「1396」 新刊『中国人の本性』の紹介。私たちはどれだけ中国の思想史について知っているだろうか? そこで副島先生が中国亡命知識人の歴史を中共からの亡命知識人である石平(せきへい)氏に徹底的に質問しました。夏のうちに是非読んで下さい。2013年8月8日

  • HOME
  • 「1396」 新刊『中国人の本性』の紹介。私たちはどれだけ中国の思想史について知っているだろうか? そこで副島先生が中国亡命知識人の歴史を中共からの亡命知識人である石平(せきへい)氏に徹底的に質問しました。夏のうちに是非読んで下さい。2013年8月8日

副島隆彦を囲む会の中田安彦です。今日は2013年8月8日です。

私達の新作DVD『いい加減にしろ!!マイケル・グリーン』も、まだまだ好評頒布中です。こちらも是非ご注文下さい。

( 副島隆彦です。今日は2013年8月11日です。ここに割り込みで加筆します。
上記のDVD「いい加減にしろ!マイケル・グリーン」は、私たちの学問道場の定例会の作品としては、大変出来が良いです。

初めの1時間半を 中田安彦研究員が、今の日本を いいように引き釣り回している 現地派遣の軍事総督(プロコンサル proconsul )である マイケル・グリーンが、安倍晋三首相、維新の会の 橋下徹、 自民党青年局長(次の次の首相にする予定)の 小泉進次郎 を始めとして日本側の酋長(しゅうちょう)たちを総嘗(そうな)めで操(あやつ)っていることを数々の証拠、証明付きで語っています。 今の日本国最高の 政治分析です。

そのあとの 2時間を、力石幸一(ちからいしこういち)氏が、実に分かりやすく、1430年代から1570年台までの 140年間の ベルギー (フランドル)、オランダの 北方(ノーザーン)ルネサンスの 真実を、

ヤン・ファン・アイク 、 ボス(ボッシュ)、ブリューゲルの 三人の 偉大なる画家の 作品を、鑑賞しながら真剣に、誠実に説明してくれます。実に明快です。これで日本人は、ようやく本当の フランドル絵画の保つ意味、とオランダ独立戦争の真実 を知るでしょう。

当日、定例会に参加してくださった皆さんには、このような政治と関わる文化・教養・芸術の講演は初めての体験であったでしょう。 次々とスクリーンに映し出される偉大な絵画の素晴らしさの理解には、とても初回の講演を聴いただけでは、至りつけないでしょう。 その講演の 録画DVD版では、作品群 を 改めてじっくりとDVD画面で観ることが出来ます。 私、副島隆彦が主張してきた。それぞれの時代を真剣に書き表した絵画、芸術に表れる、真実言論(しんじつげんろん)を理解すること、が今回の私たちの定例会(講演会)で達成されました。

私からも 講演者の力石幸一氏に、重ねてお礼を申し上げます。  副島隆彦拝

(割り込み加筆終わり)

中田安彦です。さて、7月末に「 副島隆彦 ✕ 石平 の対談集 」 の 第二作目の『中国人の本性-歴史・思想・宗教で読み解く』(徳間書店)が発売されました。

この本は、日本で政治思想をやろうとする知識人にとって極めて重要な本だと思います。これまでアメリカやヨーロッパの政治思想を中心に研究してきた、わが「学問道場」のみなさんにとっても、中国を中心に発展してきたアジアの過去数千年の政治思想について知るための、格好のガイドブックになるでしょう。


石平(せきへい)氏

・新刊『中国人の本性』(徳間書店)は、「学問道場」内「1セット・4冊」サービスでも取り扱っております。↓
https://snsi.jp/shops/index#book

石平(せきへい)氏と言えば、産経新聞やWILLなどの保守論壇で、今やかつての黄文雄(こうぶんゆう)氏や金美齢(きんびれい)氏ら台湾亡命知識人らを越える勢いで活躍する、共産中国からの亡命知識人です。私は、彼の熱心な読者ではありませんが、新聞に掲載される中国の時局分析はよく読んでいました。

