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Loginはこちら【1204】[1390]福沢諭吉の経済戦略(三田藩との強いつながり)
福沢諭吉の経済戦略を九鬼家(三田藩)の歴史に探る 投稿者 田中進二郎
ちょうど一年前に出された副島先生の著書『個人備蓄の時代』(光文社 2012年10月刊)の中に、白洲次郎(しらす じろう 1902~1985年)のエピソードがとりあげられていることをご記憶の方も多いと思う。
白洲次郎は日米開戦が近づくと、日本の敗戦の運命を予見して、多摩の鶴川村(現東京都町田市)に引きこもって(疎開して)、農業にいそしんだ。やがて食糧難がやってくることを見越していた。
敗戦まじかになって、東京が空襲にあって米の配給もわずかしかなくなっていった頃、白洲次郎は自分が作った米を、友人宅の玄関前にドサッ、ドサッと投げ込んでいった話が載せられていて、副島先生は「私もこういう粋(いき)なことをやってみたいと思っている。」
と書かれていた。
また、『風の男 白洲次郎』(青柳 恵介著 新潮文庫 1997年刊)を開いて見ると、次のような逸話が載っていた。彼の鶴川村の邸宅(武相荘 ぶあいそう)を訪れたある評論家が、家に福沢諭吉の揮毫になる額がかけられているのを見て、
「あなたは福沢諭吉先生とも面識がおありだったのですか。」
と質問した。白洲次郎は、
「俺はそんな歳ではないよ。いまどきの評論家は本当になにも知らないんだな。」
と答えたという。
福沢諭吉(1835~1901年)と白洲一族の関係というのは、一時はかなり広く知られていた事実だったのだろう、と白洲次郎のその言葉から思った。
白洲一族と九鬼家(摂津三田藩主 さんだ)と福沢諭吉のつながりに興味を覚えて、私の家からも近いことから、この前の日曜日に兵庫県三田市を訪れてみた。
三田藩主の九鬼家というのは、戦国時代に織田信長の下で伊勢水軍として活躍した九鬼嘉隆(くきよしたか)の子孫だ。石山本願寺攻めのとき、毛利の村上水軍と戦って、鉄甲船
で破った話が有名だ。豊臣秀吉の朝鮮征伐の時にも、九鬼水軍の『日本丸』という龍の頭を船首につけた船が旗艦を務めた。
徳川三代将軍家光の時、九鬼家は二つに分割され、そのひとつが三田藩3万6千石に、転封となった。そして二百年をへて、明治維新を迎える。
現在は三田陣屋とよばれる藩主の城館跡の周りに史跡が点在している小・小京都といった趣である。
「三田ふるさと学習館」というところでは、大河ドラマ『八重の桜』にあわせて、新島襄
とつながりのある人物にかんする資料を作成し、展示していた。
「ふるさと学習館」の隣にプロテスタント教会があり、摂津三田教会(旧名は摂津第三基督公会)というのであるが、明治8年(1875年)新島襄がここで洗礼式をあげている。
ボランティアの解説役のおばさんがいうには、「同志社英学校の一期生は旧三田藩士です。
9月15日の大河ドラマ『八重の桜』で転入してきた熊本バンドに馬鹿にされてる学生たちがいましたよね。あれは旧三田藩士たちですよ。テレビで『三田出身だ』と言われなくてほっとしています。」とのことである。
そういえば副島先生が『熊本バンド』と熊本で起こった神風連の乱は根っこが同じだということを言っておられました。これは副島熱狂史観なんだろう。
年表を見ると、明治9年(1876年)1月30日に、「熊本バンド結成。リロイ・ランシング・ジェーンズ(1837~1909)の指導でキリスト教を信仰した熊本洋学校の生徒35人が、花岡山で「奉教趣意書」を朗読して署名した。
この年の3月に政府が「廃刀令」を出し、8月に秩禄処分(ちつろくしょぶん)を断行している。これに反発して、10月24日に「熊本神風連の乱」が起こり、熊本県士族太田黒伴雄(おおたぐろ ともお 1834~1876)らが熊本鎮台を襲撃した。その暗殺リストにジェーンズの名もあったが、熊本を去った後で無事だったという。太田黒伴雄は幕末にあっては肥後勤皇党だった。佐久間象山を京都で暗殺(1864年7月)した河上彦斎(かわかみ げんさい)もこの党派だった。横井小楠(よこい しょうなん1809~1869)の実学党と熊本勤皇党は対立していた。実学党のながれが熊本バンドに受け継がれ、勤皇党は神風連へとつながる。しかし、副島先生はこの二つを「同根だ」とさらっといってしまう。
(「文明開化の京都年表帖」ユニプラン刊 と ウィキペディアの「神風連の乱」を参考にした。)
話がそれてしまいました。申し訳ない。三田藩(さんだ)の出身で逸材として名が残っているのが川本幸民(かわもと こうみん1810~1871)という洋学者だ。塾長の緒方洪庵とは一歳だけ年下だった。
「神戸慶応倶楽部 社中の心」という記事を読むと、川本幸民と福沢諭吉との適塾での交友が最後の三田藩主の九鬼隆義や白洲次郎の祖父の白洲退蔵につながっていったことがわかる。
「神戸慶応倶楽部 社中の心」↓
http://www.kobekeio.org/club/kokoro/11.htm
川本は幕末に幕府に招かれて、蕃書調所(ばんしょしらべしょ のちに開成学校と変わる)の教授となったが、維新のあとは三田に帰って『英蘭塾』を開いた。
福沢諭吉は川本を通して藩主九鬼隆義や、白洲退蔵ともつながり、秩禄処分のあとの士族の授産について大掛かりな作戦を練っていく。(川本は71年に死去)
それは開港間もない神戸の土地が高騰することを読んで、土地を買収していくことだった。
九鬼隆義と白洲退蔵らに『志摩三商会』という貿易商社を作らせた。
志摩は九鬼家発祥の地であり、三は三田を意味する。九鬼家はここで先祖返りを果たしたともいえるが、福沢の合理的な投資術を伝授されたのである。
しかし、かなりあこぎな土地買収もやったらしい。
「三田ふるさと学習館」のパンフレットには次のように書かれている。
(要約・引用開始)
神戸の開港当時は、外人の来住を恐れた神戸の住民は行く末を案じて自分の所有地を手放すものが多かった。さらに地租改正で地主は高率な税金を徴収されるため、ますます売り急ぐ者が増えた。
そういった土地を買い占めたのが、志摩三商会であった。
明治中頃から土地の急騰が起こり、大正二年の地租納入番付によれば、1位に商会副社長の小寺謙吉(一万五千円)、2位に九鬼隆輝(一万二千円)がなっている。
