ふじむら掲示板

副島系掲示板の"補集合"としての役割
伊藤 投稿日:2024/12/25 13:03

【559】ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(3)少し脱線

 伊藤睦月です。朱子学と陽明学について。今思い付きですが。忘れないうちに書きます。すでにほかの方の弁ならごめんなさい。

(1)陽明学は、実践の学とよく言われますが、思想内容的には、何もありません。空っぽです。

(2)思想体系として朱子学の範疇(はんちゅう)で、それを超えるものではありません。

(3)「知行合一」で説明します。この言葉は陽明学の根本命題だが、それだけでは何のことかわかりません。禅宗の座禅の公案(おだい)のようなぼやっとしたものではありません。

(4)「朱子学」を知って、それを実現するため(合一)「朱子学」を行え。という意味です。意味わかんない?それでは、

(5)この「朱子学」には、人それぞれの朱子学のコンセプトが入ります。

(6)例えば、「大義名分」を知って、それを実現するために、「尊王攘夷」を行え。と入れれば、幕末の志士の思想です。

(7)また、「経世済民」を知って、それを実現するために「放伐」を行え。と入れれば大塩平八郎の思想です。

(8)伊藤睦月です。放伐とは武力行使のことです。

 これらのコンセプトは、朱子が、儒学の正統経典として、確定させた「四書・五経」のどこかに出てくるコンセプトです。各人どのコンセプトが刺さるかは、その人によります。だから体制維持(保守)の思想にも体制打破(易姓革命)の思想にも、金儲けの思想にも、戦争の思想にも、平和の思想にも、いかようにもなります。一神教のような絶対者がいないからだと考えます。

以上、思い付きでした。小休止

伊藤睦月筆

 

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/25 10:35

【558】ブレイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。(2)

伊藤睦月です。続けます。

後唐の石敬塘、この男が問題だ。いろいろやらかした。

(1)石敬塘は、後唐の傭兵隊長だったが、後唐の皇帝と対立し、契丹の支援を得て、後唐を滅ぼして、後晋を建国した(936年)ここまではよくある話。

(2)石敬塘は、契丹帝国に対し、支援の見返りとして、「燕雲十六州」を割譲、正式な領土として、契丹帝国に譲渡した。これが大問題。

(3)燕雲十六州は、万里の長城の南側にある、いわば、中国固有の領土。これまで、長城の北側にしか領土をもっていなかった(事実上の占拠はあった)、野蛮国がついに中国に領土を持つ国になった、ということは、将来「禅譲」を受け、正式な中国王朝になる可能性が出てきた、ということだ。これは、一大事。契丹は中国国内に領土を持ったことで、国号を「遼(りょう)」と改めた。さあ、大変なことになった。

(4)この「燕雲十六州問題」は「中国版レコンキスタ(失地回復運動)」として、後の北宋、南宋帝国のトラウマ、となった。「水滸伝」も失地回復物語のスピンオフ作品である。レコンキスタはスペインでは成功したが、中国では大失敗した。

(5)北宋は失地回復を焦って、遼よりもっと凶暴な、「女真(金)」と同盟し、遼を滅ぼしたが、失地回復に失敗して、金に滅ぼされた。(靖難の変1126年)

(6)残存政権の南宋帝国も、今度はモンゴル帝国と同盟し、金を滅ぼしたが、南宋もまたモンゴル(元)帝国に滅ぼされた。(1279年)

(7)この失地回復運動の理論的根拠を与えたのが、南宋の朱熹が創始した「朱子学」である。だから朱子学は本来、戦闘的な政治思想である。後世の陽明学も朱子学からの派生形。本物の政治思想だから、これに殉じる人も中国や日本で大勢でてきた。朝鮮の状況はよく知らない。この石敬塘という、10世紀のオッサンのやらかしが、中国のみならず、東アジア、特に我が国にまで深刻な影響を与えている。そして今も、我々は「朱子学の呪い」に拘束されている。北方領土問題や尖閣問題も、根っこはここじゃないのか。

