重たい掲示板

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守谷健二 投稿日:2016/08/11 15:42

【1631】[1966]天武天皇の正統性について

1963のつづきです。

 副島先生の後に書くのは、大きなプレッシャーを感じます。
このまま書き続けて良いのか、常に自問自答しています。
 日本人がありがたがている「天皇の万世一系」は、易姓革命を無かったことにしただけの論理ではなかったのか。
「壬申の乱」は、明らかに「易姓革命」でした。
王朝の簒奪事件でした。

 しかし、日本の修史は、この明らかな「王朝の簒奪(易姓革命」」を、なかったとしたのです。
 これが「万世一系」の論理です。「革命はなかった」、と云うのが日本教の根本教義(ドグマ)です。

 では革命の有無は、どのような歴史をたどるのでしょう。
「易姓革命」の論理は、徳の有無にあります。
有徳の者が政治を執れば、世は平和で豊かな社会になる、
一方、徳を失った皇帝が政治を執ると、世は乱れ、国民は飢えに苦しむ。
 故に、徳を失った皇帝を倒し、天に有徳の者と認められた者が、新たな王朝を立てるのは、天命に叶った行為である。(つまり、革命の肯定です)
 これが中国の基本的な政治思想である。中国は、徳の有無で政治倫理を律していた。 

 七世紀後半から八世紀にかけて、日本列島に何が起きたのか、『古事記』『日本書紀』『万葉集』の関係は、どのようなものであったのか。
 
 おかしなことではあるが、万葉集の歌を当時の社会状況と無関係に理解出来る、と、考えている学者たちがいることです(まるで芸術至上主義者のようです)

 人麿の作歌活動と、天武の王朝に於ける「修史事業」は、完全に重なり合っている〔同時進行〕です。

 あまり共感していただけないようですが、中国正史に書かれている「倭国」は、全て(筑紫王朝)の事です。

 ああ!今回は、人麿の「辞世の歌(」を中心に述べる予定でした。
 
 (223)
 鴨山の 岩根しまける 吾をかも しらにと妹が 待ちつつあらむ
   
柿本朝臣人麿、石見の国に在りて臨死(みまか)らむとする時、自ら傷みて作る歌。
 という題字を持っています。

 万葉学の主流の学者たちは、人麿を、石見国の下級地方官吏、と位置付けます。
 しかし、『万葉集』を読んでごらんなさい。

人麿の圧倒的な迫力を。
無名の無学な人間に、人麿の歌が創れた、と云うのだろうか。
 
 天武の命で始まった「修史事業」と「人麻呂の作歌活動」は、完全に重なり合うのである。

 これも偶然と云うのか。

 中国では、徳が在るかないかで倫理が生じます。それが易姓革命の論理である。
しかし、日本では、政治を徳の在る無し、倫理とは無関係にしたのです。
 「壬申の乱」は、明らかに易姓革命でした。大和王朝を倭国の大皇弟(天武天皇)が乗っ取った(簒奪)事件でした。
 しかし、日本の修史は、革命を無いことにしたのした。あったことを無いことにしたのです。
 この修史事業の中心にいたのが柿本人麿です。
人麿以外にこの難事業を遣り遂げられた人材など見つけることは出来ません。
 修史事業は、言語に絶する難事業でした。中国語の漢字の音と訓とを借りて、日本語を書くのです。
 漢字だって、時代と地方で違うのです。
『万葉集』が滅びずに現代に伝えられたのは、本当に奇跡です。日本人は、もっと一生懸命『万葉集』を読むべきなのです。
『万葉集』は、単なる抒情歌集ではありません。より大きくは、叙事歌集です。歴史を秘めているのです。 
 その叙事をこれまでの研究者は誰も理解できなかった。
 当然でしょう、本当の歴史(王朝簒奪)を、無いことにしたのですから。
人麿の長歌は、歴史(真の叙事)と響きあっています。
 日本人は、もっと一生懸命『万葉集』を読まなければなりません。秘められた歴史を暴かなければなりません。
 

副島隆彦 投稿日:2016/08/11 09:01

【1630】[1965]今日のぼやき に、 ” Lock Her Up ! ” 「 ヒラリーを逮捕せよ、投獄せよ !」の嵐が全米で起きている、を書いた。

副島隆彦です。  たった今、私は、今日のぼやき 「1920」番として、 長い文を書いて載せました。 タイトルは、 “Lock Her Up ! ” 「ヒラリーを逮捕せよ、投獄せよ」です。読んで楽しんでください。

