「53」 「長期信用銀行の興亡 ―戦前の興銀、戦後の長銀を中心に─」(2003年)という論文を載せます。櫻井龍太郎氏が書いたものです。

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副島隆彦です。以下に載せるのは、2003年に書かれた、ある大学の博士課程論文です。 作成者の櫻井龍太郎氏から、学問道場への掲載の許可を頂いておりました。

リップルウッドに乗っ取られていった、長銀の歴史を、丹念に調べて書いています。大変優れた論文です。
第二章以下のあと2回分は、徐々に載せます。副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

「長期信用銀行の興亡
―戦前の興銀、戦後の長銀を中心に─」

2003年に書かれた論文

桜井 龍太郎

目次

はじめに 1
第1章 特殊銀行=日本興業銀行 4
第1節 日本興業銀行誕生の背景 4
第2節 海外投資銀行へ 5
第3節 救済融資から工業金融へ 6
第4節 命令融資担当機関 8
第5節 戦後の興銀 10
第2章 高度成長と長期信用銀行 14
第1節 長銀の誕生 14
第2節 本領を発揮した高度成長期 16
第3節 普銀化 18
第3章 破綻に向けての回路 23
第1節 内政を固める 23
第2節 膨張政策 25
第3節 破談 30
おわりにー竹内宏に対する反論 34
参考文献 35

はじめに

長銀の破綻は、次第に過去の歴史となりつつある。長銀破綻をテーマにした書物は、元
行員、元役員、ジャーナリストなどの手によって次々に出版されたが、それも出尽くした感がある。事実関係がほとんど明らかになった今、長銀破綻の意味を考えてみたい、というのが本論の目的である。

 そのために、長期信用銀行はどういう主旨で設立され、歴史的に日本経済の中でいかなる役割を果たしてきたのかを述べた。第1章では、戦前を中心に、長期信用銀行の先駆けである興銀の設立と活動を記述した。第2章では戦後設立された長銀が、高度経済成長で担った役割を描いた。そして第3章では国策銀行として経済の弱点を補うべく設立された長銀が、杉浦という経営者の登場と共に変質し、内部崩壊の道を歩み始める様を描いた。

本論で明らかにしたかったのは、次の2点である。

① 長銀が破綻した主因は、経営者にある。長銀の経営者は、設立の主旨を忘れ興銀や他の都銀との貸し出し競争に負けないため無謀な融資に走り、それが不良債権に転化した後は粉飾を重ねた。したがって長銀は自壊であり、被害者ではない。総会屋に対する利益供与事件で逮捕者を出した、一連の金融事件とも異なる。

② 長期信用銀行は、戦前、戦後を通して中小企業金融、不況期の救済金融、戦後の復興金融に大きな役割を果たした。現在でも新産業およびそれを担うベンチャー企業の育成など社会的課題は残っており、政策金融機関は必要である。長期信用銀行の社会的存在価値は減少しておらず、長銀の破綻はあくまで自壊である。

この2点は数多出版された「長銀本」にはない視点である。
本論を書くに当たっては、長銀破綻の経緯が書いてある書物は悉く参考にした。雑誌記事もほとんど目を通した。また筆者は破綻直前まで長銀グループ会社に在籍していた。長銀行員には日常的に接していたので、誰がどういう立場で行動したか、その時の背景については理解しているつもりである。

今まで数多の「長銀本」が出版された。内容によって大別すると二種類に分かれる。ひとつはドキュメンタリーとして物語るもの、もう一つは長銀在籍者の回想録である。前者には共同通信社会部『銀行が食い尽くされた日』、須田慎一郎『長銀破綻』などがあり、後者は久門文世『金融再生法36条』、日本の金融を憂う会『長銀破綻の真実』などである。

 前者と後者では内容のトーンに明らかな差がある。前者は3兆8千億円の公的資金投入という事実を前提に厳しい目で見ているのに対し、後者は高橋治則やUBSに対する被害者意識があるのが特色で、特に地位の高かった人物の書いたものほどその傾向が強い。

 たとえば元長銀常務で長銀総研理事長であった竹内宏は、『金融敗戦』(‘99年)、『長銀はなぜ敗れたか』(’01年)を出版している。

 以下は竹内の論点2点である。

①長銀はすでに1970年代中頃にはその存在意義を喪失し始めており、80年代には直接金融の進展でほぼ存在意義を失っていた。(『金融敗戦』pp.50―51 存立意義の喪失)

