「1859」 北朝鮮建国秘史:誰が北朝鮮を作ったのか(第3回・全3回) 2019年12月11日

 副島隆彦です。今日は2019年12月11日です。

 前回からの続きです。 1930年代になると、中国共産党が強くなっていますから、満州にいた中国共産党が、朝鮮人の部隊に対しても「自分たちの言うことを聞け」と言う。そしてここでトラブルが起きる。

 延吉(えんきつ)とと図們(ずうもん)という都市がある。これは北朝鮮の国境から向こう側、満州(吉林省)です。


中朝国境の地図

 北朝鮮と中国の国境は、ずっと長くて、西の方は鴨緑江(おうりょくこう)という大きな川がずっと西に流れている。ここのちょうど端っこというか、渤海湾(ぼっかいわん)に流れ入るところに、丹東(たんとう、タントン)という都市がある。私は、12年前に、ここに行って国境のいろんな所を見て、じっと考え込みました。川の反対側は、北朝鮮で電気があまり点っていない。横断橋があった。


白頭山の地図

 鴨緑江の終わりから、東に行くと、今度は、豆満江(とうまんこう)という川があって、この川は、日本海に流れ出している。その間の山が、白頭山(はくとうさん、ペクトサン)という大きな山だ。ここらの村で、抗日の朝鮮軍と日本軍や警察隊が対立していた。金日成の一族は、「白頭(ペクト)の血」と今も呼ばれている。

 北朝鮮は共産主義国家のくせに、民族の英雄の国王がいる。「白頭(ペクト)の血なんだ」と言って、金日成以来の、今の3代目が金正恩です。2代目が金正日だった。


文在寅大統領夫妻と白頭山を訪問する金正恩委員長夫妻

 中国では、金正恩のことは「金三胖(キンサンパン)」といわれている。「金王朝の3代目のデブ」という意味です。中国人は「金三胖(キンサンパン)だ」と、金正恩のことを蔑んで呼ぶ。馬鹿にしているわけですね。「あいつらは自分たちの家来だ」と思っている。

 金日成の建国神話を語るうえで、「普天堡(ポチョンボ)襲撃事件」というのが、ものすごく大事です。普天堡(ポチョンボ)という村、いや、まあ町を襲撃した。


普天堡(ポチョンボ)の地図

 これが今でも金日成主席の大英雄の始まりといわれている戦いだ。だけど、たった2人くらい死んでいるだけだ。駐在していた日本人の警察官を殺しただけで。それだけの事件なんです。248円の現金を略奪して、そこらにあった武器とかも強奪した。

 この普天堡の襲撃事件を誰が起こしたか。これを起こした朝鮮人たちを、日本軍の討伐隊が捕まえて回った。これが普天堡襲撃事件だけど、朝鮮民族側から見たら、偉大なる戦いです。日本国政府に、独立の戦いをたいして挑んでいない。必死でやってみても、こんなもんなんですね。襲撃事件があればすぐ、追撃部隊、討伐隊が出来て、犯行者を捕まえて回った。

 「光復会」というのがこの時もあった。この「光復」という言葉を今も韓国人が使います。「光がもう一度戻ってくる」「光が復活する」ということです。

 今、日本の敗戦日8月15日は、韓国では「光復記念日」という。日本の支配が終わったということだ。1910年から1945年までの35年間の日帝支配が終わった。独立した。

 この「光復会」というのが実際にあった。普天堡事件の後に、恵山(けいざん)という町で「恵山事件」も起きている。普天堡(ポチョンボ)の襲撃事件を起こした人たちを摘発して、499人を逮捕している。

 及川正人(おいかわまさと)という日本人の警察署長が、隊長になって捕まえて回って。捕まえられた朝鮮人の活動家たちの名前付きの札を付けて。この捕まった朝鮮人たちと、その後ろに、捕まえた日本人の警察隊たちも一緒に、記念撮影をしている。これらの写真が馬鹿みたいに面白いんです。

 縄をかけられて、名前が付けられて、札が下がっているんだけど。その後ろにいるのは、捕まえた警察隊なんですね。女たちも捕まっていまして、幹部たちもかなりいる。

(これらの写真はあとで、載せる)

