「193」 副島隆彦が初めて語る カント 3⃣

副島隆彦です。
今日は8月13日です。副島隆彦のカント論 序章 の最終回です。
話は多少前後しますが、まとめていきます。

若い時のカントは、神秘主義 mysticism ミステシズム に深く傾倒し「人間には分かり得ないものがある」とした。カントは独断と偏見に走らない。常に疑い、考え続けた。だから「ものごとを決めつけない」という、保守的な態度になる。またカントは、現代の私たちの中に有る、スピリチュアリズム、霊魂主義(れいこんしゅぎ)につながる考えも持っていた。

 

■ 超越主義 トランセンデタリズム
超越主義(ちょうえつしゅぎ)transcendentalism トランセンデタリズム とは、ものごとをピョンと飛び越える、ということだ。カントは「人間が分かり得ないものごとについては、その向こう側へピョンと飛び越える」という考えにも立つ。超越的というコトバは、最近はものすごくよく使われます。分かり得ない “ものごと” というのは、「人間が存在する前からあったもの」みたいな意味ですね。

これは簡単に言えばスピリチュアリズムです。わかり得ない “もの” の前で、わかったふりをしちゃいかんと。ここがカントの偉さです。

 

■   人権(貧乏人たちの権利)はまだなかった
フランス革命後の1790年頃でも、「人権」human rights ヒューマン・ライツ というのはまだないんです。人権の一歩手前の「自然権」natural rights ナチュラル・ライツはあった。

「人権」ヒューマン・ライツというのは、貧乏人たちが「俺たちにも、生きる権利があるんだ」と言って騒ぐことなんです。当時は、その一歩手前の、市民たちまでの権利しか存在しなかった。貧乏人はいるんだけど、存在しない。

【秘書S:貧乏人は「いる」けど「存在しない」というのは、農民とか庶民は、生き物(動物)として「いる」けど、人として「存在しない」ということですか?人間扱いされていないということですか?】

そうですよ。貧乏人の権利どころか、人間扱いされていなかった。
「人権」human rights ヒューマン・ライツ の前が「自然権」natural rights ナチュラル・ライツ。自然権の前に「自然法」natural law ナチュラル・ラーというのがある。この自然法で、「神様が決めたんじゃない」と言い出したんですね。「人間たちがみんなで決めたんだ」と言い出した。

〇参考YouTube おしえてソエジー ヨーロッパ政治思想の全体像
〇参考YouTube おしえてソエジー 人権 本当にあるのか。見せてくれ。

だからフランス革命で、カソリック教会の坊主たちを捕まえて死刑にしたり、そういうことを実際にした。民衆は、とにかく、カソリック教会が嫌いなんですよ。こういう時代背景を分からなきゃいけない。

 

■  ケーニヒスベルグという町で、毎日、同じ時間に散歩
カントに戻りますが、散歩の話は有名ですね。ケーニヒスベルグというバルト海に面している町に、カントはずっと住んでいた。今はカーリングラードいう地名で、ロシアが飛び地として占領している。そこにはロシアの大きな軍港があって、バルチック艦隊はそこから出航するんです。だからバルト海全体にロシアの艦隊がいる。

バルチック艦隊は日露戦争(1905年)のときに、日本までやってきました。アフリカの喜望峰をぐるっと回って、はるばる日本まで来たんですね。1894年の日清戦争の黄海(旅順沖)海戦で日本軍に敗れていたからそこを通れなかった。日清戦争というのも、開戦直前に日英通商航路条約を結んでイギリスが日本を助けた。だから日本が一応「勝った」ことになっている。この日清戦争というのは、イギリスが、清国(大清帝国)と日本の両方を上から管理して起こしたんです。それで日本が勝ったことにした。このことは、先日出した近藤大介氏との対談本『アメリカの衰退で世界覇権を狙う 中国の実力』の中でも触れました(P44)。

アマゾンリンク へ  アメリカの衰退で世界覇権を狙う中国の実力-G2の狭間で探る日本の針 2026/8/3 ビジネス社

 

日露戦争の時、ロシアは、友好国のフランス領の港を利用しながら大西洋〜インド洋〜南シナ海〜太平洋〜東シナ海のルートで日本に来るしかなかったんです。日本に到着した時はもうクタクタだ。


バルチック艦隊東航図(日本海海戦 wikiから)

