「1688」花街(かがい)から歌舞伎の世界について(上)2017.8.11 副島隆彦

副島隆彦 です。 今日は、2017年8月11日 です。

●市川團十郎 (いちかわだんじゅうろう)

 前回の、江戸時代の廓(くるわ)・遊郭と、明治・大正・昭和の岡場所の話の続きです。
岡場所とは公認されていた売春地帯のことだ。売春地帯というと、おかしくなるが、花街(はなまち)、正式には花街(かがい)という。明治・大正・昭和(戦前が20年間、戦後が44年)は64年間あった。このあたりのことからつながって歌舞伎の世界のことまでをまとめる。

 しかし、ずっと話をつなげていくと大変なことになるので、とにかく今私が自分でおさらいして、何が日本の歌舞伎の世界かというものの一番大事なところを話す。
 私は歌舞伎をほとんど見ていない。ただ夜中の1時、2時にNHKで歌舞伎の演目を放送していた。それを、いつの間にか少しずつ見ている。それを見ていて、副島隆彦だけがわかる真実がある。これが今の歌舞伎の世界につながるかどうか、そこまで何とかやってみようと思う。

 私の感じたところでは、女形(おやま)で一番最高と言われたのが市川團十郎11世だろう。屋号は成田屋(なりたや)です。この人が1936年に第一次東宝劇団に参加した。東宝はロスチャイルド系で渋沢栄一(1840-1931)と小林一三(こばやしいちぞう)が1932年につくった。
 この小林一三が阪急電鉄・宝塚歌劇団・阪急百貨店・東宝をはじめとする阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者で、立派な実業家だ。

 今の歌舞伎座を運営している松竹は、この東宝と戦前から戦後、ずっと争うように競争している。松竹は、兄・白井松次郎(しらいまつじろう)と弟・大谷竹次郎(おおたにたけじろう)の双生児がつくった。この松竹と東宝の争いになっていった。どちらがお金を出してくれるか。どちらが立派にお金をかけて演目を上演させてくれるか、という争いだ。

 それぞれ歌舞伎の役者たちも、自分の団員を70~80人抱えている。だから、食べさせなければいけないという重要な話がある。このことをテレビ・新聞が全く言わないからおかしくなる。

 市川團十郎(11代目)(1909-1965)が若いころは海老蔵(9代目)で『助六所縁江戸櫻(すけろくゆかりのえどざくら)』で「助六」という荒者を演じてものすごく人気があった。これは戦後すぐの1946(昭21)年のことだ。

 戦前の荒者の人たちと違って、これが戦後の歌舞伎である。この後、1951(昭26)年『「源氏物語」の光君をやって、日本の若い女性たちにものすごく人気が出た。たしか私は『若き日の信長』(大佛次郎作)という作品を見た。

 その市川團十郎(11代目)の息子がこれも屋号は成田屋で、十二代目市川團十郎(1946-2013)です。おやじの血を引いて十二代目も荒事(あらごと)が得意だった。彼は1946年生まれで私より7歳上だが、白血病を患って2013年に66歳で亡くなった。この息子が今の市川海老蔵(11代目)(1977- 現在40歳)だ。

 この11代目市川海老蔵は、暴走族の関東連合というやくざ者たち、不良とつき合ってお金をおどし上げられたり麻薬をやったりして、2010年11月25日早朝に西麻布で暴行を受けて頭部と顔面を負傷した。事件を公表することで、暴力団たちとの関係を絶った。自分も大きな恥をかいた。父の12世團十郎は、大変な苦労をして泣きながら息子を叱って、それで海老蔵がしっかりとした人になった。この11代目海老蔵がものすごくいま人気がある。はげぼっこで、顔も大きいのに人気があるのは、私にはよく理解できない。

 海老蔵の奥さんだったフリーアナウンサーの小林麻央さんは、この6月に乳ガンで亡くなった。自分の闘病生活を綴ったブログが注目されて、BBCの「今年の女性100人」の一人に選ばれた。
 彼女は3000万円とか、それ以上のお金をかけて、いろんな治療をしたそうだが、ガンには勝てなかった。とにかく、この成田家が一番輝いている。

 私が注目している役者に市川團蔵(8代目)(1882-1966)という人がいる。市川團蔵(8代目)は浅草・鳥越の中村座でデビューした。中村吉右衛門一座に属して脇役、老人役をずっとやった。この人は1966年に死んだ。1966年に引退して、四国のお遍路回りした後、小豆島から大阪へ行く船の徳島に渡る鳴門海峡で、ザブンと入水して死んだ。私にはこのときのショックが大きかった。これが市川團蔵という人だ。

