「196」 信州旅行 ③

副島隆彦です。
今日は2026年9月24日です。信州旅行 ③ 、今日で最終回です。

■キリスト教徒の一部が官僚になって、思想弾圧を始めた
前に第2ぼやきに書いた(「173」「共同幻想論」に到達した思想家たち ⑤)けど、明治に入ると、日本の知識人がキリスト教にどんどん入信していった。

その代表が内村鑑三(うちむらかんぞう 1861-1930)です。内村を通して、キリスト教が日本に広まった。内村鑑三が、新宿の外れの方、今の北新宿にあった自邸に講堂(今井館。1907年に完成)を作って、そこで読書会をやった。教会とは名乗らなかった。大正デモクラシー(1910年代から1920年代)の間もずっとです。彼はアメリカのユニテリアン派の思想だから、もう「教会」という考えを捨てていますから(無教会主義)。熱狂的な人気が有った。

内村鑑三の講義風景

〇参考ウェブサイト  内村鑑三記念今井館教友会

内村の「読書会」に、東大や早稲田や慶応の、若手の一番頭のいいのがワッと通って来た。やがてその一部が悪い連中になって、東京帝国大学(現 東大)の警保局(けいほきょく 明治5年に司法省に設置。翌年内務省 へ移管)の官僚になった。

これの一番上の連中が思想弾圧をやったわけね。帝大生でありながら、彼らがのちに警察官僚になって社会主義者たちの思想弾圧をやった。彼らはキリスト教徒なんですよ。この警報局が戦後に警察庁になったんです。

■南原繁も丸山真男もどうも怪(あや)しい
実はこの流れの中に、戦後最大の日本の知識人と言われた東大学(総)長の南原繫(なんばらしげる 1889-1974 75歳で死)もいる。

南原繁【日本の政治学者であり、東京大学名誉教授。東京帝国大学の総長を務め、日本の政治思想のパイオニア的存在として知られている。彼は、太平洋戦争でファシズムを批判し、日本に初めて西洋政治思想史の講座を開いた。また、戦後日本の教育改革においても重要な役割を果たし、教育基本法の制定に大きく貢献した。Wikipedia+5】

副島隆彦です。私は、南原繁(なんばらしげる)はどうも怪しいと思っている。その弟子が丸山眞男(まるやままさお 1914-1996 82歳で死)で、彼が日本の岩波朝日文化の最高級の知識人です。戦後は、丸山眞男を尊敬することが日本の知識人たちの姿だった。私も彼の本を熱心に読んで、20代を過ごしている。岩波書店の岩波新書の「日本の思想」が馬鹿売れしていた。

丸山眞男【戦後日本の政治学者・思想史家として、超国家主義批判や戦後民主主義思想の発展に大きく貢献した人物。丸山眞男は大阪でジャーナリストの次男として生まれ、東京で育った。
東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、助教授、教授として日本政治思想史を専門に研究。1933年には思想犯として逮捕される経験を持ち、戦時中は朝鮮半島の部隊に応召され、広島原爆の被爆も経験している。(by AI)

丸山は、日本人の政治的行動や思想の特質を分析し、特に戦前の超(ちょう)国家主義を批判した。1946年には「超国家主義の論理と心理」を発表し、戦後の論壇で注目を集めた。ハーヴァード大学からも認められて博士号を貰っている。この論文で、日本人が戦争に駆り立てられた背景として、国家権力への無批判な服従や官僚制の無責任性を指摘した。 丸山は戦後民主主義思想の発展に指導的役割を果たし、占領期から安保闘争に至るまで、政治運動や社会問題に鋭い分析を提供した。また、彼はヨーロッパ思想と東洋古典の知識を融合させ、日本の政治思想史を体系化し、後進の研究者を育成した。(byAI)】

副島隆彦です。どうやら、南原繁とその弟子の丸山眞男までもが、一枚めくると、裏側はどうも怪しい。思想警察に繋(つな)がってる。その裏を私が暴いてやると、私は今でも思っています。

