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Loginはこちら【95】『JFK』JFK(1991) 2.映画から見えてくるアメリカと日本の相違点
会員番号4655の佐藤裕一です。
前回投稿に引き続き、映画『JFK』について感じたことを書き込む。基本「だ・である」口調の文体を継続。前回でも前もってことわっているが、私に出来る真実の判断なんて憶測や自論の域を出ない。ましてや断定などは到底不可能である。
私は私が気になったこと、感じたことを書くだけである。私の意見や結論を誰に押し付けるつもりもないし、そもそもそんなことは出来ない。ですからこれ以降も、お読み頂けるかただけということで、どうぞ。以下ネタバレ注意。
● アメリカと日本の相違点その1。帝国の敵と属国の敵
ビラ配り時に反共主義者と起こした衝突騒ぎ(ヤラセか)で、FBIに逮捕された後に釈放されたオズワルドが、テレビ出演して討論しているシーンがあった。
ブリンギア「あなたは共産主義者ですか、それとも違うのですか?」
オズワルド「いいえ、ミスター・ブリンギア。私は共産主義者ではありません。私はマルクス・レーニン主義者です」
ブリンギア「共産主義者とマルクス・レーニン主義者、何がどう違うというのですか?」
映画の中で唯一、これだけが共感出来るテレビ放送のシーンであった。といっても呼ばれて討論している方は、ビラ配りで衝突した相手側のようだが。
共産主義者(コミュニスト)もマルクス主義者もレーニン主義者もマルクス・レーニン主義者もスターリン主義者もトロツキー主義者も毛沢東主義者も一体何が根本的に違うのやら、分かり易い説明に出会うことは少ない。
やたらと偉大というか尊大な人物の名前を冠してあやかれれば穴だらけの理論も補強というか、何となく正当化されるという感覚である。今更どうでもいいことになってしまったが。もうセクト主義でいいよ。
先生も仰せのように、絶えざる党派内活動である分派間抗争、主導権争い、内ゲバ闘争こそ左翼の本質の1つであるのだろう。もっとも最近はそこらじゅう保守分裂だらけで、左翼を嘲笑していられなくなったのだが。
それというのもアメリカにしてもそうだが、日本の保守陣営はもともと一枚岩ではなく部族連合共同体的な派閥と領袖だらけだったのが、冷戦の勝利によって「反共主義」(アンタイ・コミュニズム)という要、連帯の大義名分の柱を喪失してしまい、権力闘争のみが表出したために一旦自滅したのである。これを故・小室直樹先生が指摘したごとくのアノミーの一種と言っていいのか迷うが、似たような社会現象である。
だから日本で、ソ連崩壊と冷戦構造の終焉後に、紆余曲折を経て日本に左翼政党の政権が、かなりの短期間であっても曲がりなりにも出来たことは出来た。
アメリカでも冷戦と湾岸戦争勝利者であるはずのジョージ・ブッシュ(父)が大統領選挙に破れ、経済重視の民主党のビル・クリントン政権が誕生してしまった。どのくらいのヤラセとか出来レースがあったのか、当時の選挙の実態に詳しくないが、それでもブッシュ(父)は相当頭にきたのではないか。凱旋将軍ではないが、戦争を勝利に導いた大統領が一期だけで落選などとは。前任者ロナルド・レーガンの偉大イメージが悪いほうに作用したのかも。
ここまでは日米で共通点の方が多いかのように見えるが、クリントンは安定政権で二期目でトラブルを起こしたが任期を全うした。日本では早々に他力本願の左翼政党が自滅していって、元の木阿弥に戻った。
敵を失ってしまうと連帯感が失われ団結が崩壊しかねないので、新たなる敵を欲する。
これも世界共通の現象であって日本特有の現象などではない。しかしソ連崩壊後に共産主義陣営が総崩れ・退潮していき保守陣営が敵を失ったものの、アメリカは属国を踏み台にして90年代に経済・金融の大勝利・繁栄を手に入れたので、国民の欲望が満たされた。9・11発生までは、暫く本格戦争は無しとした。
それでもやはり、勝って敵を失うと新しい敵を探すことになる。不健全な経済はいつバブルが崩壊したり失速してもおかしくない。マスコミだって常に敵を探している。だから「悪の枢軸」(イラン、イラク、北朝鮮。イスラエルを除く隠れ核開発国家)というのは基本的な国家戦略以外にもそういう体内的側面もある。だから2000年代で9・11とアフガン戦争、イラク戦争だ。
日本は逆でバブル崩壊後に失われた10年というか、今から数えれば失われた20年に突入していった。おまけに左翼も潰れた。経済も駄目。アメリカには文句を言えない。保守派の欲望が満たされないと、やはり外部に目をそらす敵、不満のはけ口が必要である。
アメリカ人と違い日本人の場合は反イスラムでは悪感情もあまり湧かず保守結束には弱いので(日本人はイスラム教圏と縁遠く、あまり戦争をしたことがなかったため)反中と反北の脅威を喧伝する。中国と北朝鮮には戦争の記憶もあり感情的嫌悪感をかき立てられるので、保守派共通の警戒心を持つことが出来るからだ。同時に中国の発展も気に食わないとなる。
2010年代のここにきて、反イスラムから反中への軍事的脅威だけでなく、経済状況も日米ともに暗い情勢になってきたので、共通の敵を持つ同士で日米の相違点が減っていき共通点が多くなってきたように見える。そしてそれは見せ掛けである。アメリカは世界覇権国、日本は依然としてその属国。敵を見据える視点が違うのである。保守派同士・右翼同士、革新派同士・左翼同士だからといっても元から全然別物であり、そのままなんでも話が通じると思ったら大間違いである。ましてや「同志」だなどという考え違いは命取りだ。
先生の帝国・属国理論を今こそ日本全国民が学ばなければならない時なのである。
● アメリカと日本の相違点その2。法廷での宣誓、証言に対する考え方
またちょっと映画『JFK』から離れてしまったので戻る。他にもこの映画を通して見えてくる、全然、全く、日本とアメリカの国家・社会で共通していない部分は掃いて捨てるほどあるのだが、取りたてて挙げるとすれば彼我の国民が持つ法意識の画然たる差である。
映画『JFK』でも、ガイ・バニスターの友人であり部下であったジャック・マーティンや、オズワルドの弁護についての謎の電話を受けたという話のあるディーン・アンドルーズ弁護士(ギャリソンとは法科で同窓だという。役者と本人がそっくり。こういう人いるよな~ほんとに)など、危険と恐怖に怯える証言者達が描かれている。ルビーとオズワルドが友人関係であったということをギャリソンに話したビヴァリー・オリヴァーという女性が証言を求められた際の台詞が印象的であった。
ビヴァリー「あの連中は合衆国大統領を殺したのよ。私みたいな安っぽい踊り子を消すことなんて何とも思ってないわ」
それでも大勢の目撃者が真実の証言をしようとするんだから、こういうところはさすがにアメリカ人だなぁと感じた。次々と証言者が消されていく中、危険が伴うと分かっていて勇気を出すのは大変な決意である。日本では決して見られない光景である。
CIA高官の発言などにも見られるように虚偽の証言も多いし信憑性の薄いものも多いのは日米同じだろうが、法廷での宣誓や偽証をしてはならないという基本姿勢、意識が浸透しているところが全然違う。これには明らかに「神との契約」をはじめとするキリスト教の精神が与えた文化が法の基底にあり、それが一般人の法意識の根底にある。同時に近代人でもあるから個人主義がすごい。日本ではこれらの条件が最初から欠如している。外来文化の輸入と真似を一所懸命頑張ったが、精神や意識は真似出来ないで日本流に落ち着く。
だから日本は裁判でも偽証し放題である。はっきり言っておくが、日本は偽証罪が適用されることが少ないなんてのは誇りでもなんでもないよ。恥だ。起訴有罪率99・9パーセントと同じことである。従来から日本がアメリカのような訴訟合戦社会でないことも、手放しでは褒められない。むしろ律令体制下での忍従の証じゃないのかね。
とにかく自分達だけは馴れ合いでなぁなぁの関係である司法官僚や法務検察官僚の恥知らずどもの自主的反省を待っていたら、何時まで経っても抜本的司法制度改革なんて出来ない。
故・小室直樹先生ばりに何度でも書くが、アメリカと日本ともに偽証が蔓延しているとして仮にその数が同じ程度だったとしても、偽証罪に対する認識が常にありながらそれでも偽証する社会と、偽証が許されない罪などという認識そのものが元来からして希薄な社会とでは、表面だけ似ているように見えても内実は全然違う。腐敗の構造、機能の仕方が全然違うのである。何度強調しても強調し過ぎることはないので、ここに明記しておきたい。
● アメリカと日本の相違点その3。日本にジム・ギャリソンはいない
その2とだいぶ被ってくるが、映画『JFK』を見るにつけ日米で全く共通点が見当たらないといえば、これがもっとも際立っている。映画だけの話ではない。実在のギャリソンとの比較としてもそうである。比較だなどと言うのはおこがましいが。
日本の検事連中の中には、ジム・ギャリソンに匹敵するほどの大人物はただの1人もいない。過去にもいなかったし、現在もいないし、未来のことは分からないが期待はしない。
世界規模の大事件が起きない現代日本においては、こんな立派な検事が活躍するような余地は存在し得ないから、と書いた方が幾分かは彼ら官僚組織人間の置かれた、人間が矮小化するしかない職場環境に対する、同情的な配慮が行き届いているだろうか。
ただし、映画『JFK』を正しく把握しようとして、しかし片一方の偏った視点から見ると、陥りやすい部分があるだろう。クレイ・バートランドことクレイ・ショーは証拠不十分のために裁判で無罪になったのであり(「無実」ではなく「無罪」である。以後いちいち断らないので、混同しないように。これを混同すると全てにおいて致命的な誤解を招く)、ギャリソンが捜査する前に「急死」していたガイ・バニスターや、突如として「自殺」したとされるデイヴィッド・フェリーも、裁判にかかってはいない。有罪判決が下され確定したわけではない。
有罪ではない人間はどれほど怪しくても確定されなければ無罪だ。推定無罪は無罪と同じであり真実とは別問題とされる。容疑者、被疑者は疑いをかけられている者、被告となれば起訴されている者である。容疑者も被疑者も被告もその時点では依然として無罪の状態なのである。クレイ・ショーは無罪である。無実だったかどうかは私には正直分からない。公式に分かっているのは無罪のままで彼も不可解な死を迎えたということだ。
たまに警察が駅などの公共の場所に貼り出す行方不明容疑者の顔写真ポスターに「こいつが犯人だ」「犯罪者リスト」などと書いてあるのは、おかしい。刑務所に収監されていた人間が脱獄したり、有罪判決確定後週間前の保釈中に逃走したのであれば、この表現でも合ってはいるだろう。
しかしそれ以外は裁判で「有罪」が確定していないのだから、その時点では犯罪者と確定してはいない。現行法がどうか知らないが、明確に法制定であれを違法にするべきである。ああいうポスターを張り出したら違反としてその警察官が逮捕されるようにしなければならない。なぜ裁判官ではない警察官や検察官に、1人の人間を犯罪者であると断定する権限があるというのか? 無いだろうが。
だから『JFK』は有罪判決を下されなかった実在の人物が裁判を受けている法廷の様子を描いている映画でもある。そして検察側が敗訴した。
この点は潜在的な危険性があり、気をつけなければならない。映画でギャリソンも妻から、ショーの私的な性癖暴露について「一度でも彼の気持ちを考えたことがあるの?」「あなたは彼を破滅させている」と批判されているシーンがある。この映画とギャリソン本人への何とも盛大な批判者達である新聞テレビの連中の理屈にも、一理はあるだろう。九理は無いが。
とはいってもまぁ、何にせよ残念ながらというべきか、実に平和というべきか、この点は日本の事例に当てはめて類推するのは無駄な努力であるから問題ない。
なにせ日本にはギャリソンほどの国民的英雄検事は1人もいないのだから、同様に英雄の犠牲者もいない。キャメルのコートを着た出世欲の塊の偽英雄とその犠牲者がいるだけ。イタリアマフィアを摘発して爆殺される命がけの英雄検事も、日本にはいない。安全地帯でヌクヌクしているのに法廷の外での特別捜査・逮捕・起訴権限を持っている。
では、後に無罪となる人間を逮捕・起訴し裁判にかけたことになるジム・ギャリソン地方検事と、日本国の冤罪大量作成機関に勤務する揃いも揃った日本人クズ検事どもの、一体何がどう違うというのか? 歴代検事総長の1人である伊藤栄樹のいう「巨悪を眠らせない」検察官達は、日夜せっせと果敢にも職務にはげみ余計なことをして、現役政治家を追い詰めたりする。勇気の点でギャリソンと違わないのではないか? 本質は同じではないか? 一体何がどう違うというのか?
