「38」 私たちの会員たちの中の理科系の優れた人たちで、私の「宗教とサイエンスを何故分けたのだ」論を援護して発言してくれた人たちの貴重な「数学とは何か」論を集めました。副島隆彦

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副島隆彦です。今日は、2007年4月22日です。

 以下に載せる文章は、私たちの「会員専用掲示板」に、2006年の年末に集中的に書かれた、優れた「数学とは何か」の小論を、私が集めておいたものです。以下の投稿者である坂井君とか、高野君たちを、私は自分と同じ考えをする人々だと判断して、先駆的名思考の持ち主として、大変心強く思っています。いすれも優れた数学論です。  副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

(1)[1399] 数学についての覚書(おぼえがき) 投稿者: 坂井 投稿日:2006/12/12(Tue) 17:50

会員番号1817の坂井秀之と申します。

 数学についての覚書

 副島先生の過去の文章から分かること。
数学mathematics (マセマティックス、知ること) と 学問science (サイエンス、知るということ) と同じ定義です。

 数学は、神学(しんがく、theology セオロジー)
の下女(はしため)であり、学問は神(かみ、God ゴッド)から流れ出たもの。

 数学は掛算(かけざん、multiplication マルチプリケイション)と足算(たしざん、addition アディション)を使った
 a=b の壮大な積上げである。
 数学では,掛算が先行する。根拠は掛算が異質の物を結合するから。 足算は、異質の集団内で数としての意味を持たない。

 掛算は、変換(へんかん、transformation トランスフォーメイション、直交基底の像) をもって規定する。

 対称移動(たいしょういどう、reflection リフレクション、鏡映=対称変換 = 回転移動(かいてんいどう、rotation、ローテイション) のことで、 -1を掛けることは、-π の回転(オイラーの定義ではe^iπ=-1 )のことである。

 足算は、 結合(けつごう、combination コンビネイション)であり、教科書では combination は、「組合せ」とする。このことは、 = 平行( へいこう、parallelと同じである。
平行は、並列な,結びが自由なであることをもって規定する。

 結合則(けつごうそく、associative law アソシエイティブ・ラー)の結合とは違うものである。

 数学には、この基本用語の混同が数多くある。たとえば「同値」identity < > equivalence「逆」converse< >inverse
順列=置換 permutation < > substitutionである。 ひどいものです。

 完全な論理の世界であるはずの数学で、諸基本語の定義(ていぎ、definition デフィニション)すら、十分にされないまま放置されてる。

 副島先生が、science(サイエンス、近代学問)は、その1つをそれぞれ「自分の神様」に仕立てて成立する concept(コンセプト、概念 )であり、=intelligence(インテリジェンス、知識・知性)である。これは、= psych (古代ギリシャ語でプシケー、気、き )である。 mind (マインド)、心理(しんり、consciousness コンシャスネス)、思考・知能( knowledge、
ノレッジ)、知識(=thought ソート、思想=intellect、
知性= sense 感覚 ) と書かれたように、数学も同じようなものだと考えています。

 座標(ざひょうは、Cartesian(カルテージアン、デカルトの)=複素平面(ふくそへいめん、complex plan コンプレックス・プラン)、2次元のベクトルは、=虚数(きょすう、imaginary numberイマジナリー・ナンバー、空間) = 像(ぞう、imageイメッジ)= 写像(しゃぞう、mapping マッピング)= 関数(function、ふぁんくしょん、)=ベクトル空間(vectorベクター空間space=集合(しゅうごう、set セット)=論理(ろんり、思考巡回、しこうじゅんかい、logic ロジック)等々は、同じものです。

「実数の公理」とは何か。(「数学を使わない数学の講義」p246から)

 数(すう、number ナンバー)は、公理(こうり、axiom、アクシアム)を要請(ようせい、postulate ポスチュレイト)した仮説(かせつ、ハイポセシス)です。