この丸山を批判したのが、吉本隆明(よしもとたかあき 1924-2012 87歳で死)です。1969年1月の東大闘争で、新左翼の学生らによる安田講堂の占拠事件が起きた。その時に東大の学生だけじゃなくて全国から、地方の国立大学の学生が多いんだけど、学生の一部が丸山の研究室に押し入って、蔵書を床に投げ散らした。それに丸山眞男が怒ったんです。「こんなことは許されない。戦前の官憲でもここまではやらなかった」と批判の文章を書いた。

それに対して吉本隆明が、「寺小屋の先生でも、自分の教え子が幕吏(ばくり)に捕らえられそうになったら体を張ってかばった。なのに丸山、お前はなんだ」って書いたんですよ。丸山眞男は、その時の、岩波朝日文化の輝ける大学校である東大の法学部長だ。東大の学長(総長)ではなかったけど、丸山が日本の知識人のトップだった。でもこの時はもう学生たちを抑えつける側になっているのね。だから私なんかみたいな人間は、「吉本隆明の方が正しい」となって、吉本主義者が出現していくんです。

参考 第2ぼやき 「169」「共同幻想論」に到達した思想家たち ①

吉本隆明【詩人としての才能を持ちながら、評論家としての地位を確立。戦後の日本における思想界の中心人物として、文学、政治、宗教、サブカルチャーなど多岐にわたる分野で活動した。彼の著作には『共同幻想論』(1968年刊)などがあり、戦後日本最大の思想家として知られている。

吉本隆明は、個としての自立を貫き通し、既成の権威や組織に頼ることなく、独立した思考の重要性を説いた。彼の思想は、学生運動世代にとってのバイブルのような役割を果たし、現代においてもネット社会や同調圧力が強い日本を読み解くための有効な補助線となっている。(nihonshi-trivia.com+4)

吉本隆明の思想は難解なことで知られていますが、その核心にある問いは、思想の根ざし方や言葉の機能、国家と家族と個人の関係など、今日の私たちにとっても答えの出ていない問いである。( Note)】

副島隆彦です。②で書いた古田晃(ふるたあきら)記念館には、丸山真男の大きな写真もありました。記念館の2階には、古田と親交があった多くの著名な作家や知識人たちが訪れた、という部屋が残してあります。丸山も古田のところに来ているんですね。筑摩書房からも本を出していた。他にも30人ぐらい、作家や著名人の写真がズラーっと展示してありました。

古田は自分の生家を、そこで余生を暮らすために建て増ししたんだけど、増築が完成してすぐに心筋梗塞で具合が悪くなって臥せっていた。その時に、そこにお見舞いがてらに東京の知識人たちが順番に通ってきたそうです。奥さんが客の接待をしたんでしょう。
 飾ってある丸山真男や武田泰淳

■1960、70年代にドカーンと売れた「文学全集」
中央公論と岩波書店と筑摩書房、これが日本の三大リベラル出版社です。反自民党なのね、といいたいけど、1980年代から、どんどん態度がおかしくなって変わっていった。一方で文藝春秋(ぶんげいしゅんじゅう)と新潮(しんちょう)社が、保守の言論雑誌です。だけどこれらは元々が文芸雑誌なんですよ。文藝春秋は戦後も、政治問題は一切やらなかった。

筑摩書房も文芸出版社です。それで、何が一番売れたかっていうとね。ドカーンと売れたのが「ちくま日本文学全集」だ。この文学全集が死ぬほど売れた時期がある。昭和30年代だから、1950、60年代、日本が高度成長経済で豊かになって行く頃だ。ホンダのシビックかなんを大衆が買い始めた頃だ。その前はスバル360だけど。ほんとにチビの車だった。 ピアノを買う。ステレオを買う。それと文学全集を買ったんです。日本全国で、新しい中産階級の人たちが。みんなが文学や思想や知識に憧(あこ)がれた。中産階級に生活の余裕ができて来た頃です。

