ふじむら掲示板
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Loginはこちら【503】捨て置かれている晋書(【409】への返信:その2)
2054です。東倭がなぜ、これほどマイナーな扱いなのかを考察してみたいと思います。
伊藤氏は歴史の専門研究家ではないとのことでしたが、私から見ると、古代史について精通している御仁です。また一連の投稿を見るにつけ、古代史学会の議論を丹念に追われていることもうかがえます。その方でも晋書の該当部分についてご存じない、というのは、日本の古代史学会が「晋書」の無視していることを物語っているように思います。
小林恵子によると、東倭は唐突に出てくるので学会は「不審だとして捨て置いている」と述べています。『安史の乱と藤原仲麻呂の滅亡』(小林恵子・現代思潮新社p261)より引用します。
(引用はじめ)
新装版の最後にあたって私独自の古代史研究方法をお伝えしたい。 まず、第一に東アジア史は中国を中心にして、その歴史の推移がただちに列島に連動しているので、日本古代史を知るには、まず中国の歴史を知らなければならないのである。このことは太平洋戦争の敗戦直後の昭和二○年代から一般的にいわれていることだが、未だ実行されているとはいえない。
その理由は、おおむね日本史家は中国の史書に詳しくないからである。たとえば「三国史」の「魏書」倭人条や『宋書』の倭の五王についての論文はしばしば見かけるが、『晉書』にみえる東倭については唐突にでているので、不審だとして捨て置かれ、論及されていない。(中略)このような正史ではなくても倭および日本についての史料は中国に数多くあるが、日本史研究者が日本に関係しないと思うのか細かく検証しようとしない。
(引用終わり)
2054です。次の投稿では、晉書の無視についてもう少し考察を続けたいと思います。
【502】東倭について(【409】への返信:その1)
2054です。伊藤氏の投稿(【409】「晋書」について)での質問・疑義点について回答していきたいと思います。今回は晋書にみえる「東倭」についてです。
東倭は邪馬台国が魏に使いを送った、まさに同時期に、日本列島から魏に使いを送っている国で、邪馬台国とは別の国です。邪馬台国は中学高校の教科書にも記載されていますが、東倭はまったく無視されています。
魏志倭人伝と晋書を合わせて読めば、西暦240年当時において、日本国内に「邪馬台国」のほかに「東倭」という有力な勢力があり、いずれも中国王朝から倭王の認定を受けていることが読み取れます。そしてその事実は、歴史学会で無視されています。中国正史に記載されているのに、です。
(伊藤氏の疑問提示)
「晋書にみえる東倭の国」は、「晋書・宣帝紀」と「冊府元亀」をその根拠としており、原文の該当部分を確認できていないので、正否は保留します。(中略)ここで突然、冊府元亀がでてくるけど、なんの論拠としているのだろうか。266年の使いなら、すでに「晋書」に書かれているのだから、2次史料である、冊府元亀を取り上げる意図がわからない。
(ここまで)
2054です。中国正史(晋書)に東倭が記載されているのは事実です。「晋書・宣帝紀」を提示します。和訳されているサイトを引用します。※原典の画像もあるので貼ります。
(引用はじめ)
正始元年(240年)春正月、東倭が複数の通訳を介して朝貢してきた。焉耆・危須等の諸国、弱水以南の地方、鮮卑の名王が、みな使者を遣わして来貢した。引用元:晋書 高祖宣帝懿紀 訳出担当 田中 愛子/辰田 淳一
http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html
(引用終わり)
2054です。正始元年は240年で、「魏志倭人伝」によると、帯方郡の太守の弓遵が使者を倭に派遣して詔書と宝物を渡している。倭王は感謝の返礼をしているとあるので、「晋書」と「魏志倭人伝」を合わせ読めば、この「倭王」は「東倭の王」であることになります。もし晋書が単なる誤りというのなら、後世の知識人は誤りを正すはず。しかし「冊府元亀」では「晋書」の記載をふまえています(補強証拠となります)。
したがって、「238年末までに邪馬台国は明帝より金印を仮綬された」「240年正月に東倭は帯方郡太守(弓遵)から詔書で倭王を仮綬された」ということになります。
中国正史に誤りがないとすれば、このような結論になります。しかし、歴史学会のスタンスは異なり、何かの間違いだろうと無視するのだそうです。
ここで東倭から、晋書に話題を変え、分けて投稿します(続く)。
【501】属国日本史雑記帳(1)日本古代史研究がいまいちなのは、「方法論」議論が弱いからだ。安本美典の方法論にもっと注目すべきだ。
伊藤睦月です。
今回は、表題が、すべて語っているので・・・それでは芸がないので、少しぼやきます。
(1)ナチュラルサイエンスの分野では、「当たり前」なことかもしれないが、その研究を評価するにあたっては、「方法論」の吟味も重要らしい。日本の人文学(特に日本古代史)の分野で「方法論」そのものが、議論になることが少ない。日本史研究における、「方法論」の代表が「数理統計学」「歴史人口学」「遺伝子進化学」など。それらを駆使した文献上、考古上の研究成果も、ともすれば「目新しさ」のみに注目されているように思える。
(2)これが海外の研究者ともなれば、エマニュエル・トッド、ユバル・ノア・ハラリ、トマ・ピケティといった欧米第1線の学者たちは、ともすれば、そのユニークな見解に注目が集まりやすいが、彼らの「方法論」にももっと注目されてよい。トッドは、歴史人口学者の速水優を「自分の先生」とまで呼んでいる。速水の日本での弟子を公言しているのが「磯田道史」(国際日本文化センター教授)だが、最近はテレビ出演で忙しいのか、目立った業績がみられないようである。そのうち出てくることを期待しよう。
(3)例えば、今、ぼやきで、「宇治十帖」の作者は、紫式部ではない、(娘の大弐三位)だろう論が展開されているが、「 源氏物語」(本編44帖)と宇治十帖の文構造や語彙を、数理統計学の手法を用いて、比較分析し、「両者は別の人物により書かれたもの」という学説を、日本で初めて主張したのが、1960年代の大学院生だった、安本美典だ。
(4)もっとも、数理統計学は確率論なので、「大弐三位」だと特定するには至らなかったみたいだ(特定するにはデータ不足だったのだろう)が、安本説の出現は、源氏物語研究の画期(おおきなできごと)になったはず・・・実際はどうだったのだろう。欧米の学会だったら、安本説を中心に議論が進んでいただろう。
(5)津田左右吉(1873-1961)いえば、戦前の弾圧を堪えぬき、戦後、日本古代史の主流となっていたが、その方法論たる、文献批判学は、江戸後期の大阪の町人学者、山片蟠桃(やまがた ばんとう 1873-1821)の方法と成果を完コピしたもの、津田の『古事記及び日本書紀の新研究』は山片『夢の代』をそのまま無断で借用したもの、ということを関西の短大の教授が暴露している。(安本美典『新版卑弥呼の謎』講談社現代新書1988年 序 邪馬台国問題はなぜ解けない)
(5)伊藤睦月です。当時最先端の学説だった津田学説も実は、江戸時代の学説から一歩も進んでいない、ということだ。それは「方法論」が江戸時代と基本的に変わっていないからだ。これは、日本史関連だけにとどまらないだろう。
(6)ちなみに、山片や富永仲基(1715-1746)と同時代の欧米でも、山片や富永と同じような方法論が流行していて、「古代史や神話はすべて造作(後世のつくりもの:津田学説の基本テーゼである実証主義的な原典批判)」とされていた。それを打ち破ったのが、「シュリーマンのトロイ発掘」、「ソクラテスの弁明偽書説の否定」、などの新しい方法論にもとづく歴史調査研究だったそうだ(『同書』)
(7)同じ、日本人の歴史研究者でも、西洋史の研究家たちは、安本の取り組みに好意的だったそうで、林健太郎、村上堅太郎、田中美知太郎、といった当時の有名どころは、(林、村上は、私や副島先生が高校生時代にが使用した『山川詳説世界史』教科書の執筆者でもあった)安本説に好意的なコメントを寄せている。
(8)その一方で、日本史学者の井上光貞は、津田学説を評して、「主観的合理主義に貫かれている」と評していた。(井上センセイ、何をおっしゃりたかったのでしょう?)