寄り道が過ぎた。小休止。

伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/25 09:29

【557】レイク:旧唐書より、新唐書推し、なのはどうやら私だけらしい。

伊藤睦月です。軽めのネタをひとつ。

 (1)現在、学会、歴史マニア問わず、「唐書」といえば、圧倒的に旧唐書、ということらしい。通説、少数説問わず、論文や一般書でも、旧唐書はよく引用されるが、新唐書は出てこない。残念なことだと思う。

(2)現在では、新旧両方とも、中国正史(24史)に入っているが、実は旧唐書は、18世紀まで「正史」ではなっかった。「野史」「稗史」(はいし)といって、「正史」の記述を補完する、あるいは「三国志演義」や「水滸伝」のような、虚実織り交ぜた物語扱いだった。

(3)それが、18世紀、清の乾隆帝という、清朝全盛期の皇帝によって、正史に追加され、「四庫全書」に加えられ、木版印刷で、一般にも頒布されるようになった。日本でいえば、8代将軍、徳川吉宗が引退したころだ。蘭書や漢書の輸入が緩和されたころで、そのころに、日本に入ってきた、と私はにらんでいる。

 ちなみに、国学、水戸学、蘭学が盛んになりだしたのはこのころで、塙保己一「群書類従」も、結局は「四庫全書」の完成、日本への輸入の影響が大だったのではないか。

(4)中国正史のなかで、新旧があるのは、唐書だけだ。そこで、両書の成り立ちを紹介する。

(5)まず、旧唐書。946年成立。五代後晋の時代。唐帝国が滅亡したのが、907年。唐を滅ぼした朱全忠が建国した「後梁」、その次が「後唐」(923年建国)、その後唐を、936年に石敬唐(せきけいとう)という人物が、滅ぼして、「後晋」を建国した。ちなみに「五代」とは、後に北宋帝国の首都となった、開封とその周辺を拠点に興亡した軍閥政権のことで、後梁、後唐、後晋、後漢、後周、の5つの王朝のこと。私が、高校生の時は、「週刊晋唐本日完了」と覚えた(どうでもよいが)。開封は、いわゆる「中原」のど真ん中にあって、内陸水運、物産集積の要衝で、江戸時代の大阪や中世のシャンパーニュ地方のようなイメージ。北宋は軍事よりも、経済を重視して、開封に居座って、税関を設け、その税収で北宋帝国を維持した。また、開封以外の、要衝の地を拠点にした地方軍閥たちを「十国」といい、二つ合わせて「五代十国」という。最近の、世界史B(?)の教科書では、ここまで書かれていないことが多いので、トレビアを紹介した。

小休止

以上伊藤睦月筆

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/24 12:24

【556】誤値訂正

伊藤睦月です。前稿の下記の部分

②662年に、唐により高句麗が滅ぼされ、朝鮮半島北部からも「難民」が大量に流入した。

ですが、正→668年、でした。失礼しました。

以上、伊藤睦月拝

伊藤 投稿日:2024/12/24 12:06

【555】「騎馬民族」ではなくて、「騎馬難民」が日本列島に押し寄せた。

 伊藤睦月です。所論の繰り返しになるが、

(1)日本列島には、いわゆる「騎馬民族」(馬を取り入れた牧畜民:江上波夫の定義)は来なかった、もしくは非常に少数だった(江原眞ほか学会通説)

※以下は、伊藤の見解(ファンタジー)

(2)しかし、馬及び関連の文化はその担い手である部族、氏族らとともに、後漢末からいわゆる五胡十六国の侵入による、戦乱や殺戮等を逃れるため、大量の「難民」(副島理論)と化し、その一部が朝鮮半島や南西諸島を経由して、日本列島の各地(北部九州、出雲、越前、南西諸島)に流入した。(そのとき、戦闘行為はほとんどなかった、平和裏に流入した、というのが江上説。だから江上は、「騎馬民族征服」は自分の説じゃない、ドイツ人学者の説だと言い訳し、学会から喜ばれた)

