映画なんでも文章箱
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Loginはこちら【61】別に淋しくはないよ
ニュースを見て、まず「ああ、そうか」とだけ、僕は思った。
色々と心に込み上げてくるかも、と、前から予想していた。が、そうでもない。
多分僕が、2日に一度くらいの間隔で、ジェフの曲を聴いているからだ。大学時代から、ほとんど空気のように、ほぼ毎日、僕はジェフの曲に接している。ジェフは、僕の周りにずっといる人なのだ。だから、寂しさはあまり感じない。僕が死ぬまで、これからもずっと横にいるだろう。
そう思うと、親兄弟よりも、ジェフはずっと私の身近に居続けた人なのだ。死のうが生きていようが、関係ない。曲が流れてさえいれば、ジェフは僕の横にいる。彼の思いを、ごく自然に、曲から感じることが、僕にはできる。
そういうギターを弾く人だからだ。彼のファンは、全員がそう感じるだろう。
ジェフの人生を振り返ると、はっきり言って、不条理の縮図である。「あれだけの才能と能力があるのに、なぜ世間では評価が低いのだろう?商業的に大成功しないのだろう?」と、最初の頃は、僕はずっと疑問に思っていた。結局わかってきたのは、本物の才能を持つ「オリジナル」は、世の中では成功しない。どちらかというと、周りから疎んじられる、という事実だ。
「オリジナル」のトガった個性は、周囲をグサグサ突き刺したりして、傷つけることが多い。なので「普通の人」には扱いにくいのだ。そんな「オリジナル」を離れて観察している、能力の低い連中は、「オリジナル」が生み出す唯一無二の「作品」を、ちゃっかりと借用して、ダサいアレンジを加えて発表する。そうして得られたヒット商品から、周りの連中が、大金を儲けるのである。
ダサいアレンジでも、世間一般では、誰も目にも耳にもしたことがない「モノ」ならば、素晴らしく見えたりするのだ。世の中にに溢れるほとんどは、そのような「モノ」である。経済的合理性からは、そのような「モノ」を(パクリとも言うが)次々と作り出すのが、大正解であろう。ネットの世界でも、大勢見かける連中だ。「少しでも、他人よりも先んじて、セコく金を儲けよう」そんなセコさのアピールが、近代資本主義社会の常識だ。セコさの集団だ。
ジェフ・ベックこそは、そんな経済的合理性の、対極にいる人である。彼こそが真のオリジナル。しかし、世間的な成功者から見ると、ジェフ・ベックは単なるバカである。「あれだけの才能を持ちながら、成功を掴めていない。何とモッタイない」と、なるのであろう。
でも、私のような、世間的な一般人とは、到底いえない人間にとって、ジェフ・ベックはどうしても必要な人だった。「合理的な生き方なんか、どうでもイイじゃん。そんな生き方をしてる連中には絶対に見えない、素晴らしい宝物が、道端にたくさん落ちているじゃないか。それを拾って集めていけば、俺達も多分、幸せになれるゼ」
そんな癒しのメッセージを、ジェフの曲から僕はいつも感じる。そしてこれからも、僕の横には、ジェフがずっと居続けるだろう。なので、あまり寂しくはないよ。
僕の中でのベストアルバムを挙げるなら、やっぱり「ラフ アンド レディ」である。最初に自分で買ったCDがこれだった。だから、ではなく、このアルバムでの演奏が、ジェフのベストだと思う。16ビートのリズムで、全曲押し切っているのは、このアルバムと「ブロウ バイ ブロウ」の2枚だけである。もうひとつの理由は、アレンジに他人を使っていないアルバムは、この「ラフ アンド レディ」だけだからだ。自身がアレンジを手がけたこのアルバムこそが、ジェフのエッセンスが一番凝縮されている作品だと思う。
つい最近まで、ジェフはライブも続けていたようなので、新たな音源がこれからも、継続して発表されるのだろう。それを楽しみにしたい。
【60】或る音楽評論家との別れ
松村雄策さんが亡くなったニュースが、しばらく前に流れた。数日であっという間に、ネットから消え去ったのが、少し悲しかった。
松村さんは、作家(評論家)といえばそうなのだが、洋楽のファン、特にビートルズの大ファンで、そのまま生涯を終えた人、というのが正解だろう。渋谷陽一の友人で、雑誌「ロッキングオン」の創刊メンバーの一人だった。
その雑誌の中で、松村さんと渋谷の二人が、長年途切れることなく、延々と対談をやっていたのは有名だ。私が時々ここで書く対談文は、二人の対談のもろのパクリである。ぼやきの広報ページに東芝の原発の話を書いてくれ、とSNSIから頼まれた時に、私は、普通の論説文だと、いつまで経っても書き終わりそうにない、と感じた。それで苦肉の策で、松村さんと渋谷の対談を思い出して、あんな感じでやってみようと思った。そうしたら、あっさり書けたのだ。それ以来、私は渋谷と松村さんには恩義がある、と、勝手に思っている。
松村さんのエッセイはほとんどが、ビートルズの関係である。それでも、似たような内容であっても、毎回きちんと読ませる文章であって、40年もの間彼は書き続けた。それだけでも価値がある、と私は思う。
今でこそビートルズの曲は、日本でも聴くのが常識のレベルに広まっている。しかし、ビートルズが解散する前の60年代は、日本では一般に全く認知されていなかった。いい大人は全て、ビートルズのアンチだったのだ。俳優の高島忠夫が、夫婦で来日コンサートを観た感想で、「あんな失礼な態度の連中は見た事がない」と、言っていたそうだ。その記事を読んだ子供の頃の私は、「貴重なコンサートを見た後で、その言い草は何だ?おまえのコメントの方がよっぽど失礼だろう?」と怒りを感じた。
今では彼の息子(長男)の方が、キング・クリムゾンの大ファンであると公言し、音楽雑誌で時々語っていたりする。それを見ると、何ともいえない理不尽さが、今でも私の心中に込み上げてくる。「あんたは高級オーディオセットに囲まれて、ゆっくりソファーに座って、クリムゾンを聴いてるんだろうな。俺は自分の、なけなしの小遣いで買ったLPレコードを、知り合いの家に持って行って、46分のカセットテープにダビングしてもらって、実家にあったモノラルの、ボロいラジカセで、畳に寝っ転がって曲を聴いてたよ。カセットテープがノーマルタイプじゃなく、クロムテープだったのが、唯一の俺のこだわりだったよ」という風に。単なるひがみなのだが。
音楽を聴くことは(人によるのだが)単なる楽しみではなく、「どうしようもないと日々感じる、重たい現実を、綱渡りでもいいから、ぎりぎりになんとか、乗り越えてゆくための力を与えてくれる」ものである。この事実を、子供の頃の私に、最初に、言葉で教えてくれたのが、松村さんのエッセイでは、なかっただろうか?
昔の洋楽の評論文も、変な知ったかぶりをかますか、適当なウソを並べるのが大半だった。まともな内容は少なかったように思う。前にも書いたのだが、クリムゾンのアルバムタイトル自体が「ポセイドンのめざめ」「太陽と戦慄」「暗黒の世界」である。「クリムゾン・キングの宮殿」も、よく考えたらおかしい気がする。courtとは「宮殿」ではなくて、「法廷」などの裁判に関する用語ではないのか?歌詞の内容から推測すると。結局、まともなアルバムタイトルは「リザード」「アイランズ」「レッド」だけだという。全てカタカナ単語の一言である。日本語の直訳ですらない。レベルがわかるよ、全く。
これは断言できるのだが、現在の日本で、きちんとした洋楽の評論が書けるのは、ブレイディみかこさんただ1人である。特に、70年代後半からのパンク以降、ニューウェーブから現在までの評論文が、きちんと書けるのは、彼女だけだ。
60から70年代のオールドウェーブロックについては、他の評論家でも何とか書ける。理由は簡単で、この時代のロックバンドは、他のバンドがやっていないことばかりやっていたからだ(日本語がおかしい)。それまで、未だかつて誰も聞いたことがない音楽を(ついでにLPアルバムのジャケットデザインを)、工夫して編み出して、演奏する(表現する)。他人のサル真似など絶対に、絶対に、しない。それこそが昔のロックの、オールドウェーブの真骨頂である。
大学時代に、キング・クリムゾンが、誰も客がいない福岡の会場で熱演した話を、私に教えて頂いた女性の方が、しみじみ語っていた。「昔のロックは、誰もそれまでやっていない音楽をやるものだったのよね。それが今では、誰かがやっているのと似たような、同じ音楽をやるのがロックになっちゃった。時代が変わったのよね」と。
なので、昔のロックについては、自分が感じた印象を単に綴るだけで、割と簡単に文章が書けるのだ。手間ミソであるが、私がジャックスとクリムゾンで書いたように。だって、早川義夫のように歌う人など、他には誰もいないではないか。(あれを歌だといえるかどうかは、意見が分かれる処だろうが)私は今まで、ジャックスの音楽がクリムゾンと同じ方向性で作られている、と書かれた評論を、不勉強かもしれないが、読んだ事がない。ジャンルが違うのでリスナーが被らかったのだろうが。「なるほど」と気付いた私は、あの文章がすらすらと書けた。
一方で、ニューウェーブロックの評論は難しい。どれも、どっかで聞いたような曲ばかりなので、すぐに内容が尽きて、文章に詰まってしまうのだ。例に出すにはどうかと思うが、レニー・クラビッツなどは、見た目も含めて、ジミヘンとストーンズとツェッペリンを足して、三で割っただけだ、と書いてしまえば、それで終わってしまうのではないのか?(聴かないで書いている・・・・)それ以上は、何とも書きようがない。あえて文章を続けるならば、音楽の内容とは無関係の自分の個人的な話を、無理矢理にこじつけて、延々と書くしかなくなる。
私がロッキングオンを自分で買って読み始めたのは、80年代に入ってからだった。そこで書かれている英国の新人バンドの評論を読んでも、私の頭に全く入って来なかった。バンドの情報よりも、筆者が自分の身近な出来事をひたすら語るだけ。そんな文章ばかりが、ニューウェーブの曲の評論だった。なので、松村さんが毎月載せていたビートルズのエッセイと、後は、まだ若かった市川哲史(いちかわてつし)が、時々書いていたプログレ漫談文くらいが、当時のロッキングオンで、私の読める箇所だった気がする。
ニューウェーブが似たような曲ばかりとはいえ、当時の(英国の)若者達の支持を受けてはおり、流れた時代の世相を映してはいる。音楽の内容の差が小さい分、社会情勢の影響はむしろ強いだろう。しかし、それゆえに、日本人が、ニューウェーブロックと英国の社会情勢を正しく分析して、文章にするのは、相当に難しい。単に音楽が好きで、英語も読めて、文章もそれなりに書ける、では、ニューウェーブ評論にはならない。その曲が流行る彼の地の状況、政治や経済状況がきちんと理解できて、わかりやすい文章にして伝えなければならない。
一方で、日本人の音楽評論家のほとんどは、単なる音楽ファンの延長でしかない。英語が出来たとしても、英国の政治経済状況を調べて理解し、語れる音楽評論家など、誰もいない。そりゃそうだろう。
仕事の都合でロンドンに在住し、現地の生の情報が送れる、だけでも、多分ダメだ。大手企業の駐在員(又は大学教員)、並びにその奥様や家族の方々では、無理である。ロンドンの街中での、狭いコミュニティの生活では、低所得者層の生活が肌感覚でわかる、までにはおそらくは行かない。
ニューウェーブロックを語るには、リスナー達が生活する、現地の下層レベルの環境で、長年生活した経験が必要だと思う。でも、外国の下層階級に溶け込んだ日本人で、きちんとした日本語の評論文が書ける方は、まずいないのではないのか。
そのように考えたら、ブレイディみかこさんだけが、正しくニューウェーブロックの評論ができる理由がわかるだろう。
彼女は音楽ファンであり文章が上手いだけではない。彼女は(おそらくは何処かの大学の夜学などで)大学院レベルの経済学を学んでいる(公言はしないが)。政治についても、恐らくは独学で、本に書ける程度まで勉強している(実際に本を出版している)。なので、ブレイディさんには、政治、経済について正しく語る実力がある。さらに彼女は、言わずもがな、貧乏な(私と同じ)家の出であり、ブライトンという郊外の街で、下層階級層として今でも生活している。ニューウェーブを語るのに文句無し、である。
