「1399」鬼塚英昭(おにづかひであき)氏の『日本の本当の黒幕』(下)を読む。戦前の日本政治の闇を象徴する田中光顕(たなかみつあき)という怪物を知る。それは現在の日本政治を支配するヤクザたちを知ることでもある。2013年9月1日
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副島隆彦を囲む会の中田安彦(アルルの男・ヒロシ)です。今日は2013年9月1日です。
以下に、鬼塚英昭という人の『日本の本当の黒幕』という本の感想を書く。実は、この本を読んだのは、ちょうどお盆の夏休みの最中に岩手の岩泉町というところに農業体験実習に行った時に、同行していた会社社長から「この本は面白い」と言われたからである。その時に渡されたのは「下巻」だけだったので、私はまず最初に「上巻」ではなく、「下巻」から読んだ。結果的に、上巻をまず最初に読まなくてよかった。上巻は幕末維新編であり、後半がほんとうに重要なところだからだ。
鬼塚英昭(おにづかひであき)氏といえば、通説の歴史叙述に常に挑戦する市井の歴史作家で、私も彼の『天皇のロザリオ』は高く評価する一冊だ。鬼塚氏は私家版で『海の門 別府劇場哀愁編』と『石井一郎の生涯 別府劇場任侠編』という二冊の本も書いている。いろいろな本を出しているのだが、ここのところはあまり読んでいなかった。ひょんなことで知り合いの会社社長から勧められたことで読むことになった。結論を言えば、非常に有意義な本だった。
この本は、鬼塚英昭氏が図書館や地方の資料館を歩きまわることで探しだした文献と、鬼塚氏の推論によって描き出された、江戸末期(1843年)から昭和時代(1939年)まで生きた、田中光顕(たなかみつあき)という人物を中心に据えて描いた、明治から昭和時代の日本の政治史である。私は田中光顕という人物の名前はこの本で初めて知った。一般的には、田中は土佐(高知県)の出身の維新の志士で、坂本龍馬が作った陸援隊の一員として有名であるようだ。ただ、1939年に95歳(97歳)になるまで生きて、大日本帝国の政治の中の重要な位置をしめていたことはあまり知られていない。
田中光顕
田中光顕という人は、明治政府では1898年2月9日から1909年6月16日まで11年にわたって、宮内大臣の職についており、これが公式的な権力の頂点であるようだ。伊藤博文首相の元では今の官房長官に相当する内閣書記官長や警視総監も務めているが、11年にわたって宮内大臣を務めていた点が重要である。そのことは鬼塚氏がこの本の中で、田中光顕と宮中という視点で多くのページを割いていることからもわかる。
まず、この本の目次を以下に示そう。
[上巻目次]
第一章:二流の志士から日本の黒幕へ
第二章:坂本龍馬はなぜ暗殺されたのか
第三章:孝明天皇・睦仁親王暗殺説の謎を追う
第四章:明治維新の闇を見よ
第五章:山賊・海賊は国を奪うの大盗よりも軽し
第六章:明治という時代を支え続けた田中光顕
第七章:伊東博文暗殺事件
[下巻目次]
第八章:田中光顕、宮内大臣を罷免される
第九章:三菱という巨大財閥と田中光顕
第十章:大正天皇と貞明皇后、そして田中光顕
第十一章:大正天皇・悲劇の演出者たち
第十二章:昭和宮中某重大事件の謎を追う
第十三章:すべての暗殺事件は八百長である
第十四章:かくも日本の闇は深い
繰り返しになるが、私がじっくりと読んだのは下巻のみであり、上巻は下巻に書かれた内容の確認程度に参照しただけである。上巻では坂本龍馬の暗殺についての記述が色々と書かれている。しかし、私がこの本が重要だと思うのは、一般には維新の志士という認識しか持たれなかった田中光顕という人物が、実は宮中の秘密を握ったり、皇室の結婚ごとに口を出したり、挙句の果てには、昭和維新を断行しようとした、5.15事件や2.26事件の容疑者を弁護したり、実行犯の井上日召との直接的な交友があったり、大陸進出を指導した右翼の大物であった頭山満や内田良平とつながっていたりするところだ。だから、上巻の明治初期までの記述はあえて重要視しない。興味のある人は各自で読んで下さい。
重要なのは明治天皇(それが果たして本当に睦仁親王であるかはともかくとして)にきわめて親しい関係にあったのが田中光顕であり、宮内大臣であった時、元老以外は田中を通さなければ天皇に謁見できなかったということである。明治の立憲君主制下では天皇という「玉」(ぎょく)にいかに近づいて、それをコントロールするかというところに元老の権力の源泉がある。田中は元老には含まれていないが、宮内大臣まで務めたのだから元老候補だろう。山縣、伊藤博文、西園寺公望、牧野伸顕(大久保利通の息子)らと同様に、宮中から追い出されなければ、元老になりおおせたはずの人物である。
田中光顕が宮中から追い出されて野に下る、つまり宮内大臣を追い出したのは伊藤博文であると鬼塚氏は書いている。しかし、鬼塚氏は田中光顕の辞職の理由を明確に書いていない。収賄が理由だとも、醜聞が理由だとも言われている。醜聞というのは、当時65歳の田中と19歳の町娘との縁談が「宮内相の醜聞」と新聞に書き立てられたことである。この縁談は周囲からの反対もあって破談となり、宮内大臣も辞任したという。(http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/114668/111590/49155097)
