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田中進二郎 投稿日:2013/05/12 05:35

【1127】[1290]「オーギュスト・コント論」の誤記訂正

5/7に投稿したオーギュスト・コント論の誤記・不備の訂正
田中進二郎

三回にわたり、コントの人定法(positivism: 実証主義)について書かせていただきました。
引用文献について誤記と不備がありましたので、遅くなりましたが訂正します。

×南原繁(なんばら しげる)著『政治理論史』(岩波書店)
⇒○南原繁著『政治理論史』(東京大学出版会 1962年刊)

×『健康帝国ナチス』(宮崎 尊 みやざき そん訳)
⇒○『健康帝国ナチス』(ロバート・プロクター著 宮崎尊 訳 草思社 2003年刊)

×イエリネク著『法・不法及刑罰の社会倫理的意義』
⇒○ゲオルグ・イェリネック著『法・不法及刑罰の社会倫理的意義』大森英太郎(おおもり えいたろう)訳 岩波文庫 1936年刊
訂正は以上です。

三回目の投稿について「アイン・ランドは知っているが、南原繁(なんばら しげる)なんて知らないよ。」と思われた方も多いと思います。
簡単な紹介をつけます。

南原繁(1889-1974年)
香川県生まれ。東京帝国大学法科大学を卒業。在学中に無教会主義の内村鑑三(うちむらかんぞう)を知る。のち、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)と内村鑑三に師事した。卒業後内務省などに官吏として働く。1925年東京帝国大学教授に任じられる。(政治学史・政治学を担当)1945年11月東京大学総長に就任。教育刷新委員会のリーダーのひとりとして、6・3・3・4の学校の教育制度の改革案をつくる。1949年ワシントンにおいて「全面講和」と「永世中立」を訴えて、「単独講和」の吉田茂首相と対立。吉田は南原繁を「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と非難した。1950年代後半以降政治哲学体系の完結を急ぐ。1959年『フィヒテの政治哲学』(岩波書店刊)、1962年『政治理論史』刊。1971年『政治哲学序説』(『南原 繁著作集』 岩波書店刊 に所収)。1974年死去。

以上は、加藤節(かとうたかし)著 『南原 繁―近代日本と知識人』(岩波新書1997年刊)を参考にした。

あと付け加えておくべきこととして、前回(3回目)の投稿内容にコントの後期思想は『人類教』でドイツの哲学者フォイエルバッハと共通している、という観点は勝田吉太郎(かつだ きちたろう)著作集第五巻(ミネルヴァ書房)所収『革命の神話』の「実証科学の限界」(p319~320)を参考にした。

清水幾太郎(しみず いくたろう)にしても、南原繁にしても、勝田吉太郎にしても、「コントのpositivism とは何なのか」という大きな問いに対して答えを与えてはいない、という点で共通していると、感じた。どこまで読んでもpositivismの外回りを巡っているような感覚を味わった。そうは素直に書かなかったところがあるので、拙稿を読んでいただいた方々には「なんかよくわからんぞ」と思われた方も多かっただろう。
上記の大学者たちにしてもわからない難問がpositivismだった、ということが冷静になれば見えてくる。(というか、副島先生にコメントをいただいて、はっと気づいたのですが)

そう考えると私が書いたことも無駄ではなかったと、今はpositiveに捉えています。
田中進二郎拝

寺平 浩 投稿日:2013/05/10 23:51

【1126】[1286]豪国防白書2013

グッダイ マイト、寺平です。
 
こちらオーストラリアは例年に比べて寒いの一言につきます。なんせ雨ばかりですから。

ところで今日のテーマですが先週、政府から発表された国防白書を
日本の新聞から読み解こうとおもいます。

まずはじめに、新聞A
転載開始 

オーストラリア政府は3日、「国防白書」を発表した。

太平洋海域で米中の角逐が深まる中、中国の挑発行為などに対する抑止力を高めるため、新型または改良型の潜水艦12隻の建造を目指す方針を示した。

国防白書の発表は2009年以来。当初は14年の発表を予定していたが、中国が海洋進出を強め、同盟国である米国がアジア太平洋重視の姿勢を鮮明にするなど、地域の戦略環境が変化していることを受け、発表を1年前倒しした。

白書では、インドから東南アジア、北東アジアにかけてのインド洋から太平洋にまたがる地域を、豪州にとって戦略的な「焦点」と位置づけた。
潜水艦建造に加え、電子戦機「EA―18Gグラウラー」12機の購入計画も盛り込んだ。

転載終了

では次に新聞B
転載開始

オーストラリア政府は3日、新しい国防白書を4年ぶりに発表した。中国との経済的な関係が強まったことを背景に、前回の2009年白書より中国の脅威に関する記述を弱めて「敵とみる立場は取らない」と明記。米中の2大国の間でバランスを取ろうとする戦略をにじませた。

 白書は米中関係について、今後数十年にわたり豪州の戦略形成に影響を与えるとの認識を示した。中国の台頭を「歓迎する」としたうえで「米国との同盟と、中国との関係のどちらかを豪州が選ぶべきだとは考えていない」と強調した。豪州にとって戦略的な意味を持つ地域の範囲を「アジア太平洋」から「インド太平洋」に拡大。インドの経済発展や軍事力増強を受けて、インドから東南アジア、北東アジアまでを重視する姿勢を打ち出した。

 日本については「技術や製造業で強みを発揮してきた歴史」に言及。防衛分野での技術協力を探ると表明した。安全保障に詳しいロウイー研究所のローリー・メドカフ理事は「世界有数の性能を持つ日本の潜水艦エンジンなどを示唆したもの」と解説する。

 ギラード首相は記者会見で、国防費を国内総生産(GDP)比で現在の1.56%から「長期的な目標」として2%に増やす考えを表明。スミス国防相は14日に発表する13年度予算に関して「国防費のさらなる削減はない」と強調した。

