ふじむら掲示板
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Loginはこちら【513】2054さん、ていねいなフォロー、ありがとうございます。
伊藤睦月です。2054さん、拙文を丁寧に検討していただき、ありがとうございます。
東倭とは、卑弥呼を共立した、倭の30国とは違い、倭の東、例えば東北地方にある、国、であるとの、ご見解ですね?確かに東北には、九州、畿内とも独立した勢力が、あって、魏に朝貢してきたという可能性は否定できない(三内丸山遺跡などの末裔か)とは思います。ただし、学会が納得するような根拠がでてきてないように思えます。残念です。
ではなぜ、魏皇帝は「東倭王」の称号を与えなかったのでしょうか。そして、東夷伝になぜ「東倭伝」が記載されていないのか。宣帝本紀にあげられているくらいだから、司馬懿は喜んだはずなのに。(下條説のように、卑弥呼は魏皇帝の縁戚だから、特別扱いされたのだ、という説も魅力的ですが、まだ納得しかねています)そしてなぜ、1回しか登場しないのか。
なお、「倭国王」の称号を与えうるのは、当時は明帝だけだと思います。(司馬懿はまだ、実権を掌握しきっていない)。邪馬台国と東倭の両方に二重に「倭国王」の称号を与える理由がよくわかりません。司馬懿はクーデタを仕掛けられて逆襲するまでは、実に「忠実な爺や」を演じていて、徳川家康にそっくりです。そういう挑戦的なことをしかけるのは、もっと後年だと思います。(自分の記憶だけで書いていますので、間違いあればご指摘ください)
いずれにせよ、2054さんのご見解、刺激になってありがたいです。今後ともよろしくご指摘お願いします。
なお、「重訳」は、鳥越憲三郎の解釈そのままです(『倭人・倭国伝全釈』東アジアのなかの日本 角川ソフィア文庫)それで、現時点では鳥越説を支持していますが、それよりもっと説得力ある見解がでてくれば、こだわりはありません。「重訳」の他の使用例が見つかるとよいですね。
以上、伊藤睦月拝
【512】YOUは何しに魏にきたの?(【409】への返信:その4)
2054です。
伊藤氏は最新の見解は過去と異なり「アップデート」がされているようです。その新伊藤説については別の機会に検討しようと思います。今回は、アップデート以前の見解(旧伊藤説とします)をご紹介し考察を進めていきたいと思います。
(伊藤氏の疑問提示:ここから)
239年に、邪馬台国が「親魏倭王」の金印を受けている。もう、倭国代表の指定は終わっているのに、240年に「YOUは何しに魏にきたの?」戦勝祝いなら、時機失してる。
(引用終わり)
238年6月に女王国は難升米を帯方郡に派遣し、238年12月には魏から詔書・金印などを下賜されています。そして再び240年正月に謁見した。旧伊藤説が述べているように倭国代表の指定は終わっているのですから、「YOUは何しに魏にきたの?」(意味ないよね?)ということになります。東倭の存在を前提にしない場合、ここから一歩も先に進みません。
しかし、実際には邪馬台国と東倭は同時期に存在し、同時期に送使しています。この使者送付の理由について、当時の国際情勢を踏まえて整合的に解釈するのが、本来の歴史学のはずです。
当時の東アジア情勢では、周辺諸国は魏の影響をもろに受けます。小林説が優れているのは、日本列島からの送使を「魏の内部問題」から説きおこしている点にあります。具体的には、明帝と司馬懿の権力闘争があり、その影響を受けた日本列島では、邪馬台国と東倭が別々に呼び寄せられる結果となったと考えられるのです。そして、明帝側と司馬懿側の両サイドが、邪馬台国と東倭にそれぞれを倭国代表と認めたのでしょう。
引用が長くなるので途中までにしますが、小林恵子の見解をご紹介します。
(引用はじめ)江南出身の卑弥呼と高句麗から来た神武(現代思潮新社p156~157)
