「2117」 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ・続(第2回・全2回) 2024年3月5日

副島隆彦です。今日は2024年3月5日です。源氏物語と藤原道長の真実の第二弾の続きです。




「光る君へ」全体相関図

藤原道長の家系図

定子は弘徽殿女御(こきでんのにょうご)といって、その名前だけは僕らも高校時代に習って知っている。まさしくこの弘徽殿女御でした。これがいじめられて一応形だけ皇后にしてもらったのに出家させられていますから、儀式に参加できなかったんだって。そういういじめに遭って死んじゃった。だから道長の兄さん道隆の娘ですね。弘徽殿女御なんです。その兄貴が柏木中将です。これが源氏物語の後ろのほうで出てくるんです。後で話しますが藤原伊周(これちか)、これが失脚していったほうの兄さんの家系の子供です。

御所の後宮

また脱線すると嫌なんだけど、『源氏物語』の後ろのほうに夕霧中将というのが出てくるんです。夕霧は憂鬱な男というか非常に控え目な男なんです。それがまた別のさっきの道隆が産ませた雲居の雁という女性が死ぬほど好きだった。だけど結婚させてもらえなくて引き裂かれたんです。この話はまた後でします。



源氏物語の相関図

この夕霧こそは、まさしく道長の長男坊の藤原頼道(ふじわらのよりみち、992-1074年、83歳で死)なんです。この頼道という言葉は日本人には分かりやすいでしょう。なんと、この頼道が、道長が死んだ後も40年間ぐらいずっと最高権力者を続けたんです。だから何で道長が最高権力者でありながら素晴らしかったかというのは、後の息子がお父さんに、お父さんが仲を裂いたんじゃないんです。藤原道長の兄で、頼道の伯父にあたる、内大臣の藤原道隆(ふじわらのみちたか、953-995年、42歳で死)のほうが雲井の雁との仲を裂いたみたいですね。頼道はこのお父さんを嫌ってないんです。合計50年間ぐらい摂政関白をやっていますから、真面目な男です。

時々創業者の豪快なワンマン経営者の息子でしっかり者、じっと構えて我慢に我慢しながら後を継ぐ息子がいます。これも非常に大事なテーマなんですね、この夕霧というのが。これが真実は頼道なんです。だからこういうことを「どれどれどこまで書いたかね」と言って道長が見に行ったんですね。このことの凄さです。

道長には正妻がいたんです。源倫子(みなもとのりんし、964-1053年、89歳で死)と言います。『源氏物語』では、葵上(あおいのうえ)です。これも「葵」という巻で出てくるんです、第2巻目です。葵というのが正妻なんです。

倫子の父親である源雅信(みなもとのまさのぶ、920-993年、73歳で死)は、左大臣を務めるほどの大物で、藤原家の大物の道長のお父さん、兼家も頭が上がらなかったような一つ前の世代の最高権力者です。

源雅信の家系図

『源氏物語』では、その奥様として、大宮という人が出てくるんだけど、この人が雲井の雁と夕霧を一緒に赤ちゃんのときから育てたんです。そしたらお互いに好きになった。しかし引き裂かれました。そしてその娘が葵上です。道長の正妻です。これは源氏物語では葵上です。何か名前はあるんだけどわざと出さないんです、本名のほうはね。正妻とうまくいかないんですよ。

正妻とうまくいかないというテーマも、ものすごく重要なテーマなんです。お互い気が合わない。私、副島隆彦も奥さんと気が合わないんです。これ正妻と気が合わないというのは、社会にとってというか、人間という生き物にとってものすごく重要なテーマなんです。だから光源氏すなわち道長はあちこちほかの女の人とつき合って回るのね。でももう40ぐらいになるともうそんなことやっている暇ないんですが。62歳で死にますから。

