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Loginはこちら【1216】[1407]日本書紀と天武の正統性の問題
1404の続きです。
額田王、近江天皇(天智)を偲ひて作る歌
君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く(488)
鏡王女の作る歌一首
風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ(489)
額田王と鏡王女は姉妹であると云われています。二人は、白村江の敗北の後、大海人皇子と共に大和王朝に身を寄せていました。額田王が、秋の風のそよぎに恋しい人の来訪を感じているのに対し、鏡王女の方は「風を良き人の来訪の予兆と感じるあなたがうらやましい、私には誰も訪ねてくる人がいないのですから」と歌い返している。
額田王が天智天皇と既に結ばれていたのに対し、鏡王女は孤閨をかこっていた。彼女には次の歌もある。
神名火の 伊波瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ わが恋ひまさる(1419)
鏡王女は、恋しい人と別離の状態にあった。
私が二人の女性の動向に注目するのは、壬申の乱の起因に、鏡王女が関係していると確信しているからです。和歌に興味のない方には、退屈で煩わしいでしょうがもう少しおつきあい願いたい。
天皇(天智)、鏡王女に賜ふ御歌
妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを(91)
鏡王女、和たへ奉る御歌
秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ益さめ 御思ひよりは(92)
お互いに敬意をもち、相手をやさしく気遣っている挨拶歌である。鏡王女が大和へ身を寄せていた時、夫と別離していた、その夫とは何者であったのか。倭国の国王である、と言うのが私の確信です。何故なら、倭国王は不在でした。唐に連行され、唐の都長安で捕虜になっていたのです。誰も指摘しませんが、これは日本書紀から判明する事です。天智天皇も倭国王に敬意を払い、鏡王女に失礼の無いように接していた。
ところがです、あろうことか天智の片腕である中臣鎌足が、鏡王女を所望したのです。
内大臣藤原卿、鏡王女を娶(よば)ふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌
玉くしげ 覆ふを安み 開けて行かば 君が名はあれど わが名惜しも(93
内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌
玉くしげ みむろの山の さねかづら さ寝ずはついに ありかつましじ(94)
内大臣藤原卿、采女安見児を娶(ま)きし時作る歌
われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすといふ 安見児得たり(95)
(95)の歌は、采女安見児となっているが、鏡王女に違いない。あまりにも露骨すぎるので万葉集の編者が配慮したのに違いない。
鎌足の勝ち誇っている雄叫び「誰もがものにするのは難しいと云っている倭王朝の皇后を、俺はついにものにしたんだ」と。
鏡王女の口惜しさにじっと唇をかみしめ耐え忍んでいる歌と好対照である。鏡王女と中臣鎌足の間には子供の誕生を見なかったが、鏡王女は藤原氏の氏母として藤原氏の社寺に祭られている。大海人皇子は、土を舐めるような屈辱に耐え忍び延命を図らねばならなかった。
【1215】[1406]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅶ
1404の続きです。
661年八月に始まった倭国の朝鮮半島出兵は二年後の663年八月、白村江の敗北で決着を見る。『旧唐書』劉仁軌伝は次のように記す。「仁軌、倭兵と白江の口に遇う。四度戦い捷(かつ)、其の船四百艘を焚く。煙り炎は天に漲り、海水は真っ赤になった。・・・」と、『三国志』で有名な赤壁の戦いを思わせる地獄絵の再現であった。どれほどの倭兵が故郷に帰り着くことが出来ただろう。
