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Loginはこちら【1224】[1415]日本書紀と天武の正統性の問題13
1413の続きです。
大宝三(703)年の粟田真人を大使とする遣唐使の派遣。これが日本統一王朝の第一回目の遣唐使である。粟田真人は天武の方針(日本列島では、開闢以来大和王朝しか君臨した王朝はなく、その王である天皇が代々途切れることなく即位し統治してきた)で作られた歴史を携えて唐の都長安を訪れ、日本国の由来を報告した。これには唐の史官たちは吃驚(ビックリ)したであろう。僅か40年前に倭国と戦争していたのだ。倭国王は、長安で捕虜生活を送っていたのである。日本列島の記録は十分すぎるほどあった。それなのに日本国の使者たちは、奇妙な歴史を語るのであった。
『旧唐書』日本国伝より
日本国は倭国の別種なり。その国日辺にあるを以て、故に日本を以て名となす。あるいはいう、倭国自らその名の雅ならざるを悪(にく)み、改めて日本となすと。あるいはいう、日本国は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是れを疑う。また言う、その国の堺、東西南北各々数千里あり、西界南界は皆な大海に至り、東界北界は大山ありて限りをなし、山外は即ち毛人の国なりと。
非常に簡潔で明快な文章である。唐の史官と日本国の遣唐使の遣り取りが目に浮かぶようではないか。
しかし、日本史学者たちは、この『旧唐書』の倭国伝、日本国伝の並記は、編者の不体裁な誤りである、と決め付け、否定し無視してきた。日本史学は、その上に構築されてきたのである。
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前田和寿
【1222】[1413]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅻ
1412の続きです。
前回書き残したこと三点書きます。
一つは、天武軍の勝利が確定した後、尾張国司守少子部連鋤鉤(ちいさこべのむらじさひち)と言う人物が自決した、という記事があることです。鋤鉤(さひち)は、6月27日、尾張・美濃で徴集されていた二万の兵団を引率していた責任者でした。天皇の言葉として「鋤鉤は有功の者なり。罪無くして何ぞ自ら死なむ。それ隠れる謀有りしか。」と、もっともらしい発言を載せているが、鋤鉤の自決は自ら率いていた兵団が、天武の手に落ちたことに対する後悔責任、滅ぼされた近江朝に対する殉死以外に考えられようか。
しかし、『日本書紀』は、天武を天智の実の弟と書く。それなら「壬申の乱」は叔父と甥の争いに過ぎない。カップの中の嵐である。一地方官が、そんな争いの結果に自決するほどの責任を感ずるはずがない。
二つ目は、天武軍が赤色をシンボルカラーに採用していたことです。これは『古事記』序文、『万葉集』の人麻呂の挽歌も明らかにしていますが、学者たちは誰も問題視していません。当時の東アジアで、赤色をシンボルにしていたのは唐朝なのです。当時大量の百済難民が日本列島に漂着していましたし、倭国は朝鮮半島で直接唐軍と戦っていたのです。赤色が唐のシンボルであることは、だれもが知っていることでした。私が美濃・尾張で徴集されていた集団が唐朝に味方するためのもの、と考えるのはこのためです。予め武装されていなければ、天武の手に落ちて五日後には進撃を開始する、など云う早業はとても無理でしょう。
三つめ、鏡王女のことです。
天武紀、十二年七月四日「天皇、鏡姫王の家に幸(いでま)して、病を訊ひたまふ。五日、鏡姫王薨せぬ。」(日本書紀では、姫王と表記する)