私は、ブレイディさんの書いた音楽エッセイを読みながら、「ああ、モリシーとはこんな人だったのか」と、しみじみ感じた。それまで、ロッキングオンに書かれたスミスの記事を、何度読んでも全くピンと来なかったのが、初めて腑に落ちた。ブレイディさんと他の論者では、文章の説得力がまるで違うのだ。
パンクやニューウェーブロックは、実は、尖ったセンスの、浮世離れした人間だけが聴くような、取っ付きにくい、偏った音楽ではない。普通の人でもわかるように、平易な文章で、正確に内容を語る事が出来る。そんなことが出来るのを、ブレイディさんの文章から私は初めて知った。
ただし、そんな文章を書くのには、相当な知性の持ち主ではないと無理である。アホではパンクを語れないのだ。残念な事に。単に文章の中でツッパるだけが関の山である。「俺はこんなにイケてる曲をいつも聴いてるんだぜー、イエイ」てな感じで。(こんな奴は流石にいないかもしれんが)
まあ、とにかく、だ。音楽評論家の中で、やたらとツッパる文章を書くのは、全てアホだとみなしてよい。相手にする必要などない。
ぶっちゃけ言えば、洋楽の評論については、ブレイディさんが一人で書くだけで十分なのだ。彼女とその他大勢では、内容のレベルが違いすぎる。他の十ぱ一絡げ(からげ)の評論家などは、全てAIに替えてしまえ。それで全く問題ないではないか。
私は真剣にそう思う。
でも、そうなったらなったで、日本の洋楽評論家の全員が失業してしまう。それはそれで問題か・・・・・・・。なので、武士の情けかどうかは知らんが、ブレイディさんもあまり、音楽の文章を積極的に書こうとしないようだ。誰よりも上手く書けるのに、だ。
「まあ、あの人達にも、生活があるやろうけんねえ」という事なのだろう。
松村さんのエッセイはどれも、気負いやツッパりが全く無い、優しい平易な文体である。彼の訃報のニュースのコメントで、誰もが「ロッキングオンの文章で一番理解しやすいのが松村さんだった」と記していた。洋楽の入門者への優れた手引きとして、松村さんの一連の文章の価値は、薄れずに残り続けると思う。
松村さんの推しは、バッドフィンガー、ニック・ロウなどの優しい、軽いポップスが殆んどだ。バッドフィンガーは、ビートルズが作ったレコード会社のアップルで活動していたのだが、リーダーのピート・ハムが首を吊って自殺してしまうという、悲劇で終わったバンドだ。きれいな曲を作りながらも、心に深い深い闇を抱えていたのか、というやるせなさを、誰もが感じた出来事だった。
ハリー・ニルソンという歌手が昔いて、「ウィズアウト・ユー」というヒット曲を持っている。実家で姉がしょっちゅう聴いていたので、私もカラオケで歌えるレベルまで、曲を覚えてしまった。この曲は、元はバッドフィンガーの曲だった。私は一度だけ、ラジオで、バッドフィンガーのオリジナルが掛かるのを聴いたことがある。
ニルソンの、「さあこれでヒットを飛ばしちゃるぜ」といった、ウケ狙いのあざとい熱唱とは全く違い、ピート・ハムの歌う「ウィズアウト・ユー」は、恋人と別れた悲しみを抑えようとして、それでもダメだ、という辛さが淡々としみる曲だった。切ない気持ちになるのは、ピート・ハムの方だと思う。
松村さんのエッセイで、まとわりつくヤブ蚊を手で払いながら、「人の生き血を吸って太るニルソンのようなやつだ」と毒づく箇所があり、笑った記憶がある。あと、ロンドンまでポールのインタビューに行って、会って自己紹介する際に「ヤー、クリティック、オーケー」とだけ言われて終わってしまい、後で一人でホテル泣いた、とかの、悲しいエピソードも思い出される。ジャックスを私に教えてくれたのも松村さんだった。
ありがとう、松村さん。これからも、ビートルズを聴くようになる日本の若者達の全員が、あなたの文章に触れると思うよ。
相田英男 拝
追伸
松村さん唯一の小説「苺畑の午前五時」は、青春小説の名作である。ビートルズを聴かなくとも一読の価値がある。主人公が高校を退学になる過程も、ほぼ実話だと思う。60年代後半の世相を丁寧に描かれている。少なくとも村上春樹の「ノルウェイの森」よりは、ずっと良い。
村上のあの本は、やたら売れたみたいだが、やっぱりいかん。喫茶店で友人と語っている最中に、クリームの「ホワイト・ルーム」が掛かっていた、と書かれていた。そうすると私の頭の中には、イントロでジンジャー・ベイカーが叩く5/4拍子のティンパニの音と、クラプトンのワウワウを掛けたギターの名演が流れていっぱいになり、文章が全く入って行かなくなった。
あんた事を平気でする村上春樹は、洋楽を舐めている。もしくは、洋楽を真面目に聴いておらず、単に小説のテクニックとして、曲名を使っているか、の、どちらかだと思う。松村さんと喧嘩した小林信彦のように。
あれ以来私は、村上春樹の本に全く触れていない。苗字が悪いのかもしれんとも思える。
【59】Wasted Time
しつこいと思われるだろうが、小此木圭吾の問題で、ロッキング・オンの社長であり、ロック評論家の渋谷陽一が、何事かをコメントするかどうかが、私は大変関心があった。それで、渋谷陽一のブログの “社長はつらいよ” を日々眺めている。が、そこで更新される記事は、ストーンズがどうした、とか、ディランの息子がどうした、とか、クリムトの絵がどうした、とかの話ばかりであって、小此木についての話は、出てくる気配が全くない。
渋谷陽一が、小此木の話に未だに自分では触れない理由について、幾つかの可能性を私は考えてみた。
1. 小此木の音楽に、渋谷陽一は全く関心が無い。興味もない。なので、小此木がどれほど批判されようが、音楽活動に支障が出ようが、別にどうでも良い、と渋谷陽一は思っている。
2. 自分の処の雑誌の記事よりも、別の雑誌の記事の方が、より詳細な過激な内容だったので、自分の雑誌の責任は、あんまりない。だから、自分のブログでは別に触れなくてもいい、と渋谷は思っている。
3. 小此木が語った程度の反社会的な内容は、ロックアーチストならば全然許されるもので、特に騒ぎ立てるような物ではない。あのくらいのいじめの話で、騒ぐ連中の方がおかしい、と、渋谷は思っている。
4. 部下の山崎陽一郎が謝罪文を載せたので、それで済んだ、と渋谷は思っている。山崎と同じく、小此木の記事の内容は問題だったとは、渋谷も考えてはいる。
5. 自分が今更、小此木について何かしゃべると、雑誌の売り上げが落ちたり、イベントの集客が減ったりして、会社の収入が減り、従業員達が動揺するので、うかつな事は書けない、と、渋谷は思っている。社長としての責任から、小此木の問題に触れるのを渋谷陽一は避けている。
だいたいこんな処であろうか。もっと色々あるか、と思っていたが、書き下すと意外と少なかった。推測するに、この件で渋谷陽一は、自分が批判される事を極度に恐れている、としか、私には思えない。渋谷の頭がボケて、小此木の問題を全く忘れてしまった、のならば話は別だが。
語るに落ちた、と、私はただ思う。
小此木が散々に叩かれ続けて、音楽家として抹殺されても、渋谷は何も感じないのだろうか?自分には、全く関係ない話だと、無視して過ごせる話なのであろうか?
一人の人間としての考えでは、そうではあるまい。私にもそれくらいはわかるよ。
組織の社長としての渋谷の判断は正しいのであろう。が、小此木の問題を無視続ける渋谷の現状は、社会評論家としては自殺行為である。自民党の代議士連中や、原子力村の連中の行為と、渋谷陽一の行いは全く同じではないか。どの面下げて、他人の振る舞いを批判することができるのだ?!
才能ある人間には、おかしな性格の持ち主や変態が多い。しかし、彼ら変態達の作り上げる作品の中から、多くの聴き手の胸を打つ名作が生まれて来たのも、無視できない事実だ。映画「ボへミアン・ラプソディ」で、はっきり描かれていただろう。その矛盾に対して向き合い、一般の方々への啓蒙を広げる絶好の機会ではないのか、今回の小此木の問題こそは?何故、そこから逃げるのだ?!
比べればいい、というものではないが、超名曲の「いとしのレイラ」の、クラプトンと共作者になっているドラマーのジム・ゴードンは、莫大な印税を受け取るようになったせいか、精神を病み、実母の額をハンマーで割って撲殺して、終身刑を食らっている。これなど小此木の所業とは、悲劇のレベルが違う。我々洋楽のリスナーは、こんな理不尽さを頭の隅に置きながらも、曲を聴き続けている。渋谷もよく知っているだろうが。
「悪かった、反省しています」等と、いまさら謝罪しなくても良い。渋谷自身が、あの記事が掲載された時にどう考えていたのか、そして、今の小山田の状況を見てどう思っているのか、その事実だけを正直に語れば良いのだ。洋楽評論家のパイオニアである渋谷が、事実と正直に向き合わないならば、物事は全く先に進まないのではないのか?
「あんたの言いたい事はわかってはいるけど、書けないんだよ」と、渋谷陽一は、内心つぶやくのだろうか。左翼の論客ならば、もっと矜持を持って欲しかったが、所詮はこの程度か。
左翼連中は攻める時には強気だが、守りに弱い。弱すぎる。鳥越俊太郎も、広河隆一も、上杉隆も、米山隆一も、女問題で脆くも敗れ去った。左翼は女問題に弱いのか、寛大なのか?渋谷の場合は女絡みではないが、私から見て、渋谷の情けなさの度合いは、それ以上の酷さである。
相田英男 拝
(P.S. 間違えた処をしれっと直しました。「警視庁捜査一課長」のドラマに、いつの間にか復帰していた斉藤由貴のように。私はあのドラマのファンである。ちなみに、NHK Eテレの高校物理の授業の番組に、斉藤由貴が出演しているのを見た時には、流石に目が点になった。家内が纏めて録画していた数回分を続けて見たら、笑いが止まらなくて困った。この位攻めた方が面白いではないか)
【58】渋谷陽一は小山田問題について自らの考えを語るべきだ
相田です。
サブカル関連の文はあまり書くまい、とは思う。だが、小山田圭吾の一件で、ロッキング・オン側が、以下の一文を載せるだけで、沈黙しているのが、私にはどうしても気になる。
(引用始め)
ロッキング・オン・ジャパン94年1月号小山田圭吾インタビュー記事に関して
小山田圭吾氏が東京オリンピック・パラリンピックのクリエイティブチームの一員に選出されたことを受け、94年1月号のロッキング・オン・ジャパンに掲載されたインタビューで、氏が話された中学時代のいじめエピソードが、各方面で引用、議論されています。
その時のインタビュアーは私であり、編集長も担当しておりました。そこでのインタビュアーとしての姿勢、それを掲載した編集長としての判断、その全ては、いじめという問題に対しての、倫理観や真摯さに欠ける間違った行為であると思います。
27年前の記事ですが、それはいつまでも読まれ続けるものであり、掲載責任者としての責任は、これからも問われ続け、それを引き受け続けなければならないものと考えています。傷つけてしまった被害者の方、およびご家族の皆様、記事を目にされて不快な思いをされた方々に、深くお詫び申し上げます。
犯した過ちを今一度深く反省し、二度とこうした間違った判断を繰り返すことなく、健全なメディア活動を目指し努力して参ります。
ロッキング・オン・ジャパン編集長 山崎洋一郎
2021/7/18
(引用終わり)
問題の記事の内容については、「インタビュー当時の時代では、許される雰囲気もあった」という主張と、「当時から看過できない酷い内容だった」という反論が出されて、ネットで紛糾している。前者の意見の方が、かなり分が悪い様子であるが。
私が思うに、インタビューアーの山崎氏は、本心では反省などしていないのではないか。「反省してお詫びします」と書いても、口先(筆先)だけではないのか、と疑われても仕方ない状況に思える。
ロッキング・オンのリーダーの渋谷陽一の考えは、どうなのだろうか?該当雑誌が出版されたという事実は、インタビューの内容を渋谷自身が了承していた事を示している。今の時点でも渋谷陽一は、インタビューの内容を「あれでよかった」と、思っているのだろうか?