簡単であり明白なことだ。真に偉大なことに命を賭けて国家権力や偏向報道と戦い、身の危険に晒されながら真実を明らかにするために自らに使命を課して一生涯を職務に取り組んだ1人の人間と、よってたかって矮小・卑小なことをほじくり返し、沢山の冤罪事件を作り出し、無実の人間の名誉や尊厳を貶め、政治的に陥れることに熱中している徒党を組んだ権力を笠に着た自称正義の手先人間達。どちらを尊敬しその一生を賭した物語に憧れを抱かせ、どちらを軽蔑し手先役人人生のくだらなさ、つまらなさを露出させているか。
実在の日本人クズ検事どもがモデルになって活躍するシーンは果たして商業映画として成立するのだろうか? 架空なら嘘八百の幻想を振りまけばクズ映画が成り立つかもね。ちなみに私はほとんどの邦画を相手にしない。アニメ映画以外は世界で通用する水準にまで到達出来ていないからだ。日本人しか見ない国内のみの映画産業である。アニメだけは日本が世界の頂点だからどうしようもない。ディズニーアニメ映画程度が関の山である。まったくもって妙な感じだ。
さて、ヨーロッパ映画を壊滅せしめ、世界を席巻・圧倒しトップに君臨し続けたハリウッド映画産業界も、ようやく斜陽が訪れたようだ。無論、それは頂点から段々と落ちてきているということであって、日本の邦画レヴェルと同等になったなどという考え違いを起こしてはならない。
それにしても現代日本だって、何人の政治家が暗殺され、その周辺の人物が沢山消されていることか。それを真剣に捜査しているという検事や警察が被害者になったりする話を、私は未だに聞いたことがない。いつも重箱の隅をつついて誰かを失脚させたり、冤罪を大量に作り出しているだけじゃないか。違うのか? 1件でも検察特捜絡みで正常な解決を見た政治事件があったか? たったの1件でも。
日本はアメリカと違って政治家の「巨悪」を追求し、政治家の逮捕・失職・失脚というかたちで達成されるから「健全」な法治国家なのだ、などという単細胞が少しでも勉強出来るように、日本人のためにもこの映画『JFK』があるのだ。
さらに言えば、日本の検察は最初から「巨悪」と闘ってなどいない。「巨悪」と闘っている人間を叩き潰すために動いているだけ。しかも検察官僚と法務省という組織自体が「巨悪」の筆頭なのが現状だ。
何度でも繰り返す。日本人の検事が政治家の政治権力と戦って殺されたという話を一向に聞いたことがない。検察に政治的・社会的に抹殺された国民政治家の話は腐るほど聞いているが。日本で本当の「巨悪」と戦っているというか抵抗しているのは国民政治家だ。
日本人に僅かにいる良心的な検事(思い込みで薄っぺらい偽善的正義を振り回すやつのことではない)は不正圧力に屈従を強いられ、組織から弾き出され、冤罪で謀略逮捕される。現役でギャリソンのような活動は日本ではとても出来ない。はぐれ官僚というか、脱藩官僚でも本当に気概がある人達は不当に投獄されたりする。国民政治家と、現状の実態を嫌というほど理解している官僚・元官僚が「巨悪」のありかを実際に知っている。国民にも知る権利がある。
● アメリカの司法制度理解を日本に広めるべき、だが導入となると?
これは相違点などと表現する必要すら無いほど明確な事実であるが、アメリカ合衆国と日本国とでは司法制度が違う。
ギャリソンは当時、ニューオーリンズの地方検事という役職であり、部下に地方検事補がいる。この制度が私にはよく分からないのだが、地元住民から選挙されて当選しており、暗殺事件を極秘調査していることが発覚してからも再選している。4選目では落選し、その後は巡回区控訴裁判所判事になっている。これは日本の判検交流みたいなものだろうか。
検事を公選で選ぶというこの方法が良い制度なのかどうか、私にはまだ何とも言えないのだが、そういう立場の人間だからこそ政府やらマスコミやら方々を敵にまわして戦えたのだろう。そこらの木っ端役人の採用組織人間に出来ることではない。下っ端は上役には逆らえないのが組織の基本である。ギャリソンは執念の検事ではあっても検察官僚ではなかった、ということである。当時の検事総長は敵の味方だったようだ。
それでもギャリソンは役所に勤める人間であるから、圧力は相当なものだったろうし、調査費用は税金であるから批判された。嫌がらせと圧力目的で他の役所から税務調査も要求されたようだ。それでも家族を養いながら私財まで投入して、家族との人生時間を犠牲にしてでも調査を続けている。こんな人は日本の現役の官僚や役人には存在出来る環境もないし、似たような人間が存在するとすれば、くだんの検察の特捜部の連中のように、謀略のやり過ぎによる個人の勝手な暴走(そしてトカゲの尻尾きり)というスタンドプレーの形でしか出てこない。
多くの民衆の支持を受け、しかも公選されていたから、ギャリソンが活動、活躍出来た。そういう背景、環境、土壌がある。もちろんギャリソンはアメリカ合衆国においても稀有な事例であるだろうし、世にも得がたい人物であろうが、これこそ本物の民意の尊く偉大な表出という形なのであろう。日本の検察審査会の民意など比較にもならない。検審の民意など横審に反映される民意と同程度のしろものである。
日本も大陪審(起訴陪審制度)とか、検事の選挙とか、陪審員制度の導入(裁判員など、ふざけるな)とか、独立検察官とか、特別検察官など、イギリスの私人訴追主義とか、いろいろ比較検討してみるべきだと思う。植草氏が先鋭に唱道するように司法制度改革は抜本的な近代化が必要である。検察から捜査権だけでなく起訴や上訴の決定権も取り上げるべきだろう。
もちろん米英だから全部何もかも良いと決め付けて崇拝しろ、無条件にそのまま日本に導入しろというのではない。裁判員という最悪の中途半端導入からもそれが分かる。検審にしてからがアメリカ大陪審の中途半端導入(のつもり)である。全部日本流にしてしまって台無しである。何が強制起訴だポンコツども。
例えば前述のように、ギャリソン検事は後に判事となったわけだから、アメリカではギャリソンの例のように行き来が実際に行われている。つまり判検交流の一種みたいなもので、日本でも既に行われているわけだから見習うも何もないけれども、これは少なくとも日本においては理想的な制度ではないことが既に判明している。
何度も言うが日本にはギャリソンのような大人格者の検事の出現などは望むべくもない土壌にあるということを忘れてはならない。元冤罪発生機出身の判事に裁かれるなんて、たまったもんじゃない。
これはアメリカどうこう関係なく、判検交流は法改正して今後一切禁止すべきである。先生も元外交官の天木直人氏とのネット対談で仰せだったが、検事に限らずなのか、法務省(行政)から出先の裁判所(司法)に出向してきて、その「行政裁判官」「法務裁判官」「検事裁判官」どもが偉そうに生粋のヒラメ裁判官達を押し退けて君臨赴任してくるそうだ。裁判に介入、口出しするそうである。
最高裁事務総局の司法官僚支配もひどいが、それよりもっと法務省による裁判介入の方が質が悪い。これは有害有益ですらなく、ただの有害無益。害しかない。だから無条件で法改正して禁止すべきである。
法務省や検察庁はじめ行政側の人間が司法の裁判官に成り代わるのは一切禁止するのが第一歩である。どうしても行政官が裁判官に成りたいのであれば公務を辞職してから特例なしの通常の試験を受けるしかないようにすべき。そこら辺は制度改革である。
あとは判事から検事その他の行政官になる、ということについては議論の余地があるだろう。検事出身判事というのがヒラメ以上に最悪なのである。
今現在いる「検察判事」や「法務判事」には本職に戻るか判事として残るか選択させ、判事として残った者には二度と検事になれないよう法制度の整備をしておくのがよかろう。この慢性的で悲惨な「行政司法」の現状に比べれば法務大臣の失言など、どうということもない問題である。
それから先ほど挙げた中では、独立検察官とか特別検察官については、アメリカでも必ずしも上手く作用しているだけとは言えないだろう、歴史がまだ浅く試行錯誤だと思う。だから日本に導入する際は注意しなければならない。基本は議会が主導権を握るということが大事だろう。それから任期を明確に制限し、法曹資格者から選任するとしても、独立検察官や特別検察官という役職自体を専門の職業にさせない、ということが必要ではないだろうか。
日本人が新制度導入が悪い方に転ぶというか、悪用される想像しか出来ないのは、日本の司法制度が元々あまりに前近代であり、検審の法改正が悪い方に作用してしまっているような事例を現に目にしているせいでもある。改悪ばかりである。だから現状維持で凝り固まる。
どんな憲法や法制度にも欠点や弊害がないわけはない。
腐りきった検察官僚の人員総入れ替えと法改正が必要だが、その前に有権者の意識改革が根底から必要なのは言うまでもない。有権者の後押しがないと改革の前進は覚束ない。
自分達の権力を強大化する法は強固に成立させようと努力するが、官僚の権限の源泉を奪われ弱体化させることになる法改正に対しては、官僚は常に改革の骨抜きを狙っている。そのために様々な手段を用いる。それが当然に許されると思い込んでいるのが腐れ官僚という人種の救いがたい習い性なのである。
一旦区切りとして、続きは翌日以降と致します。
【94】『JFK』JFK(1991) 1.映画から見えてくるアメリカと日本の共通点
会員番号4655の佐藤裕一です。
本日は2010年12月15日(水)です。約10日ぶりに書き込みます。本当は11月22日中に投稿したかった題材なのですが、あれこれ調査したり書き足したり怠けたり先送りしたりで、だいぶ過ぎてしまいました。
今回は基本「だ・である」調の文体でいきます。
● 11月22日は何の日か
11月22日は、どういう歴史的出来事があった日か。日本国法定の休日ではないが記念日としては「いい夫婦の日」という、どうでもいい答えが第一に浮かぶのが日本人の普通だろうが、そんなことはまさに心底どうでもいい。
11月22日は、第35代アメリカ合衆国大統領、ジョン・フィッツジェラルド・“ジャック”・ケネディ(John Fitzgerald “Jack” Kennedy,1917年5月29日-1963年11月22日)が暗殺された日である。
以下、私がただケネディと書いた際はジョン・F・ケネディのことを指す。それ以外の「ケネディ」を含む言葉に言及する際には、例えば弟で司法長官であったロバート・ケネディ(RFK)などのように区別出来るように表記する。もっとも略称のJFKを用いればいいだけなのだが、著作物や映像作品として単に「JFK」という題名の作品群があるため、どうしても紛らわしいところがあるからそれを避けるためだ。
ケネディ暗殺の年、1963年から計算すると47年が経過したことになるが、欧米人の死についての習慣が分からないので、日本人が何回忌がどうだと言っても仕方がないのは確かだ(一周忌と違って次の回忌からは数え年と同じである。私は昔からこの「数え年」という残存習俗が大嫌いだ)。
それでグーグルのキーワード検索で「ケネディ」「JFK」関連のニューズ検索すると、サッカーその他の「ケネディ」が沢山出てきてかなり調べにくいのだが、大体以下のような記事が検出されてきた。
もうすぐ50年ということで、新しいケネディ大統領暗殺の真実追求映画を作ろうとしているらしいレオナルド・ディカプリオが搭乗していた飛行機が「11月21日」、エンジン故障で「ジョン・F・ケネディ国際空港」に引き返す騒ぎに巻き込まれたというのは悪い冗談としか思えない。軽い警告を受けたんじゃないのかね彼は。
ケネディ氏また1位…米歴代大統領の人気調査 国際 YOMIURI ONLINE(読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20101207-OYT1T00790.htm
時事ドットコム:「奴隷解放宣言」に3億円=大統領署名文書で史上最高額-米
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201012/2010121100156
CNN.co.jp:ケネディ大統領暗殺の秘話 元警護官が回想
http://www.cnn.co.jp/usa/30000986.html
時事ドットコム:米のエンジン故障機にディカプリオさん=難逃れる
http://www.jiji.com/jc/a?g=afp_cul&k=20101123026040a
レオナルド・ディカプリオ、新作映画でケネディ大統領暗殺の謎に迫る – シネマトゥデイ
http://www.cinematoday.jp/page/N0028508
モンローとケネディ兄弟の写真、競売へ (1-2ページ) – SankeiBiz(サンケイビズ)
http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/101119/cpd1011191116006-n1.htm
asahi.com(朝日新聞社):ケネディ大統領のスピーチライター、ソレンセン氏死去 – 国際
http://www.asahi.com/international/update/1101/TKY201011010061.html
【島人の目】ケネディ時代の終焉 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-170389-storytopic-1.html
JFK暗殺犯とされるオズワルドのひつぎ競売へ 世界のこぼれ話 Reuters
http://jp.reuters.com/article/oddlyEnoughNews/idJPJAPAN-18425420101201
J.F.ケネディ 大統領当選から約50年ついにデジタル化されるケネディの写真(ギャラリーあり) ギズモード・ジャパン
http://www.gizmodo.jp/2010/12/jf50.html
Who killed JFK Nixon, Johnson, CIA were suspects – The Times of India
http://timesofindia.indiatimes.com/world/uk/Who-killed-JFK-Nixon-Johnson-CIA-were-suspects/articleshow/7096573.cms
Obama Caves, Just Like JFK – Brian Domitrovic – Past & Present – Forbes
http://blogs.forbes.com/briandomitrovic/2010/12/14/obama-caves-just-like-jfk/