鏡姫王に関する『日本書紀』の記事は、これだけです。現代に生きる我々は『万葉集』の歌から、鏡王女と額田王の関係、天智天皇との歌の遣り取り、中臣鎌足に降嫁させられた時の歌などから鏡王女の姿を思い描いていますが、『万葉集』は公式(勅撰)の歌集ではありません。私的な大伴氏の私家歌集です。(これは論を改めて証明します)当時の人は、『万葉集』を誰も知りません。日本書紀の天武紀十二年七月四日の記事は、天皇が誰ともわからないご婦人を見舞った。日本書紀からだけでは、鏡姫王は、素性のわからない一貴人と言う以外にありません。天皇が素性のわからない危篤のご婦人を見舞った記事など『日本書紀』これ以外に見出すことが出来ません。後世栄誉を極める藤原氏の祖・中臣鎌足の正室であったから見舞った、と考える方もいるかもしれませんが、この当時(壬申の乱の記憶がまだ生々しかった時期)中臣の人々は、じっと身を潜めていた。右大臣の中臣金だけが斬首されたのは、天武天皇に中臣だけは許せない強い気持ちがあったのではないか。鎌足の次男で藤原氏繁栄の礎を築いた藤原不比等は、幼時の折、難を避けるため身を隠していた、との伝承を持つ。中臣から藤原に改姓したのは難を避け、身を欺くためだったのではないか。
天武天皇は、鏡姫王の危篤の席に赴き、詫び、赦しを請うたのではないか、中臣鎌足に降嫁させたことを。
【1221】[1412]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅺ
1410の続きです。
『日本書紀』は、天武天皇の巻を上下二巻に分け、上巻全てを「壬申の乱」の記載にあて、戦いの功績を顕彰しています。一つの事件に一巻を立てる事は他に例はなく全くの異例です。天武の王朝にとり「壬申の乱」は偉大なる聖戦でした。「乱」などと貶めて云う事は決して許される事ではないのです。『日本書紀』は「乱」とは一言も用いてはいません。
しかし、奈良時代半ばでは誰憚ることなく「乱」と呼んでいた、これは非常に不可解で重大なことです。権力は、正統性が何より重要です。正統性を失った権力は滅びるしかありません。天武の王朝は、奈良時代半ば、すでに正統性を失っていた。
671年五月始め、大友皇子(弘文天皇)、美濃・尾張国で徴兵を開始する。
五月三十日、唐使・郭務宋、筑紫より帰路に就く。
六月二十四日、大海人皇子一行、ひそかに大和、伊賀路を執り東国に
向う、夜を徹する強行軍。
二十六日、伊勢桑名に入る。
この日、近江朝、大海人皇子(天武)が東国に走った 事を初めて知る。近江朝、吉備国と筑紫国は、元より 天武の家臣である、との見解を示す。
二十七日、大友皇子が徴集していた二万の兵を支配下に置く。
高市皇子(天武の長男)に、戦の全権を与える。
二十九日、大伴氏、大和古京にて天武方で蜂起する。
七月 二日、天武の軍勢、不破関(関ヶ原)より近江に向けて進撃 開始。赤色を天武軍のシンボルカラーとする。
二十二日、瀬田に至りて両軍の最後の決戦、近江軍敗れる。
二十三日、大友皇子、自害。
八月二十五日、近江朝の重臣に罪を言い渡す。右大臣中臣連金、斬 首。左大臣蘇我臣赤兄、大納言巨勢臣比等、及び子孫 悉く流罪。
以上「壬申の乱」の簡単な推移です。天武が東国を目指して出発した六月二十四日から、進撃を開始する七月二日まで僅か八日しかないのです。伊勢国に入った翌日には近江朝の徴集していた二万の軍勢を何の抵抗もなく手に入れている。ものすごく用意周到な計略の下に進めていたとしか考えられません。留意していただきたいのは、総ての指揮を、天武の長男である高市皇子が執っていること。『万葉集』の柿本人麻呂が高市皇子に捧げた挽歌は、天武・持統朝の政治は高市皇子が執っていた、と歌っている。しかし、万葉学者たちは、天武・持統の共治体制と言い天皇親政に最も成功した時代と説く。天武朝は「壬申の乱」と呼ばれる戦争で成立した政権である、軍事政権であった、故に、軍権を握る高市皇子が最高実力者であったはずだ。『万葉集』の史料価値は非常に高いのである。高市皇子の存在は非常に重たい。
また、吉備国と筑紫国は「元より大皇弟に隷(つ)きまつる」と、近江朝の認識が書かれている。天武は倭国(筑紫王朝)の大皇弟なのだから当然である。
