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相田 (Wired) 投稿日:2014/09/20 09:40

【1372】[1667]思想対立が起こした福島原発事故(第2回)

みなさんこんにちは。
Wiredこと相田です。

前回[1656]に続いて、論考を投稿します。

のっけからごめんなさいなのですが、前回の投稿の最後にいきなり間違いをやってしまいました。「演算子」なるものの説明で、分数の分子に∂(ラウンドと読みます)という記号を付けるのを見逃していました。これでは波動関数Ψを微分できなくなり、式が意味をなしません。

文科系の方々には別にどうでもいいことですが、理科系の方は大笑いされたと思います。しかたないですね、数年ぶりの投稿ですから・・・。しかし、よりによってシュレーディンガー方程式の定義のところで思い切り間違えるとは・・・

それでは以下続きです。

++++++++++++++++++++++++++

「思想対立が引き起こした福島原発事故」

第1章 素粒子論グループの栄光とその影
1.1 量子力学の成立過程について
(1656から続き)

それより少し前の1911年のイギリスでは、E.ラザフォードのグループにより、放射性物質から出るα線を金の薄膜に当てる実験が行われた。この実験からラザフォード等は原子は均一な球体ではなく、正電荷を帯びたごくごく小さな原子核の周囲に、負電荷を帯びた電子が分布すること、即ち原子自体が内部構造を有することを示した。ラザフォードの下で学んだデンマークの出身のN.ボーアは、母国のコペンハーゲンに戻ると、原子の内部構造モデルの数式化の研究に着手した。

ボーアは、高温に加熱した物質から放射される光のスペクトル(周波数[=振動数の逆数]の分布のこと)が連続に変化せず、飛び飛びの振動数の光に分割される現象に着目した。この現象にボーアはプランクの量子論を適用することで、1)原子内部の電子は、原子核の外側におけるエネルギーの異なる特定の軌道上を運動する、2)電子の軌道が変わることで放出されるエネルギー差により、飛び飛びの振動数に分割された光が放出される、というモデルを数式で示した。これをボーアによる前期量子論と呼ぶ。

コペンハーゲンのボーアの下には1920年頃より、W.ハイゼンベルク、M.ボルン、W.パウリ、更には英国のP.ディラック等の、20代の若手の天才物理学者達が集結し、原子内部の電子の振る舞いについて、より精密な検討と理論構築が進められた。その成果は1925年にハイゼンベルクにより、行列(マトリックス)という新規な数学概念を取り入れた理論(マトリックス力学)として纏められた。

一方で、マトリックス力学の説明に納得の行かなかったシュレーディンガーは、自らの波動方程式を引っさげてコペンハーゲンに乗り込み、ボーアのグループと激烈な議論を繰り広げた。そこで話題となった波動関数Ψの確率論的解釈や、不確定性原理(粒子のエネルギーをプランク定数と同等以下の微細なレベルに切り分けると、粒子の位置と運動量は同時に決定することができなくなる原則)については、ここでは触れない。

コペンハーゲンでの議論の結果、マトリックス力学と波動方程式は同じ現象に対する数学的な表記の違いであることが明らかとなった。さらに1927にディラックは、シュレーディンガー方程式をアインシュタインの相対性理論の効果を組み込んだ形式に拡張することに成功し(ディラック方程式)、これにより量子力学の基本的な枠組みがほぼ完成された。

量子力学が完成されつつある1922~27年の間に、コペンハーゲンのボーアの下にひとりの日本人青年が留学生として滞在して、物理学で起こりつつある革命の様子を逐一見届けていた。名前を仁科芳雄という。日本に帰国した仁科は所属先の理化学研究所に戻り、当時最新の原子核実験装置であるサイクロトロンの作製に着手すると共に、大学などの研究機関を巡ってコペンハーゲンでの自らの体験を広く伝えた。京大で行われた仁科の集中講義を聞いて運命を変えた二人の学生が、湯川秀樹と朝永振一郎である。

(仁科については、会員専用掲示板で下條先生が丁寧な解説を書かれています。私は物理の素人なので説明がいいかげんですが、下條先生はプロです。会員の方は是非御参照下さい)

1.2大阪大学の湯川研究室

湯川秀樹と朝永振一郎の二人は同時期に京都大学で物理学を専攻したのだが、ノーベル賞に繋がる研究を行ったのは、二人共に京都を離れてからのことである。

京都大学を卒業した湯川秀樹は、数年の間は無給副手(給料を貰うことなく、大学に残る研究員制度のこと。現在は廃止されている)として京大で研究を続けた後に、長岡半太郎を学長として1933年に新設された大阪帝国大学の物理学教室に理論物理学の講師として迎えられた。湯川の赴任から一年後に、阪大の物理学教授、即ち湯川の指導者の立場として理化学研究所から迎えられたのが、当時若干32歳の俊英の菊池正士(きくちせいし)である。

菊池の父親の菊池大麓(きくちだいろく)は、江戸時代末期に幕府から留学生としてケンブリッジ大学に2回も送られて、そこで数学の主席を取り続けたという伝説の人物で、帰国後に日本に初めて西洋近代数学を広めた大数学者である。菊池大麓は東大総長、理化学研究所の初代所長等を歴任し、貴族院議員も努めた国家の要人でもあった。どういう因縁か、私がこの論考を纏める最中に理研を舞台とするSTAP細胞の騒ぎが起こってしまったが、戦前の理研は歴史に残る数多くの名科学者達を輩出した、日本随一の民間研究機関であった。その理研の初代所長を務めたのが菊池大麓であった。

菊池正士も東大理学部卒業後に理研に入社し、1928年には雲母の結晶試料に電子線を照射する実験により、ド・ブロイが予言した電子の回折現象の確認に成功した。菊池よりも半年ほど前にダビッドソンとジャーマー及びトムソンにより、同じ現象が確認されており、彼等はこの成果により後年ノーベル賞を受賞している。菊池は発表が若干遅れたことと、東洋人で周囲の理解者が少ないこともあり、残念ながらノーベル賞を逃してしまう。しかし菊池の実験精度はダビッドソン等よりも高く、結晶内で散乱されて運動エネルギーを若干消失した電子が、再度散乱されることで形成される、線状の回折模様、いわゆる菊池線(キクチライン、キクチマップとも呼ばれる)の発見と生成理論についての明確な説明を与えるものであった。菊池はこの電子線回折の見事な研究により、日本を代表する物理学者の一人として世界の注目を集めることになった。

菊池線の発見は物理現象としての新規性に加えて、工学上の実用性からも現在において大きな意義がある。高エネルギーに加速した電子線を薄くスライスした材料を透過させて、材料の微細構造を調査する、透過型電子顕微鏡(以下透過電顕)という分析技術が1950年代から開発され、材料を原子レベルから解析可能な強力な分析ツールとして現在でも広く使用されている。この透過電顕で結晶材料を分析する際に、菊池線を利用することで、観察面が結晶のどの角度に位置しているかを正確に求めることができる。

1960年代に英国オックスフォード大学のP.B.ハーシュを中心としたグループにより、透過電顕の理論と分析方法について体系的な解説書が書かれている。ハーシュは透過電顕観察の研究によりSirの称号を得た金属材料研究の大家であるが、ハーシュのこの有名な解説書の中に、菊池線の理論と活用法がかなりのページを使って説明されている。結晶材料の分析技術を学ぶ者には、菊池線の理解は今でも必須である。

大阪大学に「超目玉」のスター研究者として招聘された菊池正士は、電子線回折の実験から離れて、理研での仁科と同じくサイクロトロン等の最新の加速器を大学に導入して、原子核反応の実験を開始した。ちなみに菊池の原子核実験をサポートするために、東大から阪大に移って来た研究者が伏見康治である。

後の茅-伏見提案で知られるように、伏見は戦後の日本で原子力研究を始めるための積極的なPR活動を行うことになるが、伏見自らは遂に原子力開発に携わることなく研究生活を終える。原子力の研究に携わることを、あれほど望んでも叶えられなかった伏見であったが、その師である菊池は、後年に日本原子力研究所の理事長に就任し、日本の原子力開発の行方を左右する決定的な場面に立ち会うことになるのは、皮肉な運命の巡り合わせであった。

話を湯川に戻すと、阪大に赴任後の湯川は当初なかなか論文が書けずに苦労したらしい。しかし、ヨーロッパで起こった量子力学の革命的な理論を独自に学びながら、頭の中で原子の挙動についての考察を深めた湯川は、原子核を構成する陽子と中性子とを結合する強い核力を媒介するための仮想的粒子として、電子の200倍の質量を持つ中間子の存在を予測し、1934年に論文として発表する。実験に依らず、理論のみによって新たな粒子を導入するという大胆な発想であり、素粒子物理学の幕開けでもある。

この湯川の第一論文の発表と同じ1934年には京大出身の坂田昌一が、所属していた理研から湯川の助手として阪大に招聘された。坂田は物理学者として湯川と同等レベルのスキルを有する優秀な研究者であり、後年名古屋大学に移った後に多くの弟子を育てた。さらに坂田の着任から程なくして、坂田の友人で京大物理学科の1年後輩にあたる武谷三男が、阪大の湯川の研究室に出入りするようになった。この武谷三男こそが、現在に至る左翼系自然科学者の理論的支柱となる、本論考の最重要人物である。小出裕章等に連なる反原発活動学者の先駆けであり、モデルである。

