重たい掲示板
書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。
旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください
書き込みの連番がリニューアルによりリセットされております。旧サイトの書き込みの連番は[●●]で表示されております。ご了承ください
※ログイン後に投稿フォームが表示されます。
Loginはこちら【1200】[1381]開発”ムラ”というシロアリ
会員の高橋郷です。
副島先生には、出会う度に怒られている未熟者です。
以下、掲載させていただきます。
「白アリ」。公費で生活をしている公務員を称して、そう形容される。
しかし、そう称されるべき業界は他に存在する。
それは、ほかならぬ”ODA” 政府開発援助業界だ。
財政縮小に伴い、国庫負担のODA額も減少しているが、それでもまだ6000億円近い予算が組まれている。そしてそこに、白アリのごとく群がる、開発“ムラ”業界が存在する。
彼らは、いわゆる“開発コンサル”として、インフラや設計関係を中心に活動を展開する。その数や種類は、数百に及ぶ。その多くは、JVとよばれる合同企業体の形態をとり、外務省から委託を受けたJICA(国際協力機構)によって管理されている開発案件に入札してくる。
合同企業体といえば、聞こえがいいが、要は同じ甘いみつを吸うための巨大な談合集団に他ならない。一度この”ムラ“社会への参入を許された会社は、仲間として認められ、共にODAの甘い蜜を吸いながら年月を過ごしていく。
だが、その内実は、NGOら非営利活動団体が少ない原資のなかで、必死に行う草の根の援助活動とは大きく異なる。
調査業務と称しては、国際線のビジネスクラスででかけ、現地では、途上国とはいえ、シェラトンなどの、高級ホテルでの生活が待っている。
これらは全て、途上国支援のための政府の国庫で賄われている。
そして、こういった業務を精査するJICAの積算室。ここの年配の職員も民間出身、いわば同じ“開発ムラ”の出身者によって占められ、同じ“ムラ”の仲間が、甘い蜜をすうのをサポートする。
知り合いのゼネコン関係者はいう。
「国内の入札業務で勝負するのはばかだ。同じ土建でも、国際分野ではずっと楽に、極上の待遇で公共入札を手にすることができる」と。
私もNGOとして、震災支援、アフリカ開発支援を行ってきているので、この現実にはあきれてものがいえない。いつも思う。「なぜ、ODAは、現地の視線にたった、本当の草の根の国際協力の私たちを応援してくれないのだろう」と。
JICAの現地職員はいう。「JICAは、日本政府を代表しています。NGOはNon Government、なのだから、勝手にやってください。」と。
そのシロアリがたかる“開発ムラ”で、近年、目覚ましい業績(利益)を上げている、山下設計(本社:日本橋)がある。最近では、スー・チー女史が春に来日したばかりだが、民主化の進展が著しいミャンマー案件を中心に入札を勝ち得ている。
この会社は、評判もよろしく、最近では今年(2013年)の7月に佐賀県で、贈収賄事件を引き起こしたばかり。「県、山下設計を指名停止処分 大町町贈収賄」
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2506120.article.html
その仕事のやり方は目を覆うばかりにひどい。国際業務部の木村孝明部長は、現地の状況をろくに調査もせずに、現地の大使館のせいにして、「(ミャンマー大使館)松尾参事官の意を踏まえ、ミャンマー側への懲罰的意味、自助努力の促進も含めた案です。」と関係者にメールを流し、現地の人々の思いを踏みにじった案を平気で押しつけてくる。しかも、他の開発関係者には罵詈雑言をあびせ、どうでも良い個所を何度も直させては(しかも一回ごとにコメント内容が矛盾している)、「時間が無駄になり、かっとしています。」などと、メールをよこし恫喝をしてくる。
