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Loginはこちら【1363】[1654]秦郁彦(はたいくひこ)氏による慰安婦問題の資料と見解
参考資料:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦・著、新潮社・刊、1999年)
●Wikipedia「日本の慰安婦」内、『仲介業者による中間搾取や不払い』
(引用ここから:Wikipedia「日本の慰安婦」)
『仲介業者による中間搾取や不払い』
秦郁彦も業者が慰安婦に支払わなかったことや楼主の不払いについて指摘している。
(引用ここまで:Wikipedia「日本の慰安婦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の慰安婦#cite_ref-hata1999-p394_107-1
(引用ここから:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.394)
悪質な業者のなかには、何かと名目をつけて彼女たちの稼ぎ高を強制貯蓄させ、払わなかった例もあったようだ。
東部満州の東寧に勤務した元兵士の杉田康一は1938年、4円弱の月給から貯めた1円50銭を持って慰安所へ通った経験を語り、なじみになった朝鮮人慰安婦から「一銭ももらっていません。全部親方が取り上げてしまいます」と聞いた話を回想する。
楼主の不払いは意外に多かったとも思われるが、それもまた終戦で紙屑になってしまったことであろう。
(引用ここまで:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.394)
●Wikipedia「慰安婦」内、『20世紀最大の人道問題』
(引用ここから:Wikipedia「慰安婦」)
『遊郭業者・女衒の手口』
維新政府の娼妓解放令の後も「娼妓達が悲惨な籠の鳥であるという実態は変わらず」、悪徳業者にかかると借金の泥沼から抜け出す事ができず、「まさに前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題(廊清会の内相あての陳情書)に違いない」と秦郁彦は書いている。
(引用ここまで:Wikipedia「慰安婦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦
(引用ここから:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.36-p.38)
一見すると、通例の貸借契約書とあまり違いはなさそうで、どこにも売春を強制したり、拘束期問(年季)を示す文言はない。
<中略>
むしろ問題の核心は債務弁済と、それまでの住みこみを規定した第3項にあったといえよう。
悪徳業者にかかると、女の稼ぎから割高の衣食住経費を差し引くので、前借金はなかなか減らず、強欲な親が「追借」を求めたりすると、雪ダルマ式にふえる例も珍しくなかった。
宮尾登美子の小説『寒椿』に登場する貞子(1924年生れ)の場合は9歳のとき、200円で仕込っ子として売られ、小学校卒と同時に妓楼生活に入るが、養母の追借で6年の間に8回住み替えるたびに前借金は1800円から5500円(いずれも年季は5年)まで膨れあがり、終戦を満州の牡丹江で迎えている。
まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった。
(引用ここまで:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.36-p.38)
●Wikipedia「秦郁彦」内、『フィリピン人女性を慰安婦として徴用した問題』
(引用ここから:Wikipedia「秦郁彦」)
(※引用者補足:「秦郁彦は」)オランダ人女性を慰安婦として徴用した白馬事件や、フィリピン人女性を慰安婦として徴用した問題などについてはこれを認めている。
(引用ここまで:Wikipedia「秦郁彦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦
(引用はじめ:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.194-p.197)
(※引用者補足:「フィリピンの元慰安婦(性被害者)の一人である」)ヘンソンは慰安婦たちのリーダー的存在で、アジア女性基金には反対していたが、その後気持が変り96年8月、第1号として200万円の「償い金」を受けとっている。彼女は女子修道会が経営する私立小学校を卒業する直前に戦争となり、学業を中断したが、英文で回想録の原稿を執筆できるかなり高い知的能力の持主である。
誕生日も知らない慰安婦が多いなかでは、例外的存在と言える。
記述も筋道が通っていて、裏付けや傍証が可能に見えるが、彼女を9か月監禁した部隊名や隊長名がないのは惜しまれる。人名で1人だけ出てくるのはタナカ大尉だがフルネームではなく、ありふれた姓なので特定が難かしい。戦中は抗日で戦後は反政府闘争に転じた共産ゲリラのフク団と、彼女との関わり方もやや不透明である。
<中略>
ヘンソンが捕まったり、奪還されたのはこうした時期であるが、対応する日本軍の記録は見当らない。タルラック憲兵分隊にいた北崎茂三少尉は、神出鬼没のゲリラとの戦いで兵士たちの気持は荒れていたから申立てのような状況は、ありえたろうと語る。
タナカ大尉なる人物は三十三連隊の編制表にはいないが、前記の情報記録綴の44年1月20日には「田中少尉以下がカバナツアン南方で交戦、遺棄死体三、俘虜一〇」の記録が見える。
いずれにせよ、第十六師団は44年5月マニラヘ移動したのちレイテ島へ渡り、同年秋、米軍の大挙来攻を迎え全滅した。生存者は皆無に近い。
ヘンソンを含む21人の元慰安婦の証言を見ると、彼女たちの身の上話は、ヘンソンと大同小異で、横田雄一弁護士の解説では他地域に比べて「被害者と軍とのあいだに民間業者などが介在する余地はまったくなかった。軍の移動中における偶然の遭遇、計画的と思われる女性の自宅への襲撃、作戦行動中の強制連行など、軍の末端組織が・・・有無をいわせず暴力的に女性を(駐屯地へ)拉致」しているのが特徴とされる。
事実、21人の身の上話で、慰安所暮しをしていた女性は一人しかいない。それも拉致されたあとと申し立てている。
<中略>
米軍が再侵攻してくる44年秋までのフィリピン体験を生々しく回想している手記に、高宮亭二『ルソンに消ゆ』(白馬出版、1975)がある。
高宮は京大を卒業して拓務省官吏に就職した直後に召集され、主計将校として43年初めフィリピンヘ赴任した。この頃の占領地風景を、彼は「安きに慣れた派遣軍は、一体何をしていたか。軍司令官黒田中将は、ハンチングスタイルで部隊を巡視し、将兵は紅灯の巷で女とたわむれ、平和の村で恋をささやき、酒色に溺れて――」と記す。
高宮自身もマニラの慰安所に友人から借金してまで通いつめたあとセブ島に赴任、ゲリラ討伐戦に明け暮れたが、合間に慰安婦集めをやらされた。「進んで応募する者もいたが、かたぎの女性を間違えて連行し、後で返すという失敗」もあったという。
<中略>
44年秋から約一年、フィリピン全土は戦火の嵐に席巻された。送りこまれた日本軍60万のうち50万人が戦死し、百万人前後の現地住民が死んだとされる惨烈な戦場で、何が起きたとしても否定のしようがない。
彼女たちの申し立ての多くは事実を反映していると想像するが、逆に傍証のために死者たちを呼び戻す法もない。そうだとすれば、アジア女性基金のような民間べースの救済がもっともふさわしいし、実際に受け取り意志を最初に表明したのも、この国の女性たちであった。