(3)「騎馬難民」が日本列島に流入したのは、3世紀(後漢末)から5世紀(隋唐の建国)にわたる約300年間。間に「謎の4世紀」を含んでいる。画期は3回(以下加藤謙吉『渡来氏族の謎』2017年(祥伝社新書)による)

(3)ー1:1回目 4世紀末~5世紀初頭

①367年、高句麗の圧迫を受けた百済から、倭国へ救援要請。倭国、朝鮮出兵の口実を得る。

②369年、倭国と百済の連合軍が、高句麗に勝利。倭国、朝鮮半島南端の「伽耶(任那)」地域を勢力下に置く。

③391年~412年、新羅に侵攻した、倭国=百済連合軍に対し、新羅と同盟した、高句麗の広開土王が激突。これらの影響で、伽耶地方から大量の難民が出て、列島に流入。

④その間、400年頃、高句麗は中国北朝(北魏)に朝貢し、その対抗上413年、倭王讃が南朝(東晋)に朝貢している。

3-(2)2回目:5世紀後半~6世紀初頭

①475年、高句麗は、百済の首都漢城(現ソウル)を襲い、百済王を殺害。熊津(百済が滅亡するまで王都)に遷都。

②478年、倭王武が、南朝(宋)に朝貢し、上表文を提出。502年、宋武帝から、征東大将軍に柵封され、高句麗、新羅・伽耶などと戦ったり、百済に伽耶四郡を割譲するなどして、百済を支援した。その結果朝鮮半島での戦闘などがダラダラ続き、難民の流入が断続的に続いた。

③そのときに、主に近畿に流入した、騎馬技術を身に着けていた、伽耶難民(今来才伎:いまきのてひと)の組織化に成功した、ワカタケル(雄略大王)は、その軍事力をもって、対抗する有力豪族たちを圧倒し、畿内を中心とした「ヤマト政権」を確立した。

3-(3)7世紀後半

①660年 唐・新羅連合軍により、百済滅亡。亡命政権(余豊璋)を支援した、倭国(ヤマト王朝、九州王朝)が、663年、白村江の戦いで惨敗し、九州王朝は消滅、敗残兵とともに、旧百済の遺臣、新羅の圧迫から逃れた、百済全域からの「難民」が、九州北部に押し寄せた。

②662年に、唐により高句麗が滅ぼされ、朝鮮半島北部からも「難民」が大量に流入した。

③これら難民は、ヤマト王朝により、職能ごとに、氏族単位で組織化され、「帰化人」として、取り込まれた。

④その後は中国本土(唐の全盛期)や朝鮮半島(新羅の統一)における、政情安定化に伴い、難民の流入も落ち着いてきたものと考えられる。

⑤816年に成立した『新撰姓氏録』では、「諸蕃」(渡来系)326氏が登録されており、内訳(出身、出自別)は、漢(中国各王朝)163,百済104、高麗(高句麗)41,新羅9.任那(伽耶諸国)9で中国系が多いが、これは、本人たちの自己申告によるものであろうと、加藤は推測している。

4 伊藤睦月です。小林恵子説のような、ダイナミックな物語を作らなくとも、「帝国ー属国理論」の派生形である、「難民」理論をベースにすれば、「騎馬民族」なるものは、合理的に説明できる、と考える。

5 但し、海外では、傭兵化した難民が、その国を乗っ取ってしまうことが、ときたま、発生する(インドの奴隷王朝、イスラムのマムルーク朝など)ということが発生しているが、我が国の場合、どうだったか、については、結論を保留したい。

以上、伊藤睦月筆

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/24 10:06

【554】学会通説を確認しなければいけない不自由さ、を蹴とばす!

