「36」 作家の中野重治(なかのしげはる)と佐多稲子(さたいなこ)を論じて、これほどに優れた文章を私は他に知らない。副島隆彦記

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副島隆彦です。 今日は、2007年4月10日です。
中国から、首相(国務院総理)の温家宝(おんかほう、ウン・チアパオ)が来ている。両方の国が仲良さそうにしているらしい。

私は、上海で、虹口(にじぐち)の旧日本租界(そかい)の魯迅(ろじん)記念館に行った。魯迅のこともたくさん書きたい。

 魯迅は、1936年に、蒋介石の国民党によってではなくて、どうも、日本軍の情報部に殺されたらしい。最近、魯迅の息子と孫が、香港フェニックステレビで、真実を話し始めたと、上海の知識人に聞いた。日本軍が、1937年(昭和12年)8月に、上海を占領しに上陸してくる一年前のことだ。歴史の真実は、時間をかけて剥がれ落ちるように明らかになる。

私、副島隆彦は、プロレタリア作家、左翼作家であり、日本の全然戦後を、最も誠実に生きた、職業作家の、中野重治(なかのしげはる)と、佐多稲子(さたいなこ)が大好きです。ずっと、鱚好きです。 それでも、彼らの名前を挙(あ)げても、今の40歳ぐらいから下の読書人でも、もう知らない人がほとんどでしょう。

 どんな時代にも、その時代を、もっとも誠実に生きた人間たち
というのがいる。どこの国にもいるだろう。私も、その系譜の人間でありたい。以下の文の中に出てくる、「しっかり生きること」の重要さを教えてくれる。

私は、自分の学生時代に、中野重治の死を知って、青山葬儀場に、一般の会葬者として行った。1975年ごろではなかったろうか。そして、佐多稲子(さたいねこ)さんを、見た。

彼女が、たしか葬儀委員長だったと思う。美しい、立派な老婦人だった。貧乏人たちの代表の、左翼の勢力の中にこそ、こんなに美しい立派な人たちがいる、ということを示していた。

 確か、佐多稲子は、そのとき、「だから、重治さん。私たちは、頑張って、長生きしなければいけなかったのです。彼ら(日本共産党を路線闘争で乗っ取った宮本けんじら)の思うようにはさせてはならない」というような、弔辞をよんでいた。 その青山葬儀場のまわりを、これみよがしに、地区の共産党の小さな宣伝カーが、いやがらせのように拡声器で連呼していた、ことを私も覚えている。

 私、副島隆彦の中野重治への高い敬愛は、吉本隆明(よしもとりゅうめい)の影響である。彼の『転向論』の中で、中野重治を、高く持ち上げて、中野の『村の家』を引用していた。あれは、ものすごく優れた日本政治評論の金字塔である。今の若い読書人たちは、その欠片(かけら)も知らないだろう。

 私の弟子たちの30歳ぐらいの連中に、一体、日本の政治評論の、ものすごい連綿とした、戦前・戦後の、その流れをいくら解説しても、もはや、分かってもらえないだろう。

私は、もう8割は、そういう仕事を続けて、自分の前の時代を、あとの時代につないでゆくという大切な仕事を、諦(あきら)めてしまっている。

 以下の文は、「相馬黒光(そうまこっこう)という女」を書いた、例の人の文章です。彼は、ものすごい知識人だと思います。
敗戦後に学生時代を送っていて、佐多稲子の亭主だった、窪川鶴次郎(くぼかわかくじろう)に、講演会のあと、質問していて、その時、学生だった、と以下の文の中で書いている。

 だから、2007年の現在で、80歳ぐらいの高齢の、市井の隠者(いんじゃ)になっている人だろう。私は、こ人を、深く尊敬する。これだけの文章は、プロの評論家と呼ぶに値する人たちしか書けない。

 そして、もうそういう「文芸評論の時代」ではなくなっているから、そういう本や雑誌自体が、死に絶えた時代だ。そういうことを哀惜(あいせき)する気持ちと共に、私はすべて投げやりになって、分かる。

 副島隆彦拝


(ここからが、転載貼り付け 始め)

「夏の栞(しおり)」を読んで

 佐多稲子(さたいなこ)が亡くなったときに、新聞に追悼記事が掲載された。その記事が今でも記憶に残っている。彼女にゆかりのある作家や婦人運動家が、こぞってその死を惜しんでいたからだ。

 知名の作家が死去すると、新聞は友人や評論家による追悼の辞を載せる。だが、どんなに言葉を飾っていても、それが儀礼的なものに過ぎなければ、読むものには直ぐそれと分かるのだ。佐多稲子に対する追悼の辞には、社交辞令の類がなかった。彼女に向けられた言葉には、すべて真実の響きがあった。それを読むと、生前の彼女がいかに深く人々から敬愛されていたかがわかった。

 私が所持している佐多稲子の本は、「夏の栞(なつのしおり)」一冊だけである。これまで女流作家では、平林たい子や宮本百合子(みやもとゆりこ)を読んで来たが、華やかさを欠いた佐多稲子の作品に目を向けたことはなかった。「夏の栞」を購入したのも、それが中野重治(なかのしげはる)を追想した本だと聞いたからで、佐多稲子に関心があったからではない。