(9)伊藤睦月です。私は山片や富永の学問水準が、当時の欧米の学問と同時並行的であった、素晴らしい、と持ちあげるために、本稿を書いているのではない。確かに彼らは「天才」だが、それとて19世紀の水準である。現在は21世紀である。現代の「方法論」でやりたいものだ。
(10)そういった観点からは、副島先生が「理系型知識人」の存在に注目し、彼らとのコンタクトを図っていたのは、僭越ながら、慧眼、というほかはない。その成果が、下條竜夫「物理学者が解き明かす」シリーズ(現在まで3冊でている)であろう。
(11)三冊目は魏志倭人伝と卑弥呼、といった日本古代史分野だ。下條氏は、安本美典にも言及されているが、彼の「方法論」にも注目してほしい。「邪馬台国東遷説」など、安本理論の成果の一つに過ぎない。
(12)安本の視野はもっと広いはずだ。そして、コテコテの文系人間の私では、学力不足で、そんな高みにはおそらくは、たどりつけないだろう。それでも、可能な限り、安本説にも目配りをきかせて、今後論じていくことにしたい、と思う。(また自分で自分のハードルを上げて、自分を追い込んでいる、われながら、懲りないやつだと思う。でも、これが私の「学問ごっこ」なので、仕方ない。)
(13)遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の声聞けば、わが身さへこそ揺るがるれ、
(14)もうしばらく、私の「学問ごっこ」に付き合ってもらいますよ(誰に向かって言ってんだか。めんどくさいやつだ。多重人格でもあるまいに。)
以上、伊藤睦月筆。
【500】私の頭脳で、「哲学談義」はどうも・・・そしてまたまた余計なことを言ってしまった。(大汗)・・陳謝)
かたせ2号さんへ。素敵なレス、ありがとうございます。
私の哲学知識は、「覇権アメ」から派生したもので、あの本に出てくる、哲学者やその著作(日本語訳が出ているのに限る・・・汗)を読んでみては挫折し、の繰り返しで、30年ほど経過してしまいました。現在65歳、これでも見かけは50台に見えると、若い子たちにおだてられ、鼻の下を伸ばしています・・・。
私は西洋哲学は、大きくはプラトン系とアリストテレス系に分けられ、結局はそれに尽きる、と考えておりまして、(レオ・シュトラウスやコジューブの受け売り。しかも「覇権アメ」からの孫引き!トホホ)
それ以後の学説に接しても、結局はどっち系なのよ、で終わっている始末です。それで、別に実生活に支障ありませんねえ。
特にこの掲示板を見ている(かもしれない)若い人へ。まずは副島「覇権アメ」から、あの本に紹介している、文献から始めてみては。その場合、日本語訳でかまわないが、(自分はそれしか読めない・・・冷や汗)、原語じゃなくても、英訳版を読めば、日本語版より、理解しやすい、といった話はよく聞きます。
少し、脱線しますが、大正~昭和にかけて活動した、正宗白鳥(まさむね はくちょう)という作家がおりました。彼は、日本古文の「源氏物語」を読んでさっぱり意味が分からなかったそうです。そこで、英語版(ウェーりー訳)を読んでやっと意味が分かったそうで、仲間の小説家たちにも、勧めたとか。
だから、谷崎潤一郎や川端康成、永井荷風、横光利一、小林秀雄、といった戦前の作家たちで、英語が読める人たちは、みんなそうしたのでは。そして現代日本語を作り上げていったのでは、と想像しています。
年寄りの妄想かもしれませんが・・・
なお、英語訳としては、サイデンステッカー版もあって、日本語訳も出てたような。サイデンステッカーは、ドナルドキーンの同僚で、米軍の日本研究班にもいたそうな・・・(あくまでも私の記憶)
(追伸)守谷健二氏へ。
もう片意地張るのは辞めて、こちらの掲示板にいらっしゃっては。「重たい掲示板」へのこだわりもわかりますが、あの掲示板は副島先生の独壇場で、多少の思いで投稿されても、質量的に圧倒的な「副島津波」にのまれて、氏の「卓見」もそれがあったということさえ、わからなくなると思いますよ。これはときどき「重たい掲示板」になんか興奮のあまり、投稿して自沈している方々にもいえることです。
せっかく、「重掲」以外にもたくさんの掲示板を用意していただいているのだから、それらを活用しない手はないと思いますよ。
また、余計なことを言って嫌われたかな。
気に障ったらごめんなさい!
