「194」 信州旅行 ①
副島隆彦です。
今日は2026年9月4日です。
もうひと月前になりますが、私は夏休みということで信州旅行に行きました。熱海から松本まで高速道路を使って片道400km。松本市に2泊して、周辺をあちこち動きました。旅行のテーマは『文学』です。今日はそのことを書きます。
■松本城
熱海の仕事家を朝8時ごろ出発して、高速のサービスエリアで数回休憩をはさみながら、4時間半くらいで松本市郊外に着いた。運転手はドライブが好きな秘書Sです。夫婦堤(めおとづつみ)という所にある蕎麦屋で昼食をとって、それから、松本城に行った。松本城は、私は今回で3回目です。20代、50代の時に続いてです。3回目の時は、松本市の青年会議所の主催の講演会でした。
松本市は標高500mから800mの松本盆地にある、だだっ広い平野です。松本城は平城(ひらじろ)です。城の周りにも大したお堀はありません。平城というのは戦争用の城じゃないですからね。
松本城
松本城は江戸時代のはじめ、というよりも1590年ぐらいから建て始められているから、まだ戦国時代ですね。立派なお城です。もともとあったお城を、近代式に築城というか改築したのは石川 数正(いしかわ かずまさ 1533-1593 60歳で死)ということになっている。石川数正は秀吉から10万石をもらって、それで信濃国(しなのこく)松本( 領地は筑摩郡と安曇郡)の大名になった。彼はまあこのお城に来たことは来たと思うんだけど、そんなに長くは住んでいなかったでしょう。

石川数正(BUSHOO!JAPAN武将ジャパンから)
石川数正は、実は、大変に謎の人だ。彼は家康に仕えていたんだけど、1585年に三河の岡崎城を出奔(しゅっぽん。武士が失踪すること)するんですね。家康の前からいなくなって、そのまま秀吉の下(もと)で大名に取り立てられた。実に不思議な話なんです。戦国ものが好きな人たちなら、皆この話を知っている。
そこで私、副島隆彦の説『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』です。私はこの本をもう11年前、2015年に出しました。家康は改名する前は三河大名の松平元康(まつだいらもとやす)だった。しかし1562年に、19歳だった本物の松平 元康(まつだいら もとやす 1543―本当は1562 21歳で死)は、岡崎城内で殺された。殺したのは、同じく19歳の世良田元信(せらだもとのぶ、1543-徳川家康として1616 73歳で死 )という戦場忍者(喇叭、らっぱ)です。そして世良田元信がそのまま摩り替わって城主で三河大名(みかわだいみょう)の松平元康(もとやす)を名乗ったんだ。そして、その3年後に、家康(いえやす)と名前を変えた。さらに3年後に、徳川(とくがわ)の姓を名乗った。徳川家康の誕生です。

アマゾンリンクへ 『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』 副島 隆彦: 本 PHP研究所 2015/12/17
石川数正は、その(本物の)松平元康とは幼少時からの親しい友人でもあった家臣ですから、当然、すり替わったことを知っていたんですね。(本物の)元康が殺されても、その息子 信康(のぶやす3歳)が生きて駿府(静岡市)から連れ戻されていたから、新・松平元康(3年後に徳川家康に改名)に18年間仕えた。それでも1579年、家康に西郷局(さいごうのつぼね。掛塚(かけづか)の服部三太夫の娘)との間に、子供(秀忠 ひでただ)が生まれたら、信康(21歳になっていた)とその母親である築山殿(つきやまどの。瀬名姫 )も殺された。そのあとの6年後の1585年に、石川数正は家康の元から出て行ったんです。そしてまた、後年、家康のもとへ戻ってくる。

築山殿(1542-1579)

松平信康(1559-1579)

