「1854」 北朝鮮建国秘史:誰が北朝鮮を作ったのか(第1回・全3回) 2019年10月23日

 副島隆彦です。今日は2019年10月23日です。

 今日から、北朝鮮の歴史を、日本人が大きく理解するにはどうしたらいいか、というところからやります。


北朝鮮のICBM

 北朝鮮は金正恩体制で1万kmを飛ぶICBMを開発した、ということで、アメリカのドナルド・トランプ(Donald Trump、1946年―、73歳)大統領が交渉するという状況です。

 2019年2月27日から28日にはヴェトナムのハノイで、6月30日には朝鮮半島の板門店でトランプ大統領と金正恩(キムジョンウン、1984年―、35歳)国務委員長が首脳会談を行いました。北朝鮮が自力で開発した、大陸間弾道弾という1万km飛ぶ核兵器を手放すことはない。それはもうはっきりしている。トランプがいくら騙くらかそうと思っても、北朝鮮が騙されるわけがない。


38度線上で握手をするトランプ大統領と金委員長

 ということは、このままズルズル行く、ということです。

 日本人は、朝鮮、韓国とは非常に近い関係、というより、ものすごく複雑な、べったりくっついている関係です。それをなるべく見ないようにして、今は話をしている。

 今の日本人の50代から下の若い人は、北朝鮮や韓国のことは、ほとんど知らない、という状況になっている。「韓国人の女の子は、プチ整形で綺麗になっている」とか、悪口でもないけど、嫌がりながら付き合っている関係というのが、日本と朝鮮、韓国との関係です。

 私が今日、中心になって話すのは、 『金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!』(李命英著、2000年9月刊、成甲書房、※『四人の金日成』[1976年刊]の改題改訂)という本です。


金日成は四人いた―北朝鮮のウソは、すべてここから始まっている!

 これは李命英(りめいえい、Lee Myongyong)という人が書いた本で、初版は日本版が1976年に出版されている。それが24年後の2000年に再び復刻・再販されているんです。どちらも成甲書房から出ている。

 この『金日成は四人いた』という本は、ものすごく重要な本です。北朝鮮という国が、建国されたとき以来の全てが、この本に書かれているんです。それが真実なんです。

 この大きな真実を、日本人に伝えなければならない。そして日本人は北朝鮮のことを、大きく理解しなければいけないんです。

 『金日成は四人いた』というタイトルを見ると、「金日成に影武者が四人いたのか」というような反応を、まず示すんじゃないかと思う。そういう話じゃない。

 日本と北朝鮮との関係はものすごく深い。日本が植民地にしたんです。日本が、悪いことをいっぱいした。この事実を日本人が見たがらないから、本当の大きな理解をできない。

 例えばちょっと頭のいい日本人が知っているのは、1910年に「日韓併合(Japanese annexation of Korea)」というのをやった。それは中学校高校でも習うことになっている。

 そうするとその1年前の1909年に、伊藤博文(いとうひろぶみ、1841-1909年、68歳で死)が旧満州のハルビンの駅頭で、銃殺されているんです。

 その辺りの大きな真実を日本人が分かっていない。

 伊藤博文は当時の日本の最高の権力者だった。なのに総理大臣(首相)は、もう辞めている。そして自分は、初代の韓国統監になって朝鮮王朝の皇太子李垠(りぎん、イウン、1897-1970年、72歳で死)をきちんと育てる、という仕事をしているんです 。


伊藤博文と李垠(1907年)

 そしてここからが日本の知識人階級も知らないんだけど、伊藤博文は「朝鮮を併合するな」と言っていた。

 そして殺される当日、ハルビンの駅頭で、ロシア―このときはまだロシアです。ロシア革命前の1909年ですから―そのロシアからやってきたロシア公使と、目の前で会って握手しようとしていたところを銃殺されたんです。


暗殺直前の伊藤博文

 殺したのは安重根(あんじゅうこん、アンジュングン、1879-1910年、30歳で死)という人で、この人は日本の統治下の旅順で裁判にかけられて死刑になった。


安重根

 そのときの弁論集が残っている。そしてその安重根の横にいて面倒を見た日本人の真面目な警察官ですけどね、その人の記録も残っている。

 真実は安重根がハルビンの駅頭で、わーっとその周りを取り囲まれているわけですけど、取り囲んでいる警察官の警護隊の股の下からピストルで一発撃って殺した、というけれど、そんなことできるわけがないんですよ。

