重たい掲示板

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庄司 豊明 投稿日:2014/10/20 08:31

【1391】[1696]例大祭の閣僚の靖国参拝

高市早苗と山谷えり子が秋の例大祭に便乗して靖国参拝をしました。
特に高市早苗は国家社会主義日本労働者党(日本のネオナチ)党首と写真に写っていて世界からも問題視されています。
また、首相、閣僚の靖国参拝をやめるように文書を提出した一般財団法人全日本仏教会のことを知っているのかといいたいです。
なぜなら、彼女は略称全仏の会員でもあるからです。
ただ単に国会議員になりたいだけのために票欲しさだけのために会員なっているとしか思えません。
靖国参拝までしたことをマスコミに対して堂々とコメントをするなら、全仏の会員であるべきことが節操がないと思います。
会員番号7791

田中進二郎 投稿日:2014/10/18 10:11

【1390】[1695]魏源 『海国図志』 が幕末日本の思想家を動かした(2回目)

魏源 の『海国図誌』が幕末日本の思想家を動かした-その2
田中進二郎

●幕末の志士・吉田松陰は魏源の『海国図志』を誰よりも早くに読んでいた

前回は、私は、ここに 魏源(ぎげん)や林則徐ら清末知識人が、イギリスを始めとするヨーロッパ列強の侵略に対して、世界情勢の知識を紹介して、清朝の改革を訴えていたことを書いた。
(重たい掲示板 「1678」番 10/5付)

 彼らの著述は、清朝の中国人知識人たちよりも、幕末の日本人によってむさぼるように読まれたという。このことは重要なことであった。1843年に、魏源の『海国図志(かいこくずし)』が清国の揚州(南京の近くの都市)で出版されると、その翌年にはもう長崎に貿易船で運ばれてきていた、という。

 1850年には、三部が長崎にあったという。しかし幕府は『海国図志』(60巻)の内容に、キリスト教の内容が含まれていることから、禁教であるのために、この本を日本で刊行することを禁じた。こうして、最初に輸入されたものは、幕府が没収するところとなった。

 ところが、このうちの一部を平戸藩家老・葉山佐内(はやま さない、1796~1864)が入手したのである。
葉山佐内は陽明学者・佐藤一斎(1822~1859)の門下生で、指折りの逸材といわれた。佐藤一斎の弟子の数は三千人いたといわれた。佐藤一斎は幕府の学問所である昌平黌(しょうへいこう)の教授として昌平黌を統括する立場にいた。幕府は官学として朱子学を学ばせたので、佐藤も表向きは朱子学を標榜(ひょうぼう)した。が、王陽明(おうようめい)の思想を信奉した。だから、『陽朱陰王(ようしゅいんおう)』といわれた。

 昼間は幕府の昌平黌(今の東京ののお茶の水の東京医科歯科大のある所)で、朱子学を講じて、「本邦(我が国)は、徳川家のご恩顧で太平の世が続き・・」と教えた。ところが、夜になると、自分の私塾で、顔つきが変わったようになって、目を輝かせて陽明学を教えたのだ。 

 彼の門下生に、渡辺崋山、安積艮斎(あさか ごんさい 後述)、佐久間象山、横井小楠(よこいしょうなん)らがいる。だから幕末の偉人たちの先生の先生にあたるのが、佐藤一斎である。西郷隆盛も佐藤一斎の主著の『言志四録(げんししろく)』を繰り返し読み、精神を鍛えたといわれている。西南戦争の最後で、鹿児島の城山で死ぬときまで、西郷はこの書を肌身離さず持っていたという。

 佐藤一斎の門下生たちは、非常に知識欲が強かった。だから、清(しん)国から最新の漢籍が届くと、その情報はひそかにただちに共有されたのであろう。
 葉山佐内は平戸藩の家老職にあって、魏源(ぎげん)をはじめとする漢籍を蔵していた。吉田松陰に、直接か間接にかこの情報はもたらされた、と考えられる。吉田松陰は長州藩の許しを得て、平戸に遊学した。嘉永三年(1850年)8月末のことである。松陰は下関で、同じ長州藩士の伊藤静斎(いとうせいさい)から葉山佐内への紹介状をもらっている。伊藤静斎は長府(ちょうふ)藩(下関の南の支藩)の本陣(宿場町で一番格式のある宿舎)の家柄であった。後に、坂本竜馬も下関滞在では、お龍(りょう)とともにここを常宿としていたという。

 吉田松陰はここから船で長崎に行ったあと、平戸まで徒歩で行った。悪路でへとへとになったらしい。9月14日に平戸に到着すると、その日のうちに葉山佐内の屋敷を訪れている。自分の吉田家の家学である山鹿流軍学の宗家・山鹿万介(やまがまんじょう)が平戸にいたが、そこを訪れるのは、一週間もあとになってからだ。
魏源の著作を一刻も早く読みたい、という松陰の思いがここから伝わってくる。

このときの吉田松陰の遊学の記録が『西遊(さいゆう)日記』に記されている。以下引用する。

(引用開始)

(嘉永三年 1850年)
九月十四日
・・・葉山佐内先生宅に至り拝謁し、その命に因って、紙屋という(ところ)に宿す。(王陽明の)『伝習録(でんしゅうろく)』を借りて帰り、その著(あらわ)すところの(葉山が著した)『辺備摘案(へんびてきあん)』を借り、摘案を夜間に謄写(とうしゃ)す。この夜雨ふる。

九月十五日
・・・午後、葉山(邸)に至る。野元弁左衛門(のもとべんざえもん)もまた至る。談話夜に入る。(魏源の)
『聖武記附録(せいぶきふろく)』四冊借りて帰る。

九月十六日
・・・申時(さるのとき、午後2時)、野元(邸)に至る。又葉山(邸)に至り『聖武記附録』を読む。
老師(葉山が)中に記す。「古にならえばすなわち今に通ぜず、雅を択べばすなわち俗にかなわず。」の語に至り、嘆賞(たんしょう)して欄外に標す(書き込みをなさったようだ)。他日の考索(こうさく)に易(やす)からしむ。老師陽明学を好み、深く(佐藤)一斎先生を尊信し、言(げん)(が)一斎のことに及べば、必ずその傍らに在るか(の)如し。実に敦篤謙遜(かくあつけんそん)の君子なり。

-『吉田松陰全集 第七巻「西遊日記」岩波書店刊』p107から引用 ( )内は筆者が加えた。

(引用終わり)

田中進二郎です。このように葉山佐内は、その時わずか19歳(数え年21歳)の吉田松陰を暖かく迎え入れ、かれの学問を大いに支えたのである。吉田松陰は幼少時から、叔父の玉木文之進(たまきぶんのしん)のスパルタ教育を受けて育てられていたから、葉山佐内の人柄に接して、人間的にも成長した部分があった。

 吉田松陰は五十日に及ぶ平戸遊学の間に、魏源の『聖武記附録』以外にも、『皇朝経世文編(こうちょうけいせいぶんへん)』(1826年刊 魏源著)を読んだ、と記録している。しかし、『海国図志』を読んだ、とは松陰は『西遊日記』の中に記さなかった。当たり前である。この書物は禁書だったのだから。しかし、葉山佐内は松陰の人物を見込んで、特別に閲覧を許可したであろう。松陰は、葉山に懇願し、葉山は、「それでは、このことは他言をしてはならぬぞ」と言って、『海国図志』を松陰に貸し出した、と考えられる。

 この年、幕府の頑迷な鎖国のやり方に公然と反論した蘭学者・高野長英(たかのちょうえい、1804~1850)は、松陰が平戸遊学をした1850年の翌月の10月に、江戸で幕府の捕吏に発見されて捕縛され、殺されている、そういう緊迫した時世だった。

 だが、多くの歴史家は、「史料に書かれていることがすべて」と考えるので、このことに踏み込まない。松蔭の『西遊日記』に明記されていないから、この時、『海国図志』を松蔭が読んだことを史実と考えない。それが、今の幕末史の歴史家の多くの姿勢である。

 これに対して、陳舜臣(ちん しゅんしん 作家、 ー )は、歴史小説『実録 アヘン戦争』(  刊)も書いた大家だからわかっている。次のように言っている。引用する。

(引用開始)

 『海国図志』が出たのは1843年ですが、その翌年にはもう長崎に入ってきています。幕府の老中が『聖武記』と『海国図志』を注文しています。偉い人がいたんですね。(筆者注:阿部正弘=あべまさひろ=のことだと思われる。1843年閏9月に 老中の座に就いている) 個人でも、平戸の家老の葉山佐内という人が注文しています。このことはみんなよく知っているわけです。『海国図志』を平戸の葉山さんが入れたぞ、というので吉田松陰が平戸まで行って読んでいるんですね。

 たまたま林則徐(りんそくじょ)という偉い人がいて、その人が非常に強い危機感を持って、自分が左遷される前に一番信頼していた魏源(ぎげん)に、それまで集めた資料を預けた。その人が徹夜を重ねて書いた本が、もちろん中国語で書いたんですが、すぐ翌年に入っている。日本に入ったばかりではない。日本で復刻されるんですね。まあ、海賊版ですが、何軒もの本屋がやってるわけですね。ですから、これをたくさんの人が読んだわけです。間違いがかなりあるわけですけれども、情報に対する熱意は日本では非常に高かった。

 引用元:陳舜臣『中国の歴史と情報』-日本記者クラブ第26回通常総会記念講演(1985年5月20日)PDF
http://www.jnpc.or.jp

(引用おわり)

田中進二郎です。付記すると、吉田松陰は安政元年(1854年)の11月以降の日記である、『野山獄(のやまごく)読書日記』に、魏源の『海国図志』を読んでいることを数回、書いている。この年には、幕府の重臣の川路聖○(ごんべんに莫の字、 かわじとしあきら)が、この本を江戸に持ち帰って蘭学者の箕作阮甫(みつくりげんぽ )らに命じて、翻訳と出版を開始させている。松陰が萩の野山獄で入手して読み直したのはこの版であろう。

だが、『野山獄読書日記』は、松陰が中間(ちゅうげん)の金子重輔(かねこじゅうすけ)と伊豆の下田で、アメリカに1854年密航を企てて失敗して、長州藩に犯罪者の籠(かご)で送り返されて、投獄されたときの記録である。

 だから野山獄に入れられたあと、松陰が『海国図志』をはじめて読んだとすると、アメリカに決死の覚悟で渡ろうとした、彼の動機がどこからでてきたのか説明しきれない。だからやはり、1850年9月の平戸遊学のときに松蔭はすでに読んでいたと考えるべきだ。

●幕末の陽明学者たちは、開国思想を抱いていた

田中進二郎です。このように、『海国図志』は幕府の禁制をかいくぐって、陽明学者のネットワークの中でひそかに熱烈に読まれていたのである。
 松陰はこの平戸遊学の後、長崎に行き、オランダ船に試乗している。ここで肥後(ひご)勤皇党の宮部鼎蔵(みやべ ていぞう)と出会っている。そしていったん長州の萩に帰ったあと、翌年(1851年)に江戸に出た。4月江戸に到着すると、そのまま安積艮斎(あさか ごんさい 1791~1861)の門をたたいた。安積艮斎が佐藤一斎を師としたことは、最初に書いた。艮斎は、当然、一斎の「陽朱陰王(ようしゅいんおう)」の姿勢も引き継いでいた。

(幕末の儒学者と陽明学者たちについては、副島隆彦先生の『時代を見通す力-歴史に学ぶ知恵』(PHP研究所、2008年刊)を改題した『日本の歴史を貫く柱』(PHP文庫刊、2014年)をごらんください。)