転載終了

同じテーマで情報源はオーストラリア政府だとおもわれますが内容が違います。

OZ(オージー=オーストラリア)のニュース番組を見ていて的を得ているとおもわれるのがBLOGOSから引用した記事です。

転載開始

オーストラリア政府は5月3日、国防白書2013を発表した。中国の台頭について脅威と見なしていた前政権から180度方針を転換し、中国の影響力拡大を歓迎する内容となった。
 安倍政権はアジア太平洋地域において中国包囲網を形成する外交政策を目指しているが、それとは真っ向から対立する形となった。

白書ではまず、米中関係について触れ、米中関係はアジア太平洋地域のみならず、グローバルな視点において、もっとも重要であると定義している。
 さらに中国に加えてインドの影響力が増大していることに触れ、アジア太平洋地域ではなく、インド太平洋地域という新しい戦略的「弧」が出現しているとしている。

 あっさりとした表現になっているが、これは従来のアジア太平洋地域の地政学的解釈を根本的に変えるインパクトのある出来事である。
  地政学の世界では、旧ソ連というランドパワーの国をシーパワーの国(米国を中心とした同盟国)が円弧の形で包囲するという形を基本的理解としていた。旧ソ連を中国に置き換えれば、従来と同様、中国包囲網を形成することが基本戦略ということになる。現在の安倍政権は基本的な世界観として中国包囲網を念頭に置いている可能性が高い。

 だがインド太平洋地域という新しい「弧」が出現しているという表現は、米国による中国包囲網という考え方が根本的に成立しなくなっている可能性を示唆している。
 白書では「オーストラリア政府は、米中のどちらか一方を選択する必要はない」とし、「中国は敵国とみなさず、平和的台頭を促すことを基本政策とする」と明言している。
  米国は日本から海兵隊を撤退させ、オーストラリアへの再配備を進めている。またシンガポールには最新鋭の沿岸海域戦闘艦の配備を開始した(本誌記事「米国がシンガポールに最新鋭艦を配備。その地政学的意味とは?」参照)。これはいわゆる 対中国シフト(リバランス戦略)の一環ということになるが、この動きは必ずしも中国を敵国と見なし完全包囲する事を目的とはしていない。
 中国を敵として封 じ込めるのではなく、交渉相手と見なし、局地的な海洋権益が保護できれば十分というレベルに米国の基本戦略が後退している可能性がある。オーストラリアが 米中双方との関係を重視するとした今回の白書の表現も、その延長線上にある。

 ギラード首相は国防白書の発表に合わせて「中国の影響拡大を歓迎する」と発言し、中国を敵国とは見なさいと繰り返し強調した。

 安倍政権は、米国を中心に、オーストラリア、東南アジア、インドとの連携を強化し、中国を封じ込める戦略を描いている。だが少なくともオーストラリアの現政権にはその意向がないことがはっきりした。中国と日本が基本的に利害の対立する国であることは、歴史的に見てもはっきりしている。だが少なくとも、米ソ冷戦時代の世界観をベースにした対中外交は完全に行き詰まったといってよいだろう。

 夏の参院選を無事乗り切ることができた場合には、長期政権の可能性も見えてくる。日本は中国敵視を貫き孤立外交も辞さないのか、中国に対してはある程度妥協するのか、そろそろ、現実的な安全保障政策の青写真を提示すべき時期が近付いてきている。

転載終了

OZは今期決算で大幅な赤字が予想されるため、中国の巨大マーケットを無視できる立場にありません。世界は変わりつつあるようです。

最後になりましたが若い世代の方々にはワーキングホリディ制度などを利用して、うちに閉じこもってないで世界の鼓動を直に感じてほしいものです。加地氏の体験記から率直に思いました。

今日のOZ庶民ニュースこれで失礼いたします。

Hiro Teradaira

加地龍太 投稿日:2013/05/10 16:57

【1125】[1285]東南アジア遠征記

加地です。

昨日(というか本日の夜中)に引き続いて東南アジア遠征記を記載させていただきます。

3月24日(日)
ルアンバパーンで初めての朝を向かえ、ゲストハウスの人が作ってくれた朝食を食べた。
ルアンバパーンではHさんとは別行動をとり、昼間は寺や商店街を散策した。
ラオスの寺院は日本のものと比べて派手なデザインで建築されたものが多かった。
これは、日本の仏教の流れが大乗仏教であるのに対して東南アジア諸国は小乗仏教であることに起因しているのであろうかと思う。
釈迦が唱えた仏教の本質的な教えは小乗仏教に流れていると言うが、確かに小乗仏教の寺院の方が大乗仏教の寺院よりも宗教施設という雰囲気が強かったように個人的には思う。

午後は暑かったので適当な土産屋や喫茶店に入って過ごした。
夕食はゲストハウスの近くに出ていた屋台でフライド・ダック(アヒル)を買ってそれを食べた。

3月25日(月)
昨日と同じように8時30分にゲストハウスで朝食をとり、その後ダウンタウンへ向かった。
街中で、道に鍋や包丁や俎板などの調理道具を出して料理をしている中年女性たちを見かけた。
ご近所同士で飯でも食いながら親睦でも深めているのだろうか、と邪推しながらその横を通り過ぎ、数十分ふらついた。

ふらついている最中に、とある家の娘たち(イニシャルVとP)と知り合った。
話しているうちにVの家に行くことになり、その家で数時間過ごした。
お互いに片言のEnglishで話しつつ、この二人にラオス語を少し教えてもらった。

その家を出て夕時の街中をふらついている内に辺りが薄暗くなってきた。
とある通りに出ると、出店がたくさん出ている所に出た。その雰囲気は、まるで日本の祭りのようだった。
聞く所によると、これはナイト・マーケットと言い毎日やっていることであるらしい。
その通りでクレープとサンドイッチを買って食いながら出店を見てまわった。
人形や服やアクセサリーなどがたくさん売っていた。

