「54」 「鴎外と漱石の、二人の悪妻」論 を載せます。名文です。

副島隆彦です。今日は、2007年7月12日です。私は、明日から、すこしだけ中国に行きます。

以下に載せるのは、ネット上の隠者(いんじゃ)の一人で、名前の分からない名文家です。長野県の伊那谷(いなだに)に暮らしている、元県立高校教師に人物にようです。私が、今日のぼやきに、昨年の秋に載せた、「相馬黒光(そうまこっこう)という女」を書いた人です。私は、この文に今もひどく感動しています。 大変な名文家というのが、隠れて生きているものです。
ご連絡は取れませんでの、勝手に転載します。申し訳ない。

副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

「鴎外と漱石・その心性比較」

 二人の悪妻

 鴎外の妻 茂子(しげこ)

 鴎外(おうがい)の二番目の妻茂子(しげこ)は、美貌な女にありがちな「自分の外に出ることのできない」人間だった。

 妙に生真面目な自己感情の中に閉じこもって、外の世界には殆ど興味を示さなかったらしい。草花を見ても美しいとも何とも感じなかったし、家の中の雰囲気を和らげようとして鴎外が冗談を言っても、同調するどころか不真面目だとしてひどく嫌っていたという。

 鴎外が再婚したとき、鴎外は41才、茂子は23才だった。鴎外はこの若く美しい妻の生真面目なところも、好き嫌いの激しいところも、頑ななほど正直なところも、すべて受け入れて、あたかも実の娘に対するような愛情を示していた。

 日露戦争中、鴎外が茂子に出したおびただしい手紙を読むと、彼が茂子を頑是無い子供のように扱っていたことが分かる。

 夫婦の寝室に寝ている幼い子供が、布団から身を乗り出したり便所に行きたがったりしたときに、起きあがって子供の面倒を見てやるのは、きまって昼間の激務に疲れている筈の鴎外だった。彼が妻をそのまま寝かしておいたのは、妻をもう一人の子供だと思っていたからだろう。

 漱石の妻鏡子(きょうこ)は、茂子とは対照的な女で、自宅に集まってくる漱石門下の弟子たちの面倒を見、次々に生まれてくる子供たちを育て、躁鬱病(そうつつびょう)の兆候を示す夫を操縦し、したたかな面を随所に見せている。

 「明暗」に出てくる政略家の吉川夫人は、鏡子をモデルにしていると言われている。術策というものとは無縁だった茂子に比べて、鏡子は世間知に通暁した政治家だったのである。

 見合いの席上、漱石は、鏡子が歯並びの悪さを隠そうともせず笑ったりするところに惹かれたのだが、これは彼女のずぼらで横着な性格のあらわれだったのである。鏡子は夫がイギリスに留学中、幼い娘を連れて実家に戻っていた。

 彼女は夫の着物を倒してこしらえた半纏か何かを着て、子供を紐でタンスに繋いで針仕事などをしたが、子供が畳の上にウンコをしても平気で放っておいた。この感覚は普通ではない。

 漱石家は何度も泥棒に狙われて被害にあっている。一度被害にあったら、その後は戸締まりに注意する筈なのに、鏡子にはその辺の配慮が全くない。おおらかというのか、だらしないというのか、金の使い方もいい加減で、漱石の弟子を連れだして奢ってやったり、夫の死後、どっと入ってくる全集の印税をぱっぱと使ってしまって周囲の顰蹙(ひんしゅく)を招いている。

 茂子も鏡子も悪妻(あくさい)として有名である。
しかし彼女らがそうなった責任の一半は夫にあり、鴎外と漱石の「存在仕方」そのものが二人の悪妻のありようを決定したのだった。

 娘の茉莉(まり)に言わせると鴎外は「赤ん坊のように弱い」ところを持っていた。そのため、鴎外は、幼い頃、家の中で丁重に保護されて育った。彼の存在の根っこは「家」にあったのである。家長になってからの彼は、かって自分がそうされたように一人一人の家族を傷つきやすい壊れ物のように扱っている。

 長男の嫁が茂子の機嫌を損ねて悄然としているのを見て、鴎外は紙に包んだ菓子を持参して嫁に与える。その様子は、「幼い娘に対するような態度であった」と茉莉は書いている。家族の全員にこうした態度をもって臨んだから、妻子をはじめ鴎外の弟妹の彼に対する信頼と愛は深かった。

 茉莉は学校で神について習っているうちに、自然に父を思い浮かべたという。次女の杏奴は次のように書いている。

「父の死後、母と私は家の中で泣いてばかりいた。はじめて外に出て私達は暗いガードの下を通っていた。母が『あの星がパッパ(鴎外のこと。副島隆彦注記)のような気がするよ』と言った。