 1848年(嘉永元年)には艮斎は漢文で『洋外紀略』(ようがいきりゃく)を著して、世界の地誌、世界史、そして開国して貿易することの利を説いた。アヘン戦争の顛末(てんまつ)についての記述などが、読者に大きな衝撃を与えた。出版はされなかったが、写本がたくさん出回って艮斎の知名度は高かった。彼は、蛮社の獄(1839年)で弾圧された蘭学者たちの集まりである「尚歯会」(しょうしかい)にも加わっていた。彼の門人の川路聖謨(かわじとしあきら)も同じだ。

 陽明学者たちは蘭学者たちから西洋の科学や思想を吸収していたのである。もともと陽明学を学んでいる人間たちのネットワークのなかに蘭学がどんどん流入している。彼らは、漢籍(中国文)を読む力があったから、清国から長崎に輸入されてくる書物を読んだ。そして、アヘン戦争後のイギリス、アメリカ、フランス、ロシア、プロシャなどの列強の進出に対して、開国の政策を研究していたのである。これはペリーの黒船来航よりも前のことである。

 安積艮斎は1850年に昌平黌(昌平坂学問所)の教授となった。師の佐藤一斎とともに幕府の教育機関のトップで教えつづけた。 今で言えば、東大教授であり東大総長の地位に彼らはいた。ところが、佐藤一斎は、大塩平八郎の乱のとき(1837年)、同じ陽明学者である大塩から「共に立ち上がれ」という檄文(げきぶん)を受け取っている。佐藤一斎は感動した。感動したが、呼応しなかった。後進を育てることをより重視したためだろう。安積艮斎も教育に力を尽くしていた。私塾「見山楼」(けんざんろう)でも教え続けたから掛け持ちで激務だった。

 彼は門人たちの長所をとにかく褒(ほ)めた。長所がなければ、その人が持っている筆(ふで)や硯(すずり)をほめた、という。「長所をみつけてそれを伸ばす」という教育方針からは、タイプの違った人間が生まれた。
小栗忠順(おぐりただまさ、江戸幕府最後の勘定奉行 上州権田村=ごんだむら=に所領。赤城山の埋蔵金の話で有名)、川路聖謨(幕府の勘定奉行、外国奉行などを歴任)、清河八郎(きよかわはちろう、新撰組の前身・浪士組を結成した)、岩崎弥太郎(三菱の祖)、高杉晋作・・・など2282名が見山楼の門人帳に名を連ねている。

 吉田松陰が江戸に出てすぐに安積艮斎の門をたたいたのは、海外知識も持っている儒学者として艮斎の名前がすでに全国にとどろいていたからだ。松陰が艮載のもとで学んだのはわずか二ヶ月ほどだ。その後は佐久間象山(さくましょうざん)の砲術塾に行き、象山に心酔することになる。象山と松蔭は、1854年に連れ立って下田の黒船を見に行ったのだ。 艮斎の私塾・見山楼の教育方針はのちの「松下村塾」に引き継がれている。

●川路聖謨が『海国図志』の重要性に着目して翻訳・刊行を開始

 1854年、幕臣の能吏の川路聖謨(かわじとしあきら)は、ロシアとの日露間の修好通商条約の交渉の幕府の代表として、長崎にいく。交渉の相手はプチャーチンだった。長崎でなければ交渉しないと、回航させられたプチャーチンが持参した、ロシア皇帝からの国書に対する幕府の返書を起草したのは、安積艮斎である。

 プチャーチンと川路との会談は、川路の「ぶらくら」(あるいは「ぶらかし」)戦術にもかかわらず、和やかであった。それは川路のもつ人間の大きさにプチャーチンが敬服したから、といわれている。この交渉は、幕府が勝手にアメリカにだけ「最恵国待遇」を与えてしまったため、川路が先にプチャーチンに約束したことが反故(ほご)となって失敗に終わる。

 このとき川路は交渉が行われた長崎で、魏源(ぎげん)の『海国図志』を発見する。対露交渉団の一員だった箕作阮甫(みつくりげんぽ、 1779~1863 津山藩士、蘭学者)とともにこの本を読み、その重要性に気づいた。そこでこの『海国図志』を江戸に持ち帰り、塩谷宕陰(しおのやとういん 儒学者)と箕作阮甫に訓点(くんてん)を施させた。それが幕府公認で複刻されるや、『海国図志』は全国の知識人層からむさぼるように読まれた。ここで本当に日本国に火がついたのである(嘉永七年1854年)。

儒学者の塩谷宕陰と蘭学者の箕作阮甫は仲むつまじく、この仕事をしたという。
塩谷がこの複刻版の終わりに次のように書いた。引用する。

(引用開始)

 この書、客歳清商(きゃくさいシンしょう)初めて舶載(はくさい)するところなり。左衛門尉(さえもんのい)川路君これを獲、その有用の書なるを謂(い)えり。?かに(すみやか)に翻栞(ほんじ)せんことを命ず。原刻ははなはだ精ならず。すこぶる偽字多し。予をしてこれを校せしむ。その土地、品物の名称はすなわち津山の箕作ヨウ(?)西、洋音を行間に注す。嗚呼 忠智の士(林則徐・魏源)、国を憂い、書を著し、その君の用を為さずして、かえって他邦(日本)にせらる。吾(われ)独り黙深(魏源の別名)の為に悲しまず。而(しこう)して並(ならび)に清主(シンしゅ)の為に文を悲しむ。

( )内は田中が入れました。

引用元;『鎖国時代 日本人の海外知識』(開国百年記念文化事業団 1978年刊 p140から

(引用終わり)

田中進二郎です。このように塩谷宕陰(しおのやとういん)も『海国図志』が、清国でよりも日本において受容されていくであろうことを、清国にとっての悲劇だ、と書いている。「海国図志」はこのあと安政二年(1855年)までに20種類もの翻刻版(ほんこくばん)が出されている。このことは、この本が幕末の日本で武士階級だけでなく町人層や富農層にまで爆発的に読まれたことを物語っている。

私は ↓のサイトも、参考にした。
『幕末日本人の海外知識-海国図志と横井小楠を中心に』
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/51555/49482/1624024

田中進二郎拝

相田 (Wired) 投稿日:2014/10/16 23:07

【1389】[1694]思想対立が引き起こした福島原発事故(第5回)

  みなさんこんにちは、相田です。

  今回は武谷の生涯の盟友ともいえる坂田昌一について触れます。

  坂田といえば最初に言うべきことは、物理学者としての能力の高さです。坂田の物理学者としてのスキルは、湯川、朝永と全くの同格でした。ということは坂田は、ノーベル物理学賞を受賞する資質が十分にあったのです。事実、坂田は1960年代初めに自らが「ウルバリオン」等と呼んでいた、クオークに相当する粒子についての論文を提出していれば、かなりの確率でノーベル賞を得ていた筈です。

  しかし坂田は、素粒子物理学の画期的な成果を挙げることだけでは飽き足りませんでした。坂田の真の目的は、武谷の提唱した唯物論的弁証法による哲学に従って物理学上の発見を積み重ねることで、マルクス、エンゲルス、レーニンによる思想の正統性を、自らの手で実証することにあったのです。

  このように、物理学と哲学の両方の分野で、高い目標を自らに課していた坂田でしたが、その晩年には思いがけない悲劇が訪れます。

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思想対立が引き起こした福島原発事故

第1章 素粒子論グループの栄光とその影

1.6 坂田昌一、哲学にこだわり過ぎた巨人の挫折

  武谷は文筆家、思想家として名を挙げた反面、素粒子物理学の分野では実は世界レベルの目立った成果を残していない。その一方で盟友の坂田昌一は、本業の方でも大きな成果をあげている。1936年にアンダーソンらによる宇宙線の観察から、湯川の中間子と同じ質量の粒子が発見されたことで湯川グループの研究に大きな注目が集まった。しかし観測された粒子の寿命は、湯川が予言した中間子よりも遥かに長かったことから、湯川理論の修正が要求されていた。

  京大の湯川の下を離れて新設の名古屋大学に移った坂田は、後輩の谷川安孝(たにがわやすたか)が出したアイデアを元に、湯川の予言した粒子(π中間子〔パイちゅうかんし〕)が極短時間でニュートリノ(質量を持たない微粒子)を放出して、寿命の長い別の粒子(μ粒子〔ミューりゅうし〕)に変化した後に観測に捉えられるという「2中間子論」を1942年に提唱し、実験結果との矛盾について見事な説明を与えた。また坂田が同時期に発表した「C中間子」の理論は、電磁場の量子化を行う際の「無限大の発散」を一部解決できるアイデアを提供したことから、朝永の「くり込み論」の完成につながる優れたモデルとして評価されている。

  京都大学で晩年の湯川に学んだ物理学者の佐藤文隆(さとうふみたか)氏の著書「破られた対称性」(PHPサイエンスワールド、2009年)の中に、坂田の生い立ちについての簡単な説明がある。坂田の父は戦前の愛媛県、香川県知事を務めた高級官史であり、大阪の経済人としても活躍した要人であった。

  兵庫県の高級住宅街の自宅から甲南高校に通っていた坂田の先輩に、加藤正(かとうただし)という人物がいた。数か国語をマスターした語学の達人であった加藤は、高校時代からエンゲルスの「自然の弁証法」を翻訳しており、後に岩波文庫から加藤の訳本が出版されたという。坂田は出版前から加藤を通じてその内容を聞かされており、「日本人としても非常に早く自然弁証法になじむことができた」そうである。

  その後の京大時代の武谷との交流等を通じて、坂田は武谷を凌ぐ強固な左翼主義に染まって行った。坂田は日頃から共産主義者であることを公言しており、名古屋大学の研究室でのとある親睦会の際には「スターリンに乾杯」と挨拶したという。1963年に中国が自国の科学研究をPRするために開催した「北京シンポジウム」には、坂田は日本代表団の団長として参加し毛沢東とも会見している。

  また、坂田や彼の弟子たちが執筆した論文や学会講演の発表の冒頭には、物理とは直接関係しない、弁証論的唯物論に関する哲学的な論考を述べることが多々あった。物理学とは無関係な哲学思考を持ち込む坂田グループのスタイルには、当時から賛否両論の意見があった。海外の研究者達は坂田のグループを「共産主義思想を自然科学に持ち込む異分子たち」とみなすケースもあり、研究成果も無視されて論文引用されないこともあったらしい。

  前述したように、坂田はかねてより武谷の三段階論の有効性を信じており、三段階論を用いることで誰もが自然科学の真実を明らかにできると公言していた。武谷自身は自分の主張を素粒子物理学の成果として残すことはできなかったが、坂田による一連の優れた発見が、武谷の主張に強い説得力を持たせていた。終戦直後からしばらくの間の、左翼思想全盛期の日本においては、坂田こそが物理学者としてのあるべき理想像を提示していたともいえる。

  しかし物理的な考察よりも哲学に固執する傾向のある坂田は、その生涯の最後に自らの研究の判断を誤ってしまい、尻尾を捕まえていた大魚を逃してしまう羽目となる。それは坂田が「クオーク」モデルの発見に至らず、ノーベル物理学賞を受賞せずに終わってしまったことである。

  以下の話は、広島大学出身の素粒子物理学者の小出義夫(こいでよしお)氏が、静岡県立大学出版の「経営と情報」という雑誌に書かれた論考「なぜ坂田学派はクオーク模型にたどりつけなかったのか」(1995年)からの引用である。クオークとは陽子、中性子等の内部に存在するとされる微細粒子であり1964年にM.ゲル・マンというアメリカの物理学者により存在が予言されたものである。しかしゲル・マンの発表に先立つこと9年前に、坂田はクオーク模型に限りなく近いモデルを発表していた。にもかかわらず最後の詰めを誤った坂田とその弟子達は、みすみすゲルマンに栄冠をさらわれることとなる。