これは、同じく国際事業部の部長、長岡嶺男氏が、自分の子飼いの横山元晴氏を使ってやってくる手口である。 このような、小人のやるような、暴力団まがいのことを行い、自分たちを権力者だと錯覚している、国際事業部の面々、が、国の基幹である外交をわが物顔に闊歩し、ODAという甘い蜜をすっている実態を許していいのだろうか。
業者の中には、公文書偽造まがいのことをして、開発案件を手にするところさえある。
おごれるものは久しからず。ODAに群がる開発“ムラ”の現実が暴かれる日がくることを願います。
高橋拝
【1199】[1380]群馬の旅 上毛かるた紀行 「平和の使い 新島襄」
K.Y.です。いろいろあって、実名を伏せて、K.Y.で、群馬から投稿します。
NHKの大河ドラマでは新島襄と八重の話をやっているそうですが、新島襄と言えば、群馬では上毛(じょうもう)カルタの「へ」として知らない人はいない、「平和の使徒(つかい) 新島襄」。キリスト教の関係の方だそうですね。それも、巨大権力ローマ・カトリックに反抗するプロテスタントの一派の方です。
「大河ドラマで持ち上げられるような人物は常に怪しい」という、副島先生におさっている(教わっている)わたしたちの常識に従って、新島襄をちょっとネットで調べていると、とても素敵な取材ブログがあったので、みなさんにご紹介します。ブログの名前は「いつもハーレーに乗っていたい」、上毛カルタにそって旅をしている方のブログです。ブログでは素晴らしい写真も見られますので、ぜひブログを見に行ってください:http://blogs.yahoo.co.jp/wtydf801/23921692.html
貼り付け始め
群馬の旅 上毛かるた紀行 「平和の使い 新島襄」 2010年1月24日
群馬の旅 上毛カルタ紀行 29枚目の札 「へ」は、「平和の使い 新島襄」
みなさん こんばんは!久しぶりの休みを利用して、行ってきました上毛カルタ紀行。今回は、明治維新の偉人 同志社大学の創始者、キリスト教の伝道師、新島襄さんを訪ねる旅です。
それでは、新島襄とゆかりのある群馬県安中市に行ってみましょう!(K.Y.中注: ここに、新島襄先生旧宅 の写真あり)
新島襄は1843年、江戸の神田にあった安中藩板倉家江戸屋敷で藩士の子として産声をあげます。幼名七五三太(しめた)。四人姉妹の後に生まれた男の子。襄が生まれた時、祖父が、「しめた!」と喜んだ事から名付けられました。
1864年、日本の夜明けまであと4年。七五三太、元服を過ぎた21歳の時、アメリカ渡航を画策し、一人函館に潜伏します。この頃、脱国は重罪。1853年、ペリー来航に影響され渡米を画策した人は多く、吉田松陰も試みますが失敗。投獄されてしまいます。
函館でロシア領事館の司祭、ニコライ・カサートキンと出会います。七五三太はカサートキンに日本語を教え、カサートキンは弟子になるよう説得。しかし、七五三太の渡米への意思は固く、カサートキンはアメリカ渡航に力を貸します。函館からアメリカ船ベルリン号で上海へ。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えます。(K.Y.注: ここにホレス・S・テイラー船長の写真あり)
ワイルド・ローヴァー号のテイラー船長に可愛がられ「ジョー」と呼ばれます。南アフリカを回り、大西洋を渡ってボストン上陸。(K.Y.注: ここにアルフィース・ハーディー夫妻の写真あり)
船主のアルフィース・ハーディー夫妻の援助でフィリップス・アカデミーに入学。その後、アーマスト大学、アンドーバー神学校(洗礼を受ける)に進みます。アーマスト大学では、日本人初の学位(理学士)を取得。化学の先生は、後の札幌農大学のクラーク博士。ジョーとの出会いが、クラーク博士来日の切っ掛けとなります。(K.Y.注: ここに 大学=当時の文部省 からの免状 米国留学免許候事 の写真あり)