(以下続きます)

相田英男 拝

小幡 績 投稿日:2014/09/19 02:47

【1371】[1663]東京電力に今回の原発事故の賠償責任をすべて負わせることは、法律違反である。

小幡 績です。

今、東京電力を支持している人は世の中に一人もいないようだ。現場の英雄達を除けば、東京電力とは世界最大の犯罪人という扱いだ。

このような雰囲気の中、福島原発事故における危機対応から長期の事後処理対応に変わる局面において、東京電力を潰せという議論が起こる可能性が高い。いや、既に起こっている。

私は、この議論に反対だ。理由は2つ。

東京電力に今回の原発事故の賠償責任をすべて負わせることは、法律違反である。原子力損害賠償法は、異常に巨大な天災地変においては、免責であることを明確に定めており、その場合は全額国が補償することになっている。東日本大震災が異常に巨大な天災地変に当たることは疑いがない。それにもかかわらず、感情論ではなく有識者が冷静に東京電力に賠償責任があると論じるのは、今回の原発事故は天災ではなく人災による二次災害であるとみなしているからである。

この点は私も同意する。事故発生のニュースを聞いた第一感は、全力で冷却するために即海水注入、廃炉など当然というものであった。しかし、海水注入については状況を見守るということになり踏み切らなかった。このとき私は海水注入には別のリスク(予期せぬ化学反応など)があり、かえって危険なのだと思った。ところが、その後の報道では、それはこれまでの開発、原発の設置が無駄になり、再び別のところに原発を置くことは不可能だから、なんとしても廃炉は避けたいと言う思いから、海水注入をためらったということになっている。もしこの報道が事実だとすれば、明らかな判断ミスであり、その責任を取る必要がある。しかし、これは報道ベースであり、慎重な議論が必要である。

仮にこの報道が100%事実だとするとどうか。その場合には、東京電力ではなく、政府に責任がある。この報道が記述していることは、東京電力に事実の隠蔽はなく、事実報告を聞いて、東京電力の意見(希望と呼びたければ呼んでもいいが)を取り入れて、政府が判断したということだ。したがって、判断責任は政府にある。

しかも、政府は事故発生直後の3月11日夕方に、原子力緊急事態宣言をしている。これはすべての権限を内閣総理大臣に集中し、いかなる決定も内閣総理大臣が出来るということであり、逆に言えば、すべての責任は内閣総理大臣にあるのである。

したがって、今回の判断の誤りを東京電力に帰することは、政府を免責することであり、これは今回の事態に対する法律的な判断として誤りであるだけでなく、今後の日本国家の危機管理の改革を阻害することになる。政府が責任を負うべきなのだ。
理由の第二は、この点にある。今から我々は何をすべきか。その観点からは、東京電力の改革以前に、政府の危機管理体制、能力、意思について抜本的な改革が必要であり、そのためにどのような議論をするかということなのである。

今後の原子力政策。電力政策。危機管理政策。国の意思決定、トップ、組織のあり方の改革。それらを東京電力の判断ミスに帰して議論を終えてしまうのが最悪のシナリオなのだ。

組織のガバナンスというのは将来のためにある。必罰であるべきなのは、将来のインセンティブを維持するためだ。責任を取らせなければ、次の危機へ向けて、危機管理をするインセンティブがなくなる。失敗しても責任を取らなくていいからだ。東京電力および現経営陣および社員の将来のインセンティブ、モチベーションはこれからどうなると考えられるか。

東京電力という組織を信用しないのであれば、原子力安全・保安院を信用するのか。経済産業省と資源エネルギー庁に絶対の信頼を置くのか。国の組織となれば、判断ミスはなくなるのか。東京電力は、これまでの原発設置の苦労が大きすぎて、その世界の中で生きてしまい、視野が狭くなり、大局的な判断を誤ったのではないか。これは非常に役人的、官僚的なセクショナリズムではないのか。小役人であったからこそ、あらゆる放射能漏れを回避しようとして、大きなリスクを実現させてしまったのではないか。

一方、民営化し、競争させれば、この人災はなくなったのか。判断ミスはなくなるのか。東京電力は民間として、これまでのコスト、これからのコストを意識したから失敗したのではないか。同時に、今の東京電力には無駄が多いかもしれないが、一方で、命を賭けて守り抜こうという社員、この危機に萎縮しながらも逃げようとはしない姿勢は、民間企業の中でも、営利を強く追求するスタイルの経営の企業には生まれないものではないか。
この事件を受けて東京電力の経営陣、社員はどう思っているのだろうか。彼ら、彼女らは、誰もよりも電力の公共性、重要性、原発のリスク、企業としての社会的使命を感じているはずだ。今後、これをどうやって償っていくか、誰よりも考えているはずだ。原子力関係の技術者も、今後稼働中の発電所をどうやって補強、再構築、運転の改善点、マネジメントの改善点、リスク管理の改革、すべてにおいて、全力で取り組むだろう。このモチベーションを阻害しないほうがいい。代わりの人間達よりも、誰よりも強くこれを意識するはずだ。

もちろん改革すべきでないといっているのではない。経営陣の交代、ホワイトカラーの人員の削減、経営層も窓口もCMもすべてがリストラ対象になるだろう。しかし、闇雲につぶすことが、社会のためになるとは限らない。むしろ逆効果だと思う。政治の責任逃れを助け、感情的な溜飲を下げ、そして、今後の稼働中の原発のリスクを低下させることにならない。

重要なのは、ガバナンスだ。新しい経営陣に誰を選ぶか。選ぶ人を誰が選ぶか。新しい経営陣を今後どのようにガバナンスするか。そちらの制度設計のほうが重要だ。たとえば、全員を首にすることよりも、今後の電源開発部門と実際のオペレーション、リスクマネイジメント部門を切り離すことのほうが重要ではないか。今回の失敗はその意味で予想された失敗である。インセンティブ、組織の設計が間違っていて、電源開発の苦労を背負い込ませすぎていたのだ。それは国家で全責任を負わずに、一民間企業にの住民、地域対策を含めた負担を依存していたことに問題があった。必要なのはオールジャパンで、日本人というチームメイトとともに、将来をどう設計するか、ということなのだ。

小幡 績 拝

庄司 豊明 投稿日:2014/09/16 11:36

【1370】[1662]日本の歴史を貫く柱を読んで

今の右翼たち(ほとんどが似非右翼)は何かあると明治維新を引き合いに出して天皇中心の原点に返るべきだと言っている。
でも、私と仲のいい友人と話して笑っている。
なぜなら孝明天皇を殺して明治天皇(すり替え)を即位させたのを知っているのかと。
本当の尊皇は孝明天皇から信任のあった会津藩(勝てば官軍で賊軍にされた)ではないのかと。
自称右翼が日本の右翼の聖地は靖国神社であると言っているが、A級戦犯となった東條英機が合祀されてるとはいえ、巣鴨プリズンに収監中に国家神道は誤りであったと東條自身が語ったことも知っているのかと。
また、日露戦争で勝利をした強い日本でもあったと堂々と言うがイギリスの後押しがあって勝ち、日本の実力での勝利でないのも知らないのかと友人と話して笑っている。
国家神道が誤りなのもわかる。
なぜなら、賊軍となった者たちは一切、祭られておらず明治維新の功労者であった西郷隆盛が西南戦争で賊軍(当時の薩摩軍)となり祭られていない。
当時の政権権力の長州によって都合のいいようにつくられた歴史で真実でないことを改めて自分も思い知らされた。
会員番号7791

副島隆彦 投稿日:2014/09/14 09:45

【1369】[1661]安倍政権の改造内閣は、「 第二次 ”統一教会” 内閣」である。

副島隆彦です。

以下に 朝日新聞の 9月12日の 謝罪文 という記事を載せます。

この他に、当日に同時に発表された、「みなさまに深くおわびします 朝日新聞社社長 2014年9月12日 朝日新聞 」
http://www.asahi.com/articles/ASG9C6V5QG9CUHMC00L.html

という記事もあります。が、こっちは転載しません。

私、副島隆彦の考えでは、朝日新聞は、こんな謝罪などする必要は全くない。

何を、勢い込んで、現職の首相である安倍晋三を筆頭にして、このように 異様な、朝日新聞への言論弾圧(げんろんだんあつ)、と 報道の自由への侵害を行うのか。  私は、安倍晋三が、先頭に立って、朝日新聞を叩(たた)き潰(つぶ)そうとしている 今の、安倍たちの姿は、許しがたいと考える。

安倍晋三は、ラジオのニッポン放送に出て、朝日新聞攻撃を自ら行ったようである。

私は、 今の安倍晋三の内閣(政権)は、「第二次”統一教会”内閣」だと考える。 おそろしい宗教団体かつ、戦争開始勢力である 統一教会(とういつきょうかい。 かつての=原理研究会、=国際勝共(しょうきょう)連合 )が、日本の政治を乗っ取っているのである。 皆、怖がって、日本の リベラル勢力も、優れた言論人たちも、この大きな真実を口にしない。  この統一協会は、本当に殺人部隊を持っているから、私、副島隆彦の口封じに動くかもしれない。