  1955年に坂田は、素粒子の中でも中性子・陽子・ラムダ粒子(1947年に宇宙線から発見された)の3種を基本粒子とし、他の粒子はこの3つの素粒子とそれらの反粒子で組み立てられるという「坂田模型」を発表した。この考えは坂田の物理学上の最大の成果とされており、「自然はそれ自身の中に無限の階層性を有する」という、坂田の哲学が強く反映されたモデルでもあった。

  坂田模型はその発表当初においては、当時知られていた素粒子の挙動を良く説明出来ることから、高い評価を得られた。しかし1960年頃になり、海外での最新の加速器を用いた研究から新たな多くの素粒子が発見されると、坂田模型では説明出来ない現象が多く存在することが明らかになった。

  1960年代当時の米国では、このような多数の素粒子の特性を記述するモデルとして、J.チューにより提唱された「ブートストラップ(靴ひも)理論」という考えが、学会の主流を占めていた。チューの理論では「発見された多数の素粒子は、実際はどれも同じで区別することはできない」とし「実験や観測条件の違いにより、素粒子の状態が異なって見えるだけである」とされていた。異なる特性を持つように見える素粒子の間は「靴ひも」で相互に結ばれており、それぞれは平等、対等なのだ、という考えである。

  ブートストラップ理論では実験等による素粒子の変化を、量子力学の立役者の一人であるハイゼンベルクの提唱した「S行列」と呼ばれる数学により記述する。チューによると「S行列」を展開して得られる反応前後の粒子状態を知ることが重要であり、反応メカニズムの詳細や素粒子内部の構造を逐一議論することは無意味であると考えられていた。これは、人間が認識できない現象を仮定して議論することは無意味であるとするマッハの考えに近く、坂田の主張する「素粒子の持つ無限の階層性」を真っ向から否定する理論でもあった。

  1960年代になると日本の素粒子論グループの中にも、自然科学の中に左翼思想を持ち込む武谷、坂田の考えに辟易して、米国から「S行列」理論を導入して研究を行うグループが、関東の大学に広まっていた。この状況に危機感を抱いた坂田は、坂田模型の提唱後は自らでの研究を行うことを控えて、自分のシンパを全国の大学に広めるための政治的な活動に注力するようになったという。

  そうこうする合間に、ブートストラップ理論全盛とみられた米国の研究者の中に、秘かに坂田模型に着目して改良する動きがあることを、坂田とその弟子達は不覚にも見逃していた。

  1964年にゲル・マンは坂田模型のような既知の粒子ではなく、今まで知られていないクオーク呼ぶ新たな粒子3個の組み合わせにより、既存の素粒子は構成されるというモデルを発表した。クオークが坂田模型と異なる点は、1個の電子が持つ電荷の1/3、2/3という「分数電荷」を有するという、単純ではあるが革新的な条件を加えたことにある。3個のクオークが結合することで、見かけ上の分数電荷は相殺されて、通常は見えなくなるのである。

  しかし1/3の電荷を持つなどという粒子は、それまで実験からも理論からも提唱されたことは無かった。それでもゲル・マンは、アメリカでの最新の原子核実験データに基づき、坂田模型が持つ矛盾を数学的な妥当性から丹念に検証した結果として、これしかないという新たな理論に至った。

  ゲル・マンの論文から一月後に、ツヴァイクという学者もまた「エース」と呼ぶクオークと全く同一の理論を纏めた論文を完成させた。しかし素粒子の内部に未知の粒子が存在するという理論は、「S行列」全盛の当時はあまりにも斬新すぎたことから、ツヴァイクの論文は当時の主要な学会誌の全てから掲載を拒否されてしまう。一方でこのような状況を予測していたゲル・マンは、自らの論文を創刊間もない歴史の浅い欧州の論文誌に投稿することで、発表を許されたという。

  このような周到な配慮の甲斐もあり、1969年にゲル・マンはクオークモデルとそれ以前の素粒子物理学への貢献を併せて、ノーベル物理学賞を単独で受賞することになる。論文の掲載を拒否されたツヴァイクは、ゲル・マンと全く同じアイデアを持っていたにも係らず受賞無しに終わった。

  クオークモデルが発表された直後の日本では、武谷等により、「クオークは坂田模型の一つのバリエーションに過ぎず、独創性に欠ける」という、坂田の優位性を主張するコメントが数多く展開された。また実験でクオークが単独で確認されない(現在でも未確認である)ことから、「クオークの妥当性には未だに疑問がある」とも言われた。

  しかし、クオークモデルは坂田模型の抱えていた全ての欠点を解決すると共に、その後の加速器による実験や新たな理論による検証にも耐え抜き、70年代後半になるとその存在について疑う研究者はほとんどいなくなった。それとともに坂田模型は忘れられることとなってしまった。

  「クオークと坂田模型の間には本質的な差異などない」という、武谷等の主張にも一理あるとも思えるが、今になると結局は負け犬の遠吠えでしかない。そもそも坂田模型の提案からクオークの発表まで10年近くのインターバルがあった。その間に実験データとの矛盾を埋めるモデルを提案する機会は、坂田達には幾らでもあった。

  実際に坂田の弟子達の間では、電荷が1/3の仮想粒子を置くと、数式上では実験結果が上手く説明できるとの認識はあったらしい。しかし、「実体」を重要視する三段階論の思想から、このモデルは単なる数学的な辻褄合わせに過ぎないとされ、「実在する粒子」の組み合わせによる坂田模型を修正するには至らなかったという。また坂田達の師である湯川が、分数電荷を持つ粒子の存在を頑に否定していたことも、論文化が見送られた理由の一つであるらしい。

  それでも「正しい方法論を用いるならば、誰もが優れた研究成果を見出すことが出来る」ということが、かねてからの坂田の主張であるならば、湯川が反対したために正しい発見に至らなかったことは、理由にはならないと私は思う。結局は自らの哲学に執着しすぎたことで、「ありのままの」自然を謙虚に観察する姿勢に欠けたことが、坂田グループの敗因に繋がったといえる。

  坂田は1970年に59歳の短い生涯を失意の中で終える。しかし、その数年後に坂田の薫陶を受けた、益川、小林のコンビが「CP対称性の破れ」と呼ばれる現象を見出して、2008年のノーベル賞受賞に繋がることになる。坂田自身は栄光に至ることはできなかったが、偉大な物理学者として残したその功績は、後世まで受け継がれるであろう。

(続く)

相田英男 拝

浜田 吉郎 投稿日:2014/10/14 08:28

【1388】[1691]メールもスマートフォンもまだまだです

会員番号2947です。須藤様よろしくたのみますこれからも

副島隆彦 投稿日:2014/10/14 01:18

【1387】[1690]私の次に出る本のこと。および、去年のシリアでのサリン・ガス撒(ま)きの事件の真実 

副島隆彦です。 今日は、2014年10月13日です。
( あ、今、投稿しよと思ったら、もう 14日になっていました。)

 台風が大阪に上陸して、中部地方に向かって移動しています。これが明日、過ぎ去れば日本全国、きれいな秋晴れになるでしょう。 

 私は、先おとといの10月10日に、自分の秋の恒例の金融本を書き上げてホッとしているところです。 書名は、『 官製相場(かんせいそうば)の暴落が始まる 』(祥伝社=しょうでんしゃ=刊)で、11月の初めには書店に並びます。 私は、この金融・経済 本を書くことで、生活費を稼ぎだしています。出版社の編集長に断(ことわ)りなしに、さっさと書名とかの公表をしていいのか、分かりません。が、まあ大丈夫でしょう。

 青色LED(エル・イー・ディー 発光ダイオード)の発見と発明で、先日、ノーベル賞を受賞した 中村修二(なかむらしゅうじ)氏 が、受賞の挨拶で、英語で、相当に厳しい日本批判、すなわち、日本国の理科系の技術者、学者たちへのものすごい劣悪な研究環境を大企業群と 政府が強制していることへの、強い抗議を込めた発言をしているらしい。私は、すぐにそれらを入手して、この学問道場にも転載します。 

 中村修二の生き方を、私は、尊敬しているので、20年前から、私は、新聞記事とかを追いかけています。中村修二博士についてのは、私たちの学問道場に、彼の研究業績について、紹介、評論した文が有ります。それを、もう一度、皆さんに読んでもらうと思います。

 私は、今度の自分の金融本でもたくさんの事を書きました。いちいち、ここで紹介できません。ただひとつ、以下に載せる新聞記事で、分かることですが、 「アメリカ(あるいは北米=ほくべい=)でこの3年間、大騒ぎで開発されてきた、シェール・ガス、シェール・オイルが、案の定、大失敗で、そもそもインチキであることが、満天下に露見しつつある、ということだけ、今度の本にもしっかり書いた、とお伝えします。

(転載貼り付け始め)

●「 住友商事:損失2400億円、来年3月期計上 米のシェールオイル失敗」

2014年9月30日 毎日新聞
http://mainichi.jp/shimen/news/20140930ddm002020183000c.html

 住友商事は9月29日、米国でシェールオイルと呼ばれる新型原油開発事業などで失敗し、2015年3月期に計2400億円の損失を計上する見通しと なったと発表した。これに伴い連結最終(当期)利益を従来予想の500億円から(引用者注。たったの)100億円 に下方修正した。

 子会社を通じ、米開発会社と共同で12年から手掛けている米テキサス州での原油事業で、回収量が想定を下回る見込みとなった。従来は採掘が難しかった地層から、石油やガスを採掘する事業だが、当初の見込みより地層が複雑で、効率的に採取できないことが分かった。

 開発エリアの一部を残して 撤退し、リース権や井戸などの関連施設を売却するが、約1700億円の損失が生じる見込みだ。

 また、鉄鉱石や石炭の価格下落により、ブラジルの鉄鉱石事業で約500億円、豪州の石炭事業で約300億円、米タイヤ小売り事業で約200億円 の損失を計上。さらに権益を持つ豪クイーンズランド州の炭鉱を15年1月に休山する。

 住商は社内に特別委員会を設置し、投資判断や今後の資源事業のあり方などを検証する。中村邦晴社長は29日記者会見し「体質の再強化を行い信頼 回復に努める」と述べた。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。この記事にあるとおり、住友商事は、アメリカのテキサス州でのシェール・オイルの油田の掘削に失敗して、1700億円の損失を、さっさと今期の決算に計上した。

 他の日本の大手の商社や資源開発会社が、北米でのシェール・ガスやシェール・オイルの開発失敗で、大損をしてどんどん撤退を開始している。 ただし、このニューズは、まだ日本国内では、ほとんど明らかになっていない。

 あれほど、「アメリカはシェール・ガスで、自力でエネルギーを確保できるから、アメリカ経済は立ち直り、アメリカの繁栄は続く」と鳴り物入りで、騒いだのに、この始末だ。日本の大手の商社たちまでが、またしても騙されたのだ。

 私、副島隆彦は、日本ではたったひとりだけ、自分の本で、シェールガスの騙(だま)しに着いて書いて警告を発してきた。

 例えば、私が昨年(2013年)の11月に出した、『 帝国の逆襲  金(きん)とドル最後の戦い』(祥伝社 刊)で、 

  「シェールガス革命はインチキだ。水を汚すのだ」 「アメリカはシェール  ガスでエネルギー(燃料代)の自立ができるから大きく復活する、というの  はウソである。あと一年したら世界中にバレるだろう。まあ待っていなさ   い。ドイツはビール用の水を汚す、と中止したのだ。6章で説明する」と、  まえがき のあとの 9ページ目で書いた。
 
  “ Don’t Frack California . “ 「カリフォルニア州をフラック鉱  法で台無しにするな」の抗議の集会の様子の写真も載せた。

 今、アメリカで、どんどんシェールガス、オイルのウソがバレつつある。さあ、日本国内で、公然とこの事が騒がれるまで、あとどれぐらい掛かるか。「このことで、絶対にメディアで騒がせるな」 という言論統制をやってい  る連中の顔が、私、副島隆彦に見える。

