「39」  「37」番に続いてアーサー・ケストラー論を載せます。今回は彼の略歴の文章です。

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副島隆彦です。今日は、2007年5月1日です。
 ここの「37」番に載せたものの続きとして、アーサー・ケストラーという特異な思想家について載せます。彼の略歴(全生涯)を簡潔に書いた文章です。 副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

アーサー・ケストラー略歴

 アーサー・ケストラーは、1905年9月5日、父親をハンガリー系のユダヤ人、母親をオーストリア人としてハンガリーのブダペストに生まれた。

 当時、父親は独英人共同経営の織物会社でハンガリー支店長として勤めており、ケストラーの幼年期、一家は裕福な生活を営んでいた。

しかし、第一次世界大戦のためこの事業は破綻をきたし、1919年一家はウィーンに移住。さらにオーストリアのインフレーションにたたられ、一家は残り少ない全ての資産を失う。

 ケストラーは苦しくなった生活のため、21歳の時に家を離れて独立。苦学しながら、数学・工学を中心に教えていたウィーンの高等実科高校を経てウィーン工科大学で4年間自然科学を学んだ。大学を出たが良い就職口が見つからず、ユダヤ人でもありシオニズムに関心を持っていたケストラーは、ここで中東へ移民として旅立つこととなる。

 パレスチナで農業に従事したり、アラビアで建築家の助手をつとめたり、ハイファーでレモネード売りをしていた。こういった仕事を続けているうちにカイロでドイツ語とアラビア語の週刊誌編集をしたのがきっかけとなり1926年、戦前のヨーロッパ最大の新聞雑誌社であったウルシュタイン社の中東特派員として採用され、中東地方の記事を送り続ける。

 1929年にはパリ支局の特派員となったが、この頃ノーベル賞を受賞したドゥ・ブローイをインタビューして書いた科学記事がたまたま本社首脳部の目にとまり、1930年9月からはベルリン本社の科学欄編集者としてドイツへ移ることとなる。

 当時のドイツの政治的・社会的混迷や不安をその背景に、マルクス・エンゲルスの著作を読破の上、これこそ明日に生きる光明であると確信して1931年12月、ドイツ共産党に入党する。彼のここでの仕事は、ウルシュタイン社で見聞きした政治的情報を党に伝えることであった。

 入党後間もなく、入党したことがウルシュタイン社に発覚した事により解雇され、フリーの記者となる。退社した彼は共産党員であるという事を隠す必要もなく、「細胞(セル、さいぼう)」としての生活を送ることとなる。上流地区であるノイ・ウエステントの部屋を引き払い、急進的思想を持つ貧しい芸術家が大勢住んでいて「赤い集落」として知られるボネル・プラッツの安アパートへ移り住む。

 この「細胞」はおよそ20名ほどのメンバーによって構成されており、週に1~2回定の会合を開いていた。この細胞も他の細胞と同様に「三角構成(トライアングル)」、即ち、ポール・ライター(政治委員)、オルグ・ライター(組織委員)、アジト・プロプ(情報宣伝委員)によって指導されていた。ケストラーはこの細胞に参加して間もなく、アジト・プロプの仕事が課せられ、パンフレットやポスターの作成を行っている。

 1932年には、国際革命作家連盟の招聘を受けて、ロシア入りし、その紀行を書くこととなった。当時のソ連の現実によって、党への信仰はかなり動揺したが、1938年の早春までは共産党に籍を置いている。

 1936年スペイン市民戦争が勃発すると、これは国際義勇軍の編成される前であったが、スペイン共和国軍に参加しようとした。しかし周囲の説得・協力もあって、イギリスの「ニュース・クロニコル」紙の特別通信員として、当時フランコ軍本部のあったセビリャ入りした。

 ケストラーはここで見聞きしたことを「ニュース・クロニコル」紙上で発表する。このことによりフランコ軍側から敵意の目で見られることになる。

 6カ月後、ケストラーは再び共和国側の従軍記者としてスペインに入国するも、マラーガででフランコ軍側によって逮捕され死刑宣告を受ける。セビリャで4カ月間の獄中生活を送っていたところで、イギリス外務省の干渉によって救われた。このときの経験を著作「スペインの遺書」に書き記している。

 このスペイン戦争への参加を通じて、ファシズムの暴虐もさることながら、現実の共産主義も決して理想として考えていたものではなく同じように残酷であるという、大きな幻滅を感じたようである。