 佐多稲子の追悼記事を読んだ後で、私は心構えを新たに、「夏の栞」を読むことにした。私はこの本を購入した直後に、数ページ読んだだけで、そのまま書棚に押し込んでいたのである。

 だが、思い立っていざ読んでみようとしたら、肝心の本が何処を探しても見あたらなかった。

その「夏の栞」が、十日ほど前に偶然でてきたのだ。

 本の内容は二つに分かれ、前半は臨終の床にある中野重治について記してあり、後半に中野重治の思い出が書かれている。

 本のおしまいの方に、中野重治の遺骨が葬られる場面が出てくる。そこまで来たら涙が止まらなくなって、先へ読み進むことが出来なくなった。本を読んでいて泣くというようなことは、これまで一度もなかったことである。

 私が涙を流したのは、第一に、若い頃の私が中野重治に深く傾倒していたからだった。第二に佐多稲子の追想に身につまされるものがあったからである。

 中野重治については、ある程度のことは知っている。でも、佐多稲子について知っていることは、小学校5年までしか学校に行かなかったことや料亭の女中をしていた少女時代に芥川龍之介に可愛がられていたこと、やがて「驢馬」の同人たちのアイドルになり同人の一人窪川鶴次郎(くぼかわかくじろう)と結婚したことなどにすぎなかった。

「夏の栞」を読めば、中野重治と佐多稲子が、愛と信頼の関係で固く結ばれていたことが知られる。この愛と信頼の関係は何と50年以上も続いたのである。

 中野重治を失ったときの佐多稲子の悲しみの深さを思うと、彼女は女として中野を愛していたのではないかとも思う。しかし、彼女は関係者から中野の葬儀委員長を引き受けるように説得されたとき、激して次のようなことを口走るのだ。その箇所を、本から引用してみよう。

『「私は、中野さんとのつきあいで、自分の、女であるというのが残念でしょうがないんです。私が、女でなかったら、男だったら、もっとちがうつきあいが、、、」
 今はじめて云うその口惜しさに、中野を喪った実感が重なり、感情が堰を切っていた』

 その後で、佐多稲子は人前をはばからず泣き出してしまう。泣きながら佐多稲子はその言葉を聞いて、人々が戸惑っていることを感じる。だから彼女はその後に続けて、こう書くのだ。

「意味不明ということは、云った当人も知っていた」

「夏の栞」に書かれていることは、すべて共感できる。でも、この一節だけはよく分からないのである。唐突に佐多の胸に突き上げてきた「女であることの無念さ」とは何なのだろうか。佐多稲子自身、その実体を掴んでいたのだろうか。

 つまり、中野と佐多の間にあった「愛のかたち」、これが分からないのである。

疑問を解くためには、佐多稲子について、もっと知る必要があった。

 だが、本屋に行っても彼女の本を探すことは不可能になって来ている。しかし彼女の作品は、日本文学全集に採録されている筈だから、古本屋に行って探せば見つかるかもしれない。

 行きつけの古本屋の棚に、新潮社の日本文学全集がバラ売りで出ていた。そのなかに探していた「佐多稲子集」があった。百円という安さである。

 早速購入して(一昨日)、「くれない」「樹々新緑」「灰色の午後」を読んだ。三つとも佐多稲子の自伝的作品で、夫だった窪川鶴次郎とのなれそめから始まって、結婚生活が段々崩壊してゆく次第が語られている。

佐多稲子の場合

 結婚当初、佐多稲子は作家修行の傍ら非合法活動を続ける窪川鶴次郎を、カフェの女給をしながら支えていた。夜遅くカフェから戻ってくる佐多稲子を、窪川は毎晩停留所まで足を運んで出迎えたが、この頃両者の関係は夜の商売をする女とそのヒモという関係に近かった。

 新婚時代の佐多が窪川に忠実だったのは、彼女にとって窪川が思想上・文学上の師匠だったからだ。彼女は中野重治に勧められて処女作「キャラメル工場から」を書き始める。執筆に当たって彼女は窪川の助力を受けている。

 窪川鶴次郎は、その頃の佐多稲子についてこう書いている。

「だいたい彼女の生い立ちには、机の前にちゃんと座って本を読むなどという習慣は、まずなかったにちがいない。夜が更けると小さな机につっぷしてすぐ眠ってしまう。それを起こしたところで、考えているうちにまた眠ってしまう。ただ眠いというだけでなく、(小説を書くのが)たいへんなことだから眠ってしまうのである」

 窪川が逮捕され、2年の刑期を終えて帰宅した頃には、夫婦の力関係は変わって来ていた。佐多稲子は作家として一本立ちして、もう夫の力を借りる必要はなくなっていた。そして、思想的にも夫に対抗できるまでに成長していたのだった。

 窪川鶴次郎は、自嘲を交えて妻に皮肉を言うようになる。「俺の留守だった二年足らずのうちにお前はすっかりえらくなったな」

 出獄した窪川も文筆生活を開始し、夫婦は二階の隣り合った部屋でペンを走らせることになる。狭い借家の階下には二人の幼児と老母、それに女中がいる。夫婦の一方が原稿を書き終えても、連れ合いが隣で仕事中だと思えば気の休まるときがない。お互いにとって息が詰まるような日々が続いた。

