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(承前)
Ⅱ.著者の人となり。および本書の時代背景について
ここから先、この一章は、少々ガマンしてお付き合いください。
『窮乏の農村』の著者、猪俣津南雄(1889~1942)は戦前に活躍したマルクス経済学者である。裕福な商家の生まれだが、実家は後に破産した。苦学の末、32歳で早稲田大学講師となるが、第一次共産党に入党して検挙された。以降は、講座派とも労農派とも一線を画す一匹狼的な論客として、そこそこ売れたらしい。彼の所説は当時のジャーナリズムから「イノマタイズム」と称されたそうだ。
さて昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えつつあったという。
運動の第一のピークは、大正末年ごろだった。これは中農下層および貧農上層を中心とした「モノ取り主義」的闘争で、一定の成果を勝ち取った途端に運動は沈滞し、村会議員に成り上がった運動指導者の中には、ダラ幹と化した者もいたという。
昭和5年、昭和恐慌はじまる。当時、日本の主要農産物は米と繭だった。
繭価(春まゆ)の推移を昭和元年を100とする指数でみると、昭和6年は33.2、昭和7年は27.4に下落した。
同じく米価指数の推移は、昭和元年を100とすると、昭和6年は49.2、昭和7年は56.3である。
当時、米穀統制法に基づく政府買い上げ米制度は既にあったが、朝鮮・台湾から入ってくる安価な米を流通規制しないなど、戦後の食糧管理制度に比べればチャチなシロモノであった。
本格的な食糧管理制度は戦争のおかげで整備された。これもまた、皮肉な話ではある。
恐慌は万人を苦しめる。だが、ワリを食うのはもっぱら下の方である。
昭和恐慌のおかげで、地主も中農も貧農上層も借金まみれになった。儲けたのは目端の利く商品ブローカーばかりである。
だが、貧農下層は借金まみれどころではない。なにしろ食べる米がない(自分で作った米は、前借金のカタに取上げられてしまうのである)。農村には日雇取りの仕事もなくなってしまった。都会に出ても、既に失業者で溢れ返っている。
かくして昭和9年ごろ、日本の農民運動は第二のピークを迎えた。今度は生活防衛闘争である。また、従来は何かと軽く見られ勝ちだった貧農下層が、運動の中で大きな部分を占めるようになってきた。
このように、農民運動の質が変化してきた。一方で状況は切迫している。ファシズムや農本主義右翼に吸引される農民も出てきた。「このままではいけない。何とかしなければ」という問題意識が、当時の農民運動の指導者層に共有されていたようである。
(引用、始め)
それに、こういう意見の人もあった。貧農の下層が黙って引き込んでいるのは、上層の者が組合支部を切り廻しているからだ、どこの村にも格とか席順とかいうものがあって、村の集まりには下の者は口を利かないしきたりになっている、その慣行が組合支部の集会や活動に際しても現われるのだ、下層の者は有能者でも自己の才能を隠そうとするほどだ、こんな姑息(こそく)な家長制的伝統を打破しなくては組合の本当の活動は出来るものでない、また組合においてはそれを打破することも決して不可能ではない、と。
右の意見は、自身も貧農の下層に属する人の意見であった。それだけに余計傾聴に価するものがある。(P221-222)
(引用、終わり)
昭和9年当時、猪俣津南雄は全国農民組合(全農)の顧問的立場にあった。運動方針転換のための基礎調査として、猪俣は全国2府16県の農村を踏査した。実質的な調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と思われる(注)。その調査報告が本書である。本書の内容は全農の新方針にも影響を与えたとのことだが、時流には抗し切れず、結局、全農は昭和12年に壊滅した。
(注)調査期間推測の根拠は以下の通り。
1.昭和9年の「五月初旬に東京を立ち、」(P5)と、猪俣自身が書いている。
2.本調査の一部は、最初、雑誌『改造』の昭和9年7月号、8月号、および9月号に発表されている。
3.本書の序には「一九三四年九月」との日付がある。
1~3より、本書執筆の途上で調査旅行が継続していたとしても、調査期間は2~3ヶ月を超えない程度と推測した。
(続く)
【21】愛と死を見つめて(3/4)
(承前)
Ⅲ.『窮乏の農村』の見どころ
とにかくユーモラスなのである。著者は農村の悲惨さを訴えようとしているのだが、何だか笑ってしまうような話が多い。企まざるユーモアというべきか。
具体的に、二三引用する。
(引用、始め)
