「1856」 北朝鮮建国秘史:誰が北朝鮮を作ったのか(第2回・全3回) 2019年11月13日
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副島隆彦です。今日は2019年11月13日です。
初代朝鮮総督の寺内正毅(てらうちまさたけ、1852-1919年、)は、本当に残虐で、ろくでもない奴です。伊藤博文を、イギリスの命令で殺した山県有朋(やまがたありとも)の忠実な子分です。
山県の一の子分だった、桂太郎(かつらたろう)よりも、この寺内正毅の方が、ずっと、悪人だ。
寺内が、景福宮(けいふくきゅう)という王宮があって、その手前に朝鮮総督府のバカでかい建物を作った。
寺内正毅
1907年から、朝鮮で反日本運動が沸き起こる。この時期に、一人目の金日成に相当する人物が出てきている。本名を金昌希(きんしょうき)という。『金日成は四人いた』の一人目です。この人は1926年頃に死んでいる。
この人は今の朝鮮史を語る上で、非常に重要です。朝鮮人たちが反日本を叫んで大きな抗議運動をやった。これは万歳運動ともいうんだけど、普通は、三・一独立運動という。三・一独立運動は1919年です。
三・一独立運動の様子
1919年は、朝鮮併合されて9年経っています。この三・一独立運動が、今でも最も重要な、朝鮮人たちの反日本運動です。このとき、たくさんの人が捕まっています。おそらく1000人や2000人の朝鮮人が殺された。
そのときに、この一人目の金昌希(きんしょうき)という人が、白頭山(はくとうざん、ペクトサン)のあたりで抗日の義勇軍を作った。この運動を、自分だけで作ったわけではなくて、そこに何百人かの人たちが集まった。朝鮮と満州との国境にある大きな山なんですが、その辺りで、粗末な銃とかなんとかを自分たちで集めた。
それで何をやったかというと、日本の警察署を襲撃するんです。彼の周りにいた、参加した連中と一緒に捕まったけど、金昌希は、警察署から脱出に成功した。その記録が残っていて、そのときの日本人の警察署長は猿渡(さるわたり)という人だった。その現地の竝川(ナミカワ)警察署の看守に捕まっていた記録が残っている。その後はもうわからないんです。金昌希(きんしょうき)は、1926年頃に死んでいる。
なぜ1919年に朝鮮半島で反日の激しい独立運動が起こったのか。激しい反日感情が沸き起こった。それは、日本式の神社を朝鮮人に押し付けた。自分たちは小作農として激しい労働をさせられるわけです。日本の本土だって、北海道だって、どこだって、寄生大地主制度というんだけど、 土地の売買が自由になったら、大金持ちたちがどんどん大きな土地を買って買い占めるわけね。
そこの小作になった人たちが、小作争議を起こす。あまりにも過酷な労働をさせられてね。そうして出来た農産物を半分以上、7割とか、取り上げられるんです。ようやく生き延びられる程度の厳しい状況だったから。
有島武郎
だから有島武郎(ありしまたけお、1878-1923年、45歳で死)とか、レフ・トルストイ(Lev Nikolayevich Tolstoy、1828-1910年、82歳で死)に、わざわざ会いに行った本名、徳富健次郎(とくとみけんじろう)、徳富蘆花(とくとみろか、1868-1927年、58歳で死)は、今の世田谷区に蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん)として残っています。そこで農民たちに農地を解放して、集団農場運動を始めた。小作、農民をいじめるのはやめよう、という運動でした。
レフ・トルストイ
徳富蘆花
有島武郎(ありしまたけお)は偉かった。自分のお父さんが横浜税関長の官僚で、出世して一代で、きっと賄賂を貿易商たちや外国からも貰って、一所懸命買い集めた北海道の大きな土地が、洞爺湖(とうやこ)の近くあたりに有った。それを、息子の有島武郎は、その大きな土地を農民に解放した。
そうすると日本国政府からものすごく睨まれた。殴られはしないけど。農民たちは、捕まって殴られたれたようだ。でもそれから25年経ったら、結局、農地解放になった。1945年に日本が負けてマッカーサーが日本を占領した。