<中略>
彼女たちが概しておおらかで、またカトリックの影響からか、日本人を許すと寛大な気持の人が多いと指摘する人もあり、いささか救われる思いだが、ヘンソンは著書のなかで、「大儲けしようって魂胆ね」とののしられた経験も書いている。
(引用おわり:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.194-p.197)
●『白馬(しろうま)事件』、『南ボルネオの強制売春事件』
(引用はじめ:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.216-p.221)
『オランダ――蘭人抑留女性の受難』
オランダ政府の報告書によると、戦時下のジャワを中心とする蘭印(インドネシア)では、15万人を超えるオランダ人が日本軍の管理する捕虜収容所および民間人抑留所に収容され、うち2万人が女性であった。
<中略>
戦局の悪化により、日本の陸軍省は「軍抑留者取扱規定」(1943年11月7日陸亜密第7391号)を出先各軍に通達し、オランダ人をふくむ敵国人の全員を、捕虜収容所に併設された軍抑留所に移すよう指示した(蘭イ混血のユーラシアンは原則として対象外)。
その結果、指定居住区域に住んでいたオランダ人女性は、売春婦もふくめ軍抑留所へ入ることになるが、給養条件は悪く不満が高まっていた。
こうした状況に目をつけたのが、軍の担当者と慰安所の業者で、好待遇を約束すれば相当数の慰安婦が集まるだろうと見当をつけたようだ。この種の勧誘や説得は表6-5が示唆するように早い段階から始まっていたが、強制性がどこまで働らいたかは微妙なところである。
抑留所を管理していた第十六軍軍政監部(44年に入ると軍直轄へ移行)は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証する本人のサイン付き同意書を取るよう指示していたが、なかには違反する出先部隊もあった。
のちに「白馬(しろうま)事件」と呼ばれたスマラン慰安所の強制売春事件は、女性たちの告発により戦後のBC級法廷で裁かれ、死刑をふくむ十数人の有罪者を出す。
被害者の一人だったジャンヌ・オフェルネが体験を公表したのは1992年のことで、94年1月にはエリー・プローグが一般抑留者7名とともに東京地裁へ補償を求めて提訴する。
ここではオフェルネとプローグの告白を、92年12月来日時の証言と豪州テレビの番組(NHKが96年8月16日放映)などから要約紹介しよう。
(※引用者注:証言ここから)
ジャンヌ・オフェルネの証言
1923年、オランダ人砂糖黍農園主の娘としてジャワのスマランに生れる。1942年、19歳のとき、母・妹とともにアンバラワ抑留所に入った。
44年2月のある日、日本の軍人たちがトラックで来て、17歳以上の独身女性が整列させられ、検分して16人の少女が残された。悲鳴や泣き声のなかを連行され、売春宿に入れられた。
次の日に日本人から慰安婦の仕事をやるよう命じられ、3月1日に開館すると、将校たちがやってきた。食堂のテーブルの下へ逃げこんだが、引きずり出され、抵抗したが軍刀でおどされ強姦された。
あちこちの部屋で泣き叫ぶ声、それから連日のように暴行がつづいた。髪の毛を切って丸坊主にしてみたが効果はなかった。検診する軍医からもレイプされた。3か月後に解放され、列車でボゴールの抑留所へ移り、家族と再会した。戦後、オランダヘ帰って理解のある夫と結婚、オーストラリアヘ移住。2人の娘がいる。
日本人がやったことを今は許しているが、忘れることはない。
エリー・プローグの証言
1923年オランダに生れ、父母とともに東部ジャワヘ移住、母、姉弟とともにスマランのハルマヘラ抑留所へ入った。
44年2月、15~35歳の女性たちが集められ、5~7人の日本軍入の前を歩かされ、3日目に私をふくむ15人が選び出された。バスで慰安所に着いて、はじめて「日本兵に喜びを与えるのだ」と知らされ、逃げると家族に危害が加わるとおどされた。
2月26日クラブがオープンし、軍人たちは写真で好きな女を決め、切符を買って私たちに性サービスをさせた。カネはもらっていない。3か月後に解放される。戦後に結婚したが離婚。
(※引用者注:証言ここまで)
1948年3月24日、オランダ軍事法廷は、「考え得る最も悪質な」犯罪と判決、当事者である南方軍幹部候補生隊の岡田少佐を死刑、能崎中将(隊長)に懲役12年、池田大佐に同15年など11人に2年~20年の有期刑を科した。そのなかには4か所の慰安所を経営する4人の日本人業者がふくまれていた。
BC級裁判の法廷は慰安婦にされた35人のうち、25名が強制だったと認定している。1994年のオランダ政府報告書も、蘭印各地の慰安所で働らいた200~300人の白人女性のうち少くも65人を強制売春の犠牲者と判定した。
怒りの感情とは離れ、事実関係を冷静に見究めようとするオランダ官憲の公正な手法に感銘する。
残りは自発的志願者ともとれるが、吉見義明教授は「強制の認定やそのもととなる強制の定義が狭すぎるのではないか……視角の狭さを感じる」とオランダ政府報告書への解説のなかで苦言を呈している。
<中略>
いずれにせよ、スマランの慰安所は長くても2か月しか営業していない。ジャカルタの第十六軍司令部から閉鎖命令が届いたからである。
オランダ政府の報告書は、娘を取られた抑留所の親が、視察に来た陸軍省の大佐に直訴したためとしている。
だが軍政監部本部に勤務していた鈴木博史大尉は「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本軍政監(第十六軍参謀長の兼任)へ伝えると、山本は“まずい、すぐ止めさせろ”と怒り、翌日に閉鎖命令が出た……のちに彼女たちを集め申し訳のないことだったと謝罪した」と記憶している。
私は、この鈴木証言の方が正しいのではないかと想像する。
<中略>
オランダ政府が当時も今も関心を払うのは被害者がオランダ人女性だった場合に限られるようだ。
唯一の例外は、海軍の占領統治下にあった南ボルネオの強制売春事件である。
一千人以上の現地住民を抗日分子として大量処刑したポンチャナク事件(1944年初期)の副産物として明るみに出たもので、主として日本人の現地妻となっていたインドネシア女性を強制的に慰安婦としたかどで、13人の海軍特警隊員らが有罪(うち三人は死刑)となった。
(引用おわり:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.216-p.221)
●秦郁彦氏のコメント
(引用はじめ:Wikipedia「秦郁彦」)
2007年3月5日、首相の安倍晋三が参議院予算委員会において「狭義の意味においての強制性について言えば、これはそれを裏付ける証言はなかったということを昨年の国会で申し上げたところでございます。」と答弁した。秦はこの答弁について、「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらありますから、安倍総理の言葉は必ずしも正確な表現とはいえません。「狭義の強制は、きわめて少なかった」とでも言えば良かったのかもしれませんが、なまじ余計な知識があるから、結果的に舌足らずの表現になってしまったのかもしれません(苦笑)。」とコメントしている。
※典拠:『諸君!』2007年7月号 秦郁彦、大沼保昭、荒井信一「激論 「従軍慰安婦」置き去りにされた真実」