また、六月二十九日、大和の名門大豪族大伴氏が天武方で決起したのも重要である。近江朝は、この時になっても大和では全く警戒していない、大和で天武に付くものなどいるはずがない、と考えていた。大伴氏の決起は、近江朝に対する裏切りである。このことが奈良時代が深まるにつれ大伴氏を苦しめることになる。事実、延暦四年、藤原種継暗殺事件で、大伴家持は既に死んでいたにも関わらず事件の首謀者にでっち上げられ、屍骸は掘り起こされ、絶海の孤島隠岐に流された。栄光に輝く氏の名・大伴は剥奪され、それ以降は伴氏を名乗るのみ。
近江朝の重臣で極刑・斬首にあったのは右大臣・中臣連金のみである。中臣つまり藤原氏が天智系勢力の中心である。
「壬申の乱」と言うのは、倭王朝の大皇弟・大海人皇子による大和王朝乗っ取り事件のことであった。天武は、正統性を何より欲した。天武を正統とする歴史を創造せねばならなかった。
【1220】[1411]アメリカの政府閉鎖(ガヴァメント・シャットダウン)で、世界が新しい段階に入りました。
副島隆彦です。
今日は、2013年10月15日です。
台風が次々とやって来ますが、これは自然の恵みであって、各地に水害をもたらすと怖がって嫌(いや)がってばかりいる考えは愚かである。 台風雨のなかで、びしょ濡れになってしばらく立っているといのも、身体強化の教練の健康法だと思う。私は、自分の気力、気合(きあい、anima アニマ、動物的な活力) を高めるためにそういうことを時々します。
10月1日から、アメリカ政府の政府閉鎖(ガヴァメント・シャットダウン)が始まって、アメリカ政府(米国債)のデフォールト(債務支払の不履行、破産へ)― America’s default と オバマはテレビに向かって言っていた ― が始まった。それで、世界の雰囲気が大きく変わった。 日本も馬鹿やろうの安倍晋三首相が、軌を一にして、この日に消費税の値上げを発表した。
世界は新しい段階に入った。 これで、これまで、アベノミクスで浮かれ騒いでいた、経営者、投資家、自営業者たちが、「あれ。おかしなことになってきたな」と慌てだした。
私、副島隆彦に向かって、私の本も買って読む頭のいい経営者なのだが、経営塾とかで、付き合いがあるものだから、わざと私に電話をかけてきて、 「副島先生。株(日経平均)は、一万八千円になるんだよ。2万円になると証券会社が言っていたよ」と、騒いでいた、やや愚か者たちが、しゅんとなって、今は、「なんとか、自分だけは、売り逃げたい。損をなるべく少なくして(2千万円以内)、全て株を売ってしまいたい」 と、ブルブルし始めている。 もともと、この程度の 浅知恵(あさじえ)しかない連中だ。
この私に向かって、「ええ。日本株の 第4派の大きな上げの波が始まりますよ」と、5月23日の1400円の暴落のあと、やせ我慢で言ってのけた、金融ライターも、今は、内心、恥じて、虚勢を張るしかないだろう。
それでも、この生来の人だましの、詐欺師の本性(ほんしょう)をした金融業界のハイエナどもは、次々と客をだまして、大損させても、何の恥も、自責も感じずに、ケロケロケロで、このあとも、ウソ八百の金融、経済予測を、自信たっぷりに書いてゆく。20台で習い覚えた詐欺師の病根は、一生治(なお)らない。私が、「その見方は、短慮であって、冷静な中長期の予測にはならない」とあれ程(ほど)叱って、諌(いさ)めた のに全く聞く耳を持たなかった。若い人を育てる、というのは本当に難しい。
私は、昨日、ようやく この秋の恒例の「副島隆彦の金融本」を書き上げた。9月の末から、いや、本当のことを言うと、本気になって書いたのは、10月5日からだから、10日間で書き上げた。 書名は、「帝国の逆襲 金(きん)とドルの最後の闘い」(祥伝社刊)である。11月の初めには主要な書店に並ぶだろう。 アメリカは、あと15ヶ月(一年半)は、生き延びる。
