「2039」 【再掲載】「1456」番  村岡素(もと)一郎 著 『史疑(しぎ) 徳川家康事績』(1902年刊)についての 松永知彦氏の長文の歴史論文を載せます。 2014年6月10日【再掲載】(第1回・全2回) 2023年2月8日

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冒頭にSNSI・副島隆彦の学問道場研究員の古村治彦(ふるむらはるひこ)が割り込み加筆します。今日は2023年2月8日です。

以下の論文は2014年6月10日に掲載しました、松永知彦(まつながともひこ)氏の論文を再掲載します。

今年のNHKの大河ドラマ「どうする家康」は真実を捻じ曲げ、覆い隠すように作られています。「真実の徳川家康はそんなものではない」ということは、「副島隆彦の学問道場」の読者の方々ならば既に見破っていると思いますが、その補強材料として、松永さんの渾身の力作を是非お読みください。

長大な論文になっていますので、前回は1回で全部を掲載しましたが、今回は2回に分けて掲載します。

また、副島先生は徳川家康について『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』(PHP研究所、2015年)という本を出しています。併せてお読みください。

信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた

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「1456」番  村岡素(もと)一郎 著 『史疑(しぎ) 徳川家康事績』(1902年刊)についての 松永知彦氏の長文の歴史論文を載せます。 2014年6月10日

副島隆彦です。今日は、2014年6月10日です。 以下に載せるのは、私たちの会員で、名古屋市に在住する松永知彦氏の 長文の論文です。

私はこの松永論文を、なんと、5年前(2009年)に受け取っていました。が、そのままほったらかしにしました。それは、私の物書き生活が忙しくて、とてもこのような長文の論文を、しっかり読んで、私の赤ペンを入れてあげて、それから、この今日のぼやき に載せるだけの 手間を懸けられなかったからです。

私は、松永くんにお詫(わ)びも兼ねて、先週、6月2日に、名古屋でお会いして、お話して、一緒に食事をしました。松永くんは、40代のまじめな会社員です。

彼が、自分の人生時間の合間を縫って、こうして、「徳川家康(とくがわいえやす)とは何者か?」の大きな課題に挑んで、調査をして、そして、以下の優れた歴史論文を書いてくれました。 5年間もほったらかしにして、申し訳ない。これで、なんとか、大きな真実が、また陽(ひ)の目を見ます。

この「徳川家康とは何者か。本当は、真実は、どのような出自(しゅつじ)か」という問題は、私、副島隆彦もずっと、10年来調べていることです。  私が、去年出しました、日本の歴史についての研究本の『闇に葬られた歴史』(PHP研究所 刊 )の第二章で、全く、松永くんと同じ課題を追究しています。

闇に葬られた歴史

私が、6年前に、この今日のぼやき に載せました 家康研究に 触発されて、松永君が、以下の渾身の、執念の調査論文を書いてくれました。

それに、私が、ようやく、今日の朝からずっと時間を懸けて、いままで10時間ぐらい時間を懸けて、私の注釈や注意書きを、各所に入れながら完成しました。

私、副島隆彦も、まだまだ歴史研究をやります。 信長、秀吉、家康の 日本人にとっては、三題噺(さんだいばなし。三人の話)のような 戦国時代の 日本国の政治の闘いの本を、書きます。

私は、先週、4日間かけて、一冊の本を読みました。ものすごく勉強になりました。これで、日本の戦国時代ものの、歴史研究も、歴史小説が描き出す真実も、相当に進歩し、これまでの多くのウソの歴史書(ねつ造してきた古文書の数々。およびそれに加担してきた 歴史学者たちの学問犯罪と責任)の悪が、満天下に、暴かれるでしょう。

その本とは、『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎=あけちけんざぶろう= 著 文芸社文庫、2013年刊、720円) です。 この本は、すごい。 私は、この本からものすごく重要な多くの真実を学びました。

本能寺の変 431年目の真実

それらの成果は、どんどん、ここの会員ページに載せてゆきます。 次回の ケンカ道場でも取り上げます。

それでは、松永知彦くんの 優れた歴史調査論文を お読み下さい。

副島隆彦拝

(以下が、論文です)

平成21年9月9日
松永知彦 筆

『史疑(しぎ) 徳川家康事績』から、松平(まつだいら)初代親氏(ちかうじ)公
七代清康(きよやす)公 ・ 徳川家康公について

はじめに 『史疑 徳川家康事績』のあらすじ

明治三十五年(1902年)に出版された『史疑(しぎ) 徳川家康事績(じせき)』村岡素一郎(むらおかもといちろう)著 (民友社) は大胆且つ大変魅力的な本です。

史実として固定されている三河(みかわ。 現在の愛知県東部、岡崎市・豊田市・安城市あたり)の 豪族松平家の九代目とされる、征夷大将軍徳川家康の出生に一石を投じた「問題作」です。なにしろ、通史でいうところの 徳川家康は 松平元康 (改名するまえの名・まつだいらもとやす) とはまったくの別人であり、しかも卑賤の出身であるというのですから、物議を醸(かも)さないはずはありません。

私は、この『学問道場』の今日のぼやき 「721番」(2006年1月9日) で、副島先生の『史疑(しぎ)』の紹介文を読むまで、その存在を知りませんでした。 徳川家康についても、一般に言われている、三河松平家の出身、幼名竹千代(たけちよ)、今川家の人質、岡崎城城主、関ヶ原の合戦、征夷大将軍、程度の知識しか持っておりませんでした。それだけに、その内容には大変に驚かされると同時に『史疑』の世界に魅了されました。