(要約・引用終わり)
このようにして明治の大富豪(明治オリガーキー)が誕生した。明治の中ごろから次々と出てきているのだそうだ。白洲退蔵- 文平-次郎と続く一族の繁栄の基礎はここに築かれた。
三田藩主九鬼一族の菩提寺、心月院には九鬼隆一(三田藩家老 星崎貞幹の息子。九鬼姓をもらい、男爵になっている。「いきの構造」の著作で知られる九鬼周蔵の父。)による「景慕碑」というかなり大きな碑がたっている。
そこには
「木戸公尊霊 大久保公尊霊 岩倉公尊霊 フルベッキ先生尊霊 福沢先生尊霊 加藤弘之先生尊霊・・・・大正八年 九鬼隆一」 と刻まれていた。
あと白洲次郎、妻の正子の墓もあったが、「葬式も戒名も無用」と言って白洲次郎は死んだので、二人とも墓には名前すら彫られていなかった。
田中進二郎拝
【1203】[1388]日本書紀と天武天皇の正統性の問題
古い話で申し訳ありません。
『日本書紀』は、御存知のごとく日本国の最初の正史です。正史と言うのは、その国家の歴史(由来)を公的に述べた書です。『日本書紀』は、天皇家が日本の支配者になった正統性を高らかに歌い上げています。この『日本書紀』が、天武天皇の勅命で編纂が開始されたことは、『古事記』『日本書紀』が明らかにします。」
しかし、天武天皇(大海人皇子)は、平和な禅譲によって即位したのではありません。「壬申の乱」と呼ばれている日本を真っ二つにし、一ヶ月にも及ぶ大内戦によって、兄(天智天皇)の長男(大友皇子)を滅ぼして皇位に就いたのです。故に『日本書紀』は、天武の正統性を最優先に主張しています。大友皇子より天武のほうに即位の優先権があった、と言うのです。これが正史(日本国)の公式見解です。
しかし、それならどうして後世の日本人が天武の決起を「乱」と呼んできたのでしょう。「乱」と言うのは、秩序を破壊することです。臣下が主君に乱暴を働くことを言います。後世の日本人は、天武の行為を「乱」と呼んできた。東大寺大仏の開眼供養のあった前年に上梓された『懐風藻』は、天武の決起を「乱」と明記します。つまり、臣下が主君を討った、天武に正統性はなかったと。
『日本書紀』は、逆臣であった天武(大海人皇子)を、正統化する為に編まれた『書』です。
(今日は、ここまでにします)
【1202】[1385]アジアに対する差別意識
http://www.dailytelegraph.com.au/newslocal/the-hills/ryde-shocked-by-racist-graffiti-targeting-muslims-and-asians/story-fngr8i1f-1226730690212
この記事はここ最近の人種差別事件に対する一つです。この半年間このような記事を良く目にします。副嶋先生は日本人は中国人を嫌って差別するようにおっしゃるけど、豪州はもっとひどい。地域によっては身の危険すらあると聞きました。私の住むエリアはアジア系移民(オーストラリア人にとっては中国人のこと)がほとんどいないので私が歩いていても皆友好的ですし、なるべく夏は浴衣を着て歩いているのでこんにちわ~などと言って来ますが先日、車で通りかかった白人の若者にWhat the fuck?から始まってよく聞こえなかったですが侮辱する内容で罵倒されました。豪州に住んで15年、初めての経験です。これ以上一つの人種がど~っと入ってくるのを許し続ける限り人種差別はもっと激しくなるでしょう。
【1201】[1384]消費税の値上げは、オリンピックとの抱き合わせ増税だ。すべてアメリカの計画通り。
副島隆彦です。
あとの方に 新聞記事を載せる通り、今日の夕刻、閣議の後、安倍首相は、消費税率の8%への値上げを発表する。
これは、9月8日に、オリンピックを東京(2020年)で開催するという「オリンピック抱き合わせ、日本国民ダマシの増税」だ。 アメリカが、去年の5月から仕組んできた、「帝国の逆襲」戦略の、世界中での動きの一環だ。
私は、今、突貫工事で、その本を書いている。11月初めには、この「帝国の逆襲」は出るだろう。
その他に、3冊、私の本が、来週からどんどん書店に並びます。歴史の本と、
税金・税制の本と、それから、文章読本(ぶんしょうどくほん)=作文の仕方、技術 の本です。 私が、この7,8、9月に汗まみれになりながら、書いた本たちです。 乞うご期待。 あ、そうだ、「最新版 世界権力者 人物図鑑」(日本文芸社刊)が、今、書店に並んでいます。 パラパラめくって、苦笑あるいは、書店で笑い転げてください。
私は、最近もらった、私たちの学問道場の会員で、「退会する」と言ってきた人のメールを 以下に載せます。 「さらば SNSI]と書いてきたので、てっきり私と連絡を取り合って交信していた人かと、思ったら、2年間だけ、会員だった人だ。 私たちと考えが合わなくなった人だ。 それなら、それでいいです。
ただそれで、「さらば SNSI(エスエヌエスアイ)」と、書かれると、何のことですかと、私は驚いてしまった。 以下の通りのやり取りです。
(転載貼り付け始め)
From: *****
Sent: Thursday, September 26, 2013 6:21 AM
To: ‘SNSI・副島隆彦を囲む会’
Subject: さらばSNSI
前回の定例会には出席しました。特に徳間書店のフランドル地方の絵画の解説には目からウロコが何枚もポロポロ落ちる気がしました。
カトリック教団は偽善者の塊(かたまり)で、一刻も早く彼らが過去に神の名のもとにおこなった悪行の数々を世間の白日の下に引きずりだし、徹底的に糾弾し、今や何の正統性のない権威を完膚なきまでに失墜させなければならない。
ただ、締めくくりが良くなかった。デカルトを賞賛する発言をされていましたが、デカルトの思想は一歩間違えば人間を不幸に陥れる、また、そうなりやすい危険なものです。人間の理性(りせい)は万能であり、人間が考えた考え出した制度、方法、科学技術を全世界に行き渡らせれば人類は幸福になるという、一見もっともなようで共産主義へと繋がる悪の思想です。
フランス革命の蛮行、共産主義国の完全なる失敗や非人間性を見れば、人間の考えだしたものがいかに愚かであるかを何度も痛感させられます。