(藤村注;農家の娘さんたちは近隣の工場で働いて、親の家計を助けていたが、これも恐慌ですっかりダメになってしまった、という話の後で、)
この女工さんたちがお休みに着て歩く人絹物の派手な模様の一張羅(いっちょうら)がとかく地主たちの眼に止り、お前らのとこの娘にあんな着物を着せておいて年貢米をまけてくれもなかろうと言い立てれば、娘は娘で、こんな着物ぐらい着なければ嫁に貰ってくれ手もないと応酬するという話。―――
もっとも、こうした「女工哀史」の最新版を書きつつあるのは、信州や上州に限ったことではない。また養蚕農家に限ったことでもない。それはまず全国的なことだと言えるであろう。(P35)
(藤村注;当時の農民も、農業機械の導入には意欲的だった。零細農家にとって、高額な機械の購入はリスクが大きい事は明白なのに、なぜ誰もがそうしたがるのか。)
群馬県のある自作農の言ったことが代表的である。彼はこう言った、機械を使えば身体(からだ)が楽だし、仕事も早く切り上げられる、しかし経済的にはかえって余計苦しいし、仕事も粗末になりがちだ。
だが、身体が楽だ、そして明るいうちに切り上げられる、というそのことは、何といっても現代の農民には大きな魅力であるらしい。経済上のよしあしを詮議(せんぎ)しているいとまもないくらいこの魅力が大きく強いということこそ、あわただしい機械化普及の秘密の一部を語るかと思われる。(中 略)
石川県のある村で、私は、農民組合の『の』の字も知らぬ一群の農民たちがあげる火のような気焔(きえん)をきいた。熱して来ると彼らは、「身体にらくゥしている町の月給取り」を仇敵(かたき)のようにこきおろした。「あいつらァ、日曜だと吐(こ)いてェ、朝っぱらから炬燵(こたつ)べェへえってェ、蓄音機ィかけてェ・・・・・。」
それも一応無理はない。科学の進歩、産業技術の発展の現状をもってして、農民たちの身体を楽に出来ないはずはなかったのだ。(P50-51)
先頃、ある農業経済学者が群馬県へやってきて、大いに産業組合の利益を説いた。農民は産業組合によって資本家にも対抗してゆくことが出来る、第一に組合製糸がそれであるし、さらにまた各種の生産組合を作れば日用品の大部分も資本家から買わなくてすむようになる、というようなことを言って聞かせた。しかしそこに集まっていた若い者は笑って相手にならなかった。われわれにはあいにくと資本がない、腕と頭の力だけでは敵(かな)いっこない、先生も自分で二、三年小作でもやって御覧なさい、じきにわかります、と言ったので農業経済学者も一緒に笑ってしまった。そんな話もきいた。(P130)
(引用、終わり)
ここらへんのおおらかさが、猪俣津南雄の持ち味であるように思える。
表層的と言えば表層的だが、ものの見方がとても素直である。
少なくとも、「金持ちはキライだ」または「ブルジョア階級は人民大衆の不倶戴天の敵だ」といった類の「正しい階級意識」から出発している人ではないように思われた。
もちろん猪俣も、「世の中全部が社会主義になれば、何もかもがうまく行く筈だ」と考えてはいるようだ。実際、そういった意味のことを本書でも何度も繰り返している。こういった点においては猪俣もまた、在り来たりのアカの一人に過ぎないとは言える。
ただ、猪俣の人間観は、アカの理論家としてはちょっと変わっているように思える。
誰かを「諸悪の根源」、「悪の総元締め」または「戦争の親方」みたいなものに仕立て上げて、「***を打倒しさえすれば何もかもうまく行く」式の、単純きわまる善悪二元論に立っている人ではなさそうなのである。
(引用、始め)
(藤村注;当時の地主は、農民からの収奪強化のため、小作人から土地を取り上げることがよくあった。「ガタガタぬかすと、小作地を取り上げるぞ。他に耕作したがっている人間はいくらでもいるんだ」という訳である。という話に続けて、)
土地取上げの手段方法やからくりをいちいち書き立てていたら際限がない。(中 略)
青森県にはまた、多収穫の競争で一等賞を貰ったおかげで土地を取上げられたという小作人もいた。一反から前の二倍も三倍も米の取れるようになった土地、その土地から前同様の小作料を取って満足していることは、地主としては堪(た)えがたいことであったろう。(P198-199)
(引用、終わり)
この「地主としては堪えがたいことであったろう」という一言が、人間洞察として深いところまで届いていると私には思えた。
もちろん、この地主のやったことは理不尽きわまりない。農業経営者の取るべきリーダーシップという点から見ても、合理的な選択とは言いかねる。もしもの話、あなたの同僚のトップ営業マンが、突然、ヤキモチ焼きの社長にクビにされでもしたら、あなたはどんな気持ちがしますか?