②イ・アイ・イの経営危機を最後まで救おうとしたのは取引銀行の中で長銀だけであり、長銀は被害者である。(『長銀はなぜ敗れたか』pp.116-120)

以上2点を批判する。まず①である。70年代はおろか80年代になっても長銀の存在意義はあったと考える。確かに企業は資本市場から公募増資、転換社債、ワラント債などを通じて資金調達するようになっていったが、それは上場企業の話で、未上場企業にはこうした調達の途は80年代どころか90年代になっても拓けなかった。上場企業の全国の企業に占める割合は1%にも満たない。圧倒的な数の中小企業は格付けも取れず、未だに担保を銀行に差し出して資金を調達するしか方法がないのである。

戦前の興銀は存続可能な企業を見分けるための審査ノウハウを蓄積しており、繊維産業などの中小企業にも積極的に融資した。長銀も設立後の十年は中小企業向け融資を、代理貸付制度を使って行っていた。昭和40年の証券恐慌時には、証券会社の再建まで行って金融危機を防ぐために働いた。

現在でも資金繰りに困窮している中小企業の例は少しも減っていない。いや銀行の貸し渋りで景気が回復しないと言われるくらい、むしろ80年代より顕著である。都市銀行すらBIS規制の自己資本比率を達成するために「貸し剥がし」といわれるほど資金を回収し、中小企業が資金難に陥っている時期こそ、かつて特殊銀行と言われた興銀や長銀のような存在が必要なのではないだろうか。

もし国策銀行が二度と必要ないというなら、なぜ開銀は日本政策投資銀行と名を変えて活躍しているのだろうか。日本は銀行が融資しないためベンチャー企業が育たないというが、興長銀が蓄積したノウハウを使って有望なベンチャーを選別し、育てるべきではないのか。新産業の育成が強く望まれる今、長銀は必要であり、その存在意義は依然なくなっていない。

次に②を批判する。高橋は当初確かに長銀の信用を利用しようと、取引を図った。しかしその高橋も、4千億円とも5千億円ともいわれるほど多額の資金を長銀から引き出せるとは思っていなかった。貸出先に困り、東京支店営業第四部という中小・ベンチャー企業専門の部署まで作りリスクを承知で他行との貸出競争に負けまいと必死になっていた長銀にとって、高橋の持ち込んだ海外物件は、いずれも高額という意味で格好の融資対象であった。

それを杉浦案件として無条件でトップがバックアップし、次々とプロジェクトにファイナンスを付けたのである。したがって、長銀は被害者ではない。長銀が高橋を利用しようとしたのである。90年にイ・アイ・イの経営に参加してからは、同社の経営を実質的に掌握していたのは、堀江元頭取の国会証人喚問を通して明らかになったとおりである。

93年高橋に対し長銀はイ・アイ・イ社の和議申請を求めたが、これは長銀が経営を担っていたことを間接的に証明している。したがって竹内が言うように長銀は他行がイ・アイ・イから引き上げた後、押しつけられたというのは違っている。長銀だけは撤退できない事情があったのである。それはイ・アイ・イが倒産すれば、長銀から多額の貸し付けがあった、そして高橋が理事長をしていた東京協和、安全二信組も破綻するからであった。そうなれば、長銀が二信組の経営にも関与していた責任が問われるからであった。

竹内は「金融敗戦」で、長銀の破綻が、九〇年代日本の金融機関に対する欧米金融機関の巻き返しという流れの中で起こったという基調で議論を展開している。確かにそのような流れはあり、最後に長銀ウォーバーグ証券が長銀株を売り浴びせて破綻に導いた。しかしそれはトドメを刺したに過ぎない。真の原因は本論で展開したように、経営者が本来の長銀の存在意義を踏み外し、企業を私物化したことにある。住友信託の合併拒否、UBSの提携解消はそれらの金融機関の経営者が経営責任を果たすために組織防衛を図ったにすぎない。長銀の譲渡先になったリップルウッドも、冷静に条件を判断して長銀を買収しただけである。

