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副島先生が会員版ページにグレース・ケリーについて書かれていたちょうどその頃、コートダジュールを旅していました。
主な滞在先はエクサンプロバンス(Aix-en-Provence)、マントン(Menton)、ニース(Nice)の3箇所。この内のマントンとニースが地中海沿いで、いわゆるコート・ダジュールということになります。マントンはニースをふた回り位小ぶりにした位のイタリアとの国境に隣接する街で、かつてジャン・コクトーが住んだ街です。
マントン、ニースとも11月中下旬でも日中気温が18度程度はあり、さらに日差しが強く感じられ、日中はコート無しでも十分過ごせました。緯度が高いのになぜ日差しを強く感じるのか不思議ですが、地中海の反射ということもあるのでしょうか?その点私には不明でしたが、人々のサングラス着用率はかなり高かったです。夏は国中からバカンスを過ごすために人で溢れかえるでしょうが、11月はシーズンオフでホテルのいくつかは長期休暇という所もありますし、また町のあちこちでインフラの工事をやってました。でもシーズンオフだからこそホテル料金は格安です。副島先生が「1泊5万円はする」と書いておられましたが、マントンの駅から徒歩10分以内で海沿い、三星のホテルでオーシャンビューの部屋が2人部屋一室1泊98ユーロ(1€=148円として14504円)でした。部屋は広くはありませんが、バスタブ付きのバスルーム込みで大体30m²、それに加えて椅子とテーブルの置かれたベランダがついています。11月ですのであまり混み合ってはいませんでしたが、ホテル内で聞こえてくる言語はフランス語の他、ドイツ語、イタリア語で、オフシーズンでも避寒の為にそこそこ観光客はいるようです。もちろんハイシーズンの6月~9月は客室料金は2倍、3倍になるでしょうし、冬場は使っていない海が見えない側の部屋も満室になることでしょう。
マントンの街は年寄り、犬、美容院、不動産屋、薬局が多いというのが印象で、恐らく小金持ちの年寄りが引退後に引っ越してきたのではないかと、彼らの身なりや振る舞いから勝手に想像しました。年寄りと犬に関しては、フランスもかなりの長寿国ですし犬好きの国民性を考えると、マントンだけの特徴とは言えないかもしれません。外出できるお年寄りの皆さんで、日本の老女に人気の手押し車を押している人は皆無、恐らく彼女らの審美眼からは外れるということでしょうか。
不動産屋の広告をじっくり見てこなかったことを後悔しましたが、ニースから電車で東に約20分のアンティーブという街の不動産屋のウインドウを見たところ、庭付きの別荘風のものは130万€位(1億9240万円!)、広さが明記されていない2DKの集合住宅の一部屋でも35万€(5180万円)という、驚きの価格設定でした。
コートダジュールの不動産価格は高値安定しているのではないかと思われます。
アンティーブには広いヨットハーバーもあって、遠洋航海ができるようなレーダーを備えた大きなヨットやクルーザーがズラリと停泊してました。
物価は全般に高く、ホテルの人もマントンはレストランが高いと言ってました。が、それにも増してのこの円安、、、。アベノミクスではなくアヒェ~ノミクスという感じで、レストランの看板を見てはアヘェ~、洋服屋に入ってはアヘェ~と、ため息と驚きが混じりあった声をあげざるを得ませんでした。ランチでは一番安いセットメニューでも大体15€程度(2220円)、夕食では25€(3700円)が平均。ホテルで紹介された中華料理屋で25€支払って頼んだセットメニューで出されたアスパラガスのスープがインスタントの味で、しかも蟹ではなくカニカマが載っていた時には怒りで震えがくるほどでした。そもそもこの店は表に「寿司」と書かれた提灯がぶら下げられており、アジア料理(風)なら何でもあるような店、その店構えを見て嫌な予感がしたのに撤退しなかったことを悔やみました。
円安で大企業が儲かって良きことのように言われていますが、海外に出てみるとよく判るのが自国通貨の価値が落ちていること。買い物の度に寂しさとも惨め(みじめ)さともつかない嫌な感じがします。このことが身銭を切って判ったのはひとつの収穫だったかもしれませんが、切り傷は痛かった、、、。「取り戻す」という標語は、一体何を「取り戻したい」と思っておられるのか?ひょっとして庶民が海外旅行などとてもできなかった、1ドル360円だった頃だったりして!?
実際にお金を使ってみての印象としては、1€が100€105円だと妥当という感覚です。観光地・別荘地として若干物価が高いとして、それくらいなら「まあ仕方がない」という程度でしょう。全般的に高めなのが既に述べた不動産、レストランでの外食の他、衣料品、スパ等のサービス産業。一方で割安感があるのがフランス国鉄、ローカルバス、美術館などの入館料、ワイン。市場やスーパーで売られている野菜等の食材は、ほぼ日本と同等という感じでした。
別荘の規模を知る絶好スポットはマントンの東側の隣町、ロクブリュヌ・キャップ・マルタン(Roquebrune-Cap-Martin)の、マルタン岬の遊歩道をぐるりと一周するのがお奨めです。どこからどこまでが敷地かが分からないような豪邸が立ち並んでいます。もっとも敷地が広すぎるため、家が見えないという難点はありますが。岬の周辺だけでなく、海岸方面から山の中腹にある中世の村に向かう坂道にもかなりの豪邸が並んでいます。また岬からはモナコの景色を眺めることができ、狭い所にギッシリと高層ビルが立っているのが見えます。
実際にモナコをしかとこの目で見たのが、マントンからニースにバスで移動した時でした(フランス国鉄がストライキ中で間引き運転をしていた為、バスで移動しました)。モナコだけ南仏でも異質な感じで、空気中にお金の臭いがプンプン漂う感じです。ビルもピカピカした金属的な光沢を放ち、建築基準が明らかにフランスとは違うのではないかと思います。この辺りのホテルは、それこそ一部屋5万円、10万円というものではないかと想像します。私は見るだけでお腹いっぱいになりましたので、通り過ぎるだけで十分でした。
この円安のせいもあってか、全般的に日本人観光客(と思われる人達)は少なかったです(パリにはそれなりにいるでしょう)。そもそもマントンは人気のエリアではない為に少ないということはありますが、エクス、ニースでも同様です。逆に増えたのが中国人観光客でアンティーブでもその団体に遭遇しましたし、ニースのホテルでも若い中国人の団体が来てました。話しかけたら上海から来た学生さんで、服装や物腰も大変洗練され、英語もとても上手でした。日本では若い人達の「内向きさ」が話題になっている中、上海の学生さんから発せられる弾けるような躍動感から「こういう中国の若い人達が、これから世界に羽ばたくのだろうな」という印象を受けました。
以上、思いつくままに書いてみました。
ともかく始終『日本は経済大国???』ということを強く感じた旅でした。
【1412】[1731]思想対立が起こした福島事故[第1章終わりの②]
みなさんこんにちは。相田です。
今回で素粒子論グループ編を終わり、こちらへの投稿も一段落とさせてください。
これまで物理に関する話を続けてきましたが、私は本格的に物理を勉強したことなどなく、自己流で参考書をつまみ食いしたレベルです。私の話を物理の専門家が見ると「こいつわかってないな」と、たちどころにバレると思います。
本論考の狙いは物理の薀蓄(うんちく)をつづるのではなく、福島原発事故の起こった背景を明らかにすることなのですが、第1章では主な登場人物紹介の段階で終わってしまいました。島村武久(しまむらたけひさ)氏や中島篤之助(なかじまとくのすけ)氏などの未登場の重要人物もいますが、第2、3章で触れる予定です。
第1章では武谷三男を中心に説明しましたが、第2章の内容は伏見康治を軸に話を進めます。本論考の核心となる第3章もある著名な物理学者が主役となります。この人物の晩年の提言をまじめに取り上げなかったことが、福島事故につながったと私は思っており、ここを書き終えるまでは続けるつもりです。
ここでの話に興味を持って読んで頂いた方々に感謝します。
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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」
第1章 素粒子論グループの光と影
1.10 そしてユダ- 福田信之(続き)
筑波大学開学時の初代学長には三輪知雄(1973-76)が就任し、宮島龍興(1976-80)が後を継いだ。建学の最大功労者である福田は強烈な個性が災いして、当初は学長就任を控えていたが、実質的な「影の学長」として学内を掌握したようである。筑波へのキャンパス移転の成果を認められた福田は、当時の自民党幹事長の中曽根の政策ブレーンの一人に抜擢されて、政治的な活動も強めていった。
筑波大開学当初の福田の様子については、ソフトウェア研究者の今野浩(こんのひろし)氏の著作「工学部ヒラノ助教授の敗戦」(青土社、2013年)の記載中で垣間見える。本著作は「世界最大規模のソフトウェア中心の計算機科学科を作る」という触れ込みで、新生筑波大学に助教授として招かれたヒラノ氏(=今野氏)が、その構想の仕掛け人である福田に最初に挨拶に出向く場面から始まる。約束時間から30分以上遅れて現れた福田は、その場でおもむろに電話を掛けて「中曽根君」と呼びかけながら幹事長と話し込んだという。電話を掛ける前に福田は、ヒラノ氏と彼の新たな同僚に辞令を無造作に渡しながら、「何があっても赤旗だけはふらないでくれよ」と釘をさしたそうである。その後に展開されるドラマについては、今野氏の著作をご参照されたい。
1980-86年には福田自らが筑波大の学長を務め、筑波大発足から合わせて13年に亘って権力を振るうこととなる。その間の筑波大では、左翼活動を行う学生は即刻退学させられる一方で、統一教会系のカルトサークルが公認されて、活発に活動していたという。1984年に筑波大学で開催された「科学技術と精神世界」と題する日仏協力国際シンポジウムは、統一協会の庇護を受けたイベントであり、多数のオカルト系の発表講演が国立大学内の会場を借りて堂々と行われるという、信じ難い状況が繰り広げられたらしい。さすがに当時の反省から、近年の筑波大学では福田色を一掃するような対応が取られているそうである。
ここまでの話では原子力について全く触れていないのだが、実は福田は日本の原子力開発にも大きな影響を与えている節がある。1974年4月に原子力委員会の常勤委員として、東京教育大学長を勤め上げたばかりの宮島龍興が就任した。原子力委員会とは、日本の原子力政策の基本方針を決めるための(名目上の)最高機関とされている組織である。原子力委員会設立の詳細については、本論考の第2章で説明する予定である。宮島を原子力委員に推薦したのは、当時の科学技術庁長官で原子力委員長を兼任する衆議院議員の森山欣司(もりやまきんじ)である。(当時の原子力委員長は科学技術庁長官が兼任していた)
科学技術長官時代の森山は、それまでの長官が青森県民の猛反対を受けて結論を先送りしていた、「原子力船むつ」の試験航海を強行した張本人であり、その途中で「むつ」に放射線漏れのトラブルが起きたことから、大きな非難を浴びることとなった。さて、森山が科技庁長官に就く前の原子力委員会においては、委員の任命・交代の場合には、事前に他の委員全員の了解を得た上で発表する不文律があった。しかし森山はこの慣習を破り、宮島の委員就任を独断で決定し、このことが波紋を呼ぶことになる。