人為は大したことを到底為しえない。無数の祖先・先賢が残してくれた伝統・文化・慣習をできるだけ守り、どうしても時代に合わなくなった部分だけを熟慮のうえ少しずつ漸進的に変更するという慎重な態度を保持すれば、人類は善悪が共存しながら、そこそこ幸せな暮らしができる。この事実は有史以来の不変の真実であり、だれも否定できない事実です。
こちらの研究会の業績は真摯に真実を追究し、歯に衣着せぬ鋭い言説で世間に蔓延る先入観・偽善・欺瞞をえぐりだし、数々の剥き出しの真実を暴きだしました。その功績は大変大きく、どんな圧力、既得権益側の批判にも屈せず、精力的に出版・講演活動をなさって来られたことには最大限の敬意を表します。
しかし、最近の御研究会の主義主張にはきっぱりと反対し、ここに決別の意思を表明します。若い方を応援したいのは山々ですが、今年限りで会員を退会することをここに宣言します。
副島先生を始め、御団体はやたらに中国びいき過ぎます。わたしの冷静な目で見て、かの国を過大評価しているように思えてならないのです。NHKと朝日新聞という日本では権威を持つメディアがことある毎にまるで共産中国や韓国、北朝鮮の代弁者かのような報道を垂れ流している。全く獅子身中の虫とも言える内なる敵は即刻解散させるべきです。
あまりにも剥き出しの敵意、挑発、反日行動を繰り返し、あからさまに自国民に戦争を煽(あお)る国は世界中を見回しても上記3国以外ありません。中国のかなり信憑性に欠ける統計を鵜呑みにし、13億の巨大市場というありもしない幻想に日本だけでなく、欧米までひたり、中国の蛮行、非人道的な虐殺に目をつぶっていました。
しかし、中国の張りぼて経済が明らかに失速し、貧富の差の極端な開きが隠しようもなくなり、暴動・労働争議は中国全土で無数に毎日のように発生しています。いくら当局が検閲してもネット社会の力を止めることは不可能です。
いくら高層ビルが林立し、表面上まだまだ成長しているように見えてもほとんどがゴーストタウンで、銀行融資の焦げ付きで来年あたりには経済はクラッシュするとわたしは予想しています。 幸い中国元はローカル通貨だから世界的な恐慌に発展する可能性は低いでしょう。
まして、今回の定例会開催に際して絶対に許せないのが、あの売国汰で裏切り者の孫崎亨(まごさきうける)をゲストに呼ぶことです。媚中(びちゅう)、媚ロシアの外交官は纏(まと)めて即刻首にして国民の前で土下座をして謝罪させなければならない。
「戦後史の真実」はタイトルにこれほどふさわしくない本はないというほど逆のことばかり書いてあって、噴飯(ふんぱん)ものです。こんな超A級戦犯を持ち上げるなど、御研究会の正体見えたりです。
今後一切係わりを絶ち、あなたがたを反面教師として生きていきます。永遠にさようなら
****
**** さまへ
副島隆彦から
「さらばSNSI」 のメールをありがとうございます。
貴兄が、学問道場の会員を今後はやめるとの決意表明の メールを私はいま読みました。ご自分の判断であり、それをこのようにはっきり表明なさったのですから、今、私が申し上げるべきは、この文面のまま、ご自分で、 重たい掲示板の方に投稿してください、と お願いすることです。
それが何かの事情で出来ない、ということであれば、私、副島隆彦が、そのようにします。事情を書いて仮名にしてくれ、ということであれば、そのようにします。 そうでないならしばらくしまして、貴兄の実名のまま、私が載せます。
言論は実名で、堂々となさなければいけない。 このことを私、副島隆彦は、学問道場が始まって以来の 理念のひとつとしてやってきました。 今は**さまとメールでの議論、意見の交換はしません。 私からの反論も長くなります。
貴兄が、「媚中」(びちゅう、こびちゅう、媚びる中国へ。私、副島隆彦はこのコトバを10数年前に、創作、造語した文芸春秋の編集長をよく見知っています) という言葉をお使いになる、ということは、貴兄が、決めつけてしまうならば、産経新聞、文春一派の立場の人です。
きたない、気持ちの悪い、貧乏な、何をするかわからない中国への嫌悪感というものを ご自分の信念にまで高め、 文明論的な長さでの思想としての決断だと、言われるのなら、私が、石平(せきへい)氏と対談した最新の「中国人の本性」( 李白社刊) を、最後にお読みください。
人間が涵養(かんよう)すべき思想、学問、知識というものは、長い長い歴史を背景にすべきものだと、だけ副島隆彦は最後に申し上げます。
貴兄、****氏とは、私は、過去に何度かメールのやりとりをしたことがあるのではないか、と微(かす)かな記憶で申し上げます。 残念ですが、これで、お別れです。それぞれの道を 生きてゆきましょう。
その前に、以下のご自分の意見表明を、どうか重たい掲示板に自由にお載せください。 考えが合わなくなったらその意見表明をした上で静かに去る、というのも、学問道場の 設立、建学以来の理念のひとつです。
副島隆彦拝
From: ********
Sent: Friday, September 27, 2013 6:29 AM
To: ‘副島隆彦’
Subject: 早々にご返事ちょうだいいたしまして、大変恐縮しております
副島先生初めまして。
先生の精力的な執筆・講演活動は、名声や肩書はあっても実は臆病で、失礼ながら頭が悪い評論家や教授の貧相な文章や卑怯な行動に比べれば、日本で屹立(きつりつ)する立派な業績であります。広く深いご学識は到底わたしのおよぶところではなく、尊敬しております。
先生のお姿を拝見したのは、あとにも先にも前回の「ふざけるなマイケル・グリーン」のときだけです。きっちりと折り目正しく挨拶される立派な方だなあ
と感心いたしました。
ただ、やっぱりこの期に及んで、中国の肩を持つ姿勢には断固反対します。
わたしの貧弱な頭を振り絞って考えるにまもなく共産中国は崩壊します。近隣アジア諸国はもちろん遠くアフリカ諸国でも中国人は嫌われて排斥されています。
3000年近く皇帝と宦官(かんがん)や側近が人民を虐げる独裁王朝が交替し官吏は上から下まで腐敗し、不正蓄財に勤しむことしか頭にないのが中国の実態です。民衆も海外旅行先でマナーが悪く、傍若無人の振る舞いをして、行く先々で顰蹙を買っています。