Presidential hopeful Rick Santorum rejects JFK’s separation of church and state Catholic News Agency (CNA)
http://www.catholicnewsagency.com/news/presidential-hopeful-rick-santorum-rejects-jfks-separation-of-church-and-state/
Notes from mother of JFK assassin Lee Harvey Oswald found NOLA.com
http://www.nola.com/news/index.ssf/2010/12/notes_from_mother_of_jfk_assas.html
Book Review: The Kennedy Detail: JFK’s Secret Service Agents Break Their Silence by Gerald Blaine with Lisa McCubbin
http://blogcritics.org/books/article/book-review-the-kennedy-detail-jfks/#ixzz186eGz4
PleasantonWeekly.com Library, Towne Center Books to host Secret Service agent’s report on Kennedy assassination
http://www.pleasantonweekly.com/news/show_story.php?id=5625
Prelude To Wikileaks JFK on The Dangers Of Government Secrecy Motherboard
http://motherboard.tv/2010/12/14/prelude-to-wikileaks-jfk-on-the-dangers-of-government-secrecy
セオドア・C・ソレンセンが死去したほか、ケネディ暗殺事件当日のシークレットサービス元警護官(本当か?)が回想を出しているくらいで、新発見などの情報は見当たらない。アメリカ人はなんでも競売にかけるんだなぁという感想しかない。英語は読めないし。
● 新たな証拠というのは一体どの段階の話か
仕方がないので少し前の情報を持ち出すが2007年の記事。
故ケネディ元大統領暗殺事件、単独犯説をくつがえす新たな証拠を発見 – 米国 国際ニュース AFPBB News
http://www.afpbb.com/article/disaster-accidents-crime/crime/2226527/1606384
翻訳前の英語文章記事があるのかは分からないが私は読めないし、発表者達の意図も分からないが、日本語文章の記事は投稿時点でまだ読める模様なので確認可能。
元FBI捜査官達が弾丸破片の調査及び弾道分析をした結果、狙撃実行犯が2人いた可能性があり、弾丸が3発以上発射された可能性があるという。3発目の弾丸が他の弾丸と異なるからだという。
ただし「オズワルド単独犯行説」に疑問を投げかけてはいるが、記事ではオズワルドの他に共犯である第2の暗殺者がいた、というような書き方をしている。
あくまでもオズワルド本人が、実際にケネディを銃撃した人物の1人である、ということについては変わりはないらしい。3個の弾丸のうち2個がオズワルドの銃が発射したもので、3個目が第2の暗殺者の銃が放ったものである可能性があると。それ以上の背後に迫るものではないようだ。
サイエンスの技術と方法を用いた分析であるから、そこから先の推測や憶測には踏み込まない、ということであろうからどうしても限界がある。撃った本人が本当にそこに居たかどうか別人かどうかは、弾丸や弾道だけを調べても判明はしない。後から弾だけベッドや車中にポイッと転がされたりしてね。
前提を再検討せずそのままにして普通に考えれば、この分析記事から導かれる単純な結論は「オズワルドも含めた複数犯行説」ということになってしまう。はっきり書いてなくてもこの記事を読んだらそう感じるだろう。
ケネディ大統領とジョン・コナリー知事を貫いた「魔法の弾丸」の弾道のことはどうなったのだろうか。暗殺事件から何十年も経っているとはいえ、研究者達が事件に対して公正中立な立場を保てるかという疑問もある。
それにしても、オリヴァー・ストーン監督の『JFK』JFK(1991)(私が持っているDVDはディレクターズカットの特別編集版で吹替え無し、9シーン約17分を追加、ストーンが再編集したもの。206分)が公開されてから何年が経過しているのやら、2010年の現在に至ってこの分析結果をもってして真相解明が少しでも進展している、と判断していいのかどうか。
私のDVDディスクでは両面読み取りになっていて前後半に分かれている。だからというわけではないが、この掲示板の1回の投稿分量が限られているので投稿も複数回に分ける。ストーリーの内容ごとというわけでもないのでご了承を。また、ウィキペディアなどの参考・参照サイトURLなどは後でまとめて貼り付ける。記述ミスや事実誤認は全て私に文責が有る。
映画評論といっても既に先生が最高のものを世に出しており、私が先生を真似ても劣化コピーしてしまうだけでしょうがないし、研究家ではないので真実についても断定出来る能力は私にはない。独自研究家でもないド素人としては、映画の中身の詳しい論評や真実判断よりも、現代日本人としての視点と感想に重点を置いて率直に述べたい。
さて、ここから先は映画『JFK』について(学問道場内に映画用掲示板もありますが、私は分散投稿を避け、ここだけで書き込みをしています)。もしお読みになって頂けるかたがいらっしゃいましたら、ということでどうぞ。
以下、映画未鑑賞のかたはネタバレ注意、未見のかたには是非とも推奨します。
● 政治映画であり歴史映画。現実の政治的事件が風化すると歴史になる
私はオリヴァー・ストーンが作る映画の熱心なファンではない。
これまでにストーンの監督作品では『サルバドル/遥かなる日々』Salvador(1986)、『ウォール街』Wall Street(1987)、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』Natural Born Killers(1994)、『ニクソン』Nixon(1995)、『アレキサンダー』Alexander(2004)、『ワールド・トレード・センター』World Trade Center(2006)を観た。ストーン製作では『ラリー・フリント』The People vs. Larry Flynt(1996)を、ストーン脚本作品では『ミッドナイト・エクスプレス』Midnight Express(1978)、『スカーフェイス』Scarface(1983)、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』Year of the Dragon (1985)、『エビータ』Evita(1996)などの作品群を観た。それでも大ファンというわけではない。
それでも『JFK』はすごい映画であると思う。真実追求のハリウッド法廷闘争映画ものではあるが、同時に高度な政治映画なのである。それも思いっきり危険な部分を主題として正面から取り上げている。国家権力、現実の政治というものを考えるのに格好の映画である。
何年か前に、先生の『ハリウッド映画で読む世界覇権国アメリカ(上)』(副島隆彦著、講談社+α文庫、2004年4月20日第1刷発行)(あまりに読み過ぎて、(上)(下)共に帯がボロボロ)を読んだ後に、この映画『JFK』を最初にDVDで見たときは正直何が何やら、さっぱり理解不能状態であった。ダラスとダレスが一緒になってしまう程度の理解だったから仕方ない。
私のような事件当時に未だ生まれていない、テレビや新聞を通してすら時代の目撃者ではない世代の、しかも外国人にとっては、興味を持てても実感は持てない部分が多い。9・11事件後に生まれた世界中の子供達が、9・11の崩れ去るような衝撃を体感したことがないことと似たようなものである。
9・11事件にしたって私は現場にいたわけでもなし、当事者でもなくてテレビを見ていただけじゃないかと言われればその通りである。それでも世界中に広がった激震の影響を受けた、その「時代の空気」を吸って生きた人間であることには違いない。
事件が風化して人々の記憶が希薄化してから、やっと何かが見えてくるということもあるだろう。時間経過によって直接に利害関係がある人間が少なくなってくるということもある。この点だと9・11事件は10年も経過していないので、まだまだ「歴史」と割り切れるほどではなく生々しい「出来事」の段階だろう。昨日の出来事のような気もするし、あまりに事件が矢継ぎ早に訪れるせいもあってか、遠い昔のような気もする。
いくらインターネットという、情報伝達手段の飛躍的発達と普及によって真実の暴露による露見、発覚が劇的に速まってきているとはいえ、政府が公式に事実であると認定するには、9・11事件は当時の生存者の不都合が多過ぎて障害である。ケネディ暗殺事件にしてからがそうなのだから。真実が不都合なのである。渦中にある人間は対処に必死、夢中であって、歴史を振り返るように現在を見る余裕は少ない。現在進行形の、特に当事者達が物事を客観視するというのはなかなか難しいものがある。
ジム・ギャリソン地方検事が事件後3年も経過してから、ルイジアナ州選出の民主党上院議員のラッセル・ロング(父親がヒューイ・ロング)との会話で疑惑について関心を持ち、ウォーレン委員会のいい加減な報告書を読んで自分が調べなければという使命感にかられた時の、それまでの漫然と過ぎ去った時間と自分に対する悔しさの気持ちは察して余りある。ウォーレン委員会が真剣に調査しておらず、重要な問題を避けて通る報告書の記述の杜撰さに憤るに至るまで、時間が空いてしまったわけだ。その間に徐々に人々の関心が薄れるが、当事者も落ち着きを取り戻してくる。
先生が最近、歴史から学ぶことこそが本当に大切なことだと盛んに唱道していらっしゃる。歴史学は文献をあれこれ解釈することが基本だから、社会学問の範疇には入らず、あくまで言葉、文字を扱う人文学の一分野であるという先生の見解に私も従っている。それでも、歴史を学ぶことは大事なのだという。
文字は人や物に名称をつけるためや、読み書きが出来て日常生活に困らないように、意思疎通の利便性のためだけにあるのではなく、歴史や出来事を子孫や後世の人間に継承していくためにもある。意思疎通手段以外で人文学が何かの役に立つことがあるとしたら、他の学問理解のため、そして歴史を学ぶということでもあると思う。その他の人文学は学問の前に勉強すべき初等段階にあるに過ぎないが、歴史学だけは社会学問と並び立つほど、人類にとって重要なのである。
映画原案の1つである、On the Trail of the Assassins: My Investigation and Prosecution of the Murder of President Kennedy『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』(ジム・ギャリソン著、ハヤカワ文庫NF、岩瀬孝雄訳、一九九二年二月十五日 発行、一九九二年四月十六日十六 十八刷)を読み終わり、さらに『JFK』を何度か観直してみたが、やはりジム・ギャリソン役(ケヴィン・コスナー)の名演技が光っているので、現実に起きた暗殺事件という重たい題材を真剣に扱っているにも関わらず、それほど苦にならずに見られる。アクションシーンが盛り沢山でないと眠るという人にとっては1回通して視聴するのも辛いだろう。
『JFK』は政治映画であるが、歴史映画であると言ってもいい。脚本はストーンの他にザカリー・スクラー、原案にはギャリソンの他にも研究家のジム・マース著、Crossfire: The Plot That Killed Kennedy『クロスファイア』(未邦訳?)というように、追及派を揃えている。ギャリソン本人は何とアール・ウォーレン最高裁長官役で出演している。
ただし演出のための虚構も入っているし、全員が実名というわけでもないようだ。商業映画なのだからこれは仕方ない部分だろう。実際のザプルーダーフィルム(由来はケネディ暗殺の瞬間の前後を偶然撮影したエイブラハム・ザプルーダーの苗字から)の映像を使用しているが、作られた映像も交互に流されることに対する批判もかなりあったらしい。映像産業には限界があるのは承知の上で見なければならないのは当然である。
● アメリカと日本の共通点その1。恥知らずな歴史捏造の歴史
欺瞞の代名詞である、通称ウォーレン委員会(ジョンソン政権下で設置されたケネディ大統領暗殺に関する大統領特命調査委員会)の報告書は、ウィキペディアを見ると情報公開法により1992年に98パーセントは公開されたとのことで、公開に至るまでは映画『JFK』公開による世論とその影響もあったらしい。映画が現実政治に影響するなど日本の邦画なんかでは考えられない事態である。『JFK』自体が真実隠蔽のための謀略映画なのだという意見があったりする。私にはアメリカの映像産業が持つ影響力が羨ましい。
さて、これまでに公開された調査報告書のほとんどは事件の真相に迫るような代物ではないということだろう。人々に知られても支障のない、もしくは支障が少ないものだったわけだ。私には原文読解能力がないので詳細は分からない。
ウォーレン委員会報告書の残りの2パーセントは、相も変わらず事件の当事者が全員死んだ西暦2039年の機密指定解除で公開文書(declassified、デクライファシドと発声するのかな)になるまで待たなければならない。
関係のある無実の人間を攻撃から守るために75年も待つのだというが、暗殺の指示者や実行者や黙認者達が生存しているうちに世間から批判・攻撃されることから免れるための間違いであろう。アメリカの刑法や刑事訴訟法を知らないが、たとえ時効だといったところでアメリカ人は羊の群れのよう日本人とは性格が違うし、今でもケネディを尊崇している人達がどういう反応と行動を示すか分かったものではないから、真実が公開されると危険なわけだ。
ところでネット検索をすると2039年ではなく、2029年だったり2038年9月と出てきたりして公開時期が一定しない。どうもカーター政権下で再調査のために下院に設置した、暗殺問題調査特別委員会の調査結果については、核心部分の機密解除が2029年らしい。待てるか!
