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加藤(1722) 投稿日:2014/12/24 22:53

【1417】[1736]NY州、シェールガス採掘を禁止

日経以外のメディアでも取り上げられているのでご存知の方も多いでしょうし、いずれ副島先生の新刊でも触れられそうな内容ですが・・・一応貼り付けておきます。

【以下、2014年12月18日の日経新聞(紙媒体では夕刊)を転載】
http://www.nikkei.com/article/DGXLASFK18H2L_Y4A211C1000000/
NY州、シェールガス採掘を禁止 健康への影響懸念

2014/12/18 10:03日本経済新聞 電子版

 【ニューヨーク=杉本貴司】米ニューヨーク州は17日、州内で新型エネルギーの「シェールガス」の採掘を事実上、禁止する方針を固めた。水圧破砕法と呼ぶシェールの採掘手段が、人体に悪影響を及ぼす危険性を排除できないためだ。代表的なガス田を州内の一部に抱えるニューヨーク州の判断に、シェール開発を見直す動きが広がる可能性もある。

 ニューヨーク州の健康局が同日、水圧破砕法に関する報告書を公開した。水圧破砕法の環境や健康への影響は「完全には解明されていない」としつつも「環境に影響を及ぼし、潜在的に健康にも有害であることは明らか」とし「ニューヨーク州では継続すべきではない」と結論づけた。

 これを受け、州の環境保護局と健康局の両局長が水圧破砕法の利用を禁止するよう指示した。ロイター通信によると、マーテンス環境保護局長は17日の州閣議で、2015年初めに正式に禁止を命じると述べた。

 米国内でシェールの採掘を禁じるのは、北東部バーモント州に続いて2例目。ニューヨーク州は州西部に代表的なシェールガス田である「マーセラス」を抱える。同州内での開発地は限られ、すでに採掘を一時的に凍結しているため、今回の採掘禁止が米国のシェール産出に与える影響は小さい。だが、ガス田を抱える州が採掘禁止を表明したことで、同様の動きが広がる可能性もある。

 シェールガス・オイルは、けつ岩層と呼ばれる硬い岩盤に含まれる。ここに高圧で水を注入して割れ目を生じさせる水圧破砕法で採掘する。1つの井戸を掘るのに通常、1500万~3000万リットルもの大量の水を使うため、これまでも地下水の汚染や不適切な排水処理による土壌汚染が懸念され、開発反対を訴える動きが強まっている。

 海外ではフランスで11年に水圧破砕法を禁止する法律が成立。ドイツも今年、7年間、開発を認めないことを決めた。直近では原油価格の下落を受けてシェール開発の米コンチネンタルリソースが投資額を減らすなど、シェール革命に逆風が吹いている。

【新聞転載はここまで】

【(ご参考)某金融機関で販売している投資信託】
※やっているのはここだけではありません。どこの金融機関も、「バンクローン」だとか「シェール革命」をテーマにしたファンドを企画したり、売ったりしています。

『米国エネルギーMLPオープン(毎月決算型)為替ヘッジあり/為替ヘッジなし(愛称:エネルギー・ラッシュ)』
http://www.bk.mufg.jp/tameru/toushin/fund/01122920.html

上記サイトを画面下の方にスクロールすると、「為替ヘッジあり/為替ヘッジなし」両方の運用実績(チャート)が出ています。

「為替ヘッジなし」の方は、円安ドル高の影響で、値動きは荒いものの「人によっては、『押し目買い』によって」利益が出ている状況です。
しかし、「シェールガスってそんなに凄いの? でも為替リスクは怖いから・・・」と考えて「為替ヘッジあり」を選んだ人は、青い線の動きの通り、ほとんどの人が損をしています。(ファンドの残高でもわかるように、販売している金融機関の人間にドル高信者が多いので、「ヘッジあり」を選ぶ人は少数派)

「ヘッジあり」「ヘッジなし」に共通することですが、ファンドの価格推移(青い線)とファンドの残高(ピンクの塗り潰し)を交互に眺めてみれば、価格が安い時に購入して利益が出ている人はほとんどいないという感じがします。

一方で、学問道場掲示板「金融情報メモ」の595、598に貼り付けてあるようなファンドは、そちらに貼り付けてあるリンク先の通り堅調に推移しているようです。
これらのファンドは、販売額限定で売り切ってしまうタイプのものが多いです。運用レポートのpdfファイルを見ればわかる通り、(低金利で)価格がこれ以上伸びていく余地も少ないため、適当な所で「乗り換え」を勧めていくのかなあと思っています。

金融機関にお勤めの方には何ということはないでしょうが、そうでない方には「何となく」でも金融機関の営業現場の雰囲気を掴んで頂く手助けになれば幸いです。

副島隆彦 投稿日:2014/12/22 11:55

【1416】[1735]何があっても 私たちは 元気に生き抜く。 年末年始の生き方の指針。

副島隆彦です。  今日は、2014年12月22日(月)です。

 年末の寒くなった日が続きます。 私は、今年の分の、自分が食べるだけのじゃがいも と玉ねぎ と ピーマンと トマトの収穫を終えて、やれやれです。
不愉快な日が続きますが、このまま生き延びなければ。

 私の新しい本が、この25日には出て全国の書店に並びます。映画評論の本です。
以下のアマゾンのページ  を見てください。  

『 副島隆彦の政治映画評論  ヨーロッパ映画編 』  単行本(ソフトカバー)
発売2014/12/25  副島 隆彦 (著)  ビジネス社 刊

という本です。 今日のぼやきでも 近いうちに内容を 宣伝します。 私にとって死ぬまで手放すことのできない、「 世界中の名作の 政治映画 を解説、評論する本」です。今度は、「ヨーロッパ映画の 近年の名作たち」を論じました。 私のこれまでの政治映画評論の本は、私が死んだ後も読まれ続ける本だと、言われています。私の本を読んでから、過去の名作、大作たちをDVDで借りたり買ったり(今は、かなり安くなりました)して見ると、内容がグッと詰まって分かる、と言われています。「ああ、この映画が描いた真実はそういうことだったのか」と納得するでしょう。

それから、もう一冊、
『「反原発」異論 』 単行本 - 2014/12/25  吉本 隆明(よしもとたかあき、りゅうめい) (著)   論創社(ろんそうしゃ) 刊 

という本も、25日に出ます。 この『「反原発(はんげんぱつ)」異論(いろん)』という本は、私が尊敬して19歳の時から読み続けた吉本隆明(よしもとたかあき、2012年3月16日、87歳で死去)が、「人類が手に入れた原子力の研究をつづけ、原発をより安全なものに開発を続けなければいけない」という主張の本です。

 この “日本の悲劇の革命家” 吉本隆明(よしもとりゅうめい)の遺作(いさく)となった “吉本隆明の最期の闘いの本” の 序文を 20ページぐらい私、副島隆彦が書きました。興味のある人は、書店で見つけてください。 そのうち今日のぼやきでも紹介します。

 今朝(22日)起きたら、ニューヨークで新たに今度は、パトロール中のパトカーの黒人警官2人が、黒人の男に射殺されて、男も自殺、というニューズをやっていました。
私は、最近は、毎朝、NHKの BSチャンネルで、「世界のニューズ」を見ます。これしか見ない。これで十分だ。

 オバマも大変だなあー、次々と事件が起きて、と思いますが、オバマは、なんと19日(金)の夕方には、さっさと家族で、ハワイに休暇に行ってしまった。1月5日(月)まで、たっぷり3週間帰ってこないだろう。

たいしたものだ。オバマのこの余裕は、たいしたものだ。 ヒラリーよ、私の邪魔をして、大事件を起こして、私をハワイから無理やりホワイトハウスに引き戻すことが出来るものなら、やってみろ、 という感じです。
 
下の方に、この数日に次々と起きた事件の記事は載せておきます。

ミズーリ州ファーガソン(州都セントルイスの広域都市の一部)の事件以来の黒人たちの抗議行動では、アル・シャープトンという 名うての老練な黒人の活動家が重要な働きをしている。シャープトンが、オバマの“特使”のような形で、不満分子の黒人たちとの間に立っている。シャープトンは、NYの 黒人地区で、今も尊敬されている黒人の政治家であり、黒人の女(おばさん)たちに人気がある。彼が、福祉のカネや公共住宅の便宜も図る。日本の共産党や公明党の市会議員たちが、全国でやっている仕事と同じだ。

 アル・シャープトンが、地域(コミューニティ=ハーレム、ゲットーともいう)で人気がある、ということは、黒人女たちの息子たちである、どうしようもない暴れ不良たちを抑(おさ)える力がある、ということだ。 これ以上は書きません。私は、今、アメリカ政治ものの 本を書き始めている。 それにたくさん今の現状を書く。

 オバマは、中間選挙(11月4日)に負けて、もうレイム・ダック(びっこのアヒルちゃん)だと、悪口を言われているが、そんなことはない。 オバマは、あと丸2年の任期中を、全力で疾走する気だ。そのことが、私、副島隆彦によく分かった。ヒスパニックの違法滞在者(イリーガル・アライブ)と ビザ切れ滞在者(オーヴァー・ステイヤー)たち500万人へ滞在許可、永住権(グリーンカード)、市民権(シチズンシップ)付与を、この19日に、決断した。これで、オバマは、ヒスパニック系の4千万人の票を民主党支持に固めた。これは米民主党の中のリベラル勢力( 反 ヒラリー派)の大きな財産となった。

