ふじむら掲示板
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Loginはこちら【398】2054様、私の投稿を読み違えています。
睦月(2145)です。2054様の指摘(倭国王不在)について。私の技術が低くてうまくコピペできなくて、恐縮ですが、取り急ぎ要旨のみ。2054様、私は「倭国王不在」=九州王朝の王不在と主張していまして、大和王朝の各天皇のことは不在とは言っておりません。私の投稿を読み違えています。入り口で間違えていらっしゃいますので冒頭のパラグラフ以外は論じるに値しません。それとも、孝徳天皇以下は倭国=九州王朝の王様の名前だといわれるのでしょうか。私は副島学説に従い、大和王朝と九州王朝(倭国)は別物という理解をしております。大和王朝の歴代天皇の系譜は、遣唐使派遣以降、「天皇号」や「日本号」とともに、中国側に伝わっている、と考えています。私が矢継ぎ早に投稿するものだから、消化不良を起こされたとしたら、それは申し訳ありません。
また、「原典」の件、承知しました。2054様がご多忙とのこと。私も貧乏サラリーマンですが、来月から長期入院にはいり、スマホやパソコンのアクセスが思うようにいかなくなるので、もしお持ちでしたら、との軽い気持ちでお願いしてしまいました。もしご負担に感じていらっしゃたのなら、これも申し訳ありません。
今後も2054様の投稿を楽しみにしておりますので、どうぞマイペースでご相手いただくと幸いです。
(追記)ところで、小林氏のいわれる「羅記」とはなんでしょう。また、「元亀」とは。少なくとも、高校教科書レベルを超える史料を次々と出されるのだから、かなりマイナーな史料なのか、とも思ってしまいます。マイナーな史料なら、その資料の信ぴょう性を確認する必要があります。そうでなければ、よいのですが。小林氏や2054様は倭国すなわち大和王朝、という前提のようですが、私、伊藤は、広義の倭国=狭義の倭国(九州王朝)プラス大和王朝という見解をとっていますので、そこから、考えの食い違いが始まっているのでは、ないか、と考えています。
(以上、伊藤睦月筆)
【397】学会標準学説で、自説(伊藤のファンタジー)を検証する。(1)
伊藤睦月(2145)です。今回は趣向を変えて、学会標準学説を読んでみましょう。私、伊藤は、特に歴史ものの自説を展開する前後で、学会の見解をチェックします。ひとりよがりだったり、すでに学会で公認されていて、知らずに恥をかくことをできるだけ、防ぐためです。今回は、チョウネン坊主に関する論考をとりあげます。結果は少しうれしく、少しくやしい、ものでした。それでは、ご一読ください。
(1)1970~80年代の学会通説(日本大百科全書:伊藤隆寿)
チョウネン(938?)平安時代の三論宗(南都六宗の一)の僧。俗姓は藤原氏。京都の人。幼くして東大寺に入り、東南院の観理に三論を学び、石山寺ゲンゴウに密教を受けた。983年(一説に982年)8月に宋の商船に乗り、入宋し、翌年ベンケイ(北宋の首都開封)に入って、太宗にまみえて紫衣と法済(ほうさい)大師の号を賜る。ついで、五台山などを巡礼し、987年2月に帰国した。宋版大蔵経5000巻、釈迦像(インドのウテン王が刻した栴檀(せんだん)の釈迦像を摸刻したもの)、16羅漢画像などを将来する。989年東大寺別当に任命されて、3年間奉職した。のち弟子の盛算(じょうさん)が嵯峨のセイカ寺境内に釈迦堂を建立して、清凉寺と号し、チョウネンの将来した釈迦堂を安置した。この像は、三国伝来の栴檀端像として、信仰を集めた。
伊藤睦月です。このころは、日本仏教興隆への貢献、清凉寺を建立した高僧、という面が注目されています。その中で、私が目をつけたのは、「宋の商船に乗って、入宋し」の部分で、宋史には、入宋時の商船の商人名が記載されてないことから、密航と推理していたのですが、結果的には当たらずも、遠からず、でした。実は、チョウネンは、当時北宋の敵国だった、呉越国の商人の船だったのです。当時呉越王と藤原氏は手紙のやりとりをしていて、チョウネンの前にも、日延という僧が、呉越商人の船で中国にわたっています。(「倭人伝」516ページ)それで、宋の歴史書には、記載されず「海に浮かんでプカプカと」記載されたのでした。