日本の教科書は、これでこの事件は終わりとの様に書く。しかし、いまだ高句麗は健在であった。唐の真の目標は、高句麗討伐にあった。それに倭国も半島での戦闘力を失ったと云え、本国で戦闘があったわけではない、本国政府は依然健在であった。しかし、二年に亘り半島に兵を送り続け、惨敗に終わったのである。王朝の権威は地に落ち、王朝への信頼は完全に失われていた。秩序は乱れ、都の治安の維持も儘ならなくなっていた。そんな中、664年唐の使者・郭務宋がかなりの兵力を率いて筑紫に来たのである。郭務宋はこの時から671年まで四度も筑紫に来ている。(日本書紀)世界帝国である唐朝が、二年に亘り刃向かった倭国をそのまま見逃すわけがない。厳しい条件を突き付けられただろう。国民の信頼を完全に失ったいた倭王朝は、唐の要求に応えることがもはや出来なかった。大和王朝に縋り付くしかなかった。東国からの防人の徴集はここに始まったのだろう。関係は完全に逆転していた。倭国討滅は、中大兄皇子の胸三寸にあった。倭国の皇大弟・大海人皇子は、中大兄皇子(天智)におもねり取り入らねばならなかった。才色兼備として名高かった自分の妃・額田王(ぬかだのおほきみ)を中大兄皇子に差し出した。
天皇、蒲生野に遊狩(みかり)したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る (20)
皇太子(大海人皇子)の答えましし御歌
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも(21)
この一対の歌は、日本の詩歌で最も有名なものの一つです。額田王は最初大海人皇子と結婚し、その間に娘(十市皇女)を産んでいた。しかし、上の歌の応答のあった天智七(668)年には、天智天皇の後宮に入っていたのです。もう一首万葉集の歌を検討します。
天皇(天智)、内大臣藤原朝臣(中臣鎌足のこと、壬申の乱以前は中臣氏 は、まだ藤原を名乗っていない)に詔して、春山の萬花の艶と秋山の千葉の 彩を競はしめたまふ時、額田王、歌を以ちて判(ことわ)る歌。
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴くぬ 咲かざりし 花も咲く けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉 を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨め し 秋山われは (16)
この歌は、隠喩(metaphor)歌なのではないか。春山とは、興隆期を迎えていた近畿大和王朝(日本国)を指し、秋山は没落に向かっている筑紫王朝(倭国)を指す。そして秋の紅葉の中に残れる青葉とは、天智天皇に求められる、いまだ青春の色香の残る額田王自身を指している歌ではないのか。(つづく)
【1214】[1405]NHKスペシャル『中国激動~空前の農民大移住』
前田和寿です、
2013年10月6日日曜日、NHKスペシャルで『中国激動~空前の農民大移住』が放映されました。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/1006/
放送内容は、内陸都市の重慶で農民を都市の高層アパート(安置房)へ移住させるということでした。副島先生が言われる、中国政府によるシンガポール・香港型の生活スタイルへの移行のことです。
仕組みはこうです。
都市に高層アパートを作り、農民に無償で与えます。4人家族で3LDK(約100平米)ですから、日本なら2000万円ぐらいです。農民の多くは農村戸籍で、都市戸籍ではないため様々な制約があります。そこで、移住した人には都市戸籍が与えられます。農民の多くは高齢者のため(すでに若者は都市に出稼ぎに行っている)、都市戸籍になれば女性は55歳で、男性は60歳で年金を支給されます。1か月で1000元(約1万6000円)です。
「無償のアパート」と「都市戸籍」と「年金・社会保障」をセットにする事で抵抗なく移住させる実験を重慶市で行っています。
もちろん、抵抗する人もいますが、中国では村ごとで管理されているので、村ごとに移住を決めて動きます。そのあたりの事は副島先生の最新の中国本に書かれています。
そして、農地だった土地に企業誘致をして、そこで若い人を働かせて雇用を作るというモデルです。企業が誘致できれば、土地の値段が上がるので、人が住み始め、店ができ、電車が通って、さらに経済発展を遂げていきます。着々と中国は動き始めています。日本人と同じように平均年収400万円になるまで成長を続けます。
再放送すると思うので、ご覧になってください。