『史疑』で展開される、家康すり代わり説の内容については、私の拙い説明よりも、礫川全次(こいしかわぜんじ)氏の著作の『史疑 幻の家康論』(批評社) の110ページに歴史家、桑田忠親(くわたただちか)氏が書いた要約文が引用掲載されています。最後の礫川氏のコメントまで含めて、その本から重引用させて頂きます。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

村岡素(もと)一郎の所説に従うと、まず、幼児から今川の人質となって駿府(すんぷ)にあって辛酸をなめたという松平竹千代という少年は、正史の上では、徳川家康の少年時代とされているが、実際は、そうではなくて、三河の豪族松平元康(もとやす)の嫡男竹千代、つまり、正史でいう後の岡崎三郎のことだ、というのである。

つぎに、弱冠十九歳で今川義元(いまがわよしもと)の先鋒を承って、桶狭間の戦いに出陣し、尾張の大高城(おおたかじょう)に兵糧を入れたは、正史の上では、三河の豪族松平元康とされるが、真実は、この元康を暗殺して(引用者注※)、これに代わって岡崎城主となったのは、願人坊主(がんじんぼうず)あがりの 世良田二郎三郎元信(せらた・じろうざぶろう・もとのぶ) である。

この元信が、織田信長と清洲同盟を結び、徳川家康となって、後に天下の覇権を掌握する、というのである。そうして、この世良田元信の前身が、願人坊主(がんじんぼうず)であったことについては、次のように説明している。

駿府(すんぷ。今の静岡市 ) の宮の前(みやのまえ)に住んでいた善七(ぜんしち)という者の娘のお万(おまん)というのが、売りとばされて、七右衛門(しちえもん)というささら者の妻となった。 その間に生まれたのが、お大(だい)であった。このお大が宮の前に住んでいた頃、たまたま下野国(しもつけのくに) から流れてきた祈祷僧の江田松本坊(えだまつもとぼう)と密通して、男子を産んだ。これを国松といった。この子が世良田元信である。

因みに、ささら者とは、平素は町に出て、ささら や、燈心、付木などを売り歩くが、正月になると、鳥追い唄 などをうたい、門づけして歩くので、非人あつかいされていた。そうした人々の集団をいうのである。

このささら者の国松という子供は、生母のお大(だい)が再婚したあと、祖母のお万が源応尼(げんおうに)と称して尼となっていたのに養育されたが、やがて、近くの円光院という浄土宗の寺院に預けられ、名を浄慶(じょうけい)と改める。

円光院の住職智短上人(ちたんしょうにん) は、浄慶に読み書きを教えた。が、浄慶は、九歳のとき、他の寺内で小鳥を捕まえたことがわかり、破門された。そこで浄慶は祖母源応尼のもとにも帰りにくくなり、駿府城下をうろつきまわっていた。そのとき、又右衛門とうい悪者が、浄慶をかどわかし、銭五百貫文( ママ ) で売りとばした。これが、『駿府記』(ママ) に出てくる大御所徳川家康の述懐である。

ところで、浄慶を買い取った者は、駿府の中の府中(ふちゅう)八幡小路(はちまんこうじ)の願人坊主・酒井常光坊(さかいじょうこうぼう)であった。願人坊主というのは、寒中素っ裸になって町をまわり歩き、家ごとに、その頭から冷水をかけてもらい、修行するならいであった。浄慶も、酒井常光坊について行(ぎょう)を積み、やがて一人前の願人坊主となり、加持祈祷(かじきとう)を施し、守札(しゅれい)や秘符(ひふ)を売って歩いていたらしい。浄慶は、常光坊のお供をして、九歳から十九歳まで十年余、諸方の山野を跋渉(ばっしょう)し、各地の地理・人情・風俗を偵察した。

三河国の豪族松平の宗家である岡崎城主・松平元康 と 駿府の今川家との関係を洞察し、永禄(えいろく)三年(一五六○) の 四月、十九歳のとき、同志を呼び集め、駿府の今川館に人質になっていた元康の幼児 竹千代 (後の岡崎三郎信康=のぶやす=)を奪い取り、遠江(とおとうみ)に遁走した。

その五月、今川義元が尾張の桶狭間の戦いで織田信長に討たれた。浄慶は、浜松城(その頃は、引馬城=ひきうまじょう=と言った)の 井伊直教(いいなおたか)を攻めて城を取った。そして、竹千代を尾張の熱田(あつた)に護送し、織田家の人質とした。(副島隆彦注記。このあたりは、記述がおかしい。)

信長は、(副島隆彦注記。今川方の忠臣であった)岡崎の松平元康にたいして、「今川を叛いて織田と和睦せよ」と申し送った。しかし、元康は、これを拒絶して、織田がたの属城を攻め続けた。そのころ、願人坊主の浄慶は、還俗して、世良田二郎三郎と名のっていた。世良田と称したのは、かれを捨てて駿府を去った父が、上野国(こうずけのくに)の新田(にった)氏の後裔だ、と聞いていたからである。父の姓 江田(えだ)を取らずに、同じ新田の支族である世良田を称したのであった。

世良田元信は、岡崎城主の松平元康に協力し、各所で織田勢と戦った。(副島隆彦注記。この辺りの記述はあいまいだ。論旨不明 ) 岡崎城主・松平元康(もとやす)は、家臣の阿部弥七郎(あべやしちろう)に刺し殺された。・・・・世良田元信は、三河に入り、ひそかに元康の遺骸を荼毘に付し、さらに敵がたをあざむく必要から、自分が、松平元康その人になりすました、というのである。