 以上で、今日のお知らせを終わりにしようと思ったのですが、どうしても書いておきたいことがあったので、以下に、長々と、新聞記事をたくさん転載します。

 それは、昨年の2013年の4月に、シリアの首都ダマスカスの近くで、サリン兵器が撒かれた。それで1300人とかの現地のシリア人が死んだ。

 その犯人は、シリア政府(バシャールアサド政権)だ、とされた。しかし、真実は、そうではなかった。 このサリンガス兵器を撒(ま)いた犯人は、シリアの反政府勢力の方だった。その背後には、イスラエルと、サウジアラビア(バンダル王子というサウジの内務省警察のトップ。サウジの謀略人間の親玉。最近、辞任して後ろに引っ込んだ )がいる。

 なんとか、オバマ政権を騙して、シリア政府(バシャール・アサド政権)に対する、アメリカ軍の爆撃と軍事侵攻をさせようと画策した。

 しかし、バラク・オバマ本人は、真実の報告を受けて、 シリア政府への軍事攻撃をしないことを、 2013年9月 に最終判断した。 正しい判断だった。

 この4月のサリン撒き のあと、さらに続けて、8月21日にも、The U.N.( 連合諸国 、×「国連」の調査団が入っていた、その最中(さなか)に、2回目の、今度は、サリン砲弾(ほうだん)を炸裂させる形で、サリンガスを撒いた。 

 ネット上に動画で、子供たちがたくさん苦しんで死んてゆく姿が写った。今もこの映像はたくさん残っている。これも、オバマ政権にシリア攻撃をさせるためのマニューバー(謀略)での 足掻(あが)きだった。 オバマは、真実を知ったので、騙されなかった。

 以下の記事にあるとおり、 国連人権委員会のカーラ・デルポンテ調査官(Carla Del Ponte) という女性が、すばらしい。 彼女は、オランダのハーグの国際刑事(けいじ)裁判所の 検察官だ。同じハーグにある国際司法(しほう)裁判所とは別である。国際紛争での戦争犯罪(ウォー・クライム)を調べるための国際機関である。

 カーラは、そこの高等検察官である。 私は、彼女の仕事と生活を描いた 映画 を すでに3年前に見ている。その映画も入っている評論本を近く出版する。カーラは すばらしい女性だ。

 私は、カーラ・デルポンテ検察官がこの世の真実を守ろうとする 生き方に最大限の敬意を表し、彼女の無事を祈る。  

 私は、今年の7月17日の ウクライナ上空での、マレーシア機MH17便の撃墜(げきつい、airplane crash by a shoot down )の真実も、ここの重たい掲示板に、ずっと書いた。 あれは親ロシア勢力(Pro-Russian separatists プロウ・ラッシアン・セパレイティスト)による 地上からの「ブーク」地対空ミサイルに因(よ)るものではなくて、ウクライナ政府軍のミグ25戦闘機2機によるマレーシア機の正面操縦席に向かっての、機関胞(きかんほう。cannon )に因るものだ、と 多くの証拠、証明の声明文とかを付けて書いた。 

 西側諸国の政府(アメリカと、イギリス、フランスなど)は、この事件の真実も、闇に葬った。 私は、こういう穢(きたな)い政治謀略を、西側諸国の正統(レジティメット)の政府たちが、やるとこが、不愉快でならない。

 今でも、シリアで、サリンガスを撒(ま)いたのは、アサド政権のシリア政府だ、と信じている人々が、世界中のほとんどだ。日本人は、遠いところでの戦争の一コマであるから、あまり関心を持たない。 皆、自分の目先の生活のことで、手一杯だ。

 私、副島隆彦は、日本に生まれた、世界基準の知識人だから、そういうわけには行かない。

 私だって、普通の日本国民としての生活の苦労がある。が、私の頭は、常に、世界を向いていて、それとの関連における日本の運命を、じっと考える。

 このシリアの内戦(ないせん)の最中(さなか)に於(お)ける昨年の2回のサリン・ガス兵器でのシリア民衆への殺傷事件の責任追及は、きっと、今も、カーラ・デルポンテ女史とそのまわりの、世界の正義を守ろうとする人々によって、続けられているだろう。

 私が、このシリアでの昨年(2013年)の4月と8月のサリン・ガス事件を、ずっと気にしているのは、不思議なことに、日本でだけ、今も販売されている「週刊ニューズウイーク誌の日本語版」だけが、公然と、大きな真実を書いたことだ。不思議な気がする。

 私が、長年、“ Weekly CIA ” 「ウイークリー・CIA」、「週刊CIA」と呼んできた、実際、多くのCIAのエイジェント(アメリカ国家スパイたち)が、ジャーナリスト、雑誌記者のフリをして、動いている(全部とはいないが、半分以上がそうだ)ニューズ報道誌が、稀有(けう)なことに、本当のこと(=真実)を報じたのだ。

 この事実には、私、副島隆彦は驚いた。そのことが、気になっていたので、このシリアのサリンガス(謀略)事件 についての関連の記事を、以下に全て並べて、載せておく。

 副島隆彦だけは、世界の出来事の真実を、日本国内に、書いて残してゆくための、重要な頭脳である。私が斃(たお)れたら、そのあとを継ぐ若い日本人知識人たちが、私を手本にして、私のやり方から学んで、私に倣(なら)って続けてほしい。

 それでは、この「2013年のシリア・サリン・ガス事件」の 全体像を、新聞記事の集合体、集積体(しゅうせきたい)を使って証明してゆきます。

(転載貼り付け始め)

◯「 化学兵器使用「強力な証拠」=シリアのアサド政権がサリン 」
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201305/2013051100059&g=int

2013年5月11日  ワシントン、時事通信 

 ケリー米国務長官は10日、シリアの アサド政権が化学兵器の サリン を 使用した「強力な証拠がある」と述べた。インターネットを使用した一般市民らとのやりとり の場で発言した。オバマ政権は化学兵器の使用が確認された場合、 …

◯「アサド政権が「サリン使用」 イスラエル軍情報部幹部」 http://sankei.jp.msn.com/world/news/130423/mds13042322100002-n1.htm

2013年4月23日 – MSN産経ニュース 

 イスラエル軍情報部の幹部は23日、安全保障に関する会合で、内戦が続くシリアの アサド 政権側が反体制派に対し「化学物質を使用した。恐らく サリン だ」と述べた。詳細 は不…

◯ 「米、裏付けに期限設けず  シリア・アサド政権のサリン使用疑惑 」 -
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130430/crm13043007350001-n1.htm

2013年4月30日  ワシントン 共同通信

 カーニー米大統領報道官は26日の記者会見で、シリアの アサド 政権側が化学兵器の サリン を使用した可能性があることについて、その裏付け作業には 期限を設定せず…

◯「 サリンを使ったのはアサドか反体制派か  」
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2013/05/post-2917.php

2013年5月7日  ニューズウィーク日本語版

・・・だが、 アサド 政権の暴走だと決めつけるのは早計だ。 シリア問題に関する国連調査委員会のカルラ・デル・ポンテ調査官は5月5日、 サリン を使用したのは反体制 派だった可能性が高いことを、スイスのラジオ局のインタビューで明かし た。・・・

◯ 「米パネッタ国防長官「重大な結果をもたらす」 アサド政権が
http://unkar.org/r/liveplus/1354879007

 パネッタ国防長官「重大な結果をもたらす」 アサド 政権が サリン 使用なら武力行使も視野に入れる。・・・  

◯「 仏政府「アサド政権がサリンを使用」 」
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130605/k10015078091000.html

 フランス政府は、内戦が続くシリアで採取されたサンプルを分析した結果、 アサド 政権が国際法で禁止されている化学兵器の サリン を使用したことは明らかだと結論づけ、・・・

◯「 サリンを使ったのはアサドか反体制派か 」
Syrian Rebels Used Sarin Gas

(副島隆彦注記。 バカ。この英文タイトル自身が、見出しで、
 Syrian Rebels Used Sarin Gas 「 シリアの反体制派が、サリンガスを使った」と はっきり書いているじゃないか。 なんで、お前たちは、CIAの手先だからと言って、こんなわざとらしい誤訳を、わざとやるのだ。 

 ニューズウイーク誌日本語版は、かわいそうな人たちだ。きっと、「見出し付けは、編集長が勝手にやるんだよ」 と、 現場の 日本人編集者と記者たちは、言い訳するだろう。 それぐらいは、私、副島隆彦だって分かる。 副島隆彦注記終わり)

2013年5月7日(火)  ニューズウイーク誌 日本版

シリア内戦で猛毒ガスを使用したののはアサド政権ではなかった可能性が浮上

 アサド政権と反体制派の攻防が続くシリア内戦で、政府軍が反政府軍に対して猛毒ガスのサリンを使用した疑いがある──。イギリスやフランス、イスラエル、アメ リカは先月、相次いでそう警告した。

 だが、アサド政権の暴走だと決めつけるのは早計だ。シリア問題に関する国連調査委員会のカルラ・デル・ポンテ調査官 は 5月5日、サリンを使用したのは反体制派だった可能性が高いことを、スイスのラジオ局のインタビューで明かした。

「さらに調査を続け、検証・確認を重ねる必要があるが、現時点で得た情報によれば、サリンガスを使用したのは反体制派だ」

 反体制派への武器供与を検討している米政府は、デル・ポンテの発言について「非常に疑わしい」と反論し、アサド政権によるサリン使用の可能性を示唆。デル・ポンテも調査は始まったばかりで、今後アサド政権側のサリン使用を示す証拠が見つかる可能性もあるとも指摘している。調査委員会は6月に、国連人権委員会に報告書を提出する予定だ。

 サリンは1930年代にナチスによって開発された、強い殺傷能力をもつ神経ガス。 無色無臭の液体で、吸い込んだり肌に触れれば、ごく微量でも死に至る恐れがある。イラクのフセイン政権は88年、イラク北部のクルド人地区ハラブジャをサリンなどの毒 ガスで攻撃し、5000人を殺害した。日本でも94?95年にオウム真理教によるサリンテロ事件が発生した。

 オバマ政権は、シリア政府による化学兵器の使用が確認されれば、軍事介入に踏み切る可能性もあると示唆してきた。サリンを使用したのは誰か。その答えによって、シリアの運命は大きく変わる。

(副島隆彦注記。 以下の記事を載せた、International Business Times というサイトは正しい。優れている。 )

◯「 シリアで化学兵器サリンを使用か 人体への影響は? 内戦の続くシリアの反政 府勢力がサリンを使用しているという情報を、国連が調査している 」

2013年5月8日 International Business Times 

 記者: ROXANNE PALMER   翻訳者: 加藤仁美

 フランス通信(AFP)によると、国連人権理事会が設置したシリア問題を担当する国連人権委員会のカーラ・デルポンテ調査官(Carla Del Ponte)は5日、「シリア反体制派武装勢力がアサド政権側 との戦闘で化学兵器のサリンを使用した可能性が高い」とスイスのラジオ局のインタビューで語った。

 2012年以降、化学兵器の使用がシリアで疑われてきた。米諜報機関は、これまでアサド大統領側の部隊による化学兵器使用を指摘してきた。

 一方で政権側は、反体制派がサリンを使用していると主張していた。今回の情報が事実とすれば、国際社会による反体制派支援にブレーキがかかる可能性もある。

 ロイター通信によると、デルポンテ調査官はインタビューで、医療関係者らの証言などから反体制派によるサリン使用は「確実な証拠は出ていないものの、非常に強い疑いがある」と述べたという。

 2010年末から12年にかけて、北アフリカ、中東アラブ諸国で一連の民主化要求運動が起こった。いわゆるアラブの春と呼ばれるものだ。デルポンテ調査官は、調査団が2011年のアラブの春の抗議活動中に反抗勢力による神経剤を浴びた被害者と医師に対して、シリアに隣接する国で聞き取りを行ったと説明した。