 星がほんとに、たった一つ光っていた。私はほんとにそんな気がしてきて泣きそうになった。母も泣きたいのをやっと我慢しているのが感じられた」

 杏奴(あんぬ)は、鴎外の愛が深くて、あまりに行き届いているので、却(かえ)って父に逆らったり反抗したくなったと言っている。茂子が駄々をこねて鴎外を手こずらせた心理も基本的にはこれと同じだったに違いない。完全な夫というものは、妻を苛立たせるものかもしれない。夫を困らせて、もっと深い愛を引き出そうとする誘惑に駆り立てるのである。

 漱石の妻 鏡子(きょうこ)

 よく知られているように子供の頃の漱石には、帰属する家がなかった。心の拠り所となる家族がなかったのだ。幼い頃に養子に出された漱石は、養父母が夫婦別れしたため養母と二人で暮らし、やがて実家に引き取られた。

 実家に引き取られてからも、彼は再婚した養父の家で過ごしたり、実家に戻ったりして、彼自身の表現を使うと「海のものも食い、山のものにも手を出し」て過ごしていたのである。

 鴎外・漱石の自伝的な作品を読み比べて感じることは、鴎外の関心が交友関係を中心に男性に向けられているのに対し、漱石の関心は女性に向けられていることだ。「道草」の中で、漱石は肉親・親族に向けて容赦ない批判を浴びせている。この批判を免れているのは、彼の生母及び養父の再婚相手である義母とその連れ子だったれんという娘に過ぎない。

 鴎外の身辺には彼に愛情を注ぐ母や妹がおり、「エリス」をはじめ何人かの愛人がいた。学生時代に花街で女を抱いたこともあったし、ドイツ留学中は相当な発展家だったとも言われている。
だが、男性との友情にはあまり恵まれていなかった。

 漱石の方は、鏡子以外の女性と体の関係を持ったことはなかったと思われる。漱石は多くの優れた友人や弟子を持っていたが、女性との縁は薄かったのである。つまり、鴎外も漱石も、自分に欠けていたものに強い関心を払ったのだ。

 漱石が誰を本当に愛していたかという問題について、いろいろな意見がある。その候補として名前が挙がっているのは嫂・友人の妻・おさな馴染みのれんの3人だが、最も可能性の高いのはれんである。

 れんは漱石より1才年長で、年頃も似通っていたから、養父は二人を結婚させたいと考えていた。この話がまとまらなかったのは、好きな女を前にすると動きがとれなくなる漱石の「はにかみ癖」のためだったらしい。

 れんは美しかっただけでなく、当時、女性の最高学府だった東京高等女学校(お茶の水女子大の前身)に学んで首席を争うほどの才媛だった。彼女は結局平岡(ひらおか)という軍人の下に嫁ぐが、この新所帯を訪ねた漱石の前で、れんは両肌脱ぎになって化粧したりする。

 漱石は彼女の白い肌に背を向けて寿司を摘み、夫の平岡は苦(にが)り切って酒をぐいぐい飲むという場面が「道草」の中に描かれている。

 余裕を持った女が、臆病(おくびょう)な男をそれとなく挑発するという場面が「行人」・「三四郎」にある。これはれんと漱石の関係を下敷きにした場面だと見ることもできる。浮世絵風の美女だったれんを失った漱石は、ずんぐりむっくりした体型の鏡子を妻にする。

 成長期に家という安定した場を持たなかった漱石は、心の拠り所を別のところに求めた。若き日の漱石は、高浜虚子に「あなたはどんな人間になりたいか」と問われて、「完全な人間になりたい」と答えている。彼は、この途方もない基準で自身を律しようとしただけでなく、これを身近な妻子にも当てはめ、凡庸な彼らに無い物ねだりをすることになるのだ。

 漱石が妻子を愛していなかったわけではない。彼は家を成り立たせる仕組み、家の生理(せいり)と言ったものを無視して妻子に臨んだのだ。幼い子供にまで完全であることを求めた漱石が、彼らの目に理不尽な暴君として映ったのは当然だった。

 漱石は子供を連れて盛り場に出かけた時、些細なことで我が子を衆人環視の中でしたたかに殴りつけている。あるいは、娘が大事に育てていた植木鉢を縁側から蹴落(けお)とす、というようなことをしている。後年、親父なんか死んでしまえばいいと思っていたと、息子の一人(夏目伸六だと思われる。副島隆彦注記)が語るのも無理からぬことだった。

 こうして見てくると、悪妻として知られている二人の文豪の妻は、夫との関係の中でその性格的な特徴を加速させ「悪化」させていったのだった。

 妻子を真綿(まわた)でくるむように慎重に守り続けた鴎外は、「自分の外に出られない」妻茂子の独善性を助長したし、完全なものを目指して妻に多くのものを要求しすぎた漱石は、元々無神経の気味があった妻鏡子を居直らせ、打っても叩いても動かない牛のような女にしてしまったのだ。

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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