 実は-1も、√2も、虚数iも、定義(ていぎ、definition)は、「共通概念を仮定すること」です。

「実数の公理」とは何か(「数学を使わない数学の講義」p246)
数(number)は、公理(axiom)を要請(postulate)した仮説(仮定)です。

 実は-1も、√2も、虚数i(複素数には大小があいりません)も、定義definition(共通概念を仮定すること)です。

(2)[1406] 副島先生に、ただ感謝 投稿者: 坂井 投稿日:2006/12/14(Thu) 12:07

 数 number は2つある。1つは、計量数(けいりょうすう、cardinal、カーデキィナル ) number、=ものを数えるcounting(カウンティング number)もの。

 もう1つは、順序数(じゅんじょすう、ordial オーディアルnumber)です。

 自然数を集合を使って定義すれば(これを、ぺアノの公理=これも仮説だ) ここで、、もちろん、0(零、れい、ゼロ、ニル)は自然数に含みます。

 集合は、もともとカントールが無限 (という連続体仮説)に使ったものです。

 自然数(しぜんすう)は、natural number ナチュラル・ナンバーからの直訳です。 natural を もう一度考え見てください。 ワイエルシュトラス、クンマーと共に、ベルリン大学の三大数学者の一人クロネッカーは、「自然数は 神がつっくたもの、その他の数は人間がつっくた」といっています。

 だから、もちろんクロネッカーは、0は自然数に含みません。

(ぼやき「001」副島隆彦の文 から引用開始)

 「自然( nature,ネイチャー)の、natu(ナツ) と、本質(essence, エッ センス)の ess( エス)と、サイエンス ( science, スシアンス、 「知るということ」 すなわち、学問) の sci (スシ)の、この、3つともが、実は、すべて、『 神 (god) から流れ出たもの』と言う意味なのである

 (重掲示332から引用開始)

 ヨーロッパの近代( modern モダン) は、狂気なのです。人間が、自然(ナツール nature)から意識的に自覚的に離れた時に、人類の近代(モダン)が始まりました。

 (引用終わり)

 虚数(きょすう)は、慣習で、代数(だいすう)として導入されています。

 i^2(二乗)=-1 は、18世紀には、天賦の法則と考えられていました。 複素数(虚数)は,実数の組合せ(x、y)=ベクトルから,ある掛算を定義して、発生させます。 (0,1)=i^2

 また足算、掛算が実数と全く同型(どうけい、isomorphic アイソモルフィック (=群))であることから、実数(じっすう)の拡張とみなしています。

 複素数(ふくそすう)は、2次元ベクトル空間のことである。2次元だけでは満足できず考え出されたのが、3次元ベクトル空間ともいえるハミルトンの4元数です。これは失敗します。

 複素数だけでは足りない,それで、n次元はベクトルで仮説します。

(重掲示「809」から引用開始)

 数学者というのは、フィールズ賞をもらった、森重文(もりしげふみ)なども、いつも6次元、7次元のところで考えるのだそうだが、勝手にしてくれ。

(引用終わり)

すごい、すごすぎる。副島先生に、ただ感謝

(3) [1400] Re[1397]: 数、数学、rationalism 投稿者: 会員番号1199 高野 投稿日:2006/12/12(Tue) 21:02

1. 万人に平等だった数学は、発達し複雑になりすぎた結果、専門家以外は容易に近づけない存在になってしまっている。数学者以外のわれわれは、数学の限界をも見据えた上で、この強力な道具を、専門家によって差別化の道具にさせておいてはもったいない。

2.論理学(ろんりがく)というのは、万人を説得することを目的に、考え出されたものではないかと想像している。

3.真横(まよこ)に数えるといっても、横目で数を数えることではもちろんない。真横に数えるとは、いくら数えても、数(それまでの数=実数)が増えもしないし、減りもしない、そういう数え方である。

4.ここまで、文献を参照しなかったので、遅まきながら紹介しておきます。

● 自然数を数えることは、1対1の対応であることについて

遠山啓『数学入門(上)』岩波新書pp.4-5から

(引用開始)