伊藤睦月拝
【499】伊藤睦月さんへ
伊藤睦月さん
かたせ2号です。
どうもです。
お相手していただくとありがたいです。
私は50歳台後半の人間なので、こうやって書き連ねると、ただの
「じじい同士が自分の昔話(読書体験)に花を咲かせるだけ」(伊藤さん、失礼!)の展開になりますが、
それほどレベルの低い話が進んでいるわけでもないので、このままの感じで行きます。
まあ、いいか、ここは網走番外地「ふじむら掲示板」だし。
(1) カール・ポパーのご紹介ありがとうございます。カール・ポパーが、プラトンを非難しているのは知りませんでした。分析哲学と呼ばれる領域での論客で、「反証主義」を唱えているとは、ワタシもお勉強して、そこまでは知っています。そして分析哲学が主に「哲学と科学との境界線を考察する」、20世紀前半に勃興した比較的新しい活動であることも。ただし、ワタシは読めません。
自分が進むべき生き方を探求する上では学び取る必要が薄く、かつ、日本人の生活実感からかけ離れた思想領域には、時間をかけて勉強する気にはならないので。
分析哲学もこれに該当します。
(2) 佐々木毅さんは、副島隆彦先生が著書をご紹介されていたことから、名前は当然存じています。一冊、ワタシも本を持っています。「政治の精神」(岩波新書)。
途中まで読んでいてて、いいことを書いているとは思うのですが、この本を読んだ日本人が、自分の政治に行動を変える可能性があるのかを想像して、読めなくなってしまうのです。
書かれた内容と日本人の政治行動とのあまりの違いに、頭が勝手に絶望してしまうので。
日本人の政治行動とはなにか?
有名な経営コンサルタントの大前研一さんが、東京都知事選に立候補して落選したときのことを著書「大前研一敗戦記」(1995年11月刊)には、
街頭演説の最後に、奥さん(米国人)がフルートを弾いて終えると、「あのフルート、よかったよねえ」とそこばかり褒めてくる、といったエピソードがあり、それが強く印象に残っています。日本人の政治選択ってそんなものですから。日本国民の大部分が究極まで窮乏するのが先か、日本人の政治選択の様式が変わるの先か、これからどうなるのでしょうか?
(3) ソクラテスとプラトンの思想の違いは、「無知の知」の考えが、本来のソクラテスの思想で、「イデア説」「哲人国家説」がプラトンの思想だと、大きくは考えておけば、支障はないと思います。
また、今日のぼやき「ヨーロッパの王と大思想家たち本の後に続く問題(第3回・全3回) 2024年3月25日」にあった、副島隆彦先生記載の一文、
「西暦1100年代、1200年代は同じスコラ学者の中の戦いがすごかったんです。」
には目を見開かされた思いです。
副島先生ご記載の通り、バチカンの闇の奥には、プラトンの「イデア説」が蟠踞(「ばんきょ」。根をはってわだかまること。がんばって動かないこと)しています。
ですから、イエズス会というのは、「子羊たちに見せる顔」としては、たしかにイエス・キリストを崇拝していますが、本当はそうではなくて、本当はプラトンの「イデア説」の美しさに魅了されて、魂を売ってしまったひとたちなんだろうと思います。その醜悪な姿を、ドストエフスキーが活写し「カラマーゾフの兄弟」の中で告発したのでしょう、キリストの奇跡を否定しキリストを火あぶりにしようとする「大審問官」として。
そんなプラトンの愛弟子が「マルクス」と「ポルポト」。
これでいい世の中ができるわけがないでしょう。
以上、ワタシの勝手な極論ですので、聞き流してください。
バチカンの「署名の間」に、絵画「アテネの学堂」が掲げられているのが、世界の真実。
「幽霊の正体見たり 枯れ尾花」
(補足)
セートクアートランダムというブログから引用します。
https://seitokubi.exblog.jp/17627259/
(引用開始)
「署名の間」は神学、哲学、詩学、法学(正義)という概念を、壁画と、天井に描かれた場面や擬人像と対応させ、図式化した構成になっています。壁画《聖体の論議》と天井画《原罪》は神学、壁画《アテネの学堂》と天井画《天体の起動》は哲学、壁画《パルナッソス》と天井画《アポロンとマルシュアス》は詩学、壁画《正義の壁》と天井画《ソロモンの審判》は法学(正義)という対応関係です。
これはキリスト教と古代の新プラトン主義が結びつき、さらにキリスト教を超えたその時代の思想を部屋全体で体現しているという、壮大な構成です。ルネサンスの理想としている空間で、「署名の間」はまさにルネサンスの最高傑作と呼べるもので、当時も大評判を呼びました。
(引用終わり)
かたせ2号拝
【498】かたせ2号さんの投稿は、昔の記憶を思い出させてくれます。ありがとう。
伊藤睦月です。かたせ2号さんの投稿を一読して、思い出したことをいくつか。
(1)プラトンの「哲学王」をはじめとするエリート思想(ヒトラーを含む)を批判したものとしては、カール・ポパー(1902-1994)『開かれた社会とその敵』(1945年)があり、その
手法を用いて、現代政治史を回顧したものに、佐々木毅(1942-)の『プラトンの呪縛』があります。
(2)伊藤睦月です。ポパーの本は岩波文庫、佐々木の本は講談社学術文庫に入っているので、比較的手に入りやすいと思います。私は途中で挫折してほどなく、ブックオフにひきとってもらいました(苦笑)
(3)マルクスとポルポト(カンボジアの独裁者。「キリング・フィールド」という映画は副島先生の本にも出てきます)との関係ですが、むしろ毛沢東思想との関連を指摘する向きが多かったような。
(4)ソクラテスについても、ほとんどすべてが、プラトンの著作によっているので、ソクラテスの考えなのか、プラトンの考えなのか、よくわからない、というのが、現時点での感想です。
(5)篠原信氏の考えもまた、「祖述」されたものだとおもいますので、彼の考えより、彼の「種本」はなんだろう、と気にしてしまうのは、「アタシの悪いクセ。ウインク。(杉下右京)」ですね。
かたせ2号さん、いろんなことを思い出させてくれて、ありがとうございます。
以上、伊藤睦月拝
【497】プラトンはソクラテスとは、違う思想の持ち主のようだ。(篠原信さんのポストから)
プラトンはソクラテスとは、違う思想の持ち主のようだ。(篠原信さんのポストから)、の件について
かたせ2号です。
プラトンとソクラテスの思想の違いって何なんだろう?
