賂として紙幣一枚を格子越しに押し付けようとするのを無視する光景です。
それと、深圳は1000円のチップで、普通の労働者の月収に相当していたことです。他のことは、日本の田舎との類推しか出来ないので、よくわかりません・・・。)
(Zさんによると、ヨーロッパだと、金がないと本当に人間扱いされないそうです。)
味付けは、マスタードやオリーブオイル、香草、香辛料、等でなされていて、塩控え目でした。
どこの店も化学調味料がほぼ無かったのが嬉しいです。(人によっては、パンチが足りないなんて言うんでしょうけど・・・こっちのほうが地味に美味しいと思います。)

食後、クリスマスミサまでストラスブールの街を歩きました。

中華料理の店と日本料理の店が並んでいました。
実際は台湾あたりの人のやっている店のようでした。

Zさんは自宅に帰った後、自分のブログに「日中友好」という文字と共に、同様の写真を上げていました。
(今は、Zさんの為に、紛争が起きて欲しくないものです。
例のゲームのセリフを借りれば
「せっかくここまで引っ張ったんだから、どうせなら、このまま綺麗な物語のまま突っ走って、完結させて欲しい」
ということです。)

入りはしなかったのですが、マルコ・ポーロというレストランがありました。

例のゲームのシナリオを書いた人の同人小説の中に、「丸子 望楼」という、「東方見 聞録」をインスパイ『ヤ』したキャラが出ていた事を思い出しました。

全く、丸子望楼氏のお陰で、黒と白の争いをする羽目になってしまい、挙句にストラスブール巡礼をする事になるとは・・・、とんでもなく酷い人です・・・。
(↑満面の、下卑た狂信者の顔で。なお、ネタがわかる人は余りいないと思いますので、どうか読み飛ばして下さい。)

ショッピングモールの中にトイザラスが入っていました。同じショッピングモールに、もう一店ゲーム関連の店がありました。
もちろんトイザラスには、ゲームソフトや玩具が置いてありました。

ベイブレードやWWEのフィギュアなど、色んなコンテンツがありました。
http://4.bp.blogspot.com/-Z2tPbsSRwe0/URwVk68z5mI/AAAAAAAACgI/qDcVPXH5NuI/s1600/P1110608.JPG
http://1.bp.blogspot.com/-3mVI_Du68dY/URwVk5NkMmI/AAAAAAAACgM/2ur3uJyT9RI/s1600/P1110607.JPG
http://4.bp.blogspot.com/-RUj0NI32snw/URwVkb5Q-jI/AAAAAAAACgE/JKJV-fYZ3eQ/s1600/P1110606.JPG
少なくとも、フランスの店の中では、綺麗に商品を陳列してありました。
秋葉原よりも、ずっとゆったりと商品が置いてあり、これはこれで良いことだと思います。
ただ、仕方ないことなのかもしれませんが、日本より、商品の価格が高いです・・・。
ひょっとしたら、こういった場所で任天堂等の企業は、美国や法国の企業と、知らず知らずのうちにソフトパワーによる文化的な国際間戦争を行っていたのかもしれない、・・・などと考えるのは大袈裟に過ぎるでしょうか・・・。
もしも、このトイザラスにあるゲームなどで楽しんだ人たちの中から、10年後くらいにps3とエロゲの古典の一つとして、私たちがやったゲームをプレイしてくれる人がいたら、そしてこの街が舞台として取り上げられたのだと知ってくれる人がいたら、まして、2012年だけで舞台探訪をした人間が最低でも6人いるのだと知ってくれたら、・・・そんな行き着き果てた狂いかけのファンの一人として、望外の悦びです。
Zさんと、二人で「絶対にありえない未来だけど、18禁ゲームが、もう少し人口に膾炙した世界があったらね・・・」なんて話していました。
きっと、裏で澱んだ輝きをしているのが、本当は良い事ではあると、頭では理解はしているのですが、・・・まあ、心情的なものです・・・。
18禁ゲームが、いい意味(?)で陽の目を見るのは、アニメ化、一般ゲームへの移植、漫画版アンソロジー発売、くらいしかないですので。
どちらかといえば、悪い意味で陽の目を見る事が多いです。177問題とか、沙織事件(別名、フェアリーテール・ジャスト事件)とか、レイプレイ問題とか・・・。
なお、例のゲームのライターさんの同人小説に出てくる丸子望楼氏という漢は、作品中で、○織事件を無意識のうちに裏から操り、ヒロインを京都の未成年の代わりに補導させた真の黒幕として、「時空のデーモン めもらるクーク ○織事件」に出てきますので、・・・興味のある奇特な方以外は読まれない方がいいと思います・・・・・・。
(↑ネタわかる人は余りいないと思いますので、どうか読み飛ばして下さい。)
http://www.suruga-ya.jp/database/ZHORO9596.html

大聖堂前の売店を回って、時間を30分だけ潰しました。


写真の印象よりはずっと人が多かったです。

午後5時から、大聖堂でのクリスマスミサの一回目に出ました。
やっぱりZさんが「ジャポネ?」と声をかけられていました。
ゲームの舞台になったからここに今いる事をZさんが伝えると、ものすっごく微妙な顔をしていました。
http://youtu.be/VAD4MxLmVuo
http://youtu.be/Myw2e2dfCj4
http://youtu.be/itSuogguFUI

午後6時半、一度ホテルに戻り、この後のミサに備えました。
帰り道にはいっぱいの日本人観光客がいました。
レストランがなかなかやっていなくて、難儀しているようでした。

・・・実はツイッターでリアルタイムで知って後悔したのですが、ゲームのパッケージに写っているレストランは、42ユーロでクリスマス限定の特別メニューを出していました。
しかも、日本からの2人のゲーム巡礼者の方々が、それを食べていました。完敗です・・・。

午後11時、大聖堂でのクリスマスミサの二回目の開場に並びました。ものすごい人でした。


後ろの方に着席しました。
30分後、コンサートから始まり、前の方を見ては
「あそこらへんにヒロインの一人の母親が・・・」

「ヒロインの怪我がなければ、主人公と2人のメインヒロインはどんな行動を取ったんだろう」
と考えていました。
やっぱり脳内でゲーム関連のことばかり考えて、まともにミサに出ていませんでした。
もしもフランス語がわかったら、一生懸命ミサの内容に騙されようと頑張ったのかもしれません。
http://youtu.be/VAD4MxLmVuo
http://youtu.be/JbcZaxMiKkc
http://youtu.be/838NJCacYJY
http://youtu.be/XL4UcocNV9E
http://youtu.be/5KxsuuB0g4c

ミサの後、Zさんが、ゲームの曲を大聖堂近くで流していました。

・・・もう私たちには、何も怖いものはないです・・・、殆どヤケクソですが。

ホテルに帰って、Zさんのとっておきのアイスワインで乾杯しました。
絶対にやっておくべきエロゲを、6本ほど教えて貰いました。
ちなみに、まだやってません・・・。秋葉原へは遠いですので・・・。

25日、泥酔に近かったので、正午過ぎまで起きられませんでした。

午後1時40分、ゲームのパッケージに「kohkas」とある看板は、レストランのものなのですが、そこに食べに行きました。


伝統的なアルザス料理の店らしく、やっぱり肉を食べることになりました。
この時、「ゲームのあの絵のレストラン」だと認識できれば、人参の皮のような廃棄物でも食べられる狂信者の状態でした。
が、そんな変な補正をせずとも、とても美味しい料理でした。
ただし、返す返すも、地味な料理でもあります。