ふらついている最中にTというラオス人の女性と知り合った。VとPから教えてもらったラオス語と片言の英語で話している内に少し打ち解け、その女性の家に行くことになった。

Tは、ルアンバパーンから少し離れた所にある村の出身で、父と母と妹との4人家族で、出稼ぎにルアンバパーンにきて一人暮らしをしているという。
年齢は19歳であると言っていた。日本では学生であって良い年齢で、家のために働いているTは立派だと思った。

翌日、私はタイのチェンマイに行く予定であったので、手持ちのラオスの通貨KIP(キップ)をすべてTに渡した。
彼女は最初は遠慮していたが、最後は快く受け取ってくれた。
Tと別れてゲストハウスに戻り、明日の移動に備えて眠った。

3月26日(火)
朝9時頃に目覚め、ゲストハウスで朝食を食べ、トゥクトゥク(馬車の車の部分をバイクで引く乗り物)でラオス空港まで行って飛行機でラオスからタイへ向かった。
チェンマイ空港に降り、一万円をタイの通貨バーツに両替し、ゲストハウスに向かった。
交通手段はそのゲストハウスの人間が運転する車である。
トヨタのワゴン車だった。

ゲストハウスはチェンマイの山奥にあるが、空港からゲストハウスまでの途中でチェンマイの街中を通った。
ラオスと比べて経済が発展している分、道路がコンクリートで舗装されていて土埃が舞っていなかった。

昼食をとっていなかったので、途中の大きなデパートに寄って「タイスキ」という名の鍋料理を食べた。
日本のすき焼きをベースにした料理らしいが、すき焼きというよりも しゃぶしゃぶに近い料理だと思った。
鍋の火っもガスコンロを使い、店内にはクーラーが効いていた。
ラオスでは店内にクーラーが効いていたのはディスコくらいだったが、1つ国を跨いだだけでこれだけ違うものか、と思った。

食後、Hさんが酒を買うということでセブンイレブンに寄った。
しかし、タイでは午後17時以降でなければアルコールは売ってはいけないという法律があり、買えなかった。(レストランでは17時より前でもアルコールは飲める)
やむをえず、セブンイレブンを出て個人経営の酒屋に行ってビール(Heineken)とウイスキーを買ってゲストハウスへ向かった。
個人経営の店なら、チェーンストアのような縛りがないので17時前であっても酒を売ってくれた。
ゲストハウスに着き、近くの出店で買った魚や茹で卵を食べながら酒を飲んだ。

山の奥にあるゲストハウスゆえ、夜眠るときは真暗だった。
梟の鳴き声などを聞きながら眠った。

続きは後日、記載させていただきます。

加地龍太 拝

加地龍太 投稿日:2013/05/10 00:38

【1124】[1284]東南アジア遠征記

こんばんは、加地です。

私は今年の3月20日(水)から4月12日(金)までの約3週間、東南アジア(ラオス、タイ、カンボジアの三ヶ国)を遠征しました。
海外には、中国の北京に1ヶ月、インドのプネに一1ヶ月滞在した経験はあったのですが、泊まる施設をたびたび変えたり旅先で国境を越えたりする、いわゆる旅をするという形で海外遠征をしたのは初めての体験でした。

以下に簡単な遠征記を記載させていただきます。

~東南アジア遠征記~

3月20日(水)
早朝、私は成田空港へ向かって家を出た。
午前10時に出発する飛行機に乗る予定であったので、午前7時には空港に着くようにして行った。
空港でHさんと落ち合い、飛行機に乗ってベトナムのハノイ空港まで飛んだ。
ハノイは経由のために立ち寄っただけだが、フライトまで2時間ほど空き時間があったので休憩所でHeinekenを飲んだ。
外国のビールを飲んだのは初めてだったが、喉が渇いていたこともありとても美味かった。

フライトの時間までそのように適当に時間を潰し、ラオスの首都ビエンチャン行きの飛行機に搭乗してビエンチャン空港へ向かった。
ビエンチャン空港でイミグレーション(入国審査)をして入国し、タクシーでホテルまでゆき、チェックインをした後に夕食をとる店を探してHさんとホテルの近辺を歩いた。
リバーサイドホテルだったので、傍にタイとの国境を分ける川があった。
しかし、時期的に川に水がなく干上がっていた。

数分歩いた先にあったしゃぶしゃぶ屋に入ってそこで夕食を食した。
鶏肉と牛肉と野菜のしゃぶしゃぶを食べたが、とても美味かった。
東南アジアの牛肉は、日本の牛肉に比べて味がさっぱりしていた。
そこの店員さん(29歳の女性)とHさんが帰り際に話をして、明日の夜また来ると言って店を出た。
その後はホテルに帰って就寝した。

21日(木)
本日の昼間は、23日にここビエンチャンからルアンバパーンへ向かうバスのチケットを買うために市内を歩いた。
数件の旅行代理店を見つけ、値段が尤も安かった店でチケットを買った。
船で行くチケットもあったようだが、この時期は川の水が少なくなっていてバスのチケットしか売っていなかった。

昼飯は屋台で売っていたものを適当に買って食べた。食中りが少し不安だったが、特に何の問題もなく済んだ。
その後、暑さに参ってホテルに戻り休んだ。
夜は昨日と同じしゃぶしゃぶ屋で夕食を食べた。
食後、帰り際にHさんが昨日の店員さん(イニシャルM)と話していたら、何やらMと彼女の妹(イニシャルE)とご友人とビールを飲むことになった。
お互いに日本語とラオス語を教え合いながら他愛のない話をした。印象的だったのは、ラオス語で「チンチン」とは英語で「really」、日本語で「本当に」という意味であることを教わったことだった。