という問いが頭の中に立ち始めて、数年がたちます。
この件に対して、考えを寄せてくれているポストをみつけたので紹介します。
京都大学法学部には、高坂正堯やら前原誠司やら、(弁護士を食えない職業にしてしまった)佐藤幸治やら、ろくなのがいませんが、他の学部の出身者はまだ頭の大丈夫な人がいるようです。
篠原信(しのはらまこと)さん。
実務教育出版のサイトから。
https://books.jitsumu.co.jp/book/b487336.html
(引用開始)
1971年生まれ、大阪府出身。農学博士(京都大学)。農業研究者。中学時代に偏差値52からスタートし、四苦八苦の末、三度目の正直で京都大学に合格。大学入学と同時に塾を主宰。不登校児や学習障害児、非行少年などを積極的に引き受け、およそ100人の子どもたちに向き合う。本職は研究者で、水耕栽培(養液栽培)では不可能とされていた有機質肥料の使用を可能にする栽培技術や、土壌を人工的に創出する技術を開発。世界でも例を見ない技術であることから、「2012年度農林水産研究成果10大トピックス」を受賞。著書に『自分の頭で考えて動く部下の育て方 上司1年生の教科書』(文響社)、『子どもの地頭とやる気が育つおもしろい方法』(朝日新聞出版)があるほか、「JBpress」や「東洋経済オンライン」などに記事を発表している。
(引用終わり)
前フリとして、以下のポストを引用します。
https://x.com/wanpakuten/status/1858592831889436746
午前4:27 · 2024年11月19日(JST)
(引用開始)
立花孝志氏「バカな人たちをどうやって上手く利用するか。犬とか猫と一緒なん。バカに(票を)入れてもらう方法を考えるのが、本当に賢い人かな」
この人に感化されて(2024年の兵庫県知事選挙で斎藤元彦さんに)投票した人おる?w
(引用終わり)
かたせ2号です。上のポストを引用して、篠原信さんがNoteに投稿しているので、以下に抜粋します。
下線はかたせ2号がつけました。
https://note.com/shinshinohara/n/n7bc686e38d2e?sub_rt=share_sb
(抜粋開始)
題名_哲人国家はアホ国家 2024年11月22日 11:38
立花氏のこの発言は、典型的な「哲人国家」。
https://x.com/wanpakuten/status/1858592831889436746
国家は賢い人たちに運営してもらったほうがうまくいく、という考え方。プラトンが「国家」という本で提唱したもの。ソクラテスのような賢い人が支配者になった方がうまくいくに決まってるやん、という考え方。しかし私は、
哲人国家は結局うまくいかないと考えている。そのあたりを今回は言語化してみたい。
私が思うに、プラトンはソクラテスの弟子だけど、ソクラテスの真意を見誤っていることの多い人物。ソクラテスは民主主義の基礎を作った人、プラトンは独裁主義を生んだ人、という意味で、好対照。
ソクラテスは、誰よりも深く物事を考える人だったが、どんな人間にも敬意を抱き、話を聞くのを楽しんだ人物だと考えている。ソクラテスは無知な若者にも問いかけ、話を聞くのを楽しみにしていた。すると面白いことに、若者の口からとんでもないアイディアが生まれることしばしば。
「メノン」という本には、無知な者同士が対話して新しい知を発見するというとんでもないエピソードが紹介されている。
ソクラテスが友人宅を訪問し、そこの召使いに声をかけ、図形を前にして「ここはどうなっているだろう?」と問いかけ、召使いに答えてもらった。すると、ソクラテスにも召使いにも数学の知識がなかったにも関わらず、まだ誰も発見していなかった図形の定理を発見する、というシーンを描いている。
この記述は、とんでもない革命的なもののように思う。知識のない平凡な人間でも、問いかけ、答えるという問答をすれば、新しい知を創造できるという発見!
ソクラテスは、この手法を「助産術(産婆術)」と呼んでいる。無知な者同士でも、問いを発し、答えるという問答を繰り返せば、新しい知を創造できるという「発明」は、民主主義の土台を築く上で極めて重要なものだったと思う。ソクラテスは民主主義の土台を築いた人、と私は考えている。
しかし、プラトンはソクラテスの弟子であるのに、どこか思い違いをしたらしい。先ほど紹介した「メノン」という本も、実はプラトンが書いた本。どう考えても、ソクラテスは民主主義的な発想がとても強い人物だったように思う。なのにプラトンは「国家」という本を書いてしまった。
「国家」では、ソクラテスのような賢明な人間に国家を運営してもらえば、理想の国家になるとプラトンは唱えた。それもよりによって、師匠のソクラテスにその構想を語らせるという形で。この「哲人国家」の発想だと、賢い人間以外は愚民であり、賢人に従えばよいだけ、という話になる。
プラトンの「国家」やマキャベリの「君主論」には、庶民の暮らしや民意に心を砕くという姿勢が見えない。「賢い人間が国家を運営したほうがいいに決まっているやん」で思考が停止しているように感じられる。庶民のため、という発想が非常に薄弱。
このために、哲人国家、賢人国家に憧れる人って、どうも「俺達って賢いよね、愚民どもと違う人種だよね」と自己満足に酔って、庶民のことなど無視する、民意を「愚民どものわがまま」とみなして軽視する、という傾向を強める。
