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田中進二郎 投稿日:2013/05/07 04:21

【1123】[1279]オーギュスト・コント対アイン・ランド

「コント社会学の矛盾について」  田中進二郎

オーギュスト・コントを中心に2回書きましたが、コントの実証主義(人定法)とは何かについてバシッと捉えてない感覚が残っていました。アリストテレスとトマス・アキナスの自然法思想との関係を書いているうちに力つきてしまいました。「positivizm とはこうだ」という中心から若干ずれていたと、と思う。

3月の講演会の時に、藤森かよこさんのアイン・ランドの思想の紹介があって、私は『利己主義という気概―エゴイズムを積極的に肯定する』(原題『The Virtue of Selfishness』 ビジネス社)を購入し、読んでいたが、今回コントの社会学・社会倫理学と大きく対立していることに気づいた。端的にコントの名前を挙げて、アイン・ランドが批判している部分がある。例を挙げよう。

(引用開始)第一章「客観主義」とは何か
倫理の裏打ちがない幸福感は単に享楽(p62)より

合理的な倫理の規則を口にしながら、真偽も定かではないうさんくさい倫理を考案したがる哲学者というのは、気まぐれを選択すること以外の何も人類に提供してこなかったのです。気まぐれを選択することは、自分自身のきまぐれを「わがまま」に追及すること(たとえばニーチェの倫理)、もしくは他人のきまぐれに「無私」に奉仕することを意味します。(ベンサムとかミルとかコンテとか、その他の社会的享楽主義者(social hedonist)
の倫理の全部がそうです。

(引用中断)
田中です。上の文でベンサムとミルときているから、ここはオーギュスト・コントのことと解して間違いはないでしょう。
ここでは、コントの社会倫理学の中にある、「利他主義という道徳」を批判している。

(p66より引用開始)
自己利益というものは、犠牲を生み出すことのない人間関係によってのみ与えられるのだという発想は、これら無私無欲を寿ぐ(ことほぐ)人道主義の伝道者の頭には決して浮かんだことがありませんでした。(彼らは同胞愛を達成したい欲望を公言しているのではありますが)。そのような発想は、今後とも彼らの頭の中に浮かぶことはないでしょう。「合理的」という概念が、「価値」とか「欲望」とか「自己利益」や倫理の文脈から省かれる限りは、そうなのでしょう。

(引用終わり)
田中です。コントの人定思想について今度は南原繁(なんばら しげる)著『政治理論史』(岩波書店)を参考にしながら、アイン・ランドと対比させてみよう。

(『政治理論史』(第六章実証主義)p346より引用開始)

コントの社会学、いな、哲学の中心を形作るものは、現在一般に呼ばれる実証主義とは異なって、ひとつの精神原理であり、それはなかんずく実証道徳に求められる。実証主義における道徳法則は、すべての人間生活の「連帯性」(ソリダリテ)において表される。
この法則は人間が社会生活を追及するとき必然に発見される」ものであって、個人的=利己的な本能から独立な衝動に基づく。その愛他的感情をいう点においてヒュームやスミスを継ぐものと考えられるが、彼は利己的感情を拒まないで、むしろこれを前提し、承認する。利己的感情と並んではじめから利他的感情があり、後者はただ社会生活において自由に展開される。人類の経験するすべての発展はこの両者の共同作用にもとづくが、後者が次第に指導的要因となる。

すなわち、人類の発達のはじめにおいて、個人的利己主義は社会的衝動に優位するけれども、社会の進歩にしたがって、人間を動物に結びつける利己的本能はしだいに退いて、ついに人道的感情がそれに変わる。

コントはいわゆる進化論者ではないけれども、この点において、人類の進歩を信ずる。

(引用おわり)
田中です。
ドイツの人定法学者とされるイェリネックの『法・不法及び刑罰の社会倫理的意義』には利他的性質というのは、最初オーギュスト・コントによって用いられた、とある。(第一章社会倫理学 p30より)

(引用開始)
人間には二つの主要な性質がある。よりよく言うなら、その諸性質を二つの群類に区分することができる。一つは、単にそれによって支配される個人にだけ関係するもので、利己的性質であり、他は、なんらかの様態でその結果が行為する個人以外の者の利益となるような行為を促すもので、利他的性質と呼ぶことができるだろう。後者のある程度の存在がなければ、不断に形成されてきた社会構成は考えることはできない。
(中略)
しかしまた、社会はある程度の利己的本能が存在しなければ考えられない。利他心なくしては、決して社会構成分子の交互作用が生じないように、利己心即ち個々人の抵抗能力の完全なる欠如は社会成員の消滅を伴うだろう。かくて自然哲学が引力と抗力とから物質の世界を生じせしめるように、社会科学は利己心と利他心とから社会を構成するのである。

(引用おわり)

田中です。この利他主義に対するアイン・ランドの舌鋒は厳しい。『利己主義という気概』
(第2章 「利他主義者は緊急事態が大好き」 p78)より引用します。

(引用開始)
利他主義の倫理を受け入れていると、次のような結果に苦しむことになる。(その苦しみは、利他主義を受け入れている程度に比例する。)

一、 自尊心が消える。利他主義の倫理を受け入れている人間が価値の領域において一番関心があるのは、自らの人生をいかに生きるかではなく、人生をいかに犠牲にするか、だからである。
二、 他者への敬意が消える。(中略)
三、 生きること、存在することを悪夢のようなものだと思う。利他主義の倫理を受け入れている人間は、人類は「悪意ある宇宙」の中に閉じ込められていると信じているからである。(中略)
四、 倫理に鈍感に無関心になる。道徳に対して希望をなくし冷笑的に無関心になる。(中略)

他人を助けるという問題を、中心的な一番重要な倫理的問題として持ち上げることによって、利他主義は人々の間にある真正で偽りのない仁愛と善意を破壊してきた。

(引用おわり)

