「2113」 源氏物語は藤原道長の人生そのものだ論(第3回・全3回) 2024年2月11日

副島隆彦です。今日は2024年2月11日です。「源氏物語は藤原道長の人生そのものだ」の3回目です。

話を 平安時代の、西暦で1000年ぐらいの藤原道長の話に戻す。
日本人のちょっとインテリで、『源氏物語』と日本史に詳しい人は知っていることだが、道長の娘に彰子(しょうし、988-1074年、86歳で死)がいる。この彰子と、いとこどうしで、中宮定子(ていし、977-1000年、23歳で死)、定めるに子、この定子は、先にころっと死んだ、道長のお兄さん道隆(むすめ)の娘だ。
皇后定子(ていし)を追い出して、道長の直接の娘である彰子(しょうし)が一条天皇の中宮に入り込んでいく。そして子供を作る。道長の4人の娘たちが、順番に次の天皇、次の天皇の妃(きさき)、そして中宮(皇后)になっていった。



「光る君へ」全体相関図

藤原道長の家系図

「光る君へ」相関図

道長の兄、道隆の娘の定子(ていし)に仕えていたのが清少納言(せいしょうなごん、966-1017年?)される。しかし、本当は清(せい)・少納言納言ではなくて清書(せいしょ)納言なんです。本当は「清書をする女官(納言)」という意味だ。この女性が本当に居たのか、分からないと今も、言われている。おそらく紫式部と同じ人物だっただろう。ちょうど同じ時期の人だ。後ろ盾(たて)の無い、定子は23歳で死んでしまう。この女性が先に中宮(皇后)だったが、一度、出家しているから、ということで儀式が出来ない、というケチ付けで、追い出される形で彰子(しょうし)が入って、一条天皇の奥様になった。

紫式部と清少納言の関係

「光る君へ」の清少納言役のファーストサマーウイカ

彰子は道長の娘で長女だ。だが、旦那さまの一条天皇の本当のお父さんは誰だった、かというと、自分の父親の道長の子です。だから、彰子は、実の兄と妹で結婚している。だから、この近親相姦が、日本史で問題になる。
ここで、藤原氏というのは、本当に悪い奴らだ、と言う人は今も知識人にいる。藤原家が、長い間、1千年間に渡って、日本の天皇制度を簒奪した。大きな蔓(カズラ)みたいになって天皇家(日本の天子=てんし=)に絡(から)みつき血筋が濃(こ)く濃(こ)く混じって、天皇家を絞め殺したようになっている。それが日本の歴史の真実の重要な点だ。

藤原不比等(ふじわらのふひと。鎌足かまたり =真実は、滅んだ百済(くだら)の王子の余豊章=よほうしょう= の 息子 )が、最悪の人間だ。この不比等が、西暦720年に死んだが、この年に、「日本書紀」という日本国の正史(せいし)が完成している。 この日本書紀は、本当に、本当に、トンでもない、虚偽の事実の集大成である。
この日本書紀の記述から、今の日本の 国家体制(国体、こくたい)の基本の 正史が、すべて、作られている。
この日本書記(にほんしょき)が、どれぐらいヒドい、ウソ、虚偽 の集合体か、は、私、副島隆彦は、今日は書きません。

この不比等の娘たち が、持統(じとう)という女帝の後(あと)の、文武(もんむ)天皇の妃にも、そのあとの、聖武(しょうむ)天皇の后(きさき)の 光明子(こうみょうし)=光明皇后にもなった。光明子は、自分自身が、全身が光り輝く、観音菩薩の生まれ変わりで、天照大神(アマテラスおおみかみ)のモデルである。このことも最近は、はっきりしてきた。  光明子の生みの母親の 縣犬養(あがたいぬかいの)橘(たちばなの)美千代(みちよ)は、自分が聖武の愛人(女御)であったのに、自分の娘の光明子を、聖武の皇后ににする。 とんでもない、の世界の始まりだ。

