「191」 副島隆彦が初めて語る カント 1⃣

副島隆彦です。今日は2026年8月2日です。
今日はドイツの大(だい)哲学者のイマヌエル・カント(Immanuel Kant 1724-1804 80歳で死)について、話します。

イマニエル・カント 【プロイセン王国の哲学者であり、ケーニヒスベルク大学の哲学教授である。『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批判』の三批判書を発表し、人間の認識構造を吟味 する批判哲学を提唱して、認識論における、いわゆる「コペルニクス的転回」をもたらした。wikiから】


プロイセン王国 ドイツ語:eich Preußen  1701年 – 1918年
〇参考ブログ プロイセン王国とは何だったのか|equant から図

〇参考ブログ プロイセン王国とは?どこの国・現在の場所・ドイツ統一までをわかりやすく解説 | 世界史バンク

 

副島隆彦です。私がカントについて語るのは今回が初めてです。カントという名前はみんな知っている。だけど「カントは難しい」と言われ続けて、皆、近寄れない。カントの思想が理解できない。私も、もう50年間、カント哲学に近寄ってみては、「やっぱり分からん」となって、ずっと放置してきた。

しかし、さすがにこの年になってようやく、何とか大きくカントを捕(つか)まえることができたと思った。私は73歳になってようやく、カントのことを説明できる。自分が20歳の頃から、50年かかった。今日は、思想家としての副島隆彦の理解に付き合う気のある人に、大きく分からせます。私、副島隆彦が何かについて初めて語るということはそれなりに重要です。

ドイツのカント哲学を専門にして研究している人たちというのが、日本には昭和の初め(1920年代)からずっといる。今でも500人ぐらい日本の大学にいるでしょう。彼らの多くは大学教授たちだ。彼らは、東大や京大の文学部哲学科に在籍していてその後、国立大学の教授になった人たちだ。

彼らだけが、今もカントについての論文を書いている。岩波書店の学術誌の「理想」とか「哲学」というのに、細々(ほそぼそ)と書いている。世の中からはほとんど相手にされていない。誰も近寄らないのに、彼らはずっとカント論文を書いている。

新(しん)カント学派という言葉が戦前の、大正時代(1912年から)ごろから有って、とにかく難解(なんかい)な論文を書く人たちだ。衒学(げんがく)的と言われて、あまりに難しい文章を書くものだから、周りの知識人たちから敬遠され嫌われた。ドイツ語の文がそのまま日本語の文に直訳で、一対一語で、書かれていて、何を書ているのか、この日本カント学会、学界の人たち以外には、ついに理解されなかった。

「デカルト、カント、ショーペンハウエル」の 3大哲学者を、合わせて、略称で、デンカンショー」と言う。これが、旧制高等学校の学生たちに歌われて、デンカンショー節(ぶし)という歌になった。 「デカンショー、デカンショー、で半年暮(くら)す。後(あと)の半年(はんとーしゃ)寝て暮らす。(これで)よーい、よーい、デッカンショ」と歌った。

旧帝大に入る前の旧制高校に行くのは、当時は、各県の大秀才たちだけだった。彼らは、旧制高校で、ドイツ語やフランス語を必修科目で習わされて、それで学力試験を受けて、能力を判断された。生来の語学(ごがく)秀才が持っている天性の外国語習得への親密さや能力が無い者たちは苦労した。

日本国民は、今も英語ひとつ満足に出来ないで、皆、苦しんでいるが、語学秀才たちは、英語の壁などさっさと通り越して、ドイツ語、フランス語、ロシア語に突き進む。自分の専門の外国語の本をずっと読むことで自分の一生を過ごしてゆく学者、知識人たちがいた。今も居る。

だから、新カント学派の学者たちは、この難しいコトバの壁を何とか超えて、大学教授にまでなった人たちだ。だが、果たしてこの人たちが、本当に、カントを理解して、それを日本国民に、分かり易く説明できたか、というと、今でもまだ出来ていない。日本人の中の生来の自覚的な 知識人層 は、もう、この100年間、カントを何とか分かりたい、ということでもがき苦しんで来た。私、副島隆彦もそのひとりだ。