また長銀の破綻は野村證券、日興證券、大和証券、そして第一勧銀で起きた総会屋に対する利益供与事件とも異なる。この事件は金融機関自体に総会屋が付け入る隙はあったものの、恐喝されて利益供与を行ったという意味で上述の金融機関は明らかに被害者の側面を持つものである。

しかし長銀破綻の本質は長銀そのものの腐敗と自壊であり、その責任はすべて経営者にある。そのことは何度強調してもしすぎるということはないくらいである。歴史に“もし”はないが、経営者が舵取りを誤らなければ、都市銀行の貸し渋りが問題になっている現在、長銀はその存在を燦然と示していたはずである。

第1章 特殊銀行=日本興業銀行

この章は、長期信用銀行の先駆けである興銀設立とその活動を時系列的に述べ、戦前経済の中で果たした役割を描き出すことが目的である。

第1節 日本興業銀行誕生の背景

 興銀の誕生は難産であった。興業銀行設立の最初の発案は、1881年、内務卿であった松方正義の著した『財政議』にあるとされる。松方はこの書で中央銀行(日銀)の設立を提案している(日銀設立は1882年)が、同時に産業振興のための特殊銀行設立も唱えた。この特殊銀行は、1871年に松方がパリに滞在した際、フランスの蔵相レオン・セーから中央銀行設立の助言を得た際に、工業開発を促進する専門銀行が有益であるという示唆を与えられたことに源があるとされる。

 この特殊銀行構想の中で松方は、当時まだ株式会社制度が行き渡っていなかったことから、動産ではなく不動産抵当銀行を考えていたようである。この不動産抵当銀行構想は、紆余曲折はあったものの1896年、「日本勧業銀行法」の公布として実現された。翌97年には最初の特殊銀行として、日本勧業銀行が設立された。同時に勧銀の地方版とも言うべき農工銀行が各府県に、1899年には北海道拓殖銀行が設立され、農工業に対する長期産業資金の供給を開始した。

 一方で動産抵当銀行設立構想も進んでいた。1889年大蔵省によって「日本動産抵当銀行法案」が作成された。この法案の基本構想は、動産銀行が既設優良会社に株式担保貸付をすることで資金繰りをつけ、株価を維持し、経済を国家の手で救済する、というものであった。この経済救済のための国策銀行という考え方は、その後設立された興銀の性格を基本的に規定しているようで興味深い。1890年1月には株価が暴落するなど恐慌状態が出現したため、大蔵省は資金供給ルートを増やすべく、動産銀行設立を急いだ。

 この法案は1891年に廃案になるなど紆余曲折を経たが、1898年には、農商務大臣金子健太郎、大蔵官僚添田寿一らによって「日本興業銀行法案」が起草され、上程された。この法案では、興銀は日清戦争後の資本不足の状況を背景として、外資を導入するための媒介機関として位置付けられた。具体的には興銀を通じた外債の起債によって、不足する工業資本を調達しようとしたものだった。それは勧銀、農工銀、拓銀の既存特殊銀行では扱うことのできない領域を対象としていた。「特殊銀行」たる興銀の性格付けは、この時点でなされたのである。

 しかし「日本興業銀行法」が上程された後議会では興銀設立反対論が巻き起こり、金子・添田の原案は大幅に修正されることになる。修正の最大のものは、興業債の政府保証を認めないというもので、そのほか興業債の発行限度は払い込み資本金の五倍までとする、など限定条件が付けられた。この背後には業務の中心であった産業金融分野を奪われかねない、という民間銀行の利害があった。また日銀も当時普通銀行の産業金融をバックアップすることを主要な業務としていたことから、反対の論陣を張った。

 興銀は向かい風も吹く中、1902年にようやく設立された。初代総裁には政府によって添田寿一が任命された。添田は以前「日本興業銀行法案」で提唱したように、興銀の目
的は各種機関の抱えた証券に流動性を与え、遊休資本を稼働することであると強調した。

第2節 海外投資銀行へ

1905年には早くも興銀法の改正があり、異なった方向性が与えられた。海外投資資金を得る場合に政府保証が付くことになったのである。そのことは清国、韓国に対する投資拡大の道を拓くことになり、興銀が植民地投資銀行という性格を持つ契機となった。この背景には1902年に設立されたものの、普通銀行に対する動産担保貸付を行って僅かに残高を保っていただけの、不活発な活動状況があった。

