「1779」 『評伝 小室直樹(上)(下)』(村上篤直著、ミネルヴァ書房、2018年9月)が発刊されました 2018年10月5日

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 副島隆彦の学問道場・SNSI研究員の古村治彦です。今日は2018年10月5日です。


小室直樹博士

 今回は、2018年9月18日に発刊されました『評伝 小室直樹(上)(下)』をご紹介いたします。本書は、社会科学(Social Sciences)の方法論(methodology、メソドロジー)を発展させ、「小室ゼミ」を通じて多くの弟子を育てた社会科学者であった小室直樹博士(1932-2010年)の初めての本格的な評伝です。上下巻合わせて1500ページを超える浩瀚な書籍となっています。


評伝 小室直樹(上):学問と酒と猫を愛した過激な天才


評伝 小室直樹(下):現実はやがて私に追いつくであろう

副島隆彦先生も小室先生の弟子です。橋爪大三郎東京工業大学名誉教授と1992年に『小室直樹の学問と思想』(弓立社)を出版しています。この本は2014年にビジネス社から新装版・増補版が出版されました。小室先生は、『小室直樹の学問と思想』が出た時に、「名刺代わりになるいい本ができた。どうもありがとう」と喜んだそうです(『評伝 小室直樹(下)』、481ページ)。


小室直樹の学問と思想

 『評伝 小室直樹(上)(下)』の著者、村上篤直氏は、ウェブサイト「小室直樹文献目録」管理人として、約20年間にわたり、小室博士が遺した文書をこつこつと収集してきた方です。村上氏にとって小室博士は「命の恩人」(詳しくは本書をお読みください)であり、その恩返しの意味もあり、小室博士の文章を集め続け、それらと多くの人々への取材(聞き取り)を基にして、評伝を完成させました。

※ウェブサイト「小室直樹文献目録」のアドレスは以下の通りです↓
http://www.interq.or.jp/sun/atsun/komuro/index.html

 本書は小室直樹博士の生涯を少年時代から逝去するまでを網羅しています。小室先生の書籍を読んだ人は多いと思いますが、その人となりについて、これまで知られることがなかったエピソードが多数収録されています。上巻のサブタイトルは「学問と酒と猫を愛した過激な天才」とつけられていますが、小室先生のエピソードは、この一文がぴったりと当てはまるものばかりです。人間・小室直樹のエピソードには驚かされたり、さもありなんと納得させられたりだと思います。お酒を飲み、泥酔することも多かったようですが、これはフル回転させた脳を休ませるためであり、脳を酷使することに合わせて酒量が増えたのではないかと私は推測します。

 「重たい気持ちで書く掲示板」で副島先生も紹介されていますが、『評伝 小室直樹』の著者村上篤直氏のインタヴューを基にした新聞記事を以下に貼り付けます。この記事の中に様々な面白いエピソードが紹介されています。

(転載貼り付け始め)

「過激な天才・小室直樹 「学問と酒と猫を愛した」評論家の人生が大冊の評伝に」

2018年9月25日 産経新聞
https://www.sankei.com/premium/news/180925/prm1809250008-n1.html

 昭和から平成にかけ「ソビエト帝国の崩壊」「痛快!憲法学」など、数々のベストセラーを刊行した評論家、小室直樹さん(1932-2010年)。

 「在野の天才学者」と称され、桁外れの“奇人”ぶりでも知られたその生涯を描いた伝記「評伝 小室直樹」(上下巻、各2400円)が、ミネルヴァ書房から刊行された。著者の弁護士、村上篤直(あつなお)さん(46)は「学問と酒と猫を愛した過激な天才」と、その生涯を評する。

「アメリカを征伐」
 
 小室さんは福島県立会津高校を卒業後、物理学者の湯川秀樹のノーベル賞受賞に刺激されて京大理学部に進学。友人らの証言を元に描かれる若き日の小室さんは、抜群の記憶力と数学力を誇る天才学生であり、「原爆以上の兵器を作ってアメリカを征伐する」「天皇は神である」と公言してはばからない熱烈な愛国者でもあった。

 本書では京大時代、戦前戦中に大きな影響力を持った歴史家の平泉澄(きよし)の私塾で学んでいたことなど、従来知られていなかった事実を多数発掘して青年期の実像を描き出す。