石平氏は、対談本の冒頭に副島隆彦と二度目の対談を行ったあとの感想を次の様に述べています。

(引用開始)

「はじめに」 石平

知的刺激と知的愉悦に満ちた対談

二冊目となる副島隆彦氏と私との対談本は、日中間文化交流の歴史や日中文化の比較論などを論ずるところその主な内容としている。

前回の対談は現実の政治・経済問題をテーマとした「時事論議」であったが故に、時々堅苦しいものとなったり乾燥無味なものとなったりすることもあっただろうと思うが、今回の対談は様相が全然違ってくるのである。

何しろ、数千年の時間を超えて数千キロの距離を超えて、太平洋のような広さと深さを持つ「日中文化」という豊かなテーマを手にしたものだから、手前味噌ではあるが、われわれの対談はまさに天馬行空(てんばこうくう)の如く、縦横無尽にして自由奔放なものとなっていた感じである。

その中では、2人の対談者の間の深刻な対立や白熱な激論もあった一方、日本文化と中国文化の異同や関連性について、生粋な日本人である副島さんと元中国人の私との間には驚くべきほどの意見の一致も多く見られた。時々意気投合して、相手の鋭い高論に思わず膝を叩いてしまうような場面も多くある。少なくとも自分たちにとって、この度の対談はまさに知的刺激と知的満悦に満ちた愉快なものであった。 (後略)

(引用終わり)

そして、この本の内容は副島先生の「おわりに」に要約されています。ここに全部転載します。

(貼り付け開始)

 「おわりに 」―― 日本国に与えた中国思想の巨大な影響を語り合う

副島隆彦

外国の資金で行なわれた孫文の「辛亥革命」が現代中国の悲劇をもたらした

この本は、私と石平氏との対談本の二冊目である。前著『中国 崩壊か 繁栄か!?』のテーマを引き継ぐ。ただしこの本の書名としてピッタリなのは『中国知識人列伝』である。しかし『列伝』という古臭い中国の史学言葉では注目を集めない。それで『中国人の本性(ほんせい)』となった。

私は、中国知識人である石平氏に拝跪(はいき)して教えを乞うべく、中国の宋の時代(西暦九六〇~一二七九年)からこっちの一〇〇〇年間の極めて重要な知識人たち四〇数人の生き方や、思想業績をしつこく尋ねた。本書を読んでいただくと、中国四千年のうちの手前の一〇〇〇年間の知識人の全体像がよくわかると思う。日本人は、西暦一九〇〇年から、日本に清国留学生としてやってきた一万人(最大時、5万人)の 当時の最高頭脳の中国人たちのことを知らない。彼らは西洋化した日本を本気で学んだ。

私たちは、孫文(そんぶん)と魯迅(ろじん)と周恩来(しゅうおんらい)のことなら知っている。ところが、では彼らの先生がどのような人々であったかはまったく知らない。孫文、魯迅、周恩来の思想上・学問上の先生たちは、一八九八年に中国から脱出して、東京に亡命してきて、神田あたり一帯の中華料理店で邂逅(かいこう)して、皆で政治思想を激しく議論したのである。

私が石平氏に問い質(ただ)したうちで、最も重要なことは、孫文の辛亥革命(一九一一年から)こそが大きな誤りではなかったか、ということである。孫文よりも、本当は康有為(こうゆうい)と梁啓超(りょうけいちょうちょう)の「 中国皇帝をそのまま立憲君主として “虚君(きょくん)” として残し、中国の統一を保ったままの、穏やかな体制変更を実現するべきだ」という思想のほうが正しかったのだ。