 夫の収入が乏しいので、生活費は妻が稼いでいた。この妻優位の生活体制の中で、佐多稲子は夫婦のどちらかが仕事場を別にすべきだと考え始める。彼女は老母と二人の幼い子供を抱えている。仕事場を外に求めるとしたら、夫に引き受けてもらうしかない。

 窪川鶴次郎も仕事場を別にすることには賛成で、妻にその話を持ち出されると、すぐに承知する。そして、別に部屋を借りるやいなや、バーの女と深い関係になり、その女と結婚すると言い出すのである。

 夫の口から新しい女が出来たとうち明けられた佐多稲子は、体に毒矢を射込まれたように苦しみ始める。私が彼女の自伝的作品を読んでいて一番感心したのは、自身の恥を少しの修飾や自己弁護をまじえることなく、ありのままに書き綴っている点だった。

 思想的にも経済的にも自立した女性が、夫の浮気を知って年端もゆかない小娘のように、ただひたすら藻掻き苦しむのだ。そして作家になったのが間違っていた、普通の主婦として夫に尽くしていたら、こんなことにはならなかったと悔い、仕事場を別にした夫を恨み、自分の過去と現在を全否定するような悲嘆の虜になる。

 ここに佐多稲子の本質があるのだ。彼女は決して強がりを云わない。去って行った夫に対する未練や執着を、正直に綴り、正確に表現する。

 平林たい子は、浮気をした夫を殴ってやったと書くが、佐多稲子は裏切った夫の愛撫に負けて、話し合い半ばに情痴の夜を過ごしてしまったと告白するのである。

 佐多稲子に自殺を考えさせたほどの夫の情事は、夫の愛人にパトロンがいることが判明して終息する。だが、事件は新聞種になって面白おかしく書き立てられる。当時の社会情勢下にあっては、「プロレタリア作家」の家庭が夫の浮気で危機に瀕しているというのは、格好の新聞種なのである。

 3年後にまた夫の新しい浮気が発覚する。相手は宮本百合子の学友で、窪川よりも年長の女医だった。この女医とは、宮本百合子を通して佐多も友人になっていた。夫はこの女医に体を見て貰っていたのである。

 不倫が明らかになったときに、夫は妻にぬけぬけと弁解する。
「患者というものは、医者に甘えるものだよ」

 佐多は宮本百合子を訪ねて、今度こそ夫と別れると告げ、夫にもその決意を伝える。が、佐多稲子は、別れ話の最中に夫に抱かれると、やすやすと体を許し、これまでにないほどの爛れた情痴の夜を過ごしてしまう。そして、爛れた関係は、その後も続き、二人は佐多稲子自身の言葉を借りれば「夜毎の情痴」に溺れてしまうのだ。

 彼女は恥を忍んで、「私たち、もう一度やり直すことにしました」と宮本百合子に報告する。彼女は、間違いを犯した夫を受け入れたことで、宮本に対してだけでなく誰に対しても顔向けがならなくなったと感じる。

 佐多稲子は、人々が次のような嘲りの目で自分たち夫婦を見ているに違いないと思ったのだ。

(新聞種になって、恥さらしの話題を提供した夫婦が、性懲りもなくまた同じようなことを繰り返している。彼らは、どうしてキッパリと腐れ切った夫婦関係を清算しないのか)

 前回の危機に際して、窪川夫婦は中野重治に全てをうち明けている。何はともあれ、この人だけには真相を全部知っていて貰いたいと思ったからだ。

 だが、今回は違った。佐多稲子は近所にいた中野重治を避けるようになり、そのくせ、中野一家が近所から別のところに転居すると、声を上げて叫び出したいほど悲しくなる。彼女は中野重治に見捨てられたと思ったのだ。

 佐多稲子は、次第に時局に迎合するようになって行く。
正直で潔癖な彼女は、自分に対する確信を失った瞬間から崩れはじめたのである。まるでブレーキがはずれたようだった。たまたま、彼女の書いた書き下ろし長編小説が版を重ねて、収入が増えた。すると、彼女は窪川と連れだってデパートに出かけて、家具などを買い込むようになったのだった。

 そして、彼女は従軍作家の一員になり、戦争に協力する姿勢を示し始めた。これはかっての「同志」たちに対する明白な裏切り行為だった。戦後、彼女はこのことで自分を厳しく責めることになる。

 だが、太平洋戦争が末期になると、作品を発表する場がなくなって彼女も沈黙せざるを得なくなった。ここで窪川鶴次郎がはじめて妻の代わりに生活費を稼ぐことになる。鉄道会社の東京支店に出勤するサラリーマンになった窪川は、いくらもたたないうちに又もや事務所の女に手を出すのだ。

 会社に泊まるという口実で外泊を続けていた夫が、遂に女と所帯を持っようになった。仲間を裏切って孤立した彼女は、今や夫の裏切りにあって完全に孤独の身になったのである。収入も途絶え、配給の食糧を買うために子供の貯金を下ろさなければならないほどになった。