 そして、ソニー・ピクチャー・エンターテインメントが制作した、「ザ・インタヴュー」という北朝鮮の金正恩(キム・ジョンウン)体制を痛烈に批判するコメディ映画を公開中止にしたことを、オバマが批判した。と、いうことだが、ソニー・ピクチャーの幹部の嬉しそうな、今にも、涎(よだれ)が出そうな苦しそうな顔でテレビに出ていた。「この映画は、これで大ヒットだ」と。 世の中、そんなものよ。 逆に見なければ。

 19日に オバマはこの件の記者会見、質問受け付けをやったあと、そそくさと大統領専用機(エアフォース・ワン)でハワイに行ってしまった。 「イスラム国(ISL,アイスル)への爆撃命令 はちゃんと出来ているからね。ヒラリーよ、私の邪魔をするならしてごらん」という感じだ。

 オバマは、北朝鮮と交渉を開始している。北朝鮮を取り込む気だ。 そのまえに、イランの核兵器(開発取り止め)交渉だ。その前が、20日に発表のあった 「キューバとの国交回復」のニューズだ。 オバマは、やる気だ。

あ、それよりも、私たち日本人に もっと 重要なのは、実は、 この13日に公表された、「 沖縄の海兵隊 を グアムに 移す 米議会の予算が通った」という記事が重要だ。これで 普天間基地(海兵隊のヘリコプター部隊の大隊)の辺野古崎(へのこざき)への移転問題は、おかしなことになる。沖縄人も、日本政府もポカーンである。 

あ、それよりも、もっと皆さん、今日のぼやきに、私が、「オーストラリアの政治を 大きく分かろう」という文を書いて載せています。 読んで御覧なさい。おもしろくて為(ため)になりますから。

副島隆彦拝

( 資料の新聞記事たち の 転載貼り付け始め)

〇「 警官2人撃たれ死亡=容疑者自殺、警察に偏見-米NY 」
ニューヨーク、 時事通信 2014年12月20日

20日、米ニューヨーク市東部ブルックリンの銃撃現場付近で警戒に当たる警官(EPA=時事)

米ニューヨーク市で20日午後、男がパトカーに乗っていた警官2人に対して発砲、2人は病院に運ばれたが死亡が確認された。容疑者は近くの地下鉄の駅に逃走し、自殺した。

 男はイズマイル・ブリンスリー容疑者(28)。記者会見したニューヨーク市警のブラットン本部長によると、ブリンスリー容疑者は東部ボルティモア市で同日朝、以前のガールフレンドを撃った後、ニューヨークに逃走してきていたという。ブラットン本部長は、ブリンスリー容疑者のネット上の投稿などを踏まえた上で、「容疑者は警察に対して極めて強い偏見を持っている」と指摘。一方、事件はテロと関係はないとの見方を示した。

 オバマ大統領は20日、「警官2人の射殺を無条件で非難する」とする声明を発表。暴力や暴言を拒否し、犠牲になった警官の遺族や友人に悲しみの気持ちを伝える言葉を考えてほしいと呼び掛けた。

 事件はニューヨーク市東部のブルックリンで発生。容疑者は駐車中だったパトカーに歩いて近づき、助手席側の窓から至近距離で2人に複数回発砲した。警察によると、容疑者は待ち伏せをしていて、予告なしに撃ったという。

〇 「 NY警官射殺で支援約束=米大統領 」
時事通信  ワシントン  2014年12月22日(月)

休暇でハワイ滞在中のオバマ米大統領は21日、ニューヨーク市で警官2人が射殺された事件を受け、市警のブラットン本部長に電話し、哀悼の意を伝えるとともに、事件への対処で全面的に支援すると約束した。ホワイトハウスが発表した。

〇 「 キューバ・米 経済改革へ現実路線 ラウル政権、「反米」転換に布石 」

朝日新聞 2014年12月20日(土)

 半世紀ぶりに進む米国とキューバの国交正常化。キューバ側には米国との関係改善で経済改革が進み、体制維持につながるという思惑がある。2008年に国家評議会議長に就任したラウル・カストロ氏は「反米色」を次第に弱め、そのための布石を打っていた。

 国交正常化が発表された17日、スパイ容疑で逮捕され、長年米国の刑務所に収監されていた3人のキューバ人が釈放された。彼らの帰国は、その夜のニュースでひっそりと報道された。キューバ側は彼らを「英雄」と呼び、彼らの釈放を呼びかけてきた。それだけに今回の突然の帰国の伝え方がつつましやかだったことが、みなを驚かせた。……

〇「 米国との国交正常化支持=キューバ国会が満場一致で 」

時事通信 2014年12月20日(土) 

キューバの国会に相当する人民権力全国会議は19日、米国との国交正常化に向けたラウル・カストロ国家評議会議長の決断を満場一致で支持した。キューバの国営通信社が報じた。
 会議には、米国が釈放した情報機関員3人も出席。キューバの長年の懸案だった情報機関員の帰国が実現したことに対し、執行部から感謝の意を表明する文書も読み上げられた。 

(転載貼り付け始め)

◯ 「 米、国防権限法案成立へ 海兵隊グアム移転予算執行可に 」

時事通信  2014年12月13日

 米国防権限法案は 12月12日、上院で可決され、連邦議会を通過した。日米両政府の懸案だった在沖縄海兵隊のグアム移転予算の執行凍結が全面的に解除され、両政府は米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古移設の進展につながることを期待している。オバマ大統領の署名を経て、近く成立する見通しだ。

 法案は2015会計年度(14年10月~15年9月)の国防予算の大枠を定めたもの。イラクとシリアで勢力を広げる過激組織「イスラム国」掃討作戦の経費約50億ドルも含まれている。米政府は法案成立を待って、「イスラム国」と戦うイラク政府軍やシリア反体制派の訓練に本格着手し、戦局打開につなげたい考えだ。

 法案はまた、中国の台頭を含む広範な外交・安全保障上の課題を網羅している。このうち中国については、東・南シナ海での中国の活動を報告書にまとめ、議会に提出するよう要求。中国が進める「接近阻止・領域拒否」戦略についても、国防総省の対抗能力などを評価し、議会に知らせるよう求めた。

 日米同盟に関しては、米韓同盟とともに「(アジア・太平洋)地域の平和と安全の礎石」と位置付け、集団的自衛権の行使を容認する日本政府の決定を「歓迎する」と明記した。

 一方で法案は、キューバ・グアンタナモ米軍基地のテロ容疑者収容施設の収容者について、米国移送を禁じる条項を維持。オバマ大統領の公約である施設閉鎖のハードルになりそうだ。 (時事)

〇「 米移民法改革、ビザ失効後の外国人滞在者の特定が問題 」

2013 年 2 月 19 日 ワシントン 時事通信

 米移民政策における長年の課題、すなわちビザ(査証)が失効しても帰国しない外国人の特定が、上院議員とオバマ大統領 が目指す包括的な移民法改正で重要な問題として浮上してきた。

 米上院は、不法滞在者の追跡を政府に求める移民改革法案を議論している。ただ問題は、米国は現在、これを行うための信頼に足るシステムを持ち合わせていないということだ。

 民主・共和両党の議員で構成される超党派の上院議員グループは、従来より優れたビザの追跡システムの導入と、国境警備の強化を訴えている。またそれは、提案されている新しい移民法のもとで市民権取得の申請が可能になる前に行われるべきだとしている。ただオバマ大統領はそういった前提条件は望んでいない。現在、米国には1100万人の不法滞在者がいると推測されている。

 不法移民を巡る議論はしばしば、メキシコから国境を超えて米国に入り込むイメージを伴うが、現在、不法に滞在している外国人のうち、有効なビザで入国した人の割合は40%を超えるとみられている。

 連邦議会は2001年9月11日の同時多発テロ攻撃以降、システム強化に向けて動いた。外国人は今、入国の際に指紋を採取される。同じようなバイオメトリック(生体測定)を使ったシステムを出国時にも導入することが決められた。しかし、多額の費用がかかる上、システムの構築も困難で、設置には至っていない。加えて、空港内にはそういったチェックを実施するための場所がない。

 上院が移民法の大幅改正に取り組む中、ビザの失効後の滞在の問題はあらたな注目を集めている。超党派グループの一員であるマルコ・ルビオ上院議員(共和、フロリダ州)はラッシュ・リンボー氏のトークショーで「われわれは出国時の記録はとっていない。入国の際に記録しているだけだ」としたうえで、「実施に向けたメカニズムが導入されない限り」移民改革法案を支持しないと述べた。

 上院グループは3月までに法案を提出する方針で、今春には審議を始めたい意向だ。オバマ大統領は進展がなければ独自に法案を提示するとしている。ただ、ホワイトハウス関係者らは今のところ、進ちょく具合に満足しているという。

 移民改革法案に詳しい関係者によると、大統領があたためている法案には、犯罪歴審査で問題がなく、指紋などのバイオメトリック情報を提出し、申請料を支払った不法滞在者は直ちに「Lawful Prospective Immigrant(LPI)」と呼ば
れるビザの申請ができる資格を与えられるルールが盛り込まれるとみられている。

 さらに大統領案ではLPIを取得してから8年後、英語と米国の歴史を学び、税金を遡って収めれば、グリーンカード(永住権)の申請資格が得られることになる。グリーンカードの取得からさらに5年を経ると、市民権取得の申請が可能になる。

 合法的に永住権を申請している人々の事務処理を政府が迅速に進めれば、不法滞在者の永住権の申請が8年より前に可能になるかもしれない。この大統領案の詳細は米有力紙USAトゥデーによって先に報道されたものだ。

 ビザの失効後も米国に残留している外国人の人数は誰も把握していない。最も一般的に言われている数字は400万から500万だ。これは2006年のピュー・ヒスパニック・センターによる調査に基づいているが、同センターは1990年のデータを使用した計算方法を採用している。

