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Loginはこちら【1470】[1799]『明治維新という過ち』について
『明治維新という過ち』について
田中進二郎
原田伊織著『明治維新という過ち』(毎日ワンズ 2015年1月刊)は現在、歴史の本の中で非常に売れ行きがよいそうだ。
これまでの幕末の歴史が、司馬遼太郎をはじめとして薩摩・長州出身者を英雄視した「薩長史観」であったが、最近はそれが大きく揺るがす本がいろいろと出ている。
私もこの本を読んでみた。著者の原田伊織氏は、「昭和30年代に小学生高学年だった」とあるので、現在のお歳は70代後半であろう。
原田氏は、少年時代に母親から切腹の作法を教え込まれた、と書いている。戦後になっても、武家の血筋をひいた家では、切腹を躾(しつけ)として教えていたというのは驚きである。
そのような家庭で育った原田氏が、戊辰(ぼしん)戦争の際に敗れて集団自決した、会津の白虎隊や、絶望的な切り込みをして玉砕した二本松少年隊などに武士の美風を見出して讃えるのは、自然といえば言える。
●トーマス・グラバーが持ち込んだ圧倒的質量の武器弾薬
この本では、会津戦争に代表される東北戊辰戦争を中心に、薩長の武力倒幕がいかに非道であったかが述べられている。
薩摩・長州を主力とした新政府軍は江戸城開城(1868年 慶応四年4月11日)のあと、会津藩(福島県)や庄内藩(山形県)・仙台藩を中心とした「奥羽越列藩同盟」を朝敵とみなし、征伐する兵を繰り出した。小銃と、大砲を有した西軍(官軍)の前に、東北諸藩は一方的にやられるだけだった。戊辰東北戦争とは、原田氏によると、「ライフル銃部隊(新政府軍)と火縄銃部隊(東北諸藩)の戦いで、百戦すれば百勝するほどの武器の性能に違いがあった。」(p222より引用)
いくつかの戦闘で列藩同盟軍が十倍の兵員で新政府軍を迎え撃っても、逆に十倍の死傷者を出している。
「東北戦争の最初の本格的な戦いといわれる白河戦争では列藩同盟軍は死者700名以上、負傷者は2000名をだした。一方西軍(新政府軍)は死者わずか10名、負傷者38名という軽微なものだった。この戦いには大垣藩(岐阜県)が火箭砲(かせんほう)を持ち込んでいた。火箭砲とは、焼夷弾を打ち込む砲だと考えればいい。これが、列藩同盟軍の陣地を焼き、逃げる兵に対して、射程の長い(600m~800m)スナイドル銃が火を噴くといった様相であった。同盟軍兵士のゲベール銃の射程距離は80m~100mに過ぎず、彼らは立ち上がって弾を込めており、これを伏せたままの新政府軍が狙い撃つ。つまり、これはもはや戦いとは言えなかったのである。」
(以上『明治維新という過ち』p224より引用)
田中進二郎です。薩長を中心とする西南諸藩に、トーマス・グラバーは大量の武器を調達していた。同時に幕府の注文にも応じていたが、やはり大半は討幕側にわたったようだ。グラバーは総計で18万丁の小銃と大砲を国内に持ち込んだ、とされている。
●会津戦争とプロイセンの宰相ビスマルク-新潟港をめぐる国際外交
星亮一著『会津戦争全史』によると、西軍(官軍)が最初に攻略した白河口の緒戦では、会津軍が西軍に勝っている(1868年4月20日)。これは、会津藩が開港間もない新潟港から購入したスナイドル銃(施条式銃・ライフル)を戦場で用いたためだった。一方の政府軍は旧式のゲベール銃だったから負けた。新潟港まで船で武器を運んできていたのは、プロイセン・ドイツの武器商人・シュネル兄弟だった。
だから新潟港は、会津藩をはじめとする奥羽越列藩同盟にとっての生命線だったのである。
このとき、イギリス大使パークスは、新政府軍を有利にするべく『局外中立』をアメリカ・フランス・イタリア・オランダに通達した。内戦を理由にして、できるだけ新潟開港を遅らせようとした。
イギリスは新天皇(明治天皇)をいただく新政府を正当と断定し、東北諸藩や旧幕軍は反乱軍と、きめつけた。一方、アメリカ大使は、旧幕府の権威はまだ高いとみていた。
アメリカは、軍艦ストーン・ウォール号(甲鉄艦)の明治新政府側への引き渡しを渋りつづけた。
一方、プロイセン(プロイセン帝国が成立するのはこの3年後の1871年のこと。)の宰相ビスマルクも、奥羽越同盟軍を支持する構えを見せてはいた。さきほどのシュネル兄弟の兄ハインリヒ・シュネルが、会津藩と庄内藩(山形県)を支援するように、プロイセン政府に掛け合ったからである。東北の列藩同盟の中には、蝦夷(えぞ・北海道)の松前藩も入っていた。だから、列藩同盟は『蝦夷地を割譲(かつじょう)するかわりに、プロイセンの軍事支援を求める』という文書をプロイセン駐日代理公使のブラントに送った。ちなみにシュネル(兄)は武器商人として活動する前には、このブラントのもとで文書の翻訳を担当していたらしい。
手紙は、二か月かかってビスマルクの手に届いた。しかし、イギリス帝国の万国公法を「錦の御旗」にした外交戦略の前に、ビスマルクは会津藩の支援の要請を断らざるをえなかった。
会津とプロイセンの秘密外交を明らかにする書簡が、もうすぐドイツ語から日本語に翻訳され本になるようである。(洋泉社ムック『八重と会津戦争』p122にこのことが書かれている。)
皮肉なことに、ビスマルクに向けて公使ブラントが送った手紙が届く前に、既に新潟港は新政府軍によって押さえられてしまった。東征軍参謀の西郷隆盛が自ら、軍艦に乗って新潟港奪取の攻撃を行ったのである(1868年7月)。
このとき、幕府の脱走艦隊を指揮していた榎本武揚(えのもとたけあき 幕府海軍副総裁)は、新潟港を守るために動こうとはしなかった。榎本は「あくまで薩長軍と戦う」という決意表明をしておきながら、品川沖でひたすら待機していた。榎本武揚と勝海舟が裏で完全に示し合わせていた、ということは、『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(成甲書房 2014年刊-以下『フリーメイソン=ユニテリアン』と略記)の第3章で長井大輔さんが、克明に暴いている。
榎本武揚は同僚に向かって、「奥羽のやつらは時代遅れの武士の価値観を持ち続けているので嫌いだ。」ということも言っていたらしい。会津藩は薩長だけにやられたのではない。徹底抗戦を唱えた幕臣たち(インナーサークルのひとびと 生き残って新政府の要職についていった)からも裏切られていたのである。
ここが分からない人が多いから、薩長史観でなければ、佐幕派・会津史観だという二項対立に陥るのである。
新潟港が官軍の手に落ちた直後に、河井継之助(かわい つぐのすけ)率いる長岡城も、官軍を苦しめたのちに落城した。河井は最新式の機関砲のガトリング砲も二門購入していたが、これもシュネル兄弟によって新潟港まで船で運ばれたものだった。
河井は会津に向かって転戦する中で負傷し、死亡する。
長岡城が落城した同日に(7月29日)に二本松城(福島県〕が三春藩の裏切りにもあい、落城している。二本松少年隊は最後の斬りこみを行って、ほとんどが玉砕した。
『フリーメイソン=ユニテリアン』の中で、副島隆彦先生は、会津戦争のときに官軍の鉄砲隊に切込みをかけて、死んでいったのが日本陸軍の「万歳特攻(吶喊―とっかん)」の始まりだろう、と書かれている。(同上 第2章p73より)
●テロリスト扱いされている赤報隊・相楽総三は草莽の士
『明治維新という過ち』で原田伊織氏は、薩長が幕府及び幕府に味方する諸藩を武力でたたく口実をつくるために、ひどい挑発行動をとった例を挙げている。
その一人は、西郷隆盛から特命を受けて、江戸市中を荒らしてまわった、相楽総三(さがら そうぞう)である。相楽は赤報隊隊長として、江戸で火付け、略奪、殺人を繰り返して幕府を挑発しつづけた。しびれをきらして、薩摩藩邸を包囲し、砲撃したのが幕府と庄内藩だった。これで、幕府もろとも庄内藩は「官軍」の敵になってしまったのだ。江戸無血開城の前日に、会津と庄内藩の二藩同盟は成った。(1868年4月10日)
p62
一方、赤報隊隊長・相楽総三は、江戸で暴れたのちに、西郷隆盛によって、今度は東山道方面の薩長軍の先鋒に任命された。そして、中山道の各宿場に『年貢半減』を約束しながら、軍資金を調達して進んだ。宿場の本陣や富農たちは、相楽の赤報隊になけなしの金を出した。
相楽総三は今このときが、草莽崛起(そうもうくっき)の時であるとして、関東や東山道にひそんでいたゲリラ部隊を蜂起させ、民衆による倒幕=革命の開始を呼びかけていったのである。なんと、相楽総三は、水戸天狗党の残党だった!
西郷隆盛は相楽を起用することの危険性をよくよく知っていたのである。西郷隆盛の
有名な言葉に
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。此の始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業はなし得られぬなり」(『西郷南洲遺訓』という言葉がある。
この西郷の言葉は、相楽のような草莽の士を指している。
しかし、その後にあらわれた「官軍」は「さきほどの赤報隊は偽官軍」だといって、相楽をとらえ、首をはねた。そのあと、金をだした庄屋たちも、役人たちから取り調べをうけた。このことは、島崎藤村の長編小説「夜明け前」に臨場感をもって描かれている。島崎藤村がこの小説で描いたテーマとは「薩長の明治政府の成立そのものが、閉塞した時代状況の元凶をなしているのではないか。」という大きな問いかけなのである。幕末に、中山道を通っていった水戸天狗党や、赤報隊の屍の上に、明治新政府は建てられたのではないか。という問いなのである。だから島崎藤村は、プロレタリア作家の小林多喜二が『蟹工船』を出したのと同年(1929年昭和4年)に、『夜明け前』の連載を開始しているのである。
(梅本浩志著『島崎藤村とパリ・コミューン』社会評論社2004年刊を参考にした。)
原田伊織氏の『明治維新という過ち』のタイトルもいわんとするところは同じだろうが、相楽総三や尊王攘夷の志士たちは「イスラム国=IS」のテロリストとやっていることに違いはない!という言い方は、センセーショナルではあるが、問題の核心には迫れない主張である、と私田中は思った。
赤報隊の相楽総三にしても、浪士組(のちに新撰組になる)を京都で結成した清河八郎(きよかわはちろう)にしても、水戸の天狗党に加わっていた。ついでに近藤勇に粛清された新撰組・芹沢鴨(せりざわかも)もそうだったようだ。筑波山(茨城県)に立てこもった連中たちは、おそらくかがり火をたいて、激論をかわしていただろう。藤田小四郎(藤田東湖の息子)や武田耕雲斎の方針には従えないとして、山をどんどん下りていった。水戸天狗党は雪中行軍のすえ、包囲されて、頼みの一橋慶喜にも裏切られる。そして鰊小屋に詰め込まれて(この小屋は福井の敦賀に現存しているそうだ)首をはねられた。このあと、生き残った残党たちはあらたな倒幕運動をおこしていったのである。清河八郎の「回天」=倒幕の思想の原点はここにあったのだろう。しかし、また彼らも一人ずつ消されていった。
新撰組の芹沢鴨については、暗殺された理由は通説のように、「素行不良」だったのではなく、攘夷を決行するため宮家(有栖川宮)に接近したためだ、という説が生まれている。芹沢の無断行動に怒った会津藩の公用人らが暗殺を指示したのではないか、と歴史家の星亮一氏は『幕末日本のクーデター』(批評社 2013年刊)の中で述べている。
彼らは国を憂えて立ち上がって、殺されていった人間たちだ。このことは副島隆彦先生の『属国日本論』をよく読めばわかる。
●賤民で構成された奇兵隊の野蛮さ
しかし、一方で長州藩の奇兵隊は、これまでの(司馬遼太郎氏によって流布されてきたような)、「階級の違いを超えて国を憂える草莽(そうもう)が立ち上がった」というようなものではなかった。長州藩の最下層の、教育も受けていない賤民たちに当時の最新武器を持たせて、訓練したものだった。これは原田伊織氏のいうとおり、事実だろう。
奥羽鎮撫軍 下参謀として仙台藩に下り、乱暴狼藉(ろうぜき)を繰り返した世羅修蔵(せら しゅうぞう)はその典型だ。世羅を仙台に向かわせたのは、木戸孝允だ。仙台藩も戦いに巻き込ませようと画策したのだろう。世羅修蔵が仙台に向かうと聞いて、長州の品川弥二郎は仙台藩家老の但木土佐(ただき とさ)に向かって、「世羅とはひどいのが行くな」と同情した、という。やがて仙台藩士の怒りを買って、処刑される。(1868年4月20日)仙台藩は世羅を斬ったここでふっきれて、会津藩とともに徹底抗戦すると決定する。
―たまたま6月30日の日経新聞を見ていたら、仙台藩家老・但木土佐の血縁にあたる但木敬一氏(弁護士・元検事総長)の文章があった。これによると、
但木土佐は明治二年(1869年)5月19日戊辰戦争の首謀者として仙台藩麻布下屋敷にて斬首刑に処せられた。家名断絶、家禄没収の沙汰を免れず、約15年間「但木」の名を使う事さえ禁じられた。
とある。-やっぱり長州ひどいなあ。
●木戸孝允と大村益次郎の江戸でのつながり
賤民の「中等以下の知能の」(少なくとも戊辰戦争では新政府軍は、戦国時代の足軽程度の道徳観念しかなかった)民兵を、急ピッチで近代の軍隊に変えるために長州に招かれたのは村田蔵六(大村益次郎)である。招いたのは桂小五郎(のちの木戸孝允)だ。村田蔵六は長州に行くにあたって名前を変名し、大村益次郎と名乗った。グラバーは長崎にやってきた彼に4000丁余りの銃を売っている。彼も高杉晋作と同様、上海に渡っているので、ジャーディン・マセソン商会と接触していただろう。大村は、奇兵隊ほか長州藩兵に、ゲリラ戦術を徹底して仕込んだと考えられている。