また、収賄というのは、鬼塚氏が詳しく書いている。それは、「西本願寺の別荘を田中光顕が大谷光瑞の依頼を受けて宮内省に買わせた事件」に関わるものである。地価十万円のものを二十六万円で宮内省に買い上げさせたという事件らしい。この疑惑を元老の伊藤博文が知り、田中光顕を宮内省から追いだそうとする。その過程で伊藤博文は暗殺されている。鬼塚氏はこの伊藤博文暗殺についても詳しく書いているが、真偽を確かめようがない記述が多いので触れない。(第8章:田中光顕、宮内大臣を罷免される)
鬼塚氏は、明治末期の宮中を「玉」をめぐる元老の3すくみの権力闘争として見ている。1つ目の勢力が暗殺される伊藤博文の勢力であり、2つ目の勢力が、山縣有朋、桂太郎、田中光顕の勢力であり、3つ目の勢力が西園寺公望(と原敬)の勢力だとみている。田中光顕は山縣有朋の勢力であった。ところが、元老の山縣は昭和天皇が皇太子時代の后候補の選定をめぐる、「宮中某重大事件」(1921年)で失脚することになる。この時、山縣を外から攻撃していたのが田中光顕と親しかった頭山満である。また、西園寺系の政友会の政治家・原敬も田中光顕を毛嫌いしていた。鬼塚氏は、宮内大臣をめぐる権力闘争は、機密費というカネを巡る争いであると分析している。
田中光顕は、宮内大臣時代に「西本願寺の別荘買い上げ」をめぐる収賄事件で失脚するが、ボスの山縣が権力を持っているために、明治天皇の事績を研究する史料編纂委員会の顧問や、臨時帝室編集局総裁になっている。鬼塚氏は原敬日記を引用しながら、西本願寺事件の中心人物の田中光顕元宮内大臣が、明治天皇の事績を編集する責任者にするのはけしからんという声が、華族会からあったことを指摘している。(『原敬日記』1919年1月8日付けなどに記述あり)
田中光顕については、『倉富勇三郎日記』にも出てくるという。倉富とは枢密院議長をした人物で、内閣法制局長官、貴族院勅選議員もやった。倉富は原敬や華族らから収賄疑惑を起こして辞任した田中光顕を臨時帝室編集局総裁にしたことを「田中問題」とし、田中がこの総裁の退任するまでの経緯を詳しく書いている。その中で鬼塚氏は、倉富日記の以下の記述に注目している。
(引用開始)
一九一九(大正八)年五月十五日
田中光顕は辞表を出す。ところが波多野(注:宮内大臣)は、田中は辞任の条件として大臣礼遇に困難であるが、(注:帝室)経済会議の顧問の職にすることを話し合う。波多野はもしも約束ができなかったら田中は自暴して種々なことをおこなうという。
『日本の本当の黒幕』(下巻)68ページ
(引用終わり)
このように、倉富は日記で述べており、田中光顕への対応を誤ると、田中がやけっぱちになっていろいろなことをやりかねないと書いている。結局、田中光顕はこの年(1919年)に政界からも官界からも引退する。山縣が失脚するのはその2年後である。
全生涯を通じての田中光顕についてのまともな評伝は今まで無かったが、鬼塚氏は、田中という人物は、三菱財閥や頭山満などの右翼の大物とも接点を持っていると書く。
そして、山縣有朋(やまがたありとも)の推薦で宮内大臣まで努めた実力者であるのに、昭和初期ののテロ活動を実行した実行犯とも直接的な接点を持っているともいう。
宮内大臣をしたほどの男が「ヤクザ」とつながっていたということになる。鬼塚氏は、この「日本がヤクザが支配する国家になった」という事実が、あの悲惨な大戦に結びついたのではないか、と疑問を投げかけている。田中光顕は、1941年の日米開戦の2年前に死去している。昭和初期の黒幕はその最後の結末を見ないで死んでいった、ということになる。
目次を見ればわかるように、鬼塚氏は、田中光顕の権力の源泉が、「三菱財閥」とのつながりにあると考えている。
その証拠はあるのかという問いには、それは村本喜代作という人物の残した『交友六十年』という書物だ、と答えている。村本という人物は、「駿州政財界の御意見番にして元県議会議長を務めた村本喜代作は山雨楼主人などの名で表裏の歴史を判りやすく筆にした」(ウィキペディア)と解説されている。村本は清水次郎長について書いているらしい。静岡県に田中光顕が晩年住んでいたことがあり、その時に交友があったのだろう。
鬼塚氏はこの『交友六十年』という本から以下のように引用している。
(引用開始)
一体田中[光顕]は金持だったのか、あの世間でいう豪華な生活費はどこから出たのか、之は誰も知らぬことで私も知らないが、それでも私には朧気ながら判る様な気がする。田中は潔癖な古武士風があって利欲には恬淡であったから、金持ちではない。生活費は岩崎弥太郎と莫逆の交を結んだだけに、岩崎家には田中に贈るベき相当額の年金が家憲によって定められて居ったと思う。犬養毅など、僅か岩崎家の家庭教師を勤めたというだけの縁故でも、終身年金二万円を贈ったというから、田中の年金は遥かに高額では無かったかと思う。その証拠には田中は平素は貧乏であった。金が急に入用になると、書画や骨董を質入して五百円、千円と云う、彼にとっては全くの端た金を借入れて居る事実が再三再四である。年の暮になると東京から送金があった。色々の支払はこの時に整理したので、多分岩崎年金がその頃入ったのではないかと思う。