(引用おわり:Wikipedia「秦郁彦」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦
●ウェブページ「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1
(引用はじめ:「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」から)
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1
慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。
それら口述資料を用いて個々の事例を考察していきます。
<中略>
最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。
■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言
場所:中国中部の山東省
(引用はじめ:秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)
1941年のある日、国防婦人会による<大陸慰問団>という日本人女性200人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。
(引用おわり:秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)
(引用おわり:「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」から)
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1
【1362】[1653]歴史を貫く柱を取り寄せ中です
9/8(月)中に地元のセブンイレブン(顔なじみの店)に到着しますので、9/9(火)朝に寄り支払受け取りします。
毎週火曜は大手町にある中国工商銀行東京支店に立ち寄る前に必ずと言っていいくらいスターバックスコーヒーKDDIビル店(この店も顔なじみ)に立ち寄り読書時間を捻出しています。
読後感想はまた後程、重たい掲示板へ書かせていただきます。
【1361】[1652]いつも拝読させていただいております。
3123番の新谷(シンヤ)といいます。新谷陽晃で登録していますが、これは太陽のようにあかるく照らす人にという意味を込めたもので、本名は新谷誠と言います。昭和51年生まれの37歳です。先生にメールをお送りするのはこれで二回目となります。
会員になってから10年くらい経つでしょうか?副島先生の本が出るたびに買い、読み、しばらくしてから読み返し、講演会、福島ツアーなどに参加させていただきました。8年くらいして己の力となり、行動になって現れます。
昨年2月に起業し、ようやく年商5千万くらいの会社になりました。
それまでの私は仕事を10回くらいは転職、給料は20万の、先生の本を読む事だけで「自分は読書人階級で人とはちょっと違うんだ」と言うことに拘りとプライドをもっていた、そんな人間でした。
先生の本を読むたびに、少しずつ人格が洗われたというか、正されていったのが、今になってわかります。電車内で毎日プリントアウトした今日のぼやきを読んでいました。
先生、政治、経済あらゆる分野で私に教えをくださり本当にありがとうございます。先生の知が、私を企業家に導いています。
税金は本当に大変です。「税金官僚に痛めつけられた有名人たち」など一字一字食い入るように、その辛さが(まだ痛い思いをしたことはありませんが)伝わってきます。一生懸命企業したのに、ふざけんなよ!です。企業は賭けみたいに、失敗したら借金だけが積み重なる、そこで腹括って起業したんだぞ!って、そして、やっとここまで来たんだぞ!って・・・。読んでて皆さんの気持ちで悲しくなりました。
私は企業家としての目標もありますが、力をつけなければ戦えない。
先生はかなり昔に選挙活動や市長になる人の応援をしていたのを記憶しています。今思えば、その文章を忘れずに、頼りに起業した自分を感じます。
自分が何処に向かおうとしているのかは分かりませんが、会社はある分野において全国展開し、そうすれば私も力になることができるのだろうか?とつよく考えています。
追伸
先日ある不動産屋さんと取引の際、その方も会員でした。妙に嬉しかったです。普通の人より、こういう人の方が先生のことを知っているんだなと、感想を持ちました。
これからも、学ばせていただきます。
新谷 誠 拝
【1360】[1651]まだ読破していませんが
副島隆彦先生。
中国特集の外書がやっと半分位読み終えたとこです。
英語でどう言うのか忘れてしまいましたが、日清戦争のことがよく出てきました。
多くの自称右翼たちは日清、日露戦争の勝利をたたえるばかりでなく、明治維新が日本の本来の原点であるかのように主張し、原点回帰を訴えますが、明治維新そのものがイギリスの属国として組み込まれて断行されたことがわかっているのでしょうか?
私の友人が笑いながらよく言います。
実戦経験もなく今まで鎖国していた国がまともに当時のロシアに勝てるわけがないと。
その証拠に日露戦争もイギリスの思惑で行われていたことも見え見えです。
【1359】[1650]旧日本軍による戦場慰安婦(せんじょういあんふ)の 強制連行を含めた 諸事実について
副島隆彦です。 今日は、2014年9月1日です。
下 ↓ の 「1648」番の 私たちの会員である田中三郎氏の 投稿文に反論します。
第二次大戦(1941年から1945年の 3年半の間 )の間の 中国戦線 や南方戦線で、どれぐらいの 慰安婦が、徴用されて、戦線の兵士たちのための 性欲処理の 犠牲にされたか、の問題は、徹底的に 事実の検証 が、これからも行われなければいけない。
戦場に 連れて行かれて日本兵士、軍人の 性行為の相手をさせられた女性の総数は、 8万人から 20万人であるようだ。
私たち学問道場としての、会員が、皆で、文献、証拠を、ここに持ち寄って、徹底的に事実の検証を行わなければならない。傍観者でばかりいないで、多くの会員が、証拠の文献をここに 書き写して 公表してください。
私、副島隆彦は、まず手始めに、以下に載せるが 、女性たちの強制連行を含めた、証拠の文献として、『従軍慰安婦』 吉見義明(よしみよしあき)著 岩波新書 1995年刊 から 8か所を、引用、転載する。
私、副島隆彦が、自説をいくら説いても、どうせ 田中三郎氏を、すぐに説得することはできない。 人間が、他の人を、ある考えや、事件で、考えの相違を克服して、同じ考えに至る、ということは至難の業だ。 だから、事実に語らせるしかない。
私は、説得(パースウエイジョン、 persuasion )することさえ、今は、控える。ただひたすら、諸事実を書いて、読み手たちに、歴史の事実(ファクツ facts ) を書き写して 読んでもらうことにした。
この 吉見義明(よしみよしあき)中央大学教授の 本の 他に、秦郁彦(はたいくひこ)千葉大学教授(現在、歴史家)の 本を、 このあと、須藤よしなお君が、ここに 、その中から、数か所、転載するはずである。
下の 田中三郎氏が、鬼の首を取ったように、書き写して転載している、小室直樹(こむろなおき)先生の、文章 の 中にも出てくる、 秦郁彦 (はたいくひこ) 氏の「慰安婦「身の上話」を徹底検証する」(「諸君!」平成八年十月号) なども、もっと正確に 全文を、田中三郎氏は、読んで、そして、ここに書き写さなければいけない。