一見、近代国家に生まれ変わったように見えても所詮は表面だけ。内実は太子党と共青団(きょうせいだん)が支配する独裁国家で、全く本質は変わっていません。
時間が尽きました。重たい掲示板に、わたしなりの知識を総動員し、拡大版の送別の辞を今週末に投稿することをお約束します。しばらくご猶予いただけますでしょうか。 ****
****さまへ
副島隆彦から
お返事のメールをありがとうございます。
それでは、**さまの 書きたいように書いて 重たい掲示板に意見表明してください。
その際は、題名を 大仰な 「さらば」などと、お書きにならないでください。 それほどの深いお付き合いを貴兄としたことはないと、私、副島隆彦に分かりましたので。貴兄の意見を自由に書く際に、私からのメールも載せてください。
最後に私が言いたいのは、貴兄が、現在の共産主義の体制の 中国を敵視し
警戒するのは分かりますので、お書きの「中国の肩を持つ姿勢には断固反対します」は、理解できるのですが、
私が、疑問を持つのは、それで、中国がこれから勝手に崩壊するとか、打ち倒されると、本気でお考えなのか、です。 私はアジア人とうしとして これからも共に平和に生きて行かなければいけないと考えます。
私が、一番、貴兄に反論したいのは、 どうして、そんなに中国人や朝鮮・韓国人を、見下だす精神構造を産経新聞や文春やWAC出版「Will」誌で書いている人たちはしているのか、です。
自分よりも劣った、貧しい者を作って、ひたすら見下げることで、溜飲(りゅういん)を下げているとしか私には思えません。 そのくせに欧米の白人文明に対しては、劣等感情がものすごいものだから、一言も何も言わない。
とくに 今の横暴極まりないアメリカに対して、**さまは、一言も批判しない。なぜなのか。 それほどに切実に アメリカさま にしがみついて、守ってもらわないと日本は生きていけない、とお考えなのか。 このことまで、書いてください。
泥臭い、汚(きたな)らしいまでの 現実の世の中を受け入れることから自分の人生を始めた、 日本の小さな経営者や自営業者たちは、自分も人にひどいことや騙(だま)しや、ズルいことや、残酷なことをすることでようやく生き延びているひとたちだから、特に、自分が雇ってこき使っている従業員たちとの
関係がものすごく厳しいものだから、それで、 そのはけ口を、 「中国、北朝鮮、日教組(にっきょうそ)たたき」に求めるのではないか、と、私、副島隆彦はずっと思っています。
自分が使っている従業員とは 絶対にケンカできませんから。 **さん、私からの この問い掛けにも 答えてみてください。それでは、最後に重たい掲示板への自由な意見表明をしてください。 私は弟子たちと学問道場をこのまま粘り強く続けて行きます。 遠くから見守ってください。
副島隆彦拝
From: ****
Sent: Saturday, September 28, 2013 7:27 PM
To: ‘副島隆彦’
Subject: 敵視しているのは日本の方ではなく、中国・韓国・北朝鮮です
先生、一体どうされてしまったのですか?
日本はいくら友好的に接しても、向こうが一方的に嫌うだけです。中国に好意的な日経ニュースでさえ、2014年中に地方政府がデフォルトする可能性が高いことを習近平自身が認めていると報道しました。
わたしもアメリカは憎いし、かならずしも日本に友好的でない国民が多数
いることは残念です。しかし、アメリカの支配の方が中共のそれよりはるかに
ましです。いくら牛耳られているとはいえ、一応普通選挙が実施されており、
民意は反映されています。
中国は一党独裁ではないですか。その方がいいと先生はおっしゃるのですか。チベットやウイグルのように日本民族が根絶やしにされ、伝統文化や文字がなくなるのは必至です。
先生の最近の予想はそんなに精度がよくないです。もう、完全に秋なのに
ユーロ圏の混乱はそれほど目立っていません。もう、議論はよしましょう。
メールももうたくさんです。道場への投稿もやりません。さようなら
****
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 このメールのやり取りにある通り、私たちは、10月26日(土)に 今、精力的に評論活動を続けておられる 孫崎享(まごさきうける)氏を お招きして、学問道場の会員向けの定例会(=講演会)を開きます。
きっと興味深い、この国で最先端のお話を聞けると思います。多くの会員が集まってくださるようお願い申しあげます。この集まりが、この秋の私たち学問道場の大きな集まりなのですから。
副島隆彦拝
・「副島隆彦の学問道場」第31回定例会
演題:「『戦後史の正体』と『属国・日本論』を語り尽くす」
講師:孫崎享、副島隆彦
開催日:2013年10月26日(土)
会場:東京・御茶ノ水「全電通労働会館ホール」
開場:12:15~
・上記定例会(10/26)へのお申し込みはコチラ↓
http://soejima.to/cgi-bin/kouen/kouen.html
(転載貼り付け始め)
〇「 首相、消費税8%表明へ…景気回復基調が鮮明に」
読売新聞 2013年10月1日(火) 12時6分配信
政府や日本銀行による経済指標が1日午前、相次いで発表された。
このうち、企業から見た景気動向を示す全国企業短期経済観測調査(短観)は、「大企業・製造業」の景況感がプラス12とリーマン・ショック以降最も高い数字を記録し、国内景気の回復基調が鮮明になった。安倍首相は経済の安定成長にメドが立ったとして、1日午後の政府・与党政策懇談会の場で、消費税率を2014年4月から8%に引き上げる方針を明らかにする。
消費税率の引き上げは1997年4月以来2回目で、上げ幅3%は前回を上回る。安倍首相は1日午前、自民党本部での党役員会に出席し「本日昼、消費税の取り扱いについて決定する」と語り、午後1時からの政府・与党政策懇談会で引き上げ方針を明らかにする考えを示した。石破幹事長は役員会後の記者会見で「政府・与党が一体でやっていかねばならない」と述べ、首相の判断を支持する考えを強調した。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1200】[1381]開発”ムラ”というシロアリ
会員の高橋郷です。
副島先生には、出会う度に怒られている未熟者です。