徳川秀忠(1579-1632)
戦場忍者、願人坊主(がんにんぼうず)とか、ささら者(雑種賎民)とも言う。戦場を駆け回る、盗賊集団のような荒くれ者の、その一団に入っていたのが、世良田元信(せらだもとのぶ) だ。1560年に桶狭間(おけはざま)の戦いがあって、織田信長が今川義元(いまがわよしもと)を奇襲攻撃して勝って首を取った。残りは駿府に逃げ帰った。その翌年、今川義元の子分だった(本物の)松平元康が、親分である今川義元を失って岡崎城に帰って、茫然としているところに、世良田元信が現れた。世良田たちは、自分たちが前もって誘拐していた元康の息子(信康2歳。人質として今川氏の駿河にいた)を連れていた。「松平元康様の息子殿の信康殿を救い出して参りましたぞ。私どもは、松平元康様の家来になりまする」と言って、岡崎城に入り込むことに成功した。
世良田元信はその半年後ぐらいに、松平元康を殺して摩り替った。そして自分が三河大名、岡崎城主 松平元康を名乗った。この説はもうこれ以上は話しませんが。前述の、私が書いた本に詳しくあるので読んでください。
〇参考YouTube おしえてソエジー 家康はすり替えられた
世良田元信が摩り替ったあとの松平元康は、3年後に徳川家康という名前に変わる。その手続きとして、京都の藤原氏の筆頭の公家で「氏(うじ)の長者」の・・・に頼んで、朝廷から許可を得て、手配したのが信長です。このあたりのことは歴史の本に、定説として書かれています。
だから石川数正たち、(本物の)松平元康の重臣だった人たちは、自分たちの君主が摩り替ったことを知っていた。自分たちの主(あるじ)である(本物の)松平元康は殺されてしまったけど、それでも、もういいと。松平元康の息子の信康(3歳)がいるから、この子を守って盛り立てようと、そのまま家康に仕えたんですね。でもやっぱり我慢できなかった。
松本城に話を戻すと、立派なお城です。もともとは深志城(ふかしじょう)といって、戦国時代(1504年)初期に作られた。そのあと武田信玄に占領された(1550年)んだけど、本能寺の変(1560年)の混乱のときに、小笠原氏が奪還したそうだ。松本城として(1582年に)整備されたお城です。
天守閣が残っているのは、現在、日本全国に16しか残っていないのかな。1615年に、徳川幕府から「もう以後は城を建てるな」という命令が出て、築城できなくなった。だから現存しているお城の一つ、松本城も名城です。姫路城に次いで立派な城でしょう。

武家諸法度の一条 一国一城令 第134回【歴史】江戸時代に造られたお城ってどれくらいあるの? から
松本城は信州(松本藩)統治の拠点だったけど、松平(まつだいら)一族のサラリーマン大名みたいな連中が何代も継いでいく。同じくこのお城を継いだ水野とか小笠原とかも譜代(ふだい)の大名です。彼らがどんどん入れ替わって城主になったけど、彼らは松本に何の縁もない。地元との密着もなくて、ただ大名というだけですね。地元の人たちもほとんど知らない。サラリーマン大名というのは、なかなかいい言葉ですね。私、副島隆彦が作ったんだ。
だから松本の地に松平家は根付いていないです。一族も住んでいないはずです。サラリーマン大名というのは、ほとんど江戸にいるんですね。松本城は支店みたいな感じで、ただの支店長というか、あんまり味わいがない。城主たちの歴史とか残っていないだろう。
〇参考サイト 松本城の歴史 | 国宝 松本城
明治になってからは、松本城に誰も近寄らなくて何年も放置されていた。1872(明治5)年頃に、松本城をなんとか保存していこうという会ができて、その人たちがお金を集めてお城を修理して、今の松本城を残したそうです。だからこの天守には、地元の鉄砲研究家が収集した鉄砲の飾り物がいっぱいあるだけでしたね。
〇関連記事 「 特集】“松本城を救った男” 通説を覆す新事実!? 城は「買い戻し」されなかったのか…新たな研究結果が判明 その真相は【長野・松本市】 」(テレビ信州) – Yahoo!ニュース 2026/8/27
■松本盆地
松本盆地は水が豊かというか大変な水量のあるところです。周辺はずっと立派な豊かな田んぼや畑だったんでしょう。長野の、信州の人たちは、標高600m~800mという所に住んでいますから、肺が丈夫なんだと思いますが。周りに連山、連峰が見える。北アルプスと今はあまり言わなくなって、飛騨山脈と言います。
松本から東側の、北東の方向に篠ノ井線(しののいせん)という田舎電車があるんですね。川沿いの、この篠ノ井線を山の向こう側に抜けたら、ようやく長野市がある善光寺平(ぜんこうじだいら)=長野盆地 です。この篠ノ井線という名前すら、長野県人以外は知らないと思いますよ。小さな駅をずっと辿っていくんです。