村本喜代作『交友六十年』から
鬼塚英昭『日本の本当の黒幕』(上巻)一七八ページ
(引用終わり)
鬼塚氏はこの村本の記述を極めて重要視している。莫逆の友というのは「逆らうことなし」という意味で、転じて「極めて親しい関係」だとしている。
鬼塚氏は宮内大臣を辞めた後の田中光顕が、右翼の大物の頭山満とも近くなったことを本書の至る所で述べている。村本の記述を引いて、田中光顕が同郷の岩崎弥太郎が設立した三菱から年金をもらうほどの関係になっていることを考えると重要な話である。鬼塚氏は三菱財閥の炭鉱経営と頭山満につながりがあり、三菱財閥の大陸進出は、頭山満の様なヤクザ・任侠によって人足を管理してもらうことで成り立っていたのだと鬼塚氏は解説している。財閥経営にも表と裏があって、裏の汚れ仕事を引き受けたのはヤクザであり任侠であるというのは、今の原発労働者が結局はヤクザによって手配されているという現実を知れば違和感はない。
さらに、田中光顕は、三井の団琢磨が殺害された血盟団事件の実行犯である井上日召とも深い関係が有ることを、直接、井上日召の『一人一殺』(1953年)から引用することで明らかにしている。
なお、血盟団事件といえば、若手評論家の中島岳志(なかじまたけし)が文藝春秋からそれを題材にした本を出している。高井徳次郎(桜田門外の変を指揮した水戸藩士・金子孫二郎の孫)が田中光顕の秘書をしており、高井が井上を田中に引きあわせたという記述がある。
井上は、『一人一殺』のなかに「田中光顕伯と私」という項目を設け、その中で「謀反をやる積り」という小項目を設け、田中光顕に「謀反」をやるつもりであると話したことを書いている。謀反とは、「一方には赤化思想を駆逐し、同時に財閥・政党の弊害を打破して、日本を根本的に改革する」計画のことだと井上は書いている。鬼塚はこの部分を長く引用しているが、井上の協力要請を聞いた田中光顕の返答は以下のようだったという。その部分だけを引用する。
(引用開始)
「そうか!」と伯は語気も強く「儂は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらいの気力も体力も持っている。君達もしっかりおやり!」と励まして、快く記名調印してくれた。そうして、私は大変御馳走になり、宮内省の腐敗を概(うれた)く話などを聞いた。(中略)爾来、私は光顕伯の知遇を得て、何事かあると、伯は「日召はどう云う意見だ?」とか「日召に相談したか?」と高井に言われたと云うことだ。私はこの知遇に感激していた。
井上日召『一人一殺』から
鬼塚英昭『日本の本当の黒幕』(下)219ページ
(引用終わり)
田中光顕は、5.15事件や2.26事件の首謀者の助命嘆願をしていた。田中は、井上日召の弟子である小沼正(井上準之助を暗殺)が書いているが、田中光顕が明治維新の水戸藩の功績を高く評価していることから、茨城県大洗に「立正護国堂」を建設することになり、昭和3年にこの護国堂と常陽明治記念館という明治天皇の等身大の銅像を安置した明治天皇ゆかりの記念館を設置したという。
いずれにせよ、井上日召や小沼正が田中光顕の部下で合ったことは確かだと鬼塚氏は書いているが、私もその通りだと思う。さらに、ここにつながってくるのが、田中智学(たなかちがく)という日蓮宗の宗教家で井上日召はこの人物にも敬服していたようだ。田中智学というのは国柱会(こくちゅうかい)という宗教団体の創始者として知られる。今はどうかわからないが、かつては靖国神社の社内には田中智学の言葉を印刷したチラシが常に置かれていたのを私はよく覚えている。その時は何者だと思ったものだ。
田中智学は田中光顕にも影響を与えていると鬼塚氏は書いているが、本を読むだけでは関係がよくわからなかったので、インターネットで検索してみると、国柱会の公式サイトがあった。ここには、「田中智学先生に影響を受けた人々」のひとりとして田中光顕の名前がある。(http://www.kokuchukai.or.jp/about/hitobito/tanakamitsuaki.html)
鬼塚氏の書き方は、いろいろな資料を引用している反面、自分の決めた「仮説」を前提のものとして、細かい立証は先送りにして、勢いで筆を進めている部分が多いので、読む方は「一体なぜこのように断言できるのか」ということを気にしながら読んでいかないといけないので大変である。
田中光顕は、ボスである山縣有朋が失脚した後もカネに不自由していないことに鬼塚氏は注目し、その裏付けに三菱マネーがあっただろうと推測している。その根拠として鬼塚氏は、村本喜代作の著作を上げている。このマネーがあったからこそ、宮内大臣という立場で宮内省から機密費を引き出すことができなくなっても、活動資金に困らなかったのではないかという見立てである。山縣は晩年には椿山荘も手放している。鬼塚氏は、岩崎家に対する便宜供与の一例として、「陸軍会計監督の任にあった西南戦争における三菱への便宜」を上げている。(下巻88ページ)
