ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/07/04 13:37

【424】【525】(522)「それでも学会新説に突っ込みをいれてみる」の続きをやります(その2)(7月4日)

伊藤睦月です。

(2)劉徳高、郭務棕の来日目的

(2-1)通説は、来日関連記事を並べるだけの、日本書紀の記述をあげるだけで、沈黙。

(2-2)副島説では、新羅が離反(どんでん返し)したので、今度は、倭とつきあおうとして使者を派遣してきた、といことになる。

(2-3)伊藤説は、副島説の「つきあう」を唐から倭(大和王朝)への「朝貢のすすめ」と解釈し、唐が、新羅から倭(大和王朝)へ「すりよってきた」と表現したら、2054さんが反応したらしい。

(2-4)また、伊藤説は、関裕二説の余豊璋=藤原鎌足説を採用し、当時行方不明(日本書記では、高句麗逃亡とされているが、中国側資料では、行方不明、とされている。ちなみに例の小林恵子も、余豊璋がその人生の大半を倭で暮らしていることから、余豊璋、倭逃亡説を支持しているそうだ)であった、白村江の主犯余豊璋と共犯中大兄皇子の捜索、捕縛協力依頼(という名の命令)と推理している。(目の前の天智天皇や藤原鎌足が、実は捜索相手だと気付いたので、大人数部隊で再来日したが、無駄足に終わった)

(2-5)中村説では、唐は倭(大和王朝)への新羅、旧百済、耽羅、との講和条約(事実上の降伏勧告いや命令)締結勧告(という名の命令)

(2-6)唐進駐軍への物資(武器、食料、金品、女)の供出

(2-7)唐の諸制度を取り入れる、制度改革要求

(戦後の、降伏文書調印や、いわゆるマッカーサー勅令の受け入れ要求のようなもの)

(2-8)交渉相手は、九州の那津宮で敗戦処理にあたっていた、中大兄皇子。そのめどがついて、中大兄は大和に引き上げ、唐軍の大和占領により、近江京に封じ込められた。(通説、副島、伊藤、岡田説と真逆の見解)

(3)665年の新羅、百済の講和条約(降伏文書)に倭も参加したか。

(3-1)通説(日本書記に準拠)、副島説は言及無し。中村説は、調印し、翌年正月の封禅の儀に、劉仁軌に連れていかれた。

(3-2)中村説は、封禅の儀に列席したのが、「倭の酋長」とされていることから、倭の国王クラス、大友皇子が、熊津城で、新羅や百済、耽羅(済州島)らとともに、調印し(懐風藻の記事はそのときのことだとする)、その帰りに封禅の儀に列席した、としている。上記2の立場からすれば、当然の帰結。

(3-3)伊藤説は、調印していない、説

(3-4)理由は中国正史に明記されていないから。日本書紀が、明記していないのは、国辱的内容だから、記載しなかったかもしれない。

(3-5)しかし、中国側の史料(旧国書劉仁軌列伝)は隠す動機がない。それどころか、もし、調印されていたら、劉仁軌の功績なので、明記しないわけはない。

(3-6)中村説は、唐の「羈縻政策(異民族間接統治方式)」の実施を重視する立場。

(3-7)確かに旧百済の皇太子に、「熊津(百済の本拠地)都督」の官職、のちには「帯方郡主」の官職を与え、「羈縻政策」を実行しようとしているが、(新羅の離反で成功しなかった)倭に対してはそういう、天智天皇に官職(倭国王とか)を与えた中国側記事はない。封禅の儀に連れて行った、というだけ。