 昭和20年5月、佐多稲子は、離婚に踏み切る。生涯の各時期についてそれぞれ自伝的作品を発表してきた彼女も、この離婚を決行した時期については何も書いていないようである。あまり辛すぎて筆を取る気になれなかったに違いない。

 戦後、中野重治や窪川鶴次郎は共産党に復党し、新日本文学会を発足させる。だが、中野重治の仲介にも関わらず、佐多稲子は新日本文学会に参加することを拒まれてしまう。戦争中の彼女の行動が問題になったのである。

 ようやく党と新日本文学会に加わることを許された佐多稲子は、いろいろな会合で別れた窪川と顔を合わせるようになった。両名とも、各種の委員や役員に選ばれていて、同席する機会が多かったのだ。彼女は他に人がいるところでは窪川とこだわりなく口を利いた。が、二人だけになると、口を緘して一言もしゃべらなかった。

 窪川鶴次郎は離婚してから20年後に死去している。窪川と佐多は、20年間を夫婦として過ごし、後の20年を他人として過ごしたのである。

 窪川と佐多の仲は20年だったが、佐多の中野重治との親密な関係は50年余に及んでいる。窪川と別れた彼女は、終始、中野重治と行動をともにしていた。彼女の生涯を通じて、佐多稲子の心に最も大きな場所を占めたのが中野重治だったことに間違いはないだろう。

中野重治と佐多稲子

窪川鶴次郎の場合

 実は、私は学生の頃に窪川鶴次郎と短い言葉を交わしたことがある。
 戦争が終わって数年して、大学へ講演に来た彼を囲んで座談会が開かれた。閉会後、希望者が残って話し合いがもたれたときに私もその場に残ったのだが、それは彼に中野重治のことを質問するためだった。

 このとき窪川は40代の半ばで、現役の評論家として活躍していた。が、見たところ彼は評論家というより腕のいい職人といった印象だった。彼は最近愛人にしたらしい若い娘を連れて来ていた。娘は座談会の席でも、窪川鶴次郎の横にぴったりくっついて座り、窪川の発言がきわどいところにくると、顔を赤らめたりしていた。窪川は傍らの「愛人」を意識してか、中野重治の話が出ると、わざと、
「中野のチンボに蝿がとまって・・・」
というようなことを口にしていたのである。

 だが、彼はあまり中年男の嫌らしさを感じさせなかった。人柄にさばさばした明るさのようなものがあったからだ。窪川鶴次郎は、早くに両親を失い、親戚の援助を受けて学業を続けたという経歴の持ち主で、そうした人間に特有の処世上の身軽さや図太さを身に付けていた。

 窪川鶴次郎は金沢にある旧制第四高等学校に、中野重治より二年遅れて入学した。しかし、中野が二回留年したため、彼と同級になり一緒に文学を語り、短歌を作るようになったのだ。この頃から、窪川は女性にもてたらしく、中野の妹も窪川に恋している。後に詩人になるこの女性は、別の男と結婚してからも窪川が忘れられず、彼にあてて箱一杯の手紙をよこしている。

 窪川は旧制高校を出てから大学には進まず、上京して役所勤めをすることになる。中野も東京大学に入学したから、彼らのつきあいはその後も続き、二人は昭和初年の東京で青春の哀歓をともにすることになるのだ。

 中野重治の作品に、窪川が職場での武勇伝を語る場面が出てくる。役所の休み時間に、雑談しながら女事務員の膝にひょいと腰掛けてやったというのである。そのまま話を続けていると女が感じだして、もじもじ膝を動かすようになったという話である。
臆面もなしに、女性に対してこうした大胆な行動に出る窪川が、女心を微妙にそそるのかもしれない。

 やがて、窪川は中野や堀辰雄、西沢隆二(ぬやま・ひろし)らと同人雑誌「驢馬」を出し、皆で佐多稲子の勤めているカフェを訪れるようになる。佐多稲子は「驢馬」の同人全員のアイドルとなるが、佐多が選んだ男性は窪川鶴次郎だった。

 窪川が佐多を獲得したのは、彼が同人の誰よりも「女ずれ」していて手が早かったからに違いない。だが、それだけが理由だったとは思われない。佐多稲子は器量を見込まれて資産家の男と結婚したが、その生活に破れて自殺を企てたという過去を持っている。彼女が水商売に入ったのは、その男との間に産まれた子供と、無職の両親を養うためだった。

 子供の頃から辛酸をなめてきた彼女には、窪川鶴次郎の明るさと軽さ、そして親戚に扶養されてきたことで身に付いた一種居直ったようなしぶとさが魅力だったに違いない。将来性という点では、窪川の条件が一番悪かった。でも、悪条件を背負って生きている佐多には、その方がいっそ気楽だったのだ。

 窪川鶴次郎は女にだらしなかっただけでなく、金にも時間にもルーズだった。彼は遅刻の常習者だったらしく、新日本文学会系の雑誌で、窪川の珍妙な随想を読んだことがある。

 三段組みで2ページの文章だったと思うけれど、それは彼が会合に遅参した理由をくどくど説明することだけで成り立っている「随想」だった。彼は文中に、会の招集者である中野重治の名前をあげて、こんなわけで遅れたのだから、どうか怒らないでくれと訴えていた。

