「2114」 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ・続(第1回・全2回) 2024年2月23日

副島隆彦です。今日は2024年2月23日です。

前回に続いて、源氏物語と藤原道長の真実の続きをこれから書きます。この続きも非常に重要です。前回の日本の紀元ちょうど1000年ぐらいの藤原道長(ふじわらのみちなが、)という最高権力者とその周りの人間たち。天皇たち6、7人が関わります。



「光る君へ」全体相関図

藤原道長の家系図

天皇たちも道長の周りに並べられるぐらいの形で論じていくしかありません。まず①村上天皇(むらかみてんのう、926-967年、42歳で死 在位:946-967年)、②冷泉天皇(れいぜいてんのう、949-1011年、62歳で死 在位:967-969年)、③円融天皇(えんゆうてんのう、958-991年、32歳で死 在位:969-984年)、④花山天皇(かざんてんのう、968-1008年、39歳で死 在位:984-986年)、⑤一条天皇(いちじょうてんのう、980-1011年、31歳で死)、⑥三条天皇(さんじょうてんのう、975-1017年、42歳で死 在位:1011-1016年)、⑦後一条天皇(ごいちじょうてんのう、1008-1036年、27歳で死在位:1016-1036年)の7人に絞り込んで、私はこの源氏物語の真実の大きな暴きをやります。

村上天皇からの家系図

花山天皇をめぐる系図

前回でやったのはこれも最大級に驚くべきことですが、繰り返しですが、光源氏、すなわち光の君(ひかるのきみ)である藤原道長(ふじわらのみちなが、966-1028年、62歳で死)が14歳、満なら13歳で、姉である藤原詮子(ふじわらのせんし、962-1002年、40歳で死)とセックスをして、一条天皇(980-1011年、31歳で死)が生まれたということです。

満と数えの違いも言います。赤ちゃんがおなかの中にいる間を10カ月入れるから1歳だというから数えでは1歳という。あれは嘘です。古代史はどこの国でも日本でも、赤ちゃんが産まれたら目の前にいるから1なんです。ゼロというのはないんです。

今はゼロ歳児といいますが、生まれたら1歳。正月を越したら2歳なんです。この真実を分かってください。今は満年齢でやりますけど。正月を越したら、もうプラス1なんです。私は基本、満でやることにします。時々仕方なく歴史の年表に書いてある数えでもやります。

藤原道長が14歳のときに、自分の実のお姉さんの藤原詮子(ふじわらのせんし、961-1002年、41歳で死)と交わってつくった子供が⑤一条天皇である。一条天皇は西暦で980年に生まれています。このとき道長が14歳で、お姉さんは19歳です。お姉さんの藤原詮子が円融天皇の奥様、すなわち女御(にょうご)、中宮(ちゅうぐう)、そして皇后になるんですが、中宮なんですね。だから天皇の奥様と交わって不義密通で産んだ子供が一条天皇ということになります。この巨大な真実は破壊的衝撃力を持っている訳で、日本の国文学の大学教授たち以外は知りません、今も知りません。絶対表に出しません。

このことを中心に全てを語っていきます。これが源氏物語の中の光の君とその藤原詮子は東三条(ひがしさんじょう)の院といわれて、梅壺更衣(うめつぼこうい)と当時の人たちから呼ばれていた。ところがこれが源氏物語の中では藤壺更衣(ふじつぼこうい)と出てきます。あるいは藤壺の宮とも言います。



源氏物語の登場人物相関図

その後の話がずっと出てくるんですが、その人間関係の複雑さの前にみんなが放り投げてしまうんです。副島隆彦ぐらいの頭脳がないと、日本史学者たちでもここは立ち入れないそうです。あと言い切り、断言の恐ろしさと天才の能力がなければ無理なんです。ちょうど1000年前の話ですよ。こんな巨大な真実を全部隠し通しながら日本の国はやってきたんです。

今日の中心は私がずっと不思議に思っていた源氏物語、源氏というのは800年代の桓武天皇(かんむてんのう、736-806年、70歳で死 在位:781-806年)の子供たち、つまり親王と普通は言うんだけど女が産まれると内親王と言います。この親王なんだけど、もう天皇になれない人たちはどんどん臣籍降下、家来にして家来の名字をあげたんです。それが源氏なんです。