卑弥呼が親魏倭王に任じられた直後の「魏志倭人伝」の正始元年(240年)条に、帯方郡の太守の弓遵が、帯方郡の使者に詔書と印綬や宝物をもたせて倭国に遣し、倭王に仮受させた。それに対して倭王は謝意の上表文を奉ったとある。この条の倭王も今までは卑弥呼と考えられてきた。しかし、卑弥呼はすでに魏王室から親魏倭王に任じられている。その上、帯方郡の太守から倭王に任じられたというのは重複にしてもおかしい。この倭王は先に述べたように、「魏志倭人伝」にある、243年に使者を送った倭王(=東倭)で、卑弥呼とは別人なのである。そして、この倭王も魏の都に使者を派遣したことは「魏書」ではなく『晋書』(帝紀一)にみえるのだ。
『晋書』(宣帝紀)には、正始元年(240年)正月条に、東倭重訳が使者を派遣して、中央アジアの焉耆(えんぎ)や東北方アジアの遊牧民鮮卑(せんぴ)と共に朝貢してきたとある。東倭とは初見だが、邪馬台国の別名ではなく、より東北にある列島内の一国の名前である。このことは同道の民族が中国東北方面の遊牧民鮮卑であることからも推測される。
240年正月朝貢といえば、彼らが倭国を出発したのは239年中だろうから、238年の邪馬台国の使者の直後に倭国を後にしたことになる。『冊府元亀』(外臣部 朝貢一)にも同じ記事がみえており、東倭重訳と倭国女王卑弥呼と対比させている。倭国女王と倭王は同一人物ではなく、弓遵が使者を派遣したのは東倭王だったのだ。東倭とは、九州の女王国より東北にある国、列島の日本海側の一勢力と考えられる。東倭の使者は、高句麗の領域に日本海側から直接上陸して、高句麗領内を通って魏の都に入ったようである。この時の帯方郡の太守弓遵には、卑弥呼の邪馬台国以外の列島の諸国とよしみを通じなければならない理由があった。(後略)(引用終わり)
2054です。魏志倭人伝の記述では、倭王と女王は使い分けられていますし、列島から派遣したであろう使者の名前もそれぞれ違います。また、彼らを呼び寄せた魏側の太守も別々です。そして晋書には240年の送使は東倭である、とあるのですから、これが全部1つの国=邪馬台国とみる必然性はない(むしろ疑問だらけ)と思います。
また晋書に「重譯」(重訳)とあり、その点について伊藤氏の疑義提示がありましたので、この点を次に取り上げたいと思います。(続く)
【511】【510】いくつかの仮説メモ(2):私の方法論(少し気負いすぎかも・・・):時代区分論
伊藤睦月です。私の属国日本史論、の時代区分について、生煮えですが、書き留めます。今後必要あれば、適宜修正していきます。
(1)テーマ名「属国日本2000年記(仮称)」
①範囲:おおむね、ADゼロ年(漢委倭国王)から、2001年(アメリカ帝国「終わりの始まり」)まで
(2)この2000年間を、「世界史の誕生」(1206年ジンギスカンの即位)以前と以後にわける。
(3)「世界史の誕生」以前
①「地域覇権」の時代。
・60年かその倍数単位で年代を区切って、歴史を語る。(60年周期で歴史は繰り返す説:副島)
・東アジア、オリエント、インド
・オリエントから、地中海、ペルシャ、が派生
・地域覇権間の緩衝地帯としての「中央アジア」
・日本古代史は「東アジア世界」のなかで、語られる。(中国から見えている日本列島、という視点)
・九州王朝説(古田武彦)の採用
・倭の五王と「書紀の5王」別人
・「邪馬台国東遷説」と「騎馬民族征服説」はセットの話。
・九州王朝は「東」ではなくて、「北」に向かった。
・「神武東征」は、よくある「建国神話・創業者伝説、古代版「プロジェクトX」だ。
②中国正史に現れた「倭国」は九州王朝のこと。
・「旧唐書倭国伝」は「九州王朝」のこと。
・「旧唐書日本伝」から「ヤマト王朝」が中国のカ ウンターパートとして、認知される。
・日本書紀記載の対中国的に「不都合な事実」は、ほとんど、「九州王朝」がやらかしたこと。
・それでもそういう記事を採用したのは、あくまでも、「九州王朝」の正統な後継は「ヤマト王朝」である、ということを、国内向けに宣伝するために、日本書紀は書かれたのであって、中国向きではなかった。