ちなみに、呉越国は、960年に宋に滅ぼされています。
伊藤睦月です。チョウネンの評価は、上記が基本ですが、2000年以降はそれ以外の側面にも注目されます。日本史学者と中国史学者の記事を掲載します。副島史学では、「世界史視点」が重要視されますが、日本学会もそれに追随しているように、私には思えます。まずは、日本史学者の記述から。
(引用はじめ)
このチョウネンの入宋について、もっと公的な意味を考えるべきだということを、石上英一氏が10世紀の外交を分析する中で述べている。チョウネンは、入宋に関して「允許宣言」(出国許可)を蒙っているが、単なる巡礼のための出国許可ではなく、もっと公的な使命を日本政府から負わされていた、という推定(この語に注意)である。(「道長と宮廷社会」大津透、初出2001年講談社学術文庫)
(引用終わり)
伊藤睦月です。守谷健二君も、チョウネンの入宋目的について、似たようなことを主張していたが、それが、旧唐書ショックに対応することだったのか、先に進みます。
(引用はじめ)
彼が渡航したのは983年であるが、960年に建国された宋は、979年に北漢を滅して中国全土の統一をなしたのである、統一直後の宋に対して、チョウネンは日本からの使者として、入宋したので、だから台州(浙江省)に上陸して、天台山を巡礼した直後に、宋都ベン京に行き太宗に朝見(拝謁)した、というのである。チョウネンは太宗に対し、銅器十種(それで、黄金はどこに行った?)、「職員令」「王年代記」を献じ、また中国ではすでに散逸していた鄭玄注「孝経」と越王の「孝経新義」も献じている。そして、皇帝の下問に応じて日本の風土を答え、王統譜を述べ、地理(国名)や人口を述べている。この答に、太宗はこの「島夷
」が皇統が変わらず、進化も継襲していることに、「これけだし古の道なり」と感嘆している。(前掲同書339ページ)(引用終わり)伊藤睦月です。」ここまでは、守谷君も「万世一系」の語を使用しなければ、おおむね正確です。さて、次に注目、現在の日本史研究者はここまで踏み込むのか、と思いますが、副島史観を知っている我々にとっては、そんなに驚きはないでしょう。
(引用はじめ)チョウネンは、国家の正式な使節ではなかった、とはいえ、風土を説明し、王統を述べたことは、宋朝への朝貢に準じた行為であった。「宋史」巻491の日本国伝の過半がチョウネンの入貢の記事であることから、宋朝にはそのようにとらえられ、また、チョウネンが入宋したことにより、宋の世界秩序のなかに、日本が位置づけられたことは疑いないだろう。律令制下とは変質しているとはいえ、日本は、宋を中心とする、国際秩序の中に自らをいちづけていたのである。(引用終わり:前掲同書339ページ)
伊藤睦月です。宋帝国は、日本が自ら属国になることを希望した、その朝貢使がチョウネンである、とうけとったのでした。また、チョウネンは否定しなかった(できなかった)。そして、日本は「やせ我慢」を続けた・・・。私のファンタジーとほぼ同趣旨のことが、20年以上前に一般向け歴史書にすでに書かれていた。少しうれしいけど、やっぱ悔しいね。これについては、別稿で深堀します。それでは、現在の中国史学者の見解も、みてみよう。
(引用はじめ)遣唐使が廃止されてからも、事実上の国使として日本を代表して中国に渡った天台宗の僧侶たちがいた。彼らが訪問したのは、唐末から長江下流部に事実上の独立王国として君臨していた、呉越国であった。呉越の領域内には天台山があったから、彼らにとってはこの渡航は聖地巡礼でもあった。呉越が宋によって併呑されてからは、海風に置かれた宋の宮廷が訪問先となった。その最初のチョウネン(938~1016,983年入宋)である。(彼は天台宗でなく、東大寺の学僧であるが)彼の訪問は宋の側からも重視され、宮廷には詳細な記録が作成・保存された。一度「宋史」の日本国伝をひもといてみていただきたい。彼に関する記述及びかれが伝えた日本情報で埋め尽くされている。