まだ学問道場の会員の方で、中国へ行ったことが無い方はダメですよ。中国の発展は想像以上です。日本など比べ物になりません。と、口でどれだけ言っても行かないとわかりません。
名前の知っているような大都市の市民はすでに洗練され、香港人のような落ち着きがあります。ぜひ中国へ旅行へ行かれて下さい。
前田和寿
【1213】[1404]天武天皇と日本書紀の正統性の問題Ⅵ
1398の続きです。
一月六日に難波津を出航した斉明天皇の一行が筑紫に着いたのは三月二十五日であった、と日本書紀は記す。そこで初めて百済王朝滅亡が知らされたのではなかったか。倭国は、しきりと百済遺臣の奮闘を言い、百済国民は王朝奪回に燃え、唐軍は窮地に追い詰められている、と主張する。しかし、もともと同盟に消極的であった斉明天皇は、倭国の言い分をそのまま信ずることが出来なかった。斉明天皇一行と倭国の間に不協和音が生じていた。
そんな中の五月二十三日、二年前に唐に派遣していた使者たちが帰ってきたのである。唐に現状を探らせるべく派遣した使者たちである。使者たちは、唐の都の壮大さ、その盛況さ、宮中人のゆったりと自信に満ちた態度など、唐朝にいまだ荒廃の色など見いだせないことを報告した。斉明天皇は、唐と戦争することの無謀さを確信した。倭国も態度を変えるものと思った。
しかし、ここで倭国の使者(長安に大和王朝の使者と同時に滞在していた)が大和の使者たちを讒(よこ)した、と日本書紀は記す。つまり、大和の使者たちはデタラメナ報告をしている。唐朝に買収されて誇大に唐を美化した報告をしている。我々の見てきた唐は、いたずらに華美に流れ、随処に頽廃が見られた。隋朝が早期に滅んだように、唐朝の命脈もそう長いことではないだろう。本来中国は分裂国家が常態なのだ、とでも言ったのだろう。その為、大和の使者たちは、報奨(めぐみ)を受けることが出来なかった、と記される。大和の使者たちの報告は否定され、倭国の使者の言い分が通ってしまったのであった。斉明天皇一行は、臨戦体制の整う殺気立った倭国のど真ん中に居た。籠の中の鳥であった。手も足も出しようがなかった。しかし、すでに高齢で女帝の斉明天皇は、即時の大和帰還を声高に叫び始めたのであった。斉明天皇一行に異変事が頻出していた。そんな中の七月二十四日、斉明天皇が突然薨去されたのである。あきらかに変死であった。まるで斉明天皇の存在が派兵開始の最後の障壁であったかのように翌八月、百済救国軍の派兵が断行されている。倭国には焦りがあった。旧暦では七月、八月、九月が秋である、晩秋から冬季の大軍の渡海は危険で困難であった、秋の深まる前に兵を半島に送り、百済残党と協力し拠点を確保する必要があった。百済遺臣が善戦奮闘を続けていると云え、一掃されるのは時間の問題であった。派兵開始のタイムリミットは八月までであった。
十月七日、中大兄皇子、天皇の亡骸を守り帰路に就く。十一月七日、飛鳥の川原にて天皇の葬儀を執り行う。
【1212】[1399]【お知らせ】10/26(土)定例会の、返信メールが届いていない方は、ご連絡下さい。
副島隆彦を囲む会の須藤と申します。
今月末2013年10月26日(土)に、私共「学問道場」の、本年最後の定例会を開催します。
これまでたくさんのお申込みをいただけまして、誠に有難うございます。
定例会にお申込みをいただいた方へのご連絡として投稿します。お申込みをいただいた後には、必ず私共からの「定例会についてのご案内のメール」がお届けされることになっております。しかし今回、この返信のメールがお届けされていない方が、今まで幾人か、いらっしゃいましたので、こちらであらためてご案内致します。
メール未達の原因は、記入されたメールアドレスの間違いや、送信サーバの不具合や、メールフィルターの誤動作、等と推測されます。
10/26(土)の定例会に既にお申込みをいただいている方で、もしもまだ定例会当日のご案内メールをお受け取りになっていない方は、私共のメール、お電話、またはファクス宛てにお問い合せ下さい。すぐにお返事致します。お手数をおかけしてしまい、申し訳ございません。
・「副島隆彦を囲む会」の連絡先
メール:snsi@mwb.biglobe.ne.jp
電話:042-529-3573 ファクス:042-529-3746
定例会ではまだまだ参加者を募集しています。
講師の孫崎享先生、副島隆彦先生、そして司会を務める中田安彦研究員による、渾身の現状分析と歴史に対する知見を吸収出来る、またとない機会です。是非お申込み下さい!