 伊藤睦月です。本日は、2024年12月24日です。

 私が、自他に対して、うるさいくらい「学会主流」「通説」にこだわっているのは、それらが好きだからでも、追随すべきと考えているのではない。そうしないと、せっかく自分の頭で考えたことであっても、通説とか少数説でもアカデミックの世界で、似たような見解があれば、そちらがオリジナルになる、というのが世間の掟だからだ。そして「通説の壁」を突破しないと、結局は「独りよがりの個人学説」になる。松本清張、矢切止夫、井沢元彦、そして副島隆彦先生、みなそういう世間の掟と闘い、オリジナリティを確保してきた人たちだと思う。小林恵子氏もそうだろう。だから敬意を持ちつつ、批判する。まあ、私のようなアマ初級者など歯牙にもかけていないだろうけど。それでもかまわない。客がいなくてもひたすら、場末の劇場でネタを出し続ける、売れない芸人のように、投稿するだけだ。(これ、副島先生のパクリ!)

 それにしても、かつて、井沢元彦(逆説の日本史)が矢切止夫のことを取り上げていた。井沢は言う。

 矢切が存命中はその先駆的な仮説には誰も見向きをしなかったくせに、本人が亡くなると、いつの間にか、「学会の通説」になっている。この日本の学問界の姑息さは許せない、と。私も早くそう言えるようになりたい。少なくともそれを目指したい。

 という、固い口調は、これくらいにして、

 吉村武彦(古田武彦とは別人)編「新版古代史の基礎知識」(2020年角川選書)という本がある。古代史のほとんどの論点の標準学説をコンパクトにまとめてあって、今現在の学者たちの多数派の見解を確認するのに便利だ。大体10年に1回くらいで改定されているようだ。値段も税別2100円と少しお高めだが、私はアマゾンの古本ショップで、1000円ほどで入手できた。これをみると、

1)厩戸皇子(聖徳太子)の標記は現状そのまま。大山誠一氏は、厩戸皇子=蘇我馬子説を「いつのまにか」となえている。学会に100条委員会はないのか。

2)法隆寺再建論争は、通説変更の可能性あり。(古田武彦説に接近している)

3)遣唐使では、「日本号」は使用できたが「天皇号」は、中国側に言えなかった(日中の外交関係は、対等という通説の事実上の変更)

※先を越されたなあ(ややおこ)

4)「騎馬民族」という語は一ミリも出てこない。(小林恵子先生、ガンバ!)

5)道教的信仰:苦しい言い訳をしているが、いまだ通説変更なし(下條竜夫さん、ガンバ!)

6)邪馬台国畿内説:まだ箸墓古墳を根拠としている。早晩、なしくずしに消えるだろう。安本美典説の勝利は近い。

7)古事記、日本書紀:記述が全くない。シメシメ。偽書説だけが論点じゃないのに。

 などと、わが副島学派の歴史好きにとっては、色々突っ込みどころありますよ。

 年末年始の暇つぶしにどうぞ。次の改定が楽しみだ。

 また、類書に『万葉集の基礎知識』がありますよ。柿本人麻呂の正体についての標準見解も載ってます。

 あ、それから、梅原猛『水底の歌』も少数説ながら無視できませんねえ。

老婆心ながら。

以上、伊藤睦月筆

伊藤 投稿日:2024/12/23 14:27

【553】投稿文の移動、確認しました。大変ありがとうございました。

古村様

伊藤睦月、です。さきほど、誤って重掲にアップしてしまった拙稿の、ふじむら掲示板への移動、確認できました。年末のご多忙中のなか、ご対応いただき、まことにありがとうございました。

 今後、重掲や、ぼやきに、掲載していただけるような投稿ができるよう、精進いたしますので、今後ともどうぞご指導、ご鞭撻、よろしくお願いします。

 取り急ぎ、御礼まで。

追伸:佐藤優氏との対談本、拝読いたしました。お互いがかけあいで、難しい言葉をかみ砕いて、副島読者に通じる言葉で、示していただいている様、勉強になりました。この対談がシリーズになるとよいですね。