証拠ごとに徐々に公開していくらしい、という文章をみかける。小出しになどせずに一気に全部公開してほしいものだ。そして、全面公開されたとしても、真実が報告書の残り部分に書いてあるとは限らない。
ウォーレン委員会の調査報告書が物事を誤魔化すための常套手段であり、嘘と真実と無用な情報を膨大な洪水のごとくゴチャマゼに集めた文書だとして、その秘密にされている最終的な部分で以前の文脈とか整合性とかを一切無視して翻り、唐突に真実を結論で書いていることが果たしてあるのかという疑問が残る。そこだけに未公開の真実を凝縮してあるのではないかという期待もあるが。
陰謀(共同謀議)のことが仄めかすに留まらずに書いてあるとしても、せいぜい複数犯行説の証拠と証言のことが書いてあるだけではないのか。
オズワルドは単なる身代わりに過ぎず、ケネディは3方から射撃されたのであり、現場の指揮者やマフィアやキューバ人や警察内部の協力者は誰か、この辺りまでか。これより上の方の、真の意思にまで言及がのぼっていったら凄いのだが。なにしろ、委員会が本気で調査して書こうと思ったら書けたはずだ。身内も同然なのだから知り得ただろう。
当時のリンドン・ジョンソン副大統領も政府高官も治安維持機関も捜査機構も情報組織も諜報工作組織もダラス警察も軍産複合体もモサドもイスラエル首相ダヴィド・ベン=グリオンも反カストロ派亡命キューバ人も海運王もマフィアも暗殺に全面協力していた、上層部の暗殺実行指示者は誰々で、どこどこ財閥当主の意思によって発動が許可され、最高指揮責任者は誰で、射撃実行者は誰々だ。こういうことが残りにすっかり書いてあるとは、なかなか思えないのだ。しかもケネディの脳などを含め保管資料が消失、行方不明になったりしているらしい。
アメリカの公的資料保存やら情報公開の精神といっても、この程度のシロモノじゃないか。威張れるほどのもんじゃないよ。恥の上塗り捏造文化にしたってNASA(連邦航空局)だけの専売特許じゃなかろう。日本だけが黒塗りだの不透明な閉鎖的社会だのと批判されるいわれはない。
日本国民に嘘をつき続けた歴代自民党政権の、アメリカによる日米核密約などの順次機密解除攻撃にしたって、あれはもうそろそろ限定的に公開してもいいと判断されているわけだ。どうせ日本国民から追求されるのは日本の政治家と官僚などの選択肢の乏しい、当時の哀れな属国側交渉担当責任者「だけ」である。
故・若泉敬著、『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス 新装版――核密約の真実』(若泉敬著、二〇〇九年十月三十日、文藝春秋社刊)参照。ここではヴェトナム戦争継続下における沖縄返還と基地提供、繊維貿易摩擦などが日米交渉の主題となったが、国会で当時のリチャード・ニクソン大統領やヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官が糾弾されることなどない。
故・佐藤栄作元内閣総理大臣は死後でもノーベル平和賞の取り消し運動が起こる。私見だが私は若泉、佐藤首相、両氏の仕事(課せられた交渉義務)に一定の評価をしている。時代の制約を受けている属国指導者と孤独に全責任を負って死んでいったその密使に向かって「わざわざ沖縄が戦略的に一番値上がりしていた時期に買ってしまいましたね」などとは言えない。属国に他策無し。
ストーン監督の映画『ニクソン』では中国とロシアの外交が描かれており日本は相手にされていない。沖縄返還も対中戦略外交の一環であったことは先生が既に指摘している。
さて日本では、アメリカに配慮・遠慮して歴史を捻じ曲げ、普段の現実政治をも虚偽と幻想で塗り固める作業に余念がない。同様のことが日航機墜落事故(米軍の原因追求無し、責任不問)や薬害エイズ事件(米企業の原因追求無し、責任不問)などの歴史的事件・事故でもみられた。属国指導者層は仕方なく必死に歴史捏造を繰り返す。それだというのにあろうことか、アメリカの方から日本の努力を無にするように、限定的に情報公開やら暴露やら委員会での妙な発覚が起こったりするわけだ。
ところが、ケネディ殺しは帝国内において引き起こされた共同謀議であるものだから、責任も自分達にある。そうなると嘘と欺瞞で塗り固めて誤魔化しの隠蔽工作をしまくる。そうして無残極まりない公式の報告書が出来上がり、国民が納得しないとなれば75年くらい先延ばし真実を公開しますよと開き直る。これで他所の国の政治的成熟度がどうだなどと言えた義理か。自他二重基準の世界帝国である。このように歴史捏造・事実隠蔽はアメリカでも日本でもなされる作業だが、覇権国・帝国と周辺国・属国とではその必然性、動機が異なるのである。
世界帝国では自他二重基準の発動は政治や外交だけではなく、経済においても同様になされる。近年もっとも分かり易い典型的な適用事例は、他国に押し付けておきながら自国に都合が悪くなった途端の時価会計の放棄だろう。もはやなりふり構っていられない緊急事態だから、属国なんかに気を使っている場合などではない。
しかしながら、日本もこれから政治家の暗殺や不審死についての調査を行う国会への委員会の設置や、完全な強制力を持つ年限情報公開法の制定をするべきだと考える。法制度としてはアメリカから見習うべき点は依然として数多いことも指摘しておく。
● アメリカと日本の共通点その2。官僚役人の謀略癖はどこの国も一緒
ちょっと映画『ニクソン』の話に行き過ぎたので『JFK』に戻る。1960年代アメリカを描いている映画ではあるが、過去から現在の日本と共通する部分をさらに挙げるとすれば、1つは治安維持や捜査機関、諜報工作機関の官僚や役人達の謀略癖(ぼうりゃくぐせ、ぼうりゃくへき、どちらの読み方でもいい)である。
ギャリソン本人も危うく空港のトイレで警察を動員した「ゲイ疑惑謀略作戦」に引っ掛かりかけたが、素早く察知して何とか危機を脱した。映画ではどうしても描くべき内容が多過ぎて省かなければいけなかったろうが、他にもギャリソンは沢山の謀略攻撃を仕掛けられている。
突如連邦捜査に逮捕され、ピンボール賭博との関わりの証拠テープを捏造されたり、架空の脱税で起訴されたりして、他の検事連中からも足を引っ張られていたことが『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』に書いてある。諸々の捏造裁判では最終的に無罪になったようだが、ギャリソンの名誉失墜による捜査妨害という目的は一定の成果をあげてしまったようだ。地方検事選挙での4選目は阻止され落選することになる。
地方検事局内でも、単なる人間関係の内部対立やギャリソンの方針についていけずに辞職した脱落者以外にも、外部の圧力に屈した内通者、ギャリソンを罠に陥れるために動いた者、捜査協力者の中に紛れ込んだスパイ等に資料を持ち出されたり、盗聴もされたりしてさんざん悩まされたようだ。映画では検事局内の部下1人の裏切りに集約されて表現されていたが、実際はそんなものではなかったようだ。
ギャリソンが法廷に呼んだ証人の中にも、計画的に頭がおかしい人間(演技?)を紛れ込まされたりしている。まともだったはずなのに出廷すると急におかしくなって、「自分の子供が入れ替わっていないかどうか確かめるために、事前に指紋をとっている」などと証言してギャリソン陣営の信用を傷つけさせた。ところがなんと、この人の行為の証言を、私はさほどおかしい話だとも感じなかったのだ。一家の自衛策の一環として指紋をとっておいて何故いけないのか、という感想である。
こういう薄汚い謀略を警察や秘密工作員達の実行部隊がするのは、対外工作が多いアメリカやイスラエルは飛び抜けているとしても世界各国共通であり、現代日本でも最近の代表的事例でいえば経済学者の植草一秀氏が主に警察の汚れた実行部隊によって謀られたことで分かるが、その傾向は顕著である。このことについては少しずつ日本人も気付いてきているが、まだまだ盲従派が多数派である。
アメリカが規模の面でも犯罪の量でも、日本の100倍恐ろしいだろうことは想像に難くない。日本のヤクザ、暴力団なんかがアメリカのマフィアと比較にならないのと同じである。華僑はじめ中華マフィアと違って、日本ヤクザがアメリカに進出したという話を私は聞いたことがない。当然そんなことをすれば向こうのマフィアによって、瞬時にして皆殺しにされ無様に逃げ帰るのは目に見えているから、そんなことは考えもしない。島国内部で全国制覇など、こじんまりしてるのが賢明である。バブル期に散々騙されて向こうの株や資産を買い漁ってしまい、ほうほうのていで逃げ帰った日本企業群より、生身の危険と身の程を分かっているだけ賢い。だから日本ばかりがヤクザ汚染国家というわけではない。先生が仰せのように、比較すれば国家規模に合わせた程度問題になるのである。犯罪産業と同様、国家謀略の規模も当然、国家規模に見合ったものになるであろう。
国務省管轄下のCIA(中央情報局)は国外での諜報活動が任務で、国内で工作活動しないなどという建前というか、国内を捜査する司法省管轄下であるFBI(連邦捜査局)との棲み分けが出来ているなどと、まともに信じるわけにはいかない。その他、DIA(国防情報局)やNSA(国家安全保障局)など軍の情報機関のトップや幹部達も大統領本人に直接の忠誠を誓っているはずなのだが、実際は建前通りではなさそうだ。
大統領個人に普段から傍で仕え、警護する立場の代表といえばシークレットサーヴィスである。『ザ・センチネル/陰謀の星条旗』The Sentinel(2006)という映画があって、私は見ていないが、シークレットサーヴィスからはもう百何十年も、いまだに裏切り者が出ていないのだという。本当かよと言いたい。
『ザ・シークレット・サービス』In the Line of Fire(1993)という映画もあって、こっちは主演がクリント・イーストウッドだが地上波で見たことがある気がする。シークレットサーヴィスは誰に忠実なのか、誰に忠誠を誓っているのだろうか。本当は大統領の動向を見張っている役目ではないのか、危険な兆候を示すかどうかなど。