 米国土安全保障省によると、2011年には1億5900万人の非移民が米国を訪問した。そのうちの4分の3以上は旅行が目的だが、数百万人は仕事を兼ねた旅行者であり、一時的な就労者であり、学生だ。移民問題を研究する非党派のシンクタンク、マイグレーション・ポリシー・インスティテュートによると、ビザ失効後の滞在を管理するシステムを構築している国はオーストラリアや日本など一握りほどしかない。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

副島隆彦 投稿日:2014/12/16 11:33

【1415】[1734]あの「舌足らず」の 僕ちゃんの、安倍晋三の暴走が続く。

副島隆彦です。 今日は、2014年12月16日です。

 総選挙が終わって、その日のうちに結果はだいたい決まった。
 私は、15日の朝の3時に起きて、テレビを見たら、最後の「475人目が、比例での私の当選でした」 という 菅直人(かんなおと)の 武蔵野市の事務所からの会見だった。 

 ハゲがひどくなって、うつろな顔になって見るのも見苦しい顔になっていた。自分の仲間たちを裏切って、アメリカ(ジェラルド・カーティス)の言いなりになって、日本国民を地獄の苦しみに追い込んだ、報(むく)いが表情の全面に出ている。元々は悪人顔ではないのだ。慣れない悪(ダーク・サイドだ)の側に身を落としてしまうとこうも惨めな顔になるものか。

 選挙の結果は、何も変わらなかった。何のための選挙だ。一体、誰がこんなヤラセのインチキ選挙を仕組んだんだ。民主党の海江田万里(かいえだばんり)代表(党首)が、東京1区(千代田区と新宿区の東半分か?)で落選して、 それが、日本のリベラル派の勢力にとっての痛手だった。

 それ以外は、何の変化もなかった。投票率は、戦後最低の 52.67%だったそうだ( 記事を後掲する)。 一体、こんな無駄で、馬鹿げた選挙を誰がやらせたのだ。安倍晋三たちが決めてやったとは、今の今も信じられない。アメリカのどこかがやらせたのだ。
日本国民まで出汁(だし)で使われて、国民なんか、何の力もない羊の群れにされた。

なんでもかんでも、「官邸(かんてい)主導」で、大統領制の国にアメリカの計画で改造されている。各省の官僚たちも、「内閣府人事局(ないかくふじんじきょく)」というのを作られて、「官邸に逆らう者は、天下り先=再雇用をしない」と、シバキ揚げられて、脅されて、屠殺場送りのブタの群れのように、ブーブーと、パソナ南部(親分は、竹中平蔵と孫正義)が作った、再雇用先の斡旋・紹介所に並んでいる。 この内閣府人事局の、刑務所長は、泣く子も黙る、あの“大姐御”の稲田朋美(いなだともみ)政調会長だ。

 日本国民は本当に迷惑だ。自分たちの代表が政治をやっていない。この人物なら、皆で尊敬できて世界に出してもおかしくない、という人間が、日本の国の代表になっていない。ヒドイ国だ。

 日経新聞でさえ、「自民党、投票率48%で議席の76%」(15日、夕刊)と書いていた。 比例代表並列性(ひれいだいひょうへいりつせい)という制度で、200人の小選挙区での当選(これが、上級市民)以外に、275議席が比例区とか、惜敗率(せきはいりつ)での当選となっている。 

 ドント式(ドントという名のイタリア人の選挙学者が作った計算法か?)とかいう奇妙な得票割りで、沖縄の候補者は、選挙区で落ちた自民党の連中までそれこそ全員、当選している。一体、沖縄だけで何人の国会議員がいることになるのだ。選挙制度まで、始めからいじっておかしくなっている。

 誰が、何のために行った、総選挙であったのかが、誰も分からないでキョトンとしている。安倍晋三の長期政権の布陣のためだ、と安倍晋三の回りも思っているのだろう。だが、それはちがう。アメリカの大きな計画の一環だ。日本を中国にぶつけるための、軍事物資、兵器、軍艦とかをどんどん買わせるための、安保マフィアどもによる、日本国の、上からのいいように、日本をあやつる 計画の一部だったのだろう。私は、いまから、その背景を探る。 

 屠殺場に送られるブタの子のように、日本人を取り扱いやがって。アイツラは許せん。

(転載貼り付け始め)

「 衆院選 投票率は戦後最低に 推定52.67% 」

毎日新聞  2014年12月15日 (月) 

 毎日新聞の調べでは、第47回衆院選の投票率(小選挙区)は52.67%で、戦後最低だった2012年の前回選挙(59.32%)を下回る見通しだ。

報道各社の情勢調査で選挙戦序盤から自民党の優勢が続いたうえ、同党が争点に掲げた安倍政権の経済政策「アベノミクス」などを巡る与野党の論戦も盛り上がらず、有権者の関心が高まらなかったとみられる。日本海側で大雪になるなど天候に恵まれなかったことも影響したとみられる。当日有権者数は1億389万4498人だった。

 毎日新聞が5~7日に実施した特別世論調査では、投票に「必ず行く」との回答が65%と前回選挙時(69%)を下回り、投票率のさらなる低下が懸念されていた。

 一方、総務省が14日に発表した期日前投票(小選挙区)の最終投票者数は1315万1966人(速報値)で、前回選挙から9.23%増加した。宮崎県(32.71%増)、岐阜県(22.49%増)、新潟県(22.08%増)など42都道府県で前回より投票者数が増えた。

 12月の衆院選は過去に5回あり、1969年が68.51%、72年が71.76%、76年が73.45%、83年が67.94%、12年が59.32%だった。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

副島隆彦 投稿日:2014/12/13 19:33

【1414】[1733]明日の投票が気がかりだ。安倍晋三たちは不正選挙(投票数のコンピュータでの変更操作)をするのではないか。

副島隆彦です。

私は、明日の総選挙( 衆議院選挙のこと。憲法7条3項「天皇の国事行為」を悪用した 違憲 の突然選挙だ)の結果が気がかりだ。

 安倍晋三たちは、「自民党単独で300議席の大台載せ」をあんなに燥(はしゃ)いで、手先のメディア(テレビ、新聞)を使って総動員で宣伝している。どうして、こういう違法な公選法(こうせんほう)違反の 国民洗脳に等しい、扇動を行うのか。

 私が一番、危惧(きぐ)するのは、安倍晋三たちは、ムサシとか、かつて富士ソフトとか呼ばれた、選挙投票の数字のコンピュータの数字を改竄(かいざん)、変更する 犯罪の 不正選挙を行うのではないか、だ。

 こういう事態になったら、日本は、ただちに 統制国家の、おそろしいファシズム国家になってしまう。「中国や、韓国なんか、もうちょっと痛めつけてやれば、いいんだよ、安倍ちゃん頑張ってくれよ」というゴロツキに近い、右翼的な人間たちが、徘徊して、日本は、急激に、おかしな国になっている。

 ただでさえ、統一教会=日本会議=幸福実現党の 危険な人間たちが、大臣の椅子の18のうちの15を占めている国だ。 一体、いつの間に、こんなに絶望的な国になったのか。

 選挙で不正が行われて、それを、警察庁もグルで見逃すというか、内部がその片割れだったら、いよいよ ナチス・ドイツがやった、ドイツ国会焼き討ち事件のようなことになる。民主派の人間たちは、どんどん牢屋に放り込まれてしまう。私、副島隆彦のような人間が一番先に、狙われるだろう。 私は腹を決めて覚悟しているから構わない。

 国際社会にお願いして、日本に諸外国から選挙監視団を派遣してもらう必要がある。

 2010年の9月14日の、民主党の代表選挙では、富士ソフトという、投票数をコンピュータで改変する不正装置を使って、不正選挙をやった。それで、菅直人が、小沢一郎に勝った( 206 対 200)という謀略をやった。あの時は、警察は捜査に動かなかった。

 民主党という私的な団体の内部の自治の問題で、公職選挙法の適用がないからだ(アハハ)、とされた。おかしな話だ。 今回、ムサシという ソフトが使われて、大規模な得票数の違法、いや、犯罪的な操作が、行われて、自民党が300議席以上の圧勝という、奇妙な結果が出たら、日本人の富裕層で、将来を悲観する人たちは、この国からどんどん脱出するだろう。 自分の資産が、ファシズム政権に狙われると体で感じて、嫌(いや)というほど分かるからだ。

 いくら他に、国がヒドイと言っても、タイやエジプトの 軍事クーデターのあとでも、多くの国民の不服従の闘いは続いている。日本は、「自民党以外に入れる政党がないんだよ」と、エヘラ、エヘラと、奇妙な下品な笑い声をあげながら、人格をどんどん卑しくした者たちが、「自分は、いつも勝ち組だ。負け組の冷や飯食いにはならないよ」と、 穢(きたな)らしい表情で、今を生きている。

 自分たちにも、やがて悲惨な運命が押し寄せて来る、ということに自覚がない。 
年収一千万円ぐらいの 大企業エリートサラリーマン層が、一番、恩恵を受けていない、と言われている。アベノミクスで、一体、日本人の誰がいい思いをしているか。

 アベノミクスが争点といいながら、安倍たちを裁(さば)こうとしない。これほどの政治の大失敗で、日本人は、どんどん貧乏になっている。若者たちに職がない。アメリカに多くの日本の資金を奪いと取られて(年金も、ゆうちょ・かんぽも、米国債買いで、貢がされて)どうしようもない国になっている。 赤貧(せきひん)洗うが如しの国になっている。