松本盆地
だから長野県というのは県の真ん中に大きな山(古くは、筑摩山脈と言ったらしい)があって、それを境に一方に長野市と、その反対側に松本市がある。東京から松本へは、中央線が走っています。新宿から出発して、甲府を通って山梨県を通ってさらに北上して、諏訪湖のほとりを通って、茅野市(ちのし)から、さらに北上してやっと松本に到着する。こういうことは、現地に旅行で何回も来た人じゃないと、意外と知らないんですよ。
長野市の方へは、東京、上野から、信越線(しんえつせん)で、北上する。群馬を通って、軽井沢、小諸(こもろ)を越えて、ようやく長野市です。今は長野新幹線が走っている。だから、長野県は大きくふたつに分かれている。
■安曇野
松本より北の方の一帯を安曇野(あづみの)といいます。景勝地として有名です。これは昔、安曇郡(あずみぐん)だったんですね。その面積も広いから北安曇、南安曇と二つに分かれていたのかな。
臼井吉見(うすいよしみ 1905-1987)という安曇野出身の作家がいる。彼は筑摩書房の幹部社員で、『展望』(てんぼう)という雑誌の名編集長をずっとやっていた。臼井吉見が『安曇野』という物語を書いたんです。
かなりの長編小説です。この小説で安曇野は有名になったんです。後述する相馬黒光(そうまこっこう)とか、相馬愛蔵(そうまあいぞう)、荻原禄山(おぎわらろくざん)も登場する。臼井吉見は安曇野市で最大級の文化人だから記念館があるんですが、私が訪ねた時は休館でした(土曜日、祝日、年末年始が休館日)。

安曇野
安曇野では「うしこし」という有名店のおやきを、うれしそうに秘書が買ってきたので、朝食に食べました。前日夕方の居酒屋では蜂の子(黒スズメバチの幼虫やサナギを甘露煮にしたもの)とかイナゴ(バッタの仲間。甘辛い佃煮)にもチャレンジしていましたね。全く、女性の欲望というのは直接的で・・・男たちにはよく分かりません。
うしこしのおやき
松本盆地はとにかくだだっ広いんですね。だから山岳地帯という感じはしない。大平原ですね。畑、田んぼにならないところは草原地帯のままだったと思います。木も生えてたと思うけどね。とにかく、きれいな立派な太平原です。
■碌山美術館(ろくざんびじゅつかん)
安曇野に穂高(ほだか)という駅がありまして、その駅から近いところに荻原 碌山(おぎわら ろくざん 1879-1910 30歳で死)という人の記念館がある。本名は荻原 守衛(おぎわら もりえ)です。碌山は最初の頃は絵も描いたけど、彫刻家として有名です。20歳で上京、21歳のときに勉強のため渡米した。それからヨーロッパに渡って、27歳で日本に帰って来た。オーギュスト・ロダンの彫刻に憧れた。帰って来て、それからたった3年間、30歳で死ぬまでにブロンズの彫刻を作ったんです。ブロンズ像というのは 石膏の像を型にはめて作る、青銅、鉛とかが入ってる硬い青黒いやつです。だから何百年も残る。