田中です。アイン・ランドが批判する利他主義者やヒューマニズムは、私が思うにコントの人定法思想の説く利他主義だけではない。自然法の生み出した人権思想や、自然環境保護思想などの「権利」を主張する人々をも当然意味している。

コントは「権利」を言うことを嫌った。ルソーの「一般意志」を「否定の哲学」として旧制度の破壊には役にたっても、新しい時代の創造の役には立たない、と考えた。コントは社会内の存在としての「義務」を重視した。これはイタリアのジュゼッペ・マッチー二と共通する点である。

イエリネックの言うようにコントの人定法は両者のバランス(ある意味では妥協)を人間が作りだしていこうという思想だ。だから、本来極端な利他主義など人定法からは生まれてこないはずなのだ。しかし、副島先生が今日のぼやき「1374」(会員のみ)で述べられていることはその反対である。引用します。(『学問道場』のサイトの方へ。ごめんなさい)

(引用開始)
ナチュラル・ラー(自然法)派 と闘うべくして出現したのが、ポジティブ・ラー(人定法)派であった。これは神(天)、つまり 自然の摂理(プロビデンス) があって、それが人類の世界をも大きくはつくり上げ、そして神の名と言ってもいいが、そういうので支配しているという考え方に対立して、そうではないと。人間世界は人間たちが自分たちで決めるのだという考え方から、ポジティブ・ラーという思想が起こっていた。

 これが ジェレミー・ベンサム という愚劣(ぐれつ)なイギリスの思想家の流れになり、ベンサマイトとして、ある種のユダヤ人の実感を込めた思想として存在した。しかし、それはドイツではナチス・ヒトラーたちの思想としても実現し、リーガルポジティビズム(法人定主義(人定法主義))派の思想は、今でも大きなドイツやイギリスの法学者の勢力である。

 すなわち、神が決めるのではなくて、人間がみんなでまとまって決めるという思想です。しかし、これは同時にファシズムも生んでしまった恐ろしい思想である。

 リバータリアンの系譜も、大きな流れではどうもこの ポジティブ・ラー の系譜に所属し、神による穏やかな秩序とか、そういうのは認めない。倫理や道徳も個人に所属するのであって、宗教的な権威や人間の人知を超えたところにあるルールからの命令のようなものを拒否する。

(引用終わり)
田中です。私は法思想には疎いので、英独の人定法主義については知りません。
けれども人定法思想が、有機体説とあいまって、ファシズムを生む土壌となっていったことはよくわかります。
またこの流れは「統制経済」やいまの「健康帝国ナチス」的な時代(宮崎 尊 みやざき そん訳)にまで続いている。
南原繁も先ほどの『政治理論史』の中で、コントの思想が、大きな矛盾を抱えていることを指摘しています。(p354)
以下引用して終わりとさせていただきます。
(以下 引用開始)

本来、コントのもっとも重要な意義は、物理学、とくに生物学の類推によって、人間の道徳ならびに政治生活を近代科学的に説明しようとしたことであり、そして人類社会を一種の進化過程において眺め、有機体的な協同生活をもって社会の理想としたことである。
そのために、彼は社会を拘束し来たった過去の神学的絶対命令や形而上学的断言命令に変えて、もっぱら実証科学的な法則をたてようとしたのであった。ここにわれわれは近代社会学の創意と科学的精神の凝集をみるのである。

そして、その理論の根本原理を「連帯性」に求め、社会の協調を力説したことは、後代フランス社会学固有の理論となって受け継がれ、その思想と主張には人道主義的、または広く理想主義的な基調が見られる。
(中略)
しかし、コントの社会学において、道徳および政治生活の中心観念である、「連帯」の理論が、果たしてさような政治社会の根本問題の解決をなしうるであろうか。一般に連帯というのは、要するに、愛他的(利他的)な感情であって、もともと実証科学の上に立とうとする彼が、このような感情に原理的根拠を求めたこと自体、その方法との矛盾を語るものである。
(中略)
(コントのいう実証主義(人定法)は弁証法ではないのであるから、原理的に利己主義と利他主義は両立しえない―田中 引用続けます)

この点において、コントの隠された理想主義=目的的要素を前提するものといわなければならない。それなくして、単に実証的に忠実であるだけで、本来の政治哲学は成立しうるものではない。

近代科学、なかんずく物理学=生物学的方法に出発した彼が、いったん自ら捨てたはずの神学的段階、ないし神秘的段階に最後に立ち返ったことが、そのことを証明している。ここに、彼の認識方法は急転し、いまや理性はかえって感情ないし心情によって、照明されることを要し、ただ主観によってのみ統一的把握は可能となった。

実証主義者コントにとって、ついに科学の上に宗教が位し、認識や行動の上に感情が君臨するようになり、かくして彼の掲げた諸科学は新宗教への準備にほかならなかった。
(引用終わり)
田中進二郎拝

福岡五十鈴 投稿日:2013/05/06 18:13

【1122】[1277]背水の陣を敷く国

>ごめん寝コたんさん

 お財布が空っぽになり、借金で首が回らなくなると、
 精一杯の見栄を張って女を使い倒すんですよ。
 みーんなやること一緒。

 男同士で戦ってるのが普通なのに、
 女のことをとやかく言い出したり、それを取り上げお題目唱え出したら
 人でも国でも背水の陣である証拠だなと思ってます。
 

前田和寿 投稿日:2013/05/06 08:56

【1121】[1276]ゴールドマンサックス証券のキャシー・松井が提唱する「ウーマノミクス」

前田和寿です、

1275記事の成長戦略としての女性活用はゴールドマンサックス証券のキャシー・松井の「ウーマノミクス」からですね。

ウーマノミクス:
http://www.goldmansachs.com/japan/ideas/demographic-change/womenomics-2011/

黒葛原誠二 投稿日:2013/05/05 10:09

【1120】[1274]おばた健太郎氏 東京都議会に挑戦します!