食べ終わった後、幸運にも二階の席だったので、窓からゲームのパッケージ絵の所を写真に撮りました。
自分で言うのもなんですが、この時の私、目が逝ってたはずです。

もう一度、ストラスブールの街中を適当に歩きました。

ある教会では、クリスマスにミサがあるようで、その予行演習をやっていました。

ゲームの舞台探訪とは関係がないのですが、欧州評議会の建物を見に行きました。

ヨーロッパの過去について、変わった展示の仕方をしていました。
↓の写真の様に、柱に展示してあり、妙に感心しました。


Zさんはここに2回ほど通訳の手伝いで来た事があるそうです。
外交官特権は、手荷物検査等がチェック無しになるなど、相当に凄いものだ、と言っていました。
一部の展示に大変面白い「英語」が書いてあって、爆笑しました。
こういう表記ミスも、いっそそのままにしてしまった方が、ひょっとしたら大らかで良いのかもしれません。冗談でなくそう思います。

路面電車で中心部に戻った後、午後8時から10時まで、大聖堂近くのレストランで、ストラスブール最後の食事をとりました。


肉、エスカルゴのパスタ、サラダ、ポテト、と、孤独のグルメという漫画の言葉で言えば
「ソースの味って男の子だよな」
と言いたくなるような、ジャンク一歩手前に思える食事でした。
ただ、肉を控えめにすれば、塩分も抑えてあるし、意外と健康的な食事になるんじゃないか、とも思います。
ちなみに、ここでズブロッカ(40度のウォッカ)飲みました。
・・・明日帰る人間のやる行動ではないので、くれぐれも反面教師にして下さい。

酔っ払ったまま、ホテルに帰って、風呂入って寝ました。

26日、午前8時に起き、帰る準備をしました。
午前9時40分、ホテルをチェックアウトし、ストラスブール駅に路面電車で向かいました。
ストラスブール駅で、最後の写真撮影をしました。




ストラスブール駅のプラットフォームでZさんと別れました。

(これからパリに電車で行って、新年を過ごすそうです。
「これで地元の人に案内して貰えるから、これからは安心だよ」と冗談を言っていました。
後日、三ツ星のレストランやエッフェル塔の写真を、Zさんはネット上に上げていました。
ただ、パリ滞在中に、近くで強盗事件があったらしく、「ストラスブールとは違っておっかね~」と言って、予定を早く切り上げてドイツに戻ったそうです。)

アンツハイム空港駅で電車を降り、空港で搭乗手続きをしました。
正午から1時間の飛行時間で、スキポール空港に着きました。
行きとは違い、乗り換えの時間が1時間しかないので、空港内を急いで移動しました。
そのせいで、カートのようなものに轢かれかけました。

成田行きの搭乗手続きを済ませ、席について、やっと落ち着けました。

隣の席の女の人が、イギリス在住の音楽関係の方で、結構話し込みました。
なかなか優れた人で、3時間くらい話していました。
その後、6時間は浅い眠りのままになってしまいました。
行きも帰りも、KLMは良かったです。
何よりも、KLMのスタッフ自身が基本リラックスしているのが、私にはとても好ましく思えました。
(↑一般の日本人の感覚っぽくない感想だとすれば、それはストラスブールの空気に染まったせいです。)

着陸の少し前、福島第一原発と福島第二原発と思われる建物を、ぼんやり眺めてみました。
白河やいわきの位置から類推して、それっぽい建物が確かにありました。
なお、Google Earthの福島第一原発近辺は、2011年の3月12日や3月19日に画像が取得されており、今見直すと、当時の状況が偲ばれる写真が所々にあります。

日本時間27日午前10時、成田空港に到着しました。

ストラスブールに行ったというより、Zさんと一緒に聖地巡礼をした、という方が正確になってしまいました。
実は日本もそうなのでしょうが、偉い人達は、私のような人間とは、スタート地点から大きく違いました。
スマートフォン複数とnexus等のタブレットを最低限のものとして所持し、中、日、英、徳語(※繁体字で記載)が話せて、食事のマナーもちゃんとしていて、人間的にも優れていました。
そして何より、「ああ、16色のゲームは、ホントいいよね」とも言っていました(←これ以上なく酷いオッサンホイホイです)。
最低限の中国語だけはやっていったのですが
「中国語は難しいし、どんなに頑張っても、私の日本語くらいにしか上手くならないから、私が変な日本語話して誤解された方がまし」
と笑っていました。

彼らの様な価値観が近い人たちとさえ、どうやって繋がっていったらいいのかわからないまま、もうすぐ通貨の差による優位性も無くなり、日本の絶対優位は「変態(※繁体字で表記)」(http://japanese.joins.com/article/544/147544.html)くらいしか残らない状況がまもなく来るのだな、と思うと、焦りを通り越し、諦めの気持ちになりました。
(Zさんは、次のサイトを証拠に挙げていました。
http://blog.livedoor.jp/geek/archives/51381786.html )

日中間での、一般にサブカルチャーと言われるもの関係は、この十年以上の積み上げが、2012年9月の一週間で駄目になったそうです。
あの時丁度、清華大学のアニメ・ゲームサークルの前ボスが、ご自分のなさってる会社の関係で日本にいらしてたのですが、一日中泣いていたそうです。
https://twitter.com/briansakana/status/247732087342374912
どこかの経済誌の評論にあったように、日中の関係改善にはあと20年くらいかかるのかな、と思います。
2008年からの私の経験も、もう余りできることは残っていないのかなと思います。
例のゲームの表現を借りれば「・・・・・・・・・私の冒険はここまで」となるのでしょうか。私は気づくのが5年遅かったです。
後は、Zさんに酔っ払って言ったように
「コンテンツは面白ければどの国の創作だって構わない」
のであり、ほんの少しだけ表現の自由が許されるようになれば(←本当は、これが一番むずかしいんでしょうが・・・)、そして資金の手当が付くようになれば(←なぜ中小エロゲメーカーが延期を繰り返すかといえば、銀行からの融資をまずは取り付けなければいけないので、最初に無理にでも計画をOHPで発表しなければならないから、と聞きました)、中国やインドネシアのコンテンツが、日本に来てくれるようになるのかな、と思います。
それが10年後なのか20年後なのか100年後なのかは、またどうやった手段で来るのかは、私にはわかりませんが、それまで待つのみです。
そしてその時は、日本を追い越していって欲しいです。
一言で言えば「後は若い人に任せて・・・」となります。既に私は旧世代に属するんだなぁ、としみじみ思いました。
ほんの少しでも彼らに追いつきたいので、いつかは軒轅剣(※繁体字で表記)3(http://baike.baidu.com/view/6443716.htm?fromId=1947578)をやって、「小ピピン、ブッヒィィィィ」と叫びたいです。
(↑ここで、14年前の古いゲームを持ち出すのは、更なる感覚の隔絶をもたらすような気がします・・・。同ジャンルなら日本の、戦国ランスや恋姫無双をやった方がいいのかもです。)
嗚~呼、15年前に今で言うネトウヨだったはずの私は、何の因果か、こんなにまで、考えが変わってしまいました。

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2013/02/16 01:36

【1075】[1218]福島本部活動日誌です112

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年12月22日、23日の日誌です。
(ほぼ福島関係有りませんが、書きます。こんなにも難産だったのは、初めてです。)

午前7時前後に、半分寝たまま、ホテルのwi-fiからtwitterを見てみると、確認できるだけでも私たち以外に、日本人で3人、中国人で1人、同様のゲームの舞台探訪目的でストラスブールに来る予定の人がいました。
うち一人の方は、ps3のゲームを10本購入する等、計60万円くらいこのゲーム関連で使っている筈です。