今のままズルズルと、趣向を凝らしながら、さまざまの策を弄しながら生き延びる。だから、アメリカの株と債券(国債)が、小さな暴落をするのは、来年の1月である。 今の、国家借金の債務上限(debt ceiling デット・シーリング)の引き上げ法律 と、 一般予算のオバマケアとの抱合せでの通過も、何とかぐちゃぐちゃの妥協合意で通り越す。 そして、イエレン新FRB議長をいじめるための、1月の暴落が来る。
しかし、本当にコワイのは、来年の11月の中間選挙(ミッドターム・エレクション)を何とか乗り切った(押さえ込んでクリンチする)あとの、年が明けての2015年の1月の巨大な大崩れだ。 あの忌まわしいリーマン・ショックから6年目だ。
副島隆彦は、そのように冷酷に予測して、今の、「帝国の逆襲」戦略の、その細目(さいもく)を全て見抜いて、今度の本に羅列、列挙した。 日本人を浮かれさせるための「オリンピック東京決定バブルの増税との抱き合わせ」の“パンとサーカス“戦略の裏側も、今度の本でズバリと書いた。
共和党の中の茶会(ティーパーティ)派が強硬で、彼らは、「アメリカ経済を殺そうとする財政テロリストだ」と、民主党系の偽善者(ヒポクリット)経済学者たちは言う。しかし、茶会の背後にと言うか、中に着実に根を張っている中心部隊は、まさしくリバータリアンたちだ。ポール・ライアンやケネス・ロスたちは、ジワジワと周到に、オバマを、ではなく、アメリカを支配する超財界人どもを追い詰める。
テキサス州や、コロラド州、ネバダ州などの州が、アメリカ連邦からの分離独立の動きを始めている。アメリカ開拓農民魂の ど根性が、我らがリバータリアン思想となって、今のアメリカを着実に、国家破産に追い込む。 G20が、「アメリカは早期の財政問題の解決を」と決議したことは、アメリカの堅実な保守派の白人たちの精神にとって、逆効果となった。共和党系は、「これ以上、税金の形で、従業員たちの健康保険(オバマケア)の分まで、さらに 10%も取られるのは、かなわん。許さん。 保険料も保険税で、全部、mandate tax マンデイト・タックス = must pay tax じゃないか。絶対に払わん。それよりも、ワシントンを破産させろ」 と、息巻いている。 この アメリカ保守派の、本当の健全な男たちの 魂を、打ち砕くことは出来ない。
“ End the Fed “ (エンド・ザ・フェッド ) 「Fed = FRB( 米連邦準備制度理事会)を、廃止せよ !」 と、全米の アメリカの 大学生たちも、大学のオーデトーリアム(大講義室)の中で、 「エンド・ザ・フェッド、エンド・ザ・フェッド!」と足を踏み鳴らして、怒号する。 これが今のアメリカだ。 そういう真実は、日本国内には、ちっとも伝わって来ない。すべて情報統制されている。
私たち学問道場だけが、この 「ロン・ポール議員の 連邦準備銀行を廃止せよ」(成甲書房刊、2012年、佐藤研一朗 訳)を、出して、本当の真実を、日本国内に伝えてきた。ロン・ポールの息子の ランド・ポール・ケンタッキー州選出上院議員や、テッド・クルーズ・テキサス州選出上院議員たち筋金入りのリバータリアンたちが、団結して、いよいよ、アメリカのグローバリスト(地球支配主義者)たちを、追い詰めてゆく。
私の最新刊の金融本に、それらの様子も活写しました。
私の本は、他に、おそらく今日から、「 税金官僚から 逃がせ隠せ個人資産 」(幻冬舎刊)という税金、税制の本が、主要な書店に並ぶ。 小金持ちや、親が資産家で、その資産を狙っている30台の貧乏サラリーマン夫婦とかは真剣に、この本から学んでください。私は本気で闘う言論人である。
その他に、「説得する文章力」(ベスト新書、ベストセラーズ社刊)という、実質、「副島隆彦の文章読本(ぶんしょうどくほん)」である本が11月の初めの週には出るでしょう。これは、自分の小論文、作文、発表する自分の文章をどうやって書いたらいいか、の作文の技術の本です。 それから、私の歴史研究の5冊目である、「闇に葬られた歴史」(PHP研究所)が、10月末には出ます。 これも、私が心血を注いでいる、真実の歴史(日本史)を暴き立てる本です。乞うご期待。
