重たい掲示板

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迷子石 投稿日:2013/05/19 22:25

【1131】[1297]兵隊が考えること

はじめて投稿します、迷子石です。
以前自衛官だった事もあり、思うことを書きます。

兵士が戦場でも立派であり続けるためには、戦争の理由が立派でないといけません。
戦場で兵士の性欲が問題になるなら、戦争の理由にも問題があります。
大儀の無い戦いでは、戦いの合間に、兵士一人一人が勝手に、「自分の命と等価交換できそうなもの」を探し始めます。
モラルの低い兵士から、表に出せない行動に出ます。
兵士の性欲が問題なのではなく、戦争の理由が問題だと考えます。

普通の人は国防をどう考えたらよいか?私の考えはこうです。
平時(平和な状態)では、戦争反対。
反戦活動したい人は、思い切りやったらいいです。
(個人的には、デモの類はほとんど影響力がない、とも思います)
それで自衛隊の総合力に何か影響があるかと言えば、何も、ないです。
それでも避けられないなら、本当に避けられない衝突だということです。
なぜ反対をすすめるか?生活水準が下がるからです。
普通の人は、生活水準が上がるか、下がるかだけを基準に戦争への態度を決めても、充分一貫していると思います。

福田 博之 投稿日:2013/05/19 16:18

【1130】[1296]合理性と倫理(人権の根拠)

「風俗」の活用による強姦件数の低減は、正義ではなくともレイシオではあるのでしょうか。
「日本へのアメリカの原爆投下は、ジャスティス(正義)ではなくともレイシオではある」
という合理性と倫理に関連する理論をもとに、「風俗」をめぐる批判の根拠を考える場合、
批判する側の根拠は、“人権”という、“合理性”よりも“倫理”にあると思われます。
しかし、“人権”もすでに、尊重される一つの“快”として、
“快の最大化理論の合理性”で考えることは、
「強姦の低減を目指しても売春を推奨しない」という、
合理性への理解につながると思います。
もしくは“人権”も、ある立場を有利にするための、
“合理性の道具にすぎない”という見方が現れるでしょう。

自然状態を“人定的”に管理する際の、管理の範囲と有効性、
適切性を考える際に、どの様なものが判断材料や基準となるのでしょうか。

“倫理” も根源的には、自己実現の欲求や、
複雑化した概念を基にした社会的欲求として、
人間のひとつの欲求ではないでしょうか。
“人間の真理” とはなにかを考える基準として、
“快” か“不快” かどうかが、根源となると思います。
この“快か不快かという2択”は、“感情”の分類にはいることでしょうか。
言語による“合理性”の発達は、生きる上での個人の“快”の最大化が目的となります。
“快”と“不快”は感情と理性に分ける前の、根源的なものだと思います。

複雑化した概念に影響をうけるその判断は、後天的な知識や経験と、
脳の我慢強さなどの身体的特性により多様化します。
その中でも共通項を見出すことで、“人間の真理” の理解へ近づくのではないでしょうか。

“人権の存在自体(現実に生きているという事実)”は自然発生的であっても、
“概念としての人権”は、
人間が個人の欲求と、種の保存や集団の安定などを天秤にかけて生み出した、
公共の”快の最大化”を狙う概念のひとつと言えるのではないでしょうか。

“権利”は、“欲求の正当化”、“欲求の合法化”を暗黙に経て、
“行為”や“地位”の、正当化や合法化となります。

“快”を金銭的に評価する限界はすでに明らかになっていると思います。
人の判断が経験的、遺伝的に多様であれば、論理として次のことが当然言えるでしょう。
ある人々の“快”の犠牲のうえに、他のある人々の“快”を優先する判断もあるということは、
ある人々の“人権”の犠牲のうえに、他のある人々の“他の権利”を優先する判断もありえる。

そういった判断、“選択”についての合理性を考えるための“問い”として、
ここでは、“男性兵士による強姦件数の減少対策について”の質問を列挙してみました。
この質問の多くは、専門知識がないと回答が困難だと思います。
徹底した議論とは、このような疑問に専門的見解が提供される事を言うのでしょう。

“倫理なき論理”として、
強姦や殺人も肯定される回答がなされる様になるのではないかと危惧します。
そこであえて、下記に“倫理なき論理”の回答がなされる様な質問を例示してみました。
ここでいう“倫理なき論理”というのは、議論は自由であり、現実を直視して
最悪の状況を想定する事は有益であっても、回答者の倫理観や合理性によっては、
殺人も強姦も肯定されることもある、という意味です。

西洋的に人間と対立する“自然”ではなく、自然のうちに人間も含む“自然”という概念として、
“自然状態”の肯定は、殺人という人為的自然現象の肯定にも通じるからです。
ここに、“人定的”な法についての理解を深めることの重要性を感じます。

まずは、憲法の改正を議論する前に、
“男性兵士による強姦件数の減少対策について”を考えることは、
いまいちど宗教や倫理、政府の役割、法の支配などについても考えるチャンスではないでしょうか。

かつての教育勅語は、国体と輸入宗教や六論などの複合的産物だとの認識ですが、
現代の、宗教の自由と思想の自由のなか、この日本では、倫理の根源は何に根差すと有効に
機能するのか。道徳心理学と呼ばれる分野もある様ですが、根源的に“快”“不快”に
根差した“合理的選択”を促す仕組みが有効なのでしょう。

下記に挙げる【合理性と倫理】の様な問いかけに回答する際の“快”“不快”のなかに、
宗教を越えて、人間の真理の一片が見えてくるのではないでしょうか。
私の挙げる質問は、単語の概念の明確化などで言葉足らずにも感じます。
質問も、私の様な素人ではなく、各方面のプロが考えれば、
より思考を展開できる様な問いかけが、いろいろと挙げられる事でしょう。

【兵士による強姦の動機】
兵士による強姦は性欲の処理にあると思いますか?
兵士による強姦は人種差別にあると思いますか?
兵士による強姦は攻撃性もしくは復讐性にあると思いますか?
兵士による強姦は征服欲にあると思いますか?
兵士による強姦は仲間への力の誇示の欲求にあると思いますか?

【兵士による強姦の防止について】
戦勝国の兵士による敗戦国民への強姦は権利だとして、合法化するべきだと思いますか?
強姦は現実に存在する事として、強姦の際、避妊具を使うように法で定めるべきだと思いますか?
強姦は現実に存在する事として、強姦の際、避妊具を使うように指導するべきだと思いますか?
強姦は肯定しないで、避妊具を支給するべきだと思いますか?
強姦を法で禁止し、強姦以外の性欲処理方法を提供するべきだと思いますか?
強姦を法で禁止し、性欲の処理については個人の自由としたほうが良いと思いますか?