・タシリヒコは「用明天皇」(新唐書日本伝に明 記)
・「聖徳太子」は、「仏教かぶれのプリンス」という意味、九州にも大和にもこの種の流行に敏感な、ぶっとんだ、おにいさんは存在した、というだけのこと。(現在でもいますよね)
③「古事記」は平安時代初期の偽書だが、書紀未収録のエピソード(冊府元亀みたいな)や「ファンタジー」集として使われた。太安万侶を持ち上げるために。
④「日本書紀」は、ネイティブ漢文だが、遣唐使の時代、中国には伝わっていない。
⑤中国から、「日本国号」の使用許可はとれたが「天皇号」はとれなかった(申請すらできなかった)
⑥天皇号の使用を認められたのは、北宋になってから。
⑦「日本書紀」は、国内向けのプロバガンダ文書
⑧日本書紀は、あくまでも「ヤマト王朝」の歴史書。
それに、「九州王朝」の歴史を組み込んで作った。
・古事記は、太安万侶の子孫たちの、日本書紀講義のあんちょことして、作成された。(公式講義録は「弘仁私記」)
伊藤睦月です。いろいろ書き散らしたが、私の考えの骨格を示したつもりです。適宜バージョンアップしていきます。今まで、書き散らかしてきたのは、本文に対する、注釈やコラムに相当するものだと、思います。当面書き散らしが続きますが、そのうち、熟度が高まれば、本文編もかけるのではと思います。
今まで、個別テーマで論文を書いてきた研究者が、全体を見通した、教科書、通読書、を書くようなものかな。これじゃ、私の方が、よほど中二病、じゃん。
以上、伊藤睦月筆
【510】いくつかの仮説メモ(1):私の方法論(少し気負いすぎかも・・・)
伊藤睦月です。日本古代史に関する私の見解を述べるにあたって、いくつかの前提があるのでそれを急いで書き留めます。根拠史料(文献)は、私の記憶に基づくもので悪しからず。(以前、参考文献リストをアップしましたが、その後増えてます。50点はあると思う)
(1)中国側史資料と日本側史料が矛盾するときは、原則、中国側史資料を優先して、解釈する。
(2)中国側資料の中での優先順位は、①正史②野史・稗史(はいし)③その他百科事典的史料とする。
(3)学説としては、副島属国理論と岡田英弘説をベースにおいて、他者の説も、必要に応じて採用する。(できるだけ、引用文献等明示する)
(4)いわゆる「学会通説」で説明を試みるが、説明つかないときは、学会内外にこだわりなく、最も適切な見解を採用し、それでもつかないときは、自説を展開する。
(5)従来型の文献解読と考古学の成果をベースとするが、分析手法は、現代欧米と同じく、統計学、遺伝子学、土木学、気象学、海外学者の学説など、「学際的な知見」も自分のわかる範囲で採用する。
(6)伊藤睦月です。これは、他者説の批判検討でも同じことです。・・・少し気負いすぎましたね。なんか息切れしそう・・・ちょっと休憩します。(年寄りの冷や水かな・・・)
以上、伊藤睦月筆
【509】ブレイク:「邪馬台国畿内説」は政治的な邪魔が入らなければ、そのうちフェードアウトするだろう。
伊藤睦月です。前回、コメントした、邪馬台国論争ですが、すでに、学会内では「九州説」で決着済みのようだ。その間の事情は安本美典典『邪馬台国は、99.9%福岡県にあった』(2015年勉誠出版)に詳しい。この本に書かれてあることが事実なら、勝負はついている。でもなぜ・・・
(1)「邪馬台国は北部九州にあった」という学説は、魏志倭人伝にでてくる、鏡、鉄の矢じり、勾玉、𥿻、について各県の遺跡から出土する数を調べて、数理統計学上の分析をすれば、99.9%の確率で、福岡県に邪馬台国はあった、ということになるらしい。
(2)これについては、畿内説をとる考古学者からは、無視されているようだが、専門の統計学者からすれば、「勝負あった」ということらしい。たぶんそうなんだろう。
(3)それよりも、注目すべきは、箸墓古墳=卑弥呼の墓説で、考古学の分析手法である、「炭素14年代測定法」で箸墓古墳の築造年代が、卑弥呼と同時期というのが、最大の論拠だとされていた。これが否定されたことだ。
