重たい掲示板

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田中進二郎 投稿日:2014/07/14 04:23

【1341】[1623]フリーメイソン研究の二冊の最新刊の本について

秘密結社フリーメイソンの世界史的役割を明らかにした最新刊二冊
投稿者:田中 進二郎
投稿日:2014年7月14日
 
7月初めに成甲書房から、『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』がリリースされました。最初は大書店の副島先生の本のコーナーだけに置いてありました。が、十日ほどたった現在は、関西私鉄などの駅の中にある書店の店頭でも平積みされています。
この本の人気に火がつくのはまさにこれから、というところでしょうか。
 共同執筆者の一人(西周 にし あまね の章を担当)として、自分の塾の教え子に十冊ほど配布したところ、彼ら(中学生たち)は学校に持っていって、「読書タイム」に皆で読んでいる、とのことです。
「難しい。」と言いつつも、彼らはがんばって読もう、と思っているらしいです。

 この『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』の発刊とほぼ、機を同じくして、フリーメイソン(リー)の歴史的役割を考察したもう一冊の研究書が出されています。
書名は『ロシアを動かした秘密結社 ― フリーメーソンと革命家の系譜』 植田樹(うえだ しげる 1940年生まれ)著 彩流社 2014年5月刊 です。タイトルも似ています。
 フリーメイソンリーが、17世紀後半のロマノフ王朝、すなわち、ピョートル1世(在位1689~1725年)の治世から1917年のロシア革命に至るまで、ロシアに大きな影響をふるっていたことを、フリーメイソンリーおよびその他の分派の秘密結社の研究によって、明らかにした本です。
 
 ピョートル大帝については、西欧化を推進させるため、貴族たちのアジア的な髭(ひげ)を強制的に剃らせたりしたということが知られている。高校の世界史の教科書(山川出版社)にも、その絵が載っている。著者植田樹氏は次のように書いている。引用します。

(『ロシアを動かした秘密結社』より引用開始)

 ピョートル大帝にとってフリーメイソンとは西ヨーロッパ文明そのものだった。彼はロシアの近代化=西ヨーロッパ化にまい進した。アジア的な後れたロシアを短期間に近代化するには、西ヨーロッパの文物の大胆な導入と模倣が一番の近道だと考えた。彼は何よりも富国強兵をめざした。それは同じく脱亜入欧による近代化と富国強兵を目指した日本の明治維新より約200年も前だった。
 
ピョートル大帝は1697年、総勢数百人の大使節団を西ヨーロッパに派遣した。(中略)ピョートル自身は低い身分の随員の下士官に身をやつし、偽名でこの使節団に加わった。彼はこのとき25歳だった。
 
 フリーメイソンの一人、ドイツの著名な数学者であり法学者でもあった、ゴッドフリード・ライプニッツ(1646~1715年)は、西ヨーロッパにおける合理主義や啓蒙思想の先駆者だった。その彼は東方の後進国ロシアを啓蒙し、西欧化することに強い関心を抱いたのだ。(中略)彼はピョートルのこの視察旅行を利用して若い皇帝を感化することを考えた。

 ピョートル帝はブランデンブルク大選挙侯国に立ち寄ったあと、1689年イギリスに渡った。そして、イングランドのオラニエ公ウィリアム3世(1650~1702年)に会った。(彼はイギリス名誉革命の後にオランダから国王として迎えられた人物である。-田中注)
ウィリアム3世もまた熱心なフリーメイソンであった。そこから、このときにピョートル帝がフリーメイソンになった、という説もある。  (田中注-このあと、ウィリアム3世はピョートル帝とともに、オランダにわたり、旅案内役までしたそうである。Wikipedia[ウィリアム3世]の項を参照した。)
(中略)
 ヨーロッパの上流社会で発展したフリーメイソンは団員を「兄弟」と呼んで、国籍や民族を越えた友愛と相互扶助の精神で連帯していた。それはフリーメイソンの「コスモポリタニズム(国際主義)」と呼ばれたが、根底では王族や貴族たちの国境を越えた家族的結びつきの延長線上の感覚だった。 -p48~51より

(引用終わり)

 田中進二郎です。以上のように、ロマノフ朝のピョートル大帝は、秘密結社フリーメイソンリーのネットワークから、西欧の何たるかを学んだのだ。ピョートルの視察旅行は、このあと、ロシアの保守派の大貴族たちの反乱が起こったので、終わりになる。帰国したピョートルは反乱鎮圧後、直ちに西欧化政策を断行した。貴族たちの髭もこのときに剃られたのである。
 さらに、ロシア正教会こそが、保守反動の牙城、アジア的因習の巣窟であるとして、主教にフリーメイソンの人物(フェオファン・プロコポヴィチ)を任じた。
 このような開明的な政策の陰には、反対派に対するピョートル大帝の秋霜烈日な弾圧もあった。イワン雷帝(4世 1530~1584年)や日本の織田信長のような残忍な側面も残していたのだ。だから、ピョートルはヨーロッパの皇帝の肩書きである「イムペラートル」と東方的な「ツァーリ」を併用したのだ。

 それから約一世紀を隔てて、啓蒙専制君主として知られるエカテリーナ2世の治世(在位1762~1796年)が到来する。ドイツ人であるエカテリーナ2世をクーデターで皇帝に担ぎあげたのもフリーメイソンたちであった。エカテリーナ2世即位まもないころのロシアの宮廷には、プロイセン国王フリードリヒ2世(大王)の威光が強く働いていたようだ。
啓蒙専制君主の彼はまた、プロイセンのフリーメイソンリーの総長でもあった。(前掲書 p63)
 