そのときに、自作農創設特別措置法(じさくのうそうせつとくべつそちほう、自作農の創設を目的とし、合わせて農地・未墾地などの買収・売渡しの要件、手続などを定めた法律。1946年に制定。1952年廃止)という法律を、占領軍政府が、作って、一気に日本全国の小作人たちに、農地を一人一町歩 (約1ha)ずつあげた。四人の家族だったら、約4haもらった。
自分が耕作していた土地だから、そのままもらえた。これで日本が保守化した。百姓たちが健全化した。そして今の自由民主党体制を支える、穏やかな農民層に成長していった。
そのとき、既成大地主制度を作っていたのが、日本の華族制度です。華族様たちと、それから財閥です。三井、住友、安田、三菱たちだ。華族制廃止と、財閥解体というのを、占領軍政府はやった。財閥解体は、残酷で遅れた国の制度である大地主制度を廃止することと表裏(ひょうり)一体だった。これが極めて優れた政策だった。
私はやはり、有島武郎と徳富蘆花は、ものすごく偉かったと思う。時代に早駈けて、正しいことをやった。有島は、このあと新聞記者の女性と自殺します。有島を自分の後継者だと思っていた、日本を代表するキリスト教徒の内村鑑三(うちむらかんぞう)は、この自殺(心中)に、激しく怒った。
どうせ25年後には、みんな奪い取られたわけですから、大地主たちは。今でも私の周りでも、「ウチは大きな土地の地主だった」とか「土地をみんな、農地改革で取られた」とかいうのが、私の周りの友人たちにもいましたね。昔は、ウチは金持ちだった、と威張りたいのが人間なんですね。だけどあんなものは、歴史の運命で、当然の結果だ。
私はトルストイというロシアの大作家が、本当は、この人はロシア革命に参加してもおかしくないような改革派で、貴族だった、自分の広大な農地を、モスクワの南の方の広大な農地、ヤースナヤ・ポリャーナを、農地解放しちゃったんですよ、自分だけ。1890年くらいに。
そうしたら、自分の奥さんの、同じく貴族の出身の奥様が、怒り狂って「私の財産を、なんてことするの、あなたは」と言って、茶碗とか投げ散らかしたんですよ。トルストイに向かって。
私はこのトルストイの奥様の貴族女は馬鹿だったと思う。長女は、お父さんのトルストイの味方をする。そして周りに、考えに賛同する人たちが、たくさんヨーロッパ中から集まってきて。集団農場運動を始めた。
トルストイの農場の様子
その時すでに1900年には、トルストイは世界的大知識人ですから、徳富蘆花は会いに行ったんです。 そうしたら「トクトミ。日本の農民を大事にしなさい」と言われた。まあそれだけのことなんですけどね。1時間かそこら会っただけだろう。蘆花は、数日泊まって帰ってきたと思うけど。徳冨蘆花は、同時代で、世界に繋がっていた知識人です。
徳富蘆花のお兄さんの徳富蘇峰(とくとみそほう、1863-1957年、94歳で死)は、言論人だけと、時代の合わせることばかりやった。生き方上手の人です。民権時代は民権を、戦争時代は戦争賛美を。『國民新聞』という新聞を出して、学生の頃から熱海に住んで、言論雑誌を自分で出して成功して、自力で一流言論人の金持ち言論人に成り上がった男です。
兄の徳富蘇峰はそんなに偉くない。その弟の蘆花は、本気で苦しんだ、真面目な男だった。小説家ですけどね。日本の農地改革の話はこれくらいにします。
一人目の金日成である、金昌希(きんしょうき)、この人は1919年の三・一運動のときの盛り上がりを背景に出来た独立武装闘争を始めた最初の人です。
「義兵(ぎへい)」といいます。「義勇軍」の「義」の兵隊です。これが朝鮮人の、初めての抗日闘争です。日本に抵抗する闘争の遊撃隊の中に入っていた人だ。この人は1926年くらいには死んでいます。1888年生まれです。
何で1919年に朝鮮人が反日で暴れだしたか、というと、パリでヴェルサイユ条約が、1919年にできたことが理由ですね。ドイツが負けたわけですけど。第一次世界対戦でドイツが負けた。
ヴェルサイユ講和会議の様子