 圧倒的な軍事力、経済力を誇る米国を打倒するためには、その物質的力の背景にある資本主義や科学といった近代文明の本質を見極め、わがものとしなければならない。小室さんは社会科学に進路を転じて大阪大大学院経済学研究科に進学し、フルブライト留学生として渡米。

 ノーベル経済学賞受賞者、サムエルソンの薫陶を受けた。帰国後は東大大学院法学政治学研究科に移り、政治学者の丸山眞男(まさお)ら諸分野の一流学者に師事。経済学をはじめ社会学や心理学、社会人類学、政治学など多分野の学問を広く修得し、複数の社会科学を統合する新しい理論の構築を目指した。
 
 また、昭和40年代後半から主宰した無償の自主ゼミでは橋爪大三郎さんや宮台(みやだい)真司さん、大澤真幸(おおさわまさち)さん、山田昌弘さん、副島隆彦さんら多数の人材を育てた。

「るんぺん先生」から一転

 当時の小室さんは斬新な社会科学理論を発表した米国帰りの異才として、アカデミズムの一部で注目されながらも、大学のポストは得られず無職独身。東大田無寮の狭く荒れ放題の一室に愛猫とともに住んでいた。

 金もなく、衣食住に無頓着のまま、ひたすら学問に打ち込む姿が「がんばれ るんぺん先生」と題してテレビ番組に取り上げられるほどの清貧生活だった。

 だが、昭和50年代からその学識を存分に活用した一般向け書籍を書き始めたことで、人生が一変する。特に55(1980)年刊 の「ソビエト帝国の崩壊」は近い将来のソ連崩壊を予言し、約40万部のベストセラーに。以後、売れっ子評論家として多数の著作を刊行し、昭和末から平成前半にかけてのジャーナリズムを席巻した。

生まれ変わるなら「独裁官」

 著者の村上さんは大学院生だった平成11年ごろに小室さんの著書に出合い、その論理と筆力に魅せられた。以後、20年近くにおよぶ文献収集、数十人にのぼる関係者のインタビューを重ね、小室さんの学問と人生の両面に迫る本書を完成させた。

 上下巻計1500ページに及ぶ大著だが、「読みやすく面白い内容にしようと思った」と語る通り、抱腹絶倒の“奇行”エピソードをふんだんに交え、読者を飽きさせない。
 
 たとえば会津高校時代、級長に推薦されかかったときのこと。並外れた自信家の小室少年は受諾にあたって次の条件を出した。

 「級長になったら俺のことをキング・オブ・キャットランドと呼ぶこと(小室さんのあだ名は“猫”だった)」 「王の命令には絶対服従すること」。

 当然、その場で否決された。村上さんは「このとおりに、『民主主義』という感覚はゼロであった」とコメントを加えている。

 亡くなる数日前、生まれ変わったら何になりたいかと夫人に問われた小室さんが即座に「独裁官(古代ローマで強大な権限を有した公職)!」と答えた秘話と併せ、少年時代から終始一貫変わらなかった無邪気な人柄を感じさせる。

「検事を殺せッ!」

 数々のエピソードの中でも特に有名なのは、昭和58年1月26日のロッキード事件論告求刑公判で、検察側が田中角栄元首相に対し懲役5年、追徴金5億円を求刑した際の話だろう。

 小室さんは当日、酒に酔った状態でテレビ朝日の生放送ワイドショーに出演し、突如「田中を起訴した検察官が憎ーいッ!」「あの4人の検事を殺せッ! まとめて殺せッ! ぶっ殺せェーーーーッ!」「田中に5兆円をやって無罪にしろッ!!」などと絶叫して退場させられ、全国の視聴者の度肝を抜いた。
 
 一見、単なる酔余の放言のようにも思える舌足らずで過激な発言ではあるが、背景には行政の一員である検察が、民主政治の根本である議会に干渉することを許さないという小室さんの民主主義理論があった。

 村上さんは、小室さんの魅力の本質について「言説のすべてにわたって、事実と理論が統合されている点」と話す。理論を適用して事実を説明する姿勢は、角栄論であれ何であれ、常に一貫していた。

 そしてその結論が時に日本社会の常識と食い違って物議を醸しても、全く意に介さない強さを持った“奇人”でもあった。「小室さんを一言で表現するなら、自分の思想に真っすぐに、やりたいように生きた人ですね」(文化部 磨井慎吾)