 だから、不比等の時から、藤原氏による、日本の王権(おうけん)の簒奪が始まった。光明皇后と、夫の聖武は、
本気になって、中国の帝都にある、大仏よりも大きな、金箔で輝く大仏さまを建立するこに本気になって、西暦751年に、本当に、奈良の大仏を完成する。 行基(ぎょうき)という土木工学の優れた集団に作らせた。この事業に参加した職人たちも、本気になって、この大仏が出来ると、本当に極楽浄土(ごくらくじょうど)が日本に出現する、と本気で信じ込み、熱に浮かれて、熱狂して、大仏を作った。これが、共同幻想(mass ilusion マス・イルージョン)がさらに暴走して、国家全体で集団発狂状態(しゅうだんはっきょうじょうたい。ユーフォリア、熱狂。エンジュージアスム) にまでなる。すさまじい行動を国家全体で取る。それが奈良の大仏のように、後世に残されれば大業績だ。
 例えば、1930年代に、戦艦大和(やまと)と武蔵(むさし。そっくりそのまま同じ形の兄弟艦)を日本の国家体制が秘密で本気で作った時、迫りくる日本国の戦争 への熱狂の集団発狂状態が有った。

 だから、平安時代、室町時代、江戸時代までも、藤原氏の五摂家(ごせっけ)と言って、一条,二条、九条、近衛、鷹司(たかつかさ)という家がある。その後、九条家か近衛家が筆頭ということになった。近衛だって、近衛文麿(このえふみまろ、1891-1945年、54歳で死)は、敗戦直後に、自殺して、長男の文隆(ふみたか、1915-1956年、41歳で死)はソ連で殺されている。この文隆の死には今も謎が多い。
 
 近衛文麿の孫で、文隆の甥が細川護熙(ほそかわもりひろ、1938年-、86歳)元首相だ。私が住んでいる熱海から、10キロ北にある湯河原(ゆがわら)に住んでいます。湯河原の奥のほうの立派なお屋敷です。焼き物をやっている。時々、熱海駅で見かける。この細川護熙のお母さんが近衛文麿の妹です。

近衛文麿(左)と文隆

細川護熙(2020年頃)

 血筋からいうと、日本の藤原家は今どうなったのか。今残っている藤原貴族で、有名なのは冷泉家(れいぜいけ)です。後冷泉家ともいうのかな。冷たい泉と書きますが、冷泉天皇(れいぜいてんのう、950-1011年、62歳死 在位:967-969年)という天皇が実際にいた。歌(和歌)を歌う家の家柄で、藤原俊成(ふじわらのとしなり、1114-1204年、90歳で死)と藤原定家(ふじわらのさだいえ、1162-1241年、79歳で死)という大家が冷泉家です。冷泉家が今も、京都で唯一残っている立派な瓦屋根が、ずうっと連なるお屋敷だ。大きな瓦屋根続く、これが冷泉家の建物。京都で一番有名な旧藤原貴族の建物。この一族は今でも儀式を自分たちの中でささやかに執(と)り行っている。

『源氏物語』の中に、冷泉天皇が出てくる。ということは、これは実物の冷泉天皇だ。すなわち『源氏物語』はどこからどこが、創作の作り話で、どこからが本当がわからないようにわざとつくってある変な物語だ。こういう話も私が、歴史年表や図表や天皇の代々の名前をきちんとグラフにして表にして見せます。分からん、分からんとかいつまでも、馬鹿が言っているんじゃない、ほんとに。

大きな真実をはっきり分からなきゃいけないんだ。いつも、ピントが合ってない眼鏡をかけているような感じだ。嘘ばっかり教えられたから、日本国民が分からない。真実は分かりやすくて合理的で、しっかりしていて、はっきりしている。それを教えないからおかしなことになって、みんなが馬鹿になる。今も、わざとそういうウソの塗り固め、をやってきた。私、副島隆彦は、これまでに、いっぱいウソを暴き立て、そういう真実を本に書いて、皆に伝えてきた。このことは今はもうこれ以上は言わない。

大事なことは、一条天皇の実の父親は道長で、母親は道長の5歳年上の姉の詮子(せんし、あきこ)だ。そして、のちに一条天皇は、怒り狂った。30歳ぐらいで病気で死んだ。自分の実の父親よりずっと早く死んだ。天皇が、自分の下手くそな文で、実際に書いたものを宸筆(しんぴつ)と言う。 一条天皇 は、「偽臣乱国(ぎしんらんこく)」とはっきり書いた。つまり、藤原家という横暴を極めた一族が、天皇である自分をないがしろにして、いいようにあしらって、あやつって、利用して、騙していると書いた。そして「乱国」、国を乱しているんだ。お前だ、道長だ、と書いて、怒りの中で強制退位させられ、翌年、死んだ。