私は、この10月になって、ガラリと変わった世界の情勢で、勢いづいてきた。2012年、2013年の金融・経済の予測で、 アメリカ帝国が、逆襲に出て、いろいろの策を次から次に繰り出すものだから、「副島先生。最近の、先生の予測は当たりませんね」と、投資家、経営者たちから言われてきた。 私は、不愉快極まわりない思いをした。
さあ、これからどうなんだ。 ジャブジャブマネーという贋金(にせがね、金融緩和)という法律違反、違法行為を、米、欧、日の先進国3地域の、政府・中央銀行が自ら際限なくやって、自分で自分を麻薬(ドラッグ)漬けにしたら、その報(むく)いが、自分たちに襲いかかるのだ。十分に思い知るがいい。どうせ、大損をして痛い思いをするのは、この一年弱、浮かれ騒いで、騙されて、踊らされて、いいように連れ回されて、嘘八百のアベノミクス=リフレ派 というインチキ経済学に乗った、自分自身だ。人のせいには出来ない。
私たち学問道場は粛々と、次々と押し寄せる時代の波に対処してゆきます。
どうか、この26日(土)の、学問道場の会員たちの重要な、年に一度の集まりである、定例会に、ご参集ください。まだ席は有るそうです。私たちのささやかな頑張りが、日本国の真のアンカー(歯止め、おもり)であります。
※今月、10月26日(土)の、孫崎享先生をお迎えしての、私共の講演会に、是非ご出席下さい。
・「副島隆彦の学問道場」第31回定例会
演題:「『戦後史の正体』と『属国・日本論』を語り尽くす」
講師:孫崎享、副島隆彦
開催日:2013年10月26日(土)
会場:東京・御茶ノ水「全電通労働会館ホール」
開場:12:15~
・上記定例会(10/26)へのお申し込みはコチラ↓
http://soejima.to/cgi-bin/kouen/kouen.html
副島隆彦拝
【1219】[1410]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅹ
1408の続きです。
671年十一月、唐朝は倭国王を送還して来た。そして再度の新羅討伐軍の派兵を要請したのです。
しかし、倭国は東国の防人の警護する地に変っていた。大和王朝(日本国)の臣下となっていた。唐の要請は、そのまま大和王朝に伝えられた。
この年の十二月三日、天智天皇が薨去された。後を継いだのは長男の大友皇子(弘文天皇)です。大友皇子は、唐の要請を承諾したのです。翌年の五月の始め、美濃・尾張国で百姓の徴集を開始した。天智天皇は、百済滅亡に伴い故国を離れ日本列島に流れ着いた百済難民に、琵琶湖東岸の湿原、美濃・尾張の荒野を与え開墾自活を促していた。美濃・尾張には百済人部落が点在していた。大友皇子は、彼らを中核とする徴集を進め、武装させ筑紫に送り唐軍に受け渡すことにした。唐使郭務宋が筑紫を離れたのはこの五月の末日と記される。大和王朝が徴兵を開始したのを確認して帰途に就いた。
倭国の大皇弟・大海人皇子は、この徴兵を最初から知っていた。日本書紀は、大海人皇子を天智天皇の実の弟と書き、本来は大海人皇子の方が、皇太子の地位にあり正統な皇位継承者であったが、病に倒れた天智が、我が子・大友皇子に皇位を継がせたいと思っている気持ちを察し、自ら身を引き出家して吉野に隠棲し、静かに余生を過ごすつもりであった。それなのに大友皇子は、恩知らずにも大海人皇子を滅ぼそうとして危害を加えてきた。追い詰められて仕方なく決起したのだ、と日本書紀は大海人皇子の行為を弁明する。
確かに大海人皇子は追詰められていた、帰ってくるとは誰も考えていなかった国王が帰って来たのである、崩壊に面していた倭国が大和王朝の下手に入ったことは理解してもらえよう。しかし、皇后を大和王朝の一臣下に降嫁させた事をどう言えば良いのだ。大海人皇子は国王に顔向け出来なかった。