             ◇

村上篤直(むらかみ・あつなお) 昭和47年、愛媛県生まれ。平成9年、東大法学部卒業。弁護士(新64期)。ウェブサイト「小室直樹文献目録」管理人。共著に『小室直樹の世界』(橋爪大三郎編著、ミネルヴァ書房)。

(転載貼り付け終わり)

 読む人それぞれの興味や関心の違いで、本書『評伝 小室直樹』の中の記憶に残るところや感動するところが違うと思いますが、以下に私の記憶に残ったところをいくつか挙げたいと思います。

 小室先生は会津高校時代に物理学を志望し、後に数学を学び、経済学、社会学、人類学、社会学へと研究の幅を広げていきました。自然科学を学び、社会科学に拡大していった訳ですが、そこには次のような考えと目的がありました。以下に引用します。

(貼り付けはじめ)

そこから、小室はビジョンを得た。それを一言でいうと“学問落差論”。
 進んだ学問分野の成果をもって、遅れた学問分野を発展させる。
 サムエルソンが物理学の成果で経済学を発展させたように、小室は、進んだ経済学と心理学によって社会学、政治学を完成させ、社会科学を統合するというビジョンを得た。
 そこで、小室はミシガン大学で、心理学、社会学、政治学の講義やセミナーに足繁(しげ)く通ったのである。(『評伝 小室直樹(上)』、263ページ)

(貼り付け終わり)

 小室先生がアメリカ留学(ミシガン大学とMIT)した時期(1960年代初頭)、社会科学の分野では数学を使った量的研究が盛んになっていました。経済学と心理学が先行し、社会学と政治学がそれに続くという状況でした。今では「経済学帝国主義」などと批判されますが、その当時、一番進んだ社会科学である経済学の方法論が他の政治学や社会学に導入されていました。日本でもそれを進めようとしていたのが小室先生ということになります。

 東大の大学院に大学院生と入学した小室先生ですが、ゼミでは学生である小室先生が講義をして、指導教官である東大教授たちはポカンとして聞いていた、という話も残っているくらいですから、アメリカで学問を修めてきた若者と日本最高峰の東大教授では相当な学問上の力の差、まさに「落差」があったのだろうと思います。

 小室先生の学識の多彩さと深さは誰もが認めるところです。しかし、「学者」としてはどうなのかということは、小室ゼミの弟子たちの間でも話がなされていたそうです。以下に引用します。

(貼り付けはじめ)

では、学者、研究者としてはどうか。小室先生は、何か発見はしたのか。ティーチャーとしては最低でも、大発見を一つでもすれば学者、研究者として名前は残る。たった一本でも、学術論文として意義のあるものを書けば、学説史に名を残せる。
では、小室先生はどうか……。結論は出なかった。(『評伝 小室直樹(下)』、256ページ)

(貼り付け終わり)

 このことは私にとって驚きでした。学者、研究者としての道を進もうとする大学院生が多かった小室ゼミの中では、小室先生の評価について、特に学者としての評価について、話し合われていたという事実。この部分では「結論は出なかった」と濁されていますが、おそらく、「ベストセラーを連発して、累計すれば何百万部も売り上げたがあれは評論活動であって、学術・研究活動ではない、学者のやることではない」と批判的、否定的に見ていた人たちが少なからず存在したということになります。

しかしそれは、私に言わせれば、自分たちを高みにおいて、「頭の良い自分たちのやっている、立派な、高尚なことは、アホな庶民には分からない」と威張りながら「自分たちには、自分たちの知っていること、考えていることを分かりやすく伝える力はない、無力なのだ」ということを同時に認めていると思います。そして、そのように考えた人々が学説史に名前を残しているのかどうか、私には分かりませんが、気になるところです。

 しかし、少なくとも弟子たちがそのようなことを考えて、発言できるということは、小室ゼミという場所は、学問においては厳しい場所でも、それ以外は自由でオープンな場所だったんだなと考えることが出来ます。それは、小室先生の持っていた寛容さ故なのでしょう。