藤原道長と同時代の天皇の系図

この一条天皇の宸筆は偽物であると言う学者たちが今もいる。「これを本物だとする文献は少ない」とか、こいつらは歴史の偽造をする。そういう風に、真実を覆い隠そうとする人たちが今も体制派にいる。それでも、はっきりとこの天皇の宸筆(しんぴつ)の写しの写真が残っている。一条天皇の本物であると分かられている。すなわち、自分の実の父親に対する激しい憎しみを一条天皇は持っていた。こういうことも歴史学者たちは、知っているはずだけどあまり、触れたがらない。

その次の天皇になった三条(さんじょう)天皇も、激しく道長を嫌って、怒っている。おそらく天皇家に直接入るはずの屯倉(みやけ)からの租庸調(そようちょう)の年貢が、藤原家にたくさん横取りされていたのだ。だから、道長に対する激しい憎しみの中で、やがて何だか知らないけど、三条天皇は、眼病、目の病気になって、ほぼ失明状態で死んだ。このことも事実として文献に残っている。

天皇家の問題になると日本の文学者、歴史学者たちは、すぐにひるみます。本当のことを言わない。ただ、あっちこっちに歴史資料(文書、もんじょ)として証拠が残っている。だから、それらの真実を浮かび上がらせればいいんです。

道長時代から後の道長の息子や、娘たちがどんなに繁栄したかはみんなも分かる。それがまさしく『源氏物語』が書かれてみんなに読まれている時代と重なっている。だけど、彰子や定子の話が史実の中心ではない。『源氏物語』自身は、その前と前の話です。

私、副島隆彦が、この度(たび)はっきりと分かったことは、「源氏物語」そのものが、初めの始めから、道長自身が、自分が命じて、書かせたものだ。自分の少年時代からの、素行と 行動を、余すことなく、すべて、赤裸々に、書かせて、それを草子(そうし)の形にして、何十部も作って、貴族たちの間に広めて、どんどん、自分の私生活の秘密が、描かれていることで、大きな噂が、京都の貴族社会全体に、広がるのを、道長自身が、喜んで、受け入れていた。これが真実だ。

 西暦980年に道長は、13歳、数えなら14歳のときから、性欲が旺盛で、元気な男で体格がよくてハンサムだった。だから、多くの下級貴族の娘たちを犯して回っている。そのことを包み隠さず、全部、書かせて、その草子(そうし)が、広まるのを道長自身が楽しんでいた。なぜなら、自分が彩桜権力者だから、何も怖いものが無い。かつ、道長と言う人物は、とんでもなく頭が良くて、劣等感など全く無いから、自分のことで隠すことなど、何もないという実に豪快な、開けっぴろげの人間だったようだ。

お姉さんの 詮子(せんし、あきこ)が、5歳上ですから19歳で一条天皇を産んでいる。詮子は、円融(えんゆう)天皇の子として産んでいる。だが、真実は、まだ14歳だった弟の道長と作った子だ。14歳だから、もう十分にセックスができる。だから一条天皇は、道長とお姉さん、詮子の子供だ。どんなに、日本の国文学者たちとNHKが、この真実を隠しても、もう、覆い隠せなくなっている。その真実暴(あば)きの最先頭を、私、副島隆彦が走る。

 詮子は円融天皇の奥様、皇后ということになっていますが、円融天皇は軽い精神病だ。軽度の精神障害者。子供なんか産めない。それは大正天皇が、頭の病気で、病弱で子供を産めなかのと同じだ。天皇や、徳川将軍も、3代に1人ぐらい必ずそういう人が出てくる。いや、3代に2人は病気だ。貴族たちの日記とかの資料には、病身とか病弱と書かかれている。精神病でもあって、とても子供が産めるような天皇ではない。それでも円融天皇は15年ぐらい在位してから辞めている。

その間に、花山(かざん)天皇というのがいて、花山天皇も病弱だ。それぞれ藤原家から愛人が、最初は女御(にょうご)という。入内(じゅだい)といって、女が天皇の愛人の形でまず入る。入内して女御といいます。それから更衣(こうい)といいます。それから中宮(ちゅうぐう)といって、この中宮が皇后がほとんど同じだ。だからまず女御から始まる。女御時代に大体、男の子を産んでなきゃいけない。そしたらもう立派な中宮になる訳だ。歴代の多くの天皇の方が、精神病で病弱だから子供を作れなかったんだという大きな事実を、もっと、はっきりと正直になって、国民的な共通の知識、了解事項にしようと誰かが言わなければいけない。それを、私、副島隆彦が今、やっている。