自分を哲人だ、賢人だと考え、「愚民どもとは違う人種」と捉えてしまうと、庶民を同じ人間とみなせなくなってしまうのだろう。そのために、庶民の意見を「愚にもつかぬ、聞き入れる必要のない言葉」と解釈し、無視するようになってしまう。そして、自分たちだけで政治を決そうとしてしまうようになる。
必然的に、「賢人である私たちのためになることだけ考えればよい、愚民どもは野垂れ死にするがいい、愚かであることが悪いのだから」と考えるようになり、自分の利益しか考えなくなる。
ではなぜ今、一部の人たちからこの「哲人国家」構想がウケるようになっているのだろう?私が思うに、2つ理由がある。80年代からイギリスやアメリカで新自由主義が広がり、2000年代に日本でも新自由主義がはびこり、富裕層優遇を当たり前と考える思考が広がった。このため。
カネという権力を握った富裕層は、「おカネを稼げる俺達って賢人といえるんじゃない?だとしたら、俺たち賢人が国家を運営したほうがうまくいくよね?そしたら国家はますます繁栄するよね?その邪魔をするだけの愚民は野垂れ字ねばいいよね?自業自得だし」と考えやすくなったのかも。
もう一つは、「自分は賢人側」と考える人の支持。「俺は愚民とは違う」と考えることで自分を慰めたい人が、哲人国家、賢人国家に賛成することで、賢人側に回りたい、という欲望をかきたてているのかも。たぶん富裕層からはその人たちも「愚民どもめ」とみなされているにも関わらず。
つまり、現在増えている「哲人国家」ファンは、カネという権力を握った富裕層が自分を賢人、哲人とみなしたいという欲求、あるいは富裕層でないんだけど自分を賢人とみなすことで一発逆転の発想を持とうとする欲求を持っている人たちなのではないか、と思う。まあ、幼児的。
しかし、「哲人国家」は、やはり崩壊する宿命にあるように思う。ジャレド・ダイヤモンド「文明崩壊」では、人口が一定数以下になると、知識や技術を維持することができなくなり、新石器時代にまで技術が退化することがある、と指摘している。私は、哲人国家もその運命をたどるように思う。
たとえばプロ野球選手が「有力な新人が生まれたら自分たちの地位が危うい」と考え、高校野球や社会人野球を破壊しようと企んだらどうなるだろう?プロ野球を目指す人間がいなくなる代わり、ファンもいなくなり、プロ野球を目指す人もいなくなって、プロ野球という制度は成り立たなくなるだろう。
プロ野球という職業が成り立つのは、高校野球や社会人野球だけでなく、草野球や少年野球などの「すそ野の広さ」があるから、プロ野球という頂点が高くそびえ、憧れの存在でいられるのだろう。そうしたすそ野が失われれば、プロ野球も存在し得なくなる。
哲人国家もそうした面があるように思う。もし自分たちだけを哲人、賢人と捉えると、やがて、「愚民」とみなしてきた庶民から「賢人」として這い上がってくる人間を煙たがり、嫌うようになるだろう。すると、賢人だった人たちも次第に愚かな子弟の世代に代わり、アホボンばかりになっていく。
結果、自分たちの利益のことしか考えない人間ばかりが為政者となり、愚民とバカにしてきた庶民の手によって駆逐されることになる。哲人国家、賢人国家は、無言のうちに「自分以外はバカ」とみなすシステムであるために、こうした宿命をたどることになるように思う。
ところで、日本の政治が機能不全に陥り始めているのも、こうした面があるように思う。明治維新、そして戦後昭和の日本は、官僚がかなりの役割を果たしてきた。当時、官僚は地方の優秀な人材が集まっており、地方の夢を託されたという使命感に燃えた人たちが活躍した。
だからある意味、それぞれの地域の「民意」を受けた人たちが国家を運営するというシステムになっていたのだろう、と思う。ところが時代が移り、地方からは人がいなくなり、大都市に人口が集中するようになると、地域の民意を受けて、使命感を持って官僚になった、という人は減ることになる。
国家というのは、常に政治の中心に「民意」への配慮を欠かさないようにすることが、秘訣なのだと思う。なのに、「哲人国家」は、庶民を視野の外に置く。アウト・オブ・視野。哲人国家が機能しえないのは、人類が経験してきたあらゆる政体と比べても民意を無視しがちだからなのかもしれない。
なお、プラトンの提唱した哲人国家思想がナチスを生んだ、と私は考えている。「賢い人間が運営する国家は素晴らしく機能する」という発想が、ヒットラーを賢人とみなし、ナチズムを哲人国家として捉えることを成立させたのだろう。そしてナチスは、国民を愚民とみなす代わりに、「身代わり」を選んだ。
それがユダヤ人だったのだろう。ナチスはユダヤ人を徹底して愚民としてみなすことで、同じ人間としてみなすことを放棄し、「虐殺しても構わない存在」と心理的な処理をしてしまった。これがユダヤ人大虐殺につながったのだと思う。
哲人国家の恐ろしいのは、かなり高い確率で誰かを愚民とみなし、人とみなさなくなり、その人たちが命を失ってもなんとも思わない組織になってしまうことではないか。でもそんなことをしたら、必ず深く恨まれ、それが国家転覆の原因を生むことになるだろう。
ちなみに、プラトンはなぜ哲人国家という構想を生み出したのだろうか。
リュクールゴスという伝説上の人物を知ったからだ。リュクールゴスは、プラトンと暮らしたアテネと並んで、古代ギリシャの強国だったスパルタを、強国に育て上げた中興の祖として知られている人物。
スパルタは少数の貴族によって支配されていた。貴族は子どもの頃から厳しく育てられ、軍人として、将軍として鍛えられた。プラトンはここから着想を得て、哲人国家を構想したようだ。
ところで、哲人国家のモデルとなったスパルタはその後、どのような経緯をたどったのだろうか?