だから、この願人坊主あがりの世良田元信が、自分の策略で殺された国岡崎城主・松平元康に成り代わり、自分が駿府で盗み出し、岡崎に連れてきた、元康の長男竹千代が、後の岡崎三郎信康(のぶやす)である。(副島隆彦注記。信康は、21歳のとき、元康=改名して家康に、殺された。)

(以下は、副島隆彦が、簡潔に、正しく書き変えます。)世良田元信は、松平元康にすり替わったので、元康の正妻の築山殿(つきやまどの)と極力離れて暮らした。すり替わったことを見破られないようにである。築山殿は、亡き夫松平元康暗殺の秘密の鍵を握っている女性だった。かの女は、甲斐の武田氏と連絡を取って、武田の助力を得て、松平元康から徳川家康と名を改めた人物の真実を知っていたので、わが子信康と共に、甲斐に逃げようと考えた。この動きを知った家康が、織田信長の命令で、築山殿と岡崎三郎を暗殺した。

(副島隆彦注記。ここまで、副島が、以下の「戦国史疑」という本の、いい加減な部分を、すべて、訂正しました。)

《 『戦国史疑』二二六~二二八ページ、一九七六、新人物往来社 》


本稿に関係する各史跡の位置

桑田氏は、村岡説を否定する立場に立っている人だが、上の要約は非常によくまとまっている。 ( ただ文中「五百貫文」、『駿府記』(すんぷき)とあるのはそれぞれ「五貫文」『駿府政事録』(すんぷせいじろく)とすべきである)。

<引用終了>

( 注※この場合「この元康が暗殺され」のほうが、表現としては妥当だと思う。 村岡素(もと)一郎は、世良田 元信が元康を暗殺したとははっきりとは書いていない。)

松永です。礫川(こいしかわ)氏が言う「五百貫文」と「五貫文」、『駿府記』と『駿府政事録(すんぷせいじろく)』の違いについては、『史疑』を語るうえで、重要な問題です。この部分が解明されれば、それだけで家康研究が大きく前進します。この問題については、のちほど、礫川氏の論考を参考にさせて頂きながら取り上げます。

●【徳川家始祖 時宗(じしゅう)の僧「親氏(ちかうじ)」(徳阿弥=とくあみ)について】

一、「親氏」は 松平郷へ入郷したのか


松平関連の参考地図

松永知彦です。  通史では、新田源氏の末裔であり、零落(れいらく)して時宗(じしゅう)の僧になった親氏が、松平郷(まつだいらごう。 現在の愛知県豊田市松平町) にまで、上州から流れ着いて来て、土地の豪族、松平太郎左衛門(まつだいらたろうざえもん)の次女である「水女」(すいじょ)の婿(むこ)となり「初代 松平太郎左衛門 親氏」(まつだいらたろうざえもん・ちかうじ)を名乗ったのが松平家のはじまりで、徳川家康(松平元康)はその九代目、とされる。しかし、この「時宗の僧」がどういう者なのか、これまでわかりませんでした。

松平氏の家系略図(定説)

松平郷「松平東照宮」

松平郷「初代 松平太郎左衛門 親氏」像(想像上の姿)

私が、図書館や、古書店で調べてみても、「一遍智真(いっぺん・ちしん)という人物が開祖である」とか「踊りながら念仏をとなえ諸国を遊行した僧たち」程度のことぐらいしかわからず、どうにも気持ちが落ち着かなかった。

しかし副島隆彦先生 の 『時代を見通す力 歴史に学ぶ知恵』(PHP研究所) にその回答があった。そこに、「 「時宗の僧」とは「戦陣僧」であった」 とありました。

この事実は本当に私にとって驚きでした。 討ち取られた武将の首を洗うために、戦場(いくさば)にまで、ついて行ったであろう比丘尼(びくに)たちを含めて、なんとなくその当時の様子までもが頭に浮かんできそうなぐらい、深く納得することができました。

おそらく、一遍(いっぺん)上人の後について、いろいろな人々、中には乞食や賤民らもそれにつらなり、かなりの大勢での遊行(ゆぎょう)であったのでしょう。「武士が能(のう)を好んだ」ということからしても、三河地方にも古くから伝わる踊り芸人たちの集団である「万歳」(ばんざい)がある。そして、 それが、観阿弥(かんあみ)や世阿弥(ぜあみ)たち芸能人につながっていったのだろう。

日本史学界では、「 徳川家康の 新田源氏末裔説 」は、現在では否定されている。現在知られている徳川家の系図は、征夷大将軍になるにあたって源氏姓が必要であったので、新田源氏の末裔である親氏(ちかうじ)を祖先とする系図を作成した経歴詐称、とする。しかし、親氏の松平郷への入郷そのものに関しては今も賛否両論のようだ。

現在の豊田市松平町で、「松平親氏公 顕彰会(けんしょうかい)」という会が組織されており、資料集が数冊を発行されている。平成五年((1993年)に、『松平親氏(ちかうじ)公六百年祭』を催している。毎年『松平東照宮(まつだいらとうしょうぐう)春まつり』という町をあげてのお祭りも開催している。

松平郷「松平家の墓所」(1)

松平郷「松平家の墓所」(2)

松平郷「松平家の墓所」(3)中央が「初代親氏」向かって右側が二代泰親、左側が、信忠夫人の墓。

ところが、私が調べたところ、その一方で、『新編 岡崎市史 中世』 には、「松平氏は加茂郡松平郷(かもぐん・まつだいらごう)の有力地主であり、入り婿になったのは、名もない遍歴者であった」と書いてある。 今現在、書店で手にいれることのできる家康関係の歴史本には、親氏の松平郷入りを認めているものの、新田源氏末裔説には否定的という立場をとっているものがほとんどだ。