花山天皇と藤原安子の周辺家系図

もう一人、藤原安子(あんし、927-964年、38歳で死)、この藤原氏の女性も大変なおばさまで、女の権力者になっていまして、この藤原安子(あんし)が、自分の兄弟とその子供たちを官位の上に登らせている。そのために頑張った。私は、この安子は道長よりも35歳ぐらい上なんだけど、どうも、安子と道長が、自分の甥っ子ですから、ふたりで子供をつくったんじゃないか、と今でも疑っている。このあたりに誰かいると疑っています。この安子は詮子と同じタイプで、自分の藤原氏の一族を本気で盛り立てた。

だから、この女性が、村上天皇の母親の、中宮安子なんです。藤原師輔(ふじわらのもろすけ、909-960年、51歳で死)の娘です。これが産んだ子供が冷泉天皇ということになっています。たった2年で天皇を辞めています。

この冷泉天皇は、生まれた途端に立太子した(皇太子になった)。967年に17歳で即位して、19歳で辞めています。こっちも円融天皇と同じで、やっぱり頭が弱かった、障害者だ。次の円融天皇は10歳で即位して、形上は15年間天皇をやっていますが、辞めさせられた。藤原氏がこのままでは、自分たちに反抗的で、駄目だということで辞めさせた。ただし、それでも、円融天皇の側につく貴族の高官たちがいて、源高明(みなもとのたかあきら、914-983、69歳で死)がこの円融天皇を一所懸命に守った。だけども、高明は太宰府に追放になった。その後(あと)の花山天皇も16歳で天皇になったけど、たった2年で、道長の父と兄に謀略で嵌(は)められて、辞めさせられています。そして、この後が一条天皇です。

所生(しょせい)いう言葉があって、これは「真実の産みの母親」という意味だ。だから、一条天皇の所生は藤原詮子だ。歴史文書が、わざと所生という言葉を言うのは、その本当の相手の父親が、別にいるということを言いたいときに使う。

 例えば、江戸時代の三代将軍家光(とくがわいえみつ、1604-1651年、46歳で死)の本当のお母さんは春日局(かすがのつぼね。お福(ふく)、1579-1643年、64歳で死)ですから、そこだけ「所生」という言葉が使われる。家光は、2代将軍秀忠(とくがわひでただ、1579-1632年、50歳で死)の子ではない。春日局が乳母(めのと)、乳母として家光を育てたと今も正式にはなっているが、本当は、実の子です。

徳川家光

春日局

その相手の男は私がこれまでに本にも書いてきたとおり、明智光秀(あけちみつひで、1528-1582年、56歳で死)です。より正確には、その息子です。
明智光秀は山崎(やまざき)の合戦から、命からがら、浜松にいた徳川家康(とくがわいえやす、1542-1616年、75歳で死)の忍者舞台に助け出されて生き延びた。そして以後、江戸で、天海僧正(てんかいそうじょう)に成り代わった。天海=明智は、赤坂(あかさか)山王(さんおう)と呼ばれて、今も有る赤坂日枝神社、あそこに居た。首相官邸の南側で、今は東急・・・ホテルの隣りだ。この東急ホテルの地下から首相が地下4階のトンネル(秘密のガレージに出る)で、この高級ホテルにご飯を食べに来る。
この赤坂山王 に、天海の姪(めい)であるお福(春日局)の通ってきていた。1650年代まで、実の息子の家光を操(あやつ)った天海とお福が、最高権力者だ。 「今の世は、明智さまの世じゃ」と当時の商人(町人)たちが公然と言い合っていた。明智風呂(あけちぶろ)と呼ばれた高級サウナ風呂が、多くの有名な寺と神社の門前町にあって、金持ち町人たちは、このサウナに入った後、値段の高い女郎(湯おんな、遊女、上臈、じょうろう)を買った。

 のちに天海が、お寺なのか、神社なのかわからない東照宮(とうしょうぐう)をつくった。家康を権現(ごんげん)様という神様(人格神)に 仕立てた。それを日光に移した。 だから天海は明智光秀だ。その息子が、お福(彼女は四国の土佐の 長曾我部=ちょうそがべ=氏に匿(かくま)われていた )と同じように、同じように福井県の宮津港から、船で脱出して逃げて、千葉で里見(さとみ)氏匿われていた。この2人の子が、三代将軍・家光だ。