トウネンは、日本仏教史の側からも、極めて重要な貢献をした。宋で印刷された直後の大蔵を持ち帰ることを許されたのである。宋の宮廷からすれば、発明間もない新技術を文化のいまだ開け夷狄に誇らしげに示すという意味合いを持った行為であった。(引用終わり:小島毅「中国思想と宗教の奔流(2005年)」18ページ中国の歴史7講談社学術文庫)
伊藤睦月です。現在の中国史学会では、①日本が宋の属国になったこと➁日本仏教の振興に寄与した、学説が有力しされています。そのキーパーソンがチョウネンというわけです。➁はともかく、①について、当時の支配者層はどう思ったでしょうか。以前の投稿でチョウネンの行為は、支配者層を「当惑させた」と書きましたが、それですんだのか。これについても、今後深堀りします。私自身も、自分のファンタジー(副島史学)と学会学説が共鳴してしまって、すこし「戸惑っています」勉強の種はつきません。まだまだ投稿続きます。
(以上、伊藤睦月筆)
【396】【486】【485】伊藤氏の見解についての疑問点(3つ目)
<3点目>旧唐書に倭国王の名前が記されなかった理由
(引用はじめ)
【473】【472】【471】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(2)
(4)当時の倭国に王はいたのか、さらに私の想像が続きます。中国正史(旧唐書東夷倭国)に倭国王の名前が一人も記されていないのはなぜか。それは倭国には王がいなかったからだ、と考えます。倭国は華僑が合議制で運営していた国だったと、私、伊藤は考えます。その代表者をとりあえず。「王」としたにすぎない、と考えます。
(引用終わり)
会員2054です。伊藤氏の記述の通り、旧唐書には孝徳から孝謙までの諸天皇の名が記されていない。しかし、その理由は倭国に実体としての王朝が不在だったことを意味しません。少なくとも『書記』をはじめとした諸文献に歴代の天皇は表記されています。これを否定して「王は不在」とするのであれば、それ相応の根拠が必要です。
国内での実態はどうあれ、旧唐書に諸天皇の記載がなかった事実は、唐の意のままにならない王朝だったことを示していると考えられます。唐は天智朝を正統とし、天武朝系天皇を認めていません。また、唐はタリシヒコ王朝が山背倭王の時代に滅んだあとは、倭は血統として別系となったと認識しているのでしょう。これが旧唐書にいう「倭国の別種」という意味と解釈します。
私は以下にある小林説の説明に理があると思います。
(引用はじめ)
欧陽脩らが編纂して1060年に完成した『新唐書』(列伝145東夷)には、孝徳・斉明・天智・天武から聖武・孝謙に至る歴代の天皇を記録している。しかし百年以上前の945年に成立した劉昫の『舊唐書』(東夷伝)には倭王の姓は阿毎氏とある。(中略)『旧唐書』には648(貞観22)年になって新羅を附して表を奉り、唐国に起居を通じてきたとあるのみで、孝徳から孝謙に至る諸天皇の名を一切、挙げていない。(中略)起居とは国王の身辺の様子をいうから、この後、天皇の身辺も含めた国情を新羅を通じて唐国に知らせていたという意味である。起居を通じたとあるところからみて、『旧唐書』の編者が当時、孝徳以下の天皇を認識していたことは間違いない。おそらく唐朝の意のままにならなかった孝徳から孝謙に至るまでの諸天皇を無視して、その名を記載しなかったのだろう。
『旧唐書』では、その後、半世紀あまり空白ののち、唐突に702(長安2。本紀による)年10月に粟田真人が朝貢し、日本国は倭国の別種だが、倭国という国名を良くないとして日本にしたと報告してきたとある。日本が倭国の別種という意味は、当時の文武天皇が倭王阿毎氏、つまり『隋書』にいうタリシヒコ(小林説では聖徳太子)とは別系で、倭王の阿毎氏は山背皇子で途絶えたといわんとしたのだろう。