● アメリカと日本の共通点その3。報道人間による権力追従ぶりは洋の東西を問わない
さらにもう一点、映画『JFK』から見えてくるアメリカと日本の共通事項を挙げるとすれば、新聞やテレビなど、報道機関に携わる人間達の悪質さだ。これは本当に洋の東西を問わないのだろう。
ギャリソン著『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』にもマスコミの性格を鋭く指摘した文章があったので、一部を引用する。
(引用始め)
ニューオーリンズへ戻る飛行機のなかで、私はカーソンや私に質問をしたNBCの弁護士たちの思考様式のことを考えてみた。私の見解に対して彼らがいらだったのは、それが彼らの見解と異なっていたからというよりは、私がケネディ暗殺事件に陰謀がからんでいると明確に主張したためだ。話が陰謀におよぶと、弁護士たちの顔にあきらかに軽蔑の色が浮かんだことを思い出した。私は、自分が一九三〇年代なかばのドイツ国民で、アドルフ・ヒトラーの正気を公然と疑ったために精神病院へ送られることになり、それに先立って尋問を受けてでもいるような錯覚を覚えた。私が陰謀のあったことを主張し、議論が自熱したときに、カーソンが冷静さを失ったことを思い出した。
ニューヨークのマスコミの中核にいる人々が陰謀説に対してこれほどのアレルギー反応を示すのはなぜなのだろう、と自問した。陰謀説がなぜそれほどまでに信じがたい、とほうもない考えなのか。
このとき、おそらくはじめて、私は人々が硬直化してしまい、頭が働かなくなってしまう理由に思い当たった。組織的な陰謀の存在を認めたら、それがある目的のためであったことを認めることになる。つまり、政府の政策を変更させるという目的が存在したことを認めなければならなくなる。アメリカが世界でもっともすばらしい国であることを長いあいだ世界に宣伝してきたマスコミにしてみれば、政府の政策を変更させるために、国の指導者がそのような残虐な方法で排除されることもあり得ることを、認めたくはないだろう。それはアメリカの民主主義が虚構だったと立証するようなものだ。そんなことはあってはならない。したがって、彼らにとって、ケネディ暗殺事件は狂った独り狼がひきおこした偶発的な事件でなければならないのだ。
(引用終わり)『JFK―ケネディ暗殺犯を追え』(ジム・ギャリソン著、ハヤカワ文庫NF、岩瀬孝雄訳、一九九二年二月十五日 発行、一九九二年四月十六日十六 十八刷)(321~323頁から引用。傍点略。読み易いように段落ごとに改行。自熱というのは白熱のことと思うが原文ママ)
ギャリソンは生来の生真面目さと誠実さで、おそらくは原文でも上品に書いていると思うのだが、私がもっとハッキリ言ってしまうと、真実を暴露していないどころか隠蔽している新聞テレビの報道業界人間どもは、有害なだけで存在自体に何の価値も無いんだよお前らは、そういうつまらない手先人間でつまらない人生をつまらないまま一生終わっていく社会のゴミなんだよ、そういうふうに言われているような感じを受けてしまう、感情の奥底で敏感に察知するのだね報道業界人間達は。
自分たち報道既得権益の専売特許が脅かされるのを警戒する。報道関係者以外でよっぽど先鋭に真実の追究を行っている人間の存在、特に自分たちの見解と真っ向から反対する脅威の人間を封じ込めなければ、一斉に価値と社会的信用が失われていくことになる。
だから彼等にとってギャリソンは許せない人間となった。なんとしても社会的信用や声名を失墜させなければいけない。この悪循環により、新聞テレビはどんどんどんどん本当に重要なことを報道することから遠ざかり、謀略報道と娯楽番組ばかり熱心になっていく。
人間としての価値の無さと人格の薄っぺらさをハッキリされるのが嫌なのだあの連中は。だから本当の真実追求派に対して、変人の陰謀論者のレッテルを貼り、その他のただの陰謀撒き散らし屋と一緒くたにして、やっぱり自分たち新聞テレビが一番信用出来るでしょ、と勝手に安心するわけだ。
日本のマスコミ人間達は、日本のデモクラシーが成立しているというのは思い込みで、虚構だったと立証されることを恐れて避けるというような、いくらかでも殊勝な動機は持ち合わせてはいないんじゃないか。まぁ日本の律令官僚達の正体や支配の実態を隠すという目的はあるかも。なんにせよ単に権力者に仕える隷従管理者層であるだけだ。これがマスゴミ隷従管理者層が陰謀のレッテル貼りで安心感を得られる理由だ。報道人間というのは何故かどんどん浅薄になっていく。それが業界人間になっていくということだろう。
逆に言うと薄っぺらくならなければ、業界では平穏無事にやっていけないのだ。立派な人格のままでは、精神が擦り切れていく。そのうえクビや生計もかかっている。昇進するためには上層部とスポンサーの意向も無視出来ないし、真の権力者層の意向はもっと無視出来ない。多くが安全と生活のために権力者の手先になっていく。積極的手先と消極的手先がいるように、自覚的手先と無自覚な手先がいる。日米ともに半自覚的なのが一番多いというところだろう。
報道人間は自分達こそは隠された真実や事件の真相を追及しているつもりで、その有資格者だと主観的には思い込んではいるが、実際には権力者と自分達に都合の良い内容や無害な内容であれば報道するものの、都合の悪い真実であれば封殺、黙殺して、さらには誤魔化し情報をまぶし、平気で命令による報道路線変更もやる。変節を何の反省も謝罪も政府広報機関宣言もなくやってのける。
告発者や真実暴露派は応援されるどころか、かえって報道人間達による攻撃に晒され、報道機関内部でも圧力に屈せずに報道しようと試みる勇気のある者は跳ねっ返り、造反者として排除される。
普段からなるべく真実を伝えたいと感じている者も、大問題になると圧力が激化していき屈従しなければ職も命も危ない。この構図はアメリカも日本も他の国も大して変わるまい。ジャーナリズムから一番近いところの最大の裏切り者は、プロパガンダと虚偽情報を恥も外聞も無く垂れ流す新聞テレビ業界人間達である。
映画『JFK』でも秘密捜査をリークされてしまって新聞記者が事務所に詰め掛ける様子や、ニューズ放送でキャスターからギャリソンが攻撃されるところを描いている。ギャリソン本人がテレビのトーク番組に出演しても思うような発言はさせてもらえず、写真を映そうという行動を遮られる。
見るからに軽薄そうな司会者がギャリソンに、
司会者「大統領暗殺は亡命キューバ人、マフィア、CIA、FBI、ペンタゴン、そしてホワイトハウスも加わった陰謀だということですね。そこであなたに質問したいのですが、リー・ハーヴィー・オズワルド以外で陰謀に参加しなかったのは誰ですか?」
と言って茶化して観客の笑いをとるシーンがあったが、あれこそテレビ業界人間の本質をよく表していると思う。本当に真剣な人間を常に嘲笑おうとするその姿勢。自分達の人生と同じ程度のレヴェルにまで他の人間を引き摺り下ろしたい、評価を下げて自分達報道権力を誇示し、満足したい。これがまさにテレビ報道の本質だ。反権力を気取りながら真相隠しに率先して加担したのである。
映画『JFK』自体への新聞テレビの批判やら非難やら誹謗中傷の嵐も凄かったらしいが、ストーンにとってはいい宣伝にもなったんだろう。最近ではダン・ブラウン原作、ロン・ハワード監督作品の『ダ・ヴィンチ・コード』The Da Vinci Code(2006)でも見られた傾向だが、問題作は話題になり売れるから、大ヒットに繋がる可能性が高い。それにしてもヴァチカンとカトリック陣営はケネディを守るつもりはなかったのかな。
何度でも繰り返すが、商業・営利の側面を無視したり否定したりしていては話が進まないのである。大前提として商売映画、金儲け映画であっていいのである。内容はそこから先の話だ。もちろん、たとえ興行的に失敗したとしても、内容が素晴らしければ名作・傑作として評価され歴史に名が残るという作品があるのは間違いない。それは商業映画、金儲け映画を肯定することとは別の次元の話なのである。
マスコミの話に戻るが、それにしたって日本のマスコミのひどさ加減は、アメリカの100倍ということはないだろう。ひょっとして同程度なのではないか? それを確かめたいのだが、自分の英語無理解がなんとも悔しい。字幕がないと何を言っているのか分からない。
関係ないけど、日本のマスコミはマスゴミと呼ばれて久しい。偶然「コミ」と「ごみ」が似ていたことを忌々しく思っている業界人は多いだろう。「エコ」と「エゴ」が似ていることを苦々しく思っている環境保護派たちも同じようなものだ。
報道業界人間は普段からあれほど軽薄かつ浅薄ぶりを映像全面に露出している。本当に真実を追究するという仕事をするには、1人の人生をまるごと呑みこむほどの物凄い状況になることを覚悟しなければならない。それほど四方八方から抵抗と攻撃に遭うことになる。薄っぺらい業界人間達にそんな仕事が果たして出来るかどうか、考えてみればいい。
先生のおっしゃる通り、テレビ人間達はカメラの前に座るか立つかしているうちに、才能だけを吸い出されるように消耗、消費しているのであろう。そっちに力を使わなければならないので、志のあった人間も次第に真実は二の次、三の次になり、おろそかになってくる。人生自体が浅薄な人間達が、どうやって真の恐ろしい権力者層の命令や圧力に逆って、真実の報道が出来るなどと信じられるであろうか。本物の真実追求派は常に危険に晒されているのだ。
次の投稿に続く。
【93】硬貨論
菊地研一郎(会員番号2555)です。
金(地金)を買え、と数年前から道場で叫ばれている。
貧乏な筆者は「GINZA TANAKA」で1/10オンス金貨1枚を購入した。
人生で最も虚しかった経験のひとつに数えられる。
与太話はさておき、愛読しているブログ〈戦闘教師「ケン」 激闘永田町編〉で
大変興味深い記事が目に入った。
現代ロシアにおける硬貨の改鋳の話題である。
なんでも、2009年に出た新10ルーブル硬貨は
鋼鉄の真鍮メッキらしい。
(引用開始)
ブログ:戦闘教師「ケン」 激闘永田町編
2010年12月02日
ロシアは財政難で悪鋳?