 サリンは、口、鼻、皮膚から吸収され、シアン等の500倍の有毒性があるとされる。無色、無臭の物質で、殺虫剤と同様のメカニズムにより神経系を攻撃する。

 サリンは1902年には既に作られていた。4名のドイツ人化学者が合成に成功し、4名の名前からサリン(SARIN)と名づけられた。シュラーダー氏(Schrader)=S、アンブロス氏(Ambros)=A、ルドリガー氏(Rudriger)=R、ファン・デア・リンデ氏(Van der LINde)=INである。

 作る途中の段階で猛烈な毒性を持つ中間物質が生成され、廃棄物にも猛毒性がある。その毒性に最初に注目したのはドイツ軍だった。第二次世界大戦中に量産し、ナチスは敗戦までに7,000トン以上のサリンを貯蔵していたとされる。1950年代にNATO(北大西洋条約機構)はサリンを標準的な化学兵器に採用した。そしてソビエト連邦と米国は、軍用にサリンを生産した。

 戦争時における化学兵器の使用禁止は、1925年のジュネーブ議定書で謳われている。しかし開発・生産・貯蔵といった行為は禁止項目にはなかった。第二次世界大戦後の米ソの冷戦の激化にともない、大量の化学兵器が両国によって開発・生産・貯蔵される状態が続いた。

◯「 シリアのアサド政権、サリン使用なら国際法上の一線越える=米大統領  」
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE93P07A20130426

(副島隆彦注記。この記事のオバマの発言は、オバマが、4月にダマスカス近郊でサリンを撒いたのは、反体制派の方だと、真実を知ったからだ。だから、オバマは、最終的に、この9月に、シリアへの軍事介入をしないと決断し、米軍の投入をしなかった。オバマの正しい判断だった。 副島隆彦注記終わり )  

2013年4月26日 ワシントン、 ロイター

 オバマ米大統領は26日、シリアの アサド 政権が サリン とみ られる化学兵器を使用した可能性があるとの分析結果が報告されたことについて、「 国際基準、および国際法上の一線を越えるもの」とし、これにより今後の 展開が大きく変化する可能性があるとの見方を示した。

 オバマ大統領はホワイトハウスで記者団に対し、「大量破壊兵器を一般市民に対して使用することは、国際基準、および国際法上の一線を越えるものだ」と懸念を表明。その上で「これにより今後の展開は大きく変わる」とし、「組織的に化学兵器などを一般市民に対して使用することは容認できないと誰もが認識していると思う」と述べた。

◯「 国連調査官「シリア反体制派がサリン使用との証言」 – YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=ESRzPnEnyHY

「 シリア反体制派がサリン使用」国連調査委員会(130507)
http://news.tv-asahi.co.jp    再生時間:0:32  2013年5月23日

◯ 「シリア政府は本当に化学兵器を使ったのか」
Who Did What in Syria?

(副島隆彦注記。 このニューズ記事の 英文の原題は、Who Did What in Syria? だから、正しく、「 誰が、何の ためにサリンを使ったのか?」としなければならない。ところが、上記の見出しのように 、始めから、頭から、シリ ア政府(アサド政権)のせいにするように、わざとこのように 誤訳している。 

 ニューズウイーク誌というのは、このように、CIAの日本版だ、と私が書いてきたとおりだ。ところが、今回だけは、事情が違う。ニューズウィーク日本語版の 山田敏弘という日本人記者が、真実をしってしまったので、ウソが書けなくなって、以下のように正直に報道している。快挙と知っていい。 副島隆彦注記終わり ) 

「 国連調査団が滞在する最中に発生した「化学兵器攻撃」に付きまとういくつもの疑念」

2013年9月5日(木)  2013年9月 3日号掲載 

 山田敏弘(本誌記者)

 内戦状態が2年以上も続くシリアで 先週(引用者注記。すなわち8月21日)、アサド政権側から放たれたとされるミサイルが首都ダマスカス近郊のゴウタに着弾した。化学兵器とみられる爆弾はガスを吐き出し、スンニ派の反体制派が支配する同地域で数百人規模の死亡者が出た、と報じられている。

 現場の惨状は、シリアの反体制派が撮影した映像で世界中に拡散された。病院でけいれんする女性と子供、口や鼻から泡を吹く男性……。今回の攻撃が大きく報じられているのは、被害者の多さ故という面もある。

 ただ化学兵器は本当に使われているのかといぶかしむ声もある。ジャーナリストが誘拐や殺害されるなど報道が制限されるなかで、メディアは現地にいる反体制派の活動家、または人権団体の情報に頼らざるを得ない。そうした状況が、化学兵器の使用に対する疑念を生んでいる。

 そもそも私たちが目にする映像は、どこまで現場の全体像を伝えているのか。反体制派が政府を非難するための偏った情報だけを出し、被害を大げさに発表しているとみる向きもある。現在シリアにいる国連調査団のオーケ・セルストロム団長は、反体制派が主張する1300人の死者数は「疑わしい」と語り、いまメディアなどで出回っている映像を見た限りでは死傷者数が多過ぎると指摘する。

 メディアも、化学兵器使用について事実関係の裏付けはできないでいる。いつどこで撮られたのかも分からない。結局、過去に反体制派から出された映像などと同様、大手メディアは必ず「独自で事実関係は確認できない」という一文を加えて、今回も映像を報じている。

反体制派がサリン使用か

 欧米の医療専門家の間では化学兵器使用について、「治療に当たる医療関係者の対応が不自然」「サリンによる攻撃だ」といったコメントが飛び交っている。ただ犠牲者が出ているのは確かだろう。

 現在、化学兵器使用疑惑を調べる目的で国連調査団がシリア入りしているが、攻撃を受けたとされる地域に彼らが入ることはアサド政権が許可しない。結局、化学兵器が使われたのかどうかは判然としないままだ。

 今回の攻撃のタイミングに首をかしげる専門家もいる。シリアにいる国連調査団は、攻撃の3日前に入国していたからだ。国連のイラク大量破壊兵器査察委員長を務めた ロルフ・エケウスは、「国際的な調査団が国内にいるときに、シリア政府が こんな攻撃するのは奇妙だ」 と、疑問を投げ掛ける。もちろんアサド政権がそれを逆手に取って攻撃を行った可能性もある。

 一方、正しい調査で致死的な化学物質の使用が証明されても、誰がその攻撃を行ったのか判明しそうにない。アサド政権が反体制派を虐殺するのに使ったのか、もしくは反体制派が欧米の軍事介入を促すために自作自演したのか。その問いにも、簡単には答えが出ない。

 誰が化学兵器を使っているかについては、国連内でも意見が割れている。今年5月、 シリア問題に関する国連調査委員会のカーラ・デルポンテ調査官は、「化学兵器のサリンガスを使っているのは反体制派だ」 と指摘して、反体制派を支援するアメリカなどから批判された。

 オバマ米大統領は昨年(2012年)8月、化学兵器の使用は軍事介入も考慮される「レッドライン(越えてはならない一線)」 だと発言。一方のシリア政府も、反体制派による化学兵器の使用は彼らにとっての「レッドライン」だと言う。政府と反体制派のどちらが今回の攻撃を行ったのだとしても、シリア情勢がさらなる泥沼にはまることは間違いない。

◯「 シリア:政府による化学兵器の使用 可能性大  ロケット弾の分析と 目撃者の証言に基づく新証拠 」

(副島隆彦の注記。 この記事は、ヒューマン・ライツ・ウォッチ という国際人権団体=NGO=のものだ。が、以下のとおり、ものすごく偏(かたよ)っている。公平なふりをして、事実だけを報道していることを装っているが、シリア政府の犯行だと匂わせるように書いている。ここもおかしな国際人権団体だ。副島隆彦注記終わり)

2013年09月10日 Human Rights Watch

  A mother and father weep over the body of their child, who was killed in an Alleged chemical weapons attack on Ghouta, Syria, on August 21, 2013.

C 2013 Associated Press
Analysis of Alleged Use ofChemical Weapons in Syria

2013年09月10日

 8月21日のグータ攻撃で使用された兵器システムの動かぬ証拠は、ロケット弾の残骸と被害者の症状にある。あの恐ろしい朝に政府軍がダマスカス近郊に向けて化学兵器を装填したロケット弾を発射したことを、証拠が強く物語っている。

 2013年8月21日に首都ダマスカス近郊のふたつの居住区で起きた化学兵器攻撃は、シリア政府軍が行なったものであることを、入手可能な証拠が強く示唆している。多数の子どもを含む何百人もの一般市民が殺害されたこれらの攻撃では、おそらくサリンとみられる兵器用神経ガスが使われたとみられる。

 報告書「グータの攻撃:シリアにおける化学兵器使用疑惑の分析」(全22ページ)は、8月21日未明、反政府勢力の支配下にある東グータと西グータが、化学兵器による攻撃を受けた疑惑を調査してとりまとめたもの。東西グータは16キロ離れている。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、ロケット弾攻撃に関する目撃者の証言、確実性の高い攻撃元の情報、使用された兵器システムの残骸、そして医療従事者が記録した被害者の医学的症状を分析した。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチ緊急対応部門のディレクターであり、本報告書を執筆したピーター・ブッカーは、「8月21日のグータ攻撃で使用された兵器システムの動かぬ証拠は、ロケット弾の残骸と被害者の症状にある」と述べる。「あの恐ろしい朝に政府軍がダマスカス近郊に向けて化学兵器を装填したロケット弾を発射したことを、証拠が強く物語っている。」

 ロケット弾とその発射装置の型式が強く示すのは、これらは政府軍のみが保有・使用可能なことで知られている兵器システムだったということだ。

 Special Feature: Map of Impact Zones, Photo Essay, Diagram of Chemical Rocket >>

 ヒューマン・ライツ・ウォッチは、YouTubeに投稿・公開されている攻撃地域のビデオ映像と、東グータの地元活動家から提供された兵器残骸の高解像度映像を分析。化学物質を散布したと考えられる2種類の地対地ロケットシステムを特定した。最初の型式は東グータ攻撃の現場で発見されたが、大量の液体化学物質を積載し、散布するよう設計された弾頭を備えていたとみられる330ミリロケット弾だった。

 2番目の型式は、西グータ攻撃で発見された旧ソ連製140ミリロケット弾で、参考文献によれば3タイプの弾頭のなかからひとつを装填可能で、これには、2.2キロのサリンを運搬散布するよう特別に設計されたものも含まれる。

 シリア政府は化学兵器による攻撃を否定し、反政府勢力の行いと非難しているが、その主張を裏づける信頼性の高い証拠は全く提供していない。ヒューマン・ライツ・ウォッチと、シリアでの武器使用を監視してきた兵器専門家陣は、攻撃で使われた140ミリと330ミリのロケット弾とそれらに付随する発射装置を、反政府軍が保有しているという事実をこれまで確認していない。

 ヒューマン・ライツ・ウォッチは、化学物質の検査に必要な兵器の残骸、環境試料、生理学的試料などの収集のためにグータ入りすることはできなかったが、化学兵器剤の検出と影響分析を専門とする人物から技術的助言を求めてきた。専門家は、地元住民の説明および医師が詳述した臨床的症状や兆候、8月21日の攻撃による被害者を撮影した多くのビデオ映像を検証した。

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 グータで人びとを治療した医師3人がヒューマン・ライツ・ウォッチに伝えたところでは、みな共通して、窒息、気管狭窄、不規則呼吸、低呼吸、筋肉痙攣、吐き気、口角の泡、鼻や目からの体液流出、全身痙攣、目眩、視力低下、目の充血と痛み、瞳孔縮小(縮瞳)などの症状がみられたという。