この森山による宮島の原子力委員就任の決定に対して、原子力委員(非常勤)の一人で立教大学の物理学の教授である田島英三(たじまえいぞう)が異議を唱えた。田島はかねてより、原子力委員会に安全研究の専門家が不在であることに懸念を表明しており、次回の委員交代の際には安全担当の専門家を招くべきと主張していた。しかし森山は田島の要望を排し、原子力推進派とみなされていた宮島を独断で新たな委員に任命した。結局、田島は森山に抗議して原子力委員を辞任するが、この問題は当時のマスコミに大きく取り上げられた。
その後に「むつ」の放射線漏れ事件が起こった際には、その田島本人が青森まで招聘されて「むつ」に乗り込み、事態の収拾を行うことになる。このあたりの経緯の詳細は、田島の自叙伝の「ある物理学者の生涯」(新人物往来社刊、1995年)に描かれているので御参照されたい。余談になるが田島は、立教大に移る前は理研の仁科グループに在籍しており、長岡半太郎の実子で後の日本原子力研究所副理事長に就任する嵯峨根遼吉(さがねりょうきち)の指導の下で、サイクロトロンによる原子核実験を担当していた。
田島は、終戦後の米軍によるサイクロトロン破壊にも直接立ち会っており、田島の自叙伝にはその際の詳細な状況が記されている。戦後になって田島が理研から立教大学に移る際には、武谷三男も理論物理学の教授として立教大に招かれている。武谷にとってこれが、最初で最後の大学へのパーマネントな「就職」であった。
話を福田に戻すと、教育大移転闘争の経緯を考えると、森山に宮島の原子力委員就任を推薦したのは、おそらく福田であろうと私は考える。宮島自身は非常に線の細い性格であったとされており、このようなトラブルの中に率先して飛び込めるような人物とは私には思えない。原子力委員時代の宮島にはさらに面白いエピソードがある。宮島は1974年にロンドンで開かれた「科学の統一に関する国際会議」というイベントに、原子力委員の肩書きで参加したが、この会議の主催者は統一教会であり、文鮮明による挨拶も行われたという。
1978年6月5日の国会の科学技術振興対策特別委員会において、森山の次に科学技術庁長官を務めた熊谷大三郎(くまがやだいざぶろう)が、共産党の市川正一(いちかわしょういち)議員から、原子力委員としての宮島の行いに関して厳しく追及された。私はこの話を、SNSIの中田安彦氏がジャパンハンドラーズのブログの中で取り上げた記事を読むことで、初めて知った。宮島を統一教会のイベントに参加させるために、ロンドンまで連れ出した黒幕は、どう考えても福田であるとしか思えない。
同じ国会の議論において市川議員は、当時の日本原子力研究所理事長であった宗像英二(むなかたえいじ)が、統一教会の下部組織である世界平和教授アカデミーの機関紙「季刊アカデミー」に寄稿した事実についても追及した。福田はこの世界平和教授アカデミーの有力メンバーの一人でもあった。
このような一連の話から70年代以降に、原子力委員会や原研幹部等の原子力関係者の間に、反共を掲げる統一教会系の人物達が集まりつつあり、その裏で糸を引いていたのが福田ではないかと、私は疑っている。森山欣司、宗像英二の二人については、本論考の重要人物でもあり、後半に再び取り上げる。
勝共連合や原理研究会(CARP)のサイトを眺めてみるとわかるが、彼らのサイトのほとんどには、原子力についての肯定的なコメント(軽水炉再稼働の即時実施、核燃料サイクルの堅持、etc)が書かれている。その内容には、相当に専門的な処まで理解していなければ、書けないような記述も多い。彼等の意見ははっきり言って、私が本論考で述べる考えにかなり近く、彼等のコメントを読む限りでは大変結構なことだと思える。しかしながら私は、「あんた達はその話を一体誰に聞いたのだ?」と、思わず突っ込みたくなる。どうせ福田から聞いたのだろう。
右翼評論家として名高い渡部昇一(わたなべしょういち)は、統一教会とも関係が深い人物といわれているが、以前に福田信之から「渡部君、この高速増殖炉(もんじゅのこと)という技術が完成したら日本は、500年-1000年という単位でエネルギー問題から開放されるんだよ」という話を聞いたそうである。最近の渡部は、あちこちのセミナー等に出かけて行って、原発の早期の再稼働と核燃料サイクルの継続推進を訴えているようである。はっきり言って、大変大きなお世話である。
左翼研究者達の問答無用の原発反対も困ったものであるが、右翼連中が訴えるバラ色の原発推進論も、同じ位に傍迷惑な話である。どれだけまともな内容を訴えた処で、その出発点が政治的に歪んだ理想の実現を目指したものであるならば、彼等の主張は技術を危険な方向に導くものでしかない。原子力は大変危険な技術ではあるが、それを用いることで得られる恩恵もまた大きい。原子力に向き合う際には、政治思想の思惑を排した冷静な技術判断が必須であると私は思う。
しかし本論考で述べるように、日本の原子力開発は何故か最初から、左翼と右翼の壮絶なぶつかり合いで始まってしまうのである。その後に「技術的にまっとうな方向」に修正する努力が幾度も行われたにも係らず、それらの「まっとうな努力」に対しては、左翼と右翼の両方が反対し、寄ってたかって全て潰してしまったのである。その結果引き起こされたのが、3.11福島事故である。原子力関係者連中の間にあった政治思想の対立が、福島事故の本質的原因と私は考えており、本論考で最も訴えたいのはそこである。
話を福田自身に戻す。筑波大学発足後にも強大な権力を振るい続けた福田は、宮島の後釜としての原子力委員への就任も視野に入れていた可能性があると、私は思っている。しかし「幸いにも」というべきか、そのような事態を迎えることはないまま、福田の晩年は意外な悲劇で幕を閉じることとなる。以下は今野浩氏の「工学部ヒラノ助教授の敗戦」から引用する。
―引用はじめ―
ミスター筑波大と呼ばれた福田信之教授は、6年にわたって副学長を務めたあと、学長として6年間筑波に君臨し、1980年代半ばに東京理科大の教授に迎えられた。しかしこの頃を境に、バッタリその名前を耳にすることはなくなった。反共で連帯を組んだ中曽根康弘氏が総理の座にあった80年代半ばには、もっと活躍してもおかしくなかったはずだが、何故かこの頃はすっかり過去の人になっていた。そして90年代に入ると、筑波大学を建設した功労者としてよりは”筑波の独裁者”、”文鮮明の協力者”という名前が残ったのである。
1994年の秋、ヒラノ教授は福田元学長の訃報に接した。そして週刊新潮の「墓碑銘」欄に載った記事を読んで、同氏が筑波を去ったあと間もなく、自らの意思で世間との繋がりを断ったことを知った。筑波時代の苦労が原因で、夫人が認知症になったことに責任を感じ、東京理科大の教授ポストを捨てて、老妻が住む老人ホームに住み込んで自ら介護に当たったが、75歳の誕生日を迎える直前に、心臓発作のため亡くなられたのだという。
―引用終わり―
相田です。私が本論考を纏めるに当たり、「福田信之」という人物の発見は最もインパクトを受けた「事件」であった。私は学生時代には朝永のファンであった。失礼な言い方になるが、中間子論以降にはまともな物理学の成果を発表できていない「一発屋」の湯川よりも(これは私の大きな誤解であったのだが)、最先端の数理モデルを自在に駆使して自然の本質に迫る朝永の方が、物理学者としての理想に近いように私には思えたのである。岩波新書にある朝永の著作の「物理学とは何だろうか」、「科学と人間」等は、学生時代に何回も読み返した記憶がある。
しかしながら福田信之の存在を知って以来、私の中では朝永の人物像を大きく見直さざるを得なくなってしまった。朝永がノーベル賞を受賞した1965年からの数年の間、東京教育大学では移転問題が泥沼化する一方であった。はたして朝永は、愛弟子である福田の極悪非道ともいえる一連の行いを、一体どのように考えていたのであろうか。物理学者としての業績と人間性は、分けて考えてもよいという事なのであろうか。
一方で福田自身は、自分の家族に起こった出来事を見つめ直すことで、流石に自らの行いの過ちの大きさに気づかされたのであろうか。晩年の福田は第一線から身を引いて、家族に付き添いながら静かにその生涯を終えたようである。
物理学者としての業績の頂点を極めたともいえる南部陽一郎と、物理から離れて政治の分野に執念を燃やした福田信之。若かりし時に二人は共に武谷と朝永からの薫陶を受けたにも係らず、その後の生き様は、あたかもキリストとユダのように、あまりにもかけ離れてしまっている。素粒子物理学を志す研究者の中には、このような激烈な人生に駆り立てる「何か」があるのであろうか。
(第1章おわり)
相田英男 拝
【1411】[1729]解散総選挙 街頭演説報告
アルルの男・ヒロシです。
解散総選挙となり、12月14日の投開票に向けて最終盤に入っています。
私も現場の雰囲気を調べようと、東京都内だけですが、2012年選挙と同様、演説を収録しつつ、中継しています。
ここでは録画映像を公開します。
小泉進次郎★立川駅前自民党候補応援’(12月2日正午過ぎ) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121662698
録画ライブ 小田原候補 #121709146 – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121709146
長島昭久★立川駅前2014.12.2 – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121702558
前原誠司元外相 竹田光明(東京20区・12月6日) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/121951034
東京24区の安倍側近の最右翼、萩生田光一への安倍晋三応援演説(12月7日) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123028539
海江田万里(東京1区)四ツ谷駅前(12月9日) – ツイキャス http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123537182
明日(10日)は小沢一郎が都内を演説するのでそれも収録します。
(追記)
小沢一郎・生活の党代表(赤羽駅前・2014年12月10日)
http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123717886
小沢一郎・生活の党代表(池袋東口¥2014年12月10日)
http://twitcasting.tv/bilderberg54/movie/123722177
【1410】[1728]この11月24日に 世界中で、今後に響く多くのことが起きた。私は、ますます不愉快だ。
副島隆彦です。 今日は、2014年12月7日です。
この11月24日に、世界の民衆にとって 大きな敗北がいくつか続けてあった。そのために私は、またしてもかなり苦しい精神状態になった。それらの詳細は今日は書かない。
私は、以下の↓ [1727]番の 「 思想対立が起こした福島事故[第一章終わり] 投稿日:2014-12-01 22:45:53 「みなさんこんにちは。相田です」 の 投稿者の、 私たちの会員である 相田 (Wired)氏
(副島隆彦注記。Wired ワイアード、あるいは、ウィアードと読む。 インターネットというアイデアを DARPA=米国防総省高等研究所に奪い取られて、「ウィアード」誌に結集していた、真に頭脳の優れたネット人間の創世期のアメリカ人たちは、再び、砂漠へと帰って行った。戦線を再構築するために。)