そうすると道長ももういい年になってきて物語の後ろになると、わかったと。さっきの自分のお姉さんの詮子のめいっ子に当たる紫上というのがあって、この「若紫」という章で出てきて、文学部に行った人間たちはこの若紫という章を死ぬほど好きなんです。それが紫の上でこの人を奥様、葵上が、正妻が先に死ぬんです。だから次の正妻の形で大事にしようと思っているというだけのことであって、それほど私は紫の上のところは好きじゃありません。これは10歳で京都の北のほうの山奥の北山というところで見初めている。山奥で尼さんに育てられていたという人を自分の奥様にするんです。10歳だった。だから13、14歳で生理がありますから、生理があると奥様にするんです。それ以上おもしろい話がありません。

一番おもしろいのは六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)なんです。ようやく分かった。この六条御息所は15、16歳のときから、藤原道長とつき合っているんです。この六条御息所がインテリな頭のいい女性なんです。娘が生まれて、どうもそれが秋好中宮すなわち彰子なんです。彰子は正妻の葵との子供じゃありません。彰子が上東門院と呼ばれるぐらい、87歳ぐらいまで生きたんです。道長の長女ですね。円融天皇という障害者の奥様ですから。実際は道長と子供を産んだ訳です。それが一条天皇です。

そうすると六条御息所の最大の話はちょっと頭のいい人は知っているんだけど、生き霊になって、怨霊と言ってもいい、生き霊になって正妻である葵上の枕元に出るんです。これはものすごく大事な話で、それで正妻の葵が死ぬんです。これは本当なんです。それぐらい女同士の嫉妬が狂う話なんです。

源氏物語における光源氏の女性関係

藤原道長をめぐる女性たちの関係

そしていくら何でも、ということで、六条御息所は追放処分ではないんだけど、伊勢に追放されるんですね。ところがこの六条御息所が、道長が14,15歳から出会っている頭のいい女性で、娘も後で再びまた出てきます。娘が彰子ですから本当に恐ろしい話になっているけど真実だと思います。

今日の最大級のハイライトは、もとに戻りますが、桐壺帝である村上天皇(926-967年、42歳で死)と芳子(?―967年)との間に、この2人が死ぬ年に生まれたのが光源氏なんです。藤原道長(966-1028年、62歳で死)なんです。この秘密こそがまさしく源氏物語の最大の秘密なんです。それはお姉さんと交わって一条天皇を産んだという話以前の大きな真実ですね。こっちのほうが大きいかもしれないです。

村上天皇と藤原道長の家系図

ということは、お姉さんである詮子は、源氏物語の藤壺更衣は実のお姉さんじゃないということになります。藤原道長がもらいっ子で、1歳のときに来ていますから。いとこぐらいではあるけれども、またいとこぐらいではあるけども、実のお姉さんではなかったんですね。一緒に暮らしていて好きになって、だけどそのとき既に詮子は円融天皇の奥様ですから、中宮ですから不義密通になる訳です。そして藤原道長とセックスをして、産んだのは一条天皇というこの話に何回も戻るわけです。

だから頭がこんがらがってみんな駄目なんですよ。脳が弱い。日本国にとって一番大事な最大級文学であり、日本歴史上の大きな真実なのにそのまま1000年が経った。国文学の学者たちはひそひそ話で知っているくせに、それを国民に教えないまま1000年が経って、まだ嘘をつく気かというところから、副島隆彦が真実のすさまじい火柱を上げるんです。そして私も死んでいくんですけどね。

そんなのは信じないとかいくら言ったって、私が脳に鉄拳を食らわしたらこれは歴史に残っていきますから。私、副島隆彦の決意の深さを分かってください。日本国民に真実を教える。その証拠の1つというのは、新々訳谷崎源氏の第4巻のパンフレットが、薄い付録がついていて、その中に解説として、このように書いているんです。

藤原道長は、自分の実のお姉さんである詮子が1001年に35歳ぐらいで死ぬんです。そのときにもう2人で政治権力を握ったわけですから、道長が死ぬほど嘆き悲しむんです。自分が最高権力者になったんだけど、お姉さんがいてくれないと僕は困ると言って嘆き悲しむんです。激しく嘆き悲しむシーンがあるんです。法華経の「灯火などの消え入るやうにて果て給ひぬれば」という言葉であらわされて、これは「薄雲」という巻の中で書かれていることですが、藤壺の宮すなわち詮子は仏様扱いされたと。そしてここに書いているんです、これが証拠ですよ。