だが、人間とはこういった理不尽、こういった不合理を敢えてやってしまう生き物なのである。そうする権力を持っていれば、誰だってそうする。もしも誰からも牽制されなければ、誰だってローマ皇帝ネロみたいになる。実際、「トップ営業マンが真っ先にリストラされてしまいました」程度のことは、巷間、どこの会社にでもある話なのである。私がそういうことをしないのは、私にはそういった権力がないからに過ぎない。
これが小林多喜二だったら、「この地主は卑劣な奴だ。これが搾取者の本質なのだ」とかナントカ、訳知り顔の倫理判断または価値判断にまで踏み込んでいたろう。
猪俣津南雄は「地主としては堪えがたいことであったろう」で止めた。ほんの少しの言い回しの違いだが、私はここに猪俣のフトコロの深さを感じる。公平さ、真実に対する忠誠心、または人間性に対する愛と言っても良い。
そもそも本書は、一体に、階級的憎悪(ルサンチマン、または貧乏人のヒガミ)の含有量が希薄なのである。これは左翼文献にしては珍しいことだ。そういうものは、ひた隠しに隠していても、自ずと現れずにはいないものなのだから。
猪俣は、ホントはとってもお育ちの良い「おぼっちゃまくん」だったのではなかろうか。
まあ、こういう気取りや飾り気のないところが、革マルみたいな、お高く留まっていて、切っても血も出ない公式主義者から、猪俣がアホ呼ばわりされるユエンなのだろうが。
(続く)
【20】愛と死を見つめて(4/4)
(承前)
Ⅵ.『窮乏の農村』の限界と、その意義
本書の成り立ちは、おそらくこんなところだろうと思われる。
「おい、ゴンベエさん、聞いたか。今度、東京から組合の偉い先生がやって来て、オラが村のことをあれこれ調べなさるんだとよ。」
「そうかいね、留吉さん。だったらひとつ、その先生のところまで出掛けて行って、オラっこのグチでも聞いてもらうべえ。」
このゴンベエさん、グチとは言え、アカの他人に向かって言うべき言葉を持っている人である。こういう人は少数派である。
さらに、自分の意見を世の中に向けて発表したい/発表すべきだという問題意識も持っている。そういう人はさらに少数派である。
さらに、忙しい労働時間を割いて、わざわざ東京から来た珍客を訪ねてみようかという意志の持ち主でもある。そういう人は、さらにさらに少数派である。
これは昔も今もそうだし、また洋の東西も問わない。もちろん、農民に限った話ではない。
つまり『窮乏の農村』という本は、当時の日本の農村の、最良もしくは最も意識が尖鋭な部分の意見のみを代表している可能性がある。もの言わぬ農民大衆のホンネは、本書の持つ射程距離の、さらにその先にある可能性がある。
これはもちろん、猪俣津南雄の洞察力不足のせいではない。彼は彼にできる最善を尽くした。これは聞き書きという方法そのものが持っている、宿命的な欠陥なのだ。
そもそも、「もの言わぬ」相手のホンネを、どうやって聞き取れば良いというのか。
察すれば良いだろう、こちらが勝手に想像すれば良いだろうというのは、当の相手から見れば大変無礼な振る舞いであり、ハタから見ればただの思い上がり、または傲慢である。
「もの言わぬ」相手のホンネを、「おまえのホンネはこうだ」と決めつける権利を持っているのは、ただ裁判所と税務署と公正取引委員会あるのみである。
では、みのもんたの身の上相談は、あれは無礼ではないのか?傲慢ではないのか?