 5年ほど前にハルビン駅に私は現場を見に行きました。 そして当時の駅舎ではないんですけどね。瓦屋根の2階に銃殺隊が構えていて、それは伊藤と同じ長州(今の山口県)出身の山縣有朋(やまがたありとも、1838-1922年、83歳で死)の陸軍の部隊なんです。これに至近距離から銃殺されたんです。


山縣有朋

 安重根が殺した、というのは嘘なんです。こういうことから話をしなければいけない。同じ長州閥なのに山縣有朋が伊藤博文を殺した。

 私は伊藤博文というのは偉かったと思う。伊藤は死ぬ20年くらい前から、自分がイギリスが育てた最大級の日本支配のための道具なのに、イギリスから離れたんです。伊藤博文と井上聞多(いのうえぶんた、1836-1915年、79歳で死)[後の井上馨]の2人はイギリスが育てたんです。


若き日の伊藤博文と井上聞多

 すでに、これ以上イギリスの言うことを聞いて、日本がイギリスの言いなりの、実質・属国になっているという状況を、伊藤博文は非常に苦しんでいた。

 伊藤は福沢諭吉(ふくざわゆきち、1835-1901年、66歳で死)と連携しようとした。福澤は、勃興する、元気よく伸びていく、まだ正義の国家だったアメリカの東海岸の、たとえばマサチューセッツ州ボストンにあるハーバード大学と連携し、自分の慶應義塾(けいおうぎじゅく)を、「東洋のハーバード大学とせん」と、名乗りを上げて、イギリスの支配から脱出しようとしたんです。


福澤諭吉

 この観点を、日本の知識階級は持っていないんですよ。

 伊藤博文は、ただの悪(わる)ではないんです。すでにイギリス支配がどんなに残酷なものか、ということを知っている。 穏やかそうにしながら非常に狡猾な支配を、イギリスはやる。なぜなら大英帝国で全てを支配していましたから、アメリカ合衆国でもイギリスには逆らえなかった。

 福沢諭吉が1901年に死んで、同じ年にイギリスでヴィクトリア女王(Victoria、1819-1901年、81歳で死)が死んでいます。このときから20世紀です。


ヴィクトリア女王

 このときから世界が大きく変わった、と考えればいいんです。

 福沢たちも入っていたフリーメイソンの結社というのは、優れた知識人や芸術家や技術者、それから資本家、経営者たちの団体です。

 この人たちは、ものすごく立派な人たちだった。優れた自分たちの才能や能力や技術、芸術の力で、自分の国を栄えさせるという人たちだった。

 それがフリーメイソン、ユニテリアンという、キリスト教の一派ですけど、 勢力だった。これに伊藤博文たちも入っていたんですよ。

 それに対して自由民権運動というのをやっている人達は、世界の大きな動きを知らない。

 西郷隆盛(さいごうたかもり、1828-1877年、49歳で死)たちが1877年(明治10年)に、「西南の役(えき)」で殺された後は、言論の力で日本国を、デモクラシーという言葉はまだないんだけど、民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)で、国会を作って、民選議員を中心にした国にしろ、という運動を自由民権派はやっているんだけど、この人たちは世界を知らない。


真実の西郷隆盛

 だから伊藤博文と福沢は、この自由民権運動の人たちを小馬鹿にしていたんです。世界が分かっていない人たちだ、と。 このほうが大きな見方なんです。

 そして、伊藤博文は1909年の前から、朝鮮半島を王国のまま残せ、と言っていた。

 李王朝というのがあって、日本では李氏朝鮮と訳すけど、これは1300年代に明の皇帝から「朝鮮」(朝の静けさの国)という言葉と、「和寧」(平和の国)という言葉と、どちらを自分の国の名前にしたらいいでしょうか、と、韓国、朝鮮半島の支配者が尋ねたら、「朝鮮にしろ」と言われた。

 「朝鮮」という言葉は、「朝(あさ)の鮮(あざ)やか」と書きます。「朝が鮮やかだから」という立派な名前のように見えるけど、本当は、「朝(ちょう)」すなわち「朝貢品(ちょうこうひん)」、つまり「貢(みつ)ぎもの」が「鮮(すく)ない」という意味なんですよ。