最近、YouTubeで、カントらのことを一所懸命にしゃべっている30代、40代の若い学者がいる。しかし、彼ら若手の大学教授たちが YouTubeで話す内容を聞いても、私は、彼らが何を言っているのか分からない。

カントの研究者たちは、皆、カントがどこで生まれてどのように研究したのか、を説明する。だが、その説明を聞いても、当時のヨーロッパに中で、カントが置かれていた状況というのが見えていない。そこで第一回目の今日は、カントを取り巻く外側世界と言うか、当時のヨーロッパの社会や政治の状況の話から説明する。

■ 46歳で正教授になれるまで、貧乏暮らしだったカント。
カントはずっと貧乏暮らしをしている。革職人、馬具屋(ばぐや)の子供です。16歳でケーニヒスベルク大学に入って4年で卒業した後、家庭教師を9年間やって、その後、ようやく、この大学の講師になった。講師といっても最初は 私講師(しこうし)、Privatdozent プリバーテドーゼント という下級の講師になった。


Education from 1700’s to 1800’s

この私講師(しこうし)という職 は、給料を大学から直接もらえない。自分が講義をするときに教室に箱を置く。この箱の中に授業を受けた人学生たちが “クーポン券” を投げ入れる。人気がある講師は、噂を聞いて、学生以外の市民たちも授業を受けに来る。私講師は、受講者が箱に入れるクーポン券を自分で集めて、大学の事務局に持って行ってお金(かね)にする。それでご飯を食べる。



ケーニヒスベルグ 【1255年に、当時バルト海南東部に位置していたプロイセン(プロシア)にドイツ騎士団が進出し、そこを駐屯地とした。それがハンザ同盟になった。その中心都市がケーニヒスベルク(konigsberg)。現在のロシアの飛び地の、バルト海艦隊=バルチック・フリート=の司令部が有る港湾都市である。

第一次大戦のドイツの敗北(1918年)とともに、西プロイセンのほとんどはポーランド国に明け渡された。1941年にヒトラーがこれらを一時的に再結合したが、1945年にソビエト赤軍(せきぐん)(1918-46年のソ連陸軍の公式名)に占領された後は、東プロイセンはポーランドになったが、飛び地が現在のカリーニ ングラード。この飛び地のドイツによる支配は、1255年から1945年までの実に約700年間。そのあと現在はロシア領である】

参考ブログ かつてケーニッヒスベルクという美しい街があった|野口悠紀雄

副島隆彦です。カントは31歳から46歳までの15年間、この私講師をやっている。一年間の収入は銀貨で30ターラ―で、ようやくご飯が食べられる程度だ。このあと46歳でやっと正教授になれて、166ターラ―の年収を貰えるようになったんです。この ターラー、ターレル Taler が、現在のアメリカの ドル dollar である。

ターラー銀貨【16世紀から18世紀までドイツおよびオーストリアで発行されていた。中央下が、比較のためにおいた現代のアメリカの25セント。 wiki から】

だから当時のフィロソファー、学者たちは、名誉の有る職なのだが決して裕福な人たちではない。人々からの尊敬は有った。カントは正教授になって、さらに11年かけて、57歳の時にようやく、主著の『純粋理性批判』を出版した。これがドカーンとヨーロッパ中に広がった。

〇参考ブログ 【完全ガイド】カント哲学を世界一わかりやすく解説!純粋理性批判から道徳、永遠平和まで | しろくろ猫のおもむくまま

■ 『純粋理性批判』の説明をするのが、カント哲学研究者
カントと言えば、『純粋理性批判』 Kritik der reinen Vernunft , 1781 「クリティーク・ デア・ レイネン フェアヌンフト」という大著である。1781年、カントが57歳の時にようやく出した本だ。この本について一所懸命に説明するのが、カント哲学研究者たちがすることから、みんなも本の名前だけは知っている。日本でも各出版社から出ている。「初心者向けカント」というような解説書もこれまでにたくさんある。