(3-8)それでも、倭が封禅の儀に列席した、劉仁軌が倭を連れてきたことは、朝貢させたのと同じだから、唐高宗皇帝は、大層喜んで、劉を昇進させたらしい。

(4)封禅の儀に列席した「倭の酋長」(旧唐書ほか)は何者か。

(4-1)通説は明言しないが、665年に劉徳高たちに同行した、守君大石、としているようだ。

(4-2)副島説では、白村江の敗戦で連行された、「倭国王」としている。

(4-3)中村説では大友皇子。

(4-4)伊藤睦月です。まず、「酋長」は大友皇子という見解は支持しがたい。なぜなら、中国側の記録に固有名詞が一切ない。新羅と百済の代表者は固有名詞が出ているのに、耽羅と倭の代表者は全く出てない。大友皇子が列席しているのなら、必ず固有名詞がでるはずだ。

(4ー5)また、敗戦国の皇太子なら、そのまま人質に取られても文句は言えない。天智天皇がそんなリスクをとるとも思えない。

(4-6)もし大友皇子が訪中したのなら、当時の「羈縻政策」のセオリーどおり、なんらかの官職(倭国王、とか飛鳥都督、近江将軍、とか)が与えられてもおかしくないが、それもない。訪中して皇帝に気に入られた者は、ほぼ例外なく官職もしくはそれに準ずるもの(紫衣など)を与えられている。大友皇子だけ辞退できた、とするのも無理がある。

(4-7)伊藤説は、通説と同じく、「守君大石」が列席したと考える。

(4-8)そもそも、「倭国王」の名前が、中国正史に一人も出てこない。通説、小林説では、倭=大和王朝、という立場から孝徳、斉明、中大兄皇子(称制)とするが、それなら、唐は倭に打ち勝ったのだから、明記すればよい。

(4-9)

白村江の戦いでよく「唐・新羅連合軍VS倭(日本)・百済連合軍」という言い方をするが、唐、新羅。百済の主要参加者は固有名詞で出ているのに、倭国だけ「倭人」とか「倭」とかしか標記されないのは、不可思議。

(4-9)倭は全滅したから名前が残っていない、といのもおかしい。なぜなら、日本側の記録(日本書記)にはある程度書かれているし、全滅と言っても千人単位の捕虜が発生している。その中には「筑紫君」のようなかなり高位の者もいるから、中国側が倭王や将軍たちの名前がまったくわからない、ということはありえない。

(4-10)もっと言えば、「唐・新羅連合軍」という表記も正確ではない。唐側には、旧百済皇太子扶余隆も百済人部隊を率いて参加しているし、新羅は将軍を派遣しただけで、軍勢は参加していない。

(4-11)だから、白村江で戦ったのは、唐劉仁軌軍(軍船170艘、8千相当)、百済扶余隆軍(兵数不明、1万以下か)、新羅軍(数千人相当、将軍20人強×200人)VS旧百済余豊璋軍(倭からつけられた親衛隊5千)、倭援軍2万7千(軍船400艘相当)、と推測します。ほかに九州に残った中大兄皇子親衛隊1万。数的には、旧百済、倭軍の方が多そうですが、660年の百済滅亡の時は唐は12万出したから今回もそれぐらいはいただろうとか、高句麗のときは30万だったもんね、という論が学者間で飛び交っているようです。

(4-12)伊藤睦月、です。私は、唐軍は一番少ない兵数だったと思います。理由は、①唐にとっては、白村江は、660年に百済を滅した後の掃討戦、という位置づけだったこと、だから大軍派遣が許されなかったこと、

②劉仁軌の用兵が巧みだったこと

③反面余豊側の戦略的、戦術的ミスが目立つこと、を根拠とします。(煩雑になりすぎるのでここでは説明しません。機会あれば。)

(4-13)伊藤睦月です。倭軍が、数からいってメインであったにも拘わらず、中国側資料に固有名詞が残っていないとすれば、唐軍からは、連合軍(主敵)として認知されていない、ということであり、その通りであれば、「倭国軍」は、存在せず、倭人で構成された傭兵部隊のような存在であったと考えざるを得ません。「連合軍」というのは、はっきり言って日本側の「自意識過剰」と思います。