そのときは、そのときだ。 私は、恐れない。 私は、日本の言論の自由(フリー・スピーチ、あるいは、フリーダム・オブ・エクスプレッション)のために闘って、そして死ぬことを恐れない。

安倍晋三たちは、奥さんの昭恵さんも含めて、すべて統一教会の会員である。今度の内閣の女性大臣たちの多くも、統一教会の会員である。 私たち、日本国民は、この恐ろしい事実に身構えて、これからの この国に迫る、戦争の脅威に、対処すべきである。 敵の正体を、しっかりと知ることが、唯一の防御策だ。

ガーディアン記事2

(左が、高市早苗(たかいちさなえ)総務大臣、 右が稲田朋美(いなだともみ)政調会長)

http://www.theguardian.com/world/2014/sep/09/neo-nazi-photos-pose-headache-for-shinzo-abe

●「極右代表と撮影:高市氏と稲田氏ら、欧州メディアが批判」
2014年9月10日 毎日新聞

●「世界中が非難! 高市早苗大臣と“極右団体代表”の問題写真」
2014年9月11日 日刊ゲンダイ

以下の朝日新聞の 謝罪の記事は、不必要なものだ。 朝日新聞に、おそらく50万人ぐらいの、狂気の人間たちである、統一教会員、および、それの表に出ている 公然団体である、 幸福実現党(こうふくじつげんとう)=幸福の科学、および、生長の家青年部、 および、 日本会議(にほんかいぎ)の各部会、などが、 朝日新聞に対して、連日、激しい電話、メールでの攻撃を加えているのだ。  WILL誌=ワックという出版社に、結集している 右翼知識人、評論家たちも、 だから、統一教会の 同伴組織である。

私、副島隆彦は、このように明言する。 彼らとの死ぬまでの闘いを、私は、はっきりと覚悟している。これは、私が今の日本に生まれて育ったことの引き受けなければ済まない運命である。 私は、自分の運命から逃げない。

私は、『隠されたヨーロッパ 血の歴史』(KKベストセラーズ、2012年11月刊)を書いて、その裏扉(うらとびら)に、「ダンテが、ミケランジェロが、モーツアルトが、ゲーテが、ニーチェが、生涯をかけて、なぜ、何に対して闘ったのか、日本人は、知っているか 」 と書いた。 今の私の粛然(しゅくぜん)とした気持ちは、彼ら世界最高の知識人たちの 魂(たましい)に殉(じゅん)じようとするものだ。

朝日新聞は、日本を代表する大きな新聞社だが、だからこそ、狂気の集団である統一教会からの攻撃、しかも、現在の日本の政権を握る政治家=権力者たちからの、言論弾圧(クラックダウン crack down )に遭って、息も絶え絶えである。 私は、朝日新聞社は、何も間違ったことはしていないと思う。

以下の記事にある通り、福島第一原発の事故が起きた直後(2011年3月12日から15日まで。これで収まった。危険は去った)に、所長の吉田昌郎(よしだまさお)が、「お前たちは、退避して(逃げて)いいぞ。最低限度必要な50人(これが、フクシマ50=フィフティ=の英雄たちが生まれた)だけ残れ」と命じた、はずなのだ。  朝日新聞の記事の、何が間違いなのだ。

吉田昌郎自身が、福島第二原発の方の、より頑丈な免震棟(めんしんとう)にまでたびたび出かけている。なぜなら、こっちに 事故対策の最前線指令本部が置かれたからだ。 私、副島隆彦は、第一原発だけでなく、この第二原発の正門前にも、事故の直後に、弟子たちと行っているから、何でも知っている。何の恐怖感もない。

しかも、吉田所長が、「逃げていいぞ」と言って逃げた、700人ぐらいの第一原発の職員(賛助企業の派遣職員たちもいる)は、自分たちが車で退避したことで、朝日新聞の記事に、抗議をしていないはずだ。 一体、誰の名誉が傷つけられえて、誰が朝日の記事の被害者なのか。

50万人の、統一教会=幸福の科学=幸福実現党 の 醜(みにく)い、狂信的な、狂った人間たちが、朝日新聞の記事の被害者なのか。バカを言え。この世界規模での、気違い人間ども。 お前たちは、世界基準(ワールド・ヴァリューズ)では、Moonie ムーニー という 発狂した人間集団であり、地球人類を、次の大きな戦争に引き釣りこもうとする集団だ。その日本支部だ。

ムーニー( ユニチャーム社の おむつ=ダイアパー=の商品名と同じ。赤ちゃんのお尻がまんまるの感じがお月さまと同じだからだ。 創始者の文鮮明(ぶんせんめい)の 「文 」の 英語読みのMoon から出来た)は、イスラエル国のモサド機関が始めは作って育てたものだ。 今のアメリカの国務省の現職の国務次官補である ビクトリア・ヌーランド という 危険な女も、ムーニーである。彼女が、育てて 今もコントロールしている、ウクライナのヤツエーニク首相も、だからムーニーである。

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●ビクトリア・ヌーランド 米国務省国務次官補(欧州・ユーラシア担当)

今のウクライナのキエフ政権は、クーデターで暴力的に、前政権を倒して出来た。それを、どうして、アメリカと、ヨーロッパ諸国の政府は、自分たち、EU,NATO の 仲間だと、考えるのか。 まともな頭をした正常な人間たちには理解できない動きだ。ロシアへの憎しみだけで動いている。世界は、どんどん危険な方向に向かいつつある。

今の、中東の、イラク北部とシリアで、暴れている 1万人ぐらいのプロの戦闘集団である ISIS( 「イスラム国」。「アイス」と呼ばれるようになった)も、その正体は、サラフィー(セラフィスト)と呼ばれる、イスラム教世界に、新興の若者の集団生活運動から生まれた、創価学会の初期と同じような、だから、統一教会も、それの次の波として、生まれて、日本国内で、勢力を伸長(しんちょう)している、宗教運動である。彼らセラフィーの資金源と、武器の供給源は、 サウジアラビア(ワッハーブ派)とイスラエルである。 だから、サラフィー=ISISは、イスラム教内部に、潜り込んで、育てられた、がん細胞のような、凶悪な宗教運動であり、統一教会(ムーニー)と同じものだ。

このセラフィーを、アメリカのヒラリーたちが、いいように使っている。その東アジア版は、日本の安倍晋三たちである。 ところが、セラフィーの狂犬たちは、リビアのカダフィをセラフィーたちを使って、ヒラリーが殺したあと、ヒラリーの忠実な子分で、軍事謀略の専門家のリビア大使に、一年後に襲いかかって殺して、路上を裸で、引き釣り回した。その画像がネット上に流れた。それで、ヒラリーは、ゲロを吐いて倒れて、軽い脳出血を起こしたのだ。

それでも ヒラリーたちは、アメリカ帝国が今のまま生き残るためには、世界戦争を始めるしかないと、今も、頑張っている。 オバマたちは、世界が、大きな戦争になることを食い止めようとして、動いている。

リビアのカダフィが、セラフィーの ジハーディスト(聖戦主義者)の凶暴な分子たちを押さえ付けて、サハラ砂漠(北アフリカ)に平和を保っていたのに、ヒラリーたちが、憎しみに駆られてカダフィを殺したことで、今、難民となって、スペインや、イタリアに北アフリカから流れ込んでいる。

アメリカ合衆国の穏健な国民は、 「もう アメリカは、中東・アラブ世界には関わりたくない」と考えている。「アメリカが介入すると、そのたびに、新しいお化けが現れる」と。 アメリカ帝国は、世界を管理する能力を、どんどん低下させている。

私、副島隆彦は、大きな世界基準での真実を、日本国に書いてもたらすために、
この国に出現した、この国の自己防衛機能だ。 日本国のアンチヴァイラス・アンチボディ(抗ウイルス抗体)だ。そのように自覚しながら生きてきた。

以下の朝日新聞の 後半は、慰安婦問題のものだ。 こちらも、朝日新聞は、何も悪いことをしていない。 「朝日新聞社が、韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を虚偽と判断し、関連記事を取り消したこと、その訂正」が、遅かった、ということだけを論(あげつら)って、他の新聞も、産経新聞でさえ、読売新聞も、同じような記事を載せていたくせに、朝日新聞を、執拗(しつよう)に攻撃している。

報道での、事実誤認は、訂正すれば、それでいい。それ以上の謝罪など不要である。

こちらも、同じく、統一教会=幸福の科学の 50万人ぐらいの宗教的な気違いたちが、計画的に組織的に 今も、朝日新聞に、攻撃をかけているからだ。
不愉快な事態が、今の日本に続いている。

それでも、朝日新聞を支えてきた、600万部読者たちが、これからも、日本のリベラル派勢力として、団結して、日本の戦争への道に反対してゆくだろう。

(転載貼り付け始め)