私は、自分のこのあたりの見解をはっきりさせておきたいと思った。そこで、豊田市松平町の松平資料館へ行った。

松平郷「松平資料館」

そして、そこで手に入れた『松平家 由緒書(ゆいしょがき)』という古文書を読んだ。 それを根拠として、親氏と泰親( やすちか・松平家二代目 )は、三河(みかわ)松平郷へは来ていない、という村岡素一郎の主張が正しいことを確認した。

この『松平家由緒書』は、豊田市松平町赤原の神谷康重氏(平成四年十二月没)が所蔵していたものだ。 『明治十四年松平村誌』の附載(ふさい)としてあったものを、昭和四十六年(1971年)の「松平町史編纂」の資料募集の際に、あらためて作られたものだ。『三河物語』や『松平記』、『徳川実紀(じっき)』などの徳川家の検閲が入った江戸幕府編纂の史料とは違う。個人宅にひっそりと所蔵されていたものだ。ちなみに所有者の神谷氏は、松平太郎左衛門家の家老の家柄の子孫だそうだ。

(副島隆彦注記。私は、この本物の古くからの松平氏である、太郎左衛門の家を、現地で確認してきた。 2014年6月3日。近くに、大給(おぎゅう)松平氏の 城跡があった。松平郷の中の一番、山奥である。)

『松平由緒書』には、筆者も、書かれた年月も記されていない。だが、松平郷の屋敷や建物、及び居住者に関する口伝が詳細に記述されている。そして、末氏(まつうじ)の尉(じょう)、太郎左衛門尉(たろうざえもんのじょう)、右衛門尉(うえもんのじょう)、等「尉」(じょう)のつく中世風の人名が多いこと、そして文体や書体が近世初期のものと思われることなどにより、近世の初期には成立していたものであるとされている。

また、六代信忠(のぶただ)の隠居に至る経緯などが詳細に書かれてあることから、松平家・徳川家の真実の研究資料としての価値が認められている。

そして、なによりも、「徳翁斉(とくおうさい)」( 徳阿弥とは書いていない) が松平郷へ入郷した時の状況や太郎左衛門信重(たろうざえもん・のぶしげ)との問答の様子が、『三河物語』と比較すると、より詳細であるということが、この古文書の価値を高めている。そして私、松永が注目するのは、この『松平由緒書』には「親氏(ちかうじ)」や「徳阿弥(とくあみ)」などという名前は、ただの一度も出てこない。

太郎左衛門信重との問答でも、自らを「(時宗の)僧」などとは言っていない。ただ「我等と申(す)ハ東西をきらわすして牢流ノ者に候(そうら)へハ(ば)御はつかしく存(あり)候(そろ)と御返到(おへんとう)被成(なされ)候(そろ)」とある。「我らは、東西(南北)を旅する者です。恥ずかしい下層の者です」と言っている。

(この問答は、現在書店で売られている、『新・歴史群像シリーズ⑫【徳川家康】(学習研究社)』にも紹介されている。)

徳翁斉(とくおうさい)は、「時宗の僧」であっただろうが、その確たる存在の証拠はない。ただの乞食(かっしき)だったのかもしれない。入り婿してからの名前も「松平太郎左衛門尉信武」(まつだいら・たろうざえもん・のぶたけ) でありここでも、通史でいう「松平太郎左衛門親氏」(まつだいら・たろうざえもん・ちかうじ)ではない。

そして身内についても、八幡寺 ( 碧海郡 知立町 へきかいぐん ちりゅうちょう にある ) に「祐金斉(ゆうきんさい)」という弟が居候しているので、こちらに呼んでもよいかとたずねている。「泰親(やすちか)」でも「祐阿弥(ゆうあみ)」でもなく「祐金斉(ゆうきんさい)」である。 松平家に入ってからは、「祐金斉亀明(ゆうきんさい・かめあき)」と名乗っている。

『松平由緒書』に同載されている訳文、解説文は、「徳翁(親氏)」、「祐金斉(泰親)」というように読者にわかりやすく記載されている。だが、素直に読むかぎり、徳翁斉と親氏、祐金斉と泰親は別人である。

親氏、泰親と彼らの父である有親(ありちか)の3人は、おそらくは、新田源氏系の「時宗の僧」であっただろう。文学博士、中村孝也(なかむらこうや)氏の大著『家康傳(いえやすでん)』(1965年刊、講談社出版)から引用する。

<引用開始>

( ※ かっこ内のふりがな は 引用者)

所伝(しょでん)によれば親氏(ちかうじ)は、足利政権の圧迫を逃れて、父 有親(ありちか)と共に時宗の僧となり、有親は長阿弥(ちょうあみ)といい、親氏は徳阿弥(とくあみ)といい、諸国を流浪した というのである。整理された系譜によれば、新田義重(にったよししげ)の末子 義季(よしすえ) は、上野国(こうづけのくに)新田郡(にったごう)世良田庄(せらたのしょう)徳川郷(とくがわごう)に住んで、徳川氏( 得川氏 とくがわし ) を称し、それより頼氏(よりうじ)・教氏(たかうじ)・家時(いえとき)・満義(よしみつ)・政義(まさよし)・親季(ちかすえ) を経て 有親 に至ったという。