私の先生だった 小室直樹は、右翼であった。敗戦時に 会津中学の中学生だ。長じて、フルブライトで大繁栄の アメリカに留学して、経済学や社会学を修めて帰ってきた。 その前には、日本も原爆を作って、もう一度アメリカと戦争して、今度は勝たなければいけない、という まっとうな 右翼の、本物の愛国者の思想を持っていた。
今の、日本の右翼たちは、背骨の曲がった、卑屈な、アメリカへの屈服右翼である。そういうの、ばっかりである。私、副島隆彦は、吐き気がする。 欧米白人どもの への 悪口は一切言わない。 おかしな右翼どもだ 。本当の、 アジア人の団結と平和と、欧米列強からの解放を 説いた、 大(おお)アジア主義の右翼が、ほとんど、いなくなった。皆、アメリカに、上手に洗脳されているのだ。 いかにも知恵のたちない、アメリカの手先どもだ。 田中さん、このことを分かりなさい。
あなたが転載した、小室先生の 以下の文は、 ごく局所での、済州島(さいしゅうとう、チェジュド)での、「200人の 韓国人女性を、強制連行に関わった、と証言した、吉田清治(よしだせいじ) という元、軍属(ぐんぞく)の証言は、ウソ、虚偽、でっちあげであった」という たったひとつの事実を挙げて、それで、 朝鮮半島での、日本軍=日本政府 が、関わった 戦場に送り込む 慰安婦たちへの、 強制連行は、一切、なかった、と 強弁(きょうべん)しようとする、 ズルい、ゆがんだ、精神から発している。産経新聞、WILL誌一派の、きたならしい精神をした、者たちの、謀略行動だ。 田中さん、あなたも、その仲間なのか、と、私、副島隆彦は、はっきりと 詰問(きつもん)します。
この 8月5日に、朝日新聞が、右翼たちの猛攻を受けて、この 「済州島の慰安婦調査の件での、吉田証言の虚偽」のことで、「読者に答える」で、誤報の謝罪文を 公表したようである。 この件も、詳報しなければいけない。
以下の分で、小室直樹は、「・・・秦(はた)教授は、念には念を入れ、裏には裏を取って、「日本の官憲による強制連行はなかった」という決定的結論に達した。」 と、書いている。これは、小室直樹の、誤り、間違い、思想の間違いである。 彼の思想は、この場面では、徹底的に批判され、撃滅されなければならない。 私、副島隆彦は、このようにはっきりと書きます。
秦郁彦(はたいくひこ)氏 ( 追加で、副島隆彦が書きます。 2014年9月3日。彼は、アメリカの国務省の 慰安婦問題、および 南京大虐殺問題の 担当高官ともつながり合意している人だ。 南京大逆説 では、4万人の中国兵捕虜を殺した説だ。私もこの説を支持している。だから、日本国内の バカ右翼、反中国保守派から、秦郁彦は、評判が悪い。歴史の真実しか書こうとしないものだから、獅子身中の虫のように扱われている) の 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年刊) も重要な 証拠の本だ。
この、吉見義彦の『従軍慰安婦』(1995年刊)の 本を 右翼たちが叩(たた)くことから、1996年から、慰安婦問題は、始まった。テレビの深夜討論会などで、大騒ぎで騒がれることになった。あれから、18年だ。
問題の発端の、初源(しょげん)となった、この本の ところにまで、私たちは立ち戻らなければならない。そして、この本の内容が、全く、今も崩れていない( =真実である)ということの確認もしなければいけない。
ということは、この本を激しく攻撃した者たちの、この18年間の 文献証拠を 明確に列挙しながら、その虚偽と、謀略の言論を、 徹底的に 叩きのめさなければいけない。
私、副島隆彦は、他の、あれこれの「慰安婦」についての綿密な調査報告書の本で、どれぐらい、たくさんの 慰安婦の実態を書いているか、これから、どんどんここに 書き写して行きます。 待っていなさい。
田中三郎氏へ。 この9月25日に、私たちは、東京都内のミーティングルームで、 この 「第二次大戦中の 日本軍が 管理し設営した、戦場の 慰安婦 の問題」を討論します。 それは、会員ページに 「ケンカ道場」の 録音として、音声で配信します。 これに参加したい会員は、会員ページでもうすぐ募集しますから、遠慮しないで、参加してください。
その際には、以下の、『従軍慰安婦』 吉見義明(よしみよしあき)著 岩波新書 1995年刊 と、秦郁彦 (はたいくひこ)の 前掲本 『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年刊)を テキストにします。 吉見義明の『従軍慰安婦』だけは、なんとか読んできてください。 募集案内を待っていてください。
田中三郎氏も、かならず、最低、この2冊は、読んで、それから、その内容を、引用しながら、再反論をしなさい。
私、副島隆彦は、 この吉見義明の すばらしい、世界基準の本である、『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年)まで、問題を、すべて、さかのぼらせて、文藝春秋 の 仙頭寿顕(せんとう としあき)、という 薄汚い、編集者 ( つぶれた時の『諸君』誌の編集長。あまりに 偏向した記事を扇動的に書かせ、中国ビジネスをする大企業の団体である経団連まで攻撃したので、日本の財界人たちが怒って、廃刊にさせた 。仙頭は、責任を取らされて社内で冷や飯を食っている。 )たちや、産経新聞右翼たちが、 「日本は、中国で、何も悪いことはしてない」とか、 「南京虐殺(なんきんぎゃくさつ)は無かった」と、今も、吠(ほ)えている。この愚劣な人間たちとの 闘いを、私は公然と、始める。 徹底的にやる。 事実と証拠をすべて開示しながら、すべて、名指しでやる。
以下が歴史の大きな真実である。
(転載は付け始め)
吉見義明 (よしみよしあき) 著 『従軍慰安婦』(岩波新書、1995年
刊 )
P110~P112
Ⅲ.女性たちはどのように徴集されたか
大陸で徴集された三名と、朝鮮で徴集された一名(朝鮮人)をのぞく四四名の徴集のされ方をみると、だまされた者は二二名で、半数に達している。
そのほとんどは、「〔軍事関係の〕食堂或は酒屋で料理を運び、雑事またはお酒の付きいだけで体は売らない」と周旋人(しゅうせんにん)から聞い て、応じている。看護婦になるとだまされた人や、洗濯・炊事などの仕事とだまされた人もいた。
つぎに多いのは、強制的に集められたケースで、一〇名いる。五名は役場から割り当てられたという。三名は、看護婦の名義で強制的に行かされた が、強制したのは、周旋人と叔父だったり、周旋人や病院の看護士長だったりした。養父と周旋人が強制したケースもあった。これとは別に、看護婦と して戦地に行き、しばらく看護婦をしていたが、途中でむりやり慰安婦にされたという人が二名いた。
慰安婦であることを承知で応じた者は三名、だまされてブローカーによって売られた者が三名であった。残る六名はどのように徴集されたか不明であ るという。
四四名の慰安婦のうち、九名が一〇〇円から五〇〇円の前借金をもらっている。これを身売りと解すれば、人身売買は一〇名となる。うち三名は、現地に着いたとき、性的奉仕をさせられることを知って、拒否しようと思ったが、前借金を返せないのであきらめるほかなかったという。
契約を結んでい るのは四名で、その期間は一年・一年半・一年八カ月であった。一年八カ月の契約であった女性は、期間が満了したとき代わりの台湾人が来たので帰国 できたが、他の二人は満了しても帰国できなかったという。
以上のうち、看護婦の仕事だとだまされて応募したある女性は、東京に来てつぎのように証言している(前掲『世界に問われる日本の戦後処理』第一 巻)。彼女は、公学校(日本の小学校に相当するが、義務教育ではない)を卒業した後、台湾の病院で看護婦として四年間働いていた。四三年、日本人 が南方で働く看護婦を募集しているという話を友人が聞いて来た。