あれは傲慢ではない。みのもんたは「お譲さん、アンタねぇ、一体ナニ考えてんの!?」と、叱られたがっている相手を叱っているだけだ。無理矢理なのか、それとも相手と合意の上なのか、また、相手に無礼と取られはしないかは微妙なところだが、そこのところを紙一重の差ですり抜けてみせる、みのの練達の話術はさすがである。
閑話休題。『窮乏の農村』をもって、「昭和戦前期の日本の農村の全体像はこうだった」と捉えたら、おそらく誤るだろう。だが、「こういう一面も、あるにはあったに違いない」と捉える限りにおいては、政治的立場の如何を問わず、有益な歴史資料と言えるのではなかろうか。
これだけは言える。本書は、私の歴史意識の空白を埋めてくれた良書である。
昭和戦前期の日本の農村は、決して暗黒ではなかった。
もちろん、零細規模経営で、農産品市況が不安定で、地主からの収奪も激しかったため、楽な暮らしではなかったが、農民も、決してやられる一方の哀れな立場ではなかったのだ。いやむしろ、なかなかにシタタカなものではないかと思われた。
実際、旧ソ連では、都市労働者(月給取り)は共産党の言うことに唯々諾々と従うしかない立場に置かれていたが、農民たちは共産党のことを散々手古摺らせてきたのである。中共は今でもそうだ。
それでは最後に、昭和戦前期の日本の農村の「最も意識が尖鋭な部分」たちの「声ある声」をご紹介したい。
(引用、始め)
(藤村注;昭和恐慌では地主階級も痛手を負った。時流に乗り損ねたものが没落するのは、有産階級であっても変わらないからだ。中小地主はことにそうだ、という話に続けて、)
新潟県の米作地帯などで、「中小地主の没落は急角度だ」といわれるのは、そこの小作人が他県よりよほど強かったことにも関係する。近年猛烈な争議をして勝った王番田(おうばでん)の小作人たちは、この辺の地主は借金で首ったけでもうわれわれに抵抗する気力などはないと大層気焔(きえん)をあげていた。
この小作人たちの気焔は全く愉快なものだった。抵抗する気力がないなどと好い気になっているとひどい目に逢うぞ、と笑った者がある。すると彼らも負けてはいない。万事はこの胸にある、といった調子である。そんなら、今後の対地主政策はときくと、突嗟(とっさ)に、「まず生かさず殺さずという所かな」という応酬だ。(P168)
(引用、終わり)
(以 上)
【19】つくばだより、その1
震災一日目(3/11)、茨城県つくば市は激しい余震あり。決して気持ちの良いものではない。
震災二日目(3/12)は、波のようにうねる余震に変わった。船酔いのような気分になる。
震災三日目以降はもう覚えていない。落ち込んだ気分にも慣れてしまった。
震災五日目(3/15)にしてようやく悟った。そもそも、余震だ停電だ断水だと、何かある度にいちいち気を張り詰めるから、日が落ちる頃にはドッと疲れが出て憂鬱になるのである。
もうこうなったら是非には及ばず。鈍感かつ無神経になるに限るとハラを括った。ということで、ヤケ食いのようにずっと口を動かしてばかりいる。雰囲気もクソもない、まるで排泄行為のような食事だ。ちなみに、性欲の方はまだ回復していない。(以 上)
【18】(参考文献)2011年3月16日付、読売新聞より
(Q)
地震直後から船酔いのような症状が抜けません。これは何でしょうか。(茨城県那珂市 27歳男性)
(A)
「地震酔い」と言われているものです。今回の地震は揺れた時間が長く、しかも大きな余震も続いているため地震酔いにかかる方も多いかもしれません。
メカニズムは船酔いや車酔いと同じです。視覚情報と三半規管で感じる平衡感覚にズレが生じると自律神経が興奮し、「酔い」の状態になります。
「不安感」なども原因です。車酔いする人がバスの中のにおいや、たばこなど苦手なにおいがすると酔いやすくなるのと同じで、「また地震が起こるかも」「親戚、家族は大丈夫だろうか」といった不安感が余震による酔いを増幅させているのでしょう。