桂小五郎と大村益次郎の関係は、かなり早いころからあった。司馬遼太郎氏は、江戸の刑場で、村田蔵六(大村)が蘭書を片手に解剖の授業をしているところに、偶然に桂小五郎が出くわして、彼の才能に目をつけた、いう。(小説「花神」)。司馬遼太郎は重大なところでいつもウソを書く。
大事なことは、桂小五郎は尊王攘夷の皮をかぶりつつ、蘭学者たちのネットワークの中にも入り込んでいた、ということだ。手塚律蔵(てづかりつぞう)という長州出身の貧しい家の出の洋学者が、桂を江戸の私塾で教えている。ここで西周(にしあまね)も学んでいる
このことは少しだが『フリーメイソン=ユニテリアン』で私田中進二郎が書いた。P104より引用する。
(引用開始)
手塚律蔵は蕃書調所の教授手伝(てつだい)として、西周のほかにも、木戸孝允、津田仙(つだ せん 津田梅子の父)らに教えた。手塚の尽力もあって、翌年には西周も「蕃書調所教授手伝並」という肩書きをもらって、幕府に採用される。津田真道も西と同じポストについた。ここで教鞭(きょうべん)をとった人物は、大村益次郎、寺島宗則、加藤弘之(かとう ひろゆき)らがいる。日本中の頭脳がここに集まった。(p104)
(引用終わり)
手塚律蔵は西周をジョン・万次郎(中浜万次郎)に紹介しているから、フリーメイソンのインナーサークルの一員である、と考えられる。手塚は、長州藩の江戸屋敷で藩士たちを前に開国の重要性を論じたところ、尊攘派の藩士に命を狙われ、江戸城のお堀に飛び込んでなんとか命拾いした、という。そのあと瀬脇寿人と変名までしている。
それなのに、水戸の尊攘派と気脈を通じていた桂小五郎は、手塚の門人となっているのは奇妙きわまりないことだ。
桂小五郎も、大村益次郎も尊攘派の志士たちの中に入り込んで、上から操る役割をしていたのだろう、と推測がつく。ここらへんはこれからの研究課題としたい。
最後に。『フリーメイソン=ユニテリアン教会が明治日本を動かした』(成甲書房)のご購読どうぞよろしくお願いします。
(終り)
田中進二郎拝
【1469】[1798]次の大きな金融危機の前哨戦(スカーミッシュ)が始まった。合わせてジム・ロジャーズへのインタビュー記事も。
副島隆彦です。 私は、きのう 今日のぼやきに、「俳優 高倉健(たかくらけん)に学ぶこと」を載せた。読んでください。
この9月には、2008年9月15日(ああ、あれからもう7年がたつ)リーマン・ショック並みの大きな金融危機(ファイナンシャル・クライシス)が、アメリカ(ニューヨーク)から起きて世界に波及するだろう。
自分は、アベノミスクのダマシの手口に同調して踊っている程度の愚か者でないと自覚しているのなら、今のうちから備えなければいけない。
私の考えは、以下に転載する 正直者の大投資家のジム・ロジャーズの考えと全く同じである。 アメリカでも、急激なインフレがもう始まっている。それを操縦(そうじゅう)しようとして、FRB(イエレン)議長は、急いで、政策金利(FFレート)を上げたい。が、上げられない。で、もがき苦しんでいる。
ジム・ロジャース(Jim Rogers、1942年―)
ジャネット・イエレン(Janet Yellen、1946年―)FRB議長
10年ものの米国債利回り(イールド)は、今、2.3パーセントである。これを、3.5パーセントまで上がるように操作したいのだ。だがそうはうまくゆかない。舵取りに失敗して、やがて急激な高インフレがアメリカを襲う。
「イエレンは、金利を上げる、上げる、と言っているが、どうせ上げられない。景気回復していないのに、インフレ退治だけしようというのは無理だ」と、私、副島隆彦は最近の2冊の金融本で書いた。 ジェイコブ・ルー財務長官は、金利が 0.5%でも上がると、アメリカの国家予算を組めなくなる。一年間の利払いの増加、400億ドル(40兆円)だけでも、アメリカは破産する。
ジェイコブ・ルー(Jacob “Jack” Lew、1955年―)財務長官(右)とイエレン
ギリシアの破綻(デフォールト)など可愛いものだ。ウクライナも、プエルトリコも、どこどこの国も、それから、スペイン、イタリアもどうせもうすぐ財政破綻する。
ツイプラス(Alexis Tsipras、1974年―)首相たちは、ギリシアの金持ち層までが、左翼になって、ヨーロッパ全体に復讐する、という感じだ。 「よくも 我ら誇り高い (ギリシア文明=西洋文明 の発祥の地)ギリシア人の 名誉を踏みにじったな」と怒っている。
ヤニス・バルファキス財務相(Yanis Varoufakis、1961年―)とツィプラス首相(右)
私が本で書いた通り、今度、そのページ(P105)を画像の貼り付けで見せてあげるが、ツィプラスたちは、初めから、「ギリシアはもう破綻した。だから、3400億ユーロ(=40兆円)の借金は返さない。消えた。 さっさと次の破産(はさん)手続に入ってくれ。 EU は、(そのものが、)債権者会議 ( stakeholders’ meeting ステイクホールダーズ・ミーティング)なのだ。破産したら借金は消える。棒引きになって、返さなくていいのが、ヨーロッパ近代が確立したルールだ」と 言っているのだ。 このことを、誰も、どこも報道して説明しようとしない。
自分の中央銀行に、ガブガブと自分のボロ屑国債を買わて(違法行為だ)、それでお金(お札)をジャブジャブ刷らせて、それで、株式を釣り上げる、という、愚か極まりないことを、安倍晋三 という 暴力団の犯罪者たちが、やっている。 いつまで、そんなことをやれると思ってるか。 まともな頭をしている人間なら、分かることだ。 お前たちは、アホなのだ。国家を乗っ取っている犯罪者集団だ。
安倍晋三(1954年―)首相
私は、スーパーマーケットで確認しているが、今、たまねぎ とじゃがいもは、同じ値段だ。どちらも 一個(大き目の玉)が、100円だ。 たまねぎ、じゃyがいもが、一個100円するのだぞ。魚も一匹200円ぐらいだ。肉は、安いオーストラリア産のステイキ用で、150グラムで500円ぐいらだ。
国産の和牛ならすぐに800円とか、1400円とかする。
自分でスーパーに行って、野菜を握りしめて、真剣に考えなさい。国民生活の現実を見なさい。私は、自分で、じゃがいもも玉ねぎも、小さな畑で作っている。それぞれ100個ぐらいは作れる。ピーマンも、トマトも、とんがらしも作る。 青い葉っぱは、ビーニルを掛けないので、すぐに虫にやられるが、本気でやれば収穫できる。
「インフレ目標(値) 2パーセント (期待インフレ率2%)を何が何でも達成する」と 安倍やら、黒田、伊藤隆敏(いとうたかとし)たちは、必死で祈願している。が、バカじゃないか。お前たちは。 日本国民の、主婦たちに、
その「インフレ目標2パーセント」という意味を、本当に説明できるか。
黒田東彦(くろだはるひこ、1944年―)日本銀行総裁
伊藤隆敏(1950年―)コロンビア大学教授
「インフレ(物価高)にするのが、私たち安倍政権の目標です」と、本気で、スーパーの前で、演説してみろ。 「物価を上げることが、いいことなのです」を、じーっと聞いている主婦たちが、カッとなったら、お前たちは、一斉に石を投げられるぞ。 女を集団で怒らせたら、どれぐらい怖いか、知っているのか。
何が、インフレ目標(ターゲット)理論だ、馬鹿野郎ども。 私が、この理論のウラ側を、全部、本に書いて 暴いた。これからもっとやる。
お前たち アメリカ経済学かぶれ たち は、人間とう生き物の どケチ根性、金銭崇拝、フェティシズム(物神崇拝=ぶっしんすうはい=)、お金にしがみつき、お金を肌身離さず握っている、その切実な感情が分からないのだ。 カール・マルクスが、この人間の金銭へのフェティシズムを 喝破(かっぱ)した。
カール・マルクス(Karl Marx、1818―1883年)
無理やり、金融政策で、期待(目標)インフレを達成すれば、国民が贅沢品を買物するようになって景気が良くなる、などど、本気で考えているか。 この亡国の ヤクザ者たちは。
私の考えは、穏(おだ)やかに言えば、以下のジム・ロジャーズ氏と 同じだ。じっくり読んで、勉強しなさい。
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
●「J・ロジャーズ氏が不人気な資産を買っている理由」
Why Jim Rogers is buying what everyone else is selling
2015年6月30日 WSJ (ウォールストリート・ジャーナル紙)
http://jp.wsj.com/articles/SB12090554170328684804804581079050758613340
ジョージ・ソロス氏とクォンタム・ファンドを共同設立し、オートバイで世界 を旅した体験記に投資的な視点を加味されたベストセラー「冒険投資家 ジム・ ロジャーズ 世界バイク紀行」を著したロジャーズ氏。
最近、本紙のインタビューに応じ、世界の金融市場について語った。
ロジャーズ氏が筆者に株式相場が暴落すると警告した2008年以来、同氏が米国 株や世界の市場全般についてこれほど悲観的な話をしたのは初めてである。
以下を読めば、ロジャーズ氏が米国市場について言っておきたいこと、同氏が 金(きん)、国債、ギリシャ、日本、中国などをどのようにみているかが分かる。
Q:今は普通の時代ではないのか ?
A:現在起きていることは歴史的にも異例なことだ。過去数千年の歴史において、金利が0%だったり、マイナス圏に突入するなどということは一度 もなかった。
われわれは将来のために貯蓄したり、投資したりしている人々を滅ぼしつつある。彼らは、仕事もしていないのに 4、5軒の家を 頭金(あたまきん。ダウンペイメント)なしで購入した人々の犠牲となって破綻しかけている。われわれは、歴史上のすべての社会が最も必要としてきた人々に大打撃を与えているのだ。
投資をしたり貯蓄をしたりしている人々が大損害を被っているときは、その社会、経済、国には問題がある。米国はまさにそうしたことをしてきた。 将来のために貯蓄してきた人々のことを考えてみてほしい。
(まじめに生きている)彼らはバカみたいに見える し、バカみたいだと感じてもいる。借金をしている友人たちは、彼ら(まじめな人間たち)の犠牲で救われているのだ。
Q:国債市場はバブル状態にあるのか?
A:バブル状態かどうかはいずれ判明する。が、おそらくその状態にある。株式市場が下落するためには何かが起きなければならない。国債市場がみんなを震え上がらせれば、株式市場は下落するだろう。前回の国債の弱気相場は1946年から1981年まで続いた。
1981年以来ずっと、国債市場は強気相場であり続けてきた。 国債価格が下がり始めると、金利は上昇する。金利は今後、もっともっと上がるだろう。現在では考えられないような水準に達するはずだ。どこまで上がるかは明言できないが、1981年の米国債10年物の利回りは15%以上だった。
現在、米国ではインフレが起きている。 しかし、米労働統計局はインフレなどないと発表している。彼らは一体どこで買い物をし、どこの学校に子息を通わせ、どこで野球観戦をしているというの か。インフレは世界中で起きており、米国だけの話ではない。
2015年6月という日付と共に、次のことを書き留めておいてほしい。今のような低金利の環境は永遠には続かない。国債は長期間にわたって下がる可能性がある。中央銀行の官僚たちもこれには恐れをなすだろう。株式相場が10~13%下落するかもしれない理由もそこにある。
Q:米連邦準備制度理事会(FRB)は何をすべきか
A:FRBは国債の購入をやめるべきだ。適切な水準は金利や市場に決めさせるべきなのだ。このことは一部の企業の破綻を意味するかもしれない。
1990年代の初頭、スカンジナビア諸国は問題を抱えていた。スカンジナビア諸国は企業を破綻させ、1~2年はかなりの辛酸をなめたが、再編を果たし、世界的にも最も経済 が堅調な地域の1つとなった。
その一方で、日本は企業を破綻させることを拒み、人為的な景気刺激策を取り続けた。そのせいで、 10年以上が失われてしまった。 人為的な景気刺激策はうまく機能しない。うまくいった試しがないのだ。経営に行き詰ったら破綻して、もう一度やり 直す、うまくいく方法はこれしかない。
Q:金(きん)についてはどう思うか?
A:金は調整局面にあり、この調整に入ってすでに4年が経過している。私は現在、金(きん)を購入していないが、向こう1~2年のうちに金(きん)の買い好機が やってくる と見込んでいる。たとえば金が1トロイオンス=1000ドルを下回ったら、金(きん)を大量に買い増すのが賢明だと私は考えている。
1000ドルを下回ったら、と言ったが、別に根拠があるわけではない。一般的に50%の調整が標準的というだけである。1000ドルを下回る前 に、金(きん)はバブル状態になるはずだ。過去を振り返ると、政府や通貨に対する信頼感が崩れたとき、人々は逃避先として金(きん)を選んできた。
問題の一端(いったん)は多 くの人々が金(きん)を神聖で神秘的なものだと考えていることにある。金(きん)が下落すると、それだけで驚く神秘主義者もいる。
次に大きな問題が起きたら、政府、中央銀行、紙幣などに対する 人々の信頼感は失われるだろう。金(きん)が最も上昇するのはそのときである。だがそれは、中央銀行が危機を乗り切るため にあらゆる措置を講じるときでもある。
Q:現在、あなたはどういった資産を買っているのか ?