朝鮮半島情勢によく通じていた大海人皇子は、日本書紀の記述と違い大友皇子のアドバイザー的立場にいたのではないか。大友皇子の妃は、大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女であり、その間に皇子の誕生を見ていた。
大友皇子が、美濃・尾張で徴兵を開始したことが「壬申の乱」の全てであった。大海人皇子は、この兵団を手に入れることに賭けて挙兵を決意したのである。
【1218】[1409]NHKスペシャル『中国激動』~1億人のキリスト教信者たち
前田和寿です、
2013年10月13日日曜日、NHKスペシャルで『中国激動~”さまよえる”人民のこころ』が放映されました。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2013/1013/
放送内容は、中国の宗教事情についてです。国家政策により初等教育から儒学(孔子の教え)を広める活動と貧民層に広がるキリスト教(現在、信者1億人近くらしい)についてでした。
都市部では、農村から出稼ぎに来たが取り残されてしまった人々などが当局に無届(共産党は黙認)のキリスト教の教会(家庭教会)に毎日祈りを捧げに行っていました。
キリスト教のどの派閥かはよくわかりませんが、カルト系の団体もたくさんあると思います。16億人をまとめるパワーを中国共産党は、宗教や他の権力に分散しつつあるようです。民主化に必要なプロセスだと思います。
無宗教者(non-believer)の私たち日本人が観ると異様な光景ですが、こういう所にアメリカは目を付けて宣教師やミッショナリーズ(高校卒業後、2年間世界に派遣される若者たち。スーツにネクタイで自転車に乗る2人の外国人の男性を見たことがあると思います。)を派遣してくるでしょう。
これからの中国では新たな宗教権力が見過ごせなくなりますね。
副島先生がスナックで中国人女性に「あなたは何を信じていますか?」と聞いた話や中国首脳たちが日本に来たら池田大作に真っ先に会う話に繋がりますね。
前田和寿
【1217】[1408]日本書紀と天武の正統性の問題
1407の続きです。
天智七(668)年正月、満を持して中大兄皇子即位する。不自然な長期の称制(皇太子のまま政治を執ること)に対しいろいろ言われているが、この即位はこれ以前の大和王朝の天皇の即位とは意味を異にする。日本統一王朝の王者になったことだ。日本統一王朝はここに始まる。倭国は、大和王朝(日本国)の臣下に為ったのだ。前年の三月に近江大津に遷都した事は、奈良盆地に偏在するより天然の大運河・琵琶湖を持つ大津の地の利、将来性を勘案してのことであった。天智は、東国開拓に大きな可能性を見ていた。
天智十(671)年十一月、唐使・郭務宋の四度目の来日があった。この訪日は、前三度のものと性格を異にした。
『日本書紀』より
十一月十日、対馬国司、使を筑紫大宰府に遣して申さく「月立ちて二日に、沙門道久・筑紫君薩野馬(さちやま)・韓嶋勝娑婆・布師首磐、四人、唐より来たりて申さく『唐国の使人郭務宋等六百人、送使沙宅孫登等一千四百人、総て二千人、船四十七隻に乗りて、共に比知嶋に泊まりて、相語りて曰はく、今我らが人船数多し。忽然に彼処に至らば、恐るらくは彼の防人、驚きとよみて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、予めやうやくに来朝の意を披きもうさしむ』とまうす」とまうす
上の記事によれば、四人の倭国幹部を千四百人の兵で護送させて送り返してきた、と言う。本来は捕虜の送還であるが、倭国幹部へ敬意をこめれ一国の代表者に対する礼式でもって送り返してきた。その上、今回の訪問は戦うものでないことを前もって対馬国司に伝えている。この記事を見ると前三回の来日では倭国と唐軍の間に多少の戦闘があったことがうかがえる。問題は、この四人の中に筑紫の君薩野馬(さちやま)が居たことである。倭国の首都は、筑紫であった。大和に首都を置く王朝を大和王朝、近江に首都を置く王朝を近江王朝と呼ぶのに習えば、筑紫に都をおいた倭国を筑紫王朝と呼んでも良いはずである。故に、筑紫の君は倭国王である。