地震酔いが苦しい人は、深呼吸をし、冷たい水や温かいお茶を飲むなど、リラックス出来る工夫をしてみて下さい。(喜多悦子 日本赤十字九州国際看護大学長)
【17】(参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(1/4)
<書誌事項> (著者)田村康二、(書名)「震度7」を生き抜く、(副題)被災地医師が得た教訓、2005年、祥伝社新書
<著者略歴> 1935年、新潟県生まれ。新潟大学医学部卒業後、同大医学部助教授、山梨医科大学教授を経て、2001年より新潟県長岡市の立川メディカルセンター常勤顧問を務める。生体リズムを病気の予防、健康に生かす「時間医学」の第一人者。(前掲書より)
<前掲書P224~231より>
[生体リズムを生かして復活しよう]
震災に遭うと、ふだんなんとなく暮らしていた「普通の生活」が、いかに大切かを思い知らされる。では、普通の生活とはなんだろうか? 与えられた自然の中で、心と体の調和がとれている暮らしだと思う。つまり、心身のリズムがうまくとれている生活である。だから、普通の生活に戻るには、このリズムをふたたび取り戻すことにある。
私も、ようやく落ち着いてきたのは、地震後一カ月も経ったころだったと実感している。余震もやっと減ってきたころだ。
地震発生時に、ジムのプールで恐怖の体験をした人に聞いた。
「あのときから、またプールに入りましたか?」
「今日、一カ月ぶりに入りました。でも、怖くてすぐにあがりましたよ」
などという悩みを聞く。
近くの長岡操車場跡地には、たくさんの仮設住宅が造られ、まるで一つの街ができたような気がする。
多くの被災者が、リュックサックを肩に私のアパートの前を行き来している。あのとき、幸せな生活を突然奪われた方たちには、なんの落ち度があったわけではない。なのに、なぜ「仮設住宅に入れてホッとし、落ち着きを取り戻してきています」という生活に耐えなければならないのだろうか。
だが、慣れとは怖いもので、人間は一カ月も経てば、新しい生活に順応しはじめる。
昔から「石の上にも三年」というが、いま思えば、私も風土や仕事がまったく違うこの地での生活に馴染むのに三年かかった。このように、人間の体調、つまり身体のリズムが新しい環境に馴染むには一定の時間が必要なのである。
人間は、広い宇宙の中の地球という星で暮らしている。だから、まず地球物理学的な力が「秒・分・週・月・年」という時間を決め、身体はそれにしたがって変動している。
この変動は、リズミカルに変わって「生体リズム」となり、体内にそれを刻む「生体時計」が作られていく。さまざまな時間的周期を持つリズムは、それぞれがいわば小さな波であり、それらが互いに重なり合って大きな波を作り、心身のリズムができあがってくる。このリズムの代表が、約二四時間のリズムである。これを「サーカディアン・リズム(概日リズム)」と呼んでいる。
(以下、次号)
【16】(参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(2/4)
(承 前)
サーカディアン・リズムは、遺伝的な要素、つまり、持って生まれた「時計遺伝子」と、生まれてから今日に至る「環境」のあいだの互いのせめぎ合いでできている。
まず、身体の細胞のすべてにある時計遺伝子は約二五時間周期である。これを体内時計と言う。
一方、自然環境である対外時計は、太陽の運行で決まってくるが、これは二四時間周期である。これらの内外二つの時計の互いのせめぎ合いで、体には“体の時計”ができてくる。これを「生体時計」(以下、時計とする)と言う。
二つの時計の互いのせめぎ合いの結果、時計の周期は約二四・五時間ほどになるが、この時計の中枢は、脳のほぼ中央に位置する「視交差上核(しこうさじょうかく)」の時計遺伝子の塊の中にある。
この塊に対し、眼から入った光の刺激が伝わると、松果体(しょうかたい)という組織に信号が伝えられ、そこからセロトニンという「時計のホルモン」が分泌されて、全身の時計を調節していく。これが「体調」といわれ、リズムを調節している仕組みである。