以下、掲載させていただきます。
「白アリ」。公費で生活をしている公務員を称して、そう形容される。
しかし、そう称されるべき業界は他に存在する。
それは、ほかならぬ”ODA” 政府開発援助業界だ。
財政縮小に伴い、国庫負担のODA額も減少しているが、それでもまだ6000億円近い予算が組まれている。そしてそこに、白アリのごとく群がる、開発“ムラ”業界が存在する。
彼らは、いわゆる“開発コンサル”として、インフラや設計関係を中心に活動を展開する。その数や種類は、数百に及ぶ。その多くは、JVとよばれる合同企業体の形態をとり、外務省から委託を受けたJICA(国際協力機構)によって管理されている開発案件に入札してくる。
合同企業体といえば、聞こえがいいが、要は同じ甘いみつを吸うための巨大な談合集団に他ならない。一度この”ムラ“社会への参入を許された会社は、仲間として認められ、共にODAの甘い蜜を吸いながら年月を過ごしていく。
だが、その内実は、NGOら非営利活動団体が少ない原資のなかで、必死に行う草の根の援助活動とは大きく異なる。
調査業務と称しては、国際線のビジネスクラスででかけ、現地では、途上国とはいえ、シェラトンなどの、高級ホテルでの生活が待っている。
これらは全て、途上国支援のための政府の国庫で賄われている。
そして、こういった業務を精査するJICAの積算室。ここの年配の職員も民間出身、いわば同じ“開発ムラ”の出身者によって占められ、同じ“ムラ”の仲間が、甘い蜜をすうのをサポートする。
知り合いのゼネコン関係者はいう。
「国内の入札業務で勝負するのはばかだ。同じ土建でも、国際分野ではずっと楽に、極上の待遇で公共入札を手にすることができる」と。
私もNGOとして、震災支援、アフリカ開発支援を行ってきているので、この現実にはあきれてものがいえない。いつも思う。「なぜ、ODAは、現地の視線にたった、本当の草の根の国際協力の私たちを応援してくれないのだろう」と。
JICAの現地職員はいう。「JICAは、日本政府を代表しています。NGOはNon Government、なのだから、勝手にやってください。」と。
そのシロアリがたかる“開発ムラ”で、近年、目覚ましい業績(利益)を上げている、山下設計(本社:日本橋)がある。最近では、スー・チー女史が春に来日したばかりだが、民主化の進展が著しいミャンマー案件を中心に入札を勝ち得ている。
この会社は、評判もよろしく、最近では今年(2013年)の7月に佐賀県で、贈収賄事件を引き起こしたばかり。「県、山下設計を指名停止処分 大町町贈収賄」
http://www.saga-s.co.jp/news/saga.0.2506120.article.html
その仕事のやり方は目を覆うばかりにひどい。国際業務部の木村孝明部長は、現地の状況をろくに調査もせずに、現地の大使館のせいにして、「(ミャンマー大使館)松尾参事官の意を踏まえ、ミャンマー側への懲罰的意味、自助努力の促進も含めた案です。」と関係者にメールを流し、現地の人々の思いを踏みにじった案を平気で押しつけてくる。しかも、他の開発関係者には罵詈雑言をあびせ、どうでも良い個所を何度も直させては(しかも一回ごとにコメント内容が矛盾している)、「時間が無駄になり、かっとしています。」などと、メールをよこし恫喝をしてくる。
これは、同じく国際事業部の部長、長岡嶺男氏が、自分の子飼いの横山元晴氏を使ってやってくる手口である。 このような、小人のやるような、暴力団まがいのことを行い、自分たちを権力者だと錯覚している、国際事業部の面々、が、国の基幹である外交をわが物顔に闊歩し、ODAという甘い蜜をすっている実態を許していいのだろうか。
業者の中には、公文書偽造まがいのことをして、開発案件を手にするところさえある。
おごれるものは久しからず。ODAに群がる開発“ムラ”の現実が暴かれる日がくることを願います。
高橋拝
【1199】[1380]群馬の旅 上毛かるた紀行 「平和の使い 新島襄」
K.Y.です。いろいろあって、実名を伏せて、K.Y.で、群馬から投稿します。
NHKの大河ドラマでは新島襄と八重の話をやっているそうですが、新島襄と言えば、群馬では上毛(じょうもう)カルタの「へ」として知らない人はいない、「平和の使徒(つかい) 新島襄」。キリスト教の関係の方だそうですね。それも、巨大権力ローマ・カトリックに反抗するプロテスタントの一派の方です。
「大河ドラマで持ち上げられるような人物は常に怪しい」という、副島先生におさっている(教わっている)わたしたちの常識に従って、新島襄をちょっとネットで調べていると、とても素敵な取材ブログがあったので、みなさんにご紹介します。ブログの名前は「いつもハーレーに乗っていたい」、上毛カルタにそって旅をしている方のブログです。ブログでは素晴らしい写真も見られますので、ぜひブログを見に行ってください:http://blogs.yahoo.co.jp/wtydf801/23921692.html
貼り付け始め
群馬の旅 上毛かるた紀行 「平和の使い 新島襄」 2010年1月24日
群馬の旅 上毛カルタ紀行 29枚目の札 「へ」は、「平和の使い 新島襄」
みなさん こんばんは!久しぶりの休みを利用して、行ってきました上毛カルタ紀行。今回は、明治維新の偉人 同志社大学の創始者、キリスト教の伝道師、新島襄さんを訪ねる旅です。
それでは、新島襄とゆかりのある群馬県安中市に行ってみましょう!(K.Y.中注: ここに、新島襄先生旧宅 の写真あり)
新島襄は1843年、江戸の神田にあった安中藩板倉家江戸屋敷で藩士の子として産声をあげます。幼名七五三太(しめた)。四人姉妹の後に生まれた男の子。襄が生まれた時、祖父が、「しめた!」と喜んだ事から名付けられました。
1864年、日本の夜明けまであと4年。七五三太、元服を過ぎた21歳の時、アメリカ渡航を画策し、一人函館に潜伏します。この頃、脱国は重罪。1853年、ペリー来航に影響され渡米を画策した人は多く、吉田松陰も試みますが失敗。投獄されてしまいます。