の、相田氏の非常に優れた、日本の戦後の理論物理学の全体像を描いた論稿が、続けて、この重たい掲示板に掲載されています。 私は、相田氏に、深い敬意を表して、私たち学問道場の誇るべき論文として、これから長く称揚(しょうよう)しようと思います。 副島隆彦は、今日はこれだけしか書けません。
それから、同じくその下 ↓の [1725]番の 「 天武天皇の正統性について」投稿者:守谷健二(もりやけんじ)氏の 投稿日:2014-11-24 19:39:41
で、日本の古代史の、倭国(わこく)と日本国の誕生期を鋭く描き出している
「『旧唐書(くとうじょ)』と『古事記』『日本書紀』との関係」論稿 にも感謝申し上げます。すでに、守谷氏は、これまでに20本以上の 論稿をここに載せてくださいました。
守谷さんは、『旧唐書』という中国の正史の中の、「倭国伝」と「日本国伝」の並列の記述を、日本史の学者たちが故意に無視してきたことから、真実の日本古代史を、抉り出そうとしている。私は、守谷さんの 「倭国は、西暦663年の 白村江(はくそんこう)の戦いに負けて消滅した」説に賛成する。
そして、奈良の方にあった、倭国よりも格下であった、日本国(=ヤマト王権と、日本史学者たちは呼ぶ)に、九州までが統合された。そして、日本国は、何くわぬ顔をして、その後の中国の帝国(唐 以降の 歴代王朝)に、朝貢の使節を送った、という説を私は支持する。
このように考えないと、皇極(こうぎょく)=斉明(さいめい)天皇(女帝)が、662年に、わざわざ九州の地まで援軍として、今の博多湾にまで来て、それから更に南の倭国の本当の都で、行宮(あんぐう、かりのみや)としてそこで薨去(こうきょ、死ぬこと)しなかっただろう。
そして皇極=斉明 の息子である 中大兄皇子(なかのおおえのおおじ、=天智(てんち)天皇 が、663年の白村江の戦いで、27000人もの倭国(わこく)の兵士や貴族たちが全滅したあと、救援軍として来ていた博多の地から、さっさと撤兵して、途中の瀬戸内海のコロニー(都邑)たちを、水城(みずき)という防衛体制を作って、自分は琵琶湖の南端の大津京(おおつきょう)に、防衛の都を作って、唐と新羅の連合軍の侵攻を迎え撃つ、という態勢を作れたはずがない。
27000名もの兵士が死んだら責任問題が生じる。倭国が日本国と同じだったら、その最高責任者である中大兄皇子=天智天皇 が、タダで済むはずがない。 それと『日本書紀』では「弟(本当は、4歳年上)である」ことになっている、大海人皇子(おおあまのおうじ=のちの天武(てんむ)天皇)との関係で、おかしなことになる。
だから、西暦663年に、百済(くだら)救援のために全力で出撃した倭国が滅んだので、それで、日本国として統一されたのだ、という守谷健二氏の創見は、これからの日本史の真実として、人々の口に上ってゆくだろう。
私は、今日は、守谷氏のご努力に対しても、これだけしか書けない。そのうち守谷氏と会って、親しくお話したいと思っています。
今日は、このあとは、2本だけ新聞記事を転載します。この11月24日にあった、オバマ大統領による、チャック・ヘーゲル国防長官の更迭(こうてつ)の発表だ。テレビの映像で私もチラと見た。
チャック・ヘーゲルは、共和党の穏健派であり、凶暴なヒラリー派(スーザン・ライス )とホワイトハウス内で、大げんかしてきた。日本のバカ新聞記事が書くような、ウソとはちがって、ヘーゲルは、オバマ=バイデン=ジョン・ケリーと共に団結して、「アメリカは、大きな戦争 large war はしない。米軍の大軍団での海外派兵は、しない」という立場だ。
ヘーゲル国防長官 は、はっきり言っていた。「アメリカ軍を、外国にまで出すのは、カナダかメキシコまでだ。それなら私も考える。それ以上の遠くに軍隊は出さない」と公言していた。
この11月4日の中間選挙(ミッドタームエレクション)の民主党の敗北で、オバマは、同志であるヘーゲルの首を、凶暴なヒラリー派( 古村治彦くんが日本に紹介した人道主義的介入主義 ( humanitarian intervensionist 、ヒューマニタリアン・インターベンショニスト 、人道、人権の名を借りて外国侵略、戦争 を煽動する 立場 )と共和党ネオコン、軍産複合体に対して、差し出さなければいけなくなった。
私は、いよいよ ヒラリー派が伸(の)して来ている現状を憂慮している。安倍晋三たちは、このヒラリーの操(あやつ)られ人形である。日本を軍事衝突、事変(じへん)に向かわさせるための準備が、着々と進んでいる。私は極めて不愉快だ。
(転載貼り付け始め)
◯「 ヘーゲル米国防長官が辞任する理由 」 WSJ
By Gerald F. Seib
2014 年 11 月 25 日 ウォールストリートジャーナル紙
チャック・ヘーゲル米国防長官は、オバマ大統領の中東紛争からの出口戦略を後押しすることを期待されて、国防長官に任命された。しかし、大統領が中東紛争への再介入を検討する必要が生じたことはヘーゲル氏にとって不幸だった。
そのことが何よりも、なぜ適任とみられた人物がそうではなかったのか、さらにはなぜ彼が職務を全うせずに辞任することになったのかを説明している。
ヘーゲル氏の国防長官としての軌跡は、オバマ大統領の2期目を象徴している。オバマ政権の2期目は、ブッシュ前大統領を反面教師とし、中東紛争再介入への誘惑を…
◯「 ヘーゲル米国防長官が辞任、イスラム国対応めぐり事実上の更迭 」 AFP
2014年11月25日 AFP
米首都ワシントン(Washington D.C.)のホワイトハウス(White House)でチャック・ヘーゲル(Chuck Hagel)国防長官(左)の辞任を発表するバラク・オバマ(Barack Obama)大統領(2014年11月24日撮影)。
【11月25日 AFP】 バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領は24日、チャック・ヘーゲル(Chuck Hagel)国防長官(68)の辞任を発表した。オバマ政権に対しては、イスラム教スンニ派(Sunni)の過激派組織「イスラム国(Islamic State、IS)」の脅威への対応が不十分との批判が上がっていた。
共和党元上院議員のヘーゲル氏は、就任から2年を待たずに辞任の運びとなった。国防予算を縮小し平時編成への移行監督を任されたはずが、米国は再び戦時に引き戻された。
イスラム国がシリアとイラクで急速に勢力を広げたことを受けて、ヘーゲル氏は複雑な作戦の陣頭指揮を任されたが、オバマ大統領はヘーゲル氏では不適任という結論を下した。
オバマ大統領がホワイトハウス(White House)で行ったヘーゲル氏辞任の発表の場には、本人も立ち会い、両氏が相互に合意したという形での発表となったが、政府関係者らはヘーゲル氏の辞任は事実上の更迭としており、また反オバマ派ら(副島隆彦注記。割り込みで書きます。この反オバマ派とは、だから民主党内のヒラリー派と共和党内の軍事強硬派のネオコン、および軍産共同体だ) は、ヘーゲル氏の方が不満を募らせていたとしている。
ヘーゲル氏辞任の報を受けて、イスラム国の支持者らは関連ウェブサイトやツイッター(Twitter)で、イスラム国が米国とその同盟国に対して優勢であるためにヘーゲル氏が辞任に追い込まれたとして、ヘーゲル氏に対する「勝利」を祝った。
後任は? ホワイトハウスはヘーゲル氏の後任についてはまだ言及していないが、その候補として3人の名前が取り沙汰されている。
最も可能性が高いとみられているのは、元国防次官で任命が決まれば同国初の女性国防長官の誕生となるミシェル・フロノイ(Michele Flournoy)氏。次いでアシュトン・カーター(Ashton Carter)前国防副長官の名が挙がっている。
誰が指名されるにせよ、後任人事承認のための公聴会は共和党議員らがオバマ政権の対イスラム国作戦を非難する場になることだろう。(c)AFP/Dan De Luce, Jérôme CARTILLIER
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1409】[1727]思想対立が起こした福島事故[第一章終わり]
みなさんこんにちは。相田です。
南部に続く朝永の弟子筋として、福田信之(ふくだのぶゆき)という物理学者を取り上げます。「ヘルツ(心臓)」という異名を持つ福田は、年配の物理関係者ならば知らない者がいない有名人物だったようですが、今では「そんな人のことは忘れてくれ」「そもそもいなかったことにしてくれ」と、思っている方々がほとんどだと思います。特に筑波大の関係者に多そうです。
私が福田について書くのは、キャラ的にユニークなだけではなく、原子力分野にも重要な影響を与えていると思えるからですが、それについては次回(後編)に回します。それにしても福田のような人物までもが、若かりし頃には武谷三男の弟子だったという事実は、武谷という人物のスケールの大きさを思わずにはいられません。
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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」
第1章 素粒子論グループの光と影
1.10 そしてユダ- 福田信之
南部の話は左翼思想とは関係がなく完全な脱線であるが、ここからは本題に戻る。湯川グループに武谷と坂田がいるように、朝永の弟子にも彼らに勝るとも劣らない逸材がいるのである。名前を福田信之(ふくだのぶゆき)という。朝永の弟子には福田博(ふくだひろし)というもう一人の東大出身の「福田」がいるが、問題の「福田」は北海道大学の出身の別人である。
福田信之は北大卒業後に戦前の理研に就職して、朝永の理論物理グループに所属することになった。当時の理研には関西から移ってきた武谷がいた。既に戦時体制に巻き込まれていた理研で福田は、武谷と二人で原爆の原料となるウラニウム235の熱拡散による分離方法に関する理論計算に取組んだという。この時期に武谷の薫陶を強く受けた福田は、若い頃はバリバリの共産党員として活動していたらしい。武谷の回想によると、武谷が特高警察による2度目の逮捕を受けた時に、福田は警察まで逮捕の理由に関する質問書を持って、留置場まで面会に来てくれたそうである。
戦後に朝永が理研から東京文理科大に教授として移る際には、福田を含む朝永の弟子たちも一緒に移籍した。朝永が「くりこみ論」の勉強会を行う際には、福田も参加してラムシフトの計算に協力したらしい。この文理大の朝永の勉強会には、南部陽一郎も参加していたことは前に説明した通りである。
東京文理科大学は旧制の東京師範学校の流れを組む伝統ある大学で、歴史学者の和歌森太郎(わかもりたろう)や、後の教科書裁判で有名となった家永三郎(いえながさぶろう)、東京都知事となる美濃部達吉(みのべたつきち)等の、実力も名声もある学者達を数多く揃えていた。そこに湯川と同格の朝永をリーダーとする理論物理グループが加わることで、理学部も看板学部として一躍名を馳せることになった。
戦後の大学改正により、東京文理科大学は東京教育大学と名を変えることとなり、1956~62年までの6年間は朝永自身が学長を務めた。学生との対話も大切にした朝永の学長時代は、東京教育大学の黄金期と言われている。しかしそのことが、後の大きな悲劇の引き金になることには誰も気づく者はいなかった。
東京教育大学は学部キャンパスが都内3ヶ所に分散しており、敷地も手狭であったため、かねてから全キャンパスを統合して郊外に移転する検討が進められていた。1962年頃に府中や八王子等の候補地が挙げられたものの、移転合意には至らなかった。それに先立つ1956年に政府は、東京の急激な人口増加に伴う過密状態の緩和策として、首都圏整備委員会を設置し、首都機能の一部を移転する検討を開始した。