当初、密入国者とされていたジョーでしたが、駐米大使森有礼から正式に留学生として認められます。1867年、ジョーが勉強中日本は明治に変わります。1872年(明治五年)岩倉使節団来米。ジョーは木戸孝充に語学力をかわれ、使節団とヨーロッパを歴訪。(K.Y.注: ここに岩倉使節団集合写真あり) {二列目中央黒いスーツは、心の灯台 内村鑑三(K.Y.注: 上毛カルタの「こ」の札) その横にひげを生やした 平和の使い 新島襄}
「こ」の札 軽井沢 石の教会の内村鑑三。覚えてますか?(^^)
1874年(明治七年) 11月 横浜港10年前、一人アメリカに渡ったジョーが、日本に帰ってきます。翌年1875年、同志社大学の前身同志社英学校を設立。(K.Y.注: ここに新島襄の写真と上毛カルタの「へ」の札を並べた写真あり)
教育者として、大隈重信と親交があり同志社大学と早稲田大学は、今でも学生交流制度があります。(K.Y.注: ここに 「日本キリスト教団 安中教会」 の看板の写真あり)
1878年(明治十一年)新島襄が設立した安中教会。(K.Y.注:ここに安中教会の外観写真あり)
石造りの教会。幼稚園も併設されています。132年前に建てられました。新島襄の生涯を知った後見ると感慨深いものがあります。(K.Y.注: ここに入り口のドアの写真あり)
入り口のドアも、味があります。(K.Y.注: ここに新島襄と八重の写真あり)
妻、八重さんとのツーショット。八重さんは、会津藩砲術師範の娘。戊辰戦争では、会津若松城に篭城。男装し鉄砲を持って最後まで戦い、現代では、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれているそうです。帰国後、両親と共に安中の旧新島邸で三週間暮らし、その後、学問、キリスト教の普及活動に奔走。1890年(明治二十三年)前橋で倒れ静養先の神奈川県大磯で46年の生涯に幕を閉じます。波乱万丈の人生、人との出会いの大切さを教えてもらった気がします。
群馬の旅 上毛かるた紀行 30枚目の札 「ほ」は、「誇る文豪 田山花袋」です。
貼り付け終わり
【1198】[1379]10%上納
偉大なるロックフェラーのフィランソロピーの思想ですね。10%上納 笑
【1197】[1375] [1374]の若者へ
前田和寿です、
[1374]の若者へ。
分別ある大人とは、黙ってお金儲けをするものです。自分の収入も資産額も口には出しません。あなたの人生だから好きに生きればいいけど、もうちょっとだけ大人になるといいよ。自分の自己重要感を自分で満たせる術を覚えるといいですよ。あなたがお金持ちになれる事を願っています。
【1196】[1370]1344大川さん大変遅くなりました
中野剛志「反・自由貿易論」と「TPP亡国論」(こちらは間違って別の本を買ってしまいました)はお勧めいただいた後、すぐ読み終わっていたのですが、投稿が大幅に遅れてしまいすいませんでした。
結論から言うと、TPP加盟は全体として日本の国益に反し、アメリカのやりたい放題になる恐れが非常に高いと思います。ぼくの勉強不足かも知れませんが、モノづくりを忘れたアメリカにもはや国際競争力のあるメーカーはほとんどないように思えます。アメリカの狙いはズバリごり押しによる金融・保険、知財、政府調達分野への参入とそれに伴う裁判や紛争でもぎ取る魂胆の賠償金・和解金でしょう。
オバマさんはお膝元のデトロイト市の破綻、国内景気不振により支持者から相当突き上げを喰らっているのでしょう。年内に性急に妥結する必要性は少なくとも日本側にはありません。全く余裕がなくかなり追い詰められているのはアメリカの方です。
中川八洋「TPP反対が国を滅ぼす」は農業分野には当てはまると思いますが、日本全体のことを考えると必ずしも賛成できません。反共精神のあまり、後半は感情的論調です。