初めて投稿します。学問道場会員の黒葛原です。

東京都議会議員選挙が6月14日告示日、6月23日投票日で行われます。

その選挙に副島先生のお弟子さんであり、小沢一郎政治塾出身であるおばた健太郎

(おばたけんたろう)氏が挑戦します。板橋選挙区、定数:5のところに9人立つ

予定で苦戦が予想されております。そこでお願いなのですが学問道場の会員の方

でお手伝いしていただける方いらっしゃいませでしょうか?有志を募っています。

既に活動ははじまっていまして、来週には事務所開設も予定しております。主にビラ

の手配りや、ポスティングをお願いしたいと考えております。ご興味あるかた下記

メールまでご連絡くださいませ。

info@obaken.com

おばた健太郎ホームページ
http://www.obaken.com/

田中進二郎 投稿日:2013/05/02 09:04

【1119】[1265]コントの社会学とアメリカ政治思想」

「コントの社会学とアメリカ政治思想」
前回は、コントが多大なる影響を受けたサン・シモンの「産業・平和」主義まで書きましたが、今回は、自然法と人定法について書きます。コントは少し後回しで、アリストテレスとキリスト教について書きます。

まず、副島先生の『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房 1995年刊)
P116-「自然法」と「自然権」の対立-より引用します。

(引用開始)
アメリカの法思想・法哲学界は保守派内部が大きく、(A)ナチュラル・ラー natural law(自然法派)と、(B)ナチュラル・ライツ natural rights (自然権)派に分かれるとされている。この大きな事実を、日本の知識人で知っている人の文章を私はこれまでに見たことがない。
(中略)
(A)自然法というのは、ギリシャ古典哲学のアリストテレス(394-322B.C.)にまで遡る大思想であり、その内容は、「人間社会には、それを成立させて、社会を社会、人間を人間たらしめている自然のきまり、掟(おきて)があるはずである」というところから始まる。ただしそのナチュラル・ラーそのものが何であるかは、誰も見た人はいないのだから、この2500年間、少しもはっきりしない。ただそれでも、この「自然法(自然のおきて)」は必ずあるのだと、西洋政治思想史の中でずっと考えられてきた。

さらに中世になって、「この『自然のおきて』ナチュラル・ラーを定めるのは、やはり神(God)である」「自然法は神の意志だ」と説明しなおしたのが、トマス・アクィナス(1225?-74)という13世紀のイタリアの僧侶かつ大神学者である。
彼が書いた本が『神学大全』(スンマ・テオロジカ)である。

(引用終わり)
田中です。トマス・アクィナスの『君主の統治について』(訳 柴田平三郎 岩波文庫)という小著作には、12世紀以降にイスラム世界から、いくつかのルートを経て、ヨーロッパに流入し、受容されたアリストテレスの影響がみられる。トマスはアリストテレスから学ぶことによって、いったい何を主張しようとしているのか。それは、政治という営みが人間にとって「自然的」なことだという観念である。これは中世のアウグスティヌス以後のキリスト教の伝統的教説とは異なっている、と上書の訳者柴田氏は述べている。トマス以前には政治の営みや国家というのは自然なものではなく、政治は「人間による人間の支配」(奴隷制)であり、政治や国家は「必要悪」以外のものではなかった、と柴田氏は言う。
『君主の統治について』(P195~)の解説部分より引用します。

(引用開始)
人間の自然的本性を出発点として、政治や国家の自然性を説くトマスの論理展開は、本書の第一巻第一章に明快にみることができる。今その骨組みのみを単純化して図式で表わせば、次のようになろう。すなわち、

「人間は自然本性上、社会的・政治的動物である。 →他の動物との違いは人間だけが理性と言語をもつ。 →その理性と言語によって社会生活が可能 →しかし、その社会生活に統治は必要。その統治は社会(集団)の共通善に配慮する者によって保障される。→自由人と奴隷の違いは前者が自分自身のために存在し、後者は他者のために存在するところにある。正しい支配は集団の共通善を、不正な支配は支配者の私的善を目指す。
(以下略)」
(引用終わり)

田中です。柴田氏によれば、トマス・アクィナスはアリストテレスの『政治学』『二コマコス倫理学』の「政治的(ポリス的)動物」(politikon zoon)を知悉(ちしつ)したうえで、『神学大全』をはじめとする、自分の著述に「社会的及び政治的動物(animal sociale et politicum)」という言葉を用いたという。
これを、これ以上論究すると「神学(シオロジー)」にどうしてもなってしまうのでやめるがこのときに、キリスト教の中に「原始状態(原罪以前の無垢な状態)」というのがトマスによってインプットされたようである。これが自然法のひとつの流れになっているでしょう。

ところで、副島先生が昨年出された『隠されたヨーロッパの知の歴史―ミケランジェロとメディチ家の裏側』の第二章「押し潰されて消滅させられたプラトン・アカデミー」には
次のような記述がある。(p107)

(引用開始)
ゲミストス・プレトン―(1360~1452:コジモ・ディ・メディチがギリシャからフィレンチェに招いたビザンチンのプラトン学者 プラトンに心酔して自分の名もプレトンと変えた。田中注)は、プラトンの信奉者だから、アリストテレスのフィロソフィーを徹底的に嫌って激しく批判した。おそらく彼は、アリストテレスの中にある金儲け肯定の思想(エクイリブリム。平衡、均衡)と現実主義(リアリズム)を嫌ったはずだ。それとの戦いだった。「金儲け活動を認める」という思想がアリストテレスの思想の中にある。それに対して、「イデア idea」なる言葉であらわす理想主義(アイデアリズム)であるところの、プラトニズムを徹底的に主張した。彼らネオプラトン主義者たちの大半は、アリストテレス思想で作り直されたカトリック神学を強く疑った。このあたりを、もう少し後で解明する。
ここが非常に重要なところだ。
(引用終わり)
田中です。話を最初に戻すと、アリストテレスの「均衡」というのは、キリスト教会(カトリック)でも、アメリカの政治思想(永遠の相の下での保守思想)でも支配者の思想以外ではありえないだろう。「金儲け肯定+現状を守る(リアリズム)」だ。なんだか、日本の禅宗のお坊さんと共通してないだろうか?(『隠された歴史』そもそも仏教とは何ものか? 副島隆彦著 KKベストセラーズ)