本委員会の提言により1961年に「首都への人口の過度集中の防止に資するため、先ず機能上必ずしも東京都の既成市街地に置くことを要しない官庁(附属機関及び国立の学校を含む。)の集団移転について、速やかに具体的方策を検討するものとする。」とした閣議決定がなされ、都内の大学の郊外への移転に関する具体的な検討が始まった。
その後の1963年には、官庁移転の候補地の中から筑波山麓が最適であると閣議決定された。しかし当時の文部省には大学新設の意図はなく、都内の国立大学の移転しか選択肢は無いことから、筑波に移転する大学の最有力候補として東京教育大が挙げられることとなった。
一方で、1962年の朝永の任期満了に伴う教育大の学長選挙において、理学部出身で植物学専攻の三輪知雄(みわともお)が新学長に選出された。政府から東京教育大に提示された筑波への移転計画に関して、三輪新学長に代表される理学部教授会は施設・設備の老朽化から賛成したが、もう一つの看板学部の文学部教授会は、研究上の利便性が失われるとして移転に強く反対した。文系学部の先生方にとって、研究場所を文化の中心である東京の都会から田舎の山奥に移すとなると、猛反対することは至極当然ともいえる。
学内の意見が纏まらない状況で、三輪学長と理学部教授会グループは賛成、反対派の意見の妥協点を探ることなど一切せず、筑波へのキャンパス移転を強行したことから学内は紛糾した。混乱は学生達にも波及し、1967年頃から移転反対派の学生による抗議のストライキが頻発するようになった。学内の混乱から1969年の入試が中止され、責任を取る形で三輪学長が辞任した後に、学長代行として理学部物理学科の宮島龍興(みやじまたつおき)が就任した。
東大理学部出身の宮島は、理研で朝永の指導を受けた愛弟子の一人である。しかしその宮島は、就任直後の69年1月に学生へのキャンパスからの退去を命じ、2月にはキャンパス内に機動隊を導入してロックアウトを強行し、学生を強制的に排除した。「キャンパス奪還」を試みた学生達は、機動隊に逮捕されてその多くは退学処分にされたという。
1年余り続いたロックアウト体制の混乱した中で、大学側により筑波への移転が正式に決定され、1973年には筑波大学法案が国会で可決したことで筑波大学は開学した。以後は東京教育大の各学部の定員は徐々に減少し、1978年3月に東京教育大学は完全に消滅した。
このように、東京教育大の筑波へのキャンパス移転は理学部教授会を中心として強行されたが、移転推進派の中心人物として活動したのが福田信之であったという。
教育大の筑波移転問題に関しては、教育大OBの前沢研璽(まえさわけんじ)氏が管理人を務めるHP上で詳細に解説されており、上記は前沢氏の記載から多くを参照している。その中の「東京教育大学の筑波移転問題(管理人私見)」という論考から、福田に関する箇所を引用する。
―引用はじめ―
問題は、文学部が移転に慎重な態度をとったことに対して、理学部出身の三輪知雄学長を中心とする大学執行部がまったく相手側(文学部教授会側)の立場にたって物事を考えようとしなかったことである。問題発生の初期の段階において、学長が移転に慎重な文学部に対して、和歌森太郎文学部長を罵倒するというような態度をとったことは、はなはだ遺憾である。相手も子供ではなく、プライドの高い大学人なのだから、罵倒して言うことをきかせようなどということは、良識ある(はずの)大学人のすることではない。このようなことでは対立の溝はますます深まるばかりで、まとまる可能性のある話もまとまらなくなってしまう。
結局のところ、学長を中心とする大学執行部は、力ずくで移転を推進することしか考えようとせず、これでは何の妥協点も見出せるはずもなかった。何しろ、推進派の参謀役とされる福田信之教授の言うところによれば、紛争解決の3原則は、話し合いはしない、妥協はしない、遠慮なく機動隊を使うことだというのだから、恐れ入った話である。互譲の精神の欠片もない。
相手がこういう思想の持ち主では、文学部教授会を中心とする反対派や学生自治会がどんな運動をしたところで、まるで無意味でしかなかったということになる。実際に、移転をめぐる紛争の最終局面では長期間にわたりキャンパスに機動隊が常駐するという異常事態となったが、警察権力の力を借りて新大学を作って一体何が面白いというのだろうか。
反対派が弾圧されるのを楽しんでいたのかもしれないが、この間、全学闘の集計によれば累計で110余人の学生が逮捕され、また奨学金停止などの措置もあって総数は不明だが多くの学生が中途退学を余儀なくされて大学を去って行った。そのなかには、のちに漫画家として著名となる池田理代子(いけだりよこ)氏もいた。また、多くの学生が無期停学や退学などの処分を受けて大学を去った。推進派は闘争収拾に動いていた民青系の理学部自治会幹部まで退学処分にしたのだから、どうかしている。(学籍簿が筑波大学で管理されているため、当時の退学者がどの程度の人数に及ぶかは今日に至るも集計されていない。)
この世に正義があるならば、福田教授のような人物の方こそ、機動隊を私的に濫用し、多くの学生に損害を与えた罪により刑務所に行くべきであったろう。
―引用終わり―
相田です。福田が上記のような強行的な態度を取ったことには理由がある。福田は1960年代のとある時期に、統一教会および国際勝共連合の日本の初代会長である久保木修己(くぼきおさみ)という人物と懇意となり、あろうことか統一教会の熱烈な信者となっていたのである。反共の旗手と化した福田は、左翼活動の影響下にある移転反対派の学生達の主張を一切受け入れることなく、逆らう学生達を機動隊の力を使って全て退学処分とした。同じHP中の「東京教育大小史」という論考からも一部を引用する。
―引用はじめ―
移転推進派の最大の実力者は、理学部物理学科の福田信之教授であると言われていたが、彼はある雑誌の座談会で、紛争解決の原則は(1)話し合いはしない、(2)妥協はしない、(3)遠慮なく機動隊を使うことだと、得意げに述べている。事態はすべて彼の「3原則」通りに進行したと言え、福田教授こそは筑波大学建学の最大の功労者であったと言えるであろう。
福田教授は反対派の学生をつかまえて、「お前はレーニンを読んでるか、俺は全部読んでるぞ」などとからかっていたそうだが、どうもこの福田3原則にはレーニン主義の影響が感じられる。レーニンのプロレタリア独裁論にならって推進派独裁をやっているかのようである。
―引用終わり―
相田です。理研時代の福田は武谷と懇意にしており、熱心な共産主義者だったことは前述したとおりである。しかしどういった心境の変化からか、その思想を180度変えた福田は、一転して左翼活動家に牙をむくことになった。昔の言葉では「転向右翼」、もう少し新しい名称では「ネオコン」と呼ぶのがふさわしい人物である。福田のもう一つの特徴は、自らは先頭に立たずに他の人物を傀儡として持ち上げて、黒幕として陰から権力をふるうことである。
筑波移転活動の際に福田に持ち上げられたのが、理研時代からの同僚の宮島龍興である。宮島は物理学者として非常に優れた業績を上げた人物であるらしいが、大学学長としては影が薄く、機動隊導入等の決断が出来るような度胸など持ち合わせていなかったらしい。宮島の裏ですべてのシナリオを描いたのは福田であり、福田の「3原則」により教育大の筑波移転が実現したのである。
(以下続く)
相田英男 拝
【1408】[1725]天武天皇の正統性について
『旧唐書』と『古事記』『日本書紀』との関係
『旧唐書』は日本の歴史学者たちに不当に無視されている。その理由は『旧唐書』が「倭国伝」と「日本国伝」の並記で作っているからだ。7世紀半ばまでを「倭国伝」で作り「日本国伝」は八世紀初頭の粟田真人の遣唐使の記事で始められている。
倭国記事の最後のものは「劉仁軌(唐の水軍の将軍)伝」にある。
”仁軌、白江の口で倭兵に遇う。四度戦い勝つ、その船四百艘を焚く、煙炎は天に漲り、海水は皆真っ赤になった。・・・”
白村江の戦い(663年)の記事である。唐朝は朝鮮半島で戦争した相手を、明確に倭国と認識している。『旧唐書』の倭国は、『魏志』倭人伝の卑弥呼の王朝の後裔と認識している。
では「日本国」をどのように認識していたのだろう。
”日本国は倭国の別種なり。その国日の辺にあるを以て、故に名となす。或は云う、倭国自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本となすと。或は云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併せたりと。
その人、入朝する者、多く自ら矜大、実を以て対(こた)えず。故に中国是を疑う。・・・”
唐朝は、倭国と日本国を別王朝と認識している。七世紀の後半に日本列島の代表王朝が、倭王朝から日本国(近畿大和王朝)に替った、と見ていた。唐朝は、倭国も日本国もよく知っていたのである。倭国は戦争した相手であり、唐の役人・郭務宗は、白村江の戦の翌年から672年(壬申の乱の年)まで、毎回かなりの軍勢を率いて四度も筑紫を訪れている。四度目の筑紫訪問は、671年の十一月から翌年五月の末日までであった。壬申の乱は翌六月に勃発している。壬申の乱の勃発は、朝鮮半島情勢と無関係であったとは思えない。
唐朝には、膨大で濃密な日本列島情報が蓄積されていたはずだ。
長安三年(703年・日本の年号で大宝三年)唐の都長安を訪れた粟田真人を団長とする遣唐使たちは、悪びれることなく堂々と、唐に蓄積されていた情報と矛盾する日本の歴史を述べるのであった。
既に天武天皇によって日本の歴史は定められていた。天武を正統化する為の万世一系の皇統による日本統治の歴史が創られていた。粟田真人たちは、その歴史を誇らしげに唐朝に披露したのである。
しかし唐は、日本列島の内情をよく知っていたのである。あまりの出鱈目ぶりにあきれ返ったに違いない。粟田真人の披露した歴史は、唐朝に認めてもらえなかった、受け入れてもらえなかったのである。
日本国(大和王朝)は、歴史を書き改めねばならなかった。何とか唐朝を納得させることの出来る歴史に改作せねばならなかった。
中国が日本(倭国)をどのように認識していたか知る必要があった。倭国の歴史を取り込んだものに改作する必要があった。
中国の史籍を手に入れることが遣唐使たちの重大任務となった。しかし、古い史籍は簡単に手に入るものではない。ただ初唐に『隋書』が上梓されていた。『隋書』だけは確実に手に入れて粟田真人等は帰朝したのではなかったか。
日本の王朝は、その『隋書』を研究し、参考にして歴史の改作に当たった。『隋書』倭国伝の中に大きな存在として、隋の皇帝・煬帝に「対等外交の国書」と言われるものを送った倭国王・多利思比孤がいた。彼が中国で最も有名な日本人であった。多利思比孤を取り込んだ歴史を作る必要があった。つまり聖徳太子説話の創作である。
『古事記』本文は推古天皇で終わっている。その理由は、参考にすべき『隋書』が、推古の御代で終わっているからだ。隋朝は、推古の御代で滅んでいる。
『古事記』は、歴史改作の指針として書かれた。『日本書紀』の基本設計図である。国語学は、『古事記』が先で『日本書紀』は後であることを明らかにしている。
【1407】[1724]理科系掲示板[17]に番外編を載せました
みなさんこんにちは。相田です。
世間の流れは原子力どころではない感じですが、自分で選んだテーマに落し前を付けるべくやっています。
今までは、書いた文章をそのまま載せていましたが、今考えている本論考の全体項目を下に纏めます。前回までに1.7までを報告しています。