 以下に載せるのは、今日のぼやきの方の内容に関係する、最新の新聞記事3本だけです。 

(転載貼り付け始め)

●「息子の死「ヒラリー・クリントン氏に責任」」

2016年8月10日 共同通信
http://this.kiji.is/135906365592274421?c=39550187727945729

 リビア東部ベンガジで2012年に起きた米領事館襲撃事件で犠牲になった政府関 係者の家族が、事件の責任はクリントン前国務長官にあるとして同氏をワシント ン連邦地裁に訴えたことが9日、分かった。

 米メディアによると、訴えを起こしたのは事件で一人息子を亡くしたパトリシ
ア・スミスさんら2人。当時長官のクリントン氏が公務で私用メールを使ってい
たことから、同氏が重要情報の管理を怠ったことが原因で「犠牲者の所在が実行
犯に漏れた」と主張しているという。

 クリントン氏側は「遺族の心痛は図りしれないが、過失がなかったことは証明
されている」とのコメントを出した。

●「ロシア・トルコ首脳会談 関係修復を確認」
 Putin mends broken relations with Turkey’s Erdogan

2016年8月10日 BBC
http://www.bbc.com/japanese/37030957?ocid=bbc-japan-twitterjapan

 ロシアのプーチン大統領とトルコのエルドアン大統領は9日、ロシアのサンクトペテルブルクで会談し、昨年11月にトルコ軍がロシア軍機を撃墜して以来、断絶状態にあった関係の修復を確認した。

プーチン大統領は、トルコに対する経済制裁を「段階的に」終わらせると述べた。「優先すべきなのは協力を危機以前の水準に戻すことだ」と述べた。

 エルドアン大統領にとっては、先月のクーデター未遂事件以来、初めての外国訪問になる。事件以来、トルコ国内では軍や政府機関で広範囲にわたる粛清が行われている。

 エルドアン大統領は、事件直後にプーチン大統領から電話会談の申し入れがあったことについて、「心理的に大きな助けになった」と謝意を表し、「ロシアとトルコの友好的枢軸は回復される」と語った。

 昨年11月のトルコ軍によるSu-24攻撃機の撃墜を受け、ロシアはトルコに貿易制裁を科し、トルコにとって大きな収入源となっている団体旅行を停止した。
ロシアは団体旅行の再開を決めている。

 内戦が続くシリアについては、プーチン大統領はトルコと大きな意見の隔たりがあると認めた上で、「解決策を探る」と述べた。

●「露トルコ大統領、関係正常化で合意 貿易・エネルギーで協力加速」

2016年8月10日 ロイター
http://jp.reuters.com/article/russia-turkey-idJPKCN10L07R

 トルコのエルドアン大統領は9日、前月の軍部によるクーデター未遂後初の外遊でロシアを訪問し、プーチン大統領と会談した。両首脳は、ロシア軍機撃墜で冷え込んだ関係の正常化に向け、貿易やエネルギー分野の関係強化を表明した。

 9カ月前、ロシアは、シリア国境近くで同国軍機がトルコ軍に撃墜されたことを受けトルコに対する制裁を発動した。

 プーチン大統領は会談後、対トルコ制裁を段階的に廃止する方針を示し、両国関係を危機前のレベルに回復させることが最優先事項と表明した。

 エルドアン大統領は、ガスパイプライン事業や、トルコでの原発建設などのプロジェクトとともに防衛分野でも両国が協力を強化していくと述べた。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦 記