それをフランスやらロシアやらイギリスやら、みんな集まって。日本も東洋の代表で、代表団を送った。そして会議で、ドイツに巨額の賠償金をかけた。このおかげで、その24年後に、ヒトラー政権ができて、ドイツ人がもう一回、戦争を起こした。それが第二次世界大戦です。
このパリのヴェルサイユ条約で、日本帝国の朝鮮支配が認められた。日本は西園寺公望(さいおんじきんもち、1849年-1940年)と牧野伸顕が全権代表です。
日本全権団(左から牧野伸顕、西園寺公望、珍田捨巳)
第一次世界大戦のときは、日本は火事場泥棒をやっている。ドイツが持っていた、中国の膠州湾(こうしゅうわん)を攻撃しています。青島(チンタオ)があるところです。山東(シャントン)省です。
そこを日本が奪い取った。あとサイパンを奪い取った。それから南洋のパラオとかあの辺も、ハンザ同盟以来のドイツの軍艦が来て、植民地支配をしていたんです。
日本が奪った権益
山東(シャントン)半島の膠州湾、青島、とかを、火事場泥棒をしたんです。それをベルサイユ会議が、条約で、認めたんですよ。ヴェルサイユ条約体制ができました。それに怒った、朝鮮民族が。
その前の1904年、05年の日露戦争で日本は勝っていますから。ロシアが一所懸命、シベリア鉄道を作って、ずーっと遼東(リャオトン)半島にまで来て、 今の旅順に港を作って、軍港にしていた。
満州の地図
ロシアが、旅順の東側20キロにある、大連(だいれん、ターリャン)にも都市を作った。ウラジオストクとナホトカも、出来ていたでしょう。ロシアが極東にまで勢力を広げていた。
それを、日本がイギリスの裏からの支援(本当は命令)をもらって、なんとか防ぎ止めたた。この日露戦争の講和(こうわ。戦争終結のこと)であるポーツマス条約で、朝鮮の支配と、南(みなみ)満州鉄道というのをロシアから割譲された。今の長春(ちょうしゅん)、ここが満州帝国の首都だった新京(しんきょう)です。今の中国では、偽(ぎ)満州国 と 言います。
ここからハルビンまで北に600kmくらいかな。ずっと繋がっているんですよ。ハルビン、長春、 瀋陽(しんよう)。この瀋陽が、日本占領時代には、奉天(ほうてん)だ。今の長春は、日本が作った満州帝国の首都で新京(しんきょう)です。
新京の30 kmくらいの外れに「731部隊」の、細菌やら毒ガスやらで満州人、中国人、捕虜をたくさん殺した、日本の研究所、実験場の建物があるんです。私はそこにも行きました。まあ、1万人くらい、人体実験で殺したんでしょうね。
七三一部隊の建物
日本では高田馬場の、早稲田大学に行く途中、それよりも南の、戸山高校の方に、トヤマ・ハイツという、米軍が占領したら「ハイツ」にしたんだけど、そこが同じく七三一部隊の実験場だった。そこでもやはり捕虜を捕まえてきて、たくさん、生体、生きたままバイ菌を埋め込んだり殺したりしたはずです。実験に使っていた。それが東京帝国大学医学部の医者たちが軍医になって、やったんです。
1919年の三・一運動で抗日義勇軍という考え方が朝鮮人たちに、生まれて戦いが始まるんだけど、勝てるわけがない。
日本が朝鮮半島のすべての大きな都市に日本の政府の役所を置いた。そして警察署も置いている。抗日義勇軍はその警察署を、時々、襲撃した。
良くて一人か二人を殺して、 その辺の銃とか金目の物を奪って逃げるんだけど。そうすると日本政府による討伐隊が組織されます。そして大体、捕まる。そして処刑された。日本の警察隊がずっと捕まえて回るわけです。
先に捕まってしゃべる人たちがいるから、逃げている連中の居場所が分かるから、日本の警察と軍隊が、山の中までずっと追いかけていったわけです。それで大体、全部捕まるんですね。
二人目の金日成は、「金光瑞(きんこうずい)」というんです。この人は日本の市ヶ谷にあった陸軍士官学校の卒業生なんです。
金光瑞
これも真実だ。この金光瑞は、キム・カンソンという韓国語読みをします。第23期、1911年の卒業生の中に金光瑞(きんこうずい)がいる。大体これが事実でしょう。
後の韓国の大統領、朴正煕(ぼくせいき、パクチョンヒ、1917-1979年、61歳で死)や、李周一(りしゅういち、イチュイル、1918-2002年、83歳で死)という大将たちも日本の陸軍士官学校を出ている。