明智光秀

天海

だから、明智光秀(本当はさらにその子)と姪(めい)っ子であるお福との間に生まれたのが3代将軍家光だ。だから、明智光秀の光 と 家光の光 が一緒だ。だから、徳川家とは血筋が切れていて、関係ない。そういうことをいっぱい私はこれまでに自分の本たちで暴いてきた。

 副島隆彦が死んだ後、それらが、大きな真実はどうなんだ、という公然たる 検証にかかる。真実というものの恐ろしさをおまえたちに教えてやる。真実の炎というのはちらちらと燃え続ける。いくら嘘八百で、歴史学者や御用学者が、日本の国家体制を嘘(うそ)で塗り固めて守っている、馬鹿な東大教授たちが、いくら真実を覆い隠しても、真実は絶対明らかになる。このことを私は念じながら、自分の霊魂と一緒に生きて、死んでいこうと思っている。

 大きな真実を探りを入れて、自分の頭であれこれ考えると、明らかになる、いろんな恐ろしい事実が出てくる。『源氏物語』の話に戻すが、私は谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう、1886-1965年、79歳で死)の新訳全集を買ってきて読んだ。この中の一巻目 に出て来る、桐壺帝(きりつぼてい)と、その最後の愛人の、桐壺(きりつぼ)の更衣(こうい)との間に生まれたのが光源氏だ。

 この桐壺帝が、3代前の天皇である、村上(むらかみ)天皇であり、桐壺更衣は、芳子(ほうし、よしこ)である。この大きな真実を、私、副島隆彦は、遂に突き止めた。そして、生まれて2歳で、この男の子、すなわち親王は、藤原兼家(ふじわらのかねいえ、990年死)に貰われた。これが道長である。だから、光源氏の名の通り、道長は「源氏」(天皇の子で臣下に下った者)なのである。

このことを、前々回に書いた。 この私の発見は、やがて、私、副島隆彦の業績となるだろう。

藤原道長は、表面上は、藤原兼家の五男坊(NHKの大河では、3男坊で 三郎としてある)だから、本当は、姉の 詮子 (せんし、あきこ)とは実の姉弟ではない。だから近親相姦ではない。
 この光源氏が「先帝の奥様」だった「藤壺の更衣」と不義密通してできた子供が一条天皇だ。これが真実だ。それでは、この藤壺の更衣というのは誰かというと、さっき言ったとおり、藤原道長のお姉さんである詮子だ。これが、のちに女の権力者になって、東三条院(ひがしさんじょういん)という院号(いんごう)の称号、出家して女院号というのを調停から貰っている。東三条殿(どの)という立派な御殿(ごてん)は、父親の兼家が作った屋敷だ。道長は、六条殿(ろくじょうどの)ということろに豪勢な屋敷を作っていた。最高権力者だからたくさんの収入が有った。

そして、どうやら、私、副島隆彦の考えでは、紫式部とよばれた、キレイな清書が出来る、頭のいい女性は、父親の為時(ためとき)、この人が、大学守(だいがくのかみ)になるぐらいの頭のいい、中国文(漢文)をさらさらろ読めて書けた人物。この為時が、源氏物語の真の作者で、ずっと書いてい行った人だ。そして、その娘が、清書する納言(清少納言=紫式部)で、さらさらと実にきれいな、手弱女(たおやめ)ぶりの美しい女性の文で、源氏物語の草子を、何十部も清書して、貴族社会に、広めたのだ。 この 草子を広めたのは、まさしく 道長本人だ。

道長と言うのは、本当に、スキャンダルも何ものも恐れない、豪快な男だったのだ。イギリス国王の、ヘンリー八世ン(エリザベス一世の父親。1547年に死)と同じような、天才肌の政治家であったようだ。だが、自分が天皇に仕立てた、自分の実の子の天皇や、そのあとの天皇(自分の娘たちの夫)たちから、激しく嫌われている。