かつ、ロシアと戦う日本の戦艦を、実際に操縦して指揮をしていたのはイギリスの士官たちです。日本政府は日露戦争にかかる費用を、イギリスの口利きでアメリカのロックフェラー系の会社から借りている。だから日本は日露戦争に「勝った」んです。司馬遼太郎(1923-1996 72歳で死)の小説は悪質なウソばかりでね。

司馬遼太郎

日露戦争を描いた『坂の上の雲』amazonの紹介文

 

カントに話を戻します。カントはケーニヒスベルクでずっと暮らして、大学教授をやって、死ぬまでそこを離れなかった。パリとか、他にもベルリン大学に来いとかいろいろ誘われたけど、行かなかった。

カントは毎朝4時に起きた。4時に起こすよう使用人に命じてね。使用人は、ランペイと言う名前の元兵隊の男です。朝の2時間を自分の時間として大事にして、その後の午前中は大学に行って授業をした。昼食を食べて、他の学者や友達たちと楽しく話をしたあと、毎日3時半から1時間、リンデル街というところを散歩すると決めていた。周りの人たちが「カント先生がいつもの散歩をしている」と、それで時計を合わせたっていうくらいに、キチキチッとしてる人です。

キチキチと暮らして、だから徹底的に自分も律して、結婚さえもしていない。女が要らなかったというか、つまりお坊様と同じで、カントは性欲を断ち切っているんですよ。女を抱かなきゃいけない、我慢できない男がほとんどですが。カントの偉さは、こういうところにもある。

お坊様(神父、聖職者)が性行為なんかしたらバカにされますから。でも実際の坊主(聖職者)は、日本もそうだけど、ヨーロッパでも男はやっぱり性欲を我慢できないからね。裏で女に手を出して子供を産ませたりしていた。それに怒って、信長は比叡山を焼討ちにした。カントはホモセクシュアリティーでもないんです。カントが大尊敬されているのはそういうことでね。

 

■ 経験論と合理論をまとめ上げた、だけでなく「人間の理性の限界」に言及したから偉大
empiricism  エンピリシズム は、経験論と普通は訳されて「人間の全ての知識は我々の経験に由来する」とする思想だ。イギリスの坊主(神学者)、デイビッド・ヒューム(スコットランド生まれ)とジョージ・バークリー(アイルランド生まれ)が提唱した。

デイビッド・ヒューム


ジョージ:バークリー

experience エクスペアリアンス と言う単語が、日本語で「経験」だ。しかしその言葉は使わない。イギリスの経験論は、empiricism エンピリシズム  です。今でも、欧米人は empirical エンピリカル という言葉をものすごく大事にしている。例えばカルフォルニア大学のバークレイ校は、Empiricism エンピリシズム の思想でできているんです。
カリフォルニア大学バークレー校
【カリフォルニア大学は1868年に同州によって創設された総合大学群で、州内10か所に分散するキャンパスにそれぞれ巨大な総合大学や研究教育施設をもつ。カリフォルニア大学バークレー校はその中で最古の歴史を有しており、カリフォルニア大学の旗艦校にあたる。教育および研究水準は極めて高く、米国公立大学の最高峰として、US News世界大学ランキング第6位、THE世界大学ランキング第9位に評価されている。

大学のモットーは “Fiat lux”(そこに光あれ / Let There Be Light)。バークレーの地名は19世紀半ばに新たに町が建設された際、『視角新論』などで知られるアイルランドの哲学者ジョージ・バークリーにちなんで命名された】

 

副島隆彦です。カントはこの “イギリスの経験論”  を20代の頃から読んで知っている。それと、前回話した物理学や数学の基本もそ知っている。後者は理科系の学問ですから、客観・実在を前提とする。この矛盾に、カントは苦しんだ。

だから「イギリスの経験論と大陸の合理論、この2つを合体させたのがカントだ」と言われます。バカ学者でもこう説明する。高校の倫理や歴史の教科書にもそう書いてます。

それらを、カントが一所懸命にまとめ上げたのが『純粋理性批判』です。カントは「理性というのには力がある。人間の理性によって、人間は生きて、行動している。神の命令によってじゃないんだ」と言った。そして「しかし、それには限界がある」とも言ったんです。

この「人間の理性に限界がある」と言ったところが、カントの偉さです。「人間には分かり得ないものがたくさんある。そして、それ以上はもう分からない」というのがカント思想の最大の特徴です。そこを日本のカント研究者たちがいい加減にしている。「分かり得ないものの前では黙らなきゃいけない」という謙虚さが、カントにはある。