碌山美術館– Rokuzan art museum

萩原碌山
この荻原碌山はオーギュスト・ロダンに憧れてね、パリとニューヨークに6年ぐらいいたのかな。だけど日本に帰ってきて3年で死んじゃいますからね。記念館自体は、小さいけどなかなかいい建物です。この人の一生分の作品が全部飾ってありました。
その中に『女』というブロンズ像の作品がある。これは日本の中学校高校の美術の教科書に必ず載っている、それぐらい有名な作品です。女性が後ろに手を縛られたような感じで立ち上がって、裸体でね、上を向いている。元の石膏を型にとって固めていくから、正確には塑像(そぞう、モールディング)と言うんです。彫刻(スカルプチュア)ではない。あと有名な禄山の作品に、『坑夫』(こうふ)というのがある。
。
『女』

『坑夫』
荻原碌山は27歳で日本に帰って来て、日本の近代彫刻の始まりと言われて。もてはやされたんですね。4歳年下の高村 光太郎(たかむら こうたろう 1883-1956 73歳で死)と、パリで出会っています。高村光太郎も彫刻家です。『手』というブロンズの作品と、この人の『智恵子抄』という詩が、今もほとんどの国語の教科書に載っているから、みんな知っているでしょう。

高村光太郎のそのお父さんが彫刻家の高村 光雲(たかむら こううん 1852-1934 82歳で死)です。光雲の作品で『老猿(ろうえん)』という有名な彫刻がある。日本の彫刻で有名なのはこの『老猿』と『女』とね、あと何体もないんですよ。本当に。
だから荻原碌山(本名:荻原守衛)は、日本の重要な彫刻家なんだけど、あんまり評価されていない。というかもう30歳で死んでるからね。だけどここにこうやって、これだけの作品を残してあるっていうのは大変よいことで、100年、200年残るでしょう。

高村光雲 と 『老猿』
■相馬黒光
私にとってもっと重要な人物が、荻原碌山(守衛)と付き合っていた女性にいる。有名な、立派な人で、仙台の出身で、相馬 黒光(そうま こっこう 1876-1955)という人です。安曇野の穂高(ほだか)出身の相馬 愛蔵(そうま あいぞう 1870-1954)と結婚して相馬の姓になった。

相馬黒光
黒光の旦那さんの相馬愛蔵の実家は、穂高の駅から2、3kmのところでした。私は、そのあたりまで行ってみましたが、もう実家も何も残っていませんでした。

当時の相馬愛蔵の実家
この相馬愛蔵(28)と黒光(22)は結婚してすぐ、この安住野に帰ってきたんです。その時、黒光と碌山(19)が出会ったんですね。碌山が常念山(じょうねんざん)の方の風景のスケッチをしていたところを、黒光が話しかけたと。
〇参考HP 相馬黒光という女
まあ田舎の暮らしはいろいろ大変ですから。相馬夫妻は「やっぱりもうここ(安曇野)にはいられない」と言って上京して、まず東京の本郷にあった中村屋というパン屋さんを店ごと買った。その後新宿に移転して、今も繋がる中村屋のパン屋というか、有名なカレーライス店「新宿中村屋」になる。

新宿中村屋
相馬夫妻はパン屋さんをやって、クリームパンを発明するんです。これが大当たりした。だから相馬夫妻は実業家なんですよ。大変なお金を稼いで、当時、新宿駅西口のあの辺全部が中村家のお屋敷だったんです。その前に、路面電車(チンチン電車)の都電(とでん)の乗車場があった。その向こうが新宿駅です。そのお屋敷兼 お店におそらく100人くらい職人を抱えていたと思います。だから経営者としては大変な才能があって、時代を見る目があったのね。
相馬夫妻
この相馬黒光は仙台の旧士族の出身です。武家の系統といっても、明治にはもう裕福ではない。貧乏ではあっても当時、旧侍(さむらい)の娘たちは7、8歳から学校教育を受けますからね。明治の中頃ですから、そのあとミッションスクール(キリスト教主義学校 )に行くんです。そうすると、イギリスやアメリカから宣教師か、あるいは「なんとか夫人」みたいな立派なおばさまがその学校に来てましてね。その人が女学校みたいなことをやるんですね。黒光もそういう学校に入ってます。だからハイカラさんなんです。
日本の明治30年代40年代というのは、大変なハイカラさんたちの時代で、外国の、西欧の文物(ぶんぶつ。文化の産物。学問・芸術・宗教・法律・制度など、文化に関するもの一切)が日本に入って来た。それは村岡花子の『赤毛のアン』の世界ですね。写真館とか映画館 ができて、ピアノを弾く人が出てきて。東京からわーっとハイカラな文化が地方にもやってきて、特に田舎ほどわーっと広がった。特に長野や東北地方に広がったんですね。