げ浅川京華 投稿日:2016/08/09 05:11

【1629】[1964]人間の原型は女であるという事実・おまけ

私は、人間は死ぬまで現役が一番良いのではと、一応考えているが、現役のままで死ぬと、周りの人間が迷惑する、つまり、この人がいなければ、というままで死ぬと、後に残る人間が困ると気付き、ある程度の年になったら、現役を退いて、生きてるのか死んでるのか分からないような存在になる、つまり、いつ死んでも、周りが困らない存在になるのも、悪い事ではない、一つの選択だと思うようになったが、今上天皇の退位希望表明を見て、そんな事も思い出した。話は変わるが、赤石様、私の「人間の原型は女であるという事実」に頷いて下さり、ありがとうございます。日本の最高頭脳集団である学問道場の会員仲間に誉めていただき、嬉しいです。人間は、母親の体内に出来た最初はみんな女、という事実は、猿の惑星が、実は地球だった、というくらいの衝撃だと思うのですが。で、ふと思い出したが、従軍慰安婦の話をしていて、戦争中、女だけでなく、男で強姦された人も本当はいたらしい、でも、そういう男が、戦後、賠償しろだの、謝罪しろだの、全く言わない、女は、80になっても90になっても、強姦された罪を問えるが、男はそんな事は、恥ずかしくて出来ないのかと、ゲラゲラ笑った。日本人で、父親が戦死している人なんてのは、戦後70年もたつ今だに、戦没者年金だかを貰っている。私は、そのおかげで、遊んで暮らせるくらいの金持ちの婆さんを、実際に知っている。はっきり言うが、韓国とかの元慰安婦と言う人たちも、日本国内の、前述のような人たち同様、遊んで暮らせるくらいの年金を、日本から70年間ずっと払い続けられていたら、文句など言わないだろう。こういう事を言うと、金が欲しいのではない、とかの、お決まりの罵声がとんできそうだが、もちろん、金ではない。でも人間に出来る正式な賠償方法など、金しかない。戦争責任などと言うが、戦争など、責任の取り切れるものでは、そもそもないだろう。だからみんな、戦争などしてはいけないと言うのだろうが。

守谷健二 投稿日:2016/08/04 12:28

【1628】[1963]天武天皇の正統性について

柿本人麿の正体(その7)
 
 会員番号3260さん、ありがとうございました。大変励みになります。
 
 前の「人麿の悲劇」のシリーズで「柿本朝臣人麿、妻死(みまか)りし後、泣血哀慟して作る歌」(207~216)を検討しました。
 その結果、人麻呂の妻は普通の死ではなく、覚悟の失踪を遂げたのだと結論付けるしかなかった。
 三つの長歌(207,210、213)の後半は、全て人麿が必死で妻を捜し求めている様が歌われている。

  …大鳥の 羽易(はがひ)の山に 汝(な)が恋ふる 妹(いも)がいます 人の言えば 岩根さくみて なづみ来し 好けくもぞ無き うつせみと 思ひし妹が 灰にてませば(213)

 《訳》大鳥の羽易の山で、あなたの奥さんを見かけた、と人が云うので、岩を踏み砕き難儀して捜しに行ったが、良い事なんか何にもなかった。生きていると信じている妻を、この灰がそのなれの果てだというのだもの。

 妻が失踪せねばならなかった原因もちゃんと書いている。

  天飛(あまと)ぶや 軽の路は 吾妹子(わぎもこ)の 里にしあれば 根もころに 見まく欲しけど やまず行かば 人目を多み 数多(まね)く行かば 人知りぬべみ さねかづら 後もあはむと 大船の 思ひたのみて 玉かきる 岩垣淵(いはがきふち)の 隠(こも)りのみ 恋つつあるに・・・(207)

 《訳》(天飛ぶや)軽の路は、吾妻の里がある土地だから、訪ねて行ってじっくり細やかに見ていたいのだけれど、いつも行けば人目が多い、しょっちゅう行けば人にばれてしまう。さねかづらの蔓が分かれても、また一緒になって絡み会うように、しばらくすればまた逢えるようになるだろうと、大船に乗っているような気持ちで安心していた。心の中では変わらずにずうっと愛し続けていたのに、・・・

 人麿は、妻の下を訪れたくても訪れることが出来ない状況が生じていたのです。人の目を恐れた。世間に知られるのが恐ろしかった。
 ほとぼりが覚めたらまた逢えるようになるさと、大船に身を任せるように安心していた。心変わりなどしたのでは無い、心の内ではずうっと愛し続けていた、のに。・・・

 人麿の妻は、何か異様な事件に巻き込まれていた、としか考えようがないでしょう。
 そんな折、妻の里から使者が来て、あなたの妻は「もみち葉の 過ぎていにき」と告げられたのです。
 人麿は、愕然とし、妻のお気に入りの場所であった軽の市に走って行き、妻を捜したが見出すことが出来なかった、のです。人麿は、必死になって妻を捜し求めている。妻の死を受け入れていない。

 しかし、私が目にした注釈書の全ては、題詞「妻の死(みまか)りし後、」に囚われて、人麿の妻は既に死んでしまっていることを前提に解釈しているのです。例外はありませんでした。
 だったら、「あなたの奥さんを見かけた」と聞くと、どうして難儀して必死になって捜索に出かけて行くのですか。
 人麿は、容易には妻の死を受け入れることが出来なかったのです。
 