福島原発事故の後で渋谷は、原発事故の責任を体制側に激しく追求する記事を、自らの雑誌に盛んに掲載していた。立場が追求される側に変わった今回、渋谷は、上の山崎の一文を自らのサイトに載せただけで、ダンマリを決め込むのであろうか?
私自身は、「あの当時は、小山田のインタビューを載せても許される雰囲気があった」と、正直に認めても良いと、思っている。洋楽を長い間聴いていると、演奏者達は皆、非道徳者と性格破綻者ばかりである。昨日のオリンピック開会式で曲が使われたジョン・レノンも、麻薬中毒者で、不倫者で、かつ息子(ジュリアン)への精神虐待者である事実は有名だ。ポール・マッカートニーとその取り巻き連中も、何度も麻薬で逮捕されたり、死んだりもしている。それなら、ビートルズの曲は永久に封印するべきなのか、となると、流石に誰もが考え込むだろう。
(あのイマジンという曲も、天国は無い、神もいない、国境もない、という無神論[エイシズム〕の、マルクス、レーニン、スターリン様万歳、の内容だと、かねがね私は思っているが、堂々と合唱曲で使われていた。あと、あの故黛敏郎氏の正当な後継者といえる、反中国、嫌韓国の、偏屈右翼思想の爺様が作曲した、ドラゴン・クエストの曲が、選手入場時に使われたりして、よく中国共産党から怒られなかったな、と、感心したりもした。結局は、みんなテキトーで、どうでもいいと思っていることが、私は非常によくわかった。単に因縁をふっかけた者の勝ちである)
それで、であるが、渋谷陽一は自らの責任で、小山田の記事を掲載するに至った経緯を、当時の社会情勢も含めて調査して、自らの考えを交えて、詳しく報告するべきではなかろうか。あれは、山崎が勝手にやった事で、俺には関係ない、とは、流石に言えまい。
これまで、体制側や原子力村の不誠実な対応について、散々非難して来たならば、自らが招いた混乱についても、誠実に対応するのが、正しい大人の対応ではないのか。当事者達の正直な考えを、きちんと記録として後世に残すべきである。そうでなければ、渋谷達の、これまでの体制側への激しい非難についても、説得力が全く失われてしまう事を、重々覚悟する必要があるだろう。
相田英男 拝
【57】音楽対談おまけ(こんな時期に・・・)
(相田) あのさ、アラン・ホールズワースって知ってるか?
ーそれって、速弾きで有名なギタリストの名前ですよね?曲は聞いた事ないですけど、名前だけなら・・・・でも、しばらく前に亡くなりましたよね、70歳になる少し前位でしたっけ?
・・・・って言うか、何で僕が、またよばれたんです?ここでの音楽談義は、この間終わったんじゃないんですか。ブレイディみかこさんの解説が途中なんじゃないですか?
(相田)いやまあ、何というか・・・・・70年代後半に、UKってバンドがあっただろう?そこでアランが、ギターを弾いてたのを思い出してさ。で、この間、輸入盤CDを買って聴いたんだ。いつもの如くさ。
ー UKって、1975年にキング・クリムゾンが一旦解散した後で、ドラムのビル・ブラフォードと、ベースのジョン・ウェットンが作ったバンドですよね。クリムゾンのリズム隊に、当時のロック界最速と言われたアランのギターが加わった、スーパーバンドだと評判だったと聞いています。でも、あっという間に解散したんでしょう?
(相田)そうなんだよ。ロバート・フリップが抜けた代わりに、アランの高速ギターが穴埋めするという、期待度Maxのバンドだったんだ。なのに、アルバムを1枚出したら、すぐにドラムとギターが脱退してさ。「なんじゃそりゃあ!?」って誰もが呆れたという・・・・
それで、実情はどうだったのか、聴かなきゃわからんわな、てな事で、UKのファースト・アルバムをようやく聴いたんだ。そしたら、やっぱり微妙な内容で・・・・・・・何というかさ、期待したアランのギターの速弾きが、あんまりよく聴こえないんだよ。
ー そりゃ、歳のせいで相田さんの耳が衰えて、音が聞こえにくくなっただけじゃ、ないんですか?
(相田)・・・俺も最初は「そうなのかな?」って、不安になったけれど、そういう訳ではないみたいだ。そもそもこのUKってバンドは、ギターじゃなくて、キーボードが主旋律を作るんだな。何回も聴いて気付いたけど。エディ・ジョブスンていう、当時は若手のイケメンだった鍵盤演奏家を、ロキシー・ミュージック(ブライアン・フェリーがボーカルだった、スタイリッシュ系のバンド)から、引張って来たんだ。彼のキーボードがバンドのリード楽器で、ギターは付け足しで、サビの処でソロを取るだけなんだ。ギターがメインリフを刻むのも殆ど無い。
そもそも最初は、イエスのキーボード奏者だった、リック・ウェイクマンに声を掛けて、ギター無しのELPみたいなバンドを考えてたらしい。それがダメで、代わりにエディを連れて来て、3人で録音を始めた。けれど、途中から「やっぱし、ギターもいるわな」て、なってさ。それでビルが、知り合いのアランを誘ったらしい。
ー それはまた、なんとも・・・・安易すぎる流れですね。
(相田)だから、そもそもUKは、ギターの出番自体が少ないんだよ、普通のバンドに比べて。そのエディのキーボードも、テクニックは十分だけど、キース・エマーソンみたいなアクの強さも無い、あっさりした演奏なんだ。だからどうにも、アルバムの雰囲気が派手さに欠けるんだよな。
でも、それよりも問題なのは、ギターの音自体なんだわ。
ー ちゃんと速弾きしてるんでしょう、アランは?
(相田)確かに、速いことは速い。速弾きだけならアランは、ジミヘンを遥かに上回るのは間違いない。たださ音がさ、どうにもロックギターぽくないんだよ。ピッキングした時の「ガーン」という、アタック音が全くなくて、「ホワー」とした入りの音なんだ。音符を滑らかに繋ぐ「レガート奏法」って言うらしい(レガートとは、二つの音符が途切れないように、音の間をつなぐこと)。
で、その結果どうなるかと言うとだな、ギターの音がキーボードとそっくりになるんだ。音の出だしのアタックが弱いからさ。俺が最初にUKのアルバムを聴いた時には、ギターの音に全く気づかなかった。「これ全部キーボードの演奏じゃん、どこでギターを弾いてるんだ?」って、不安に駆られたよ。何回か聴くと耳が慣れて来て、「ああ、ここはギターの音だな」と、段々わかってきたけれど。
ー 音を滑らかにつなぎながら、ギターを速弾きするとか、ちょっと想像つきませんけど、そんなの出来るんですか?
(相田)出来るんだよ、これが。そこがアランの天才たる所以でさ。ピックを右手で弱くつまんだり、柔らかい材質のピックを使うとか、色々と工夫してるらしい。ただな、ロックギターで、そんな弾き方する意味が、はたしてあるのか・・・・俺にはどうにも疑問だよ。
ギターとキーボードが競演するロックのアルバムには、他に有名な作品が幾つもある。ジェフ・ベックの「ワイアード」(ジョージ・マーティンがプロデュースした「ブロウ・バイ・ブロウ」の姉妹作。日本ではこっちの方がヒットした)では、ヤン・ハマーのシンセとジェフのギターが合わせてる。もっとベタだと、ディープ・パープルの、ジョン・ロードのオルガンと、リッチー・ブラックモアのストラトキャスターの掛け合いが、日本人にはお馴染みだ(アルバム「ライブ・イン・ジャパン」を参照、などと、今さら私が書くまでもない)。
これらのアルバムでは、どれも、キーボードの音にディストーションを掛けて(注1)、ギターの音に併せてるだろう?普通のロックの演奏ではそうするよ。ところが何と、UKのアランは、逆に、ギターのアタック音を消してキーボードの音に近づけてるんだよ。キーボードの速弾きに似せてギターを弾くなんて曲芸は、アラン以外には誰にも出来ないだろうけどさ。
(注1:ディストーションとは、直訳すると“ひずみ”であるが、ロックの場合は、ギターを繫いだアンプ(昔は真空管を使用)の音量を過度に上げて、意図的にギターの音を歪ませる奏法のことを指す。オーバードライブとも言う。所謂“ガギューン”という、典型的なロックギターの音が出せる。英国にいたエリック・クラプトンが、58年型ギブソン・レス・ポールとマーシャル・アンプの組合せで、この音を見出して演奏を始めた。以来、クラプトンは“ギターの神様”と呼ばれるようになる。
その少し後に、アメリカからジミ・ヘンドリックスという黒人青年が、英国にやって来た。彼は、レス・ポールよりもパワーは小さいが、表現力が豊かなフェンダー・ストラキャスターというギターを使って、クラプトン以上の、強烈なディストーション音を鳴らしながら演奏する事が出来た。ジミの演奏を聴いたジェフ・ベックは、「ギタリストを廃業したくなった」と語ったらしい)
俺が「ワイアード」を聴いた時も、最初はギターかシンセの音か、「あれっ、どっちだ?」て迷うところがあった。けれども「ワイアード」では3回位聴くと、聞き分ける事が出来たよ。でもUKでは、十回以上アルバムを聴いた今でも、キーボードとギターの区別が付かない演奏がある。確かにアランは、凄いギター・テクニックの持ち主なのは間違いない。けども、こんなんで良いのか、俺にはどうにも・・・疑問だよ・・・
本人がリーダーのソロアルバムなら、もっと普通に弾いてるのかな、と期待して、最近出たアランの2枚組ベストアルバムを、買って聴いてみた。でも、やっぱりキーボードの音と区別が付きにくい、紛らわしい演奏だった。シンタックスという、ギター形状の特殊なシンセを、一時期アランは愛用してるけど、それだと完全にキーボードの音そのものなんだわ。ロックファンが、超絶速弾きギターを期待してアルバムを聴き始めると、キーボードの音で、不思議な感じの高速のスケール(音階)練習が、繰り返し耳に入って来るだけだ、という・・・・
アマゾンのアルバムレビューでは、「蛇が曲がりくねって進むような、高速スケールの繰り返し」と、書き込みされていたけど、言い得て妙の説明だわ。
「それなら最初から、キーボード奏者に全部弾いてもらえばいいんじゃねえか?別に、苦労してギターの練習なんかしなくても」と、リスナーの誰もが、一度は疑問に思うみたいだ。それ乗り越えてから、晴れて、真のアランのフアンに解脱できるらしい・・・・けれども・・・・何だかなあ。
ーアランは左手がすごく大きくて、普通の演奏家よりも沢山のフレットを押さえられるそうですね。その押さえ方も、常識外れの、変則的なコードの押さえ方を多用するので、変わった雰囲気の音階になると聞きました。手の小さな日本人には、真似できない弾き方が出来るとか。
エディ・バン・ヘイレンがアランの速弾きギターをコピーしていた時に、指が届かなくて、どうしてもコードが左手で抑えられないので、右手の指でフレットを叩き始めた、というのが、ライトハンド奏法の始まりだそうですが?