「理性にも限界があって、それ以上はもう分からないんだ」としたカントは、その分からないことを、「もの自体」Things as itself と呼んだ。ドイツ語では Ding an sich ディン アン ジッヒ です。Ding は「もの」のことですが、物質じゃないですよ。An sich が「分かり得ない」。だから「もの自体」すなわち「分かり得ないもの」、実はこれが、「神」なんですよ。

 

■ 「分からないこと(=神のこと)は語らない。否定はしない」という、実は保守思想
「分かり得ないものについては語らない、分からないことは分からないんだ」と。それで、この「分からないこと」というのは「神」のことです。だから「神を否定するところまでは、私たちは行かない。ただ、それについては語らない」とカントは言ったんです。

それまでの思想はすべて、「object オブジェクト(対象、物資)が、 perception パーセプション(認識)を生む」だった。「世の中すなわち外側世界が、人間の認識・理解を作る」というのが従来の考え方だった。けれどカントはそれをひっくり返した。これがコペルニクス的転回と呼ばれている。

カントは「人間はすべてを分かり得ないんだ。そのことを最初に冷酷に書きましょう。それについては謙虚になりましょう」と。「人間の認識が対象を作り出す」と言ったから、物質主義者ではない。

それに対抗するのが、物質実在主義とか物質中心主義といわれる  materialism マターリアリズムです。私、副島隆彦なんかは左翼思想だから、それが前提で、物質実在主義の系統の左翼思想をずっと、15歳のころからやってきました。だからそこで、カントの保守思想と争いになるんです。カントは物質実在主義を取らない。

カントはあくまで認識論で、「人間の認識力(パーセプション)や理性には限界があって、何もかもは分かり得ないんだ」と言う。宇宙についても物質についてもね。分かり得ないものについては、それ以上は研究できないんだ」と。ここがカントの偉大さなんです。

こういうことを日本のカント研究学者が言わないで、グチャグチャと難しい論文を書くから、みんな付き合いきれない。だから私、副島隆彦がもう70代になってから言わなきゃいけない。

カントは物理学とか数学に対しても厳しいんですよ。「あなたたちが、世界を全部理解したみたいに言うな。人間はどうせ全てを分かり得ないんだ」と。

当時、「宇宙というのは、ぐるぐる渦を巻いているらしい」と分かったんです。今は銀河系と言われます。星雲(せいうん neburaネビュラ 、ラテン語の「雲」を語源とする)というんだけど。どうも宇宙にはこの秩序というのが出来上がっていると、カントは考えた。だから晩年は『恒久平和のために』という大論文、戦争をやめなさいという論文を書いたんです。だから、カントたちは保守思想家だということになっている、今はね。

 

■ フランス革命の前年に、二冊目の「実践理性批判」を出版
カントが57歳で『純粋理性批判』を出して(1781年)ヒットさせた8年後、1789年にフランス大革命が起きた。カントはちょうどその頃、2冊目の『実践理性批判』Kritik der praktischen Vernunft,1788 を出版している。これはethics エシックス 倫理・道徳に関する本で、「道徳とは何か」「道徳的に行動正しい行動とは何か」を書いた。続いて『判断力批判』Kritik der Urteilskraft,1790 を出した。「人間の判断力というのはどうやって生まれるんだ」ということを調べた本です。

カントの思想をまとめると、カントは人間の能力を以下のように説明した。

・感性(感受性)Sinnlichkiet ジンリヒカイト :性欲もここに入る。物質を求める力。
・感覚 Empfindung エンプフィンドウング:英語で言えばSense。
・直観 Anschauung アンシャオウング :前回話したように、「5×7が12というのは直感で分かるんだ」と。この数字と、それから時間、空間も人類はね直感で分かるとする。
・現象 Erscheinungエアシャイヌング:英語ならphenomenon。外側世界、表象(ひょうしょう)。
・もの自体 Ding an sichディン アン ジッヒ:もう人間はそこには及ばない。それが実は「神」です。自分(カント)はそれ(神)には触れないと言った。

カントは60歳を超えたら、あとはずっと非理解と道徳倫理だから。「汝(なんじ)の意思の確立が、常に同時に立法者の普遍的意思と合致するように、そのように行動しなさい」と。