また、鬼塚氏は明確に書いていないが、私はこの本を読むことで、田中光顕は三菱マネーを受け取ることで、三菱の代理人として政界におけるフィクサーの役割を果たしていたのではないか、と思った。その中には、頭山満やその仲間の内田良平のような右翼を「管理」していくことも含まれているのだろう。田中光顕は、宮内省を去ってから恩給以外に収入はないのに、次々と明治天皇にまつわる史跡や、土佐の維新の志士を顕彰するプロジェクトにカネを支出しているという事実を列挙している。いったいそのカネはどこから出たのかといえば、三菱ではないかと推測している。(下巻88ページ)
また、田中光顕は、静岡県に2つの別荘を持っている。一つは宝珠荘(静岡市清水区)と古谿荘(こけいそう、静岡県庵原郡富士川町)であり、重要文化財に指定されている。本邸は目白の蕉雨園であった。権力地勢学としてみれば、田中自身が院長も努めた学習院の至近であり、ボスであった山縣有朋の椿山荘の近くになる。田中光顕の墓は護国寺にある。そして、古谿荘は現在、護国寺近くにある講談社の創業一族である野間一族の財団が管理している。
宝珠荘と古谿荘
東京都文京区・護国寺にある田中光顕の墓
この別荘の一つの古谿荘(こけいそう)にある田中光顕の寝室について、司馬遼太郎が、「全体が土蔵の様な厚い壁に囲まれている」ということを書いているという。司馬遼太郎は、田中光顕について、「晩年の彼は暗殺を恐れたらしい」と書いている。また、司馬遼太郎によれば、この晩年を過ごした古谿荘の応接間の「床の間のような部分には、掛け軸の裏側に抜け穴が作られている」というのである。この司馬遼太郎の文章は、田中光顕の今入手可能な唯一の著作である『維新風雲回顧録』の序文となっている文章であるという。(9章:三菱という巨大財閥と田中光顕)
田中光顕は暗殺を恐れたというのは、どういうことかというと、暗殺するに足りる秘密を抱えているということなのだろう。鬼塚氏はその秘密は何かについて、(1)三菱財閥との秘密、(2)頭山満などの右翼を使って行った政治工作の秘密、(3)明治天皇、大正天皇、昭和天皇の三世代に渡る皇室の秘密事項、ではないかとしている。考えてみれば、田中光顕という人は明治維新の最初からすべてを横で見てきて、山縣有朋より長く生き残ってきた人物である。それは当然、いろいろな明治政府の秘密を知っているのだろう。
鬼塚氏がその秘密の最たるものは、明治天皇その人自身の秘密であると書く。その根拠を、鹿島昇の『裏切られた3人の天皇』という本に引用された、三浦芳聖(1904年生まれ)(みうらよしまさ)という人の『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』(1970年)という本の中にある、田中光顕のものとされる発言である。三浦に対して、田中光顕は次のように語ったという。
(引用開始)
斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、「私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました」
と前置きされて、
「実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』(1970年)
『日本の本当の黒幕』(上)102ページ
(引用終わり)
これは、いわゆる「明治天皇すり替え説」に関連する記述である。この三浦芳聖の証言が本当かどうかは私にはわからない。というのは、三浦という人物は、第二次世界大戦で日本が降伏した後に、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人だからだ。私は鹿島昇が一連の著作を発表する前に、この明治天皇すり替え説がどのように存在していたのかもよく知らない。ただ、イギリスの外交官であるアーネスト・サトウが、「孝明天皇が暗殺された」ということを日記に書いていることを知っている。鹿島昇が書くように、孝明天皇は佐幕攘夷だったのであり、父の遺訓を無視して、睦仁が倒幕開国に鞍替えするのは不審ではある。
また、孝明天皇の息子の睦仁が、後に明治天皇として知られる人物と全く異なる身体的特徴をしている、という指摘をする鹿島昇の言うことももっともだと思う。幕末・明治維新というのはテロの時代であり、明治時代より前には天皇というのは神聖不可侵でも無かったことを考えれば、倒幕(=革命)を目指すテロリストの一派である長州の忍者部隊やそれと結んだ岩倉具視が孝明天皇を毒殺なり刺殺をすることで暗殺してもおかしくはない。しかし、このことを公式の歴史は一切認めないだろう。これを認めた途端、明治維新というのは、どこの馬の骨かわからない若者を孝明天皇の息子ということで明治天皇に据えたということになり、万世一系という神話が崩れてしまうからである。
だから、こんなことを認めた公文書が残っているはずもない。一級資料で明治天皇すり替え説を証明することは不可能に近い。ただ、鹿島昇は孝明天皇の死去の経緯や、その息子の睦仁と、明治天皇の身体的特徴や正確のあまりにも違う点を指摘し、明治維新というのは明治革命であり、王朝交代劇だったとしている。仮にそうだとすれば、明治維新を見てきた田中光顕が、その秘密を知っているのは当然だろう。