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題目「思想対立が引き起こした福島原発事故」
第0章 はじめに
第1章 素粒子論グループの光と影
1.1 量子力学の成立過程について
1.2 大阪大学の湯川研究室
1.3「哲学者」武谷三男と三段階論
1.4 エンゲルス、レーニンの自然科学論
1.5 素粒子論グループの形成
1.6 坂田昌一、哲学にこだわり過ぎた巨人の挫折
1.7 ルイセンコ論争と武谷
1.8 〔番外編〕南部陽一郎、朝永門下生のキリスト
1.9 そしてユダ、福田信之
第2章 札束で引っぱたかれた科学者達
2.1 日本学術会議成立の裏側
2.2 茅誠司、義理人情を越えた合理の人
2.3 民主主義科学者協会
2.4 「札束で引っぱたく」の真意
2.5 二つの秘密文書
2.6 終生原発容認論派であった武谷三男
2.7 素粒子論グループ最後の抵抗
第3章 福島事故へのトリガーが引かれた日
(以下は検討中)
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前回に続く1.8の南部陽一郎(なんぶよういちろう)の話なのですが、原子力には全く関係しない内容になってしまったため、番外編として理科系掲示板に載せています。そちらを御参照下さい。
南部に続いて素粒子論グループ編の大トリには、日本の物理学史上の最大の問題人物ともいえる福田信之(ふくだのぶゆき)を取り上げます。ここまでで重掲に載せるのは一段落とするつもりです。もうすこしこちらで頑張りますので、よろしくおねがいします。
相田英男 拝
【1406】[1722]定例会(11月16日)が無事終わりました。日本の激動の2週間も過ぎたようです。
副島隆彦です。 今日は、2014年11月18日です。
●「富士山会合」の開会記念レセプション 都内 2014年10月31日
16日(日)に、私たちに学問道場の定例会(自力での講演会)が、上野の国立博物館の一部の平成館のホールで行われました。ホールの全席が埋まる多くの会員に集まっていただきました。 ありがとうございます。
北海道や四国や九州からも、一度は参加したいという会員たちの半分ぐらいの人とは、私が博物館の裏門で弟子たちと「お・で・む・か・え」のご挨拶が出来て良かったです。
六城(ろくじょう)君が、前座で話て、キリスト教世界の西洋文明が、日本の幕末の先進的な知識人たちにどのように理解され解明されたか、の話がありました。六城くんは、六城ラジウム (http://www.rokujo-radium.com) を売っている人ですから、微量の放射線物質が人体に良いことの実践活動をしている優秀な人です。
そのあとの、私の話では、かなり危ない内容を徹底的に遠慮無しに話しました。会員の皆さんで、会場に来れなかった人は、是非、DVDで見てください。私はいよいよ余計な自主規制も何もしません。 今の世界で、この国で、タブー(禁忌、きんき)にさせられていることを、公然と暴き立て、グイグイと真実を表に出します。 もう誰にも、どんな勢力にも遠慮する気が、私、副島隆彦は無くなりました。どうかこのDVDを買って見てください。極力、自主規制による削除などは無し、で販売します。この国の言論戦の最先端で闘うことの、誇りを持ち、自らの言論、思想、知識に、威厳を示そうと思います。
会場の上野の東京博物館は国立の施設ですから、やっぱり、くだらない規制がたくさんあって、会場の外の、目の前にあるカフェテラスのジュースさえも買えないように、規制の白帯を貼って、参加者が買えなくしていました。それから、さすがに国の立派な施設なのですが、私たちと聴衆の全員が入場したのは、なんと裏口の守衛さんがいる通用口でした。あーあ。
立派なホールです。おそらく小泉・竹中改革の規制緩和(デレギュレーション)策で、「国立の施設も、民間企業に見習って少しは金儲けをしなさい」ということで、こういうコソコソとした利用の開放を大決断してやったのでしょう。
それでも国家公務員たち(お役人さま)がやることだから、なんとか届けを何枚も出させたり、参加者全員にピンクの小さなリボンを付けさせたり、「ここからは立ち入るな」の規制をあちこちに作って、「ああ。これじゃ、一般の企業や団体は、こんなところは使わないだろうなあ」と私は気づきました。 これじゃーね。参加者もそう思った人が多かったことでしょう。
それでも、私は上野駅の公園口から、ずっと銀杏並木を歩いてきて、浮浪者(バム)たちが日向ぼっこをしているところを通って会場に付きましたので、気分がよくなって、講演の最中に、「蔦(つた)の絡(から)まるチャペールで祈りを捧げたし、夢多かりしあの頃の思い出をたどれば、・・・・・秋の日の図書館のノートとインクの臭い、枯葉の散る窓辺、学生時代・・・」 という「学生時代」の歌をいい加減な感じで歌ってしまいました。 あ。この歌は私の人生の最大の敵の、憎き、ローマン・カソリック・イエズス会の賛美の歌だ、と歌いながらは、と気付きました。
その他、もろもろありました。11月16日は私たち学問道場の秋の大集会でしたので、盛況でよかったです。会員たちも私のドギツイ話を聴いて喜んで下さったと思います。
私が、最新刊の『官製相場の暴落が始まる 相場操縦(そうばそうじゅう、マーケット・マニピュレーション)しか脳がない米、欧、日 経済』(祥伝社刊)が全国で発売されたのは11月4日です。 その前後を含めた激動の2週間がようやく終わった、と、今日(18日)に思います。
10月31日(金)の、黒田ハロウィーン金融緩和」の不意打ちの、サープライズが有った。激しい動揺が国内に起きたあと、なんと11月5日(水)ぐらいから「解散・総選挙」が騒がれた。海外にいた安倍晋三首相が、首相権限(憲法7条3号、伝家の宝刀を抜く)で、11月19日、衆議院解散、12月14日選挙を、自分で決めたようには見えなかった。 ニューズ映像に写った安倍晋三の顔は、おろおろしていた。
自民党の内部で蹴手繰(けたぐ)りあいがあって、それで、解散になったとか、財務省と官僚たちが首相を追い詰めた、ということもない。野党はどこも弱小であるから何かが出来るはずがない。 どう考えても、日本人でこんな時期に選挙をやりたい人は誰もいない。ということは、やはり外国の力で、すなわち、アメリカの力で、アメリカ政府の中のジャパン・ハンドラーズ(日本あやつり対策班)が動いて、キャロライン・ケネディ大使の意思もあって、「安倍晋三をそろそろ引き釣り下ろそう」という、ショック・ドクトリン shock doctrine の動きになったのだ。
消費税の追加増税を、2017年の4月まで、一年半、先送りにする、というアメリカ(ジェイコブ・ルー財務長官の意思と決断)の決断で、一番、うろたえたのは、日本の財務省だ。それと、ハロウィーン緩和の不意打ちをやった黒田東彦だ。「政府は、増税を認めてくれる、とあれほど、言ったのに。なんだよ。この仕打は。財務省と私たち日銀は、煮え湯を飲まされた」と、ヒドく嘆き苦しんでいる。追加緩和と、GPIF(国民の年金の資金)をアメリカの米国債買いに、貢がさせることだけさせて、これである。今、安倍政権内部は、オーストラリアのブリズベーンから帰ってきた安倍晋三以下で、深刻な表情で鳩首(きゅうしゅ)会議を開いているだろう。
日本の運命は、日本人によって決められていない。哀れなものだ。 そしてその追い打ちが、さらに 昨日、17日の「日本は、マイナス1.6%のマイナス成長(経済劣化の意味)」という発表だ。安倍晋三政権への成績発表で落第(らくだい)、大失点の判定が下された。
テレビ・新聞でさえ、「消費税の増税での国民の信を問う為の急激な変化の総選挙へ」と書かずに、「大義(たいぎ)なき選挙」と書いている。こんな年末の時期に、お金ばっかりかけて、選挙なんかされたら、かなわない、と国民は、うんざりしている。「誰が、こんなバカな決断をしているのだ(とても、安倍首相だとかは思えない)」と感じている。
政治家(国会議員)たちも嫌(いや)がっている。日本国民の多数意思が果たしてどこに有るのか、も分からないような、政治が安定しない。大海原でザブン、ザブンと波をかぶって、舵(かじ)も切れなくて翻弄されて波間ををさ迷っている可哀想な日本という国だ。
私は、11月15日、定例会の前日に弟子たちと話す内部連絡網で、次のように書いて送った。
(転載貼り付け始め)
2014年11月15日
アルル君へ 副島隆彦から
(略) どうやら、君の言うとおり、急激に安倍晋三は、もう 終わりのようだ。アメリカが決めたようだ。急激に、アメリカが上から日本に圧力をかけて、宮廷革命(きゅうていかくめい)のクーデターのように、解散・総選挙(12月14日実施)を命令して、ショック・ドクトリンで、安倍たち日本右翼勢力を、政権から引きづりおろすようだ。
私は今朝4時に起きたら、君が言ったとおり、安倍に対して、この富士山会合 Mt.Fuji Dialouge で、 「安倍をやめさせる」 が決まっていたのだと、分かりました。ですから、急いで、そのことを重掲に書いてください。 それと、 明日、16日の講演資料の一枚目に、 この 富士山会合の参加者集合の 写真 とかを 入れてください。
君の言うとおりだ。安倍が、北京APECで失敗したら( 事実、大失敗した。首脳たちは誰も安倍を相手にしなかった。) 引きづりおろすとアメリカが決めたのだ。 オバマ=キャロライン=カート・トン=ダニエル・ラッセル のアメリカ政権内の ハト派=アジアで戦争を起こさせない派 と、それといがみ合っている 軍事狂暴派のヒラリー派 =グリーン、アーミテージ および、ジョゼフ・ナイ、ハムレたちでも、 「もう、これ以上、安倍たち右翼を許さなさい。勝手にさせない」 ということで、 両派合同で安倍を捨てる、と決めたのだろう。当然、中国はこの計画に賛成だ。
アルル君の言うとおり、あの富士山会合の場に、石破茂(いしばしげる)がいたとしたら、次の首相は、石破だ。 操(あやつ)り易い谷垣さだかず に次をバトンタッチで渡す、ということはなくなっただろう。 この 11月1,2日の、箱根町の ホテルでの Mt. Fuji Dialogue マウント・フジ・ダイアローグ が、アルル君がいち早く見抜いた通り、「三極委員会(トライラテラル・コミッション)」(デイヴィッドがもうすぐ死ぬから )に取って替わる、新しい日本を操るための最高会議になることが決まったようだ。
アルル君。 定例会に間に合うように、急いで一枚目に富士山会議の集合写真とかを作って載せてください。
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
〇「 ケネディ大使、関係強化に意欲 日米対話「富士山会合」式典 」
2014/11/1 日経新聞
日本経済研究センターと日本国際問題研究所は 10月31日 夜、国際関係や安全保障に関し 日米の政府関係者や専門家らが対話する第1回年次大会「富士山会合」の開会記念レセプション を東京都内のホテルで開いた。安倍晋三首相やキャロライン・ケネディ駐日米大使らが出席した。 年次大会は11月1~2日の日程で神奈川県箱根町で開催する。
レセプションであいさつした安倍首相は「富士山は裾野が広いから美しい。日米関係も裾野を 広げることが重要だ」と述べ、政府関係者に加えて学識者や企業経営者らも一堂に会し、安保や経済などを議論する富士山会合へ期待感を示した。
ケネディ大使も「日米の協力関係は比類なく広いが、当然と見なし何もしないわけにはいかない」として、関係強化への意欲を示した。レセプションには、自民党から福田康夫元首相や麻生太郎副総理ら、民主党からは玄葉光一郎 前外相らが出席した。
〇「 「日米の輪つなぎ直す」 富士山会合始まる 」
2014/11/1 日経新聞