(4)そして、この説が、2009年に朝日新聞で全国ニュースで報道されると、「畿内説」で決まり、という風潮になっていった。
(5)しかし、安本前掲書によると、この説が日本考古学会で発表されると批判が相次ぎ、当時の考古学会の会長が、取材にきていたマスコミ各社に対し、「この説は、学会多数説でない」という声明を出したという。
(6)これを受け、「週刊文春」が追跡記事を書いたり、先の安本説が、月刊「文芸春秋」に掲載されたりしたが、(2013年11月号)世間一般には、「畿内説」で決まり、という風潮は消えず、今に至っているそうだ。
(7)この説を学会で発表したのが、「国立歴史民俗博物館(千葉県)の研究グループ」で、発表前に、当時朝日新聞の文化部記者だった、塚本和人記者に事前リークし、塚本記者は、地元桜井市教育委員会や奈良県教育委員会、学会の重鎮で、元日本考古学会会長だった、「大塚初重明治大学名誉教授」(1926-2022)への取材を加え、学会での発表とほぼ同時並行で、新聞記事にしたという。
(8)この箸墓古墳=卑弥呼の墓説はその発表直後から、「邪馬台国畿内説」をとっている研究者でさえ、その大半は否定的であり、「炭素21年測定法」もそのずさんなやり方が、専門家の批判を浴びている。
(9)そして、実際に「箸墓古墳」や「纒向遺跡」を発掘調査している「奈良県立橿原考古学研究所」の研究員たちからも、異論がでており、ここで、「九州説」で一件落着、・・・とはならないのが不思議。
(10)また、このPRのやり方について、「調査費予算」を確保するためだと暴露する、関係者も現れた。
(11)安本氏は、これは、「旧石器捏造事件」や「STAP細胞捏造事件」と同じことではないか、と嘆いているが、マスコミ的には、前2者より、盛り上がりに欠けるようだ。
(12)伊藤睦月です。この箸墓古墳問題が長引いた要因の一つに考古学会重鎮の一人が加担していたことがあるだろう。本人がどれだけ自覚的かは今となっては不明だ。安本先生の憤りはもっともですが。重鎮の生前中は誰も阻止できなかった。
(13)しかし、その重鎮もこの世を去った。今から本格的な見直しが始まるだろう。というか、いつのまにか畿内説はなかったことになり、教科書の記述もいつのまにか変更されているだろう。聖徳太子のように。釈然とはしないけどね。その日を楽しみにしていよう。
以上、伊藤睦月筆
【508】「東倭」とは、卑弥呼を共立した国のいずれかの可能性がある、と考えられる(伊藤ファンタジー)
伊藤睦月です。2054さんの投稿にあった「東倭」についての、考察を加えます。(基本、伊藤独自説、ファンタジーなので、お気楽に)
(1)「東倭」の朝貢は、宣帝(司馬懿)本紀に記載されているので、おそらく事実であろう。(邪馬台国卑弥呼の朝貢とならんで、司馬懿の業績の一つと認定された)
(2)しかし、邪馬台国に対する取り扱い(待遇)と東倭に対する取扱いは明らかに差がある。
①邪馬台国は、「親魏倭王」の金印を皇帝から、(使者に対し)親綬されているが、東倭の使者の対しては、出先機関の帯方郡太守から「辞令」を渡されただけ。明らかに両者の待遇に格差がある。
➁中国正史には、邪馬台国に関する記事を別に紹介している(倭人伝)が、東倭にはそういう記載がない。
➂また、中国正史には、邪馬台国のトップの名前(卑弥呼)が紹介されているが、東倭には王名不詳であり、地理的情報など、朝貢の具体的状況の記載もない。
(3)以上から、当時の中国王朝からは、邪馬台国と東倭とは、倭エリアにおける同等の存在とはみられていない。むしろ邪馬台国の勢力下にある国だとみなされたと思われる。
(4)そうであれば、候補国としては、魏志倭人伝に記載された邪馬台国の周辺国(20くらい)のいずれか、で日本海側から、使者が出せた国(玄界灘~朝鮮南西部経由は邪馬台国が押さえていたはず)