これは一つの壮大な仮説だが、仮にそのようなすり替えの事実はなくとも、山縣系の宮内官僚として、明治天皇の10年もそばに付き従った田中光顕はその期間に様々な「宮中の秘密」を見聞きしたに違いない。
山縣が失脚した宮中某重大事件にも宮中から追い出された田中光顕が関わっていると鬼塚氏は見立てる。宮中某重大事件とは、当時の摂政宮(昭和天皇)の后に内定した、久邇宮邦彦王の第一女子の良子(ながこ)に色盲の気があるとして、山縣有朋がその婚儀に反対したという事件だ。
鬼塚氏は、村本喜代作の田中光顕についての記述の中に、田中が「宮家の縁談に骨折ったことは数限りないが、島津侯爵家の姫を久邇宮家に斡旋した」事があるのに注目している。良子の母が、母は12代薩摩藩主公爵島津忠義の七女俔子(ちかこ)であることを述べている。
大正天皇の后である貞明皇后=九条節子(くじょうさだこ)の選定にも、明治天皇と親しかった田中光顕が関わっているという。鬼塚氏は資料として村本の著作の記述を何度も引いているが、更に独自の解釈を加えている。どこまでが鬼塚氏の解釈でどこまでが村本の文章からそのまま読み取れることなのかは、いずれ村本の著作を図書館で確認する必要がある。
ただ、田中光顕が皇室の結婚事にくちばしを挟んでいたのだということは、当時の日記の記録に記述がある。それが原田熊雄による『西園寺公と政局』という日記で、原田は西園寺公望の秘書であった人物である。この中で西園寺が田中光顕について否定的に述べている部分があるのだと鬼塚氏は発見する。
(引用開始)
宮内大臣当時の田中光顕の問題がかれこれ喧しいだろうと言って懸念する向もあるけれども、そんなことを言ったら、日本の社会は田中によって支配されていると言われても已むを得まい。しかも田中の言うことたるや、皇室の私事にわたることをぶちまけているのであって、元来不敬極まる事柄である。ああいうような正しからざる者の勢力を阻止することもできない状態では、実に悲しむべきものである。
『西園寺公と政局・第3巻』(昭和9年5月3日)
『日本の本当の黒幕』(下)(250ページ)
(引用終わり)
このように、西園寺公は、田中光顕の宮中の重要事に対する容喙(ようかい)に手を焼いている。「日本の社会は田中によって支配されている」とまで言っている。鬼塚氏はこの記述から、田中光顕は「皇室ゴロ」だと見ているようだ。
田中光顕は、山縣亡き後、宮中の実権を握った牧野伸顕に対して攻撃を仕掛けるようになる。牧野は、1925年(大正14年)から内大臣になり1935年(昭和10年)まで在任している。日本史学者の茶谷誠一の研究では、牧野は摂政だった昭和天皇の補佐を行い、一木喜徳郎宮相や鈴木貫太郎侍従長らとともに、いわゆる「牧野グループ」を形成したという。
田中光顕は、一木喜徳郎(いちききとくろう)宮相の辞任を要求することで牧野内大臣に要求する。これ自体が田中が仕掛けた牧野グループに対する権力闘争を鬼塚氏は「昭和宮中某重大事件」と呼んでいる。この一木喜徳郎宮相と牧野内大臣に対する田中の攻撃は、当時、『東京日日新聞』と『報知新聞』によって書き立てられたという。このマスメディアも使った田中の工作については、『木戸幸一日記』(昭和7年・1932年8月25日)に書かれていることを鬼塚氏は指摘している。
こうした宮中の重臣クラスが田中に手を焼いている記述を鬼塚氏は日記類から鮮やかに引用し、宮中の牧野グループや西園寺に対する、田中光顕のスキャンダル攻撃があったことを示す。要するに、田中光顕というのは暴力団の力を背景にして、宮中にゆすりを仕掛ける「ごろつき」であったということだ。
鬼塚氏が引用しているが、司法大臣が、かつて頭山満の秘書をしていた人物を、捉えようとした時、この人物を田中の秘書の高井徳次郎と、国本社の竹内賀久治の下にいる人物が匿っていたと云う記述が、『西園寺公と政局』(昭和7年10月11日)にある。国本社というのは平沼騏一郎が設立した右翼団体で、平沼といえば戦前に思想弾圧を行った人物として知られる。この部分を引用した後、鬼塚氏は次のように解説する。
(引用開始)
平沼騏一郎と田中光顕の姿が見えてくる。田中光顕と頭山満、そして平沼騏一郎がともに連絡をとりあっている関係が浮かび上がる。平沼騏一郎は、検事、司法次官、大審院長、司法大臣、枢密院副議長を歴任し、昭和十一(1936)年三月枢密院議長、昭和十四(1939)年一月から八月まで首相。第二次近衛内閣の内相、国務大臣。昭和二十(1945)年四月より十二月まで枢密院議長をしている。その彼が国本社なる右翼団体を主宰していたのである。暴力団の元締めが、国家権力の中枢を支配していたのである。田中光顕が皇室攻撃を堂々と遂行していくのは、平沼騏一郎と頭山満の援助があったことを知るとき、日本という国家がどんな国家でありつづけてきたかが分かるのである。
『日本の本当の黒幕』(下)247ページ
(引用終わり)