この法改正ではさらに担保付社債の信託業務の開始が認められ、初めて証券業務を行うことになった。1913年までの受託シェアは67%に達し、圧倒的なものがあった。

新業務はいずれも政府が外資導入のために受け入れ態勢づくりを図ったものであり、興銀が得意としたのは外貨地方債と外貨社債で、一九一三年までの累計シェアでそれぞれ79%、92%とほとんど独占に近い状況であった。

  表―1

外資導入における興銀の地位(1902年~1913年)
単位:%
興銀関係発行額の占める比率
国債(外貨債) 0
国債(内国債) 53.8
計 2.7
外貨地方債 79.5
外貨社債 92.5
合計 16.7
株式 28.4
平均 18.1

         日本興業銀行75年史p16より作成。

1906年、政府は満州経営の意図を持って南満州鉄道株式会社を設立した。興銀は正金銀行とともに、資金調達に当たることになり、8,000万円の資金を海外で社債発行によって調達することになった。添田総裁は自ら欧米出張を行って社債募集をしたが、米国が日本の満州単独経営を快く思わなかったことから難航し、ようやく英国で400万ポンドを政府保証で発行し得たにとどまった。
さらに政府は外資を調達し、清国や韓国の有望な金山に投資したいとの強い意向を持っていた。

政府にしてみれば、清国や韓国に対する投資は国家的な重要性がありながら償還に確実性がなかったため、政府に資金調達の大部分を依存していた興銀にその任を負わせたのである。たとえば官営八幡製鉄所の原料であった鉄鉱石は、清国の大治鉄山から輸入する必要があった。そこで興銀は1904年漢治萍公司に3百万円の貸付を行ったほか、1906年にはさらに2百万円の追加貸付を行った。二回目の貸付は、一回目の債務が不履行であったにもかかわらず、興銀側の強い反対を政府が押し切っての実行であった。

一方韓国に対する投資も多くを外資に頼らざるを得ないことが予想されたため、政府は専ら興銀に対韓投資を担当させることにした。興銀は1906年から1909年までに、韓国政府に対する貸付をはじめ釜山居留民団貸付等に、1,959万円を投資した。

 第一次大戦後興銀の行った対外投資の巨額なものに「西原借款」がある。1916年から始まったこの交渉は寺内首相の私設秘書であった西原亀三が秘密裏に中国政府との間で持ったもので、1917年には興銀、朝鮮銀行、台湾銀行の三行による借款団が成立し、1億4,500万円が中華民国政府ほかに貸し付けされた。これは中国の銀行、鉄道、通信、鉱業に対する初の本格的投資であったが、結局ほとんど元利全部が延滞となり、その整理は太平洋戦争後へ持ち越すことになる。

寺内内閣は1918年には内閣更迭となったが、それがなければさらに巨額になっただろう と言われている。この時期の興銀は、対中国投資を中心になって推進する役目を負っていた。

第3節 救済融資から工業金融へ

1905年の法改正によって、興銀は新たに財団担保貸付をすることが可能となった。財団というのは、たとえばある工場の土地、建物、機械等をひとまとめにして担保として評価するというものである。さらに工場以外にも鉄道や鉱山についても組成することができた。

興銀がこの財団貸付によって貸付を行ったものに、長崎県波佐見金山がある。日露戦争後、政府は金山開発計画を進めた。この計画に従って1906年に興銀は1,440千円を財団抵当で波佐見金山に貸付した。しかし鉱石の質は悪く、産出額が予定を下回る状態が続き、返済は滞った。そこで興銀は1910年には波佐見興業を設立して回収を図ったが、目処が立たなかったので、1913年にはついに金山に対する貸付事業を整理する必要に迫られた。鷲乃巣興業など他の金山とあわせた償却必要額は6百万円、自己資本の30%にも達し、副総裁他二名が辞任したばかりでなく、このことは興銀の改革問題に発展した。

金山事業を整理した志立総裁は、政府の命令によって実行した貸付が不良債権化したことから、長期工業金融を中心にした自主路線を打ち出した。

1914年、第一次世界大戦が勃発した。このことは日本経済に大きな影響を与えた。

影響のひとつは輸出産業の売れ行きが減少、輸入産業においても輸入原材料の入手難と価格高騰など貿易関連企業が不振に陥ったことである。この時興銀は「特別産業資金」を、普通銀行と重複しない繭、メリヤス、陶磁器、漆器などの小規模工業向けに小口で貸付を行った。