だから後の源平の戦いの源氏と平家の戦いの時期の源氏とは関係ありません。あれは完全に武士、もののふ、さぶらいたちの話なんですね。それと分けて考えなきゃいけないんです。そこがなかなか日本人はできない。源氏というとすぐ源頼朝たち源氏の武家の棟梁の話にしているけどそうじゃないんです。藤原道長の時代から200年前の話ですから。名字をもらったんですね。

ここで変なこと言いますが、上皇后は名字がないんです。だから美智子(みちこ、1934年-、89歳)は本を10冊ぐらい出しているんだけど、本の著者にただ「美智子」と書いてあるのがあります。美智子皇后とも書きません。それぐらい名字がないというのはすごいことなんです。天皇家だけです。こういう知識もなきゃいけない。

上皇明仁(1933年-、90歳)と美智子

藤原詮子(ふじわらのせんし、962-1002年、40歳で死)が東三条院(ひがしさんじょういん)という女で初めて院号をもらいました。これは歴史事実です。夫の③円融天皇(えんゆうてんのう、958-991年、32歳で死 在位:969-984年)は15年間天皇をやったんだけど、精神薄弱者というか弱い人間なんですね。子供も産まれていません。その前、たった2年間だけ天皇をやった②冷泉天皇(れいぜいてんのう、949-1011年、62歳で死 在位:967-969年)も能力がないというよりも病弱です。その次4人目の④花山天皇(かざんてんのう、968-1008年、39歳で死 在位:984-986年)は16歳のときに、道長のお父さん藤原兼家(ふじわらのかねいえ、929-990年、61歳で死)とお兄さんの藤原道兼(ふじわらのみちかね、961-995年、34歳で死)にだまされて、無理やり出家させられて退位させられます。その後が一条天皇なんです。

一条は生まれて6年、7歳のとき皇位に就くんです。そして1011年まで21年間天皇です。一条天皇は自分が実の父親が道長であるということを知っていたはずなんです。気づいていたけども周りが教えないんです。そして一条天皇が怒り狂って宸筆といいますが、天皇自らが汚い字で「偽臣乱国(ぎしんらんこく)」と書いた。藤原の一族が天皇をないがしろにして国を乱していると、怒り狂った宸筆が残っているんです。これを嘘だと言う人たちがいるけどそんなことはないんです。

つまり自分の実の父親である藤原道長に対して激しく怒っているんです。お母さんは道長のお姉さんの藤原詮子です。これ大変な真実なんです。

このことを谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886-1965年、79歳で死)は書くなと言われた。言ったのは、山田孝雄(やまだよしお、1875-1958年、83歳で死)という東北帝国大学の国文学の教授、これは悪いやつで、皇国史観で八紘一宇の戦争勢力、右翼の大学教授で翼賛体制に入ったから戦後になって名前を落としました。谷崎は人と喧嘩しない人でしたから、分かりましたと言って体制に従ったんです。だけど新々訳の谷崎の本を読んでいると、匂いのところで私はいろんなことを感じるんです。

谷崎潤一郎

谷崎自身が近親相姦はしないけど、松子(まつこ、1903-1991年、88歳で死)という自分の奥さんとその妹たちと性関係にあるような人でした。連れ子の奥さんの渡辺千萬子(わたなべちまこ、1930-2019年、89歳で死)を戦後15年間、死ぬほど愛していたんですね、死ぬ1965年まで。そういう人ですから、近親相姦の中に最高の男女の愛はあるということを突き詰めて言えばそういうことです。

谷崎をめぐる略系図

谷崎潤一郎と渡辺千萬子

それで今日、もう一発で仕留めなければいけないのはさっきの続き、源氏という言葉は天皇の子供に与えられた名字です。ということは、光源氏はどうしても天皇の子じゃなければおかしいと、30年間、私はずっと疑い続けていたんです。ついに発見しました。真実の藤原道長の母親は藤原芳子(ふじわらのほうし、?-967年)といいます。ヨシコとも読めますが草かんむりに芳香の芳です。この藤原芳子が藤原は当たり前だからみんな藤原氏ですから、高級貴族たちはべたべた全部くっついている。

藤原芳子の家系図

芳子が女御、つまり愛人の形で宮廷に入った。その相手が①の村上天皇(926-967年、42歳で死 在位:946-967年)なんです。この人が深く芳子を愛したんです。そしてこの村上天皇がこの芳子には特別に宣耀殿(せんようでん)という建物を建ててあげるんです。だから宣耀殿女御(せんようでんにょうご)と言われます。これを探し当てるのにどれぐらい大変な苦労を私がしたか。

