「193」 副島隆彦が初めて語る カント 3⃣
副島隆彦です。
今日は8月13日です。副島隆彦のカント論 序章 の最終回です。
話は多少前後しますが、私の話をまとめていきます。
若い時のカントは、前述した通り、神秘主義 mysticism ミステシズム に深く傾倒し「人間には分かり得ないものがある」とした。カントは独断と偏見に走らない。常に疑い、考え続けた。だから「ものごとを決めつけない」という、保守的な態度になる。またカントは、現代の私たちの中に有る、スピリチュアリズム、霊魂主義(れいこんしゅぎ)につながる考えも持っていた。
■ 超越主義 トランセンデタリズム
超越主義(ちょうえつしゅぎ)transcendentalism トランセンデタリズム とは、ものごとをピョーンと飛び越える、ということだ。カントは「人間が分かり得ないものごとについては、その向こう側へピョーンと飛び越える」という考えにも立つ。超越(ちょうえつ)するというコトバは、最近、再び使われている。 分かり得ない “ものごと” というのは、「人間が存在する前からあったもの」みたいな意味だから、それを飛び越えて分かろうとすることだ。
これは簡単に言えばスピリチュアリズムです。”わかり得ない もの” の前で、わかったふりをしちゃいかんと。ここがカントの偉さです。
■ 人権(貧乏人たちの権利)はまだなかった
フランス革命のまえの1770年代でも、まだ「人権」human rights ヒューマン・ライツ le dorois de humanitee ル・ドロワ・ド・ユマニテ(フランス語) というのはまだ無い。存在しなかった。人権(じんけん)の一歩手前の「自然権」natural rights ナチュラル・ライツはあった。この自然権(しぜんけん)は、1680年代から、イギリスの大思想家のジョン・ロック John Locke (1632-1704)によって明確に唱えられた。
カントはジョン・ロックの思想からも、ものすごく大きな影響を受けている。
「人権」ヒューマン・ライツというのは、大衆、貧乏人たちが「俺たちにも、生きる権利があるんだ」と言って騒ぐことだ。当時は、その一歩手前の、市民たちまでの権利しか存在しなかった。貧乏人は、もの凄い数でたくさんいるんだけど、政治的には存在しない。議論の対象にならない。
【秘書S:貧乏人は「いる」けど「存在しない」というのは、農民とか庶民は、生き物(動物)として「いる」けど、人として「存在しない」ということですか?人間扱いされていないということですか?】
そうですよ。貧乏人の権利どころか、人間扱いされていなかった。人間の9割以上は、庶民、大衆、貧乏人なのに、それは政治議論では存在しないのと同じだった。だれも相手にしなかった。ただ、何とか生きているだけだ。
これを、古代ローマ帝国以来、ホイ・ポロイ hoi polloi と言います。同じく、プロレタリアート proletariate と言います。このプロレタリアート を、マルクスたちが、労働者階級 として、自分たちの闘いの主力勢力だ、とした。
この プロレタリアート は、戦前の日本では、無産(むさん)階級とか貧民層とか訳されました。プロレタリアートというのは、古代のローマ以来、「なぜだか分からないが、兎に角(とにかく)、ブタの子が次々に生まれるように、生まれて来る貧乏人たちだ。彼らはどんなに貧乏でも減らないで、増え続ける」という感じで使われたました。
「人権」human rights ヒューマン・ライツ が現れる前が、「自然権」natural rights ナチュラル・ライツ。この自然権の前に「自然法」natural law ナチュラル・ラーというのが有る。
この自然法は、自然の掟(おきて)と言う意味。この世界は、自然界の秩序が有って、動物も人間も、この自然の掟(ルール)に従って生きている、と いう考えだ。貴族たちや、ローマ・キリスト教会の、保守的な坊主(僧侶)たちでも、この自然法を信じている。 自然法は、体制を擁護する保守の思想だ。