 これよりさきに、フリードリヒ二世は七年戦争(1756年~63年)でハプスブルグ=オーストリア、フランス、ロシアに囲まれ、苦戦を強いられた。
 フリードリヒ二世は、プロイセン王国を包囲する三人の女性による同盟(ペティコート同盟というものがあった)を打破するために、ロシアの宮廷内のフリーメイソンたちに女帝エリザベータを殺害させたのではないか、と私田中は考える。
 だからその後、ロシアの皇帝には、フリードリヒ二世に心酔するドイツ人皇帝ピョートル3世が即位している。が、彼はフリーメイソンではなく、ただフリーメイソンの総長の地位を得ようとしていただけだった。そのように植田樹氏は指摘している。だから、再びフリーメイソンは宮廷クーデターで、皇帝を抹殺したのだ。こうして、エカテリーナ2世の治世が始まった。

 このような具合に、ロシアの近代史はロシア革命に至るまで、実に多様に、連綿と、秘密結社フリーメイソンリーに動かされてきたということが、『ロシアを動かした秘密結社』を読めば納得できる。
 また、ロシア革命のくだりでは、19世紀後半からテロも辞さないロシア社会主義の活動家、革命家たちが、いかにフリーメイソンリーの会員規約を研究し、模倣したかの考証がなされている。
 ロシアの社会主義者は、フリーメイソンリーの結社精神から、個人主義を取り払い、秘密主義・集団主義の組織論を作り上げた。そして、ロシア革命ではフリーメイソン政権であった、ケレンスキー臨時政府が、ロマノフ朝最後の皇帝ニコライ二世を廃位させるのを待っていたかのように、彼らが主導権を奪い取った・・・。

 新刊『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』を読まれた方は、こちらの本も読まれてみてはいかがでしょうか?

田中進二郎拝

庄司 豊明 投稿日:2014/07/11 15:35

【1340】[1622]投稿をお休みします

私事を申し上げ大変恐縮ですが、10/26(日)にTOEIC試験があり来月8/25(月)より申し込み受付開始となります。
以前にお話した古村治彦様の翻訳なさった本と並行して’フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした’の読破と重たい掲示板にその2冊について投稿させていただき一段落したとこで、試験勉強を本格的に始めるためにも原書
での読書(かなり読破だけでも時間を要するので)のため、しばらくの間重たい掲示板への投稿をお休みさせていただきます。

庄司 豊明 投稿日:2014/07/07 14:49

【1339】[1621]shoji@zenkeijikyo.or.jp

’フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした’
早速、購入しただ今読んでおります。
読破していませんが、今まで歴史教科書で嘘を教えられていたかと思うと官僚、政治家は尊敬はおろか信用には値しないとつくづく感じています。

庄司 豊明 投稿日:2014/07/04 08:02

【1338】[1620]shoji@zenkeijikyo.or.jp

副島隆彦先生ならびに翻訳者の古村治彦様遅くなりました。
でも、まだ読破済ではありませんが、鄧小平の章まで読み終えたので
書かせていただくことにしました。
近所に在日中国人の友人がおりますが、今でも中華人民共和国の建国者として天安門には毛沢東の写真が掲げられていても功労者は鄧小平だと言っていました。
確かに格差社会で社会主義は平等という矛盾も生まれた中であの方が
おらりなければ中国の発展はなかったことは自分でも納得できました。
話は変わりますが、最近、某団体のホームページを見て政治家の靖国参拝と閣議での集団的自衛権に異議を申し立てる主張をしていました。
靖国問題と集団的自衛権の問題は一体だと自分でも感じています。
国のために不幸にして犠牲になられた方々のための施設は環境省管轄(国が管理する)千鳥ヶ淵戦没者墓苑が一切の人種や宗教、軍人、
軍属、民間人をも問わないで慰霊するのであるとの主張が当然かと
私も思います。
沖縄県民の方で以前はアメリカと戦争をして多くの人々を犠牲にしながら、今度はアメリカと組んで戦争をするつもりなのかと言う言葉も聞きました。
戦争を起こす本人は戦場には直接行かずに戦場に生かされるのは常に底辺の人々ばかりだと。

本多俊一 投稿日:2014/07/02 20:41

【1337】[1619]Re:集団的自衛権

会員番号5693、福島県在住の本多です。自営業者です。

今回の「集団的自衛権の解釈見直し閣議決定」を私なりに考えてみました。

(1)デモクラシー(民政政治)の手続きを無視した。
 デモクラシー国家では、その手続きを重要視します。一部の国会議員のなかには、日本はもうデモクラシー国家ではなくなった と喝破した人がいました。
 海外のデモクラシー国家のメディアでは、「日本は憲法をクーデターで乗っ取った」という趣旨の報道がされております。

 どんなに時間がかかろうが、煩雑だろうが、憲法改正という手続きをとらなかったことで世界に対しての反響は大きく、その反動も大きいと思います。(かえって、日本国の抑止力が減少したともいえます。)

(2)行政権力が憲法の解釈変更を行なう摩訶不思議な現象。
 三権分立というのは、義務教育で習いますが、その精神は学びません。また、憲法は法律ではありません。たしか、橋爪大三郎氏が動画で「(憲法は)国民から権力者への命令書」といっておりますから、命令を受けた行政権力がその命令の解釈を勝手に変えるという愚挙に憤ります。