(相田)といった、まことしやかなデマが作られるほど、アランのギター・テクニックは凄い訳だ。アランは手だけじゃなくて、身長が190cm以上の大柄で、全身がでかいんだ。ギターを始めたのは、17歳位と遅かったけど、父親がピアノとかの楽器を弾ける人だった。彼は、親から習ったピアノの鍵盤の押さえ方を参考にして、自己流の勝手なやり方でフレットを押さえて、ギターを練習してたらしい。ギターの音も変わっているけど、性格も相当な変人だぜ。
レコード会社からは、どっかのバンドに入ってレコード出すように、何度も声を掛けられたらしい。けど、断り続けてさ。そのうちに金が無くなって、ギターや録音機材を全て売り払う羽目になって、録音もできなくなった。その窮乏ぶりを見かねたバン・ヘイレンが、アランに金を援助して、80年代半ばにソロレコードを録音させてリリースした。それから、少し持ち直したんだよな。それでもあんな感じの、弾いているのかどうか、素人にはさっぱりわからない音だから、ギターの玄人以外には全くアピールしない。そんなんで年が経って行って、この間死んじゃったんだ。
中島敦(なかじまあつし)の短編小説に、弓の名人の話があってさ。弓道を極めたいと思う男が、山にこもって修行する。厳しい修行の成果で、遂には弓を持たずに手で弾く真似をするだけで、鳥を落とせるようになる。でも修行をやり過ぎて、最後は外でただボーッと座っているだけで、弓に触りもしなくなり、名人であることすら誰も覚えていない、ていう内容だけど。
その弓の名人みたいな雰囲気を、俺はアランに感じるよ。弾いているのかよくわからないけど上手い、という。「小説の中だけの話じゃ無かったんだ」と、なんか感銘を受けたぜ。
たださ、アランの演奏の毒気に当たると、ギターの聴き方が変わるよな。ワイアードの頃にジェフ・ベックが、凄腕のジャズ・ベーシストだったスタンリー・クラークと、共演してただろう?あのジェフのソロは、以前は「凄い最先端のテクを使った、難解な演奏だな」とか思ってた。けれど、アランのギターの後で聴き直したら、「何と単純で、健全過ぎるハードロックのフレーズだ」と、目から鱗が落ちたよ。あと、ロバート・フリップのクリムゾンのギターソロも、それまでやたら難解な気がしてたけど、アランに比べると、普通のブルースギターにしか聴こえなくなった。「クラプトンと変わらないじゃん、これ。えらい単純だよな」てな感じで。
やっぱりさ、名人の醸し出す、怪しげな雰囲気には、侮れないものがあると思ったよ。
ー・・・・それで、ごたくは散々聞きましたけど、他にも何か言いたい事が、あるんじゃないですか、相田さん?
(相田)・・・それが君と最後に対談した時さ、「ポールが羽田空港に大麻を持ち込んで掴まらなかったら、ジミー・マックローチがギターを弾く、最強のウイングスが日本で聴けたのに、残念だ」とか言っただろう?あの後で、本屋でポールの本を立ち読みしてたらさ、ポールが逮捕されたのは、1980年の年始だったと書かれてた。でさ、ジミーはその前の年の1979年に、麻薬のやり過ぎで既に死んじゃってたんだ、これが・・・・
ーあっちゃー、やっちゃいましたね、相田さん。死んじゃった人が来日して、コンサートでギターを弾くのは、ちょっと難しそうですねえ。
(相田)参ったよ、全く。ポールが逮捕されたのと、ジョンが年末に撃たれて死んだのは、同じ年だったんだよな。すっかり忘れててさ。ポールが捕まったのは、もっと前だとばかり思ってた。ダメだな俺も。で、これだけはさすがに懺悔しとかんといけんな、と、また君に来てもらったのよ。
あとさ、ジェフ・ベックを褒めてもさ、「もっと上手くギタリストが大勢いるから、あんなのダメだ」とか、ウルサいマニアからケチがつけられないかと、ちと不安になってさ。昔はヘビメタの伊藤政則とかが、「ジミー・ペイジはギターが下手だ」と散々ケナしてただろう?。それなら最後に、アラン・ホールズワースを出しとくか、となったのよ。流石にアランより早弾きのギタリストは、そうはいないだろうからな。そこまで行くと、もはや人間の耳には聞きとれない世界になっちゃうぜ。
あの年(1980年)は、テレビで「イデオン」を放映してて、訳のわからん話に子供ながらに、必死でついて行ってた時期なんだよな。色んなイベントが重なって、サブカル的にカオスの時代だったよ。
ー何言ってるんですか。それなら、10年以上前の60年代末期の方が、もっとカオスでしょう?何せ、あのジャックスの演奏が、テレビで生放送されてたんですから。
ジャックスのギタリストだった水橋春夫(故人)が、前に話してましたけど、彼は当時、自分のギターを持って無かったんですって。それで友達からギターを借りて、電車に乗ってテレビ局まで行って、そのまま生演奏して帰ってたそうですよ。
(相田)今では女子高生でも、平気で自分のギターを持って、その辺を歩いてるのにな。人から借りたギターを担いでテレビ曲に出向くとか、プロらしからぬ有様だ。ちなみにあいつらが演奏してたのは、「マリアンヌ」とか「からっぽの世界」だろう?あんな曲が今時テレビで流れていたら、苦情が殺到する事請け合いだ。全く、今では考えられない非常識さだよな。
ーあの頃は、大学紛争の真っ最中ですからね、時代そのものがカオスだったんでしょうけど。
(相田)まあ昔は色々あったよ。実家に置いてあったミュージック・ライフにさ、丁度結成したばかりのUKのメンバー4人の、インタビューが載ってたんだ。そこでビル・ブラフォードがさ、「パンクの理念なんて、僕からすれば、隣の男の子でもギターを弾ける、というものだった。けれどもUKの哲学はパンクの反対だ。誰もアランのようにはギターを弾けない、というのがUKの自慢だ」てな話を、自信満々にしてたのよ。「これから期待しててくれ」てな感じでさ。読みながら「おお、カッコいいなぁ」と、俺は思ったよ。
それからしばらく情報が入らなくて、UKはどうなったんだろう、と思ってた。そしたら、「アルバム一枚限りで、ビルとアランが脱退したんだぜ」と、誰かが言っててさ。あの時に初めて俺は、「大人は自信満々に、平気で嘘をつくものだ」というのを学んだよ。
その後はビルも、アランをなんとかメジャーな場所に出してやろうと、2人で幾つかアルバムを出したらしい。けど、結局パッとしないで、再結成したクリムゾンに出戻りで加わるんだよな。そしたら福岡の、誰も客がほとんどいないガラガラのホールで、ドラムを叩く羽目になったという。
まあ、ブラフォードも苦労人だよ、今思えば。渡辺加津美と一緒にやった時に、コンサートに行ったよ。上手いドラムだった、流石に。一回観といて良かったよ。もう本人は、外国にツアーに出てコンサートをやるのがきつい、って言ってるからさ。
ーやっぱり、外国の誰もいない会場でドラム叩いたのが、トラウマになったんですかね?
(相田)・・・・別に、そのせいで来日しない訳じゃないみたいだけどな。
(エディ・バン・ヘイレンの逝去を悼みつつ)
相田英男 拝
【56】遅れて来たニュータイプの左翼論客、ブレイディみかことは何者か?(その3)
相田です。
お盆の間に、ブレイディさんの本を読んでみては如何でしょうか?
視点の豊かさと内容の濃さに、誰でも感動すると思います。
(以下、前回より続き)
3. 前代未聞のハードコアすぎるJK
前回の音楽の話が長すぎたかもしれない。ここから、ブレイディさんの高校時代に話を戻す。福岡県トップの進学校に通い始めたにもかかわらず、早々に学校に幻滅した彼女の当時の様子を、本人のインタビューから引用しよう。
(引用始め)
(相田注:高校の先生に、アルバイトの件で怒られてからは)授業をさぼりがちになり、嫌いな科目の試験は「わかるところだけ埋めるのは、しみったれててイヤ」と、白紙で提出。試験終了までの余った時間は、答案用紙の裏に歌詞や文章を書いて過ごした。
「高校の頃は大杉栄が好きだったので、彼についてのミニ評論みたいなものを書いたら、その教科の先生が、現国の先生に見せたらしいんです。現国は好きでちゃんと勉強していたので、現国の先生が『君は僕が引き受ける』と2年、3年の担任になってくれて。グレてる私を心配して、わざわざ家にも何度も訪ねてくれました。『とにかく学校には来い。嫌いな教科があったら、図書館で本でも読んでろ。本をたくさん読んで、大学に行って、君はものを書きなさい』って。本当に恩師ですよ。
そういう奇特な先生と立派な図書館に出会えたのは、あの学校のいいところかも。でも、受験勉強って嫌いな科目も勉強しなきゃいけないじゃないですか。そんなのやってられるかよ、って結局大学には行きませんでした(笑)」
朝日新聞デジタル
「成り行きまかせ」で恩師が望んだ道に ブレイディみかこさん(後編)、より
(引用終わり)
相田です。高校で勉強する気を失った彼女は、嫌いな科目の試験の際には、白紙の解答用紙の裏に、好きな文章を適当に書いて出していた。大杉栄は、戦前の左翼作家で、関東大震災直後に憲兵に虐殺された人物だ。その恋人だった伊藤野枝と共々、両方のファンだったブレイディさんは、試験に全く関係ない大杉栄についての評論を、ある日の答案の裏側に書いた。
ところが、捨てる神あれば、拾う神あり。その答案裏に書いた文章を、試験担当の先生から見せられた現国の先生が、彼女の文才を見抜き、学校をやめないように説得してくれたのだった。
その先生は、彼女の自宅に何度も通い、「嫌いな教科は授業に出なくてもいい。自分が責任を持って卒業させるから、大学に行きなさい。君には物書きの才能がある」と、彼女に言ったらしい。うーん、流石は福岡一の名門高校だけの事はある。先生にも、眼力のある、懐の深い方がいるものだ、と、しみじみ感心する。これ以降、彼女は好きな授業にだけ教室に顔を出し、嫌いな授業の時は、堂々と図書館に逃げて読書に耽るという、誠に気ままな学園生活を送れるようになった。
でも、これって、40年前のネットも無い、ゆるい時代だったから良かったものの、世知辛くなった今では、流石に、許されないのでは無いだろうか?今だと、同級生の父兄から、教育委員会に、「あすこん家の娘さんは、いっちょん授業に顔ば出さんで、図書館で本ばかし読みよんしゃるごたるばってんが、なして、留年させんとですか?どげん考えたっちゃ、おかしかとや、なかとですか?くわしか理由ば、はよ、説明してつかあさい」とかの、通報が電話で入って、まあその前に、SNSですぐに悪い噂が広まって、あっという間に、退学させられるのでは無いか、と、思う。
私の高校時代には、まだ、腕の太い強面の柔道の先生がおり、学校内で普通に不良を殴っていた。その先生は「俺が本気で怒った時だけ(利き腕の)左手で殴る」と公言しており、実際に左手で殴られた不良が失神した事があった。当時は、「殴られる方も仕方ない(くらい悪い)よな」と、我々生徒の誰もが思っていた。私が卒業して数年後に、その先生は新設の高校に体育教師として赴任したが、暴力が問題になり、すぐに謹慎させられたらしい。この辺りから、世の中の雰囲気が世知辛くなって来たように感じる。自分としては、まだ周囲の締め付けがゆるい高校時代で、助かったと思っているが。
そんなこんなで、彼女自身は、恵まれない人生のように見えるが、どういうわけか、間一髪で、ドツボに落ちるのを毎回救われている。単にラッキーだけでは無い、不思議な運命の巡り合わせが、ブレイディさんにはある。
さて、大杉栄のファンだと公言するくらいなので、ブレイディさんは、明らかに左翼である。彼女が帰国した際に付き合う方々も、左翼の方々が多いようだ。しかし、彼女の文章を私が読むと、普通の左翼とは、ちょっと違う印象を受ける。所謂普通の左翼の方の、話の節々に出てくる、相手を見下すような「上から目線」、や、「私の話を受け入れない連中は、皆バカだ」的な、相手をマウンティングしてやろうと虎視眈眈に窺う雰囲気が(佐高信(さたかまこと)とか、広瀬隆(ひろせたかし)等が、その典型)、彼女の文章には薄いのだ。主張そのものは非常に厳しい内容もあるが、あくまでも彼女は、腰が低い下からの目線で、穏やかに相手を説得しようとする。