唐朝は、倭国王送還して来たのであった。みじめな捕虜としてではなく国王としての礼を尽くして送り届けてきたのである。これが事件の発端であった。
唐朝は倭国に和解を求めてきたのである。問題は朝鮮半島にあった。668年、唐は新羅と協力して高句麗討伐を成し遂げた。隋朝から引き継いだ重い宿題をやり遂げたのである。しかし万歳万歳で終わらなかった。唐軍は帝国軍として朝鮮半島住人を見下し暴虐に振舞っていたため半島全域で反唐感情が充満していた。また、百済滅亡の後、百済旧都に都督府を置き、直接統治する態度を示し、現地役人に百済王族などを起用し新羅の台頭に対抗させていた。新羅王朝に、唐に対する反感不信が育っていた。
高句麗滅亡を前後して、反唐の蜂起が頻発していた。669年の後半、新羅王朝が唐に対し戦闘の火蓋を切ったのです。反唐感情が充満していました、半島駐留唐軍は一気に劣勢に追い遣られた。唐の半島経営は危機に瀕していました。
世界帝国の唐と言え、長年の派兵は唐の財政を圧迫していた。また国民の間に厭戦気分が蔓延していました。そこで妙案を思い付いたのです。あの倭国に、再度の新羅討伐軍の派兵を促せば良いのではないか、と。そこで長安で捕虜になっていた倭国王に麗々しく千四百人もの護衛の兵をつけて送り届けたのでした。
【1216】[1407]日本書紀と天武の正統性の問題
1404の続きです。
額田王、近江天皇(天智)を偲ひて作る歌
君待つと わが恋ひをれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く(488)
鏡王女の作る歌一首
風をだに 恋ふるは羨(とも)し 風をだに 来むとし待たば 何か嘆かむ(489)
額田王と鏡王女は姉妹であると云われています。二人は、白村江の敗北の後、大海人皇子と共に大和王朝に身を寄せていました。額田王が、秋の風のそよぎに恋しい人の来訪を感じているのに対し、鏡王女の方は「風を良き人の来訪の予兆と感じるあなたがうらやましい、私には誰も訪ねてくる人がいないのですから」と歌い返している。
額田王が天智天皇と既に結ばれていたのに対し、鏡王女は孤閨をかこっていた。彼女には次の歌もある。
神名火の 伊波瀬の社の 呼子鳥 いたくな鳴きそ わが恋ひまさる(1419)
鏡王女は、恋しい人と別離の状態にあった。
私が二人の女性の動向に注目するのは、壬申の乱の起因に、鏡王女が関係していると確信しているからです。和歌に興味のない方には、退屈で煩わしいでしょうがもう少しおつきあい願いたい。
天皇(天智)、鏡王女に賜ふ御歌
妹が家も 継ぎて見ましを 大和なる 大島の嶺に 家もあらましを(91)
鏡王女、和たへ奉る御歌
秋山の 樹の下隠り 逝く水の われこそ益さめ 御思ひよりは(92)
お互いに敬意をもち、相手をやさしく気遣っている挨拶歌である。鏡王女が大和へ身を寄せていた時、夫と別離していた、その夫とは何者であったのか。倭国の国王である、と言うのが私の確信です。何故なら、倭国王は不在でした。唐に連行され、唐の都長安で捕虜になっていたのです。誰も指摘しませんが、これは日本書紀から判明する事です。天智天皇も倭国王に敬意を払い、鏡王女に失礼の無いように接していた。
ところがです、あろうことか天智の片腕である中臣鎌足が、鏡王女を所望したのです。
内大臣藤原卿、鏡王女を娶(よば)ふ時、鏡王女の内大臣に贈る歌
玉くしげ 覆ふを安み 開けて行かば 君が名はあれど わが名惜しも(93
内大臣藤原卿、鏡王女に報へ贈る歌
玉くしげ みむろの山の さねかづら さ寝ずはついに ありかつましじ(94)
内大臣藤原卿、采女安見児を娶(ま)きし時作る歌
われはもや 安見児得たり 皆人の 得難にすといふ 安見児得たり(95)