本当に買うんです。全巻まとめて100巻の文学全集を。そして全く読まないんです。飾っておくだけなんですね。本が箱に入っていてね。読まないから箱から出さない、箱入(はこい)り娘ですよ。箱にまで入れた本を一所懸命に売った時代が1970年代まであった。それがセットで20万円とかです。月賦(げっぷ)で買う。だからその時、日本の出版社はものすごく儲かって、そういう風潮が日本の出版業を支えた。それが日本の文化ですね。

〇関連リンク 筑摩書房 明治文学全集)

筑摩書房よりも前に、改造社の円本(えんぽん)と文学全集のブームがすでにあった。中央公論も全集を出した。

私自身は古田晁さんとは会ってないけど。この後のこの会社の社長や編集長たちを知っていて、彼らに長年お世話になっている。筑摩書房からも私は本を出してもらった。だから古田晁記念館には一度は行こうと思っていたから、ようやく行けてよかったよ。

■副島隆彦と日教組
私、副島隆彦は、岩波朝日文化の申し子です。中学生だった13、14歳の頃からもう筑摩の「展望」や「中央公論」、岩波の月刊誌の「世界」「文藝春秋」とかを読んでいますから。中学校の社会科や国語の先生たちから借りて読んでいました。

先生たちも、「この副島というのは凄まじく頭がいい」と分かっていたわけですよ。彼らは日教組(にっきょうそ。日本教職員組合)の活動家だから、しょっちゅうストライキをやってるんですね。授業に教師たちが来ないんですよ。だから生徒たちは授業中に大騒ぎして、校長や教頭たちは、をれをもう止められなかった。1960年代です。

参考ウェブサイト 日本史・世界史のススメ 日教組とはどんな組織かをわかりやすく解説|歴史・思想・問題点まとめ

校長や教頭の次に学科主任っていうのがいた。彼らが管理側だ。教育委員会と文部省の言うことを聞く人たちだ。 学科主任になる先生は、教員として出世コースを狙った人たちです。このあと出世して教育委員会に行ったりして仕事をして、自民党の言うことを聞く教師たちになった。

出世コースの彼らに対して、それ以外の先生は、体制側に対して盾(たて)ついて、「なんだこの野郎」とか言ってね。日本のインテリ層のリベラル派の主流派は「社会党左派」って言うんだけど、社会党が大きな政党だった。同時に共産党も日教組に入ってるんですけどね。日教組のリベラルの先生と出世コースの保守派の先生が、学校の職員会で、毎日、喧嘩するわけです。生徒たちにも怒鳴り声が聞こえる。そういう時代だった。

安倍晋三たちが日教組のこと死ぬほど嫌った。なんというか、安倍は「日教組の教師たちが自分たちをいじめたんだ」と。本当は、安倍晋三自身がお勉強が全然できなくて、簡単な漢字もまともに読めなかった男だった。ディスレクシア disrectia  と言って、日本語では「難読症(なんどくしょう)」あるいは「識字障害(しきじしょうがい)」ですね。安部や麻生太郎は、自分が勉強ができなかったのを日教祖のせいにしたんです。「教師にいじめられた」という被害妄想がすごいんですよ。

安倍のような「右翼」の連中はね、大体、小学校や中学校で勉強できかった人たちです。これが今のハングレみたいな、あるいは金儲けの仕方だけ知っていて、チンピラの子分を3、4人使って土木業者とか飲食店やってるような人たちだね。今はマイルド・ヤンキーと言うのかな。彼らはアルファードに乗るんです。だから右翼体質の人というのは、要するに子供の頃にお勉強できなかった人たちです。

この人たちにとって日教祖は、それはもう激しい憎しみの対象で。でも今では日教組も、もうボロボロに叩き潰された。日教組の組合員だという教師は、全国の学校教師の2割以下じゃないかな。もう6、7割は抜けたと思いますね。