 この連作に続く「吉備津の采女が死りし時、柿本朝臣人麿の作れる歌」(217~219)「讃岐の狭岑(さみね)の島に石の中の死(みまか)れる人を見て、柿本朝臣人麿の作る歌」(220~222)は、失踪を遂げ、何処で果てたかしれない妻に奉げたレクイエム(鎮魂歌)である。
 ここのシリーズは、数ある人麿の作歌中でも特に感動的な歌です。間違いなく日本詩歌の最高峰の一つです。

 問題は、この歌群の直後に置かれている歌です。あまりにも有名な歌です。

   柿本朝臣人麿、石見国に在りて臨死(みまか)らむとせし時、自ら傷(いた)みて作れる歌

  鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ(223)

 《訳》鴨山の岩根を枕にして横たわっている私を、妻はそうとも知らず待ち続けているのでしょうか。

 人麿の辞世の歌として世に知れ渡っている歌です。しかしですよ、この歌の直前まで人麿は、失踪を遂げ、何処で果てたかしれない妻(吾妹子)にレクイエム(鎮魂歌)を捧げ続けていたのです。
 では「鴨山の歌」で人麿が語り掛けている妹(妻)とは、いったい何者なのだ。当時は、複数の妻を持つのは珍しい事ではなかった、とでも言うのだろうか。
 しかし、この直前に置かれている歌群は間違いなく人麿の絶唱です。歌聖人麿が精魂尽して歌い上げた日本詩歌の最高峰です。人麿にとって亡き妻への鎮魂慰霊は、何よりも大事であった。

 鴨山の 岩根しまける 吾をかも 知らにと妹が 待ちつつあらむ

 この歌の妹(妻)も、失踪を遂げ、何処で果てたかしれない妻ではないのか。
 鴨山の岩根を枕にして旅を続けている私を、そうとも知らずあの世の妻は、待ち続けているのでしょうか。
 
 次に置かれる「柿本朝臣人麿の死りし時、妻依羅(よさみの)娘子の作れる歌二首」(224~225)の妻も、あの世の妻が、この世の人麿に応える形に作っているのです。
  このことは、次回詳しく述べます。

 

赤石修一 投稿日:2016/08/02 14:44

【1627】[1962]浅川京華氏の文章に共感

 会員番号5367赤石修一です。
自分も女が人間の原型であることは、渡辺淳一氏の小説で薄々気づいてはいたのですが。
 福岡伸一氏の「できそこないの男たち」を読んだ時は、副島さんの本を読んだ時と同じような、ショックを受けました。
「引用はじめ」
 他人から見ると実にしょうもないものをチマチマ集めている人がいる。男性に多い。なぜだろうか。福岡ハカセの仮説
は次のようなものだ。生物の世界、はじめに雌があった。雌が生命の基本仕様。メスは誰の力も借りずに自分の
子孫を増やすことができた。いわゆる単為生殖。今でもアリマキ(別名アブラムシ。ただしゴキブリとは違います)の
ような昆虫はそうやって増殖する能力を保持している。だからものすごい速度でどんどん増える。同じ個体に由来する
同じ遺伝子を持った子孫、つまりクローンである。
 この仕組みは効率が良いが、一つだけ不利な点がある。環境が良好なうちは良いが、環境が激変した時、生き残りう
るような個体間の多様性を生み出せない、ということである。
 そこで雄が作られた。雌を作りかえることによって。雄の役割は、クローンとクローンの間を橋渡しすること
である。もうちょっとありていにいうと、ママの遺伝子を別のメスに届けるメッセンジャーボーイ。これによって遺伝
子がシャフリングされ、多様性が作り出せるようになった。だから以降、多くの生物は、単為生殖から有性生殖に生存
戦略を切り替えた。アリマキは器用な生物で、良い季節の間だけは単為生殖で増え、寒くなり始めると雄をつくって
有性生殖をする。
 このように雄は、本来、雌の使い走りだったのだ。しかし雌は欲張りなので、そのうちに単に遺伝子を別の雌に届けるだけでなく、帰り道、食料や水を取ってこさせたり、棲家を作らせたり、あるいは花でも摘んでこいとい
う具合に雄を便利に使い始めた。そうしないと交尾させてもらえなくなった。おみやげがないと怒られるようになった。
そこで雄たちは汲々とするようになり、ちょっと余分に獲物があったような時には、それを帰路のどこかに貯め、
隠すことを覚えた。あるいは、雄どうしで交換したり、貸借りするようになった。
 これが契約を作り、経済を生み、社会を作り出した。モノ集めの起源も実にここにあったのではないだろうか。
                          男がモノを集める理由(生命と記憶のパラドクス 、文集文庫)
「引用終わり」