A:私は中国、日本、ロシアの株式を買っている。すべてアジア市場だ。私が米国株を買っていないのは、米国株が過去最高値を更新しているからだ。高値を更新している資産は購入する気になれない。
日本株は過去最高値から50%下げた水準にあり、安倍首相は無制限に紙幣を刷ると述べた。安倍首相は株式相場を上げるためにさまざまなことをしている。株式投資に税制上の優遇措置を与える法案も通過させた。莫大な積立金を運用する年金積 立金管理運用独立法人(GPIF)を説得して国内株の運用比率を引き上げさせた。安倍首相は株式と投資界にプラスになることをたくさんしてきた。
しかし、私は円は買っていない。日本には巨額の公的債務がある上に、紙幣が増刷されている。どちらも通貨の価値を下げる要因だ。短期的には投資家の ためになるが、長期的には日本をだめにしてしまうだろう。日本の人口は減少しており、公的債務は限度を超え、通貨の価値は損なわれている。こうしたこと が日本にとって良いわけがない。
Q:中国はどうか
A:中国は世界最大の債権国であり、中国株は過去最高値より30%も低い。一方の米国は世界の歴史上最大の債務国であり、その株式相場は過去最 高値水準にある。
私は中国株をまだバブルとは考えていない。しかしこのまま上がり続ければ バブルになるだろう。中国国内では債務が数十年振りに積み上がっており、同国にとっては問題となるだろう、が、まだ限度には達していない。意味のある調整が起きてバブルになりかけている市場が、適切な水準に戻 ることを願っている。
通常であれば、私はこの段階で売却する。過去の経験が味方してくれるのではと思っている。タイミングが的中すれば、バブルは素晴らしいチャンスとなる。私は的中したことがない。というのも、私は早めに売るので、その後も上昇してしまうからだ。
今回はまだバブルだと考えていないので、売 らずに保有し続けている。兆候が出始めて1年ほど経つが、今も多くの人々が新たに(中国の株)市場に加わっている。私が中国へ行って、企業の受付係が株の話をしていたら心配になるだろう。そうしたことは悪い兆候だが、(それでも中国の)株価はさらに上昇し得る。
Q:ギリシャはどうか
A:ギリシャは余興に過ぎない。政治家たちが過ちを犯し続けているので、メーンの出し物になり得る。ギリシャにとって最善の道は破綻を宣言し、ユーロ圏にとどまり、やり直すことだ。ギリシャが債務を完済することはないだろう。
米国にも破綻する州、市、郡があるが、そうした自治体 が米国を離脱することはない。再編してやり直すのだ。破綻したからといって離脱する必要はない。ギリシャが破綻してユーロ圏にとどまれば、ちょっとしたトラウマとなるが、われわれは切り替えて前に進むだろう。ギリシャが(ユーロ圏から)追放されるようなことになると、かなりの大事になってしまう。
Q:最後に言っておきたいことはあるか
A:2008年に問題が起きた(引用者駐。リーマン・ショックのこと)のはわれわれがあまりにも膨大な債務を抱えてしてしまったからだ。
現在、世界中の債務は当時よりも大きくなっている。米国では、FRBのバランスシートが5、6倍になった。世界には緊縮策を協議しながら(そのくせ)債務を増やし続けている国がたくさんある。そうした国々にとって株式相場を押し上げる手段は増刷した紙幣しかない。
次回の金融危機はわれわれ全員にとってかなり苛酷(かこく)なものになるだろう。あなたと、その読者と、私が生き残れることを願っている。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1468】[1797]天武天皇の正統性について
『懐風藻』の中の「壬申の乱」
『懐風藻』大友皇子伝より(抄訳)
皇太子(大友皇子)は、淡海帝(天智天皇)の長子なり。容姿は堂々としておおらかで、瞳には生き生きとした輝きを漲らせていた。唐使劉徳高(天智四年来朝)、大友皇子に拝謁して不思議に思って言った、「皇子の風骨は世間一般の人のものではない、こんな東海の島国にはもったいない王者の風骨である」と。
その大友皇子が、ある夜夢を見た「天の門がからりと開き、朱色の衣を着た老翁が日を捧げてやって来て、皇子に恭しく掲げて授けた。
ところが突然、えたいの知れない人物が現れ、老翁から貰った日を奪い去って行った。」目を覚まして怪訝に思い、藤原内大臣(中臣鎌足)に夢の内容を詳しく語り、何か意味があるのだろうか訊ねた。
藤原内大臣は、大いに驚き、嘆き「恐ろしいことですが、天智天皇が崩御された後に、恐ろしく悪賢い賊が現れ大伴皇子の皇位を盗もうとしていることを告げる夢ではないか。しかし、そんなことは万に一つもあるはずがないと信じています。天道は人に対して公平で、ただ善を務めるものを援けると言います。徳を納め善政に努めれば、災害異変などなんら恐れるに足りません。(中略)壬申の年の乱に会いて、天命を遂げず。時に年二十五。
守谷健二です。ここで夢の話としていますが「壬申の乱」を指していることは明白です。「壬申の乱」で天武方が朱色をシンボルカラーに用いたことは『日本書紀』『古事記』『万葉集』の明記するところです。
故に「朱色の衣を着た老翁が、日を捧げてやって来て、大友皇子に授けた」の朱衣老翁は、倭国の大皇弟(天武)を示唆しています。また日を捧げ、の日(太陽)は、天位のことです。
つまり、朝鮮派遣軍の敗北(白村江の戦)で統治能力を失った倭国が日本列島の代表王朝の地位を近畿大和王朝の天智天皇に譲ったことを意味し、大友皇子が天智天皇の正統な後継者であることを、倭国の大皇弟(天武)自らが認めていたを意味している。大皇弟と、万葉歌人で有名な額田王の間に生まれた十市皇女(といちのひめみこ)を嫁がせ、皇子の誕生を見ていた。大皇弟(天武)は、ある時点まで大友皇子の皇位継承を祝福さえしていたのである。
注目すべきは「壬申の乱」の首謀者は、大皇弟(天武)ではないと示唆していることである。「非常に悪賢い賊」と云う。これは高市皇子である。『万葉集』も『日本書紀』も「壬申の乱」を主導したのは、高市皇子と明記しているのだ。
この『懐風藻』の大友皇子伝は、『旧唐書』の「倭国伝」と「日本伝」の並記に対応しているのです。日本列島の代表王朝の交代があったことを示唆しているのです。
【1467】[1796]無料公開中
6月21日までの期間限定で、「チョムスキー9.11」というノーム・チョムスキーのインタビューや講演映像を中心としたドキュメンタリーがネット上で無料公開されています。
https://www.youtube.com/watch?v=D1oz9NBqMzQ
チョムスキーはショック・ドクトリンという言葉は使っていないものの、9.11の事件をアメリカ政府がいかに利用したか、帝国主義がどのようなことをしてきたかが判りやすく語られています。映画が取られた2002~3年頃より、この図式は現在、むしろ強化されているように思いました。恐ろしや。
全編観ても1時間15分程度ですが、忙しい方は51分頃からでもご覧ください。
(なお、冒頭に「沖縄うりずんの雨」のPRが流れます)。
【1466】[1795]中東のアラブ人たちの団結と独立を壊された歴史、そして今につながる。 それから 政治家・村上誠一郎の誠実な発言を載せる。
副島隆彦です。 今日は、2015年6月17日です。 私は、今は、ずっと、「中国 と アラブ(イスラム教世界)とヨーロッパが、世界の中心を(北アメリカから)ユーラシア(=ユーロ・アジア)に移す」(仮題 長すぎるなあ) という本を書こうとして、あれこれ苦しみながら、調べています。
私は、この重たい掲示板に前回、「アラビアのロレンス」の話を書きました。 トーマス・エドワード・ロレンス Thomas Edward Lawrence という 素晴らしい、かつ苦難の生き方をしたイギリス人(1888-1935,46歳で死去)の伝記(バイオグラフィー)類を6 冊読んでいます。
「アラビアのロレンス」トーマス・エドワード・ロレンス
ロレンス自身が書いた、「砂漠の反乱」を含めた自伝、戦争記録である「知恵の7つの柱」しか知らなかったのだが、私が、この4月に、中東・アラブの調査旅行に行く前から、本を集めて読み始めていた。
その中の一冊の、「アラブが見たアラビアのロレンス」(スレイマン・ムーサ 著 牟田口義郎(むたぐちよしろう)訳、リブロLibro 刊、1991年、原書は、1962年刊) を、ずっともう5日間も読んでいる。600ページの大著だ。
牟田口義郎 は、まだ生きていた中野好夫(なかのよしお、日本の英文学界の泰斗 )と話してこの本を、立派な日本文に訳している。 中野好夫 が、まだ戦前である 1940年に、早くもロレンスのことを日本に書いて伝えた。
この本は、ロレンスへの公平な評価と、悪意の評価もしている。こんな熱中読み込みをしている人生時間の余裕は、今の自分にはないはずなのに。書かなければいけない原稿が、次々と押し寄せている。
この本にも、冷酷に書かれた、アラブ人の側から見た、当時の中東、アラブ人の世界が、イギリス、フランスによって、無惨に狡猾(こうかつ)に分割されてゆく様子が、よく描かれている。ソビエト・ロシアも中央アジアを奪いとった。ドイツとオスマントルコは、敗戦国として裁かれる立場だった。それが、1919年1月からのパリ講和会議(=ベルサイユ会議)だ。
ロレンスは、本気で、アラブ人たちのために、彼らの団結と独立のために全力で闘った。自分自身でアラブ人たちと共に、砂漠での戦争に参加して、ラクダに乗って何日も砂漠を進み、原住民の服装で泥だらけで、寒さに震えながら2年間、原住民のベドウィンの部隊と共に戦った。同じ粗食を食べて、それから、トルコ軍の軍用列車を破壊する攻撃を、十数回も行っている。他のイギリス人の派遣将校たちには出来ないことだ。
ロレンスは、自分自身でで線路の爆破の技術も覚えて、実際に10数回、爆破している。破片が飛び散って自分も軽い怪我をしている。そしてファイサルの軍事顧問 謙、通訳 謙、カイロにいた英軍のアレンビー将軍の配下にあって、連絡将校としてもずっとう動いた。それらのことが、このアラブ人の側から詳細に研究された本によっても分かる。
しかし、戦争が終わってからの、アラブの立場は、微妙になってゆく。いくらアラブ人の団結と、まとまっての独立を、パリ会議で、希求してみ、簡単には受け入れられない。 ヨーロッパの強欲人間、帝国主義者(インペリアリスト)たち と、怒鳴り合い、争って、ロレンスは、深く傷ついてゆく。
著者のスレイマン・ムーサは、戦勝国として有頂天の英(ロイド・ジョージ首相)、仏(クレマンソー大統領)の背後から、真の勝利者として、アメリカが世界帝国となって、ヌーと顔を出し、真の勝利者であったことまでを見ていない。ヨーロッパ人たちも分かっていない。自分たちは、歴史(世界史)の舞台の中で、大きくは騙(だま)されたのだ、ということを。
ロイド・ジョージ(David Lloyd George, 1863-1945)
ジョルジュ・クレマンソー(Georges Clemenceau, 1841-1929)
世界中の歴史学者たちは、今もなお、この大きな歴史の真実に気づいていない。誰も書いていない。だから、私、副島隆彦が、この極東の果ての地で、2015年という年に書いて公表しなければいけない。
ベルサイユ条約(1919年)によって出来た世界体制の、その数年後の1924年に、突如、リヤドから攻め込んできて、聖地メッカ(マッカ)を奪い取ったのが、 アブドルアジズ・イブン・サウド(サウジアラビア初代国王になった)だ。
アブドルアジズ・イブン・サウド( Abdulaziz bin Abdulrahman bin Faisal Al Saud, 1880-1953)と会談するアメリカのフランクリン・D・ルーズヴェルト大統領(この写真のルーズヴェルトは偽物[影武者]。この写真が撮影されたとされる1945年2月のヤルタ会談から2カ月後の4月にはルーズヴェルトは死んでいる。こんなに血色がよく元気な様子はおかしい。イブン・サイドの悪人顔もじっくり見て下さい)
サウジアラビア初代国王 の アブドゥルアズィーズ・イブン・サウド の 人相の悪さ
この 極悪人の、アラブ世界の強奪者の背後に、アメリカがいた(軍事援助と資金援助、その見返りが、今も世界最大のガワール油田の利権)ことを、誰も書かない。誰一人として書いてない。メッカ太守であったハーシム(=ハシュマイト)家の、全アラブの統合者としての、全アラブ人の、団結と独立を、全アラブの部族長たちの承認のもとに成し遂げた、2年間半の激しい独立戦争を戦い抜いた、その挙句のことだ。
イラク国王ファイサル一世(左)とイブン・サウド(1922年撮影)
このサウド王家の アブドラ(アブドッラーが正しい表記)国王と、日本の安倍晋三首相が、一昨年、訪れた首都リヤドで、話し込んでいる報道写真がある。両者の、顔が歪んだ、口元が引きつった感じで、顎(あご)がしゃくれた表情が、この二人が、暴力団系のワルい人間だ、ということを、報道写真がはっきりと写している。
アブドラ国王と安倍晋三首相
「 日本の首相よ。お前のところの核兵器の保有は、どうなっている」
安倍「アメリカが持たせてくれない。秘密で保有するための製造を続けている。すぐにアメリカにバレて、困ってるよ 」 アブドラ「 あの アメリカ野郎め。これほどにオレたちが巨額の資金を毎年、毎年、貢いでいるのになあ。 核兵器ひとつもたせない。だが、もうすぐわが国はパキスタンから買うからな 」 ・・・・
こういう秘密の会話を、二人でやっていることが、報道写真の両者の表情から如実に見て取れる。両方とも暴力的政治家だ。サウド家は、全アラブの民衆から嫌われている、ワッハーブ派(ワハービヤ)という まさしく暴力団的な王家だ。
それに比べて、アラブ人全てを代表し、誠実で、真面目だった ハーシム家の国王たち(アミール=エミール、国王級)は顔つくからして立派だ。ハーシム家の王(エミール、シェイク)たちは、その人格の高さに置いて、愚劣なサウド家のヤクザ者たちとは、比べものにならない。
アラブ独立運動の 指導者にしてアラブ人の王、ハーシム家のフセイン・イブン・アリー(Hussein bin Ali, 1854-1931) の立派な顔立ち メッカを奪い取られた
ハーシム家のフセイン・イブン・アリーの三男ファイサル王子(後のイラク国王ファイサル一世)とロレンス(ファイサル王子の左肩の所に立っている)。1919年のパリ講和会議の時に撮影。