函館でロシア領事館の司祭、ニコライ・カサートキンと出会います。七五三太はカサートキンに日本語を教え、カサートキンは弟子になるよう説得。しかし、七五三太の渡米への意思は固く、カサートキンはアメリカ渡航に力を貸します。函館からアメリカ船ベルリン号で上海へ。上海でワイルド・ローヴァー号に乗り換えます。(K.Y.注: ここにホレス・S・テイラー船長の写真あり)
ワイルド・ローヴァー号のテイラー船長に可愛がられ「ジョー」と呼ばれます。南アフリカを回り、大西洋を渡ってボストン上陸。(K.Y.注: ここにアルフィース・ハーディー夫妻の写真あり)
船主のアルフィース・ハーディー夫妻の援助でフィリップス・アカデミーに入学。その後、アーマスト大学、アンドーバー神学校(洗礼を受ける)に進みます。アーマスト大学では、日本人初の学位(理学士)を取得。化学の先生は、後の札幌農大学のクラーク博士。ジョーとの出会いが、クラーク博士来日の切っ掛けとなります。(K.Y.注: ここに 大学=当時の文部省 からの免状 米国留学免許候事 の写真あり)
当初、密入国者とされていたジョーでしたが、駐米大使森有礼から正式に留学生として認められます。1867年、ジョーが勉強中日本は明治に変わります。1872年(明治五年)岩倉使節団来米。ジョーは木戸孝充に語学力をかわれ、使節団とヨーロッパを歴訪。(K.Y.注: ここに岩倉使節団集合写真あり) {二列目中央黒いスーツは、心の灯台 内村鑑三(K.Y.注: 上毛カルタの「こ」の札) その横にひげを生やした 平和の使い 新島襄}
「こ」の札 軽井沢 石の教会の内村鑑三。覚えてますか?(^^)
1874年(明治七年) 11月 横浜港10年前、一人アメリカに渡ったジョーが、日本に帰ってきます。翌年1875年、同志社大学の前身同志社英学校を設立。(K.Y.注: ここに新島襄の写真と上毛カルタの「へ」の札を並べた写真あり)
教育者として、大隈重信と親交があり同志社大学と早稲田大学は、今でも学生交流制度があります。(K.Y.注: ここに 「日本キリスト教団 安中教会」 の看板の写真あり)
1878年(明治十一年)新島襄が設立した安中教会。(K.Y.注:ここに安中教会の外観写真あり)
石造りの教会。幼稚園も併設されています。132年前に建てられました。新島襄の生涯を知った後見ると感慨深いものがあります。(K.Y.注: ここに入り口のドアの写真あり)
入り口のドアも、味があります。(K.Y.注: ここに新島襄と八重の写真あり)
妻、八重さんとのツーショット。八重さんは、会津藩砲術師範の娘。戊辰戦争では、会津若松城に篭城。男装し鉄砲を持って最後まで戦い、現代では、「幕末のジャンヌダルク」と呼ばれているそうです。帰国後、両親と共に安中の旧新島邸で三週間暮らし、その後、学問、キリスト教の普及活動に奔走。1890年(明治二十三年)前橋で倒れ静養先の神奈川県大磯で46年の生涯に幕を閉じます。波乱万丈の人生、人との出会いの大切さを教えてもらった気がします。
群馬の旅 上毛かるた紀行 30枚目の札 「ほ」は、「誇る文豪 田山花袋」です。
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【1198】[1379]10%上納
偉大なるロックフェラーのフィランソロピーの思想ですね。10%上納 笑
【1197】[1375] [1374]の若者へ
前田和寿です、
[1374]の若者へ。
分別ある大人とは、黙ってお金儲けをするものです。自分の収入も資産額も口には出しません。あなたの人生だから好きに生きればいいけど、もうちょっとだけ大人になるといいよ。自分の自己重要感を自分で満たせる術を覚えるといいですよ。あなたがお金持ちになれる事を願っています。
【1196】[1370]1344大川さん大変遅くなりました
中野剛志「反・自由貿易論」と「TPP亡国論」(こちらは間違って別の本を買ってしまいました)はお勧めいただいた後、すぐ読み終わっていたのですが、投稿が大幅に遅れてしまいすいませんでした。
結論から言うと、TPP加盟は全体として日本の国益に反し、アメリカのやりたい放題になる恐れが非常に高いと思います。ぼくの勉強不足かも知れませんが、モノづくりを忘れたアメリカにもはや国際競争力のあるメーカーはほとんどないように思えます。アメリカの狙いはズバリごり押しによる金融・保険、知財、政府調達分野への参入とそれに伴う裁判や紛争でもぎ取る魂胆の賠償金・和解金でしょう。
オバマさんはお膝元のデトロイト市の破綻、国内景気不振により支持者から相当突き上げを喰らっているのでしょう。年内に性急に妥結する必要性は少なくとも日本側にはありません。全く余裕がなくかなり追い詰められているのはアメリカの方です。
中川八洋「TPP反対が国を滅ぼす」は農業分野には当てはまると思いますが、日本全体のことを考えると必ずしも賛成できません。反共精神のあまり、後半は感情的論調です。
自由貿易か保護貿易かという問題はどちらか一方だけが常に正しいとは限らないと思います。その時の自国の国内事情や世界情勢によって使い分けるのが現実的です。少なくとも貿易のために古来からの慣習・法律・言語を他国の介入によって変更を強制されてはいけないし、それこそ本末転倒です。多国籍企業は資本力にものを言わせていくらでも国境をやすやすと越えられても、一般庶民はそうはいきません。経済はボーダレスになっても、政治的にはますますボーダフルになってきているのは、民族・宗教的に相容れない国がいつまでも敵対をやめなかったり、小国がどんどん分離独立していく様からも明らかです。
とにかく、今回は大川さんのおかげでいい勉強になりました。
【1195】[1369]クレバーとシタタカサ
その前の晩は、たくさんの来客があり、少々深酔いして、今朝(9月8日)は10時も廻ったころに目覚め、そして居間に出てきますと、家内が民放のテレビ番組を見ておりました。
まだ、幻覚状態の私にはその番組の内容が掴めず、「オリンピックはどこに決まったの?」と家内に訊くと、「東京だ」と言う。ボーとしている私は特に何も感じませんでしたが、そのまま番組を眺め続けていると、招致委員関係者の現地祝賀会会場での、お決まりの招致関係者へのインタビューが始まりました。
しかし、招致委員会の委員の一人である鈴木大地の話で、一変に私は覚醒したのです。
要約すると、こんな感じでした。
インタビュア おめでとうございます。今のお気持ちは?