 イギリスの数理哲学者バートランド・ラッセルは「2日の2と2匹のキジの2とが同じ2であることに気づくまでには限りない年月が必要だった」といっている。

 たしかにラッセルのいうように2という数は、2個の卵、2匹の犬、2人の人間、2羽の鳥、2冊の本に共通のものである。だから2個の卵の一つ一つを2本の木でおきかえても、2であることに何の変わりもないのである。

 このように卵の一つ一つを1本ずつの木と結び付けることを一対一対応というが、2はこの一対一対応という手続きをほどこしても変わらないのである。

 一対一対応によって変わらないという事実を利用すると、数えにくいものを数えやすいものでおきかえるという方法が生まれてくる。

(引用終わり)

● 空集合から自然数をつくりだすことについて

 竹内外史『集合とはなにか』講談社ブルーバックスp.79 から

(引用開始)

 まず Φ をつくります。これを”0″となづけます。

 私達は、創世記の神のように何もない所から始めるのです。
ですからもちろん0というものなどありません。

 何もないところに初めて出てきたΦですから、私達が0と名づけて少しも構わないわけです。「神光を昼となづけ暗を夜となづけたまへり」というわけです。

 さて、順序数生成の第二段にゆきましょう。
これは”今までにつくった集合0からだけできている集合をつくる”ことすなわち{0}をつくることです。

 こうしてつくられた集合{0}を1と名付けましょう。
順序数を作る第三段はなんでしょうか。

 ”今までつくった集合0,1だけからなる集合をつくること”です。すなわち{0,1}を作ることです。この集合を”2”と名付けましょう。この操作をかぎりなく繰り返してゆくのです。

 神は、第七日目にお安息みになりました。ところが、私達の順序数(じゅんじょすう)の生成は休みなく繰り返すのです。

 こうしてできる順序数の列とその名前の列を書きますと次のようになります。

 Φ,{0},{0,1},{0,1,2}・・・
 0,1, 2,   3,  ・・・

こうしていくと任意の自然数がすべて順序数として生成されていく過程がよく分ると思います。

(引用終わり)

● 「1、2、たくさん」について

 ドィニ・ゲージ『数の歴史』創元社p.29 から

(引用開始)

  一部の民族にとっては、「1」と「2」と「たくさん」という3種の「数」さえあれば、たいていの用は足りた。

(引用終わり)

・遠山啓(とうやまひらく)『数学入門(上)』岩波新書p.8 から

(引用開始)

  極端な例は南米ボリビアのチキト族であって、1に当たる「エタマ」という数詞しか持っていないという。

 ・・・また「2」を「ポエタラロリンコアロアク」という長たらしい数詞でよんでいるアマゾン流域のヤンコ族も、2という数をあまり使う機会がないので、こんな長たらしい数詞が生き残っているのだろう。2をひんぱんに使う必要があったら、もっと省略された数詞が生まれてくるはずである。

(引用終わり)

 ジョン・タバク『はじめからの数学3 数、コンピューター、哲学者、意味の探究』青土社 から

(引用開始)

 オーストラリアの原住民の中には、歴史上も最近になるまで、ほとんど数なしで生きてきたと言われる部族もある。昔の人類学者が、オーストラリアの原住民には6あるいは7を超える数は区別しない部族があること、数え方は「1,2,3,4,5,6,たくさん」と進むと言っている。

 こうした昔の報告を解釈するときは気をつけなければならない。文化や言語の違いのせいで、人類学者が調べている民族と効果的に意志を伝えあうのは難しかったし、その観察結果も、オーストラリアの原住民が別の文化で過ごしていて、今やそれに応じて適応してしまっていると、確認できない。

 ともあれ、すべての文化が体系的な数え方を発達させたわけではないということは、まず疑いはない。

(引用終わり)

 ジョルジュ・イフラー『数字の歴史』平凡社p.12 から

(引用開始)