でもその臨終には、光源氏に向かい、この藤壺更衣は「皇子今日(こんにち)あるを得たことに礼を述べ」と。皇子(みこ)というのは一条天皇のことですよ。自分が産んだんですよ、所の生まれると書いて所生(しょせい)といいます。産みの母親のことをわざと所生というんですね。だから自分は円融天皇の奥様だったのに、一条天皇が産まれている。この皇子、天皇の今日(こんにち)あるを得たことに光源氏に礼を述べて、源氏の慰みの言葉を聞きながら命を絶えた。

ここにある源氏物語の解説文は、伊吹和子(いぶきかずこ、1929-2015年、86歳で死)という女が書いたんだと思う。谷崎版とか三島由紀夫版の。あとは川端康成の版も編集したんです。原稿を取りに行っている。そのころファクスもないですからね、編集者が原稿を受け取りに行くんです。特にしっかりとしたちゃんと、ただの受け取り屋じゃないんです。知能の高い伊吹和子は京都大学国文科研究室に嘱託として勤務していた。京大の先生たちの推薦で谷崎の係をして、最後の『瘋癲老人日記』とかの筆者、谷崎が手が潰れててペンを持てないんですね、当時は鉄筆ですから。それをずっと口述で横でずっと書き上げた人です。

伊吹和子は、『われよりほかに』という分厚い本を書いています。「我よりほかに真実を知る人なし」という意味なんです。中央公論の社長の嶋中雄作(しまなかゆうさく、1887-1949年、61歳で死)が偉かったんです。この人は本当に偉かった。戦後は息子の嶋中鵬二(しまなかほうじ、1923-1997年、74歳で死)ですね。伊吹は嶋中鵬二の指示を受けて、しっかりと仕事をした。伊吹和子は谷崎と肉体関係ありません。そこはものすごく冷たいしっかりとした女の人だった。

恐らくこの伊吹和子が書いた解説文です。谷崎が死ぬ間際の1960年10月に、第1巻目が出ましたといって谷崎にこの本を届けたのが伊吹和子です。その中の解説文を今私が読んでいます。その後に「あいし」なのか「いとし」なのかわからない、愛し信頼する人に抱かれて眠った。誰がですかとなると、だから藤壺更衣である詮子が、愛しと書いているから誰を愛しなんだよといったら、自分の弟である道長を愛しという意味です。信頼する人に抱かれて眠った思いであったことでしょうと書いていますね。そこでこそ大往生を遂げることができた。それでこそ大往生だった。私が計算したらこのとき道長35歳です。5歳上だから詮子は40歳で死んでいますね。

光源氏、すなわち道長は嘆き悲しみます。その心の中に今後の政治生活に対する不安があった。摂関、摂政関白をすべき外戚ではないことに表面はなっているのですから、ここで非常にわけのわからないことを書いている。私にはすぐ読めるんです。摂政関白にわざとならなかったんです、一条天皇の。外戚というのが天皇の義理のおじいさんという意味です。真実はそうなのにそうじゃないことになっているから、道長という人は左大臣のままずっといたんです。真実は自分が天皇のお父さんですからね。

だから外戚の権力を奮ったということにしてないんだけど、もう外戚以上の感じですね。自分の娘に産ませた子供が天皇の場合を外戚というんですよ。自分が産ませているるんだから、このすごさがこの源氏物語最大級のすごさなんです。

この後がすごいですよ。さらに光源氏が帝の実の父であることを、つまり一条天皇の実の父であることを知っているのは藤壺更衣と源氏と王命婦(おおみょうぶ)です。この藤壺更衣は言わずに死んだ。光源氏は口を閉じた。そしてこの王命婦というのは乳母(めのと)ですね。乳母(うば)は母親のかわりに一条天皇を守護してきた人ですから、秘密を漏らす人ではありませんと書いています。