ここで働いていても将来性があるわけではなかったので応募し、一〇人以上の女性た ちといっしょに、チモール島に送られた。彼女は、看護婦の仕事だと思っていたのに、まず性病検査をされ、ついで、将校から強姦され、軍慰安所に入 れられたという。彼女は当時一七歳だった。
5.東南アジアの場合
P121
● 軍による徴集
近衛師団通信隊の将校総山孝雄(ふさやまたかお)(戦後、日本学士院会員)の回想によれば、二月二七日に軍慰安所が開設されている。
『昭南日 報』の広告はあるいはこれと関わるのであろうか。ともあれ、第二五軍司令部の後方担当が慰安婦を募集すると、それまでイギリス軍を相手にしていた 女性が続々応募したという(総山『南海のあけぼの』)。シンガポールでは、占領直後、慰安婦が公然と募集され、最初は売春婦など生活に困った女性 たちが応募したのだった。
しかし、この女性たちは、一日に一人ぐらい相手をすればよいと思っていたのに、兵隊が列をつくって押し寄せたのに悲鳴をあげた。そこで、四、五 人を相手にしたところで、担当の兵士が打ち切ろうとしたところ、騒然となったので、やむをえず「女性の手足を寝台にしばりつけ」でつづけさせたと いうことを兵士から聞いている(同上)。このような強制もあったのである。
P124~P125
● フィリピンでの暴力的連行
フィリピンでは、多くの元慰安婦が名乗り出ているが、その証言により浮かびあがるのは、軍による暴力的な連行が非常に多かったことである。「訴状」によれば、四六名の被害者のほとんどが軍により暴力的に連行されており、年齢は最低一〇歳、最高三〇歳で、未成年者(一〇代)は三三名だっ た。筆者がヒアリングをおこなうことができた典型的なケースをみると、つぎのようだった(「訴状」とヒアリングによる)。
マリア・ロサ・ルナ・ヘンソンは、父がルソン島アンへレスの大地主、母がそのメイドであった。日本軍侵入後の一九四二年、疎開していた村で、薪を集めていたとき、日本兵に強姦された。当時一四歳だった。翌年、アンヘレス市で、抗日ゲリラのメンバーといっしょに、水牛のひく荷車に乗って日 本軍の検問所を通過しようとして呼びとめられ、彼女だけが連行された。
日本軍が宿舎にしていた病院に監禁され、つぎに精米所であった建物に移され て、日本兵の相手をさせられたという。週一回程度、性病検査があったというから、やはり軍慰安所のひとつと考えていいだろう。
ロシータ・バカルド・ナシーノは、パナイ島イロイロ州で生まれたが、日本軍占領中の四二年に母が死亡し、翌年父が餓死した。彼女はイロイロ州の キャンディー工場で働いていたが、四四年に工員をやめて祖母のいるエスタンシアに帰る途中、祖母の家の近くで日本兵に拉致された。家から二〇分く らいのところに日本軍の兵営があった。
彼女は、エスタンシアの旧製氷工場に連れていかれ、将校と下士官・兵につぎつぎに強姦されたという。彼女は この工場に約一カ月監禁されていたが、中には約一五名の女性がいたようである。
このように、日本軍に対するゲリラ活動が活発であり、日本軍が住民を敵視していたフィリピンでは、とくに軍による暴力的な女性の連行が多かった のである。
● インドネシアでの暴力的連行
・・・・・
P134~P135
Ⅳ 慰安婦たちが強いられた生活
● 部屋の模様
前線に近い軍慰安所はこれとはまったく異なっていた。長沙(ちょうさ)郊外にある慰安所では部屋は三畳で、半畳の土間の奥に布団が敷きっぱなし になっていたという(細川忠矩(ほそかわただのり)『戦場道中記』)。また、野砲兵第一一〇連隊副官の当番兵の回想によれば、一九四一年二月頃の 中国石家荘の軍慰安所の部屋内部はつぎのようだった。
部屋は個室になっていて、扉を開けると狭い土間がちょっとあるだけで、座が設けられていた。慰安婦はそこで生活しているので、身の回りの品や 家財道具が所狭しと置いてあった。そして、一種異様な臭いが、狭い部屋にしみついていた。(佐藤寛二(さとうかんじ)『赤いチューリップの兵隊』)
このように、慰安婦が押し込められている部屋は、布団またはベッドとわずかな家財道具を入れると、一杯になるような広さのものが多かった。中に は八畳位の部屋もあったが、普通は二、三畳から四畳半程度だった。
もっと前線に近いところでは、破壊された民家ならいい方で、「簡単な板囲いに、 中はアンペラ敷き、まるで簡易共同便所」のようなところもあったという(柳沢勝『オレはまんねん上等兵』)。
P141~P142
2.慰安婦の日常はどのようなものだったか
● 性交の強要
一九四一年のことで、彼女は満一七歳だった。以後、彼女は毎日午後に軍人の相手をさせられることになる。討伐(とうばつ)作戦が終わった後にはとくに人数が多く、一日に七、八人の相手をしなければならなかったという。
慰安婦が一日に相手にしなければならない軍人の数は、将校用慰安所では多くなかったが、下士官・兵用の慰安所では、多い場合は二、三〇人にも なった。ビルマで軍慰安所を経営していた業者香月久治によれば、ある日、慰安婦が一日に六〇人の相手をしたことがあったが、この女性は三日ぐらい 休まなければならなかったというから(筆者のインタビューによる)、これは例外としても、女性にとって大変な苦痛であったことはまちがいない。
「何度も性器が腫れ」た(李英淑)という状態でも、彼女たちは拒否することができなかった。性に飢えた軍人たちは、殺気だっており、拒めばひど い暴力をふるわれるからである。
このような軍慰安所のありさまは、軍人の側からみても異様であった。ある将校は、ベトナムのナトランの軍慰安所のようすを、つぎのように記している。
かねがね噂には聞いていたピー屋だが、そのあまりにも無造作な現実は、刺激というより、異様な世界を見せつけられる思いがした。白昼堂々立ち 並んで順番を待つ者の鼻先へ、コトを済ませ、半袴(はんこ)〔半ズボン〕の紐も締め終わらぬままつぎつぎ出てくる姿の生々しさ。はしゃぐわけでも なく、ある種の緊張の中に、コンベヤーシステム然と進行する儀式は、禁断の木の実を知らぬ私をたじろがせた。(南原幸夫『遥かなる仏印』)
P178~P180
V国際法違反と戦犯裁判
● オランダ人慰安婦問題
●ジャンヌ・オフェルネの体験
慰安所に連行された彼女たちはどのような目にあったのか。ジャンヌ・オフェルネとエリー・コリー・ファン・デル・ブローグの場合をみてみよう。
ジャンヌ・オフェルネは、スマランの近くの砂糖農園の裕福な家庭に生まれた。両親はオランダ人で、彼女は五人兄弟の三番目だった。修道女になる ためにフランシスコ会の教育大学で学んでいるとき、日本軍が侵入し、強制的にアンバラワ抑留所に入れられた。
当時、二一歳だった。抑留所は、悪 臭・汚物・ネズミ・下水などにまみれ、重労働・飢え・暴力・病気が横行するひどい所だったという(オフェルネ「レイプされた女の叫び」、以下これによる)。
一九四四年二月のある日、日本軍将校がやってきて「一七歳以上の独身の女性は整列しろ」と命令した。不吉な予感がした彼女は、できるだけ目をひ かないように、地味な身づくろいをして出て行った。
将校らは、整列した少女を上から下まで見て、仲間うちで笑いあった。彼女の記憶によれば、一六 名の少女が選別され、所持品をまとめてトラックに乗るよう命令された。少女たちの母親をはじめ、抑留所の女性たちが抗議したが、押し切られてしまった。
スマランに着いて、七名が降ろされ、一人ひとりに部屋があてがわれた(「裁判資料」によれば、約三五名の女性は市内のホテルに集められ、まず将 校倶楽部用の女性七名が選別され、ついで他の三つの慰安所にふりわけられたという)。