私は、康有為、梁啓超、章炳麟(しょうへいりん)の三人の当時、最高級の中国知識人に注目する。孫文の国民革命は、外国の資金で行なわれた革命だった。ソビエトとアメリカとドイツと日本からの穢(きたな)い支援金で行なわれた。このことがその後の中国にどれほどの悲劇をもたらしたか。欧米列強に侵略(=領土割譲)され続け、全土を食い荒らされたままの悲惨な現代中国が、その後の一〇〇年間も続いたのである。

東京に来ていた孫文たちに最も強い影響を与えた章炳麟(しょうへいりん)の論文、『 駁(ばく)康有為論 革命 』(一九〇三年、上海で発表された)が 致命的にいけなかった。この大論文がその後の中国の道を大きく誤らせた。と言える。 なぜならここで “満人(まんじん) の 清朝打倒 ”が初めて高らかに唱えられたからだ。

章炳麟は康有為(こうゆうい)の弟子であったのに、先生に激しく反対して、「 満州人が長く漢人を支配した大清帝国を打倒して、漢民族による共和制 に直(ただ)ちに移行すべきである」と主張した。稚拙、拙速である。

( 副島隆彦です。 今日は、2013年8月16日です。今、この自分の文(=これを自文という、と造語した)を読み返して、この箇所で、どうしてもで少し加筆したくなった。以下の通り加筆する。

「これからの中国は、帝政をやめて、共和制( リパブリック、共和政)にする」と、自分たちで勝手に、ハイカラに気取れば、それで良いというものではない。 共和政になど、ヨーロッパ近代からずっと遅れてしまった中国では、無理なのだ。 フランス大革命のさ中に生まれた思想が共和政(リパブリーク)だ。そのあとで出現したのが、民主政(デモクラシーだ。これが人類史で初めて成立、誕生したのが、アメリカ独立革命で、イギリスの国王から自由になって、自分たちはもう貴族と国王に服従しない、平民 (へいみん、シチズン=上層平民と ピープル=下層平民の二つからなる)たちの国だ、と宣言して生まれた)だ。

だから、中国で、満州人の帝国を打倒した、からといって、それがそのまま、共和政の政治体制になど、移行できることはないのだ。断じてない!  日本だって、いまだに 天皇という ”虚君(きょくん)”を頂点に置いている。天皇という王様のいる「日本王国」なのである。これが大きな真実だ。

だから、あんまり先を急ぐな、と言った康有為(こうゆうい)の方が 章ヘイ麟(しょうへいりん)や孫文よりも正しかったのだ。

今の日本人でさえ、さらには日本の知識人層でさえ、この共和政 republic のなんたるかを知らない。きちんと教わっていない。誰も教える力がない。  日本人が知っているのは、「動物王国、というコトバと、「子供の共和国」というコトバだけだ、これだけしか知らない(笑)。と、私が、よく講演会で、冗談で言うが我が優秀な学問道場の会員たる聴衆でもよくわかっていない。 アメリカ人は、南米諸国のことを指して、「ふん、バナナ・リパブリック( バナナ共和国、banana republic )めが」 と嘲笑する。その嘲笑の意味が、日本国民にも自分たちがあざ笑われているのだと、分からない。

何とか人民共和国とか、社会主義人民共和国、 と名付けさえすれば、それで、土人の大酋長の独裁者が支配するだけの貧乏国なのに、立派な共和国になった、とその国の支配者たちだけは喜ぶ。 今日から、中国は、共和国、共和政だと、言えば、それで共和国になれる、と孫文たちが考えたことが、問題なのだ。 綺麗(きれい)ごとを何か言えば良いというものではない。

さらに、副島隆彦は、飛躍する。私は、ロシア革命を調べていて深刻に気づいている。やはり、社会革命党(エスエル党)かのちのメンシェビキであったろう、トルストイが偉かったのだ。 ロシアにも、穏(おだ)やかな、国民各層の団結による、社会改革があればよかったのだ。 ボルシェビキのレーニンとトロウツキーが指導した、血塗られた革命(1917年の10月革命)もまた、諸外国の穢(きたな)い資金で出来た、始めから裏切られた革命だった。 日本からも明石元二郎(あかしもとじろう)大佐の陸軍諜報機関のカネが、レーニンたちに渡されている。