国際関係や安全保障について日米の政府関係者、経営者、専門家らが対話する第1回年次大会「富士山会合」(日本経済研究センター、日本国際問題研究所共催)が1日、神奈川県箱根町のホテルで始まった。 開会宣言では奥正之・三井住友フィナンシャルグループ会長が「日米の人の輪をつなぎ直し、相互理解を深める」と会合の目的を説明した。そのうえで「戦後70年の節目を迎えるにあたって、両国の望ましい関係を深く考えていきたい」と語った。
リチャード・アーミテージ元米国務副長官は「日米同盟を維持し、繁栄させ、(協力の)領域を広げていくための自由でオープンな議論をしたい」と抱負を語った。国分良成防衛大学校長は台頭する中国への対処を巡り「習近平政権がどういう方向に向かうのか、日米や国際社会は中国とどう向き合うべきかなどを話し合いたい」と述べた。
日米の経済連携について米国務省経済局のカート・トン筆頭副次官補は「日米が一丸となって、一部の国への富の集中など世界経済が直面する課題に取り組むことができるのかを議論したい」と語った。
会合は2日まで。「日米中関係」「サイバー・セキュリティー問題」「アベノミクス」をテーマとするパネル討論やジョセフ・ナイ・ハーバード大学特別功労教授の講演なども行い、政策提言「富士山宣言」を取りまとめて閉会する。
日本経済研究センター(岩田一政理事長)と日本国際問題研究所(野上義二理事長)は2014年度から会員制の新事業「日米知的交流・共同研究プログラム」を立ち上げた。米戦略国際問題研究所(CSIS)など外部のシンクタンクとも協力し、日本の考え方を対外発信する広報外交にも取り組んでいる。富士山会合はこのプログラムの年次大会にあたる。都心から離れ、くつろいだ雰囲気の中で率直かつ真剣な議論を促す狙いがある。
〇「 デニス・ブレア 元米国家情報長官「中国をTPPに」 富士山会合始まる 」
2014/11/1 日経新聞
国際関係や安全保障について日米の政府関係者、経営者、専門家らが対話する第1回年次大会「富士山会合」(日本経済研究センター、日本国際問題研究所共催)が1日、2日までの日程で神奈川県箱根町のホテルで始まった。
デニス・ブレア元米国家情報長官は「日米同盟のビジョン」をテーマに基調講演した。経済、軍事の両面で台頭する中国への対処について「日米は国際的な枠組みに中国を迎え、影響力と責任を共有しなければならない」と協調を促した。
具体的には交渉妥結後の環太平洋経済連携協定(TPP)に中国を加えるよう提案し、中国主導で設立をめざすアジアインフラ投資銀行(AIIB)についても「反対すべきではない。不安があるなら中から変えるべきだ」と述べた。
基調講演に先立ち、奥正之(おくまさゆき)三井住友フィナンシャルグループ会長が「日米の人の輪をつなぎ直し、相互理解を深める。戦後70年の節目を迎えるにあたって、両国の望ましい関係を考えていきたい」と開会宣言した。
〇「 日米、TPP妥結で貿易の国際標準を 富士山会合 」
2014/11/1 日経新聞
日米の政府関係者、経営者、専門家が国際関係や安全保障について対話する第1回年次大会「富士山会合」(日本経済研究センター、日本国際問題研究所共催)が1日、神奈川県箱根町のホテルで始まった。環太平洋経済連携協定(TPP)の交渉早期妥結によって日米が通商分野における国際標準づくりを主導すべきだとの意見が相次いだ。
「アベノミクスとTPP」と題するパネル討論では、カート・トン米国務省経済局筆頭副次官補は「早期妥結が重要。経済的な効果に加え、地域のルールづくりにもプラスになる」と強調した。高田創・みずほ総合研究所チーフエコノミストは「アジア太平洋の主要プレーヤーとして、日米が自由貿易や知財保護の高い水準を示すことができる」と述べ、TPPが2国間協力の中核と位置づけた。
日米間では農産品などの市場開放を巡る交渉が難航している。米戦略国際問題研究所(CSIS)のマシュー・グッドマン政治経済部長は北京で開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議を前に「合意の可能性は高まっている」との見通しを示した。
アベノミクスの3本目の矢である成長戦略を巡っては、モルガン・スタンレー・ホールディングスのジョナサン・キンドレッド社長が「労働市場の改革を世界中の投資家が注目している」と言及した。
竹中平蔵・慶応大学教授は将来にわたる日米関係の発展・維持に向けて留学などを通じた「知的交流が経済や外交のすべての基礎となる」と指摘した。会合は2日まで開かれる。
〇「 富士山会合閉幕、「日米対話継続を」 」
2014/11/2 日経新聞
日米の政府関係者、経営者、専門家ら200人弱が参加し、神奈川県箱根町で開いた第1回年次大会「富士山会合」(日本経済研究センター、日本国際問題研究所共催)が2日、閉幕した。米戦略国際問題研究所(CSIS)のハムレ所長は「日米に立場の違いがある分野もあるが、対話を続けて解決策を探るべきだ」と総括した。
富士山会合の総括をするジョン・ハムレCSIS所長(右)と野上義二・日本国際問題研究所理事長(2日午後、神奈川県箱根町)
ハムレ氏は「日米の官民の出席者が自由に討議する、まれに見る会合だった」と評価、「今回の対話のように率直に問題を話し合うことが重要だ」と話した。日本国際問題研究所の野上義二理事長は「来年の戦後70周年を(日米同盟や友好の)よき到達点とするため、今後も友人同士の議論が欠かせない」とした。
会合2日目は米ハーバード大のジョセフ・ナイ特別功労教授が講演し、日本の対中政策について「もっとソフトパワーを活用したほうがいい」として、文化的な影響力を行使すべきだと力説した。中国の台頭については「(近い将来に)米国を追い抜くことはない」とし、日米は中国の脅威を過大評価すべきではないと強調した。中国とは気候変動やエボラ出血熱など地球的課題では協力できるとした。2日間の議論をまとめた議長声明「富士山宣言」は近く発表する。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 このように、この「富士山会合」での決定事項というのが、今後の日本の運命を決める重要な、支配者たちの会合の場となりました。アルル君が11月13日に、自分のブログに書いた最優秀の、時代の最先頭を進む政治分析の文は後(あと)の方に載せます。
私は、まだいろいろ書きたいことがありますが、今日はこれぐらいにします。
ここで書いておきますが、大重俊(おおしげすぐる)君 という、極めて不愉快な、いつもおかしな投稿文を書いて、私から何度も叱られている人、またしても、今度は会員の「荒木」という名前で オカシナ文章を投稿しました。前回は小幡績(おばたせき)を勝手に名乗って文を載せました。 私はもう この 大重俊を許しません。 お前は、二度と学問道場に近寄るな。私の我慢にも限度がある。
君は、軽度の精神症障害者であり、あるいは性格の異常な偏りが有ります。その病気を治したいだろうが、それを、他の人達に迷惑をかける形で、私たちの学問道場に、まとわりついて来るのは、やめなさい。もう許しません。
「副島隆彦が、勝手に投稿文を消して、言論弾圧をした」などと、おかしなことを書く者も許さない。 私たちの学問道場に、土足で上がり込んで、礼儀も知らずに失礼なことを書き散らすことを、言論の自由とは言わない。 どこか他所(よそ)でやりなさい。私は、こういう文は、どんどん削除する。私のことを、そこらのアマちゃんの、言論人だと思うな。
言論の弾圧とは、政府、公務員、警察とかが、「お前の書いているものは許さない。そういう本は出すな」などと言ったときのことであって、私たち民間の団体が、他の人の言論を弾圧することなど出来ない。民間人どうしの言い争いや議論は、「意見、考えの相違」と言うのであって、なぜ、私たち学問道場が言論の弾圧など、出来るのか。 考えてみなさい。その低能(ていのう)の頭でも。自分が書いていることのおかしさを、見つめなさい。
私のこの説明は、これまでに、重たい掲示板で、この14年間の間に10回ぐらいやりました。自分自身のその歪(ゆが)んだ脳ででもいいから、よーく、考えてご覧なさい。
意見や考えが違えば、それぞれ、別の場所で、自分と同じ考えの人達の集まりの方に行って、やりなさい。私たちにまとわりつくな。
私、副島隆彦は政府や、権力者、支配者たちに向かっての真剣に激しい言論を行っている。そうすると、どうしても、権力者側は、私に向かって、軽度の精神障害者のような人たちを使って、私への攻撃を加えてくる。自分たちでは、直接やらないで、性格の偏向したおかしな人間たちを使って私、副島隆彦への妨害行動を取らせようとする。私は、そういうことは十分に覚悟している。 今、私が、書くべきはこれだけです。
このあとは、前述したアルル(中田安彦)君が書いた、今の日本で一番優れた、政治分析の文を載せます。
(転載貼り付け始め)
http://blog.livedoor.jp/bilderberg54/archives/41882595.html#more
「衆院電撃解散」への流れを決めた「富士山会合」
アルルの男・ヒロシです。今日は2014年11月13日です。
11月も第二週に入って寒くなってきましたが、秋風とともに急速に永田町では急激に「解散風」が吹き始めた。この解散風を最初に本格的に吹かせたのは、11月2日に放送された読売テレビの「たかじんのそこまで言って委員会」にゲスト出演した内閣官房参与の飯島勲いいじまいさお)だろう。
この番組の中で突如、飯島は、小渕優子の議員辞職があり、補欠選挙をやったあとで7月ー9月の経済状況が明らかになり、11月20日に総理は消費税を 10%に上げるかどうか決断するとメモを読み上げたという。更にその上でで、「その後の12月2日に、思い切って衆議院解散して、12月14日に投開票、 24日に内閣改造、予算は越年と淡々と告げたという。
この飯島の発言のうち、政治とカネの問題を抱える小渕優子は議員辞職していないし、補欠選挙も行われていないものの、この飯島の言う「解散総選挙」のスケジュールがそのまま現実のものとして現在マスコミが取りざたすようになってきたわけだ。
衆院解散論自体は臨時国会審議の最中で民主党の枝野幸男・幹事長が口にしているし、山本太郎・参議院議員は一つのシナリオとして話していた。ただ、この早期解散論 を安倍政権の最大の応援団である「読売新聞」が10月29日に書き始めているのが重要だろう。そして、11月9日に付でまたも読売が解散についての記事を一 面に載せている。
飯島の発言と違うのは、安部首相が衆院解散をするのは、「消費税10%引き上げの一年半の延期を決断して、その上で解散をする」というところ。永田町のお歴々も最初はいぶかしがっていたが、一気に今週に入って解散風が本格化し、臨時国会も当初成立を目指していた、地方創生関連法 案、派遣法改正案、女性活躍法、カジノ法案のうち、地方創生関連法案のみを成立させ、総理の解散の決断に備えるといように国会対策委員会がスケジュールを 変更している。ほぼすべての新聞が解散を確定的に報じ、産経新聞は総理が12日に解散を北京で決断したとまで書いている。
解散風といえ ば、ジャーナリストの上杉隆氏が指摘するように、麻生政権発足当初に朝日新聞が単独で解散風を吹かせたが、この時は解散しなかったという前例がある。今回も確かに安部首相 が解散を決断したわけではない。APECなどのアジア歴訪に向かう2日前に安倍首相は7日のフジテレビのプライムニュースに出演し、「解散は総理大臣に聞 けば考えていないというのが決まりだ。実際に考えていない」と述べている。