後亀山(ごかめやま)天皇の 元中二年(一三八五年、北朝至徳二年 ) の秋、新田氏の一門が、信濃浪合(なみあい)において、南朝の某宮に殉じて戦死した所伝の中に、世良田大炊助政義 (せらたおおいのすけ・まさよし)、世良田右京亮有親(せらたうきょうのすけありちか) の名が見えている ( 鎌倉大草紙・藤沢山縁起・信濃宮伝・浪合記(なみあいき))

<引用終了>

松永知彦です。 世良田有親(ありちか)の子が親氏(ちかうじ)と泰親(やすちか)であるということには概ね異論はないようだ。そこで、以後、彼らを世良田(徳阿弥)親氏(せらたとくあみ・ちかうじ)、世良田(祐阿弥)泰親(せらたゆうあみ・やすちか) と呼んでさしつかえないと思う。だが、この二人は、三河松平家とは一切関係ない。

二、南條範夫(なんじょうのりお)氏の見解

さて、一方、愛知県三河地方の徳川郷(とくがわごう) に残る 「松平親氏公 顕彰会」が発行する『松平氏とその史跡』、『松平太郎左衛門家 (第十六代) 信言(のぶこと) の年代覚書』を読んでみると、八代目の広忠 (ひろただ。 この人が、松平元康=家康 の父親とされる) からさかのぼって三代前の信光(のぶみつ。親氏からは6代目? ) までは、史料も豊富で合戦や築城などの活動内容も具体的だ。

だが、その前代の泰親(やすちか)そして 初代の親氏となると、突然史料の質、量とも減って、内容も曖昧になる。ところが、その前代の、松平 を名乗る前の太郎左衛門信重(たろうざえもん・のぶしげ。徳翁斉が入り婿した水女の父 ) の段になると、再び具体的になってくる。

『史疑』を元にして書かれた『三百年のベール』(批評社)という非常にすばらしい小説がある。この本の著者は、小説家の南條範夫(なんじょうのりお)氏である。南條範夫は、「有親、親氏、泰親の歿年(ぼつねん)に諸説あり、親氏はその存在すら疑わしい」と言っている。『三百年のベール』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

有親(ありちか)なる男は、いつどこで死んだか分からない。『上野人物志』では嘉吉元年京都に於いて歿す、としているし、野史に引用されているところでは、京徳元年 三河大浜 称名寺 (みかわ・おおはま・しょうみょうじ) に於いて歿したと言う。

これは老父の方だから不問に附するとしても、肝心の親氏(ちかうじ)にいたっては、更に謎に包まれていて、その歿年は、康安元年(皇紀二○二一年)から、応仁元年(同二一二七年)まで七説にも別れている。最も古いものと最も新しいものとでは百六年の差があるのだ。

一体こんな人間の存在が信じられるものだろうか。序に親氏の弟と言われる泰親と言う男も、その歿年は、永和二年から文明四年に至る各説があり、その差は九十六年もあるのだ。

<引用終了>

松永知彦です。南條氏は、村岡説に沿う形で、「親氏は存在したものの松平郷へは来ていない」と結論づけています。そして、この小説の主人公に「親氏の歿年をいっそ、のことあと百年後にもってきたらどうだろう」 と語らせて、親氏を家康の遠い祖先ではなく、実の父ではないか、との推理をさせている。これは、村岡素一郎著『史疑』にはない説であり、南條氏自身の推察だろうが、案外そうかもしれないと私も思う。

村岡氏は、家康の実父として、「下野国(しもつけのくに。今の栃木県)から流れてきた祈祷僧の江田松本坊(えだまとつもとぼう)」をあげているが、その根拠を示していない。

三、村岡素(もと)一郎氏の見解

村岡氏は、府中(東京都府中市)の 称名寺 で、江戸時代の後期に、親氏の墓が発見されたことを根拠に、親氏は三河大浜 (愛知県 碧南市 へきなんし) の称名寺には来ていない、としている。『史疑 徳川家康事績 現代語訳版』礫川全次著(批評社)から引用する。

<引用開始>

今を去る百年前、享和二年壬戌 (一八○二年) 二月、武州多摩郡府中の時宗称名寺の竹林の中から、世良田徳阿弥親氏の墓碑が発掘された。このことは、既に世間に周知のことである。

さて、その碑銘には、「世良田徳阿弥親氏、応永十四年(一四○七)四月廿日」と刻まれてあった。史伝に明記するところでは、有親、親氏の父子は相たずさえて諸国を巡歴し、のち参河(みかわ)にはいって酒井氏の養子となり、さらに松平氏の養子になったという。

ところが徳阿弥親氏が武州多摩郡府中(ふちゅう)に歿したことは、この墓の存在によっても明々白々で、争うべからざる事実である。したがって、父子が二人で参河に入国したというのは、極めて疑わしいことになる。

<引用終了>

松永知彦です。大浜(愛知県の三河湾に面している町。吉良(きら)町の西)の称名寺では、現在でも家康ゆかりの地として、親氏をはじめ、有親、親季、松平六代信忠(のぶただ)を祀(まつ)っている。松平信忠以外の三人の墓碑には、すべて「世良田」が彫り込まれている(ただし現在あるこれらの墓碑は近年新しくされた物だ)。

大浜「称名寺」(1)