ここでもう一度「現代アメリカ政治思想の大研究」に戻ろう。
p145~P148より引用します。

(引用開始)
現代保守思想最大の対決―「自然法」派(A)VS 「人定法」派(D)
(A)ナチュラル・ラー(永遠の相の下の保守思想)派は、「現在のわれわれに救えないものは、救えないものとして放っておくしかない。」「たすける余裕がない以上、たすけられないのだ。」というだろう。もし人類の一部が、環境激変などによって大量死しなければならないのであれば、「それをそのように、そのまま放っておく」ということである。それがナチュラル・ラー=自然の掟だ。これが保守思想の本態であると、私は理解している。

(D)のポジティブ・ラー「人定法」派(ベンサマイト=リバータリアン)は、中小企業の経営者(商売人)や独立自営農民(農園主)の思想であるから、やはり(A)のナチュラル・ロー派よりももっと強固に、「人間にどうしようもない現状は、やはりそのままほおっておくしかない。」「自分の生活を守るので精いっぱいであり、自分の生活が最優先する」(中略)という態度をとる。すなわち、彼らは自力救済を愛するのであり、自助努力の人である。はじめから社会や他人を当てにする人を嫌う。(中略)バーキアン(エドモント・バークの思想)と異なるのは、そのことをためらわずにはっきり言うことである。
(中略)

あれこれの人類博愛理論の本質を見抜いてその悪をよく知っている、という意味では(A)と(D)は共通している。しかし(D)のほうが、庶民の目として(A)よりもはっきりとすべての事態を見抜いているというべきだろう。

(引用終わり)
(A)のナチュラル・ラー派と(B)のナチュラル・ライツ(自然権)派と(c)のヒューマン・ライツ(人権)派ここまでが自然法の立場で、(D)が人定法の立場である、と副島先生は述べられている。

さて、オーギュスト・コントの人定法思想は(C)と(D)の両面をその性質上もっていると考えられる。後期のコントの思想は『実証政治学体系』に代表されているが、これはもう人定法の思想というよりも、人類愛の思想であるといわれている。上の副島先生のアメリカ政治思想図式でいうと、(D)の立場というよりも、(C)のヒューマン・ライツ(人権派)だ。ヨーロッパではドイツの思想家フォイエルバッハのような人類教だ。19世紀ヨーロッパにおける、コントの人定法思想(均衡、保守)と社会進化の思想が、大西洋を渡ったあと、北アメリカ大陸では大きく分かれていったと解釈するべきなのであろう。

山本晴義著『対話近代思想史』によると、1840年代にフーリエ主義が北部アメリカのボストンから始まるが、アメリカ経済の成長とともに、フーリエ社会主義は力を失う。
「アメリカ・フーリエ主義」の後からは南北戦争後までオーギュスト・コントが影響をもつ。『実証主義哲学講義』のいう神学段階、形而上学段階から、アメリカは実証主義の段階に入った、と山本氏は述べている。

そして南北戦争(1861年~65年)の危機が迫るにつれて、南北にコント思想受容に違いがでてくる。
以下『対話近代思想史』(三一書房)p76より引用(一部要約)します。

(引用開始)
奴隷制度を是認している南部ではジョージ・フィッツヒューの『南部の社会学』(1854年)にみられるようにコントの「秩序」の学、「社会静学」の面を強調して、それを正当化する。

北部の方では、コントの進歩の学、「社会動学」の側面を強調し、「社会科学へ」の時代を説く。コントの『実証哲学講義』のマルティノ女史による抄訳(しょうやく)が出たのは1853年。(中略)

南北戦争以前から、「アメリカ社会科学運動」(American Social Science movement)、社会改造運動が高まりが設立される。
そして南北戦争後のアメリカ資本主義のとてつもない繁栄の中で、今度はコントに代わって、ハーバード・スペンサーが時代の寵児(ちょうじ)となった。ハーバード・スペンサーはアメリカを訪米して帰国の際に、「アンドルー・カーネギーとユーマンズ(?)がアメリカの最高の親友だ。」と語ったという。
(引用終わり)

最後に。ついでにイタリア・ルネサンス関連。プレトンの肖像画が、『隠されたヨーロッパの歴史』のp103に掲載されています。その絵の中心にはコジモ・ディ・メディチが馬上にのっていますが、プレトンの周りにはユダヤ人たちも多く書かれているということです。ビザンツ帝国の崩壊を目前にしてフィレンチェにやってきたものもいるでしょうし、メディチ家の商売に関係している者かもしれません。しかし、その中にカバラの教え(ユダヤの秘教)を受け継ぐひとびとがいて、ピーコ・デラ・ミランドラはそれに影響をうけた。(『ミケランジェロの暗号』(ベンジャミン・ブレッグほか著 飯泉恵美子訳 早川書房)より。絵の名前は失念いたしました。

オカルト(occult)という言葉の語源はラテン語で「隠された」という意味だそうです。
だから『隠されたヨーロッパの歴史』『隠された歴史 そもそも仏教とは何者か』の両著作には、オカルト・パワーもたくさん入ってます。(読み過ぎにご注意ください・・・)
  
田中進二郎拝

大城義和 投稿日:2013/04/30 19:17

【1118】[1264]世界像/思考データ

世界像/思考データ

大城義和です。
世界像を、情報通信革命シミュレーションし、仮想世界像を、最構築最構成してみます。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