(心臓に毛の生えているような窪川鶴次郎も、中野重治だけは怖いんだな)
とその時には思った。だが、今考えてみると、公器である雑誌にそんなことを書いたりするのも、窪川の側に中野に対する甘えがあるからだった。

 恐らく金沢の四高ではじめて顔を合わせたときから、窪川は中野に兄事していたのである。中野は窪川より2才年長だっただけではない。やることなすことすべてに窪川の先を行っていた。窪川は中野に一目も二目も置いていたのだ。

 これは窪川だけに限らない。「驢馬」の同人たちは、中野が左傾すると、堀辰雄をのぞく全員がその跡を追って左傾化している。

 中野重治は、窪川と佐多稲子との間に生まれた最初の子供の名付け親を頼まれている。夫婦関係の危機に際して、佐多と窪川がまず相談したのは中野重治だった。中野は、二人の結婚後、佐多稲子に対しても兄として振る舞うようになったのだ。

 佐多稲子は、たびたび夫の窪川に裏切られているうちに、窪川とは肌合いが全く違う中野重治に惹かれるようになる。

 私はやせ形で動きの機敏な窪川鶴次郎から、腕のいい職人を連想した。次々に異なる女性と関係を結ぶところを見ると、彼は愛情関係において「渡り職人」風だったのだ。料理人が包丁一挺を持って各地を渡り歩くように、彼は万年筆一本を持っていろいろな女のところを渡り歩いた。「渡り職人」が後腐れを残さないで新しい場所に移るように、窪川も古い女に未練を残さないで新しい女のもとに移ったのだ。

 女を愛しているときには、窪川は、骨身を惜しまずサービスする。そうした気遣いを怠らないから、相手の方でも寸前まで彼の愛情を疑わない。そして裏切られて初めて真相を知り、茫然となってしまうのだ。これは女性に対していかにも罪深い行動のように思えるが、窪川には罪の意識はない。それまでに精一杯愛情を注いでやったのだから、女に責められるいわれはないと考えているのだ。

 彼の生い立ちを考えれば、窪川がこう考えるようになるのも、無理からぬことかもしれない。

中野重治の場合

 中野重治に惹かれていったのは、昭和23年の初め頃、雑誌に紹介されている彼の詩を読んだからだった。それに引用されている詩は数編に過ぎなかったが、これを読んだ途端、肺腑をぎゅっと握られたような気がした。彼の詩を読んだと言うことは、私にとって一つの「事件」だったのである。

 それまで岩波書店刊行の本ばかり読んでいた「哲学青年」が、これを機にしてカーブを切り、詩や小説にも触手を伸ばし始めたのだ。

 以来、本屋で中野の詩集を探し始めたものの、何処にも見あたらない。諦めかけた頃に、上野図書館で小山書店の出した「中野重治詩集」を発見したのだ。私は上野図書館に通ってこの詩集をノートに書き写した。写し終えるまで、透き通るような幸福を感じ続けた。

 筆写本「中野重治詩集」を仕上げた後、中野重治の書いたものなら何でも読むようになる。自伝小説「歌のわかれ」は素晴らしかった。その抒情の美しさ。しかし、作品は重い緊張をはらみ、屈折した情感を幾重にも塗り込め、異様なほど密度が高い。

 その頃、戦前・戦中に発表された中野の評論・批評を取りまとめた本がいくつも出版されていた。中野は批評家としても一流だった。いや、過去・現在を通して、これほどすぐれた批評精神を持った作家はほかになかった。

 中野重治は斉藤茂吉(さいとうもきち)論・森鴎外(もりおうがい)論・志賀直哉(しがなおや)論などを書いている。これら作家論はいずれも創見に満ち、現在でもそれぞれの分野でもっとも優れた労作として評価されている。

 中野重治を読んでいると、当世風のかっこよさを唾棄し、剛直に生きて行こうとする勇気がわいてきた。浮華なものを離れ、正直に質朴に生きて行こうという気になった。彼の作品には人間本源の力を鼓舞するようなものがあるのだ。

 中野作品に接していると、わが身に確実に力の付き添ってくることがわかるのである。では、中野が取り出してきて、読者に手渡してくれる力とは何だろうか。

 中野は、魯迅(ろじん)や漱石の作品に触れると「自分もまたいい人間になろう、自分もまたまっすぐな人間になろう、どうしてもなろう」という気持になると書いている。

 真っ直ぐな人間、いい人間になろうとする中野の意欲は「どうしてもなろう」という言葉が示すように、祈りにも似て強い。これが読者を動かすのである。中野作品を読むことによって読者が受け取る力とは、正しく生きようとする倫理的な意欲に他ならないのだ。

 中野重治は生得の倫理的な志向を、同様の傾向を持った先人の作品を読むことによって補強しているのである。

高浜虚子によると、夏目漱石は四国で教師をしていた頃に「どんな人間になりたいか」と虚子に問われて、「完全な人間になりたい」と答えている。中野は自分と同型の志向を持っ漱石に鼓舞され、そこからエネルギーを取り込んで本来の倫理志向を強化したのである。