大浜「称名寺」(2)本堂

大浜「称名寺」(3)同敷地内の松平家墓所、中へはいると・・・。

大浜「称名寺」(4)「世良田親氏(ちかうじ)公」の墓。右端にみえているのは「松平六代信忠公」の墓。

大浜「称名寺」(5)「世良田有親(ありちか)」の墓

大浜「称名寺」(6)「世良田親季(ちかとき?ちかすえ?)」の墓

一方、東京の府中の称名寺は、現在では、掘り出された親氏の墓碑は公開しておらず、日本史学界では、後世に造られた偽墳であるとして決着しているようだ。その根拠は、墓碑に刻まれている年号が「応永一四年」となっているが、中世ではこのような書き方はしないから、ということと、十八、九世紀当時、それこそ家柄の経歴詐称で多くの偽墳が造られた、その時の状況とよく似ている。この2点を挙げている。

だが、ほんとうにそれだけの理由で偽墳と片付けてしまってよいものか。真実は、この府中の称名寺のほうが、本物の本当の親氏(ちかうじ)の墓であり、墓碑は後年、災害かなにかで破損したために改葬されたのだ。なによりも、地中に埋められていた(人目に付かないように隠されていた?)という事実がこの墓が本物であることの証(あかし)であると私は思う。

おそらく寺社記は徳川幕府の検閲に遭って残っていない。せめて徹底的な発掘調査をすべきであると思う。

●【松平七代清康 (きよやす) 公について】

一、「森山くずれ」について

森山くずれ とは、家康の祖父とされる 清康(きよやす)が、天文(てんぶん) 四年(1535年) 十二月に、尾張(おわり)に攻め入って、尾州森山(びしゅうもりやま 。 現在の愛知県名古屋市 守山区 )に陣を構えた、この時、家臣のあいだで裏切りの噂があった老臣阿部大蔵(あべのたいぞう)の息子、弥七郎(やしちろう)によって刺し殺されたという事件だ。村岡氏は、この 森山くずれ は、松平元康=家康の 祖父の清康(きよやす)の時代の事件ではなくて、そこで刺し殺されたのは、元康その人である。

(副島隆彦注記。私の調べでは、それは、1561年12月4日。それは、織田信長が今川義元を急襲して討った桶狭間山(おけはざまやま)の戦いのあった1560年5月20日から、一年半後である)

「森山(守山。愛知県名古屋市守山区)」の位置参照

この森山崩(くず)れ で、世良田二郎三郎元信が、死んだ松平元康に入れ替わり、なりすました、と村岡素一郎は、主張している。そして、事件そのものを清康の時代に仮託してしまったのだと断定している。『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

元康(もとやす)は、この (世良田元信からの) すすめに従い、永禄四年(一五六一) 十二月四日、(副島隆彦注記。ここでの、松永知彦氏、および礫川氏の現代語訳の記述は、私、副島隆彦には不確かである。私の調査では、この12月4日が、事件のあった日である。あとで確認する)、兵一万人を率いて、尾州へむけて出陣した。ここへ美濃衆も参上した。

織田信長を清洲より誘い出して一戦と謀をめぐらし、村々や諸所に対する放火も行われた。この役に従軍したのは、安部大蔵定吉(あべのたいぞう・さだきち)、酒井左衛門忠次(さかいさえもん・ただつぐ)、大久保平右衛門忠員(おおくぼへええもん・ただかず)、その子七郎右衛門忠世(しちえもん・ただよ)、同治右衛門忠佐(はるえもん・ただすけ)などである。

これらの諸子が家康公の創業に力をつくした功臣で、ともにつぶさに辛酸をなめ、難苦を味わったことは、前々に述べた〔第六章〕とおりである。 (引用者注※)

ところが、雑書には、この時この森山で起きた「森山崩れ」を天文年間〔天文四年=一五三五〕における清康の事績としている。思うに、この事件の顛末が不祥にわたるがために、隔てた時代のことに転嫁したのであろう。
(中略)

按(あん)ずるに、岡崎の伝では、「 清康(きよやす)公は、上野(副島隆彦注記。三河の中のどのあたりに上野があるのか、分からない )の広久手(ひろくて)合戦のとき戦死され、之(これ)に依り、西三河の御一門をはじめ、御譜代衆も、面々心々(めんめんこころこころ)になりぬ」 と言われている。広久手は山の名で、上野の土地であるという。

一説には、清康公は、安祥(あんじょう) において戦死をとげられたという。安祥は、一名森山というそうである。

<引用終了>

( 注※『 三河後風土記(みかわごふどき)』によると、上記の家臣たちは、元康=家康の祖父の 清康 に従軍したことになっている。 それが本当なら、彼らはその後、約30年間、ほとんど歳をとらなかったことになる。 )

松永知彦です。上記の中で、村岡氏が引用している「岡崎の伝」というのが、今のところ確認できない。 南條範夫氏は、「岡崎古記」と表現している。が、それも確認できていない。 私は、愛知県立図書館や、岡崎市立図書館へ行って、閉架書庫 等をあたってみた。しかし、一般への閲覧ができないのか、すでに消失してしまっているのか、色々と検索しても出て来なかった。閲覧できるものの一番古いところで、大正十五年(1926年)の『岡崎市史』だったが、それには、森山くずれは当然のことながら、清康の身に起こった尾張の事件として記載されている。

また、私が「親氏公、三河入りの事実なし」の根拠にあげた、『松平由緒書(まつだいらゆいしょがき)』にも、「御子に 次郎三郎清康 尾州森山ノ御陣にて 御討死(おんうちじに) 但(ただし)阿部ノ大蔵 むほん仕(つかまつ)り候也(そろなり)」と記載されている。