スパルタは一時、古代ギリシャの支配者になるほどの隆盛を見せた。ところが、少数の貴族による支配にこだわったために、支配しきれなくなった。スパルタの強さの理由だった、貴族で構成された軍隊統制システムも、維持できなくなった。自分たちだけを賢人とみなすシステムが機能しなくなった。
ところで、昨今「民度」という言葉をよく耳にする。民主主義がうまく機能するかどうかは国民の民度で決まる、という話。もし国民の民度が低ければ愚民化し、民主主義は崩壊する、という論だ。でも私は、「民度」なんて言葉を作ったから存在するように思いこんでるけど、そんなものないと考えている。
身体と細胞にたとえると分かりやすいように思う。皮膚の細胞や筋肉の細胞は、それぞれ与えられた仕事をきちんとこなしてくれている。だから私たちの生命は、身体は、問題なく健康に暮らしていける。でももし身体全体が不健康な環境に身を置くとどうなるだろう。睡眠不足とか栄養バランスの悪化とか。
一つ一つの細胞は元気を失い、うまく機能することができなくなってしまうだろう。この時、「お前ら細胞の『民度』が低いから全身の健康が損なわれるんだ!」と罵ったからといって、健康を取り戻せるだろうか?否。身体全体が、健康を維持できるような環境条件に置かれないと、細胞は無力。
細胞が活性化した状態になるのには、二つの方法があるように思う。一つは覚せい剤を使い、無理やり活性化する方法。この方法なら、睡眠不足だろうと栄養失調であろうと、一時的に健康を取り戻したかのような元気を出すことが可能だろう。その代わり、その反動が後で必ずやってくる。身体ボロボロに。
もう一つの方法は、身体全体が環境条件(睡眠や栄養、運動など)との「関係性」を改善し、全体としての健康を少しずつ取り戻す方法。この方法なら時間はかかるが、細胞一つ一つが元気を取り戻し、活性化するようになるだろう。
私は、「民度が低いから国家が悪化するのだ」というのは、為政者の責任転嫁だと思う。それは、細胞一個一個の活性度の低さを、身体全体の健康を失った原因とみなすような愚を犯しているように思う。細胞の元気は、身体全体の健康を取り戻さねばムリなのに。
なのに、哲人国家を目指す人々は、国家がうまくいかない原因を「愚民のせいだ」と責任を一方的に決めつけ、それによって自分たちが支配者になろうとする。でも恐らくこの人たちは、支配者になってもなお「愚民のせいで」と、責任転嫁をやめることはないだろう。功績はすべて自分のものにするけど。
そう考えていくと、哲人国家は、自らを哲人、賢人とみなす「愚か者のくせに傲慢な人間によって運営される国家」ということになるだろう。つまり、哲人国家とは愚昧国家ということになるのだと思う。
私は実は、民主主義にこだわっているわけではない。民意に常にアンテナを張り、国民の生活を慮ることを怠らないのであれば、君主国家でも封建主義でも民主主義でも構わないと考えている。民意を探り、国民の生活を考えるシステムなら、国民は(比較的)幸せに生きていけると思うからだ。
しかし、民意を無視し、国民の生活を顧みない国家は、どんな社会体制であろうと衰え、崩壊する。細胞一つ一つの元気さ、活性度を顧みずに身体をいたぶれば健康を損なうように。身体を健康に保ち、細胞一つ一つを元気に保つ。それと同じことが、国家にも言えるように思う。
プラトンは、ソクラテスというとんでもない人間が存在したことを後世の人たちに伝えたという非情に大きな功績を遺したけれど、他方、哲人国家という愚かな構想を生み出すことで、ヒットラーをはじめとする勘違い人間を後世に生み出すという副作用ももたらした。功罪のある人だなあ、と思う。
私が思うに、為政者とは、支配者ではない。民意に常にアンテナを張り、国民の生活を慮って諸事を決めていくのが仕事の人。そういう「役割分担」を担う人でしかない、と考えている。重要だけれど、特別視する必要はないと考えている。庶民のほとんどは、自らの役割である仕事を果たしているのだから。
為政者が自分を支配者だとみなすのは、身体で言えば、脳細胞が「俺が身体の支配者だ」とみなし、皮膚や筋肉、腎臓や肝臓、心臓などの細胞をバカにするようなものだ。でも、それらの細胞がきちんと働いてくれているから、脳の細胞が生きていける。脳は他の細胞に依存して生きていける存在。
皮膚は外からの菌の侵入を防ぎ、筋肉は運動をつかさどって口に食事を運ぶ役割を果たし、胃袋は食べ物を消化し、肺は酸素を取り入れ、血管は全身に栄養と酸素を届け、肝臓は解毒し、腎臓は外へ廃棄する。それらの仕事をきちんとこなすから、身体は健康でいられる。
もし脳細胞が「あいつらは全身をどう操作するかを全然考えない」といって、身体の他の細胞をバカにしたとしたら、「アホじゃないか」と思わないだろうか。それぞれの細胞は自分の仕事を果たしている。脳細胞は脳細胞の仕事をきちんとやれ、という話。これは為政者もそう。
なのに哲人国家に憧れる人間は、まじめにコツコツ働いている人たちをバカにし、愚民と罵り、自分たちの責任を転嫁する。「アホじゃないか」と思うのは私だけだろうか。哲人国家構想は、アホ国家なのではないか、と私なんかは思う。
(抜粋終わり)
かたせ2号です。
ソクラテスとプラトンの思想の違いなんてテーマの文章を見たことがなかったので、上記の文章は大変に貴重でした。篠原信さん、ありがとうございました。
(余談)
かたせ2号です。
あとは余談です。この国(日本)では「歴史は思い出である」(小林秀雄)だそうなので、わたしも同じように無責任に、歴史という思い出について語ってみようと思います。
ワタシがプラトンの「家族制度否定論」を知ったのは、中学生のころに読んだ古谷光敏さんの漫画「だめおやじ」からでした。それから、プラトンの著書はたいがい読書経験のあるワタシも、この家族制度否定論が記載されている「国家」には、いまだに手を伸ばすことができません。
なのに、こんなばかな結びつきをどこまで言っていいのかわからないのですが、
「ポルポトの思想は、マルクスの思想(私有財産否定)の後継でもあり、かつ、プラトンの思想(家族制度否定)の後継でもある」のではないでしょうか?
この考え方を逆転させて表現(解釈)してみると
「プラトンの思想(家族制度否定)の思想が実現させるとこうなることを証明するために、『歴史の神』がポルポトに表舞台に上がらせてそれ(家族制度の否定)を実行させ、その成立のために、あらかじめ、マルクスなる人物を登場させて、補助線を引いた(私有財産否定の共産主義思想を唱えた)」のではないでしょうか?