長くチューリヒにいたレーニンに、ヨーロッパ・ロスチャイルドの穢(きたな)い金が渡っていた。トロウツキーは、NYで、マックスとポールのウオーバーグ(ワールブルク)家(裏は、ロスチャイルドを裏切って、ロックフェラー側に付いた資金) で優雅な暮らしをしていた。 ロシア・ボルジェビキ革命は、アメリカのNYのロックフェラー財閥の資金で達成された、きたない革命だった。 そのことを、ティモシー・サットン教授たちが、どんどん明にした。

だから、コミンテルン(世界共産主義運動、第三インターナショナル)が、諸悪の根源だと、日本のバカ右翼、と反共(といえばそれで満足して思考が止まる)ノータリン右翼知識人たちは、そのコミンテルンを、さらに背後から操った、アメリカの 金融財閥のことを知らなければいけない。 私、副島隆彦、これから、ギューギュー教えてあげよう。逃げるな。副島隆彦の思想爆弾、真実言論爆弾の恐ろしさを教えてやる。

IPR(アイ・ピー・アール)をこそ研究せよ。今はこの一言だけ教えておく。私の先生のチャルマーズ・ジョンソンが、日本で真剣に研究し続けたのは、このIPRだ。 コミンテルンまであやつった、その本当の恐ろしい顔を
知ったら、日本の右翼言論、保守知識人どもなど、ずべて溶解し、溶けてなくなるだろう。

あの残忍な毛沢東さえも、スターリンを疑って、スターリンとの激しい闘いの中で、延安まで逃げ延びて、なんと 日本軍に守ってもらいながら、アメリカの支援を受けながら、共産中国を作ったのだ。 つまり、「共産中国はアメリカが作った」のだ。この「共産中国はアメリカが作った」(成甲書房刊、2005年)は、私が監訳者になった本の書名であり、ジョゼフ・マッカーサー上院議員が、渾身の思いで、死ぬ間際に書いた議会報告書の 翻訳書の日本語の書名である。

20世紀初頭のロシアに勃興したクラーク(新興の農場経営者層)と、改革派の貴族たちと、産業資本家たちの団結による、 ”虚君”を形だけ残したうえでの、穏やかなロシア革命であるべきだったのだ。やはりトルストイが偉大だったのだ。

もう、これぐらいにしましょう。ここで加筆終わり。  副島隆彦拝 )

この満人の清朝打倒の論 が 孫文らに影響を与え、三合会(さんごうかい)、哥老会(かろうかい)などの秘密結社( 幇(パン)の暴力組織でもある)を中心にした血塗られた政治運動になっていった。それが1905年に、東京で結成された中国革命同盟会(ちゅうごくかくめいどうめいかい)であり、これが中国民党になっていった。

そしてこの流血の動乱を肯定する暴力革命の形が、その後の中国国民党と中国共産党(1921年に創立された)の血まみれの長い抗争になった。

孫文を継いだ蒋介石(しょうかいせき)は政略と軍事ばかりの男だった。多くの開明的知識人が殺された。中国人の穏やかな団結が出来なかった。だから、欧米(日本を含む)列強による無惨な中国の植民地支配が続いた。魯迅(ろじん)の先生でさえ章炳麟である。

この章炳麟(しょうへいりん)が、正統の 清朝(しんちょう)考証学(こうしょうがく) を「国学」に改名して、その後の中国思想の正統(レジティマシー)を継承したことになっている。 私は、穏やかな革命を目指した康有為・梁啓超と章炳麟との対立が、一九〇二年に東京で起きたことが、現代中国最大の事件だったと考える。