日本の安倍晋三も、その暴力団的な背景、奇矯な宗教団体を背景にしていることで、私たち日本国民からの尊敬はない。全くない。尊敬されない指導者は、指導者ではない。
世界は、今も、こういう恐ろしい暴力人間たちによって、支配、抑圧されている。その一番上に、アメリカによる支配がある。黒人のバラク・オバマ大統領 個人の 善意がいくら有っても、どうにもならないぐらい、世界は、こういう恐ろしい暴力人間たちによって、私たちの上から、彼らが覆(おお)い被(かぶ)さっている。
そこから生まれる重圧と抑圧の中で、私たちは生きている。毎日が暗く憂鬱な日々だ。 せめて、一人ひとりは、自分なりの気晴らしと健康法をと、実践しているのだろう。
私、副島隆彦も 毎日が憂鬱でならない。 日本国に迫りつつ有る、戦争の危機に、どのように対処し、先手、先手で、みんなに警告の予報を出そうか、ということで、毎日、苦しんでいる。日本の右翼がかった、「安倍ちゃんよー。もっと、チャンコロ、チョーセンジンを痛めつけてくれよ-」と、その生まれながらの卑(いや)しい風貌から発する、下品極まりない、唾棄すべき日本人たち (彼らは、ごく小規模の企業経営者層を中心に、500万人ぐらいいる)だ。
それに付和雷同(ふわらいどう)する、まともに働くことをしない(あるいは、失業、就活をしている)右翼、チンピ風の、人生経験の少ない若者たちがいる。彼らは、佐藤優(さとうまさる)氏が言うとおり、まじめに本を読む、ということをしない、「本なんか読んでも、なんの為にもならないぜ」
という、反知性(はんちせい)の人々だ。 彼ら右翼(本当の右翼・愛国者なら、アメリカによる日本支配の現状をこそ、批判しなければいけない) のことを、佐藤氏は、今度の私との対談本「崩れゆく世界 生き延びる知恵」(日本文芸社、2015年6月刊)で、
「安倍政権は、コンビニの前でウンコ座りをしている暴走族みたいな雰囲気ですよ」と言った(本書、P71)。
『崩れゆく世界 生き延びる知恵』
計画的に、着々と、どんどん、日本国民の真面目な戦争反対の意思が、奪い取られ、計画的に強引に謀略で実施された昨年末の選挙(12月16日)で、民主政治(デモクラシー)の制度そのものを打ち壊すような形で、本当に、ナチス・ドイツのやり方と、ほとんど同じで、日本は、どんどん戦争態勢に流れ込まされようとしている。
今の中東の、あの IS( アイ・エス、イスラム国)という、奇妙な集団の突如の出現(去年2014年6月10日に北イラクに出現)も、すべて極悪人どもによって計画されたものだ。こういう新たな戦争を、次々に謀略で作り出すことによって、同じアラブ人(アラビア人)どうしを、戦わせ、殺し合いをさせるのだ。
「アラブ人どうし戦わず。戦争だけはしてはいけない。アラブ人として団結しなければいけない」という、 大きな真実にハッと気付いて、大きな真実を、こうして公然と書いて、暴き立てるのは、私、副島隆彦だけではないか。この国に、他に誰がいるか。 この私よりも大きな枠組みに中の、世界基準の真実が言える者がいたら、私は、すぐにその人と話し合う。そして、どんどん団結してゆく。
私は、1915年の エーゲ海のダーダネルス海峡での、トルコのガリポリ戦争のことも不思議に思っている。 このあと、1年後に、トルコ軍は精鋭が、アラビア半島のメッカ、メジナの方に回ってきて、反乱を始めたアラブ人たちとの戦いに入ったのだ。
1915年のガリポリ戦争では、英と仏の両軍の 連合軍を相手に、トルコ軍の司令官だった、 ムスタファ・ケマルが、散々に打ち破って大勝した。そして、この軍人ムスタファ・ケマル・パシャ が、トルコ人の英雄として、のちにケマル・アタチュルクとなって世俗化(イスラム教を国家体制から捨てて)した新国家としてのトルコを作った。
ケマル・アタチュルク(Mustafa Kemal Atatürk , 1881?-1938)
この「青年トルコ党( Young Turks ヤング・タークス)」という名の秘密結社から出てきたケマル・アタチュルクの背後に何がいたのか。世界中の各国に作られた、「青年〇〇党」というのは、すべてアメリカが工作したものだ。今の「アラブの春」と全く同じだ。
青年トルコ党
1915年という オスマン・トルコ帝国がボロボロに崩れ去ろうとした時代に、どうして、どうして、イギリスとフランスの両大国の、大軍団の、大艦隊まで後ろに控えていたガリポリの戦いで、トルコ軍が勝ったのか。おかしいのだ。 だから、背後に、アメリカからの軍事物資と資金の援助があったのだ。 私は、今、その証拠を調べようとして歴史書を集めている。
FRB(米連邦準備制度理事会)が、米議会の大反対を押し切って謀略で作られた1912年の、その翌年の1913年から、世界の覇権(ヘジェモニー)は、イギリス帝国から、アメリカ帝国(ロックフェラー家。大統領たちも、この財閥が選ぶようになった)に移ったのだ。この理論は、私、副島隆彦が、20年前から唱え始めた「世界覇権の移転」の理論の、その証明作業の一環(いっかん)となる。
このケマル・アタチュルクは、1917年には、トルコ軍の第七軍の司令官として、パレスチナあたりで、アレンビー将軍(英国のアラブ派遣軍の総司令官)の英軍と対峙して、そして、1918年の10月1日の、アラブ軍のダマスカス(陥落)入城の前後に、急いで退却して、トルコ領内に撤収している。
トルコのケマル・アタチュルクの、脱イスラム教の世俗化(セキュラー)政策で、トルコは西欧化した国になったと、私たちは習った。しかし、私、副島隆彦は、鋭く注目して知っているが、今から、5年ぐらい前に、エルドアン首相(今は大統領)は、トルコ軍の将軍たち100名ぐらいを、捕まえて、裁判にかけて、「政府にクーデターをかけようとした」として投獄した。
だから、今も近代主義者で反イスラムのケマル・アタチュルク主義の、西側(ザ・ウエスト、G7体制)寄りのトルコ人たちは、今の エルドアンの公正発展党(AKP)と対立している。 私は、4年前に、イスタンブール(昔のコンスタンチノープル)のモスクにひとつで、本当に真面目で頭の良さそうな、立派な感じのトルコ人たちが、たくさん礼拝に来ている様子を見た。
レジェップ・タイイップ・エルドアン(Recep Tayyip Erdoğan, 1954-)
女の人たちは、誠実な感じで、きちんと黒いスカーフをつけていた。この人たちが、エルドアン政権を支えているのだな、と分かった。
どこの国にも、真面目で知的で、しっかりとした人たちがいる。その人たちの考えを自分で直接、聞いて回ることで、その国の真実が分かる。その国の国民が本当に望んでいることがなんなのか、が分かる。しかし、おそらく、どこの国でも、そういう人たちは、暴力団のような体質の愚劣な人間たちによって、押さえつけられているのだろう。
私、副島隆彦は、今日は、このあと以下に、一本の ネット記事を載せる。この記事は、自民党政治家で、愛媛県選出の、村上誠一郎(むらかみせいいちろう)という人の発言だ。
今の自民党政治家で、村上誠一郎ほどの誠実な人は、他にはいない。私は、彼の心底からの、自分の気持ちを絞りだすようにして、今の安倍政権を批判している真剣な姿に、頭がさがる。村上誠一郎を 日本の首相にすることが出来るような国だったら、私たち国民が、こんなに苦しい、貧しい思いをしなくて済むのだ。
村上誠一郎衆議院議員
私は、村上誠一郎と、15年ぐらい前に話している。彼は、私に向かって、「そうだよ。副島さんの発表のとおりだよ」と、私の肩を持ってくれた。それは、2000年ぐらいの、夏の自民党の派閥の研修会が、軽井沢のホテルであって、私が講師として呼ばれて、そこで講演した時のことだ。
村上誠一郎は、そこに居並ぶ同じ派閥の政治家(国会議員たち)に向かって、堂々と、こういう感じで言った。
「ほら、ここに 4人、大臣になっている人がいる。この人たちは(と、村上は、自分の派閥の幹部たちを、本当に自分の指で指さしながら、怖気づく感じもなく)もう、あとのことはどうでもいいんだよ。もう歳だから、このあとこの国がどんなに苦しいことになってゆくか、知ったことじゃないんだ。なあ、副島さん。俺たちは、これからが大変なんだよ。日本は本当に苦しいことになるよ」と、村上誠一郎は言ったのだ。
私は、「村上先生。本当に、そのとおりです」と答えた。
村上誠一郎は、昭和27年(1952年)生まれだから、私よりもひとつ上だ。東大の法学部を出ている秀才で、お父さんの後を継いで、30代の若くから政治家だ。もう当選12回ぐらいの重鎮だ。 それなのに、制度改革の大臣を、ちょろっと一回やった切りで、ほとんど内閣に入っていない。
これほどの度量と、力量があって、政治家としても地元愛媛の人気もあって、それでも、ずっと、自民党内で冷や飯を食い続けた。そしてもう63歳だ。 きっと生き方下手な人なのだ。泥臭い現実政治(リアル・ポリティックス)をずっと生きてきたのだから、もっと脂(あぶら)ぎった鬼の顔になるなり、恐ろしい悪人(あくにん)面(づら)の顔つきになるなりしたはずなのに、そういう感じがない。
太ってはいる。二階俊博(にかいとしひろ)も太ってトドのようだ。 こういう正直で、国民思いのすばらしい政治家を、私たちは持っているのだ。 私が、先週、講演会で言った神奈川県横須賀から出ていた、田川誠一(たがわせいいち)も素晴らしい保守政治家だった。このような人格者の政治家たちこそは、私たちの日本国の宝物(たからもの)だ。
二階俊博衆議院議員(1939年‐、76歳)
田川誠一元衆議院議員(1918‐2009年)
村上誠一郎は、登壇して行った自分の発言の中で 日本にファシズムが近づいている、今度の安保法制で、アメリカの言いなりで、自衛隊は、世界の裏側まで連れてゆかれる、とはっきり言っている。私、副島隆彦も同感である。
私は、死ぬまでの間には、一回は、村上誠一郎に会いに行く。そして思う存分、話をしたい。
(転載貼り付け始め)
●「 「あまりに傲慢(ごうまん)」 自民・村上議員が「安保法制反対集会」で自民党執行部を批判(全文)」
2015年6月10日 弁護士ドットコム
http://www.bengo4.com/other/1146/1287/n_3220/
自民党の村上誠一郎(むらかみせいいちろう)衆院議員が6月10日、日弁連が主催した安保法制に反対する集会に出席し、自民党の執行部を「あまりに傲慢(ごうまん)」と批判した。
講演中の村上代議士
会場 には弁護士や野党議員ら190人が参加し、それぞれ安保法制に批判的な意見を述べていたが、集会の途中で、与党・自民党に所属する村上議員が姿を見せ、マイクを握ると大きなどよめきが起きた。
村上議員は6月9日の自民党総務会で、安保法制について「党議拘束を外(はず)すべきだ」と発言したところ、執行部の一人から「最高裁判決(砂川判決)を読ん だことがあるのか」と問われたという。そこで村上議員が「あなただけですよ、砂川判決が(集団的自衛権の)根拠だと言っているのは」と反論する と、「学者は、最高裁判決までおかしいというヤカラだから、話を聞く必要がない」と言われてしまったのだという。
村上議員はこうしたやり取りに激怒したとして、「学者がそろって違憲(いけん)だと言っているのに、自民党がそれを無視することは、あまりにも傲慢ではない か」と、強い口調で自らの所属する自民党を批判した。
「民主主義の危機にある」 集団的自衛権の行使を容認する憲法解釈の変更について、村上議員は「このことで突破口を開けば、たとえば主権在民や基本的人権に至るまで、時の政 府の恣意によって、実は憲法を曲げることができてしまう。たいへん民主主義の危機にあるということです」と警鐘を鳴らした。
そのうえで、「本当にこういうことを、党内でひとりで言うことは結構しんどいんです。ですから先生方、みなさん方も本当にこの問題の重要性にお気 づきであるわけですから、一人でも多くのみなさん方にその問題点を伝えていただきたい」と、集まった弁護士・国会議員、市民らに呼びかけていた。
● 村上誠一郎議員の発言全文は次の通り
ただいまご紹介にあずかりました村上誠一郎であります。
実は私は、そこにいらっしゃる山岸(良太・日弁連副会長)先生と、大学の同級生、同じクラスでした。
まさか、43年後に、こういう集会に出るとは、夢にも想像していませんでした。
正直申し上げます。私も自民党員です。本来ならば、こういう集会は、実はご遠慮申し上げようと思っていたんです。
だけど昨日の総務会で執行部とやりあって、これはもう困ったなあと。やはり本当のことを国民のみなさん方に知っていただくことが大事だと。
特に私は、柳澤先生(※集会で講演した元内閣官房副長官補の柳澤協二氏)に申し訳なく思っているんですが、昔の政治家は、柳澤さんのようなきちっとした議論をみんな聞く耳を持っていました。ところが昨今、やはりこれもマスコミの人に反省してほしいんですが、小選挙区になって、公認と比例 と、人事まで党幹部に握られてしまって、なかなか昔のように自分の考えていることが言いにくくなってしまいました。
もっと反省してほしいのは、特定秘密保護法のとき。28年前には(※1985年に国会提出されたいわゆる『スパイ防止法案』について)、大島(理 森 おおしま・ただもり)さんや谷垣 禎一(たにがき・さだかず)さんまでが「おかしい」と言って廃案にしたんです。ところが(2013年の特定秘密保護法については)、いちばん被害を受 けるというか、当事者であるマスコミの人たちが、最後の総務会で私が指摘するまで、誰も指摘しなくなった。
それからもう一つ、バッジを付けている先生方に反省してほしいのは、去年の公務員法の改正ですよ。私は最後まで反対した。なぜならば、600人の 人事を全部官邸に持っていった。こうなれば官僚諸君は、もう正論も本音も言わなくなるよ。私は最後まで総務会で抵抗したんですが、これも官邸の意 向ということで通ってしまった。案の定、それから、公務員は正論も本音も言わなくなりました。
もっと重要なのは、そのように外堀を埋められるために、今回の安保法制について、本来いちばんモノをいわなきゃいけない国会議員が、口を閉ざした ままになっている。
●6月9日の自民党総務会で
今回、まず昨日のことから申し上げますと、私が申し上げたのは、このような問題は、国会議員の政治的良心・使命に関わる問題であるから、党議拘束 を外すべきだと。
そしたらですね。ハッキリ言いますよ。あなたたちの先輩の、ある代議士が「お前は最高裁判決を読んだことがあるのか」と言ってきた。砂川判決を。
だから私は言った。「あなただけですよ、砂川判決が根拠だと言っているのは」。
そしたら何て言ったと思いますか?