 そしてここに、3人目の金日成が出てきて、本名は金成柱(きんせいちゅう)というんです。金成柱(きんせいちゅう、36歳)が三人目で、この人は普天堡(ポチョンボ)襲撃事件の中にいた。他に幹部たちもいるんですけど、捕まっているか、逃げた人たちは死んでいる。

 この金成柱が、モスクワ共産主義大学に留学しています。それは例えばこのときの、 咸鏡南道(かんきょうなんどう)警察部高等科にいて、惠山事件を担当した市原(いちはら)という日本人の当時の警察幹部を、『金日成は四人いた』の著者李命英(リミョンヨン)は、探し出して、インタビューするために、合いに行っている。1970年から74、75年までかけて。日本人で当時、現地にいた人たちです。事件を目撃した、どころか、事件を処理した人たちです。

 討伐隊の隊長だった人たちに、李命英は全部インタビューして回っているんですよ。すごいんだ、この本は。だから『金日成は四人いた』は真実なんですよ。この本に証言がずーっと載っているんです。70才過ぎで、戦後、引退していた爺さんたちだから、戦前のことなんか話したくもない。急に、会いに来た、赤の他人に、話したくもない。李命英は、それでもひとりひとり、探し当てて、会いに行った。それこそ日本全国あちこち会いに行っています。 これがこの本の凄さだ。

 だから今の Wikipedia なんかでも、この李命英の『金日成は四人いた』を煙たがりながらも、絶対、この本の凄さを拒否できない。大きな真実がこの本に全て書いてある。今からでもこの本を、大事にして、日本人はみんなで読まなきゃいけない。

 この三人目の金日成である、金成柱は、そのとき36歳だ。襲撃事件を起こしたとき。ところが「惠山事件」という名前で、その前の普天堡(ポチョンボ)襲撃事件の犯人たちをいっぱい捕まえた人の中にいないんですよ。

 ボクタツという抗日朝鮮軍が幹部だった。この周りの写真、・・・これは捕まえたほうですね。日本人の警察官たちに捕まっている。こんな朝鮮半島の北の外れまで、日本政府の統治は行き届いていた。

 この三人目の本名・金成柱は、1937年11月に討伐軍によって射殺されています。100人くらいの部下たちと一緒に、食事のために休息をとっていたとき、満軍(まんぐん。満州国の軍隊)歩兵第七団という部隊に攻撃された。満州軍というけど、実質は日本軍ですね。

 その包囲襲撃を受けて、金成柱は部下8名と共に射殺された。それが『満州国軍』という本に書かれている。1937年には、3人目はもう死んでいるわけです。

 旧満州軍のヤギハルオという人の証言がある。1972年に福岡市博多のこじんまりとしたアパートにいたこの人を。李命英は訪ねている。「死体が誰であるかを確かめる首実験は私が担当しました」と、ヤギハルオがハッキリと証言している。「1937年11月13日に死亡している」と。

 このときの、金成柱という名前を、ニセ者の、「5人目の」金日成が、のちに自分で名乗って、すり替わった。

 『京城日報』の1937年11月18日付けに、「激戦五時間の末、彼を射殺した」と書いてある。

 二人目の金日成は、前回話した、金光瑞(きんこうずい)です。金光瑞(きんこうずい)は、日本の陸軍士官学校にいって、のちに、モスクワ大学に行ったけど、彼は、ソビエトに逆らって死んでいます。

 四人目が、本名が金一星(きんいっせい)といって。この人が196ページに顔写真まで載っている。


金一星

 この人は19307年の「間島(かんとう)暴動」、間島というのは東満州のことです。ここで有名な暴動事件が起きた。反乱を起こした3千人ぐらいが、日本軍に殺された。金一星は、中学生の時に、これに参加している。

 そして「東北抗日聯軍(とうほくこうにちれんぐん)」が出来た。これが抗日朝鮮軍の正しい名前です。金一星は、東北抗日聯軍の第二方面軍長の肩書を持っていた。何百人かで移動していたんでしょう。