しかし、解散をめぐる総理大臣の発言はアテになるものではなく、かつて佐藤栄作首相は、「解散は頭の隅にもない」と発言したが、そのうち衆院解散をしたあとで、「隅にはないが真ん中にあった」と答えたことがあると政治評論家の有馬晴海氏は指摘しているのを私は読んだ。
しかし、突然降って湧いたような衆院解散風は不可解である。麻生政権の時とちがい、今回は国会審議の日程調整もし、自民党の幹部も増税派以外は容認姿勢に傾いてい る。なんと、筋金入りの増税派であった、「読売新聞」も13日に開催された消費税増税判断の前の有識者会合に出席した、白石興二郎・日本新聞協会会長(読 売グループ本社社長)は、「一年半延ばす選択肢もある」と主張を変えている。ここまで来ると、増税延期と解散総選挙は相当な真実味があるといえるのではな いか。
仮にここまで解散風を吹かせて、与野党の議員が準備に入ってしまった段階で、16日に帰国する安倍首相が、解散をしないとなる と、今度は予定通りの増税で、野党が勢いづく。
野党民主党としては、増税を決めた三党合意に従うという岡田克也幹事長代行(国政選挙担当)や、枝野幸男幹 事長が海江田万里代表を差し置いて党での議論を主導している雰囲気もあり、これに細野豪志元幹事長ら「第三世代」も口出しできないようだ。増税で自民と民 主の対立軸がなくなれば、閣僚の在特会や統一教会との関係、連合が嫌がる派遣法改正問題などで、安倍首相を追い込む材料は他に沢山あるわけで、今度は安倍 が窮地に追い込まれて統一地方選に挑むことになる。
だから、安倍晋三はマスコミが報じるとおりに、自ら解散を決断した、ということである。
しかし、増税延期を単にしたいのであれば、解散総選挙をするに及ばない。従来の三党合意でも認識されている増税法案の景気条項を踏まえて、実施を延期する ように、法改正を行うだけで良いのである。
安倍首相が外国に旅立つ前に、自民党の関係者に解散を伝えていたという報道もある。
これは、 フジテレビのプライムニュースでの小野寺五典前防衛大臣の発言で、それによると、北京出発前に「谷垣幹事長と公明党の山口那津男代表と三人で会った。その 席で解散という言葉が出たようだ」ということである。そこで首相動静を調べてみると、5日夜に日比谷の松本楼に谷垣禎一幹事長、二階俊博総務会長、稲田朋 美政調会長、茂木敏充選対委員長と会食しているという事実を見つけることができる。谷垣・山口が安倍と同席しているのは見つからなかったが、5日にもしか したらこっそりと山口も参加していたのかもしれない。
いずれにせよ、読売報道を受けて、10日に山口代表は、年内解散を想定して総選挙の準備をするように党内に呼びかけた。自民党は公明党の協力を得なければ選挙を戦うことができないのは自明の理。ここで公明党が本気なら本当だと解散風が本格化したわけだ。
13日午後の段階では、自民党の大島理森副総裁が解散は確実といっており、もう解散がないということはなくなったと見るべきだ。
しかしながら、解散の大義名分が「消費増税の延期の是非とアベノミクス」では筋が通らない。増税を延期することは国民は歓迎するに決まっているのだから、 わざわざ総選挙で問う必要もなく、そもそも三党合意で は景気動向次第で増税の実施時期は変えることができるようになっている。野党の維新の党や生活の党が 増税延期法案をすでに提出しているのだから、安倍首相はこれに乗り、粛々と派遣法 などの法案を通し、来年の通常国会に望めばいいだけだ。
安倍首相周辺はなぜ早期に解散をする決断をするのか。これは本当に安倍首相の決断なのか。
そこで当然、考えなければならないのはアメリカの意向である。安倍首相はAPECで習近平国家主席と日中首脳会談を実現させたが、それも形だけのわずか25 分程度のもので、日米首脳会談に至っては実現もしなかっ た。一方、オバマ大統領は習近平と足掛け10時間に及ぶ首脳会談を実施して、米中の間で二酸化炭素 の排出削減の数値目標を約束する共同文書の発表にこぎつけているのである。
実際、APECでオバマと安倍首相がばったり顔を揃えた場所の写真を見たがオバマの表情はムッとしていた。この時すでに国内では解散風が吹き始めており、オバマとしては「俺は聞いていないぞ」という不満があったのだろう。
しかし、オバマ大統領は二期目の中間選挙を終えたあとではすでにお飾りのレイムダックであり、上下両院を共和党に支配されているわけで、権力基盤は大きく 損なわれているわけだ。もともと日米関係を取り扱う ジャパン・ハンドラーズは共和党系のCSIS(戦略国際問題研究所)に所属するマイケル・グリーン上級 副所長やリチャード・アーミテージ元国務副長官、ジョゼフ・ナイ元国防副長官など であり、現職でも国務省のダニエル・ラッセル国務次官補たちはワシントン で「ジャパンクラウド」と言われる特殊な利権集団のコミュニティを作っているので、民主党リベラル派のオバマ大統領とは違う。
ジャパハンドラーズとしては ネオコン派に期待 されているヒラリー・クリントン元国務長官や、共和党のジョン・マケイン上院議員、マルコ・ルビオ下院議員らのネオコン派に肩入れしたい わけである。
そこで首相動静をもう一回振り返ると10月31日の夜にホテルオークラで「日米知的交流・共同研究プログラム」の発足記念 レセプションに出席して挨拶している事がわかる。これは当ブログでも前 回の記事で取り上げた富士山会合のことであり、この主催は日経新聞系の「日本経済研 究センター」と外務省系の「日本国際問題研究所」であり、CSISが事実上のバックにいるわけだ。
この富士山会合前後には共和党系や民主党系のジャパン・ハンドラーズが相次いで来日しており、富士山会合そのものには石破茂前幹事長や長島昭久元防衛副大臣も出席していることはすでにお知らせしたとおりだ。
私は、前の記事でこの富士山会合が「政治と軍産と経済」のグローバリストのインナーサークルであると指摘した。解散風が吹く直前に安倍首相がCSISが係るシンポジウムでスピーチをしているのは、非常にわかりやすい事態である。
この富士山会合ではTPP推進、集団的自衛権閣議決定後の法整備、そして原発再稼働などが当然話し合われただろう。日中関係をめぐる戦略的環境の変化につ いてや、APEC以後の外交・経済日程もアジェンダとなったことは、少しずつ日経で報じられているシンポジウムの報告記事を見ると分かる。
そして、安倍首相のもとには、これとは別に証券会社の講演会のために来日していたポール・クルーグマン教授が6日に首相官邸を訪問しているのである。ク ルーグマンはリフレ派のケインジアンの経済学者である が、今回は国内証券会社のイベントにゲストで来ていることから、ある種の相場形成を目的に来日してい ることが理解できるだろう。
首相官邸にはクルーグマンをエスコートして、浜田宏一・イエール大学教授や、本田悦朗・内閣官房参与も同行している。クルーグ マンは度々、金融緩和と財政政策を実施するアベノミクスを絶賛し、「日本を馬鹿にしたことを謝罪したい」と、金融緩和にブレーキを掛けたり、金融緩和その ものが不足しているとして批判している欧州中央銀行と比較して日銀の黒田東彦を気持ち悪いくらいに褒め倒している。今回も日銀が追加緩和を決定した直後に 日本を褒め殺すコラムを「ニューヨーク・タイムズ」(1 0月31日)の連載で書いている。
黒田総裁のFRBのQE3終了決定の数日後の間髪を入れない電撃金融緩和でさらに日経平均が上がり調子を見せており、同時にGPIFへの国内株式、海外債券への投資割合拡大と相まって、解散総選挙を打つには絶好の金融市場になっていることも見逃せない。
つまり、今回の解散の流れには、安倍首相の支持率が低下する前に解散させ、民主党と維新の党らの野党勢力の選挙協力が固まるまえに選挙を行い、自民党の安 定した政権を来年の統一地方選挙のあとに控える安保法制国会に備え、安倍または富士山会合に出席した石破茂を次の総理大臣に決めるという大きなシナリオの 一環である。消費増税は岩本沙弓氏などが指摘するように米国財界にしては必ずしも歓迎できない面もある。どうせ増税するのだから一年か一年半の延期は大し たことがないと財務省も納得せざるを得ないだろう。
自民党に安定した政権を与えることで、安倍政権がやり残した宿題「共和党が歓迎する TPPの日米合意の実現」「ガイドラインの見直しによる日本の安保負担強化」そして「原発再稼働」という3点セットを着実に実行させる必要があるというの が富士山会合のインナーサークルのグローバリストたちの共通理解であろう。
そして、気になるのは日中首脳会談後のアーミテージのこの発言である。
(引用開始)
「「 靴下を嗅(か)いだような表情」= 日中首脳会談に辛口批評-元米高官 」
2014年11月13日、 ワシントン、時事通信
「2人の首脳は互いの靴下の臭いを嗅ぎ合っているようだった」。知日派として知られるアーミテージ元米国務副長官は12日、初会談に臨 む際の安倍晋三首相と習近平中国国家主席の表情をこう表現し、会談が日中関係改善につながるとみるのは早計だとの見方を示した。10日の会談の冒頭、習主席は首相と握手を交わしたが、表情は終始こわばらせたままだった。
アーミテージ氏は12日にワシントンで開かれた会合で「写真を見ると、2人は笑顔を見せまいと懸命で、こっちが笑ってしまった」と感想を披露。その上で 「戦後70年の来年は中国にとって逃すことのできない(日本批判の)好機で、あと数年、日中関係は大きくは改善しない。会談を過大評価すべきでない」と指摘した。
(引用終わり)
このようにアーミテージは「日中和解ムードではない。 ちゃんと集団的自衛権を法制化することを忘れるなと、日本側の中国側への警戒を怠るな」というふうに釘を差している。一方で気になるのは、安倍政権が、靖国神社の参拝問題を巡って、APEC直前に次のような閣議決定をしているという報道である。
(引用開始)
「 靖国参拝自粛「了解は存在しない」 政府答弁書で中国側主張を否定 」
産経新聞 2014年11月4日
(長いので副島隆彦の判断で、以下は省略)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1405】[1716]副島隆彦先生へ
副島隆彦先生へ
松村享より
今日は2014/11/13です。
先生に、文章を打ち直してもらいました。
本筋の方の論文(松村が『日本人とルネサンス人』と名づけているもの)で、
活用させていただきます。
ありがとうございます。
松村享 拝
【1404】[1715]『フィレンツェ・ルネサンスは、イスラームの覇者バイバルスから見なければならない(その3 これで最後)』
(副島隆彦が、以下の松村享くんの文に、整序と加筆をしました。 )
松村享(まつむらきょう)です。 今日は2014年11月11日です。
私は現在、ルネサンス関連の論文を書いています。
論文は『隠されたヨーロッパの血の歴史~ミケランジェロとメディチ家の裏側~』(2012年、副島隆彦著 、kkベストセラーズ刊)に触発されたものです。
進行中の論文の中から一部を抜粋、加筆して、こちらに掲載しています。今回が3回目で、最後です。
前回は、1340年代からマムルーク朝(エジプトが中心の 軍人奴隷=マムルーク=が王になった王朝 )が急激に勢力が落下したところまでを記述しました。
この事がなにを示すのか。いまのところ資料を探(さぐ)っても、パッとしない情報ばかりです。
ペスト病 をきっかけとして、マムルーク朝の力が下落した、と受け取れるような記述が多い。たしかにペストが席巻していたのは事実だが、よくよく調べると、ペストの蔓延以前に、マムルーク朝の属国都市であったと観察できるイタリアの商業都市 フィレンツェにおいて、バルディ商会、ペルッチ銀行、といった、当時の大銀行が倒産している。 (1345年バルディ商会、1347年ペルッチ銀行 の 倒産 )