朴正煕
陸軍士官学校が在ったのは、今の防衛庁の場所です。市ヶ谷です。あそこが戦争中は、大本営(だいほんえい)にもなっているわけね。明治時代からずっと陸軍士官学校だった。そこには朝鮮人や中国人もかなり来ていて。それが1911年の中国の辛亥革命(しんがいかくめい)をやったんです。
辛亥革命では、革命軍は新しい軍、と書いて「新軍」というんだけど、まったく日本の陸軍の制服と同じ格好をしていて、同じ装備で、同じ武器を持っていた。その人たちが、形の上では孫文(そんぶん、1866-1925年、58歳で死)が一番上の、中国で辛亥革命を起こして、清帝国を滅ぼしたんですね。だから、朝鮮半島と同じような感じで、日本の影響が非常に強いんです。
孫文
金光瑞は日本陸軍の騎兵中尉になったらしい。写真が残っている。彼は、やがて抗日運動に参加していった。そしてやはり死んだでしょう。はっきりしないのは、彼は、武器調達のためにソ連領に入った、と。満州を越えてさらにソ連のほうまで行って、その後の行方が分からない、ということです。
この金光瑞(きんこうずい)が二人目の金日成だというのは、事実でしょう。この人はソビエト赤軍の下で、それに従って戦うことに逆らったらしい。ソビエト共産主義の運動に、時代はもうなっているわけですからね。1917年のレーニン革命、十月革命の後はね。
1921年11月17日付の東亜日報に金光瑞の死亡記事が出ている。これが事実でしょう。
『金日成は四人いた』を書いた李命英(りめいえい)という人は、韓国の大変優れた知識人で、ソウル大学の政治学科を出て、京郷(けいきょう)新聞とか中央日報の論説員を務めた。
李命英
この人は『金日成は四人いた』の復刊本が成甲書房で出たその年に死んでいます。1928年生まれで、72歳の2000年に死んだ。この年代の人たちは、日本語ができたはずです。
私がこの本を、成甲書房の田中亮介社長の目の前で「これ貸してください」と言って借りてきちゃったのが5年くらい前。返す気がないんですけれども。
今Amazonで、見てみたら、8500円とかで売っています。他にもう無いんです。2000年の復刻版でさえそうなんですから、貴重な本です。
私はそのとき、田中亮介社長に「『金日成は四人いた』という本を書いた人がいますよね」と言って、書棚を見たら、有って、社長から渡されて、「あ、これだ」と思って、そのまま私は持ってきた。その前には恵谷治(えやおさむ、1949-2018年、69歳で死)という人が、似たようなことを言っていた。
恵谷治
この人も最近、2018年に死んでいます。こいつは、でも、最近よく分かったけど、この人は日本の公安警察です。その中の外事警察官です。つまり日本国政府の情報部員で、北朝鮮のことをよく調べている人で、『金日成の真実―英雄伝説「1912年~1945年」を踏査する』(惠谷治著、毎日新聞社刊、1993年)という本とか、いっぱい書いているだけれど。どうも怪しい。私は、もう今はこの恵谷治を認めません。
本当に優れている本は、この『金日成は四人いた』のほうだ。これを、恵谷治は無視して、勝手に内容泥棒して、自分の本を書いていますからね。それが私は気に入らない。日本の朝鮮や韓国の研究者には、こういう、国家情報部員とかがいる。研究者と名乗っていますが、おかしなのがいっぱいいてね。だから歪んでいるんです。私はそれが嫌いなんだ。
やはり李命英の本、これだけが唯一優れている。
この他に、長年、北朝鮮の肩をもってきた、馬鹿な東大教授で、和田春樹(わだはるき、1938年―、81歳)というのがいるんです。もうすぐ死ぬと思うけど。
和田春樹
こいつが、東大教授で、左翼そのもので、北朝鮮の肩を持ち続けた変な学者です。よくテレビに出ていました。その後、テレビ局や産経新聞から「ウソばっかり書いた学者」として、バンバン叩かれました。最近ほとんど出てこなくなったけど、やはり和田春樹はいかんかった、彼の研究は。彼が書いた、金日成のことが、そのまま北朝鮮・建国の歴史ですから。日本のリベラル派と反(はん)自民党の知識層は、こういう人の、嘘をそのまま真実だ、と信じ込んで来た。立派そうに見える本でした。