・「副島隆彦の学問道場」第31回定例会
演題:<b>「『戦後史の正体』と『属国・日本論』を語り尽くす」</b>
講師:孫崎享、副島隆彦
開催日:2013年10月26日(土)
会場:東京・御茶ノ水「全電通労働会館ホール」
開場:12:15~
・上記定例会(10/26)へのお申し込みはコチラです↓
http://soejima.to/cgi-bin/kouen/kouen.html
【1211】[1398]日本書紀と天武の正統性の問題V
1393の続きです。
倭国が661年八月まで半島出兵が出来なかった理由はハッキリしています。背後に台頭著しい大和王朝の存在があった。海外派兵は片手間にできる事業ではない。まして相手は唐の臣下に入った新羅である、倭国の総力を結集する必要があった。背後に控える大和王朝の協力を取り付けることが絶対条件であった。二つの王朝はこれまで何度か戦をしてきた過去を持つ。半島出兵中に背後を突かれてはひとたまりもない。大和王朝に協力要請をしてきたが、色よい返事をもらえずに来たのである。そこで倭国は、最後の切り札として大皇弟・大海人皇子(後の天武)を派遣し大和王朝の説得に当たった。(大海人皇子は大皇弟として日本書紀に登場する)それは659年の年末から660年前半のことである。よほどおいしい条件を提示したのだろう、大和王朝の協力を取り付けることに成功する。それが661年正月六日の斉明天皇の筑紫行幸発進として結実した。この斉明天皇の行幸を「新羅討伐軍の発進、斉明天皇親征伐」と解釈しているのが、日本史学の最大の誤りの一つである。
斉明天皇の筑紫行幸は、倭国と大和王朝の同盟が成立したことをお披露目する儀式に臨席する為である。大和の天皇自らが出向かなければならなかったことは、倭国の方が格上であったことを意味する。
どうして「新羅討伐の指揮を執るため」との解釈が間違いであるか説明する。出発の二日後、船中で大田皇女が女の子を出産した、と日本書紀は記す。今の兵庫県と岡山県の県境の海域であった。一行は、そこから愛媛県の石湯(今の道後温泉)に直行し二か月半も逗留している。大田皇女の産後を養ったとしか考えようがない。つまり、大田皇女を無事筑紫に送り届けるがこの旅の目的であった、と。
大田皇女は、中大兄皇子(後の天智天皇)の娘で、大海人皇子に嫁いでいる。大海人皇子は、660年前半、大和に滞在し、実権を執っていた皇太子・中大兄皇子と交渉し、協力を取り付けることに成功し、その果実として中大兄皇子の娘と結婚し、子を身ごもらせていた。
これから戦争を始めるという旅に、身重の、それも臨月に入っていた皇女を、どうして帯同させるのだ。前年の八月、百済王朝はすでに滅ぼされ、百済残党が各地の山城にこもり果敢にゲリラ戦を展開していた。倭国にとりその百済残党が頼みの綱であった。半島情勢は逼迫していたのである。そんな折に、身重の皇女を帯同して温泉に二か月半も長逗留するはずがないではないか。おそらく、斉明天皇は前年八月の百済滅亡を知らなかったに違いない。知っておれば大田皇女を伴って旅に出なかったろう。しかし、この旅の目的は、大田皇女を無事筑紫に送り届けることにあった。両王朝の結婚(同盟)が成立したことを披露する儀式に臨席するための行幸であった。
【1210】[1397]政治思想とは
私は女だから、実名を書くと嫌がらせされるのでハンドルネームで書きます。
福岡 五十鈴といいます。
政治思想とは何だろうか、と私もずっと考えていました。
政治思想とは、
「自分が、ただ乗り(フリーライド)するために、
誰を奴隷にするか?誰から奪うか?」
を決めるための考え方、だと思っています。
自分が背負うコストを0にして、リターンだけを享受するためには、