出世コースを狙う教員たちは、死ぬほど嫌われていたんだけど、でも「出世コースを狙う」というのが、保守派の生き方の基本ですから。どんな企業でも組織・団体というのは、自分たちの方が真実で正しいと思い込んでいるわけです。この闘いが世の中の対立の基本なんですよ。

私自身は、出世もしない、冷や飯食いで給料も上がらない教職員組合系の教員たちと話をしながら育ちましたから。左翼系の人間ですからね。でも私たち頭の良い学生は新左翼=過激派になっていったから、共産党系の旧(きゅう)左翼を嫌うんですよ。体制派と温厚な先生たちの言うことを聞かなくなって、彼らからしたら「嫌なガキども」扱いでしてね。

インテリで、左翼系というのは、消費者として大量に本を買って読んだ人たちです。これが明治・大正・昭和・戦後、そしてごく一部は今の時代までつながっている。だから私、副島隆彦も岩波朝日文化の申し子なんです。この「左翼系」が消滅しはじめたのが1980年代です。

1989年からベルリンの壁が壊れて、ソビエト連邦ではゴルバチョフという指導者がペレストロイカ(立て直し)をやると言って。ドイツが統一した次の日の1991年12月にソビエト崩壊です。それを私の師の一人である小室直樹(こむろなおき 1932-2010 77歳で死)先生がこの「ソビエト崩壊」を本で予言して当てた。小室先生は右翼保守体質の人でした。
小室直樹


ベルリンの壁 崩壊

■白骨(しらほね)温泉
松本市から真(ま)東の方へ一本道みたいになっている(国道158号線)。そこを通ってずっといくと上高地(かみこうち)の方に行きます。松本電鉄上高地線というのがあって、もうほとんど路面電車みたいでしたが、それが新島島(しんしましま)駅まで行くんです。上高地に行く人たちは、そこからバスで山の奥に入っていく。ですが私は、今回は上高地にはいかないで、長野県道300号線に入って、白骨温泉(しらほねおんせん)に向かった。旅館に泊まらないで、昼に日帰り温泉を楽しみました。硫黄の成分が入っている素晴らしい温泉でね。硫黄があるからお湯が白く濁るんです。

確か2005(平成17)年、私が熱海に家を買って来た年に、白骨温泉が大騒ぎになった。白骨温泉の湯船にバスクリンにみたいな、そういう市販の入浴剤を入れて濁らせていたと(温泉偽装問題)。入浴剤は硫黄の香りがしますから、まさしくそのままの香りなんですが、その事件があって。白骨温泉のいくつかの旅館の経営者と公共浴場までやっていたと。それが露見して騒ぎになりました。

当時の長野県知事だった田中康夫(たなかやすお 1956- 現在70歳)がビデオカメラを県庁職員に持たせて現地まで行って、問題のホテルの納戸に向かって行って「ほら、入浴剤を見つけた」とか言ってね、それがTBSのテレビ番組になった。

田中康夫

〇関連記事 田中康夫県知事が踏み込んだ、その時――白骨温泉・若女将が語る「事件の真相」(中編):嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(3/4 ページ) – ITmedia ビジネスオンライン

それでも世の中の普通の人は、そんなに温泉をいじめることはしません。シラけちゃってね。政府の役人だって、1人200円の入湯税(にゅうとうぜい)を取れればいいから、別に営業妨害をする気もない。でも田中康夫のいやらしいパフォーマンスで、さらに風評が広がって、客足がガタンと落ちたと思います。今でもいい温泉ですから客は来ています。

私たちは今回、「泡の湯(あわのゆ)」というところに行った。大きなつくりの混浴の露天風呂に、まあ20人ぐらい人がいました。外国人のカップルも二組いましたね。だけど温泉の水面にアブが何十匹も飛んでおりまして、自分たちの縄張りを侵害している人間どもの邪魔をするわけで。人間はアブに刺されたくないし、落ち着いてお湯に入っていられないんですが、まあ、でもいい温泉でした。
  白骨温泉 泡の湯