(5)邪馬台国の朝貢使は、238年、東倭の朝貢使は、240年に魏都にたどり着いているから、東倭は邪馬台国からみて東側(日本海側)にある、邪馬台国の服属国。
(6)出雲王朝であったとか、後年のヤマト王朝の勢力なのかはよくわからない。当時の卑弥呼を共立した国の地理的範囲による。(南の狗奴国については記載はあるが、東側の「敵対国」については記載されていないので、そんなに脅威がある勢力がいないか、いても無視できる程度のものであったと思われる。
(7)では、なぜ東倭の使者が魏に派遣されたのか。これは「指名権争い」であろう。238年以前は、遼東を支配した公孫淵の「燕」が設置した「帯方郡」に使者を派遣していたが、燕の滅亡に伴い、燕の帯方郡が消滅したので、直接魏に使者をだすことができるようになった。(ここまでは、西嶋定生の見解)
(8)そこで、東倭は、邪馬台国を出し抜き、先に使者を出して、魏皇帝から、倭国エリアの代表として公認されれば、倭国貿易の窓口(岡田英弘説)としての利権を支配できる、と考えたのではないか。
(9)しかし実際は、東倭の使者は邪馬台国に2年遅れで、魏都に到着した。宣帝本紀に記載されているので、出先の帯方郡ではなく、魏都には、到着したのであろう。
(10)魏皇帝側としては、邪馬台国につづき「東の大国」が朝貢してきたことを歓迎したが、金印をわたせず、倭国王の辞令しかわたせなかった。金印でなければ、辞令の重複などそれほどこだわらなかったのであろう。(後年の王武も辞令だけで金印をもらっていない)しかも、皇帝から直接ではなく、帯方郡に戻らせて、帯方郡太守から、渡す形式となった。これを「たらい回し」という。
(11)その後、東倭の「辞令」は、「親魏倭王」の金印の前では、地元(倭国エリア)で優位性が周囲や取引先の華僑から認められなかったのだろう。もしかしたら、倭国エリアに戻ってから捕縛され、辞令は没収された可能性もある。関係ないふりをしたことも考えられる。
(12)その後は、「東倭」からの使者が魏に届くことはなく、中国正史に記載されるほどの活動ができたかどうかは、わからない。卑弥呼死後の「第2次倭国大乱」における役割やその後の「邪馬台国東遷」との関係もよくわからない。
(13)なお、下條説『卑弥呼は、魏皇帝とも姻戚関係にあった、五斗米道の一族の姫君「張玉蘭」』である、という説については、検証するすべを持たないので、賛否は保留する。
(14)なお、岡田英弘説では「冊封体制」という学会通説のコンセプトを認めていないので、(『歴史とは何か』)岡田説に言及する場合は注意が必要。
以上、現時点(2024年11月30日)での、私の見解です。
伊藤睦月筆
【507】ブレイク:邪馬台国は江南文化圏にあった(【504】のご返信)
2054です。伊藤氏は今年4月以降に本格的に文献を読み込まれているのですね、もちろん「上には上」がいますから、精通している人は世に多くいらっしゃると思いますが、古代史の学会全般を見渡している方はあまりいないと思います。
精力的な投稿で気力が充実しているようにお見受けしています。「病は気から」で、古代史の研究活動が病気を遠ざけ、退散させることを願っています(病気とは言え、お仕事を休んで文献を読み込むなどは、少々羨ましい・・・と思ってしまいますが)。
伊藤氏は『古代倭王の正体』(祥伝社新書)を入手されているとのこと。そして邪馬台国が奄美大島にあったことに首肯されるとのこと。この本の主張の最重要点に関連していると思います。さすが、伊藤氏は鋭いですよね。
小林恵子は「邪馬台国が江南文化圏にあり、数千年前から海洋貿易国家だった点」をはっきりさせたかったのだろうと私は推察しています。
(引用はじめ、前掲書p9~10)
今まで自分でも漠然としていて整理がつかなかった紀元前から直後にかけての邪馬台国の真相に力点をおいた。邪馬台国については新しい知見があり、どうしても書き残しておきたいと思っている。
(引用終わり)
2054です。エジプトの太陽神信仰が邪馬台国に何らかの形で伝わり、天照大神につながったことや、絹や蚕の原産地が奄美諸島にある可能性も指摘してきます。これらは以前の著作には見られない点です。