誰か他人に奴隷になってもらわなきゃいけません。
誰かを奴隷にするための理屈、それが政治思想だと私は思います。
思想の対立は、自分がフリーライドする側に回るための戦いであるので、
屁理屈の言い合いです。
各個人の立場は変わるから、それに伴い、屁理屈はころころ変わるのでしょう。
だからこそ自分を奴隷にしようとする敵が現れるまでは、
自分の政治思想は確定しないのかなと思います。
【1209】[1395]覇権アメと中国人の本性の感想
会員番号7543の伊里友一朗(いざとゆういちろう)と申します。
簡単に自己紹介致します。
年齢は29歳です。専門は工学で、具体的には、燃焼学と安全工学です。
現在は、研究者となるべく勉強中です。
私は政治思想や社会学は素人ですが、
副島先生や学問道場の言論より勉強したいと思います。
副島先生を知ったのは、ニコニコ動画の対談番組で、
「この人は嘘をつかない人だ」と勝手に
確信し副島先生の本を読むようになりました。
ここ2,3年の著作のほとんど(80%程度)は拝読していると思います。
以下、副島先生の「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち(以下、覇権アメ)」
と「中国人の本性」を読んだ感想を投稿します。
私は会員の中では、比較的最近入会した方の(まだまだ経験の浅い)部類と思います。
まだまだ副島言論の理解が浅いと思いますが、
重たい気持ちで感想(と感謝)と、副島言論への向き合い方を書こうと思います。
・覇権アメの感想。―属国・日本モデルと自身の思想の形成について―
副島先生の主著というのが、よくわかりました。
今まで何となく使用していた保守やリベラルという言葉、
そしてアメリカ政治思想の流れが、よく理解、整理できました。
個々の政治家たちの名前の多くは忘れてしまいましたが(笑)。
ただ、思想の流れだけは、しっかりと理解しようと思っています。
今まで、副島先生の本は何冊か拝読させていただきましたが、
この本はもっと早くに読んでおくべきでした。(属国・日本論は1年ほど前に拝読したのですが。)
これは私の勝手な理解なのですが、
副島先生は、小室先生を代表に様々な先生から様々な学問を吸収し(引用元を明確にしつつ)、
辿り着いたのが、帝国-属国モデル、いわゆる「属国・日本論モデル」であって、
その後の著作は、属国日本論モデルを通して観た世界の諸現象に対する解析なのではないか、と愚考します。
物理学者がニュートン力学モデルを通して、観測できない力場や慣性系を観るように、
副島先生は属国日本論モデルを通して、政治力学上の力や流れを観て、予測しているのだと理解しました。
そうであるならば、
副島言論を理解するうえで、属国・日本論と覇権アメは初めに読み、
その理論の蘊奥を理解しておけば、その他の本を読むにあたり
より理解が深まったのではないか、と今さらながら後悔しております。
(学問道場HPには、まずこの2冊を、と丁寧に注がありました。)
話は少し変わりますが、
私は以前より、自分の思想はどのように形成されるのか、についてずっと疑問でした。
恥ずかしながら、私には政治的思想はありません。きっと今もありません。
右とか左とか、保守とかリベラルとか、言葉としては聞いておりましたが、
その切実さは、私にはわかりませんでした。
「自身の思想と信条を明確にせよ。」と言われると非常に困ります。
しかし、この覇権アメを読んでいて、ようやくその答えが少しわかりました。
それは、自分が勉強になると思った人は誰でも自分の先生にして、
何を誰から教えてもらったかを明示しつつ、知識を発信・紹介していくことで、