「できそこないの男たち」を凝縮したような文章だったので、
貼り付けました。本質を鋭く解き明かす文章には、感動があります。
副島隆彦先生の経済の本を初めて読んだ時に、経済の本は最新版が命と疑わず信じていたことが、植え付けられた記憶なのか・・・・涙が溢れてどうしょうもなかったことを想い出しました。
最近よく来る変なメール、読む気にもなりません。

浅川京華 投稿日:2016/07/30 06:48

【1626】[1961]人間の原型は女であるという事実

余談ですが、例の謀略メ―ルが私にも来ました。大変光栄です(笑)。私が30代の時だったか、40すぎていたか、忘れたが、岸田秀氏(ものぐさ精神分析という著作が有名)の本を立ち読みしていて、人間は母親の体内に出来た最初はみんな女で、それが途中で男に変化したり、女のままだったりして生まれてくる、と初めて知り、この事実を知っているのと知らないのとでは、人間についての認識が根本から変わってくると、衝撃を受けた。私のように、良い年になるまで、この事を知らないままで来ている人、あるいは、知らないまま死んだ人間も多いのではないか?こんな重大な事を、学校の理科では、ちゃんと教えているのだろうか?イブはアダムの肋骨から作った、なんていう物語は大嘘で、事実は逆だった。私は、全ての常識が引っ繰り返るのを感じた。女性差別なんて大嘘じゃないか(もともと全員女なのに、差別もくそもない)。岸田氏によると、生物学的に言うと、男は女の変態で、女は男のなりそこないだそうな。性同一性障害などというのも、男に生まれたけれど私は女、という人は、最初自分は女だった、という本能が強い人、という事だろうし、女に生まれたけれど私は男、という人は、自分は本当は男になるはずだったんだ、という本能の強い人、という事ではないかと思う。多分、女だけれど私は男、という人より、男だけれど私は女、という人の方が、ずっと数が多いのでは?と思うが、これも、人間は最初、みんな女だった、という事実ゆえではないかと思う。ここ迄と、全く関係のないような事を言うが、私は、女の優等生というものが、基本的に嫌いだ。私の職場にも、このテのタイプの女はいて、結構同性受けも良いが、私はハナからバカにしている。私の職場では、定期的に勉強会なるものがあり、これが明らかに時間外労働なのに、残業手当を出さない。これについて、前述の優等生女が「当たり前のことだ」と言ったそうな。この事について私は「ほら見ろ、あれはその程度だ、どこが優秀だ」と嘲笑った。単純に言うと、優等生女のダメな所は、男の悪いマネをする所だ。ヒラリ―・クリントンなんてのも、その典型だと私は思う。

副島隆彦の学問道場・古村治彦 投稿日:2016/07/29 11:52

【1625】[1960]2016年7月27日に副島隆彦先生講演会(八重洲ブックセンター)が開催されました

SNSI・副島隆彦の学問道場の古村治彦(ふるむらはるひこ)です。


トランプ大統領とアメリカの真実

2016年7月27日(水)の午後7時から、東京駅八重洲南口から歩いてすぐの八重洲ブックセンター8階のイヴェントスペースで、『トランプ大統領とアメリカの真実』(日本文芸社、2016年7月)の出版を記念して、講演会(主催:八重洲ブックセンター、協賛:日本文芸社)が開催されました。

今回はこの場をお借りして、当日の様子をご紹介いたします。講演の内容は、後日、本ウェブサッドの「今日のぼやき」の「会員ページ」で詳しくご紹介いたします。

講演会は午後7時(開場は午後6時30分)から開催されました。開会時間になると、用意された100席の椅子はほぼいっぱいになりました。

講演会では、副島先生は、たくさんの写真を使い、「ドナルド・トランプが大統領になるのはどうしてか」ということを、語りました。時には爆笑も起き、政治漫談というものがあるとすればこうなんだろうと思いながら、私は聞いていました。

講演会は午後8時15分まで続き、その後、15分ほど質疑応答が行われました。質疑応答の後、『トランプ大統領とアメリカの真実』へのサイン会が行われ、ここにもたくさんの方が列を作っていました。