「今日は体調が悪い。だんだんと調子が上がってきた。リズムに乗れる」などという言い方を、誰もが日常的にする。つまり、誰もが一定のリズムで自分の体が揺れ動くような気がしている。
こうした人間身体の経時的な変動には、一定の規則性があることが科学的に解明されてきて、これを研究しているのが時間医学である。この医学の成果は、時間的変動の規則性を見つけることで、日ごろの暮らし方に基づく健康法となり(これを私は、生体リズム健康法と提唱している)、さらには病気の予防や診断、治療に使われている。
たとえば、大脳の前頭葉は、主な頭脳活動(発語、気分、思考、言語など)をつかさどる。頭脳活動や精神的な活動は、一日のうちで午前十一時ごろが最高になり、夕方になるにつれてこの活動は低下してくるというリズムがある。
じつは、頭脳活動を数量的に評価するのは難しいのだが、一日のうちで計算能力の速さについての変動を分析すると、このリズムが明らかになる。したがって、朝の時間帯に企画、立案、評価、あるいは家計簿の整理などの頭脳労働をするのが効率的である。
一方、スポーツに不可欠な運動要素である、走る、蹴るなどの働きは、午後四時ごろにピークになる。そのため、この時間に試合をすればベストの試合ができる。つまり、肉体労働は、午後から夕方にかけて行なうようにするのがベストなのだ。
宮本武蔵は『五輪書』という剣の極意書で、拍子(リズム)や度を越す(急所を乗り切る)タイミングの重要さを説いている。かの有名な巌流島での決戦には、このリズムを考えたに違いない。人生、何事をするにもリズムに乗り、タイミングを摑むことが大切である。そうして、うまく調子の波に乗れれば、体調も元に戻り、回復も早まってくる。
(以下、次号)
【15】(参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(3/4)
(承 前)
[身体のリズムを取り戻すポイント]
地震では、一挙に急激な生活や環境の変化に出会う。このために体調がすっかり狂ってしまう。だから、変化に慣れるためにリズムを調律し直す必要がある。新しい環境に馴染み、溶け込み、適応し、順応して同化していくのである。どのように慣れていったらいいのかを知ることは、大切な生活の知恵だ。
新しい環境に慣れていくには、「基になる周期の四~五倍の時間」がかかる。まず、この原則をよく承知してほしい。
①一日のリズムを治すには最低四日はかかる。
病院に入院すると、普通、最初の四~五日間は微熱と軽い頻脈が起こる。その後は正常に戻るが、昔から医師はこれを「病院熱」と呼んできた。理由は、入院する前の生活リズムが入院で一変するからだ。しかし、一日の四~五倍、つまり入院四~五日目になると、ようやく新しい生活リズムに慣れてくる。
時差ボケも病院熱と同じである。交代勤務や海外旅行のために昼夜が逆転すると、体内に時差が生じる。これを「時差ボケ」と呼ぶ。海外旅行による時差は、日本から東西どちらへでも五時間以上続けて飛ぶと起きてくる現象だ。この結果、普通は寝ている時間に急に起こされ、寝ボケている状態と同じになってしまう。原因は、急に現地時間が異なる場所に移動して夜と昼が逆転してしまい、身体の時計が狂うからである。さらに疲労・ストレスが加わる。
ただ、このボケ状態も、病院熱と同じように四~五日でおさまる。ともあれ、一日のリズムの乱れを治すには、四~五日かかると思ってほしい。
②一週間のリズムの狂いを治すには最低四週間はかかる。
人には、「労働の一週間リズム」がある。旧約聖書には、「天地万物は完成された。第七の日に神はご自分の仕事を離れて安息された。この日に神は、すべての創造の仕事を離れ安息されたので、第七の日を神は祝福し聖別された。これが天地創造の由来である」と書かれている。