宋王朝以降の中国知識人の思想を知らずに中国を語れない

私は石平氏から中国思想の全体像を問いかけ聞き出した。 ①「漢文」→ ②「唐詩(とうし)・宋詞(そうし)」→ ③「元曲(げんきょく)」→ ④「南曲(なんきょく)(明(みん)の時代の文学・思想)」そして → ⑤「清朝考証学」となっていることを学んだ。 このうち私たち日本人は、中国の文学・学問・思想として、 ①の古典「漢文」だけを知っている。それを高校時代の国語の「漢文」の授業で習う。

それ以外は習わないからまったく知らないのである。私は、貪欲な日本言論人であるから、②から⑤までのアウトラインを知りたく、このたび超高速で勉強した。

現在の日本人中国学者たちの真面目な研究の現れの一端である『中国史重要人物101』(井波律子(いなみりつこ)編、新書館、二〇〇五年刊)を使って多くを学んだ。 私が石平氏に訊ねて聞き出したことで成った、本書「中国知識人列伝(れつでん)」 を読むと、中国のこの 一〇〇〇年間(その前の秦・漢・随・唐の一〇〇〇年間ではない) の中国思想を、ガバーッと大きく掴まえることが出来る。本当に頭のよい読書子なら、これらの来歴と披瀝に目を見張るべきである。 手前味噌(てまえみそ)ながらこの本は企画的な本である。

私は、石平氏の懇切な教授から卒業して、このあとは自力で「この一〇〇〇年間の中国思想の全体像」を再度、大きく簡潔に描き出す本を書くだろう。孫文 と 魯迅 と 周恩来 の先生が誰であったかがわからなければ、日本人は現代中国思想の巨大な柱と全体像を理解したことにならない。

ここがわかれば、 ④「清朝考証学=中国の正統の国学」 が、 ① の古典「漢文」と深く直流でつながっていることがわかる。このとき二千年来の日本国に与えた中国の巨大な影響がわかる。

本物の中国知識人である 石平氏 は、私が次々と遠慮なく投げつけた直球を、ビシッ、ビシッと直打法で球心に当てて打ち返してくれた。私たち二人の考えがほとんど一致していることに私は心底驚いた。それはこの本の「はじめに」で石平氏が、 「我々の対談はまさに天馬行空(てんばこうくう)のごとく、縦横無尽にして自由奔放なものとなった」 と書いてくださったことで証明された。

今の日本の保守派大衆は、中国(人)を見下(みくだ)し、その醜行(しゅこう)を悪しざまに罵(ののし)ることで己れの自尊心を満足させる。その本態は、今や隆盛する中国への劣等感と被害妄想である。敗戦後の七〇年間、アメリカ帝国にさんざん洗脳され脳を侵されている、

この哀れ極まりないネズミやミミズのごとき今の日本の保守的大衆に、私は真正面からケンカを挑み、どんなに嫌われても大声で反論し、罵倒し返すことで己れの本分とする。私は同じアジア人として執念深く、この「アジア人どうし戦わず。アジア人よ団結せよ」の強靭な人生行路を貫く。

最後に、「とにかく中国を貶(けな)さないと、今時本は売れない」という方針に私が折れて、『中国人の本性』という書名で収めてくれた 李白社社長の岩崎旭氏にお礼を申し上げる。長時間の対談にお付き合いいただいた石平氏と、伴走していただいた涌水舎(ゆうすいしゃ)・吉野勝美氏の執念にも深く感謝申し上げる。

(貼り付け終わり)

中田安彦です。『中国人の本性』というタイトルは上に書いてある副島先生の解説通りならば、中国をくさすためのものなのでしょう。しかし、私は本性(ほんしょう)ではなく、本性(ほんせい)だと最初、勝手に思っていたので、そう考えれば、別に中国をくさす内容にはなっていないし、問題にならないと思いました。

本性(ほんせい)というのは英語で言えば、human nature(ヒューマン・ネイチャー)です。この本は中国の知識人列伝という内容の本ですから、優れた知識人から中国人というか民族の本質(ネイチャー)が浮き彫りになるでしょう。