10ミニッツのサイトから。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=4710
プラトン『ポリテイア(国家)』を読む(10)男女平等、家族廃止、財産共有論
(引用開始)
「中心巻」と呼ばれる『ポリテイア』第5~7巻は、これまでの「正義とは何か」という議論に対する脱線部として、「不正とは何か」という議論の前に置かれる。理想のポリスを考える上で「コイノーニアー(共同・共生)」というキーワードが出てくるのだが、ソクラテスは「コイノーニアーをめぐって3つの大波が来る」と言う。その1つ目は「男女同業」、2つ目は「妻子共有と私有財産の廃止」である。かなり過激な提案だが、それぞれどういった意味なのか。
(引用終わり)
かたせ2号です。
なんだよ、マルクスは、経済学的な分析(『資本論』)がどうしても目立つから、見えにくいけど、
目をこらしてよくみると、プラトンの「私有財産の廃止説」を「祖述」しているだけにすぎない。
祖述とは「師や先人の説を受けつぎ、それにもとづいて学問を進め、述べること。」
そしてカンボジアのポルポト政権は、プラトンの「家族制度の廃止」すなわち、普通の男女同士の愛は“肉の子ども”を生むための愛、そして、たった二人の親だけに養育されるより、より多くの親たちに教育されたほうがもっと豊かな人間になれる、の説を忠実に実行してみせた。
だから、プラトンの忠実な弟子は「マルクス」と「ポルポト」。
結局、ソクラテスからすれば「『無知の知』のことを一番言いたかった相手は、実はプラトン、お前にじゃったんじゃ」くらいの気持ちじゃったかもしれん。それだけのことじゃ(方言)。
もう少し書きたいけど、プラトンのイデア説が、カトリックの思想にどのように取り込まれて血肉化したかについての勉強ができていないので、書けません。残念。
以上、「『歴史という思い出』を語った戯言」として、聞き捨てておいてください。
かたせ2号拝
【496】ブレイク:小林恵子説もまた、無視すべからざるものである。
伊藤睦月です。2054様、お心遣い、ありがとうございます。
三笠宮は昭和天皇の弟君でしたね。オリエント学の大家として、国内より海外での名声が高かったと聞いております。三笠宮レベルになると、こだわりや偏見がうすくなるのでしょう。三笠宮もまた後進のために、尽力された方だったのですね。感銘を受けました。
ところで、小林氏の主な主張をコンパクトにまとめたものとして、『古代倭王の正体』(祥伝社新書)が便利で、時々参照しております。それによると、彼女は、江上波夫(騎馬民族征服王朝説)の
実証、展開がメインテーマのようです。なるほど、それならよくわかります。小林氏の主要著作は「小林恵子 日本古代史シリーズ全9巻」で復刊されていて、一定数の支持者を獲得している、ということは、それに対する賛否は別として、「異端の説」として無視してよいものではない、と思います。松本清張や、古田武彦、岡田英弘、副島隆彦、井沢元彦、たちの説を無視してよいものではない、と同様です。魏志倭人伝の記述に素直に従っていけば、邪馬台国が奄美大島にある、という結論になることは自明ですから。なお、私は小林説は採りませんが。
2054様の投稿、楽しみにしております。今後ともどうぞよろしくお願いします。
伊藤睦月拝
追伸:私の入院の経緯については、今後、「医療掲示板」に書き込んでいくつもりです。
【495】日本の民間航空機の定期便が原則、通過することのできなかった「横田空域」で、今月、2024年11月には、通過できるようになりました。
日本の民間航空機の定期便が原則、通過することのできなかった「横田空域」で、今月、2024年11月には、通過できるようになりました。
1.
日本共産党の機関紙「新聞 赤旗」のサイトから。
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik19/2020-01-12/2020011203_02_0.html
(引用開始)
なんだっけ「横田空域」って?
Q 羽田空港の新飛行ルートが一部通過する「横田空域」ってなに?
A 正式には「横田進入管制区」。東京都にある在日米軍横田基地や神奈川県の米海軍厚木基地に離着陸する米軍機などを管制する空域として米軍が管理しています。
Q 空域の範囲は?
A 東京、埼玉、群馬、栃木、神奈川、福島、新潟、長野、山梨、静岡の1都9県にまたがっています。最低で高度2450メートル、最高7000メートルまでを米軍が管理下に置いています。
Q 日本の民間機は飛行できないの?
A 日本の民間航空機が同空域を飛行するのには米軍の許可が必要で、空域内に飛行経路を設定するのにも米軍との協議・調整が必要です。
Q 羽田空港や成田空港を利用する旅客機の飛行に支障があるのでは?
A 民間機の定期便は、米軍の許可をその都度うけなくても済むように、横田空域を避けて飛行することになります。2008年9月の日本側への一部返還で緩和はされましたが、羽田空港から北陸・西日本方面へ飛行する民間機は、東京湾上で旋回し急上昇して横田空域を越えなければなりません。
Q 民間航空の円滑な運航の障害になっているということですね。
A 首都圏周辺の広大な空域が、米軍の許可なしには日本の航空機が飛行できず、管制も日本側ができないこと自体が、安保条約の下で日本の空の主権が侵害され、米軍が日本を戦争の拠点としている証しです。
(2020・1・12)
(引用終わり)
かたせ2号です。
少し古いですが、2006年の防衛白書から引用します。
http://www.clearing.mod.go.jp/hakusho_data/2006/2006/html/i42c5000.html
(引用開始)
(解説)横田空域
横田空域は、新潟県から東京西部、伊豆半島、長野県まで広がり、12,000フィート(約3,700m)から最高23,000フィート(約7,000m)の高度に上る空域であり、現在、この空域においては米軍が管制業務を行っています。この空域内には、米軍の横田をはじめ、空自の入間、海自・米軍の厚木などの飛行場があり、これらの飛行場を利用する航空機に対する進入管制業務(航空機に対し出発・進入の順序、経路、方式の指示などを行う業務)を行うための空域として利用されています。
羽田空港や成田空港から西日本方面などへ向かう航空機は、関西空港および大阪空港へ向かうものをのぞき、横田空域を避けて飛行しています。現在2009年中に羽田空港において4番目の滑走路の供用開始が予定されており、同空港の再拡張後は、発着容量が現在の年間約29.6万回から、約40.7万回へと大幅に増加することが見込まれています。
横田空域については、日米合同委員会の下の枠組みにより日米両国政府が協議を行い、これまで7回の一部返還が実現していますが、日本政府として求めてきた横田空域における進入管制業務の米軍から日本政府への移管(以下「横田空域の全面返還」という。)については、米軍は運用上の理由により応じられないとの立場でした。
(引用終わり)
かたせ2号です。
まとめると、
「羽田空港や成田空港から西日本方面、北陸方面などへ向かう日本の民間航空機の定期便は、関西空港および大阪伊丹空港へ向かうものを除き、横田空域を避けて飛行する状態が長年続いていた」