鈴木 「嬉しいです。だから、こんなに酒臭いでしょう。でも今晩だけは勘弁してください。明日からはちゃんとやりますから。」
インタビュア いろいろと大変だったでしょう!
鈴木 「いいえ、そんなにやったわけではありませんから。でもここにいない人、表には出てこない裏で活躍してくれた人を思うと、こうやって目から汗が出てきちゃあうんですよ。」
そして、お決まりのインタビューが少し続いたのですが、最後に
鈴木 「ごめんなさいね、こんなに酒臭くて」(と言ってインタビュアに息を吹きかけるマネをする)
しかし、テレビで見ている私にはどう見ても、彼は酔っていたようにも見えないし、口調もまったく酔った様子もありませんでした。
そこに彼の人間性と、クレバーさ、そして、シタタカサを見たような気がしたのです。
彼のほんとうに短い発言でしたが、招致関係メンバー間の暗黙の了解だったとしても、決して公に口にしてはいけない言葉を彼が発したようにも思えたのです。しかし、その発言で彼が自分の責任ある立場を追われることもないように、しっかり演技して、そこも防御していたようにも感じられたのです。
つまり、彼の発言を聞いて咄嗟に頭に浮かんだのは、前東京オリンピックの招致時の、日系二世、ロス在住だった『和田・フレッド・勇』さんのことです。今は故人でいらっしゃいます。
当時の東京オリンピック開催が決定された年は戦後14年経ったとき(1959年)ですが、当時の世界の多くの国の人々は、日本人が大嫌いだったと断言しても過言ではないでしょう。
日本人と言えば、例えば、メガネを掛けたチビで出っ歯な人種で、ペコペコしているが、こすからい卑怯な奴ら・・・・・と、いくらでも悪口を挙げることができます。そして、日本と言えば貧乏な国で、作り出す製品は低品質の物真似、安物。
しかも他の立候補地には、アメリカのシカゴもあり、当時のアメリカ大統領・アイゼンハワーがIOC総会に招致のための親書までも送っています。それだけではありません。東京前の開催地はすべて白人国家ですし、東京の二大会前のメルボルン大会(1956年)の時でも、金メダルを争えるような世界的実力を備えた日本人競泳選手ですら、練習・調整では白人選手が泳ぐ公式の練習プールに入れてもらえないような状況でした。
しかし、当時の招致委員には冷静沈着に状況判断と策を練れ、しかも世界を知る人たちがいたのです。
ここでそれを語ることが本旨ではないので、詳細は省きますが、シカゴに勝つ為には、そのアメリカの裏庭的な中南米諸国の票が取れれば、マイナスとプラスで倍の票になる。そのためには、一介のスーパー経営者ではあるが、中南米諸国にコネがあり、信頼も厚く、それらの国の人々の心境も知る前述の和田氏にお願いするしかないと、彼に白羽の矢を立てたのです。
だからと言って、和田氏と親交の深い日本の招致委員が個人的頼みに行って、まるで、「和田さんだったら、誠心誠意をもって彼らと話をすれば良い結果が得られはずです」みたいな頼み方すれば、和田氏だって、困惑するのみでしょうし、まずは和田氏に対して全くの礼を失している如きのストーリーで終わってしまいます。
その招致委員は当時の岸首相に和田氏宛ての親書をお願いし、それを携えて和田氏に会いに行き、お願いしたのです。
もちろん、その親書に何が書かれてあり、和田氏がメキシコを最初に訪れ、そして他の中南米諸国でどんな話をして説得にあったたのかは、私如きにはまったく知る由もありません。
しかし、私でも知っている事実はたった二つ、それは圧勝で東京開催が決まったことと(シカゴは2位)、その後、次の開催地がメキシコシティに決まったこと。
もちろん、私には政治、外交、そしてこのような外国(人)との交渉経験はまったくありませんので、別世界の話です。ただ、生きてきたというだけの経験ですが、この二つの事実が何を物語るかは、私なりの多少の勝手な類推はできます。
当時の私の年齢では、このようなことを知るはずもありませんが、この話を普通の日本人が知るようになったのは、むしろ和田氏がお亡くなりになってからだと思っています。
(もちろんその当時、そういう話は和田氏のアメリカ社会での立場やセキュリティーを顧慮して、今の我々の庶民感情論は別にして、伏せることが当然でしょう)
ここで、和田氏に礼を失することなくということを書きましたが、実はそれ以降の無頓着極まるお願いを和田氏に依頼するスポーツ競技団体組織が数々出現し始めたからです。
つまり、当時の日本の各スポーツ競技団体組織には金銭的余裕がなかったことは事実でしょうが、アメリカで開催される様々な国際競技大会に出場する日本選手対する、日常的世話や寄付金集めを和田氏にお願いしたという行為です。
もちろん、お願いするにはそれなりの話をしたのでしょうが、「母国、日本の選手のためによろしくお願いします」。
まったく、和田氏に対し、非礼極まりない話です。
つまり、和田氏の母国は日本ではなく、アメリカ合衆国なのですから。和田氏本人はそれをどう受け止めたかは全く知りませんが、ロスの日系人の間では非常な嫌悪感を持たれた話です。
少し、荒っぽい言い方ですが、私の過去の経験ですと、ロスとハワイの日系人では日本人に対する感情が異なっていました。
はっきり言って、ロスの日系人の多くの方々は日本人が嫌いでしたし、一方、ハワイの日系人の方々は日本人に親しみを覚える人が多かったように感じられました。むろん、今では私自身、ロス、ハワイ、共に長らくご無沙汰していますので、現在のことはまったく分りません。