 これらの症状は、神経ガスの中毒症状と一致する。若い被害者の一部には顔面が青紫色になるチアノーゼの症状が出ており、これは窒息の症状と一致する。爆発系あるいは焼夷系の兵器を用いた攻撃の場合に通常受けるはずの外傷は、被害者の誰にもみられなかった。

 これらの症状と外傷の不在は、サリンのような神経ガスに曝露した時の症状と一致する。4月に首都ダマスカス近郊のジョバルで起きた攻撃でサリンガスが使われた、という臨床検査上の証拠もある。この時現場にいたフランス・ルモンド紙のカメラマンが後に検査した結果、サリンに曝露していたことが判明している。

 化学兵器の使用は国際人道法の重大な違反である。シリアは、189カ国が加盟する1993年の「化学兵器の開発、生産、貯蔵及び使用の禁止並びに廃棄に関する条約(化学兵器禁止条約)」の締約国ではないが、1925年のジュネーヴ議定書(窒息性ガス、毒性ガスまたはこれらに類するガスおよび細菌学的手段の戦争における使用の禁止に関する議定書)の締約国だ。また、国際慣習法はあらゆる武力紛争における化学兵器の使用を禁じている。

 グータにおける8月21日の攻撃は、25年前にイラク政府がハラブジャで同国のクルド系民間人に化学兵器を使って以降、初めての大規模な化学兵器使用となった。

 「シリアの恐るべき内戦で化学兵器の使用がますますはっきりとしてきた現在、こうした兵器の使用制御と、シリア民間人のより広範な保護に、国際的な議論の焦点を再び絞るべきだ」と前出のブッカーは述べた。

( 転載貼り付け終わり)

副島隆彦です。以上です。ものごとの真実を追求するには、忍耐力だけではなく、時間の経過と共に剥(はが)がれ落ちて来て、新たに見えてくるものへの穏(おだ)やかさ が必要だ。 

 私、副島隆彦は、「この世の中は、いろんな人がいるから、自分が真実だと、考えることが、通用しないことがたくさんある」と、さすがにこの歳になれば、噛み締めるようにして分かる。 優れた見識(けんしき)や意見が、そのまま、世の中で認められることはない。

 世の中には、ヘンな宗教や信念に凝り固まった人たち、というのが、ものすごい数でいて、その人たちとの共存、ということもある。 どうせ、あの人たちとも、同じ日本人として、同じ日本語を使い、同じ日本文化の中で、生きてゆくしかない。

 最後に、 下 ↓ の 方の 「 」番の、書き込みをしている、大重俊(おおしげしゅん)君に対してだが、以前、私から、「大重くん。君は、学問道場の会員のままでいてもよいですが、投稿は控えてください。不愉快に思う人が多いので」と書きました。それでも彼は、性懲りもなく、こうして書き込んできます。 

 彼のようなやや偏向した性格の人は、自分の持って生まれた病気だから、治らないでしょう。 しかし、まわりを不愉快にさせる文をどうしても書いてしまうのですから、やはり、遠慮しなさい。

 それから、大重くん。君は、以前、小幡績(おばたせき)という財務官僚上がりで今は慶応大学の准教授をしていて、「リフレはやばい」という本で評判を取った人の名前を、勝手に騙(かた)って、ここに投稿したでしょう。 事務所がIPアドレスを追跡したので、すぐに君だと分かりました。おそらく、小幡績氏 がどこかに書いた文を、そのまま、君が貼り付けたのでしょう。文体と内容からして、小幡績のものだと分かります。

 大重くん。こういう ことをすると、虚偽の言論になり、かつ、他人の文章の勝手な盗用、間違った目的での使用となりますから、やめなさい。このことを含めて、謝罪しないなら、大重くん。すぐに学問道場から出てゆきなさい。

副島隆彦拝

田中進二郎 投稿日:2014/10/13 17:34

【1386】[1689]大重俊氏の投稿についての苦情があります。

2つ下↓の大重氏の記事について、学問道場の会員外の方から苦情が寄せられています。学問道場のスタッフの方よろしく善処下さい。
以下のような苦情です。

(引用開始)

大重氏の投稿文を読むと、投稿者名に「資産額」などと書き込んでいる。あなたのような差別主義者は大嫌いだ。

きちんと、学問道場の方々に認められるような文章を書いてみろ。大重氏のような稚拙な文は文章とは言わない。学問道場の品位を下げるだけだ。

Appleの創業者スティーブ・ジョブズでも、物理学のアインシュタインも学習障害を持っていたと、いわれているではないか。

(引用終わり)

田中進二郎です。私も、差別主義者をけなすふりをしながら、差別主義を絶えず振りまく大重氏の投稿はいつも不愉快です。

なお、スタッフの方による対処等があった時点でこの投稿文も消しますので。

田中進二郎拝

浜田 吉郎 投稿日:2014/10/12 00:07

【1385】[1688]囲む会須藤様え

日本の宝副島隆彦様は日本1愛国者です私は全力でおおえんします

前田和寿 投稿日:2014/10/09 17:51

【1384】[1680]ゴールドマン松井氏:年内にTOPIX6%下げ、政策材料難

前田和寿です。

最近のゴールドマンサックスのキャシー松井(ウーマノミクス発案者)の言動と、それに連動して日経平均の大幅続落が続いています。消費税率10%実現のために安倍首相たちが、9月末までGPIFを利用して、株価を上げて、7-9月期の上場企業業績を会計上で改善させる戦略は成功したと思います。9月25日に今年の最高値1万6374円を付けました。今日(10月9日)の終値は1万5478円です。

実際、給料アップで先頭になって動いたローソン(新浪剛史は10月1日からサントリー社長)も減価償却の方法を定率法から定額法へ変更することで営業利益を押し上げて、消費税の影響がまるで無かったかかの様にドレッシング(dressing 粉飾)しました。バフェットが一番嫌う会計操作のひとつです。

最後に、10月7日ジョージタウン大学の女性・平和・安全保障研究所でキャシー松井が出席して、安倍が進めるウーマノミクス(女性活用経済)についてシンポジウムが開かれました。

ちなみに、ジョージタウン大学の女性・平和・安全保障研究所の所長であるメラニー・バービアー(Melanne Verveer)は、ヒラリーの首席補佐官という人物です。

以下に、これらに関連する3本の記事を貼ります。

(転載貼り付け始め)

ゴールドマン松井氏:年内にTOPIX6%下げ、政策材料難

9月25日(ブルームバーグ):ゴールドマン・サックス証券のチーフ株式ストラテジスト、キャシー・松井氏は年末までにTOPIX が現状水準から6%ほど下げるとみている。政策面で市場を押し上げる材料が不足している、と判断するためだ。

松井氏は19日のブルームバーグ・ニュースとのインタビューで、日本の各種政策は「インパクトはあるだろうが、著しいポジティブ・サプライズが出てくる可能性は限定的だろう」と指摘。年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)の資産構成見直しについても、「発表することは分かっており、内容の方向性も自明だ」と話した。

ゴールドマン証は5日、日本株の3カ月の投資判断を「ニュートラル」から「アンダーウエート」に下げた。直近数カ月の相場上昇とマクロ経済指標の軟調が理由だ。TOPIXの3カ月後の予想値は1250ポイント、6カ月後は1300、12カ月後は1450。25日の終値は2008年6月以来の高値となる1346.43。割安なバリュエーションや改革進展の期待などで強気姿勢だった年初と比べ、TOPIXの12カ月後予想は変わっていないものの、3カ月後予想は徐々に下方修正されている。

来年度に消費税率の10%への再引き上げが実施される場合、それに伴い日本銀行が追加の金融緩和を実施するとの見方が市場の一部にはある。しかし、そうした上昇カタリストも市場では既に予想されていると同氏。当面はボックス相場、と分析した。

安倍晋三首相は19日に行われた内外情勢調査会の講演で、GPIFの改革を極めて重視しているとし、資産構成について「できる限り早くポートフォリオの見直しを行いたいと考えている」と発言。来年10月からの消費税率10%への引き上げ有無は、「年内に判断する」との姿勢を繰り返した。

ウーマノミクスは前進

ただ松井氏は、「ラリーが終わったと言いたいわけではない」とも発言。ミクロの国内企業業績は強く、「10月末から11月にかけ発表される中間決算の内容は、ポジティブ・サプライズが多いだろう。保守的なガイダンスを発表していた企業は予想を引き上げ、市場にとってポジティブになろう」と言う。

12カ月では、同氏は投資判断「オーバーウエート」を維持。「昨年はマクロ経済が話題の中心で、非常にトップダウンの市場だった。ことしは注目がミクロ要因に移っている」とし、海外投資家も含め、好業績で割安な小型株への投資意識が高まっている現状にも触れた。

また、安倍政権下でコーポレート・ガバナンス、女性の活用は前進しているとの認識も示した。3日に行われた内閣改造で、史上最多に並ぶ女性5名が入閣した点に言及、「変化はあまりに遅れており、政府が変化の先頭に立つことの重要性を示す」と指摘する。

松井氏らは1999年以降、女性が活躍する経済を「ウーマノミクス」と名付け、関連リポートを継続的に配信してきた。この中で、女性の労働参加率が男性と同等になれば、国内総生産(GDP)は13%拡大し、労働人口は700万人増加する可能性がある、と分析している。女性が活躍する社会づくりは、今や安倍政権の成長戦略の柱の1つだ。

「日本の労働市場は急速に縮小しており、経営陣は人材を保ち、成長させる方法を熟慮している。企業の多様化を進めることの経済的メリットを理解し始めたという人もいる」と同氏は話した。

ゴールドマン証では、女性の一段の就業拡大の恩恵が期待できる「ウーマノミクス関連銘柄」を選定しており、5月の入れ替えでは従来の30社から36社に増加。「Eコマース関連」「旅行・レジャー」「外食・中食」「美容製品・サービス」「アパレル関連」「保育サービス」「看護・介護サービス」「人材派遣」を重要テーマ群とし、JR東日本 やヤフー 、テンプホールディングス 、エイチ・アイ・エス 、セブン&アイ・ホールディングス 、ニチレイ 、エフピコ 、ファーストリテイリング 、花王 、スタートトゥデイ 、ユニ・チャーム などを挙げている。

引用先:http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NC55V56K50XX01.html

(転載貼り付け終わり)

(転載貼り付け始め)

ローソン、純利益15%増で過去最高 3-8月

 ローソンが7日発表した2014年3-8月期の連結決算は、純利益が前年同期比15%増の218億円だった。3-8月期として過去最高を更新した。夏場の天候不順や消費増税の影響で既存店売上高は振るわなかったが、店内で調理する総菜など採算の高い商品が好調で、利益を押し上げた。

 売上高に当たる営業総収入は3%減の2419億円だった。3-8月の既存店売上高は1%減った。夏場の天候不順で飲料やデザートなどの販売が苦戦した。消費増税の影響や喫煙者の減少を受け、たばこの販売も減った。

 営業利益は12%増の400億円と、8年連続で過去最高を更新した。コロッケなどの総菜や店舗で抽出するコーヒーなど、好採算の商品が好調で販売減を補った。今期から店舗や設備などの減価償却を定率法から定額法に変更したことも、営業利益の押し上げ要因となった。

 2015年2月期通期の業績予想は、営業総収入のみ微増の4870億円と従来見通し(3%増の4980億円)から下方修正した。営業利益と純利益は従来予想を変更しなかった。営業利益は10%増の750億円、純利益は3%増の389億円を見込み、それぞれ過去最高を更新する見通し。通期の純利益予想に対する3-8月期の進捗率は56%だった。

引用先:http://www.nikkei.com/markets/kigyo/gyoseki.aspx?g=DGXLASFL07H7S_07102014000000

(転載貼り付け終わり)