彼女たちは、ルアンバパーンから南に行った所にある村の出身で、出稼ぎに来ているのだという。
村の家族に仕送りをしているとのことであった。
もう一つ印象的だったのは、彼女たちの熱心さである。
私やHさんが、この単語や言葉は日本語ではこういう意味だ、ということを伝えたら、彼女たちはスマートフォンにその意味をメモしていた。
ビエンチャンは、外国人が使う金銭が重要な利潤になるようである。
それゆえ、外国人たちの言語を覚えようという意識が強いのではないかと思った。
私はここに、東南アジアの国民たちの「生きる意志」を見た気がした。

22日(金)
今日は、昨日知り合ったMたちとずっと一緒に行動した。
昼はトゥクトゥクという乗り物に乗って市内まで行き、ベトナム料理を食べた。
ベトナム料理は調味料がとても甘かったのが印象的だった。

その後、彼女たちの仕事の時間になるまでの間、ビアガーデンで飲むことになった。
まず、ビアガーデンの下にあるカラオケ屋に入って彼女たちの歌を聞いた。
タイ語やラオス語の歌だったので意味は分からなかったが、皆さんとても上手かったと思う。
カラオケ屋の中はクーラーが効いていてとても涼しかった。外の気温は35度くらいあったように思う。この時期、東南アジア諸国は真夏で最も暑い時期である。

カラオケ屋から出てビアガーデンに移り、彼女たちの仕事の時間までビールを飲んだ。
彼女たちの仕事の時間が近くなってきたのでその店を出て、夕食はまた彼女たちの店で食べた。3日連続で同じ店で夕食を食べることになるとは思っていなかったが、それも良いと思った。
夕食後、Hさんはホテルに帰ったが、私と彼女たちで地元のディスコに行った。
翌日はここ、ビエンチャンからルアンバパーンへ行くことになっていたので、送別会をしてくれたのだった。

ディスコもクーラーが良く効いていたので涼しかった。むしろ、少し寒いくらいに感じた。
夜の2時近くにディスコを出て、彼女らの友人のバイクでホテルまで送ってもらった。
別れ際、皆さんが「I hope that you come back here.」と言ってくれたことが嬉しかった。
私はバイクで去ってゆく皆さんを見送ったあと、ホテルに入って眠った。

23日(土)
今日の朝は早かった。朝7時にバスに乗る予定だったので、6時15分に起きて準備をした。
が、どうやらBooking(予約)をした際にホテル名が間違えて伝わっていたらしく、ホテルにピックアップがこなかった。バスのチケットに書かれていたホテルに行こうとして、私たちが泊まったホテルの傍にいたとある旦那に頼んで車で走ってもらったのだが、結局行き着くことはできなかった。

幸運なことに車で移動した先に私たちがバスのチケットを買った会社の支店があり、そこの店員に頼んで店の前にピックアップをまわしてもらえることになった。
ピックアップの車がきて、それに乗ってバス乗り場に行き、中国製の大型バスに乗り込み10時間ほど山道を走った。
この10時間は長かったが、この経験が今後の東南アジアでのバスの長旅に対する免疫となった。

ルアンバパーンに着いたらすぐにゲストハウスに行き、近くの店で夕食をとった。その店でHさんからラオス式の食べ方とタイ式の食べ方の一部を教わった。
昨日と今日一日バスに揺られた疲れをとるために、ゲストハウスに戻ったら洗濯をして眠った。

今回はここまでとさせていただきます。

加地龍太 拝

田中進二郎 投稿日:2013/05/07 04:21

【1123】[1279]オーギュスト・コント対アイン・ランド

「コント社会学の矛盾について」  田中進二郎

オーギュスト・コントを中心に2回書きましたが、コントの実証主義(人定法)とは何かについてバシッと捉えてない感覚が残っていました。アリストテレスとトマス・アキナスの自然法思想との関係を書いているうちに力つきてしまいました。「positivizm とはこうだ」という中心から若干ずれていたと、と思う。

3月の講演会の時に、藤森かよこさんのアイン・ランドの思想の紹介があって、私は『利己主義という気概―エゴイズムを積極的に肯定する』(原題『The Virtue of Selfishness』 ビジネス社)を購入し、読んでいたが、今回コントの社会学・社会倫理学と大きく対立していることに気づいた。端的にコントの名前を挙げて、アイン・ランドが批判している部分がある。例を挙げよう。

(引用開始)第一章「客観主義」とは何か
倫理の裏打ちがない幸福感は単に享楽(p62)より

合理的な倫理の規則を口にしながら、真偽も定かではないうさんくさい倫理を考案したがる哲学者というのは、気まぐれを選択すること以外の何も人類に提供してこなかったのです。気まぐれを選択することは、自分自身のきまぐれを「わがまま」に追及すること(たとえばニーチェの倫理)、もしくは他人のきまぐれに「無私」に奉仕することを意味します。(ベンサムとかミルとかコンテとか、その他の社会的享楽主義者(social hedonist)
の倫理の全部がそうです。

(引用中断)
田中です。上の文でベンサムとミルときているから、ここはオーギュスト・コントのことと解して間違いはないでしょう。
ここでは、コントの社会倫理学の中にある、「利他主義という道徳」を批判している。

(p66より引用開始)
自己利益というものは、犠牲を生み出すことのない人間関係によってのみ与えられるのだという発想は、これら無私無欲を寿ぐ(ことほぐ)人道主義の伝道者の頭には決して浮かんだことがありませんでした。(彼らは同胞愛を達成したい欲望を公言しているのではありますが)。そのような発想は、今後とも彼らの頭の中に浮かぶことはないでしょう。「合理的」という概念が、「価値」とか「欲望」とか「自己利益」や倫理の文脈から省かれる限りは、そうなのでしょう。

(引用終わり)
田中です。コントの人定思想について今度は南原繁(なんばら しげる)著『政治理論史』(岩波書店)を参考にしながら、アイン・ランドと対比させてみよう。

(『政治理論史』(第六章実証主義)p346より引用開始)