『純粋理性批判』 【ドイツの哲学者イマヌエル・カントの主著。1781年に第一版が、1787年には大幅に手を加えられた第二版が出版された(一般に前者をA版、後者をB版と称する)。カントの三大批判の一つで、1788年刊の『実践理性批判』(第二批判)、1790年刊の『判断力批判』(第三批判)に対して、第一批判とも呼ばれる。人間理性(にんげんりせい)の抱える諸問題についての古典的名著であり、ライプニッツなどの存在論(そんざいろん)的形而上学(けいじじょうがく)と、ヒュームの認識論(にんしきろん)的懐疑論(かいぎろん)の両方を継承し、かつ批判的に統合して乗り越えた。西洋哲学史上最も重要な書物である。wiki から】

副島隆彦です。「純粋理性」は、ドイツ語で reinen Vernunft レイネン・ フェアヌンフト です。「理性」がフェアヌンフト、これは英語で reason リーズンだ。リーズンは「理由」とよく訳されるけど、「理性」でもある。フランス語なら raison レゾーン。フェアヌンフトは難しいドイツ語だけど、覚えてください。

じゃあ「理性」ってなんだよ、となる。この理性(りせい)こそは、ヨーロッパで、神(かみ)に取って替わった言葉だ。まず、このことを分かってください。近代のヨーロッパ人は、それまで信じて来た、神を捨てて、その代わりに、この理性(フェアヌンフト、リーズン)を打ち立てた。この理解が何よりも大事だ。人間は、理性によって行動する生き物だ、という大きな考えに到達した。もう神を捨てた。神を嫌った。もう神は要らないのだ、と宣言するようになった。 神は、ドイツ語で Gott 、英語で God、フランス語で deue デユー 、ラテン語で Deus デウス) だ。

神を捨てて、神の代わりに置いた この理性が、人間の思考、知能を作っている。それでは、この理性とは何かを、1600年代から、ヨーロッパ人の中の、優れた頭脳をした人たちは、真剣に、深刻に考えなければいけなくなった。 デカルトがこの考えをはっきりと始めた。カントは、その 約100年後に表れた、デカルトの次に現れた大(だい)思想家だ。

この人間の理性と同格である重要な言葉、概念 が、合理(ごうり)だ。この 合理 をラチオ ratio という。英語では、レイシオとも読み、それは、割合、分割、取り分とも訳せる。

人間の持つ 合理的精神は、ラッショナル・マインドrational mind である。人間は、理性に従って、合理的に行動する、生きる、ということになっている。この理性(リーズン)と 合理(ラチオ)という2つの、最大級に大きな、大きなコトバ、ビッグ・ワード big word については、一旦、ひとまず、ここに置いておきます。

東大や京大の、自分が一番頭がいいと思っている人たちだけが、この『純粋理性批判』の「純粋理性」ことをずっと調べて、それで難しい大論文を書く。ドイツ語やフランス語ができる大秀才たちが、カント研究と称して勝手な論文を書く。周りの人たちはそんな論文は当然読まない。

彼ら学者には、人生経験があまりない。実際の世の中の、多くの人が生きている現実が分からない。そういう世の中の荒波を知らない。「世の中の普通に生きている人たちと、交わるように、思想や哲学を語る」ということができない。こういう状況で100年が経った、日本でも。

【秘書S:批判っていうから、英語の criticize(批判する)とごっちゃになって、理性を批判している本かと思ってしまう。違うんですね】

Kritik クリティーク(英語では critique)というコトバも、ビッグ・ワードです。ビッグ・ワードは、いろんな性質を持っている。語義(ごき)がたくさんある。言葉の意味がいろいろと広がる。クリティークというのは、「批評する、評論する、解説する」という意味の大きなコトバです。相手を非難するための、相手の言論を否定する意味だけではありません。 「これこれのここを、これから俎上(そじょう)に挙げて、それについて説明します。詳細に分析して評価、価値判断します」、ということです。