【性欲の処理の方法】
強姦を非合法化した場合の、性欲の処理方法について以下は適切だと思いますか?

我慢させる。我慢するべきだとルール化する。
我慢したくなる思想や宗教を提供する。
性的な事以外の娯楽を提供する。
夢精した際の対処として、下着を提供する。
ポルノ動画などの道具を提供して自慰行為を促す。
性行為を行わない売春以外の風俗サービスを提供する。
売春行為のサービスを提供する。
現地の一般女性との出会いの機会を提供する。

【強姦件数減少への対策の有効性】
強姦件数の増減は、行為が“強姦”かどうかの司法的な判断によるものだと思いますか?
強姦件数の減少に、売春が有効だと思いますか?
性欲を満たすことが強姦件数の減少につながると思いますか?
法により処罰を規定することが強姦件数の減少につながると思いますか?
宗教が強姦件数の減少に有効だと思いますか?
倫理教育が強姦件数の減少に有効だと思いますか?
欲求に基づいた思想が強姦件数の減少に有効だと思いますか?
スポーツは強姦件数の減少に有効だと思いますか?
音楽は強姦件数の減少に有効だと思いますか?
文化的活動は強姦件数の減少に有効だと思いますか?
強姦対象者の人種への理解は強姦件数の減少に有効だと思いますか?

【政府の関与について】
政府は合法的性欲処理施設の運営にどの程度関与するべきだと思いますか?

出資、経営、運営、サービス、広報 すべて政府で行う。
出資を政府で行う。
運営会社または運営組織の設立を政府で行う。
経営(経営資源の采配)を政府で行う。
代表取締役など幹部は政府で行う。
広報活動を政府で行う。
売春婦の調達を政府で行う。
売春婦も政府の人間とする。

【軍部の関与について】
軍部は合法的性欲処理施設の運営にどの程度関与するべきだと思いますか?

出資、経営、運営、サービス、広報 すべて軍部で行う。
出資を軍部で行う。
運営会社または運営組織の設立を軍部で行う。
経営(経営資源の采配)を軍部で行う。
代表取締役など幹部は政府で行う。
広報活動を軍部で行う。
売春婦の調達を軍部で行う。
売春婦も軍部の人間とする。

【売春婦の調達方法について】
政府の権利で強制的に調達することが望ましいと思いますか?
犯罪者への強制労働として行うことが望ましいと思いますか?
希望者をボランティアで募ることが望ましいと思いますか?
金銭で希望者を募ることが望ましいと思いますか?

【売春の法規制に関して】
他人の権利を侵害しない範囲での個人の権利を、政府が制限するべきではないと思いますか?
売春は個人の権利だと思いますか?
売春の合法化は必要だと思いますか?

【売春の倫理に関して】
売春は善い事だと思いますか、悪いことだと思いますか?
世の中に売春が存在している事は“快”ですか“不快”ですか?
売春婦は強姦件数の減少となる英雄的存在だと思いますか?
売春は人々の需要にこたえるサービス業で善だと思いますか?
たとえ人々の需要にこたえていても行為が悪だと思いますか?
売春婦は社会的弱者がなる傾向があると思いますか?
売春自体は善でも弱者の人権が侵害される傾向を悪だと思いますか?
売春は性病の伝染など衛生的に悪だと思いますか?
売春はある種の文化として善だと思いますか?
売春は人間の解放された性の自然的行為の一つとして善でも悪でもないと思いますか?
売春は自然的現象で、現実に存在している事として、善悪の判断を下すべきではないと思いますか?

【売春と社会的弱者の関連】
売春は職業的選択の自由で最終的には本人の意思によるものだと思いますか?
職業選択の判断能力と職業適正はすべて本人の責任だと思いますか?
売春婦は整形や品格向上などに努め、高級売春婦を目指すべきだと思いますか?
売春の禁止が弱者救済につながると思いますか?
売春の法規制が弱者救済につながると思いますか?
売春は年齢制限を設ければ、合法とするべきだと思いますか?
売春をやめたいと思う人に支援は必要だと思いますか?
売春をやめたいと思う人に政府の支援は必要だと思いますか?
売春をやめたいと思う人の支援は政府以外でなされる必要があると思いますか?

【合理性と倫理】
戦争に慰安婦は必要だと思いますか?
戦争に捕虜への拷問は必要だと思いますか?
戦争に殺人は必要だと思いますか?
戦争で敵の死体を加工して敵に恐怖感を与えることは必要だと思いますか?
戦争で敵の民間人を強姦して敵に恐怖感を与えることは必要だと思いますか?
戦争で民間人とくに子供を殺して敵に恐怖感を与えることは必要だと思いますか?
国家に戦争は必要だと思いますか?
世界に戦争は必要だと思いますか?
戦争はあなた個人にとって有益だと思いますか?
戦争は一部の人間にとって有益だと思いますか?
戦争は人類の繁栄の為に必要だと思いますか?
国の維持のためには殺人は善となると思いますか?
合法的殺人は善だと思いますか?
殺人は理由があれば善になると思いますか?
殺人は悪だと思いますか?
殺人は必要悪だと思いますか?
宗教が戦争の原因だと思いますか?
一神教が戦争の原因だと思いますか?
多神教が戦争の原因だと思いますか?
自分が信仰する宗教を信じていない者も人間だと思いますか?
自分が信仰する宗教を信じていない者を殺すことは善だと思いますか?
自分が信仰する宗教を攻撃する者を殺すことは善だと思いますか?
宗教は倫理をより強固なものとしていると思いますか?
宗教は道徳をより強固なものとしていると思いますか?
合理的ではない者も人間だと思いますか?
合理的ではない者を殺しても悪ではないと思いますか?
自分が尊重する倫理や道徳が、殺人件数の減少に役立っていると思いますか?
自分が尊重する倫理や道徳の、他者における欠如を人間性の欠如だと思いますか?
自分が尊重する倫理や道徳の無い者は、殺した方がよいと思いますか?
日本人は世界のなかで倫理や道徳が優れているほうだと思いますか?
法の支配と権力の集中が、殺人件数の減少に役立っていると思いますか?
法の倫理的根拠は、宗教に根差すべきだと思いますか?
日本で法の倫理的根拠は、何に根ざしていると思いますか?
法が、殺人や強姦を禁止する根拠はどこにあると思いますか?
人権の根拠は、何に根ざしていると思いますか?