22日の午前8時に起きました。
とりあえず挨拶をした後、
「ストラスブールの税関は、CDG空港と比べると、緩すぎるねー。最悪、追い返されたりするのに」
「物語のヒロインの一人、電子辞書だけでよく入れましたね」
「あ、いや、それは、ほら、美人にはどこの国の人も寛大だから」
等と、気の抜けた会話をしました。
すぐに準備をして、地元のパン屋さんにパンを買いに行きました。とは言っても、Zさんに全て任せてしまいました。

ホテルに戻って、買ったばかりのパンを食べ、外出する準備をしました。
ゲーム中では、ストラスブールは雪が降っている設定だったのですが、大変残念ながら、現実のストラスブールは2012年のクリスマスの時期のみ、雪がとけてしまっていました・・・。

午前9時半、二人でゲームの舞台探訪に出発しました。
普通の人ならば、ホテルの近所の↓のような風景に観光の意義を見出すのでしょうが、余り私には訴えるものがありませんでした。

といいますか、Zさんによりますと、ストラスブールにもプロテスタントの聖堂はあるのですが、観光地になっている大聖堂付近にばかり人が集まるようです。
ストラスブールとは、カトリックのプロテスタントに対する防波堤の一つだったのかな、等と、どうでもいいことを思いました。
私、ストラスブールの大聖堂の威容には騙されることは無いです。
なぜならば、このゲームに喜んで騙されているから、です。
これってWA2という宗教だよね、と、舞台探訪中に、二人で何度か笑いました。
・・・兎に角、ゲームの舞台になった箇所に価値を置いていました。
10kmほど歩いて、途中に遅い昼食を挟みつつ()、
「主人公が宿泊したホテル」



「ストラスブールの大聖堂」




「大聖堂内の、椅子の最前列」
(ゲーム内に大聖堂の描写は直接は出てこないのですが、ヒロインの一人の母親が、音楽関係者のコネを生かして最前列でミサに出ていた、という設定になっています。
なお、ゲーム内の設定が、2012年のクリスマスにストラスブールで主人公とヒロインの一人が再会したことになっているので、
『あと58hくらいしたら、この近くの椅子にあのキャラが居たんだなぁ』
と、しみじみしながら椅子で休んでいました。
・・・本当に、私達は、何を、やって、いたのでしょうか・・・・・・。
自分のことは一番自分がわか「らない」のかもしれません。)

「ゲームの起動画面になっている、ストラスブールの街の一角」


「ゲーム内でヒロインの一人が『偶然』主人公と再開した広場」


「ストラスブール駅」



「ストラスブール駅のタクシー乗り場」

を訪問出来ました。
特に、ゲームの起動画面の近辺には、鴨のマークの看板があり、そこのお店がフォアグラを売っていました。
日本に帰った後、そこで買った缶のフォアグラ(を食べたあとに残った空き缶)が、記念品になりました。

ストラスブールにも、「Superdry極度乾燥(しなさい)」というブランドの服が店を構えていました。
向こうの人には、これがいいらしいです。訳わかりません・・・。

かなり格好良い若者が、『SAMURAI72』といったロゴの服を着ていると、なんとも言えない気分になります。
また、多民族国家の地方都市だからか、いろいろな人種の人がいました。
ホームレスの人たちが、かなり立派な身なりをしていました。
街中を歩いていて、「ダサいとお洒落の変な線上にある人が多い」印象でした。(←変な言い方で済みません・・・)
ただ、どちらであっても、格好良さに重きを置いているような印象でした。

こっちの青果屋さんでも蜜柑を探してみましたが、オレンジと変わらないものでした。

Zさんが持ってきた蜜柑も、デコポンに相当近いものでした。
私は広島のNさんから頂いた蜜柑を持って行きました。
・・・いずれにしても、冷凍庫がなかったので、ゲーム中の様に冷凍ミカンを食べる事はストラスブールでは出来ませんでした。

なお、ゲームと全く同様に
「ウィーンから電車を乗り継ぎ、その道中の夜行列車内で冷凍ミカンを食べ、ストラスブールに行く」
という行動を、前出の60万円使っているであろう方はされたそうです。
・・・頭が下がります。2013年もストラスブール聖地巡礼に行かれるそうで、既にホテル等の予約を進めてあるそうです。

青果屋さんにスペイン産の柿が置いてありました。
ギリシャとは違い、スペインには、なんとか最低限の輸出をしていくものはあるのかもしれません。
(Zさんは、ギリシャ人ってのは、本当にどうしようもない、と言っていました。)

午後4時に駅前のカルフールで、ミネラルウォーターやミニトマト等の食料品を買いました。
午後5時、路面電車と徒歩でホテルに戻って、休みました。

少しずつ雨になりだしました。
勿論旅行は、雪がない方が本来は都合がいいのですが、今この時期この街だけは、雪が降っていて欲しかったです。

午後6時から外へ夕食を食べに出かけた・・・のですが、ちょうど小雨が降り出した上に、行くレストランは次々に満席で、いつの間にか駅前まで歩いてきてしまいました。

1時間半近く経って、8件目でようやく入ることができました。
クリスマスの季節はこんなものだとZさんに言われました。
私は飲めないのに、ワインしか飲み物がなかったので、無理矢理飲みました。
変な妄想をZさんに話していた様な記憶があります。
スパゲッティを頼んだのですが、物凄い量で・・・唖然としました。
かなり残してしまいました。

ホテルに戻ってみると、自分達の宿泊したホテルが、ゲーム中に出てきたホテルそのままであることに改めて気づきました。


風呂等を済ませて、ベッドに入りました。
寝る前にエロゲの話をしたのですが、プレイ総数で10倍以上の差があるので、私ではとても相手になりませんでした。

23日、午前10時に起き、残っていたパン等で食事にしました。
疲労が溜まっていたので、正午まで休んでいました。

正午、ゲームのps3版のパッケージに描かれている場所を探しに出発しました。
Zさんのnexus(タブレット端末)に残っている記録だけで20km、記録に残っていない距離も含めると30km、歩く事になりました。
それでも、5時間と少し歩き続けて、やっと該当する場所を見つけられました。


(↑二枚目の方は、24日に撮影した昼間の写真です。) 近くに、「部屋の内装が、『ゲーム内でヒロインの一人が母親と宿泊した部屋』と同じホテル」がありました。


(↑二枚目の方は、24日に撮影した昼間の写真です。)
こちらのホテルに泊まれば良かったかもしれない、と少しだけ後悔しました。

23日になると、途端に外国籍の観光客が増えました。
「あの人は多分台湾の人」、「あの人は韓国人」、「あー、ドイツの団体だ~」、とZさんに言われても、私には全然区別がつきませんでした。
付言しますと私には、ストラスブールにいた、台湾、韓国、日本、の人達の区別が付きませんでした。
記念のコインを作った所で、私たちの前に居た女の人たちから、「どこ出身ですか?」と尋ねられました。
その人たちは、Zさんが予測した通り、台湾の人たちでした。

探す途中で、休憩も兼ねて、「ゲームの主人公が宿泊した設定のホテル」の一階で、コーヒーを飲みました。


普通の人にはただのコーヒーなのでしょうが、思い入れがあると、味は五十割増しくらいになります。
たとえ、このカップの中にスピリタスが入っていたにせよ、気持ちの上では、一気飲みが可能です。
(↑本当にやるのは止めといたほうがいいです。死にます。)

