「37」 宗教と科学(サイエンス=近代学問)を何故、分けたのか。の問題についての指針である思想家アーサー・ケストラーを紹介するサイトから転載します。2007.4.17

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副島隆彦です。今日は、2007年4月17日です。

以下に紹介するのは、ネット上にある、思想家アーサー・ケストラーの現代科学批判の思想を、解説した文章です。
書いている人は、木村ケンジ という人です。それ以上は分かりません。

アーサー・ケストラーという思想家は、「真昼の暗黒」(ソビエト・ロシア体制を史上最も早く自ら現地で体験して、その悪を報告した本)や、「ユダヤ第13支族」を書いた著者です。私、副島隆彦が深く尊敬する数少ないヨーロッパの思想家のひとりです。今では、私はジョージ・オーウエルよりも、アーサー・ケストラーの方を高く評価します。

アーサー・ケストラーがどのような思想を作り、そしてこの世界の何を明らかにしたかの解説は、さらに少しづつやります。

とりあえず、今日は、A・ケストラーの「ゴースト・イン・ザ・マシーン」”Ghost in the Machine ” 「機械の中の幽霊」という大著について内容を解説した文を載せます。
A.ケストラーが唱えた、この「機械の中の幽霊」とか、「ホロン革命」が、どのような思想なのかも、そのうち少しずつ解説しますのでお待ち下さい。  副島隆彦拝

(転載貼り付け始め)

「ゴースト・イン・ザ・マシーン」

第1部 ホロン・システム

第4章 科学論の中での位置付け

 A.ケストラーは、現代科学(モダン・サイエンス)が人間の精神や生命を捉える上で、大きな誤謬に陥っていると考えている。

 そしてその誤りを正すために現代科学の二つの誤った支配的な根本的理念を取り除くべきだと主張する。

 一つは「行動科学(ビヘイビオラル・サイエンスbehavioral scicence )」である。これはボーマン・スキンナー学派の心理学(サイコロジー)に見られるものである。 あらゆる精神(思惟、しい)の事象を、「S(刺激)-R(反応)」モデルで説明しようとする動きである。

 この考え方は第一次世界大戦の直前、ボルティモアのジョンズ・ホプキンズ大学の教授であったジョン・ブローダス・ワトソンに始まる。

 ここでワトソンが「行動(ビヘイビア)」と呼んだのは、観察できる活動、つまり物理学者が「公的な事象」と呼ぶ、あらかじめプログラムされた機械の動きの様なものである。

 あらゆる思惟的な事象は他人によっては観察されえない私的なことがらであって、ただ内省に基づく供述によってのみ公になるものである以上、科学の領分から除外されねばならなかった。

 この教義のため、行動科学主義者(ビヘイビアリスト、 behaviorist)は、あらゆる「触れえぬもの、近づきえぬもの」の追放を始め、「意識」、「精神」、「想像」、「目的」といった言葉を非科学的と宣告して心理学の用語から抹消した。

 ケストラーはこれを「過激な形」の「イデオロギー粛清」であるとして非難した。そして、アメリカのソシアル・サイエンスの学界の主流となったこの行動科学主義(ビヘイビアリスト)たちによって心理学は、ネズミのレバー押し実験に於けるネズミの行動学へと変貌したと非難する。

 つまり、人間を生物から見る「擬人(ぎじん)主義」を否定して、今度はネズミから人間を見る「擬鼠(ぎそ)主義」に陥っていると考えるのである。

 ケストラーはこの点を、「思考(マインド)の存在を否定し、ネズミのレバー押し実験に基づくもっともらしいアナロジーを全ての中心に据える心理学から出発して、人間の苦境の診断と治療にまで到達しようという。しかしそれは無理である。この擬鼠(ぎそ)主義的心理学の50年間の観察記録は、その不毛のペダントリーにおいて、退潮期のスコラ哲学が、針の頭の上で天使の数を数えるに堕したのにも比肩しうる。だがこれすらも、ボックスの中でレバーを押す回数を数えるより、ずっと魅力のある遊びだろう」と断じている。

 そしてケストラーが批判したもう一つの学問(サイエンス)は、「正統ダーウィニズム」である。よく知られているように正統ダーウィニズムは進化のメカニズムを「偶然の突然変異」と「自然選択の積み重ね」だけで説明する。