福田 博之 投稿日:2013/05/18 10:40

【1129】[1295]風俗

風俗や 本番無しの 法倫理
“お吉さん” 国防軍の 人柱(ひとばしら)

特殊慰安施設協会
RAA
(Recreation and Amusement Association)

その道は、特殊慰安施設協会の再設提案に通じると思う。
ハリスの妾“お吉さん”は愛国の英雄の象徴として利用された様だが、
現代の風俗は、「一億の純潔を護り、以て国体護持の大精神」で、
「国民外交の円滑なる発展に寄与」出来るのだろうか。
「平和世界建設の一助」となるのだろうか。

終戦当時、占領当局がRAAを廃止とした背景には、
タテマエでは、「非民主的で婦人の人権を侵害するという理由」があっても、
占領軍内部では、性病患者の急増がホンネであったとすれば、
現代医学で性病対策が出来れば、今後再設すれば存続できるのだろか。

   “お吉さん” 国防軍の 人柱(ひとばしら)

若者の雇用対策として、国防軍に入隊させ、
女性の雇用対策として、風俗店に入店させ、
どちらも消費的支出であれば、
風俗は外資を稼がないと国内は潤わない。

   風俗や 本番無しの 法倫理

“国内合法的風俗” の世界発信は、
“ニッポン カワイイ” のソフトパワーになりえるのだろうか。
倫理、道徳のない野蛮人としての印象を生む、
“恥”となるのだろうか。

現実への言及と、理想への言霊。

RAA設立の際、
マッカーサーにより政府の関与に歯止めがかけられたのだろうか。

“ホンネ”と“タテマエ”
“理想”と“現実”
“目的”と“手段”
“光”と“影”

自己矛盾を含む現実に対処するために、
“悪”と“善”に役割分担される。

宗教に裏打ちされない道徳は無力だ。
日本で宗教の力が減衰すれば、
宗教に代わる道徳への思想が必要だ。

個人の欲求を満たすことは善。
生理的欲求と社会的欲求の狭間で、
公共の福祉の最大化をめざすとき、
政府は生理的欲求を抑圧しても、
社会的欲求の創造を個人に強いる見解をとる。
おさえきれない個人の欲求は、
別の個人が犠牲となり満たされる。
もともと、世の中は弱肉強食、
政府が弱肉強食を調整しようと理想に向かっても、
どこかで弱肉強食の、共食いが目撃される。

政府には、
世の中は弱肉強食だ。だから肉のかわりに骨でも噛ませとけばいいんだ。
ではなく、
弱い肉もあまり食べられなくてもすむ世の中を目指してもらいたい。

参考:『敗北を抱きしめて 上』 ジョン・ダワー 訳:三浦陽一・高杉忠明
以下引用

P150
「内務省は全国の警察管区に秘密無電を送り、
占領軍専用の「慰安施設」を特設するよう指示した」
「施設に入れる女性の調達には地方の警察署長があたり、
地元の売春業者や関係者を動員すべしとされた。」
「近衛は、「日本の娘を守ってくれ」と警視総監に嘆願したといわれる。」

「しかし、それから数日のあいだに、方針が変更されることになった。
降伏使節としてマニラに飛び、マッカーサー元帥やその司令部と打ち合わせを終えた
河辺虎四郎将軍が東京にもどってきて、この種の施設の運営には日本政府が
直接関与すべきではないと、強く主張したのである。」

「それ以後、政府の主な役割は、この事業におすみつきを与え、資金を融資し、
警察の協力を与えることに限定された。」
「池田勇人は、このとき政府側の手配に活躍した人物であり、
後に「一億円で純潔が守れるなら安いものだ」と言ったと伝えられている。」

川端優美子 投稿日:2013/05/13 20:53

【1128】[1293]Was Jesus born without a father?

群馬のゆみこ(川端優美子)です。

5月18日(土)の「会員交流会 自由におしゃべり」に皆さん参加されるそうで、わたしも思い切って申し込みました。ひとりで行くのは心細かったので、知り合いで産経新聞を読んでいる愛国右翼のお年寄りを誘ってみたのですが、断られました。わたしったら、なんでその人を誘ったの? そういうわけで、結局ひとりで参加することにしました。群馬から参加する方、会場でお友達になってくださいね。一緒にブックマンズ・アカデミー(群馬の本屋さん)に行きましょう!

ところで、田中進二郎さんの【[1279]オーギュスト・コント対アイン・ランド】を読んだら、「アイン・ランドは利己主義を積極的に肯定する」とか、「利他主義を受け入れると一、二、三、四のことで苦しむ」というようなところに、わたしはぷるると反応しました。
わたしは「アメリカ人のスピリチュアル系の人々は、自己犠牲をぐいぐい求めてくるキリスト教会にうんざりして逃げてきた、迷える子羊たち」だと、少し前に気づきました。(きっと、そうですよね。もしかして、そんなことは常識で、あらためて言うことではないですかねえ。)

わたしは普通(?)の日本人で、キリスト教のことを日本人並みにしか知りませんが、教会というのはおかしいなあ、と思います。皆さんが副島先生の『隠されたヨーロッパの血の歴史』に強くうなずかれた通りです。

わたしが本当に不思議なのは、頭のよい白人さんたちが、どうして、「処女から 子どもが生まれた」なんてことを信じているのか、信じようとしているのか、ということです。この、キリスト教の根本からして、いんちき。 「イッツ ボウガス(bogus 嘘、いんちき)!」とか、白人さんは思ってしまって、スピリチュアル系に流れてくるのでしょう。その衝撃の音源が、これです。
Abe Talks About Jesus.mov:
http://www.youtube.com/watch?v=mWZJbnYwsxc

若い女性が、いたずらっぽく笑いながら ”Was Jesus born without a father?” 「マリアさんは、本当に結婚前にイエスを身ごもったんですか」 と訊きます。訊かれているのはスピリチュアル系最先端のエイブラハム(エスター・ヒックスという女性を通して喋る集合意識)です。エイブラハムは “Was Jesus a biological exception to the laws of the universe? No.” 「イエスは宇宙の法則に縛られない、生物学的例外であったか・・・否」と答えます。質問者の女性は(イエスだけに)Yesという答えを期待していたので、どうしていいか分からなくなっているところに、エイブラハムが「そんなことを聞いちゃダメなのよ」 “You are a troublemaker” と冗談を言ったときの会場の反応ときたら!これを聞くだけで、キリスト教徒がどれほど教会に対して「冗談じゃない!」と思っているか、分かります。