道長の姉の詮子(東三条院。ひがしさんじょういん) は、当時、人々から、梅壺(うめつぼ)女御を呼ばれていた。



源氏物語の登場人物相関図

この壺というのは、のちにお局(つぼね)様という言葉の原型だ。江戸時代になると「おつぼね」は「局」と書くが、もともとはこの「壺」だ。それぞれの部屋がきちんと独立して京都の御所の裏側のほうに一帯にずっと並んでいた。それぞれ壺庭(つぼにわ)という小さな庭が付いていた。それらを、村上天皇(この人は、しっかりしいて、自分で、政治をした。藤原氏を抑えた。だから立派な天皇とされる)の、真実の愛人である、芳子(ほうし、よしこ)が、源氏物語では、桐壺更衣である。村上天皇が最愛の女御(にょうご)である。この芳子(ほうし)が道長(光る源氏)を生んだのは、西暦966年だ。この翌年には、村上天皇と芳子が、続けて死んでいる。それで、道長は、2歳で、右大臣だった藤原兼家(なねいえ)に貰われて行った。

 この母親の芳子が、清涼殿(せいりょうでん、天皇の住居で寝室)に渡っていくときに、ほかの女たち(女御や中宮たち)が嫌がらせをして、小さな箱で受け止めていた、糞尿をまいて裾が汚れるようにした、とか、そういう話が『源氏物語』の第1巻に書いている。有名な個所だ。

 このあと、村上天皇が命じて、いじめをやっているほかの女たちの壺を移動させて、一番いいところに桐壺の更衣=芳子の の部屋(壺)を置いた、と書いてい有る。そして、村上天皇とこの芳子女御が作った子供が、藤原道長である。

 藤壺の宮との男女関係 の 外に、光源氏は、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)とも愛し合っている。この六条の御息所がお姉さんの詮子だろう。六条御息所は、インテリで聡明な女で、道長は、この年上の頭のいい女性を一番、愛したようだ。ここが難しいところで、藤壺(ふじつぼ)の更衣というのは、自分の大叔母さんの藤原安子(あん)だろう。35歳ぐらい違う。しかし、私は彼女とも藤原道長は性交していると思う。子供ができたかどうかは分からない。光源氏の、2番目の正妻になる葵上(あおいのうえ)が、誰かが、まだ、突き止められない。
六条の御息所 の生霊(いきりょう)が出てきて、葵の上は、呪い殺されてしまう。生霊は死霊(しりょう、しれい)よりもコワい、とされる。 葵上が、誰なのか、を今から追究しないといけない。

それから、若紫(わかむらさき)という10歳ぐらいの幼女が、第1巻の後ろのほうに出て来る。この若紫のところが日本人には一番、好かれる。しかし、これは幼女愛の 性倒錯の世界だ。幼い女性を、自分の手元に置いて、抱きしめながら、すこしずつ育てて行く、という変態性欲の世界だ。

 この若紫の後の紫上のモデルが、一体誰なのか、今から私が探索して確定しなければいけない。この他に、弘徽殿女御(こきでんにょうご)とのこと。光源氏と頭中将(とうのちゅうじょう)は遊び仲間の悪(わる)どうしだ。それと夕顔(ゆうがお)という三位中将 の娘が出てきて、頭中将と、この女の子のとり合いをやる。そして、頭中将が勝って、大和撫子と言われている玉鬘(たまかずら)を産む。このように、29歳までの道長は、本当に遊びほうけている、30歳で権力死者になる藤原道長の悪い話がずっと出てくる。それを道長自身は、ずっと、書かせている。藤原の為時と娘の紫式部も、
おそらく、道長の、豪勢な六条殿(ろくじょうどの)の御殿中に住んでいただろう、そして、源氏物語を、ずっと生産したのだ、と、私、副島隆彦は考える。

そして、これでもう終わりにしますが、大事なことは、『源氏物語』の成立は西暦1006年ということになっている。1002年が、清少納言の『枕草子』。「紫式部日記」が〇〇年に成立。
当時これらの草子は冊子の形で、どんどん書き写されて、いっぱい出回っていたようだ。そして2000人ぐらいの殿上人(てんじょうびと)、四位から上。五位、六位から下を受領(ずりょう)層といい、下級貴族だ。紫式部の父の藤原為時(ふじわらのためとき、949-1029年、80歳で死)は下級貴族で、越前守(えちぜんのかみ)
えちぜんのかみ)になって実際に今の福井県に赴任している。娘の紫式部も、2年間だけ父のもとに行っている。
帰って来て結婚したとされる。