「学者は、最高裁判決までおかしいというヤカラだから、話を聞く必要がない」と言ったんですよ。
それで、私は激怒したんです。3人のオーソリーな学者が違憲だと言っていることに対して、自民党がそれを無視するということは、あまりにも傲 慢ではないか。
●安保条約の時を思い出して
まさにこのような重要な問題を、本当に国民の皆さん方が、お一人お一人本当に理解なさっているのかと。
みなさん、思い出してください。
いまから55年前の、日米安保条約のときには、この国会の周りに十重二十重とみなさんが集まって、全国民、全マスコミ、全学者で喧々がくがくと議論しておりました。
いま、どうでしょうか。ハッキリ申し上げましょう。2年前に、私が「この問題は実は民主主義の根幹に関わる問題である」と。こんなことを天下の自 民党がやっていいのかと言ったときは、マスコミは無視したものでした。
私がどうしても、ここへ来てお話したくなったのは、今いちばん問題なのが「ダブル先生」ですよ。ダブル先生って分かりますか? 議員バッジと弁護士のバッジを付けている、その先生たちです。責任、大きいんですよ。
結論を言うと、議論して、つくづくおかしいと思うのは、弁護士の資格を持っているものですから、自分の言っていることが正しいんだと。他の学者さんや、他の普通の国会議員が言っていることは、とるに足らないんだ。そういうような、いまの状況であります。特に、執行部に、3人の先生がおります。言わないでも分かっていると思います。
結論は、もう簡単です。今日お集まりのみなさん方は、そうそうたるみなさんです。それぞれの国会議員や、多くのマスコミの方を知っていると思います。
我々が財政の危機を言っても、この憲法の危機を言っても、残念ながら門前の小僧でしかありません。説得力がありません。(弁護士の)先生方 が、お一人お一人の国会議員や、国民や、マスコミのみなさん方に説明していただきたい。
●「自民党は、いつからこんなに惻隠(そくいん)の情のない党になってしまったのか」
なぜ私が、あえてこのような場所に来たか。2つあるんですよ。
ひとつは、前から申し上げているように、もし憲法に書いていないことを、内閣の一部局である法制局が解釈で変えることができたら・・・。まあ、自 民党のある方(副島隆彦注記。麻生太郎のこと)が「ナチス憲法のマネをしろ」と言ったんですが、もちろんナチス憲法(というもの)はありません。戦前のドイツで、議会において、全権委任法を通して、民主的なワイマール憲法を葬り去ったという、一番悪しき例があるんです。
すなわち、このことで突破口を開けば、たとえば主権在民や基本的人権に至るまで、時の政府の恣意によって、実は憲法を曲げることができてしまう。 たいへん、民主主義の危機にあるということです。
それから、もう1点。来年から18歳の人たちが有権者になります。私は、次の世代が気の毒です。
このままでいけば、財政がおかしくなる、金融がおかしくなる、社会保障もおかしくなる。
そのうえ、地球の裏側まで(自衛隊が)行くことになる。
自民党は、いつからこんなに惻隠(そくいん)の情のない党になってしまったのか。
●「当たり前のことが、当たり前でなくなるときが一番あぶない」
実は私の父は、増原惠吉(ますはらけいきち、当時の防衛庁長官)さんと、吉田(茂、当時の首相)さんに頼まれて、警察予備隊(けいさつよびたい)を立ち上げた男です。一次防も二次防もやりました。
父が死ぬまで言っていたのは、防衛予算は少なくて済むなら少ないほうが良い。もう1点は、自衛隊の諸君の身の安全について、万全に期すべきだと 言って死にました。
私は、父の言ったことが自分の政治命題だと考えております。
この民主主義を守ることと、そしてまた、次の世代のために・・・。私は、みなさん方のお力を、なにとぞ、一人でも多くのみなさん方に、この問題が どこにあるのか(伝えていただきたい)。
特に、私は最後に、あえて言います。
私がいちばんいま危機を感じているのは、民主主義の危機、すなわちファシズムの危機であります。
私が大学のときに、ある先生が言っていました。「当たり前のことが、当たり前でなくなるときが一番あぶない」。
結論はどういうことかと言いますと、もしこういうことで突破されれば、次の世代は、アメリカの要求を断ることもできません。歯止めもありません。 そういう中で、こういうような非常に不完全な法制というものを、短期間で180度転換するようなことを、軽々としていいものだろうか。
最後に、もう本当にお願いします。弁護士の先生方。我々では説得する力がありません。自民党には、まともな大学で憲法を学んだ人が数います。そう いう人たちひとり一人に説得していただきたい。
そして、一番重要なのは、国民の皆さん方に、この法案ならびにいままでの手法が、どこに大きな間違いがあるかということを、やはり一人でも多くの みなさん方に伝えていただきたい。以上であります。
●「国民が絶対自分のこととして考えなければいけないこと」
不肖・村上誠一郎が、ただでさえやせ細った身体で(副島隆彦注記。ここは、村上の自虐のジョーク)、国会に来て必死にお願いをしたのは、(自分の大学の)後輩である(福島)瑞穂(ふくしまみずほ、社民党前党首)先生が、体重では負けないだろうからというんですが・・・。本当にこういうことを、党内でひとりで言うことは結構しんどいんです。
ですから、先生方、みなさん方も、本当にこの問題の重要性にお気づきであるわけですから、一人でも多くのみなさん方に、その問題点を伝えていただ いて、国民お一人お一人が、自分が現憲法とどのように立ち向かうのかということを、ご理解いただけることを、切に切にお願い申し上げまして、簡単 ではございますが・・・。今日は応援演説ではないんですよ。
言っておきますけど、これは絶対ね、国民が、自分のこととして考えなければいけないことです。そしてまた、自分自身のこととして判断すべきことで あって、一部の国会議員で決められることではないということです。よろしくお願いします。 (了)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1465】[1794]天武天皇の正統性について
天武天皇の正統性を否定している皇后(持統天皇)
『懐風藻』は、天平勝宝三年(西暦751)に上梓されている。これは東大寺大仏の開眼供養の前年です。天武天皇の直系の子孫が皇位にあった王朝で上梓されている。
その『懐風藻』葛野王伝は次のように記す。なお葛野王は、父が「壬申の乱」で滅ぼされた大友皇子(明治に追号された弘文天皇)、母は十市内親王で天武天皇と、万葉歌人で有名な額田王(ぬかたのおおきみ)の間に生まれています。葛野王こそが本来皇位を継ぐべきお方です。
『懐風藻』葛野王伝より(抄訳)
・・・持統十年七月、高市皇子(天武・持統朝の真の主宰者)が突然亡くなった。肝心な日嗣の事を何も決めていなかった。それで持統天皇は皇族並びに主な公卿を宮中に集め、日嗣に誰を立てるか諮問した。弓削皇子(天武の子)等が皇位に未練を示し、会議は紛糾した。そこで葛野王が進み出て、「我が国の法では、天位は、神代より子孫が相続すると決まっている。もし兄弟相続するようなことがあれば、そこから乱が生ずるのである。日嗣の人事は、天の心を聞けばおのずから決まっていよう。誰か異を唱える者があろう。」と述べた。
葛野王の一言で日嗣は、皇太子であった草壁皇子の遺児・軽皇子に決まった。持統天皇は、葛野王の言を大いに喜び、正四位の位を与え、式部卿に任命した。
守谷健二です。おかしいと思いませんか。天武天皇を『日本書紀』は、天智天皇の「同母の弟」と明記しています。
しかし葛野王は、乱は兄弟相続に起こる、と言い、持統天皇もその意見に同調している。天武天皇は、持統天皇の夫です。夫の正統性を否定しているのです。『懐風藻』は、天平勝宝三年に上梓されて、禁書にも焚書にもされることなく現代に伝えられてきた書です。天武天皇直系の王朝の中で上梓されたのです。
【1464】[1793]天武天皇の正統性について
『日本書紀』に保険を掛けた藤原不比等
『日本書紀』天智八年十月より(筆者、訳す)
十月十一日
天皇、藤原内大臣(中臣鎌足)の家に幸(いでま)して、自ら鎌足の病を問いたまうた。
鎌足、甚だかたじけなくありがたく思い、恐縮した。
天皇、曰(のたま)はく「そなたの朕(われ)を助ける功績は甚だ大きいものがある。その功績に報いてやりたい。望ものがあれば遠慮なく申すがよい。」
鎌足答えて云う「もうお役に立たない身になってしまいました。これ以上何を望みましょう。ただ葬式は、出来るだけ質素に行ってください。」
この言を聞いた時の賢者たちは、さすが内大臣である。後の人々は長く誉め伝えるであろう」と言った。
十五日
天皇、東宮大皇弟(大海人皇子、後の天武天皇)を藤原内大臣の家に遣わして
大織冠と大臣の位を授く。
依りて姓を賜いて、藤原氏とする。此れより以後、藤原内大臣と云う。
十六日
藤原内大臣薨(みう)せぬ。
守谷健二です。ここに藤原氏の由来が書かれています。正史『日本書紀』の中にです。しかし、私はこの記事は出鱈目だと信じています。藤原氏の正統性を創造した記事である、と。
中臣鎌足には二人の息子が知られています。長男は定恵と言い出家しています。出家とは世を捨てる事、生きながら死んでいることです。決して名誉なことではありませんでした。
次男が後右大臣まで出世する藤原不比等です。彼には幼時、難を避けるため、山科の田辺の大隅に養われていた、、との伝承があります。
また、「壬申の乱」では、極刑の斬首になったのは、右大臣の中臣金ただ一人でした。
不比等が『日本書紀』に登場するのは持統天皇の二年です。持統天皇は天武天皇の皇后ですが、天智天皇の娘です。「壬申の乱」の勝利を手放しで喜んではいませんでした。首謀者である高市皇子(天武の長男)に深い怨みを抱いていました。しかし高市皇子は軍を握る最高権力者でした。恐ろしい存在であったのです。
不比等が藤原氏を名のったのは、中臣鎌足の子であることを隠すためのカモフラージュだったのが真相だったのではないか。
『日本書紀』は、藤原不比等が右大臣で最高権力者の時編纂を終えています。藤原氏の正統性を創造するなど朝飯前でした。
また興味深いのは、中臣鎌足が、東宮大皇弟(天武天皇)にも大事にされていたように書いてあることです。『日本書紀』が上程されたのは養老四年(720)です。この年不比等も亡くなっています。この後右大臣に就き権力を握るのが高市皇子の子・長屋王(ながやのおおきみ)で、彼の母は、皇太子・草壁皇子の妃・阿部皇女(後即位して元明天皇)の実の姉・御名部皇女です。
また長屋王の妃は、草壁皇子の娘・吉備内親王(元正天皇の実の姉妹)でその間に男子が生まれていました。
不比等の時代は、まだまだ天武系の勢力と天智系の勢力が拮抗していました。東宮大皇弟にも気を使う必要があったのです。
6月五日書く。続く
【1463】[1792]先の日曜日(5月31日)の私たちの定例会は盛会で終わりました。次の仕事に向かいます。
副島隆彦です。 5月31日(日)の私たち学問道場の定例会(自力での講演会)は無事、終わりました。
正確な人数は分かりませんが、400人の会場が埋まっていました。座れない、という苦情もなくて良かった。
私は、合計5時間(午後7時15分まで)ずっと、ほとん喚(わめ)いていたので、さすがに、終わったあと、喉(のど)が枯れました。あまりないことだ。私は、立ったまま10時間でもずっと演説できる人間だ。生来の アギタトーレ(アジテーター)だから何ともない。 足腰がしっかりして、日頃の運動不足
を解消できて良かった。
私は、後半で、参加者の要望も会ったので、予定通り、アラビア人の男の服装(ディスダーシャ、にアガール )を着て演説をずっとやりました。 アラビア女性の黒一色の衣装であるアバーヤを、野田さんに着てもらって、披露しました。皆に、喜ばれました。 私は、このあと、アラビア人の勇壮な、軍人の踊りを、披露しようと思ったのですが、なんと、 刀(の代わりのアルミ製の物差し)が、床の舞台の隙間に落ちてしまって、踊れなくなりました。
初めからの演題であった、「副島隆彦が、思いっきり 現下の問題を洗いざらい話します」の通りにできた。気分は良い。危ないこともたくさん話しました。この講演録は、一ヶ月以内に、DVD2枚組に制作して販売しますから、お待ちください。
今のシリア・北イラクの 暴れ者集団の IS(アイエス、イスラム国)の仕組まれた突如の出現、と、丁度今から100年前の ” アラビアのロレンス ” の話しが、見事(みごと)に重なるのである。
イギリス人 トーマス・エドワード・ロレンス Thomas Edward Lawrence (1888-1935) が、1914年から22年まで、アラビア人(エジプトからイラクまですべてのアラブ人)の団結と独立のために彼らを助けて闘った。