御所の後宮

そして実はこの宣耀殿女御芳子(せんようでんにょうごほうし)が、源氏物語第1巻目の最大のテーマである桐壺の更衣なんです。これは中学校高校でも習うんです。誰ひとり理解しないんです。理解しないままほったらかす。桐壺帝がみんな名前は知っている。村上天皇です。そしてこの2人が同じ年に死にます。967年です。その前の年に道長が生まれているんです。そしてもっとはっきりした事実は、村上天皇の正妻、奥様の中宮は安子(あんし)といいまして、中宮というのは皇后と一緒です。安子(あんし)と書くんだけど、この人が宣耀殿女御芳子に激しく嫉妬して、かわらけの土器を投げつけたという記録が『大鏡』という歴史書の中に残っているんです。真実だと思う。

だからこの芳子が桐壺という壺、これ、壺がやがて江戸時代にお局様になったんですよ。小さな部屋のことです。仕切ってある部屋です。宮中各御所の後ろのほうのかなり一番いいほうの部屋です。そこから村上天皇の寝所に通っていく途中に汚いものがまき散らしてあったという話があって、これは国文学を勉強する人たちは知っているんです。そういう激しい女たち同士の戦いですね。女官やら家来の女たちがいますから。女というのはそういう生き物です。本当にそういう生き物です。これは死ぬほど大事な真実なんです。前のほうの一番天皇に近い桐壺に変えたんです。そこから追い出された女たちがいるわけね。激しい嫉妬を買ったでしょう。

私は計算して分かったことは、この芳子は長男坊を産んでいます。長男坊を産んで10年後に次男坊を産んでいます。それが965年なんです。そして966年、そのときの三男坊であるところの道長が生まれているんです。そしてその次の年にはもう死んでいるんです、天皇と芳子は、両方ともに。それが村上天皇も40ちょっとで死んでいるから別に異常な死に方じゃありません。芳子も35歳ぐらいで死んだでしょう。

そうすると赤ちゃん1歳、2歳ですね。それが家来であるやがて太政大臣になる、重臣になる養父、育ての親と言ってはいかんけどそうですね、藤原兼家(ふじわらのかねいえ、929-990年、61歳で死)にもらわれるんですね。そしてそこの乳母たちに大事にして育てられるわけですね。だから兼家の五男坊ということになっています。前回からのつながりだけど、兼家がほかの藤原北家の人たち、2~3人を蹴散らして兄貴まで追い落として自分が最高権力者になるんです。

ところが兼家も死んでしまってその後はちゃんと長男坊の藤原道隆(ふじわらのみちたか、953-995年、43歳で死)、これは非常に重要です。道隆が『源氏物語』の中では内大臣とか太政大臣と言われている人です。非常に大事なんです。だから道隆が太政大臣のときに死んでしまうんです。その弟の2番目の藤原道兼(ふじわらのみちかね、961-995年、34歳で死)も死んでしまうんです。7日目かな。だからどうしても藤原北家の系統を上に立てなきゃいかんと言って、それまで遊びほうけて、女遊びをざっとして回っていたのね、14歳のときから。それこそお姉さんと次の3代先の天皇をつくるぐらいですから。ものすごく元気で体力のあった頭もいい男だったんですね。

藤原道長の家系図

この道長のお姉さんであるけれども、円融天皇の皇后の詮子が一緒に暮らしていたというんですよ。自分のご主人の円融天皇はパアですから、要するに軽い障害者だったでしょう。ですから子供が産まれないんですね。そういう真実を国文学の連中が書かないんですよ。その前の冷泉天皇もおかしいですね。

何が起きていたかで、それが源氏物語の第一巻の最大の、全体を貫く秘密なんです。副島隆彦が書くことを信じないとか、あれこれ言おうが何だろうが巨大な真実は暴かれることによって国民の財産になっていくんです。

だから今年1月から始まった「光る君へ」に対する副島隆彦からの巨大な先制攻撃を今かけなきゃいけないんです。これはぼやきの広報ページに載せます。例のNHKが5月に発表した平安神宮で撮影した1回目の記者会見を兼ねた公表の写真と一緒に。その配役は柄本佑という背の高い180センチぐらいある俳優と、吉高由里子という私から見れば二流の女優が主人公です。まるで、これが紫式部で道長が紫式部をほのかに愛していて、2人時々密かに会っていたみたいな話にするともう決まっているんです。それは江戸時代からそういう物語があるんです。それでお茶を濁してごまかす気です、NHK大河は。私にはもう分かっているんです。