開館の夜には、多くの将校がやって来た。食堂に集められ、恐 怖に震えてうずくまっていた少女たちは、泣き叫び、抵抗する中で、食堂から一人ずつ引きずりだされていった。自分の番がきたとき、彼女は激しく抵 抗したが、
「蹴っても、叫んでも、抵抗しても、無駄」だった。怒った軍人は、刀を抜いて、身体につきつけ、彼女を裸にし、刀で身体を撫でたという。
窮地に追い込まれたねずみと猫のように、男はわたしをもて遊びました。ゲームをしばらく続けた後、男は自分も裸になりました。殺す気などまったくなかったのです。
……重い体でわたしにおおいかぶさり、押さえつけました。必死になって抵抗し、蹴ったり、引っかいたりしましたが、相手はあ まりにも強すぎます。レイプされるわたしの目から涙がとめどなく流れました。まるでずっとこれが続くように思えました。……やっと男が部屋から出 て行ったとき、わたしは全身震えていました。
その辺にある服をまとい、体からすべての汚れと恥辱(ちじょく)と傷を洗い流そうと、浴室に走りました。浴室には、他の少女たちもいました。みなショックで泣いていましたが、どうしてよいのかわからず、ただお互いに慰めあうだけでした。今起きた すべてを洗い落すかのように、わたしたちはごしごし体を洗いました。
身体を洗った後、彼女は裏の部屋に隠れたが、すぐに見つかり、その夜、別の数人の軍人にも強姦された。翌日も夕方から、同じような目にあわされたという。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 田中三郎さん。本気で、あなたもいろいろ書き写してきなさい。 私たちの学問道場は、日本で一番、優れた知識人集団だから、一切の 虚偽の言論を 許さない。
副島隆彦拝
【1358】[1649]「学問道場」の会員は『小室直樹の学問と思想』を再度読み直そう
会員番号1020番の清野 眞一です。
一寸思いついた事があったので、投稿いたします。
それは、「学問道場」の会員は先学に深く学ぶ必要があるという事です。「学問道場」の会員にとって学ぶべき先学とは、小室直樹博士です。
橋爪さんと副島先生の「小室百学」に関する対談本の『小室直樹の学問と思想』に、「小室直樹の学問を学び継ぐ上での、さらに若い世代にとっての入門書になってほしい」(あとがき 新装・増補版に寄せて)と副島先生は書いています。
この本こそ、何回も読むことによって、自分の問題意識を鋭くし自分のやるべき事を見極めさせる本だと言えます。
今話題になっている韓国・中国について、小室博士は『韓国の悲劇』(1985)、『韓国の呪い』(1986)、『韓国の崩壊』(1988)、『資本主義中国の挑戦』(1982)そして『中国共産党帝国の崩壊』(1989)のカッパブックス著作群があります。
勿論今からほぼ三十年も前の著作ですから、当然の事として時代の限界を感じさせる部分もありますが、今でも充分に学ぶべき内容を持つ著作群です。
これらの著作についての二人の対談本は、「学問道場」の会員ならぜひとも知っておくべき重要なものだと私は考えます。
重要な箇所を引用します。時間の関係で最小限にとどめます。
(引用開始)
橋爪 ヨーロッパの社会科学が中国と韓国と日本を区別していない以上、
その着眼点から、中国、韓国、日本を本気で区別して分析しようという発想が希薄だったとしてもやむを得ない。
副島 ほんとですねえ。
橋爪 しかし小室さんはそこをはっきり分析すべきだと考えて、現にそれを実行した。人類学の助けを借りたという点はありますが、これは重要な業績です。
副島 小室さんの『韓国の悲劇』という本は一九八五年に出されていて、『田中角栄の呪い』の二年後です。私もこの本は小室さんのたいへん優れた
業績であろうと思います。
(引用終了)
こうした高い評価を与えた上で、お二人は6ぺージにわたって、重要な議論を展開していますが、ここでは時間の関係から紹介を省略いたします。
小室博士の論点は多彩かつあまりにも的確なので、現に『韓国の悲劇』と『韓国の崩壊』の二冊については、韓国版も出ているのです。
この事について、副島先生自らも「韓国人が自らの社会を反省する材料として使われています。小室直樹の慧眼には、まったく脱帽します」と極めて高い評価をしています。
私もこの二冊については、韓国学原論、韓国現状分析論として今でも読む内容があると高く評価しています。
会員皆様にも、「小室学の入門書」と韓国学の基本書二冊の読書を勧めたいと考えて投稿させていただきました。
以上
2014/8/29 清野 眞一拝
【1357】[1648]中国、韓国について
韓国大統領の天皇に対す謝罪要求は、1年ぐらい前の週間ポストに掲載されていました。
私の発言に対し、先生はじめ、非常に強い反論ありがとうございます。まさかこんなに念の入った、絶対ゆずれない、強い反論におどろきました。
小室直樹氏の本を読んでいると、はっきりと“「従軍慰安婦」問題は根も葉もない作り話である。”と言われています。(「日本国民に告ぐ」の本 小室直樹著 52~55ページ)
それから、私は韓国には何度か行きましたが、接した人はみんなまじめな人でいいなと思うのですが、なんでこんなに国同士になると、仲が悪くなっていくのだろうかと疑問に思っ
ている者です。韓国は自殺率が高く、非正規雇用ばかりで生活に苦しんでいる人で大変だとか言われているが、釜山など街並みはきれいに整備され、高速道路はできており、完全に近代的になっているように見えるので、不思議におもいます。
引用開始
日本国民に告ぐ 小室直樹著 52~55ページより
藤岡教授は論断する。
「たとえば、自民党の奥野誠亮江元法務大臣が「慰安婦は商行為ではないか」というごく当たり前のことを述べたのに対する朝日新聞の報道は、本当に「商行為」であったかどうかという事実の検証ではなく、そういうことを言うこと自体をアジアの女性を侮辱するものだとして断罪するシロモノである」(同右)
すなわち、「その被疑者のために弁護するのはけしからん」というのであるから、
これは弁護なき裁判、すなわち暗黒裁判である。
「テレビに登場するキャスターは。奥野氏らの発言のたびに「言語道断」というそぶりで
顔をしかめてみせる」
まさに問答無用の言論封殺である。暗黒裁判、問答無用の言論封殺—それが今や、
マスコミの正体、日本のマスコミは実証検証を捨て去ること、泥のごとし
蔓延する反日史観が実証的結論さえ封殺する
ところで6、肝心の実証的検証のほうはどうか
ついに最終的結論ともいうべき論文が発表された。藤岡前掲論文と、秦郁彦千葉大
学教授(現在、歴史家)の「慰安婦「身の上話」を徹底検証する」(「諸君!」平成八年十月号)である。秦・藤岡教授は、関係資料をすべて渉猟した後、決定的な結論に達した。ここにそのエッセンスを要約しておきたい。いずれも容易に入手できる論文なので、資料の検討・当否および詳細の議論については、これら両論文参照。
筆者は正しいと思うと思うものであるが、意義があれば反論されたい。
秦教授は、必要な資料をすべて検討した後、結論を明記して言う。
「かれこれ総合してみると、朝鮮半島において日本の官憲による慰安婦の強制連行的調達はなかったと断定してよいと思う」(秦前掲論文)
明快この上ない断定ではないか。秦教授は右の断定を下すために必要な資料をすべて吟味したが。特に慰安婦の強制連行に関して、
「筆者(注・秦教授)が注目するのは、親族、友人、近所の人などの目撃者や関係者の裏ずけ証言が全く取れてないことである」(同右)