講演会は熱心な観客の皆さまの熱意と副島先生の副島節が一緒になって、素晴らしいものとなって終了することが出来ました。

今回、ご出席いただけなかった方は是非、機会をとらえて、副島先生の講演会にご参加ください。また、『トランプ大統領とアメリカの真実』をまだお読みになっていない方は、是非お読みください。現在のアメリカ政治を理解するためには必読の一冊です。

また、今年5月29日に開催しました定例会(講演会)のDVD『アメリカ名物「トランプ・ポピュリズムの嵐」と最新の世界情勢』が発売開始となりました。こちらもよろしくお願い申し上げます。

※DVDのお申し込み は こちらからお願い致します。

(終わり)

会員番号3260 投稿日:2016/07/29 00:09

【1624】[1959]Re : 守谷健ニさんのご論考について

はじめまして、会員番号3260と申します。

アメリカに家族と移住して約10年が経過しました。
日本語を母国語にしない人たちに自営業で日本語を教えています。
いまの生徒の大半は中国語が母国語の女性たちです。
ただ残念ながら、
まだこの仕事だけで家族を養えるレベルには至っておりません。

副島先生の著作は10冊以上、購入させていただいております。

最初に購入したのはたしか、
「世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち」でした。

副島先生には失礼ながらウィキペディアをざっと参照したところ、
その他に私の手元にある本はたとえば

「日本の秘密」
「戦争経済(ウォー・エコノミー)に突入する日本」
「帝国の逆襲 金とドル最後の闘い」
「思想劇画 属国日本史 幕末編」
「英文法の謎を解く」
「続・英文法の謎を解く」
「隠された歴史 そもそも仏教とは何ものか?」
「『個人備蓄の時代 自衛自活の”要塞”を築け!」
「原発事故、放射能、ケンカ対談」
「次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた」
「副島隆彦の今こそ金を買う 世界恐慌を生き抜く!」

などだと思います。

さて私がここで書きたいのは、
守谷健ニさんのご論考についての感想です。

非常に勉強なり、説得力があると思います。
そして、たいへん有意義なお取り組みだと思っています。

以前、いちどだけ個人メールをさし上げたことがあるはずですが、
たいへん興味深く拝見しております。
最初の回からすべて通読させております。

守谷さんは最近のご論考なかで以下のように書かれていらっしゃいます。

《以下、引用はじめ》

日本の歴史学では、四世紀には大和王朝の日本統一は完了していた。
天皇の万世一系は侵すことの出来ない神聖な真実である。と云う事が絶対のドグマ(教義)です。

《引用おわり》

私もまさに守谷さんのおっしゃるその通りだと思います。

そして、その病根がかなり深いことを実感します。
それは日本人だけではなくて、日本について興味のある諸外国の方にさえもです。ここが問題があると思います。

ここではその一例をご報告さしあげます。
この夏、あるアイビー大学院生に、集中的に日本語の個人教師をしている経験からです。

その生徒は中国とその周辺アジア大陸史を専門として研究しており、大学院から論文作成のための助成金を受け取っています。
その助成金が私への支払いになります。

彼女の母国語はマンダリンです。
大学院の担当教授は英語を母国語にしていながら、
日本語と中国語の文献を読みこなす方だそうです。

そして論文作成のためには、
せめて基礎的な日本語力が必要ということで
以前からお付き合いのあるその生徒から、僕に話がありました。

大学院教授からの指示が
「日本語文献をベースとして読んだ上で、中国史を英語で仕上げるように」とのことだからです。

彼女の日本語力はまだまだ本当に初心者クラスですが、
中国語の古い文献を読みこなす能力があるので、
漢字を追いかけるだけでそれなりに日本語の文献を理解できるのです。

現代中国でも、さすがに裕福な家庭の人たちは簡体字だけを勉強するのではないと実感しました。過去に源氏物語を読んだことがあるほか、いまでも日本の推理小説を読んだり、家族で拉麺をたべに行ったりする日本通です。

私達は5月末から、週に4日程度、1回あたり2時間
いま約20本ほどの日本語文献を読んでいるところです。
戦前のものもあれば戦後のものもありますが、検索してみると権威と実績のある大学教授たちの書いた文献です。
彼女に、ユーラシア、中国の歴史約700年分(隋、唐、宋、遼、元などとその周辺諸国)の文献を読む手ほどきをしています。

そして私がたいへん驚いたのは、
そんな、北はシベリアから西はアラビア半島や欧州まで
中国本土はもちろん、東南アジア、南味などユーラシア大陸のさまざまな王朝や民族の盛衰、同化、逃亡などについて
理解している彼女でさえも、
「日本は万世一系ですね」と真顔で信じ込んでいるのです。