イギリスの情報部将校(連絡将校、リエゾン・オフィサー)として、「砂漠の叛乱」を起こしたアラブ人の部族長(シャイク)たちの連合体である ハーシム家 を助けて、本気で戦った。 そして、最後は、イギリス政治の残酷さの犠牲になって、消されていった。私、副島隆彦は、アラビアのローレンスの 悲劇の人生に、自分の人生を重ねあわせる。
アラビア語を話す考古学者だった、弱冠26歳の若造であった、T.E.ロレンスは、第一次大戦の始まりで召集され、現地に派遣され中佐(カーネル)となって、ハーシム家の フセイン・イブン・アリー(ヒジャーズ王国、国王。メッカ太守)とその息子 ファイサル(シリア国王、イラク国王になった)、およびアブドッラー(現在のヨルダン国王は、その4世)たちを支援して、懸命に戦った。 そして、最後は、イギリス政府に裏切られて、用済みにされて捨てられていった。
ロレンス中佐は、ファイサル国王(シリア王、イラク王)の従者、通訳として、1919年1月からのベルサイユ会議(第一次大戦の 敗戦国ドイツを裁くための会議。オスマン・トルコはその同盟国として、解体された )に参加した。 英と 仏は、 ハーシム家と約束していた、「アラビア世界をひとつにまとまって独立させてやる」と約束していたのに、その約束を狡猾(こうかつ)に破った。 それで、両者の板挟みになった ロレンスは、行き場を失った。 あとは、本を書いて、後世(こうせい)に真実を書き残すしかない。 だから、1927,8年に、『知恵の七つの柱』(セブンピラーズ・オブ・ウイズダム)を書いた。その一部が、『砂漠の叛乱』として急いで出版された。大きな評判をとった。
だが、ロレンスは、自分の悲しい運命を、察知し、感づいていた。
パリ会議(ベルサイユ会議)あと、英と仏 のワルの帝国主義者たちは、いいようにアラブ人たちを騙して、自分たちのいいようにアラブ世界を分割した。シリアはフランスのものになった(1916年のサイクス=ピコ条約の英仏の密約どおり)。 このようにして今のアラブ世界がある。
それでも、まだアラブ人たちのハーシム家を中心にした団結があったのに、そこへ、今度は、1924年に、横っ腹の リヤドから 暴力団的な 部族である、現サウド家の、アブドルアジズ・イブン・サウド が、メッカ(マッカ)に突撃してきた。そして、立派なアラブ世界の王(シャイク、エミール、さらにはカリフになれた)であるハーシム家の フセイン・イブン・アリー(もともとメッカ太守である) のヒジャーズ王国を崩壊させ、サウド家が奪い取った。
サウド家の アブドルアジズ( この息子たちが今も、順番にサウジの国王である。今年1月からサルマン国王。80歳)の背後に、世界最大のガワール油田(ペルシャ湾岸)の利権を握った、アメリカからの資金援助と軍事援助があった。
これで 全アラブ人の希望であった(オスマン・トルコ帝国からの)独立と団結、の 願いは、叩き潰された。 愚か者の英と仏の アホたちの背後から、抜け目なくアメリカが成長していたのだ。
ロックフェラー財閥 の巨大石油資本であうアラムコ=テキサコ=ソーカル=カルテックス(これらが今のシェブロン)が、サウド家のアブドルアジズ(リヤド太守)に、今のサウジアラビア(サウド家のアラビア)を作らせて、それで、アラブ人たちは、大きく分断されて団結を阻まれて、今の惨めなアラビア世界となった。 お調子者の、英と 仏は、自分たちが見下していたアメリカの世界帝国(=世界覇権国)としての 登場と隆盛(りゅうせい)にこの時、まだ気づいていない。
英と仏 が、惨めにアラブ世界から、撤退していったのは、このあと30年後の、1956年のスエズ動乱のときだ。英仏軍は共同で、スエズ運河の利権を死守しようとして、落下傘部隊(空挺団、パラトルーパーズ )を投下して、スエズを軍事制圧した。その時のエジプトは、アメリカが背後にいて支援していた(表面は、ソビエトの支援)ナセル大統領(軍事評議会によるクーデター)によるナセル革命の最中だった。
英と仏は、泣く泣く、惨めにエジプトから撤退していった。スエズ運河はエジプトによって国有化された。この ときに、世界の覇権ははっきりとアメリカに移っていた。 以後、ヨーロッパ全体も名実ともに、アメリカの属国の地域(リージョン)にはいった。
今のIS(アイエス) は、奇妙なことに、 ヨルダンの アカバ港 (紅海=レッド・シー=に面している)から石油を密輸出している。このことは世界のジャーナリストたちの公知だ。そして、まさしく この アカバ港から、トヨタ製のあのものすごい数の白のピックアップ・トラック( テキサス州のサンアントニオ工場製 ) を 陸揚げして、密かに、シリアにまで運んでいること。 IS への 軍事物資 と資金の支援も、今のサウジアラビアと、イスラエルと アメリカの軍事凶暴派であるネオコンとヒラリー派、CIAの特殊軍(スペシャル・フォーシズ)が、行っていることが分かる。
そして、まさしく、このアカバ港こそは、あの映画「アラビアのロレンス」(1962年制作)のハイライトになった、アカバの要塞 への背後の ネジド砂漠からの ラクダ部隊の ベドウィン(砂漠の民、部族の勇者たち)の奇襲部隊による、T.E.ロレンスたちの舞台だ。
このような真実の アラビア世界、中東、イスラム教徒たちの世界基準の研究を、急いで私たちはやらなければいけない。
表面だけの IS 研究などで満足してはいけない。 私たち学問道場は、「アジア人どうし、戦わず(戦争だけはしてはいけない)、アジア人よ団結せよ 」 の旗頭(はたがしら)を掲げていることで、 同時に、「アラブ人(アラビア人)よ、団結せよ。真の独立のために闘え 」 と唱えないわけにはゆかない。
こうなると、当然の帰結として、今の北イラク での、 ISの集団というのは、同じアラブ人どうし(スンニー派であれシーア派であれ)を、分断して、互いに戦わせようとする、 恐ろしい 政治謀略 によって創作されたものだ、とはっきりと分かる。 アラブ人どうしを争わせ、殺し合いをさせることで、得をするのは、誰か? このことを、私たち日本人は、本気で自分の頭で考えなければいけない。
私は、この4月に、中東、イラン、アブダビ、ドバイに 調査旅行に行けて本当によかった。 そこから800キロメートル先の、サウジの首都リヤドにまでは、行けなかったのが残念(今は、旅行者は入国禁止)だった。だが、アブダビでも多くのサウジ人たちの姿は見たから、それで我慢する。私は、一(いち)を聞いたら十(じゅう)が分かり、(一(ひとつ)を見たら百(ひゃく)が分かる人間だ。 そして、こうして 現代のアラブ、中東世界についての、大きな理解を、急いで私は作ることが出来た。それらを、これからどんどん公表する。
私の講演の前に、まず石井利明(いしいとしあき)君が、『福澤諭吉 とフリーメイソン=ユニテリアン教会(という当時の欧米の優れた最高級知識人たち から学んだこと)』という講演をしました。
このままでは、日本は、イギリス(大英帝国)によって思うように従属国にされてしまう、と早くも1873年(明治6年)には、鋭く気付いた福澤諭吉(当時、38歳)は、1883年(明治16年)から、息子一太郎(いちたろう)の提言もあって、アメリカの東部ボストンのハーヴァード大学から、優秀な
4人の ユニテリアン派宣教師でありながらハーヴァード大学の神学者、化学者である学者たちを招聘(しょうへい)する計画を実行した。
「我が、慶應大学を、東洋のハーヴァード大学にせん(する)」という高い方針を実行した。アーサー・メイ・ナップ教授ら、当時のハーヴァード大学の気鋭の若手学者たちを招いた。そして、学生たちに、当時、世界最先端、最高級の授業をして、世界に追いつこうとした。
そして、福澤は、なんと腹の底から嫌っていた、当時の日本国の最高権力者であった 伊藤博文(いとうはくぶん、初代、内閣総理大臣)と 組んで、同感しあって、「このままでは日本はイギリスの思うように操られる。それを避けるには、隆盛する新興大国である アメリカこそは、自分たちの手本であり、彼らのユニテリアン(という 近代学問=サイエンス=を教えることを堂々とやった) キリスト教プロテスタントの一派ではありながら合理的精神に満ちた、すぐれた学者たちから、学ぼうとした。 さすがに大きなワルではあるが伊藤博文もタダの馬鹿ではない。
尊皇攘夷(そんのうじょうい)思想の後(あと)を継いで日本国の反体制運動の火柱となった 自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)の限界を始めの始めから、福澤諭吉は、はっきりと分かっていた。だからずっと冷ややかに見ていた。 だから、ここで当時の日本の最高の頭脳は、福澤と、伊藤博文( 1909年に、ロシアと協調しようとして、ハルビン駅頭で、山県有朋 の陸軍銃殺隊に狙撃され死亡 )だった。
ユニテリアン教会の建物は、全国どこでも、その裏部屋がフリーメイソンの
秘密の会合と儀式をする場所になっている。そのひとつが、長崎のグラバー邸に残っている。軽井沢や 日光中禅寺湖のほとりの外国人館の中にもあった。
1890年代まで、世界最高の優れた頭脳の欧米白人たちは、ユニテリアン=フリーメイソンの会員だった。ところが、20世紀(1900年代)に入って、勃興したアメリカ石油帝国の財界人達によって、このフリーメイソンは、内部から乗っ取られて、その頂点から、腐り果てていったようだ。
そして、今、囁(ささや)かれている 世界を背後から人事、人材、資金力、軍事力であやつる 巨大な非公式の 秘密組織になった。 これらの 大きな秘密を、ひとつひとつ、掘り当てながら、 石井利明くんと、私の他の弟子たちの頑張りが今も続いている。
たとえば、勝海舟( かつかいしゅう、江戸の小者、中間(ちゅうげん)階級の
出で、火消し衆=今の暴力団=の元締めの家柄。腰抜けの旗本たちは、刀が抜けなくなっていた )は、 幕府(とりわけ大久保一翁)が、 1830年代の 、優れた蘭学者(洋学者)たちの中に、潜り込ませて、スパイとして働くように用意周到に育てられた 策略の人間だった。 だから、渡辺崋山(わたなべかざん)、高野長英(たかのちょうえい)たち、優れた蘭学者たちが、1830年代に(1839年、蛮社の獄=ばんしゃのごく=)殺されていった。
江戸幕府が倒れたあと、没落した旧幕臣たちから、「勝(かつ)のやつめ。自分だけ良い思いをしやがって」と怨嗟(えんさ)と呪いの声が上がっていた。榎本威陽(えのもとたけあき)は、さらに勝海舟の子分であった。
幕府海軍の頭(かしら)、総裁(そうさい)として、8隻の当時、世界レベルの最新鋭の洋式軍艦を持っていたのに、 薩長(さっちょう)の討伐軍(=官軍)が、箱根山を越えて、東海道を進軍して来たときに、小田原あたりの海から、艦砲射撃をすれば、薩長軍など、崩壊させることが出来たのだ。 ところが榎本は一発も艦砲を発射していない。
このことも、石井くん他、私も入って、12人で書いた、『フリーメイソン=ユニテリアン教会 が明治日本を作った』(成甲書房、2014年4月刊) に書いた。 この本は、本当に大事で重要な本です。 みんなに真剣に読んで欲しい。 いろいろ 今からでも暴(えば)き立てるべき歴史の真実が この 本に 山ほど書かれています。
内容の紹介
福澤諭吉
新島襄
榎本武揚
板垣退助
森鴎外
新渡戸稲造
山尾庸三
西 周
尾崎行雄
後藤新平
津田梅子
これが偉人たちの真実の姿だ! 世界最大の秘密結社フリーメイソンは幕末・明治の日本にどれほど強い影響を与えたか幕末・維新の指導者、そして明治の元勲たちの中にフリーメイソンの思想がどのようにびっしりと入り込んだか
正確な歴史史料で解明する日本の真実
<目次>
[はじめに]‐副島隆彦
[第1章]福澤諭吉は日本の自立自尊のためにフリーメイソンリーと共に闘った‐石井利明
[第2章]新島襄‐ユニテリアン思想の日本への導入者‐副島隆彦
[第3章]オランダ軍人にあやつられた榎本武揚‐長井大輔
[第4章]日本人初のフリーメイソン・西周の隠された青春‐田中進二郎
[第5章]自由民権運動の父・板垣退助はフリーメイソンだった‐津谷侑太
[第6章]「憲政の神様」尾崎行雄のもう一つの顔‐古村治彦
[第7章]西周が従兄弟叔父である森鴎外‐六城雅敦
[第8章]ジャーディン=マセソン商会が育てた日本工学の父・山尾庸三‐下條竜夫
[第9章]日本初・国際“超”高級官僚としての新渡戸稲造‐吉田祐二
[第10章]後藤新平は「日本のセシル・ローズ」である‐中田安彦
[第11章]正しく評価されてこなかった津田梅子‐足助友子
[附章]「フリーメイソンリー」「ユニテリアン」「理神論」ブリタニカ大百科事典の項目翻訳‐鴨川光(翻訳)
[おわりに]‐副島隆彦