やはりいかんかった。それ以外に日本人の言論人や学者で、こういうのが、2、30人いますけれども。そのうち、まとめて話します。
1923年7月29日の東亜日報に、なんと、この「二人目の金日成」である金光瑞(きんこうずい)の素晴らしい姿が載っていたらしいんだ。本人へのインタビューがあって。白い馬にまたがって、日本軍と戦っている英雄として描かれているんですよ。彼は、やがてソビエト赤軍の指揮下に入りたくない、と言って、逆らったらしい。そしておそらくソビエトで、殺されたんだと思います。
このときから、この白馬にまたがって疾風怒涛(しっぷうどとう)の如く駆け抜ける英雄、という神話が朝鮮民族の中に生まれていった。そして、あとに出てくる、ソビエトが、育てて、連れ帰ってきた、若者で、5人目に当たる 青年が、インチキの金日成(本名、金聖柱、きんせいちゅう)だ。その息子が、金正日、そして、今の、孫の金正恩(きむじょんうん)に繋(つな)がっている。だから、今の北朝鮮の金(キム)王朝を作ったのは、ソビエト・ロシアだ。中国ではない。
このことが非常に大事だ。このことについては、例えば日本人で鎌田沢一郎(かまたたくいちろう、1894-1979年、85歳で死)という人が、『朝鮮新話』(1950年)という本を書いている。その中で宇垣一成大将(うがきかずしげ、1868-1956年、87歳で死)という、日本の陸軍軍人の最高幹部の一人ですが、朝鮮総督として赴任した時、「金日成による抗日闘争」というのを取り上げた。日本政府として、金日成をきちんと捉(とら)えていたわけね。
宇垣一成
反満州抗日軍を指揮していた、っと。ここが複雑なんですけど。彼らは、お尋ね者になります。日本の警察署を襲撃すると大規模な捜索をされるので、国境線を越えて満州に逃げるわけです。さらにロシア領までも逃げる。
満州も日本の力が強くなっているわけで、日露戦争の後は。日露戦争で1905年に日本が勝ったから、朝鮮を併合した。1919年のヴェルサイユ条約でもそれが認められた。
張作霖
それまでは、日本軍も満州を自由には動けないんですね。そこに張作霖(ちょうさくりん、1875-1928年、53歳で死)というのが、満州王のように存在した。この馬賊の少年だった張作霖は、日本人との合いの子の少年でした。日本語が出来た。この張作霖を、山県有朋そして、寺内正毅の忠実なの子分の、長州閥の、田中義一(たなかぎいち、1864-1929年、65歳)が、操って、満州王に仕立てた。田中義一も、実にワルい政治家だった。
田中義一
だけど1928年になると、「もういらない」となった。その前は、張作霖が、満州だけでなく北京まで占領していたんだけど、孫文の北伐(ほくばつ)に追われて、北京から逃げ出した。そして自分の満州に逃げて帰ってくる途中に、列車ごと爆殺された。「満州某大事件」と呼ばれた。日本軍がやった。もう、お前は用済みで、いらない、と。
この張作霖の息子の張学良(ちょうがくりょう、1901-2001年、101歳で死)という人は、中国でも有名だ。中国人は、知っています。父親の張作霖のことは、中国人は知らない。息子の張学良は、国民党で、中国全体を支配した蒋介石(しょうかいせき)に忠実だったのに、親分の蒋介石を捕まえた(西安=シーアン=事件)。その理由は、中国共産党と中国国民党とで「抗日統一戦線」というんですけど、「国共合作」といいます。これをやれ、ということだった。
張学良
中国国民党と中国共産党に、合作せよ、協力しあって日本軍の侵略と戦え、という上からの命令なんです。上から命令したのは、アメリカなんですね。アメリカとイギリスです。
だから毛沢東や周恩来に対しても、アメリカが軍事支援をしていた。毛沢東は、大長征という、南の湖南省から、延々と北に逃げてきて延安(えんあん)に立てこもっていた。この延安にも、アメリカの下院議員団とか入っています。
日本政府は、昭和天皇の命令で、1944年に、戦争も負けがひどくなっているのに、インパール作戦というのをやった。インドのインパールとかコヒマとか、あの辺を、何と無謀にも、インドの山奥まで日本軍が攻めていった。