これらの点については、その根拠となる文献や資料を見つけられないので、ご存じの方には是非教えていただきたいころです。仮に数千年前からの人的交流が認められれば、日本の古代史全般が書き換えられることになりますので、非常にダイナミックな見解です。将来的にはこの点の解明が進むのでしょうが、解明するのは日本の古代学者ではなく、たぶん、海外の研究者になるのでしょう(勝手な憶測ですが)。
【506】【505】景初四年は偽の年号(【409】への返信:その3):この問題は、政治的な意味でややこしい。
伊藤睦月です。2054さん、ち密な投稿、ありがとうございます。励みになります。ややこしくなるので、正確な引用の指摘は避け、簡便に私見を述べます。
(1)「三角縁神獣鏡」の取り扱いについては、1920年代から考古学上の議論になっていますが、日本歴史学会では、いわゆる「邪馬台国論争」(畿内説か九州説)に絡んで、沼にはまってきた。
(2)1920年代の日本人考古学者は、「魏鏡説」を主張し、1970年代までには、定説化して、「畿内説」の有力な根拠の一つとされてきた。「九州説」にたつ、東大系の考古学者のなかには、疑義を挟む者もいたが、学会主流にはならなかった。
(3)1970年代に入ると状況が変化する。日中国交正常化に伴い、中国本土の考古学者と交流が始まると、彼らは、「魏鏡説」を全否定した。三角縁神獣鏡は、中国国内の主要な遺跡からは、1枚も出土しておらず、日本に渡来した、長江周辺の職人が、日本国内で製造したもの。だから、魏志倭人伝で、卑弥呼にプレゼントされた「銅鏡50枚」ではない。このことは、中国の学会では定説になっていること。
(4)年号についても、改元のあったことを知らない、中国人職人が、たまたま作ったのが残ったのだろう。中国では1枚も見つからず、日本で大量に見つかっているのは、その証左である、と。
(5)この中国からの「援軍」は、「九州説」論者を勢い付けたが、反論も多く、学会内では、決着がつかず、2011年代に、箸墓古墳の、考古学的分析(炭素14年代測定法)による出現年代の判明などで、一応「畿内説」に決まりかけたが、2020年代に同じ考古学者からの有力な反論もあって、事態は「沼」化している。
(6)以上を踏まえて、福永伸哉(大阪大学教授)は、この「三角縁神獣鏡」の取り扱いについは、次のようにまとめている。
(引用開始)
(この三角縁神獣鏡は、国内で)現在約600枚の出土が確認されており、このうち、四分の三が中国鏡、四分の一がそれを模倣して列島内で制作された鏡とみるのが有力な説であるが、製作地をめぐっては、全てを列島製、全てを中国製と考える説もある。
(引用終わり:福永伸哉『三角縁神獣鏡とヤマト政権の形成』設楽博己(東京大学名誉教授)編日本史の現在1考古)
伊藤睦月です。このまとめ、いかにも「日本的」でしょう?この『日本史の現在』シリーズは山川高校日本史教科書レベルの論点の学会での最新(2023年現在)現状と展望をまとめたもので、便利です。
伊藤睦月です。小林恵子氏のように、年号問題を正面から取り上げているものはないように思います。『晋書』については、日本史学会の学者たちは知らなかったわけでなく、台与の再朝貢の記事のみに注目し、「銅鏡問題」は魏志倭人伝を議論の対象にしてきた、と考えられます。
いずれにしても、この問題は、文献学ではなく、考古学の領域であり、これについては、「国内鏡」で決着がつきそうな印象ですが、副島先生が示唆されているように、政治的に阻む動きもあるようで、また、そもそも、同じ文献学といっても、「日本史学会」と「東洋史学会」とでは、見方が微妙に違っているようなので、注意が必要です。
なお、「邪馬台国東遷説」「騎馬民族征服説」も絡んできますが、話がややこしくなるので、これについては、別に論じます。
以上、伊藤睦月筆
【505】景初四年は偽の年号(【409】への返信:その3)