(3)最終判断は誰がする?
 行政権力が暴走しているわけですから、三権分立からいえば、司法が判断するのでしょう。解釈変更した時点で裁判所に提訴すればいいのか、それとも、次の国会で、例えば自衛隊法改正が成立したら提訴すればいいのか、私も悩みます。多分、後者ではないかなと推察しております。
 ただ、最高裁は、過去に米国からの指示で高裁審理を飛ばし、最高裁で米国通りの判決をだしました。有名な「砂川裁判」(日米地位協定入門、p239)で、米国の過去の文書が解禁されてわかったことです。だから、司法も100%信用できない哀しい状況であります。

(蛇足)日本人は「日米地位協定入門」を読まれることをお勧めします。

(4)権力の監視を行なうメディアが、ポチ公に。
 行政の各部署にある記者クラブは廃止したほうがいいと思う。サラリーマン・メディアは、ある場所(記者クラブ)にいけば、情報(ネタ)が貰えるものと思っている節があります。事業を行なっている者からすると、どこにでもネタは落ちているし、いいも悪いも自分で判断しないといけない状況になります。
 あと、紙媒体やラジオ系メディアはそうでもないのですが、映像のマスメディアは、視聴者受けする映像や、はしゃぎすぎる映像を作る傾向があります。
 頑張っているのは、フリーの方々ですね。

(5)「妄想」私が安倍首相だったら・・・
 昨年末、私(安倍首相)が靖国参拝をしました。私は新道政治連盟国会議員懇談会の会長をしておりますから、昨年は一度、行きたかった。その後、米国からの反応は凄まじく、また米国のメディアから「ABE is over」(安倍は終わった)と報道され、苦境に陥りました。

 今年のはじめ、米国政府高官から、「日米(軍事)ガイドラインの見直し(年末)に向けて、集団的自衛権を有効にせよ」という恫喝(要望)がきました。私が推測するに、米国の債務事情から、世界の軍事戦略を見直し、「リ・バランス戦略」が打ち出されましたが、米国軍隊の代わりを周辺同盟国が負担する というもののようです。

 私は、その内容を、日本国民に伝えることはできないと考えました。本当は、「日本は米国から、集団的自衛権を有効にせよと言われております。検討した結果、憲法改正手続きしかありません。しかし、時間がありませんので、米国の指示通りの「集団的自衛権の解釈見直し閣議決定」で行きたいと考えております。国民の皆様、ご理解をお願いします。」といったら、生涯、物言えない者になってしまう可能性があるのです。だって、彼らは(特にアーミテージは)ヤクザよりも怖いですから。

 私は、ともかく、国会会期中に、「集団的自衛権の解釈見直し閣議決定」を行ないたいと決意しておりましたが、公明党が難色を示したため恫喝(政教分離の憲法に反する活動をしていると締め上げるぞ)して、会期後に、首尾よく達成することができました。

 問題は、沢山ある関連する法律の改正問題です。次の国会で行なう予定ですが、私は真実を国会議場で述べることはできません。墓場までもっていく所存ですが、本当に正しい選択だったかは、いまでも考えます。何も言わないことで、国民に迷妄を与え、米国に対して鎧袖一触できなかったを悔やみます。

アーメン。

失礼があったらお許しください。特に(5)は、私の創作(フィクション)であります。

五代儀 謙太郎 投稿日:2014/07/02 13:10

【1336】[1618]集団的自衛権について

 会員番号7004番 五代儀(いよぎ)謙太郎です。国立学校の事務官をしています。集団的自衛権行使を憲法解釈で行うのはやむを得ないと思います。現行憲法の改正又は廃止には時間がかかります。政府として国に必要なことはやらなければなりません。また、手足を縛って喧嘩ができない状態で喧嘩をしないのと、手足は自由でいつでも喧嘩ができる状態でも、喧嘩をする必要があるかどうか自主的に判断して決めるのは違います。集団的自衛権行使が容認されたらすぐにも戦を始めるのでしょうか。我々を含めて日本人はそれほど愚かでしょうか。

田端佐紀子 投稿日:2014/06/29 16:02

【1335】[1616]集団的自衛権

会員番号7505 沖縄在住の田端です
集団的自衛権問題について、会員の皆様はどう思っているのでしょうか?どんな考えをお持ちなのでしょうか?重たい掲示板に意見が寄せられていないのが少々不満になり、まずは私、去年の4月沖縄に移住したばかりの“新米おばぁ”が思い切って投稿しました。「今、声をあげないで、何時あげるの?」そんな思いで、信頼する知識人の意見や本などから学んだことを参考に、おばぁの考えをまとめてみました。

<集団的自衛権行使容認についての考察>

来年は敗戦から70年目。これを前に日本は今、重大な岐路に立たされている。
安倍政権が「集団的自衛権の解釈改憲」で自衛隊の戦争参加を企てているのだ。
保守派の憲法学者でさえ、安倍政権のこの暴挙を、憲法違反!憲法破壊!と批判している。しかし、安倍首相は解釈改憲の閣議決定に突き進んでいる。
何故なのか?