 当時中小企業は輸出の主要な担い手であったにもかかわらず、金融の途を閉ざされていた。一方興銀は以前より中小企業救済機関たるべしという意図を持っていたが、実際は微々たる歩みにすぎなかった。しかし不況で金融が逼迫した1913年ころから、中小企業に対する不動産担保貸付が実際に始まり、徐々に拡大していった。

もう一つの大戦の影響は1916年、ドイツ講和提議とともに株式市場で暴落が起こったことである。東京、大阪の両証券取引所は取引を中止し、なかば恐慌状態に陥った。同時に金融機関の資金供給は逼迫し、事業会社まで資金不足が起こるようになった。そこで興銀は企業救済の中央機関として「臨時事業資金」を4,799万円、電力、化学を中心に貸し付けした。この資金の返済は過半が滞ったが、その後社債や普通貸付として興銀の貸方勘定に載ることになった。このように興銀は自然な形で工業金融機関となっていったのである。

むろん救済事業の中にはうまく行かなかったものもある。第一次大戦開戦によって連合国の軍需物資輸送の需要が増加し、海運業界は好景気に見舞われた。それに伴って造船業界も受注が増え、その資金調達が必要になった。

1918年の興銀法改正は、株式の応募、引き受けとともに船舶金融を認めた。興銀は新たに神戸支店を設け本格的融資に乗り出したが、その直後大戦は終了し、運賃が半分以下になるなど海運市況が急落し一気に不況が襲った。政府は、資本金一億円で国際汽船を設立し、建造中の船腹を集め船主や造船所を保護しようとした。中心になったのは川崎造船所、鈴木商店、浅野造船所などで、興銀は国際汽船に2,000万円を融資した。国際汽船は59隻、49万6,000トンを保有するに至ったが、第一次大戦後の世界恐慌下でたちまち経営悪化に陥り、資金難から政府と銀行団から資金援助、金利減免の救済策を講じられることになった。その後1930年代後半にいたってようやく海運市況が回復、国際汽船は大阪商船に合併された。

興銀が救済金融機関として最も活躍したのが1923年の関東大震災とその後の慢性的な不況期であった。興銀は日銀とともに、取引停止となった東京株式取引所と国際取引市場に対して復興資金を融資した。また東京市に対しても臨時救済資金を貸し出した。

しかし最も重要な役割を果たしたのは、企業に対する復興資金の貸し付けである。震災により深刻な被害を被ったのは多く関東地方の中小商工業者であったが、政府により救済金融機関としての指定を受けた興銀は、1925年までに1,485万円を臨時工業資金として貸し出した。なお震災復興資金は主に政府から預金部を通して供給されていたが、この時期を境に興銀は自己資金によって中小企業貸付を賄ってゆくようになる。このことは興銀が本腰を入れて中小企業金融に取り組み始めたことの現れである。

1931年には中小企業金融専門の部署として、「中小工業課」を設置した。この部署では政府の「中小工業産業資金」の融資を担当し、資金不足に陥りがちな主として雑貨などの輸出産業への資金供給を行った。この時期興銀がその融資適否の判断を「物から人へ」と、すなわち従来の担保主義から事業本意で見る態度に変えつつあったことに加え、長期無担保の融資を認めるなど苦境にある中小企業の便宜を図るためであった。

興銀は大企業に対しても中小企業に対しても最初は不況時の救済者として現れた。第一次大戦以後は、長期工業金融への志向が、実態面でも特色として定着していった。この時期は救済者としての役割を期待した政府と、資金調達の大部分を政府に依存するために命令には従わざるを得ないものの、それに抗って長期工業金融や中小企業金融の分野で自主性を出そうとする興銀との、綱引きの時代と言える。

興銀が1913年、調査部の中に事業審査を行うセクションを設け、審査能力の育成を図ったのは、何とかして普通銀行と(今日の言葉で言えば)差別化し、金融機関として独立性を持ちたいという願いの現れであったと解釈できる。