 この四人目の金日成、すなわち本名・金一星(きんいっせい)は、写真から分かるとおり、大きなメガネをかけている。目が悪かったのだろう。

 この人は1945年にソビエトで死んでいる。理由は分からない。この人も普天堡(ポチョンボ)の襲撃事件に参加した。

 このころは、金日成という名前が朝鮮民族の英雄として、日本軍と戦う英雄として、人々の間に鳴り響いていた。

 この四人目の金日成である金一星は、1939年春から、第二方面軍として朝鮮部隊の物資調達のための決死的な襲撃作戦を繰り返していた。物資の補給が届かなければ、周りの村を襲撃して、物資を無理やり調達して、そして逃げるわけです。追い剥ぎ、山賊みたいになっていた。それでも、同族で、言葉が通じるから、民衆は彼らに食事を出しただろう。この他の抗日部隊の兵力を合わせると3000人くらいだったようだ。

 日本の軍隊で、当時、満州にいたのは関東軍(かんとんぐん)です。多いときで50万人ぐらいいた。関東軍は張鼓峰事件(ちょうこほうじけん)や、ノモンハン事件で、モンゴルとソ満国境で、ソ連軍と戦闘を交えた。それが1939年。


張鼓峰とノモンハンの位置

 1941年12月に、パールハーバー・アタック(真珠湾攻撃)がありましたが、その4年前から戦争は、中国大陸で、「日華事変」(盧溝橋事件)で、1937年7月から、始まっていた。満州は、1931年9月の「満州事変」から、日本軍が押えていた。

 満州全部を、日本が押さえていた。ロシアの支配から奪い取った。満州の西とモンゴル国との国境の、ハルハ川というところで、ノモンハン事変(じへん)が起きた。そのときは、日本軍2個師団、2万人 対 ロシア軍5万人くらいの戦いだった。後続部隊まで合わせれば5万人対5万人の大戦争をやった。日本軍が、ジューコフ将軍の 戦車軍団に、ボロ負けに負けた。1万人ぐらいの日本兵が死んでいる。そして、半年後に停戦して撤退した。

 それに対して朝鮮人の抗日運動なんていうものは、街を襲撃して、日本人の警察署長を1人か2人殺すだけだ。それ以上の力はない。この事実を今の私たち日本人が知らなきゃいけない。必死で頑張っても、そんなものだった。警察署を襲撃して殺す。そして武器を奪う。というくらいしか、朝鮮人側はできないんです。

 そうするとそれに対して、その10倍くらいの兵隊を送って、犯人探しを徹底的にやる。4人目の金日成である、眼鏡をかけていた金一星(きんいっせい)は、1940年12月にわずか20人くらいの手兵を引き連れて、ソ連領へ逃げた。その後の消息は杳(よう)として知れない、と、この本に書いています。

 そのときに討伐軍に押収されたたくさんの鉄砲、抗日朝鮮人軍、抗日聯軍(こうにちれんぐん)というんだけど、その他に重機とかが、写真に残っている。日本軍による討伐は、飛行機まで使ってやっている。このときは、梅津美治郎(うめづよしじろう、1882―1949年、67歳で死)陸軍中将(1940年に大将に昇進)が関東軍司令官をしていた。


梅津美治郎

 野副昌徳(のぞえまさのり、1887―1981年、93歳で死)司令官という、当時、有名な軍人だと思うけども、この野副に対してまで、李命英は、探し出して、直接、インタビューしている。当時日本軍で満州にいた、相当上の軍人です。最後は陸軍中将までなった。彼が討伐隊の司令官だった。1970年に李命英がインタビューしています。ノゾエはこの時82歳です。だから嘘じゃないんです。『金日成は四人いた』は、すべて、当事者の証言付きで書かれている本ですから。


野副昌徳

 当時の参謀だった北部邦雄(きたべくにお)という人が京都に住んでいて、その人も当時は70歳を過ぎていました。北部は陸軍大佐で、ビルマで活動した「光(ひかり)機関」という特務機関の機関長を務めた人物です。李命英は北部にもインタビューに行っています。

 李命英は、「お茶を入れ替えるために、部屋に入ってきた氏(北部邦雄)の婦人が、満州時代に氏が作ったアルバムとスクラップがあることを私に告げた」と書いています。だけどもう本人はボケていて、すでに記憶が鈍っていて。なんとか覚えているけれども、ハッキリしなかった、と。