(4-14)伊藤睦月です。封禅の儀に列席したした、「倭の酋長」とはなにものか、というと、劉仁軌が自分の功績を強調するために、白村江生き残りの将軍、守君大石を「倭の酋長」に仕立て上げて、列席させた、と考えています。なにせ、野蛮人の酋長だし、言葉も通じない、たぶん漢文書けない。将軍だから、それなりの風貌もあったでしょう。

(4-15)伊藤睦月です。白村江の戦は、旧唐書劉仁軌列伝に掲載され、高宗本紀には出てません。高句麗滅亡は、高宗本紀に掲載されている。つまり中国皇帝の実績ではなく、せいぜい家臣の功績、それも白村江の戦いの勝利よりも、封禅の儀に新羅、旧百済、耽羅、倭、の「酋長」たちを列席させたことの方が、評価高いと思う。そろそろ、「魔法」から覚める時だ。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/04 10:08

【423】(522)「それでも学会新説に突っ込みをいれてみる」の続きをやります。(7月4日)

伊藤睦月(2145)です。前回(522)の続きをやります。(520)の中村修也説に突っ込みを入れます。

(1)この中村説、通説に共通している前提は、「倭」=大和王朝ということ。それが、倭=大和王朝プラス九州王朝という副島説と別れるところ。(伊藤説は、副島説を前提とした変形説)そこを認識しないと議論がかみ合わなくなる。

(1-2)通説、中村説によれば、倭軍は、白村江で全滅したのだから、当時の大和王朝には、兵隊はほとんどおらず、だから少数の唐軍にやすやすと軍事占領されたことんになる.(通説ではこの点があいまいで、なんとなくやり過ごした感がある)

(1-3)副島説によれば、白村江で全滅したのは、旧奴国の九州王朝軍であり、大和王朝軍、主力が温存されたとみるべきで、そうなると、戦後九州や西日本各地に設置された防御施設には、大和王朝軍(防人)が駐屯していた、とみるべき。(中村説は逆に、少数の唐軍が進駐してきたとする)

(1-4)伊藤説は、白村江の戦い時点では、倭(九州王朝)は百済の支配下にはいっており、敗戦後その地域だけ、唐軍に占領された、とする。

(1-5)副島説、伊藤説によると、宇治で行われた閲兵は、唐軍との交渉を少しでも有利にしようとする、デモンストレーション、ということになる。通説は沈黙しているが、中村説によれば、唐進駐軍のデモ(数百人ではあまり迫力ないかも)か、太平洋戦争の敗戦後の再軍備(警察予備隊)よろしく、シンヤマト軍のお披露目、ということか。そうなれば、新羅の離反はさしずめ、朝鮮戦争の勃発に相当することになろう。(小休止)

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/04 09:13

【422】在特会の会長が在日朝鮮人だって‥それが何か。

伊藤睦月(2145)です。

(523)の投稿で、かたせ2号さんが、驚いた風だが、何をいまさら、という感じが正直なところ。

在日朝鮮人といっても、(1)日本国籍を取得した「日本国民」

(2)韓国(もしきは北朝鮮)国取得している人たち(3)そのどちらでもない人たち。(いわゆる永住権だけ取得している人たち。

(4)上記(1)~(3)のミックス、

とさまざまいて、親子、親族間であっても、背景や人間関係、スポンサーなど複雑で門外漢が入る余地はない。

歴史を少し調べれば、そういう例はいくつもあって、例えば、第二次大戦中の米国日系人の例。第一次大戦中のドイツ軍のユダヤ系軍人など、「本国人よりも本国人らしく」ふるまった人たちがたくさんいて、その人たちのその後の運命もさまざまだ。