スピリチュアル本は楽しいですよ。スピリチュアル本を読むときのコツは、論理的に考えながら読まない、ということです。読んでいて、納得が行かない、とか、つじつまが合わない、と思ったところは「読み流す」ことが重要です。そのような細かいことにとらわれずに、読んでいて「ああ、そういう見方は面白いわね」 というところを自分の中にするすると入れていって、実生活の中で、その新しい見方(視点)でものを見てみる。すると、自分の中に変化が起こる。どんな変化が起こるかは、やってみてのお楽しみ。スピリチュアル本はそのように活用するのがいいと思います。

18日のおしゃべり会、楽しみですね。副島先生にお会いすることができるんですよね。なに着て行ぐべえかな~。

田中進二郎 投稿日:2013/05/12 05:35

【1127】[1290]「オーギュスト・コント論」の誤記訂正

5/7に投稿したオーギュスト・コント論の誤記・不備の訂正
田中進二郎

三回にわたり、コントの人定法(positivism: 実証主義)について書かせていただきました。
引用文献について誤記と不備がありましたので、遅くなりましたが訂正します。

×南原繁(なんばら しげる)著『政治理論史』(岩波書店)
⇒○南原繁著『政治理論史』(東京大学出版会 1962年刊)

×『健康帝国ナチス』(宮崎 尊 みやざき そん訳)
⇒○『健康帝国ナチス』(ロバート・プロクター著 宮崎尊 訳 草思社 2003年刊)

×イエリネク著『法・不法及刑罰の社会倫理的意義』
⇒○ゲオルグ・イェリネック著『法・不法及刑罰の社会倫理的意義』大森英太郎(おおもり えいたろう)訳 岩波文庫 1936年刊
訂正は以上です。

三回目の投稿について「アイン・ランドは知っているが、南原繁(なんばら しげる)なんて知らないよ。」と思われた方も多いと思います。
簡単な紹介をつけます。

南原繁(1889-1974年)
香川県生まれ。東京帝国大学法科大学を卒業。在学中に無教会主義の内村鑑三(うちむらかんぞう)を知る。のち、新渡戸稲造(にとべ いなぞう)と内村鑑三に師事した。卒業後内務省などに官吏として働く。1925年東京帝国大学教授に任じられる。(政治学史・政治学を担当)1945年11月東京大学総長に就任。教育刷新委員会のリーダーのひとりとして、6・3・3・4の学校の教育制度の改革案をつくる。1949年ワシントンにおいて「全面講和」と「永世中立」を訴えて、「単独講和」の吉田茂首相と対立。吉田は南原繁を「曲学阿世(きょくがくあせい)の徒」と非難した。1950年代後半以降政治哲学体系の完結を急ぐ。1959年『フィヒテの政治哲学』(岩波書店刊)、1962年『政治理論史』刊。1971年『政治哲学序説』(『南原 繁著作集』 岩波書店刊 に所収)。1974年死去。

以上は、加藤節(かとうたかし)著 『南原 繁―近代日本と知識人』(岩波新書1997年刊)を参考にした。

あと付け加えておくべきこととして、前回(3回目)の投稿内容にコントの後期思想は『人類教』でドイツの哲学者フォイエルバッハと共通している、という観点は勝田吉太郎(かつだ きちたろう)著作集第五巻(ミネルヴァ書房)所収『革命の神話』の「実証科学の限界」(p319~320)を参考にした。

清水幾太郎(しみず いくたろう)にしても、南原繁にしても、勝田吉太郎にしても、「コントのpositivism とは何なのか」という大きな問いに対して答えを与えてはいない、という点で共通していると、感じた。どこまで読んでもpositivismの外回りを巡っているような感覚を味わった。そうは素直に書かなかったところがあるので、拙稿を読んでいただいた方々には「なんかよくわからんぞ」と思われた方も多かっただろう。
上記の大学者たちにしてもわからない難問がpositivismだった、ということが冷静になれば見えてくる。(というか、副島先生にコメントをいただいて、はっと気づいたのですが)

そう考えると私が書いたことも無駄ではなかったと、今はpositiveに捉えています。
田中進二郎拝

寺平 浩 投稿日:2013/05/10 23:51

【1126】[1286]豪国防白書2013

グッダイ マイト、寺平です。
 
こちらオーストラリアは例年に比べて寒いの一言につきます。なんせ雨ばかりですから。

ところで今日のテーマですが先週、政府から発表された国防白書を
日本の新聞から読み解こうとおもいます。

まずはじめに、新聞A
転載開始 

オーストラリア政府は3日、「国防白書」を発表した。

太平洋海域で米中の角逐が深まる中、中国の挑発行為などに対する抑止力を高めるため、新型または改良型の潜水艦12隻の建造を目指す方針を示した。

国防白書の発表は2009年以来。当初は14年の発表を予定していたが、中国が海洋進出を強め、同盟国である米国がアジア太平洋重視の姿勢を鮮明にするなど、地域の戦略環境が変化していることを受け、発表を1年前倒しした。

白書では、インドから東南アジア、北東アジアにかけてのインド洋から太平洋にまたがる地域を、豪州にとって戦略的な「焦点」と位置づけた。
潜水艦建造に加え、電子戦機「EA―18Gグラウラー」12機の購入計画も盛り込んだ。

転載終了

では次に新聞B
転載開始

オーストラリア政府は3日、新しい国防白書を4年ぶりに発表した。中国との経済的な関係が強まったことを背景に、前回の2009年白書より中国の脅威に関する記述を弱めて「敵とみる立場は取らない」と明記。米中の2大国の間でバランスを取ろうとする戦略をにじませた。

 白書は米中関係について、今後数十年にわたり豪州の戦略形成に影響を与えるとの認識を示した。中国の台頭を「歓迎する」としたうえで「米国との同盟と、中国との関係のどちらかを豪州が選ぶべきだとは考えていない」と強調した。豪州にとって戦略的な意味を持つ地域の範囲を「アジア太平洋」から「インド太平洋」に拡大。インドの経済発展や軍事力増強を受けて、インドから東南アジア、北東アジアまでを重視する姿勢を打ち出した。

 日本については「技術や製造業で強みを発揮してきた歴史」に言及。防衛分野での技術協力を探ると表明した。安全保障に詳しいロウイー研究所のローリー・メドカフ理事は「世界有数の性能を持つ日本の潜水艦エンジンなどを示唆したもの」と解説する。

 ギラード首相は記者会見で、国防費を国内総生産(GDP)比で現在の1.56%から「長期的な目標」として2%に増やす考えを表明。スミス国防相は14日に発表する13年度予算に関して「国防費のさらなる削減はない」と強調した。