●「吉田調書「命令違反」報道、記事取り消し謝罪 朝日新聞」

2014年9月12日 朝日新聞

http://www.asahi.com/articles/ASG9C7344G9CULZU00P.html

朝日新聞社の木村伊量(ただかず)社長は11日、記者会見を開き、東京電力福島第一原発事故の政府事故調査・検証委員会が作成した、吉田昌郎 (まさお)所長(昨年7月死去)に対する「聴取結果書」(吉田調書)について、5月20日付朝刊で報じた記事を取り消し、読者と東京電力の関係者 に謝罪した。
杉浦信之取締役の編集担当の職を解き、木村社長は改革と再生に向けた道筋をつけた上で進退を決める。

朝日新聞社は、「信頼回復と再生のための委員会」(仮称)を立ち上げ、取材・報道上の問題点を点検、検証し、将来の紙面づくりにいかす。

本社は政府が非公開としていた吉田調書を入手し、5月20日付紙面で「東日本大震災4日後の2011年3月15日朝、福島第一原発にいた東電社 員らの9割にあたる約650人が吉田所長の待機命令に違反し、10キロ南の福島第二原発に撤退した」と報じた。

しかし、吉田所長の発言を聞いていなかった所員らがいるなか、「命令に違反 撤退」という記述と見出しは、多くの所員らが所長の命令を知りなが ら第一原発から逃げ出したような印象を与える間違った表現のため、記事を削除した。

調書を読み解く過程での評価を誤り、十分なチェックが働かなかったことなどが原因と判断した。問題点や記事の影響などについて、朝日新聞社の第 三者機関「報道と人権委員会」に審理を申し立てた。

朝日新聞社が、韓国・済州島で慰安婦を強制連行したとする吉田清治氏(故人)の証言を虚偽と判断し、関連記事を取り消したこと、その訂正が遅き に失したことについて、木村社長は「おわびすべきだった」と謝罪した。元名古屋高裁長官の中込秀樹氏を委員長とする第三者委員会を立ち上げ、過去 の報道の経緯、国際社会に与えた影響、特集紙面の妥当性などの検証を求める。

木村社長は、慰安婦特集について論評した池上彰氏の連載コラムの掲載を見合わせた判断については、「言論の自由の封殺であるという思いもよらぬ 批判があった」「責任を痛感している」とした。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。 以下に、以前から約束している、旧日本軍=日本政府による 戦場の慰安婦の 強制徴用 の 事実の 文献証拠を載せます。 もっともっとどんどん、 この「重たい掲示板」に載せてゆきます。 副島隆彦拝

(以下は、慰安婦問題の 文献からの引用)

『慰安婦と戦場の性』 秦郁彦(はたいくひこ)著 新潮選書 1999年刊


第四章 太平洋戦線では

4.北千島からアンダマンまで(P116~P117)
千田夏光は、ガダルカナル争奪戦の最中である四二年秋、数人の慰安婦がラバウルからガ島へ進出する途中に船が撃沈され、救助されてブーゲンビル 島に上陸、うち二人が生還したらしいと書いているが、確認できない。

アッツ島(四三年五月玉砕)、キスカ島(四三年七月撤退)については、四二年七月に「衛生サック」一万個を交付という公式記録はあるが、キスカ 駐屯の海軍主計兵曹長が「北海の孤島、女気などはさらさらなく、用意が良過ぎて?、全然不用品となったのはゴム製品ハート美人だけだった」と書い ているので、慰安所はなかったと断定してよかろう。

北千島には終戦の時点で、ホロムシロ島の柏原(第九十一師団司令部の所在地)に約五十人の慰安婦がいた事実が確認されている。

日魯漁業(にちろぎょぎょう)会社の缶詰工場長だった菅原貞一の回想によると、軍の要請で主として函館周辺の遊郭から集めてきた女性たちが柏原に上陸したのは四三年 六月頃で、会社の敷地内にオンドル付きの慰安所三棟を建てたという。

四五年八月十八日、ソ連軍の大挙侵攻にさいし、彼女たちは日魯漁業の女子工員や看護婦約三百人とともに、その日の夜、二十六隻の小型漁船に分乗 して北海道へ脱出したが、守護隊兵士と男子住民は停戦後、シベリアへ連行され、数年の重労働に服した。

西部ニューギニア(旧蘭領)については、オランダ政府の報告書に「日本軍慰安所があり、そこではパプア人の女性が働いていた……加えて、ジャワ とモルッカ生れの官吏や警官の未亡人たちが収容されている小規模な抑留所があり、慰安所として利用されていた」との記事があるので、一時的、局部 的に存在したと考えられる。

東部ニューギニアは四二年夏のモレスビー攻略作戦(中止)から終戦まで、極限状況に近い惨烈な戦闘の連続で、投入兵力十四万のうち一万人しか残 らなかった。戦死者の九割までが飢餓と熱帯病によると推定され、少数の看護婦はいたが、慰安所も存在しなかったとされてきた。(中略)

レイプと混同されている可能性もあるが、パプア女性は「色は黒く、顔形もまるで男の様……木の皮の糸を編んだ一尺角程のものを前に下げ……」と いう風貌で「頼まれても悪心を起こす気にはなれない」というから、稀に起きた程度ではなかったか。


5.慰安所規定は語る(P120~P121)

Cのマンダレーでは「不当な取扱や金銭強要等は報告せよ、場合によっては所属隊の全員を立入禁止」のような規定も入っており、兵士の乱暴や業者 の搾取から慰安婦を保護しようとする配慮が感じとれる。

軍服着用を義務づけている慰安所が多かったのも、同じ主旨からだろう。不足がちだった女性を不必要に虐待したら、慰安所設置の目的が失われるわ けだから、当然の規定と言えるかもしれない。

三つの慰安所規定のなかでは、マンダレーが最前線に近かったせいか野戦色が強く、規制がゆるやかである。利用者は軍人軍属を原則とするが、商社 員などの利用も認めていた。五軒の軍指定慰安所(日本、朝鮮、中国人女性)のほか、四軒の准指定慰安所(ビルマ人女性)のうち一軒はビルマ人兵補 (日本軍の補助兵)専用とされている(アウンサンのひきいるビルマ国軍も慰安所を設置)。
また慰安婦の必需品は軍貨物廠(ぐんかもつしょう)が供 給するようになっていた。


6.敗走する女群――ビルマ(P122~P123)

ビルマ戦線で有名なのは、雲南省拉孟(らもう)、騰越(とうえつ)の玉砕戦に巻き込まれた慰安婦だが、捕虜になって生き残ったわずかな兵士の証 言と尋問記録しか手がかりがないため、実情ははっきりしない。

諸情報を整理すると、米式装備の中国軍六万が攻めかかった四四年六月頃、拉孟には日本人五人、朝鮮人十五人、騰越には朝鮮人を主体とする二十数 人の慰安婦がいたらしい。

最終段階では銃剣の白兵戦まで演じた攻囲戦は三か月つづき、三千の守備隊は九月十日前後に全滅した。この間に慰安婦たちは炊き出しをやり、銃弾 をかいくぐって二人一組の軍服姿で、陣地の兵士たちへ握り飯を運んだ。弾薬箱を届けたこともあった。

玉砕後にビルマの兵士たちの間に、さまざまな噂が広がり、半ば伝説化したエピソードが語りつがれることになる。「日本人慰安婦は、朝鮮人慰安婦 へあなたたちは何も日本に義理立てすることないのよ、と説いて投降させたのち全員自決した」とか「拉孟では手榴弾や毒薬で慰安婦たちを殺した」と いうたぐいで
ある。
だが、実際には彼女たちの大半は捕虜となって生き残ったようである。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

西槙 投稿日:2014/09/13 22:07

【1368】[1659]9月15日(月)から国道6号及び県道36号の通過が可能となります。(福島県)

9月15日(月)から、双葉町から富岡町までの国道6号及び県道36号の道路が一般通行可能となります。
これにより、中通りを経由することなく浜通りを北から南まで通行することが可能となります。
震災から3年半でやっと浜通り地方の南北がつながりました。

以下、”南相馬市防災メール”からの引用

——————————————————————————————

南相馬市【緊急防災情報】のお知らせです。
帰還困難区域の特別通過交通制度の運用変更がありましたので、お知らせいたします。

1.変更内容
国道6号及び県道36号については、通行証の所持・確認を要せず、通過が可能となります。

2.対象ルート
①国道6号(双葉町~富岡町間)
②県道36号(国道6号~富岡ICまでの道路)

注)自動二輪、原動機付き自転車、自転車等及び歩行者は通行することが出来ません。

3.変更時間
平成26年9月15日(月・祝)午前0時(24時間通行可)

4.その他
国道288号については、引き続き、規制対象となります。

5.詳細(ホームページ)
①経済産業省 原子力被災者生活支援チーム
http://www.meti.go.jp/earthquake/nuclear/kinkyu.html
②南相馬市
http://www.city.minamisoma.lg.jp/index.cfm/10,20456,146,html

——————————————————————————————

引用ここまで

吉田祐二 投稿日:2014/09/13 11:58

【1367】[1658]9/10付のFT記事

9/10付のFT記事。中国人の過半数が日本との戦争が起こると考えているという。

FTまでが日中戦争をあおるようになってきました。国内のメディアも反中国・反朝日ばかり。あいかわらずの情報操作。

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Majority in China expect war with Japan

China and Japan are heading towards military conflict, according to a majority of Chinese surveyed

on ties between the Asian powers in a Sino-Japanese poll.