例えば<私>という、記号がある、世界像という、インフォメーション=情報がある、とする際の、人間のCPU=頭脳、による、コード解釈/翻訳のプロセス、そして、記号という<私>である<私>のヴァーチャル化。情報という<私>が思考する、動学的な情報、と、ジオポリティックス、そして、音楽的で映像的な、感覚や感性の世界像。ここに、<私>というパーソナル・コンピューター的シミュレーションしてゆく、思考パターンデータがあるとする、それは、つまりは、イメージのプログラミングと類似性を持つ、そういう、知性情報の海とでもいうべき、イメージの建築的論理像が、組上げられる、思考パターンの膨大な数々。世界圏という、生産性の情報もある、その時、<私>と<仮想の私>と<世界像>を、思考パターンデータに、情報通信革命シミュレーションする、そうすると、インフォメーションは、有機的構造体として知覚することが出来る。実は、世界像は、変化している。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

世界像は仮想化可能であるし、<私>も仮想化出来るし、<仮想の私>もさらに仮想化する事も出来るかもしれない、つまり、思考であるとか、イメージであるとか、論理はいくらでも構築可能であるし、最構築可能でもあるし、最構成可能でもあるし、論理を解体して、新しい論理を構築してもよい、しかし、だ。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

情報通信革命を信じるか、信じないか。情報通信革命を活用するか、活用しないかが、問題ではない。とするなら、<私>は、仮想化するという、イメージや、感覚とか、感性の可能性を信じるか、信じないか、が、重要な記号ではないのか。論理像や世界像は変化すると思考しても、知性情報の海という、知のメタファーが変容しように視覚出来ても、それは、情報通信革命シミュレーションのようなものであるから、構造/ストラクチュアは変化しない。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

世界は、情報通信革命で構築された、論理世界像に変換することを、思考することも、可能であり、それは、仮想世界像という、世界像の最構築最構成であり、まさに、情報通信革命は、論理の最構築と最構成である。それを、インフォメーションとかインフォメーション・テクノロジー=ITとかいうのであり、情報通信革命による世界圏は、有機的構造体システムでもある。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

冒頭で申し上げた、世界像を、情報通信革命シミュレーションするということは、つまり、現在の我々、人類の、日常生活のことでもある。そして、パーソナル・コンピューターや、インターネットによる、世界生産圏とは、現実の私たち、人間の世界であり、仮想の世界でもあり、つまり、知性情報の海というべき知のインフォメーションは、人類・人間が論理や思考により、構造体を最構築最構成してゆく、という、パターンと近似してゆく。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

我々、人類は、誰にもコントロールされない、ひとりひとりの人間として、生活をすべきである。

大城義和拝

田中進二郎 投稿日:2013/04/29 05:36

【1117】[1263]清水幾太郎著 『オーギュスト・コント』を読んで(1)

今日のぼやき」(1374)日本の「主権者」は一体誰なのか  を読んで
                         田中進二郎      
副島先生が「今日のぼやき」(1374 会員のみ)で『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』の第4章について加筆されています。一部だけ引用させていただきます。

(引用開始)
アメリカ政治思想の対立を、さらにその源流であるイギリスからもたらされたヨーロッパ全体の政治思想と法思想の体系図を含めて明瞭に描き出し、そして説明した。
(中略)

ポジティブ・ラー のもとになった人定法(じんていほう)という思想の原理であるところのポジティビズム(positivism)というものについても私は述べている。これは日本では実証主義という言葉で訳してきたが、これが大変な大間違いで、意味不明である。本当は人間たちが決めるという思想である。それに神(天)が決めるのではないという考え方である。 そして、このポジティビズムをつくったのは、フランスの1830~1840年代の思想家である オーギュスト・コント(1798~1857) という男である。コントが、cause and effect(原因と結果)という考え方に基づいてつくった。そして、このcause and effect(原因と結果)という思想でコーザリティとも言う。AゆえにB、BゆえにC、CゆえにDという論述の仕方を定めた。これが因果律(いんがりつ)と訳すとおかしくなるが、このコーザリティ、原因と結果という考え方で全てのサイエンスの論文を書くことをはっきりと定めた。 だから、このオーギュスト・コントこそは、この人定(法)思想の創始者であり、フランス革命から後40~50年でフランス社会に出現した、学歴は何にもないのだが、10巻本ぐらいのすばらしい大論文集を書いた人物である。このコントのポジティビズムから学んだイギリスやドイツの知識人たちが、社会学(ソシオロジー)とか経済学(エコノミックス)の論述の仕方等をつくっていったのである。だから、このポジティビズムという、神ではない人間が決めるのだという思想を中心に政治思想と国家体制論を考えなければいけないのである。

(引用終わり)

田中です。オーギュスト・コントの人定法思想(ポジティヴィズム 実証主義)が18世紀後半に隆盛した啓蒙主義の自然権(ナチュラル・ライツ)とどのような対立があるのかについて、副島先生が大きな流れを解説してくださっています。

また私が読んだ限りでは、「副島隆彦の論文教室」に鴨川光(かもがわひろし)氏の論文(『サイエンス=学問体系の全体像』の(28から31)(論文番号162から166)の内容がサン・シモンとオーギュスト・コントの社会理論や社会学とは何かについて、鋭く論じておられるので、非常に納得できました。

お二人の文章に匹敵するものなど書けるはずもありませんが、清水幾多郎(しみず いくたろう  1907-1988)の『オーギュスト・コント-社会学とは何か』(岩波新書 黄版)を読み直し、啓蒙主義からコントの社会学への流れについて書こうと、思います。(二回に分けます。)

清水幾太郎は大学2年のとき、(1929年)にオーギュスト・コントの研究を始めたという。
マルクス主義者であった、清水にとってマルクス主義の魅力とは、ブハーリン(1888-1938)に負うところが大きかったという。彼の「史的唯物論」(1921年刊)に影響を受けていた。ブハーリンは、史的唯物論をマルクス主義社会学と考え、マックス・ウェーバーやジンメルを批判した。しかし、1920年代終わりころには、「正統」とはみなされなくなっていた。後にスターリンの権力が増大していくにつれ、トロツキーに続き、ブハーリンも失脚し、1938年裁判によって、スパイと宣告され銃殺される。