温泉を出て、県道をさらに真っ直ぐ行ったら乗鞍高原(のりくらこうげん)です。向こうに乗鞍岳(のりくらだけ)がくっきりと見えた。高原でも標高2500メートルぐらいあるのかな。乗鞍高原をぐるっと回って、また元の道に引き返した。
乗鞍岳

上高地へは、今回は行かなかった。私は2度行った。大学1年生の時に必死の思いで上高地へ行ったことがあって、それを思い出しました。上高地という地名は中学校の国語の教科書にも載っていて、私は強い憧れがあった。梓川(あずさがわ)とか河童橋(かっぱばし)、大正池(たいしょういけ)とか。でも実際にバスで行って現地に着いて、ガッカリしたという記憶があります。上高地の前に行った軽井沢でもがっかりした。去年、軽井沢に文学旅行に行った話はまたします。私の中から文学幻想が半分消えた。それよりも自分の日々の生活の方が大変だ、と。

■諏訪の岩波図書館
今回の旅行の話に戻しますが、岩波書店の聖地に行こう、というのが旅の目的です。岩波書店の創設者である岩波茂雄(いわなみしげお 1881-1946 64歳で死)が信州の出身だとは知っていたけど、一体、どこから出て来たのか、今回調べながら行ってみると、そこは中央高速の諏訪湖インターチェンジを降りてすぐのところでした。

岩波茂雄【岩波書店の創業者。日本の出版文化の近代化に大きく貢献した実業家である。古書店から出版社へと本格的に参入し、岩波文庫や岩波新書などのシリーズを刊行。また、戦前から先見の明をもって、岩波文化を築き上げた。

岩波茂雄は、知識の民主化を推し進めるために「読書子に寄す」の宣言を行い、良書を廉価で広く届ける理念のもと、知識の普及と学問の自由を追求した。 また、戦争への反省から、国民の間に批判精神を培う月刊雑誌の必要性を痛感し、1946年1月に月刊雑誌「昭和ガイド」を創刊した。(by  AI)】

副島隆彦です。地名というのは、普通は北の方が上(かみ)で南が下(しも)だと思っていたら、諏訪は何だか知らないけど、逆なんですよ。諏訪湖の北が下諏訪で、南側が上諏訪でした。諏訪市の北部である下諏訪(しもすわ)の諏訪大社の方が立派で大きいんですね。

諏訪湖の南も諏訪市で、そこに小泉寺(しょうせんじ)というのがあった。小泉寺が「岩波茂雄の生誕の地」なんです。入り口にその石碑がありました。このお寺の裏手の墓地には、岩波家の先祖代々の墓石が集まっている一角がある。岩波という百姓の一族がこの辺にずっといたということですね。名主のような階級だったと思う、

近くに「諏訪市立 信州風樹文庫」(すわしりつ  しんしゅう ふうじゅぶんこ)という図書館があって、岩波書店の本が全部そこに、今も蓄えられている。そこにも行きました。

諏訪市立信州風樹文庫

岩波茂雄は敗戦の年(1945年)に脳出血を起こして、自分の生家である実家で、その翌年に死んでいます。だから諏訪の実家に自分の記録とか書類、書籍なんかを全部持って帰っているはずなんです。それが小学校に移されて、それからここに来た。

この風樹(ふうじゅ)文庫という図書館の2階に古い書籍が保管されていると図書館の職員が教えてくれたので、そこにもっと、岩波茂雄の書簡とかも有るでしょう。今では表に出せない本や文書なんかも保管している。前に話した筑摩書房の古田晃が戦後も長い間生きていて(1973年に死)、古田は書簡や文書を並べて飾って公開していましたけどね。

私はこの岩波朝日文化の「申し子」だと言いました。でも私は彼らから嫌われているというか、岩波書店からは一冊も本を書かせてもらえなかった。
ここに副島隆彦の本はない…