ペストがフィレンツェのトスカーナ地方に上陸したのは、1347年~1348年 だ。
それよりももう少し時間をさかのぼる必要がある。その10年前の1340年前後になにがあったのか。ある著作、それを私はちょっと図書館で拾い読みしただけだったので、著作名は失念した。それらの著作には、「フィレンツェの銀行の、イギリス国王への債権が焦げ付いた」 という記述があった。そのときは、私にはなんだかピンと来なかった。
『中世の産業革命 』( ジャン・ギャンペル著、 ・・年刊)には、ヨーロッパにおける銀不足、いわゆる通貨危機の発生がフィレンツェの二大銀行を一気に墜落させた、との記述がある。ただ、これでも私にはまだピンと来ない。 銀不足とは、なにを指すのか。銀不足とは、オスマン朝の勃興の事ではないか、と私ははっと考えた。
オスマン朝(13世紀から始まる)は、トルコのアナトリアを出自とする。アナトリア地方は、今の首都アンカラを含むトルコの中心地帯であり、クルッカレやカッパドキアの遺跡がある。鉄器とともに興隆した古代のヒッタイト(ヒッティー)王国(紀元前1700年から1300年ごろ)の中心都市もあった。このアナトリア地方は古来、莫大な量の銀の産地だ。
『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』( p49~p50 永田雄三/羽田正著 中央公論社、初版・・・年)から引用する。
(引用開始)
オスマン朝が基礎を固め、国家らしい体裁を整えるうえで大きな契機となったのは、1326年にビザンツの要都ブルサを獲得したことである。 (中略)
やがてここはオスマン朝の最初の首都として大きく発展し、アナトリアにおける一大商品集産地となった。(中略)
オスマン朝はさらに、ニカエア(1331年)とニコメディア(現イズミド、イズミール、1337年)を征服した。オルハンはブルサ征服の直後にはじめて銀貨(引用者の割り込み加筆。このことが重要。)を鋳造し・・・
(引用終わり)
松村亨です。このようにオスマン朝が銀貨を鋳造している。この銀貨は、アクチェ銀貨と呼ばれ、17世紀まで広く中東世界で基軸通貨(キー・カレンシー)として使われたという。このオスマン・トルコ帝国のアクチェ銀貨が、以後300年以上に渡って、使われ続けたという事だ。 このことが、私たちが注目すべき重要な事実だ。
どんどん大きくなっていく帝国の、莫大な交易量を賄(まかな)うだけの銀を、オスマン朝は確保していた事にななる。しかもおそらく、その初期から。 同じ通貨が300年以上も使われたという事実は、普通の国家の歴史では見られない。最初から綿密に設計されて作られた強力な通貨だったのだろう。ウルトラ級の優良貨幣だ。
中央銀行もなしに、14世紀から17世紀まで300年も使用できた、交易の決済手段となった良質な銀貨が、中東と地中海世界に当時すでにあったという事実を、我々は記憶にとどめる必要がある。
なので、帝国であったマムルーク朝とその属国のイタリアの大商業都市が、1340年前後に、恐慌に陥った原因は、オスマン朝の勃興にある。私はこのように言いきる。
オスマン朝によって通貨の発行権が独占され、それ以外の国々は、それに従うしかなくなり、自国の独自の通貨の発行権が弱体化してしまった。 それが、オスマン家によって1299年から除々に築かれたトルコの国家は、帝国になっていった。だから時代が下って、17世紀からは、ヴェネツィアの「ドゥカート(ダッカート)金貨」が、ヨーロッパの基軸通貨になっていった。黄金の国ジパングは、いまだ発見されていない。通貨の発行権とその信用を守るためには、なみなみならぬ努力を要した事だろう。
1300年代の中期・後期は、恐慌の時代だ。ヨーロッパでは、教会大分裂(シスマ)、イギリスとフランスの百年戦争、フィレンツェの八聖人戦争と、それに連なるチオンピ(職人階級の下層民)の乱、などなど、なにひとついい事ありません。それでも、中東世界につながる東方ルートだけが長く持続した。
南方ルートの終焉、つまりマムルーク朝(エジプト)とイタリアの、帝国ー属国関係の終焉は、ずば抜けて優勝なルネサンス人であり、フイレンツエ最大の銀行家となった コジモ・デ・メディチ(”老コジモ”、1389~1464 )の時代に入る。
フィレンツエの最大の実力者になった老コジモ(コジモ・イル・ベッキオ)は、「ヴェネツィアは侵略者である」などと、当時、伝統的に同盟を組んでいた ヴェネツィアを敵にまわす発言をしている。それで同じフィレンツェの商人仲間たちと民衆から猛烈にブーイングを食らっている。『メディチ家ーその勃興と没落』( p98~p99 クリストファー・ヒッバード著) にその記述がある。
まさしく当時のヴェネツィアこそは、マムルーク朝(1250-1517年)とほとんど表裏一体と化している国家だった。
だが、当時、ビザンチン帝国(=東ローマ帝国、 帝都コンスタンチノープル)の隆盛が始まっており、ヴェネツィアはビザンチン に取り入り、ビザンチンの地中海の支配領域で上手に立ちまわって貿易利益を独占し始めた。
だからフィレンツェの覇者コジモ・デ・メディチの 14〇〇年の発言は、世界覇権国が、マムルーク朝(エジプト)からオスマン朝(トルコ)へと移り変わる時代の、過渡期の情勢の正確な認識から発せられたものだといえる。
つまりルネサンス運動とは、帝国の属国であったイタリアの商業都市での、過渡期の現象だったのだ。
1347年、恐慌によって潰れたフィレンツェのペルッチ銀行(名門家族ベルッチ家が経営)は、その100年後のメディチ銀行(その後の名門一族、メディチ家が経営)よりもずっと大きな銀行だった。フィレンツェは結局、100年前の、当時ヨーロッパ最大の金融の実力を回復できなかった。 (前掲、『中世の産業革命』ジャン・ギャンペル著p252 、 岩波書店 刊 から)
マムルーク朝の絶頂が、そのままフィレンツェの絶頂だったのだ。だからその100年後に爆発したルネサンス運動は、経済成長の終わった国家の現象だったのだ。ルネサンスとは、1436年から1531年にフィッレンツェを中心に起きた、ミケランジェロを14歳の時から育てた”偉大なるロレンツオ”、ロレンツォ・デ・メディチの時代とその死後30数年である。自由都市フレンツェの陥落まで。
そんな時代に、ローマ・カトリック教会への、とくにその「原罪(げんざい)」のドグマ(教義)への激しい反逆を始めた、コジモ・デ・メディチの アッカデミア・プラトニカ(プラトン学院運動。新プラトン主義の称揚 )に重大な意味がある。
( ここで、副島隆彦が割り込みで書き込みます。 ルネサンス=新プラトン主義の運動とは、その中心思想は、「人間は、皆、罪人(つみbと、ざいにん)である、罪を背負ってこの世に生まれた。だからカトリック教会の僧侶たちにひたすら膝まづき、生きている限り屈従せよ。死後もずっと永遠に屈服せよ 」という残虐な洗脳思想との闘いだ。私たち人間は、何も罪など背負っていない。罪人ではない。罪人として生まれたわけではない。
カトリック教会が今も人類に押し付けているこの奴隷化の思想に気付いて、だからこそ、激しいカトリック批判の根源的な思想闘争を始めたのが、人類史上の偉大なる思想家 フリードリヒ・ニーチェ(1900年死去)である。 その前に、ゲーテがいる。その前に、同じことに気付いた、偉大なるモーツアルトがいる。そして、その前に、
ルネサンス時代に、この大きな真実を少年時代に、偉大なるロレンツオたちルネサンス( Renaissance,
イタリア語なら リナシメント ) の戦闘的な先鋭な知識人たちから教えられて、88歳の生涯を芸術家として、闘い続けた偉大なるミケランジェロ である。
私、副島隆彦は前掲自著を、フィレンツェの都市を調べて回って、書いて、この巨大な真実に、60歳になってようやく気付いた。日本人として初めて、ようやく到達した。その先人、先駆者は、羽仁五郎(はにごろう)であった。 他のヨーロッパ文化史の専門家の日本人学者、文芸家たちの多くは、密かにカトリック信者であるか、バチカン=ローマン・カトリックに育てられた走狗(そうく)、手先( paw, ポー)たちである。
このことに、私、副島隆彦は気付いた。 副島隆彦注記終わり)
松村亨です。だから、このポイントこそは、私が書いている論文『日本人とルネサンス人』の出発点だ。
1498年、ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峡(きぼうほう)ルートの航海成功が、後のヨーロッパ覇権の原点となったた。このことは日本の中学校の社会科(歴史)の教科書でも書いている。陸の時代から、海の時代への「大航海(ザ・グレイト・ナビゲイション)の時代」の到来だ。 この時、それまでの古代の ユーラシア・ネットワークをひっくり返した。
その11年後の 1509年には、ポルトガルは、マムルーク朝と戦争し、勝利した。
1517年、オスマン朝は、マムルーク朝を滅ぼした。
イスラームの覇者、マムルーク朝の創設者、バイバルスは、遠い過去の人間になった。と同時に、アッバース朝(正統のイスラームの帝国。1258年、モンゴルによってバグダッド陥落で滅亡 )以来の、イスラームが営々とつくりあげたユーラシア・ネットワークは、完全に過去のものとなった。
これがネットワークの地殻変動だった。このネットワークの、再度の地殻変動が、500年の時を越えて現代21世紀前期、ついに起こったようです。
こうなってきますと、来たる 11/16(日)学問道場定例会の主題である 『2015年、世界は平和か、戦争かの帰路に立っている』とも結びついてきます。
ネットワークの地殻変動、という視点から、定例会にご出席なさってもいいと思います。
あ、そうだ。それと、定例会の会場である、上野の東京国立博物館『平成館』のすぐそばに、東京都美術館があって、そこに今なんと『ウフィツィ美術館』が、やってきているそうです。
ウフィツィ美術館は、ルネサンス期の美術を展示します。悲壮の芸術家・ボッティチェリの作品を生で見れるチャンスです。
皆さん、定例会は13:00 からで、ウフィツィ美術館は、どうやら午前の9:30から開場しているそうなので、
午前はルネサンス、昼から世界動向、というフルコースを体験できますよ。私もスタッフとして、会場でうろちょろしております。 それでは。 (終)
松村享 拝
参考文献
○ 板垣雄三監修『世界に広がるイスラーム(イブン・バットゥータの世界)』 悠思社
○ 岡田英弘著『世界史の誕生』筑摩書房
○ クリストファー・ヒッバード著『メディチ家ーその勃興と没落』 リブロポート
○ 小室直樹著『日本人のためのイスラム原論』集英社インターナショナル
○ 佐藤次高著『世界の歴史8 イスラーム世界の興隆』 中央公論社
○ ジャネット・L・アブー・ルゴド著『ヨーロッパ覇権以前ーもうひとつの世界システム』 岩波書店
○ ジャン・ギャンペル著『中世の産業革命』岩波書店
○ ジョナサン・ウィリアムズ著『図説・お金の歴史全書』 東洋書林
○ 副島隆彦著『あと5年で中国が世界を制覇する』 ビジネス社
○ 永田雄三/羽田正著『世界の歴史15 成熟のイスラーム社会』 中央公論社
○ パラグ・カンナ著『3つの帝国の時代ーアメリカ・EU・中国のどこが世界を制覇するか』講談社
○ 前嶋信次『イスラムの時代 マホメットから世界帝国へ』講談社学術文庫
○ マキャヴェリ著『フィレンツェ史』 岩波文庫
○ 宮崎正勝著『イスラム・ネットワーク』 講談社選書メチエ18
○ 宮崎正勝著『世界史の誕生とイスラーム』 原書房
○ 牟田口義郎著『中東の歴史 オリエント五000年の光芒』 中公新書
○ ウェブサイト『副島隆彦の論文教室』
鳥生守著
125・126『論文 ヨーロッパ文明は争闘と戦乱の『無法と実力』の文明である⑤⑥』