自由貿易か保護貿易かという問題はどちらか一方だけが常に正しいとは限らないと思います。その時の自国の国内事情や世界情勢によって使い分けるのが現実的です。少なくとも貿易のために古来からの慣習・法律・言語を他国の介入によって変更を強制されてはいけないし、それこそ本末転倒です。多国籍企業は資本力にものを言わせていくらでも国境をやすやすと越えられても、一般庶民はそうはいきません。経済はボーダレスになっても、政治的にはますますボーダフルになってきているのは、民族・宗教的に相容れない国がいつまでも敵対をやめなかったり、小国がどんどん分離独立していく様からも明らかです。
とにかく、今回は大川さんのおかげでいい勉強になりました。
【1195】[1369]クレバーとシタタカサ
その前の晩は、たくさんの来客があり、少々深酔いして、今朝(9月8日)は10時も廻ったころに目覚め、そして居間に出てきますと、家内が民放のテレビ番組を見ておりました。
まだ、幻覚状態の私にはその番組の内容が掴めず、「オリンピックはどこに決まったの?」と家内に訊くと、「東京だ」と言う。ボーとしている私は特に何も感じませんでしたが、そのまま番組を眺め続けていると、招致委員関係者の現地祝賀会会場での、お決まりの招致関係者へのインタビューが始まりました。
しかし、招致委員会の委員の一人である鈴木大地の話で、一変に私は覚醒したのです。
要約すると、こんな感じでした。
インタビュア おめでとうございます。今のお気持ちは?
鈴木 「嬉しいです。だから、こんなに酒臭いでしょう。でも今晩だけは勘弁してください。明日からはちゃんとやりますから。」
インタビュア いろいろと大変だったでしょう!
鈴木 「いいえ、そんなにやったわけではありませんから。でもここにいない人、表には出てこない裏で活躍してくれた人を思うと、こうやって目から汗が出てきちゃあうんですよ。」
そして、お決まりのインタビューが少し続いたのですが、最後に
鈴木 「ごめんなさいね、こんなに酒臭くて」(と言ってインタビュアに息を吹きかけるマネをする)
しかし、テレビで見ている私にはどう見ても、彼は酔っていたようにも見えないし、口調もまったく酔った様子もありませんでした。
そこに彼の人間性と、クレバーさ、そして、シタタカサを見たような気がしたのです。
彼のほんとうに短い発言でしたが、招致関係メンバー間の暗黙の了解だったとしても、決して公に口にしてはいけない言葉を彼が発したようにも思えたのです。しかし、その発言で彼が自分の責任ある立場を追われることもないように、しっかり演技して、そこも防御していたようにも感じられたのです。
つまり、彼の発言を聞いて咄嗟に頭に浮かんだのは、前東京オリンピックの招致時の、日系二世、ロス在住だった『和田・フレッド・勇』さんのことです。今は故人でいらっしゃいます。
当時の東京オリンピック開催が決定された年は戦後14年経ったとき(1959年)ですが、当時の世界の多くの国の人々は、日本人が大嫌いだったと断言しても過言ではないでしょう。
日本人と言えば、例えば、メガネを掛けたチビで出っ歯な人種で、ペコペコしているが、こすからい卑怯な奴ら・・・・・と、いくらでも悪口を挙げることができます。そして、日本と言えば貧乏な国で、作り出す製品は低品質の物真似、安物。
しかも他の立候補地には、アメリカのシカゴもあり、当時のアメリカ大統領・アイゼンハワーがIOC総会に招致のための親書までも送っています。それだけではありません。東京前の開催地はすべて白人国家ですし、東京の二大会前のメルボルン大会(1956年)の時でも、金メダルを争えるような世界的実力を備えた日本人競泳選手ですら、練習・調整では白人選手が泳ぐ公式の練習プールに入れてもらえないような状況でした。
しかし、当時の招致委員には冷静沈着に状況判断と策を練れ、しかも世界を知る人たちがいたのです。