郵便局にZさんが用事があったので立ち寄りました。
係員の人と会話になり、
「戦争間近の日本人と中国人が、今の時期に一緒にいる事が、とても変わった組み合わせだ」
と言われました。
福島から来た事が伝わると、最初はジョークだと思われたようですが、その後は爆発のジェスチャーをして笑って誤魔化していました。

街を回っていて、Zさんの方が3回ほど、日本人と間違われていました。
中学生くらいの男子が、Zさんに向かって、両手に手を合わせた状態で、「日本人ですか?」と言っているのは、なかなか面白い光景でした。
(↑一緒だったお母さまが、すっごい美人でした。)
「Jap」がどうこうといった陰口は、街ですれ違いざまに、一度だけ聞きました。
(・・・実はその時は、人が多い中、写真撮影で手一杯で、周りに気を払えていなかったので、一寸言われても仕方のない状態だったかとは思います。)
Zさんは、
「昔日本に住んでいたからか、日本人に間違われる事が多い。その後、中国人だって言うと、『別枠の中国人』として扱われる。なんか、すごく微妙な気分になる」
と言っていました。

夜にZさんから、一寸だけドイツに行ってみないか誘われたので、電車で25分のドイツの町へ行きました。
フランス領のストラスブールよりも、圧倒的に街が綺麗で、行き届いていました。

もう少し細かい所を言えば、駅の切符販売機が、ストラスブールとは違い、素早く確実に動作していました。
(↑というか、Zさんが『空港の件といい、まったくフランス人は・・・』と溜め息ついてました。)
木々になされていたクリスマスの飾り付けも、ちゃんとしていました。どこか日本の感覚に近かったです。

イタリア料理の店に入って、夕食を食べました。

イタリア人の店員さんのドイツ語は、なかなか聞き取り辛い、と言っていました。
電車の時刻の関係上、すぐに戻らざるを得ず、結構急いで食べました。

ストラスブール駅に戻ってから、夜のストラスブール駅の写真を撮りまくりました。

撮影中に「ィヒヒヒヒ」という変な声が出ました。

ホテルに戻って、風呂に入りました。
それからゲームの音楽を聞いて、twitterを見て、寝ました。

(日本と中国の企業同士の提携が、こんな単純な、どんな創作物でも没になりそうな、ベッタベタな結末だったのか、と思うと大変に感慨深いです。)
(今の私は、「スイーツ(笑)」とか言われても堪えないと言いますか、韓流メロドラマだろうがなんだろうが、ラノベの腐った展開だろうが、受け容れて楽しめる状態になりました。
現実の方が、もっと単純で、俗に言う「王道」・・・つまりありがちなベタなもので、多分いい大人からすれば笑ってしまうようなもので、・・・それでもどうしようもないものでした。)

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2013/02/16 01:26

【1074】[1217]福島本部活動日誌です111

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年12月18日、19日の日誌です。

18日は暖かかったのですが、19日は最高気温がマイナス2度でした。
それ以上に風が凄かったです。

これからしばらく都路を離れるので、ごみ捨て、水道料金の支払い、洗濯など、用事を済ませました。
残っている食材も、大体は食べ切りました。

19日午前9時40分、除染で集められたあとに丸められた藁が5個、軽トラで郡山方面に輸送されていきました。

2日とも過去の日誌を書いていました。一応の目処がつきました。
やっつけ仕事に近かったですが、やっと終わりました。
ですが、書いている途中で、広瀬隆氏の
「(IAEAみたいなのを、)こんなのを招いてるあんたら福島県がおかしいんじゃないか」
という講演会での冒頭の発言を思い出してから、ずっと嫌な気分でした。
東京の人が、福島に上から目線になるのだけは、気をつけておいたほうがいいです。
自戒も含め、そう思います。「東京の殆どの人は、元は田舎者」であっても、です。(←「元は田舎者」『だからこそ』、という方が正確かもです。)
もっと言えば、IAEAにやり返していいとするなら、福島県民だって、東京都民の広瀬氏に「やり返し」ていいということになってしまいます・・・。

福島香織氏によれば、中国から見ると野田首相は
「もっとも嫌がることを、悪気はないんですよという顔をしながらしゃあしゃあとやってのける老獪な政治家」
だそうで、笑ってはいけないと思いつつ、大爆笑しました。
見事に当たっていると思います。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20121217/241177/?P=2

(転載終わり)

(転載始め)

2012年12月20日、21日の日誌です。
(ほぼ福島関係有りませんが、書きます。)

20日の午前中と午後を使って、家事の類を終わらせました。

20日午後4時35分発の船引駅行きのバスに乗る予定だったのですが、30分待ってもバスが来ませんでした。
福島交通に抗議したのですが、予定通り運行されているとの一点張りで、埓が開きませんでした。
バスの予約を済ませてしまっていたので、仕方なく、タクシーで船引駅まで行く羽目になりました。

郡山駅前で、午後9時から21日午前1時50分まで、成田空港直行のバスを待っていました。
深夜は郡山駅が閉まってしまうので、待つ場所が全く無く、とても困りました。
(こう言ってはなんですが・・・、こういう地味な所で「気が利かない」ように出来ているのが、地方なるものの本性です。郡山でさえこれですから、ましてや田舎は・・・お察し下さい。)
一時的に中華料理屋などで寒さを凌ぎましたが、その分金がかかりました。

午前1時50分発午前6時10分着の夜行バスで、成田空港に行きました。
飛行機は第一ターミナルからの出発だったのですが、先ずは写真に撮りたい場所があったので、第二ターミナルに行きました。
ストラスブールに行く目的は、とあるゲームの舞台探訪(大袈裟な言い方では、聖地巡礼)だったのですが、成田空港付近も舞台になっている箇所が多かったからです。
京成電鉄の空港第二ビル駅、第二ターミナル南ウイング案内所、見学デッキ(南)、コーヒーショップ、の順でゲームのモデルを撮影できて、幸せでした。



成田空港第一ターミナルでは2万円だけ両替しました。
空港の本屋にあった週刊誌で、中国や韓国の事が表紙で取り上げられていて、やっぱり微妙な気持ちになりました。

スーツケースを預け、手荷物検査と出国審査を済ませた後、アイフォンの充電を搭乗口前のUSBコンセントで出来ました。

午前11時55分発のKLMの飛行機で、アムステルダムのスキポール空港に行きました。
11時間居た機内は、丁度空調が当たる所で、非常に寒かったです。それでも隣の2席が空席だったので、前に座っていた人同様に横になれました。
ただ、やはり眠るのは無理でした。
なお、KLMのエコノミーは、(安い価格を考慮しなくても)行きも帰りもとても良かったです。

アムステルダムの現地時間で午後3時に到着しました。
乗り換えまで5時間の余裕があったので、現地のdocomoのローミング機能で、ストラスブールのアンツハイム空港で落ち合う人にsmsで連絡をしました。
スキポール空港の手荷物検査の係員さん達が、異常な程に格好良かったです。顔といい、服装といい、俳優さん以上で、写真に撮りたいくらいでした・・・。
本当はいけない事なのですが、どうしようもなく疲れてしまい、次の飛行機を待つ搭乗口の椅子で、2時間寝てしまいました。危なかったです・・・。