前に話したけど、新左翼や無党派の学生が中心になって東大闘争(東大紛争)をやってね。1969年1月に安田講堂の攻防戦というのがあった(東大安田講堂事件)。ヘリコプターも飛んで、機動隊が占拠学生たちに放水車をかけて、あれが日本の学生運動のピークです。最後まで東大の建物を立てこもった450人ぐらいが、機動隊に突入されて捕まった。東大生はその中のまあ1割ぐらい50人ぐらいですね。この時捕まった学生の中に、私があとあと知り合った先輩たちがいます。
当時の安田講堂

東大紛争 yourpedia 日本の学生運動 から

捕まった学生たちは刑事被告人になって長いこと裁判にかけられた。大した犯罪じゃないんだけど、一応、犯罪者扱いです。でも逮捕者が400人ぐらいなら別に大した数じゃない。このあと全国全共闘会議(ぜんこくぜんきょうとうかいぎ)といって、1969年から1971年まで、私立大学を含めて日本のほとんどすべての大学で、この全共闘(ぜんきょうとう)運動があったんです。

小さい大学だったら20~30人とか40~50人。国立大学の大きいところは4千人~5千人。わーっとヘルメットをかぶって集まるんですよ。女子学生たちも一緒にね。ほんの一時期、半年とか1年の間です。

■全共闘運動の目的は?
(字数オーバーのため、別の第2ぼやきに記載します)

■左翼って何ですか?
ソビエトが、1922年に日本で作った、日本共産党が(旧)左翼です。日本共産党は国民政党ですから、敗戦直後でも国会議員を20人とか30人出していた。1970年代の日本の経済成長の時も、公害や物価の問題を掲げていた共産党は人気があった。でもだんだんあまり人気のない人間ばっかり残っちゃってね。ソビエト共産党内部でも、スターリンが死んで(1953年)の3年後にスターリン批判が始まって、激しい対立と分裂、憎しみあいが起きた。共産党はもうボロボロですけど、内部の争いがずっと続いた。

岩波書店の社員400人の中に、自分の意思で共産党員をやっていた人が100人ぐらいいたでしょう。その人たちは自分たちが主流派だと思っている。おそらく今も。私なんかは新左翼だから、だから岩波書店で書かせてもらえなかったわけね。ここが大事なとこだけど、なかなか若い人たちは、私の弟子たちを含めて、このことを理解してくれません。今は岩波書店の社員は100人ぐらいでしょうが、でもやっぱり日本共産党員の左翼がいますよ。

■新左翼って何?
ソビエトのスターリン書記長 が、1933年から次々に反対派を粛正(殺害)していって、ソ連を「収容所列島」にしてしまった。労働者たちの理想の国のはずだったのに。それがガラガラと内部から崩れてしまった。大きく言えば、それに失望して、私たち新左翼が生まれたんです。世界中の各国で生まれた。共産党(旧左翼)から分裂したのが新左翼です。当時の頭のいいのはみんな新左翼になった。

私たち新(しん)左翼の別名が過激派です。この単純な真実を分かってください。

日本共産党ら(旧)左翼と、新左翼は互いに嫌(きら)い合う。分裂した、1950年代の当時は殴り合いになったんです。まあ今は殴り合うような時代じゃありませんが。一度嫌いあったら、思想的に近かった者同士ほど、強く憎しみ合うものです。でも新左翼も、今は世界中で勢力としては敗北している。もうバラバラになっています。

自分は新左翼だと言って、いつまでも過激な運動をやってると、怪我をしたりね。鉄パイプで頭を殴られて障害者になってしまった人も少なくないんです。それが1970年代です。もしくは逮捕されて人生に傷がついてしまったり。その恐怖があって一人一人は、みんな運動をやめていったんですよ。自分のお父さんに「もうそんなことは止めろ」と殴られてね。

彼らの一部というか大部分は、活動をやめて、なんとか大学を卒業して、出版社とテレビ局と新聞社に入っていった。もともとがバカじゃない勉強秀才たちですから。頭がいいからね。勉強ができた優秀な人たちです。彼らはなんとかうまく生き延びた。