(95)の歌は、采女安見児となっているが、鏡王女に違いない。あまりにも露骨すぎるので万葉集の編者が配慮したのに違いない。
鎌足の勝ち誇っている雄叫び「誰もがものにするのは難しいと云っている倭王朝の皇后を、俺はついにものにしたんだ」と。
鏡王女の口惜しさにじっと唇をかみしめ耐え忍んでいる歌と好対照である。鏡王女と中臣鎌足の間には子供の誕生を見なかったが、鏡王女は藤原氏の氏母として藤原氏の社寺に祭られている。大海人皇子は、土を舐めるような屈辱に耐え忍び延命を図らねばならなかった。
【1215】[1406]日本書紀と天武の正統性の問題Ⅶ
1404の続きです。
661年八月に始まった倭国の朝鮮半島出兵は二年後の663年八月、白村江の敗北で決着を見る。『旧唐書』劉仁軌伝は次のように記す。「仁軌、倭兵と白江の口に遇う。四度戦い捷(かつ)、其の船四百艘を焚く。煙り炎は天に漲り、海水は真っ赤になった。・・・」と、『三国志』で有名な赤壁の戦いを思わせる地獄絵の再現であった。どれほどの倭兵が故郷に帰り着くことが出来ただろう。
日本の教科書は、これでこの事件は終わりとの様に書く。しかし、いまだ高句麗は健在であった。唐の真の目標は、高句麗討伐にあった。それに倭国も半島での戦闘力を失ったと云え、本国で戦闘があったわけではない、本国政府は依然健在であった。しかし、二年に亘り半島に兵を送り続け、惨敗に終わったのである。王朝の権威は地に落ち、王朝への信頼は完全に失われていた。秩序は乱れ、都の治安の維持も儘ならなくなっていた。そんな中、664年唐の使者・郭務宋がかなりの兵力を率いて筑紫に来たのである。郭務宋はこの時から671年まで四度も筑紫に来ている。(日本書紀)世界帝国である唐朝が、二年に亘り刃向かった倭国をそのまま見逃すわけがない。厳しい条件を突き付けられただろう。国民の信頼を完全に失ったいた倭王朝は、唐の要求に応えることがもはや出来なかった。大和王朝に縋り付くしかなかった。東国からの防人の徴集はここに始まったのだろう。関係は完全に逆転していた。倭国討滅は、中大兄皇子の胸三寸にあった。倭国の皇大弟・大海人皇子は、中大兄皇子(天智)におもねり取り入らねばならなかった。才色兼備として名高かった自分の妃・額田王(ぬかだのおほきみ)を中大兄皇子に差し出した。
天皇、蒲生野に遊狩(みかり)したまふ時、額田王の作る歌
あかねさす紫野行き標野(しめの)行き 野守は見ずや君が袖振る (20)
皇太子(大海人皇子)の答えましし御歌
紫草(むらさき)のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも(21)
この一対の歌は、日本の詩歌で最も有名なものの一つです。額田王は最初大海人皇子と結婚し、その間に娘(十市皇女)を産んでいた。しかし、上の歌の応答のあった天智七(668)年には、天智天皇の後宮に入っていたのです。もう一首万葉集の歌を検討します。
天皇(天智)、内大臣藤原朝臣(中臣鎌足のこと、壬申の乱以前は中臣氏 は、まだ藤原を名乗っていない)に詔して、春山の萬花の艶と秋山の千葉の 彩を競はしめたまふ時、額田王、歌を以ちて判(ことわ)る歌。
冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴くぬ 咲かざりし 花も咲く けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉 を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨め し 秋山われは (16)
この歌は、隠喩(metaphor)歌なのではないか。春山とは、興隆期を迎えていた近畿大和王朝(日本国)を指し、秋山は没落に向かっている筑紫王朝(倭国)を指す。そして秋の紅葉の中に残れる青葉とは、天智天皇に求められる、いまだ青春の色香の残る額田王自身を指している歌ではないのか。(つづく)