それに対して、「この世界は、神様が作ったんじゃない」と言い出したのが、ジョン・ロックたち近代啓蒙思想家たちの、自然権(しぜんけん)以降の考えです。 最後には、「この世界は、人間たちがみんなで決めて成り立っているのだ」と言った。神と教会を否定した。

『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』1999/3/1 講談社刊 から
〇参考YouTube おしえてソエジー ヨーロッパ政治思想の全体像
〇参考YouTube おしえてソエジー 人権 本当にあるのか。見せてくれ。

だからフランス革命で、王党派(おうとうは、国王に忠誠を誓う)の貴族たちや、カソリック教会の坊主たちを捕まえて死刑にしたり、そういうことを実際にした。ヨーロッパ民衆は、とにかく、カソリック教会が嫌いなんですよ。この時代背景を分からなきゃいけない。しかし、動乱状態ではない平時(へいじ)には、教会の坊主たちが、やっぱり怖い。自分が教会から破門(はもん、エクスコミュニケイション)されるのが、地域社会との関係で、コワかった。
■ ケーニヒスベルグという町で、毎日、同じ時間に散歩
カントに戻りますが、彼の散歩の話は有名です。ケーニヒスベルグというバルト海に面している町に、カントはずっと死ぬまで住んでいた。ほとんどここから出なかった。他のドイツの有名大学から、来てくれ、という誘いがあっても行かなかった。今はここは、カーリングラードいう地名で、ロシアが飛び地としてロシアが占領している。ここにはロシアの大きな軍港があって、バルチック艦隊(バルト海艦隊)司令部がある港湾都市だ。
日露戦争(1904-5)の時に、ここ(から少し北のリバウ港。現ラトビア、リエパーヤ港。8/20訂正)から日本に向けて出航した。ヨーロッパの北海を通り抜け、ぐるりとアフリカの南端(ケープタウン)を通って、インド洋を通って、対馬海峡まで来た。そして、そこで、待ち構えていた日本海軍(本当は、イギリスの海軍の大佐たちが指揮していた)と戦って負けた。 今も、このカリーニングラード(かつてのケーニヒスベルグ。ドイツ騎士団領、ハンザ同盟が作った)にロシアの大きな艦隊がいる。
バルチック艦隊は、日露戦争(1904,5年)の時にアフリカの喜望峰をぐるっと回って、はるばる日本まで来たんですね。その10年前の1894年の日清戦争の黄海(こうかい。旅順沖)海戦で清朝(しんちょう。大清帝国、だいしんていこく)の艦隊が、日本海軍に負けた。日清戦争で、開戦直前に日英通商航路条約を結んで、イギリスが裏から大きく日本を助けた。
本当は、この日清戦争というのは、イギリス帝国が、清国(大清帝国)と日本の両方を上から管理していて、わざと起こさせたものだ。それで日本が勝ったことにした。このことは、先日出した近藤大介氏との対談本『アメリカの衰退で世界覇権を狙う 中国の実力』の中でも触れました(P44)。

アマゾンリンク へ アメリカの衰退で世界覇権を狙う中国の実力-G2の狭間で探る日本の針 2026/8/3 ビジネス社
日露戦争の時、ロシアは、イギリスに邪魔されながら、友好国のフランス領の港を利用しながら、大西洋〜インド洋〜南シナ海〜太平洋〜東シナ海のルートで日本に来るしかなかった。日本に到着した時はもうクタクタだ。


バルチック艦隊東航図(日本海海戦 wikiから)
ロシアと戦う日本の戦艦を、実際に操縦して指揮をしていたのはイギリスの海軍将校たちだ。日本政府は日露戦争にかかる費用を、イギリスの口利きでアメリカのロスチャイルド財閥系の「クーン・ローブ」会社から借りた。だから日本は日露戦争に「勝った」んです。初めから、イギリスが、ロシアを騙して、極東(太平洋岸)にまでおびき寄せて、そこで、日本を利用して、嗾(けしか)けて、ロシア軍を叩きのめした戦争だ。司馬遼太郎(1923-1996 72歳で死)の小説「坂の上の雲」は、悪質なウソばかりだ。

司馬遼太郎

日露戦争を描いた『坂の上の雲』amazonの紹介文