午後8時40分エールフランスの飛行機で、ストラスブールのアンツハイム空港に行きました。
エムブラーエルによる小型機でした。結構ボロかったですが、使う分にはこういった飛行機で充分なのかもしれません。
午後9時半にアンツハイム空港に到着しました。
アンツハイム空港のエスカレーターは、北京国際空港と同じ、ティッセンクルップによるものでした。
スーツケースを待っていると、柵越しに、今回お世話になったドイツ在住の中国の人が私を見つけてくれて、挨拶しました。(←以下、Zさんとします。)
なお、なかなかスーツケースが出てこなかったのですが、荷札がなくなってしまった荷物の方に行っていました。
(↑どうも、フランス人の対応ではよくあること、のようです。)

駅までの終電がなくなってしまったので、ホテルまでタクシーで行きました。
hotels.comの予約状況はZさんに伝えてあったので、Zさんが既にチェックイン済みでした。
ホテルは、ゲーム内で主人公がクリスマスイブに泊まったホテルと外観は同じでした。内装は別のホテルが同じものでした。
ホテルに戻って、Zさんと改めて挨拶し、アイスワインで乾杯しました。
それから贈り物を互いに交換しました。
疲れていたにもかかわらず、日が変わるくらいまでは、話していました。

Zさんは
「ギリシャに父と行ったとき、正午から4hしか働かないのを見て、いずれこの国が駄目になるのは明白だった。父が『先に豊かになった国がちょっとでも努力し続けると永遠に追いつけないから、これは助かる』と言っていた」
「カルフールで買ったこの水は不味い。海水から半透膜で作ってるのかもしれないけど、ああいうのは膜が半年でダメになっちゃう」
「samsungとLGが強いのは認めなければならない。オランダにおいても、Philipsでさえもモニタの競争で負けた」
「日本のある企業のお偉いさんは、本当にすごい。実はお酒が大変に好きな人だったのに、仕事に近い場では、お酒を出されても一切口にしなかった」
「友人が二人ほど東大に行ったけど、一人はラブひなを読んで東大に入る事を決意した」
「(別のゲームで出てくる)八橋大学のモデルになった一橋大学に入れるんだったら、何をおいても勉強したと思う(←私も、同感です!!)」
「12年前にやったエロゲがなければ、今頃は日本語を、日本鬼子の言葉だと思ってたはず」
と言っていました。
(↑もっともっと、小林一三とか、色んな事を話して貰ったのですが、覚えてないです・・・。)
・・・日本人の女の人ってのは、確かに国際競争力が非常にあるんじゃないかと思いますよ・・・。
競争力のない野郎の俺は、下みたいな薄い本でオナニーして寝ます。晩安世界…

(転載終わり)

吉見 おさむ 投稿日:2013/02/16 01:15

【1073】[1216]福島本部活動日誌です110

以下に、MLに投稿した内容を転載します。

(転載始め)

2012年12月14日~17日の日誌です。

14日の朝、とても大型のパイプが川内方面にトラックで輸送されていきました。
この近所の橋や旧街道、あるいは川内で新しく建設中の橋など、公共事業で使われるのか、それとも小野富岡線で原発に輸送されるのかはわかりません。

14日の未明から正午までは全て、気が狂ったように、過去の溜まっていた日誌を書くのに費やしました。それでも1日分終わりませんでした。

午後1時に都路を出て、郡山に向かいました。
途中の民家に、わずかですが除染のための足場が建設されていました。

郡山駅についたら、「例の」福島県の選挙ポスターの新バージョンが貼ってありました。


「あの夏で待ってる」というアニメの、谷川柑菜というキャラを思い出しました。
(中田先生が仰るように、この福島希望さんを「使える」ように、薄い本が出て欲しi・・・いえなんでもないです。)
また、駅前には15日~17日に郡山のビッグパレットで開催された、国際会議の張り紙や旗が多数立っていました。

ホテルハマツの近くで行われていた、広瀬隆の講演会に行ってきました。資料代500円がかかりました。


話す内容は別にして、広瀬隆氏の話し方は、副島先生にそっくりでした。こりゃあ、対談なんかになってたら、エラい事になったと思います。
「IAEAが郡山に乗り込んできた」
「IAEAは原子力の推進機関で殺人鬼。悪魔たち」
「みなさん、殺されてたまるのか。殺しに来るのだからやり返せ」
と発言していました。
成程、アジテイターとはこういうものか、と思いました。

15日の朝、郡山駅は厳戒な警備が敷かれていました。

既出かもしれませんが、佐藤雄平現知事の出身大学の広告がありました。

改札の前で、野田首相が川内村を訪問した祭に「お世話」になった、会津のAさんという警官に会いました。私服でした。
どこに行くのかなどを訊かれました。
17日までの国際会議は、閣僚級会議なので、大変警備が厳しいと伝えられました。
重たい掲示板を見ているそうで、川内村の件で「会津弁のきついAさんって書かれちゃって・・・」と言われました。
広瀬隆氏の話していたことを伝えてみたら、「IAEAって原子力の使い方を規制するところだから、理解が間違ってんじゃない?」と言っていました。
「それを彼らに言っても聞く耳を持たないでしょう」と答えました。

ビッグパレットに行ってみましたが、駅以上の厳戒な警備がなされていて、立ち入り禁止でした。

この会議は、IAEAと国が郡山市に対して、とりあえず黙っとけ、と脅しつけるためのものなのかな、と思いました。
・・・普通に、東京でやれば問題等も起きなかったんじゃないかと思います。
仕方ないので、すぐに郡山駅に戻りました。
駅に戻るバスから、50人ほどビッグパレットの会議に反対する人たちが横断幕を掲げているのが見えました。
後で確認したら、このような人たちは200人ほどいたようです。

郡山駅の新幹線改札では、ピンク色の外套を着た案内員と思われる人たちが、バス乗り場まで配置されていました。


午前8時20分、中国語で話している人たちが新幹線入口の近くにいました。

午前8時半から、多数の外国からの人たちが降りてきました。
皆スーツとコートが立派でした。



午前10時10分、郡山駅前とロータリーを、スピーカを流しながらIAEAを非難している車が走行していました。

すぐに警察官4人ほどが集まって、「対処」の準備をしているようでした。

午後1時前後、駅前のビッグアイ近くで、再びAさんと会いました。
これからの予定を訊かれました。

午後5時の駅前のモニタリングポストは、0.263μSv/hでした。晴れたことによる影響かもしれません。
雨が降っていた朝は0.240μSv/hでした。
μSv/h

午後5時40分から、太田かずみ議員と応援に来た谷亮子議員が、商店街で演説しました。
http://www.youtube.com/watch?v=CsDvYFBM-MQ&feature=youtu.be


その後、商店街を握手して歩き、駅前の国道4号線で再度二人で演説をしていました。

ホテル前で、おそらく今日の国際会議に参加した、外国からきた人と、谷議員が握手をしていました。
おそらく、今日の国際会議に参加した人だと思います。少なくとも谷議員の主張を聞いた上での握手ではないと思います。
金メダリストという肩書きは凄いもので、道行く人が次々に握手をしていました。
なお、太田議員は落選しました。
http://senkyo.yahoo.co.jp/kouho/s/fukushima/2/

郡山駅前は、潤沢にライトアップされていました。

午後6時35分、駅前のロータリーは、タクシーが一台も待機していなくなりました。
ホテルハマツやアネックスホテルに会議の出席者を送迎に行ったと思われます。

ビッグアイでは、広瀬隆氏の講演を企画した人たちが交流会をしていました。

津田大介氏の講演もやっていました。

午後9時まで時間を潰し、それからネットカフェに入りました。
テレビではビッグパレットの様子が放送されていました。

行ってみようかと思って諦めた、脱原発を目指す全国首長会議の様子も取り上げられていました。
桜井南相馬市長が写っていました。
(次の南相馬市の市長選はどうなるのでしょうか・・・。)