北部邦雄

 李命英は、「北部氏も、写真を見て当時のことを思い出したらしく、『ああ、これが討伐の対象の一人であった、金日成だよ』と、指し示してくれた」と書いています。

 ここが大変重要なことでね。真実の金日成というは、こういう人物だったんですよ。当時の日本側から見たら、はっきり分かっていた。犯罪者として、捕まなければならなかった朝鮮人たちだ。

 このことが、日本と朝鮮、韓国との関係の真実です。日本人がこのことを知らなきゃいけない。

 『金日成は四人いた』の195ページで、討伐軍の司令官だった野副昌徳が、九州に住んでいたので、82歳だったが、会いに行っていますね。そしてインタビューをしている。

 長島村次郎(ながしまむらじろう)という、当時、憲兵曹長だった人にも、李命英はインタビューした。敗戦のときに、この四人目の金日成、すなわち、金一星 は、ソ連に連行されたまま消息を絶った、とこの長島は証言している。

 李命英は、佐渡島にいた長島氏をようやく半年あまり経って突き止めた。そして、1971年2月に佐渡島までインタビューに行った。長島氏は山中にある寒村にいて、畑仕事をしていた、と書いています。

 そうしたらこの長島氏が、「確かに自分が手に入れて、本部に届けた写真である」と。この写真は「『この人が、自分が、第二方面軍長の金日成だ』と証言してくれた」と書いています。メガネを掛けた人物です。


金一星

 だから、今の金日成は「5人目」としか言いようがない。ニセ者であり、民族の英雄ではない、日本の敗戦(1945年8月)後に、北朝鮮の建国時に現れた。この「5人目の金日成」は、1から4人目までの、本物の、抗日運動の英雄とは違う。この金日成はニセの金日成だ。1946年に、ソ連が、ある若者を、金日成に仕立てて、すり替えた。

 偽物の金日成がどのように作られたか。偽者の本名は金聖柱(キムソジョン)という。この男の上司になったのは李鐘洛(りしょうらく)という軍人だった。金聖柱は非常に素行の悪い男だった。朝鮮革命党本部に、「これまで悪いことをしたのを許してほしい」と出頭している。『金日成は四人いた』の242ページに書かれています。

 この金聖柱は、その辺りをチンピラみたいに生きていた人間だったようだ。朝鮮革命党軍の正規の軍人ではなくて、民兵です。勝手に義勇兵を名乗って動いていた人間の一人だったようです。さっきの普天堡事件にも参加していない。ところが、元気だから、自分の言うことを聞く奴だろうということで、きっと抗日革命党軍の中に入れたんですね。


普天堡で金日成が指揮して勝利したとする北朝鮮のプロパガンダ

 このときの、朝鮮革命党の幹部だった人たちがいる。この人たちの証言がある。「いや、すり替わっている」「あれは別人だ」と。「あんな奴は、見たこともない」という証言がたくさん出ている、この本に。

 朝鮮革命党の幹部だった人たちは、みんな順番に殺されちゃっているわけです。ソ連、それから、まず中国共産党に逆らうような人は、殺されてしまった。朝鮮民族が、本当にかわいそうだ、というのは、ここなんです。大きな国に逆らえない。逆らったら生きて行けない。

 そして、ニセモノの金日成なんだけど、この金聖柱が金日成に成りすまして、1945年10月の群民大会(ぐんみんたいかい)に、朝鮮の人々の前に、突然、現れた。

 日本が8月15日に、戦争に負けて、すぐにソ連軍が満州から南下して、平壌まで移動してきた。日本軍は降参して、武器を渡した。朝鮮にいた日本軍は、一旦は捕虜になるんだけど、すぐに日本に帰されたと思う。
南の韓国の方には、米軍が来ている。そして、韓国という国を、李承晩(りしようばん)たち
民族主義者に作らせた。

 金聖柱は、4人目の金日成だった金一星の部下だったようだ。そしてソ連領に入ったらしい。5年近くソ連でスパイの訓練を受けた。金聖柱は、ロシア語がよく出来た、という証言が残っている。そうじゃないと、ロシアの子分、手先として使えない。


1943年のソ連時代の金聖柱(金日成)[前列右から2人目]

 「金聖柱が金日成になりすました後、彼の邸宅で、女中をしていた小林和子も、『私は金日成主席の小間使いでした』という文の中で、金聖柱が、『日本語は片言、中国語はペラペラ、ロシア語もうまかった』と書いている」 と『金日成は四人いた』に書かれている。