援蒋ルート
「援蒋(えんしょう)ルート」というのがあって、蒋介石を支援するわけね。援蒋ルートというのがずっとあって。 イギリス軍がインドのほうからずっと、山の中を、ものすごい、山の中の道を切り開いて。曲がりくねった、ものすごいジャングルの中の道を切り開いて、重慶(じゅうけい)に逃げていた蒋介石を助けるんですね。
そのために物資の輸送路がある。それを日本の昭和天皇も裁断を下して、インパール作戦をやらせる。
それが地獄の戦いになって、日本軍がボロ負けに負けて、「白骨街道」といって白い骨の街道で、日本人の兵隊の死体がごろごろ転がって、カラスに食べられるところを生き残った日本人たちが必死で、4ヶ月くらいのことなんだけど逃げた。3万人ぐらい日本兵が死んだ。それからあとの半年で。生き残った人は、1割くらいいたのかな。将校とか、師団本部は、先に自分たちだけ逃げた。そういう激しい戦いだった。
第二次世界対戦は、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド攻めで始まっていたんだけど、その2年後の1941年12月が、真珠湾攻撃だ。これも、大きくは、アメリカの策略にひっかっかって、日本の外務省(重光葵、しげみつまもる)や軍人のトップ(海軍大臣、米内光政、よないみつまさ )たちを、アメリカに取られていたから、やらされたのだ。
1941年12月8日の日本軍の、12月7日なんだけど、日本では8日未明のパールハーバーで、2400人くらいが戦死した。パール・ハーバー・アタック(Pearl Harbor Attack) は、アメリカから見れば、スニーク・アタック(sneak attack)といって、背中にナイフを突き立てた、みたいに言われるんですけど、本当はローズベルト大統領たちは計算していて、最初から知っていた、どころか、やらせたんですけどね。
ただ、日本軍の攻撃が、アメリカ(仕組んだ、ルーズベルト大統領たち)の予想を超えた、という問題があったらしい。日本軍の零戦の攻撃隊が予想よりも強くて、ハワイ守備隊の司令官の、キンメル将軍の真珠湾の部隊に、何も知らせないで、日本軍が、米戦艦をたくさん撃沈した。
本当は日本海軍が、第二波攻撃で、その時は、野積みになっていた、米軍の弾薬を、爆撃すれば、半年、一年はアメリカは立ち直れなかったはずなのに、それはやらなかった。「なんで、第二派は、無いんだ。なおかしいなあ」と言いながら、第二波攻撃用の零戦部隊のパイロットたちが言い合っていた。
本当は、さっさとパナマ運河を、奇襲して、さっさと破壊すべきだった。そうしたら、アメリカの機動部隊(空母艦隊)が、太平洋に出てこれなかった。 それなにも、おかしなことに、インドネシアや、ガダルカナルとかポートモレスビーを攻略する、とかで、南のニューギニア戦線になんか、日本軍は行ってしまって。おかしいんだ。どうも、大きく仕組まれていた。
だから山本五十六(やまもといそろく、1884-1943年、59歳で死)元帥、連合艦隊司令長官以下、怪しい。源田実(げんだみのる、1904-1981904-1989年、84歳で死)という航空隊の隊長とか、アメリカと繋がっていたんだな。全部が大きく繋がってましてね。
張作霖の話に戻すと、満州王ですからね。日本が育てた傀儡の王だけど、日本に逆らうようになったから、殺したんですね。彼を殺した、その3年後の1931年9月18日に、 柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)というのがあって、同じように瀋陽、奉天の外れの、柳条湖という、チェックポイントだと思う、鉄道の、線路の、そのところで鉄道を爆破した。
「日華事変」という言葉で習うのが1937年7月1日の、盧溝橋、ろこうきょう。マルコ・ポーロ橋という意味なんだけど、、このとき、日本軍が、すでに北京の周辺に、10個師団(10万人)くらい、いつのまにか、いたのね。
そして、それを、中国国民党軍が先に発砲した、というのを言いがかりにして、「日華事変」、つまり日中戦争が本格的に始まった。