かって日本は、およそ300年にも渡る鎖国が続いた江戸時代の末期、欧米列強の圧力で明治維新が起こり、天皇を中心とする新政府が成立した。
近代国家の道を歩み始めた日本は、西洋に追い付け追い越せと「富国強兵・殖産興業」が推進され、アジアの列強としての地位を占めるまでになった。
しかし、その後の国の在り方は「天皇制軍国主義」へと変貌、昭和に入るとアジア各国への侵略戦争を起こし、ついには太平洋戦争にと突入した。

そして敗戦・・・。
完膚なきまでに叩きのめされた日本は、ポツダム宣言を受諾し、アメリカの占領下の元で戦後の再建に乗り出した。象徴天皇制、主権在民、戦争放棄などを謳ったいわゆる「平和憲法」も制定された。その後1951年にサンフランシスコ講和条約を締結し独立した。(沖縄は1972年まで完全占領下のまま)
アメリカが押し付けた憲法とは云え、戦争放棄と平和を前面に打ち出した憲法は圧倒的国民の支持を得て成立したのだ。国民は民主国家の一員として新たな道を歩みはじめた。
政治面では日米安保条約を結び、日米同盟を基軸とした外交政策を取りながら、経済大国へと変貌を遂げた。しかし実態は、外交も経済もアメリカ一辺倒の傾向が強く、特に外交面においては、まさに島隆彦先生が名づけた「属国ニッポン」である。

集団的自衛権行使容認の背景には、アメリカからの強い要請があるといわれている。今や財政難で国力が弱まり、単独覇権国家としての力を急速に失っているアメリカ。そのアメリカの対中政策や東アジア戦略で、日本に軍事的役割を肩代わりせるために、集団的自衛権行使容認を強く求めているというのだ。
アメリカに逆らうことは出来ない日本・・・。

しかし、自衛隊の存在は、これまで何度かの解釈変更によって軍隊化してきた実態はあるものの、集団的自衛権は憲法違反に当たるとして、自民党歴代政権でも歯止めをかけてきた。
その理由は、集団的自衛権行使は事実上の戦闘行為になるため、武力行使による戦争放棄を定めた「憲法9条」に抵触するからだ。しかも平和憲法を作ったのはアメリカ。憲法9条の改憲は、アメリカの対日基本政策の否定に繋がりかねないし、対外的にはかっての軍国主義国家復活と受け止められる恐れがある。
この矛盾を解決しながら集団的自衛権行使容認するには、結局は、解釈改憲が一番妥当!と云うことになったのだ。

そのために第二次安倍政権は、秘密保護法制定、国家安全保障会議の創設、武器輸出拡大と着々と事を進めてきた。そしてついには集団的自衛権行使も容認しようとしている。背景にはもう一つ、安倍首相自身の苦い体験もあると思われる。

安倍首相は、政治家一家の三代目であるが、若いころは、ひ弱で非エリートのイメージが強かった。そのために彼は、早くから集団的自衛権行使容認と憲法改正を掲げ、保守本流の政治家としての地位を築いてきた。ところが第一次安倍政権を投げ出した退陣の仕方は、無責任で頼りないイメージを国民に植え付けた。「安倍はもう終わった!」とも言われた。
しかし、政権交代をした民主党の体たらくで自民党も安倍も復活した。

実は、アメリカの大統領に比べ日本の総理大臣は、圧倒的に強い権限を持っている。政策も予算も、その殆どが議会に決定権があるのがアメリカ。逆に日本は、政策も予算も時の政権が決められる仕組みになっているのだ。
安倍首相は、第一次政権を経験したからこそ、今、この強大な権限をフルに行使している。優秀な政治家や官僚をブレーンにすると、むしろ首相の権限は半減する。よって、第二次政権では自分の考えに賛同してくれる仲間や有識者で回りを固め、強大な権限を駆使しながら首相としてのリーダーシップを発揮しているのだろう。そして何より衆参ねじれ国会を解消したのが最大の力になっている。
今や怖いもの知らずの安倍首相、その表情は高揚感に満ち溢れている。
戸惑っているのは安倍さんを支持した有権者?

安倍首相の取り巻きの中に「日本はアングロサクソンに付いていけば100年は安泰!」と唱え続ける元外交官の岡崎行彦がいる。彼は以前からアメリカ従属論を露骨に叫ぶので敬遠されていたが、ここにきて表舞台に復活、今回の集団的自衛権行使容認の理論的役目を担っている。
そして、彼ら対米従属派を操っているのが、アメリカの「ジャパンハンドラー」と云われる面々である。マフィヤ面相のアミテージや学者のマイケル・グリーンなどが対日政策を担っている。しかし彼らは所謂外交の利権屋団体でもある。

今や金融資本主義に汚染されているアメリカ。大統領も議会も学者もメディアも金融業界に買収されている?との噂もある。事実、国の政策の多くは、金融界などが送り込んだロビイストによって作られ、強欲な一握りの大金持ちと大多数の貧困者との格差社会が拡大している。
外交政策までもがジャパンハンドラ―のような利権屋集団に牛耳られているのが実態である。小泉首相時代の郵政民営化もアメリカの押し付け、最近はまた、年金の株式運用を目論んでいる。アメリカ従属主義から抜け出せない限り逆らうことは出来ない。
アメリカに逆らったらどうなるか・・・は過去の例を見れば一目瞭然である。

そんなアメリカの後押しと安倍首相のかねてからの思いが一致し「戦争をしない国から戦争をする国への一大転換」が、欺瞞に満ちた解釈改憲だけで行われようとしているのだ。まさに暴挙暴政!これを許すと、いずれ国民にツケが回ってくるのは必然であろう。権力の暴走を止めるためにあるのが憲法である。
憲法破壊に繋がる集団的自衛権の行使容認を許してはならない。