要するに「真面目に行動しなさい」と。それが68歳の時に書いた『実践理性批判』なんですね。「道徳と秩序を大事にして、自分の行動を律しなさい」と言った。だからカントは、現在においては保守の思想です。

 

■   同時代のフランスの啓蒙思想家
1700年代、神(かみ)を否定し始めた市民や裕福な農民が、啓蒙思想をものすごく大事にした。この時代の、フランスの啓蒙思想家がルソー(1712-1778)とボルテール(1694-1778)です。フランス語でいっぱい文章を書いて、キリスト教会と争った。闘った。
ジャン=ジャック・ルソー
ヴォルテール

 

■  カントより16歳年下のゲーテ
カント(1724-1804 80歳で死)が65歳くらいの時に、ドカーンとフランス大革命が起きて、「人間の自由の精神」が周りに影響を当てたわけね。大事なことは、カントはそれを否定しなかった。ただ革命というのが血塗られた殺し合いと粛清の嵐で、だんだんと見苦しい戦いになっていった時には、嫌(きら)ったんです。

カントより16歳下に、ドイツの大思想家で文学者のゲーテ(1740-1832 82歳で死)がいる。最初は、ゲーテ(49)も、フランス革命に感動してるわけね。しかしフランス革命が始まって5年経つと、今度はフランス軍がドイツまで攻めてくるという時代になる。ゲーテは、フランス革命の思想に賛同してるんだけど、ドイツ民族であるからフランス軍と戦う、みたいな思想にもなるわけね。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

 

■ カントより44歳年下のヘーゲル
ゲーテよりも30歳下で、ちょうど大革命の時にフランス革命の時に19歳だったのがヘーゲル(1770-1831 61歳で死)です。あとで説明しますが、ヘーゲルはカントの跡継ぎのような人です。カントが「人間は理性で判断する」と言ったのに対して、ヘーゲルはカントを否定したわけではないけど、こう言った。「世界精神  Weltgeist  ヴェルトガイスト が人類を動かすんだ」と。例えばナポレオンみたいな男が現れて、その精神が世界精神となって飛び回って、人類を動かしていると。ヘーゲルになると、こういう大きな思想になって来て、もう認識論じゃないんです。

フランス革命の時にヘーゲルはまだ20歳ぐらいですから、もう狂っちゃって。だからヘーゲルは過激派の思想です。その弟子たちが左翼の思想になって、それが今に繋がっている。ヘーゲルの思想に賛同するヘーゲリアン、即ちヘーゲル左派から、カール・マルクスたちのような左翼思想が生まれたんですよ。

【そこがちょっと分かりません。社会運動家が哲学者に弟子入りしていたんですか?それと、ヘーゲルの「世界精神」がどうしてマターリアリストのマルクスの社会主義に繋がるのか】
●記載途中

 

■ カントの最晩年の頃が、ナポレオンの最盛期
他に私が分かったことは何かな。カントが死ぬ間際の頃が、実はナポレオン(1769-1821)の最盛期なんです。

ナポレオンはイエナ海戦でロシアとか、ドイツ帝国、後のプロイセンの軍隊を打ち破って、1804年に本物のヨーロッパ皇帝になった。カントの没年は1806年です。
ナポレオン・ボナパルト
【フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍(フランス語: Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、51歳のとき、南大西洋の英領セントヘレナで没した。wikiから】

副島隆彦です。ナポレオン時代というのはフランス革命の中から生まれてきた軍事政権です。もう革命で殺し合いばっかりやってるんじゃない、と言って軍人がフランスを支配した。このナポレオンに、ヘーゲルが感動してるわけです。

1812年にスペイン内乱が起きて、ナポレオンはそれ(スペイン軍)は抑えた。だけど1814年ぐらいからスペインの民衆の抵抗(反乱)がおきて、それをナポレオンは抑えきれなくなる。ナポレオンはバカだったというか、狂乱状態になって、焦ってしまって、モスクワ攻撃やモスクワ占領までやってしまった。冬将軍にボロボロにやられた。戦いに負けてフランス軍・ドイツ(プロイセン)軍は命からがら逃げてくるのね。ちょうどこの頃カントは死にました。
1812年ロシア戦役

1810年にベルリン大学ができた。大学って言ってもそんなに立派なもんじゃなくて、周りに住んでいる市民たちも授業を受けに来る。大きな真実を知りたい、学びたいと言う強烈な熱気があった。それでフィヒテ(1762-1814 51歳で死)と、それからヘーゲル(1770-1831 61歳で死)も呼ばれて、ベルリン大学で講義をするわけ。わーっと何百人も聞きに来る。
フィヒテ