(転載貼り付け始め)

幅広い分野での女性活用に期待 米でアベノミクスシンポ

【ワシントン=吉野直也】米ジョージタウン大女性・平和・安全保障研究所は7日、ワシントンで、安倍晋三首相の経済政策であるアベノミクスに関するシンポジウムを開いた。前国務省国際女性問題担当大使で、研究所所長のバービアー氏は首相が改造内閣で5人の女性閣僚を起用したことを評価。女性が世界の経済成長を促している点を指摘し、幅広い分野での女性の活用を主導していくことに期待を示した。

 ゴールドマン・サックス証券のキャシー・松井マネージング・ディレクターは女性が働きやすい就労環境の整備を進めるよう要望。女性の労働力に関する多くの誤った情報を排除していかなければならないと訴えた。佐々江信子・駐米大使夫人は様々な分野での女性の成功がお手本となり、さらなる女性の社会進出を呼び込むと強調した。

引用先:http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM0800Z_Y4A001C1EAF000/

(転載貼り付け終わり)

前田和寿

庄司 豊明 投稿日:2014/10/09 16:23

【1383】[1679]英語についての最新刊を読んで

短いですが、義務教育で中学3年となっている英語を小学校から取り入れようと文部科学省がしていましたが、根本的な英語教育が義務教育からなっていなければ、
高等教育の高校、大学で勉強しても身につかないのもわかります。
その証拠に大学入試センター試験の英語の試験問題を英語圏の人に見てもらったところ今では、ほとんど使わない英語や通じない英語があると言っていたそうです。
巽一朗著の英会話とっさのひとこと辞典の前書きに今現在の英和、和英辞典にある
ものでも通じない英語があると書いてありました。
会員番号7791

田中進二郎 投稿日:2014/10/05 07:46

【1382】[1678]幕末思想家を動かした清末知識人魏源と林則徐

幕末思想家を揺り起こした清朝知識人-魏源の『海国図志』
(その一)               田中 進二郎
・魏源と林則徐-アヘン戦争後に深刻に危機感を抱いた、数少ない清朝の知識人
・梁啓超の著作『清代学術概論』で高く評価されている魏源
・日本でもっとも早くに『海国図志』を読んだのはわずか齢二十の吉田松陰である
・海国図志は、強盛な西欧諸国のパワーの根源にサイエンスがあると説いた
・幕末三大思想家- 吉田松陰・佐久間象山・横井小楠をつなぐ『海国図志』の影響
・漢籍『海国図志』が幕末知識人に与えた衝撃は、幕末に翻訳された『聖書』や『万国公法』に匹敵する

・魏源と林則徐-アヘン戦争後に深刻に危機感を抱いた、数少ない清朝の知識人

魏源(ぎげん Wei Yuan 1794-1856)という中国人の名前はあまり知られていないだろう。が、英雄・林則徐(りん そくじょ Lin Zexu 1785-1850)なら有名だ。アヘン戦争(第一次アヘン戦争 1840-1842) の引き金となった、広東でのイギリスの倉庫からのアヘンの押収、処分を指揮した、当時の清朝の欽差大臣である。
一方の魏源は、アヘン戦争勃発より前に、清朝がすでに衰退をはじめている、と洞察した儒学者だ。そして、清朝の政治改革の必要性をもっとも早くに、『皇朝経世文編』(1826年刊)という書物で説いていた。日本では、異国船打払い令が出された翌年のことだ。
魏源は、科挙の殿試(最終試験)には、なかなか通らなかったが、著作を通して清の政府高官(経世官僚たち)に影響を与えた儒学者だった。

副島学問道場の古村治彦氏が今年の春に翻訳された書『野望の中国近現代史-帝国は復活する』(原題:Wealth and Power-China’s Long March to the 21st century オーヴィル・シェル、ジョン・デルリー共著 ビジネス社刊)。この本の第二章「行己有恥-魏源」が彼についての優れた解説になっている。(写真↑)
この本で、魏源は近現代中国の先駆的な改革者(reformer)として登場している。この章を参照、引用しながら『海国図志』(Illustrated Treatise On Sea Powers ,1843)
に関する考察を試みる。

中国で最初の麻薬取締官となった欽差大臣(特命を与えられた大臣)・林則徐はイギリスのヴィクトリア女王に書簡を送り、アヘン貿易を中止するよう求めた。しかし、当時のイギリスはパーマストン卿に代表される、強硬派の砲艦外交(Gun-boat Diplomacy)が優位を占めた。グラッドストーンらの出兵反対派を抑えて、議会で清への出兵が可決された(賛成271票、反対262票)。こうして軍艦14隻を中心とするイギリス東洋艦隊が中国に向かった。
林則徐は広東に要塞を作って、イギリス艦隊を迎え撃とうとした。しかし、イギリス艦隊は、広東を通り過ぎて、さらに北上、アモイ、上海に砲撃を加えた。さらに清の道光帝ののど元に刀を突きつける形で、北京の外港である天津に姿を現した。
このことに動揺した清の道光帝は林則徐を解任して、イギリスとの和平を求めた(1840年9月)。林則徐は、北京に召喚され、敗戦の責任をとらされることになる。

翌1841年に、林則徐は(現在の新疆ウイグル自治区の)イリに追放されることになる。がその前に林則徐は、揚州にいる盟友の魏源に、イギリスをはじめとする西欧諸国の情報・資料を与えた。林則徐と魏源に共通する考えとは、この敗北の屈辱をよくかみしめて、西洋の進んだ科学技術を進んで取り入れることが急務だ、ということだった。
しかし、二人の考えを理解する人間は、非常に少数だった。清政府内には、和平派、主戦派がいた。だが双方とも、清国が重大な危機に陥っているということ、イギリス帝国が科学の発展を基盤とした強国であるということを認めなかった。
やがて、主戦派が清政府で主導権を握ると、戦争が再開される(1841年春)。林則徐の後任の司令官は無謀にも、イギリス艦隊に奇襲攻撃をかけ、反撃され広東を落とされてしまう。
魏源はこのときの模様を「海国図志」に次のように記述している。

-清政府からの資金が途絶えて、清軍の兵士に食料費も支払われなかった。広東の虎門を守る提督の関天培は自分の財産から、兵士に銀二円を支給した。一方、イギリス(英吉利)軍は漢人の賊徒三千人を銀三十円で雇っている。
(英夷攻広東時、募漢奸三千人。毎人給安家銀三十円、毎月工食銀十円。而我守虎門兵月餉不及三両。提督関天培憫兵之窮苦。自捐賞血欠、毎兵銀二円。-「海国図志 巻一」より)
インドの傭兵部隊(セポイ)や本国からの増援部隊でさらに強化されたイギリス艦隊は、今度は長江に侵入した。清国の物流の大動脈を断ち切って、一国の経済を恐慌に陥れていく。穀倉地帯の中国南部の米の輸送路が分断される。ジャンク船は次々と沈められていく。アヘン戦争を描いた、あの有名な絵のとおりだ。長江の沿岸都市は砲撃で破壊された。80隻のイギリスの戦艦が暴れまわった、と魏源は書く。
魏源の住む揚州は南京に近い、長江の北岸にあった。塩商人が多く裕福な町だった。だから、イギリス軍に50万両の銀を払って、なんとか街は砲撃を免れることができた。しかし、揚州以外の周辺の都市はかたっぱしから砲撃されたのだ。それを魏源は茫然と眺めるよりほかなかった。この戦場のありさまを魏源は、『海国図志』の第一巻(60巻本。最後には100巻になる。)にありありと描いた。
イギリス艦隊が長江を遡上して、鎮江を陥落させ南京に近づいたとき、道光帝は戦意を失い、和平のための交渉団を南京に送った。屈辱的な南京条約はこうして、締結された。(1842年8月)

魏源は、ちょうどこの月に揚州で、十年にわたる著述である「聖武記」(Records of conquest )を完成させた。こちらは、「海国図志」と異なって、清朝の初期の統治(盛世)を讃えたものだ。
しかし、すでに清朝の威信は地に落ちている。清が衰退している今、これまでの清朝の対外政策を一新せよ、と説得するために「聖武記」は書かれたのである。

だから、魏源はこの本の前書きに、「恥辱を感じれば努力するようになる。」「恥辱を感じることで勇気が生まれる」と書いた.
アヘン戦争の敗北のあと、中国近現代史の中で改革者(reformers)たちが少しづつ現れてくる。彼らは魏源の「聖武記」、「海国図志」から影響を受けた。しかしアヘン戦争後もまだ多くの官僚は、「清は世界の中心」と考えていたことも確かである。

・梁啓超の著作『清代学術概論』

梁啓超(りょう けいちょう Liang Qichao 1873-1929)は魏源の死後、17年後に生まれた清末・民国初期の政治家、啓蒙的ジャーナリスト、学者である。前掲の『野望の中国近現代史』でも第5章で取り上げられている。ここで、清代後期の学者だった魏源はどのような学者であったかを知るために、梁啓超の『清代学術概論』を見てみよう。

梁啓超は、『清代学術概論』(1921年刊 東洋文庫所収 副題:中国のルネサンス 訳:小野和子)で清代の学問(以下、清学と書く)の総括的、体系的な歴史を書いた。ここには、清代の儒学者たちの考証学が中国の近代化の土台となったことが解説されている。魏源も登場している。この著作よりも以前に、梁啓超は魏源の『皇朝経世文編』の新版に寄せた序文を書いている。そこで彼は、ヨーロッパはまったく新しい科学・技術・哲学・政治・法律のもとに産業革命を進展させたのだ、と書いた。フランシス・ベーコン(1561-1626)の『ニュー・アトランティス』というのはそのことを指し示すことばなのだ、と書いた。ルネサンス時代のヨーロッパで大きな正体のわからない社会変動が起こっている。その総体を「新大陸」とベーコンは命名した、と梁啓超は言った。その後、梁啓超はヨーロッパのルネサンスについての概説書を書いた。その余勢を駆って、たったの15日間で、清代約300年の学術の総括の『清代学術概論』を書き上げた。まさに驚異的なことである。       
因みに、この著作の中で、梁啓超は自らを、師の康有夷(こう ゆうい Kang Youwei 1858-1927 )とともに清の儒学の大きな伝統の最後をしめくくる人間である、と書いている。

『清代学術概論』の中で、梁啓超は清学の起源が、朱子や王陽明をあがめる学者たちへの批判・攻撃なのだ、と説いている。宋代、明代の学者は孔子・孟子の思想よりも、朱子や王陽明を重んじた。驚くことに、陽明学ですらも、中国にあってはすでに体制側の学問に変質していた、という。この思想的状況は、実にヨーロッパにおいて、イエス・キリストの教えが忘れられて、ローマ・カトリック教会が民衆を支配したのとおなじだった。宋、明の儒学者たちが奉じる理学(朱子学・陽明学)に共通していたのは、孔孟をあげつらうことはしても、朱子・王陽明を批判することは絶対にしない、という宗教的ドグマ(教義)だ。
イタリアのルネサンス(リナシメント)がカトリック教会の教義に対して、懐疑し、古代ギリシャ・プラトンの源流にさかのぼっていったこと。これとおなじ運動が清代中国で行われたのだ。その火蓋(ひぶた)を切っておとしたのが、顧炎武(こ えんぶ1613-1682)だった。彼は「経世致用」をスローガンに掲げ、理学に対して自分の学問を経学と称した。
この学派は考証学派と呼ばれている。顧炎武は「経学の祖」であり、同時代の黄宗羲(こう そうぎ 1612-1695)はこれに歴史学を加えた。だから「史学の祖」だと、梁啓超はいう。
以下、『清代学術概論』(p42)より引用する。
(引用開始)
黄宗羲は、史学を根底としていたために、経世致用を論じてとりわけくわしい。その近代思想にもっとも影響を与えたものは、『明夷待訪録』である。その言にいう。