 在特会の会長もそういう人たちの一人だと思えば珍しくもない。大事なのはかたせせ2号さんも指摘しているように、その背後で彼らを操っている存在に思いを致すべきかと。

それから、山本太郎を取り上げておられるが、一部だけ切り取られているので、彼の発言の文脈がわからない。彼は関西から出てきたアマチュア芸人あがり(今の小島よしおや、とにかく元気な安村みたいなネタをやっていた)だから、在日朝鮮人の人たちは、関東の人たちより身近な存在だったはずで、ましてや、リベラル系政治家として、その辺のふるまいはわかっているのではないかと思う。

思えば、昔、副島先生も、そういう片言節句を切り取られて、ディスられていました。。今ではそういう人たちもほぼ絶滅したようです。

時代が、副島先生に追い付いてきた、ということで、今こそ、副島学立ち上げの時、私、伊藤は考え、自分のできることから取り掛かっているわけです。

朝から、過熱気味で、恐縮です。かたせ2号さん、この話と藤原肇の話は、これで中締め、ということにさせてください。

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/03 19:59

【421】それでも、学会新説に突っ込みをいれてみる(7月3日)

伊藤睦月です。まずは、彼ら、学会の若手・中堅研究者(中村は1959年生、河上は1980年生まれだけど・・・)が対峙している、「通説」を確認しておく。

(引用はじめ)

「日本古代史研究の世界では、白村江の敗戦以後の「占領下」の日本を描く論考は、ひとつとして存在しない。日本は敗戦したが、唐の占領は受けずに、唐との友好関係を保ち、唐の律令を導入して、国力の充実を図ったというのが定説である。」(中村修也「天智朝と東アジア」2015年6頁)

「日本は古代のある時期、中国との対等の関係を築き、それ以降は中国を単純に「大国」とみなすことはなかったという説が根強くある。」

「遣隋使を日本古代対外交渉史上の画期(日出る処の天子・・・)とする説は、近代(戦前昭和)に入り教科書に採用された。」

「現在では、高校の歴史教科書からは、遣隋使が中国との対等を主張したという説は姿を消した。ところが記述はずいぶんあっさりしたものの、義務教育の教科書では、いまだに遣隋使から対等な立場での日中交渉が開始されたとの表現が残るものがある。一般向けの書物もまた同様である。遣隋使が中国との対等な立場を主張したという説は、21世紀に入った今日でも常識として社会に共有されている。」(川上麻由子「古代日中関係史」中公新書2019年はじめに)(引用終わり)

伊藤睦月です。この通説に対し、中村は、

(引用はじめ)

「7世紀の日本が、近隣の朝鮮3国とかかわりながら、唐という大国(すなおに「世界帝国」と書けばいいのに・・・)と戦い、敗北した白村江の戦は、20世紀において、アジアを巻き込みながら、アメリカという大国と戦い、敗北した第二次世界大戦と共通する点がみいだせるということである。もちろん科学の進歩など、細部においては全く異なることは当然である」

「しかし、大国と戦って敗戦すれば、占領支配を受けるといった戦争の法則から外れることはないはずである。逆の例であるが、近代において日本が日清戦争に勝利したとき、下関「講和」条約において、朝鮮の独立承認、遼東半島・台湾・膨湖列島の割譲、賠償金二億両の支払い等を清国に認めさせている。・・・戦勝国が敗戦国に何も要求しないということは、戦争の常識を覆す論理である。それを肯定することはできない。」(中村前掲書、伊藤一部加筆)

(引用終わり)

伊藤睦月です。「論考は一つとして存在しない」「戦争の常識を覆す論理」だからこそ、我々素人筋にも議論に参加できる余地がある。だから歴史学、そして学問は楽しい。

参考までに、1990年代の「定説」も紹介しておく。現在と当時の諸情勢、背景に思いを致すのも、また楽しからずや。

(引用はじめ)