 評伝の著者である村上氏は小室先生には、合理性と簡明さ、非合理性と過剰さの2つの面があり、それぞれの面、系統に後継者がいるのだということを書いています。以下に引用します。簡単に言うと、小室先生にはオーソドックスな学者としての面と、奇矯な発言や行動をしてしまう学者らしからぬ面があり、それぞれの流れを受け継いだ弟子たちが育ったということです。

(貼り付けはじめ)

 合理と非合理。近代と前近代。簡明と過剰。正常と異常。小室直樹には、この二面性があった。そして、ゼミ生は、各々、どちらかの側面、あるいは分かちがたく結びついた両面に惹かれながら、小室の精神を受け継いでいるのだという、宮台真司の指摘である。
 そうだとすれば、小室の合理性、簡明さの側面に惹かれ受け継いだのが、橋爪大三郎、志田基与師ら、正統な学者コースを歩む者たちであり、他方、小室の非合理性、過剰さに、いわくいいがたい魅力を感じ、同調しながら受け継いだのが、田代秀敏、宮台真司、副島隆彦らかもしれない。(『評伝 小室直樹(下)』、257~258ページ)

(貼り付け終わり)

 小室先生の中に共存する背反する志向はそれぞれが大きすぎたのでしょう。強い光にはより暗い影ができるように、合理や正常が普通の人間には持ち切らないほどの大きさであったために、非合理や以上もまた大きくなってしまったということだと思います。そして、1人の人間の頭脳の中に収めるには大きすぎるために、それぞれの志向の系統を受け継ぐ弟子が出てきたということなのだろうと思います。そして、それぞれの弟子の中にはそれぞれの弟子が形作った「小室直樹」師が存在するのだろうと思います。

 評伝の中には複数、「マルクスは親の仇」という言葉が出てきます。小室先生は京都大学在学中に弁論部に所属していたのですが、マルクス批判を展開し、友人たちに「どうしてそんなにマルクスを攻撃するのか?」と質問され、「マルクスは親の仇なんだ」(『評伝 小室直樹(上)』、97ページ)と答えたそうです。「親の仇」とはどういうことかというと、次の部分に書かれています。

(貼り付けはじめ)

 しかし、マルクス主義研究で疲弊した隆吉の身体を病魔が襲い、彼は三六歳の若さで死ぬことになる。
 チヨは、恨んだことだろう。マルクスのせいで夫が死んだ。夫を奪ったのはマルクスだ。
 マルクス憎し。マルクスは夫を奪った敵。チヨは、何度も直樹にそれを伝えた。
 また、母・チヨはフロイト主義者であった。
 直樹を育てるにあたって、その深層心理に植え付けた。
 「お前は天才です。必ず立派になります」と。
 
「父はマルクス、母はフロイト」

 直樹は、マルクスとフロイトから生まれた子であった。(『評伝 小室直樹(上)』、615ページ)

(貼り付け終わり)

小室先生の父親・隆吉は昭和12(1937)年に36歳の若さで病死しました。小室隆吉は早稲田大学在学中にマルクス主義に傾倒し、卒業後に大日本通信社で記者を務めました。小室先生の母・チヨは看護婦となり、東北帝国大学医学部の授業にも出席し、フロイトに傾倒した人だったそうです。

当時としてはかなりのインテリの2人が出会い、やがて小室直樹先生が誕生しましたが、隆吉が早く亡くなってしまったために、母一人子一人となった小室先生はかなり厳しい生活環境の中で、周囲に支えられながら、会津の地で成長していきました。苦しい生活の中で、母が繰り返し語った「お前は立派になります」という言葉は幼い直樹少年の才能を早くから開花させる言葉になりました。

 「三つ子の魂百まで」という言葉がありますが、小室先生の才能を開花させたのは、母・チヨの教育です。苦しい生活の中で、「お前は立派になります」ということを何度も語り、小室先生の才能が開花するように導いたということになります。

 私は、副島先生と今回の評伝について少しお話をしました。その時に、副島先生は「今の若い人たちの間で、小室先生の本が人気にならないだろうか」「是非読んで欲しい」と仰っていたことが印象に残りました。多くの読者、特に若い読者に、今回の評伝、そして興味を持ったら小室先生の本を是非読んでいただきたいと思います。


評伝 小室直樹(上):学問と酒と猫を愛した過激な天才


評伝 小室直樹(下):現実はやがて私に追いつくであろう

(終わり)

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