中野にはこの種の「本来的人間」を嗅ぎ分ける鋭敏な嗅覚がある。彼は漱石のみならず、有名無名さまざまな人々から道徳的エネルギーをくみ取って来て、それを読者に分け与えてくれるのだ。エネルギーの循環である。

中野とは反対のタイプと思われている小林秀雄も、「まっとうな人間になる」ことを第一に考えていた。小林の評論活動は、こうした志向の上に築かれている。「まっとうな人間になれ」とは、出入りの青年に向かって彼が口癖のように語っていた言葉だという。小林が文学青年に神様扱いされた秘密は、実はこうした隠された彼の倫理志向にあるのだ。

 中野重治は好き嫌いの激しい男だった。嫌いな教科を勉強しなかったために四高時代に二度も落第している。この好き嫌いの激しさも、倫理的な志向から来ている。

 彼は、たとえばニコニコ顔の教授が教える倫理学の講義を嫌った。相手の笑い方に、懐疑精神の欠如を感じ取ったためだ。

 中野が共産党に入党してマルクス主義文学運動に参加するようになったのも、真っ直ぐに生きようとする欲求からである。やがて彼は逮捕され、「転向」して出獄する。転向した作家の辿る方向は決まっている。牙を抜かれたようにおとなしくなるか、林房雄のように右翼になるのだ。

しかし、中野の書くものが精彩を帯びてくるのは、転向してからなのだ。転向後の敗者復活戦で、彼は息を吹き返す。不屈の粘りを発揮するようになるのである。

 中野は時流に乗って人気を得ている作家や批評家に噛みつき、猛烈な論戦を展開する。彼は自分のことを「いい頭ではないが、強い頭を持っている」と語っている。彼は、その強い頭でもってじわじわと論敵を締め上げて行った。そして、完膚無きまでに相手を叩きのめして、とどめを刺した。

 戦後、参議院議員になった中野重治は、政府や与党議員との論戦で、この強い頭を存分に発揮する。彼の演説原稿はいつでも、たった一枚の紙だった。彼が質問に立つときには、傍聴人が押し掛けてきて、委員会室が身動きならなくなった。彼は当時の参議院で一、二を争う弁舌家とされていたのだ。

 転向を強いられたことで、中野のエネルギーは圧搾される。そして、圧搾されたことで、それが噴出するときの鋭さが倍加したのだ。戦争に向かって進む暗い時代、中野重治は悪鬼羅刹のように群がる論敵を相手に戦い続けた。

 かくて、中野重治は心ある人々の精神的支柱になったのだ。沈黙を強いられている左翼シンパやリベラリストにとって、中野重治の存在が心のよりどころになった。中野の書くものには元気回復の力があり、それを読んで彼らは時代に迎合しないで生きる力を与えられたのだ。

 宇野千代(うのちよ)は、堀辰雄(ほりたつお)をつうじて中野重治に生活費援助の申し出をしているし、淡路島に住む未知の読者は、中野一家を招いて3週間逗留させている。あの頃、中野は時代の良心というべき存在で、保守派のなかにさえ中野に密かに援助の手をさしのべるものがいたのである。

 しかし、中野重治は普遍性のある作家とはいえない。私は中野のファンを増やそうと思って、彼の著書を多くの知友にプレゼントしてきたが、反応はほとんどなかった。あの独特な文体が障害になっているのだ。彼は平明な文章を書こうとして、かえって晦渋な印象を与える文章を書いてしまっている。

 だが、時折、思いがけない場所で中野を愛する人々に出会うのである。彼らは人間的な感触においてよく似ており、屈折した性格の所有者が多い。共通点は体制に順応することを拒否し、固有なものを守って愚直に生きて行こうとしていることである。

 中野を愛する者たちを、中野一派と呼ぶとすれば、佐多稲子も戦中戦後を中野重治を精神的支柱にして生きてきた一人である。佐多を知る人々は、異口同音に彼女が凛とした女性だったと証言している。

佐多は凛(りん)として清潔に生きた。

 だが、彼女は結婚に二度失敗して、自殺未遂をしたこともある。戦争中は従軍作家になって前線を慰問してもいる。彼女は挫折を重ね、過ちを犯し、敗者復活戦によって息を吹き返してきた作家なのだ。

佐多は凛として清潔に生きる力を、中野重治から分け与えられたのである。

 中野は佐多稲子に対して兄のような心遣いを示して来た。佐多が前線慰問に出かけて仲間の指弾を招いたときにも、
「稲子さんの話を、一度みんなで聞くかね」
と言って取りなしてくれた。

 詩人になった中野の妹鈴子(れいこ)は、「わたしは深く兄を愛した」という詩を書いた。彼女は生涯にわたって兄に愛慕の情を寄せているが、中野に寄せる佐多稲子の気持も、それに劣らぬものがあったのである。