「神が全能なら、なぜ万物を作るのに六日間もかかったのか? なぜ一秒で作れなかったのか?」と異教徒なら当然の疑問を問うと、ユダヤ・キリストの聖職者の顔色が変わるだろう。しかし、彼らに感謝しなくてはならない。なぜなら、そのおかげで日本でも日曜日を休むという習慣が根づいてきたからだ。
医学的に、身体には「一週間」というリズムがあることがわかってきた。実験用のネズミも七日目には活動が鈍る。
要するに、環境の急な変化に対しては、まず、一日の四倍の四日間を使って慣れ、次に七日の四倍、約一カ月で慣れていくことが大切である。一週間のリズムを取り戻すには、四週間の連続した休養が必要となることを知ってほしい。もちろん、一カ月を取り戻すには、四カ月間辛抱しないと日ごろの生活は戻ってこない。
(以下、次号)
【14】(参考文献)田村康二「“震度7”を生き抜く」より(4/4)
(承 前)
リズムを取り戻すに必要なのは、まず食事である。ふだん通り、三度の食事を規則正しく摂ることからはじまる。食事内容も大切である。たとえば、枝豆に多く含まれるトリプトファン。これから生まれるアミノ酸は睡眠物質を作る材料になるので、不眠を感じる人は大豆を食べるとよい。
アメリカから沖縄へ兵士を空輸する際、トリプトファンを摂った兵士は機内でよく寝ていたという報告がある。また、熟眠したければ、ミネラル、ビタミンを多く含むブロッコリーがおすすめである。寝酒に愛用されるワインでは睡眠物質は作れない。
全身運動をするのも効果的である。じつは、長岡市では日本ではじめて、市民による「長岡市朝起会」を行なった土地である。NHKのラジオ体操より早い。
一九二二年(大正十一年)から四〇年(昭和十五年)まで、「励めよ励めよ朝起きを、三六〇有余日、雨の降る日も、おめずおくせず、ためらわず・・・・・・」という「長岡朝起きの歌」を歌いながら、全身運動する習慣が続いた。全国に誇れる社会体操の先駆である。
いま、これに習って早寝早起きし、軽い全身体操をするといい。これは、全身のリズムを整えるのに効果がある。元気を出して、朝の体操をしてみよう。(以 上)
【13】つくばだより、その2
3月11日午後4時頃、私は自家用車で茨城県つくば市の職場から退避した。
工場には既に毒ガスが充満していた。臨時社員の私は何の役にも立たないばかりか、足手まといになる。年下の課長から、おまえは帰りたければ帰れと言われた。お言葉に甘えて帰ることにしたのだ。
主要道路は渋滞していると推測し、私は脇道を行くことにした。
長高野(おさこうや)、篠崎(しのざき)、沼崎(ぬまざき)、酒丸(さけまる)といった名の、昔ながらの農村集落の間の、生活道路や農道をジグザグに辿りながら、私は南下して行った。
所どころでブロック塀や大谷石の塀が崩落していた。屋根瓦が剥落している家屋もあった。地震で破壊された建築物にどのような共通性・法則性があるのか、私には分からなかった。路上のそちこちで村民たち(その多くは高齢者であった)が立ち話をしていた。車で脇をすり抜けたら、みな一様に、私のことをうさん臭そうな目で見る。
そのうち、私はあることに気がついた。崩れた塀はずいぶん見かけたが、それが通行の支障になるようなことは、ただの一度もなかったのである。
崩れたブロック、崩れた大谷石は、よく見ると、みな道路脇に行儀良く整列していた。あの大地震で、塀のブロックや大谷石が、こんなサーカスみたいに器用な着地をご披露するものだろうか。
おそらくは地震発生から数時間以内に、誰かが路上から崩れたブロックや大谷石を取り除けたのだ。一体どの誰が、一体どうやって、これだけの大仕事を鮮やかにやってのけたのだろうか。
私はつくばの農村の底力を知った。一見、何もない田舎のように見えたが、つくばの農村は、決していわゆる「限界集落」(注)ではなかったのである。この一年半、あちこちブラブラ見て回ったつもりでいたが、私はつくばがどういう土地なのか、全く分かっていなかったのだと思う。(以 上)
(注)「限界集落」とは過疎化などで人口の50%以上が65歳以上の高齢者になり、冠婚葬祭など社会的共同生活の維持が困難になった集落のことを指す。(ウィキペディアより)