三度も核が、本当に『源氏物語』を書いたのは、お父さんだ。娘はきれいな字で清書した。だから清少(清書)納言でもある。『枕草子』も男が書いた。

女には書けない。女に、中国の古典の文献を読むことや、知識はない。誰からも習わない。
それよりも100年前の、紀貫之(きのつらゆき)が、西暦900年頃に、『土佐日記』を書いた。この冒頭に、「男もすなる日記(にき)というものを 女もしてみんとて すなる」と書いてある。だから、あれは紀貫之が書いた。女のふりをしたことがバレてしまった。女は、こういう文章は書けない。ただ、きれいに清書する賢い女たちがいた。本当に頭のいい知識人の下級貴族たちは、受領(ずりょう)層という。彼らは直接、国司(こくし)下として日本全国の自分の直轄地に、国司の代理として出かけていった。この人たちが優れた文章を書いた。

それらが冊子になって、『源氏物語』の冊子が、ばらばらでみんなに広がって、読まれていた。それらをきちんとまとめ直して、仕上げたのは江戸時代中期だ。1720~30年代、荷田東麻呂(かだのあづままろ)や、契沖(けいちゅう)たちだ。最後は、本居宣長(もとおりのりなが)が、今の「源氏物語」に纏(まと)めたようだ。この事実も大体はっきりしてきた。
いろいろな古いお寺とかに『源氏物語』が残っている。当時1000年ごろはまだ、完成した『源氏物語』はない。無いけれども、一ばらばらと読まれて草子として有ったのだ。貴族たちの、特に女たちがひそひそと、こそこそと熱心に読んでいた。それは自分たちの最高権力者の道長の、真実の話だからおもしろくて仕方が無かった。

若いころの道長が内覧とという閣僚に一気に登用されて、左大臣になり、最後に一瞬関白にもなる。そして、『御堂関白記(みどうかんぱくにっき)』や、『権記((ごんき)日記」という実に正直な日記を道長は書いて残している。源氏物語のエロス小説でスキャンダル小説を、貴族女たちがきゃーきゃと読んで楽しんでいるのを、貴族の男たちも読みたくてしょうがない。それで、「どれどれ私にも読ませろ」と言って、男の貴族たちもひそひそと読んだ。それがすごいことだったのだ。スキャンダルのエロス小説そのものだ。それを道長自身は、書かせて広めたのだ。何という豪快な男であったことか。

この道長という男は、ものすごく頭のいい男だったと私は思う。自分が最高権力者でありながら、自分のエロス話の若いころのスキャンダル話を書かせて、それが知れわたることを嫌がらなかったのだ。それが道長という男の凄さだ。そして道長本人が、「どれどれ、今どこまで書いたんだ。ちょっと俺に見せてみろ」と、為時と紫式部のところを尋ねたのだ。こういう描き方を、きっと、チラリと 今度のNHK大河ドラマもするだろう。これが道長という男のおもしろさなんです。若いころ遊びほうけて女遊びばかりしまくっていた、その「明石編」でもすごいんですけど、女遊びばかりしていたこの男の若い頃と、それから憂鬱になる中年以降の物語をみんなが喜んで、当時の貴族たちが喜んで読んでいる

当時、貴族の男たちは、少年の頃から、儒教や仏教の漢文=中国文 の難しい書物(漢籍、かんせき))を学校のようなところに集められて教室で学ばされた。これには難しい試験もあった。ここで漢文が読めないような学力の足りないで、頭が悪いと、宮中に登用されない。こうやって、漢文ばっかり読まされるから、男の貴族たちは、もう嫌(いや)で嫌でしょうがなかった。だから、女たちが読んでいた、ほとんど平仮名で書かれている、この『源氏物がすばらしいことだった。知能の高い男たちは漢籍を読んだ。そして漢詩を書いた。

それよりは、女たちの読んでいる読み物(物語、もんがたり)が死ぬほど楽しかった。当時は、さらさらと和歌(わか)を書ける人と、字を読める人というのは、この時代には0.1%もいなかっただろう。、字を読む喜びを知っていたのは高級な人間たちだけだ。江戸時代の末期になって、武士以外では、ようやく富農や、豪商の息子たちが、どんどん本を読めるようになって、本を読む喜びを知った。それで尊王攘夷(そんのうじょうい)の運動に参加した。

もう今日はこれぐらいにしますが、『源氏物語』とは、だから一体、何なんだということの、真実の大きな火柱を副島隆彦が、ここに上げました。大きな真実の爆弾を、日本国民に対して、ここでも投下した。今からもっと詰めていきます。今日はこれで終わりにします。  (終わり)

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