来年2015年は第二次世界大戦終結70周年、日本は敗戦から70年目を迎える。この間、憲法9条によって戦争に巻き込まれることなく平和を享受してきた日本であるが、来年は敗戦国として「負の時代」がクローズアップされることは間違いない。天皇制軍国主義国家として戦争に突き進み、中国や朝鮮、アジア各国を侵略したことが再び蒸し返されるであろう。
ましてや日本は、戦争責任の受け止め方の曖昧さが今も批判されている。集団的自衛権の行使が容認されると尚更に批判が強まることが予想される。
これらを踏まえての国会審議をすべきだし、安倍首相に覚悟を問うべきである。
さて、その問いに安倍首相はどう答えるのか・・・。

                     

田中進二郎 投稿日:2014/06/08 21:47

【1334】[1615]「インドネシア 1965年9・30クーデター事件」について考えたこと

「インドネシア1965年9・30事件の謎について考えたこと」
  投稿者 田中進二郎
今日は2014年6月8日 です。

ちょうど一ヶ月前の「今日のぼやき」(会員ページ 1447)に副島先生の、「『デヴィ・スカルノ回想記』からみるインドネシア戦後史の悲惨」という文章があります。
これに関連した映画『アクト・オブ・キリング』(The Act of Killing)が現在上映されています。副島先生も見られたそうです。この映画が公開になる前に、特別試写会でデヴィ夫人が、インドネシアで1965年のクーデターのあとに起こったことを話しています。この映画を私も見ました。また、デヴィ夫人の以下の文を読みました。

この大虐殺には日本も関与していた─映画『アクト・オブ・キリング』デヴィ夫人によるトーク全文  より前半部分を引用します。少し長くなります。

(引用開始)

60年代にインドネシアで行われた100万人規模の大虐殺。その実行者たちにカメラを向け、虐殺の模様を映画化するために彼らに殺人を演じさせたドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』が4月12日(土)よりロードショー。公開にあたり、3月25日にシネマート六本木で行われた特別試写会で、元インドネシア・スカルノ大統領夫人のデヴィ夫人、そしてジョシュア・オッペンハイマー監督が登壇した。デヴィ夫人は1962年、当時のインドネシア大統領スカルノと結婚し、第三夫人となった。1965年9月30日に、後に「9.30 事件」と呼ばれる軍事クーデターが勃発。夫スカルノは失脚し大統領職を追われ、デヴィ夫人自身も命からがら亡命した。今作は、その「9.30 事件」によって起こった100万とも200万とも言われる虐殺を描いている。試写会当日、映画評論家の町山智浩(まちやま ともひろ)さんの司会により、デヴィ夫人は自らが体験したクーデターの現場の模様や、アメリカや日本が当時の政権を支持することでクーデターや虐殺に関与していたことを生々しく語った。
「デヴィ夫人によるトーク」
デヴィ夫人: スカルノ大統領は別に共産主義者ではありませんし、共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。あの当時(この映画の背景となっている1965年9月30日にインドネシアで発生した軍事クーデター「9・30事件」)、アメリカとソ連のパワーが世界を牛耳っていた時に、スカルノ大統領は中立国として、アジアやアフリカ、ラテンアメリカの勢力を結集して第三勢力というものをつくろうと頑張っていた為に、ホワイトハウスから大変睨まれましておりました。太平洋にある国々でアメリカの基地を拒絶したのはスカルノ大統領だけです。それらのことがありまして、ペンタゴン(アメリカの国防総省)からスカルノ大統領は憎まれておりました。アメリカを敵に回すということはどういうことかというのは、皆さま私が説明しなくてもお分かりになっていただけるかと思います。

 1965年の10月1日未明にスカルノ大統領の護衛隊の一部が6人の将軍を殺害するという事件が起きてしまいました。(この事件は)その6人の将軍たちが、10月10日の建国の日にクーデターを起こそうとしているとして、その前にその将軍たちをとらえてしまおう、ということだったんですが、実際には、とらえただけではなく殺戮があったんです。建国の日には、大統領官邸の前にインドネシアの全ての武器、全兵隊が集まり、その前で立ってスピーチをする予定だったものですから、そこで暗殺をするというのは一番簡単なことだったわけなんです。エジプトのアンワル大統領(アンワル・アッ=サーダート)も軍隊の行進の最中に暗殺されたということは皆さまもご存知かと思いますが、そういったことが行われようとしていたということなんです。
 
7番目に偉かった将軍がスハルト将軍で、10月1日の朝早くに、インドネシアの放送局を占領しまして、「昨夜、共産党によるクーデターがあった」「将軍たちが殺害された」と言って、すぐに共産党のせいにしました。そして赤狩りと称するものを正当化して、国民の怒りを毎日毎日あおって、1965年の暮れから1966年、1967年にかけまして、100万人とも200万人ともいわれるインドネシアの人たち、共産党とされた人、ないしはまったく無関係のスカルノ信仰者であるというだけで罪を着せられて殺されたといった事件が起こりました。この度、この映画で初めてそれが事実であるということが証明されて、私は大変嬉しく思っておりまして、ジョシュア・オッペンハイマー監督には、その偉業を本当に心から心から感謝してやみません。何十年間と汚名を着たまんまでいたスカルノ大統領ですが、この映画で真実が世界的に広まる、ということにおいて、私は本当に嬉しくて、心より感謝をしております。