また西原借款は政治的な思惑が先行し、興銀側の意向を無視して進められたとされる。時の志立総裁は、返済が延滞し不良債権化したにもかかわらず借款金額の拡大を命じられたことを快しとせず、1918年辞任した。このことは、興銀内部では総裁独自の判断で自主的に業務を展開しようとしていたことの表れであろう。

こうした努力や抗議の動きはあったものの、あくまで興銀は政府の命令を受けて動く特殊銀行の域を脱していなかった。一方で勧銀がその性格を普銀へと近づけて行くにつれ、興銀の国策銀行としての特色は一層際立っていった。

これを象徴するのは本店の所在地である。興銀の本店は日本橋の金融街からひとり離れ、皇居の外堀側の大蔵省に隣接して建っていたという。これをみても興銀が日銀、正金とはまた異なる使命を帯びた国策銀行であったことは明らかであった。

第4節 命令融資担当機関

 1937年以降、国家総動員体制が確立された。それに従って興銀の自主独立志向は無視され、逆に最も国策と密着した、軍需産業への資金供給機関となってゆく。

 1937年日中戦争が勃発すると、臨時資金調整法が公布された。この法は急を要する生産の必要な産業への資金供給が優先されるよう、興銀が動員されることを定めた。

興銀は日銀からの援助(社債担保融資などの承認)、政府からの資金援助によって資金調達し、「生産力拡充資金」を供給することになった。この融資は1937年末に7億7,800万円に達し、半期で倍増という増加ぶりであった。この対象には零戦で有名な中島飛行機に対する融資も含まれており、軍需産業が中心であった。

 1939年になると、興銀は国家総動員法にもとづく命令融資の唯一の担当機関に指定された。命令融資とは「資金融通審査委員会」の決定により個別の会社に対する融資命令が発せられ、それに基づいて興銀が資金を融資するというものである。命令には上述の

中島飛行機をはじめ航空機関係の企業が多数を占めた。

 それまで興銀の融資内容は工業、交通(陸海運)、その他でバランスしていたが、1937年以後興銀の融資は重工業部門に偏っていった。重工業の中身は兵器とその部品が太宗を占める。1936年には融資残高の14.5%に過ぎなかったものが、1941年には51.2%と過半を占めるようになった。また全国銀行融資のうち興銀の占めるシェアをみると、機械、化学、交通、鉱業においてそれぞれ64.1%, 58.2%, 59.7%, 34.5%に達していた。興銀がこれら鉱工業、陸海運の部門において、すなわち軍需産業資金の中核的な資金供給者であったことは間違いない。

表―2

興銀業種別貸出残高

                       日本興業銀行75年史別冊p86~88より

 この時期に興銀が行った融資のスキームに共同融資があった。これは興銀が幹事となって当時次々と誕生した巨大国策会社に対し、普通銀行と共に融資団を作って協調融資を行ったものである。このことによって各銀行は巨額融資のリスク分散を図った。一九四一年には興銀を中心として第一、三井、三菱、住友、安田、第百、三和、野村、東海、神戸の十銀行によって「時局共同融資団」が生まれ、今で言うシンジケートローンの原型がこの時にできた。

 なお拡大する貸出に対する資金調達は、政府預金部貸出と、日銀の社債担保による貸付によっていた。しかし資金需要が急増したために1940年、地方銀行による興業債券特別引受制度が開始された。これによって興銀は1941年までに3億5千万円を調達した。ここに地方でダブつく資金を長期信用銀行が吸い上げ産業界に供給するという、戦後基本的になったスキームが初めて用いられた。

 なお第二次大戦が勃発してからは、「戦時金融公庫」が設立され軍需産業に対する資金供給を行った。また三菱、住友、安田など普通銀行も「軍需融資指定金融機関制度」により命令融資を行ったため、興銀の特殊性は相対的に薄れた。しかし興銀の融資残高は1941年の27億円から終戦時には146億円と5倍以上にも増加した。軍の航空機増産の方針に従い中島系に対する貸出が多かったほか、満州重工業系、日本窒素肥料系などの企業グループに対しての貸出が目立った。

これら貸付の資金調達は従来にも増して政府と日銀に頼ることになった。そして興銀は拡大する融資業務の中でさらに大量の資金が必要になり、政府、日銀以外にも地銀、貯蓄銀行、軍需協力融資団などあらゆる機関から調達しなければならなかった。