副島隆彦です。 私は、このあと、今週末の日曜日(6月7日)に、今も 戦争死んだ者たちの怨霊が、その海に漂っていると私は思った(先週行ったときに)、横須賀市で、「軍港 横須賀 150年の歴史の真実 」 を講演します。 今日のボヤキの方に、案内があります。
さて、以下に、さらに、載せるのは、私が、ネット上で今朝、拾った、自分自身がこの重たい掲示板に4年前に書いた 文章である。 私は、今も腹に据えかねる。怒っている。 この4年前の私、副島隆彦の文を読んで、すべての人が、よーく考えなさい。
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
「 副島隆彦の学問道場 重たい掲示板 」 から 転載
重たい掲示板[754] 私の本たちのこと。小沢裁判のこと。
それから、高田純(たかだじゅん)氏の本から「福島では誰一人として甲状腺がん にはならないと予測できる」 を載せる。
投稿者:副島隆彦
投稿日:2011-10-19 10:47:16
副島隆彦です。 今日は、2011年10月18日です。
私は、9月末に 中国の内モンゴル(内蒙古)に調査旅行に行って、いろいろと収穫がありました。帰国して、講演会などの用事をこなして、それから、4冊の本に取り掛かりました。
数日まえに、ようやく 私たちの立派な指導者である小沢一郎への政治弾圧である 陸山会事件の裁判のことを書きあげました。これは、すぐに、今日のぼやきの 会員ページに載せます。お待ちください。
私が書いていた4冊のうちの一冊は、もうすぐ刊行されます。 私と弟子たちの 第6論文集 である 「放射能のタブー」(KKベストセラーズ刊)です。 来週にも発売になるでしょう。
この本は、8月に、福島第一原発から20キロの検問所の近くの都路町(みやこじまち) にある 学問道場の復興活動本部で合宿をやって、皆が発表したものをまとめたものです。私を含めて16人が執筆しました。今日のぼやきの広報でもすぐに宣伝するでしょう。乞うご期待。
あとの一冊の恒例の「副島隆彦の金融・経済本」 ( 祥伝社 刊) もようやく峠を越して、書き終わりそうです。これは何とか11月の中旬には刊行したい。
それから、私の「中国研究本の 4 」を出します。それから、「阿弥陀如来(あみだにょらい)・観音菩薩(かんのんぼさつ)・弥勒菩薩(みろくぼさつ)とは何者か。
この女たちは、一体どこから来たのか。仏陀(ブッダ。ゴータマ・シッダルダー。お釈迦さま)とは、別人だろう。この女たちの出自を調べる」 という 内容の「副島隆彦の歴史研究本 の 3」 をPHP研究所から出します。 何とか年内にこれだけは仕事をします。
都路(みやこじ)の活動本部を、弟子たちと現地の支援者たちだけに責(まか)せておくわけにはゆきません。 私が行って、あのあたりに、 宗教研究家の中矢伸一(なかやしんいち)氏らとも協力して、「健康ランド」とか、「低線量(ていせんりょう。微量の意味)の放射線は人体に良い影響を与える」ことの証明としての
「ホテル 放射能」 を建設しようかと、考え始めています。 また、私たちの 愚かな 「放射能コワイ、コワイ」派の敵どもが、私のこの 「ホテル 放射能」 ( 「ホテル・カリフォルニア」ではありません、「アトミック カフェ」でもありません)の話に飛びついて、ギャーギャー騒ぐでしょう。
本当に、この愚か者たちは、自分の脳に張り付いた 放射能恐怖症で、生来の臆病さ と、ものごとを冷静に考えて判断する能力がないから、救いようのない者たちだと、思います。
私たち学問道場が、3月の原発事故の直後から、これほど頑張って、現地に入って活動を続け、冷徹な客観報道をして、「これぐらいの超微量(ちょうびりょう)の放射線量は 人間の体に害を与えない」と 書き続けた。のに、 それでもまだ、説得されないで、今も、バカな恐怖症言論を撒(ま)き散らしている。
私が、5月3日に、郡山で対談して一冊の本 「原発事故、放射能、ケンカ対談」(幻冬舎、2011年6月末刊) の 対論相手の 武田邦彦(たけだくにひこ)という男は、本当に、どうしようもない男だ。 先日も、 東京・世田谷で、(愚かな騒ぎだった)、放射性物質が見つかった」のバカ騒ぎもひどかった。
真実は、 たったの 2.7 マイクロシーベルト毎時(パーアウア per hour )のラジウム入りの塗料か何かだった。それを 武田は、「2・7ミリシーベールの高濃度の」と、書き続け、 つい最近、こそこそと それを、「2・7マイクロシーベルト」に書き変えたそうだ。 証拠は挙(あ)がっている。
武田邦彦をは、これを同じことを、これまでに数回やっている。 こんな男が、科学者とか、原子力の専門家とかを名乗れるはずがないのだ。 そのうち、 彼は、各方面の専門家たちから厳しい批判を浴びて、消えていなくなるだろう。 私も、そろそろ、この男の 扇動言論と、確信犯としての犯罪者体質が、 腹(はら)に据(す)えかねるようになってきた。
武田も、私、副島隆彦に怒っていて、「副島さんは、(何回も原発のそばまで行ったから) 癌で死ぬんだから、ほっておけばいいんだよ」と 編集者たちに言っているそうだ。 武田も、それから、その追随者たちも、私が、問い詰めたら、「10万人ぐらいが福島で、放射能のせいで死ぬのだ」 と 堅く信じ込んでいる。
福島県の人口は丁度200万人だから、その5%ぐらいが死ぬのだと、思い込んでいる。かなかな口には出さないが、私が、きびしく問い詰めたら、そのように一様に、白状する。これには私が驚く。 10万人の福島県人が5年後、10年後に死ぬ、そして、おそらくそのうちの多くは、子供たちだと、この 馬鹿たちは、信じ込んでいる。 これは恐るべきことだと、私は、呆(あき)れかえる。 人間と言うのは、ここまで愚かになれるものか、と、その近年で、最大の 思想ドラマを見せてもらっている。
私は、この手の馬鹿たちと付き合わなければいけないので、不愉快きわまりないことが多い。私の一番の友人で、長年の親友である、「ちょっとインテリの、それなりの知識人」である者までが、この コワイコワイ派である。私が、いくら説得しても、私の言うことを聞かない。 「でも、やっぱり危ないんだよ。副島。分からないことが多いから」と言っている。
この者にして、この程度の思考力しかかなったか、馬鹿はほっておくしかない。と私は、がっかりして、相手の顔を見つめている。 これは、私が生きてきた間に起きた、もしかしたら、最大の笑劇(ファルス、人間喜劇)なのだろう。
私は、これまでもずっと書いたが、まだ何度でも書く。 福島では、誰も死なない。こん微量の放射能のせいで、発病して死ぬ者はひとりもいない。そのように断言します。
それは、福島の現地に行けば分かることだ。放射能コワイコワイの臆病者たちは、とにかく、自分のお金と時間をかけて、福島の現地に行きなさいそして、通りすがりの住民たちと話しなさい。そうすれば、考えが変わる。「なーんだ。何もないんだ。放射能は目に見えないからコワイなどと信じ込んでいた、自分がアホだったんだ」と気づくだろう。 意地でも現地の真実に気づきたくない者でも、どうせ、時間がたてば、気づく。
それでも、意地でも自分の思考転換、思想転向(コンヴァージョン、リキャンテイション、マチュア・アップ)をしたくなくて、強がりと、居直りと、愚かに扇動された自分に気づいても、恥ずかしいものだから、なんやかやと、言い訳をして、自分自身に向かってウソをついて、自分で自分をごまかす、ということをするのだろう。
私、副島隆彦は、この 思想転向 の専門の研究学者なのです。分かりますか。私の本当の専門(プロパー proper 固有)は、この思想転向の問題だ。 私の主著であるアメリカ現代政治思想研究 の本は、そういうことの集大成である。 私の本をこれまで、何冊も読んだ人には分かることだ。このことが分からないのから、副島隆彦の熱心な読者だったのに、とか、言うな。絶対に言うな。
原発の大事故を起こした東電の経営陣への厳しい責任追及と、爆発事故で漏れた(放出された)放射線の人体への影響の問題は、別である。 このふたつをきちんと薫別を付けなければならない。 福島県の幹部公務員たちは、かならず、この「東電の責任と、放射線の人体への被害問題は別です」と、毎回、毎回、必ず言う。
私は、福島県庁のこの態度が正しいと、判断している。私も、この立場だからだ。
東電の経営陣と政府の原子力委員、安全委員の歴代のトップたちは、存命であれば、絶対に、今からでも 逮捕されて刑事裁判にかけられて日本国民によって処罰されるべきだ。
一番、悪いのは、原子力委員会委員長を長年やった、この業界のドンで、今は、三菱総合研究所の理事長になっている 小宮山宏(こみやまひろし)だ。今も東電の監査役である。私、副島隆彦は、この男だけは絶対に、許さない、と堅く決めている。
この 小宮山宏の、事故後の居直りと、悪辣な態度と、新聞にまで、今も「エコと次世代エネルギーを推進」などと大きな顔をして出てくるのを見ていると、本当に、私は怒り心頭に発する。
武田邦彦が、「私は、9億円を東電からもらった」と、私との対談本で、はっきりとしゃべった。 武田程度の小物の、下っ端の 原子力委員・安全委員でも、9億円なのだから、小宮山とか鈴木篤之(すずきあつゆき)、斑目(まだらめ)らは、100億円ぐらいは 当然、貰(もら)っているだろう。どうして、誰もこのことを、糾弾しないのだ。腐り果ててるのか、お前たちの頭は。
武田は、原子力委員・安全委員の専門委員を10年間やった。と自分で私に話した。 そして、恐るべきことに、この6月からまた、安全委員会の専門委員に、武田は、復帰している。 だから、ここには政治謀略の臭いがある。 武田のような、「温厚で、柔らかい物腰の人間」を上手に裏から、上から、操(あやつ)っている人間たちがいる、ということを示している。おそらくそういうことだろう。
放射能(放射線量)の人体への影響の 専門家は、放射線医学者たちである。それと、放射線防護学を名乗る学者たちである。 それ以外の、原子力工学や、原子炉技術者や、核物理学の学者たちは、放射能の人体への影響の問題の専門家ではない。
専門家でもない、 1.武田邦彦 と 2.広瀬隆 3.小出裕章(こいでひろあき) と4.児玉龍彦 の 放射能コワイコワイの国民扇動者 4人組 を、私は、これからもずっと糾弾し続ける。 彼らの言論のおかしさと、愚劣さと、低劣さが、満天下に認められ、大きく敗北する時まで、ずっと、私の方も言論で闘いつづける。
だから、私の同志は、放射医学者たちである。その代表は、やはり、 山下俊一(やましたしゅんいち)長崎大学教授 (現在は、福島県立医大副学長も兼任している) である。
山下教授らに、バッシングの嵐を浴びせた者たちは、今から、2年後、5年後に、一体、自分たちがいかに愚か者で、思考力がない人間であるかを、分かるときが必ず来る。その時に、ずるい逃げ方をするな。口を拭(ぬぐ)って、「私は、そんなことは言わなかったよ」と言うな。 今のうちから、自分が、この4月から10月までに書いたものをしっかりと保存しておくように。 私もそうする。
彼ら 4人組の言論 (彼らの本は、ベストセラーの1位になった) に追随(ついずい)する者たち は、今のうちから、しっかりと、自分の内心、内面に向かって、自分の立場を何度でもはっきりさせて、それを文章に書いて残しておいてほしい。
すべてが明らかになるときが、数年後には来る。 その時まで、 自分の態度を変えずに、奇妙な変節をしないで、態度を一貫させてほしい。 コロコロ態度を変えるのは、人間としておかしいのだ、と自分にも言い聞かせて欲しい。
さて、以下に載せるのは、放射線医学者であり、就中(なかんずく)、放射線防護学(ほうしゃせんぼうごがく)の専攻学者である 高田純(たかだじゅん) 札幌医科大学教授の最近の 文である。 ネットから私が拾ってきたものだ。
高田純教授が最近、出版した 『福島 嘘と真実』 (高田純著、医療科学社)の中の一部の抜粋だと思います。 以下の文の中に、高田純は、はっきりと、「 今回の放射性ヨウ素量が原因で、福島では誰一人として甲状腺がんにはならないと予測できる」 と書いている。引用する。
(引用始め)
これらの値は、チェルノブイリ事故被災者の値の1万分の1から1000分の1である。かの地、ウクライナ、ベラルーシ、ロシア3カ国の被災者700万人の最大甲状腺線量は50グレイ(=50シーベルト)。その後数年から、総数で当時の4800人の子供たちに甲状腺がんが発生した。
(副島隆彦注記。チェルノブイリ事故から) 20年後の世界保健機関の調査報告である。 このリスクが線量に比例すると考えれば、今回の放射性ヨウ素量が原因で、福島では誰一人として甲状腺がん にはならないと予測できる。
(引用終わり)