コントの社会学、いな、哲学の中心を形作るものは、現在一般に呼ばれる実証主義とは異なって、ひとつの精神原理であり、それはなかんずく実証道徳に求められる。実証主義における道徳法則は、すべての人間生活の「連帯性」(ソリダリテ)において表される。
この法則は人間が社会生活を追及するとき必然に発見される」ものであって、個人的=利己的な本能から独立な衝動に基づく。その愛他的感情をいう点においてヒュームやスミスを継ぐものと考えられるが、彼は利己的感情を拒まないで、むしろこれを前提し、承認する。利己的感情と並んではじめから利他的感情があり、後者はただ社会生活において自由に展開される。人類の経験するすべての発展はこの両者の共同作用にもとづくが、後者が次第に指導的要因となる。

すなわち、人類の発達のはじめにおいて、個人的利己主義は社会的衝動に優位するけれども、社会の進歩にしたがって、人間を動物に結びつける利己的本能はしだいに退いて、ついに人道的感情がそれに変わる。

コントはいわゆる進化論者ではないけれども、この点において、人類の進歩を信ずる。

(引用おわり)
田中です。
ドイツの人定法学者とされるイェリネックの『法・不法及び刑罰の社会倫理的意義』には利他的性質というのは、最初オーギュスト・コントによって用いられた、とある。(第一章社会倫理学 p30より)

(引用開始)
人間には二つの主要な性質がある。よりよく言うなら、その諸性質を二つの群類に区分することができる。一つは、単にそれによって支配される個人にだけ関係するもので、利己的性質であり、他は、なんらかの様態でその結果が行為する個人以外の者の利益となるような行為を促すもので、利他的性質と呼ぶことができるだろう。後者のある程度の存在がなければ、不断に形成されてきた社会構成は考えることはできない。
(中略)
しかしまた、社会はある程度の利己的本能が存在しなければ考えられない。利他心なくしては、決して社会構成分子の交互作用が生じないように、利己心即ち個々人の抵抗能力の完全なる欠如は社会成員の消滅を伴うだろう。かくて自然哲学が引力と抗力とから物質の世界を生じせしめるように、社会科学は利己心と利他心とから社会を構成するのである。

(引用おわり)

田中です。この利他主義に対するアイン・ランドの舌鋒は厳しい。『利己主義という気概』
(第2章 「利他主義者は緊急事態が大好き」 p78)より引用します。

(引用開始)
利他主義の倫理を受け入れていると、次のような結果に苦しむことになる。(その苦しみは、利他主義を受け入れている程度に比例する。)

一、 自尊心が消える。利他主義の倫理を受け入れている人間が価値の領域において一番関心があるのは、自らの人生をいかに生きるかではなく、人生をいかに犠牲にするか、だからである。
二、 他者への敬意が消える。(中略)
三、 生きること、存在することを悪夢のようなものだと思う。利他主義の倫理を受け入れている人間は、人類は「悪意ある宇宙」の中に閉じ込められていると信じているからである。(中略)
四、 倫理に鈍感に無関心になる。道徳に対して希望をなくし冷笑的に無関心になる。(中略)

他人を助けるという問題を、中心的な一番重要な倫理的問題として持ち上げることによって、利他主義は人々の間にある真正で偽りのない仁愛と善意を破壊してきた。

(引用おわり)

田中です。アイン・ランドが批判する利他主義者やヒューマニズムは、私が思うにコントの人定法思想の説く利他主義だけではない。自然法の生み出した人権思想や、自然環境保護思想などの「権利」を主張する人々をも当然意味している。

コントは「権利」を言うことを嫌った。ルソーの「一般意志」を「否定の哲学」として旧制度の破壊には役にたっても、新しい時代の創造の役には立たない、と考えた。コントは社会内の存在としての「義務」を重視した。これはイタリアのジュゼッペ・マッチー二と共通する点である。

イエリネックの言うようにコントの人定法は両者のバランス(ある意味では妥協)を人間が作りだしていこうという思想だ。だから、本来極端な利他主義など人定法からは生まれてこないはずなのだ。しかし、副島先生が今日のぼやき「1374」(会員のみ)で述べられていることはその反対である。引用します。(『学問道場』のサイトの方へ。ごめんなさい)

(引用開始)
ナチュラル・ラー(自然法)派 と闘うべくして出現したのが、ポジティブ・ラー(人定法)派であった。これは神(天)、つまり 自然の摂理(プロビデンス) があって、それが人類の世界をも大きくはつくり上げ、そして神の名と言ってもいいが、そういうので支配しているという考え方に対立して、そうではないと。人間世界は人間たちが自分たちで決めるのだという考え方から、ポジティブ・ラーという思想が起こっていた。

 これが ジェレミー・ベンサム という愚劣(ぐれつ)なイギリスの思想家の流れになり、ベンサマイトとして、ある種のユダヤ人の実感を込めた思想として存在した。しかし、それはドイツではナチス・ヒトラーたちの思想としても実現し、リーガルポジティビズム(法人定主義(人定法主義))派の思想は、今でも大きなドイツやイギリスの法学者の勢力である。

 すなわち、神が決めるのではなくて、人間がみんなでまとまって決めるという思想です。しかし、これは同時にファシズムも生んでしまった恐ろしい思想である。

 リバータリアンの系譜も、大きな流れではどうもこの ポジティブ・ラー の系譜に所属し、神による穏やかな秩序とか、そういうのは認めない。倫理や道徳も個人に所属するのであって、宗教的な権威や人間の人知を超えたところにあるルールからの命令のようなものを拒否する。

(引用終わり)
田中です。私は法思想には疎いので、英独の人定法主義については知りません。
けれども人定法思想が、有機体説とあいまって、ファシズムを生む土壌となっていったことはよくわかります。
またこの流れは「統制経済」やいまの「健康帝国ナチス」的な時代(宮崎 尊 みやざき そん訳)にまで続いている。
南原繁も先ほどの『政治理論史』の中で、コントの思想が、大きな矛盾を抱えていることを指摘しています。(p354)
以下引用して終わりとさせていただきます。
(以下 引用開始)