だから道長は、その自分の出生の秘密を今から話しますが、それから自分のお姉さんである藤原詮子とセックスをして、生まれたのが、ちょうど1000年ぐらいのときの886年からの天皇であった一条天皇です。まさしく当時の天皇たちのスキャンダルの真実の話を冊子に書かれて、貴族たち恐らく2000人ぐらいの一番上の連中たちの中で女御、女たちが回し読みして死ぬほど楽しんだんですね。男たちもどれどれと言ってそれを読んだんですね。そのことを道長が嫌がらなかったというところが、異常なまでに道長が大物なんです。

どれどれ次の話はどういうふうになるのかねと聞きに行ったということです。それぐらいの関係なんです。紫式部、これももう既におばあさんですけどね、40ぐらいですね。それが道長のお屋敷の中で住みながら書いているんです。なぜなら道長の娘の、やがてこれも非常に重要だけど、中宮彰子(しょうし、)という、これは源氏物語の中で秋好中宮(あきこのむちゅうぐう)で出てきます。この人が一条天皇の中宮、皇后になるんですよ。これは知られている事実なんです。ちょっと頭のいい人たちにはね。

それともう1人は前回も話したけど、定子(ていし、977-1001年、24歳で死)。この定子は先に死んじゃったお兄さん、道隆の娘なんです。だけどお兄さんが死んでしまうと、道長の時代ですから脇に飛ばされるんです。一体何があったかというと、わかりやすく言うと990年、最初に一条天皇の女御になるんです。そして中宮になるんです。ところが995年に出家させられるんです。出家させられるのに、もう1回宮中に戻ってきなさいと言われて皇后という位をもらうんです。

定子と彰子の関係

ところが道長の娘の彰子(しょうし、988-1074年、86歳で死)のほうも同じく一条天皇に中宮で入っちゃう。だから二皇后定立と言われて、二中宮定立、二皇定立というんです。おかしいな、おかしいなとみんなが不思議に思ってきたんです。でも考えてみれば道長のほうが、嫌がらせというか定子を追い出そうとするわけね。定子は実際5年後に死んでしまいます。

この定子のところに仕えていたのが『枕草子』を書いた清少納言。本当は清書した納言。清書が非常にきれいだった女の人でということになっています。でも真実はどうやら清少納言と紫式部は区別がつかないらしいです。もっと真実は本当に源氏物語という冊子を順番に書いていったのは、この紫式部のかつ清少納言の実のお父さんである藤原為時(ふじわらのためとき、949-1029年頃、80歳で死)です。

藤原為時の家系図

この為時が大変な才能のある、しかし絶対表に出てこようとしなかった文学者なんです。この為時が全部書いたんです。じゃないと中国古典の教養とか漢文が読めてさらさらときれいな文が書けるというのは男でしかできません。女はばかだからできません、そういうのは書けといったって。それが歴史の真実です。

ただきれいな字を書く力が紫式部たちにあった。だから清書係なんです。これも真実なんです。為時も文学者の家系でただ殿上人とか上達部(かんだちめ)といいますが、高級藤原貴族の上から4代ぐらい前に脱落しているんです。五位なんです。五位というのは受領(ずりょう)層といいまして、各国田舎の県知事みたいな形で行かされる人たちなんです。受領といいます。為時もようやく越前守までなれた人なんですね。だけど文学者ですから政治闘争なんか嫌いだったようです。だから四位でも大変なもんじゃないかと思いますけど、江戸時代でも四位をもらえたら大変なことなんですよ、侍の徳川や松平家でもね。それでも京都の宮廷の中では下っ端です。

江戸時代の大名と官位

殿上人といって、殿上というのは1メートルぐらいある高床に上(あが)れる人という意味です。武士、侍たちは上に上がれません、絶対上がれませんでした。左馬頭(さまのかみ)といって馬の口取りなんですね。土間に座っている、さぶろってたんです。土間にさぶろうから侍が生まれたのね。源氏も平家もみんなガードマンで、土間にさぶろってて、殿上に行けないんです。さらに殿上人の一番上は上達部といって一位二位、大臣クラスの連中、大臣のちょっと下に内覧というのがいて、これが今で言えば閣僚たちです。

(つづく)

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