「左翼にしては、何か不思議な感じがするな」と、私は思っていたが、それには、やはり理由があった。もっと驚くべき秘密が、彼女にはあったのだ。以下にネットにあった、別のインタビュー記事から引用する。
(引用始め)
(ブレイディ)いちばん読書をしたのは、高校生の時なんですよ。通っていたのは地元の福岡では一応進学校と呼ばれるところだったんですが、ちょっと変な学校で。そこで私は反抗的な生徒だったから、先生たちからも疎ましがられて「お前はもう授業に出なくていい。図書室で本を読んでいなさい」と言う先生もいて。じゃあその通りにしてやろうと思って、ずっと図書室でさぼってました。
この高校はもともと江戸時代には藩校で、OBには玄洋社(明治時代に結成された、アジア主義を掲げる政治団体)の関係者が多かった。それで、高校にしては広いその図書室の一角に、玄洋社関係の書き手の本をまとめた書棚があったんです。
それで、私はまず夢野久作の本から読み始めました。久作の父親は玄洋社の中心メンバーだった杉山茂丸で、玄洋社の人たちの破天荒な生き様を描いた『近世快人伝』がものすごく面白かった。そこから入り、中野正剛や、花田清輝あたりまで広がって行く郷土色の強いコレクションだったんですが、片っ端から全部読んでいきました。大杉栄の本も、パートナーの伊藤野枝の叔父が玄洋社の関係者なので、この棚に入っていました。
玄洋社って、いまでこそ右翼の元祖みたいに言われていますけど、私はアナキストっぽいなと思ってました。高校時代の私にとっては、セックス・ピストルズと同等にカッコいい存在だった。だから、きっと当時の読書経験が基盤になっているんでしょうね。右と左ではない、上と下だ、というのも、なんか玄洋社っぽい気もするし。
2017年12月7日
不敵な薔薇を咲かせるために、第4回 玄洋社のアナキズム
國分功一郎、ブレイディみかこの対談 より
(引用終わり)
この話を最初に読んだ時に、私は、よく意味がわからず、「えっ、この人一体、何を言ってるのだろう?」とだけ思った。二度目に読んでその内容を理解すると、私の頭の中は驚きのあまり真っ白になり、しばらく呆然としていた。気を取り直して、念のために、内容を再度確認すべく、三度目を読み直した。すると私の頭の中では、「何じゃああ、こりゃあああああああ!?」という、往年の「太陽に吠えろ」の誰かのような叫び声が、止まらなくなった。電車の中だったので、流石に声は出さなかったが。
彼女のこの話を読んで、「ふーん、そうだったの」と、軽く流せるのは、相当に、相当に、ハイレベルの知識人か、普段から全く何も考え無い、単なるパンピー、かの、どちらかだ。
彼女が語る玄洋社というのは、明治初期から太平洋戦争末期まで存在した、福岡を拠点とする政治結社である。幕末の福岡藩士達の間で興った改革思想が、明治になって引き継がれた組織だ。玄洋社は、一応会社の体裁は取っているが、その主張は、当時の日本政府を過激に批判し、武力闘争も厭わないものだった。なので、今ではその存在は、歴史の闇に葬られている。
その玄洋社に関する本が、高校の図書館にまとめて置いてあったので、授業をサボったブレイディさんは、ひたすら読みまくっていた、というのだ。
彼女の話を聞いて私は「なるほど」と思ったが、修猷館高校は、旧福岡藩の藩校が、明治になって名前を変えてできたのだ。そして、玄洋社の関係者には、当然ながら修猷館の出身者が多かった。だから、修猷館高校の図書館には、玄洋社の書籍が多く残してあったのだ。
玄洋社の代表者として名高い、頭山満(とうやまみつる)という人物は、右翼の大物として知られている。玄洋社も、日本初の民間右翼団体とみなされており、戦後の混乱期に、GHQ -SCAPにいた、カナダ人歴史学者のE.H.ノーマンにより、危険な組織であると認定され、強制的に解散させられた。(ノーマンはその後、アメリカ政府によるレッド・パージの対象となり、逃亡中にカイロで服毒自殺した)
しかし、玄洋社の思想は、現代の右翼とは完全に別の物だ。「日本人が日本の国を大事に、誇りに思うように、中国、韓国、インド、その他のアジアの人々も、自分達の国を大事に思うだろう。それぞれの国の生活者が、自分の国を大事にしながら、お互いに協力し合って、アジアを発展させましょう」ざっくりいって、これが玄洋社の主張である。
副島隆彦の「アジア人同士戦わず」そのものが、玄洋社の思想なのだ。
今の右翼の連中が、ネットの書き込みや街宣車で叫ぶような、「韓国人は日本に来るな、中国人は大陸に帰れ、フィリピン人は出稼ぎに来るな」、という主張と、玄洋社の主張は、全く別物だ。玄洋社こそが、本来の、真の「右翼」である。
現在の世間で広く認知されている右翼とは、「商業的右翼」とでも呼ぶべき、単なる紛い物だ。イミテーション右翼だ。貧乏な生活者の日頃の不満やストレスの捌け口となるように、政府とマスコミと、薄汚い文筆家の多くが結託して、品の無いキャンペーンをやり、本や新聞を売って金を儲けているのだ。「金儲けを目的とした右翼思想」だ。そんな「右翼」しか、現代には残っていない。そんな紛い物に簡単に引っ掛かる程度まで、日本人は、支配層の目論見により、強制的にバカに堕とされている。そのことに誰も気付かない。
話がそれてきたので戻す。私は、左翼の主張が相手に対して高圧的になりがちなのは、自分の主張に、根底では、自信が無いからだ、と思っている。インテリの左翼主義者が最後に拠り所にするのは、結局のところマルクスだ。しかしマルクス・レーニン・スターリン主義の旧ソビエトが崩壊し、北朝鮮もあんな感じで、本当に自分の思想は大丈夫なのか、という不安感が、インテリ左翼の頭の中からは、どうしても払拭出来ない。その不安感をごまかして、勢いをつけるために、彼らは議論の際に、上から目線の高飛車な態度に出るのだ。私は、そのように思っている。
対してブレイディさんは、自分の頭の中の不安感が薄いのだ。その理由の一つに、彼女にはマルクス以外の思想の拠り所として、高校時代に読み込んだ玄洋社の本があるからだ、と私は思う。ブレイディさんの哲学の根っこは、他の左翼の論客よりも、非常に幅広く広がっており、しなやかで、かつ、強い。だから、相手に対して目線の低い立場から、穏やかに考えを主張出来るのだ。腰を低くして議論を始めても、相手に負けない強い自信が、彼女にはある。そこが、他の左翼と彼女は一線を画す、と、私は上のインタビューから理解した。
(ここで、「右翼と左翼の正反対の思想が、どうやって頭の中で結びつくというのだ?」という、素朴な疑問を持つ方もいると思うが、その説明はしない。取り敢えずご自分で、玄洋社について多少なり調べてみれば、少しは納得するだろう、と思う)
しかしである。女子高生が授業をサボって図書館に行き、あろうことか、並んで置いてある玄洋社の関連書籍を、かたっぱしから熟読しながら、毎日楽しく時間を過ごしていた、と、いうのだ。それも、アナーキー・イン・ザ・UK、とか、ゴッド・セイブ・ザ・クイーンなどの曲を、口ずさんだりしながら(おそらくは)、である。何というシュール、かつ、ハードコアな女子高生だろうか。どっかの古い曲の、校舎の屋上でタバコを更しながら、トランジスタ・ラジオから流れる音楽を聴く、という情景よりも、現実離れの度合いが、更にひどいではないか。
別に、彼女以外の女子高生が、誰も玄洋社の本を読まない、という訳ではないだろう。テレビの「東大王クイズ」に出てくる、鈴木光嬢のような才媛ならば、もしかすると、読んだりするのかもしれない。しかし、それでも、教養を付けるため、とか、歴史のレアな知識の一つとして玄洋社を知っておく、くらいの認識ではないのだろうか?
それこそ、自分が将来生きてゆくための、思想の礎に取り込むのだ、という熱い思いで、授業をサボって、学校の図書館で玄洋社の本を読み込む。そんなシュールな女子高生は、後にも先にも、ブレイディさんだけなのではないか?そんな少女が、今後も日本に現れるとは、私には到底思えない。(念のため付け加えるが、男の子でも、まずいないと思う)
私の頭の中が真っ白になった理由が、少しはお分かり頂けただろうか?
彼女は単に、異国に流れついてから、現地の生情報を送って日本を批判するだけの、何処にでもいる、中身の軽い左翼ライターではない。現在の日本で既に失われてしまった、由緒正しい保守思想の真髄を、若い時に(偶然にも)かつての総本山で会得した人なのだ。その人が外国で、底辺社会に身を置きながら、左翼をやっているのだ。
ブレイディさんの文章を軽く見てはいけない。“ニュータイプ左翼”と、呼ぶに、ふさわしい人物だ、と私は思う。
(続く)
【55】遅れて来たニュータイプの左翼論客、ブレイディみかことは何者か?(その2)
2. 私のパンクロック雑感(と、思って書いたら、全くそうでは無かった・・・)
もしかしたら、ブレイディさんの本に触れたのがきっかけで、洋楽ロックを全く知らない方が、パンクの曲を聴いてみたい、などと、思うのかもしれない。それならば、やはり、セックス・ピストルズのアルバム “Never Mind the Bollocks, Here’s the Sex Pistols”(邦題:勝手にしやがれ、1977年)を聴くのが良い。これだけで、まずは十分だ。後はお好みで、少しずつ探せばいいだろう。
しかし、単にこのアルバムを聴くだけでは、アルバム発表当時の、1970年代後半の雰囲気を味わうには、少し足りないかもしれない。そのためには、ピストルズの前に、次の2枚のアルバムをじっくり聴くのを薦める。
・キング・クリムゾンのファーストアルバム「クリムゾン・キングの宮殿」(1969年)
・レッド・ツェッペリンの「レッド・ツェッペリンⅣ」(1971年)
「何を馬鹿な事を言うのか、お前は?」と、言われるだろうが、私は大マジだ。ニューウェーブを理解するには、オールドウェーブを知らなければならない。オールドウェーブとは言うものの、上の二つのバンドは、活動の全盛期の時期には、彼らの事を「アート・ロック」と呼んだのだ。「芸術の域まで高められたロック」である。
楽器の演奏技術と音楽の深みを、極限まで高めて作られたロックのアルバムが、この2枚である。後者に入っている「天国への階段」は、当時のベルリンフィルの指揮者だった、あのカラヤンが聴いた際に、「完璧な音楽だ」とまで言わしめた(本当かどうかは定かで無い)、超名曲である。
この2枚を先に聴き込んでから、「勝手にしやがれ」を聴いてみれば良い。余りの内容の、レベルの違いに、誰もが衝撃を受けるだろう。「何でこんな事になったんだ!?」と、頭を抱える事は、必定だ。ピストルズがデビューした時には、みんなそう思ったのだ。それ以降、「アート・ロック」は完全に死に絶えた。アホらしくなって、若者は見向きもしなくなった。
何で大衆音楽であるはずのロックンロールが、ごく短い時期ではあったが(1967〜1975年位)、英国で「アート」にまで格上げされ、そして、消えたのか?その理由は、おそらくは英国の「格差問題」にある、と私は思っている。
「教養としてのビートルズ」という、どなたかが書いた新書本が、最近出た。そこに書かれていたのだが、ビートルズの功績の一つは、音楽を通じて英国の階級社会の切り崩しをやった、という事だ。私は英国に行った事がないので、実情はわからないが、英国の社会では歴然たる格差と階級が存在しており、人々はそれを意識しながら、自分がどの階級に属しているのかを自覚しながら生活している、という。文化にも「格差」があり、ロックンロールなどは、下層の労働者階級が聴く音楽だ、と1950年代の英国ではみなされていた、という。