本来、コントのもっとも重要な意義は、物理学、とくに生物学の類推によって、人間の道徳ならびに政治生活を近代科学的に説明しようとしたことであり、そして人類社会を一種の進化過程において眺め、有機体的な協同生活をもって社会の理想としたことである。
そのために、彼は社会を拘束し来たった過去の神学的絶対命令や形而上学的断言命令に変えて、もっぱら実証科学的な法則をたてようとしたのであった。ここにわれわれは近代社会学の創意と科学的精神の凝集をみるのである。

そして、その理論の根本原理を「連帯性」に求め、社会の協調を力説したことは、後代フランス社会学固有の理論となって受け継がれ、その思想と主張には人道主義的、または広く理想主義的な基調が見られる。
(中略)
しかし、コントの社会学において、道徳および政治生活の中心観念である、「連帯」の理論が、果たしてさような政治社会の根本問題の解決をなしうるであろうか。一般に連帯というのは、要するに、愛他的(利他的)な感情であって、もともと実証科学の上に立とうとする彼が、このような感情に原理的根拠を求めたこと自体、その方法との矛盾を語るものである。
(中略)
(コントのいう実証主義(人定法)は弁証法ではないのであるから、原理的に利己主義と利他主義は両立しえない―田中 引用続けます)

この点において、コントの隠された理想主義=目的的要素を前提するものといわなければならない。それなくして、単に実証的に忠実であるだけで、本来の政治哲学は成立しうるものではない。

近代科学、なかんずく物理学=生物学的方法に出発した彼が、いったん自ら捨てたはずの神学的段階、ないし神秘的段階に最後に立ち返ったことが、そのことを証明している。ここに、彼の認識方法は急転し、いまや理性はかえって感情ないし心情によって、照明されることを要し、ただ主観によってのみ統一的把握は可能となった。

実証主義者コントにとって、ついに科学の上に宗教が位し、認識や行動の上に感情が君臨するようになり、かくして彼の掲げた諸科学は新宗教への準備にほかならなかった。
(引用終わり)
田中進二郎拝

福岡五十鈴 投稿日:2013/05/06 18:13

【1122】[1277]背水の陣を敷く国

>ごめん寝コたんさん

 お財布が空っぽになり、借金で首が回らなくなると、
 精一杯の見栄を張って女を使い倒すんですよ。
 みーんなやること一緒。

 男同士で戦ってるのが普通なのに、
 女のことをとやかく言い出したり、それを取り上げお題目唱え出したら
 人でも国でも背水の陣である証拠だなと思ってます。
 

前田和寿 投稿日:2013/05/06 08:56

【1121】[1276]ゴールドマンサックス証券のキャシー・松井が提唱する「ウーマノミクス」

前田和寿です、

1275記事の成長戦略としての女性活用はゴールドマンサックス証券のキャシー・松井の「ウーマノミクス」からですね。

ウーマノミクス:
http://www.goldmansachs.com/japan/ideas/demographic-change/womenomics-2011/

黒葛原誠二 投稿日:2013/05/05 10:09

【1120】[1274]おばた健太郎氏 東京都議会に挑戦します!

初めて投稿します。学問道場会員の黒葛原です。

東京都議会議員選挙が6月14日告示日、6月23日投票日で行われます。

その選挙に副島先生のお弟子さんであり、小沢一郎政治塾出身であるおばた健太郎

(おばたけんたろう)氏が挑戦します。板橋選挙区、定数:5のところに9人立つ

予定で苦戦が予想されております。そこでお願いなのですが学問道場の会員の方

でお手伝いしていただける方いらっしゃいませでしょうか?有志を募っています。

既に活動ははじまっていまして、来週には事務所開設も予定しております。主にビラ

の手配りや、ポスティングをお願いしたいと考えております。ご興味あるかた下記

メールまでご連絡くださいませ。

info@obaken.com

おばた健太郎ホームページ
http://www.obaken.com/

田中進二郎 投稿日:2013/05/02 09:04

【1119】[1265]コントの社会学とアメリカ政治思想」

「コントの社会学とアメリカ政治思想」
前回は、コントが多大なる影響を受けたサン・シモンの「産業・平和」主義まで書きましたが、今回は、自然法と人定法について書きます。コントは少し後回しで、アリストテレスとキリスト教について書きます。

まず、副島先生の『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房 1995年刊)
P116-「自然法」と「自然権」の対立-より引用します。

(引用開始)
アメリカの法思想・法哲学界は保守派内部が大きく、(A)ナチュラル・ラー natural law(自然法派)と、(B)ナチュラル・ライツ natural rights (自然権)派に分かれるとされている。この大きな事実を、日本の知識人で知っている人の文章を私はこれまでに見たことがない。
(中略)
(A)自然法というのは、ギリシャ古典哲学のアリストテレス(394-322B.C.)にまで遡る大思想であり、その内容は、「人間社会には、それを成立させて、社会を社会、人間を人間たらしめている自然のきまり、掟(おきて)があるはずである」というところから始まる。ただしそのナチュラル・ラーそのものが何であるかは、誰も見た人はいないのだから、この2500年間、少しもはっきりしない。ただそれでも、この「自然法(自然のおきて)」は必ずあるのだと、西洋政治思想史の中でずっと考えられてきた。

さらに中世になって、「この『自然のおきて』ナチュラル・ラーを定めるのは、やはり神(God)である」「自然法は神の意志だ」と説明しなおしたのが、トマス・アクィナス(1225?-74)という13世紀のイタリアの僧侶かつ大神学者である。
彼が書いた本が『神学大全』(スンマ・テオロジカ)である。