清水は教条化していくマルクス主義に深い懐疑を抱き、そのときにマルクス主義そのものが、評判の悪いオーギュスト・コントの「総合社会学」の一種ではないのか、と考えはじめたという。
(この「総合」の意味について、鴨川さんの上記の論文『全体像』(31)をごらんください。)

オーギュスト・コントはフランス革命が破壊した、アンシャン・レジーム(旧体制)側の家系に生まれている。父は土地の徴税官であり、両親ともに熱心なカトリック信者であった上に王党派であった。オーギュスト・コントの本名には、あのスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルからとられた、グザヴィエ(Xavier)がついている。
ロベスピエールが1794年にギロチン刑にかけられた4年後に彼は誕生した。

コントが17歳の青年になったときには、ナポレオンはセント・ヘレナ島に島流しにされ、フランスは王政復古(Restauration)した。25年ぶりにフランスに平和が訪れた。
ナポレオンの軍事的栄光.は消え、啓蒙思想家が説いた人権の思想・社会契約論は19世紀にあっては虚偽になっていた。「コントは若くして老いた」と清水は書いている。

絶対者の思想がこのとき廃棄された。代わって、相対の思想が登場した。コントは「一切は相対的である。それが唯一の絶対的原理である。」と『実証政治学体系』(1824年)で述べている。

19歳のときに、コントはサン・シモンのもとで彼の著述の助手を行うことになる。
サン・シモン(1760-1825)はアメリカ独立戦争の時には、フランスの援軍の砲兵隊長として、アメリカ独立軍とともにイギリス軍と戦い、独立戦争最後の戦い、ヨークタウンの戦いでも活躍した人物である。
フランス革命時には貴族の家柄であったことが災いして牢獄に入れられ、ギロチン刑にかけられるところであったが、ロベスピエールが先に断頭台に消えたために、死なずにすんだ。
彼は革命というものに心底から懲りた人間であった。40歳のサン・シモンがコントに「何があっても革命だけはいけない。」と教えたとき、コントの心の中に転向、あるいは回心が起こった。
時代もまた、革命から、産業発展へと移りかわっていた。啓蒙主義の「自由・平等・博愛」から「産業・平和・自由」へと世論の求めるものも、抽象的な理念から、現実的な利益になっていた。
(以上 同上書p62より)

サン・シモンはこの機を逃さず、1816年に『産業』(全4巻)を著した。この書物の中で
、王侯・貴族ではなく、実際に有益な労働に従事する産業者(les industriels)こそが社会の担い手である、と説いた。
清水幾太郎が指摘するのは、産業革命期に入り、industryの意味が変容したという点である。もとは『発明』を意味する言葉であったが、『機械の使用による物質の変形』へシフトした。のみならず、industrieは意味を大きく乗り越えて、『すべての平和的で有用な活動』をさすようになった、という。(p74)
確かに英語のindustrious にその意味がありますね。

サン・シモンのいう「産業者」は同時にこの二つを指している。すなわち、発明を行う「科学者」(理論)と、「直接的生産者」(実践)を同盟させたのである。

ところでルソーの『エミール』には「市民」と「芸術家」を上手にわけて教育しましょう、という理想教育が説かれている。が、ルソーのいう「市民」とはなんと抽象的な市民であるとか。これに比して、サン・シモンは現実的な人間関係の中から、役に立つ人間を摘出しようとする。その意味で、彼が『階級』の発見者であるといわれている。

『サン・シモン著作集』(森博 訳)の中の『組織者』(1819年)という論文には「サン・シモンの寓話」として知られる話がある。それには「王侯・貴族が何千人といなくなったとしても、世の中はきちんと動くことであろう。だが、フランス国内の数千の産業者がある日突然姿を消してしまったら、一体この国はどうなってしまうだろう。」
というようなことが書かれている。
これはアイン・ランドの『肩をすくめたアトラス』の小説と設定がよく似ているな、と思います。
つまり、サン・シモンの構想する産業社会は社会有用の人間、社会において重きをなす人間と、余剰でもある人間とに大別できるということでしょう。
コントの「人定法(実証主義)」については稿を改めて書きます。
田中進二郎拝

会員番号7646 投稿日:2013/04/26 08:51

【1116】[1262]タイ旅行

副島先生へ送ったメールの転載です。

副島隆彦から

メールをありがとうございます。
○さまが、奥さまと 今の中国人の 世界をすべて見てやろう、という
精神にのっとって タイ国に 旅行なさったとのとこで、 その 体験、目撃談を
ありがとうございます。  私も、なんとか バンコクに 20年ぶりに、そして
チェンマイへも 行かねばと思っています。 この20年で、アセアン諸国が
ものすごく発展しました。  成長国家というものの 凄さを忘れてしまっている
日本で、 私なりに 先進国の 次の生き方を 考えなければいけません。
答えが、みつかりません。  このことが今の私の大きな課題です。

>>>>>
ここ数日程タイへ旅行に行ってきました。

タイには数年前に初めて旅行に行ったきりだったのですが、その時は
中国人(大陸人)はほぼ見かけませんでしたが今回はいたるところで見かけました。
ほとんどはツアー旅行者ですが、中には個人旅行(バックパッカー)をするという
強者もいました。今、タイ旅行は中国ではブームのようですね。

バンコクには華僑、華人がいるせいか中国語を話せる人がそこそこいます。
20-30%位は体感でいるようです。
「タイ語も英語も話せないから、中国語話せる?」と聞くと
「少しなら…」と返って来る事が多々ありました。
東南アジアは華僑、華人が多いと言いますし、広く薄く話せる人がいる
中国語がこの地域の共通語なのかなと思いました。