The Genron/China Daily survey found that 53 per cent of Chinese respondents and 29 per cent of

the Japanese polled expect their nations to go to war. The poll was released ahead of the second

anniversary of Japan’s move to nationalise some of the contested Senkaku Islands in the East

China Sea.(以下略)

http://www.ft.com/intl/cms/s/0/eed84e92-38ca-11e4-a53b-00144feabdc0.html?

siteedition=intl#axzz3CxeSMViS

田中進二郎 投稿日:2014/09/13 11:15

【1366】[1657]藤森かよこ氏の講演会のおしらせ

 藤森かよこ氏講演会が明日9/14(日)大阪で開催されます

題:アイン・ランド著「水源」邦訳10周年を記念して
   「自由と個人主義は人類にはまだ早い?
   -アイン・ランド『水源』について」 
主催:東京アイン・ランド読者会
会場:大阪市北区西天満 2-6-8 堂島ビルディング1F
時間:2014年9/14(日)13:15~16:45 (開場13:00 休憩あり)
 
-残席あり、当日(明日)の飛び入り参加も歓迎だそうです。当日払いの方の参加費は2500円-

●会場への交通機関
  地下鉄御堂筋線「淀屋橋駅」より徒歩4分
  各線「大阪駅」「梅田駅」より徒歩10分~15分
  (御堂筋沿い、大阪市役所の北、川を隔てた向かいです)
  
お問い合わせ
  東京アイン・ランド読者会 主催佐々木一郎氏にメール
  info@b-document.com
  
藤森かよこ氏訳 アイン・ランド『水源』(ビジネス社)のオビより引用

(引用開始)

1943年の発表以来、累計700万部超 アメリカで現在も読み継がれる大ロングセラー本邦初訳

「アイン・ランドは、ネオコン派と闘う本物のアメリカ保守思想‐リバータリアニズム‐の源流である」-副島隆彦

アメリカの一般読者が選んだ20世紀の小説ベスト100 第2位(1998年 ランダムハウス発表)

(引用終わり)
田中進二郎です。藤森かよこさんがアイン・ランドの著作の中で、一番思いいれが深いのが、『水源』(The Fountainhead)だそうです。
アメリカで、リバータリアニズムを真摯に学ぼう、という若者層が増えてきているそうです。
その原典について、藤森さんが講演されるのですから、大変興味があります。
関西のアイン・ランドの読者の方には、深く知る絶好の機会になるでしょう。
私もフリーメイソン思想とのかかわりからも、この作品をよく知ろう、と思っております。
藤森さんは「アイン・ランドを読んだことのない方にも楽しんでいただける講演会にしますよ。」と言われているので、時間がある方は行きましょう!

田中進二郎拝

相田英男 投稿日:2014/09/12 22:35

【1365】[1656]御挨拶と吉田調書と論考

みなさんこんにちは。
相田といいます。
こちらに書き込むのは何年かぶりです。
以前はWiredのPNを使っていました。

自己紹介よりもまず、波乱を呼んでいた「吉田調書」なる書類の全文が、政府のHPで公開されました。読まれたかたはおられるのでしょうか?

私も何件かファイルを開けて少し眺めてみましたが・・・実際に読んでみて初めて、政府が非公開にした理由がわかりました。この文書は普通の人が読んでも大半の内容を理解できないのではないでしょうか?原発のプラント機器を操作するための専門用語や、アルファベットの略語が全編にわたって、これでもか、と登場するような文書は、プロではないととてもついて行けません。私も一応技術屋なのですが、半分も理解できなかったです。普通の方だと、2ページ位のところで飽きてしまうのではないでしょうか?

この文書を理解できる人は、新聞社にはとてもいないでしょう。スクープネタとして入手したのはよかったが、読んでも中身がわからない。専門家を呼びたいけれど、おいそれと部外者に見せるわけにもいかない。それでも、重役に決められたスクープ発表の日が迫っている。仕方がないので、自分達で理解できる僅かな内容を見つけて、適当に組み合わせて、ニュースにしたのが、この状況なのではないでしょうか。検証委員会とかもういらないよな・・・・

本当は、ここで出てくる何とかというカタカナの名前の機械は、こういう目的で使う装置で、動かすときはどれだけの人員で、どれくらいきつい、面倒な手順が必要で、それでも事故当時は電源がなく、パニック状態で、ふだんよりもどれだけ操作に時間がかかったのか、・・・・・・とかいった内容を、ひとつひとつ理解し、考えながら読み進むことで、当時の現場作業員の心情がしみじみと実感できるのではないでしょか?しかしながら、そんなことが出来る人が、いったいどれだけいるのやら・・・・なんだかとても考えされられます。

さて、自己紹介をさせて頂きます。

私はもうかなり前、2008年になりますが、SNSIから論文集「エコロジーという洗脳」という本が出た際に、そこで日本の原子力開発が抱えている問題についてざっくりと書かせてもらいました。あそこでは、軽水炉型原発にはPWR(加圧水型)とBWR(沸騰水型)の2種類があり、それぞれがアメリカのロックフェラー財閥(WH)とモルガン財閥(GE=ロスチャイルド財閥)の系列に属することと、その当時出版されたばかりの早稲田大学の有馬哲夫氏の著作「原発・正力・CIA」を紹介して、正力がCIAエージェントとして暗躍したことが、日本の原子力開発を歪ませたこと、等を述べました。あれを書いた後で私は、軽水炉や高速増殖炉「もんじゅ」などが抱える技術的な問題について、少しずつ調べて投稿するつもりでした。そうしている間に3.11の大地震と福島原発事故が起こりました。さすがにTVで1号機の水素爆発の様子を見た時には、「これはSFドラマに違いない」と唖然とせざるを得ませんでした。「あんな事故は日本では起こるはずがない」と私は3.11の前には、信じていましたし、起こった直後では「あんな事故があったのにこれだけの被害で済むはずがない」と、皆さんと同じく冷静になれませんでした。

それからニュースや新聞では連日、BWR型軽水炉の構造図、その発電の原理、政府や電力会社等が抱える課題、といった原発に関する情報があふれるようになり、今に至っています。まさかこんなことになるとは・・・・ おかげで私が書こうと思っていた原発に関する技術的問題の多くは、すでに何らかの形で広く知られることになりました。

それでも私の中にはまだ一つだけ、原子力についての割り切れない問題がずっと残っていて、少しずつコメントを書き溜めていました。私と同じ観点からの議論は、ネット上で他の方からぽちぽちとは述べられておりますが、本格的な論考はまだなされていないようです。それが以下の題目です。まだ半分もまとまっていませんが、これから少しずつ紹介する予定です。かなり偏った見方かもしれませんが、様々な資料を参考として、私が事実と思う内容を纏めて行きたいと思います。皆さんの興味を引ければ幸いです。

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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」

はじめに

本論考は戦後の日本の科学者、技術者の間で広く存在した左翼思想が、原子力開発に及ぼした経緯と影響について調査し、まとめたものである。

シンクロニティ(意味のある偶然の一致)というべきか、本論考を書いている2014年5月に、漫画の中の登場人物達が福島を訪れた後に鼻血を出し「原発の放射能の影響だ」と訴える「美味しんぼ」の騒動が、マスコミを賑わせることとなった。ここで私は、「美味しんぼ」で描かれた山岡の鼻血が放射能に由来するかどうかを議論するつもりは毛頭ないのだが、この事件の中心人物である原作者の雁屋哲氏が、原発問題に強くこだわる理由はよく理解できる。雁屋氏の経歴によると1960年前後に東京大学に進み、教養学部基礎科学科で量子力学を専攻したとされている。大学には残らずに電通に就職した雁屋氏であるが、この東大時代に「量子力学を専攻した」という箇所が、今回の事件で実は非常に重要である。雁屋氏の「量子力学を専攻した」という経歴の真の意味については、今の若手評論家は誰も説明できないだろうなと思えるので、私がここで明確化しておく。終戦直後の1945年から60年代の時期において「量子力学を勉強する」ということは、武谷三男、坂田昌一という二人の物理学者の影響を強く受けたということなのである。