この本では、第1章と第2章、第3章、第4章、第5章、第7章で、中国の政治思想史について、具体的に人名をじゃんじゃん出しながら、思想区分別に系譜分けし、そのうちのどの思想系統がどのように、江戸時代などの日本の政治思想に影響を与えたのかという視点で書かれています。その意味で言えば、まさしく、「日本は文明の周辺属国であり、独自の文明ではありえない」とする、従来通りの一貫した「属国論」の立場で日本の思想史を斬る内容になっています。

本書において、副島・石平両氏の共通した理解は次のようなものです。

当時の東アジアの覇権国・帝国であった中国の王朝に北方の遊牧民族などが攻めこむなどの政変があって、新しい王朝に交替が起きると、征服された王朝で活躍していた知識人たちが、海をわたって日本に逃れてくる。その時に、時の日本の政治権力層は大陸の政治情勢だけではなく、優れた文化を受容し、それを日本に吸収していくというプロセスが江戸末期に異なるまで過去1000年近くにわたって繰り広げられてきた。

文明の周辺属国であった日本は江戸時代までは大陸の文明から学び、幕末以降はイギリス・アメリカという文明の周辺属国として存在してきた、という極めて明快な理解です。

その一例として、本書冒頭では、13世紀に中国から逃れてきた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)と兀庵普寧(ごったんふねい)という名前の二人の禅僧が登場している。この時、中国は南宋という王朝の時代、日本は鎌倉時代で執権北条時頼の時代でした。この二人の禅僧はモンゴルの侵攻から逃れて海の向こうの日本に流れ着いた知識人たちで、時頼は当時の政治都市であった鎌倉に建長寺という禅寺を建立している。

ここで「京都五山、鎌倉五山」と呼ばれる五山文学が始まったというのですが、副島隆彦の解説によると、当時の東アジア圏で超一流の知識人たちが集まってきた学問所だった。この当時には通訳を含めて世界最高給の知識人の交流がこの鎌倉五山で行われていたのです。

その後も、室町時代には臨済宗禅僧の夢窓疎石(むそうそせき)がやってきて、日本では江戸時代、中国では清王朝が成立した17世紀半ばには、臨済宗の隠元禅師(いんげんぜんし)というお坊さんがやってきて、黄檗宗(おうばくしゅう)という仏教の宗派を日本に伝えている。モンゴル族と満州族の2つの北方民族による漢民族の征服が、優れた知識人たちの日本への亡命の原因となった。

石平氏によれば、楠木正成(くすのきまさしげ)もまた中国人渡来僧の明極楚俊(みんきそしゅん)という日本で鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、元(げん)の時代に日本へ渡来して来た禅僧に学んでいる。石平氏は優れた知識人です。ところが日本の出版業界は、彼を自分たち中国大嫌い派の代弁者として利用し、もっぱら中国共産党の悪口を言わせるために使う、というもったいない使い方をしている。石平氏は中国知識人として、中国の思想の流れのすべてが頭にはいっている人である。

副島隆彦が、中国がやがて世界帝国になるだろうと主張する理由のひとつは、ヨーロッパに於けるラテン語と同じく、漢字・漢文 という正式の書き言葉を持っている からだ。この漢字・漢文で、文明としての一体感を保ってきたからだ。本書を読むと理解できます。1960年に毛沢東が行った、庶民に至るまで、現在の中国の共通語である北京語・普通語と簡体字を普及させた。このことで、石平氏によれば、今の中国人は中学校以上の教育を受けた人なら皆北京語を喋れる、だから四川省の若者が広東省に働きにいける。

日本はその中華文明の周辺属国として、江戸時代までは必死に知識人たちは漢籍(かんせき)を理解し用途務めた。ただ、石平氏によれば、江戸時代の日本人の学者が書いた漢文は、漢字の韻を踏んでいないので響きが全く伴っていないのだそうです。やはり、漢籍は輸入学問なのだなあと私は思いました。