しかし、ビートルズがデビューした後で、その見方が大きく変化する。最初は、若者に受けるだけの単純なポップスに過ぎないと、大人達は思っていた。が、ジョン・レノンと切磋琢磨しながら、ポール・マッカートニーが作り出した「イエスタディ」、「エリナー・リグビー」、「ヘイ・ジュード」等の曲の美しさには、クラッシックの音楽家達も一目置かざるを得なかった。ジョンもバンドの後半期には、両親に見捨てられた自身の幼少時代の辛い思いを、曲に込めるようになった。激しくも内省的なジョンの歌は、それまでのポップス曲に無い深い感動を、聞き手に与えるようになった。
1960年代後半には、ビートルズの活躍を間近で見ていた英国の少年達の中で、楽器の腕に自信がある者達が集まり、ビートルズを超える高い演奏能力を持つバンドが、現れ始めた。クリームやムーディ・ブルース等がそうだ。更に、米国からロンドンにやって来た、ジミ・ヘンドリックスという無名の黒人青年は、それまで誰も聴いた事がない、激しく、華やかなギターを弾き鳴らして、英国の若者に衝撃を与えた。
ジミ自身は数年後の1970年に夭折するが、ジミのギター・スタイルを消化し、基本フォーマットとして身につけた英国のバンドから、レッド・ツェッペリンやディープ・パープル等の、正統ハード・ロックバンドや、クリムゾン、ELP等の、捻りを加えたプログレッシブ・ロックバンドが出現し、ロックの黄金期を迎えることになる。彼らの別名を「アート・ロック」と呼ぶのだ。
何で当時の若者達は、ロックを「アート」まで高めようとしたのか?音楽好きの楽器オタクが、単に集まっただけだから、とは多分違う。それは「俺たちを、もっと、人間らしく扱え!」という叫びだと、私は思う。
下層階級に暮らす人間でも、美しい物に感動したり、何かをきっかけで深い思索に捉われたりする事はある。「安っぽい、軽い文化の中だけに、俺たちを閉じ決めておくのは、もうやめろ」という、上流階級への反発が、貧しい彼らにはあったのだ。イアン・ギランが、ライブの「チャイルド・イン・タイム」の演奏で、鬼のようなハイトーン・ボイスで叫び、キース・エマーソンがオルガンを日本刀で斬りつけたりするのは、「象牙の塔に篭った連中が聴いてる上品な音楽よりも、俺達の方がレベルが高いぜ」、と見せつけているように、私は感じる。
しかし、いくらギターの速弾きが上手くなろうが、アルバムの曲の深みが増そうが、そのリスナーである貧乏な少年少女達の、現実の、惨めな生活が変わる訳では、全く無かった。バンドのプレイヤー達や、レコード会社等の取り巻き連中は、アルバムのヒットや満員のコンサートやらで、大層な金を儲けただろう。が、彼らのファンであるべき若者達は、相変わらず下層階級のままだった。真似してバンドをやろうにも、ギターは高くて買えないし、速弾きソロの技巧も、聞き真似で、たやすくコピーできるような代物では、最早無くなっていた。
「何で今のレコード屋で売ってるのは、あんなプログレの、変ちくりんな曲ばっかりなんだ?楽器だって、あそこまで上手く弾けるならないと、レコードとか作れないのか?これが、俺達の聴く音楽なんて、どう考えてもおかしいぜ?!」と、若者達が怒っても仕方がない状況だった。かくして登場した、パンク・ロックによって、「アート・ロック」は絶滅するに至った。あまりにあっけない終わりだった。
そのパンク・ロックが興ったのは、英国より先に米国だった。60年代後半に流行ったサイケデリック・ロックの流れを受け継ぐバンドが、ニューヨーク・パンクとして1970年代前半に活動していた。当時のロンドンに、洋服店を経営していたマルコム・マクラーレンという青年がいた。彼はニューヨークを訪れた際に、ニューヨーク・ドールズというバンドを見かけて、気に入り、バンドのマネージャーとして関係を持った。そのバンドは直ぐに解散してしまうが、ロンドンに戻ったマルコムは、自分の店にたむろしていた少年達を集めて、よく似たスタイルのバンドに仕立てて、1975年にデビューさせる。これこそが、セックス・ピストルズだった。
何というか、あまりにも、テキトー過ぎる経緯であったのだが、英国ロックシーンに突如出現したピストルズは、当時のオールドウェーブのバンド関係者や、上流階級の連中達を、戦慄の渦に叩き込む一方で、貧乏な若者達からは熱狂的な支持を集めた。しかしその活動の絶頂期だった1978年に、カリスマ・ボーカリストのジョニー・ロットンが、米国ツアー中に脱退を表明し、バンドは早々と分解してしまう。その少し後に、ベースのシド・ビシャス(ロットンの幼なじみだった)が、恋人のナンシー・スパンゲンと一緒に、ホテルで変死するという、スキャンダラスな事件が起きて、騒ぎにもなった。
これ以降のパンク・ロックの動向と、音楽シーンに与えた破壊的な影響については、私には詳しく書く自信がない、というか、書く資格が無い。ブレイディさんのブログや著作を読まれた方が、はるかにわかりやすく、役に立つと思う。
ただ、SNSIのメンバーとして、副島先生が以前に出版されたある本の中から、一文を引用して、私のパンクについての説明を終えたい。短い文章だが、パンクロックに関する真実が、あからさまに描かれている。
(引用始め)
わたし(ヴィクター・ソーン)はこれまであらゆる種類の麻薬を試してきたので、それらがいかに人体に悪影響を及ぼすものか知っている。わたしと同じ経験を持つ人なら、きっと同意してくれるだろう。麻薬がもし、潜在的に“問題児”となる人々の更生の努力を蝕む道具として使われるとしたら、どうだろうか?
つまり、こういうことだ。一九六〇年代末期、大衆の抗議運動が支配者達の計画を崩壊させないほどの脅威となったとき、彼らはどうしたか。一九六〇年代、マリファナの使用が広く流行したことは誰もが知っている。だが一九七〇年代初頭にかけて、より強く危険な麻薬が登場し始めた。
数年の間に、愛すべきフラワーチルドレン(反戦平和運動家たち)は、覚醒剤常用者や、麻薬密売人や、ペテン師に変わり果て、誰もが惰性に流され、楽な金儲けを追いかけるようになってしまった。
(中略)
さらなる例は、一九七〇年代中頃から末期にかけて起こった。イギリスのパンクロック・ムーブメントである。当時、イギリス経済は最悪の状況にあり、多くの怒れるティーンエイジャー達がパンクロックという新しい音楽に熱狂的に触発され、政治批判を行った。セックス・ピストルズ、クラッシュ、ジェネレーションX、スージー・シオ&バンシーズといったグループを通じて、このムーブメントはイギリス社会のエリート達の脅威となった。
これを阻止するために、元ニューヨーク・ドールズのギタリストで、おそらくロック史上最も悪名高い麻薬常用者ジョニー・サンダース(彼はペラペラと真相を喋った)と、ナンシー・スパンゲンがイギリスに送り込まれた。ナンシー・スパンゲンはセックス・ピストルズのメンバー、シド・ビシャスの恋人だったが、後に謎の刺殺体となって発見された。サンダースは、セックス・ピストルズを「死のドラッグ・ツアー」へと誘い、一方ナンシーは哀れなシドに目をつけ、ものにした。ジョニー・サンダースが鼻にかけ嘯いていたとおり、わずか数ヶ月のうちにイギリスのパンクロッカーは、一人残らず麻薬中毒になった。
ジョニーとナンシーはいずれも文無しだったが、ヘロインだけはいくらでも手に入れることが出来、会う人間全てに渡していた。二年もしないうちに、セックス・ピストルズは解散し、ナンシーとシドは死んだ。パンクロックは、より安全で、清潔で、革命よりも金儲けを目指すニューウェーブ・ミュージックへと姿を変えていった。
ここにも、まさにヘーゲル弁証法が作用している。
テーゼ(正)=危険で、政治的なパンクロック、アンチテーゼ(反)=破壊的で、容易に手に入るヘロイン、ジンテーゼ(合)=清潔で、安全なニューウェーブである。
(引用終わり)
“ザ・ニュー・ワールド・オーダー・エクスポーズド・バイ・ヴィクター・ソーン”(邦題:次の超大国は中国だとロックフェラーが決めた:副島隆彦 翻訳、責任編集、2006年 徳間書店)より引用
(続く)
【54】遅れて来たニュータイプの左翼論客、ブレイディみかことは何者か?(その1)
1. ああ、この人には、私は勝てない・・・
相田です。
私にしては、気付くのが遅すぎたと思う。
この方の名前だけは、以前から知っていた。が、単なる雑多のライターの一人に過ぎないと、全く関心を持たなかった。しかし、今の私の心中は、正直に言って、かなりの敗北感で打ちのめされている。
ブレイディみかこさん、という、英国在住の女性ライターがいる。数年前からエッセイを出版されて、ベストセラーにもなっている。ネットで検索すると、20年前頃から既に、数多くのエッセイを、御自身のブログや雑誌で書かれている。著作本も10冊くらいあるようだ。今になって知った私は、自分の不明を恥じている。
彼女の経歴を見ると、福岡の生まれで、修猷館高校(しゅうゆうかんこうこう)の卒業だという。関東以北の方はピンと来ないだろうが、修猷館高校とは、福岡県で最も偏差値の高い、秀才が集まった県立高校である。私は実家が近いので、事情がよくわかる。
関東と違って九州には、私立の頭の良い名門校の数は少ない。福岡の久留米大学附設高校(孫正義、ホリエモンなどの濃いキャラの卒業生がいる)と、後はあのラ・サール高校(こちらは全国的に有名)くらいだろうか、私立の進学校は。なので、九州の頭の良い高校生のほとんどは、県立の進学校に通うことになる。副島先生が、教員の一人を殴って退学したという、鹿児島の鶴丸高校(つるまるこうこう)も、名高い公立の進学校だ。そして、修猷館高校とは、人口100万人を超える大都市福岡の中でも、頂点の進学校なのである。地元の旧帝大の九州大学に、毎年100人以上を合格させる、恐るべき高校だ。ブレイディみかこさんは、その卒業生である。
ちなみに、熊本県には県立熊本高校という、普通に授業についてゆけて学年の平均レベルの成績であれば、軽く九州大学に合格するという、修猷館と同等レベルの、旧帝国大学への附属高校ともいえる、凄い学校がある。その熊本高校よりも偏差値が2、3点だけ低い、済済黌高校(せいせいこうこうこう、本当にこういう名前である)という、県立の名門進学高校が、熊本にはある。テレビによく登場する、コメディアンのクリームシチューの2人は、この済済黌高校の卒業生である。上田晋也が司会で見せる、軽やかな会話の切り返しや、「全力脱力タイムズ」での、有田哲平の皮肉の効いた、タイムリーな時事コントのネタも、彼らの基礎学力の高さが理由だと私は思う。そんなことを彼らは、絶対に、ひけらかしたりはしないのだが。
私がブレイディさんに敗北感を抱くのは、私の卒業した高校の偏差値レベルが、修猷館に遥かに及ばないから、では、全く無い。本当に。
さて、その彼女は、修猷館に合格するために、別に頑張って勉強した訳では無いらしい。彼女の通った中学校は、余り品の良く無い、不良がたむろするような学校だった。それで、家から近い別の高校に通うつもりだった。が、中学の担任の先生が自宅に何度も通って、修猷館を受験するように、父親を熱心に説得したという。それで受けたら、あっさりと合格してしまった、と、いうのだ。
ここから先が、だんだん信じ難い話になるのだが、合格したその名門校に通うのに、家からかなり離れていたので、通学の定期代が彼女の家庭では出せなかった。しかたがないので、彼女は交通費を稼ぐのに、放課後に学校で禁止されていたアルバイトを、自宅の近所のスーパーでやっていた。その時に時間が無くて、制服の上にエプロンを着て店に出ていたのを、客に見られて学校に通報された。当然、彼女は先生にこっぴどく怒られた。
彼女は「家にお金がないので、定期が買えません」と訴えたが、先生は「こんな高校に通う生徒の家庭が、交通費を出せない筈が、ある訳ないだろう。遊ぶ金が欲しかったんだろう、嘘を言うな!!」と、全く信じなかったという。それ以来、学校に幻滅した彼女は、真面目に勉強する気が失せたのだった。