 後世の人君(君主 田中注)たるものは,・・・天下の利をすべて自分に収め、天下の害はすべて人に帰せしめて、・・・天下の人をして、みずから私するを得しめず、みずから利するを得しめず、自分の大私を天下の大公にしてしまい、・・・天下を莫大の財産と心得る。・・・およそ天下の地で安寧なところとてないのは、君の故である。・・・天下の人が「その君を憎悪すること寇(こそ泥 )のごとく」、また「独夫」よばわりしているのは、故なきことではないのである。
天地の広大さから考えて、万人の中でただ一人だけが勝手なことをしてよいのだろうか。だから、暴君を誅した武王は聖人であり、革命を認めた孟子の言葉は、聖人の言葉なのである。(湯武放伐論)
しかるに、くだらぬ学者がこせこせとし、「君臣の義は天地の間に逃るるところなし」と為し、はなはだしきは桀王・紂王のような暴君に対しても、湯王や武王は彼らを誅すべきではなかったといい、・・・「父のごとく天の如し」との空虚な名辞をもって、他人が君位をうかがうことを禁じようとする。彼らは孟子の言を不都合だとして、廟から孟子を除外したのだが、それは小儒の言葉が発端なのだ。・・・
(引用終わり)
黄宗義『明夷待訪録』原君(↓)より加筆した部分もあります。www.geocities.jp/ichitsubo_de_gozaru/col002.html

田中進二郎です。梁啓超は清の末期に、この『明夷待訪録』を簡略化したものを数万部印刷して秘密裏に配布した。
また梁啓超が、黄宗羲の思想を重視していたことは、副島先生と石平氏の対談本『中国人の本性』(徳間書店刊)の終章「中国を根底で動かした愛国思想家の系譜」でも書かれている。副島先生は強調している。
(以下、『中国人の本性』p235より引用する。)
副島―『明夷待訪録』という本は、明から清への交替を経験した黄宗義が、明朝末期の社会混乱の原因や理由を考察し、君主専制の否定、「民本重民」の思想をのべたものです。この時代の政治評論集として白眉(はくび)であると評価されています。黄宗義の『明夷待訪録』は中国のルソー、中国の「民約論」として清朝末期にもてはやされ、「排満興漢」の起爆剤になった。
(引用終わり)
田中進二郎です。黄宗羲の父親は、明の復興を企てる政治結社・東林党に属していたために清の政府によって殺されている。その仇を討つために彼は生涯懐に刀を入れて持ち歩いていた、という。黄宗義の『明夷待訪録』によって、湯武放伐論という革命思想が生まれたのだ。
また幕末日本でも、湯武放伐論を援用した人物がいた。それは吉田松陰である。彼は、アメリカ船ポーハタン号に乗り込み、密航を企てたとして幕府に罰せられた。(1854年)長州の萩の野山獄に入獄中に、おなじ囚人たちを前に孟子を講義している。この講義録として、『講孟箚記(こうもうさつき)』が著された。この本の中でも吉田松陰は「漢土における湯武放伐論は、至極理にかなっている。しかし、わが国日本の場合、日本の国土は天皇が末永く守られるものである。漢土における天が日本では皇室だ。だから皇室を倒すなどという他念を持ってはならない。しかし一方、征夷大将軍の地位は皇室に任命されたものである。これは堯・舜・禹(ぎょう・しゅん・う)や桀・紂(けつ・ちゅう)と同じ立場である。征夷大将軍の職責を果たすことが出来ない者はすぐに廃しても構わない。
けれども、皇室の命を奉じないでこれを討とうとすれば、これは義戦ではない。」と言っている。
(『講孟箚記』巻の一 第八章より要約)
ところで吉田松陰と梁啓超には隠されたつながりがあるようだ。時代は下って 1898年に、梁啓超は光緒帝から召しだされ、清国の大胆な改革に協力することになった。が、この改革はわずか百日で終わり、西太后(せいたいごう)は保守化し、梁の逮捕を命じた。梁啓超は北京の日本の領事館に逃げ込んだ。彼を保護するように命じたのは、当時日本の総理大臣の大隈重信であった。伊藤博文も亡命に協力した。梁啓超は天津から軍艦「大島」に乗って、日本に亡命することになる。この時からの日本での亡命生活は14年に及んだ。梁啓超は日本名を「吉田晋」と名乗った。この吉田晋という名はおそらく吉田松陰と高杉晋作を合成したのだろう。
(前掲書 古村治彦訳『野望の中国近現代史』p114かいた116を参照)
このように黄宗義に始まって、梁啓超にいたるまで清代(1644-1912)を通じて、知識人は清朝政府から弾圧を受け続けていた。
だから知識人たちは、清が繁栄している間はおおっぴらな政治運動は行わなかった。
清の康煕帝(こうきてい)が召喚しても、重病を装い、固く門を閉ざして皇帝に拝謁することを断る、という人物もいたという。清代の考証学者の多くは、浙江省・江蘇省など華南地方の出身であった。弟子などは取らないで、ごく限られたネットワークのなかで、師友関係を保っていた。
そして、『海国図志』を著した魏源も、故郷の揚州でそのようなネットワーク、同志を持っていたようだ。「海国図志」にはそうした、少数の人々が作成に加わっていたと考えられる。
 魏源が『聖武記』や『海国図志』を完成させたのは揚州(現・江蘇省揚州市)においてだった。この地で、清朝の最初の時期に「揚州十日事件」という悲惨な虐殺事件がおきている。アヘン戦争の200年ほど前だ。明が1644年に滅亡した後も、明の遺臣たちは、南京を拠点として清に抵抗した。長江流域の諸都市もこれにならった。が、1645年、順治帝の送り込んだ清軍が揚州を包囲して攻め落とす。その直後、80万人という住民の大殺戮がおこなわれたという。
(『蜀碧・揚州十日記(しょくへき・ようしゅうじゅうじつき)』東洋文庫所収。『揚州十日記』は1805年(文政 年)日本でも刊行されている。)
 清代の史学者であった魏源の心中には、清朝政府に対して穏やかならざるものがあったと推測される。

●清の知識人たちにアメリカのユニテリアン教会が世界の情報を提供していた

 魏源の『海国図志』(60巻、のち100巻になる。)の中には、当時最先端の世界情勢が含まれていた。林則徐が魏源に、海洋大国イギリスを分析するように、情報・資料を大量に渡したからである。その中にはアメリカ公理会(美国公理会 the Congregation church, 副島先生は「Public Beneficiary Societyのことではないか」とおっしゃっています。)の宣教師があらわした事典の翻訳があった。
 アメリカン・ボードが初めて中国に送った最初の宣教師、ブリッジマン(Bridgman 1801-1861)が、1830年に中国の広東に来ていた。彼はアメリカのマサチューセッツ州の生まれで、ヨーロッパ各国や、日本・中国などアジアの地誌を手当たりしだいに読み、世界に飛び出していった。ジャカルタ・シンガポールで華人に会って、彼らが世界をまったく知らないことに驚き、漢字版『アメリカ合衆国全図』や『地球図』を製作した。そして、世界地理の百科事典を出版する。このブリッジマンが当時の典型的なアメリカのユニテリアンだろう。彼のような人にとっては、キリスト教の伝道はさほど意味を持たなかった。むしろ科学(science)を探求する方に熱心だったはずだ。また、林則徐・魏源のような、当時の優れた清の知識人たちも、イギリス帝国がいかにして強国になりえたのか、その根本原因を科学の発達に求めていたのである。

(注)アメリカン・ボードの宣教師ブリッジマンの百科事典が『海国図誌』になった、というのがこれまでの説でした。『鎖国時代 日本人の海外知識』(開国百年記念文化事業会 1953年刊)はブリッジマン説です。が、最近の『海国図誌』の研究者は、イギリス人のヒュー・マレー(Hugh Murray )が1834年に刊行した地理事典(The encyclopedia of Geography)が『海国図誌』の元だと書いています。欽差大臣・林則徐はこの地理事典を英語から中国語に翻訳して『四洲誌』と題して、魏源に渡した。こちらの説が有力なようです。その一例としてセルゲイ・ヴラディ氏(ロシア科学アカデミー極東支部歴史・考古学・民族学研究所)の論文を挙げておきます。↓また、こちらを読むと、林則徐が当時の清朝の国家戦略を考える知識人であったことがうかがえます。
―「19世紀の中国における世界地理への関心と林則徐著『俄羅斯国(オロシャ国)記要』http://src-h.slav.hokudai.ac.jp/jp/news/116/news116-09essay1.html
スラブ研究センターニュース季刊2009年秋号NO116
 
ところで、ブリッジマンが広東にやってきた二年後の1832年に、ポーランド人のギュツラフ(Karl Friedlich Gutzulaff 1803-1851)がマカオにやってきている。キリスト教のアジア宣教が目的でやってきているが、この人物には裏がある。ジャーディン・マセソン商会の手先として、林則徐に対しアヘンの持込みを認めるよう、強硬な要求を突きつけている。またアヘン戦争の南京条約締結の際、通訳をしている。つまり、イギリス帝国が送りこんだワルの一人だ。幕末に武力倒幕を裏でしくんだイギリス外交官アーネスト・サトウの先輩のような人間だ。驚くべきことに、ギュツラフの甥が、幕末日本の英国大使だったハリー・パークス(1882-1885)そのひとである。
 ギュツラフは天才的な語学力を生かして、シンガポールで日本語訳聖書を著して本にした。1832年10月、尾張国(愛知県)の船乗りたちが遭難して、十四カ月も漂流した後アメリカ西海岸に漂着した。岩吉、久吉、音吉の三人である。彼らはなぜか汽船でイギリスに送られ、さらにそこからマカオに送られている。これはイギリスが日本に開国を迫るための材料として、漂流民をとどけるという名目を必要としたからである。
ギュツラフは彼ら三人から日本語を学び、1837年に上述の日本語訳聖書(『約翰福音之傳』(やくかんふくいんのでん-ヨハネ福音書の訳書)を完成した。これが出来上がると、彼らのほか新たに肥後の漁師の漂流民4名を加えて、モリソン号(アメリカの商船)でマカオを出発した。岩吉、久吉、音吉たちはまったく自分の意志とは無関係に地球を一周させられたのだ。しかし、彼らは日本の土を踏むことはできなかった。浦賀にやってきたモリソン号を幕府が砲撃したからである。幕府は当時「無二念打ち払い令」をしいていた。彼らはどこにも上陸することを許されなかった。この時の幕府のやり方を批判したのが、渡辺崋山と高野長英である。これは蛮社の獄へつながっていく。

それからはるかに時がたって、1862年にシンガポールにいた音吉を訪れたのが、幕府の第一次遣欧使節団の一行である。福沢諭吉もこの中に加わっていた。ここで音吉からじかに、イギリス帝国の外交のすさまじさを聞くことができた。福沢はその二年前にアメリカに咸臨丸で渡っている。その航海中にジョン万次郎から聞いた話と、重ね合わせたはずだ。当時の覇権国イギリスに日本が植民地にされてしまわないためには、アメリカのユニテリアンの力を借りなければとても無理だ、と考えただろう。
(ギュツラフについては、島根慶一氏のサイトより「ギュツラフとその時代(1)」
上海ビジネスフォーラムを参考にした。→)http://www.sbfnet.cn/useful/history/41.html
海洋大国イギリスが東アジアに勢力を急速に伸ばしていくなかで、危機を抱いた中国、日本の知識人たちが、イギリスやアメリカから最新の海外知識を得ようとしていた。
次回は、幕末日本人、吉田松陰、佐久間象山、川路聖あきら(かわじ としあきら)らが魏源の『海国図誌』を読んで、どのように思想を変容させていったかについて、書きます。
田中進二郎拝