カントに話を戻します。カントはケーニヒスベルクでずっと暮らして、そこの大学教授、さらには学長もをやって、死ぬまでそこを離れなかった。パリとか、他にもドイツの大学に来いとかいろいろ誘われたけど、行かなかった。
カントは毎朝4時に起きた。4時に起こすよう使用人に命じた。使用人(下男、げなん)は、ランペイと言う名前の元兵隊の男です。そのあとの朝の2時間を自分の時間として大事にした。その後、午前中は大学に行って授業をした。昼食を食べながら、他の学者や友達たちや、外国からの来客とかと楽しく話をした。このあと、毎日3時半から1時間、リンデル街(かつての城壁のあと)というところを散歩すると決めていた。周りの人たちが「カント先生がいつものとおり散歩をしている」と、それで時計を合わせたっていうくらいに、キチキチッとしてる人です。
キチキチと暮らして、だから徹底的に自分も律して、結婚さえしていない。女が要らなかったというか、つまりお坊様と同じで、カントは性欲を断ち切っている。女を抱かなきゃいけない、我慢できない男がほとんどですが。カントの偉さは、こういうところにもある。このことも大事だ。
お坊様(神父、聖職者)が、女性と性行為なんかしたらバカにされる。でも実際の坊主(聖職者)は、日本もそうだけど、ヨーロッパでも男はやっぱり性欲を我慢できないから。ほとんどの坊主たちは。だから裏で女に手を出して子供を産ませたりしていた。それに怒って、織田信長は比叡山を焼討ちにしたのだ。「お前ら、坊主どもは、言っていることととやっていることが違う。売坊主(まいす。うりぼうず)どもめ」と。たくさん、琵琶湖の方に2万人も逃げて来た、居るはずのない女、子供たちも、すべて皆殺し(なでぎり)にした。
カントはホモセクシュアリティ(同性愛者)でもない。カントが当時、民衆から尊敬されているのはそういうこともあった。でもね、やっぱり、この問題は簡単ではない。
■ 経験論と合理論をまとめ上げた、だけでなく「人間の理性の限界」に言及したから偉大
empiricism エンピリシズム は、経験論と普通は訳されて「人間の全ての知識は我々の経験に由来する」とする思想。イギリスの坊主(神学者)、デイビッド・ヒューム(スコットランド生まれ)とジョージ・バークリー(アイルランド生まれ)が提唱した。

デイビッド・ヒューム
副島隆彦です。今は、 experience エクスペアリアンス と言う単語が、日本語で「経験」だ。しかしこの言葉は、思想用語としては使わない。あくまで エンピリカル empirical だ。イギリスの経験論は、このempiricism エンピリシズム です。今でも、イギリス人とアメリカ人の知識層は empirical エンピリカル という言葉をものすごく大事にしている。例えばカルフォルニア大学のバークレイ校は、名前をバークレイから取ったとおり、Empiricism エンピリシズム の思想で創立された。
カリフォルニア大学バークレー校
【カリフォルニア大学は1868年に同州によって創設された総合大学群で、州内10か所に分散するキャンパスにそれぞれ巨大な総合大学や研究教育施設をもつ。カリフォルニア大学バークレー校はその中で最古の歴史を有しており、カリフォルニア大学の旗艦校にあたる。教育および研究水準は極めて高く、米国公立大学の最高峰として、US News世界大学ランキング第6位、THE世界大学ランキング第9位に評価されている。
大学のモットーは “Fiat lux”(そこに光あれ / Let There Be Light)。バークレーの地名は19世紀半ばに新たに町が建設された際、『視角新論』などで知られるアイルランドの哲学者ジョージ・バークリーにちなんで命名された】
副島隆彦です。カントはこの “イギリスの経験論” を20代の頃からずっと読んで知っている。それと、前回話した物理学や数学の基本も知っている。後者は理科系の学問ですから、客観、実在を前提とする。この矛盾に、カントは苦しんだ。