(引用終わり)
以上となります。なお、私は歴史研究家でも何でもありません。原典に逐一あたっている時間的余裕もなく、明日からは仕事に忙殺されるいっかいの庶民に過ぎません。【484】において伊藤氏から原典の教示を求められていますが、できません。この点、取り急ぎ、返信させていただきます。(追記)冊府元龜の原文ウェブサイトを見つけましたので、追記します。https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=189858
【395】【485】伊藤氏の見解についての疑問点(2つ目)
<2点目>白村江の戦いにおける「倭国」の表記について
(引用はじめ)
【483】(482)における会員2054様の指摘にこたえます。
(9)私がこだわるのは、少なくとも私の所持している、白村江の史料では、「倭人」「倭兵」と表記され、「倭国」と表記された文書を確認できないことです。なぜでしょう。
(引用終わり)
会員2054です。「倭国」と表記された文書は「羅紀」にあります。小林恵子「白村江の戦いと壬申の乱」p105より引用します。
(引用はじめ)
「羅紀」(文武王11年)の仁貴への返書において、文武王は「新羅兵馬亦発同征行、至周留城下、此時、倭国船来助百済、倭船千艘停在白沙、百済精騎岸上守船、新羅驍為前鋒、先破岸陣」と、文武王等が周留城に至ったとき、百済を助けに来た日本水軍が千艘、白沙に停泊しており、これを百済の騎兵が岸上から守っていた。そこで羅軍は唐の先鋒となって岸上の百済軍を破ったとある。
(引用終わり)
会員2054です。上述の羅紀に「倭国船来助百済、倭船千艘停在白沙」とあり、倭国と表記された文書の存在が示されています。
(反論3点目に続きます)
【394】伊藤氏の見解についての疑問点(1つ目)
会員2054です。まず、回答をしていただいた伊藤氏に御礼を申し上げます。私の立場を明確にしていなかったため、誤解を招いてしまったように思います。私は、岡田説のように倭国と日本が別の国という立場を採りません。当時の倭は、日本列島の総称のことで、倭国と日本は同一の意味と解します。
伊藤氏の見解(倭国と日本は別)からすると、その点を明らかにしないと用語の区別もできない雑な説明と判断されるのも理解できます。この点、お詫び申し上げます。
なお、以降は、私の立場(倭国=日本)を前提に記述させていただきます。引用元の小林恵子説も同様の立場と理解しています。伊藤氏の見解への疑問を続けます。
<1点目>665年当時の東アジア情勢について
(引用はじめ)
【476】【475】白村江の戦いでは、日本(倭)は唐帝国の相手ではなかった。(5)
ここで「どんでんかえし」というのは、前頁からの流れで、633年の白村江の戦いの後、 唐の同盟国(属国)であることをやめて、朝鮮半島統一に方針転換をした、またその動きを始めたので、それを警戒した唐帝国が、新羅をはさみうちにするため、日本と友好関係(つまりは朝貢して唐の属国になれよという誘い。当時はそして今も対等な同盟なんてほとんど存在しない)を結ぶべくすりよってきた、ということであろう。そうなると、665年と669年の軍隊兼使節の来日は、日本に朝貢を促すための、使者を派遣してきた、ということになる。
(引用終わり)
会員2054です。伊藤氏は663年以降、唐が新羅をはさみうちにするために日本にすりよってきたとあります。日本と唐が講和した(665年)のは事実と思われますが、「新羅をはさみうち」にする意図が当時の唐にあることを示す根拠は存在しません。