転載終了

同じテーマで情報源はオーストラリア政府だとおもわれますが内容が違います。

OZ(オージー=オーストラリア)のニュース番組を見ていて的を得ているとおもわれるのがBLOGOSから引用した記事です。

転載開始

オーストラリア政府は5月3日、国防白書2013を発表した。中国の台頭について脅威と見なしていた前政権から180度方針を転換し、中国の影響力拡大を歓迎する内容となった。
 安倍政権はアジア太平洋地域において中国包囲網を形成する外交政策を目指しているが、それとは真っ向から対立する形となった。

白書ではまず、米中関係について触れ、米中関係はアジア太平洋地域のみならず、グローバルな視点において、もっとも重要であると定義している。
 さらに中国に加えてインドの影響力が増大していることに触れ、アジア太平洋地域ではなく、インド太平洋地域という新しい戦略的「弧」が出現しているとしている。

 あっさりとした表現になっているが、これは従来のアジア太平洋地域の地政学的解釈を根本的に変えるインパクトのある出来事である。
  地政学の世界では、旧ソ連というランドパワーの国をシーパワーの国(米国を中心とした同盟国)が円弧の形で包囲するという形を基本的理解としていた。旧ソ連を中国に置き換えれば、従来と同様、中国包囲網を形成することが基本戦略ということになる。現在の安倍政権は基本的な世界観として中国包囲網を念頭に置いている可能性が高い。

 だがインド太平洋地域という新しい「弧」が出現しているという表現は、米国による中国包囲網という考え方が根本的に成立しなくなっている可能性を示唆している。
 白書では「オーストラリア政府は、米中のどちらか一方を選択する必要はない」とし、「中国は敵国とみなさず、平和的台頭を促すことを基本政策とする」と明言している。
  米国は日本から海兵隊を撤退させ、オーストラリアへの再配備を進めている。またシンガポールには最新鋭の沿岸海域戦闘艦の配備を開始した(本誌記事「米国がシンガポールに最新鋭艦を配備。その地政学的意味とは?」参照)。これはいわゆる 対中国シフト(リバランス戦略)の一環ということになるが、この動きは必ずしも中国を敵国と見なし完全包囲する事を目的とはしていない。
 中国を敵として封 じ込めるのではなく、交渉相手と見なし、局地的な海洋権益が保護できれば十分というレベルに米国の基本戦略が後退している可能性がある。オーストラリアが 米中双方との関係を重視するとした今回の白書の表現も、その延長線上にある。

 ギラード首相は国防白書の発表に合わせて「中国の影響拡大を歓迎する」と発言し、中国を敵国とは見なさいと繰り返し強調した。

 安倍政権は、米国を中心に、オーストラリア、東南アジア、インドとの連携を強化し、中国を封じ込める戦略を描いている。だが少なくともオーストラリアの現政権にはその意向がないことがはっきりした。中国と日本が基本的に利害の対立する国であることは、歴史的に見てもはっきりしている。だが少なくとも、米ソ冷戦時代の世界観をベースにした対中外交は完全に行き詰まったといってよいだろう。

 夏の参院選を無事乗り切ることができた場合には、長期政権の可能性も見えてくる。日本は中国敵視を貫き孤立外交も辞さないのか、中国に対してはある程度妥協するのか、そろそろ、現実的な安全保障政策の青写真を提示すべき時期が近付いてきている。

転載終了

OZは今期決算で大幅な赤字が予想されるため、中国の巨大マーケットを無視できる立場にありません。世界は変わりつつあるようです。

最後になりましたが若い世代の方々にはワーキングホリディ制度などを利用して、うちに閉じこもってないで世界の鼓動を直に感じてほしいものです。加地氏の体験記から率直に思いました。

今日のOZ庶民ニュースこれで失礼いたします。

Hiro Teradaira

加地龍太 投稿日:2013/05/10 16:57

【1125】[1285]東南アジア遠征記

加地です。

昨日(というか本日の夜中)に引き続いて東南アジア遠征記を記載させていただきます。

3月24日(日)
ルアンバパーンで初めての朝を向かえ、ゲストハウスの人が作ってくれた朝食を食べた。
ルアンバパーンではHさんとは別行動をとり、昼間は寺や商店街を散策した。
ラオスの寺院は日本のものと比べて派手なデザインで建築されたものが多かった。
これは、日本の仏教の流れが大乗仏教であるのに対して東南アジア諸国は小乗仏教であることに起因しているのであろうかと思う。
釈迦が唱えた仏教の本質的な教えは小乗仏教に流れていると言うが、確かに小乗仏教の寺院の方が大乗仏教の寺院よりも宗教施設という雰囲気が強かったように個人的には思う。

午後は暑かったので適当な土産屋や喫茶店に入って過ごした。
夕食はゲストハウスの近くに出ていた屋台でフライド・ダック(アヒル)を買ってそれを食べた。

3月25日(月)
昨日と同じように8時30分にゲストハウスで朝食をとり、その後ダウンタウンへ向かった。
街中で、道に鍋や包丁や俎板などの調理道具を出して料理をしている中年女性たちを見かけた。
ご近所同士で飯でも食いながら親睦でも深めているのだろうか、と邪推しながらその横を通り過ぎ、数十分ふらついた。

ふらついている最中に、とある家の娘たち(イニシャルVとP)と知り合った。
話しているうちにVの家に行くことになり、その家で数時間過ごした。
お互いに片言のEnglishで話しつつ、この二人にラオス語を少し教えてもらった。

その家を出て夕時の街中をふらついている内に辺りが薄暗くなってきた。
とある通りに出ると、出店がたくさん出ている所に出た。その雰囲気は、まるで日本の祭りのようだった。
聞く所によると、これはナイト・マーケットと言い毎日やっていることであるらしい。
その通りでクレープとサンドイッチを買って食いながら出店を見てまわった。
人形や服やアクセサリーなどがたくさん売っていた。

ふらついている最中にTというラオス人の女性と知り合った。VとPから教えてもらったラオス語と片言の英語で話している内に少し打ち解け、その女性の家に行くことになった。

Tは、ルアンバパーンから少し離れた所にある村の出身で、父と母と妹との4人家族で、出稼ぎにルアンバパーンにきて一人暮らしをしているという。
年齢は19歳であると言っていた。日本では学生であって良い年齢で、家のために働いているTは立派だと思った。

翌日、私はタイのチェンマイに行く予定であったので、手持ちのラオスの通貨KIP(キップ)をすべてTに渡した。
彼女は最初は遠慮していたが、最後は快く受け取ってくれた。
Tと別れてゲストハウスに戻り、明日の移動に備えて眠った。