ここで、冒頭の話に戻します。
そして今日のその後、鈴木は再びテレビのインタービューに駆り出されていますが、ここで私が紹介した話はオクビにも出していません。
それどころか、開催国としての与えられた特権に言及しています。
つまり、個人競技であれば、オリンピック標準記録にも及ばない個人競技者、もしくはオリンピック地域予選に勝ち抜けなかった団体など、これを開催国の持つ特権で推薦してオリンピックに出場させることができるのです。
そして彼の発言趣旨は、こういう競技者(団体)にもオリンピック出場に希望をもって頑張ってもらうため、この為の(オリンピック)予算を獲得できるように自分は努力したい。
つまり、ロンドンオリンピックで言えば、その特権を使って、やっと泳げるような旧植民地だったアフリカの競泳選手を、確か自由形だったと思いますが、出場させました。もちろん、結果はオリンピックでの予選で、大きく水をあけられた惨敗です。もちろん、これはイギリスのパフォーマンスですが、イギリスとしての貴族の沽券を世界に見せつけようとしたのです。
話が逸れついでの蛇足ですが、前回の東京オリンピック当時の開催国の特権は、その大会に限り、一つの競技だけですが、オリンピック正式種目とすることができたのです。
それが柔道でした。
柔道と言えば、私にとって真っ先に思い浮かべるのは嘉納治五郎です。当時、スポーツという概念がなかった明治の日本で、それまで柔術として戦場で戦う術として発達してきた各諸派を纏めて、スポーツとしての概念を入れた「柔道」の礎を作った人です。
つまり、西洋から見れば、開国したばかりの汚い奇妙な後進国であった小人(コビト)の国、日本にあって、彼はその貴族然としての立ち振る舞いと、「柔よく剛を制す」を外国で実践して見せ、大男達を投げつけ、西洋各国に人脈を着々と築きあげていきました。そして、幻で終わってしまいましたが、1940年の東京オリンピック開催に彼の人脈と政治力(交渉力)が大きく寄与したのは事実だと思っています。
話逸れついでに行きますと、私の自宅から講道館は15分程度のところにあります。そんな地理的な関係から、柔道金メダリストの山下や前柔道男子日本代表監督のSを、道通りすがら程度ですが、見かけたことがあります。
Sは付け人のように数人を従えて、首と手首に金ピカじゃらじゃらを付けて、小脇に小カバンを抱え、その体格と風貌からして、まるで、あの業界の人であるが如く。そして山下は、「エッ、今のは山下じゃない」と振り返るような地味で目立たぬ感じを受けました。
ですから、Sがその後、柔道男子日本代表監督に就いた時には私は暗雲を感じたことがありました。たまたまでしょうが、結果、その時の男子柔道のオリンピック成績はその通りでした。
昨年からの柔道界の一連の不祥事の表面化から、やっと山下が協会の表舞台に出てきた時、彼のまるで徳川家康の如く、「ホトトギスが鳴くまで」待ったという、したたかさを、希望をこめて見たような気がします。
柔道界という組織に於いては、講道館柔道、警察柔道、そして学生柔道という三つの世界で組織が成り立っていることも私は知っているつもりです。
もちろん格式に於いては講道館ですが、実際の力を持つのは警察柔道で、そこに寄り添いながら力を維持してきたのは学生柔道界の名門校です。
しかし、近年ここに来て日本柔道界に危機感を覚えていた人たちの力が結集してきたようです。
それが、柔道女子日本代表監督(警察が出身母体)が女子選手に対するセクハラと暴力の表面化で辞任に追い込まれ、ついで成績不振にも拘らず、次のオリンピックにも続投が認められていたSも辞任に追い込まれました。さらには、その巻き返しができないようにの如く、Sの母校である天理大柔道部のちょっと古い暴力不祥事件が、最近、表沙汰になったところは記憶に新しいところです。
私の話が纏まりのつかないところですが、鈴木大地と言えば、ソウルオリンピックの背泳100mの金メダリストですが、バサロ泳法(キック)の長所を上手く使い、短所を知り尽くし、長身が有利な背泳において大きな選手を相手して小柄ながらも、ほんのタッチの差で勝利を手にした競泳選手でした。
それほどの緻密な選手でしたが、レース後のインタビューでは、「本番のプレッシャーで計算していたよりも早く浮き上がってしましました」と、本音を率直に述べていたことも記憶しています。
(その後、バサロキックはスタートとターンから15m以内と規定が変更になっています)
また、和田氏の活躍を依頼した組織委員は鈴木と同じ競泳出身者でしたので、引退後の鈴木は近いところでそういう話を聞き、そういう人たちから、その頭脳と人間性を見込まれ、組織のトップとしてのエリート教育を受けていたのかもしれません。
しかし、当時とは違い、今の時代及び社会状況等から、思い出話ではなく、一回でも一言でも、そういう人(達)を公に口にすべきだと彼は思っていたのかもしれません。
ここでは、オリンピックの意義とか、影響等の様々の議論は別な角度の話として、そういう『クレバーで、したたかな』円熟期をこれから迎えようとしている日本人たちが日本にいることを知り、そして確信できたという、私にとっては良い一日を述べたに過ぎません。
まあ、次の東京開催まで私が生きているか、どうか、これも全く別な話です。