むしろ、歴史の流れは別方向に向いています。665年8月に劉仁軌は、百済の王子(扶余隆)と新羅(文武王)の間で和平を結ばせています。また、同年に倭国に使者(劉徳高)を送り、唐国と倭国の講和も成立しています。当時は唐による高句麗征討の前夜でもあります。これらを前提にすると、新羅をはさみうちするような状況ではなく、むしろ対高句麗戦をまえに、旧百済、新羅、倭国との結束を固める唐国の企図がうかがえます。
また、中大兄(天智天皇)の捜索・捕縛という伊藤氏の見解も根拠がありません。劉徳高の来倭当時、大友皇子(天智天皇の子)の相を見て大いに褒めたと『懐風藻』にあるようです。これは伊藤氏の見解と真逆の事実を表しており、のちの天智朝の承認を表している証拠となります。
(反論2点目に続きます)
【393】2054様へお願いです。
伊藤睦月2145.です。2054様が自説の根拠とされている小林氏の引用史書。そのうち、元亀、という史料に対する情報をもっておりません。ご教示お願いします。
また、可能なら、他の史書の白村江の記事、白文で結構ですから、これもご教示ください。書きくだし文もご教示くださると、大変助かります。どうぞ宜しくお願いします。
伊藤拝
【392】(482)における会員2054様の指摘にこたえます。
伊藤睦月(2145)です。会員番号2054様、ご指摘ありがとうございました。
以下の通り、回答します。
(1)私、伊藤は「列伝の記載が事実ではない」と主張していないし、守谷健二君も、「事実」である、と断定して いない。2054様の誤読であろう。
(2)守谷君は、列伝の記事をもって、「倭国記事」と見做してはだめですか、と謙虚に問われたので、「見做す」ではなく、反証可能な「推定する」なら、あり、ですよ、と返しただけ。見做すと推定するとの論理的意味、使い分けについては,あまりにも初歩的な事項なので、説明は割愛します。
(3)守谷君は、列伝の白村江の記事を、「倭国記事」とみなす、とされ、同列伝の封禅の儀に倭国王を引き連れた記事をもって、その補強根拠としている。これについては、守谷君が原文もしくは、その訳文を示していないので、賛否は保留している。列伝の類似記事が他の史料にあり、それを吟味できれば、それでよい。(これが反証可能な資料という意味、私、伊藤は、列伝記事は反証不可能な史料、だとは指摘したが、事実でないとは、決めつけてない。こちらの表現も未熟だったかもしれないが、もう少し注意深く読んでいただきたい。)
(4)2054君が、「倭国記事を裏付ける史料」としている小林恵子氏の引用文は、非常に雑な議論なので、裏付け史料としては不適切である。これについては、少し詳しく述べます。
(5)小林氏は、
「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦棲、其船四百艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」、
という守谷君も引用している文の日本語訳を、
「(劉仁軌は)白江に入り口に至ったとき、日本軍と出会い、四戦して日本軍の船四百艘を焼き討ちしたので、煙は天を覆い、海水は一面に赤くなって、日本軍は壊滅したのである。
これって、かなり雑な議論だと、わかりますか。
伊藤睦月です。上記の文で、「倭兵」を「日本軍」と訳しているところ。「倭国軍」としていれば、日本歴史学会の基準に達している。
(6)(引用開始)
斉明天皇と中大兄皇子は、百済を復興して朝鮮半島における倭国の優位性を復活させようと考え、百済救援の大軍を派遣することに決した。661年、中大兄皇子は斉明天皇とともに筑紫に出征し、斉明天皇の死後は、大王の地位につかないまま、戦争指導を行った。662年に大軍を渡海させたが、翌663年白村江の戦いにおいて、唐・新羅の連合軍に大敗した。(佐藤進、五味文彦ほか「改訂版詳説日本史研究」(山川出版社)57ページ)