もっとも『松平由緒書』は、全体でも 徳翁斉(とくおうさい)の松平郷への入郷前から大坂夏の陣(1615年)までの記載である。詳細に書き記された徳翁斉の入婿後からあとは、簡潔な箇条書き程度の記載が続くのみだ。もともとあった「先祖の事を記した巻物」に、当時、この記録の持ち主であった松平家の家老職の神谷氏の祖先のだれかが、なにかを参照して書き加えていった、と考えられる。

この「森山くずれ」で、実際に事件があった場所は、森山の地のいったいどこだったのか。『史疑』では、現在の愛知県守山区内にある「小幡(おばた)が原」である、としている。
『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

森山とは、尾張東春日井郡(ひがしかすがいぐん)の守山(もりやま)のことである。そして松平元康と、公 (世良田二郎三郎元信) らが宿陣した場所、すなわち変事があった場所とは、この守山と近接した小幡が原であった。この小幡が原は、公が初めて旗揚げした旧跡と称され、かつては、名古屋の建中寺、万松寺、相応寺の支配地に定め、厳重の保護されていたことは、よく知られている。森と守は字は違うが、「森山」は、この「守山」のことだと認めて差し支えあるまい。そして、実際の変事があったのは、守山の近くの小幡が原だったのである。

<引用終了>

野史研究家の八切止夫(やぎりとめお)氏も、同様の主張をされている。「小幡が原」は尾張徳川家によって三百年間もの間、農耕停止地とされ、先にあげた万松寺、建中寺、相応寺の輪番支配地となっていたそうだ。尾州藩史にそのような記述があるらしい。だが、なぜ、ただの草原を輪番にして、農耕停止地(つまり立ち入り禁止) にしていたのか、その理由は秘密にされていてわからないそうだ。この小幡が原は、現在では小幡緑地となって人々の憩いの場になっている。

また、八切止夫(やぎりとめお)氏は、自身の著書『家康は二人だった』において、清康(きよやす)の時代の天文年間には、信長の父である信秀(のぶひで)は、清洲城(きよすじょう)には住んでなくて、 勝幡城(しょばたじょう)から 古渡城(ふるわたりじょう)に移り住んだばかりであったそうだ。 「森山くずれ」について書かれてある本には、決まって「清康君が信秀を清洲城から誘いださんとして」と記述されている。しかし、それでは当時の状況と合わない。

また大久保彦左衛門忠孝(おおくぼ・ひこざえもん・ただたか)が書いた『三河物語(みかわものがたり)』には、「天地を響かせ四方に鉄砲をうちこみ、ときを上げさせたまう」とあるが、鉄砲伝来は天文十二年(のことなので、このことからしても、記述内容と年号の間に二十年ほどの相違がある。この事件は永禄四年(1561年)の元康殺しの事件(この頃、信長は 森山から10キロ西にある、清洲城に居た ) を天文四年(1535年)に書き換え、さらに元康を清康と書き換えてしまったものだ、と、村岡素一郎は、断定している。

私は、岡崎市や豊田市に何回か足を運んでみた。だが、清康のほんとうの戦死地に関して、手掛かりらしいものは掴めなかった。せめてその土地だけでも見てみようと思い、上野・広久手( 双方とも豊田市内 )の近辺を車で走り回った。現在の上野町は小高い丘陵地帯の住宅街で、そこから西へ3~4キロほど走ったところの広久手町も全体的に丘陵地区で、住宅や工場、商店街が立ち並んだごく普通の町の景観だった。

現在の愛知県 安城市 安城町 (あんじょうし・あんじょうちょう) にある安祥城(あんしょうじょう)跡 にも行ってきた。本丸跡は現在は、大乗寺(だいじょうじ)になっていて、二の丸跡は八幡社(はちまんしゃ)になっている。本丸跡の大乗寺の門前にある看板には、「かつては森城(もりじょう)と呼ばれていた」と書かれていた。

安祥城跡(愛知県安城市)(1)本丸跡は、現在は「大乗寺」になっている。

安祥城跡(愛知県安城市)(2)「大乗寺」門前の看板。「森城と呼ばれていた」と記されている。

同敷地内にある安城市歴史博物館にあった、安城市教育委員会発行の『安城の地名』(安城の歴史を学ぶ会―編)の348ページに興味深い記述があった。

<引用開始>

森(里町)通称 里新田(さとしんでん?)のうち森のあった所か。もっともこの地方では林や森はヤマと呼ぶのが普通である。

<引用終了>

実際に走りまわってみた豊田市の上野・広久手両町は、全体的に小高い丘陵地帯だった。かつては木々が生繁っていたとすれば、やはりこのあたりも、森(ヤマ)と呼ばれていただろう。上野町に隣接したところには「森町」という信号交差点があった。

しかし、先ほど書いたとおり、図書館等で「日本の合戦記録」の資料をあたってみても、清康が生存していた時期にこの地域で合戦があったという記録を発見できない。この件については引きつづき調査を続ける。

話が少しそれるが、この森山くずれの際、清康を刺した下手人の安倍弥七郎(あべのやひちろう)を、すぐさま切り殺したのは、家臣の植村新六郎(うえむらしんろくろう)ということになっている。ところが、この植村新六郎は、 続けて、(副島隆彦注記。十数年になるのか。)、清康の息子の松平広忠 (ひろただ 。 元康の父、すなわち一応、家康の父とされる) が、 織田方の重臣の佐久間全孝(さくまのりたか)の命令で、侍臣になりすましてもぐり込んでいた、刺客の岩松八弥(いわまつはちや) に刺し殺された時も、八弥を追い詰めてこれを切り殺している。同じ人物がふたつの手柄を立てたことになっている。