16日の朝、郡山駅には早朝から案内員が配置されていました。
三たび、Aさんと会い、今日の予定を訊かれました。
何かなかったか訊かれたので、昨日の太田議員と谷議員の応援演説について、握手をしている際に人だかりができて、交通事故が起きかねなかった事を伝えました。
選挙活動の自由や表現の自由の兼ね合いで難しいところだ、という返事が返ってきました。
真面目で熱心な、良い警官の方だと思います。

郡山の結婚式会場で行われた、ベラルーシの閣僚や大使を招いての会議に行きました。
女性県議が中心となって急遽開催したもののようで、200人まで一般人も自由参加でした。

前半は、ベラルーシの非常事態大臣が、おそらくビッグパレットでも使ったものと同じパワーポイント?の資料で、ベラルーシの事例について説明していました。

その後、大使の話や、ベラルーシの子供達の避難の紹介ビデオ放映がされていました。
ベラルーシとしては、福島の子供を招待したいそうです。

後半は、福島の高校生による、体験や事例の紹介でした。
余った時間で、協力している支援団体の紹介があったのですが、どうも主張が広瀬隆氏を招待した所と似通っていました。

ベラルーシといえば、ルカシェンコ大統領がどうしても有名ですが、・・・そういえば、日本には独裁者を女性化したムックが発売されており、風刺画として大変よく出来ています。
いつか偉い人に怒られるまで、頑張り続けて欲しいものです。

(またルカシェンコを日本風に短くしたら「ルカ子」になってしまうのですが、これはシュタインズ・ゲートの「だが男だ」と良く言われるキャラのステマになってしまいます・・・。)
なおこのムック、最初がヒトラーなんですが、絵を以前Ricotteというゲーム(1000円で、今は亡き古川電気で買った、名作です)で「お世話」になった野々原幹先生が担当されていて、泣きたくなりました。

会場にいた女性の一人が、ソードアートオンラインというMMOを題材にしたライトノベルを読んでいました。

私はまだ読んでないので、羨ましいです。
(アニメ化はされていて、その関係で女性作家さんの描いた薄い本は2冊だけ持っているのですが・・・。)

16日の午後には天木直人氏が出た集会が郡山女子大であったらしいのですが、体力が保たず、午後1時18分の電車とバスで、都路に戻りました。
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/45337(天木直人氏の出た集会の映像です)
都路のバス停付近にある民家は、木が「除染」されていました。

都路に戻ってみたら、洗濯機の防雨カバーが、強風でなくなってしまっていました。
戻ってから、選挙のことが気になりつつも、疲れていたので泥のように寝てしまいました。

17日の午前5時に起きたのですが、選挙結果を見て、一時間ほど声が出ませんでした。

そもそも福島県では、原発問題が一番のテーマだったのか、微妙なところです。
私は、一番最初に来ていたのは、無力感がある中でどうするか(ぶっちゃけ、どう復興するか・・・どうしようもねーや)、で、その次に、除染等で発生する公共事業とその分配(ぶっちゃけ、生活、特に仕事)、がテーマになった、と感じました。
http://www.minpo.jp/globalnews/detail/2012121701001513
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121217-00000165-jij-pol
多分私の感想も表層的な見方なのだとは思います。

12月7日にZさんに選挙について訊いてみた時は、「余り日本の政治に興味はないけど・・・自民党勝つでしょう」という答えでした。
ドイツにいるzさんは、先日書いた通り、「中国軍の面子のため、小さい衝突が起きる可能性は高い。そうなれば、簡単には収まんない。そうしたら、(zさんのお父さんの会社の)日本への可能性もなくなっちゃう」と言っていました。
もう尖閣諸島関係で、小さな衝突が起きるのは仕方ない、と覚悟してます。
その上で、なんとか小さな衝突で収まってくれる事と、日中間ができるだけ腹の裡ではわかりあった上での「仲の良い衝突」(←変な表現ですが)である事を願うのみです。

(転載終わり)

福田 博之 投稿日:2013/02/14 21:52

【1072】[1215]桜咲く 散った桜に 桜咲く

「つきてみよ ひふみよいむなや ここのとを とをとおさめて またはじまるを」 (良寛)

桜咲く 散った桜に 桜咲く (筆者)

岡 末雄(会員番号6720) 投稿日:2013/02/13 17:05

【1071】[1214]第3回目投稿(亡き長兄・妹の想い出)

会員番号6720の岡 末雄です。
本来であれば、第3回目投稿は、「私の基本戦略ー日本人民が日本国民となり、真に自由であることを追求していくために」の序文を掲載しなければならないところですが、プロフィールを書いている間に、聡明にして文筆達者であった兄(昭和9年1月2日生まれ、平成24年7月7日死去、享年78)が唯一遺した随筆「亡き長兄・妹の想い出」の存在に気づき、掲載させて頂くこととしました。
戦中・戦後の困難期を生きた人間の魂の叫び、簡潔にして論旨明快、人の心に染みいる名文だと思います。

亡き長兄・妹の想い出   平成19年4月  岡 聰

 先の大戦が終わって間もなく、短い生涯を閉じた長兄と妹のことを、書き遺しておきたい。
 兄 岡 賢一郎 昭和6年10月12日 福岡市姪浜で生まれる。義太          郎・ヤス長男
 妹 岡 利江  昭和14年10月13日 朝鮮大邱府で生まれる。義太         郎・ヤス長女

1 朝鮮へ
 亡父義太郎は、福岡県庁土木部書記であったが、昭和14年2月、朝鮮総督府へ転任となった。一家6人(長男~四男)は、海を渡って大邱の北龍岡町に落ち着いた。利江はここで生まれた。
 しかし、翌年7月には北朝鮮の興南へ転勤となり、(父は)取りあえず単身で任地へ赴いた。
    *大邱(テークー) 釜山(プーサン)の北方
    *興南(フンナム) 北朝鮮・元山(ウォンサン)の北方
 母子6人家族が大邱に残った理由はよく解らない。おそらく先方の官舎の空きがなかったのであろう。ところが父が居なくなると、今まで住んでいた
宿舎を明け渡す破目になり、小路の奥の日当たりの悪い狭い住まいに追いやられた。
 福岡から異境への転居(母は身ごもっていた)ー利江出産ー父の転任ー劣悪な住まいへの引っ越しー僅か1年5か月の間の著しい環境の激変が、母体ひいては胎児・赤ん坊に重大な影響をもたらしたであろうことは疑いない。
 
2 興南
 母子6人が興南へいつ転居したか記憶がない。太平洋戦争が勃発した昭和
16年12月の厳しい寒さの中、小旗を振り振り行進したのをはっきりと憶えているので、遅くとも16年の初期であったろう。

 ♪勝ったぞ日本 断じて勝ったぞ
  米英今こそ撃滅だ
  太平洋の敵陣兵は・・・・

 官舎は九龍里の海辺にあって、目の前には白い砂浜が広がっていた。弟の俊文(五男)は、ここで生まれた。当地には2年半程滞在していたので、利江は興南で2~3歳を過ごしたことになるが、その挙動には憶えがない。推定であるが、この地で既に「結核性脊髄カリエス」にかかっていたものと想われる。

3 釜山
 昭和18年8月末、父の転勤に伴い釜山府の土城町へ引っ越してきた。利江は4歳になろうとしていたが、歩くことはおろか、立つことさえできない悲しさであった。
 戦況は厳しく昭和20年4月、米軍は遂に沖縄に上陸、本土決戦の掛け声のもと、40歳の父にも招集令状が届いた。出征していく父を見送るのは女子供だけ、男性はほとんど招集されていたのである。

  ♪わが大君に召されたる 命栄えある朝ぼらけ
   讃えて送る1億の  歓呼は高く天をつく
   いざ行け 若者 日本男児

 父を真ん中に兄と自分が両脇から腕を組み、大声で歌いながら釜山駅まで送っていった。
 とにかく食べるものに事欠き、少しでも多くの「おから」を手に入れるため、母と2人で代わる代わる並んで、親子7人の空腹を満たした。米の配給も僅かで「どんぐり」の粉で作った真っ黒なパンを弁当にした。兄は成績も良く、国民学校(小学校)6年では副児童長(ナンバー2)、釜山中学に合格し、教練と学徒動員に明け暮れていた。
 そのうち学校も休校となり、終戦を迎えた。しかしながら終戦のとき日本に最も近い釜山に住んでいたことは実に幸運であった。前任地の興南だったら、無事日本へ帰れたかどうか?