武谷三男、坂田昌一は普通の学者ではなく、ノーベル物理学賞を日本で初めて受賞した湯川秀樹の直接の弟子であり、湯川の執筆した一連の「中間子論」に関する論文の共同執筆者に名を連ねる、超一流の理論物理学者である。その一方で武谷と坂田は強固な左翼主義者でもあり、素粒子物理学の理論研究に打ち込む傍らで、左翼思想や共産主義に関する思想・哲学の論説を数多くの雑誌や新聞等に発表した。武谷、坂田の二人は戦後の自然科学者、技術者達に向けて、左翼思想の啓蒙活動を積極的に行うことで、反体制、反原子力開発の今につながる大きな流れを作り出した張本人達といえる。今回の「美味しんぼ」騒動に関するニュースやネットの報道を見ながら、私は地の底に封印されていた武谷、坂田の二人の怨念が、現代に再びよみがえったような印象を感じた。同時に私には、中曽根、正力達により捻じ曲げられた戦後日本の原子力研究を、正しい方向に引き戻すべく奮闘しながらも、その理念を無残に打ち砕かれた菊池正士(きくちせいし)の魂が、無縁仏となって福島:F1(エフイチ)の周辺を彷徨い続けているようにも思えてならない。

そもそも私がこの論考を書こうと考えた最初のきっかけは、さかのぼること2004年頃に、東大名誉教授で応用化学分野の大家である西村肇先生と、副島先生とによる幻の対談「理科系研究者のトップ百人を斬る」の原稿を読ませてもらったことに始まる。この対談は惜しくも未発表のまま10年を経過して今に至っているが、その内容は宇宙ロケット開発、原子力、コンピュータ、半導体、バイオ等の多岐に及んでいた。その中で西村先生は、「日本の原子力開発に携わった技術者の多くは共産党員であり、彼ら左翼系技術者と政府の対立により日本の原子力開発は大きな影響を受けてきたのだ」という驚きの指摘をされていた。私は自分の学生時代に、大阪の熊取市にある京都大学原子炉で実験を行う機会があったのだが、その時に原子炉実験所の職員でありながら原発廃止運動を続けている、数名のけったいな助手の方達がいることを知った。(その中の一人の小出裕章氏は、3.11福島事故後に反原発の論客として一躍脚光を浴びることとなった)他にも企業で原子力開発に従事しつつも組合活動にのめり込み、仕事の傍らで反原発を訴え続ける技術者の話、等を度々聞く機会があった私には、幻の対談の中で西村先生が述べられた、左翼思想と原子力開発に関するコメントがずっと頭の隅に残っていた。

その後の2008年には、益川敏英、小林誠、南部陽一郎の日本人物理学者3人がノーベル物理学賞を同時受賞するニュースがあった。私は理論物理には詳しくなかったため、受賞理由について当時はよく理解できなかったが、TVのニュース報道は大変興味深い物だった。受賞者の一人の益川氏はインタビューの際に、「(受賞については)大してうれしくない」「純粋な学問の追求こそが目的であり、賞を得ることが目的ではない」等の、ひねくれた趣旨の発言を連発し、スウェーデンでの授賞式でも「私は英語が得意ではない」と公言し、招待講演は日本語で押し通した。私はこれらの一連のニュースを見ながら「ああ、典型的な左翼物理学者がここにいるな」と直感で理解した。それ以前の2002年に田中耕一氏がノーベル化学賞を受賞した際も、「英語が得意ではない」とのコメントがあったが、授賞式の講演で田中氏は不得意ながらも英語でプレゼンを行っている。私は同じ変人とはいっても、益川氏の不遜な態度は田中氏の謙虚な物腰とは全く異なると感じた。益川氏の長い人生経験を重ねて来た大人(老人)が、周囲から見られる様子を全く気にせず不遜な態度を貫く姿勢は、反体制を生き甲斐とする左翼主義者によく見られるパターンだと私は思った。京大原子炉の小出裕章氏の振舞いも益川氏と全く同じように私には見える。

益川氏は名古屋大学の理学部出身であり、坂田昌一の研究室に所属していたという。先に述べた通りに、坂田はあの湯川秀樹が中間子理論を構築する際の共同研究者であり、戦後日本の素粒子物理学を構築した碩学である一方で、強固な共産主義者としても知られている。湯川秀樹、朝永振一郎のノーベル賞の栄光の影であまり広くは語られないが、西村先生が指摘されたように、終戦直後の日本の物理学者の多くは共産党員かそのシンパであったことは事実である。彼ら物理学者に代表される自然科学系左翼主義者達の活動とその変節が、戦後日本の学術方針や技術の発展に大きな影響を与えていると私は考えている。もちろん日本の原子力技術の勃興と3.11福島事故に至る過程に関しても然りである。

3.11福島原発事故以来、マスコミでは「原子力ムラ」の存在とその害悪について盛んな報道や攻撃がなされている。しかし、現在の原子力ムラが形成されるに至った背景にある、終戦後の原子核物理学者や技術者の間に存在した左翼思想家達と体制側との激烈な対立に目を当てないと、福島事故が起こった理由を十分には理解できないと私は思う。本稿で私は、戦後の原子力開発に携わった研究者の政治思想の側面に着目して、福島原発事故に至る過程を纏めてみた。最初に本論考の結論を言ってしまうと、福島原発事の責任は国(政治家、官僚)や財界、企業(東電、メーカ等)にあることは当然ではあるが、少なくとも3割、場合によっては責任の5割は、左翼系の反原発技術者や活動家にもあると私は考えている。なぜ左翼技術者に3~5割の責任があるのかについては、本論考を最後までご覧頂ければ理解して頂けると私は思っている。

第1章 素粒子論グループの栄光とその影
日本の科学技術の歴史を語る際には、素粒子物理学の画期的な成果によりノーベル賞を受賞した、湯川秀樹と朝永振一郎の二人の学者を外す訳にはいかない。彼らの偉大な業績と栄光については、これまで多くの事が語り継がれている。その一方で、湯川、朝永の共同研究者の中に強固な左翼主義者達が存在したこと、そして、彼らの啓蒙活動により戦後に多くの反原子力を唱える科学者達が育っていったことは、今では公然の秘密とされており、ボソボソと断片的にしか語られていない。私が記す内容のほとんどは、他の文献で容易に確認できるものであるが、日本の自然科学者の系譜を左翼思想の観点から纏めた論考は、これまで無いと思う。

1.1 量子力学の成立過程について
私自身はあまり気が進まないが、本論考で取り上げる一連の物理学者たちの生き様を語るには、彼らの携わった素粒子物理学に関する、基礎知識の説明が不可欠であるように思う。ここでは最初に素粒子物理学の基礎となる量子力学が、20世紀初頭のヨーロッパにおいて成立するまでの経緯を、ごくごく簡単にまとめる。但し私の説明は非常に雑な内容であるため、正確に理解されたい方は他の多くの優れた参考書や解説書を併せてご覧頂きたい。

近代物理学は、17世紀後半におけるニュートンの力学3法則の提案からその急速な発展が始まるが、様々な試行錯誤の後に19世紀末にイギリスのJ.C.マックスウェルにより電磁気学の基本方程式4つが提示されたことで、物理学の体系は完成したとみなされた。ニュートンの運動方程式とマックスウェルの電磁場方程式を組み合わせることで、自然現象の全てが理論的に記述されると考えられたのである。しかしマックスウェル方程式の提案から程なくして、これらの理論では説明できない不可解な現象(黒体輻射、光電効果等)が報告されるようになり、早くも理論の修正が要求される事態となった。これに対して、ドイツのM.プランクとE.アインシュタインの二人の物理学者は、光(及び電磁波)は波としての性質以外に粒子の性質を備えるという説を提唱した。彼らの考えは、振動数ν(=1/λ,λ:波長)で進む光や電磁波の持つエネルギーEをどこまでも小さく分けてゆくと、ごくごく小さなプランク定数h(=6.626069×10-34 Js、Jはエネルギーの単位ジュール、sは時間sec:秒)と、νを掛けたE=hνという最小単位の足し合わせで、エネルギーは構成されるというものである。この学説によると、光はhνという極微小なエネルギーを有する粒子(光量子)として振舞うことを意味しており、旧来の物理モデルでは予想し得ない不可思議な考えであった。

同じ時代にフランスにルイ・ド・ブロイという物理に詳しい一人の貴族がいた。1923年にド・ブロイはプランクとアインシュタインの学説を更に進めて、電子や陽子等の質量mを有する微細粒子(素粒子)も波の性質を有する、という論文を提出した。ド・ブロイの考えは実は非常にシンプルなもので、物質粒子は前述の関係式E=hνに加えてp=h/λ(p:粒子の運動量[速度:v×質量:mで表される量]、λ:波長)の関係式をも満たす物質波として振舞う事が出来る、という内容である。中身は実質これだけで、中学生にでも理解できそうな数式による論文なのであるが、この論文によりド・ブロイは1930年にノーベル物理学賞を受賞してしまうのである。こんな簡単な数式でノーベル賞が取れるのならば、もしかしてオレも・・・・と、誰もが一度は考えるのだが、こんな話が許されるのはこの時だけであり、柳の下にドジョウは最早いなかった。

さて、ド・ブロイが提示した「物質と波は同じ性質を持つのだ」という考えは、流石にノーベル賞に値するだけのことはあり、当時としてはあまりにも常識外れのためほとんどの学者は懐疑的というか、付いて行けない状況であった。しかし物質が波のように振る舞うのであれば、物質波を描写する数式:波動方程式を見出すことで、全ての物質を構成する原子の挙動を記述する、新たな統一理論が構築できると考えた学者も、少数ではあるがいた。その一人の当時スイスのチューリッヒ大学に所属していたE.シュレーディンガーは、ド・ブロイの物質波を記述する数式を追求して、1926年に遂にその回答を見出した。