さらに、元康が信長との同盟 のために(副島隆彦注記。私、副島隆彦は、同盟説を否定する。元康にすり替わった家康は、もともと二重スパイであり今川義元の軍事スパイでありながら、本当は信長に忠誠を誓っていたであろう) 、清洲(清須)城へ 翌年(1562年)3月に訪れたときも、(このときは、すでにほんものの元康は亡く、後の家康となる世良田元信とすりかわっている)、植村新六郎(うえむらしんろくろう)は、刀を持ったまま、片時も元康から離れずに寄り添っていたという。ただし、通史ではこの時寄り添っていた家臣は、植村正勝(同一人物か?) とされている。

ちなみに南條典夫 氏によれば、 元康が清洲城へ入城しようとしたら、城門のあたりの見物人が「あれは元康どのではない」と騒ぎだし、家臣の本田平八郎忠勝(ほんだへいはちろう・ただかつ ) が慌てて大声で制した、という記録が『大成記(たいせいき)』に書かれているそうだ。

この植村新六郎とういう家臣は、すこぶる怪しい。たとえ清康、広忠、元康の3代にまつわる史料の記述が、改竄(かいざん)もしくは虚飾されていたとしても、松平家二代にまつわる不幸な事件、それも同じような暗殺事件にかかわり、信長との清洲同盟の際にも、元康にぴったりと寄り添っていたというのだ。松平氏の三代にわたる重要時の、その瞬間に必ず横に居た者だ。

おそらく、今までの史疑研究家たちも、このことには疑いを持ち、調べただろうが、資料がなくて追求できなかっただろう。私は、植村新六郎、この男の正体を解明すべく調査を続けたい。

話を元に戻す。現在の愛知県西尾市長縄(にしおし・ながなわ 前述した大浜のとなりで、こちらもほぼ三河湾に面している) にある長縄観音院 には、清康の仮墳(かりぼ)があることで、地元ではそれなりに有名だ。村岡氏が、「清康の森山くずれ」の疑惑の、本当の清康の暗殺があった地として根拠にあげているのが、「幡豆郡豊田村(はずぐん・とよたむら) 長縄観音院 の清康の仮墓 」だ。

長縄観音院「松平清康公の仮墓」(愛知県西尾市長縄町)

『史疑 現代語訳版』から引用する。

<引用開始>

(※かっこ内のふりがなは引用者)

しかも、松平清康公の墓は、三河幡豆郡豊田村の長縄観音院の境内にある。【ここは、西尾の城主、松平和泉守の領地であった】この墓が発見されたのは、今よりむかし、寛政七年乙卯 (一七九五年) 四月二十三日のことである。この発見の際、江戸政府の寺社奉行、青山下総守(あおやましもうさのかみ)に上申された文書の大要を、下に抜き書きする。

五輪石のうち、三つを掘り出したところ、何か文字が見えるので洗ってみた。しかし、はっきりとは読み取れず、色々と試したところ、清の字にも見え、その下は原の字にも見える。宗旨の御役人たちもこられて見分があり、考えられた。当院には、清康(きよやす)様の碑や御朱印〔公文書〕もあることなので、さらに土などを洗い落としてみたところ、下の字は康と読み取れ、一同恐れいった。 (中略) その後、御領主より、色々とお尋ねもあったが、御朱印を下された訳については、本寺でも一向に存じないのである。

豊田村には大河内という旧家があるが、その先祖の大河内喜平小見(おおこうちきへい・しょうけん)という者は、清康公に仕えたという。同家の言い伝えによれば、喜平は、清康公がなくなった時、森山の陣中から、御遺骸をひそかに奉持し来り、同村の観音院に仮に奉納したという。

<引用終了>

府中の称名寺の親氏の墓と同様に、ここでも墓石が埋められていたが、一体なぜ、埋められていたのか。また、なぜ寺社記になにも記されていないのか。普通に考えればそこに存在していては都合が悪いから、という解釈になる。では、清康の墓がそこにあって都合が悪い人はだれか。

いくら証拠隠滅しようとしても、実際にそこまで、主人の亡骸を運んで、仮埋葬し、供養された人々の伝承までは封じることはできない、ということだ。

私は地図で確認して分かったことだが、森山くずれが通史で言うとおり、現在の愛知県守山区の小幡が原で起きた清康の事件だとすると、敵地を迂回して現在の西尾市まで遺体を運んだというのは、その距離や地理的条件から考えにくい。このあと松平の家臣団は吉田 (現在の愛知県豊橋市) にまで逃れた、とも伝えられている。

が、いくら昔の人々はよく歩いたといっても、名古屋市守山区から西尾市、または豊橋市へ辿り着く前に、途中に、碧南市や岡崎市 (当時の岡崎城主は清康である) 安城市や豊田市松平町などいくつもの味方領地 を通り越して、わざわざさらに 何十キロも遠く離れた地まで逃れたというのか。

だから村岡氏が論じていることが正しい。村岡氏は、清康は、上野・広久手の合戦か、もしくは、安祥城の戦いで戦死したとする。そう考えると、距離的にも、地理的にも、亡くなった大将と重臣たちは大河内氏の拠点である西尾市へ、他の家臣団は豊橋市へ二手に分かれて逃れたというのは、名古屋の地元民である私としては十分納得できる。

しかし、この件については、先にも申し上げたとおり私は、『史疑』村岡説の確証をまだとれていない。だから、あくまで推測だが、それでも、清康は愛知県守山区ではなく、村岡氏の主張どおり、上野・広久手か、安祥城で戦死したと思う。

(つづく)

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