「当時日本の佐藤首相はポケットマネー600万円を、
殺戮を繰り返していた人に資金として与えていた」

町山:クーデターが起こった時、どちらにおられましたか?
デヴィ夫人:私はジャカルタにおりました。大統領もジャカルタにおりました。(スハルト将軍は)大変頭の良い方で、それがクーデターだとなったというのは結果的なもののわけで、要するに、その当時のインドネシアの情勢を完全に彼が握ってしまったということなんですね。そして当時の空軍、海軍の指導者たちにも国民から疑いの眼を向けられるようにしたりしました(*スハルトは陸軍大臣兼陸軍参謀総長)。その当時のアメリカ、日本はスハルト将軍を支援しています。佐藤(栄作)首相の時代だったのですが、佐藤首相はご自分のポケットマネーを600万円、その当時の斉藤鎮男大使に渡して、その暴徒たち、殺戮を繰り返していた人に対して資金を与えているんですね。そういう方が後にノーベル平和賞を受けた、ということに、私は大変な憤慨をしております。

(以下略 引用終わり)
http://www.webdice.jp/dice/detail/4161/   (以下こちらをご覧ください)

 田中進二郎です。デヴィ夫人の以上の話を読み、私は佐藤栄作首相(当時)や、インドネシア大使斉藤静男(当時)という人物が、クーデター計画に加担していたことにショックを受けた。しかし、「スカルノ大統領が共産国とそんなに親しくしていたわけではありません。」というところは、「それは違うのでは?」と思いました。

 映画『アクト・オブ・キリング』では、虐殺して回った民軍は、パンチャシラ青年団といい、インドネシア全土に現在も300万人の団員がいるという。オレンジ色の迷彩服を着て、集会を開く。この映画の主人公も、この団員であり、約1000人の華人や共産党員(PKI)を自らの手で殺したというチンピラヤクザである。 「パンチャシラ」―(インドネシアの建国五原則)の掛け声のもと、9・30事件のあと、スハルトの命令に従い、金で大量虐殺を実行した集団である。彼らは、1998年にスハルト独裁体制が終焉したあとも「国民的英雄」とされてきた。政府軍が手がけるとまずいという汚い仕事(暗殺)を、民兵に代わりにやらせる。インドネシア政治研究家の本名純(ほんな じゅん)氏によると、「国家暴力のアウトソーシング」だということだ。だから、完全に組織されている。

 本名純氏の『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層』という本によると、このパンチャシラ青年団というのは、1954年に陸軍のナスティオン将軍によって組織された。ナスティオン将軍は、インドネシア独立当時(1945年)の国民軍を再び民兵として組織していった、ということである。
 これは、インドネシア共産党の躍進をスカルノ大統領が応援し、自分の権力基盤を固めようしたことに対する、軍部の対抗策だったのである。

 ナスティオン将軍は1965年の9月30日のクーデターの際に、邸宅を襲撃されたがかろうじて脱出に成功している。PKI寄りの左派軍人が起こしたとされるクーデターで、まっさきに命を狙われたのだ。
 デヴィ夫人の自伝『デヴィ・スカルノ回想記』(p149~151)には、PKI派のクーデター部隊があっけなくスハルト将軍率いる国軍に鎮圧されたあと、デヴィ夫人はナスティオン将軍の妻と極秘で連絡を取り合い、情勢を把握しようとした、と書かれている。このときには、すでにイスラム団体や学生団体が国中で反スカルノ・デモを展開していた。ナスティオン将軍を、スカルノ大統領と軍の間のキャスティング・ボートになってもらおうと、デヴィ夫人は必死でスカルノ大統領の説得にあたった。が、彼女の願いは大統領には聞き入れられなかった。スカルノ大統領にとっては、1950年代に軍が彼にたてついたこと、その裏にいつも、アメリカのCIAがいたことが脳裏から離れなかったのだろう。

 千野境子(ちの けいこ)著『インドネシア9・30クーデターの謎を読み解く―スカルノ、スハルト、CIA,毛沢東の影』という本では、クーデターの直前に、CIAがインドネシア共産党とスカルノ大統領を追い詰めていくために、偽造文書を作成したことが書かれている。この偽造文書は、「近くインドネシア国軍が武力で共産党を弾圧することが、『将軍評議会』において決まった。」という内容のものだったという。この文書をスカルノ大統領や、PKI議長のアイディッドが目にして、PKI側は先にクーデターを仕掛けることになったのだ、と千野氏は指摘している。
(同書 第四章「アメリカの工作」を参照した。)

1950年代からのCIAの次々と行われる工作に対して、「共産主義者ではなかった」スカルノ大統領も、PKIのクーデターを容認したのであろう。しかし、軍事行動に打ってでたPKIは、その動きをもつかんでいたスハルト将軍に逆にパクリとやられてしまったのだ、と私は考える。このあとは、アメリカCIAにとっては、やりたい放題だったろう。新聞紙、テレビなどメディアを総動員して、共産党員は吸血鬼か悪魔であるかのように、宣伝した。「残虐な共産党員」という映像をCIAは9・30事件の時までにすでに製作していたからである。デヴィ夫人が『回想録』の中で書いている。「こんなものは今までインドネシアのメディアにはなかったものですから、おそらくアメリカによって、準備されていたのでしょう。」と。
 