  アフリカやオセアニア、アメリカ大陸の一部の原住民は、少なくとも今世紀初頭まではかなり初歩的な段階にとどまっていたが、彼らは<1>、<2>、<3>、<4>という数しかはっきりと知覚しておらす-彼らの言葉のうちではっきり表現されていいない-その他の数は彼らにとっては漠然とした総体的観念であり、もっぱら物の多数性に結び付くものだったのである。

 たとえばゾンマーフェルトによると、オーストラリアのアランダ族は、いわゆる<数名称>として二つの語しか知らなかった。<1>を表すnintaと対を表すtaraとである。

 <3>と<4>については、tara-mi-nita(<2>と<1>)と、tara-ma-tara(<2>と<2>)と言っていた。しかしアランダ族の数列はそこで止まってしまう。

 というのもtara-ma-taraから上については、<たくさん>を意味する言葉を用いていたからである。

(引用終わり)

●数の向きについて

 ドィニ・ゲージ『数の歴史』創元社p.101 から

(引用開始)

  1800年頃、デンマークのカスパー・ウェッセル、スイスのロベルト・アルマンがそれぞれ独立に複素数の幾何学的解釈を発表した。実数が直線状の点として表されたように、複素数は平面上の点として表される。(この平面を複素平面という。)

 ひとつの複素数には2つの実数が対応するので、それを図示するには一次元の直線ではなくて、二次元の平面を使う方が理にかなっていたのである。

 これによって、それまで直線の中に閉じ込められていた「方向」の概念が一般化された。直線では方向は本質的にひとつきりだったが、平面になって無数の方向が考えられるようになったのである。」

(引用終わり)

 私の考えでは、直線といえども、中の点から見れば、方向はプラスの向き・マイナスの向きの2つがある。ここをおさえておかないと、虚数の向きという考え方につなげにくい。

●数量化、一元的評価について

 アルフレッド・W・クロスビー『数量化革命』紀伊国屋書店p.29
から

(引用開始)

 プラトンやアリストテレスとは異なり、私たちはほぼ例外なく、数学と物質世界は密接かつ直接的に結びついているという前提条件を受け入れている。そして感覚を通じて認知できる現実世界を対象とする物理学は高度に数学的であるという見方を真理として受け入れている。

 だが、こうした概念は自明の真理というより、むしろ驚嘆すべきものであり、今日にいたるまで多くの賢人たちが疑念を表明してきた。

 手足の指で数を数えるというレベル以上の数学はどのようにして生まれたのだろうか?それはおそらく計量する必要性が増したことに端を発したのだろう。」(p.29)

 ものごとを数量的に考える兆しが現われたのは、西ヨーロッパの人口と経済成長が最初のピークに達した1300年前後のことだった。この兆しは、西ヨーロッパ社会が相次ぐ恐怖に見舞われた14世紀を通じて消えることはなかった。」(p.35)

 「緻密な体系化、論理、正確な語法を極限までおしすすめれば、数学に到達する」(p.91)

 「スコラ学者が事物の性質を叙述する適切な表現方法を模索する過程で事物を数量的に把握しようとする傾向が生まれた。だが、こうした傾向をもたらしたもうひとつの原因は、より重大な結果をもたらした。それは、あらゆる悪の根源であるか否かはともかく、現代文明の主根であることは確実なもの、すなわち金である。」(p.95)

「価格はあらゆるものを数量化した。」(p.48)

(引用終わり)

 ドィニ・ゲージ『数の歴史』創元社p.101-102 から

(引用開始)

  数の範囲が複素数まで広がったため、2つの数を比較することができなくなった。実すならどんな数をとっても、つねに大小が比較できる。どちらか一方が他方より大きいか、さもなければ等しいからだ。だが複素数ではこうはいかない。

 2つの複素数zとz’ではzがz’より大きくも小さくもなく、その上等しくもないということが起こりうる。要するに比べること自体が無意味なのだ。

(引用終わり)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝
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