だから「イギリスの経験論と大陸の合理論、この2つを合体、統合させたのがカントだ」とよく言われます。日本のバカ学者でもこう説明する。高校の倫理や歴史の教科書にもそう書いてます。
それらを、カントが一所懸命にまとめ上げたのが『純粋理性批判』です。カントは「人間の理性というのには力、能力がある。人間の理性によって、人間は生きて、行動している。神の命令によっではないんだ」と言った。そして「しかし、それには限界がある」とも言った。
この「人間の理性には限界がある」と言ったところが、カントの偉さです。「人間には分かり得ないものがたくさんある。そして、それ以上はもう分からない」というのがカント思想の最大の特徴です。そこを日本のカント研究者たちがいい加減にしている。「分かり得ないものの前では黙らなきゃいけない」という謙虚さが、カントにはある。
「理性にも限界があって、それ以上はもう分からないんだ」としたカントは、その分からないことを、「もの自体」ドイツ語では Ding an sich ディング・ アン・ ジッヒ です。英語では、Things as itself だ。
Ding は「もの」のことですが、物質じゃないですよ。そして、An sich は、「それ自体」です。そしてこの「もの自体」は、人間には「分かり得ないもの」だ。実はカントのこの「もの自体」は、これが、旧来の「神」なんですよ。
■ 「分からないこと(=神のこと)は語らない。否定はしない」という、実は保守思想
「分かり得ないものについては語らない、分からないことは分からないんだ」と。それで、この「分からないこと」というのは「神 Gott」のことです。だから「神を完全に否定するところまでは、私は行かない。ただ、それについては語らない」とカントは言った。
それまでのヨーロッパ思想は、すべて、「object オブジェクト(対象、現象)が、 perception パーセプション(認識)を生む」だった。「世の中すなわち外側世界が、人間の認識、理解を作る」というのが従来の考え方だった。けれどカントはそれをひっくり返した。「人間の認識(エピステーメー)が、外界の世界を作るのだ」と。これがコペルニクス的転回と呼ばれている。このカントの認識、については、このあと、もっともっと深く説明しないといけません。
カントは「人間は、すべてを分かり得ないんだ。そのことを最初に冷酷に書きましょう。それについては謙虚になりましょう」と。「人間の認識が対象を作り出す」と言ったから、物質主義者ではない。
それに対抗するのが、物質実在主義とか物質中心主義あるいは、オントロギー Ontology 存在論といわれる 思想だ。 唯物論(ゆいぶつろん)は、materialism マターリアリズムです。私、副島隆彦は、15歳の少年時代から、ずっと左翼思想だから、この物質実在主義、一点張りでやってきた。だからそこで、カントの保守思想と争いになる。カントは物質実在主義を取らない。
だが、この世界(世の中)の存在するのは、物質だけだ、精神=思考=知能=霊魂 の実在は、不確実だ、とする考えだけでは、やっぱりやってゆけない。それで、後年(こうねん)、30歳代ぐらいからは、現実世界に妥協して、この spirit スピリットの、知能、思考、霊魂、精神も大事にしなければ、と考えるようになった。
カントはあくまで認識論で、「人間の認識力(パーセプション)や理性(フェアヌンフト、リーズン)にも限界があって、何もかもは分かり得ないんだ」と言う。宇宙(space スペイス)についても、物質( matter マター)についても生命(life ライフ)についても。今でも、これらは、分かり得ないものだ。「これらについては、それ以上は人間は分かり得ないのだ」と。ここがカントの偉大さだ。
このことを日本のカント研究学者が分からないで、グチャグチャと難しいだけの自分勝手な論文を書くから、みんなが付き合いきれない。彼らはカントが分かっていた、外側世界なるものが分からないのだ。だから私、副島隆彦がもう70代になってから、こういうことを言わなきゃいけない。