時節柄、ご自愛ください。

伊藤睦月拝

 

伊藤 投稿日:2024/12/23 13:08

【552】2026年大河ドラマは、「豊臣兄弟」でした。

伊藤睦月です。2026年大河ドラマのタイトルは、「豊臣兄弟」でした。2024年3月に制作発表されていました。豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が主人公です。

 主演は、中野太賀(なかのたいが)朝ドラ「虎に翼」のヒロインの夫役の俳優です。ほかにも男女問わず、ここ1、2年の朝ドラ出演俳優がキャスティングされるようです。あれ、そしたら、来年4月の朝ドラ俳優の中から・・・

 大河ドラマはNHK=政府のある種の世論操作だと思っていますので、今度はどんな狙いがあるのかな?

 その誘導に乗って、関連本買ってしまいそう。「蔦屋重三郎」関係でも、すでに5冊になりました。完全なカモ、です。あやつられています。(苦笑)

 明智光秀役はまだ決まっていないようですが、かたせ2号さんの構想に合うような配役、ストーリー展開に少しでも近づくと、良いなー。

取り急ぎ、ご注進。伊藤睦月筆。

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/23 09:59

【551】私の冬休みの課題図書、ただ今検討中、読んだら、感想文を投稿します。

 伊藤睦月です。かたせ2号さん。ハブ名人の話、激しく同意です。「光速の寄せ」のタニガワ名人や財テクに失敗した、ヨネナガ王将も好きですが、ヨネナガ王将すでに亡く、タニガワ名人もフジイ「アバター」名人にヒヨッテいるようなので、我ら「アナログ人間の星」はハブ名人だけ。ハブニラミ、ガンバレー!!!

 というわけで、年末年始は好きな本に埋もれて過ごしたい、と思います。少なくとも、小林恵子氏のファンタジーもそのファンの方のお話も面白くない。

 中央アジアを席巻した、騎馬民族興亡史の派生形としての日本古代史というのなら、岡田英弘先生や西嶋定生先生は最低限チェックしなければいけないのに、「一般向けだから、恣意的に引用して、正当性を証明すればよい」とは、小林先生、岡田先生、西嶋先生に失礼だろう。それに引用文献も十分とは、一般読者で、あれだけの文献をチェックできる人はいないだろう、と読者をナメテいるとしか思えない。

 ついでに言えば、小林恵子氏は、古代日本語、古代中国語、古代朝鮮語、に通じているが、日本古代史の学者はそれに通じていないので、相手にしない、などと、ほざいているが、「相手にされない」の間違いではないのか。

 なぜなら、小林氏の『古代倭王の正体』にでてくる、騎馬民族の王族たちは、中国語や朝鮮語、ではなく、突厥語、ウラルアルタイ語、満州語、モンゴル語、などを使用していたと思われるが、それらの文献とか、関連研究からの引用がない、というのはどういうことか。

 先に答えを言っておくと、これら騎馬民族たちの言葉、文字による史料は「オルホン碑文」という、モンゴルウランバートルの郊外(といっても350キロほど!)で発見された突厥語の碑文が最古で、8世紀中期以降ものと国際学会認定されている。(その後、世界遺産認定された)朝鮮半島でいえば「広開土王の碑」みたいなものだ。

 つまり、騎馬民族の時代(謎の4世紀)から400年後、聖徳太子の時代からも、200年ほど後の史料だ。

 この碑文は、東突厥語で書かれているため、それを解読するためには、突厥語を読めなくてはならない。また、この碑文の研究は欧米が先行しているため、英語、フランス語、ドイツ語の研究論文を参照しなければいけない。