本当に強制連行があったとすれば、こんなことはあれえようがない、これだけでも強制連行はなかったことの充分な証明だと思われるが、秦教授は、念には念を入れ、裏には裏を取って、「日本の官憲による強制連行はなかった」という決定的結論に達した。
では、なぜ、(日本の官憲による)強制連行はなかったことが実証的に証明されたにもかかわらず、「強制連行はあった」ということが日本社会に定着し、反対できない空気が蔓延してしまったのか。
反日史観が次から次に製造され、拡大生産されているからである。この過程は、骨がらみのらせん過程となり、典型的な悪循環過程となっている。
右の連鎖過程の重大さ、いくら繰り返しても繰り返しすぎることはない。
反日史観を基礎として、反日的日本人が反日的言辞を弄して、事を起こす。そうすると右の過程を経て政府が平謝りに謝る。これを聞いて日本人は「ああ、やっぱり日本は悪かったのだな。過去にたいへんひどいことをしたのだ」と念を押されてしまうことになり、さらに反日史観がつよめられることになる。
この強められた反日史観を利用すれば、反日的日本人は、さらに過激な反日的言辞を弄して、ことがおこりやすくなる。右の過程が拡大され、また繰り返される。同様にして反日史観は、さらに強められる。
この連鎖過程は、反日史観から出発して、さらに強められた反日史観が結論となる。
恐ろしい悪循環過程である。これが拡大再生産されつつ、不断に進行してゆく。このようにして、反日史観は、ますます深く、ますます過激になって全日本へ蔓延(はびこる)していくことになる。
「空気」こそが日本教の教義
「従軍慰安婦」問題は根も葉もない作り話である。
「ところが真に驚愕すべきことに、多くの日本人がこの荒唐無稽な話をどうやら、多かれ少なかれ、信じているらしいのである」(藤村前掲論文)
日本は「空気」支配の国である。空気こそが“日本教の教義“である。空気に反したことをしただけで許すべからず「犯罪」とされる。反日史観が全日本に瀰漫し空気とまでなったのだから万事休す。論じること自体がタブーとなった。
「少しでも慰安婦問題に疑念を呈する発言する政治家には洪水のように集中的な、抗議文、脅迫状が舞い込む仕掛けになっている」(同右)
引用終了
【1356】[1647]本能寺の変の実行犯は彌介である
今日は2014年8月24日です。
会員番号2285番です。
本来は実名投稿であるべきですが、女性であり、不特定多数の閲覧可能な掲示板であるため、会員番号にて投稿いたします。
また、長文にわたるため、2回にわけて投稿いたします。
(はじめ)
私はこの夏、『本能寺の変 431年目の真実』(以下「431年目の真実」という。)という本、そして、今日のぼやき会員ページ『「1459」 副島隆彦が、話題書の書、明智憲三郎・著『本能寺の変 431年目の真実』(文芸社)を読む。2014年6月23日」』(以下「今日のぼやき」という。)を読みました。
一言で言えば、衝撃的で重要な内容でした。
1.本能寺の変の実行犯は彌介である。
「今日のぼやき」で、副島隆彦氏は、ズバリ、「本能寺の変の実行犯は彌介である」と指摘している。
(引用はじめ)
ということは、ここから先は副島隆彦の予測ですが、この黒人奴隷の彌介が信長のすぐそばにいて、1年4カ月ぐらいの間全ての情報・知識をオルガンティーノやカリヨンに伝えてたはずなんです。
私は去年出した『闇に葬られた歴史』(PHP刊)の第5章か6章で、信長の本能寺の変を実行したのはこのイエズス会であると。イザベラ大砲という組み立て式の大砲でこの南蛮寺から射かけて、一瞬のうちに本能寺を燃やし尽くしたと。この説は八切止夫という歴史作家の説です。この八切止夫の文章を引用しています。
そこでは、あるいは前もって爆薬を本能寺に全部仕掛けてあったのだろうと。なぜなら前の日まで全部雨が降っていて、とても急に火がついて燃えるようなものではないと。ほとんど一瞬のうちに燃え尽くして、信長の死体も何も残っていません。これは歴史の事実です。そうすると、やはり彌介がスパイとして潜り込んでいて爆薬を仕掛けたのだろうと私は思う。
(引用おわり)
「本能寺の変の実行犯は彌介である」で、色々な謎が解けてくる。
大前提として、殺人事件の実行犯は、殺人が行われたその時、その現場にいるはずである。
彌介はこの条件に該当している。
まず、本能寺の変の現場は2つある。
一つ目は、信長の宿泊していた本能寺、二つ目は、信忠が逃げ込んだ二条御所である。
一つ目の本能寺では、彌介は、信長の小姓として、本能寺にいたはずである。
二つ目の二条御所では、明智憲三郎氏が、彌介はその現場にいたと指摘している。
「431年目の真実」182ページから引用する。
(引用はじめ)
それについてフロイスは『一五八二年日本年報追加』の中で次のように書いている(村上直次郎訳『イエスズ会日本年報 上』)。
「ビジタドール(巡察師)が信長に送った黒奴が、信長の死後世子(信忠)の邸に赴き、相当長い間戦っていたところ、明智の家臣が彼に近づいて、恐るることなくその刀を差出せと言ったのでこれを渡した。家臣はこの黒奴をいかに処分すべきか明智に尋ねたところ、黒奴は動物で何も知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのパードレの聖堂に置けと言った。これによって我等は少しく安心した」
(引用おわり)
2.信忠は二条御所に誘い込まれて殺された。
いわゆる本能寺の変では、まず、信長、その次に信忠、という順番で、殺されていった。
この順番には意味がある。
私は、信長より、信忠のほうが、殺すのが難しかったからだと思う。
以下、当日の信忠の行動を、『新人物文庫 現代語訳 信長公記』525ページから引用する。
(引用はじめ)
織田信忠はこの変事を聞き、信長に合流しようと思い、妙覚寺を出たところ、村井貞勝父子三人が駆けつけてきて、信忠に言った。「本能寺はもはや敗れ、御殿も焼け落ちました。敵は必ずこちらへも攻めてくるでしょう。二条の新御所は構えが堅固で、立て籠もるのによいでしょう」と。これを聞いて、ただちに二条の新御所へ入った。
(引用おわり)
この信忠の行動は、あらかじめ読まれていたのではないか。
ここで、村井貞勝の提案は、当面、構えの堅固な二条御所に立て籠もって、時間稼ぎを図るということだったに違いない。
また、この提案は常識に沿っており、突飛な提案というわけではない。
しかし、これこそが、犯人の思う壺だったのではないか。
そもそも、信長は本能寺、信忠は、二条御所のすぐ西隣にある明覚寺と、宿泊場所を分けていたのは、親子の共倒れを防ぐためである。
彼らの危機管理はしっかりしていた。
しかし、そのあってはならない共倒れが起きてしまった。なぜだろうか。
ここで、彌介(とその背後にいるイエズス会)にとっては、行動を把握しやすいのは、信長の方だったに違いない。
なぜなら、彌介は、あくまで信長の小姓であって、信忠の小姓ではないからである。
信忠の細かい行動を把握しづらいために、”信忠が確実にその場所にいること”を確定しておく必要があったと思う。
だからこそ、1.信長、2.信忠の順番で殺さなければならなかった。
いわば、信忠は、狩りの獲物が、ある場所に誘い込まれて殺されるように、殺されたのである。
そして、”狩りの獲物”つまり、信忠が誘い込まれたその”ある場所”、つまり、二条御所に、はじめから、爆薬が仕掛けられていたのだろう。
その爆薬に点火したのは、この現場にいた彌介しかいない。
なお、『信長時代の本能寺とその周辺』という地図が、『歴史街道 2014.9』29ページに掲載されている。
距離感がつかみやすく、現場が皮膚感覚で捉えられ、非常に参考になる。
3.彌介に火薬の取り扱いの知識及び経験はあったのか?