「「もはや戦後ではない」はあまりに有名なフレーズだが、白村江「戦後」とは厳密には「まだ戦後ではない」であった。・・・大唐帝国の圧倒的な物量の前に前例のない大敗を喫した敗戦国=倭国が、「戦後」は戦勝国である唐の制度や文明に学び、それこそ奇跡的に日本に生まれ変わったという、語り継がれてきた敗戦史観。われわれはそろそろ、これを根本から見直すべき時期に来ているのではあるまいか。(遠山美都男「白村江」講談社現代新書エピローグ1997年)」

(引用終わり)伊藤睦月です。遠山は、1957年生まれ、中村とは2歳違いだが、学者としては一世代前の人のようだ。とりあえず小休止。

(以上伊藤睦月筆)

追伸:藤原肇氏については、当分の間、保留します。昔、小室直樹先生と対談本を出していて、その表紙の写真の山羊髭が気に入らなかったことを思い出した。人を外見で判断してはいけないことはわかっているが、こればかりはどうしようもない。すみません。なお、この人の要約は要注意だと思う。

(以上)

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/03 10:36

【420】ブレイク(7月3日)白村江の戦いに関する学会新説を読む

伊藤睦月(2145)です。昨日の続き。学会新説の「中村修也説」です。

(1)倭=大和王朝が前提(通説と同じ)

(2)軍勢:4万2千(通説と同じ)

(3)倭軍ほぼすべてが、渡海。白村江で全滅。(ここまでは通説と同じ)

(4)そのため、国内(大和王朝の勢力範囲)にまともな軍勢がいなくなり、軍事的空白が発生。(唐軍の占領状態となる)

(5)中大兄皇子は、すぐに大和に逃げ帰らず、筑紫那津宮(福岡県福岡市東区)にて、敗戦処理にあたる。これ以降、直接唐と相対していない、大海人皇子などの豪族たちとの意識のギャップが生まれ、壬申の乱の遠因のひとつとなる。

(6)今まで、九州や西日本各地の防衛施設とされてきたのは、唐軍(進駐軍)の監視基地、連絡施設で(進駐軍基地)唐軍の指示で設置された。近江京遷都も、防衛目的ではなく、大和が唐に占領されたため、追い出され、近江に封じこめられたもの。

(7)劉仁高、郭務棕が持参した国書の内容は、「朝貢要求」及び日本の「民主化指示書」(当時のグローバルスタンダードである唐の諸制度を取り入れよ、という指示書であった)中大兄皇子は、それに従い、各種制度改革に取り組まされた。

(8)665年、唐(劉仁軌、劉仁願)を仲介として、新羅、旧百済、耽羅(済州島)、倭、との間で講和条約を締結させ(倭代表は大友皇子)、その証として翌年の封禅の儀に参加させた。

(9)新羅の反乱のため、唐による「倭国改造計画」(羈縻政策の遂行)は中断。郭務棕も占領をあきらめて、撤退した。

伊藤睦月です。

(1)中村修也は、学者さんらしく、その著「天智朝と東アジア」において、史料に即しながら、表現を選んで、自説を展開しているが、その主張を私なりにかみ砕くとこういうことになる、と思います。

(2)中村の思考の根底にあるのは、先の大戦における、敗戦と占領政策とのアナロジー、である。

(3)また、「敗戦国にとって必要なのは防衛でなく、外交だ」という認識から、唐と倭(日本)は、白村江の敗戦後、(通説のいうような)対等の関係ではありえず、中大兄皇子は、建前と実態とのギャップの中で、悪戦苦闘する、政治指導者として描こうとしています。

伊藤睦月です。この著は2015年に発刊されているが、副島史学とも親和性が高いと思う。「属国」というキーワードは使用していないが、直接、間接に副島史学の影響は、ないとも言い切れないのでは。もっと素直になればよいのに。

私、伊藤はそれでも、中村説に対する疑問をぶつけます。(続く)

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 16:48

【419】ブレイク:頭の整理(7月2日②)