世界を解釈するモデルが形成され、自然と自分の立ち位置が定まるのだ、と。
そして、これは正しく副島先生のスタンスではないか、と思います。
そのことが覇権アメを読んでいる際に切実にわかりましたので、
感謝を込めて、こうして投稿することにしました。
引き続き、副島先生とSNSIの皆様の言論から多くを学びたいと思います。
・中国人の本性の感想。―諸外国との政治的・文化的ダイナミズム抜きに日本史は語れない―
小室直樹先生の中国原論と同時並行的に拝読致しました。
中国人の本性の感想の前に、
小室先生の書かれる「原論」という仕事の偉大さをまず知りました。
今回も中国という国家に対して、一般理論と申しますか、基本OSと申しますか、
思考の土台となるものを提供していただいたおかげで、
より良く「中国人の本性」を理解できたと思います。(まさに土台学なのですね。)
中国人の本性を読んで理解したことの一つは、
「なぜ日本の歴史教育が細切れになるのか」ということでした。
それは、外国との相互作用をほぼ(意図的に?) 無視しているからなのでしょう。
社会学科の教師は「歴史は流れが重要だ、闇雲に暗記しても駄目だ」と口を揃えますが、
本当の流れとは、諸外国との政治的、文化的な相互作用のダイナミズムだ、と理解しました。
私も大学生のときは、アルバイトで中学生相手に歴史の授業をしていましたが、
突然、鎌倉仏教が出現したり、鑑真が来日したりで、
流れも何もなく、これは暗記しろ、と言わざるを得ませんでした。
すべて国内の出来事で完結させようとすることに無理があるのでしょう。
副島先生は、新たに中国本を執筆されるということですが、
中国知識人が日本に与えてきた影響に関する総整理を行うのではないか、
と期待しております。本書はその前の謎解き前の基本知識編なのではないかと思います。
本編最終章で、石平氏とやや議論が噛みあわなく見えるのは、石平氏が
副島先生の属国日本論モデルに関して、中国-日本モデルは認めて対談を進めつつも、
現在のアメリカ-日本モデルに関しては理解できない、というよりは、明言を避けられたのかな、という印象でした。
以上です。
伊里友一朗拝
【1208】[1394]強欲な0.01%が引き起こす米議会の対立 (目くらましとしてリバータリアンを悪者に仕立てるメディア)
2013年10月5日
本日の朝日新聞クルーグマンの記事を掲載します。
記事を読むとウォール街の経営者達は普通の感覚では計り知れないほとの強欲(greed)であるかがわかるでしょう。リーマンショックを引き起こした張本人達であり、国民の税金が投入されて救済されたにもかかわらず、報酬に対する税金に反対しています。それどころかなぜ自分たち特権階級が犠牲にならなくてはならないのかという持論をあちらでは広言しています。
0.01%の富豪層が露骨な権利意識を表明している
ウォーレン・バフェット(Warren Edward Buffett)の投資会社バークシャー・ハサウェイ(Berkshire Hathaway)の副会長・チャーリー・マンガーことチャールズ・マンガー(Charles Thomas Munger)もウォール街への巨額救済策に対して、米国民は財政難下の米国で「ただがまんし、耐えるべきだ」と言い放っています。
(記事より抜粋)
「富裕層が迫害されている」という彼らの主張は、少数意見ではない。新聞にも出ているし、昨年の大統領選でもロムニー候補の選挙運動の中心テーマになっていた。
(中略)
全世界が服従してくれないという彼らの愚痴や怒りが、やがて現実的な政治の結果としてあらわれるかもしれない。
「0.01%の怒り」を怖れよ!