中野重治と佐多稲子

「夏の栞」の前半に、入院中の中野重治の言動が記されている。

 入院してから中野が死去するまでの40日間、佐多稲子は毎日のように病院を訪れている。そうしたある日、女優をしている中野の妻の原泉が、テレビの仕事で出かけることになり、代わりに佐多が中野に夕飯を食べさせてやることになる。

食欲不振だった中野が、このとき、珍しくお粥をお代わりし、食後のメロンも食べた。
 原泉(はらいずみ)が帰ってきたので、佐多は中野の食が進んだことを告げる。すると、原泉は、ぱっというのである。
「稲子さんがくると、いつも張り切るんだから」

 実際、病床の中野重治は佐多が来るのを心待ちにしていた。彼女がやってくると、眠っていても中野は直ぐにそれを察知した。
ある日、病室に顔を出した佐多の耳に、原泉が口を寄せて囁いた。原の目には涙が溜まっていた。
「中野の足が冷たいの。触ってみて」

ためらいながら、佐多が中野の足に触る。すると、眠っていると思われた中野が、口を開いたのだ。
「稲子さんに足を撫でてもらっては、罰が当たるね」

妻の原が、切り返すようにいう。
「あら、稲子さんだってこと、どうしてわかるんだろう」
原は佐多とは50年来の友人で、互いに気心を知っている。そういう原でも佐多への嫉妬を押さえきれなかったのだ。

別の日に、似たようなことが起こった。
 眠っている中野の顔の上に紐が垂れていたので、佐多がそれを取ってやった。すると、中野が弱い声でゆっくり言った。
「稲子さんかア」
妻の原は、前と同じ言葉で咎めた。
「あら、稲子さんってこと、どうしてわかるんだろう」

中野は半分独り言のように答えた。
「ああいうひとは、ほかに、いないもの」
一瞬、佐多は身体が竦むような気がした、と書いている。50年に及ぶ長いつきあいで、彼女の裏も表も知り尽くしている中野が、そんな言葉で自分を褒めてくれたのだ。

 佐多はこのときの中野の言葉を、自分について言われた最上の言葉として胸に納めた。佐多が中野の言葉を自分が受けた人生最上の言葉と感じたのは、佐多にとって中野が何より大切な存在だったからだ。心から敬愛する人間が褒めてくれたから、この言葉は宝物のように心に残ったのだ。

この作品は「毎日芸術賞」を受賞している

中野と佐多の間には、長年連れ添った夫婦のような感情が流れていた。
「夏の栞」の結末の部分に、中野が雁の群を見上げながら、
「大きな群だね。・・・こういうのを見ると、やはり感動するねえ」
と語る場面が出てくる。

この場面に続けて、佐多は次のように書いている。

「こういうときの中野らしいその言葉を、再び聴くことはもうない。そして私の、私なりに照応するときどきの感動も、受けとめ手なく宙に浮くしかない」

 これを読めば、最愛の夫を亡くした妻の言葉かと錯覚するだろう。夫が何か言う。すると、妻の心も呼応して動き、その妻の反応を夫がまた受け止める。言わず語らずのうちに気持を通わせあっていた夫婦が連れ合いを失ったら、残された者は、自分の気持が「受けとめ手なく宙に浮く」と感じるにちがいない。佐多は中野の死によって、夫と死別した妻の心境になったのだ。

 中野と佐多は、これほどまでに深く信頼し合っていた。だが、それ故に距離を置いて交渉し続けたのである。佐多は原泉から「中野の足に触ってみて」と言われてたじろぐが、その理由を次のように説明している。

「昔の躾で育った私には、他人の肌に触れる、ということに強い拒否感覚があって、そのことで逡巡したのである。単純なそのためらいに、相手が中野重治だという意識の重なるのも自然であった」

 問題は後半の部分である。相手が中野だから、逡巡する気持が一層強くなったというのだ。それは相手が、原泉の夫だったからだとは思われない。

 原因は佐多の側にはなく、中野重治の側にあったのではないか。佐多とのつきあいで、中野が作り出してきた一種禁欲的な関係のためではなかったろうか。
 中野には少年のようにナイーブなところがあった。少年は一番好きなものには手を出さないものだ。相手に惹かれれば惹かれるほど、内に斥力働いて尻込みしてしまう。中野重治詩集から「煙草屋」という作品を引用してみよう。

その煙草屋はお寺のとなりにある
美しい神さんがいて
煙草の差し出し方が大そうよい
上品な姉と弟のこどもがいて
いつかなぞはオルガンを奏いていた
それに
顔つきの大人しい血色のいい主人がいる
もっと立派な煙草屋は千軒もあろう
そしておれも煙草を
いつもいつもよその店で買ってしまう
しかしおれは
そのお寺のとなりの煙草屋を愛している
その小さな店に
おれのさぶしい好意を寄せている

 好きな煙草屋で煙草を買うことが出来なかった中野は、好きな女にも手を出すことが出来なかったのだ。元々、彼は女性に対してシャイな男だった。

 「こういうひとは、ほかに、いない」と思えば思うほど、そのひとには手が出なくなる。自分が妻子ある身だというモラル上の制約に加えて、中野は彼女に惚れていたから手が出なかったのである。