 これが1945年10月に、突然、平壌に現れた金日成だ。四人目の金日成である金一星の代わりの、替え玉です。だから金聖柱は、名前が、前述した、3人目の金成柱(きんせいちゅう)と、ほとんど同じで、漢字が違うけど、ハングルでは区別がつかない。

 正式には「ソ連解放軍歓迎平壌市民大会」というんですけど、1945年10月14日のこの群衆大会に現れた。群民大会と、普通、朝鮮研究では呼ばれている。


1945年10月に初登場した金聖柱(金日成)

そこに集まっていた民衆から、どよめきが上がった。「あれは、金日成ではない。金日成将軍は、あんなに若い男ではない」と、疑問の声があがったという。

 彼は、北朝鮮の元山(げんざん)に、ウラジオストクから船で運ばれてきたらしい。その前は、モスクワにいたのだろう。 笑っちゃうのは、今の Wikipedia に、成り代わった金日成が、ロシア人の将校達と話し込んでいる写真とかが、堂々と載っていることだ。これが本当は重要だ。なぜなら顔写真入りですから。

 ここにレジェベフ少将をはじめとする、ソ連赤軍の極東軍の幹部たちが、並んでいるわけね。ソ連軍民生司令官のロマネンコ少将とか、だから、こうして、今のニセ者の民族の英雄の、金日成は、ソビエトが作った。だからソビエトそして、今のロシアに、北朝鮮問題の本当の責任がある。


ロマネンコ少将と話し込む金日成

 今の北朝鮮が、8発から20発、すでに保有すると言われる大陸間弾道弾(ICBM)の 核兵器は、実際に作ったのは、ソビエト時代から来ていたロシア人の技術者たちだ、と言われている。30人くらいが、ソビエト崩壊後も、残っている。プルトニウムを高純度化させる技術と、宇宙ロケットの、この二つを組み合わせると、核兵器ができる。ロシア人の技術者と朝鮮人の技術者が、今も、作っている。だから、プーチンは北朝鮮について、何でも知っているんですよ。そのロシア人技術者たちから、ロシアに戻った方の自分の旧友たちに、情報が来るでしょうから。

 北朝鮮建国後、「5人目の」金日成(本名、金聖柱)は、自分に反対する連中が、北朝鮮政府の中にいたので、その者たちを、口封じで、殺して、自分の英雄神話を作っていった。そしてロシアの後押しで、独裁者になっていった。

 この後は、その5年後の、1950年6月25日に勃発した、朝鮮戦争の始まりだ。始めたのは、スターリンの命令だ。このとき、朝鮮人民軍というのが既に何万人か出来ていた。この軍隊が、38度線を越えて一気に南側に侵攻してきた。これは明らかにソビエトの命令だ。

 北朝鮮軍が一気に38度線を越えてきた。ソウルには、米軍が進駐していた。日本が負けたに米軍が来た。そして38度線で睨み合いをしていたところに、北朝鮮軍が一気に攻め込んできた。米軍と韓国軍は、どんどん退却して、一気にずーっと南の、釜山(プサン)にまで撤退していった。


朝鮮戦争の経過をたどる地図

 釜山だけは、陥落させなかった。アメリカ軍が大砲をずーっと並べて必死で、打ちまくって釜山を守った。空からの爆撃もした。あとすこしで釜山も危なかった。そうしておいて、今度は横っ腹をつくように、 マッカーサーが、仁川(インチョン)、今の仁川空港のあるところの、浅瀬のところに、一気に、仁川上陸作戦で米軍が上陸して、マッカーサーも乗り込んできて勝った。


仁川上陸作戦を視察するマッカーサー

 今度は、慌てふためいた北朝鮮軍が、北の方にずーっと逃げていった。逃げ遅れた連中は捕虜になるか死ぬかどっちかです。この後が大事で、ここらを歴史の本が、いい加減にしてある。

 アメリカが、米軍の正史としても、いい加減にしてあるのは、9月から後、マッカーサーが調子に乗ったんですよ。アメリカでもの凄く人気が出て、英雄になった。この仁川上陸作戦が成功してマッカーサーの人気がアメリカ国内で沸騰した。