ここでそれを語ることが本旨ではないので、詳細は省きますが、シカゴに勝つ為には、そのアメリカの裏庭的な中南米諸国の票が取れれば、マイナスとプラスで倍の票になる。そのためには、一介のスーパー経営者ではあるが、中南米諸国にコネがあり、信頼も厚く、それらの国の人々の心境も知る前述の和田氏にお願いするしかないと、彼に白羽の矢を立てたのです。
だからと言って、和田氏と親交の深い日本の招致委員が個人的頼みに行って、まるで、「和田さんだったら、誠心誠意をもって彼らと話をすれば良い結果が得られはずです」みたいな頼み方すれば、和田氏だって、困惑するのみでしょうし、まずは和田氏に対して全くの礼を失している如きのストーリーで終わってしまいます。
その招致委員は当時の岸首相に和田氏宛ての親書をお願いし、それを携えて和田氏に会いに行き、お願いしたのです。
もちろん、その親書に何が書かれてあり、和田氏がメキシコを最初に訪れ、そして他の中南米諸国でどんな話をして説得にあったたのかは、私如きにはまったく知る由もありません。
しかし、私でも知っている事実はたった二つ、それは圧勝で東京開催が決まったことと(シカゴは2位)、その後、次の開催地がメキシコシティに決まったこと。
もちろん、私には政治、外交、そしてこのような外国(人)との交渉経験はまったくありませんので、別世界の話です。ただ、生きてきたというだけの経験ですが、この二つの事実が何を物語るかは、私なりの多少の勝手な類推はできます。
当時の私の年齢では、このようなことを知るはずもありませんが、この話を普通の日本人が知るようになったのは、むしろ和田氏がお亡くなりになってからだと思っています。
(もちろんその当時、そういう話は和田氏のアメリカ社会での立場やセキュリティーを顧慮して、今の我々の庶民感情論は別にして、伏せることが当然でしょう)
ここで、和田氏に礼を失することなくということを書きましたが、実はそれ以降の無頓着極まるお願いを和田氏に依頼するスポーツ競技団体組織が数々出現し始めたからです。
つまり、当時の日本の各スポーツ競技団体組織には金銭的余裕がなかったことは事実でしょうが、アメリカで開催される様々な国際競技大会に出場する日本選手対する、日常的世話や寄付金集めを和田氏にお願いしたという行為です。
もちろん、お願いするにはそれなりの話をしたのでしょうが、「母国、日本の選手のためによろしくお願いします」。
まったく、和田氏に対し、非礼極まりない話です。
つまり、和田氏の母国は日本ではなく、アメリカ合衆国なのですから。和田氏本人はそれをどう受け止めたかは全く知りませんが、ロスの日系人の間では非常な嫌悪感を持たれた話です。
少し、荒っぽい言い方ですが、私の過去の経験ですと、ロスとハワイの日系人では日本人に対する感情が異なっていました。
はっきり言って、ロスの日系人の多くの方々は日本人が嫌いでしたし、一方、ハワイの日系人の方々は日本人に親しみを覚える人が多かったように感じられました。むろん、今では私自身、ロス、ハワイ、共に長らくご無沙汰していますので、現在のことはまったく分りません。
ここで、冒頭の話に戻します。
そして今日のその後、鈴木は再びテレビのインタービューに駆り出されていますが、ここで私が紹介した話はオクビにも出していません。
それどころか、開催国としての与えられた特権に言及しています。
つまり、個人競技であれば、オリンピック標準記録にも及ばない個人競技者、もしくはオリンピック地域予選に勝ち抜けなかった団体など、これを開催国の持つ特権で推薦してオリンピックに出場させることができるのです。
そして彼の発言趣旨は、こういう競技者(団体)にもオリンピック出場に希望をもって頑張ってもらうため、この為の(オリンピック)予算を獲得できるように自分は努力したい。