 中野は田舎から餅を送ってくれば、それを手土産に窪川夫婦の新居を訪れた。子供が産まれれば名付け親になってやり、佐多にせがまれれば赤ん坊用の布団を買ってきて贈った。そして、佐多に小説を書くように勧め、その原稿を雑誌に載せるための労をとった。だが、彼は佐多に対して、男としての好意の片鱗も見せなかった。

 窪川との関係が破綻して佐多は自由の身になったが、中野が厳しく抑制している以上、佐多の方から積極的に動くことは出来ない。それでも、佐多は遠回しに自らの感情を書き綴らずにいられなかった。彼女は言う、中野への親しみは、「他とは違う独特の色合いを持っていた」というのである。そして、彼女は「中野においても同様だったかもしれない」と遠慮がちに書き加える。

 私が、中野に対する佐多の愛を疑わないのは、ほかにも理由があるからだ。
 佐多は、彼女について中野が何か言っていたと聞くと、中野から直接話しかけられたような気がしたと言っている。例えば、彼女は「稲子さんは、額が美しいね」と中野が言っていたと窪川から聞かされる。すると、彼女は中野から直接そういわれたような気持になるのだ。これは、恋する女に特有の心理ではないだろうか。

 中野と佐多は、相手への愛情を「同志愛」のレベルにとどめ、プラトニックラブにさへ発展させなかった。佐多が病床の中野の足に触れることをためらったのは、二人の間に、こうした最早習性になっている禁忌が働いていたためだ。
 佐多の不満は、中野が党内問題について彼女に何も話してくれないことだった。中野は、佐多との関係で男女間の感情を封印してしまっている。だとしたら、性差抜きの人間対人間の関係で接してくれればいいではないか。自分が女であるという理由で、党内の派閥や分派の問題を話してくれないのは納得できない。

だから、彼女は、次のように書くのである。
「常に私は、政治組織についての具体的話題を中野との間に交わし得なかった。私はそれを自分の女であるせいと考えて、あるときは焦燥を感じた」
 葬儀委員長になるように頼まれたとき、佐多が激して「女であることの無念さ」を語ったのには、こうした事情があったのである。

 中野は戦後共産党に復帰して中央委員になるが、路線問題で主流派と対立して党を飛び出している。路線問題で組織が割れて醜く争い合うのが、左翼組織の悪しき伝統である。中野は戦前から、こうしたことを経験してきている。彼は常に路線問題の渦中にあった。戦前戦後を通して、これに絡まる論戦に多くのエネルギーを投入してきている。

 中野が佐多を党内問題に巻き込もうとしなかったのは、分派問題の愚かしさを内心で感じていたからにちがいない。
だが、佐多はこの問題でも中野に協力したかった。中野のイエスマンになることで協力しようとしたのではない。反対すべきことは反対して中野の有能な助言者になることで彼に協力しようとしたのである。

 佐多は長年、婦人民主クラブを率いて会員の篤い信頼を得てきている。
 家庭でも同じだった。友人の壺井栄は、佐多が丁度仕事を終えたばかりのところへ訪ねて行った。佐多は、母と娘から「ああご苦労さま、ご苦労さま」とばかりに手足をさすって貰っていた。壺井は全集の月報にその様子を記して、「それは見ていてため息が出るほど、お家のみんなに大事にされている姿であった」と書いている。

 家庭であれ、団体であれ、佐多は組織というものの実体をよく心得ていた。だから、人々から深く敬愛されたのである。
新日本文学会では、彼女はこの立場から事務局長だった中野にあれこれ苦言を呈してきた。彼女は中野の傍らにあって、党内問題についても助言者でありたいと思ったのだ。自分では意識しなかったけれども、彼女は中野との関係で、夫を介助する妻の役割をにないたいと思っていたのだ。

 党の路線問題は、家庭や民主団体の運営とは異質の、底知れない闇を含んでいる。佐多だけでなく、周辺にいる知友を党内問題にかかわらせまいとした中野の態度は、正解だったのである。

 中野重治と佐多稲子は、離れたところにいても相手の存在を身近に感じるような関係だった。特に佐多にとって、中野に見守られていると感じることが生きる支えだった。彼女は凛として清潔に身を持しつづけた。それが可能だったのも、傍らに中野がいたからだった。

 だから、佐多は中野の没後、ある朝目覚めて中野がいないということに思い当たった時、泣かずにはいられなかったのである。

「しずもりかえった部屋に目を放ったとき、突然、中野重治は、もういない、という思いが私の胸をしめた。何の脈絡もなしに突き上げたその自覚は、まるで初めて中野の死を知ったかのように鮮明であった。中野重治が、もういない。私はそのつぶやきを口に乗せ、自分が宙に浮くのを感じた。宙に浮く私の、つかまりどころがもうなかった。今までは、中野重治がいた。中野重治がいる、と自分でそう思えばよかった。が、その中野が今はいない。突然、実感するその思いに私は、暗がりの部屋に感情を放って声に出して泣いた」

中野と佐多が取り交わした愛のかたちは、二人の人柄をそのまま示すようなものだった。清潔で厳しく、それでいて温かなものだったのである。(1999年8月)

(転載貼り付け終わり)

副島隆彦拝

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