3月26日(火)
朝9時頃に目覚め、ゲストハウスで朝食を食べ、トゥクトゥク(馬車の車の部分をバイクで引く乗り物)でラオス空港まで行って飛行機でラオスからタイへ向かった。
チェンマイ空港に降り、一万円をタイの通貨バーツに両替し、ゲストハウスに向かった。
交通手段はそのゲストハウスの人間が運転する車である。
トヨタのワゴン車だった。

ゲストハウスはチェンマイの山奥にあるが、空港からゲストハウスまでの途中でチェンマイの街中を通った。
ラオスと比べて経済が発展している分、道路がコンクリートで舗装されていて土埃が舞っていなかった。

昼食をとっていなかったので、途中の大きなデパートに寄って「タイスキ」という名の鍋料理を食べた。
日本のすき焼きをベースにした料理らしいが、すき焼きというよりも しゃぶしゃぶに近い料理だと思った。
鍋の火っもガスコンロを使い、店内にはクーラーが効いていた。
ラオスでは店内にクーラーが効いていたのはディスコくらいだったが、1つ国を跨いだだけでこれだけ違うものか、と思った。

食後、Hさんが酒を買うということでセブンイレブンに寄った。
しかし、タイでは午後17時以降でなければアルコールは売ってはいけないという法律があり、買えなかった。(レストランでは17時より前でもアルコールは飲める)
やむをえず、セブンイレブンを出て個人経営の酒屋に行ってビール(Heineken)とウイスキーを買ってゲストハウスへ向かった。
個人経営の店なら、チェーンストアのような縛りがないので17時前であっても酒を売ってくれた。
ゲストハウスに着き、近くの出店で買った魚や茹で卵を食べながら酒を飲んだ。

山の奥にあるゲストハウスゆえ、夜眠るときは真暗だった。
梟の鳴き声などを聞きながら眠った。

続きは後日、記載させていただきます。

加地龍太 拝

加地龍太 投稿日:2013/05/10 00:38

【1124】[1284]東南アジア遠征記

こんばんは、加地です。

私は今年の3月20日(水)から4月12日(金)までの約3週間、東南アジア(ラオス、タイ、カンボジアの三ヶ国)を遠征しました。
海外には、中国の北京に1ヶ月、インドのプネに一1ヶ月滞在した経験はあったのですが、泊まる施設をたびたび変えたり旅先で国境を越えたりする、いわゆる旅をするという形で海外遠征をしたのは初めての体験でした。

以下に簡単な遠征記を記載させていただきます。

~東南アジア遠征記~

3月20日(水)
早朝、私は成田空港へ向かって家を出た。
午前10時に出発する飛行機に乗る予定であったので、午前7時には空港に着くようにして行った。
空港でHさんと落ち合い、飛行機に乗ってベトナムのハノイ空港まで飛んだ。
ハノイは経由のために立ち寄っただけだが、フライトまで2時間ほど空き時間があったので休憩所でHeinekenを飲んだ。
外国のビールを飲んだのは初めてだったが、喉が渇いていたこともありとても美味かった。

フライトの時間までそのように適当に時間を潰し、ラオスの首都ビエンチャン行きの飛行機に搭乗してビエンチャン空港へ向かった。
ビエンチャン空港でイミグレーション(入国審査)をして入国し、タクシーでホテルまでゆき、チェックインをした後に夕食をとる店を探してHさんとホテルの近辺を歩いた。
リバーサイドホテルだったので、傍にタイとの国境を分ける川があった。
しかし、時期的に川に水がなく干上がっていた。

数分歩いた先にあったしゃぶしゃぶ屋に入ってそこで夕食を食した。
鶏肉と牛肉と野菜のしゃぶしゃぶを食べたが、とても美味かった。
東南アジアの牛肉は、日本の牛肉に比べて味がさっぱりしていた。
そこの店員さん(29歳の女性)とHさんが帰り際に話をして、明日の夜また来ると言って店を出た。
その後はホテルに帰って就寝した。

21日(木)
本日の昼間は、23日にここビエンチャンからルアンバパーンへ向かうバスのチケットを買うために市内を歩いた。
数件の旅行代理店を見つけ、値段が尤も安かった店でチケットを買った。
船で行くチケットもあったようだが、この時期は川の水が少なくなっていてバスのチケットしか売っていなかった。

昼飯は屋台で売っていたものを適当に買って食べた。食中りが少し不安だったが、特に何の問題もなく済んだ。
その後、暑さに参ってホテルに戻り休んだ。
夜は昨日と同じしゃぶしゃぶ屋で夕食を食べた。
食後、帰り際にHさんが昨日の店員さん(イニシャルM)と話していたら、何やらMと彼女の妹(イニシャルE)とご友人とビールを飲むことになった。
お互いに日本語とラオス語を教え合いながら他愛のない話をした。印象的だったのは、ラオス語で「チンチン」とは英語で「really」、日本語で「本当に」という意味であることを教わったことだった。

彼女たちは、ルアンバパーンから南に行った所にある村の出身で、出稼ぎに来ているのだという。
村の家族に仕送りをしているとのことであった。
もう一つ印象的だったのは、彼女たちの熱心さである。
私やHさんが、この単語や言葉は日本語ではこういう意味だ、ということを伝えたら、彼女たちはスマートフォンにその意味をメモしていた。
ビエンチャンは、外国人が使う金銭が重要な利潤になるようである。
それゆえ、外国人たちの言語を覚えようという意識が強いのではないかと思った。
私はここに、東南アジアの国民たちの「生きる意志」を見た気がした。

22日(金)
今日は、昨日知り合ったMたちとずっと一緒に行動した。
昼はトゥクトゥクという乗り物に乗って市内まで行き、ベトナム料理を食べた。
ベトナム料理は調味料がとても甘かったのが印象的だった。

その後、彼女たちの仕事の時間になるまでの間、ビアガーデンで飲むことになった。
まず、ビアガーデンの下にあるカラオケ屋に入って彼女たちの歌を聞いた。
タイ語やラオス語の歌だったので意味は分からなかったが、皆さんとても上手かったと思う。
カラオケ屋の中はクーラーが効いていてとても涼しかった。外の気温は35度くらいあったように思う。この時期、東南アジア諸国は真夏で最も暑い時期である。