もちろんやむを得ない点もあります。

なぜなら、彼女が私と一緒に読んでいる日本語のさまざまな文献の筆者たち自身が、
ユーラシアのさまざまな民族の違いを詳細に分析しているにもかかわらず、
倭国や大和王朝の性格の違いなどについてだけは
まったく無頓着な視点を持っているように見えるからです。

私はこの両者のような関係が今後とも続くことは、とって良くないことだと思います。
その意味で、守谷さんのご論考は素晴らしいと思います。

長くなりました。

今後とも副島先生はじめ、守屋さんやみなさんのご論考で勉強させていただく所存です。

ありがとうございました。

守谷健二 投稿日:2016/07/28 11:34

【1623】[1958]天武天皇の正統性について

   人麿の正体(その6)

 激動する現代で、相も変わらず七世紀の話を投稿していることに、少々気兼ねするこの頃です。
 しかし、なぜ日本人は『万葉集』を読まないのか?
 何故『万葉集』を粗末に扱うのか?

 もし日本教(天皇教)に聖典(ユダヤ教に於けるモーゼの十戒、キリスト教に於ける福音書、イスラム教に於けるコーラン)が在るとすれば、『万葉集』こそ聖典に値するのです。
 『日本書紀』や『古事記』は、その補助に過ぎません。こんなことは、これまでの研究者が誰も言っていません。

 解っていないのです。
 日本の学者は、歴史学を専門にする者は『日本書紀』『古事記』をもっぱらに研究し、『万葉集』は文学者の領分だと決め付け『万葉集』をあまり読んでいないのです。
 『懐風藻』の扱いも同様です。『懐風藻』の研究は、文学者の領域で、歴史学者はその聖域を侵してはならない、と云うようなつまらない縄張り意識に囚われているのが日本の学問の世界であるらしい。

 日本の歴史学者は、『日本書記』『古事記』には詳しいが『万葉集』は読まない。
 一方、文学者は『万葉集』には詳しいが、『日本書紀』『古事記』を読まない。
 特に文学者では、当時の社会状況を知らなくとも『万葉集』の理解は可能であると、芸術至上主義のように考えている人が多数のようです。
 しかし、『日本書紀』『古事記』『万葉集』この三書は、同時期に編まれた物です。お互い無関係であったはずがないのです。
 当然中国の正史『隋書』『旧唐書』とも無関係であったはずもない。
 それらすべての史料を相対化して「日本史」を研究する必要があります。
 しかしながら、日本の学問の現状は、自分たちの学説(主張)に合致しない史料は、史料の方が誤っていると決め付け、無視する。
 日本の歴史学では、四世紀には大和王朝の日本統一は完了していた。天皇の万世一系は侵すことの出来ない神聖な真実である。と云う事が絶対のドグマ(教義)です。
 日本国は、このドグマを中心に据えることで明治期以来近代国家を作ってきた。

 神話、宗教なしには近代国家の成立・維持は難しい、と云うのが世界の学問の常識であるらしい。
 日本での天皇崇拝は、明治維新後急速に強化されたのです。古代史研究も天皇崇拝の宗教の中に包含されてしまった。未だ宗教の呪縛の中でモガイテいるのが現状です。
 日本の歴史学・万葉学は、未だ宗教の中にいる。
 
 『万葉集』の真の理解は、当時の社会状況を知ることなしには不可能なはずです。つまり、『日本書紀』『古事記』『懐風藻』『旧唐書』を同時に知る必要があるのです。
 
 私は、市井のど素人の研究者に過ぎません、しかし今の日本で『万葉集』の真実に辿り着けたのは、私以外に居ないと自負しています。
 私が何故『万葉集』の真実にたどり着けたのか、それは「壬申の乱」というのは、倭国(筑紫王朝)の大皇弟(天武天皇)の大和王朝乗っ取り事件であった、と気付けたからです。
 『日本書紀』は、天武天皇の正統性を強調しますが、真実は簒奪者です。だから「壬申の乱」は「乱」と呼ばれてきたのです。当時の人々は、天武天皇に正統性がないことを、みんな認識していた。
 天武の正統性を全面的に否定してのは『懐風藻』です。
 『懐風藻』は、天平勝宝三年(751)に上梓されています。東大寺大仏の開眼供養の前年です。天武の血を引く天皇(天武の王朝)が在位している真っただ中で編まれた『書』です。
 その『懐風藻』は、天武の正統性を、真っ向から否定している。
 この史料に、日本史学界は真正面に対決していないのです