 「鮮(あざ)やか」は、「鮮(すく)ない」とも読めるんです。「朝貢物(ちょうこうぶつ)が鮮(すく)ない」という意味で、馬鹿にしたのだ、という意味もあります。

 つまり、「朝鮮民族」って、いないんですよ。名前をつけてもらったんですから。

 じゃあ「大韓民国」と今はいうけど、「韓民族」というのがいるか、というと、「韓国」という国はあるんだけど、「韓族」というのがいるか、というと、これも、いないんです。

 紀元4世紀まで、 辰韓(しんかん)、弁韓(べんかん)、馬韓(ばかん)、という3つの「韓」というものがあって。これは新羅(しらぎ)とか、新羅よりも古い国である百済(くだら)、の、あのへんのことをいうんです。


当時の朝鮮半島の地図

 そしてそのとき任那(みまな)という国があった、というのも嘘です。あれは金官(きんかん)の加羅(から)という国です。伽耶(かや)または加羅(から)と呼ぶ国があったんです。

 そこに倭(わ)人というのがいた。この倭人というのは、朝鮮半島の南と、日本の北九州、それに山口県の辺りにもいた。

 海洋棲民族で倭人というのがいたんです。これは百済(くだら、ペクチャ)の王国の、弟分のような国だった。

 それが北のほうにあった高句麗(こうくり)という国と喧嘩した。わざわざ今の奈良の辺りの大和朝廷が攻めて行きましたという話は嘘なんです 。

 前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)が韓国、韓半島の南で見つかったから、だからそこに倭人がいた、とかいうけど、逆なんです。

 帝国が文明を作りますから、中国帝国の、当時はもうやがて隋(ずい)から唐(とう)になっていく時代ですけど、前方後円墳くらいは倭人が作るんです。

 これは古代史の話だからあまりしないけど、本当は西暦663年に「白村江(はくすきのえ)の戦い」で倭国の王が、百済を助けるために2万8000人を率いて出撃して、白村江で全滅した。

 だけど王族たちは、隋の洛陽(らくよう)の都に、捕まって、連れて行かれた。それなのに、弟分の国で、そもそも「倭国」はどこにあったのかというと、太宰府にあったんです。今の福岡市の南のほうです。私はあの辺で育ったからよく分かる。福岡平野なんですね。大きな、福岡湾というのがあるんです。それが「倭国」 の首都だった。

 そして同じ倭人なんだけど、それよりも弟分というか、ずっと外れにあった、今の奈良にあった、古い大和朝廷と書きますが、「大和(やまと)」というのは「山門(やまと)」、山の門、と書くべきだ。

 「倭(やまと)は 国の真秀(まほ)ろば たたなづく 青垣(あをかき) 山籠(やまごも)れる 倭(やまと)し麗(うるは)し(大和は素晴らしい国どころ、幾重にも重なる青々とした垣根のような山々。その山に囲まれた、美しい大和よ)」(『古事記』)という歌にもあるように、奈良の盆地の南にあったんです。

 山門は、弟分の国だったんだけど、天智天皇(てんぢてんのう/てんじてんのう、626-672年、47歳で死)というのが、九州にあったより先進地帯であった倭人の王国が滅んだものだから、まとめて一気に自分が倭国の代表だ、と言ったんです。

 かつ、701年には「倭国」という言葉を自分たちで消滅させて、「日本」という言葉に変えて、唐の帝国に朝貢した。

 唐の側は、理由も分かっていたんだけど、「まあいいや、認めてやるよ」ということだった。なぜなら自分の所に、本土の倭国の王様とかを捕まえてきていたからです。

 そうした古い話は、もうこれ以上しません。伊藤博文は李王朝、つまり李氏朝鮮の王族で、600年くらい続いて、日韓併合の1910年まで、ずっと続いて、あるんです。

 その王朝の王太子を、自分が面倒を見て、日本の植民地として続ければいい、と。それを山県有朋たちが伊藤博文を殺した後、日韓併合という、とんでもないことをしてしまった。