はっきり言って、彼女の家庭は裕福ではなかった。父親は建設業の現場労働者で、母親は専業主婦だったらしい(昔はそれが普通だった)。当然だが、親の稼ぎは余り無い。なので、通った中学校も、不良が集まる柄の悪い学校だったのだ。その中学の先生が彼女を、修猷館を受験するように強く説得した、というのは、彼女の地頭(じあたま)が相当に良かったという事だ。柄の悪い生徒の中でも、彼女は光っていたのだろう。
彼女は幼少の頃から、自分の家庭が普通よりも(とても)貧乏だという現実に、直面していた。さらに彼女は、人並み以上に多感で、(不幸にも)考える能力がとても高かったのだ。余り物事を深く考えない子供ならば、辛い状況でも、妥協して周りに流されて、それで済んでしまうだろう。しかし、彼女はそれが出来なかった。「何で世の中には、金持ちの家と、(私のような)貧乏人の家があるのだ?」と、真剣に考え続けた。そんな中で、彼女の唯一の救いの道になったのが、中学時代に出会った、英国パンク・ロックの、セックス・ピストルズだったのだ。
偶然にも私は、彼女とほぼ同じ世代である。姉の影響であるが、私も彼女と同じ時期に、英国ロックを聴き始めた。自慢では無いが、私の実家も同じくらい貧乏だった、と、思う。大学時代に奨学金を借りる手続きで、私が地元の税務署に行き書類を貰うと、そこに書かれていた父親の収入を見て、愕然とした記憶がある。よくこんな収入で、息子を大学に出せたな、と、素直に感動した。昔は国立大学の学費が安かったから、辛うじて出来たのだと思う。私の実家が田舎だった事も幸いした。近所には、他に目立ったお金持ちの家庭は無かったから。福岡市内などに住んでいたら、周りにどうしても目が行き、劣等感に苛まれていたかもしれない。
しかし、私はパンクを全く聴かなかった。パンクが始まった以降の1980年代からのロックをニューウェーブと呼ぶが、今でも私が聴くロックは、1975年より前のオールドウェーブだけである。ピストルズはおろか、クラッシュ、オアシス、ニルバーナ、スミス、などの、80年代以降のバンドは、全く聴かなかった。今もそうなのだが。
自分では単に、「あんなの興味が無い」と馬鹿にしていたが、本心はそうではない。聴く事で、自分の中にある、偏ったこだわりが崩れてしまうのが、恐ろしかったのだ。今ではそう思う。
パンクロックとは、単に汚い格好の不良が集まって、怒鳴り散らす音楽だ、と、ロックに興味が無い人は思うだろう。実はそうではない。パンク・ロックは、音楽ですら無い。音楽の体裁をまとった、社会体勢への破壊運動である。しかし、ピストルズが活動した当時は、日本の評論家連中で、パンクの本当の恐ろしさを理解し、語れる者は、誰もいなかった。渋谷陽一を含めても。単に、流行り物の、ちょっとイケてる音楽ジャンルの一つだぜ、という認識にしか過ぎなかったろう、日本では。
断言するが、1975〜80年頃の時期に、私の周りで、パンクロックに真剣にはまっていた連中は、真正の不良か、心が病んでいるか、家庭環境に大きな問題があるか、の、どれかだった。私の中学時代の知り合いで、ピストルズを聴いていた一人は、大学時代の私が、実家に帰省した際に会うと、「借金の取り立てでくさ、毎日、大分(おおいた)まで、車で高速ば往復せんといけんとやけん。えらいきつかとばい」とか、愚痴をこぼしていた。そんな奴ばかりが、当時はパンクを聴いていたのだ。
子供の私には、パンクロックは余りにも、汚すぎ、恐ろし過ぎる物だった。しかし、ブレイディさんは、全盛期のピストルズが発するメッセージをそのまま理解し、受け入れて、少女時代の心の拠り所としたのだった。そうせざるを得ない環境に、彼女はあった。大人になっても、彼女はその信念から離れる事なく、日々研鑽を積みながら、めげずに歳を重ねて、遅咲きのライターとして表舞台に立つようになった。
こんな人が、自分の同世代から現れた事に、私は素直に感動する。白旗を上げざるを得ない。
(続く)
相田英男 拝
【53】あそこで「実朝」が出てくるとは・・・
太宰治は、「人間失格」と「斜陽」であまりにも有名であるが、基本的には短編の作家である。他の中長編の作品では、「津軽」、「正義と微笑(びしょう)」、「新ハムレット」、「右大臣実朝」、「惜別」、「パンドラの箱」、くらいだろうか。長めの作品は、それほど多くない。
私は高校生の時に、新潮文庫の太宰の文庫本を全て買って読んだ。その中で、最もインパクトを受けた作品が「右大臣実朝」だった。「実朝」は太宰の書いた唯一の時代劇でもある。これを読んでしまうと、山岡荘八やら、その他の、NHK大河ドラマの一連の原作本などの、時代劇本はアホらしくて読めなくなる。
「実朝」を読了した高校時代の私は、幾人かの友人に「この太宰の小説は凄いから、ぜひ読め」と本を貸してみた。が、誰もが「ふ〜ん、別に」というかいう対応で、私のように感動した様子は全くなかった。何だか熱が冷めた私は、それ以上「実朝」について、他人に語るのをやめた。それでも、「実朝」と「正義と微笑」だけは、社会人になってからも、時々は読み返していた。残りの太宰の文庫本は、田舎の実家に置いたままだった。
「実朝」と「正義と微笑」が、太宰の作品で私は最も好きだ。でもこの2作は、太宰のランキングをざっと見渡すと、全く取り上げられていない。太宰ではマイナーな作品らしい。おかしい。やはり私のセンスは変わっているのか?
その太宰の「実朝」に書かれている、あまりにも有名な一節が、先日、副島先生の「重たい掲示板」での投稿で引用されていた。私が長年ネットを見続けて、「実朝」に触れた論考を見たのは、これが初めてだ。嗚呼、副島先生も、太宰の数多い名作の中から、「実朝」を出してくるのか。流石は、私が師と仰ぐ方だよな、と唸った。やっぱりな、という縁を感じずにはいられない。
今の私には、太宰の本来のスタイルと一般に見なされている、デカダン系の作品は、正直かなりきつい。「トカトントン」とかは、読みながらかなり恐怖を覚える。中学生の国語の題材に「トカトントン」が出ていたのを以前に見た。ちょっと教育上ヤバイのではないか、と、本気で心配になった。それでも、現実から逃避したい気分の時に「フォスフォレッスセンス」を読み返すと、多少、私は癒される。あの大きな鳥が静かに飛んで来て、主人公に語りかける場面が、大変良い。
太宰の魅力の一つが、あまりにも斬新すぎる小説技巧にあるのは、誰もが認めるだろう。女性の語り言葉を使った本格小説は、「女生徒」や「斜陽」に遡るのではないか?女流小説の開祖は、実は太宰だろう(私が言うまでもないだろうが)。「実朝」は、その小説の名手たる太宰が、持てる技巧の全てを、惜しみなく投入した作品だ。事実として、どう考えても有り得ない「実朝」の人物像を、リアルに読者に伝えるために、あらゆる技巧を太宰は凝らしている。その太宰の創意工夫を眺めるだけでも、「実朝」は楽しい。
太宰が描き出す、鴨長明、北条政子、義時(相州)、大江広元、和田義盛、そして公暁、といった、歴史上の人物達と、実朝の間で交わされるやり取りの様子は、極彩色の風景で私の脳内に浮かび上がって来る。本来の小説の持つ、文字の持つパワーに、私は今でも圧倒される。
私が「物語」という概念を認識したのは、子供の頃に源義経の本を、小学校の図書室で借りて読んでからだった。不遇な身の上でありながらも、天才的な戦術で平家をやっつけた義経が、子供時代の私のヒーローだった。その義経が犠牲となって成立した源氏の政権が、三代目の実朝であっけなく消えた(正確には北条氏に乗っ取られた)。その事が私にはずっと不可解だった。和歌森太郎(東京教育大の有名な歴史学者で、朝永振一郎の愛弟子で統一教会に帰依した、物理学者の福田信之の一派に、大学から追放された人物)が監修した、児童向けの歴史解説本をずっと眺めても、納得いかないままだった。
しかし、私の疑問に答えるべく(という訳では全く無いが)、太宰は「実朝」を残していたのだった。太宰の「実朝」を読んで、高校生だった私は「もうこれでいい」と、初めて、納得した。多分小説に描かれた内容は事実ではないだろう。が、これで良いのだ。これ以上の解答は、存在しないだろうから。
太宰作品で最も商業的に成功した「斜陽」は、「右大臣実朝」の単なるリメイクである。「実朝」で描いた人間関係を、太宰の得意な女性言葉で、そのまま再構成しただけの小説だ。太田静子の日記がタネ本らしいが、太田静子の実母が、小説の主人公の母親(実朝に相当する立場)のような、浮世離れした人物であるはずかない。私は「斜陽」よりも、そのオリジナルの「実朝」のほうに、作者のより強い意気込みを感じる。
私はまだ見ていないが、太宰の絶筆となった「グッドバイ」が、映画化された。私は「グッドバイ」も、大変好きだ。小説というよりも、あれは、ナンセンスギャグ漫画のノリが強い。吾妻ひでおのマンガに近い雰囲気を、読みながら私は感じた。相当以前のことだが、「重たい掲示板」で、どなたかが、マンガについて詳しい論考を書かれていた。その論考で「日本のマンガ史に最も大きな影響を与えたのが、吾妻ひでおだ」と、断言されており、私は「ああそうか」と納得した記憶がある。
吾妻ひでおは、少し前にガンで死んでしまった。志村けんよりも、吾妻ひでおの死の方が、私は悲しかった。あまり長生きはできない人だろうと、内心感じてはいたが。日本の現代マンガ、アニメの基本フォーマットである、ロリコン美少女にSFを組み合わせるという形は、吾妻ひでおが「発明」したのだ。吾妻ひでお以前には、あの形は存在しなかった。寺沢武一の「コブラ」みたいな雰囲気が、それまでのSFマンガだったのだ(松本零士の「キャプテンハーロック」もそう)。少し遅れて登場した高橋留美子が、吾妻によく似たスタイルだった。だが、彼女の「うる星やつら」は、SFではなく妖怪の世界であって、あれは水木しげるの路線に繋がるものだ。なので、SFを打ち出した吾妻の方が、やはり偉大だ、と、私は強く言いたい。
実は吾妻ひでおも、太宰の大ファンの人だった。何かの雑誌で、吾妻はマンガ形式で太宰について語っていた。その中で吾妻は、
「太宰の代表作は「人間失格」だが、あれは読み返すとあまりに暗く、自己中心的な描写ばかりで、読むに耐えない。しかし、それ以外の全ての作品 ー「晩年」に始まり「ヴィヨンの妻」あたりに至るまでの、「人間失格」を除く全て ー は、傑作ばかりだ。なので、太宰を「人間失格」のバイアスを通して見るのは、大きな間違いだ」
と、書いていた。正確には、マンガのキャラクターとして吾妻自身が登場して、そのように語っていた。その雑誌を立ち読みしながら、私は「ああ、この人は、私以上のコアな太宰のファンなんだ」と、理解した。だからあんなマンガが描けるのか、と、しみじみ思った。
何年も読んでいないが、私の部屋の本棚の奥には、ジャストコミックの「ななこSOS」全5巻が、今でも置いてある。掲載本は手元に無いのだが、「死んだ馬が死んでいる」という、タイトルも中身も、あまりに不条理すぎる短編ギャグマンガの傑作が、吾妻にはある。今でも頭の中で思い返すと、私は一人で笑う。
「グッドバイ」には、主人公の相方として、ダミ声で怪力で大食漢である一方で、黙って座ると気品のある物凄い美人という、あまりに破天荒な女性が登場する。まるで、吾妻マンガのヒロインそのままのような人物で、私は彼女が大好きだ。映画では彼女の役を、小池栄子が演じている。小池栄子も美人であるが、どちらかというと世間的な佇まいであって、私としては微妙な配役だ。吾妻ひでお的な世界を想像する私は、吾妻がファンだった小倉優子が演じるのを、アバンギャルドで期待していたが、流石にそれはなかった。演技力とか私生活の理由から、小倉優子が無理なのはわかっているが。
以上の話は、副島先生の「実朝」の引用を読んでから、どうしても書きたくなった。太宰の作品の多くは、青空文庫から只で読める。コロナ篭りの空いた時間に如何だろうか?読んでいて陰鬱になる話ばかりでは、決してない。私が言うまでもないことであるが。