 他に市川雷蔵(8代目)(1931-1969)という人がいる。彼は、歌舞伎役者というより、もう俳優です。ハンサムでかっこよくて冷たい感じだった。市川雷蔵は37歳で早死にした。彼は、生後6か月で三代目市川九團次の養子になって、歌舞伎の家柄の人になった。しかし、大映の映画俳優に転身して「大菩薩峠」などが、ものすごくヒットし、トップスターになった。たった16年間で159本の映画に出演した。

●6世尾上菊五郎が重要
  歌舞伎というものを、本当は皆、誰も分かっていない。実は、歌舞伎にものすごく凝っていて好きで、「澤瀉屋(おもだかや)」とか「成駒屋(なりこまや)」とか、かけ声を掛けているやつらも、どこまで分かっているのだろうか。見巧者(みごうしゃ)と言って、演じている役者よりも、観ている方が、目が肥えているから、すごいという説もある。それに対して、私は、政治思想が分かっている。政治思想というものが分かっているから、私は歌舞伎まで、なんとか何か分かるような気になってきた。

 3世市川猿之助、今の市川猿翁(2代目)(1939-)という役者がいる。彼の父親が3世市川段四郎(1908-1963)で、弟は4世段四郎(1946-)である。この市川猿翁(2代目)が重要だ。私はあきれ返ったが、分かりやすく言うと、1986年からスーパー歌舞伎というものを始めた。
 スーパー歌舞伎とは、古典とは異なる演出の現代風歌舞伎で、第一作は「ヤマトタケル」を上演した。「ヤマトタケル」は、何を言っているのかよく分からない梅原猛(うめはらたけし)という哲学者がつくった。

 役者をワイヤーでぶら下げて、空中をブーッと空飛ぶようなことをやった。だから現代歌舞伎という。これは、一時期、受けたようだがやっぱり嫌われた。この3世市川猿之助、市川猿翁(2代目)がしてきたことは、私は大失敗だと思う。

 この3世猿之助の相手方として市川門之助(いちかわもんのすけ)(7代目)(1928-1990)という役者がいる。門之助の方が、人気があったような気がする。この市川門之助は、絶世の二枚目俳優と女形方(おやまがた)の俳優だ。門之助は、17代目(不明)市村羽左衛門(いちむらうざえもん)(1916-2001)という人の弟子です。歌舞伎では、弟子のことを部屋子、女方(おんながた)を女形(おやま)、男方のことを立ち方と言う。この市村羽左衛門17世と尾上梅幸7世(1915-1995)がコンビを組んで、「死んだはずだよお富さん」の「与話情浮名横櫛(よはなさけうきなのよこぐし)」などで、ものすごく受けた時期がある。

 これらが女形の系統です。尾上梅幸7世の養父が6世尾上菊五郎(おのえきくごろう)(1885-1949)だ。この6世尾上菊五郎が一番重要な人であると私は思う。この人が市川左團次(3代目)(1898-1969)を育てた。美しい名女形と呼ばれていた人です。この市川左團次(3代目)は高島屋といって、1917年に市村座で四代目市川男女蔵(おめぞう)を襲名した。男女蔵は左團次の前に襲名する名跡である。

 この市村座がどこにあったか、ようやく私は最近わかった。それは新富町だ。今の東京の地下鉄の新富町の駅のすぐ出たところに新富座(その昔は守田座)という歌舞伎の小屋があった。それは、市村羽左衛門が座元(ざもと)だったから市村座だ。1932年に失火で焼けてしまった。戦後もあったらしいが、歌舞伎座に負けて潰れてしまった。それが戦後で、いつ潰れたか分からない。

 私は、6世尾上菊五郎が全体のまとめ役で歌舞伎界にとって重要な人物だったと思う。彼は人をたくさん育てた。私費を投じて俳優学校を開設した。このことがものすごく重要だということを誰も分かっていない。6世尾上菊五郎のところでみんな育っている。市川左團次(3代目)という女形で、その息子が4世の左團次だ。彼らは6世の菊五郎のところでずっと修行して、女形として人気が出た人だ。

 ところがこの尾上菊五郎(6代目)が戦後の1949年の戦争が終わって4年後に急死してしまった。死んでしまったから弟子たちが頑張った。弟子たちは誰かということが大事です。それが女形では中村芝翫(しかん)(7代目)(1928-2011)という人がいた。芝翫は「芝(しば)」という字に、「翫(かん)」という字は難しい。「習う」という字に右側に「元」と書く。中村芝翫(7代目)と7世尾上梅幸という女形がいて、この人たちも6世菊五郎にものすごく教わって習った。

 歌舞伎の家の子どもたちは、暁星(ぎょうせい)学園に行く。暁星学園は幼小中高一貫教育の学校でフランス系カトリックの学校だ。これは東京の威張りくさった特別な私立学校で、フランス語で授業やりますみたいなのはウソです。ここは、できがいいというか悪いというか、名家の家の人が東京では暁星学園、暁星中学・高校を出る。鹿児島のラ・サールのようなお勉強秀才学校ではない。フランス人の宣教師が今でも来ていて、特殊な学校なんです。秀才も一部いるだろうけど、ほとんどは勉強ができないバカがそろっていると思う。