 日本では、岡田英弘博士の研究が最先端だ。小林氏はそれらの文献を参照したのか。岡田博士の著書ですら恣意的にしか引用できない程度の学力で。

 結局は、小林氏が依拠する史料は「旧唐書」「冊府元亀」などの中国語文献だ。「三国史記」も漢文で書かれている。完成したのは平安時代の藤原道長より後の時代だ。小林氏が小ばかにしている、日本古代史の学者たちと比べて大差ない、というか、彼らの方が、日本書紀などの、日本史料を参照しているだけ、まだましだ。「冊府元亀」で足りないからと言って、真偽のほどもわからないお寺の古文書を持ち出して、ごまかすな。

 以上、せっかく、かたせさんがなだめてくれているのに、エキサイトしてしまった。もうしわけない。かたせさん、もっと楽しい投稿で、私のささくれだった心、いやしてほしい。また、ご推薦の本があればぜひ紹介お願いします。

以上、伊藤睦月筆

 

 

 

 

伊藤 投稿日:2024/12/22 10:10

【550】「騎馬民族王朝征服説」は存在しないことになっていた。

 伊藤睦月です。今更なんですが、実は「日本考古学会」の中では、現時点では、「騎馬民族王朝征服説」は存在しないことになっている。この一点だけを紹介する。そして小林恵子説は、本来「考古学」の問題を「歴史学(文献史学)」の問題として、論じようとしたが、成功しているとはいいがたい、というか、無理がある。考古学の問題は考古学で解決すべき問題。小林氏の立論は土台から間違っている、しかし、仮説としては否定しない、と私、伊藤はあえて断言します。

1)「騎馬民族王朝征服説」は、東大系の考古学者、江上波夫(1906年-2002年)により、提唱され、大変評判になった。戦後歴史ブームの一端を担った。

2)江上説の発表後、日本考古学会のほぼ全員の研究者は、それぞれの理由で、反対を表明したが、江上は、一般向けのPR活動を積極的に展開し、学会は否定しているので、世間一般では、「多数説扱いになる」という、ある種の「ねじれ現象」が発生した。

3)日本考古学会を代表する形で、江上に私淑していた関西系学者の佐原眞(1932-2002、当時奈良国立文化財研究所研究指導部長、吉野ケ里遺跡発掘チームのリーダー、生涯、邪馬台国畿内論者だった)が、江上と論争し、ついに江上の口から、「『騎馬民族』『征服説』は、11世紀の契丹帝国の研究をした、ドイツの歴史学者が唱えた説、コンセプトで自分の説ではない、との発言を引き出した。その対談の様子は、江上本人の了解のもと、『騎馬民族は来た!?来ない?!』1990年(小学館)という本にまとめられた。学会側としたら、これで、「騎馬民族征服説」は提唱者自ら否定した、問題解決、となるはずだった。

4)しかし、その後も、江上は、一般向けのPRを辞めず、1991年に文化勲章を受章すると、「これで騎馬民族王朝征服説」は国家公認の学説となった(佐原による)」と公言するなど、「ねじれ現象」は続くことになる。

5)以上を踏まえ、佐原眞は、「騎馬民族征服説」への批判、反論をまとめた、『騎馬民族は来なかった』(1993年NHKブックス)を発表し、「かつて騎馬民族征服王朝説という仮説があった」と宣言し、学会的にはこれで終わり、ということになっているらしい。

6)伊藤睦月、です。おそらく、この佐原本発表の後、小林恵子が持論を公にしだしたのだろう。それで、日本考古学会はもちろん、日本史学会からも、「黙殺されたものと」、私、伊藤は推測しています。ことの是非は別です。

7)では、小林説については、例えば、『古代倭王の正体』の一番最後の文、「達頭(聖徳太子)は倭王タシリヒコとして、随に送使し認知された」とあるように、「騎馬民族」というベールをはいでみれば、1960年代に、直木孝次郎、井上光貞、といった、日本史学会、考古学会の主流学説、「タシリヒコ=聖徳太子」とと結果的にはなんら変わらない。(当時の学会通説は、「日本の歴史1、2」(中公文庫)にまとめられ、一般人であっても容易に入手できる)