 それなのに、安倍晋三たち 責任者の首をすげ代える、ということが出来ない。安倍晋三たちが、自分で決めて、こんな意味のない、総選挙をやらかしたはずがない。全部、アメリカの命令だ。  

 消費税の10%への値上げを、「やめろ」と、日本を叱りつけてやめさせたのは、ジェイコブ・ルー米財務長官だ。 9月21日のG20の時に、ルーが言い出した。そして、10月中に根回しして、日本に厳命した。 「これ以上、日本が、マイナス2%(7-9月)、その前の四半期(4-6月)が、マイナス8.6% で、大きく崩れると世界経済に悪影響を与える」とルーが判断した。

 7-9月のGDPの成長率(下落率)の速報値が、11月17日まで出ない、というのはマンガだ。漫才だ。どうしてこういう おかしなことを、やり続けるのか。 

 少しでも頭のいい人は、「安倍首相たちは、国会議員の3分の2を取って、憲法改正をしようとしている」(ただし、参議院までは、あと2年掛かる)と考えている。 私もそうだろう、と考える。アーミテージやマイケル・グリーンの安保マフィアの、ジャパン・ハンドラーズ(日本あやつり対策班)が、そのように、日本の軍国主義化を画策している。

 私は、今、アメリカ政治の中身を調べている が、アメリカのオバマ政権の中の、国務省の高官たちが、どんどん凶暴なヒラリー派によって置き換えられている。 それに対して、オバマ大統領=バイデン副大統領=ジョン・ケリー国務長官 たち、穏健派で、「大きな戦争 large war は、アメリカはしない」という勢力が、どんどん追い詰められている。  

オバマは、自分の大統領としてのこれまでの6年間のレガシー(legacy  遺産、業績)を守ろうとして、凶暴な好戦派の軍産複合体(ぐんさんふくごうたい)のヒラリーたちのいいようには、させない、と しぶとく冷静に行動している。

 だから、2年後の、2016年11月のアメリカ大統領選挙までは、オバマが、必死で世界戦争(大きな戦争)を、食い止める。だが、2017年になって、ヒラリーあるいは、それ以外の凶暴な女が大統領になったら、人道と人権を奇っ怪な旗頭(はたがしら)にして、それで中東(ちゅうとう、アラブ、ミドル・イースト)だけでなく、その他に、アジア地域(リージョン)でも、戦争を起こそうとする。 次の米大統領は、女と、決まっているようだ。

 ヒラリーたちのことを、人道主義的介入(かいにゅう)主義者(ヒューマニタリアン・インターヴェンショニスト)と言う。彼女らは、実際に、すでに、ネオコン派、軍産複合体と合体している。

 アメリカは次は、女の大統領になる、と決まっているようだ。ということは、日本の今の女の大臣たちが、あんなに、目の据わった気持ちの悪い、奇妙な政治宗教に狂った、極右(きょくう、ファー・ファー・ライト)の女たちになっていることを見てみれば分かることだ。

 私たちは、いよいよ 各自が、腹を決めて、これからの自分の人生を防禦(ぼうぎょ)しなければいけない時代に、突入したのだ。甘い考えを捨てて、対処しなければいけない。 あいつらは悪魔(あくま)だから、なんでもする。すでに、ワル、とか悪党というレベルを越えたのだ。 

私は、目下の事態を、相当深刻に 憂慮している。皆さんも各自、気をつけてください。

副島隆彦記
  

広島・西 投稿日:2014/12/11 08:58

【1413】[1732]コート・ダジュール

副島先生が会員版ページにグレース・ケリーについて書かれていたちょうどその頃、コートダジュールを旅していました。
主な滞在先はエクサンプロバンス(Aix-en-Provence)、マントン(Menton)、ニース(Nice)の3箇所。この内のマントンとニースが地中海沿いで、いわゆるコート・ダジュールということになります。マントンはニースをふた回り位小ぶりにした位のイタリアとの国境に隣接する街で、かつてジャン・コクトーが住んだ街です。

マントン、ニースとも11月中下旬でも日中気温が18度程度はあり、さらに日差しが強く感じられ、日中はコート無しでも十分過ごせました。緯度が高いのになぜ日差しを強く感じるのか不思議ですが、地中海の反射ということもあるのでしょうか?その点私には不明でしたが、人々のサングラス着用率はかなり高かったです。夏は国中からバカンスを過ごすために人で溢れかえるでしょうが、11月はシーズンオフでホテルのいくつかは長期休暇という所もありますし、また町のあちこちでインフラの工事をやってました。でもシーズンオフだからこそホテル料金は格安です。副島先生が「1泊5万円はする」と書いておられましたが、マントンの駅から徒歩10分以内で海沿い、三星のホテルでオーシャンビューの部屋が2人部屋一室1泊98ユーロ(1€=148円として14504円)でした。部屋は広くはありませんが、バスタブ付きのバスルーム込みで大体30m²、それに加えて椅子とテーブルの置かれたベランダがついています。11月ですのであまり混み合ってはいませんでしたが、ホテル内で聞こえてくる言語はフランス語の他、ドイツ語、イタリア語で、オフシーズンでも避寒の為にそこそこ観光客はいるようです。もちろんハイシーズンの6月~9月は客室料金は2倍、3倍になるでしょうし、冬場は使っていない海が見えない側の部屋も満室になることでしょう。

マントンの街は年寄り、犬、美容院、不動産屋、薬局が多いというのが印象で、恐らく小金持ちの年寄りが引退後に引っ越してきたのではないかと、彼らの身なりや振る舞いから勝手に想像しました。年寄りと犬に関しては、フランスもかなりの長寿国ですし犬好きの国民性を考えると、マントンだけの特徴とは言えないかもしれません。外出できるお年寄りの皆さんで、日本の老女に人気の手押し車を押している人は皆無、恐らく彼女らの審美眼からは外れるということでしょうか。
不動産屋の広告をじっくり見てこなかったことを後悔しましたが、ニースから電車で東に約20分のアンティーブという街の不動産屋のウインドウを見たところ、庭付きの別荘風のものは130万€位(1億9240万円!)、広さが明記されていない2DKの集合住宅の一部屋でも35万€(5180万円)という、驚きの価格設定でした。
コートダジュールの不動産価格は高値安定しているのではないかと思われます。
アンティーブには広いヨットハーバーもあって、遠洋航海ができるようなレーダーを備えた大きなヨットやクルーザーがズラリと停泊してました。

物価は全般に高く、ホテルの人もマントンはレストランが高いと言ってました。が、それにも増してのこの円安、、、。アベノミクスではなくアヒェ~ノミクスという感じで、レストランの看板を見てはアヘェ~、洋服屋に入ってはアヘェ~と、ため息と驚きが混じりあった声をあげざるを得ませんでした。ランチでは一番安いセットメニューでも大体15€程度(2220円)、夕食では25€(3700円)が平均。ホテルで紹介された中華料理屋で25€支払って頼んだセットメニューで出されたアスパラガスのスープがインスタントの味で、しかも蟹ではなくカニカマが載っていた時には怒りで震えがくるほどでした。そもそもこの店は表に「寿司」と書かれた提灯がぶら下げられており、アジア料理(風)なら何でもあるような店、その店構えを見て嫌な予感がしたのに撤退しなかったことを悔やみました。
 円安で大企業が儲かって良きことのように言われていますが、海外に出てみるとよく判るのが自国通貨の価値が落ちていること。買い物の度に寂しさとも惨め(みじめ)さともつかない嫌な感じがします。このことが身銭を切って判ったのはひとつの収穫だったかもしれませんが、切り傷は痛かった、、、。「取り戻す」という標語は、一体何を「取り戻したい」と思っておられるのか?ひょっとして庶民が海外旅行などとてもできなかった、1ドル360円だった頃だったりして!?

実際にお金を使ってみての印象としては、1€が100€105円だと妥当という感覚です。観光地・別荘地として若干物価が高いとして、それくらいなら「まあ仕方がない」という程度でしょう。全般的に高めなのが既に述べた不動産、レストランでの外食の他、衣料品、スパ等のサービス産業。一方で割安感があるのがフランス国鉄、ローカルバス、美術館などの入館料、ワイン。市場やスーパーで売られている野菜等の食材は、ほぼ日本と同等という感じでした。

 別荘の規模を知る絶好スポットはマントンの東側の隣町、ロクブリュヌ・キャップ・マルタン(Roquebrune-Cap-Martin)の、マルタン岬の遊歩道をぐるりと一周するのがお奨めです。どこからどこまでが敷地かが分からないような豪邸が立ち並んでいます。もっとも敷地が広すぎるため、家が見えないという難点はありますが。岬の周辺だけでなく、海岸方面から山の中腹にある中世の村に向かう坂道にもかなりの豪邸が並んでいます。また岬からはモナコの景色を眺めることができ、狭い所にギッシリと高層ビルが立っているのが見えます。

 実際にモナコをしかとこの目で見たのが、マントンからニースにバスで移動した時でした(フランス国鉄がストライキ中で間引き運転をしていた為、バスで移動しました)。モナコだけ南仏でも異質な感じで、空気中にお金の臭いがプンプン漂う感じです。ビルもピカピカした金属的な光沢を放ち、建築基準が明らかにフランスとは違うのではないかと思います。この辺りのホテルは、それこそ一部屋5万円、10万円というものではないかと想像します。私は見るだけでお腹いっぱいになりましたので、通り過ぎるだけで十分でした。