(引用終わり)
田中です。トマス・アクィナスの『君主の統治について』(訳 柴田平三郎 岩波文庫)という小著作には、12世紀以降にイスラム世界から、いくつかのルートを経て、ヨーロッパに流入し、受容されたアリストテレスの影響がみられる。トマスはアリストテレスから学ぶことによって、いったい何を主張しようとしているのか。それは、政治という営みが人間にとって「自然的」なことだという観念である。これは中世のアウグスティヌス以後のキリスト教の伝統的教説とは異なっている、と上書の訳者柴田氏は述べている。トマス以前には政治の営みや国家というのは自然なものではなく、政治は「人間による人間の支配」(奴隷制)であり、政治や国家は「必要悪」以外のものではなかった、と柴田氏は言う。
『君主の統治について』(P195~)の解説部分より引用します。

(引用開始)
人間の自然的本性を出発点として、政治や国家の自然性を説くトマスの論理展開は、本書の第一巻第一章に明快にみることができる。今その骨組みのみを単純化して図式で表わせば、次のようになろう。すなわち、

「人間は自然本性上、社会的・政治的動物である。 →他の動物との違いは人間だけが理性と言語をもつ。 →その理性と言語によって社会生活が可能 →しかし、その社会生活に統治は必要。その統治は社会(集団)の共通善に配慮する者によって保障される。→自由人と奴隷の違いは前者が自分自身のために存在し、後者は他者のために存在するところにある。正しい支配は集団の共通善を、不正な支配は支配者の私的善を目指す。
(以下略)」
(引用終わり)

田中です。柴田氏によれば、トマス・アクィナスはアリストテレスの『政治学』『二コマコス倫理学』の「政治的(ポリス的)動物」(politikon zoon)を知悉(ちしつ)したうえで、『神学大全』をはじめとする、自分の著述に「社会的及び政治的動物(animal sociale et politicum)」という言葉を用いたという。
これを、これ以上論究すると「神学(シオロジー)」にどうしてもなってしまうのでやめるがこのときに、キリスト教の中に「原始状態(原罪以前の無垢な状態)」というのがトマスによってインプットされたようである。これが自然法のひとつの流れになっているでしょう。

ところで、副島先生が昨年出された『隠されたヨーロッパの知の歴史―ミケランジェロとメディチ家の裏側』の第二章「押し潰されて消滅させられたプラトン・アカデミー」には
次のような記述がある。(p107)

(引用開始)
ゲミストス・プレトン―(1360~1452:コジモ・ディ・メディチがギリシャからフィレンチェに招いたビザンチンのプラトン学者 プラトンに心酔して自分の名もプレトンと変えた。田中注)は、プラトンの信奉者だから、アリストテレスのフィロソフィーを徹底的に嫌って激しく批判した。おそらく彼は、アリストテレスの中にある金儲け肯定の思想(エクイリブリム。平衡、均衡)と現実主義(リアリズム)を嫌ったはずだ。それとの戦いだった。「金儲け活動を認める」という思想がアリストテレスの思想の中にある。それに対して、「イデア idea」なる言葉であらわす理想主義(アイデアリズム)であるところの、プラトニズムを徹底的に主張した。彼らネオプラトン主義者たちの大半は、アリストテレス思想で作り直されたカトリック神学を強く疑った。このあたりを、もう少し後で解明する。
ここが非常に重要なところだ。
(引用終わり)
田中です。話を最初に戻すと、アリストテレスの「均衡」というのは、キリスト教会(カトリック)でも、アメリカの政治思想(永遠の相の下での保守思想)でも支配者の思想以外ではありえないだろう。「金儲け肯定+現状を守る(リアリズム)」だ。なんだか、日本の禅宗のお坊さんと共通してないだろうか?(『隠された歴史』そもそも仏教とは何ものか? 副島隆彦著 KKベストセラーズ)

ここでもう一度「現代アメリカ政治思想の大研究」に戻ろう。
p145~P148より引用します。

(引用開始)
現代保守思想最大の対決―「自然法」派(A)VS 「人定法」派(D)
(A)ナチュラル・ラー(永遠の相の下の保守思想)派は、「現在のわれわれに救えないものは、救えないものとして放っておくしかない。」「たすける余裕がない以上、たすけられないのだ。」というだろう。もし人類の一部が、環境激変などによって大量死しなければならないのであれば、「それをそのように、そのまま放っておく」ということである。それがナチュラル・ラー=自然の掟だ。これが保守思想の本態であると、私は理解している。

(D)のポジティブ・ラー「人定法」派(ベンサマイト=リバータリアン)は、中小企業の経営者(商売人)や独立自営農民(農園主)の思想であるから、やはり(A)のナチュラル・ロー派よりももっと強固に、「人間にどうしようもない現状は、やはりそのままほおっておくしかない。」「自分の生活を守るので精いっぱいであり、自分の生活が最優先する」(中略)という態度をとる。すなわち、彼らは自力救済を愛するのであり、自助努力の人である。はじめから社会や他人を当てにする人を嫌う。(中略)バーキアン(エドモント・バークの思想)と異なるのは、そのことをためらわずにはっきり言うことである。
(中略)

あれこれの人類博愛理論の本質を見抜いてその悪をよく知っている、という意味では(A)と(D)は共通している。しかし(D)のほうが、庶民の目として(A)よりもはっきりとすべての事態を見抜いているというべきだろう。

(引用終わり)
(A)のナチュラル・ラー派と(B)のナチュラル・ライツ(自然権)派と(c)のヒューマン・ライツ(人権)派ここまでが自然法の立場で、(D)が人定法の立場である、と副島先生は述べられている。

さて、オーギュスト・コントの人定法思想は(C)と(D)の両面をその性質上もっていると考えられる。後期のコントの思想は『実証政治学体系』に代表されているが、これはもう人定法の思想というよりも、人類愛の思想であるといわれている。上の副島先生のアメリカ政治思想図式でいうと、(D)の立場というよりも、(C)のヒューマン・ライツ(人権派)だ。ヨーロッパではドイツの思想家フォイエルバッハのような人類教だ。19世紀ヨーロッパにおける、コントの人定法思想(均衡、保守)と社会進化の思想が、大西洋を渡ったあと、北アメリカ大陸では大きく分かれていったと解釈するべきなのであろう。