シュレーディンガーの考えを以下に簡単に纏める。マックスウェルの電磁場の理論と同じく波の方程式は時間t、位置xを変数とする偏微分方程式で記述される。シュレーディンガーはまず、ニュートン力学の基本法則のひとつであるエネルギー保存則:E=1/2m・p2+V を考えた(E:全エネルギー、V:ポテンシャルエネルギー)。次いでこのエネルギー保存則の式に、微分演算子:ih/∂t, -ih/∂x というものを導入し、E→ih/∂t, p→-ih/∂x という置き換えを行う。最後にこの式に波動関数Ψ(tとxの関数)を右から掛ける。こうして作られたのが、物理学の革命を引き起こすシュレーディンガー方程式である。なぜこのような式の変換を行うと上手くいくのかは、凡人の私には到底理解できないが、シュレーディンガーも試行錯誤を重ねた挙句、知合いの数学の大家のワイルに相談する等して、なんとかこの式を導いたらしい。

(以下続きます)

田中三郎 投稿日:2014/09/11 17:48

【1364】[1655]従軍慰安婦

いつも、学問道場の会員として、お世話になっています。
さて、私の考えの中に、副島先生の先生である小室直樹の言うことは信頼できるという考えと、週刊誌、や新聞を読んでいると、どうも中国や韓国に言われるのは心外だという思いになっていきました。それで。重たい掲示板にのせました。わたしの疑問に対して、先生の示してくれた「従軍慰安婦」吉見氏著の本を読み、また「慰安婦問題討論」秦郁彦と吉見義明http://d.hatena.ne.jp/dj19/20130703/p1
をみて、やはり、日本の責任は免れないことであると思うようになりました。
大変お騒がせしてすみません。
それでも、日本だけが国際社会から非難をされているのは、少し疑問が残ります。というのはアメリカ、イギリスや先進国とされた列強国は、非人道的な行為をしているのに、なぜ日本だけが非難されなければならないのか?とおもいます。
私が火付け役になったのですけれど、9.25「副島孝彦ケンカ道場」は申し訳ないけれど出席できません。

須藤よしなお 投稿日:2014/09/09 03:59

【1363】[1654]秦郁彦(はたいくひこ)氏による慰安婦問題の資料と見解

参考資料:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦・著、新潮社・刊、1999年)

●Wikipedia「日本の慰安婦」内、『仲介業者による中間搾取や不払い』

(引用ここから:Wikipedia「日本の慰安婦」)

『仲介業者による中間搾取や不払い』

秦郁彦も業者が慰安婦に支払わなかったことや楼主の不払いについて指摘している。

(引用ここまで:Wikipedia「日本の慰安婦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本の慰安婦#cite_ref-hata1999-p394_107-1

(引用ここから:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.394)

悪質な業者のなかには、何かと名目をつけて彼女たちの稼ぎ高を強制貯蓄させ、払わなかった例もあったようだ。

東部満州の東寧に勤務した元兵士の杉田康一は1938年、4円弱の月給から貯めた1円50銭を持って慰安所へ通った経験を語り、なじみになった朝鮮人慰安婦から「一銭ももらっていません。全部親方が取り上げてしまいます」と聞いた話を回想する。

楼主の不払いは意外に多かったとも思われるが、それもまた終戦で紙屑になってしまったことであろう。

(引用ここまで:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.394)

●Wikipedia「慰安婦」内、『20世紀最大の人道問題』

(引用ここから:Wikipedia「慰安婦」)

『遊郭業者・女衒の手口』

維新政府の娼妓解放令の後も「娼妓達が悲惨な籠の鳥であるという実態は変わらず」、悪徳業者にかかると借金の泥沼から抜け出す事ができず、「まさに前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題(廊清会の内相あての陳情書)に違いない」と秦郁彦は書いている。

(引用ここまで:Wikipedia「慰安婦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦
http://ja.wikipedia.org/wiki/慰安婦

(引用ここから:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.36-p.38)

一見すると、通例の貸借契約書とあまり違いはなさそうで、どこにも売春を強制したり、拘束期問(年季)を示す文言はない。
<中略>
むしろ問題の核心は債務弁済と、それまでの住みこみを規定した第3項にあったといえよう。

悪徳業者にかかると、女の稼ぎから割高の衣食住経費を差し引くので、前借金はなかなか減らず、強欲な親が「追借」を求めたりすると、雪ダルマ式にふえる例も珍しくなかった。

宮尾登美子の小説『寒椿』に登場する貞子(1924年生れ)の場合は9歳のとき、200円で仕込っ子として売られ、小学校卒と同時に妓楼生活に入るが、養母の追借で6年の間に8回住み替えるたびに前借金は1800円から5500円(いずれも年季は5年)まで膨れあがり、終戦を満州の牡丹江で迎えている。

まさに「前借金の名の下に人身売買、奴隷制度、外出の自由、廃業の自由すらない20世紀最大の人道問題」(廓清会の内相あて陳情書)にちがいなかった。

(引用ここまで:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.36-p.38)

●Wikipedia「秦郁彦」内、『フィリピン人女性を慰安婦として徴用した問題』

(引用ここから:Wikipedia「秦郁彦」)

(※引用者補足:「秦郁彦は」)オランダ人女性を慰安婦として徴用した白馬事件や、フィリピン人女性を慰安婦として徴用した問題などについてはこれを認めている。

(引用ここまで:Wikipedia「秦郁彦」)
※参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦

(引用はじめ:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.194-p.197)

(※引用者補足:「フィリピンの元慰安婦(性被害者)の一人である」)ヘンソンは慰安婦たちのリーダー的存在で、アジア女性基金には反対していたが、その後気持が変り96年8月、第1号として200万円の「償い金」を受けとっている。彼女は女子修道会が経営する私立小学校を卒業する直前に戦争となり、学業を中断したが、英文で回想録の原稿を執筆できるかなり高い知的能力の持主である。

誕生日も知らない慰安婦が多いなかでは、例外的存在と言える。

記述も筋道が通っていて、裏付けや傍証が可能に見えるが、彼女を9か月監禁した部隊名や隊長名がないのは惜しまれる。人名で1人だけ出てくるのはタナカ大尉だがフルネームではなく、ありふれた姓なので特定が難かしい。戦中は抗日で戦後は反政府闘争に転じた共産ゲリラのフク団と、彼女との関わり方もやや不透明である。
<中略>
ヘンソンが捕まったり、奪還されたのはこうした時期であるが、対応する日本軍の記録は見当らない。タルラック憲兵分隊にいた北崎茂三少尉は、神出鬼没のゲリラとの戦いで兵士たちの気持は荒れていたから申立てのような状況は、ありえたろうと語る。

タナカ大尉なる人物は三十三連隊の編制表にはいないが、前記の情報記録綴の44年1月20日には「田中少尉以下がカバナツアン南方で交戦、遺棄死体三、俘虜一〇」の記録が見える。

いずれにせよ、第十六師団は44年5月マニラヘ移動したのちレイテ島へ渡り、同年秋、米軍の大挙来攻を迎え全滅した。生存者は皆無に近い。

ヘンソンを含む21人の元慰安婦の証言を見ると、彼女たちの身の上話は、ヘンソンと大同小異で、横田雄一弁護士の解説では他地域に比べて「被害者と軍とのあいだに民間業者などが介在する余地はまったくなかった。軍の移動中における偶然の遭遇、計画的と思われる女性の自宅への襲撃、作戦行動中の強制連行など、軍の末端組織が・・・有無をいわせず暴力的に女性を(駐屯地へ)拉致」しているのが特徴とされる。

事実、21人の身の上話で、慰安所暮しをしていた女性は一人しかいない。それも拉致されたあとと申し立てている。
<中略>

米軍が再侵攻してくる44年秋までのフィリピン体験を生々しく回想している手記に、高宮亭二『ルソンに消ゆ』(白馬出版、1975)がある。

高宮は京大を卒業して拓務省官吏に就職した直後に召集され、主計将校として43年初めフィリピンヘ赴任した。この頃の占領地風景を、彼は「安きに慣れた派遣軍は、一体何をしていたか。軍司令官黒田中将は、ハンチングスタイルで部隊を巡視し、将兵は紅灯の巷で女とたわむれ、平和の村で恋をささやき、酒色に溺れて――」と記す。

高宮自身もマニラの慰安所に友人から借金してまで通いつめたあとセブ島に赴任、ゲリラ討伐戦に明け暮れたが、合間に慰安婦集めをやらされた。「進んで応募する者もいたが、かたぎの女性を間違えて連行し、後で返すという失敗」もあったという。
<中略>

44年秋から約一年、フィリピン全土は戦火の嵐に席巻された。送りこまれた日本軍60万のうち50万人が戦死し、百万人前後の現地住民が死んだとされる惨烈な戦場で、何が起きたとしても否定のしようがない。