外国語を、日本語に翻訳しようとしても、適切な語に 変換し切れない場合が多々ある。日本語で西洋の学問を学ぶときの弊害(へいがい)がある。日本語だけで、世界基準の思考や思想に辿(たど)り着くのはなかなか難しい。

「批判」は、そういうコトバの一つでしょう。他の例では、日本語に「哲学」というコトバがある。英語の philosophy フィロソフィー、ドイツ語の Philosophie、フランス語の philosophie の訳語です。これはフィロソフィア(philosophia、ギリシャ語)に由来する。

フィロは「愛する(フィレイン、ギリシャ語)」という意味です。ソフィアは「知性・知識・知恵」だ。だからフィロ・ソフィアは「知(知恵)を愛する」ということだ。だから、私は、フィロソフィアを「✖ 哲学」ではなくて、「知を愛する学問」で、「〇 愛知学(あいちがく)」と訳すべきだとずっと言っています。
愛知県の 愛知は、フィロソフィーから取ったのだろう。 知立(ちりゅう)、ちふり という愛知県の真ん中あたりの古い土地名から取られたのだ、と私にしつこく反論してくる人がいる。私は、そうではないと思う。

明治の初めに西 周(にし あまね 1829-1897 67歳で死)という学者が、フィロソフィアを「哲学」と訳した。わけが分からないからやめてくれ、と私は思っている。

イデア idea は「思想」でいいんですが。あとは science サイエンスを「✖ 科学」と訳したのもまずい。科学では「科の学で」何の意味か分からない。この世の心理を窮(きわ)める、で窮理(きゅうり)学と訳した時期がある。だが結局、サイエンスは、科学になった。
scienceは、ヨーロッパ近代学問 と言う意味である。私は、サイエンスを、近代学問 と訳した方がいいと書いて来た。


西 周
〇参考記事 西周の翻訳と啓蒙思想(その一) ――朱子学から徂徠学へ、百学連環に至るまで
〇参考ブログ 「哲学」という言葉を編んだ人―西周とことばの物語―おぶんぐ

 

■ すでに1600年代から、ヨーロッパ市民は 神 と 教会 に厭(あ)き厭きしていた
カントがなぜ重要なのか。彼が生きた、1700年代の西洋世界というのは、ヨーロッパ中の都市の市民たちが、みんな、もう神と教会に飽き飽きしていた。もう嫌(いや)になっていた毎週、毎週、日曜日に、教会に行って、神にお祈りをするということが。そして、神父や牧師たちお坊様(聖職者)の、つまらない説教(せっきょう、プリーチ)を、神妙に頭を下げて、聞いていることが、ほとほと厭(いや)になっていた。もういい加減にしてくれ、と思っていた。 この事実を、私たち今の日本人が、理解することが、何よりも重要だ。この1点を分からなければ、デカルトもカントも分からない。


〇参考ブログ 欧州の教会はなぜあれほど美しく壮大なのか?「信仰心」の裏にある、中世のリアルな4つの力学|さびねこ

 

カントよりも100年前に、すでにデカルト(1596-1650 55歳で死)がいて、1637年に『方法序説(ほうほうじょせつ)』を書いて出版している。神と教会を厳しく批判して、否定している。

デカルト
〇参考YouTube おしえてソエジー デカルト

だからその100年後の、カントの1700年代には、市民たちは 理性(りせい)と合理的精神を大事にして、かつ近代数学の知識もあった。だが、彼らはそれらをはっきり表明できなかった。神を否定し、教会の神父、牧師たちと公然と言い争いをすることは出来なかった。僧侶たちは、まだまだ威張っていた。

すでに近代の精神である理性と合理によって、啓蒙(けいもう、エンライトンド)されていた市民たちは、自分たちの「理性と合理」の根拠を明瞭に語ることが出来なかった。それらが「神」に取って替わるのだ、と断言するのも怖かった。当時、教会に逆らうというのは大変なこと、恐ろしいことだった。

そして、本当は、今の今でも、欧米の知識人たちは、そうなのだ。

 

(カント②につづく)

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