 もし、私の拙論を読んでくださる人があれば、感想でもこの重たいブログに寄せてくだされば幸せです。
 

守谷健二 投稿日:2016/07/25 11:48

【1622】[1957]天武天皇の正統性について

    柿本人麿の正体(その5)

 〔1949〕のつづきです。
 天武の王朝の通奏低音は、天智系勢力(近畿大和王朝)と天武系勢力(倭王朝)の対立抗争です。
『日本書紀』は、天智系勢力の優勢な時(藤原不比等が最高権力者)に完成しました。天智系勢力にとって天武の大和王朝簒奪を正統化する歴史編纂は、気の進む事業ではなかった。故に『日本書紀』の出来は非常に拙劣なものになったのです。
 
 藤原不比等が最高権力者(右大臣)に成っても天智系勢力と天武系勢力は均衡を保っていました。不比等の死後実権を握ったのは、高市皇子(「壬申の乱」の首謀者、天武・持統朝の真の主宰者)の子・長屋王(ながやのおおきみ)でした。この長屋王が神亀六(729)年二月に不比等の四人の息子の謀議で殺害された。この八月に天平と改元しています。

 長屋王は、天武勢力の支柱だったのです。天武勢力にとって大きな敗北でした。勝敗は決したかに見えました。
 前回、天武系勢力の中心は、大伴氏であると述べました。長屋王殺害の時、長屋王の最大の藩屏(家来)である大伴氏はどのように振舞ったのか。

 実は、大伴氏の統領である大伴旅人(和銅七年(714)大納言兼大将軍で亡くなった安麻呂の長男)が都を不在していた。神亀五年太宰の帥(長官)を拝命して筑紫に居たのです。

 『万葉集』を読みますと、大伴旅人の長屋王殺害に対する煩悶が伝わってきます。大伴旅人が長屋王を見捨てた、など云う噂もあったように読み取れます。
どうも大伴旅人と藤原四兄弟の間には、何らかの取引があったようです。旅人は、天平二(730)年の冬、大納言に昇進して都に帰っています。

 太宰の帥と云うと、平安時代の菅原道真を思い浮かべ、閑職、左遷の対象と思うかもしれませんが、奈良時代初期の太宰の帥は、閑職などではなく非常に重要な官でした。新羅と唐朝の和解がいまだ成立していなかったのです。新羅王朝の唐朝に対する朝貢が受け入れられるのは天平七(735)年の事です。半島はいまだ緊張状態にありました。太宰の帥は、今で言えば、防衛大臣と外務大臣を兼ねたようなものでした。

 長屋王の殺害で、天智系勢力と天武系勢力の争いは決着を見たかのようでしたが、天平九年、わずか四か月の間に藤原四家の当主(不比等の四人の息子)が次々と四人とも亡くなってしまいました。当時の王朝人は、これに長屋王の怨霊が荒れ狂うのを見た。
 長屋王の子・鈴鹿王を知太政官に祭り上げ、橘諸兄が左大臣に就きました。橘諸兄は、倭王朝の血を引く人物です。ここに天武勢力が息を吹き返したのです。

 天智系と天武系の抗争は、天平宝字元年(757)橘諸兄の子・奈良麿の乱で奈良麿が殺害されたことで決着を見た、それ以降は、藤原氏同士の主導権争いです。

 私は、どうにかして柿本人麻呂の正体を炙り出したいのです。その為には七世紀後半の歴史を出来るだけ正確に理解する必要があります。しかし現在に日本歴史学は、実にいい加減です。科学、学問と云えるものではありません。仕方なく自分で調べるしかありません。
 柿本人麿が、石見国の地方官吏で亡くなった、と云うのも出鱈目です。現代の多くの学者、歌人たちも人麿の短歌しか読んでいないのです。
 私も以前は、斎藤茂吉翁の『万葉の秀歌百選』とか『私の万葉集』などのアンソロジーしか読んでいませんでした。それでなんとなく『万葉集』が分った気でいたのです。
 今から七年前、不幸に出会って気を紛らわす必要がありました。それで『万葉集』を最初から最後まで読んでみようとしました。ど素人の私には非常な難物でした。一回目、二回目、三回目ぐらいまでは、まるで歯が立ちませんでした。しかし、四回目あたりから俄然面白くなったのです。
 『万葉集』は、単なる歌集ではありません、歴史が秘められているのです。抒情歌集であると同時に叙事歌集でもあるのです。