その他、「中国では儒教が秩序を維持し、道教は王朝を倒す役割を担った」として、漢民族の土着的な宗教である道教の信者たちの反乱(漢王朝に反旗を翻した黄巾の乱)などを引き合いに出しながら、現在の中共政府が恐れる、法輪功の意味を民衆救済運動による中国の権力者への民衆の反乱として位置づけるなど、中国の歴史を知ることは今の中国を知ることにもつながる、という事もわかります。

さらに、幕末の志士たちの思想的背景になった 水戸学(みとがく)というのは、中国の易姓革命の思想を日本に伝えた亡命儒学者の朱舜水(しゅしゅんすい)を招聘した水戸藩藩主の水戸黄門、水戸光圀によって作られていった。そして徳川家の御用政治思想である「朱子学」だけではなく、それと大きく対立するものとしての「水戸学」、そしてそこから生まれる天皇中心主義思想につながる国学もまた、中国の亡命知識人たちの存在なしにはありえなかった。やはり日本は文明の周辺属国であるという冷酷な事実を突きつけている。

万世一系の思想の背景には、南宋帝国の最期の宰相であった文天祥(ぶんてんしょう)の作った「正気(せいき)の歌」が重要で、それが江戸時代の歴史学者の頼山陽(らいさんよう)に影響を与えたのだとわかりました。江戸時代の学者たちは、昼は御用学問である朱子学を学んだが、夜になると、顔付きが変わって、徳川家を激しく批判した。彼らは、中国から入ってきたもう一つの学問である王陽明(おうようめい)の陽明学(ようめいがく)を学んだ。江戸時代の官製学問所である昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)の儒官たちの表と裏の話などは実に興味深いものです。

日本が、亡命知識人から中国の優れた政治思想を学んでいくうちに、山鹿素行(やまがそこう)たち江戸時代の儒学者のように、「日本こそは中朝(ちゅうちょう)=世界の中心=であり、中国が夷狄(いてき)である」という思想の捻じ曲げを行なって、徐々に天皇中心主義が生まれていったのだということを、副島先生は、石平氏に一つ一つ事実を確認しながら、積み上げて大きな理解を作り出しています。

この本では、さらに中国の19世紀末に、康有為(こうゆうい)、梁啓超(りょうけいちょう)たち中国国内での政治改革を果たせずに敗れて日本に亡命して来た超一流の中国知識人たちの話や、外国から資金提供を受けて辛亥革命をやった中華民国を建国した孫文のことまでも取り上げています。従来、中国思想を論じた本は、孔子や孟子、韓非子(かんぴし)などの古代中国の思想家ばかりが取り上げられる傾向がありました。が、この本では儒学だけではなく朱子学、陽明学など幅広い解説があります。

この対談本を土台にして理解していけば、中国歴代王朝(=歴代の中華帝国)を支えた、中国の思想史と日本の思想史がどのように結びついて明治維新を迎えて、いち早く日本は、欧米かぶれになっていたかが、非常によくわかります。

この日中の知識人の交流の歴史が、太平洋戦争敗戦後にアメリカの属国となってしまった日本から消えてなくなってしまった。 そこで副島隆彦が、中共からの亡命知識人の一人であり、現在における中国専門家である日本に帰化した石平氏に色々質問して、「亡命知識人が日本の政治思想を文字通り形作ったのだ」そして「1989年からは今度は、中国が日本から西洋を学んだのだ」という大きな真実を再構築したのです。だから、この石平氏との対談本は、『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』と『属国・日本論』やつい最近の『隠されたヨーロッパの血の歴史』などの著書と同じ重要性を持っている本だと私は思いました。

繰り返し読んでいく事のできる非常に価値のある一冊なので、夏のうちにじっくりと読んでほしいと思います。

・新刊『中国人の本性』(徳間書店)は、「学問道場」内「1セット・4冊」サービスでも取り扱っております。↓
https://snsi.jp/shops/index#book

中田安彦拝

このページを印刷する