つまり、ロンドンオリンピックで言えば、その特権を使って、やっと泳げるような旧植民地だったアフリカの競泳選手を、確か自由形だったと思いますが、出場させました。もちろん、結果はオリンピックでの予選で、大きく水をあけられた惨敗です。もちろん、これはイギリスのパフォーマンスですが、イギリスとしての貴族の沽券を世界に見せつけようとしたのです。
話が逸れついでの蛇足ですが、前回の東京オリンピック当時の開催国の特権は、その大会に限り、一つの競技だけですが、オリンピック正式種目とすることができたのです。
それが柔道でした。
柔道と言えば、私にとって真っ先に思い浮かべるのは嘉納治五郎です。当時、スポーツという概念がなかった明治の日本で、それまで柔術として戦場で戦う術として発達してきた各諸派を纏めて、スポーツとしての概念を入れた「柔道」の礎を作った人です。
つまり、西洋から見れば、開国したばかりの汚い奇妙な後進国であった小人(コビト)の国、日本にあって、彼はその貴族然としての立ち振る舞いと、「柔よく剛を制す」を外国で実践して見せ、大男達を投げつけ、西洋各国に人脈を着々と築きあげていきました。そして、幻で終わってしまいましたが、1940年の東京オリンピック開催に彼の人脈と政治力(交渉力)が大きく寄与したのは事実だと思っています。
話逸れついでに行きますと、私の自宅から講道館は15分程度のところにあります。そんな地理的な関係から、柔道金メダリストの山下や前柔道男子日本代表監督のSを、道通りすがら程度ですが、見かけたことがあります。
Sは付け人のように数人を従えて、首と手首に金ピカじゃらじゃらを付けて、小脇に小カバンを抱え、その体格と風貌からして、まるで、あの業界の人であるが如く。そして山下は、「エッ、今のは山下じゃない」と振り返るような地味で目立たぬ感じを受けました。
ですから、Sがその後、柔道男子日本代表監督に就いた時には私は暗雲を感じたことがありました。たまたまでしょうが、結果、その時の男子柔道のオリンピック成績はその通りでした。
昨年からの柔道界の一連の不祥事の表面化から、やっと山下が協会の表舞台に出てきた時、彼のまるで徳川家康の如く、「ホトトギスが鳴くまで」待ったという、したたかさを、希望をこめて見たような気がします。
柔道界という組織に於いては、講道館柔道、警察柔道、そして学生柔道という三つの世界で組織が成り立っていることも私は知っているつもりです。
もちろん格式に於いては講道館ですが、実際の力を持つのは警察柔道で、そこに寄り添いながら力を維持してきたのは学生柔道界の名門校です。
しかし、近年ここに来て日本柔道界に危機感を覚えていた人たちの力が結集してきたようです。
それが、柔道女子日本代表監督(警察が出身母体)が女子選手に対するセクハラと暴力の表面化で辞任に追い込まれ、ついで成績不振にも拘らず、次のオリンピックにも続投が認められていたSも辞任に追い込まれました。さらには、その巻き返しができないようにの如く、Sの母校である天理大柔道部のちょっと古い暴力不祥事件が、最近、表沙汰になったところは記憶に新しいところです。
私の話が纏まりのつかないところですが、鈴木大地と言えば、ソウルオリンピックの背泳100mの金メダリストですが、バサロ泳法(キック)の長所を上手く使い、短所を知り尽くし、長身が有利な背泳において大きな選手を相手して小柄ながらも、ほんのタッチの差で勝利を手にした競泳選手でした。
それほどの緻密な選手でしたが、レース後のインタビューでは、「本番のプレッシャーで計算していたよりも早く浮き上がってしましました」と、本音を率直に述べていたことも記憶しています。
(その後、バサロキックはスタートとターンから15m以内と規定が変更になっています)
また、和田氏の活躍を依頼した組織委員は鈴木と同じ競泳出身者でしたので、引退後の鈴木は近いところでそういう話を聞き、そういう人たちから、その頭脳と人間性を見込まれ、組織のトップとしてのエリート教育を受けていたのかもしれません。
しかし、当時とは違い、今の時代及び社会状況等から、思い出話ではなく、一回でも一言でも、そういう人(達)を公に口にすべきだと彼は思っていたのかもしれません。