 しかしケストラーは、これに異を唱える。生物学の中でも殊、進化論に関する論争は多い。単純にダーウィニズムに依っては説明できない事象が多々あるのだ。

 例えば、ケストラーは「相同(そうどう、アイソモルフィッー)」の現象を指摘している。ショウジョウバエはある一つの劣性突然変異遺伝子を持っている。この遺伝子を両親から受け継ぐと、目のないショウジョウバエが生まれることとなる。そしてこの目のないハエの純系統をそれらどうしで雑交させると、当然全部目のない突然変異遺伝子を持つものしか生まれてこない。これはメンデルの法則で説明される通り、正常遺伝子は入り込めないからである。ところが、数世代たつうちにこの同種交配していた目のないハエの中に完全に正常な目を持つハエが生まれてくるという。

 ダーウィニズムの伝統的説明ではこれを、遺伝子複合体のうち他の構成員がまぜなおされ、組み合わせを変えて、失われている正常の眼造遺伝子の代理が出来るようになったとしている。即ち数億年かかっった進化の過程を数世代で「偶然に」繰り返したということなのだ。この目のない遺伝系統に生まれたハエに突然生じた目が、相同器官である。

 正統ダーウィニズムのアンチテーゼとしては「獲得形質(かくとくけいしつ)は遺伝する」と考えるラマルク主義がある。ケストラーはこのラマルク主義に完全に賛同するとはまではいかずとも多大な関心を持っていたようである。

 そして、このラマルク主義が、ダーウィン学派に如何に葬り去られていったかという過程を、異端の生物学者パウル・カンメラーをめぐる今世紀初頭の最大の生物学界のスキャンダルといわれた論争を通じて、著書「サンバガエルの謎」の中で描いている。

 もっともラマルク主義は現在真面目に論じられることはないようであるが、それにしても正統ダーウィニズムに対する疑問・批判は絶えない。

 「行動科学主義」にしても「正統ダーウィニズム」にしても、その依って立つところは明白だ。それはケストラーが批判するところの、19世紀的な機械論的原子論であり、還元主義(かんげんしゅぎ)だ。これは、人間や生物を本質的に環境に支配された機械であるとする古いイデオロギーである。

 ケストラーはこの誤りを超えんとするために、「自己統一的な開かれたヒエラルキー秩序」という概念を組立てた。これを新たな生命論の出発とするのである。そして生命論の範囲を超えて、人間・生命・自然が有する隠された秩序を探ろうとしている。

 このような脱(だつ)還元主義的なシステム的アプローチはその他にも様々な分野で起きている。これを中世から近代にかけて起こったパラダイム・シフトに匹敵するものとして捉えることも出来るかもしれない。この新たなパラダイム探求の動きはニュー・サイエンスと呼ばれる。

 コンサイス社発行の『20世紀の思想事典』で、「ニュー・サイエンス new science 」の項を調べると、ニュー・サイエンスに関する一般的な評価と思われるものが掲載されていたので少々長くなるがそのまま引用する。

「【ニュー・サイエンス】(は)1960年代初めアメリカ西海岸を中心にして、いわゆるカウンターカルチャー運動が起こった。

 ヒッピーや幻覚剤芸術、ヴェトナム反戦運動や東洋への傾倒に代表されるこの運動は、既存体制の袋小路を感じとった人びとがともかくそこから脱出しようとする、どちらかといえば否定的で非論理的なものであった。

 この運動自体はいったん姿を消したが、その運動のモティーフは70年代になってより積極的かつ論理的な形で復活する。つまり70年代にを機に、(1)西欧近代の世界観や科学(とその方法)を理論的に批判する一方、 (2)かつて無批判にあこがれた東洋の文化・思想を冷静に評価し、 (3)究極的には新たな文化と人間観を創造しようとするさまざまな試みが一斉に浮上し、それは現代にいたるまでつづいている。

 思想、科学、技術、生活などの多領域にわたるこの人間観の改革運動を総称して、和製英語でニュー・サイエンスと呼ぶ。

 事実的にはともかく論理的に見ると、この運動に強力な基盤を与えたのはT(トマス).S.クーンの「パラダイム理論」であろう。

 トマス・クーン(MIT教授)は、自然科学史の事例調査から、「科学(サイエンス、近代学問)とはいわば科学者集団による自然への〈見込み調査〉である」と考え、彼らが共有する捜査上の見込み(=大枠の方針)を〈パラダイム〉と称した。

 そして科学(サイエンス)には一定の見込みを調査して上で証拠固めを図る時期、即ち、パラダイムを崩さずに実験事実の解釈と理論の細部充填がなされる時期(科学革命)が交互に現れると主張した。