カントは物理学(化学、生物学も)と数学に対しても厳しいんですよ。「あなたたちが、世界を全部理解したみたいに言うな。人間はどうせ全てを分かることは出来ないのだ」と。1781年(今から245年前)に、『純粋理性批判』で書いた。
当時、「宇宙というのは、ぐるぐる渦(うず)を巻いているらしい」と分かった。今は銀河系(ぎんがけい、ギャラクシー)と言われる。星雲(せいうん neburaネビュラ 、ラテン語の「雲」を語源とする)という。銀河系のとなりの80万光年のところに有るアンドロメダ星雲 という別の星雲が観察されたからだ。
どうも宇宙にもこの秩序というのが有って、それで出来上がっていると、カントは考えた。だから晩年に「恒久平和のために」という大論文を書いた。そこで、「だからもう戦争をやめなさい」という論文だ。だからカントは偉大だ、と。だけど人間(人類)は、今も戦争をやめない。戦争(war ウォー、warfare ウオーフェア)をやめないままです。 カントは 保守思想家だ。
■ フランス革命の前年に、二冊目の「実践理性批判」を出版
カントが57歳で『純粋理性批判』を出して(1781年)大ヒットさせた8年後、1789年にフランス大革命が起きている。カントはちょうどその頃、2冊目の『実践理性批判』Kritik der praktischen Vernunft,1788 を出版している。これは ethics エシックス 倫理・道徳 に関する本で、「道徳とは何か」「道徳的に行動正しい行動とは何か」を書いた。実践理性とは、倫理、道徳という意味だ。続いて『判断力(はんだんりょく)批判』Kritik der Urteilskraft,1790 を出した。「人間の判断力というのはどうやって生まれるんだ」ということを調べた本です。
カントの思想をまとめると、カントは人間の能力を以下のように説明した。
・感性(感受性)Sinnlichkiet ジンリヒカイト 性欲もここに入る。物質を求める力。
・感覚 Empfindung エンプフィンドウング 英語で言えば sense センス 。
・直観 Anschauung アンシャオウング 前回話したように、「5×7が12というのは直観で分かるんだ」と。この数字と、それから時間、空間も人間は直観で分かるとする。
・現象 Erscheinung エアシャイヌング 英語なら phenomenon フェノメノン。外側世界、表象(ひょうしょう)。
・もの自体 Ding an sich ディング・ アン・ ジッヒ もう人間はそこには及ばない。これが実は「神」です。自分(カント)はそれ(神)には触れないと言った。
カントは60歳を超えたら、あとはずっと道徳倫理の研究だ。「汝(なんじ)の意思の確律(かくりつ)が、常に同時に、立法者の普遍的意思と合致するように、そのように行動しなさい」と。
要するに「真面目に行動しなさい、生きなさい」と。それが68歳の時に書いた『実践理性批判』だ。「道徳と秩序を大事にして、自分の行動を律しなさい」と言った。だからカントは、現在においては保守の思想だ。
■ 同時代のフランスの啓蒙思想家
1600年代から、神(かみ)を否定し始めたヨーロッパの市民や裕福な市民、上層の農民たちが、啓蒙思想をものすごく大事にした。この時代の、フランスの啓蒙思想家がルソー(1712-1778)とボルテール(1694-1778)です。フランス語でいっぱい文章を書いて、キリスト教会と争った。闘った。フランス大革命は、この2人の思想が大人気で、これに従ったフランス人たちによって実行されたのだ。
ジャン=ジャック・ルソー
ヴォルテール
■ カントより16歳年下のゲーテ
カント(1724-1804 80歳で死)が65歳の時に、ドカーンとフランス大革命が起きて、「人間の自由の精神」が周りに、ヨーロッパ全体に、ドカーンと大きな影響を与えた。教会の神父(司教)たちどころか、王様(国王)の首をちょん切ってもいい、となった。大変な事態になったのだ。ここで大事なことは、カントはそれを否定しなかった。人間の自由の精神が解き放された、と考えた。ただ、この大革命が、すぐに、3年後には血塗られた殺し合いと粛清の嵐で、見苦しい戦いになっていった時には、嫌(きら)った。