ここから、インドネシア全土で「赤狩り」虐殺が始まり、共産国以外では最大勢力(350万人の党員を擁していたという)インドネシア共産党は壊滅した。アイディッドPKI議長も逃亡後、銃殺された。また、このアイディッドを後ろから「武力革命をせよ」とけしかけていたのは、ほかならぬ毛沢東であった。毛沢東は大躍進運動に失敗し、劉少奇(りゅうしょうき)や鄧小平らが中国共産党を現実路線に移行させていくのを、黙って許すことはしなかった。PKIが壊滅していく中、「盟友」だったはずの中国は動かなかった。国連(United
Nations 連合国)もまた動かなかったけれども。9・30事件から二ヶ月もたたない十一月に中国では文化大革命が始まるのである。毛沢東はアジアへの「革命の輸出」に失敗したとみてとると、次は中国国内の現実路線の政治家たちを追い落とすことに本格的に動きだしたのである。毛沢東にとっては、PKIの党員や、インドネシアにいる華人たちの運命や、
ましてや、インドネシアの農民たちがどうなろうとどうでもよかっただろう。もう用済みだ、と考えていただろう。文革の始まる前に、『毛沢東語録』(the Red Book)をなんと5億冊も印刷させている。(このことは新刊『野望の中国近現代史―帝国は復活する』オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著 古村治彦 訳 のp281 にありました。)

これは中国とインドネシアの関係に今でも影響を及ぼしているという。つまり、スカルノ大統領の時のように、中国を政治の世界で全面的に信頼してはいかん!という教訓が後々のインドネシアの政治家たちに引き継がれている、ということである。
大変長々と書いてしまいました。恐縮です。

●参考文献 
『デヴィ・スカルノ回想記―栄光、無念、悔恨』 (草思社 2010年刊)
千野境子著『インドネシア 9・30クーデターの謎を解く』(草思社 2013年刊)
本名純著『民主化のパラドックス―インドネシアにみるアジア政治の深層』(岩波書店 2013年刊)
オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー著 古村治彦訳『野望の中国現代史―帝国は復活する』(ビジネス社 2014年6月刊)

追記:映画『アクト・オブ・キリング』はまだ上映されているようです。
田中進二郎 拝

津谷侑太 投稿日:2014/06/07 04:18

【1333】[1614]日本の読書人階層の結集である伊藤律生誕百周年シンポジウムに行ってきた感想③

津谷侑太(つやゆうた)です。今日は2014年6月7日です。

3月6日に重たい掲示板に投稿した文章の続きの報告文です。

前回から間が空いたので説明します。戦前の日本の中枢に入り込み、スパイ活動をしていたドイツの外交官・ゾルゲ。そのゾルゲの下で働いていた評論家の尾崎秀実(おざきほつみ)を友人の伊藤律が警察に密告し、尾崎は逮捕され、死刑となります。しかし、この伊藤律は警察のスパイというのは嘘ででっちあげでした。

 本当のスパイは伊藤はスパイだと証言した川合貞吉(かわいさだきち)です。伊藤と日本共産党指導者になるのを競っていた野坂参三(のざかさんぞう)は中国に伊藤を拉致監禁し、自分は日本に帰国しました。尾崎秀樹(おざきほつき)、松本清張らと野坂らは伊藤律はスパイだったとの大嘘を日本中に出版物などで宣伝工作しました。そのため伊藤律=裏切り者のイメージが定着しました。

 これに伊藤律に取材し、スパイ説が嘘であると気づいていた渡部富哉(わたべとみや)氏が1993年6月、『偽りの烙印―伊藤律・スパイ説の崩壊』(五月書房)を書いて、副島先生や篠田正浩が衝撃を受けたんです。副島先生の属国日本論はこのあとの出版ですが、渡部氏の前掲書が紹介されています。

 つまり、流れが変わったんです!もう伊藤律スパイ説を唱える者たちが大手を振って歩く時代は終わったんです。副島先生の属国日本論を読んで、日本国内の空気が変わってきた。伊藤律をスパイ扱いしたおかしな者たちの責任が追及されはじめた、ということです。

 ではシンポジウムの続きを書いていきます。

 そして篠田正浩監督の講演のあとは岐阜県瑞浪市(みずなみし)市議会議員で井澤議員が司会でパネルディスカッションがはじまりました。井澤議員は軽妙な感じの司会ぶりでさすが政治家の方だな、と思いました。

 パネルディスカッションの参加者は旧制恵那(えな)中学後輩の加知弘至(かじこうじ)氏、在野の研究者・渡部富哉(わたべとみや)氏、篠田正浩氏、愛知大学の鈴木規夫(すずきのりお)教授、伊藤律の次男・伊藤淳(いとうじゅん)さんでした。

 加知氏は伊藤律の旧制中学時代のエピソードが紹介され、抜群の成績で秀才として地元では有名だったらしいです。何で官僚や学者など、何でもなれたのに共産党に入ったんだ・・・と中学時代の伊藤律の先生は残念がっていたそうです。

 渡部富哉さんは現在は野坂参三の本を書こうと構想中らしいです。石堂清倫(いしどうせいりん)や埴谷 雄高(はにわゆたか)ら左翼言論人の大物たちから「野坂の本を書いてくれ!」と言われたのにまだ書いてない。今度こそ書く!と力強く宣言していらしゃって、会場からは万雷の拍手でした。しかし、石堂や埴谷 雄高も野坂が大嫌いなんですね。左翼言論人たちの間では野坂は好かれているのかと思っていましたが。

 私が最近読んでいる田中清玄自伝(1993年9月、文藝春秋)でも田中清玄(たなかきよはる、せいげん)という実業家で昭和の政財界を操った人物が野坂についてぼろくそにこき下ろしています(笑)
やはり事情通たちの間では野坂参三は要注意人物だったのでしょう。