伊藤睦月です。倭の酋長を封禅の儀に列席させた目的は、一言でいえば。「唐の意向に反した日本への威嚇であり脅し」であったとするのが、通説の見解であり、これには、特段の異論はないようだ。では、この列席の原因となった、白村江の敗戦とその後の対応の説明については、通説、中村説、副島説、伊藤説それぞれ多少とも違っており、その違いを整理することとする。(基本的に伊藤の頭の整理です)

1 学会通説

(1)663年の白村江の戦いの時点で、倭=大和王朝であることを前提。

(2)白村江の戦いに参加した兵士数は、

   総数4万2千

(2-1)内訳:余豊璋護衛隊5千、安曇比羅夫率いる本隊2万7千、蘆原君臣(いおはらのきみおみ)率いる後詰め部隊1万)

(2-2)上記部隊の大半が渡海。全滅。

    ※渡海人数は不明。

(2-3)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和(飛鳥宮?)に撤退。

(2-4)664年対馬。壱岐、筑紫に防御施設と狼煙(通信施設)を築造。防人を設置し防衛体制を構築

(2-5)667年近江遷都。

(2-6)668年正式即位(「天皇」「日本」

     初出)

(2-7)671年 天智天皇死去

(2-8)672年 壬申の乱

(2-9)702年 第7回遣唐使(粟田真人)で対外的にはじめて、「日本」「天皇」を名乗る。

2 副島説

(1)倭(広義)=山門国(大和王朝)倭(狭義=九州王朝)

※当時の倭は、原住民王国と華僑王国との連合体であり、白村江の敗戦後、両者がまとまって「日本」を建国したとの岡田英弘説を展開。

(2)渡海して全滅したのは、余豊璋護衛隊5千プラス九州王朝部隊2万7千。計3万7千(伊藤試算)

(3)山門国軍は、余豊璋護衛部隊5千プラス後詰め部隊1万。前者のみ渡海。

(4)これで、旧倭(九州王朝)は消滅し、結果的に 山門国が吸収。

(5)中大兄皇子は、白村江敗戦の報に接するや、直ちに撤退。大和に戻り、防衛体制を固める。

(5)以後、通説とほぼ同じ展開。

3 伊藤説

(1)(広義)倭=大和王朝プラス百済支配地の旧倭(奴国)

(1-1)旧倭は、実質的に華僑の有力者たちが、合議体で国を運営していた。(「漢委奴国王」の金印が統合のシンボル、後年の博多や堺からの連想)

(1-2)旧倭は、白村江以前に、百済(余豊璋)から乗っ取られ、兵站基地とされていた。

(1-2)実際に渡海し全滅したのは、旧倭から徴発された倭人部隊。

(1-3)大和王朝側は、後方支援(那津宮・朝倉宮)のみで戦意はそれほど高くはなかった。

(1-4)全滅の報に接した中大兄皇子は、直ちに大和に撤退。防衛体制を固める。

(1-5)敗戦後、中大兄皇子が早々に撤退したことで、旧倭に軍事的空白ができ、郭務棕らが、占領。

(1-6)671年、白村江の戦いの首謀者、余豊璋(藤原鎌足)の捕縛に失敗。(689年死亡)

(1-7)671年、郭務棕は、新羅の反乱などもあり、占領継続が困難となったので、天智天皇の死亡を機に撤退。

(1-8)旧倭の管理は、親新羅系の天武天皇(もしくは高市皇子)に引き継がれた。

と、ここまでで、小休止。スミマセン。

(以上、伊藤睦月筆)

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 11:36

【418】ウォーミングアップ(7月2日)封禅の儀666に倭国王は列席したか。(たぶん最終回答)

伊藤睦月です。(513)で、倭国王は666年の封禅の儀に列席しなかった、と主張しましたが、その後、出典(旧唐書劉仁軌列伝の該当箇所)を見つけましたので、引用します。(中村修也「天智朝と東アジア」120頁以下)見出し番号は伊藤

(引用開始)