安木新一郎氏の論文「2009年ロシアにおける鉄貨の発行をめぐって」を興味深く読む(ロシア・ユーラシア経済 2010/6)。
……
ロシア銀行は2009年5月に、同国の硬貨を銅貨から鉄貨に切り替えると発表。
1、2、5ルーブル額面のものが対象で、同年後半から流通している。
09年10月からは、10ルーブル札廃止に伴って、記念硬貨ではない正規の10ルーブル硬貨が流通するようになり、…
1と5カペイカ貨幣は、数年前から廃止が取りざたされていたが、正式に廃止されてこそいないものの、実際の流通は減少の一途を辿っているようだ。
……
銅貨から鉄貨への移行は、メキシコで先行されており、そこではやはりコストを理由に挙げている。
資源価格の上昇に伴い、銅の原価もまた高騰し、1トンあたり約5千ドルになっているが、それに対して鋼鉄は400ドルだという。
ロシア・ルーブルの場合、……1ルーブル硬貨を1枚つくるのに、原材料だけで約4ルーブルもかかっていることになる。
ちなみに、2010年11月現在で1ルーブルは2.6~2.8円、100円玉の原材料費は約15円である。
硬貨の原材料費が額面よりも著しく高い場合、その硬貨を鋳つぶして地金に戻す人が出てくる。
……
また逆に原材料費が額面よりも著しく安い場合は、偽造硬貨が出回ることになる。
……
話を戻すと、鉄貨の場合、軟らかい銅貨と違って成型や極印のコストが高くなるのと、腐食や摩耗を防ぐためのコーティングにも新たな技術が必要となるため、製造コスト削減に直結するとは言い難いと著者は言う。
やはりロシア人だから、私銷(私的な熔解、鋳つぶし)対策なのであろうか。
なお、昨年出た新しい10ルーブル硬貨は、何と真鍮メッキの鋼鉄だという。
……
いくらなんでもロシア人、ケチ過ぎだろう。
真鍮は「黄銅」とも言われ、日本では5円玉に使われている。
……
銅合金よりも摩耗しやすい上に、錆びやすく、その上重たい鉄貨に対するロシア国民の信頼がどうなるか、非常に興味深いところである。
それにしても、21世紀の今日に、いくら資源相場が低迷しているとはいえ、国家財政が危機に瀕しているわけでもないロシアにおいて、貨幣の悪鋳がなされるのはナゾとしか言いようがない。
私がシベリアで教鞭をとっていた頃でも、すでにコペイカに対する信用は失われており、……
1コペイカや5コペイカに限らず、お釣りの50コペイカですら、客の方から「いらないから」と言うのは日常茶飯事であり、子どもですら道ばたに投げ捨てたりするほどである。
コンビニでお釣りをもらって、寄付箱に入れることはあっても、「いらない」とか捨てるなどということは、日本人的には理解しがたいのではないか。
これもまた、貨幣に対する国民の信頼度の表れなのだ。
幕末に貨幣の悪鋳を繰り返した結果、幕府への信頼が失われていったことは、以前述べた。プーチン氏が、「ルーブルを国際通貨に」と演説したのは、確か2008年始めだったが、わずか2年で硬貨の改悪をなすことになろうとは、ロシア人でも(分かる人は)ちょっと驚くだろう。
やはり、資源への依存性が高い経済では、通貨価値も資源相場に左右されてしまい、安定感に欠くということであろう。
(引用終了)
菊地です。
聞くところによると、中国の紙幣・貨幣事情も
かなりヤヤコシイらしいそうである。
【92】2010年12月3日雑感
会員番号4655の佐藤裕一です。
本日は2010年12月3日です。12月とは思えない天気だった。それでは、雑然といきます。
下記の投稿番号[94]が抜けていると思ったら、現[95]を削除番号で一旦削除修正した上で再投稿したことを思い出した。削除された番号はそのまま欠番で抜けるらしい。確かにそういう仕組みじゃないと、後からだいぶ前の記事を削除したときにおかしくなる。
昨年書き込み始めて以来、初めて削除してみた。私はなるべく一度掲載したものは削除修正はせずに追加修正でやっていく方針である。
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中田さんの会員用ぼやき「1177」「なぜ天皇は北極星であり、律令制度が分かれば日本が分かるのか。政権交代による政治改革がうまくいかない理由を解明する。官僚たちによる小沢バッシングの本質とは何か。これを日本の政治体制論から解明する。中田安彦記 2010年12月3日」は素晴らしい。
会員用ぼやきの方だからここに詳しく感想を書くことはしないが、「法律」の「律」についてはご指摘された通りだと感じた。「律令」からきている。「法令」や「政令」「省令」「勅令」などの「令」も、「命令」以外に「律令」の含意があるんだろう。「律令法」という言葉もあるくらいだから。「法学」と「法律学」で、実際のところ何の違いがあろうか。「律令制」の害悪な名残だ。
「刑法」「民法」「刑事訴訟法」「民事訴訟法」「商法」を、いちいち「刑法律」「民法律」「刑事訴訟法律」「民事訴訟法律」「商法律」とか「刑法令」「民法令」「刑事訴訟法令」「民事訴訟法令」「商法令」などと言う必要性はない。
「憲法」とその他の「下位法」を一緒くたにする駄目な言葉「六法」と同様に、今後だんだんと「法律」「法令」という熟語を使わないようにして、死語(古語)にしていったほうがいい。単に「法」で十分だ。「律」がつかないとおさまりが悪いということもなかろう。英語でも「ロー」だか「ラー」なんだから日本語も「ホー」でいい。同じく「行政」も「行法」にすべき。
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特捜:一部可視化へ 最高検が最終調整 – 毎日jp(毎日新聞)
http://mainichi.jp/select/today/news/20101203k0000m040101000c.html
馬鹿どもが、またぞろ現場で匙加減一つの、運用上の一部可視化で再発防止検討だと。日米地位協定と一緒だ。自分たちが加害者のくせに厚かましいだけでなく、ぐだぐだといつまでも未練がましい連中だ。「検察関係者」には反対論が根強いんだと。お前らの脳味噌には、反省という二文字はないのか。
だいたい、はじめから反対論もくそもない。お前ら検察はただの公務員だから求められもしない意見を述べる資格は無いの。公務員で賛成・反対と意見を言っていいのは政治家だけ。それが政治家の仕事なの。立法による制定で根本から強制しなければ抜本的な制度改革にならない。この期に及んで法務官僚と検察官僚(法律官僚・律令官僚)どもの蠢動が続くのは見苦しい。
可視化(録画・録音)は検察だけでなく、刑事・警察の取り調べ過程にも全面導入すべきもだが、そもそも検察の捜査権を法改正で禁止すべき。検事の仕事は法廷に立つこと。特捜部は廃止せよ。
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アメリカで「食品安全近代化法」なる悪法が上院の賛成多数で可決されたらしい。グーグルのニューズ検索では出てこなかった。へー、政府から支給されずに食料を生産したり自給自足で生活する人達って、前近代人だったんだ。知らなかったよ。ヨーロッパの独立自営農家もみんな前近代人なのね。ソ連や北朝鮮の計画集団農業の農奴達は、近代人だったのね。
そういえば最近、「自由の国、アメリカ」とあまり表現しなくなってきた。さすがにもう馬鹿らしいんだろう。これからは「不自由の国、アメリカ合衆国」、いやそれでは足りない。「管理統制の国、米帝」と呼ぶべきだな。元祖デモクラシーの方の尊敬は残ってるけど、最近は建前すらもあやしくなってきたな。
政府公認機関から種苗を入手しなければならないと。公認ってモンサントとかいう得体の知れない企業か。自由競争の結果による独占・寡占ならともかく、食料という国民の生命線を法律でもって政府やら一私企業が握る。競争の排除による共産主義国家の再来(しかも不平等の)だ。
モンサント (企業) – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/モンサント_(企業)
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そういやビル・ゲイツって「北極種子貯蔵庫」まだやってんの? あれって北極圏の島だかに種子を保存してんだよね。現代版ノアの方舟建設計画だっけか。温暖化で北極の氷が解けても大丈夫なんだとか。
もしかするとゲイツが、格上の財閥人に対する言い訳というか、世界の支配者達のために私も仕事に取り組んでますよ、未来の新世界秩序のために協力貢献していますよっていう自己防衛の主張をしているのかも。
とにかく成り上ろうとする新興財閥を、もぐら叩きなみに叩き潰すからね彼等は。目障りな老舗も潰すけどね。それこそ容赦なく種子狩り、将来反逆の芽を摘むことに余念がないね格上の財閥の人達は。今はもうアメリカの体力自体が落ちてるから、外国叩きに専念すべき時期なんだろうけど。ウォーレン・バフェットは頑張れ。
スヴァールバル世界種子貯蔵庫 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/スヴァールバル世界種子貯蔵庫
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北極といえば、地球温暖化の影響で北極海の氷がみんな解けて航海可能な海になるから、地政学的な勢力関係の変化と戦略の展開があり、更には埋蔵されている資源も採取出来るようになるという話がある。
だけど実際は地球全体でこれから氷河期に入っていくから、温暖化というのは一時的な現象であって、地球寒冷化していったら元の木阿弥という気がするのだが違うのかな。なんだか気象の関係っていうものの分からなさが、あの映画『デイ・アフター・トゥモロー』の、温暖化したら寒冷化して氷河期がくるっていう、気持ち悪い感じにつながる。
地震予知もそうだが、気象現象の予想・予測なんて、先生も仰せだが天気予報もたいして当たらないのに、ということだ。週間予報なんてコロコロ変わる。酸素がなくなって二酸化炭素だらけになるということもないし、海水面が何百メートル上昇するということもないし、石油も枯渇する枯渇するといって枯渇しない。
どうも地震学や気象学、火山学、海洋学などは「自然学問」の各分野だといっても、自然現象が研究領域そのものだから調査・観察対象がデカすぎるようだ。広すぎて手に負えない。かといって研究範囲を狭めて限定すれば一定のモデルを作れるだろうが、それを地球全体の話に拡大すると案外と外れる。この辺の感じは経済学に近いものがある。
というのは自然現象を研究する意義は現時点での現象の因果関係、どういう原因によって現時点でこの現象が発生しているのかということを解明するだけではなく、将来どうなるかを予測するということにもある。そうでないと現時点で効果的な対策や利用方法が判明しても、後々どうなってしまうか分からない。自然現象でも経済現象でも未来予測は困難を極める。
寒冷化するとシベリアの永久凍土から妙な微生物が復活してくる心配が減って、それはいいんだけどやはり農業は暖かい方がいいよな。それに温暖化といっても業火で焼かれるほど暑くなるならともかく。寒冷化や氷河期となると尋常じゃないほど寒くなるだろう。寒いとそのままじゃ生きられないから防寒対策が必要だが、暑いのは結構なんとかなる。それよか砂漠化の方が問題だ。水と食料生産にも関わってくる。
デイ・アフター・トゥモロー – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/デイ・アフター・トゥモロー
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「ヒ素を食べるバクテリア」発見、初の元素置換生物 NASA発表 (1-2ページ) – MSN産経ニュース
http://sankei.jp.msn.com/science/science/101203/scn1012030400000-n1.htm
NASAよ。予算削減防止対策の前に、過去の数々の捏造と犯罪履歴を洗いざらい吐け。
【91】黒木昭雄氏について
会員番号4655の佐藤裕一です。
警視庁の元警察官で探偵、ジャーナリストの故・黒木昭雄氏の死亡について、公式ブログサイトにおいてご子息の黒木昭成氏が【読者の皆様へ】と題する文章を掲載し、遺族としての見解を発表なさっていました。日付けは2010年11月17日です。黒木昭成氏によると、故・黒木昭雄氏の死は間違いなく自殺なのだそうです。無断転載禁止なのでURLを貼り付け致します。サイトが保存されているようで良かったです。
黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」 – Yahoo!ブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/kuroki_aki
黒木昭雄の「たった一人の捜査本部」 – Yahoo!ブログ 読者の皆様へ
http://blogs.yahoo.co.jp/kuroki_aki/17860690.html
私がここの[73]「訃報 ジャーナリスト・黒木昭雄氏死去 現時点での阿修羅まとめ9」(投稿日:2010年11月10日)で書き込んだ自殺説についての疑惑・疑問に答えているわけはないでしょうけれども、遺書の偽造やメールなりすまし、脅迫による文章作成、他殺説などを否定しています。借金やうつ病などの憶測がとびましたが、自殺の原因は不明だそうです。
私も現場に居合わせて目撃したわけでも何でもないので、いろいろと勝手な憶測を書いていましたが、他人でありますからご遺族のご見解・ご判断に干渉する資格はありません。自分の考えは自分だけで決めるものであり、私としては現時点でも「分からない」と考えるが、所詮それまでであります。
それにしても惜しい人を悲しい形で亡くしました。ご遺族の方々には心からお悔やみ申し上げます。
【90】2010年12月1日雑感
会員番号4655の佐藤裕一です。
植田信さんのサイトに行ったら、アルルさんが認証官について、今日の14時頃に優れた投稿をしていた。あらら……なんだかちょっとしょんぼり。
植田信さんのサイト
http://www.uedam.com/
認証官問題 Study of History
http://8706.teacup.com/uedam/bbs/9326
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夕食を食べていたら、不愉快なテレビ番組を視聴してしまった。役所の「税金Gメン」とかいう連中が、滞納者の家に行ってヤクザよろしくいろんな文句を使い脅しあげて、徴収や差し押さえを行うものだ。
途中から見たからよく分からんが、「税金Gメン」ってのは正規の地方公務員なのか、民間委託の雇われアルバイトなのか。お前ら役人の給料はどこから出てるの。税金からか。それともタダでやってるの。徴税官僚・税吏ってのは、この世で最低の部類に入る恥ずかしい職業の1つなんだってことは分かってんのか。公僕の分際で国民に対して、態度と口の聞き方に気をつけろ。
せめてマスゴミどもとグルになって、納税者との不公平感と不平等感を煽ろうとする腐りきった性根と役人根性ぐらいは直しなさいよ。
国税庁長官以下、税金官僚・税吏から末端の雇われGメンに至るまで、出勤時・昼休憩時・退勤時と、一日に三度「我々はどうしようもない恥知らずです」とみんなで三回唱えなさい。そうすればなり手がどんどん少なくなっていってスッキリするから。
そういえば今回の定例会では、先生が税金裁判のことについて触れなかった。先生が一番激昂するのは税金裁判ネタなのかも。昨年6月のときはすごい形相で迫力満点だった。今回のくらいが調度いいのかな。
あとテレビで不快だったのは、小沢一郎と陸山会の迂回が政治資金規正法の抜け道・抜け穴がどうだとか。まぁこれはいつものことだが。
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最高裁判事の近藤崇晴氏が2010年11月21日に死去していた。享年66歳。現時点で近藤氏の後任は不明。この前の衆院選と同時の国民審査では不信任の国民運動が実らずに信任された。