カラオケ屋から出てビアガーデンに移り、彼女たちの仕事の時間までビールを飲んだ。
彼女たちの仕事の時間が近くなってきたのでその店を出て、夕食はまた彼女たちの店で食べた。3日連続で同じ店で夕食を食べることになるとは思っていなかったが、それも良いと思った。
夕食後、Hさんはホテルに帰ったが、私と彼女たちで地元のディスコに行った。
翌日はここ、ビエンチャンからルアンバパーンへ行くことになっていたので、送別会をしてくれたのだった。

ディスコもクーラーが良く効いていたので涼しかった。むしろ、少し寒いくらいに感じた。
夜の2時近くにディスコを出て、彼女らの友人のバイクでホテルまで送ってもらった。
別れ際、皆さんが「I hope that you come back here.」と言ってくれたことが嬉しかった。
私はバイクで去ってゆく皆さんを見送ったあと、ホテルに入って眠った。

23日(土)
今日の朝は早かった。朝7時にバスに乗る予定だったので、6時15分に起きて準備をした。
が、どうやらBooking(予約)をした際にホテル名が間違えて伝わっていたらしく、ホテルにピックアップがこなかった。バスのチケットに書かれていたホテルに行こうとして、私たちが泊まったホテルの傍にいたとある旦那に頼んで車で走ってもらったのだが、結局行き着くことはできなかった。

幸運なことに車で移動した先に私たちがバスのチケットを買った会社の支店があり、そこの店員に頼んで店の前にピックアップをまわしてもらえることになった。
ピックアップの車がきて、それに乗ってバス乗り場に行き、中国製の大型バスに乗り込み10時間ほど山道を走った。
この10時間は長かったが、この経験が今後の東南アジアでのバスの長旅に対する免疫となった。

ルアンバパーンに着いたらすぐにゲストハウスに行き、近くの店で夕食をとった。その店でHさんからラオス式の食べ方とタイ式の食べ方の一部を教わった。
昨日と今日一日バスに揺られた疲れをとるために、ゲストハウスに戻ったら洗濯をして眠った。

今回はここまでとさせていただきます。

加地龍太 拝

田中進二郎 投稿日:2013/05/07 04:21

【1123】[1279]オーギュスト・コント対アイン・ランド

「コント社会学の矛盾について」  田中進二郎

オーギュスト・コントを中心に2回書きましたが、コントの実証主義(人定法)とは何かについてバシッと捉えてない感覚が残っていました。アリストテレスとトマス・アキナスの自然法思想との関係を書いているうちに力つきてしまいました。「positivizm とはこうだ」という中心から若干ずれていたと、と思う。

3月の講演会の時に、藤森かよこさんのアイン・ランドの思想の紹介があって、私は『利己主義という気概―エゴイズムを積極的に肯定する』(原題『The Virtue of Selfishness』 ビジネス社)を購入し、読んでいたが、今回コントの社会学・社会倫理学と大きく対立していることに気づいた。端的にコントの名前を挙げて、アイン・ランドが批判している部分がある。例を挙げよう。

(引用開始)第一章「客観主義」とは何か
倫理の裏打ちがない幸福感は単に享楽(p62)より

合理的な倫理の規則を口にしながら、真偽も定かではないうさんくさい倫理を考案したがる哲学者というのは、気まぐれを選択すること以外の何も人類に提供してこなかったのです。気まぐれを選択することは、自分自身のきまぐれを「わがまま」に追及すること(たとえばニーチェの倫理)、もしくは他人のきまぐれに「無私」に奉仕することを意味します。(ベンサムとかミルとかコンテとか、その他の社会的享楽主義者(social hedonist)
の倫理の全部がそうです。

(引用中断)
田中です。上の文でベンサムとミルときているから、ここはオーギュスト・コントのことと解して間違いはないでしょう。
ここでは、コントの社会倫理学の中にある、「利他主義という道徳」を批判している。

(p66より引用開始)
自己利益というものは、犠牲を生み出すことのない人間関係によってのみ与えられるのだという発想は、これら無私無欲を寿ぐ(ことほぐ)人道主義の伝道者の頭には決して浮かんだことがありませんでした。(彼らは同胞愛を達成したい欲望を公言しているのではありますが)。そのような発想は、今後とも彼らの頭の中に浮かぶことはないでしょう。「合理的」という概念が、「価値」とか「欲望」とか「自己利益」や倫理の文脈から省かれる限りは、そうなのでしょう。

(引用終わり)
田中です。コントの人定思想について今度は南原繁(なんばら しげる)著『政治理論史』(岩波書店)を参考にしながら、アイン・ランドと対比させてみよう。

(『政治理論史』(第六章実証主義)p346より引用開始)

コントの社会学、いな、哲学の中心を形作るものは、現在一般に呼ばれる実証主義とは異なって、ひとつの精神原理であり、それはなかんずく実証道徳に求められる。実証主義における道徳法則は、すべての人間生活の「連帯性」(ソリダリテ)において表される。
この法則は人間が社会生活を追及するとき必然に発見される」ものであって、個人的=利己的な本能から独立な衝動に基づく。その愛他的感情をいう点においてヒュームやスミスを継ぐものと考えられるが、彼は利己的感情を拒まないで、むしろこれを前提し、承認する。利己的感情と並んではじめから利他的感情があり、後者はただ社会生活において自由に展開される。人類の経験するすべての発展はこの両者の共同作用にもとづくが、後者が次第に指導的要因となる。

すなわち、人類の発達のはじめにおいて、個人的利己主義は社会的衝動に優位するけれども、社会の進歩にしたがって、人間を動物に結びつける利己的本能はしだいに退いて、ついに人道的感情がそれに変わる。

コントはいわゆる進化論者ではないけれども、この点において、人類の進歩を信ずる。

(引用おわり)
田中です。
ドイツの人定法学者とされるイェリネックの『法・不法及び刑罰の社会倫理的意義』には利他的性質というのは、最初オーギュスト・コントによって用いられた、とある。(第一章社会倫理学 p30より)

(引用開始)
人間には二つの主要な性質がある。よりよく言うなら、その諸性質を二つの群類に区分することができる。一つは、単にそれによって支配される個人にだけ関係するもので、利己的性質であり、他は、なんらかの様態でその結果が行為する個人以外の者の利益となるような行為を促すもので、利他的性質と呼ぶことができるだろう。後者のある程度の存在がなければ、不断に形成されてきた社会構成は考えることはできない。
(中略)
しかしまた、社会はある程度の利己的本能が存在しなければ考えられない。利他心なくしては、決して社会構成分子の交互作用が生じないように、利己心即ち個々人の抵抗能力の完全なる欠如は社会成員の消滅を伴うだろう。かくて自然哲学が引力と抗力とから物質の世界を生じせしめるように、社会科学は利己心と利他心とから社会を構成するのである。