 この円安のせいもあってか、全般的に日本人観光客(と思われる人達)は少なかったです(パリにはそれなりにいるでしょう)。そもそもマントンは人気のエリアではない為に少ないということはありますが、エクス、ニースでも同様です。逆に増えたのが中国人観光客でアンティーブでもその団体に遭遇しましたし、ニースのホテルでも若い中国人の団体が来てました。話しかけたら上海から来た学生さんで、服装や物腰も大変洗練され、英語もとても上手でした。日本では若い人達の「内向きさ」が話題になっている中、上海の学生さんから発せられる弾けるような躍動感から「こういう中国の若い人達が、これから世界に羽ばたくのだろうな」という印象を受けました。

 以上、思いつくままに書いてみました。
ともかく始終『日本は経済大国???』ということを強く感じた旅でした。

相田 (Wired) 投稿日:2014/12/10 22:14

【1412】[1731]思想対立が起こした福島事故[第1章終わりの②]

みなさんこんにちは。相田です。

 今回で素粒子論グループ編を終わり、こちらへの投稿も一段落とさせてください。

 これまで物理に関する話を続けてきましたが、私は本格的に物理を勉強したことなどなく、自己流で参考書をつまみ食いしたレベルです。私の話を物理の専門家が見ると「こいつわかってないな」と、たちどころにバレると思います。

 本論考の狙いは物理の薀蓄(うんちく)をつづるのではなく、福島原発事故の起こった背景を明らかにすることなのですが、第1章では主な登場人物紹介の段階で終わってしまいました。島村武久(しまむらたけひさ)氏や中島篤之助(なかじまとくのすけ)氏などの未登場の重要人物もいますが、第2、3章で触れる予定です。

 第1章では武谷三男を中心に説明しましたが、第2章の内容は伏見康治を軸に話を進めます。本論考の核心となる第3章もある著名な物理学者が主役となります。この人物の晩年の提言をまじめに取り上げなかったことが、福島事故につながったと私は思っており、ここを書き終えるまでは続けるつもりです。

 ここでの話に興味を持って読んで頂いた方々に感謝します。

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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」

第1章 素粒子論グループの光と影
1.10 そしてユダ- 福田信之(続き)

 筑波大学開学時の初代学長には三輪知雄(1973-76)が就任し、宮島龍興(1976-80)が後を継いだ。建学の最大功労者である福田は強烈な個性が災いして、当初は学長就任を控えていたが、実質的な「影の学長」として学内を掌握したようである。筑波へのキャンパス移転の成果を認められた福田は、当時の自民党幹事長の中曽根の政策ブレーンの一人に抜擢されて、政治的な活動も強めていった。

 筑波大開学当初の福田の様子については、ソフトウェア研究者の今野浩(こんのひろし)氏の著作「工学部ヒラノ助教授の敗戦」(青土社、2013年)の記載中で垣間見える。本著作は「世界最大規模のソフトウェア中心の計算機科学科を作る」という触れ込みで、新生筑波大学に助教授として招かれたヒラノ氏(=今野氏)が、その構想の仕掛け人である福田に最初に挨拶に出向く場面から始まる。約束時間から30分以上遅れて現れた福田は、その場でおもむろに電話を掛けて「中曽根君」と呼びかけながら幹事長と話し込んだという。電話を掛ける前に福田は、ヒラノ氏と彼の新たな同僚に辞令を無造作に渡しながら、「何があっても赤旗だけはふらないでくれよ」と釘をさしたそうである。その後に展開されるドラマについては、今野氏の著作をご参照されたい。

 1980-86年には福田自らが筑波大の学長を務め、筑波大発足から合わせて13年に亘って権力を振るうこととなる。その間の筑波大では、左翼活動を行う学生は即刻退学させられる一方で、統一教会系のカルトサークルが公認されて、活発に活動していたという。1984年に筑波大学で開催された「科学技術と精神世界」と題する日仏協力国際シンポジウムは、統一協会の庇護を受けたイベントであり、多数のオカルト系の発表講演が国立大学内の会場を借りて堂々と行われるという、信じ難い状況が繰り広げられたらしい。さすがに当時の反省から、近年の筑波大学では福田色を一掃するような対応が取られているそうである。

 ここまでの話では原子力について全く触れていないのだが、実は福田は日本の原子力開発にも大きな影響を与えている節がある。1974年4月に原子力委員会の常勤委員として、東京教育大学長を勤め上げたばかりの宮島龍興が就任した。原子力委員会とは、日本の原子力政策の基本方針を決めるための(名目上の)最高機関とされている組織である。原子力委員会設立の詳細については、本論考の第2章で説明する予定である。宮島を原子力委員に推薦したのは、当時の科学技術庁長官で原子力委員長を兼任する衆議院議員の森山欣司(もりやまきんじ)である。(当時の原子力委員長は科学技術庁長官が兼任していた)

 科学技術長官時代の森山は、それまでの長官が青森県民の猛反対を受けて結論を先送りしていた、「原子力船むつ」の試験航海を強行した張本人であり、その途中で「むつ」に放射線漏れのトラブルが起きたことから、大きな非難を浴びることとなった。さて、森山が科技庁長官に就く前の原子力委員会においては、委員の任命・交代の場合には、事前に他の委員全員の了解を得た上で発表する不文律があった。しかし森山はこの慣習を破り、宮島の委員就任を独断で決定し、このことが波紋を呼ぶことになる。

 この森山による宮島の原子力委員就任の決定に対して、原子力委員(非常勤)の一人で立教大学の物理学の教授である田島英三(たじまえいぞう)が異議を唱えた。田島はかねてより、原子力委員会に安全研究の専門家が不在であることに懸念を表明しており、次回の委員交代の際には安全担当の専門家を招くべきと主張していた。しかし森山は田島の要望を排し、原子力推進派とみなされていた宮島を独断で新たな委員に任命した。結局、田島は森山に抗議して原子力委員を辞任するが、この問題は当時のマスコミに大きく取り上げられた。

 その後に「むつ」の放射線漏れ事件が起こった際には、その田島本人が青森まで招聘されて「むつ」に乗り込み、事態の収拾を行うことになる。このあたりの経緯の詳細は、田島の自叙伝の「ある物理学者の生涯」(新人物往来社刊、1995年)に描かれているので御参照されたい。余談になるが田島は、立教大に移る前は理研の仁科グループに在籍しており、長岡半太郎の実子で後の日本原子力研究所副理事長に就任する嵯峨根遼吉(さがねりょうきち)の指導の下で、サイクロトロンによる原子核実験を担当していた。

 田島は、終戦後の米軍によるサイクロトロン破壊にも直接立ち会っており、田島の自叙伝にはその際の詳細な状況が記されている。戦後になって田島が理研から立教大学に移る際には、武谷三男も理論物理学の教授として立教大に招かれている。武谷にとってこれが、最初で最後の大学へのパーマネントな「就職」であった。

 話を福田に戻すと、教育大移転闘争の経緯を考えると、森山に宮島の原子力委員就任を推薦したのは、おそらく福田であろうと私は考える。宮島自身は非常に線の細い性格であったとされており、このようなトラブルの中に率先して飛び込めるような人物とは私には思えない。原子力委員時代の宮島にはさらに面白いエピソードがある。宮島は1974年にロンドンで開かれた「科学の統一に関する国際会議」というイベントに、原子力委員の肩書きで参加したが、この会議の主催者は統一教会であり、文鮮明による挨拶も行われたという。

 1978年6月5日の国会の科学技術振興対策特別委員会において、森山の次に科学技術庁長官を務めた熊谷大三郎(くまがやだいざぶろう)が、共産党の市川正一(いちかわしょういち)議員から、原子力委員としての宮島の行いに関して厳しく追及された。私はこの話を、SNSIの中田安彦氏がジャパンハンドラーズのブログの中で取り上げた記事を読むことで、初めて知った。宮島を統一教会のイベントに参加させるために、ロンドンまで連れ出した黒幕は、どう考えても福田であるとしか思えない。

 同じ国会の議論において市川議員は、当時の日本原子力研究所理事長であった宗像英二(むなかたえいじ)が、統一教会の下部組織である世界平和教授アカデミーの機関紙「季刊アカデミー」に寄稿した事実についても追及した。福田はこの世界平和教授アカデミーの有力メンバーの一人でもあった。

 このような一連の話から70年代以降に、原子力委員会や原研幹部等の原子力関係者の間に、反共を掲げる統一教会系の人物達が集まりつつあり、その裏で糸を引いていたのが福田ではないかと、私は疑っている。森山欣司、宗像英二の二人については、本論考の重要人物でもあり、後半に再び取り上げる。

 勝共連合や原理研究会(CARP)のサイトを眺めてみるとわかるが、彼らのサイトのほとんどには、原子力についての肯定的なコメント(軽水炉再稼働の即時実施、核燃料サイクルの堅持、etc)が書かれている。その内容には、相当に専門的な処まで理解していなければ、書けないような記述も多い。彼等の意見ははっきり言って、私が本論考で述べる考えにかなり近く、彼等のコメントを読む限りでは大変結構なことだと思える。しかしながら私は、「あんた達はその話を一体誰に聞いたのだ?」と、思わず突っ込みたくなる。どうせ福田から聞いたのだろう。

 右翼評論家として名高い渡部昇一(わたなべしょういち)は、統一教会とも関係が深い人物といわれているが、以前に福田信之から「渡部君、この高速増殖炉(もんじゅのこと)という技術が完成したら日本は、500年-1000年という単位でエネルギー問題から開放されるんだよ」という話を聞いたそうである。最近の渡部は、あちこちのセミナー等に出かけて行って、原発の早期の再稼働と核燃料サイクルの継続推進を訴えているようである。はっきり言って、大変大きなお世話である。