 ちなみに田中清玄といえば、副島先生の『日本の秘密』で学生運動のパトロンだった事実が暴かれていますね。最近では孫崎享(まごさきうける)さんが『戦後史の正体』という本で田中清玄について触れています。

 話を戻すと渡部さんは八十四歳というのに意気軒昂(いきけんこう)で矍鑠(かくしゃく)としていました。どんな困難が来ようとも弾き返す!地底のド迫力の勢いが渡部さんにはありました。「おお、これが副島先生がおっしゃっていた言論人の姿か。凄まじいな」と私はただただ迫力に圧倒されました。渡部さんの周りに井澤議員、鈴木教授など、たくさん人が集まるのも納得です。

 井澤議員はゾルゲファンということで若いころに渡部氏に会いに行って、そして伊藤律の名誉回復を地元・瑞浪で開きたいと思っていたそうです。今回は二十年ぶりにその夢がかなったのだとか。

 会場には私よりも若い二十歳そこそこの中国人の大学生が招かれていました。彼は現在、中国で伊藤律の研究をして、論文を執筆しているそうです。中国国内で伊藤律は知られていないそうですが、これからは日中友好の架け橋として再評価される存在に伊藤律はなっていくんでしょう。

 シンポジウムには高齢の方が多く見られました。五十代、六十代、七十代、八十代の人たちです。皆さん、ゾルゲ・尾崎ファンなんでしょう。もしかしたら、共産党を伊藤律が動かしていた頃を知っていた方も居たのかもしれません。ゾルゲ・尾崎ファンの世代ももう終わっていくのでしょう。

 残ったのが竹田恒泰(たけだつねやす)氏らに煽動された反中国・韓国に凝り固まった十代・二十代のネトウヨ世代というわけです。瑞浪の商店街では竹田恒泰氏がゲスト出演したラジオが丁度流れていました。

 そしてシンポジウムの話を聞いているうちに私は、二・二六事件の真相により一層迫ることができました。その成果の一つが今日のぼやき「1450」【昭和戦前史の謎を暴く】「二・二六事件」は、木戸幸一が仕組んだ~本当に狙われたのは最後の元老・西園寺公望(さいおんじきんもち)だ~ 津谷侑太・筆 2014年5月17日に掲載されております。

 講演会が終わったあと、私は控え室に直行しました。そして、鈴木規夫教授にお会いし、学問道場の重たい掲示板にシンポジウムの報告文を書いても良いですか?とお尋ねしました。そうしたら、鈴木教授は寛容にも許可してくださいました。

 以上で報告を終わります。

 ああ、それとこれを見た方で伊藤律の共産党時代を知っている方はおられますか?もしくは野坂参三の共産党時代でも構いません。重たい掲示板に書き込むか、もしくは私のメールアドレスにご一報ください。

津谷侑太拝

守谷健二 投稿日:2014/06/02 13:45

【1332】[1613]天武天皇正統性について

『古事記』偽書説の誤りについて、Ⅱ
二十世紀での国語学の最大の発見は、橋本進吉博士(1882~1945)の「上代特殊仮名遣」の発見である。これは『万葉集』『古事記』『日本書紀』では、キ、ヒ、ミ、ケ、ヘ、メ、コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロ、を現す万葉仮名(漢字の音を借りたもの)が、二つのグループに厳密に書き分けられていることを明らかにした。
 例えば、神(カミ)のミには、微・未・味・尾などが使われ、上(カミ)のミには、美・弥・邇・民などが使われ、両者が混線することはないことを明らかにした。この違いは、当時の漢字の音韻を徹底的に調べることで発音の違いであることを突き止めたのである。つまり、キ、ヒ、ミ、ケ、ヘ、メ、コ、ソ、ト、ノ、ヨ、ロは、二種類の母音を持っていたことを明らかにした。
 それ以前には、神は、上に居りますから神と呼ばれるのだと信じられていたのだが、この「上代特殊仮名遣い」の発見により「神」と「上」を同源の言葉と見ることは出来なくなった。
 また「許久波(コクハ)」は「小鍬」と解釈されてきたのだが、小を現す万葉仮名は「古」「固」などが使われ「許」が使われているのを一例も見つけることが出来なかった。いっぽう「木の間」の「コ」には「許」が使われており「許久波(コクハ)」は、小さな鍬ではなく「木の鍬」であることを明らかにすることが出来た。
 つまり、七世紀、八世紀の大和地方の言葉には、八母音を持ち、87音節の違いがあったことを明らかにしたのである。大和地方と限定したのは、『万葉集』十四巻の東歌と二十巻の防人歌には、この上代特殊仮名遣いが見られないことから、東国は八母音の世界ではなかったと考えられている。
 この八母音は、奈良時代末期に崩れ、平安初期には六母音70音節を区別するだけの言語世界に代わっていた。平安時代に書かれた史料で、八母音、87音節を区別してあるものは一つも発見されていない。70音節しか言い分け、聞き分けることの出来ない人が、87音節の言葉を、一つの間違いもなく書くことは不可能である。またその後の研究で『古事記』は、「モ」音も二種類の母音で書き分けてあることが明らかにされ、『日本書紀』『万葉集』より古格を保っていることが明らかになった。国語学上では、『古事記』の方が『日本書紀』より古いと云う事は、解決済みの問題です。
 橋本進吉博士の明らかにした「上代特殊仮名遣い」は、日本の知識人の基本教養として身に付けるべきものである。