2054です。前回の続きで、晋書の無視について説明したいと思います。その傍証として「景初四年は存在するのか問題」を提示します。
京都府福知山市にある古墳から出土された三角縁神獣鏡には「景初四年」銘があります。日本史学会では、「景初三年の次は正始元年で、景初四年は存在しない年号だ」とするのが定説のようで、この鏡は「偽の年号」で作ったことになります。そのため、これは魏本国での制作ではないと解釈するようです。
この鏡の製作地についてはおくとして、年号については、小林恵子は、「景初四年は存在する」と晋書をもって、さらっと説明しています。
(『記紀史学への挑戦状』p67~68、現代思潮新社:引用はじめ)
『晉書』を読まない日本史の先生
小林 (魏志倭人伝は)あれはもう隅から隅まで見ているんですね。ですけれども、三国の時代が終わって、265年に晋が建国されますね。その翌年の266年に、東倭、東の倭の国が朝貢したと、「晋書」 に出ているんですね。「冊府元亀』(朝貢一)では265(泰始元)年となっています。邪馬台国から倭の五王にかけての非常に重大な時期なんです、この晋のときはね。
井沢 そうですね、はい。
小林 それを読んでいらっしゃらない。読まずに、東倭の朝貢を否定する。実際に「晋書」(志 天文・中)を見てください。景初四年というのはあるんですよ。景初四年という年は、日本の学説ではないことになっているから、あれは僻地にいる日本人が、倭の人間が考え出した幻の年号と年だと。
井沢 はい。
小林 というようなことをいわれていますけれども、それは「三国志」の「魏書」ばっかり見ているとそうなるんで、景初というのは、魏の年号で、景初三年が239年。240年は正始元年になるんです。だから景初四年はないというのが定説です。ですけれども、景初元年に、三月を四月にして暦を変更しているんです。結局、景初三年は239年の十一月まで、そうすると239年の十二月は景初四年になるわけです。景初四年は中国の史料じゃないから信用できないなんてずっといわれつづけて、今もいわれてますけどね。その重大な時期の『晋書』を日本史の先生が、読まないから、こういうことになるんです。
(引用おわり)
2054です。暦の改定で「1か月だけ」の年があるとのこと。上記書籍には239年とありますが、正しくは238年12月を正月としたというのが正しいように思われます。
魏の明帝は239年1月1日に死去していますが、魏書の明帝紀の注釈にも「数えで34だが、前年の12月を正月とするので、35といえなくもない」と記載されていますから、238年12月を正月とすることで、正月を迎えた数だけ年を取るということで、数えで35といえるからです(小林説でも後年、そのように説を変更しているようです)。ただ、238年でも239年でもどちらにしても景初三年と正始元年の間には「景初四年」があることになります。
上記引用の著作は1998年出版で、30年近く経過した現在、学会村がいまだに「景初四年は存在しない」としているのかどうかは知りません。少なくとも「中国の史書にないから存在しないのだ」と述べているなら、晉書を知らないということになります。それとも「晉書」は正史だけどレベルが低いからダメ、とでも言い出すのかもしれません(学会の全体像を私は知りませんので単なる想像です。もし、ご存じのようでしたら伊藤氏にご教示いただければとも思います)。伊藤氏の方が古代史全般について遥かに知識をお持ちだと思いますので。
伊藤氏の疑問提示【409】については、まだまだ回答が不足していると思いますので、続きは後日投稿したいと思います。疑問を提示していただいた点から出発して、少しでも有意義な考察につなげられればと思っています。伊藤氏に「長い」と言いながら、私も長くなってしまい恐縮です。次回は「YOUは何しに魏にきたの?」(ツボに入ったので、使わせていただきます)について考察します。
【504】【503】捨て置かれている晋書(【409】への返信:その2)について(ちょっと、照れますが・・・)