(本当は、他に書くべき大事な論考があるのだが、難儀している。なんとか早く書き上げたい・・・・、副島先生、すみません)
相田英男 拝
【52】書評「革命とサブカル」 安彦良和 著
相田です。とある本の書評を書きました。
書評「革命とサブカル」 安彦良和 著、2018年、言視社 出版
安彦良和(やすひこよしかず)という人物の名を聞いた時の印象は、年齢により相当に違うだろう。60歳以上の多くは、おそらくは「誰それ?」だ。30歳代より下の世代になると「年寄りのイラスト書く人だよな」という感想だろう。しかし、私を含める40〜50歳代は違う。「おお、あのアニメのカリスマではないか!!」と、誰もがすぐに気付く。
彼の名前を知らずとも、彼が描いたイラストなら、日本人のほぼ全てが目にしている筈だ。テレビアニメ「機動戦士ガンダム」の、登場人物を手掛けたアニメ画家(イラストレーター)だ。今では缶コーヒーのイラストにも、安彦氏の描くガンダムのキャラが印刷されている程である。
安彦良和は、日本のアニメ業界の作画家として、文句無しに、歴代トップに挙げられる人物だ。安彦氏の描くアニメキャラクターには、他の画家の追付いを許さない気品と力強さがある。
アニメ作家として、誰もが真先に思い浮かぶのは、かの宮崎駿(みやざきはやお)だろう。が、人物画を描くならば、宮崎駿の腕前は、安彦氏の足元にも及ばない。アニメ評論家の岡田斗司夫(おかだとしお)が書いていたが、有名な宮崎キャラの、クラリスやナウシカのイラストを止め絵で見ると、あまりにも単純で貧相な絵だと気付く。宮崎キャラの魅力は、動画で見た際の動きや、きめ細やかな演出で支えられているのだ。キャラ自体の絵の魅力は、安彦氏や、彼と同時代の作画家の湖川友謙(こがわとものり)の方が、宮崎氏よりも遥かに優れていると、私は思う。
安彦氏はガンダム以前にも、「宇宙戦艦ヤマト」の初期シリーズ、「ゼロテスター」、「ライディーン」、「コンバトラーV」といった、当時の子供の記憶に残るSFアニメの、主力画家として参加している。これらのアニメを私は、子供時代に、再放送を含めて全話見ている。これらの作品に登場する、安彦氏の描く人物達には、他のアニメと違った、気品と人間味が感じられて、続きをついつい見たくなってしまうのだ。
「ガンダム」(第1作目)についての思い入れは、皆々にそれぞれあると思う。私の場合は、本放送を途中まで見ていなかった。その内に、クラスの友人達の間で、「何やらトンデモないロボットのアニメが、テレビで放映されてるぜ」という話題が広がった。それで私はある日、自宅のテレビのチャンネルを、番組に合わせてみた。
そこでテレビに出てきた、ロボット同士の戦闘場面はこんな感じだった。ガンダムが敵のロボットに向けて、離れた距離からビーム砲を何発も撃つ。しかし、相手は足を止めたまま、上体だけを前後左右に揺らして(スウェーさせて)そのビームを躱す(かわす)。ガンダムのパイロット(実は14歳の少年)は、操縦者としての適性を味方に疑われていたため、「避け(よけ)もしないのか?この野郎」と逆上する。一方の敵は、経験豊富な傭兵パイロットだった。彼はロボットの操縦席で冷や汗をかきつつも、「正確過ぎる射撃だ。それゆえに(ビームの軌道を)コンピュータにも予測しやすい」と、うそぶくのだ。(ファンならここまでで、どの話数なのかすぐにわかるだろう)
それまでのロボットアニメの戦闘シーンは、例えば神谷明(かみやあきら、当時の代表的な声優さん)が、ロボットの持つ武器の名前を連呼しながら、最後に必殺技を繰り出して怪物を倒すという、水戸黄門的なワンパターンが定番だった。しかしガンダムのドラマは、そんなパターンとは、異次元のレベル差なのが瞬時にわかった。子供の私でも「凄い、アニメでこんな、人間臭いリアルな芝居が出来るのか」と、観ながら息を呑んだ。ついでにその時に、「ライディーンで見た絵柄の主役が、「巨人の星」の声で喋っているじゃん」と、私は気づいた。
「ガンダム」の爆発的なヒットにより、アニメ界での輝かしい前途が、安彦氏の前には開かれていた。前にも後にも、安彦氏よりも上手く人物キャラを描けるアニメーターは、日本には存在しない。しかし、ガンダム以降の安彦氏は、アニメの仕事を徐々にフェードアウトさせ、1990年代以降には、アニメの仕事を完全にやめてしまう。以降は専業のマンガ家として、歴史を題材にした作品を単発的に発表するだけだった。
私は安彦氏の描く歴史マンガには、あまり魅力を感じなかった。安彦氏が去った後の、無味乾燥なアニメの世界を眺めながら、寂しさと煮え切らなさを感じつつ、その後の30年近くの年月を私は過ごした。
この本は2年前に出版されているが、私が書店で見かけたのは、今年の正月明けだった。この分厚い本を棚から取って、開いた私はギョッとした。その内容が、安彦氏の描くイラストのイメージから、あまりにも掛け離れていたからだ。
本書は、前半が安彦氏の大学時代(青森県の弘前大学)の友人達との対談、後半が自身で書かれた、(アニメでなく)政治に関する論考という構成だ。その前半で対談する、安彦氏の友人達の顔ぶれが凄い。元連合赤軍のメンバーで、「あさま山荘事件」の直前に、逃亡中の軽井沢で逮捕されて、20年以上の懲役刑に服した後に、出所した人物が2名。68,69年の東大紛争の際に、青森から上京して、安田講堂の占拠、封鎖に参加して、逮捕された人物が3名。その他の元劇団員、精神科医、等のメンバーも、全員が、大学時代に全共闘(全学共同会議)の活動家だった方々だ。
60年代後半に全国の大学で広がった大学紛争の最盛期に、安彦氏は弘前大学の学生だった。弘前大学での安彦氏は、全共闘の熱心な活動家だったのだ。安田講堂の紛争が鎮圧された直後に、弘前大学でのバリケード封鎖の際に、安彦氏は首謀者の一人として逮捕され、そのまま大学を退学となる。逃げるように青森から東京に出て来た安彦氏は、たまたま募集中だった、手塚治虫の虫プロ(当時は既に倒産寸前だったが)の従業員に採用された。最初は演出等のドラマ作りを担当していたが、元々趣味だったイラストの、尋常ではないレベルの上手さが、次第に周囲に認められ、作画家として引っ張りダコとなったらしい。
ガンダムの監督の富野喜幸(とみのよしゆき)氏が、最初に安彦氏を見たときに、「何と仕事が遅い、不器用な演出家だろうか」と、仕事振りにあきれたいう。「どうせ彼はすぐに、虫プロを辞めて、アニメ業界から居なくなるだろう」と、思っていた富野氏は、しばらく経ってから「ライディーン」の企画会議で、安彦氏のイラストを初めて見た。そのクオリティの高さに、富野氏は驚いたという。その時の印象を「学生時代に、手塚治虫のマンガを初めて読んだ時と同じ衝撃を、安彦氏の絵から感じた」と、富野氏は自伝で語っている。
以来、富野氏は安彦氏と一緒に作品を作ることを願っていた。ガンダムでそれは達成されたのだが、それ以降、安彦氏はアニメを止めてしまう。富野氏は仕方なく、代わりに湖川友謙に頼らざるを得なかった、という。だから湖川氏も、安彦氏に並ぶ程の超一流の作画家なのだ。ちょっとくらい性格が悪いからと、「イデオン」を見もしないで、湖川氏の悪口を流布するな、と、私は怒りを感じる。
この本を読んだ私は、安彦氏がアニメをやめた理由が、ようやく腑におちた。私の言葉で、大きく意訳すればこうなる。かつての自分達の、全共闘の学生達の主張、それは、「自分の目の前に見える理想を、手っ取り早く、最初に実現しさえすれば、世界全体への革命につなげることが出来る、そして良い世界が作れる筈だ」だった。その全共闘の主張と、アニメで繰り返し描かれる思いと願い 、それは、「主人公の身近に起こる出来事や、友人達の超常の力を使うことで、世界を変えられる(所謂セカイ系に通じる思い)」が、同じである事に、安彦氏は気付いたからだった。
全共闘の主張が先鋭化して連合赤軍となり、「よど号ハイジャック事件」や資金調達のための銀行襲撃、そして「総括」と呼ばれる集団リンチ殺人に至って、最後は瓦解する、その破滅までの道のりと同じ景色が、アニメの仕事をやりつつ、安彦氏は見えてしまった。だから安彦氏は、アニメから離れたのだ。私はそのように理解した。
サブカルには巨大な闇がある。その闇に無自覚なままで、サブカルに耽溺する事は危険だ、と、全共闘を経験した安彦氏は直感で感じた。その危機感を、わかりやすく紐解くために、かつての友人達を招き、あるいは自ら彼らの元を訪れて、消えそうな記憶を再度重ねてゆく過程が、この本の骨子となっている。私にはそう思える。
安彦氏の主張は、実は私にも無関係ではない。元連合赤軍の友人との対談の中で、シールズの国会前のデモ活動の話がある。「シールズのデモに集まった半分が、60歳以上の高齢者達で、残りは30歳代以下の若者達が主体だった」という友人の話に対し、安彦氏は「その間の年齢層が、スッポリ抜けてるだろう。それがサブカル世代だ。俺たち全共闘世代の後に出現した、政治を論ずる事なく、代わりに、サブカルを選んだ連中だ」と、断言する。それに対して、友人曰く「お前がサブカルにこだわる理由が、ようやくわかったよ」だ、そうだ。
私も、この安彦氏のコメントには「ああそうか、俺もサブカルにドップリ浸かってる世代なんだ」と、大いに納得した。サブカル世代の一員として、安彦氏の問いかけに応える義務がある、と私は思う。
かつての宮崎勤による幼児誘拐連続殺人を始め、オウム事件や、最近では京都アニメ放火殺人事件、元エリート官僚による息子の刺殺、等、現実社会に向き合わず、サブカルに耽溺する人物の存在が引き金となった悲劇が、幾度となく繰り返されている。それは、今に始まった構図では決してない。大学紛争を経験した世代が、自らの行いに対して、正しく向き合わずに「総括」しないままだ。だからではないのか?と、安彦氏は繰り返し訴える。画家としての感性が強いだけでなく、あまりにも真面目過ぎる性格なのだ。
私がこの本を買った理由は、単に安彦氏のサブカル論に共感しただけではない。私の上の世代の学生運動の様子を、肌感覚で知るためのテキストとして、この本が最適だからだ。私は原発問題を調べるうちに、左翼研究者達の政治活動が大きな力を持っていた事実を知った。しかし、政治的無関心の最右翼であるサブカル世代の私は、学生運動を含む昔の左翼運動について、全くの無知であった。全共闘と民生派と中核派の違いもピンとこないのは、流石にマズイと私は思った。それで私は、東大全共闘議長だった山本義隆氏の自伝等を読み始めた。が、内容がハイブロウ過ぎて、初心者の私には取っ付きにくかった。
しかし、幼少の頃から安彦アニメを見続けた私には、本書は打ってつけである。私は読み進めながら、「こういう考え方の方が、あのアニメを作っていたのか」と、目から数多くの鱗を落としつつ、本書から深く学んでいる最中である。
この本は著者が有名人であるにもかかわらず、ほとんど話題になっていない。あたり前だが、アニメを見ない人には、文筆家でも学者ではない安彦氏について、関心など持てない。一方で、ガンダムに詳しいサブカル世代の中年には、政治的知識や関心が乏し過ぎて、安彦氏が何を言っているか理解出来ないし、興味もないだろう。
本書の内容にも、読むのにかなりきつい所がある。元連合赤軍の二人からは、「総括」に立ち会った際の状況と、その後の心境の変化について、安彦氏は詳細に訊きだそうとする。容赦がない。単なるアニメファンには、ちょっとついて行けないと思う。
これらの事を十分理解しつつ、安彦氏はこの本を出した。彼の英断に私は感謝する。
最近の私は、ここで、サブカル関係の投稿を繰り返して来た。無自覚ではあったが、その理由が、この本により、なんとなくわかった気がする。
私も運命にそれとなく導かれているように感じている。
この本については、あと何回か私は感想を書くだろう。
相田英男 拝