しかし日銀券の大量発行は空前のインフレーションを伴った。それは終戦後の経済にとって最初の課題となった。

第5節 戦後の興銀

 終戦後まもなくGHQは、大蔵省に対し金融機関の閉鎖を命令したが、その中に興銀は含まれていなかった。興銀法は1950年まで存続し、興銀債の発行も継続された。閉鎖の対象になったのは戦時金融公庫、資金統合銀行、朝鮮銀行、台湾銀行、南方開発公庫、外資金庫、全国金融統制会、満州中央銀行などで、同時にそれらの機関が発行していた債券も無効となった。

終戦直後のGHQは、興銀に対し戦争に協力した国策金融機関という印象を持っており、一時は存続すら危ぶまれたほどであった。1948年GHQは興銀に対し商業銀行に改組するかそれとも債券発券銀行になるか迫った。しかし興銀は債券発行による長期産業金融を担う銀行の必要を説き、主張を曲げなかった。

戦後の経済にとって最大の問題であったインフレ対策のため、普通銀行の融資が制限され、事業会社では資金が逼迫していた。そこで吉田内閣は産業界に資金を供給すべく、復興金融公庫の設立を立案した。復興金融公庫は、戦前産業界に長期資金を融資していた興銀内に「復興金融部」を設置し、その母胎とした。復興金融部は主として石炭、肥料を中心とする化学、機械、鉄鋼業に対して、重点的に資金を供給した。これは政府の「傾斜生産方式」に従ったものであった。1947年復興金融公庫が設立されると、興銀から債権とともに人材も移植された。復興金融公庫は1950年代初めに再び政府系金融機関が設立されるまで、戦後復興期の産業金融の主役となった。

興銀の本来の業務である融資は、運転資金の供給で繁忙であった。戦災からの復旧に精一杯の企業が、生産を再開するための融資であった。しかし1948年頃からは企業活動も正常に戻り初めた。重化学工業のような生産財だけでなく繊維、水産など消費財企業に対しての貸出も行われるようになった。さらに消費財の生産を担う、中小企業も育ってきた。

戦前から中小企業融資を専門領域として重視してきた興銀は、早くも終戦の翌年には「中小工業部」を発足させ、日銀や復興金融公庫の資金を使って育成に努めた。

終戦後4~5年を経ると、設備資金の需要が急増してきた。1949年、中華人民共和国の成立とともに朝鮮半島の緊張が高まり、翌年朝鮮動乱が勃発とともに日本の工業製品、とくに重化学工業製品に対する需要が増えたことが背景である。興銀の貸出はこれに対応して伸び、倍々ゲームの様相を呈した。

朝鮮特需によって日本の産業が活況になればなるほど資金需要は旺盛となり、銀行は日銀から資金を借り入れて対応しようとしたが、それでも不足した。政府は長期設備資金を供給する機関の必要に迫られていた。大蔵省は預金部を資金運用部へと改組し、金融債の購入を可能にした。そして債券発行を専門にする銀行を設立し、その銀行から産業界へ資金供給することを検討し始めた。

1951年にまず日本輸出銀行が設立され、正金銀行廃止後の輸出入金融業務を遂行することになった。続いて日本開発銀行が開業し、債券発行を行うと共に、一年以上の長期産業金融を担うことになった。

それ以前の1948年にGHQが出した方針は、特殊銀行を廃止し、勧銀、拓銀も同時に普銀に転換するというものであった。50年、「日本勧業銀行等を廃止する法律」が制定され、勧銀、拓銀と共に興銀は普通銀行に転換して再出発することになった。

しかし50年頃から朝鮮特需による資金需要の高まりと共に、銀行のオーバーローンが顕著になってきた。また49年株式市場が再開されたものの、停滞しており、事業債の消化による資金調達ははかばかしくなかった。

また復興金融公庫が同年活動を停止したため、政府は興銀の機能充実を図ることにした。49年には「興業債券の発行限度の特例に関する法律」が公布され興業債券の発行限度が二倍になった。また50年には「銀行等の債券発行等に関する法律」が施行され、興銀のほか勧銀拓銀、農林中金、商工中金、そして一般の銀行にも債券発行をも認めるものであった。