ここでは、オリンピックの意義とか、影響等の様々の議論は別な角度の話として、そういう『クレバーで、したたかな』円熟期をこれから迎えようとしている日本人たちが日本にいることを知り、そして確信できたという、私にとっては良い一日を述べたに過ぎません。
まあ、次の東京開催まで私が生きているか、どうか、これも全く別な話です。
【1194】[1368]半沢直樹「何が面白いの、これ。」
小幡績PhDの行動ファイナンス投資日記 リンク
http://blog.livedoor.jp/sobata2005/archives/51918091.html
【1193】[1367]半沢直樹に負けない、生(なま)の権力闘争の裏側を覗く
こんにちは、前田和寿です。
最近、半沢直樹が流行っています。あれほど根性のあるサラリーマンって、もう日本にはほとんどいないでしょうね。あんな作り話ではなく、本物の権力闘争の裏側を暴力団・山口組の元幹部が語った回想録が出版されました。
『鎮魂』盛力健児著(宝島社) http://amzn.to/15CAQYD
山口組は3代目の田岡一雄組長が死んでから、現在の6代目組長まで内外で様々な抗争がありました。詳しくは本を読んで下さい。
著者の盛力健児さんは、山口組の中枢で先頭に立って貢献して、本来ならこの人が山口組の組長になるだろうと言われていた人みたいです。迫力がハンパないですが、そんな彼が如何にして権力闘争で負けて行ったのか、そして、5代目から6代目に変わるクーデター事件の真相などが語られています。(ちなみに、北野武の最新作『アウトレイジ ビヨンド』はこのクーデターを元にして作られているはずです。)
相手を蹴落とすために盃を交わした兄弟にも平気で嘘をつき、義理人情を捨て去り、トップを勝ち取ろうとする姿が暴力団の世界にもあります。
私たちのように平凡に暮らしている人間には、分からない闘いを権力者たちは常にやっています。今の自民党内部でも、この山口組の争いと同じ事が起きていて、誰が誰を騙して、誰が誰を謀略させ、自らがトップを取るのか、じっくりと彼らの気持ちになって観察しなければ、政治は分からないと改めて感じました。勉強になりました。
私は、この本を読んで山口組もバブルまでは金がなかったんだと初めて知りました。あと、根性の無いヤクザ者もトップにはいるんだと知りました。
何よりも、ヤクザ者の任侠道=義理人情が消えつつあって、お金のみを優先するようになっているようです。今の6代目はしっかりされているようですが、6代目の後、山口組は簡単にアメリカに操られてしまうんだろうなって感じました。ヤクザも牙を抜かれつつあります。
前田和寿
【1192】[1366]憲法について
日本人の多くが今の憲法を守ることが平和につながると思っている。それ故に平和憲法などと呼ばれている。
外国から攻められようと、ただ戦わないことが平和の精神であり、アメリカにお願いすること一番いいのだと思っている。 攻められても軍隊や武器を放棄するといっている。でもそれをすることが緊張緩和につながるし、かえって外国に信頼を得られる手段である、日本の繁栄の基であると思っている。
でも日本人が北朝鮮に多くの人が拉致されているでも取り返すこともできない、国のために犠牲者となった人の霊を慰めるために靖国神社に政治家が参拝に行くことも外国から非難される、
沖縄県民が反対している基地を取り返すこともできない。他の日本人は仕方がないとあきらめている。自分さえよければいいということなのだろうか?日本人の誇りはどこに行った
わたしは下記の情報を見てそう思いました。
http://www.realinsight.tv/member/issue09_2013/video-1/
【1191】[1365]『中国人の本性』
山深し 島の本性 羅針盤
やまふかし しまのほんせい らしんばん