カントより16歳下で、ドイツの思想家で大文学者のゲーテ(1740-1832 82歳で死)がいる。最初は、ゲーテ(この時、49歳)も、フランス革命に感動している。しかしフランス革命が始まって5年経つと、今度はフランス軍がドイツまで攻めてくるという時代になる。ゲーテもフランス革命の思想に賛同してるんだけど、ドイツ民族であるから攻めて来るフランス軍と戦う、みたいな思想になるわけね。それで、「ヘルマンとドローテア」という小説を書いて、爆発的に読まれた。ドローテアというドイツ人の勇敢な少女が、逃げて来る避難民のドイツ人たちを庇(かば)って、フランス兵を相手に、武器を持って戦った(一瞬だと思うが)、という小説だ。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
■ カントより44歳年下のヘーゲル
このゲーテよりも、さらに30歳下で、フランス革命の時に19歳だったのが大思想家のヘーゲル(1770-1831 61歳で死)だ。あとで説明しますが、ヘーゲルはカントの跡継ぎのような人です。カントが「人間は理性で判断する」と言ったのに対して、ヘーゲルはカントを否定したわけではないけど、こう言った。「世界精神 Weltgeist ヴェルトガイスト が人類を動かすんだ」と。例えばナポレオンみたいな男が現れて、その精神が時代精神 tweitgeist ツワイト・ガイスト となって飛び回って、人類を動かしていると。ヘーゲルになると、こういう大きな思想になって、もう人間理性や認識論じゃないんです。
フランス革命の時にヘーゲルはまだ19歳ですから、もうそれに熱狂して狂っちゃって。だからヘーゲルは過激派の思想です。その弟子たちからが左翼の思想になっていった。それが今に繋がっている。ヘーゲルの思想に賛同するヘーゲリアン、即ちヘーゲル左派(さは)から、カール・マルクスたちのような左翼思想が生まれたんですよ。
【そこがちょっと分かりません。社会運動家になっていった若者たちが、哲学者に弟子入りしていたんですか?それと、ヘーゲルの「世界精神」がどうして、マターリアリストのマルクスの社会主義に繋がるのか】
副島隆彦です。そうですね、貴女の言う、社会運動家というのは、活動家(アクティヴィストactivists )ですね。
マルクスは、ヘーゲルのベルリン大学の授業、講義を直接、聞いていない。受講していない。しかしマルクスの先輩たちは、皆、ヘーゲルの授業を聞いている。ワーと、ベルリン大学の大講堂に何百人も集まって、熱心に聞いている。そこには若い学生たちだけでなく市民たちも大勢、聴きに来ていた。それが周囲にワンワンと伝わった。ヘーゲルと同時に、「ドイツ国民に告ぐ」の講義、演説をした、フィヒテ もいる。この時に、ベルリンには、ナポレオンが指揮するフランス軍が駐屯していて、ヘーゲルたちのプロイセン王国(ドイツ帝国)は、フランス軍と同盟関係にあった。
それでも、フランスに占領されていたようなものだから、いくら、フランス革命は素晴らしい、と言っても、一方で、それに占領されているドイツ人、という惨(みじ)めさがあった。それで、やがて ナポレオンが勢力衰退して失脚してゆくときに、プロイセン軍は、反(はん)フランスの 反革命同盟になって、フランス軍と戦うようになった。これがヨーロッパの歴史だ。 だから、ヘーゲルたちも、複雑な時代を生きたのだ。
ヘーゲルに授業を受けた人々からあとが、実際上の政治活動をして、革命家(エヴォルーショナリー revolutionary) になって行った。マルクスもそうです。この職業的な革命家、という考えを、英米人は、今も認めない。今でも、社会に騒乱を起こす扇動家(デマゴーグ demagogue )です。