1952年には長期信用銀行法が公布され、興銀はその年12月長期信用銀行へと改組した。これによって興銀は戦前と同じように、債券発行と長期資金貸出が可能となった。

改組を控えた1952年11月、川北頭取は次のように述べた。川北の言は、創立当時の長銀がいかに公共性に配慮していたかを表している。

 当行の活動の要点は、民間の長期金融機関としての本質に照らし、「公共性」と「採算性」というあい反する要請をどう調和し解決してゆくべきかにある。公共性の見地からは基幹産業部門への傾斜が重要視されるが、私企業としての立場からは安全性保持のために他業への融資分散を図ることも肝要である。中小企業への融資を重視しながら、当行の採算性維持のために、優良企業の確保にも重点を置く必要がある。

「公共性」はその後顧みられなくなった。1980年代後半それが顕著である。

 興銀の融資は1950年頃から急増した。先に述べたように朝鮮動乱勃発によって設備投資資金の需要が伸びたためである。

              図―1

           日本興業銀行75年史p200より

 融資残高に占める設備資金の割合は、53年度末60%に達していた。この年は基幹産業ばかりでなく、合成繊維やテレビなど次の時代を担う新産業の設備投資も旺盛であった。また資金貸出期間も次第に長期化し、52年では期間3年以上のものは3割以下であったが、55年では6割に達した。

 産業別には電力、鉄鋼、海運、石炭の4産業が「重点産業」と呼ばれ、その融資残高に占める比率は、54年には68%に達した。これらは基幹産業に指定され、傾斜生産に資金面から応えることが、政府から要請された。またこの頃から貸付の増えた業種とし
て化学が挙げられる。それまでの化学肥料から通産省の育成方針に従い、石油化学工業に対する融資が増加した。

同じように増加したものに自動車がある。自動車メーカーが国産車開発を開始したのである。またセメントも各地のダム需要開発など公共事業が旺盛であったことから貸付の伸びた業種の一つである。反面繊維に対する貸付のウェイトが減るなど、貸付先の重化学工業へのシフトが進んだ。1956年3月の融資残高に
占める重点産業の割合は45%で、これに機械と化学を合わせると、64%に達した。

 なお1946年に中小工業部をいち早く設立して中小企業金融に力を入れた興銀であるが、51年にはその残高は貸出総残高に対して8%を占めるまでに達した。中小企業育成は営業基盤の拡大のためだけでなく、政策的な企業目標として推進された。

その後中小企業が育ち規模が拡大するにつれ、総残高に占める比率は低下したものの、中小企業金融公庫の代理貸付という形で、中小企業金融は引き続き熱心に行われた。

ところで興銀の債券発行であるが、終戦後ほとんど行われなかったものが、1949年頃からようやく本格化した。しかしすぐに政府の財政難から預金部の興銀債引受が伸び悩み、債券消化が進まない状況が数年続いた。これを解消したのが55年からの金融緩和で、余裕資金を抱えた都銀が引き受けることで消化が進むようになった。

地銀、相銀、信金の引受も顕著に伸びたが、資金運用先に困った地方金融機関が興銀債をはじめとする金融債を購入し、その資金を長信銀が大企業に供給するというパターンの原型がここに形成された。

 これと同時期、公社債の発行も復活した。1948年の証券取引法の施行により、銀行が公社債の引受をすることは認められなくなったが、銀行と証券混成による引受シンジケート団が作られた。49年になると日銀が社債担保金融制度と復金債オペレーション(事業債、興業債買い入れ額を限度として日銀が銀行の復金債を買い上げる措置)を取ったこと、社債金利が引き下げられたことから起債が活発化した。興銀は戦前からの取引の経緯から、政府保証債、地方債、電力債の引受を多く行った。また引受シンジケート団の幹事を多数務め、鉄道債、電信電話債券を単独受託するなど面目躍如たる活躍であった。

また1948年には外為銀行の指定を受け、融資先の大企業の輸出入業務に関わり、また外資導入を行うなど外国業務を再開した。

政府との連携は保ちながらも、統制は受けず、産業復興のために興銀が戦前から培った人脈、技術を存分に発揮したのがこの時期と言える。

(第一章 おわり)

(第2章からは、後日、載せます。)

副島隆彦拝

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