ヘーゲル

ヘーゲルは「ナポレオンのような人間、すなわち世界精神(ヴェルトガイスト)が世界を支配した。自分たちは惨めに、フランス軍隊、ナポレオン軍隊に支配されている。しかしそれでも、この自由の力と啓蒙思想(エンライトメント)、自然の摂理、合理的精神、理性の力で世界を理解しなきゃいかん」と主張した。だからカントの後継ぎのようでもある。

今日はもうやりませんけどね。フィヒテは「ドイツ国民に継ぐ」という本を書いて、演説した。「ドイツ国民も、フランスに支配されてばっかりないで、立ち上がろう」という本です。「ドイツ観念論」がフィヒテから始まった。だから、これより2,30年早いカントはその大前提になっていくわけね。

 

■ 人気を争って、ヘーゲルに敗けたショーペンハウエル
それでヘーゲルと同じベルリン大学で学生の人気を争って、負けちゃったのが ショーペン・ハウエル です。ヘーゲルと同じ時間に自分の授業をぶつけた。だけど学生たちが皆、ヘーゲルの方に行っちゃった。

ショーペンハウエルが『意志とその表象としての世界』Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819年 という本を書いた。意志はドイツ語で Wille ウィーレ、英語は will  ウィルです。ショーペンハウエルは「人間の意志が外側に現れたものが世界なんだ」と言ったんです。カントの言う「もの自体」(Ding an sich ディンアンジッヒ)を、「意思」に読み替えたんじゃないかな。だからヨーロッパ大思想たちというのは、お互いに繋がってるんですよ。

このショーペン・ハウエルの思想に ワーグナーワーグナー(1813-188371歳で死)と ニーチェ(1884-1900 55歳で死)が感動してるのね。その後、否定しましたが。

〇参考YouTube おしえてソエジー ワーグナー① ワーグナー②
〇参考YouTube おしえてソエジー ショーペンハウアー

 

■ カントとフリードリヒ大王
カントが60歳くらいの時はプロイセン、プロシア帝国です。フランス革命の2,3年前まではフリードリヒ大王(フリードリヒ2世 1712-1786 74歳で死)が治政をしてて、彼は自由思想家だからカントに「授業で何をやってもいいぞ」と言っていた。でもカントが『純粋理性批判』を出した5年後に死んじゃってね。

その後継いだ息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744-1797 53歳で死)は父親と違ってバカだった。とにかく啓蒙思想のことが大嫌いだった。「その思想では、俺たち皇帝とか王様は首をちょん切られてしまうから嫌だ」と、保守反動思想になっていた。だからカントにも「学生を煽動するな。おまえの、その革命思想とか啓蒙思想を説くことは許さない」と言って、緘口令を敷いた。カントは大学の授業をやらせてもらえなかった。カントも首になりたくないから我慢して黙っていた。

4年後にこのバカ国王が死んだ後、カントは自分の立場を明らかにしてね。「やっぱり自由の思想と理性の思想を皆さんに教えます」と大学の授業を再開した。

 

■ フランス革命の意味
だからカントは、フランス革命と同じ時期に生きた大思想なんです。このフランス革命の意味をね、みんながわからなきゃいけないんだ。「フランス革命」と言う名前はあとからついたものだけど、その当時のフランスの動乱に、ヨーロッパ全体が驚いたんですよ。だからフランス人は今でも威張ってるんです。

血塗られた革命なんだけど、人類の最先端地帯ですから。それが人類の歴史なんですね。その時に、5万人10万人ぐらい死んだとしても、それでナポレオンの軍隊を作って周りの国々に負けないだけの軍事力を持った。フランスは豊かだったしね。既にもう缶詰とか瓶詰みたいなのを持っていたらしい。当時、フランスに最も最先端の技術あったみたいですね。だから、最初は戦争に負けないんですよ。でも1815年にナポレオンはワーテルローの戦いで負けた。

だからカントは、革命の時代の啓蒙思想、真っ盛りの人なんですね。カントの「人間の理性が物事を判断しているんだけど、その能力には限界がある」。これがものすごく大事です。これをみんなが言わないから、カント思想が理解できないんですよ。

(終わり)

このページを印刷する