そういうことになります。
どうやらこの「禁制」が今月(2024年11月)になって、解禁となりました。
笹原俊さんのXを抜粋します。
https://x.com/shun_sasahara/status/1858742299196617194
(午後2:21 · 2024年11月19日(JST))
(抜粋開始)
2024年11月17日、(島根県の)出雲(地域)でお話会を開催しました。
私はスタッフとともに、前日(の11月16日の)夕方、羽田空港から飛行機に乗り、(島根県の)出雲(地域)へ向かいました。
羽田を離陸した飛行機は、上空を旋回してそのまま水平飛行に移り、東京と埼玉の県境を水平飛行していきました。
私の住んでいる埼玉県、川越や所沢・入間の夜景がよく見えました。
私は驚愕しました。この航路は、1945年以来、先月まで、絶対あり得ない飛行ルートだったからです。
東京西部の福生市や瑞穂町などにまたがり、横田基地が存在します。
横田基地上空には「横田空域」と呼ばれる空域が存在し、ここは米軍の管轄下におかれて、日本の航空機は進入禁止となっていました。
これまで、羽田を離陸して、(関西空港および大阪伊丹空港向けを除く)西に向かう定期便の航空機は、千葉方向に大きく旋回して、一気に上昇し、13000フィート上空まで上がってから、水平飛行に移っていました。
これはもちろん、横田空域を迂回するためです。
私は何度も飛行機に乗っていますが、飛行機の窓から川越の夜景を見たのは初めてでした。
これは、「横田空域(への飛行禁止)が消滅した」ということを意味するのです。
通常はこの時点で高度は10000フィート(約4000m)を超えているので、川越の町は絶対に見ることができなかったからです。
夜景が見えたということは、雲の下ということなので、この時点で高度は3000m以下です。
かつての横田空域のど真ん中をつっきって、飛行したことになります。
かつて日本のど真ん中に位置し、日本の航空機の飛行を拒んだ、悪名高き「横田空域」は、既に存在していないのです。
これはおそらく、トランプ大統領当選の影響と思われます。
マスコミでは一切報道しませんが、かつては考えられなかったほどの、すさまじい変化が、水面下で進行しているのです。
(抜粋終わり)
かたせ2号です。
にわかには信じがたい情報だったので、このポストのリプライを拾ってみました。
https://x.com/DoerhMmMnXsgytN/status/1858814123796226365
(引用開始)
トランプ大統領になって以後、羽田への着陸便が確かに変更されています。今まで横田空域の中央の階段を使って都内密集地を抜けていましたが最近はとても静かなので不思議でした。コレで納得です!
午後7:06 · 2024年11月19日
(引用終わり)
https://x.com/hasibiro_maga/status/1858854251646296203
(引用開始)
先日空を見ていたら、見たことない東京上空の空域を民間飛行機が飛んでいて、おかしいと思っていた。
横田空域があるのに、なぜあそこを飛べる(のか)と不思議に思っていた。
(民間飛行機が)東京都心上空を南から北に飛んでいた。
自分の目で確かめてください。
午後9:46 · 2024年11月19日
(引用終わり)
https://x.com/nekosaburos/status/1858766532635189412
(引用開始)
となると、これはトランプさん就任後、冗談抜きで在日米軍の撤退もありえるかもしれませんね。 日本が自力で防衛するのは大変だと思いますが、日本の真の独立のためには在日米軍と日米合同委員会にはお引き取りいただくことが必須となりますから。
午後3:57 · 2024年11月19日
(引用終わり)
かたせ2号です。
一気に在日米軍撤退完了ということにはならないとは思いますが、それにしても、東京オリンピックも終了して数年後の現在、防衛省がお願いしても通らなかった、(関西空港、大阪伊丹空港以外の)西日本の空港への通過が、しれっと、できるようになっているのは、とんでもないできごとです。
ですから、この出来事はたしかに、在日米軍撤退の一連の流れの「さきがけ」になっていくのかもしれません。
以上
【494】商業ルートの出版物について
2054です。近代医学・医療掲示板を拝見したところ、伊藤氏は「平癒」されたとのこと。精力的な投稿も続き、お元気そうな状況ですので、安心いたしました。今年の夏前(前回の入院前)にやり取りをしていましたが、返答をするのを控えておりました。伊藤氏の投稿の邪魔をしないタイミングで、少しずつ以前の質問や疑義への回答をしてまいりたいと思います。
今回は、商業ルートでの出版について伊藤氏による「ブレイク(閑話休題?)」の投稿がございましたので、便乗します。【491】の投稿では「一番金になりそうもない地味な学問系にとって、出版社とつないでもらえるということが、どんなにありがたいことか」とありました。
私が支持している小林恵子の場合は、三笠宮崇仁殿下が紹介して下さったようです。宮様が自ら風呂敷に包んで原稿を出版社に持ち込み、それに発奮して彼女は自ら「新規開拓営業」をしたようです。
(引用はじめ)
日本オリエント学会に入って、はや五十年近くになった。入会して間もなく学籍のない私を 気の毒に思われたか、会長の三笠宮崇仁殿下が宮内庁書陵部のご自分の研究室にお招き下さった。そこで宮様の御蔵書や書陵部の本を手当たり次第、読破した。宮様の研究室は教師のいない私の学校だったのである。
それから、かれこれ十年経た一九七二年に高松塚が発掘された。この頃、高松塚を話題に研究室で宮様とお話をしていたところ、宮様が本を出版したらどうかといわれた。初めは思いもかけないお言葉にとまどったが、やがて、その気になり、『東アジアの古代文化』などという今は廃刊になっている同人誌に小論を提出したりして自分なりに出版の準備をした。そのうち原稿がたまったので、宮様にお目にかけると、宮様は講談社や学生社にお持ちくださった。今も唐草模様の風呂敷に私の原稿を包んで、手ずからお持ちいただいたお姿が目に浮かぶ。
しかし両社共に断られ、私はそこで、始めて人事のように宮様のご好意を傍観していた自分に気づいた。
宮様のご好意を無にするわけにはいかないと決意し、私の本を出版しそうな傾向があるとみた当時の現代思潮社の石井恭二氏に電話した。一面識もなく、紹介者もいなかったが、原稿を見てもよいという返事だったので、三~四ヶ月かけて原稿を書き改めて石井氏のところに持ち込んだ。石井氏は私の電話のことはすっかり忘れていらっしゃったが、その場で刊行が決まった。それが今も出版中の『白村江の戦いと壬申の乱』である。一九八七年の暮のことだった。(引用終わり:『海翔ける白鳥・ヤマトタケルの景行朝』現代思潮新社p266~267)
2054です。『白村江の戦いと壬申の乱』(現代思潮新社)は、40年近く経過した今も、新刊で販売しています。商業的に成功はしていない(はず)ですが、アマゾンでもワンクリックで即入手できます。これは驚異的なことで、現代思潮新社という出版社の見識と矜持に、私は敬意を抱いています。