バンコクにも中国同様日本で就職ができないので流れて来る若者が
かなり多い様でした。私が泊まったホテルの周辺にもコールセンターが
あるようで長期滞在の友人曰く
「大体月給10万円以下じゃないかな、12時間働いてるとかざららしいよ」
との事でした。とはいえ、彼らのお給料は外貨ですし円がさらに安くなったら
「日本国内で働いているより全然いいじゃない」ってなるんだろうなと思います。

求人について。日系の会社がかなり来ているので日本人の募集がかなりあるのは周知の事ですが、
新聞を見ていると中国語の求人もかなりある様でした。月収はそんなには高くない様です。
ハイレベルのもありましたが、さすがに泰中英語流暢等求められるものが高いです。

タイ人の生活(バンコクに住んでいるホワイトカラー&商売人)の生活水準はかなり上がっている様です。
街行く人は、サムスンやアップルのスマホを持って、新聞を見れば○万バーツの海外旅行の記事が
踊っています。タイの活気や暖かい気候を目の当たりにしてお恥ずかしい事に惚れ込んでしまいました。

米軍人が遊ぶ為に開発したと言われているパタヤビーチは、やはり白人が多かったです。
その中で目についたのは英語とロシア語の両併記の看板、張り紙がかなり多かったという事です。
極端な例では露店の果物売りでさえロシア語を表記しているという所でした。
ロシア人の観光客が多くて、白人達の中ではお金を沢山使ってくれるんでしょうね。
街中に溢れている昼間から飲んだくれているファラン(タイ語で(不良)白人)を見ていて、
欧米でも帰れない人、孤独な人多いんだろうな、あっちも大変なんだなと思わされました。

ホテルにある中国語の新聞を読んでいて円は今年対ドル○円位
までいくんじゃないかと書かれていて「まさか~」と思っていましたが
その2,3日後に先生の新刊をバンコクの紀伊国屋で見つけて同じ事が
書かれていてビックリしました。

不動産について。タイに長く住んでいる人によると今バンコク市内の
コンドミニアム(高層マンション)は大体平均○○万円/1平米との事でした。
ここ数年で一気に上がったようで、その人は盛んに「バブルだ!」と
言ってました。外国人が買うというのも多い様です。
タイ語が余程流暢かタイ人の知り合いがいないと騙されるとも言っていました。
不動産に関わる騙しも同じ、こういう所は世界共通なんですね。

金について。旅行終盤頃に金が暴落しました。それから数日後、中国語新聞を読んでいると
「バンコクのチャイナタウンにあるお店に人が殺到」という記事を見てビックリ。
そこのお店は先日チャイナタウンに行った際に偶然中に入って見てきたお店でした。
街角にあるジュエリーショップという感じのお店なのですが、そこに殺到をしたようで
店内おしくらまんじゅうという状態でした。

今回旅行をして、中国語は少しわかる人がいましたが、英語は外国人と
関わる仕事(ホテルの受付とか)をしている人以外はわからない人が多かったです。
もっと楽しみたいなら現地の言葉が出来ないとダメだなって思わされました。
良い機会なので私も少し勉強してみようかと思っています。

以上。

堀内 投稿日:2013/04/22 17:38

【1115】[1260]1年前に金を買った時の話

会員の堀内と申します。
皆様の参考になればと思い、私も1年ほど前に金を購入した時の体験を投稿します。

特に割安な時期でもありませんでしたが、
私はある日突然ふと思い立って、友人を誘い、金地金を買いに行くことに決めました。
本当は手数料がかからないように先物で1kg現物受で買いたかったのですが、
そんな軍資金も無かったので、街の貴金属店で買うことにしました。
家から近いお店2軒に電話。まず手数料を聞き出しました。
値段が安くて電話対応が丁寧だった方のお店で買うことにしました。
「明日そちらへ買いに行こうと思ってます。○gと◎g一つずつ欲しいのですが」と言うと、
「○gはありますが、◎gは現在切らしておりまして、△gしかありません。運が良ければご来店の際に入っているかもしれません」と言われました。
「では○g1つと入荷してれば◎g1つでお願いします。無ければ△gで構いません。」と言うと、
「かしこまりました。今日の価格にするか明日の価格にするか今決めて下さい。」と言われ、
「今日の価格でお願いします」と告げました。

翌日、店頭へ行きますと、「もうすぐ◎gが入荷しますのでしばらくお待ち下さい」と言われ、少しの間待つことに。
そして金が到着し、友人が○g、私は◎g購入しました。
私は領収書にサインを求められただけでしたが、友人は私より多く買ったので、身分証明書の提示も求められました。国家権力に見張られているようで、嫌な気分になりました。
私は身分証明書を求められなかったので、偽名を使えば良かったと後になって後悔しました。
その後家へ帰り、金地金を袋から取り出し、家の秤で計ってみたところ、2g足りませんでした。そういうものなのでしょうか(笑)
皆様も計ってみて下さい。

すっかりお金を使い果たした私は、数日後、中国銀行に行きました。
防衛するほどの資産もありませんが、物珍しさに口座開設しようと思ったのです。
定期預金をしようと考えていましたが、定期預金は10万円からしか受け付けていませんと言われました。
10万円も持っていなかった私は門前払いです。
せっかく来たので手ぶらで帰るのもなぁと思い、普通預金口座を開いて帰りました。
周囲のお客さんは中国人がほとんどと金持ちそうなおじさんでした。

戸田 真一 投稿日:2013/04/22 00:27

【1114】[1259]預金を下ろして、金を買ってみました

会員の戸田と申します。この掲示板に、もうすでに何人かの金の購入体験記が掲載されており、興味深く拝見いたしました。私も、初めて金地金を購入しましたので、せっかくなので投稿いたします。