 つまり彼によれば、(1)科学は事実の集積というより、時代と文化に制約された「ものの見方」である。 (2)しかしそれを転換すれば、全く新しい局面と問題が見えてくるというのである。

 科学革命を意識的に起こせるかについては、クーン自身は懐疑的であり、またパラダイムは科学革命が起こってはじめて明瞭になるものかもしれないという側面を持つ。

 だが、彼のパラダイム論はニュー・サイエンスの流れに力を与えた。実際、自説をたてる際、従来の科学が広く承認していた仮定を意識的に反省しつつ、自らの立場の位置づけを試みるのがニュー・サイエンティストと呼ばれる科学者たちに共通する点である。

 時空的に断片化できぬ全体流動を宇宙の真の姿とするD.J.ボーム。 平衡系熱力学をむしろ特殊とみなし散逸構造を提起したI.プリゴジーン。 日常への適応を最上とする従来の心理学に異議を唱え、より高次の心理を探求すべきだと提唱したA.マズロー。

 さらに個人を越えた自己実現までを射程に入れたトランスパーソナル心理学を構築しようとするS.グロフ。形態形成に於ける超空間的なつながりを主張するR.シェルドレイクら。彼らはそれぞれ自ら専門領域の基本仮定が何だったたかの反省を通過している。当然彼らが従来の科学の基本仮定として批判した点は必ずしも同じではない。

 しかし一般的にいえば、科学方法論として、(1)研究者と対象が分離独立しているとみなすこと、(2)全体を分離独立した要素へ還元し、それら要素間の相互作用を古典的な力学モデルで扱えばよいという姿勢、(3)時空連続的に追跡できる作用のみを扱う姿勢、といってよかろう。

 そして逆に、このような批判に立脚した科学理論がニュー・サイエンスと呼ばれることもあるのである。

 しかし概念のあいまいさは概念の拡張をもたらす。〈パラダイム〉はやがて当初の意味を越え、技術であれ哲学であれ日常生活であれ、それらの領域全体を根本から規定する枠組みと考えられるようになった。

 するとこの種の運動につきもののこととして、科学ないし技術上の知見をイデオロギーの補強に用いたり、東洋哲学と西洋科学の安易な比較論に陥る人びとが現れる。上記の科学者たちはそのようなことを周到に避けている。が、分子進化から優生学的な結論を導出したり、動物行動学から聖書を正当化したり、ホログラフィーの比喩によって華厳的な世界観を構築したり、あるいは現代の物理学と東洋思想の類比をあげたり、散逸構造と同様な出発点から社会理論を論じたりというたぐいのの試みもまた多く見られた。だからニュー・サイエンスの試みに危険性を直感する人は多い。

 しかしこの点で問題を複雑にするのは、この運動に属するとされる著作の評価の仕方である。例えばF.カプラの著作は、それを科学上のものと見るか、科学哲学上のものと見るか、文明批評と見るかで評価は変わってこよう。あるいはA.ケストラーの〈ホロン〉は科学上の知見であろうか、科学評論であろうか、イデオロギーであろうか、哲学であろうか。

 不用意な領域近藤とともに、パラダイムの概念はあらためてわれわれに哲学、科学、技術、あるいはイデオロギーをどう区別するかの問いを迫っていると思える。

 ここで大切なのは、科学や宗教をできあがった理論体系として統合することよりも、それらを生み出した活動の差として科学と宗教をとらえ直すことではなかろうか。字面上似ている理論だとしても、それを生み出すにいたった活動の種類が異なるとすれば、統合などは空虚になりえはすまいか。

 たとえて言えば、見かけが似ているからといって、イモリとトカゲをかけ合わせるような愚行を犯すことにならぬだろうか。

 ニュー・サイエンスの出現は、できあがった理論としてではなく、理論を生み出す活動としての科学と宗教を再考せよと、われわれに迫っているのである。

 ここで見られるように、ニュー・サイエンスの動きは今だいわば「胡散臭さ」を持って見られることが普通である。実際、ニュー・サイエンスと呼ばれるものの中には純粋に科学的推論の結果生まれてきたものから、神秘主義(ミスティシズム)としか言い表すことの出来ないものまでが混在している様にも見受けられる。

 しかしながら、いずれにせよこの様な既存の枠組みを超えようとする新しい科学の動きが、現代科学(ひいては現代社会)批判の視座としての有用性を持つことは否定できない。私は、現代科学がある種の閉塞状況にあるからこそ、様々な分野で新しい試みがなされているのだと考える。

(転載貼り付け終わり)

この項 続く。   副島隆彦拝

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