それでも、今では、世界中に、この社会主義者(ソウシアリスト socialists )の 政治家たちというのはいますからね。彼らは、政治家、国会議員として、多数派になれば、政権を担うのです。 だから、人間は、思想(しそう)で動く生き物です。特に、学生時代の若い頃に、強く影響を受けた政治思想によって、生きてゆくのです。
■ カントの最晩年の頃が、ナポレオンの最盛期
他に私が分かったことは何かな。カントが死ぬ間際の頃が、ナポレオン(1769-1821)の最盛期です。
ナポレオンはイエナ会戦で、ロシアとドイツ帝国(プロイセン)の軍隊を打ち破って、1804年に本物のヨーロッパ皇帝になった。カントの没年は1806年です。
ナポレオン・ボナパルト
【フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍(だいりくぐん。フランス語で Grande Armée グランダルメ、グランド・アーミー)と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を占領し勢力下に置いた。このあと、モスクワ遠征に失敗して、対仏(たいふつ)大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権で、ワーテルローの戦い(1815年)で敗北して、51歳で、南大西洋の英領セントヘレナ島で没した。wikiから】
副島隆彦です。ナポレオン時代というのはフランス革命の中から生まれてきた軍事政権です。もう革命で殺し合いばっかりやってるんじゃない、と言ってナポレオンたち軍人たちがフランスを支配した。1796年のナポレオンのイタリア遠征からだ。ナポレオンは圧倒的に強かった。連戦、連勝した。革命の始まりから7年たっている。そして3年後に1799年11月の「ブリュメール18日のクーデター」でナポレオンが権力を握った。
大革命の始まりからずっと、このナポレオンに、ヘーゲルが感動しているわけです。それでも、それから13年後1812年にスペイン内乱が起きて、ナポレオンはそれ(スペイン軍)は抑えきれなかった。スペイン軍との戦いには勝つのだが、1814年ぐらいからスペインの民衆の反乱がおきて、それをナポレオンは抑えきれなくなる。ナポレオンは、この頃から、冷静さを失って、権力者特有の、狂乱状態になって、焦って、モスクワ侵攻までやってしまった。そして 冬将軍にボロボロにやられた。戦いに負けてフランス軍とまだ同盟軍だったドイツ(プロイセン)軍は命からがら逃げてきた。
1812年ロシア戦役
1810年にベルリン大学ができた。大学って言ってもそんなに立派なもんじゃなくて、大講義室のある、大きな建物がひとつあっただっただけだろう。前述したように、周りに住んでいる市民たちも授業を受けに来た。この世の大きな真実を知りたい、学びたいと言う強烈な熱気があった。フィヒテ(1762-1814 51歳で死)と、それからヘーゲル(1770-1831 61歳で死)も王立大学であるベルリン大学で講義をするわけ。わーっと何百人も聞きに来た。
フィヒテ
ヘーゲルは「ナポレオンのような人間、すなわち世界精神(ヴェルト・ガイスト)が世界を席巻している。自分たちは惨めに、フランスのナポレオン軍隊に支配されている。しかしそれでも、この自由の力と啓蒙思想(エンライトメント)、自然の摂理、合理的精神、理性の力で世界を理解しなければいかん」と主張した。だからヘーゲルはカントの後継ぎである。しかしヘーゲルは保守の思想ではない。過激派に近い。
今日はもうやりませんけどね。フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」という有名な演説した。「ドイツ国民も、フランスに支配されてばっかりないで、立ち上がろう」という本です。「ドイツ観念論」がフィヒテとシェリングから始まったとされる。だから、これより30年早いカントはその大前提になっていくわけね。
■ 人気を争って、ヘーゲルに敗けたショーペンハウエル