私は面識もないし直接被害を受けたこともないので死者に鞭打つつもりはないが、最高裁はひどすぎる。もうどうにかしないといけない。故人のご冥福を。
近藤崇晴 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/近藤崇晴
最高裁判所裁判官 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/最高裁判所裁判官
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近藤氏の前日に死去したチャルマーズ・ジョンソンは享年79歳。小室先生に続いて本物の大学者が亡くなっていく。私は未だにチャルマーズの本を読んだことがない。『通産省と日本の奇跡』は入手困難だろうが、ブローバック現象の『アメリカ帝国への報復』も未読だから言い訳できません。
チャルマーズ・ジョンソン – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/チャルマーズ・ジョンソン
Amazon.co.jp: 通産省と日本の奇跡 (1982年) チャーマーズ・ジョンソン, 矢野 俊比古 本
http://www.amazon.co.jp/dp/B000J7M0BG
Amazon.co.jp: アメリカ帝国への報復 チャルマーズ・ジョンソン, 鈴木 主税 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4087733289/
古村治彦さんがサイトに翻訳掲載したスティーヴ・クレモンスという人による追悼文章が一番優れているのだろう。古村さんが管理する「副島隆彦の論文教室」にも、チャルマーズ死去の直前に論文が何本か発表されている。「副島隆彦の論文教室」は研究員や先進生だけではなく先生ご自身も論文を寄稿しているが、「副島隆彦の学問道場」と並んで日本最先端の知識を行くサイトである。
古村治彦の酔生夢死日記
http://suinikki.exblog.jp/
古村治彦の酔生夢死日記 スティーヴ・クレモンスのチャルマーズ・ジョンソン博士追悼文をご紹介します。
http://suinikki.exblog.jp/15504933/
副島隆彦の論文教室
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/
「0112」 論文 日本政治研究の学者たち:チャルマーズ・ジョンソンとジェラルド・カーティス(1) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2010年11月12日
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun116.html
「0114」 論文 日本政治研究の学者たち:チャルマーズ・ジョンソンとジェラルド・カーティス(2) 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2010年11月15日
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun118.html
「0115」 論文 アメリカにおける日本政治研究の進展とその分類 古村治彦(ふるむらはるひこ)記 2010年11月19日
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun119.html
「0117」 論文 政治学の世界で起きていること:政治学における地域研究と合理的選択論の争い 古村治彦(ふるむらはるひこ)筆 2010年11月25日
http://soejimaronbun.sakura.ne.jp/files/ronbun121.html
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不敬発言で懲罰がどうの、昔だったら不敬罪だのと、相変わらずアホな騒ぎをやってる。今が21世紀も2010年だなんて信じられない。同時代人にこんな奴らが闊歩してるなんて日本の前途は暗澹たるものがある。お前らの脳味噌は明治時代で止まってる。明治人ならそれで調度いいわけだが、現在に至るまで進歩なしでは救いがたい。
日本の政治も法律もタイ王国と同等、いやタイに失礼か。いや……料理番組に出演して謝礼をもらったからといって、憲法の副業禁止規定違反で首相が失職するのはさすがに馬鹿らしいから、やはり日本と同等か。
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最高裁で強制起訴手続きの仮差し止めの特別抗告を却下したのは、白木勇裁判長の第1小法廷だそうだ。白木氏と横田氏は鳩山内閣任命だというのにガッカリ。未審査二人には×だな。反対意見だったら申し訳ないけど。10年に1回とかケチらないで衆院選ごとに審査させろ。あと検事出身者から採用するのを金輪際やめろ。
×金築誠志
×白木勇
×宮川光治
×横田尤孝
×桜井龍子
小法廷 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/小法廷
【89】『都市の論理』
会員番号4655の佐藤裕一です。
[92]「認証官のかわりに国会同意人事」において「後述する」と書いておきながら後述を忘れていた部分があります。失礼致しました。
私は会場で先生が「タニゴロウ」と言っているように聞こえたのですが、家に帰ってから調べているとおそらく「羽仁五郎」(ハニゴロウ)だと分かりました。全然存じ上げませんでした。著書は『都市の論理』ですね。
アマゾンで本を検索したのですが、何回も出版しているようで困りました。一番新しそうなものをURL貼り付け致します。見つけたら購読しようと思います。
羽仁五郎 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/羽仁五郎
Amazon.co.jp: 都市の論理 新装版―歴史的条件-現代の闘争 羽仁 五郎 本
http://www.amazon.co.jp/dp/4326350105/ref=sr_1_8?s=books&ie=UTF8&qid=1291014167&sr=1-8
【88】認証官のかわりに国会同意人事
会員番号4655の佐藤裕一です。
本日は2010年12月1日(水)です。時間の流れが速すぎます。師走だから先生はさぞ忙しいことでしょう。
[91]に続いて「第22回副島隆彦を囲む会主催定例会 大政治(ハイポリティックス)が生む金融破局の裏筋道を解明する」の感想を、記録DVD販売の営業妨害にならない程度に少々。といっても、先生が既に重掲に[134]「私たちの定例会が無事終わりました。平野貞夫(ひらのさだお)氏の文を載せます。」を掲載なさいましたので、経緯を簡単にさらっと記して終わらせます。
須藤喜直研究員の講演が終了し、一旦休憩。ここで私はホールを見渡したり廊下に出たりして菊地研一郎さんがいるかどうか探してみたが、人が多過ぎて見当たらず。それで自分の席に戻っていたところ、何席か前の列に菊地さんらしい人物が着座する様子を目撃。もう休憩時間終了近かったので、次の休憩で確かめることにした。
先生の講演前半部が開始された。内容詳細は書きませんが、1つだけ個人的にショックを受けて、記憶しておこうと印象強くしていた箇所があった。
先生がイタリアのルネッサンスの話に関連して、
「かつてタニゴロウのトシの論理が、わけも分からず沢山読まれた時期があった。このトシの論理を知らなければ読書人階級ではない!」
と発言されたのでビックリした。私は、
(タニゴロウって誰? トシの論理って本を読んだこともないし、聞いたこともないなぁ。家に帰ったら調べよう)
と思いながら動揺、あまり先生の話が頭に入ってこなくなった。先生言及の本については後述する。
前半部が終了し休憩時間に入ると菊地さんはすぐに席を立っていたので、戻って来た際に思い切ってこちらから「菊地さん」と声をかけたら、本人だった。ほぼ確信していたとはいえ、人違いだったらまずかったよなぁと今になって思う。
私は以前菊地さんと掲示板で話題にしたことがある、故・小室直樹先生が生前直筆の著者謹呈サイン本(真偽不明。●●●●様は元代議士か)で、流れて入手した『中国共産党帝国の崩壊―呪われた五千年の末路』(小室直樹著、光文社刊、1989年9月30日 初版第1刷発行)を本人証明用に持っていったのだが、よく考えると入場ハガキを見せれば済む話であった。
Amazon.co.jp: 中国共産党帝国の崩壊―呪われた五千年の末路 (カッパ・ビジネス) 小室 直樹 本
http://www.amazon.co.jp/dp/433401237X
↑菊地さんから教えて頂いた通りURLを短縮致しました。
さて、このときはすぐに休憩時間が終了してしまったので菊地さんとは軽い挨拶だけ。先生の講演後半部スタート。先生の[134]にあるようにちょっと会場全体が暑くなってきて、休憩中にジャケットを脱いでおけばよかった。
講演内容省略。
講演時間終了後、質問タイムだが2人だけだった。アンケート用紙に記入したが、ホール横の廊下がさっそく電気が落とされていて、要望など具体的なことは書けなかった。
それから菊地さんが私の席近くにいらっしゃった。私が「今からどうやって帰ったらいいか……」と不安を口にすると、菊地さんが「それでは一緒に行きましょうか」と[90]に書いてあるように道案内をしてくださった。
道中、先生のことや世川行介さんのこと、東京の地域ごとの勢力など、本屋に立ち寄ったりしながらお話を訊く。その後夜行バスで帰宅。二度と乗るもんか。夜行バスで眠れる人ってすごいよね。
さて菊地さんのお話によると小沢一郎を巡る問題において、検察庁という組織の検事総長・次長検事・検事長らの職階の認証官降格問題が1つあるということだった。
ウィキペディアの「認証官」などの項目にもあるように、日本国憲法第七条の五に基づく天皇の国事行為として、任命される際に法律形式上は天皇が直接に認証官任命式を執り行うことになる。ウィキペディア「日本国憲法第7条」の項目から憲法の当該条文を転載貼り付けする。註番号など略。
認証官 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/認証官#.E5.86.85.E9.96.A3.E7.AD.89
日本国憲法第7条 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第7条#cite_note-0
(佐藤裕一による転載貼り付け始め)
第七条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
二 国会を召集すること。
三 衆議院を解散すること。
四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
六 大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を認証すること。
七 栄典を授与すること。
八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
九 外国の大使及び公使を接受すること。
十 儀式を行ふこと。
(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)
検事総長・次長検事・検事長らは日本国憲法第七条の五の「法律の定めるその他の官吏」である。
日本の最高裁判所・高等裁判所・地方裁判所に最高検察庁・高等検察庁・地方検察庁がそれぞれ対応しているわけだ。最高裁判事と高裁長官は認証官なので、最高裁判事と対応関係にある最高検の検事総長・次長検事、高裁長官と対応する検事長が認証官となる。検事総長・次長検事・検事長が認証官でなければ、裁判所と検察庁の釣り合いがとれず、バランスが崩れるということらしい。
ハッキリ言ってこんな官僚の理屈などに、国民や議会が振り回される必要はない。だいたいにして裁判所と検察庁は元から対等などではないし、整合性がどうのというならば法務事務次官より検事総長が格上の現状の方がおかしい。ウィキペディア「日本国憲法第77条」の項目から転載貼り付けする。
日本国憲法第77条 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第77条
(佐藤裕一による転載貼り付け始め)
1.最高裁判所は、訴訟に関する手続、弁護士、裁判所の内部規律及び司法事務処理に関する事項について、規則を定める権限を有する。
2.検察官は、最高裁判所の定める規則に従はなければならない。
3.最高裁判所は、下級裁判所に関する規則を定める権限を、下級裁判所に委任することができる。
(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)
確か日本国憲法には、第七十七条第二項にしか「検察官」という言葉は出てこないはずだ。残りの法的根拠は全て下位法による。法廷においても検事と対等なのは判事ではなく弁護士であるべきだろう。
日本国憲法は「検察官」の職務を詳細に定めることを避け、下位法で柔軟に改正することを妨げないようにしている。そのこと自体には一定の理解が出来るのだが、日本人の法意識が前近代のままなので弊害も多い。
私は普段から憲法を読み返すたびにとても残念に感じる箇所があるのだが、「検察官」という言葉を憲法に登場させることを是としてそれを前提とするのであれば、少なくとも日本国憲法第六十四条第一項には「裁判官」だけではなく、「検察官」も制定時に入れておいてほしかった。ウィキペディア「日本国憲法第64条」から転載貼り付けする。註番号など略。
日本国憲法第64条 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/日本国憲法第64条
(佐藤裕一による転載貼り付け始め)
1.国会は、罷免の訴追を受けた裁判官を裁判するため、両議院の議員で組織する弾劾裁判所を設ける。
2.弾劾に関する事項は、法律でこれを定める。
(佐藤裕一による転載貼り付け終わり)
このように日本国憲法第六十四条でも弾劾裁判に関する条項を定めているが、第二項を読めば誰でも分かるように、ちょっと下位法に投げっぱなしである。いくら憲法が大きいところを定めて下位法が細かい部分を定めるとはいえ、あまりにも大雑把にすぎると思う。
弾劾裁判は議会が行うと決まっている。職務違反などの事由により訴追された公務員の地位に関して、判決により罷免や法曹資格剥奪などが決定される可能性がある。日本の場合は憲法では裁判官だけだが、諸外国では裁判官以外の公務員も対象となり得る。
日本には憲法条文に規定がなく、下位法で規定される「人事官弾劾裁判」という制度もあるから、「検察官弾劾裁判」も憲法改正ではなく下位法による立法の制定で設置出来ると考えられるだろう。ただし「人事官弾劾裁判」は国会が訴追するものの、裁判自体は最高裁で行うので駄目な法制度である。弾劾は訴追も裁判も全て議会で議員が行わなければならない。
それから弾劾裁判で有罪の場合に刑罰を科す国もあるようだが、私はこれについては分離して別個に裁判所で行うべきだと考える。というのは、弾劾裁判所で刑事罰まで課すとなると、通常の裁判所との区別が曖昧になり、弾劾裁判自体の意義や定義がぼやけてくるからだ。弾劾裁判はあくまで「公務員として職務を遂行する資格がある人間であるかどうか」を判断し「罷免か否か」を決定すべきである。復権も同じく判断する。
考えなしに何でもアメリカの法制度の真似をすればいいというものではないが、日本も衆議院で訴追し参議院で審理する制度だともっと良かったのになぁと思う。日本の検察官適格審査会みたいな法務省の審議会では仕方がない。せめて構成員が全員国会議員であるちゃんとした審査委員会でなければならない。検察官適格審査会から「官適格」を抜いた検察審査会は行政に属さない「準」司法機関だという。憲法違反でないの?