さらに、右翼暴力団を使って田中光顕はすきあらば牧野伸顕を暗殺しようとしていたようだ。当時、すでに、血盟団事件(1932年2月~3月)に井上準之助、団琢磨などの三井の要人暗殺があり、血盟団事件の第二弾として、1932年5月15日には三井財閥系の犬養毅首相の暗殺が首相官邸で行われた。そういう時代に、田中光顕が牧野内大臣暗殺を目論んでいたと、木戸幸一は警視総監からの情報として記している。井上日召のような「昭和維新派」というのが、田中光顕・頭山満のような三菱マネーで育てられた裏社会の人間によって育成されていたのであり、単に昭和維新の背景に格差問題を見るだけなのは読みが浅いのだろう。
これは私の感想であるが、すでに陸軍内、海軍内も軍閥化が進みつつあったのだと思う。1930年にはロンドン軍縮条約問題があり、対英米協調の条約派とナショナリスティックな艦隊派に海軍が二分している。陸軍においても、1930年に桜会という秘密結社ができて、日本の軍事国家化が進められていた。
田中光顕が1932年の5.15事件や1936年の2.26事件の首謀者の青年将校に対する助命嘆願を願い出ていることからも分かるが、田中光顕は皇道派の側に立って、昭和維新を断行するのを支援していたのだろう。それは井上日召に対して、「儂は今年で八十三になるが、まだ三人や五人叩き斬るくらいの気力も体力も持っている。君達もしっかりおやり!」と励ましたあたりからもうかがい知れるのである。
一木宮内大臣を失脚させるだけではなく、田中光顕は新聞を利用して、「内大臣廃止論」を発表している。牧野内大臣への権力闘争である。鬼塚氏は牧野が二・二六事件で暗殺されなかったのは、田中との権力闘争において、牧野が軍門に降ったからだとしている。その根拠として、枢密院議長人事において、西園寺が推した一木元宮内大臣(一九三四-三六)の後任に、右翼の平沼騏一郎が一九三六年三月に選ばれたことを上げている。
牧野や西園寺にとって、右翼団体を動かしながら、宮中の枢要なポストを廃止しろと言ってきたり、息のかかった平沼を押し込もうとした田中光顕は非常に恐ろしい人物だっただろう。
鬼塚氏は、田中光顕が右翼を使って宮中の乗っ取りを画策していることについて、『西園寺公と政局』(一九三四年十二月三〇日)の記述を根拠としている。この日の日記には、「例の国家改造運動、即ち田中光顕とか内田良平とか頭山満などを看板にしてやる右傾の大合同の合理的国家改造運動」の話が出てくる。この中には大本教も入っており、この運動が「宮様内閣」を作る運動であることが述べられている。鬼塚氏は以下のようにこの日記の記述を更にわかりやすく解説する。
(引用開始)
この運動が二・二六事件へと発展する。あの事件は青年将校たちの反乱と見るべきではない。「右傾の大合同」による宮様内閣(秩父宮首班)を目的としたものだった。田中光顕は、大日本生産党総裁並びに黒龍会主幹の内田良平、そして玄洋社の頭山満と内々に通じあい、大本教も含めた「右傾の大合同」の合理的国家改造運動を進めていたことが、この『原田日記』から理解できる。
『日本の本当の黒幕』(下)252ページ
(引用終わり)
要するに、2・26事件を「青年将校の思い」という視点で見ると大きく本質を見誤るということだろう。大本教という新興宗教も田中光顕の道具だったに過ぎない。明治維新のすべてを知る男、田中光顕は、宮中への影響力を保とうと、右翼団体まで動員して国家改造をしようとした。明治維新の立役者が、昭和維新の黒幕でもあったという身も蓋もない話である。感情的に暴走した若者をクーデターに駆り立てるのが黒幕の仕事である、ということを私はこの鬼塚本によって再確認した。
世界大恐慌が始まる前後から、日本の政治に軍閥というものが入り込んできた。これは軍隊における権力闘争の派閥であるが、同時に、それ以外にもそれぞれのシンパというものがいたということで、テロによって政治を変えようとする動きが本格化していって、その黒幕にいたのが、宮中を追い出されて、一時西園寺との権力闘争に敗れた田中光顕だったということである。そして、田中光顕は三菱マネーで動いていたという。
そこで私はわからなくなったのだが、三菱といえば、もともと三菱の岩崎一族の加藤高明やその外相の幣原喜重郎のような「対英米協調派」ではなかったのか。なぜそのような三菱が田中光顕を放っておいたのか。鬼塚氏はこのへんの日本の権力闘争と大きな世界権力構造のつながりについてあまり説明しない。というより、鬼塚氏は太田龍門下だから、ここはロスチャイルド黒幕説なのだ。しかし、私はそれは一面的な見方であり、ロックフェラーとロスチャイルドの大財閥の闘いがあったと思う。アメリカにおいても、1921年の外交問題評議会設立後しばらくするとロックフェラーの影響力が強くなっていくということを私は『世界を動かす人脈』などの自著で立証したから、鬼塚氏のロスチャイルド史観にはかなり違和感がある。しかし、そのことは国内勢力論だけを主に論じたこの『日本の本当の黒幕』を読んでいく際にはあまり支障にならななかった。
現段階における私のこの問題に対する回答は以下のようになる。
三菱―ロックフェラーという関係はたしかに戦前においてもあっただろう。しかし、アメリカのロックフェラー財閥といえども、日本に満州利権を独占させるつもりはなかったに違いない。もともとアメリカが、太平洋進出したのは最終的には中国市場の門戸開放を果たさせるためだった。