伊藤睦月です。このテキストは高校日本史レベルの本ですが、著者たちは、東京大学の教員たち、つまり学会の主流の人達で、このテキストの見解は、日本歴史学会の通説的見解といってよいと思います。ここで著者たちは「倭国」という語は使いますが、「日本」という語を使用することを慎重に避けています。なぜなら、著者たちは、「日本」という国号は、702年に派遣された遣唐使によって、中国に知らされて、中国の皇帝に承認されたことをもって、「日本」の始まり、と考えているから。(同書65ページ)小林氏が白村江の戦い時に「日本軍」と表記しているのは、学会の通説的見解では誤りで、彼女が学会に属しているなら、何らかのエクスキューズが必要です。でなければ、読者をなめています。
(7)また、われらが副島史学の立場から見ても、この文章はおかしいです。副島史学では、当時の倭の国は、倭国(九州王朝)、日本国(大和王朝)が並立しており、白村江の戦いでは、九州王朝が戦って、敗北した。残った大和 王朝が倭国を合わせて全国王朝となり、やがて国号を「日本」に改めた、とされています。(伊藤要約)
(8)であれば、「倭兵」はやはり、「倭国軍(もしくは九州王朝軍)」と訳さないと、白村江で「日本軍」(=大和王朝軍)が全滅したことになります。小林氏の書き方はその辺が雑です。これは彼女の頭が雑だということになると思います。副島史学では、倭国と大和王朝は別物ですから。(これについては、また稿を改めて論じます)
(9)私がこだわるのは、少なくとも私の所持している、白村江の史料では、「倭人」「倭兵」と表記され、「倭国」と表記された文書を確認できないことです。なぜでしょう。旧唐書では、「東夷倭国」があるのに、新唐書百済の白村江の記事では、なぜ、「倭人」であって「倭国」ではないのか。小林氏の原文引用が正確ならば、中国書の白村江記事で、表記されているのは、「倭兵」である、ということを確認できるだけです。それなら、そのあと戦争捕虜を「倭人」と表記し,倭兵と表記しなかったのでしょう。なぜ旧唐書では、「倭国」と表記し、「倭」と表記しなかったのでしょう。私は議論の勝ち負けでなく、(どんなささいなことでも)真実に近づきたいだけです。
(以上、伊藤睦月筆)
(追記)なお、私は、旧唐書東夷倭国は、白村江の戦いの15年前(648年)の記事で終わっていることから、倭国はその時点で消滅しており、そのため、それ以後は、「倭国」という表記が使用されず、「倭」という、単なる地名表記になってしまった、という説(私だけの超少数説)を持っています。
(以上、伊藤睦月筆)
【391】【466】(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)についての反論
会員2054です。歴史書についての私の疑問に回答いただきありがとうございます。伊藤氏に御礼申し上げます。歴史書が門外不出(非常に重要)かどうかの言及はこれで終わりにしようと思います(学問道場の会員の皆様による賢明な判断にゆだねようと思います)。
守屋氏と伊藤氏の論争について、横から入ってばかりで恐縮ですが、以下の点について反論しようと思います。
(引用はじめ)【466】(3134)伊藤睦月氏に答えるに答えます(続き)
守谷(1)「列伝の記事を倭国記事と見做して悪いですか。悪いのでしたらその理由を教えてください。
伊藤意見:悪いです。理由:列伝以外には、いわゆる倭国記事を裏付ける史料がないからです。(例えば、百済や新羅、日本(大和朝廷)側の記事や旧唐書中のほかの個所(例えば高宗紀に白村江の記事があるとか)に列伝の内容を裏付ける記事を現時点では確認できていないから)つまり、列伝の記事は検証不能の記事なので、参考にはなりますが、そのまま「見做す」ことはできない。「推定」とか「推測」であれば、仮説の提示なので、仮説としてはありえます。(引用終わり)
会員2054です。『(旧)唐書』の劉仁軌伝にある、以下の点について、他の論拠を挙げることは可能と思われます。
「仁軌、倭兵と白江の口に遭う、四戦して勝つ、倭の船四百艘は焼かれ、煙と炎は天に漲り、海面は真っ赤に染まった。***」