それでヘーゲルと同じベルリン大学で学生の人気を争って、負けちゃったのが ショーペン・ハウエル です。
ヘーゲルと同じ時間に自分の授業をぶつけた。だけど学生たちが皆、ヘーゲルの方に行っちゃった。
ショーペンハウエルが『意志とその表象としての世界』 Die Welt als Wille und Vorstellung, 1819年 という本を書いた。意志はドイツ語で Wille ウィーレ、英語は will ウィルです。ショーペンハウエルは「人間の意志が外側に現れたものが世界なんだ」と言ったんです。カントの言う「もの自体」(Ding an sich ディング・アン・ズイッヒ)を、「意思」に読み替えたんじゃないかな。だからヨーロッパ大思想たちというのは、お互いに繋がってるんですよ。
このショーペン・ハウエルの思想に ワーグナー(1813-188371歳で死)と ニーチェ(1884-1900 55歳で死)が感動してるのね。その後、離れて行きましたが。
〇参考YouTube おしえてソエジー ワーグナー① ワーグナー②
〇参考YouTube おしえてソエジー ショーペンハウアー
■ カントとフリードリヒ大王
カントが60歳くらいの時はプロイセン、プロシア帝国です。フランス革命の3年前まではフリードリヒ大王(フリードリヒ2世 1712-1786 74歳で死)が生きていて、統をしてて、彼は自由思想家(啓蒙専制君主、けいもうせんせいくんしゅ)だから、カントに「授業で何をしゃべってもいいぞ」と言っていた。それでもカントが『純粋理性批判』を出した5年後に死んだ。

その後継いだ息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744-1797 53歳で死)は父親と違ってバカだった。啓蒙思想が大嫌いだった。「この思想では、俺たち皇帝とか王様は首をちょん切られてしまうから嫌だ」と、保守反動思想だ。だからカントに「学生を煽動するな。おまえの、その革命思想とか啓蒙思想を説くことは許さない」と言って、緘口令(かんこうれい)を敷いた。カントは大学の授業をやらせてもらえなかった。カントも大学を首になりたくないから我慢して、国王に従った。

4年後にこのバカ国王が死んだ後、カントは自分の立場を明らかにした。「やっぱり私は自由の思想と理性の思想を皆さんに教えます」と大学の授業を再開した。
■ フランス革命の意味
だからカントは、フランス革命と同じ時期に生きた大思想家なんです。このフランス革命の意味をね、みんながわからなきゃいけないんだ。「フランス革命」と言う名前はあとからついたものだけど、その当時のフランスの動乱に、ヨーロッパ全体が驚いた。だからフランス人は今でもこのことで、人類を先導(せんどう)したのは、我がフランスだ、と威張ってるんです。
実際は血塗られた革命になったのだけど、人類の思想の最先端地帯ですから。この動きが人類の歴史なんですね。その時に、5万人10万人ぐらい殺し合いで死んだとしても、それでナポレオンの軍隊が現れて、周りの国々に負けないだけの軍事力をフランスは持った。フランスは豊かだった。既に、この時代に缶詰とか瓶詰みたいなのを持っていた。当時のフランスに世界で最も最先端の技術あった。だから戦争に負けないんですよ。でも1815年にナポレオンはワーテルローの戦いで負けて終わった。
だからカントは、革命の時代の啓蒙思想、真っ盛りの人なんですね。カントの「人間の理性が物事を判断しているんだけど、その能力には限界がある」。これがものすごく大事です。これをみんなが言わないから、カント思想が理解できないんですよ。
ただし、今の日本人にも、このヨーロッパの理性(りせい)という言葉が、体で実感分かるか、となると、どうもはっきりしない。「あの人は、理性的な人(男性)だ」と、言うと、この意味は、彼女(女性)と2人きりになっても、この男は、女性に襲いかからない(体を触ろうとしない)、というぐらいの意味にしかならない。
(終わり)
このページを印刷する