山本晴義著『対話近代思想史』によると、1840年代にフーリエ主義が北部アメリカのボストンから始まるが、アメリカ経済の成長とともに、フーリエ社会主義は力を失う。
「アメリカ・フーリエ主義」の後からは南北戦争後までオーギュスト・コントが影響をもつ。『実証主義哲学講義』のいう神学段階、形而上学段階から、アメリカは実証主義の段階に入った、と山本氏は述べている。

そして南北戦争(1861年~65年)の危機が迫るにつれて、南北にコント思想受容に違いがでてくる。
以下『対話近代思想史』(三一書房)p76より引用(一部要約)します。

(引用開始)
奴隷制度を是認している南部ではジョージ・フィッツヒューの『南部の社会学』(1854年)にみられるようにコントの「秩序」の学、「社会静学」の面を強調して、それを正当化する。

北部の方では、コントの進歩の学、「社会動学」の側面を強調し、「社会科学へ」の時代を説く。コントの『実証哲学講義』のマルティノ女史による抄訳(しょうやく)が出たのは1853年。(中略)

南北戦争以前から、「アメリカ社会科学運動」(American Social Science movement)、社会改造運動が高まりが設立される。
そして南北戦争後のアメリカ資本主義のとてつもない繁栄の中で、今度はコントに代わって、ハーバード・スペンサーが時代の寵児(ちょうじ)となった。ハーバード・スペンサーはアメリカを訪米して帰国の際に、「アンドルー・カーネギーとユーマンズ(?)がアメリカの最高の親友だ。」と語ったという。
(引用終わり)

最後に。ついでにイタリア・ルネサンス関連。プレトンの肖像画が、『隠されたヨーロッパの歴史』のp103に掲載されています。その絵の中心にはコジモ・ディ・メディチが馬上にのっていますが、プレトンの周りにはユダヤ人たちも多く書かれているということです。ビザンツ帝国の崩壊を目前にしてフィレンチェにやってきたものもいるでしょうし、メディチ家の商売に関係している者かもしれません。しかし、その中にカバラの教え(ユダヤの秘教)を受け継ぐひとびとがいて、ピーコ・デラ・ミランドラはそれに影響をうけた。(『ミケランジェロの暗号』(ベンジャミン・ブレッグほか著 飯泉恵美子訳 早川書房)より。絵の名前は失念いたしました。

オカルト(occult)という言葉の語源はラテン語で「隠された」という意味だそうです。
だから『隠されたヨーロッパの歴史』『隠された歴史 そもそも仏教とは何者か』の両著作には、オカルト・パワーもたくさん入ってます。(読み過ぎにご注意ください・・・)
  
田中進二郎拝

大城義和 投稿日:2013/04/30 19:17

【1118】[1264]世界像/思考データ

世界像/思考データ

大城義和です。
世界像を、情報通信革命シミュレーションし、仮想世界像を、最構築最構成してみます。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

例えば<私>という、記号がある、世界像という、インフォメーション=情報がある、とする際の、人間のCPU=頭脳、による、コード解釈/翻訳のプロセス、そして、記号という<私>である<私>のヴァーチャル化。情報という<私>が思考する、動学的な情報、と、ジオポリティックス、そして、音楽的で映像的な、感覚や感性の世界像。ここに、<私>というパーソナル・コンピューター的シミュレーションしてゆく、思考パターンデータがあるとする、それは、つまりは、イメージのプログラミングと類似性を持つ、そういう、知性情報の海とでもいうべき、イメージの建築的論理像が、組上げられる、思考パターンの膨大な数々。世界圏という、生産性の情報もある、その時、<私>と<仮想の私>と<世界像>を、思考パターンデータに、情報通信革命シミュレーションする、そうすると、インフォメーションは、有機的構造体として知覚することが出来る。実は、世界像は、変化している。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

世界像は仮想化可能であるし、<私>も仮想化出来るし、<仮想の私>もさらに仮想化する事も出来るかもしれない、つまり、思考であるとか、イメージであるとか、論理はいくらでも構築可能であるし、最構築可能でもあるし、最構成可能でもあるし、論理を解体して、新しい論理を構築してもよい、しかし、だ。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

情報通信革命を信じるか、信じないか。情報通信革命を活用するか、活用しないかが、問題ではない。とするなら、<私>は、仮想化するという、イメージや、感覚とか、感性の可能性を信じるか、信じないか、が、重要な記号ではないのか。論理像や世界像は変化すると思考しても、知性情報の海という、知のメタファーが変容しように視覚出来ても、それは、情報通信革命シミュレーションのようなものであるから、構造/ストラクチュアは変化しない。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

世界は、情報通信革命で構築された、論理世界像に変換することを、思考することも、可能であり、それは、仮想世界像という、世界像の最構築最構成であり、まさに、情報通信革命は、論理の最構築と最構成である。それを、インフォメーションとかインフォメーション・テクノロジー=ITとかいうのであり、情報通信革命による世界圏は、有機的構造体システムでもある。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

冒頭で申し上げた、世界像を、情報通信革命シミュレーションするということは、つまり、現在の我々、人類の、日常生活のことでもある。そして、パーソナル・コンピューターや、インターネットによる、世界生産圏とは、現実の私たち、人間の世界であり、仮想の世界でもあり、つまり、知性情報の海というべき知のインフォメーションは、人類・人間が論理や思考により、構造体を最構築最構成してゆく、という、パターンと近似してゆく。

<構造/ストラクチュアは変化しない>

我々、人類は、誰にもコントロールされない、ひとりひとりの人間として、生活をすべきである。

大城義和拝