明治40年頃の浅草、丸の内、銀座
江戸時代までは中国式の漢文(かんぶん)を読むこと、漢籍教養人(かんせききょうようじん)が日本の知識人の代表だったんだ。だけど、明治になると、一気にキリスト教になった。「聖書を一所懸命に読んで理解すれば、自分たちは西洋白人と対等になれる」という強烈な強い意志が働いた。
その時の、日本人のインテリ層の頭のいい人たちに、そういう激しい情熱が湧き起こっていたんですよ。だから、みんな教会に通ったんです。キリスト教が光り輝いていたんですね。
相馬国光もそういう環境で育って、やがて横浜のフェリス女学校に入学して。それから明治女学院に行ってますね。美人で、気の強い立派な女性だったんだと言われている。だから周りから大事にされて、特別待遇だったようです。
黒光より前の時から、女性解放運動の走りの女性たちがいて、そういう女権運動家たちとも黒光はお付き合いがある。女たちの言論雑誌が発売、発行されるようになってそこで目立つ存在だった。
しかし黒光自身は、「自分は文学者としての能力はない」と分かっていてね。死ぬまでに自伝みたいなのを6冊出してますが。実際は女経営者として「中村屋」を大きくした。旦那さんの相馬愛蔵の実家があ、前述した安住野の穂高の立派な農家だった。生糸とか蚕(かいこ)を飼って絹織物を作って、名主(みょうしゅ)階級だと思います。地元の青年たちを教育したりした。だから夫婦ともにハイカラさんなんですね。
■黒光と碌山の出会い
碌山が27歳の時です。相馬夫妻が新宿に移った後、帰国した碌山も新宿の西口で今の浄水場があるところ、今の新宿副都心だけど、当時は原っぱだったところにアトリエを作って彫刻を始めた。それで相馬夫妻が主宰する、芸術家が集まるサロンに出入りしたんです。
それで碌山が例の『女』という像を作るんです。ブロンズ像が完成して飾られるのを見て、黒光の子どもたちが「あっ、お母さんだ」って言ったって。だから碌山と黒光は愛人関係でね。かつ碌山は相馬家に頻繁に手入りして、黒光の旦那さんを含めて相馬家の家族と一緒にご飯を食べたりしている。黒光の子供たちと一緒に遊んだりね。
帰国して3年後、碌山はこの相馬家で大量に血を吐いて死ぬんです。まだ30歳でした。お葬式のとき、黒光は碌山のお棺にすがりついて泣いたそうです。黒光は、性関係にオープンな他の女性解放運動の人たちとは違うんだけど。ただやっぱり、この碌山(萩原守衛)とは男女関係があるんですね。
黒光の旦那さんの相馬愛蔵との間に8人子供を作ってるから、夫婦仲はいいんだけど。愛蔵は、碌山と黒光の関係を知っていても別にいやがらなかったっていうから面白い人で。ん?何か反論がありますか?
【秘書S:子どもが多いから仲がいいなんて、単純だと思います。多産DVっていうのもあるんですよ。男のプライドからくる歪んだ嫉妬って計り知れないものですよ。与謝野鉄幹だってね…(略)】
あーそうですか(無視)。 相馬愛蔵も黒光も、戦後まで生きています。戦後10年間ぐらい。そして碌山のこれだけの作品が残ったと。こいうことが安曇野の中心の穂高駅のあたりの真実ですね。この荻原守衛(碌山)の記念館、「碌山美術館」ができたのは戦後の1960年代です。日本の東京美術大学とかの先生たちが協力してね。ここに行ってよかったです。
(信州旅行 ②へ 続く)
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