(1)麟徳二年に、泰山に封ず。

(2)仁軌、新羅及び百済・耽羅(たんら:済州島のこと)・「倭」の四国の「酋長」を領(ひきい)て

   赴き会す。

(3)高宗、甚だ悦ぶ。

(4)(仁軌を)擢(ひきぬきて:抜擢して)、大氏憲に拝せしむ(任命した)

(引用終わり)伊藤睦月です。この封禅の儀の記事は。後世の類書「冊府元亀」、政治指南書「資治通鑑」にも、紹介されています。

(引用はじめ)

(4-1)ここにおいて、仁軌、新羅・百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領い、浮海西遷(旧百済から、海を渡って西側:泰山のあった山東省に移動して)し、以って泰山のもとに赴く。(冊府元亀)

(4-2)熊津都尉(都督:都尉は北宋時代の官職名)扶余隆(旧百済皇太子)と新羅王法敏とに上命(命じて)旧怨(660年百済が滅ぼされたこと)を釈(と)き去らしむ。(和解させた)

(4-3)劉仁軌、新羅、百済、耽羅、倭国の使者をもって、浮海西遷せしめ、泰山に会祠(かいし:参加)せしむ。高麗(高句麗)もまた、太子福男(ぼくなむ)遣わし来たり、侍祠す(じし:参列)す。

(引用終わり)伊藤睦月です。もう一つ、三国史記(新羅本紀)の記事から。

(4-4)(引用開始)

 是において、仁軌、倭が使者及び百済・耽羅・「倭人」の四国の「使い」を領し、海に浮かびて西に還り、以って会して、泰山を祀る。(佐伯有清編訳「三国史記倭人伝」岩波文庫)(引用終わり)

伊藤睦月、です。なお、同署には「新唐書劉仁軌伝」の記事として、「始。仁軌任帯方州(朝鮮半島)及び封泰山。仁軌乃率新羅、百済、耽羅、倭四国酋長赴会。天子大悦。擢為大司憲。とあります。

伊藤睦月です。守谷君。君が指摘したのは、上記でまちがいないですか。

(5)この5史料の優先順位は、新唐書、旧唐書、三国史記、資治通鑑、冊府元亀、の順です。

(7)それを勘案すると、封禅の儀には、「倭」の「酋長」が参列していることになります。では、「酋長」とは誰か。わかりません。(苦笑)

(8)通説では、資治通鑑や冊府元亀の「使い」に注目して、前年に劉徳稿と郭務棕を送っていった「守君大石」と考えているようです。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに 中公新書)守君大石は、白村江生き残りの倭の将軍で、いかにも「酋長」という風貌だったのかもしれません。

(9)それに対し。中村修也は、「天智朝と東アジア」において、「酋長」というからには、国王のようなもの。日本書紀では、同時代の天皇は天智天皇だが、訪中はしていない。大友皇子が天智天皇の代理として、唐、新羅、旧百済、倭、との講和条約を熊津城にて調印、その帰りに、封禅の儀に参加させられた、としています。(前掲書120ー135頁)

しかし、この中村説には、通説、副島説、伊藤説、いずれからみても無理があると考えます。

とりあえず、小休止

(以上、伊藤睦月筆)

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/07/02 10:03

【417】サヨナラだけが人生だ(続き)間違えて途中で投稿ボタン押してしまいました。

伊藤睦月です。

私、伊藤は。太宰作品は「新釈お伽草紙」が好きです。というか、これと「富嶽百景」と「走れメロス」以外はまともに読んでいませんが。(他の自虐系はどうも苦手で・・・。その後は、2,3年前に漫画「文豪ストレイドッグス」を読みましたが・・・関係ないか)

いずれにせよ、50年前の、高校生のときに読んだきり、ですけど。

かたせ2号さん、思い出させてくれてありがとうございました。

(以上、伊藤睦月筆)