 これで激しい怒りが朝鮮側に生まれた。

 だから、さっきも言ったけど、「朝鮮族も韓民族もいないなら、何と呼ぶのですか」 と言ったら、言葉が困ってしまうんですよ。実は。みんな困っているんです。日本人も「そんな人たち、いたの?」となってしまう。

 なぜなら韓国の韓というのは、あれは中国人の名前なんです。「中国から25代前にやって来た、韓という一族の名前です」となっちゃうんです。

 一族のことを、「本貫(ほんがん)」というのと、「族譜(ぞくふ、チョクポ)」というのがあって、この「族譜(チョクポ)」と「本貫(ほんがん)」という考え方で、韓国人たちは家系図を今でも持っているんです。北朝鮮の人はどうか分からない。

 古い家系図をずっと今でも作って持っている。この本貫と族譜で、ずっと遡(さかのぼ)ると中国からやってきた、ということがはっきりしている。この問題がある。大陸性民族ですからね。

 もうちょっと言うと、百済(くだら)を滅ぼした新羅(しらぎ)というのは、モンゴル人だと思う。私は学生時代に、今から40年前に新羅があったところの、 慶州(キョンジュ、当時は金城[クムソン])というところが都だった。そこの、小さなお饅頭みたいな遺跡がたくさん並んでいるところに行きました。


慶州

 金冠、金の冠とかが見つかって、馬具が沢山見つかっている。これは北のほうから来た、モンゴル族の遊牧民族なんです。それが隋や唐と組んで、百済を挟み撃ちにした。それを一所懸命、助けようとした倭人たちも、一緒に滅んでしまった。これが650年から700年くらいまでに起きたことです。

 でもその後、新羅が唐の帝国を裏切って、朝鮮半島全部を自分たちの支配下だと言って、戦争で強かったんです。だから唐は遠征をやめた。

 その時以来、朝鮮族というのは強いということになっていて、今の習近平の中国政府も、朝鮮をどう取り扱うか、で非常に困るんです。戦いに負けているから。この西暦600年代くらいに何回も戦った。

 北のほうにあったのが高句麗(こうくり)という国なんだけど、高句麗を唐が滅ぼします。隋が滅んで、すぐに滅んじゃって。それは本当の理由は、負けたからなんです。

 高句麗との戦いで。 2回負けて、3回目で勝ったのかな。滅亡したのが668年です。

 それでその後の唐は、今度は新羅と戦うことになって、新羅に手を焼いて、攻めるのをやめた。

 それで今の朝鮮半島と中国の関係があって、厄介な民族だということなんです。

 その先にある島国の日本は、守られてしまった。だから天智天皇がホッとした。

 必死で、琵琶湖のほとりの大津宮(おおつのみや)というところに都をつくって、立て籠もって、唐と新羅の連合軍にいつ攻められるかわからない、と言って、震えていた。

 それが無くなったんです。新羅が唐の言うことを聞かなくなった。

 そうすると今度は、高句麗があったところにできた渤海(ぼっかい)という国があって、今の満州の辺り全部です。ここと日本、つまり大和朝廷だけど、奈良時代から平安時代の日本政府は、この渤海と、ものすごく仲がいい。


渤海の地図

 今の北朝鮮の羅津(らじん)とかあの辺から、 日本の福井県の辺りに、船がいつも行き来していたらしい。

 なぜ遣唐使が、危ないのに九州から真西に東シナ海をバーッと突っ切って、寧波(にんぽー)というところに辿り着かなければいけなかったか、というと、新羅と仲が悪かったから、近寄らせてくれないものだから、朝鮮半島の陸伝いにぐるっと回っていけば安全だったのにそう行けなかったからなんです。

 伊藤博文は、ロシアとも仲良くする、と。そしてドイツとも仲良くする。それからイギリスの支配からなるべく脱出したい、と思っていた。これが優れた考えだったんです。

 これを山縣有朋を使って、イギリス政府は、やはり伊藤博文を殺したんですね。この視点を、日本国の歴史学者で持っている人は、まだ誰もいません。

 なぜなら伊藤と、本当は嫌い合いながらも裏で繋がっていた福沢諭吉は、極めて、ずば抜けた、日本の最高知識人ですからね。

 自分は幕末に、最初は咸臨丸でサンフランシスコに行ったんだけど、その後はすぐに、二回、幕府の使節に随行員でヨーロッパのほうに行っているんです。

 そのときに、まず上海に行くわけね。そこから船でずっと、今度はカルカッタとかボンベイのインドを見て、それからエジプトのほうに入っていって、まだスエズ運河が出来るちょっと前なのね。そこのところへ鉄道で移動するんです。カイロのほうに出る。