副島隆彦です。 このように、 福島で放射能にせいで癌になる ( 放射能による癌は甲状腺がんだけである) 人はひとりも出ない、という 専門医学者の 高田純の 表明を 私は尊重する。
専門家の言うことに、耳を傾けて、それに従うしかない。専門家でもなく、長年の研究もないくせに、放射能の人体への影響について、素人と同じくせに、偉そうに発言する者たちを、私たちは、厳しく排撃しなければならない。
放射線医学者たちのほとんど( 中に、数人、変なのかいるらしい) が、「これぐらいの微量の放射線量では発病しません」と口を揃(そろ)えて言っているのに、彼らのことを、 「御用学者だ」と、レッテル貼り ( labeling レイベリング)する 激しいバッシングの嵐が、この 4月、5月、6月、7月に あった。
この動きに少しでも加担した者たち、全員を、私は、見つけ出し次第、あるいは、私の目の前に現れ次第、言論の力で厳しく、問い糺(ただ)し、説得する。一般人だろうか誰だろうが容赦しない。 私が、「ケンカ対談」本で、武田邦彦にやったのと同じ、それの進化した形で、問い詰める。
このおかしな、放射能コワイコワイの 現状 はまだまだ続くのだろう。私は、我慢して愚か者のすべてを説得し続ける。
副島隆彦拝
(以下は、『福島 嘘と真実』(高田純著、医療科学社)からの 一部の 転載である) (以下、略)
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1462】[1791]今日(31日)お茶の水で 定例会。 そして来週、横須賀市で講演します。
副島隆彦です。 今日は、2015年5月31日です。
今日は、私たち学問道場の 会員の定例会(自力での講演会)があります。東京の御茶ノ水(聖橋=ひじりばし=側、林羅山が作った孔子廟がある )の近くの全電通(労組)会館です。 時間のある人は集まってください。詳細は下 ↓ の方とか見てください。
当日券もあります。 会員はご自分の友人もお連れください。
それから、来週の日曜日 6月7日に、私、副島隆彦は、神奈川県の横須賀市で、「軍港150年の真実を語る」 という講演をします。 ここの 今日のぼやき の方に案内を載せました。南関東の人で、軍港(米軍と、わきに自衛隊もいる)に行ってみるか、という人は来てください。
私は、この一週間、このふたつの講演会のために、物凄(ものすご)く勉強をしました。自分の頭が、鉢切れ(はちきれ)そうです。 あまりにも多くの知識を、それらをひとりの人間の脳の中に詰め込んで、総合しようとしています。人類5千年の歴史として、縦横(じゅうおう、各国、民族ごとに相互連関させる)体系化することで、大きな真実に迫ろうとしています。 私、副島隆彦の頭脳(あたま)を持ってして、どれほどのことが解明出来るか、の勝負どころです。 どこまで、それを、講演会で話せるか、です。 あまりにも話を世界中の、各時代の、あちこちの 王朝(政治権力)の話に広げすぎて、失敗するかもしれない。 まあ、やってみるしかない。
この1週間で、「円安・ドル高」の動きが出ています。 1ドル=124円になりました。
この動きは、アメリカの投資家たちが、現物(げんぶつ)で買ってきた分の日本株を、どんどん売って、ドルに換えて、資金をニューヨークに持ち帰っているからだ。 だから、麻生太郎・財務大臣が、「アメリカは、話がちがうじゃないか」と渋い顔をしている。
日本政府が、自ら相場操縦(そうばそうじゅう)の違法行為をして、GPIF(ジーピーアイエフ、年金資金)やらの「5頭のクジラ」で、毎日、毎日、ガブガブと日本の大企業の株式と 「JPX日経400」などのインデックス債を買っているから、日本株の平均株価は、20,500円にまでなった。 だから、「今のうちに、日本株を売って、益出(えきだ)し=利益確保 をしよう」としている 外国人投資家が、アメリカ政府の監視も聞かないで、どんどん売っている(円を売ってドルに換えて日本から持ち出す)からだ。
日本政府は、渋い顔をする。これは、ダダ漏れであって、日本株を必死で、日本国民の大事なカネ(年金の積立金)で、買っているのに、それを、足元から掘り崩し、石垣を壊す動きだから。 いくら、日本国民の年金やゆうちょの資金を投入しても、足元から漏れ出すようだと、この先が危ない。 今に見ていなさい、と副島隆彦は、余裕を持って言う。
以下の記事は、ついに、ゆうちょ銀行の資金に、ゴールドマンサックスが直接、手を突っ込む、という資金運用の重要な人事の決定だ。まだまだ、アメリカに資金が持ち出される(アメリカ株買いと、米国債買い)。 日本国民は、アメリカによる、資金の奪い取りによる、奴隷状態にどこまで我慢できるか、だ。 このロイターの記事に、後追いで慌(あわ)てて、日経新聞が、全く同じ記事を翌日(29日)に書いていた。
(転載貼り付け始め)
●「ゆうちょ銀の運用責任者、ゴールドマン前副会長の佐護氏に=関係筋」
2015年5月28日 ロイター
http://jp.reuters.com/article/businessNews/idJPKBN0OD0BD20150528
日本郵政グループのゆうちょ銀行は28日、運用業務の最高責任者にゴールドマン・サックス証券の副会長を務めていた佐護勝紀氏を迎え入れる人事を固めた。複数の関係筋が明らかにした。ゆうちょ銀は運用の高度化を課題に掲げており、ゴールドマンで市場部門の経験が長い佐護氏を起用することで、外国債券や株式への投資を加速させる。
29日に公表する。副社長級のポストに充てる方向で検討しているが、6月の取締役会で正式に決める。
佐護氏は、1992年にゴールドマンに入社。債券や株式など有価証券運用の経験が長く、マネージングディレクター、取締役などを経て2011年に 副社長に就いた。今年2月に副会長職を退き、金融庁参与に就任していた。
運用資産残高200兆円を抱えるゆうちょ銀は、4月に発表した中期経営計画で、国債に依存していた運用を外債や株式などにも広げ、運用の高度化を 図る方針を示していた。
日本郵政の西室泰三社長は、公募により外部から専門人材を招く方針を表明しており、すでに30人程度が応募している。今後は佐護氏を中心に人材を 選定し、専門チームを立ち上げるとみられる。
日本郵政広報部は「当社としてコメントすることはない」としている。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦です。 以下の載せるのは、アメリカのオバマ政権と、中国の習近平は、つながっていて、アメリカの狂暴なヒラリー派=ネオコンたちから、どんなに妨害されようとも、アメリカとしては、中東から、アジアにかけての 安定を求める.「大きな戦争」ラージ・ウォー large war は、しない、という方向を向いている。ただし、それもオバマの任期がある来年、2016年中までだ。そのあと、2017年から、世界は荒れるだろう。
副島隆彦拝
(転載貼り付け始め)
●「中国、ひそかに米に「助け舟」 隠密の仲介工作 編集委員 秋田浩之」
2015年5月29日 日本経済新聞
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO87342700X20C15A5000000/?dg=1
南シナ海の岩礁埋め立てをめぐり、米国と火花を散らす中国。ところが、オバマ政権の対外戦略にひそかな「助け舟」を出し、貸しをつくるという、 したたかさもうかがえる。
多くのウイグル族がすむ中国新疆ウイグル自治区。その最大都市であるウルムチで今月20~21日、ある秘密会議が開かれた。
出席者は、アフガニスタン政府と反政府武装勢力、タリバンの有力者ら。アフガン和平を促すため、中国政府が両者を仲介する会議を主催したのだ。 米ニューヨーク・タイムズ紙(電子版)が25日、独自情報として伝えた。
これだけではない。ロイター通信によると、5月3日、カタールでアフガン政府とタリバンの代表団との直接対話が開かれた。この席にも、米国と並 び、中国政府関係者の姿があったという。
従来なら想像もできなかった光景だ。中国はアフガン和平にはほとんど、関与しようとしなかったからだ。いたずらに和平交渉にかかわり、イスラム原 理主義勢力の反発を買えば、国境を接する新疆ウイグル自治区にテロが飛び火しかねないからだ。
■オバマ氏の訪中が転機
この姿勢に大きな変化がみられたのが、昨年秋だという。アフガンにかかわる国際機関関係者は明かす。
「中国は従来、アフガンへの投資には関心があっても、和平や復興には興味を示さなかった。ところが、オバマ大統領が訪中した昨年11月ごろか ら、中国のアフガンへの対応が目に見えて変わった。米政権の働きかけを受け、和平に積極的にかかわるようになった」
米国に「貸し」をつくる狙いが透けてみえる。オバマ政権は、アフガニスタンから米軍の大半を、2016年末までに撤収させると公約している。任 期が残り2年をきり、この実現に焦っている。
いまアフガン和平に協力すれば、オバマ政権は評価し、南シナ海や人権問題などで中国に圧力をかけづらくなる――。中国指導部はこう読んでいるの だろう。
米中関係筋によると、オバマ氏の昨年11月の訪中時に、中国はアフガン問題で協力する用意があると伝達。ホワイトハウスも、中国のそうした姿勢 を評価したという。
中国を動かすもうひとつの理由は、米軍が本当に撤収したら、アフガンがさらに混乱しかねないとの懸念だ。米軍が足抜けした後、同国に「力の空白」 が生じれば、再び内戦が激化し、テロ組織の温床になりかねない。
そうなれば、中国にも重大なテロの脅威が及んでしまう。アフガンがさらに混乱に陥るのを防ぐため、今のうちから米国と協力し、和平に取り組もう というわけだ。
■忠告にじます王外相の発言
日本や東南アジア諸国にとって気がかりなのは、アフガン問題をめぐる米中連携が、南シナ海問題などにどう影響するのかだ。
南シナ海での埋め立てをやめない中国に対し、オバマ政権は今のところ、強硬な姿勢に傾いている。だが、中国側は「米政権は本気で中国と対立するつ もりはない」と、米側の足元をみているかもしれない。
今月16日、ケリー米国務長官は北京を訪れ、王毅外相らと会談した。南シナ海問題で激しい応酬を交わしたもようだ。ところが、会談後、ケリー氏 と記者会見にのぞんだ王外相は、こう力説した。
「米中関係は最も重要な2国間関係のひとつだ。アフガニスタンの和平、北朝鮮核問題、エボラ出血熱などの国際問題で協議と協力を深めたい」
中国は、米国が重視するアフガンや北朝鮮問題などで、協力する用意がある。
これらの懸案を解決したければ、中国とはケンカしないほうが賢明だ。 王氏の発言は言外に、そう米側に訴えているように響いた。
(転載貼り付け終わり)
副島隆彦拝
【1461】[1790]天武天皇の正統性に付いて
天武天皇の結婚と天智天皇の娘たち
『日本書紀』には、十人の天智天皇の娘が記されている。実に驚くことに、その中の四人をも天武は娶っているのである。
また高市皇子(天武の長男で、「壬申の乱」の真の首謀者で、天武朝・持統朝の主宰者)は、二人を娶っており、草壁皇子にも一人を配し、大津皇子にも一人配している。
天智天皇の十人の娘の八人までも天武天皇と、天武の皇子等が娶っているのである。
最初の結婚相手は、六六一年正月八日、斉明天皇の筑紫行幸に帯同し、船上で大伯皇女(おほくのひめみこ)を出産した大田皇女である。大田皇女は、大津皇子も儲けている。
次の結婚相手は、大田皇女の実の妹(両親が同じ)の鵜野皇女(天武天皇の皇后、後に即位して持統天皇)で、草壁皇子(皇太子)を設けている。
大田皇女の方が姉で、最初に結婚していたのだから天武天皇の皇后は、大田皇女に優先権があったと思えるが、早くに亡くなっていたのか、妹の鵜野皇女が皇后に就いている。
しかしここに問題があった、姉の子・大津皇子と、妹の子・草壁皇子との即位の優先権争いであった。
六八六年、天武天皇が薨去するや、皇后(持統天皇)は、即座に大津皇子に謀反の罪を着せ殺害している。草壁皇子が即位できなかったのは、この時の後ろめたさがあったせいではないか。世間の評判が最悪だったのだろう。
草壁皇子と結婚した天智の娘・阿陪皇女(後即位して元明天皇)は、一人の皇子(文武天皇)と二人の皇女(一人は即位して元正天皇)を儲けている。
阿陪皇女の実の姉・御名部皇女を高市皇子が娶っているのだ。その間に長屋王(藤原不比等の後、右大臣、後最高位の左大臣に就いたが、七二九年、藤原不比等の四人の息子の陰謀で謀反の罪を着せられ殺害)が生まれている。
『日本書紀』は、天智天皇と天武天皇を実の兄弟と記す。それならどうして天智の娘たちを独占する必要があったのだ。天武の結婚と、その皇子たちの結婚を見ると、それはまるで家畜の品種改良で、二つの異なる形質の個体から新たな形質を作り固定化させる時の交配過程を思わせるのだ。