宇治平等院鳳凰堂(頼道が1052年に建立)

この後天変地異が起きるこの時期で、もう阿弥陀如来にすがりついて極楽浄土を死ぬほど拝んで、道長も20年後には死ぬんですけど。1028年だから27年後に死ぬんです。でも最高権力者です。

「この世をば我が世とぞ思う望月の欠けたることもなきと思えば」という、これは中学校の社会の教科書にもあるいは国語の教科書にも載っているんですね。道長が詠んだ歌です。これは、日本人はみんな知っている。「この世をば我が世とぞ思う」って、満月が欠けたこともないんだと。それぐらい俺は最高権力者だと言っている訳です。それに合わせて周りの大臣たちがみんなで何回もこの歌を唱和したというんだから、恐ろしい光景です。普通は和歌というのは1回歌ったら終わりなんですが、みんなで何回も歌ってその場を取り持ったというんだからすごいことなんですよ。最高権力者でありながら穏やかに政治権力を達成した。その天皇は一条天皇ですからね。

その次の三条天皇はさっき言った道隆の系統の孫ですね。一条天皇が実の父である藤原道長に怒り狂っている。三条天皇は道長のことをもっと怒っていたんですね。でも三条天皇は眼病で目が悪くなって、退位させられます。

その次は彰子の子供である後一条天皇がつながる。さっき言ったように道長が死んでもさらに1074年までだから50年間、源氏物語の中では夕霧中将であるところの跡継ぎのしっかり者の、しかしお父さんに逆らえないでじっと我慢して耐え抜いた立派な跡継ぎ、これが藤原頼通(ふじわらのよりみち、992-1074年、83歳で死)なんです。

ほとんどこの頼道という人は事件を起こしてない人です。すばらしい権力者だったんだと思う。ただちょうどそのころ武士がどんどん台頭していまして、三井寺(園城寺[おんじょうじ])と比叡山の激しい戦いをやっています。わっしょいわっしょいと言って僧侶たちの僧兵になって何百人同士でぶつかり合うんですね。強訴(ごうそ)というんだけど、都の京都にまで御神楽(みかぐら)をかついでわっしょいわっしょいと言って暴れる坊主たちの思想闘争、イデオロギー闘争があるんです。そのことを私は別に1冊本に書きました。

それから西暦940年の平将門(たいらのまさかど、?-940年)や藤原純友(ふじわらのすみとも、?-941年)の乱以来、武士たちの反乱がどんどん起きました。それはそうなんだけど、そんなものは抑え込む訳です。この頼道の後の道長から見れば、孫ひ孫たちまで藤原摂関政治を続けるんだけど、決定的にはやっぱり平氏が台頭して、平清盛(1118-1181年、64歳で死)の3代前あたりから1088年のあたりから神楽を矢で打つということを天皇の周りの人が始めて、清盛もそれを1147年にやっているんですね。そして天皇とか後白河上皇に大変褒められるのね。そして藤原家を抑えつけろとやっても清盛の後は源頼朝(みなもとのよりとも、1147-1199年、53歳で死)が出てきますね。

平清盛の家系図

源頼朝の家系図

というふうにつながっていくんですが、つながっていく上でもう終わりにしますが、源氏物語は後半部にずっと入っていくと、夕顔とその娘玉鬘(たまかずら)とかの話も出てきます。花散里(はなちるさと)、それから最初に15,16歳で愛し合ってつき合ったけどもそのまま別れたけども、九州に流されていた娘が、夕顔とか空蝉が四国に流されています。その娘が帰ってきて、やっぱり自分の六条院というんだけどお屋敷に引き取って、自分の愛した人の娘たちもちゃんと面倒を見て育てています。それが源氏物語全体を貫く大きな話なんですね。

あとさらに宇治十帖というのが出てきて、薫中将というのが出てくるんですね。これで終わります。

(終わり)

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