4 引揚げ
 順番がきて、終戦の年の10月下旬、釜山港から旧海軍の海防艦で博多港に引揚げてきた。どう乗り継いできたのか、唐津線の東多久駅に着いた時は、日もとっぷり暮れ、真っ暗闇の田舎道を桐野に向け歩き出した。とりあえず、母の叔母ウメの嫁ぎ先である不動寺家を頼ったのである。すでに8か月の身重の母は、利江を背負い両手に荷物、子供たちも各々荷物を背負って、3キロ夜道をとぼとぼと歩き続けた。
 桐野に着いて感心したのは、闇船で送った布団類がちゃんと届いて居たことである。大和魂の一環をかいま見た一事であった。
 時は麦蒔きの季節、14歳の兄は健気にも連日、馴れない鍬を振っていたが、忽ち身体を壊してしまった。不動寺家は、昔の庄屋の子孫で、当時、馬一・ウメ夫婦、長男の良資、それに西山兄弟の5人家族であり、そこへ食べ盛りの親子7人が飛び込んで来たのだから、いかに大百姓と言えども歓迎される筈がない。更には良資さんの結婚を控えていてこともあり、とても長居できる情況ではなかった。

5 入野村へ
 唐津の西方、入野村の鶴牧炭坑に、母の弟、八久保叔父がおり、世話を受けることになった。残務整理を終え帰国した父を加え親子八人、先方の家族5人と合わせ総勢13人が、余り広くもない社宅に犇めきあった。しかし、叔父のお陰で漸く小学校に通えるようになった。実に半年ぶりの教室であった。
 12月10日、六男恒夫誕生。大戦中からの食糧難、終戦、引揚げ、入野への引っ越しと波乱の時期を切り抜けて来たものの、母子への心身への影響は想像に余りある。
 明けて1月、寝たきりになっていた長兄は、食事も与えられず「母ちゃん、母ちゃん」と連日、叫び続け27日、あえなく息をひき取った。享年14歳。顧みれば、兄は満州事変勃発直後に生まれ、以後、日中戦争、太平洋戦争と戦禍の真っ直中に生き、終戦まもなく夭折してしまった。民主主義や自由の何たるかをも知らず、家族の為にと信じ、鍬を振るって倒れてしまったのである。 合掌。

6 西多久へ
 卯一郎叔父が福岡県山田市の炭坑へ移ることとなった機会に、一家は、西多久に独居していた八久保平太郎叔祖父(母の叔父)宅の世話を受けることとなった。昭和21年2月11日、西多久の藁葺き農家に落ち着いた。以後、60有余年、当地が第二の故郷となる。
 平おんちゃん(愛称)は、子供に恵まれず、小城の江島繁二さんを養子に迎えていたが、繁二さんは陸軍に招集され、ビルマ戦線において戦死された。配偶者の今朝千代さんは、子供3人と共に小城駅前で「江島羊羹」を営んでいた。
 平おんちゃんは典型的な水呑み百姓、三反足らずの田圃と一反ほどの畑を耕作していた。採れた米は自己の食い扶持を残して売却、辛うじて現金収入を得ていた。従って我々8人は高価な米を求めることも出来ず、よもぎ団子や芋・南瓜等で飢えを凌いだ。
 利江は既に6歳に達していたが、相変わらず立つことさえ出来ず、いつも同じ着物を着て、囲炉裏の外の片隅に横臥したままであった。もちろん、小学校には通えない。暇をみては母が読み書きや計算を教えていた。ある日、「予科練の歌」の前奏曲を口ずさんでやったら、「そんな曲が大好きや」と目を輝かしていた。貧窮のわが家にはラジオさえなかったのである。

  ♪若い血潮の予科練の 七つボタンは桜に錨
   ぐんと育てば荒海越えて  行くぞ敵陣殴り込み
       *当時は軍歌しか知らなかった。

7 終曲
 この世に生を亨けて7年余、立つこと歩くことさえ出来なかった利江も、輝いた一瞬があった。ある日突然、立って歩けるようになったのである。これぞ、余りにも哀れな妹のために神が力を与え給うたとしか考えようがない。家の前の坪(中庭)を、実に楽しそうに溌剌と走り回っている姿が忘れられない。本人はもちろん、母にとってもこんなに嬉しいことはなかったであろう。
 しかし、その僥倖も3月とは続かなかった。前の小さな池に落ちて水をしたたか飲み、肺炎を患い昭和22年6月16日、天に召された。
 戦時の最も厳しい時期に粗食に耐え、横臥の運命に耐え忍んだ余りにも過酷な短すぎる生涯・・・一体何のために生まれてきたのであろうか?唯ただ冥福を祈るのみである。 合掌

 兄も妹も戦争中の真っ直中に生き、その短い一生を終えた。
それでも、兄はまだ好運だった。小学校を卒業し中学校にも通えた故。妹は余りにも酷すぎた。学校も全く知らず、友だちもできず、やっと歩けるようになった時、もう死が待っていたのだから。
 60年以上たった今でも、幸薄かった兄妹のこと、そして硫黄島や沖縄戦線で亡くなった人々、特別攻撃隊で散っていった20歳(はたち)そこそこの若者達、更には特攻戦艦大和等々、時折偲んではいたたまれない気持ちに襲われるが、最近、「千の風になって」の詩を口ずさむと、気分がすっと晴れるようになった。

   ♪千の風になって  作詞 不詳 訳詞・作曲  新井 満

  私のお墓の前で 泣かないでください。
  そこに私はいません 眠ってなんかいません

        (中略)

  千の風に 千の風になって 
  あの大きな空を 吹きわたっています
                              完

  追悼文(岡 末雄)

 動乱の朝鮮・北朝鮮そして終戦による引揚げ、西多久への定住、その間、耐え難い程の軽蔑・差別・侮辱を受けたと聴いています。 それをおくびにも出さなかった聰兄よ、偉い!
 極貧と飢餓を耐え抜き、2人の愛し子を失いつつも、死を選ぶことなく、家族の為に生き抜いた母よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 青春を知ることなく14歳・7歳の幼さで生を終えた、相まみえることのなかった賢一郎兄・利江姉よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 長兄・妹を早くに失い、6人兄弟の長として艱難辛苦を舐め、最後まで兄弟を助け、その行く末を案じた聰兄よ! 魂の永遠の安息がありますように。
 今、私がこうして安穏と生きておれるのは、あなた方のお陰です。

 平成25年2月13日 まどろみの後、昼食から夕刻にかけて
  岡 末雄(陶岡白雲)拝

 