今でもごく少数ですが、主要な大学に今も活動家が数十人ずついるんです。中核派、核マル派、ブント系とかの赤いヘルメット系(赤は共産主義を指す)の人たちが一応いるんだけど、この人たちももうすぐ80歳になって、ジジイを通り越して、そろそろ死んじゃいますからね。

私は彼らより5歳ぐらい年下です。だから「少年兵(しょうねんへい)」だった。左翼運動が激しくなってきた頃、中学生だった私は、新聞やテレビをじっと見ていた。私は、進学校だったけど、その高校で教師たちとつかみ合いをやって17歳で高校中退になって。このあと検定試験を受けて、早稲田大学に入ってまた運動をやるんですが、それがもう長くは続かなかった。

自分より年長の先輩たちを見ていて、「このままやっていると、自分は死ぬか、鉄パイプで殴られて障害者だ」と思って、やめました。それから早稲田大学を卒業して銀行員になりました。

ちなみに社会党系というのは、これは労働組合(公務員と大企業の従業員の団体。待遇改善と賃上げが基本 )の支持が背景にあった。社会党というのは「柔らかいソフトな左翼」なんです。それの最後の生き残りが社会民主党の福島 瑞穂(ふくしま みずほ 1955- 現在70歳)ですね。今の立憲民主党の中にも、その思想が残っている。
福島瑞穂

■朝日岩波文化の発祥、信州
だから戦後のあの時代の社会の空気は、その一部は信州の文化と雰囲気から出てきたんですよ。中央公論、岩波、筑摩という出版社の文化から。朝日新聞のことは今日あまりしゃべりませんが、朝日新聞こそは日本の左翼勢力の大きな旗頭(はたがしら)だったんです。毎日、朝日新聞を読むことが、日本のインテリ教養人の務めだった。私もそれをずっと中学時代、高校時代もやって来たんです。でもそのうちに、朝日新聞は、アメリカと自民党に屈服して、つまらない新聞になってしまって、嫌になってやめました。

私は今73歳だから、新左翼の最下限なんですよ。佐藤優(さとうまさる 1960- 現在66歳)氏が「自分は同志社大学在学中に黒ヘルを被って、新左翼の流れに入っていた」と言うけどね。私から見たら、最後の最後のリメインズ(残党)ですね。彼は私より7歳若いですから。私の年齢で最加減です。もう昔の自分の左翼運動の体験のことは、皆、あんまり言わないことになっている。1960年代、70年代まで、全国で200万人ぐらいいる新左翼のことを、実感と、若い時の体験として知っている人たちがいる。今もまだ78歳ぐらいで生きている。私、副島隆彦が今のうちに、これらのことを書いて残しておかないと、もう何も真実が残らなくなってしまう。これではいけないと思って、こうして書いています。

朝日新聞は世界左翼勢力の一部だったんだけど、船橋洋一(ふなばしよういち 1944- 現在81歳)というワルが本当に朝日を悪くした。役員になって入り込んできた悪い野郎です。こいつは本当にアメリカの手先でね。ロックフェラー財閥から金が出ていたやつだ。この船橋洋一によって、朝日新聞の左翼文化の伝統が叩き壊されていった。それを片側から、意識的、計画的に安倍晋三たちがやりました。
船橋洋一

だから昔の朝日新聞の記者上がりの人たちもみんな、鬱屈(うっくつ)して黙りこくって、ただのジジイの年金生活者になって、もう集まることもなくなった。岩波朝日文化が途絶えた。終わったんですね。

岩波書店も潰れかかっています。神田にあった立派な自社の建物をひとつひとつ小学館に売りながら、社員たちの給料を払ってきた。それは1980年代から始まっていた。それぐらい経営がジリ貧で、ひどい状況になっています。筑摩書房も2回潰れたかな。その間に私は筑摩書房の幹部たちとお付き合いしていますからね。

だから私にとっての長い歴史の一コマががここ(信州)に関係しているということで、勉強になった。行ってよかったです。

(終わり)

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