 左翼研究者達の問答無用の原発反対も困ったものであるが、右翼連中が訴えるバラ色の原発推進論も、同じ位に傍迷惑な話である。どれだけまともな内容を訴えた処で、その出発点が政治的に歪んだ理想の実現を目指したものであるならば、彼等の主張は技術を危険な方向に導くものでしかない。原子力は大変危険な技術ではあるが、それを用いることで得られる恩恵もまた大きい。原子力に向き合う際には、政治思想の思惑を排した冷静な技術判断が必須であると私は思う。

 しかし本論考で述べるように、日本の原子力開発は何故か最初から、左翼と右翼の壮絶なぶつかり合いで始まってしまうのである。その後に「技術的にまっとうな方向」に修正する努力が幾度も行われたにも係らず、それらの「まっとうな努力」に対しては、左翼と右翼の両方が反対し、寄ってたかって全て潰してしまったのである。その結果引き起こされたのが、3.11福島事故である。原子力関係者連中の間にあった政治思想の対立が、福島事故の本質的原因と私は考えており、本論考で最も訴えたいのはそこである。

 話を福田自身に戻す。筑波大学発足後にも強大な権力を振るい続けた福田は、宮島の後釜としての原子力委員への就任も視野に入れていた可能性があると、私は思っている。しかし「幸いにも」というべきか、そのような事態を迎えることはないまま、福田の晩年は意外な悲劇で幕を閉じることとなる。以下は今野浩氏の「工学部ヒラノ助教授の敗戦」から引用する。

―引用はじめ―
 ミスター筑波大と呼ばれた福田信之教授は、6年にわたって副学長を務めたあと、学長として6年間筑波に君臨し、1980年代半ばに東京理科大の教授に迎えられた。しかしこの頃を境に、バッタリその名前を耳にすることはなくなった。反共で連帯を組んだ中曽根康弘氏が総理の座にあった80年代半ばには、もっと活躍してもおかしくなかったはずだが、何故かこの頃はすっかり過去の人になっていた。そして90年代に入ると、筑波大学を建設した功労者としてよりは”筑波の独裁者”、”文鮮明の協力者”という名前が残ったのである。

 1994年の秋、ヒラノ教授は福田元学長の訃報に接した。そして週刊新潮の「墓碑銘」欄に載った記事を読んで、同氏が筑波を去ったあと間もなく、自らの意思で世間との繋がりを断ったことを知った。筑波時代の苦労が原因で、夫人が認知症になったことに責任を感じ、東京理科大の教授ポストを捨てて、老妻が住む老人ホームに住み込んで自ら介護に当たったが、75歳の誕生日を迎える直前に、心臓発作のため亡くなられたのだという。
―引用終わり―

 相田です。私が本論考を纏めるに当たり、「福田信之」という人物の発見は最もインパクトを受けた「事件」であった。私は学生時代には朝永のファンであった。失礼な言い方になるが、中間子論以降にはまともな物理学の成果を発表できていない「一発屋」の湯川よりも(これは私の大きな誤解であったのだが)、最先端の数理モデルを自在に駆使して自然の本質に迫る朝永の方が、物理学者としての理想に近いように私には思えたのである。岩波新書にある朝永の著作の「物理学とは何だろうか」、「科学と人間」等は、学生時代に何回も読み返した記憶がある。

 しかしながら福田信之の存在を知って以来、私の中では朝永の人物像を大きく見直さざるを得なくなってしまった。朝永がノーベル賞を受賞した1965年からの数年の間、東京教育大学では移転問題が泥沼化する一方であった。はたして朝永は、愛弟子である福田の極悪非道ともいえる一連の行いを、一体どのように考えていたのであろうか。物理学者としての業績と人間性は、分けて考えてもよいという事なのであろうか。

 一方で福田自身は、自分の家族に起こった出来事を見つめ直すことで、流石に自らの行いの過ちの大きさに気づかされたのであろうか。晩年の福田は第一線から身を引いて、家族に付き添いながら静かにその生涯を終えたようである。

 物理学者としての業績の頂点を極めたともいえる南部陽一郎と、物理から離れて政治の分野に執念を燃やした福田信之。若かりし時に二人は共に武谷と朝永からの薫陶を受けたにも係らず、その後の生き様は、あたかもキリストとユダのように、あまりにもかけ離れてしまっている。素粒子物理学を志す研究者の中には、このような激烈な人生に駆り立てる「何か」があるのであろうか。

(第1章おわり)

相田英男 拝

アルルの男・ヒロシ 投稿日:2014/12/09 23:27

【1411】[1729]解散総選挙 街頭演説報告

アルルの男・ヒロシです。

解散総選挙となり、12月14日の投開票に向けて最終盤に入っています。
私も現場の雰囲気を調べようと、東京都内だけですが、2012年選挙と同様、演説を収録しつつ、中継しています。

ここでは録画映像を公開します。

小泉進次郎★立川駅前自民党候補応援’(12月2日正午過ぎ) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121662698

録画ライブ 小田原候補 #121709146 – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121709146

長島昭久★立川駅前2014.12.2 – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121702558

前原誠司元外相 竹田光明(東京20区・12月6日) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121951034

東京24区の安倍側近の最右翼、萩生田光一への安倍晋三応援演説(12月7日) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123028539

海江田万里(東京1区)四ツ谷駅前(12月9日) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123537182

明日(10日)は小沢一郎が都内を演説するのでそれも収録します。

(追記)

小沢一郎・生活の党代表(赤羽駅前・2014年12月10日)
http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123717886

小沢一郎・生活の党代表(池袋東口¥2014年12月10日)
http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123722177

副島隆彦 投稿日:2014/12/07 11:26

【1410】[1728]この11月24日に 世界中で、今後に響く多くのことが起きた。私は、ますます不愉快だ。

副島隆彦です。 今日は、2014年12月7日です。

この11月24日に、世界の民衆にとって 大きな敗北がいくつか続けてあった。そのために私は、またしてもかなり苦しい精神状態になった。それらの詳細は今日は書かない。

 私は、以下の↓ [1727]番の 「 思想対立が起こした福島事故[第一章終わり] 投稿日:2014-12-01 22:45:53  「みなさんこんにちは。相田です」 の 投稿者の、 私たちの会員である 相田 (Wired)氏

(副島隆彦注記。Wired ワイアード、あるいは、ウィアードと読む。 インターネットというアイデアを DARPA=米国防総省高等研究所に奪い取られて、「ウィアード」誌に結集していた、真に頭脳の優れたネット人間の創世期のアメリカ人たちは、再び、砂漠へと帰って行った。戦線を再構築するために。)

 の、相田氏の非常に優れた、日本の戦後の理論物理学の全体像を描いた論稿が、続けて、この重たい掲示板に掲載されています。 私は、相田氏に、深い敬意を表して、私たち学問道場の誇るべき論文として、これから長く称揚(しょうよう)しようと思います。 副島隆彦は、今日はこれだけしか書けません。

それから、同じくその下 ↓の [1725]番の 「 天武天皇の正統性について」投稿者:守谷健二(もりやけんじ)氏の 投稿日:2014-11-24 19:39:41

で、日本の古代史の、倭国(わこく)と日本国の誕生期を鋭く描き出している
「『旧唐書(くとうじょ)』と『古事記』『日本書紀』との関係」論稿 にも感謝申し上げます。すでに、守谷氏は、これまでに20本以上の 論稿をここに載せてくださいました。

 守谷さんは、『旧唐書』という中国の正史の中の、「倭国伝」と「日本国伝」の並列の記述を、日本史の学者たちが故意に無視してきたことから、真実の日本古代史を、抉り出そうとしている。私は、守谷さんの 「倭国は、西暦663年の 白村江(はくそんこう)の戦いに負けて消滅した」説に賛成する。

 そして、奈良の方にあった、倭国よりも格下であった、日本国(=ヤマト王権と、日本史学者たちは呼ぶ)に、九州までが統合された。そして、日本国は、何くわぬ顔をして、その後の中国の帝国(唐 以降の 歴代王朝)に、朝貢の使節を送った、という説を私は支持する。

 このように考えないと、皇極(こうぎょく)=斉明(さいめい)天皇(女帝)が、662年に、わざわざ九州の地まで援軍として、今の博多湾にまで来て、それから更に南の倭国の本当の都で、行宮(あんぐう、かりのみや)としてそこで薨去(こうきょ、死ぬこと)しなかっただろう。

 そして皇極=斉明 の息子である 中大兄皇子(なかのおおえのおおじ、=天智(てんち)天皇 が、663年の白村江の戦いで、27000人もの倭国(わこく)の兵士や貴族たちが全滅したあと、救援軍として来ていた博多の地から、さっさと撤兵して、途中の瀬戸内海のコロニー(都邑)たちを、水城(みずき)という防衛体制を作って、自分は琵琶湖の南端の大津京(おおつきょう)に、防衛の都を作って、唐と新羅の連合軍の侵攻を迎え撃つ、という態勢を作れたはずがない。

 27000名もの兵士が死んだら責任問題が生じる。倭国が日本国と同じだったら、その最高責任者である中大兄皇子=天智天皇 が、タダで済むはずがない。 それと『日本書紀』では「弟(本当は、4歳年上)である」ことになっている、大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武(てんむ)天皇)との関係で、おかしなことになる。

 だから、西暦663年に、百済(くだら)救援のために全力で出撃した倭国が滅んだので、それで、日本国として統一されたのだ、という守谷健二氏の創見は、これからの日本史の真実として、人々の口に上ってゆくだろう。