 

 

 

  

アルルの男・ヒロシ 投稿日:2013/02/13 11:26

【1070】[1213]ブルームバーグ・竹中平蔵・オニール

Abe Aids Bernanke as Japan Seen Buying Foreign Debt – Bloomberg http://t.co/34Bzkx4E

Japan PM Adviser Heizo Takenaka: Yen Still Has Room to

Weaken Further – http://t.co/OfywHG3z http://t.co/gAcj4Svl
ゴールドマンのオニールが「We want Abe!」というニュースレターを出しました。http://t.co/rVukSv3k

以上が重要な記事です。

岡 末雄(会員番号6720) 投稿日:2013/02/13 07:37

【1069】[1212]第2回目投稿

私のつたない第1回目の投稿に目を通して頂いた方への追加です。
殴り書き的にパソコンのキーを叩いたものですから、漏れ(別に漏れてもどうってことないんですが)がありましたので追加しておきます。

6性格の自己判断に追加
 幼年時代から63才になった今日まで変わらない性格が、ユーモア及び悪戯好きです。ただしブラック・ユーモア及び下ネタが多いのが欠点です。

11副島先生との出会いの衝撃・感動
 (8)日本の新聞・テレビの政治・経済記事は一切読まないことにしたこと。と言うより、購読(朝日新聞)自体を止めました。政治・経済その他情報は、学問道場の他は、ネットのYaHOO NEWS、ロイター、ブルームバーグ、ウオール・ストリート・ジャーナル、ファイナンシャル・タイムズから得てています。それと行きつけの病院に置いてある週刊ポスト。
 因みに、何気なしにゲーテの名言を紐解いてみたら、次の言がありました。
「新聞を読まなくなってから、私は心がのびのびし、実に気持ちが良いです。人々は、他人のすることばかり気にかけて、自分の手近の義務を忘れがちなのです。」
新聞を読まなくなった私にとって、全くの快哉です。

 平成25年2月13日朝食前にて 岡 末雄(陶岡白雲)拝  

岡 末雄(会員番号6720) 投稿日:2013/02/13 06:31

【1068】[1211]初めての投稿

 会員番号6720の岡 末雄(実名)です。会員になって2年、やとその気になって(満を持して)投稿しました。まずは私のフェイス・シートです。(ペンネームは陶岡白雲です)
1出自について
 佐賀県多久市西多久町(貧しい寒村です。ただし、平家の落人とかいわゆる部落とかではありません。))にて誕生。
父は福岡県福岡市姪浜の出身で、先祖は大地主で神主と聞いています(ただし、曾爺さん(?)の時代に投資・賭け事に失敗して没落)。
母は、佐賀県多久市中多久(美智子皇后陛下の祖父の出身地です。)の生まれで、家業は染め物屋だったそうです。
私の両親は、当時(昭和初期)としては珍しく恋愛結婚です。事情はこうです。母方の家業が失敗して、夜逃げして福岡市に移り住み、母は食堂で働いていたそうです。そこへ客として父が日参したと言う訳です(母は、とても美しかったです)。
 昭和25年1月8日生まれの63才です。
2誕生地について
 父母は北朝鮮・韓国からの引き揚げ者です。親類・縁者の家を転々として、やっと落ち着いた先が私の故郷です。戦中・戦後の父母と兄達(私は8人兄弟の末子です。故に名前が末雄です。)の艱難辛苦は、涙なくしては語れません。)
3学歴
 昭和43年3月 佐賀県立小城高等学校卒業
 昭和43年4月 九州大学経済学部経済学科入学
 昭和47年3月 九州大学経済学部経済学科卒業(学んだのはマルクス経         済学で、ゼミは景気変動論でした。ただし、大した勉強         はしていません。極貧のため4年間を通して生活費を稼         ぐ必要があったこと、また70年安保・学内封鎖の時代         だったこともありまして・・・言い訳)
4職歴
 安田生命(現明治安田生命)相互会社 1年6か月勤務して退社。
      現会長の関口憲一氏(東大法学部卒)は、安田生命の同期入社      でした。
 福岡県職員 定年(60歳)にて退職(40年間勤務)
5ライフワーク
 (1)音楽、特に合唱活動
 (2)経済学全般、特に景気変動論
 (3)比較宗教学
 (4)国際関係学
 (5)国際投資
6性格の自己判断
 20代、30代、40代、50代と変遷してきていますので、確定したことは言えませんが、天上天下唯我独尊、天の邪鬼(人と特に多数意見に従うことはまずありません)、謙虚であること(謙虚であることを学んだこと)、人と人との間に発生するいかなる事件も、その50%は己の責任であると考えること くらいだと思います。
7今日までの痛恨事
(1)糟糠の妻を卵巣がんで失ったこと(発見が遅れ、助ける事が出来ませんでした。50才でした。)
(2)いかに生きるべきかに苦悶し、又、人間関係に悩み、結果、精神疾患に陥り、思うように(期待されていたように)昇進できなかったこと
(3)61才で自殺した竹馬の友を、そのチャンスがあったのにもかかわらず救えなかったこと
8今日までの快哉事
(1)県職員時代に、他の職員が処理出来ず長年放置されていた事案を解決したこと(全8事案)
(2)私の下に配属された新採用職員を徹底教育し、出藍の譽れの地位に彼がいること。
9好きな言葉 Nec aspera terrent!(どんな困難にも負けるな!)
10尊敬する人物
 釈迦 聖フランチェスコ B・ディズレリー B・ムッソリーニ 田中正 造 マザー・テレサ以上の歴史的偉人 そして亡き我が母  
11読了した副島先生の著書
 平成23年1月 The road to hell is paved with good intensions(この英題が付いていなければ、まず購入することはなかったと思います!)以下全24冊
12副島先生との出会いの衝撃・感動
(1)出る新刊書、出る新刊書のつまらなさに読書人生を半ば放棄していた私を再び、読書の虫に導いてくれたこと
(2)26才の時に衝撃を受けた「Small is Beutiful(人間復興の経済)」以来の私の政治的経済的立場(副島先生と出会うまでは、ぼやーとした立場で、県職員という仕事の上でも極々少数派でありました)が、Libertarianismであり、多くの仲間が入ることを知ったこと
(3)小室直樹先生そして、森嶋通夫先生この偉大な2人の学者を知ったこと
(4)先生の著書「アメリカの秘密 ハリウッド政治映画を読む」「ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ」で先生の博覧強記の才能に驚き、又、映画に関する新たな視座を発見したこと(大学時代、映画研究部に席だけは置いていました)この2著書が、私にとっての副島先生の最高峰です。
(5)同様に、この著書から「薔薇の名前(Umberto Eco著)」を知り、その知性の高さに驚愕したこと。読了すること自体が大変です。日本語訳なのに!目下、2回目に入っています。
(6)ライフワークとなった比較宗教学・国際関係学は、当然ながら先生の著書を通してこれから研究して行こうとする分野です
(7)退職金の運用に先生の著書が感謝仕切れぬ程役だっています。つまり、投資に禁物である「迷い」が消失したのです。

 以上、プロフィールが長くなってしまいましたが、これをもって、私の第1回投稿とさせていただきます。
次回からは、「私の基本戦略ー日本人民が日本国民となり、真に自由であることを追求していくために」と大仰に考えているテーマ(現在20策)を、会員の皆様に読んで頂くに耐えうる程度に仕上がり次第、投稿して行きたいと考えています。
 よろしくお願いいたします。

 平成25年2月13日 丑三つどき 岡 末雄(陶岡白雲)拝