(NYタイムズ・9月27日付)
(抜粋終り)
人口0.01%の富豪達はアインランド著「肩をすくめるアトラス(Atlas Shrugged)」で描写される資本家達(政府の介入で競争力を失う企業)のようであるといぶかります。
ところが、アインランドが小説で示したリバータリアンと強欲な富豪達は似て非なるものです。
0.01%は「人民へ再配分される富も自分たちに環流させよ」と特別扱いを主張しているに過ぎないとクルーグマンは指摘しています。
これはアイン・ランドではなくアンシャン・レジーム(旧体制)である
ニューケイジアンのグルーグマンがアインランドを引き合いに出していることを意外に感じたので投稿しました。
【1207】[1393]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅳ
1392の続き
日本列島に二つの王朝が並立していたことは、『日本書紀』にも見出すことが出来る。斉明五年(659)七月、大和王朝は遣唐使を派遣している。この使者が唐の都長安に着いた時、倭国の使者も同時に長安に居たという。二つの使者の間で争い事があった、と記されている。また、使者たちの帰国は許されなかった、と。何故なら、この年唐朝は戦略を変更し、これまでは陸路からの高句麗討伐を主としてきたが、この年に高句麗と同盟している百済をまず滅ぼすことに変えた。その為、唐の各港は大水軍建造で慌ただしさの中にあった。使者たちが帰国を許されたのは、百済王朝の滅亡が確認された660年の年末であった。
ここで七世紀の東アジア状勢を説明しておきたい。まず朝鮮半島を見ておく。この時代朝鮮半島は、三国鼎立時代などと呼ばれるが、それは名目だけで、北方の高句麗が常に強勢で、南部の百済、新羅は、高句麗の南下の圧力に悩まされていた。半島南部は、古くは三韓と呼ばれ、西から馬韓、弁韓、辰韓と呼ばれている。馬韓が百済に発展し、辰韓が新羅に発展したのである。その中間の弁韓には、古くから倭人が多く住み倭国の北辺を成していた。倭国と言うのは、朝鮮海峡玄界灘を跨ぐ海洋国家であった。時が過ぎ、百済、新羅の発展に伴い、弁韓の地は、両王朝の草刈り場となり、倭国の支配権は失われていった。しかし、倭国は弁韓の領有意識を強く持ち、後々まで毎年の年貢を納めることを要求していた。倭国の意識では、弁韓は、百済、新羅に貸し与えてる、というものであった。百済と新羅は、弁韓を巡り激しく争う間になっていた。
北方の高句麗である。これは紛れもなく東アジアの強国であった。北は満州をも深く領有し、国境は万里の長城に接し、国境を侵し、中国農村地帯を収奪することをたびたび行っていた。中国統一王朝にとり高句麗対策は、喫緊の課題であった。隋朝は、統一を成し遂げると高句麗討伐にとりかかったが、高句麗は頑強で成果を上げることが出来なかった。特に612年の高句麗討伐軍は、総勢二百万と号した大規模なものであったが、高句麗の健闘の前に敗退したのであった。隋朝がごく短命に終わった原因は、この高句麗討伐の失敗にあった、とされる。隋朝は、東アジアの盟主である。高句麗討伐に先立ち、百済、新羅に対し隋軍と共同し高句麗を攻めるよう命じた。百済はこれを無視したが、新羅は律儀にも、隋軍の侵攻を全力で防いでいる高句麗の背後を侵し、高句麗の都に迫ろうとする有様であった。隋の侵攻を防いだ高句麗は、百済と手を結び新羅侵略を開始したのです。
618年、隋朝から唐朝に代わりますが、隋の皇帝煬氏と唐の李氏は親戚でありこれは王朝内革命です。隋の遺産はそのまま唐に引き継がれました。高句麗討伐と言う課題も引き継がれたのです。高句麗、百済の圧迫に苦しんでいた新羅は、ついに唐に走り救いを求めたのです。その前に倭国にも救援を求めたが、どうしたわけか倭国は百済を優遇し、新羅に対し邪険に待遇した。650年以降の東アジア状勢は、唐・新羅同盟対高句麗・百済・倭国同盟が出来ていた。
660年、唐は大水軍を発進し、この年の八月新羅の陸軍と連動し、一気に百済を滅ぼしたのです。倭国の半島出兵の開始は、次の年の八月です。新羅討伐の決意は、十二年前の650年にしていた。それなのに、百済滅亡と言う条件が決定的に悪化する前に決行できなかった。しなかったのではない、出来なかったのだ。