 私は、今日は、守谷氏のご努力に対しても、これだけしか書けない。そのうち守谷氏と会って、親しくお話したいと思っています。

 今日は、このあとは、2本だけ新聞記事を転載します。この11月24日にあった、オバマ大統領による、チャック・ヘーゲル国防長官の更迭(こうてつ)の発表だ。テレビの映像で私もチラと見た。

 チャック・ヘーゲルは、共和党の穏健派であり、凶暴なヒラリー派(スーザン・ライス )とホワイトハウス内で、大げんかしてきた。日本のバカ新聞記事が書くような、ウソとはちがって、ヘーゲルは、オバマ=バイデン=ジョン・ケリーと共に団結して、「アメリカは、大きな戦争 large war はしない。米軍の大軍団での海外派兵は、しない」という立場だ。

 ヘーゲル国防長官 は、はっきり言っていた。「アメリカ軍を、外国にまで出すのは、カナダかメキシコまでだ。それなら私も考える。それ以上の遠くに軍隊は出さない」と公言していた。 

 この11月4日の中間選挙(ミッドタームエレクション)の民主党の敗北で、オバマは、同志であるヘーゲルの首を、凶暴なヒラリー派( 古村治彦くんが日本に紹介した人道主義的介入主義 ( humanitarian intervensionist 、ヒューマニタリアン・インターベンショニスト 、人道、人権の名を借りて外国侵略、戦争 を煽動する 立場 )と共和党ネオコン、軍産複合体に対して、差し出さなければいけなくなった。

 私は、いよいよ ヒラリー派が伸(の)して来ている現状を憂慮している。安倍晋三たちは、このヒラリーの操(あやつ)られ人形である。日本を軍事衝突、事変(じへん)に向かわさせるための準備が、着々と進んでいる。私は極めて不愉快だ。

(転載貼り付け始め)

◯「 ヘーゲル米国防長官が辞任する理由 」 WSJ
By Gerald F. Seib

2014 年 11 月 25 日 ウォールストリートジャーナル紙

 チャック・ヘーゲル米国防長官は、オバマ大統領の中東紛争からの出口戦略を後押しすることを期待されて、国防長官に任命された。しかし、大統領が中東紛争への再介入を検討する必要が生じたことはヘーゲル氏にとって不幸だった。

 そのことが何よりも、なぜ適任とみられた人物がそうではなかったのか、さらにはなぜ彼が職務を全うせずに辞任することになったのかを説明している。

 ヘーゲル氏の国防長官としての軌跡は、オバマ大統領の2期目を象徴している。オバマ政権の2期目は、ブッシュ前大統領を反面教師とし、中東紛争再介入への誘惑を…

◯「 ヘーゲル米国防長官が辞任、イスラム国対応めぐり事実上の更迭 」 AFP

2014年11月25日 AFP

 米首都ワシントン(Washington D.C.)のホワイトハウス(White House)でチャック・ヘーゲル(Chuck Hagel)国防長官(左)の辞任を発表するバラク・オバマ(Barack Obama)大統領(2014年11月24日撮影)。

【11月25日 AFP】 バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領は24日、チャック・ヘーゲル(Chuck Hagel)国防長官(68)の辞任を発表した。オバマ政権に対しては、イスラム教スンニ派(Sunni)の過激派組織「イスラム国(Islamic State、IS)」の脅威への対応が不十分との批判が上がっていた。

共和党元上院議員のヘーゲル氏は、就任から2年を待たずに辞任の運びとなった。国防予算を縮小し平時編成への移行監督を任されたはずが、米国は再び戦時に引き戻された。

イスラム国がシリアとイラクで急速に勢力を広げたことを受けて、ヘーゲル氏は複雑な作戦の陣頭指揮を任されたが、オバマ大統領はヘーゲル氏では不適任という結論を下した。

オバマ大統領がホワイトハウス(White House)で行ったヘーゲル氏辞任の発表の場には、本人も立ち会い、両氏が相互に合意したという形での発表となったが、政府関係者らはヘーゲル氏の辞任は事実上の更迭としており、また反オバマ派ら(副島隆彦注記。割り込みで書きます。この反オバマ派とは、だから民主党内のヒラリー派と共和党内の軍事強硬派のネオコン、および軍産共同体だ) は、ヘーゲル氏の方が不満を募らせていたとしている。

ヘーゲル氏辞任の報を受けて、イスラム国の支持者らは関連ウェブサイトやツイッター(Twitter)で、イスラム国が米国とその同盟国に対して優勢であるためにヘーゲル氏が辞任に追い込まれたとして、ヘーゲル氏に対する「勝利」を祝った。

後任は? ホワイトハウスはヘーゲル氏の後任についてはまだ言及していないが、その候補として3人の名前が取り沙汰されている。

最も可能性が高いとみられているのは、元国防次官で任命が決まれば同国初の女性国防長官の誕生となるミシェル・フロノイ(Michele Flournoy)氏。次いでアシュトン・カーター(Ashton Carter)前国防副長官の名が挙がっている。

 誰が指名されるにせよ、後任人事承認のための公聴会は共和党議員らがオバマ政権の対イスラム国作戦を非難する場になることだろう。(c)AFP/Dan De Luce, Jérôme CARTILLIER

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

相田 (Wired) 投稿日:2014/12/01 22:45

【1409】[1727]思想対立が起こした福島事故[第一章終わり]

みなさんこんにちは。相田です。

 南部に続く朝永の弟子筋として、福田信之(ふくだのぶゆき)という物理学者を取り上げます。「ヘルツ(心臓)」という異名を持つ福田は、年配の物理関係者ならば知らない者がいない有名人物だったようですが、今では「そんな人のことは忘れてくれ」「そもそもいなかったことにしてくれ」と、思っている方々がほとんどだと思います。特に筑波大の関係者に多そうです。

 私が福田について書くのは、キャラ的にユニークなだけではなく、原子力分野にも重要な影響を与えていると思えるからですが、それについては次回(後編)に回します。それにしても福田のような人物までもが、若かりし頃には武谷三男の弟子だったという事実は、武谷という人物のスケールの大きさを思わずにはいられません。

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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」

第1章 素粒子論グループの光と影
1.10 そしてユダ- 福田信之

 南部の話は左翼思想とは関係がなく完全な脱線であるが、ここからは本題に戻る。湯川グループに武谷と坂田がいるように、朝永の弟子にも彼らに勝るとも劣らない逸材がいるのである。名前を福田信之(ふくだのぶゆき)という。朝永の弟子には福田博(ふくだひろし)というもう一人の東大出身の「福田」がいるが、問題の「福田」は北海道大学の出身の別人である。

 福田信之は北大卒業後に戦前の理研に就職して、朝永の理論物理グループに所属することになった。当時の理研には関西から移ってきた武谷がいた。既に戦時体制に巻き込まれていた理研で福田は、武谷と二人で原爆の原料となるウラニウム235の熱拡散による分離方法に関する理論計算に取組んだという。この時期に武谷の薫陶を強く受けた福田は、若い頃はバリバリの共産党員として活動していたらしい。武谷の回想によると、武谷が特高警察による2度目の逮捕を受けた時に、福田は警察まで逮捕の理由に関する質問書を持って、留置場まで面会に来てくれたそうである。

 戦後に朝永が理研から東京文理科大に教授として移る際には、福田を含む朝永の弟子たちも一緒に移籍した。朝永が「くりこみ論」の勉強会を行う際には、福田も参加してラムシフトの計算に協力したらしい。この文理大の朝永の勉強会には、南部陽一郎も参加していたことは前に説明した通りである。

 東京文理科大学は旧制の東京師範学校の流れを組む伝統ある大学で、歴史学者の和歌森太郎(わかもりたろう)や、後の教科書裁判で有名となった家永三郎(いえながさぶろう)、東京都知事となる美濃部達吉(みのべたつきち)等の、実力も名声もある学者達を数多く揃えていた。そこに湯川と同格の朝永をリーダーとする理論物理グループが加わることで、理学部も看板学部として一躍名を馳せることになった。

 戦後の大学改正により、東京文理科大学は東京教育大学と名を変えることとなり、1956~62年までの6年間は朝永自身が学長を務めた。学生との対話も大切にした朝永の学長時代は、東京教育大学の黄金期と言われている。しかしそのことが、後の大きな悲劇の引き金になることには誰も気づく者はいなかった。

 東京教育大学は学部キャンパスが都内3ヶ所に分散しており、敷地も手狭であったため、かねてから全キャンパスを統合して郊外に移転する検討が進められていた。1962年頃に府中や八王子等の候補地が挙げられたものの、移転合意には至らなかった。それに先立つ1956年に政府は、東京の急激な人口増加に伴う過密状態の緩和策として、首都圏整備委員会を設置し、首都機能の一部を移転する検討を開始した。

 本委員会の提言により1961年に「首都への人口の過度集中の防止に資するため、先ず機能上必ずしも東京都の既成市街地に置くことを要しない官庁(附属機関及び国立の学校を含む。)の集団移転について、速やかに具体的方策を検討するものとする。」とした閣議決定がなされ、都内の大学の郊外への移転に関する具体的な検討が始まった。

 その後の1963年には、官庁移転の候補地の中から筑波山麓が最適であると閣議決定された。しかし当時の文部省には大学新設の意図はなく、都内の国立大学の移転しか選択肢は無いことから、筑波に移転する大学の最有力候補として東京教育大が挙げられることとなった。