 マッカーサーは、すぐにソウルを奪還した。ソウルを奪還したら、調子に乗って、そのまま38度線を越して、平壌も占領した。このときに、マックが、「おい出っ歯の金よ。オレを歓迎に来ないのか」と言った。

 調子に乗って、さらに、10月に入ったら、韓国軍を先頭に立てて、進軍を続けて、鴨緑江(おうりょくこう)のところまで来ちゃった。韓国軍は鴨緑江を越したんですよ。米軍の一部分も、斥候部隊(スカウトプラツーン)は越したと思う。マッカーサーが調子に乗って満州まで攻め込もうとした。そして、満州まで占領しようとした。

 そこへ、待ち構えていたように、毛沢東の、人民解放軍じゃなくて、「人民志願軍(抗美援朝義勇軍)」の名前で、一気に20万兵ぐらいで、攻め込んできたんです。この後が大変でした。

 9月に、マッカーサーはアメリカ国内で、「次の大統領だ」と言われるくらい大人気が出ていた。ところが調子に乗って、北朝鮮の国境を越えて、満州まで攻め込んだら、一気に中国軍が攻めてきて。ボロ負けに負けたんです。米軍は2万人くらい死んだと思う。命からがら、米軍は逃げたらしい。総崩れになった。このとき、アメリカ軍の将軍もたくさん死んだ。

 『慕情』(Love Is a Many-Splendored Thing、1955年、102分、アメリカ、監督:ヘンリー・キング、出演:ジェニファー・ジョーンズ)という有名な映画がありますが、香港で女医さんをやっている、旦那が死んだ女医さんと知り合ったアメリカ人の特派員、従軍記者が、この時の戦いで死んでいる。

 これがアメリカ軍にとっては恥ずかしいことで。今でも、正確に、書いていない。敗戦だったと、書いていない。ものすごく米兵が死んでいるんですよ。将軍たちまで。この事実を、今も隠したくてしょうがない。

 ここのところを、もっと、私は、真実をほじくらないといけないんです。今度は、もう1回、韓国軍と米軍は、押し戻されて、いや逃げて帰ってきて、38度線のところで対峙し合って、その後は休戦協定になる。すぐ南にあるソウルを必死で守った。

 それで開戦から丁度1年後の、1951年6月に、朝鮮戦争は「停戦」した。それから2年かけて、1953年に「休戦協定」を結んだ。そして今の状態になった。まだ平和条約(すなわち、戦争終結条約)は結ばれていない。このことが大事なのね。


休戦協定署名の様子

 米軍に攻め返されたとき、金日成は、朝鮮軍の最高司令官なんだけど、平壌を脱出して中国の通化(つうか)に逃げ出して。威張っているだけですね。こうなったらね。

 この1950年は、まだ中国共産党も、ソビエトに頭が上がらない。毛沢東もスターリンの言うことを聞かなければいけなかった。兵器の力とかでも。ソビエトのほうが、ドイツと世界的な戦争をやったわけですから。やはりソビエトのスターリンが、一番のワルで、最大の責任者だ。

 このことも言わなきゃいけないし、この頃の、ソ連の強硬な態度を、日本の反共主義者たちが、今の安倍晋三たちまで、死ぬほど嫌いだというのは、この辺りのソビエト・ロシアの態度の取り方の悪さの問題だ。

 インチキの偽物の金日成、を作ったのも、ソ連ですから。ソ連の責任は大きいと思う。今の北朝鮮は、中国じゃなくて、ソ連が作ったんだ、ということが、今日の私の結論になります。スターリンと、その下にいた残忍な残酷な秘密警察長官だった、KGBの長官であった、ベリヤ(Lavrentiy Beria、1899-1953年、54歳で死)という残酷な男が、ふたりで、東アジア(極東)での、戦争の開始も決めたのだ。


スターリン(右)とベリヤ

 ベリヤが、「この男でいい。こいつにしよう」と言って、金聖柱を、金日成に決めたらしい。それが現在に至るまでの悲劇を作っている。

 北朝鮮の歴史の真実が、これで、大きく分かったでしょう。急に途切れる感じですが、これで終わりにします。私の話すエネルギーが切れました。

(終わり)

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