ところが、日本が行った大陸外交はアメリカの権益を脅かすものだった。古くは、ハリマン財閥との満州鉄道日米共同経営の話を、小村寿太郎外相が蹴ったという事実がある。日露戦争の終戦の仲介をアメリカのセオドア・ルーズベルトが行ったのも、日本を入り口に満州地方の権益を獲得し、当時の覇権国であったイギリスに対抗する狙いがあったのだと思う。ハリマンの共同経営提案を日本が蹴った後も、1909年には米国務長官が「満州鉄道中立提案」というのを行っている。
この時点で、日本の大陸政策と門戸開放主義を中心にするアメリカ極東政策が対立を始めており、日本が関東軍による1931年の満州事変のより、満州国建国を目指すようになり、日本政府のコントロールが効かない状態になっていった。翌年には第一次上海事変が起きて、これも英米を含む列強の権益を脅かした。満州事変に関するイギリスのロスチャイルド系のリットン卿による報告書は、日本に融和的なものであったが、日本はこれを受け入れなかった。その後、日本は1933年に国際連盟を脱退して孤立化を始める。
更に、1937年には盧溝橋事件と第二次上海事変が起きており、その後、パネー号事件というものが起きている。この事件は、日本の海軍機が揚子江を航行していた米国アジア艦隊揚子江警備船「パネー号」を攻撃、沈没させ、乗務員に対し機銃掃射を行った事件であった。重要なのは、パネー号に先導案内されていたのが、米国スタンダード・バキューム・オイル社の商船4隻と、ジャーディン・マセソン社の倉庫船と汽船黄浦号だったというところだろう。アメリカとイギリスの権益を日本海軍は大陸侵攻の過程で攻撃したということになる。
いくら三菱系の加藤高明や幣原が融和外交を目指しても、軍縮問題で高まるナショナリズムや、三菱自身が満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に事業を飛躍的に拡大させていったこともあり、もはや大恐慌時の世界では対米協調よりもいかにして生存圏を満州や華北から華中に見出すかという事が重要になっており、それは中国大陸における英米の権益を踏みにじる事で実行されたのだろう。
そのようなナショナリズムの原動力になっていったのが、頭山満や内田良平であり、宗教的には田中智学や大本教の勢力だったと見ることが出来、それが昭和維新の正体だろう。その黒幕が田中光顕だと見ることができる。
しかし、「軍閥化する日本」というのは言ってみれば、「タリバン化する日本」という意味であり、アメリカはそれをコントロール出来ないとなれば、すぐに切り捨てるはずである。国内では三井の要人を暗殺することで、間接的にロスチャイルドの代理人を次々と抹殺していった田中光顕のグループは三菱系であった。三菱には表と裏の顔があるのかもしれない。
表の顔は加藤高明(岩崎弥太郎の長女と結婚)に代表される「対米協調」の三菱。裏の顔は田中光顕の率いる裏社会の三菱だ。鬼塚氏には、アメリカを支配してきたのがロックフェラーでイギリスを支配してきたのがロスチャイルドだという視点がないので、このあたりをすごく曖昧にしているという欠点がある。鬼塚氏にしてみると、みんなロスチャイルドなのだ。やはり、それは違うと思う。
歴史にもしがあるならば、日露戦争直後の1905年に日本がハリマン(この当時のハリマンは、戦後暗躍したアベレル・ハリマンと違い、ロックフェラー系ではない)の満鉄共同経営を受け入れて大陸の権益を、イギリスやアメリカと分け合ったらどうなっていたかと考えたい。なぜ日本はドイツと急接近してアメリカのロックフェラー財閥が育てたヒットラーと同盟を結ぶことになったのか。
私は、満洲事変後もリットン調査団が日本に融和的な報告書を出したというところに、私は中国大陸におけるイギリスとアメリカという新旧の覇権国の勢力争いというもう一つの構図があったのだと見ている。ところが、日本の右翼は、イギリスもアメリカもともに受け入れないで、権益を独占しようとした。
だから、当然のようにイギリスもアメリカも日本を本当に敵国としていくようになったのだろう。日本のナショナリストが軍閥化して手に負えなくなれば、三井系も三菱系も関係なく、取り潰すという判断になったのだろう。それはアルカイダを育てて、要らなくなったら、戦場に送り込んで潰すという、アメリカの発想と似ている。
戦後の三菱財閥が、徹頭徹尾、親米路線を貫くようになったのは、戦前の反省だろう。覇権国に逆らって中国大陸の利権を独り占めしようとして、中国大陸を混乱に陥れた日本軍閥の「失敗」を嫌というほど知っているのだろう。冷戦の激化による「逆コース」がないまま、GHQの財閥解体が貫徹されたら、三菱は存在しなかったかもしれないわけだから。逆コースの号令をかけたロックフェラー系のダレス国務長官に日本の経営者は頭が上がらないのだろう。
三菱財閥の最後の総帥は、岩崎小弥太(1879-1945)だ。岩崎小弥太について三菱グループのウェブサイトは次のように解説している。
(引用開始)