 ちょうどこの頃彼の義兄と二人の親友がG.P.U.により不当に逮捕された知り、離党。この友人の妻の証言を素材としてスターリニズム批判した政治小説「真昼の暗黒」を1940年に刊行。コミュニズムが進歩的文化人の間で神聖視されていた当時、広く批判を受ける。

 その後も引き続き1941年には「地上の屑(“Scum of the Earth”)」、「ヨギと人民委員会(The Yogi and the Commissar)」などの政治小説を発表したが、1948年英国へ移住した頃から専ら科学思想に関する著作へと転向している。政治的イデオロギーに絶望したのか、政治分野に関する主張を執筆しない旨宣言したのである。そして、科学や文化の将来に希望を託して人文科学や自然科学に関する著作を執筆することとなったのではないだろうか。

 1959年には評価の高い宇宙観の科学史、「夢遊病者たち(The Sleepwalkers)」を刊行。彼の興味は、科学と芸術と倫理を共通に支える基盤は何かという問題から、こうした領域での創造活動の行為へと関心が注がれている。

 このテーマは1968年「創造活動の理論」に結実する。ここでは「双連性(bisociation)」という概念を用いて、それまで全く関連のなかった二つの認識を枠組みが、新しい平面で融合して一つになることが創造活動の本質であると考え、この視点から創造行為の構造の理論的解明を図っている。

 さらに彼の興味は科学思想や科学方法論へと移ってゆく。この方面での代表作は1967年の「機械の中の幽霊」であろう。この題名はイギリスの哲学者ギルバート・ライルの「『心』は身体という機械の中に潜む幽霊のようなものだ」という言葉にちなんだものである。ケストラーはライルの考えを批判して、反語的にこういったタイトルを付けたのであろう。

 ケストラーがこの著作の中で提唱した「ホロン」の概念は、現代の有数の生物学者や神経学者の一部の賛同を得て、アルプバッハでのシンポジウムへと結実した。

 また、1972年には「偶然の本質(The roots of Coincidence)」を刊行。ここでは最近の超心理学の発展が取り上げられており、これが今世紀の素粒子物理学の発展とある面で奇妙に符合していることに着目する。この両者が相補って現代の新しい知的状況を作り出していることを指摘する。

 そして、一般に「偶然の一致」として片づけられているものをユングの「同期性(Synchronicity)」の概念を用いながら、システム論的に考察を加えている。

 1983年、パーキンソン病と白血病を苦に、夫人とともに鎮静・睡眠薬であるバルビツール剤を大量に服用して自殺。それに先だって1982年にケストラーが書いた手記は次の通りである。

「関係者各位

 この手記の目的は、私が何人に知らせることも、力を借りることもなく、薬物を大量に服用して意図的に自殺するものであることを一転の疑いもなく明らかにすることにあります。薬物は合法的に入手し、かなりの長期にわたって保存していてものです。

 自殺は賭けで、その結果が賭博師にわかるのは失敗した場合に限られ、成功の場合はわかりません。万一この試みに失敗して、肉体的精神的損傷をともなった状態で生き延びることとなり、何をされても自分の自由にならず、自分の意志を伝えることができなくなっては困りますので、生き返らせることなく自宅で死なせていただき、人工的手段によって生存を続けさせることもないようお願い致します。

 自ら生命を絶つ理由は単純かつやむをえないものです。即ちパーキンソン病と徐々に死をもたらす白血病です。白血病のことは、心配をかけないために親しい友人にも秘していました。肉体は過去数年にわたって着実に衰弱を続けた結果、今では苦痛な段階に達し、複雑な進行を見せるに至りましたので、自ら必要な手段を取ることが不可能になる前に、自分の救済を試みることが望ましくなったのです。

 友人の皆さんには安らかな気持ちで友情と別れて行くこと、時間、空間、物質の制約の彼方に、また人間の理解を絶する世界での、肉体を失った後の後生の生活にわずかな希望をいだきながら去って行くのだということを、お伝えします。この「広大な感情」によって、私は幾つもの危機を切り抜けてきましたが、この手記を書いている今も、それは同じです。

 それでもこの最後の手段を取るに際して辛いのは、生き残る幾人かの友、中でも妻シンシアに苦しみを与えざるを得ないということです。生涯の最後の時期に、私がそれ以前には味わったことのない比較的平和で幸せな生活を送ることが出来たのは、シンシアのお陰でした。これは私にとって初めての幸福でした」

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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