 そこから地中海を渡って、フランスの南の大きな都市マルセイユに続いて、そこから鉄道でパリに行くんです。

 そうするとこの、中国と、インドと、エジプトね。これは帝国だったんですね。大きなアジアの帝国だったところがイギリスの植民地にされていた。そこでどんなに人々が貧しかったか、を、福沢諭吉は、港で見たときに目撃しているんです。

 この真実を日本の知識人が知らない。やはり大英帝国は、ものすごく恐ろしい支配をしたんです。

 それを何か、イギリス人は上品で、貴族様、ジェントルマンだから、悪いことをしない、みたいにいうけれども、嘘です。

 福沢と伊藤はこのことを知っていた。だから世界覇権国であったイギリスの支配からなるべく脱出するということを考えたこの二人は偉かったんです。

 ところが、それを許さない、ということで、日韓併合なんかしてしまった。これがどんなに悪いことだったか、ということは、これは小室直樹(こむろなおき)という私の先生が、はっきり書いていた。

 韓国で一番尊敬されている日本知識人は、小室直樹なんです。彼が生きていたら今でも韓国人の知識人たちは、小室直樹を大歓迎した。韓国人についての本を4冊も書いていますから。


小室直樹

 その内容は、他の日本の朝鮮学者古田博司(ふるたひろし、1953年―、66歳) という、とんでもない、筑波大学教授、今は慶応大学教授をしていて、私も会ったことがあるけど、この間も15年ぶりに会ったけれども、この教授が、これは朝鮮研究で完全に反共産主義で反北朝鮮主義の、大して力もない学者なんだけど、彼ですら、「一番、韓国で尊敬されているのは小室直樹だ」と言っています。


朝鮮総督府(前は光化門)

 その小室直樹が、「絶対に日本がやっちゃいけないことを日韓併合の後にやった」と。それは「朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)」という建物を作ったのね。今は叩き壊されて、何もない公園になっているんだけど、 景福宮(けいふくきゅう)という、日本でいえば皇居、周りにお堀はありません。その朝鮮国王のお城の、デーンと一番正面の手前のところに大きな近代的な建築物を作ったんです。それが朝鮮総督府です。


景福宮

 ああいう、やってはいけないことを、日本は本当に朝鮮半島でたくさんやった。その前に、細川家なんていうのも、朝鮮半島にたくさん土地を買ったんです。そして小作たちをたくさん使って、激しい労働をやらせて、その富で、今の細川家は出来た。

 その真実を語ろうとしません。1880年くらいから、どんどん日本の資本家や貴族、旧華族たちが進出して土地を買い漁って、朝鮮を支配してしまったんです。このことも言わないことになっています。

 その後が政治的な朝鮮併合になってしまった。ところが、かたちだけ、朝鮮帝国の皇帝とか名乗らせるんです。これがどれくらい気持ちの悪いことか。

 「大日本帝国」ですら気持ちが悪いのに、実力も何もないくせに。朝鮮皇帝みたいな名前まで名乗らせる。 みっともないことを日本がやらせた。

 そのときから、朝鮮人、韓国人、どう言っていいか分からないけど、が、暴れだして。「抗日パルチザン運動」というのを始める。

 最初に始めたのは1907年です。日本に完全に飲み込まれて、ついに、臣民教育というんだけど、「朝鮮族も、日本天皇の臣民、家来である」と。そういうとんでもないことをやってしまった。

 そして日本の神社を作って回った。それは嫌な事なんですよ。日本の神社なんかを「拝め拝め」と言って、日本語で教育をして。それは朝鮮人が怒りますよ。それを無理やりやったんです。

 台湾では穏(おだ)やかにやった。台湾人は日本人が嫌いではないのです。無理やりそういう厳しいことをやらなかったんですね。だから台湾人は日本人が好きなんですが。

 日本が朝鮮半島では本当に悪いことをした。だから独立運動というのが、すぐ起きたんです。

(続く)

このページを印刷する