今の世界史上は、満州事変のほう、1931年から1945年の日本の敗戦までの15年間を、「十五年戦争」「日中十五年戦争」といいます。日華事変は、その6年後ですからね。1937年、マルコ・ポーロ橋事件。
向こうが鉄砲の弾を撃ってきた、とかいうのを理由に、それで戦争が始まったんです。国民党の中に潜り込んでいた、劉少奇たち、共産主義者が、先に発砲したのだ、とか。 何で日本軍が北京の周辺にいつのまに10万人もいたのか、という問題は、日本の右翼、保守派の歴史好きたちは、語ろうとしませんね。
それは、1900年ちょうどの、「義和団(ぎわだん)の変」のときに。 義和団というのは、英語でボクサー Boxer といって、ボクシングみたいなことをしている、拳闘士で、拳闘術をやっている民衆なんです。中国民衆の外国勢力への、反乱です。
これが暴れだして、「外国人を排撃せよ」と言って、義和団が暴れだして。イギリス、フランス、ドイツ、アメリカや、八カ国の公使たちが、震えながら紫禁城(しきんじょう、王宮)に立てこもるんです。そのときに唯一守る軍隊が、1000人くらい日本軍がいた。これが強かった。各国軍隊も200、300人ずつはいたと思いますけどね。
その後、日本軍は駐屯が認められるんです。それが、どんどん、ジワジワと増えた。それが日本軍の中国侵略なんですね。この辺のところも、日本知識人たちがハッキリ言おうとしない。いつのまにか10個師団も北京の辺りにいて。いつのまにか上海にも上陸していて。いつのまにか中国の都市にいた。それはその前にドイツ領であった膠州湾の青島(チンタオ)とか占領していますからね日本がね。既に上陸しているんですよ。でも正式の戦争の始まりは1931年なのね。
この二人目の、金光瑞(きんこうずい)という、二人目の金日成が白馬にまたがって、民族の英雄だ、というのが、朝鮮民族の中に、希望と光として神話が出来上がったんですよ。これを利用していく。
ただ朝鮮人の独立軍とソビエトが嫌がりだしたんですね。「共産主義者になれ」と言って、ソビエトの手先としての朝鮮人の部隊である、というふうに言ったものだから。だから、この金光瑞も1931年くらいにロシアで死んでいる。と、著者の李命英は書いています。
三人目の金日成である、金正柱(きんせいちゅう)が出てくるのが、間島(カントウ)地方、東満州のことを間島(カントウ)地方というんだけど、ここを活動拠点とする抗日パルチザンの運動が起きているわけね。
義勇兵ですから、政治活動家として死ぬのを覚悟で参加していった人たちでしょう。これを共産匪賊(きょうさんひぞく)とか、朝鮮匪賊(ひぞく)といいます。匪賊(ひぞく)という言葉は、不逞(ふてい)の輩(やから)というか、自分達、日本の素晴らしい支配に逆らう不良ども、という意味なんですけどね。
この人たちの運動が連綿として続くわけです。今でいえばテロリスト扱いです。「間島パルチザンの歌」という歌が日本で流行った。日本の共産主義者たち左翼たちのあいだで。
日本人が作った歌で、
「いま長白の嶺を越えて
革命の進軍歌を全世界に響かせる」
・間島パルチザンの歌
https://www.aozora.gr.jp/cards/001585/files/53190_54411.html
とかいう歌なんですけど。 日本人の、槇村浩(うえむらひろし)というペンネームで、「プロレタリア文学」という雑誌に載った。
「朝鮮人民革命党」とかいうのを、今の北朝鮮政府は勝手にでっち上げまして、そんなものはないんです。そこで金日成将軍が、自分たちの民族の英雄が、白馬にまたがって戦っていた、という神話を作った。これが色々事実と合わないんです。真実じゃないから。どうも下っ端の、一番下っ端の兵隊だったらしい。いたことはいた、らしいんですけど。
1932年に、内部に潜り込んできたスパイを摘発する。という「民生団事件」というのが起きているけども、これは些末だから、もういいです。
(続く)
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