小彌太は若い頃英国に学び、周囲には国際的な考えの人も多かったが、なにせ国内では少数派だった。軍部若手将校らは自由主義外交と財閥を目の仇にし、五・一五事件や二・二六事件などで襲撃・暗殺を繰り返した。三菱銀行本店も三井銀行本店も襲撃された。国際情勢に通じていた小彌太は、親しい外交官や軍人には平和を維持すべしと主張していた。しかし世の大勢は変わらなかった。
1941年12月8日、日本海軍はハワイ真珠湾の米国太平洋艦隊を奇襲攻撃、太平洋戦争が始まった。開戦直後の予想以上の「大戦果」に国民は狂喜した。開戦二日目の12月10日、小彌太は三菱協議会(三菱系各社の最高幹部の集まり)を招集した。
そのとき、彼はこう語った。
「今度の戦争は日本始まって以来の大事件だ。自分はこれまで国民の一員として政治外交上の問題にいろいろ意見を言ってきたが、ことここに至っては国の方向は明らかだ。こうなった以上は天皇の命令に従い一致協力して勝つために努力しよう」
このあたりは、明治生まれの日本人の共通感覚である。また小彌太は男爵でもあり、天皇家を崇敬していた。だが、彼の志は次の言葉に表れている。
「しかしこの機会に諸君に特に考えて欲しいことがある。第一は目前の情勢の変化に惑わされず常に百年の大計を立てて事に処して欲しい。この戦争は一時のことだ。何時(いつ)までも戦争が続く訳ではない。そう考えて大局を見て経営に当たって貰いたい」
「第二は英米の旧友を忘れるなということである。これまで三菱と提携してきた多くの英米の友人がいる。彼等とは今日まで事業の上で利害を共にしてきた。今や不幸にして戦火を交える両国に分かれたが、これによってこれまでの友情が変る事はありえない。国法の許す限り彼等の身辺と権益を保護すべきである。いつの日か平和が回復したら、また彼等と手を携えて、再び世界の平和と人類の福祉のために扶(たす)けあおう」
http://www.mitsubishi.com/j/history/series/koyata/koyata02.html
(引用終わり)
このように見ていくと、三菱4代目の岩崎小弥太はまさか日本がアメリカと戦争することになるとは思っていなかったようだ。しかし、鬼塚氏が指摘することが確かなら、その三菱から金をもらっていた、田中光顕こそが日本を戦争に引きずり込んでいった責任がある一人である。
軍閥化した日本を太平洋戦争で敗北させたことによって、アメリカは日本を再び軍閥化させずに、うまくアメリカの代理人としてコントロールするやり方を作り上げたということになる。しかし、軍閥の名残として、戦後も児玉誉士夫から血盟団事件の生き残りの四元義隆らの裏社会の人間は残って歴代首相と密接につながっていったし、アメリカも占領政策にそれを利用した。戦犯となった岸信介は首相となり、その孫の安倍晋三が今の総理大臣であり、安倍は岩崎小弥太が設立に寄与した成蹊学園の出身である。 安倍は長州・三菱の系譜にある総理大臣であるということになる。安倍晋三の周りを見れば、それこそ「ごろつき」と言って差し支えないような、早大雄弁会あがりの自民党の政治家がそばにいる。
しかし、戦前の歴史は資料があまりにも少ない。残されている資料だけではどうせキレイ事しか描けない。鬼塚氏は残されている資料の断片をつなぎ合わせることで、怪物ともいうべき田中光顕という人物を中心に据えて明治から、大正、昭和初期に至るまでの権力闘争を描いた。かなり鬼塚氏の独創が入っている箇所も多い本だが、引用部分がしっかりしている部分も多いので、戦前の闇を研究する人には良い出発点になっているはずだ。
「歴史の闇に挑戦すべし」と鬼塚氏は本書の最後のページに書き残している。
しかし、それにしても資料が少なすぎる、と私は思わざるをえない。
ただひとつ言えることは、私には、戦前の右翼民族派の活動と、今の「靖国神社に参拝せよ」と煽り立てる右翼団体や在特会のようなよくわからない右翼活動家たちの姿は、戦前の井上日召らの姿に重なって見えるということだ。そのような勢力は戦前の大本教とも地下水脈でつながる宗教勢力とも接点を持っているだろう。そういう勢力が安倍晋三を支持しているのだと見ると、アメリカが安倍政権を嫌に忌み嫌っているのがよく分かる気がするのだ。そのような過激な右翼勢力は現在、戦前のように社会の主流を占めては居ない。 それが幸いといえば幸いだ。確かに、アメリカという覇権国は日本の政治に深く入り込んでいる。しかし、ここで激情に任せて右も左も分からないまま、反米運動をするのでは、おそらく戦前と同じ轍を踏んでしまうことになるだろう。
要するに、今後も日本人は世界の権力構造のバランスオブパワーを理解し、その上でうまく立ち回っていくしか無い、ということだろう。結局、戦前の日本原理主義のような「ナショナリズム一辺倒」では失敗するということだ。世界の大勢を7割は受け入れて、民族固有価値を3割は主張する。これが副島隆彦の云う「七・三の構え」という考え方である。
戦前の日本人がハリマンの満鉄共同経営を受け入れたり、リットン調査団報告書を受け入れるだけの度量の広さが無かったことが不幸だった。戦前に駐米大使をした、ジョゼフ・グルーはその日記に意味深いことを書き残している。
「日本人はポーカーが下手だ」
けだし名言だと言わなければならない。
(終わり)
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