(引用開始)
私の弟子たちや学問道場の会員になっている貧乏な若者たちも、出来るだけ、銀行で数十万円でもいいですから(有れば、の話ですが)現金を身近に持ちなさい。
(重たい掲示板[1240]今日、4月1日から 預金封鎖=金融統制体制 である。皆、甘い考えを捨てなさい。から)
(引用終了)

この投稿を読んで、私は銀行の貯蓄預金口座の預金を下ろそうと決めました。私は40歳ですから、もう若者ではありませんが、貧乏には違いないです。ただ、自家用車の買い替えのために、少ないですが預金はしています。
銀行口座は、自分の財布のようなものと考えていました。しかし、今となっては、それは副島様が看破するように、「甘い考え」でしょう。当方は考えを改めて、本当に預金封鎖がだれの目にもはっきり分かるようになってからでは遅いので、今のうちに預金を下ろすことにしました。
当方もそれなりに毎日やることがあり、すぐには実行できませんでしたが、4月16日に、銀行で41万円を下ろしました。朝9時に、仙台市内のある銀行へ行くと、まだ誰も窓口を利用していませんでした。銀行員がどういう反応をするのか興味はありました。払い出し用の用紙を窓口に出すと、10分後に、あっさりと、預金が払い出されました。銀行員は、当方に余計な事を話しかけはしませんでした。下ろしたお金は、副島様の助言のとおり、1年後か、2年後にしようと考えている、自家用車の買い替えまで、手元に置いておくことにしました。
ところが、翌日、4月17日の昼間に、職場でインターネットのニュースを見たら、金価格が暴落した、と目に入りました。これまで5千円を超えていたのが、4600円だか4700円台になった、とのことでした。大暴落、だそうです(15日から相場がおかしかったようですから、当方は2日遅れで知ったわけです)。
 この大暴落がなぜ起こったのか、の分析は、とてもできませんが、副島様の『今こそ金そして銀を買う』を買って読んでおりましたので、貴金属の購入には、興味を持っておりました。当方でも、ほんの少しの量なら、買えないこともありません。しかし、金も、1グラム5千円を超えている時に買うのは、なんとも高いな、5千円よりも下がってくれないかな、と思っていました。
 ともかく、せっかくお金を下ろして、50万円手元にあるのだし、金の値段がまた上がり出さないうちに、このさい100グラムの金地金を買うことにしました。金地金の値段と同じ数値を、銀行の通帳の上で見ていることからの、転換です。銀行の普通口座に預けていても、「宇宙刑事ギャバン」のような率の利息が付くだけです(笑)。
 ひょっとしたら、学問道場の重たい掲示板に、何か書いてあるのではないかと、見てみると、金価格が下落した、との書き込みがありました。
さて、地金をどこで買うか、を考えると、街中のキレイすぎて、入ったら落ち着かなさそうな、有名貴金属店に、私の身なりで出向いてゆくよりは、通信販売で買ってしまおうと思い、以前からインターネットで見つけていた、神戸市にある、どこかの国の諜報機関?と同じ略称の店に、注文することにしました。
 4月17日の夜に、その神戸の店に、ホームページ上のフォーマットに書き込んで、金地金100グラムを1枚注文しました。名前と住所、電話番号を書くくらいでした。翌日の午後12時から1時の間に、当方に電話で連絡してもらうことにしました。

 18日に職場で、重たい掲示板を見ると、
(引用開始)
だから金(きん)を今こそ今の安値で買いなさい。まだ買ったことがない人は、100グラム(47万円)でもいいから買いにゆきなさい。
(重たい掲示板[1252]金(きん)が少し下がった今だからこそ買い増すべきである。から)
(引用終了)
との副島様の投稿を見つけました。
12時5分に、昨日インターネットで、地金購入の申し込みをした、神戸の販売店から電話を受けました。
 電子メールで販売金額を書いて、当方に送ったが見てみたか、と尋ねられたので、今は職場にいるため、自宅のパソコンに届いたメールは見ていない、と店員に伝えました。
 今、電話で話している時点での、金地金の値段は、1グラム4,538円、手数料は、5,250円、送料が1,000円、100gの金が1枚だと、460,050円であることを伝えられました。
 ここで注文を確定するなら、その後は、「相場商品のため、注文の取り消しは受け付けません」と伝えられました(時価で取引するものを、注文の取り消しや返品に、客の都合でいちいち応じるわけにはいかない、というのは分かります)。
 その金額で地金を注文する、と店員に伝えました。代金は明日午後2時までに、向こうに届くように払い込むのでよいことを確かめて、注文を受け付けてもらいました。
帰宅して、店からのメールを受信すると、本日1日のうちに、最低1度は、小売価格が変更されていたことがわかりました。当方の金額は、朝一番の金額(4,604円)よりも少し安かったので、まあ良かったと思います。

翌日、口座を持っているのとは違う銀行に行って、送金をしました。銀行員からは、口座を持っていないのであれば、身分証明書を見せてもらう必要がある、と伝えられたので、その通りにしました。印紙を貼った振込申込書の控えを受け取って、送金の手続きは終わりました。これで終わりかと思ったら、行員は私に紙を差しだして、今回の送金の目的は何か、用紙にチェックしてほしい、と話しました。用紙の上には細かい字がたくさん並んでおり、「商品、サービスの対価」という欄にチェックを付けて、銀行を出ました。今回のような送金を、再度この銀行で行うことになれば、今回よりも詳しく、送金の目的を追求されるのかもしれません。
 金地金は、翌日4月20日に、ゆうパックの「セキュリティ便」で届きました。50万円までの実損を補償するものだそうです。兵庫県から宮城県へ、一晩で届いたのですから、速いものです。封を開けると、石福のマーク「文」が刻まれた、100gの金地金が出てきました。安っぽいビニール袋に入っていました。地金は思ったよりも重く感じられました。表面は窪みがいくつも付いており、何度も持ち主が変わったのではないかと思います。この地金にいつか助けられることになるのか、どうなるのか面白そうだなというのと、怖さと半分半分です。
おわり