しかし、”爆薬に点火”するほどの知識及び経験を、彌介は持っていたのだろうか?
私は、持っていたと思う。
たしかに、信長に献上されるまでの彌介の経歴はわかっていない。
また、「431年目の真実」によると、本能寺の変の後の消息も不明のようである。
しかし、天正十二年三月の島原合戦に、彌介らしき人物が見える。
著 安野眞幸『教会領長崎 イエズス会と日本』(講談社選書メチエ)152ページから153ページまで引用する。
(引用はじめ)
天正十二年に有馬氏は再度島津氏の援軍とともに島原城を攻撃したが、その島原包囲陣にイエズス会士や教会領長崎の関係者が参加していた。「一五八四年八月三十一日付フロイス書簡 25」にはつぎのようにある。
ドン・プロタジヨ(有馬晴信)は聖週となって、陣所に大砲二門を据付けた。これは日本では甚だ珍しいもので、操縦する人は少なかったが、この際偶然砲に装薬することのできる黒奴が一人居合せ、また隆信が不当に殺すことを命じたため、大村より高来に逃げてきたマルチニヨといふキリシタンの兵士があってこの人が砲の狙をつけ、マラバルの人が火を附けた。
大砲は薩摩の兵に取って珍らしく且驚くべきものであったが、敵城内の人々には甚だ面白からぬものであった。暗黒の木曜日及び金曜日に発射した多数の砲弾は木造の家に入って大なる音を立て、この珍らしい物に対する驚愕による城内の婦人及び小児の叫喚は、ドン・プロタジヨの陣所まで聞えた。
ここでフロイスの記録が「敵城内の人々」に同情的なのは、この島原城に大村兵三〇〇がいたからである。文中に「黒人奴隷」やインド西海岸の「マラバル人」や大村氏の逃亡兵「マルチニヨ」が偶然居合わせたとあるが、彼らは〈教会領長崎の砲台の守護兵〉で、イエズス会が派遣したことを隠すために、このような言い方をしたと思われる。
(引用おわり)
なお、註25として、同書205ページには「25『イエズス会日本年報 上』(『新異国叢書3』)雄松堂、一九六九年、三四一頁。」とある。
私は、この”日本では甚だ珍しい”ものである”砲に装薬することのできる黒奴”が彌介であったと思う。
そして、本能寺の変の後、彼は、”教会領長崎の砲台の守護兵”になっていたのだろう。
というより、もともと、「砲兵」である男が、そもそものはじめから、計画的に、信長に、小姓として献上されたのだ。
(続く)
【1355】[1646]「反日」の秘密
会員の大川です。
韓国の「反日」について、鬼塚英昭著「『反日』の秘密 朝鮮半島をめぐる巨大な謀略」(2014年、成甲書房)から、重要な示唆を得ました。
以下、自分なりに解釈した要点を、簡潔に箇条書きします。
なお、鬼塚氏の主張について、自分で調べて確認するまでは、絶対正しいと言うつもりはありません。しかし、東アジアの国際関係、歴史、宗教など、新たな視点から論じた画期的な内容であることは間違いないと思います。
要点
1.1950~53年の朝鮮戦争で、韓国と北朝鮮の人々は想像を絶する悲惨な状況を経験した。
2.朝鮮戦争の終わり頃に、「反米」が「反日」に巧妙にすり替えられた。
3.韓国の反日の起源は、日本統治時代ではなく朝鮮戦争の時代にある。
4.日本は朝鮮戦争特需で経済成長の軌道に乗ったが、韓国が被った悲劇に日本人は無関心である。
5.韓国の反日教育は、朝鮮戦争後にアメリカの指示で始まった。
6.1965年の日韓基本条約に基づいて日本政府は多額の資金と技術を供与し、韓国は「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を達成したが、韓国の人々はこれらの事実を知らされていない。
7.朴槿恵(パク・クネ)大統領は、国内事情から反日の立場に立たざるを得ない。
8.日本は1910年に韓国を併合した後、キリスト教を禁止した。韓国ではキリスト教徒が中心となって反日運動を推進した。アメリカからキリスト教徒への支援があった。
9.韓国のキリスト教徒は現在、プロテスタントとカトリック合わせて全人口の約30%だが、1950年には1~3%程度しかなかった。
10.日本も韓国もアメリカの属国である。
(注:鬼塚氏は、「属国」や「従属国」の言葉を使わず、日本を幇間(ほうかん=男芸者、太鼓もち)国家、韓国をメカケ国家と呼ぶが、私はこれらの言葉を使いたくないのでここでは属国とする。)
他にも、今まで考えたこともなかった論点が提示されていて、日韓関係を考えるためのヒントがたくさん見つかりました。
最後に、私は仕事で何度か韓国に行ったことがあり、そこで出会った韓国の人々は皆、真面目で礼儀正しく、親切な人たちばかりでした。
大川晴美
【1354】[1642]日韓関係について
この問題は、外交問題の面もありましょうが、むしろ韓国内の内政問題でもあると思います。
韓国の国内事情を見ると、悩乱していると言いましょうか、何をどうしたら良いのか、悩み苦しんでいるいるのが実情ではないかと思います。
唯一、反日だけを、共通の捌け口にしているようにしか見えません。
このような状況の中で、歴史的な問題について、再度謝罪しても、解決することはなく、問題を他に広げるだけなような気がします。
また、読売新聞、産経新聞等の保守的な言動が良いとか、悪いとか、どっちが良いとか悪いとかの議論をしても、永遠に平行線でありかみ合うことはなく、良い結果を生むことはなく、感情的な方向に行くだけのような気がします。
この問題は、重要な外交問題ではありますが、世界的恐慌から来る、経済問題、国内問題と考えて、対処すべきと考えますが。