小林恵子「白村江の戦いと壬申の乱」(現代思潮新社p104)より引用します。
(引用はじめ)
周留城は諸悪の根源であり、これを落とせば他の諸域は自ら下るであろうという仁軌の意見により、まず周留城を攻略することに決定した。この戦いに就いて、ほとんどの資料は「於是仁師、仁願、及び新羅王金法敏帥陸軍以進、仁軌別卒杜爽、扶余隆卒水軍及び糧船、自熊津江往白江、会陸軍同趣周留城、仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、其船四百艘、煙焔漲天、海水皆赤、賊衆大潰」(『旧唐書』・列伝34・劉仁軌、東夷、他、『新唐書』・列伝33、劉仁軌、「百済本紀」、『通鑑』・唐紀17、『元亀』・366・将帥部・機略等)と仁師・仁願・文武王等は陸軍として陸路により、仁軌・杜爽・扶余隆等は水軍として糧船を率いて白江に往き、陸軍と解して周留城に赴くべく、熊津江より白江にむかったが、白江の入口に至ったとき、日本軍と出会い、四戦して日本軍の船四百艘を焼き討ちしたので、煙は天を蔽い、海水は一面に赤くなって日本軍は壊滅したとある。
(引用終わり)
会員2054です。引用文にある通り、ほとんどの資料(『旧唐書』『新唐書』「百済本紀」『通鑑』『元亀』)に記載のある事実として守屋氏が挙げた点を著述されており、これらは倭国記事を裏付ける資料となります。そもそも列伝であろうと「いつ・誰が・何をしたのか」という事実が正確であれば、これを否定する理由はありません。列伝の記載が事実ではないとするのであれば、伊藤氏はその点を明示すべきではないでしょうか。私は、守屋氏が列伝の記事を論拠とすることは妥当と思います。
【390】(480)の表題書き忘れました。「2054様へのとりあえずの回答」とさせていただきます。
伊藤睦月(2145)です。2054様、上記の件、よろしくおねがいします。
伊藤拝
【389】
伊藤睦月(2145)です。最初に回答の骨子を申し上げますと、
①「門外不出」といえるだけの史料(他王朝の事例など)を発見できなかったので、「門外不出」は大げさといわれても反論できない、したがってにこれに代わる表現を考えます。(「非常に貴重なものであった」(仮)というではいかがでしょう)
➁しかし、中国正史というのは、「気軽にプレゼントされる」ようなものではなく、当時の、東アジア情勢をお考えると、金春秋たちが果たした役割を十分ご理解いただくことが肝要、と判断しました。
といいうわけで、2054様ご指摘の記事を読み解くことから始めます。
伊藤睦月です。まずは、・・・
会員番号2054様が示してくださった、旧唐書をググる前に、手持ちの「倭人伝」で、新唐書東夷新羅にほとんど同じ記事をみつけました。旧唐書は白文、新唐書は読み下し文という違いはありますが、二つを比較して、同じものだと判断し、新唐書の記事で、会員番号2054様の指摘に回答させていただくことにしました。では、新唐書での該当記事の、読み下し文、日本語訳を下記に示します。また読みやすいように適宜小分けし、番号を付しました。では、ご一読ください。
(1)(貞観21年)、善徳死す。光禄太夫を贈り、妹の(金)真徳をして王(位)を襲(継)がしむ。
(2)明年、子の文王及び弟の伊賛の子(金)春秋を遣わして来朝せしむ。
(3)文王を左武衛将軍に、春秋を特進に拝す。
(4)(新羅は)章服を改めて、中国の制に従わんと請うによりて、
(5)内より珍服を出だしてこれに賜う。
(6)又、国学に詣りて釈てん・議論を観しむ。
(7)帝、製せし所の「晋書」を賜う。
(8)辞して帰るとき、勅して三品以上(のもの)に郊銭せしむ。
(和訳:講談社学術文庫訳に一部伊藤加筆)
(1)貞観21年(647年)新羅女王善徳は死んだ。唐太宗皇帝は、彼女に光禄太夫を追贈し、妹の真徳に王位を
継がせた。
(2)真徳女王は、その子の文王と、弟の伊賛の子である金春秋とを派遣して唐に来朝し太宗皇帝に拝謁した。