彼女たちの申し立ての多くは事実を反映していると想像するが、逆に傍証のために死者たちを呼び戻す法もない。そうだとすれば、アジア女性基金のような民間べースの救済がもっともふさわしいし、実際に受け取り意志を最初に表明したのも、この国の女性たちであった。
<中略>

彼女たちが概しておおらかで、またカトリックの影響からか、日本人を許すと寛大な気持の人が多いと指摘する人もあり、いささか救われる思いだが、ヘンソンは著書のなかで、「大儲けしようって魂胆ね」とののしられた経験も書いている。

(引用おわり:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.194-p.197)

●『白馬(しろうま)事件』、『南ボルネオの強制売春事件』

(引用はじめ:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.216-p.221)

『オランダ――蘭人抑留女性の受難』

オランダ政府の報告書によると、戦時下のジャワを中心とする蘭印(インドネシア)では、15万人を超えるオランダ人が日本軍の管理する捕虜収容所および民間人抑留所に収容され、うち2万人が女性であった。
<中略>
戦局の悪化により、日本の陸軍省は「軍抑留者取扱規定」(1943年11月7日陸亜密第7391号)を出先各軍に通達し、オランダ人をふくむ敵国人の全員を、捕虜収容所に併設された軍抑留所に移すよう指示した(蘭イ混血のユーラシアンは原則として対象外)。

その結果、指定居住区域に住んでいたオランダ人女性は、売春婦もふくめ軍抑留所へ入ることになるが、給養条件は悪く不満が高まっていた。

こうした状況に目をつけたのが、軍の担当者と慰安所の業者で、好待遇を約束すれば相当数の慰安婦が集まるだろうと見当をつけたようだ。この種の勧誘や説得は表6-5が示唆するように早い段階から始まっていたが、強制性がどこまで働らいたかは微妙なところである。

抑留所を管理していた第十六軍軍政監部(44年に入ると軍直轄へ移行)は、強制しないこと、自由意思で応募したことを証する本人のサイン付き同意書を取るよう指示していたが、なかには違反する出先部隊もあった。

のちに「白馬(しろうま)事件」と呼ばれたスマラン慰安所の強制売春事件は、女性たちの告発により戦後のBC級法廷で裁かれ、死刑をふくむ十数人の有罪者を出す。

被害者の一人だったジャンヌ・オフェルネが体験を公表したのは1992年のことで、94年1月にはエリー・プローグが一般抑留者7名とともに東京地裁へ補償を求めて提訴する。

ここではオフェルネとプローグの告白を、92年12月来日時の証言と豪州テレビの番組(NHKが96年8月16日放映)などから要約紹介しよう。

(※引用者注:証言ここから)

  ジャンヌ・オフェルネの証言

1923年、オランダ人砂糖黍農園主の娘としてジャワのスマランに生れる。1942年、19歳のとき、母・妹とともにアンバラワ抑留所に入った。

44年2月のある日、日本の軍人たちがトラックで来て、17歳以上の独身女性が整列させられ、検分して16人の少女が残された。悲鳴や泣き声のなかを連行され、売春宿に入れられた。

次の日に日本人から慰安婦の仕事をやるよう命じられ、3月1日に開館すると、将校たちがやってきた。食堂のテーブルの下へ逃げこんだが、引きずり出され、抵抗したが軍刀でおどされ強姦された。

あちこちの部屋で泣き叫ぶ声、それから連日のように暴行がつづいた。髪の毛を切って丸坊主にしてみたが効果はなかった。検診する軍医からもレイプされた。3か月後に解放され、列車でボゴールの抑留所へ移り、家族と再会した。戦後、オランダヘ帰って理解のある夫と結婚、オーストラリアヘ移住。2人の娘がいる。

日本人がやったことを今は許しているが、忘れることはない。

  エリー・プローグの証言

1923年オランダに生れ、父母とともに東部ジャワヘ移住、母、姉弟とともにスマランのハルマヘラ抑留所へ入った。

44年2月、15~35歳の女性たちが集められ、5~7人の日本軍入の前を歩かされ、3日目に私をふくむ15人が選び出された。バスで慰安所に着いて、はじめて「日本兵に喜びを与えるのだ」と知らされ、逃げると家族に危害が加わるとおどされた。

2月26日クラブがオープンし、軍人たちは写真で好きな女を決め、切符を買って私たちに性サービスをさせた。カネはもらっていない。3か月後に解放される。戦後に結婚したが離婚。

(※引用者注:証言ここまで)

1948年3月24日、オランダ軍事法廷は、「考え得る最も悪質な」犯罪と判決、当事者である南方軍幹部候補生隊の岡田少佐を死刑、能崎中将(隊長)に懲役12年、池田大佐に同15年など11人に2年~20年の有期刑を科した。そのなかには4か所の慰安所を経営する4人の日本人業者がふくまれていた。

BC級裁判の法廷は慰安婦にされた35人のうち、25名が強制だったと認定している。1994年のオランダ政府報告書も、蘭印各地の慰安所で働らいた200~300人の白人女性のうち少くも65人を強制売春の犠牲者と判定した。

怒りの感情とは離れ、事実関係を冷静に見究めようとするオランダ官憲の公正な手法に感銘する。

残りは自発的志願者ともとれるが、吉見義明教授は「強制の認定やそのもととなる強制の定義が狭すぎるのではないか……視角の狭さを感じる」とオランダ政府報告書への解説のなかで苦言を呈している。
<中略>

いずれにせよ、スマランの慰安所は長くても2か月しか営業していない。ジャカルタの第十六軍司令部から閉鎖命令が届いたからである。

オランダ政府の報告書は、娘を取られた抑留所の親が、視察に来た陸軍省の大佐に直訴したためとしている。

だが軍政監部本部に勤務していた鈴木博史大尉は「慰安所でひどい悲鳴が聞こえるとの話を聞きこみ、山本軍政監(第十六軍参謀長の兼任)へ伝えると、山本は“まずい、すぐ止めさせろ”と怒り、翌日に閉鎖命令が出た……のちに彼女たちを集め申し訳のないことだったと謝罪した」と記憶している。

私は、この鈴木証言の方が正しいのではないかと想像する。
<中略>
オランダ政府が当時も今も関心を払うのは被害者がオランダ人女性だった場合に限られるようだ。
唯一の例外は、海軍の占領統治下にあった南ボルネオの強制売春事件である。

一千人以上の現地住民を抗日分子として大量処刑したポンチャナク事件(1944年初期)の副産物として明るみに出たもので、主として日本人の現地妻となっていたインドネシア女性を強制的に慰安婦としたかどで、13人の海軍特警隊員らが有罪(うち三人は死刑)となった。

(引用おわり:『慰安婦と戦場の性』(秦郁彦、新潮社、1999年)p.216-p.221)

●秦郁彦氏のコメント

(引用はじめ:Wikipedia「秦郁彦」)

2007年3月5日、首相の安倍晋三が参議院予算委員会において「狭義の意味においての強制性について言えば、これはそれを裏付ける証言はなかったということを昨年の国会で申し上げたところでございます。」と答弁した。秦はこの答弁について、「現実には募集の段階から強制した例も僅かながらありますから、安倍総理の言葉は必ずしも正確な表現とはいえません。「狭義の強制は、きわめて少なかった」とでも言えば良かったのかもしれませんが、なまじ余計な知識があるから、結果的に舌足らずの表現になってしまったのかもしれません(苦笑)。」とコメントしている。

※典拠:『諸君!』2007年7月号 秦郁彦、大沼保昭、荒井信一「激論 「従軍慰安婦」置き去りにされた真実」

(引用おわり:Wikipedia「秦郁彦」)
http://ja.wikipedia.org/wiki/秦郁彦

●ウェブページ「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1

(引用はじめ:「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」から)
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1

慰安婦は「自発的に応募した」「自由意志だった」「強制ではない」、さらには軍や警察は「違法な業者を厳しく取り締まっていた」等々、慰安婦問題を否定する人々によって熱心に宣伝されているデマがありますが、そうした人々が無視している資料に、元日本軍将兵・軍属が手記や証言のなかで慰安婦に言及している口述資料というものがいくつも存在します。

それら口述資料を用いて個々の事例を考察していきます。

<中略>

最初に紹介する証言は、秦郁彦氏が著書『慰安婦と戦場の性』のなかで「信頼性が高いと判断してえらんだ」もののひとつです。

■第五十九師団(済南駐屯)の伍長・榎本正代の証言

場所:中国中部の山東省

(引用はじめ:秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)

1941年のある日、国防婦人会による<大陸慰問団>という日本人女性200人がやってきた……(慰問品を届け)カッポウ着姿も軽やかに、部隊の炊事手伝いなどをして帰るのだといわれたが……皇軍相手の売春婦にさせられた。“目的はちがったけど、こんなに遠くに来てしまったからには仕方ないわ”が彼女らのよくこぼすグチであった。将校クラブにも、九州の女学校を出たばかりで、事務員の募集に応じたら慰安婦にさせられたと泣く女性がいた。

(引用おわり:秦郁彦『慰安婦と戦場の性』新潮社,1999年,p.382)

(引用おわり:「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」から)
http://d.hatena.ne.jp/dj19/20121213/p1