 一方で、1962年の朝永の任期満了に伴う教育大の学長選挙において、理学部出身で植物学専攻の三輪知雄(みわともお)が新学長に選出された。政府から東京教育大に提示された筑波への移転計画に関して、三輪新学長に代表される理学部教授会は施設・設備の老朽化から賛成したが、もう一つの看板学部の文学部教授会は、研究上の利便性が失われるとして移転に強く反対した。文系学部の先生方にとって、研究場所を文化の中心である東京の都会から田舎の山奥に移すとなると、猛反対することは至極当然ともいえる。

 学内の意見が纏まらない状況で、三輪学長と理学部教授会グループは賛成、反対派の意見の妥協点を探ることなど一切せず、筑波へのキャンパス移転を強行したことから学内は紛糾した。混乱は学生達にも波及し、1967年頃から移転反対派の学生による抗議のストライキが頻発するようになった。学内の混乱から1969年の入試が中止され、責任を取る形で三輪学長が辞任した後に、学長代行として理学部物理学科の宮島龍興(みやじまたつおき)が就任した。

 東大理学部出身の宮島は、理研で朝永の指導を受けた愛弟子の一人である。しかしその宮島は、就任直後の69年1月に学生へのキャンパスからの退去を命じ、2月にはキャンパス内に機動隊を導入してロックアウトを強行し、学生を強制的に排除した。「キャンパス奪還」を試みた学生達は、機動隊に逮捕されてその多くは退学処分にされたという。

 1年余り続いたロックアウト体制の混乱した中で、大学側により筑波への移転が正式に決定され、1973年には筑波大学法案が国会で可決したことで筑波大学は開学した。以後は東京教育大の各学部の定員は徐々に減少し、1978年3月に東京教育大学は完全に消滅した。

 このように、東京教育大の筑波へのキャンパス移転は理学部教授会を中心として強行されたが、移転推進派の中心人物として活動したのが福田信之であったという。

 教育大の筑波移転問題に関しては、教育大OBの前沢研璽(まえさわけんじ)氏が管理人を務めるHP上で詳細に解説されており、上記は前沢氏の記載から多くを参照している。その中の「東京教育大学の筑波移転問題(管理人私見)」という論考から、福田に関する箇所を引用する。

―引用はじめ―

 問題は、文学部が移転に慎重な態度をとったことに対して、理学部出身の三輪知雄学長を中心とする大学執行部がまったく相手側(文学部教授会側)の立場にたって物事を考えようとしなかったことである。問題発生の初期の段階において、学長が移転に慎重な文学部に対して、和歌森太郎文学部長を罵倒するというような態度をとったことは、はなはだ遺憾である。相手も子供ではなく、プライドの高い大学人なのだから、罵倒して言うことをきかせようなどということは、良識ある(はずの)大学人のすることではない。このようなことでは対立の溝はますます深まるばかりで、まとまる可能性のある話もまとまらなくなってしまう。

 結局のところ、学長を中心とする大学執行部は、力ずくで移転を推進することしか考えようとせず、これでは何の妥協点も見出せるはずもなかった。何しろ、推進派の参謀役とされる福田信之教授の言うところによれば、紛争解決の3原則は、話し合いはしない、妥協はしない、遠慮なく機動隊を使うことだというのだから、恐れ入った話である。互譲の精神の欠片もない。

 相手がこういう思想の持ち主では、文学部教授会を中心とする反対派や学生自治会がどんな運動をしたところで、まるで無意味でしかなかったということになる。実際に、移転をめぐる紛争の最終局面では長期間にわたりキャンパスに機動隊が常駐するという異常事態となったが、警察権力の力を借りて新大学を作って一体何が面白いというのだろうか。

 反対派が弾圧されるのを楽しんでいたのかもしれないが、この間、全学闘の集計によれば累計で110余人の学生が逮捕され、また奨学金停止などの措置もあって総数は不明だが多くの学生が中途退学を余儀なくされて大学を去って行った。そのなかには、のちに漫画家として著名となる池田理代子(いけだりよこ)氏もいた。また、多くの学生が無期停学や退学などの処分を受けて大学を去った。推進派は闘争収拾に動いていた民青系の理学部自治会幹部まで退学処分にしたのだから、どうかしている。(学籍簿が筑波大学で管理されているため、当時の退学者がどの程度の人数に及ぶかは今日に至るも集計されていない。)

 この世に正義があるならば、福田教授のような人物の方こそ、機動隊を私的に濫用し、多くの学生に損害を与えた罪により刑務所に行くべきであったろう。

―引用終わり―

 相田です。福田が上記のような強行的な態度を取ったことには理由がある。福田は1960年代のとある時期に、統一教会および国際勝共連合の日本の初代会長である久保木修己(くぼきおさみ)という人物と懇意となり、あろうことか統一教会の熱烈な信者となっていたのである。反共の旗手と化した福田は、左翼活動の影響下にある移転反対派の学生達の主張を一切受け入れることなく、逆らう学生達を機動隊の力を使って全て退学処分とした。同じHP中の「東京教育大小史」という論考からも一部を引用する。

―引用はじめ―

 移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之教授であると言われていたが、彼はある雑誌の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。

 福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。

―引用終わり―

 相田です。理研時代の福田は武谷と懇意にしており、熱心な共産主義者だったことは前述したとおりである。しかしどういった心境の変化からか、その思想を180度変えた福田は、一転して左翼活動家に牙をむくことになった。昔の言葉では「転向右翼」、もう少し新しい名称では「ネオコン」と呼ぶのがふさわしい人物である。福田のもう一つの特徴は、自らは先頭に立たずに他の人物を傀儡として持ち上げて、黒幕として陰から権力をふるうことである。

筑波移転活動の際に福田に持ち上げられたのが、理研時代からの同僚の宮島龍興である。宮島は物理学者として非常に優れた業績を上げた人物であるらしいが、大学学長としては影が薄く、機動隊導入等の決断が出来るような度胸など持ち合わせていなかったらしい。宮島の裏ですべてのシナリオを描いたのは福田であり、福田の「3原則」により教育大の筑波移転が実現したのである。

(以下続く)

相田英男 拝

守谷健二 投稿日:2014/11/24 19:39

【1408】[1725]天武天皇の正統性について

 『旧唐書』と『古事記』『日本書紀』との関係

『旧唐書』は日本の歴史学者たちに不当に無視されている。その理由は『旧唐書』が「倭国伝」と「日本国伝」の並記で作っているからだ。7世紀半ばまでを「倭国伝」で作り「日本国伝」は八世紀初頭の粟田真人の遣唐使の記事で始められている。
倭国記事の最後のものは「劉仁軌(唐の水軍の将軍)伝」にある。

 ”仁軌、白江の口で倭兵に遇う。四度戦い勝つ、その船四百艘を焚く、煙炎は天に漲り、海水は皆真っ赤になった。・・・”

白村江の戦い(663年)の記事である。唐朝は朝鮮半島で戦争した相手を、明確に倭国と認識している。『旧唐書』の倭国は、『魏志』倭人伝の卑弥呼の王朝の後裔と認識している。
では「日本国」をどのように認識していたのだろう。

 ”日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるを以て、故に名となす。或は云う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。或は云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・”

唐朝は、倭国と日本国を別王朝と認識している。七世紀の後半に日本列島の代表王朝が、倭王朝から日本国(近畿大和王朝)に替った、と見ていた。唐朝は、倭国も日本国もよく知っていたのである。倭国は戦争した相手であり、唐の役人・郭務宗は、白村江の戦の翌年から672年(壬申の乱の年)まで、毎回かなりの軍勢を率いて四度も筑紫を訪れている。四度目の筑紫訪問は、671年の十一月から翌年五月の末日までであった。壬申の乱は翌六月に勃発している。壬申の乱の勃発は、朝鮮半島情勢と無関係であったとは思えない。
唐朝には、膨大で濃密な日本列島情報が蓄積されていたはずだ。
長安三年(703年・日本の年号で大宝三年)唐の都長安を訪れた粟田真人を団長とする遣唐使たちは、悪びれることなく堂々と、唐に蓄積されていた情報と矛盾する日本の歴史を述べるのであった。
既に天武天皇によって日本の歴史は定められていた。天武を正統化する為の万世一系の皇統による日本統治の歴史が創られていた。粟田真人たちは、その歴史を誇らしげに唐朝に披露したのである。
しかし唐は、日本列島の内情をよく知っていたのである。あまりの出鱈目ぶりにあきれ返ったに違いない。粟田真人の披露した歴史は、唐朝に認めてもらえなかった、受け入れてもらえなかったのである。
日本国(大和王朝)は、歴史を書き改めねばならなかった。何とか唐朝を納得させることの出来る歴史に改作せねばならなかった。
中国が日本(倭国)をどのように認識していたか知る必要があった。倭国の歴史を取り込んだものに改作する必要があった。
中国の史籍を手に入れることが遣唐使たちの重大任務となった。しかし、古い史籍は簡単に手に入るものではない。ただ初唐に『隋書』が上梓されていた。『隋書』だけは確実に手に入れて粟田真人等は帰朝したのではなかったか。
日本の王朝は、その『隋書』を研究し、参考にして歴史の改作に当たった。『隋書』倭国伝の中に大きな存在として、隋の皇帝・煬帝に「対等外交の国書」と言われるものを送った倭国王・多利思比孤がいた。彼が中国で最も有名な日本人であった。多利思比孤を取り込んだ歴史を作る必要があった。つまり聖徳太子説話の創作である。
『古事記』本文は推古天皇で終わっている。その理由は、参考にすべき『隋書』が、推古の御代で終わっているからだ。隋朝は、推古の御代で滅んでいる。
『古事記』は、歴史改作の指針として書かれた。『日本書紀』の基本設計図である。国語学は、『古事記』が先で『日本書紀』は後であることを明らかにしている。