(3)太宗皇帝は、文王を左武衛将軍に、金春秋を特進(特別功労者という名誉職)に任命した。
(4)文王及び金春秋は、今後新羅としては、官人の衣冠(官僚制度)のきまりを改め、唐帝国の官僚制度を導入したい、と申し入れたため、
(5)(その申し入れを喜んだ)太宗皇帝は宮中秘蔵の官服を出して賜った(プレゼントした)。
(6)さらに、国立大学に行き、儒教の学生たちによる公開討論を見学させた。
(7)また、太宗皇帝は、彼が編纂させた(勅選)「晋書」を文王と金春秋に賜った(プレゼントした)
(8)文王と金春秋が、別れの挨拶をして帰国をするにあたっては、三品(三位,紫衣、いわゆる高級官僚)以上の
高官たちに命じて都(長安)の郊外まで見送りにいかせた。
伊藤睦月です。まず、金春秋訪中の年648年は、新羅と百済の明暗をわけることになった、大変重要な年です。
①643年に新羅は高句麗と百済に攻められ、新羅の善徳女王は唐に救援を求め、唐は高句麗に圧力をかけて両国をけん制します。
➁645年に、日本(大和王朝)では、中大兄皇子と藤原鎌足という親百済派が親新羅派の蘇我入鹿を暗殺し、主導権を握り始めます。
➂647年に金春秋が来日し、新羅への救援要請をしますが、失敗します(関裕二説)
伊藤睦月です。当時新羅は、百済と高句麗から挟み撃ちのように、攻められて、ヤバかった。唐は高句麗をけん制するだけ、というまるで、現代のウクライナ戦争で、ロシアに対する西側諸国のような態度しかとってくれません。そこで、日本(大和王朝)に救援要請に行きますが、親百済派が、主導権を握りつつあったので、うまくいきません。そこで、金春秋は、唐帝国に救援要請に行き、唐帝国側と交渉し、交渉過程は不明ですが、からくも唐出兵の約束を取り付けました。そして、660年、唐・新羅連合軍は、百済を滅ぼします。663年百済の残党とそれに味方した倭人兵たちが、白村江で、唐水軍によって壊滅します。648年訪中は、まさにアジア情勢の帰趨を決めた超重要なニュースです。お気軽な交流会ではないのです。
この唐と新羅同盟(仮称)現在でいえば、軍事同盟ですが、新羅は唐帝国の家臣(属国)になることで、唐を味方につけました。2054様が指摘になった金春秋の訪中記事は、唐と新羅との軍事同盟が成立した直後の新羅の唐に対する表敬訪問の記録です。だからなごやかな雰囲気を演出しています。最近でも、金正恩とプーチンが協定を結んだあと、様々な歓迎行事をやっていますが、それと同じことです。「晋書」はその両国間の友好の証として、易姓革命の正当性を主張した歴史書として渡されたもので、決して「気軽なプレゼント」ではありません。そして、このプレゼントを受け取ったことは、中国の属国になったことを意味するものでした。
また、唐太宗皇帝に金春秋は、「特進」という位をもらって、臣下の礼をとっていますから、関係大有り。
金春秋たちは、唐のご機嫌をとるために、官服を新羅式から唐式に完全シフトします。これはものすごいごますりです。当時の日本でも、唐式を導入しますが、官位12階、26階など微妙に違えています。そこを新羅は完コピした。唐太宗皇帝は大変喜びました。また、歴史書編纂など文化事業や儒教の振興にも熱心だったので、それらも見てみたい、見学したい、できたら欲しい、とおねだりしたのに違いありません。金春秋は、唐太宗皇帝のハートをわしづかみにしました。また、唐側も、前漢武帝の最盛期を再現するため、(当時は朝鮮半島全体が直轄地でした。楽浪郡とか。今でも中国が「我が国固有の領土」とか主張するのは、たいてい前漢帝国か明帝国、清帝国の版図のいいとこどりのように思えます)、新羅を「鉄砲玉」に使う意図見え見えです。新羅も十分承知。だから、後年、百済と高句麗が滅んだ時点で「ドンでんかえし」がおこります。まさに権謀術数の極み。表面上和やかな、訪中事業ですが、中身がドロドロなのは、今も昔も変わりません。
以上、とりあえずは、これをもって、私の回答とさせていただきます。
伊藤睦月筆