伊藤睦月です。2054様、素敵なレス、ありがとうございます。私も勉強してみます。
(1) ところで、私のことを、評価していただき、大変恐縮しております。実は、私の投稿の元ネタはすべて、今年4月以降のものです。すでに他の掲示板(医療掲示板)等にも書き始めていますが、入退院騒ぎで、職場を休んでいる間に、守谷健二氏の投稿を見つけ、それを追いかける形で文献を入手し、読み、考え、投稿し、現在に至っております。だから、「精通している」と言われると、正直戸惑います。私は日本古代史に関しては、「ほんのニワカ」です。この分野をライフワークにしている研究者や歴史マニアの方々に申し訳ないです。
(2)そして、多少とも生意気な投稿ができているのは、副島隆彦先生、小室直樹博士、山本七平などの読書体験と、「ユダヤ本」の執筆経験が自分の教養、思考の基礎として、残っているからだと思います。そういう意味では、守谷氏も、2054さんも私の「先達」であると、考えています。(これ本当)
(3)さて、小林恵子氏ですが、以前少し、ディすりましたが、撤回します。小林氏の「古代倭王の正体」や「聖徳太子の真相」を入手し、ざっと流し読みした程度の感想ですが、彼女は、江上波夫の系譜を継ぐ、「忠実な史料読み」だと思います。
(4)魏志倭人伝を、何も改変せずに、すなおにたどっていけば、邪馬台国は奄美大島にしかありえないし、江上説を忠実に追っていけば、歴代の倭王たちは、同時代の「騎馬民族の王たち」に比定(ひてい)せざるを得なくなります。私は小林説を支持するものではありませんが、その学問態度には、敬意をもたざるをえません。
(5)但し、江上は本来は、考古学がホームグランドです。その業績に対し、文化勲章をもらっています。彼の一見、「トンデモ」な見解も、当時の考古学の成果を踏まえた、誠実な思考の帰結だとみるべきでしょう。江上説への賛否は別として。また、後輩とも「ため口」を許す議論を好んだそうで、学会内にも賛否は別として、個人的なファンがかなりいたようです。それがかえって、この学説が生き残った原因の一つかとも思われます。
(6)小林恵子氏は「文献学」つまり「史料読み」が本職のようです。だからなんだと言われそうだが、小林説に接すると、江上説が大変堅実な学説に思えてしまいます。(あくまで個人の感想)
(7)と、ここで、「晋書」について、私の持っている知識を備忘録として記します。ここから私の探求が始まります。
(引用開始)『晋書(しんじょ)』は、帝紀10巻、志20巻、列伝70巻、載記30巻、合計130巻からなり、西晋4代・54年、東晋11代、120年間のほか、載記として5胡16国に関しても記している。
編集の期間は唐の貞観20年(646年)から同22年(648)のわずか3年に倒らず、房玄齢、褚遂良、許敬宗、の3人が監修にあたり、そのほか18人が参画して執筆した。多くの人の手によることで、前後の矛盾や錯誤をはじめ、手落ちも指摘されているが、唐代以前に晋書20余種が消失・散逸しているだけに、貴重な文献である。
しかも、西晋末から北方民族が中原に侵入して戦乱となり、五胡(匈奴、羯、鮮卑、氐、姜)16国につぐ、南朝・北朝の130余年にわたる、対立の時期だけに、その史料的価値は高い。なお、西晋初代の武帝の即位に対する邪馬台国からの遣使を最後に約百五十年間、中国と交流が絶えていたのは、中国の政情にもよったといえよう。
(引用終わり:鳥越憲三郎『倭人・倭国伝全釈 東アジアの中の古代日本』142頁、角川ソフィア文庫2020年、初出2004年中央公論社)
(8) 伊藤睦月です。鳥越憲三郎(1914-2007)は、学会主流かどうかはわかりませんが、岡田英弘博士の「古事記偽書説」や「吉備王国」(『倭国』中公新書)に関する見解は、鳥越の著作に全面的に依拠していることから、無視してよい存在ではないと、考えています。
2054さん、また、切磋琢磨していきましょう。
伊藤睦月拝