(引用おわり)

田中です。この利他主義に対するアイン・ランドの舌鋒は厳しい。『利己主義という気概』
(第2章 「利他主義者は緊急事態が大好き」 p78)より引用します。

(引用開始)
利他主義の倫理を受け入れていると、次のような結果に苦しむことになる。(その苦しみは、利他主義を受け入れている程度に比例する。)

一、 自尊心が消える。利他主義の倫理を受け入れている人間が価値の領域において一番関心があるのは、自らの人生をいかに生きるかではなく、人生をいかに犠牲にするか、だからである。
二、 他者への敬意が消える。(中略)
三、 生きること、存在することを悪夢のようなものだと思う。利他主義の倫理を受け入れている人間は、人類は「悪意ある宇宙」の中に閉じ込められていると信じているからである。(中略)
四、 倫理に鈍感に無関心になる。道徳に対して希望をなくし冷笑的に無関心になる。(中略)

他人を助けるという問題を、中心的な一番重要な倫理的問題として持ち上げることによって、利他主義は人々の間にある真正で偽りのない仁愛と善意を破壊してきた。

(引用おわり)

田中です。アイン・ランドが批判する利他主義者やヒューマニズムは、私が思うにコントの人定法思想の説く利他主義だけではない。自然法の生み出した人権思想や、自然環境保護思想などの「権利」を主張する人々をも当然意味している。

コントは「権利」を言うことを嫌った。ルソーの「一般意志」を「否定の哲学」として旧制度の破壊には役にたっても、新しい時代の創造の役には立たない、と考えた。コントは社会内の存在としての「義務」を重視した。これはイタリアのジュゼッペ・マッチー二と共通する点である。

イエリネックの言うようにコントの人定法は両者のバランス(ある意味では妥協)を人間が作りだしていこうという思想だ。だから、本来極端な利他主義など人定法からは生まれてこないはずなのだ。しかし、副島先生が今日のぼやき「1374」(会員のみ)で述べられていることはその反対である。引用します。(『学問道場』のサイトの方へ。ごめんなさい)

(引用開始)
ナチュラル・ラー(自然法)派 と闘うべくして出現したのが、ポジティブ・ラー(人定法)派であった。これは神(天)、つまり 自然の摂理(プロビデンス) があって、それが人類の世界をも大きくはつくり上げ、そして神の名と言ってもいいが、そういうので支配しているという考え方に対立して、そうではないと。人間世界は人間たちが自分たちで決めるのだという考え方から、ポジティブ・ラーという思想が起こっていた。

 これが ジェレミー・ベンサム という愚劣(ぐれつ)なイギリスの思想家の流れになり、ベンサマイトとして、ある種のユダヤ人の実感を込めた思想として存在した。しかし、それはドイツではナチス・ヒトラーたちの思想としても実現し、リーガルポジティビズム(法人定主義(人定法主義))派の思想は、今でも大きなドイツやイギリスの法学者の勢力である。

 すなわち、神が決めるのではなくて、人間がみんなでまとまって決めるという思想です。しかし、これは同時にファシズムも生んでしまった恐ろしい思想である。

 リバータリアンの系譜も、大きな流れではどうもこの ポジティブ・ラー の系譜に所属し、神による穏やかな秩序とか、そういうのは認めない。倫理や道徳も個人に所属するのであって、宗教的な権威や人間の人知を超えたところにあるルールからの命令のようなものを拒否する。

(引用終わり)
田中です。私は法思想には疎いので、英独の人定法主義については知りません。
けれども人定法思想が、有機体説とあいまって、ファシズムを生む土壌となっていったことはよくわかります。
またこの流れは「統制経済」やいまの「健康帝国ナチス」的な時代(宮崎 尊 みやざき そん訳)にまで続いている。
南原繁も先ほどの『政治理論史』の中で、コントの思想が、大きな矛盾を抱えていることを指摘しています。(p354)
以下引用して終わりとさせていただきます。
(以下 引用開始)

本来、コントのもっとも重要な意義は、物理学、とくに生物学の類推によって、人間の道徳ならびに政治生活を近代科学的に説明しようとしたことであり、そして人類社会を一種の進化過程において眺め、有機体的な協同生活をもって社会の理想としたことである。
そのために、彼は社会を拘束し来たった過去の神学的絶対命令や形而上学的断言命令に変えて、もっぱら実証科学的な法則をたてようとしたのであった。ここにわれわれは近代社会学の創意と科学的精神の凝集をみるのである。

そして、その理論の根本原理を「連帯性」に求め、社会の協調を力説したことは、後代フランス社会学固有の理論となって受け継がれ、その思想と主張には人道主義的、または広く理想主義的な基調が見られる。
(中略)
しかし、コントの社会学において、道徳および政治生活の中心観念である、「連帯」の理論が、果たしてさような政治社会の根本問題の解決をなしうるであろうか。一般に連帯というのは、要するに、愛他的(利他的)な感情であって、もともと実証科学の上に立とうとする彼が、このような感情に原理的根拠を求めたこと自体、その方法との矛盾を語るものである。
(中略)
(コントのいう実証主義(人定法)は弁証法ではないのであるから、原理的に利己主義と利他主義は両立しえない―田中 引用続けます)

この点において、コントの隠された理想主義=目的的要素を前提するものといわなければならない。それなくして、単に実証的に忠実であるだけで、本来の政治哲学は成立しうるものではない。

近代科学、なかんずく物理学=生物学的方法に出発した彼が、いったん自ら捨てたはずの神学的段階、ないし神秘的段階に最後に立ち返ったことが、そのことを証明している。ここに、彼の認識方法は急転し、いまや理性はかえって感情ないし心情によって、照明されることを要し、ただ主観によってのみ統一的把握は可能となった。

実証主義者コントにとって、ついに科学の上に宗教が位し、認識や行動の上に感情が君臨するようになり、かくして彼の掲げた諸科学は新宗教への準備にほかならなかった。
(引用終わり)
田中進二郎拝

福岡五十鈴 投稿日:2013/05/06 18:13

【1122】[1277]背水の陣を敷く国

>ごめん寝コたんさん

 お財布が空っぽになり、借金で首が回らなくなると、
 精一杯の見栄を張って女を使い倒すんですよ。
 みーんなやること一緒。

 男同士で戦ってるのが普通なのに、
 女のことをとやかく言い出したり、それを取り上げお題目唱え出したら
 人でも国でも背水の陣である証拠だなと思ってます。