8)思うに、1960年代といえば、小林恵子氏が学生として、研究生として勉強を開始した時期であろう、人は無意識のうちに若いころに刷り込まれた「既成概念に支配される」ものだ。(ケインズ)小林氏も若いころに江上説に感動し、この分野の専門家を志したそうだが、それなら、文献学者でなくて、考古学者を目指すべきだったのだ。結局は60年前の亡霊にとらわれることになった。これは言い過ぎだとは決して思わない。本来考古学の問題を「文献学で立証するなど、無理だったのだ。だから、卑弥呼を3回も登場させてその都度、殺したり、、応神天皇と仁徳天皇(公開土王だそうだ)と親子対決をさせたり、しなければならなくなった。もちろん「真実は1つ」だから、小林説も「仮説」だが、それが、近代学問の大鉄則である「反証可能性」にかなうものなのか、「小林信者」の人たちに問いたい。

9)江上説が現在まで一般向けに、生き残っているのは、「騎馬民族」という言葉から醸し出させるエキゾチックなイメージ、手塚治虫(火の鳥大和編)、黒澤明(影武者に出てくる武田騎馬隊)、ハリウッド(ラストサムライ)のイメージ、特に「集団密集隊形で突撃する武田騎馬隊」のイメージは、大河ドラマにおいても繰り返し、日本国民に刷り込まれ、副島先生も各所で批判されている。それと、対談集でもわかるが、論敵の佐原眞をも魅了する、江上の「人間力」にある、と私伊藤は考えます。

10)では、今後どうするか。それは副島先生が各所で発言されているが、「宮内庁管轄の全国の古墳や遺跡、遺物をすべて公開して、伝統的な手法に加え、最新の科学的手法も交え、分析調査すれば」小林説の成否もある程度明らかになるだろう。これは、「政治」の問題だ。

11)「騎馬民族王朝征服説」は戦前のアジア学による騎馬民族研究と、日本国内における「謎の四世紀」の考古学成果を合体させたものであり、戦後世代の研究者がもちえなかったスケール感がある。そして、当時の「歴史暗黒時代:謎の4世紀」の解明に焦点を絞った、江上波夫はクレバーな学者だと思う。文化勲章を受けるだけのことはある。無用に戦線を広げて(紀元前2世紀から8世紀まで)支離滅裂になっている、小林氏とは大違いだ。

12)私が、小林恵子氏に疑問を持ったのは、江上波夫氏との交流の話が出ない、と気づいた時だ。小林氏は若いころに、江上説にふれ、研究者の道を決意したという。それなら、なぜ東大に行って江上の弟子にならない。東大に入れなかったとしても、大学院からなら、まだ入れたかもしれない。実際佐原眞は、京都大学に3回落ちたので、大学院から入ったそうだ。日本考古学会や日本史学会などで接触する機会はいくらでもあったろう。最低でも自著を江上に贈呈していたはずだ。それに対する江上の反応はどうだったのだろう。今に伝えられる江上の人間性からみて、お礼状一つよこさないような、傲慢な、お偉いさんとは思えないのだが。彼女の著書は最初「文芸春秋社」から発刊されている。新聞広告も少なくとも1回はやったはずだ。江上の目に留まらなかったとは思いにくい。業績評価とは直接関係のない、三笠宮との交流をひけらかす前に、江上やほかの有識者との交流実態を教えてもらいたい。いまさらであっても、学会のたこつぼ体質を批判することになってもよいではないか。高齢の身なら、何を畏れることがあろう。

13)正直、私は小林説に関心を失いつつある。今アマゾンで、「小林恵子 日本古代史シリーズ全9巻」を注文中だが、このままでは、届いても、読む前に、「ブックオフ送り」になる可能性が高い。なんか自分がやるせない。

以上、伊藤睦月筆。