伊藤 投稿日:2024/07/02 09:53

【416】サヨナラだけが人生だ

伊藤睦月(2145)です。

表題の文句は、井伏鱒二訳の漢詩です。

かたせ2号さんが上げられた、「富岳百景」は、「富士には月見草がよく似合う」でしょうか。

私、伊藤は、太宰なら「新釈お伽草紙」

伊藤 投稿日:2024/07/01 10:57

【415】ウォーミングアップ(7月1日)封禅の儀に倭国王は列席したのか。

伊藤睦月(2145)です。

守谷健二君が、(3134)の投稿で、665年の封禅の儀に、劉仁軌が、倭の国王が参加した、という旧唐書劉仁軌列伝の記事を紹介しています。私、伊藤は、旧唐書の該当部分を確認していないのですが、関連資料をみていたら、次の記事を見つけました。

(引用はじめ)

(1)666年正月、唐の第三代皇帝である高宗は、中国第一の名山である泰山で、天地を祭る封禅の儀式を行った。・・・さらには、新羅・百済・タン羅、高句麗といった東アジアの国々の使者とともに、日本の「使者」も参加していたという。(川上麻由子「古代日中関係史」はじめに)

(引用終わり)

伊藤睦月です。いくつか指摘。

(1)守谷君は、封禅の儀を665年の出来事と言い、川上は666年、といっているが、どちらが正しいか。

(2)川上前掲本では、滅亡したはずの「百済」が登場するのはなぜか。

(3)封禅の儀に参加したのは、「国王」か「使者」か。

伊藤睦月です。以下、私の回答

(1)666年が正しい。ただし、各種史料は、太陽暦でなく、太陰暦で記載されているので、閏月とか、太陽暦に置き換えたときに、若干のずれが生じたものと考えられる。

(2)旧百済皇太子隆が参加していたため、百済もカウントされた。

(2-1)百済王国は、660年義慈王のときに、唐・新羅連合軍に滅ぼされている。665年に劉軌仁の仲介で、新羅王と旧百済皇太子との間で、講和の盟約を締結しており、旧百済皇太子は、唐の官職(熊津都督)を得ているので、その資格で参加しているのではないかと考えます。

(3)「国王」でなく「使者」であると考えられる。

(3-1)日本書紀によれば、665年に、劉徳高と郭務棕が来日し、その年の12月14日に帰国(旧百済か唐本国かはわかりませんが、皇帝への報告と、封禅の儀への参加のため、唐本国に帰ったと考えます)した際、小錦守君大石らを同行させており、彼らが封禅の儀に参加したと考えると、川上前掲書とつじつまが合います。百済方面軍担当の劉軌仁の紹介(随行の資格)で、参加したと考えます。

(3-2)但し、日本書紀には封禅の儀に参加した、という記事はげらありません。「大唐に遣わし、しかじかと、だけ記載されています。

(3-3)私、伊藤は、百済王、倭国王なら、戦争捕虜なので、封禅の儀のいけにえにささげられたのではないか、と推測したのですが、その時点で百済王は存在しない(王子とか貴族は連行された、という記事が、新唐書新羅に出ていますが)し、倭国王も、倭国=大和王朝説(通説)なら、当時の倭国王は、天智天皇なので、彼が「訪中」したという記事もないし、実際行っていないでしょう。

(3ー4)倭国王=九州王朝の王という説(副島説)をとるなら、その連行された倭国王の名前が不明なのはおかしいと思います。旧百済と新羅のような盟約も結ばなかったのも解せません。

(3-5)倭国では、元来「国王」は存在せず、白村江のときは、余豊璋の支配地だった、連行されたのは、「貴族」たちで「国王」ではなかった。という伊藤説

(3-5)結果的に、封禅の儀に参加したのは、大和王朝の「使者」である、という川上説と一致する。この伊藤説なら、つじつまが合うのではないかと考えますが、今のところ、私以外に支持者はいないようです(大汗)

伊藤睦月です。もう少しウォーミングアップします。

(以上、伊藤睦月筆)