弾劾 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/弾劾
裁判官弾劾法 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/裁判官弾劾法
裁判官弾劾裁判所 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/裁判官弾劾裁判所
裁判官訴追委員会 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/裁判官訴追委員会
検察官適格審査会 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/検察官適格審査会
検察審査会 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/検察審査会
話を認証官に戻すが、ウィキペディアに挙げられる現在の「認証官」のうち「国務大臣」は
日本国憲法第七条の五で直接定められている。下位法の根拠は様々だが、裁判官以外で「その他の官吏」にあたるのが内閣の「副大臣」「内官房副長官」、会計検査院の「検査官」、人事院の「人事官」、内閣府の「宮内庁長官」「侍従長」「公正取引委員会委員長」、法務省の「検事総長」「次長検事」「検事長」、外務省の「特命全権大使」「特命全権公使」となる。
私の考えでは上記の「その他の官吏」のうち、「特命全権大使」「特命全権公使」は立憲君主政体をとる国として元首の認証式を経るから除外するとして、「検査官」「人事官」「宮内庁長官」「侍従長」「公正取引委員会委員長」「検事総長」「次長検事」「検事長」には天皇の認証は必要ないから改正すべき。そもそも会計検査院と人事院は不用だから廃止していい(ただし会計検査院は憲法設置期間であり廃止の改正はハードルがいきなり高い)。「副大臣」「内官房副長官」は「国務大臣」の下で職務を執り行うのだから認証式を経てもいいかも。
細かい法解釈はいろいろあるだろうが、総体として私が言いたいのは国や国民の代表達は立憲君主制であるからには天皇の認証があっていいが、それ以外の行政の事務公務員には不要だし、むしろ「天皇の官僚」「天皇の官吏」という増長を招くので害悪だということだ。宮内庁や検察庁の思い上がりを叩きのめさなければならない。
検事総長、次長検事、検事長らを「認証官」から降格するかわりに、「国会同意人事」という栄誉を彼らにプレゼントするべきである。
国会同意人事 – Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/国会同意人事
【87】『素晴らしき哉、人生!』It’s a Wonderful Life(1946)
会員番号4655の佐藤裕一です。
本日は2010年11月30日(火)です。11月が終わります。
次々と偶発的に起こってくる(計画的に起こされる)不愉快で耳障りな「周辺事態」に引き摺られてか、2010年11月28日(日)の沖縄県知事選挙が、とても残念な結果になってしまいました。名古屋リコール不成立の不可解も不快です。日本の地方自治が内外(政府官僚役人・米露中北)からの圧力と干渉に苦しめられています。
その28日の「第22回副島隆彦を囲む会主催定例会 大政治(ハイポリティックス)が生む金融破局の裏筋道を解明する」に私も参加致しましたので、菊地さんの定例会顛末に続いて個人的な感想など少しを書き込みます。まずは前半。以下、基本「だ・である」口調の文体でいきます。
私は新幹線で上京したのだが、国土交通省さんよ……せめて片道の行く時くらいは快適な道程を過ごしたいと思っているところに、全国幹線旅客純流動調査票(?)みたいなのを書かせるのかいな……出発から移動手段、どこを経由したかの経路、最終到達目的地点までも。
あれは回答は任意の協力なのか強制なのか? 国勢調査みたいに法律上の提出義務が課せられているのか? もし断ったら「やむをえない正当な事由なくして断ろうとしている……あやしい。職務質問する」ってなるの? きれいなお姉さん(国土交通省所属の公務員なのか)をアンケート用紙回収員にしているのは回収率を上げるためか。
隣の乗客みたいに寝てればよかったけど、近くに来た際に遠藤周作の『沈黙』読んでたから手遅れだった。まぁ渡されて用紙に書いてた黒のボールペンもらえたからいいけど。アパートのドアを開けたらNHKのやつにテレビデオ見られたのを思い出した。こういう経験の記憶は何度思い返しても腹が立つ。役人根性や半役人連中の忌々しさ、そして断固として断る根性のない自分に対する苦々しさ。
それから出発が遅かったこともあるが、上野駅の改札から脱出するのに手間取って時間をくってしまい、会場までタクシーを使う羽目に陥ったがそれでも13時をまわっていて、既にSNSIの須藤喜直研究員の講演は始まっていた。
ホール横の通路でハガキを持って入場する際、係りのかたに「まだ奥の最後部に座席が空いています」と指示され、当初からも先生を避けて後ろの方に座るつもりだったので後部出入り口から静かに入っていくと、そこにいきなり先生がいた。
先生は出入り口付近で、客席よりも後ろに設置した椅子に腰掛けていらっしゃった。須藤さんが映画の解説中だったため会場が暗がりの中、私は先生の前を通過する手前でやっと先生だと気付いたのだが、立ち止まって挨拶する雰囲気でもなく勇気もなし、足早に歩きながら角度15度未満のお辞儀をしているつもりで、心中焦りながら通過致しました。
多分ですが、先生は官僚組織の放った偵察スパイを逆に調査・監視しているでしょうから、その一環で睨みつけられたような気がしました(汗)。非会員はともかく、学問道場の会員としてどのぐらいのスパイが内部に潜り込んでいるのか気になりますね。先生はここの会場にも5人くらい来ているとおっしゃっていましたが。警察の私服などだった場合はちゃんとした服装をしてきているだろうから、ラフな格好で行った方が疑われないで済むのかも。それにしても、果たして須藤さんは先生が常に見守っていた方がやり易いのかやり難いのか(笑)。
それで須藤さんの講演内容だが、といっても私が勝手に中身の表面を書き過ぎて記録DVDの販売を妨害しても損なので、なるべく簡潔に致しますけれども。
須藤さんが注目した政治映画を題材として政治を大きく捉えるというもので、配布された資料に取り上げられた政治映画一覧として6本載っていた。その中で私はフランク・キャプラ監督、ジェームズ・スチュワート主演の『素晴らしき哉、人生!』It’s a Wonderful Life(1946)しか観たことがないことが軽くショックだった。先生によれば須藤さんは一日一本視聴のペースでものすごい数の映画を観ているとのこと。
他の5本のタイトルも自作の購入予定作品リストに加えたが、自分でチェックしている映画ですら未見のものが沢山あって、まだまだだなぁと実感する。それら全てをいずれ購入したいものだが、中には入手困難な作品や英語圏以外だったり、吹替・字幕ともに無い作品などもあり、特に私は日本語字幕が無いとお手上げだからつらいところだ。
私は前出のフランク・キャプラ監督作品が大好きであり、『スミス都へ行く』Mr. Smith Goes to Washington(1939)が別格で一番だが、他にも『或る夜の出来事』It Happened One Night(1934)、『オペラハット』Mr. Deeds Goes to Town(1936) 、『群衆』Meet John Doe(1941)などを鑑賞している。
キャプラ作品は昔の映画らしくちょっと意訳しすぎな邦題が多いのだが、『群衆』は大衆扇動と暴動ものの内容にピッタリで「ジョン・ドーに会おう」とかになるよりは良かっただろう。1941年だから冷戦前で、冷戦中のアルフレッド・ヒッチコック監督作品で後期の傑作『鳥』The Birds(1963)より集団ヒステリーの襲撃・パニックものとしては先だが、やはり『鳥』の方がずっと恐ろしい。日本人は戦後すっかり飼い馴らされたニワトリのようで、似非知識人は軽くツンツンつつかれる程度で『鳥』みたいな物理的集団攻撃に遭うこともないから覚悟も薄いもんだろう。
私はキャプラ本人に会ったこともないが、おそらく人間としても好きである。
その理由が須藤さんの「コミュニタリアン映画」に関するお話を通して少しだけ分かった気がするのだが、キャプラが私と対極に位置する人間だからかも。私のような冷たい人間の場合、同じく冷めきった人間が作った作品や文章に対する近親憎悪みたいなことが起こる場合があります。
それがキャプラ作品の場合は『素晴らしき哉、人生!』に代表される一連の社会派とかヒューマニズム映画と呼ばれるような、暖かい住民達の共同体を描いた映画だと、現実的な共通感覚が湧かないので、かえって素直に感動出来るようだ。自分の理想とキャプラの理想が全然重なっていないから考えを修正する必要がなく、安心して観られるのであろう。
ググってみたが「コミュニタリアン映画」。須藤さんの言うとおりで、投稿時点で日本語の固まりとしては、本当に1件も検出されなかった。「コミュニタリアニズム映画」でもなかtったと思う。これが日本の現状。
【86】もし「ザ・フナイ」を買っていたら野宿決定だった
会員番号4655の佐藤裕一です。本日は2010年11月29日(月)です。
私の定例会参加は今回で2回目となりました。
先輩会員である菊地研一郎さんに大変ご迷惑とお手数をお掛けしてしまい申し訳ございませんでした。またいろいろとお世話になったことについてお礼を述べさせていただきます。
いくら昨年から数えて一年半ほど掲示板上での議論・交流をしている会員同士であるとはいえ、私のような初対面で突如名乗り出てきた得体の知れない男に対して、とても親切に東京の街紹介&道案内をして下さいました。
自宅から行きの新幹線と、会場に向かうのにタクシーを利用してしまい想定以上の出費で、帰りは残金が新幹線自由席料金にすら足りず、ATMも取り扱ってない地方銀行のカードしか持ってなかったし、あの時点で夜行バスに乗るくらいのお金しか残っていませんでした。私はつくづく、行き当たりばったりの行動無計画男だなと、そういう人間は後からどんどん思考と行動に余裕がなくなっていくのだと痛感致しました。
菊地さん投稿の[89]「定例会顛末」にもあるように、せっかく東京規模での大手本屋を紹介して下さったのですが、執筆人の1人に先生がいる雑誌「ザ・フナイ」を購入出来るお財布状態ではなかったのです。最終のバスで私が最後の1人で満員になり、多分キャンセルも出なかったようなので、かなりギリギリの滑り込みでした。
菊地さんに会っていなければ、私は不慣れな東京の網の目のように張り巡らされている地下鉄(ほんとによそ者にとっては地下迷宮、迷路)を散々彷徨った挙句に乗り損ねて、ホテルにも泊まれないし、食事も抑えなきゃで、駅構内か晩秋の街路にて一晩を明かす憂き目にあった可能性が高いです。ご好意に甘えて道案内をしていただき、本当に助かりました。ありがとうございました。
李さんと菊地さんにメールしようと思ったらネットワークエラー発生中の模様で、復旧したらメール致します。