 だから堀越学園と一緒で、タレントたちの養成学校としてつくった。これを言ってはいけないことになっている。ただし、一部はエリートたちもいることになっている。同じく、JRの鉄道員たちは、岩倉(いわくら)鉄道学校という学校を出ている。今は、岩倉高校だろう。しかし、そんな高校の名前は聞かないから、きっと変名している。

 ところで、海老蔵は、若いころは、本名の堀越孝俊だった。アイドル芸能人の学校である堀越学園と関係あるのかなと思って調べてみたが、海老蔵は幼稚園・初等部・中等部・高等部まで青山学院で過ごし、高等部から堀越高等学校に転校し、卒業しただけだった。

 歌舞伎役者の子どもは、半分ぐらいは暁星学園に通っている。歌舞伎の家は、いつの間にか立派な家柄ということになってしまった。ところが、度を超した我が儘息子が多いから、卒業するのも大変だ。
 暁星とちょっと違って、ほかに、青山学院と慶應(慶應幼稚舎から)に行く。ここも芸能人の子供たちがいる。親が芸能人でお金があると、不良がいっぱい出てきて、犯罪者に近いような不良たちが出てくる。親の言うこと聞かないどころの騒ぎではない。中学校のころから麻薬をやる、売春をやる、同級生にカツアゲ(恐喝)をやるような人たちだ。ほったらかすと、恐ろしい人たちが育つ。
 これは、恐らくパリでもニューヨークでも、帝国の都は、みんなそうだろう。ろくでもない子どもが育つ。親が大金持ちで、そういうお殿様や貴族様の子どもは、そういうものだ。

●歌舞伎のはじまり
 これを書くとまた、全部、編集者に削られるだろうが、歌舞伎、花柳界の人たちは、元々は河原乞食(こじき)の出です。もともと下賤(げせん)で下品で下卑(げび)た出の人たちだ。阿国歌舞伎(おくにかぶき)が、戦国時代の終わり、江戸の初期に出来て以来、阿国(おくに)という女性が、京都の四条河原で、ぴょんぴょん跳びはねて踊った。半分、ストリップショーみたいなことをやっていたのだろう。これがものすごく拍手喝采されて、踊りの拍子がよかった。

 それまでは、京都の貴族文化で、舞(まい)しかできない。白拍子であっても、巫女さんの舞だ。お能と似ている所作だ。足が上がりだしたら、舞踏の踏(とう)とか、舞踊の踊(よう)、踊(おど)りになって、極めて下品なものが、踊りだ。舞いと、踊りは全く違う。今は、それを合わせて舞踊(ぶよう)と言っている。

 民衆は、田楽、お神楽から、農作業での、剽(ひょう)げ踊(おど)りのような、民衆の猥雑な踊りをやっていたと思う。京都の貴族文化は、西暦1500年代まで、舞いしか許さなかったはずだ。足が跳ね上がる、踊りというものは、はしたない、として忌避されていただろう。

 「傾(かぶ)く、歌舞(かぶ)く」というのは、斜めに傾くという意味である。織田信長がその代表で、若い頃は「かぶき者(傾奇者)」と呼ばれていた。キンキラキンの、金や銀、赤や黄色の着物を派手にまとった。綺麗に装飾して、大きな刀を差してみたり、大きなざん切りのちょんまげしてみたりして、ものすごく派手に見せかけることをかぶき者といった。つまり不良のことで、ここから来ている言葉だ。

 だからもっとはっきり言うと、歌舞伎というのは穢多・非人(えた・ひにん)の非人の方に所属した。江戸の初期から非人頭・車善七(くるまぜんひち)の配下にあった。私はまだはっきり確認していないが、この非人頭・車善七の配下から、幕府の許可、お免状をもらって、歌舞伎役者は脱出した。自分たち河原者、役者は、非人だ。士農工商のさらにその下の被差別民階級なのだが、そこから脱出できた、という喜びの劇が「助六」である。

 2代目團十郎が、1660年頃に初演したらしい。こんなことを誰も書かないから、私が本気で書こう。そのとき自分たちをたくさんいじめた非人頭・車善七に対する憎しみを込めて、喜び喝采の中で、できた劇が「助六」なのだ。

 だから隈取(くまどり)とは、「墨(すみ)」という意味で、隅田川の「隅(すみ)」と大隈重信(おおくましげのぶ)の「隈(くま)」は実は同じである。当時は真っ黒の「墨」で字を書いていた。何か字体が違うように見えるが、隅田川の「隅(すみ)」と隈取の「隈(くま)」は、きっと元は同じ意味で、隅っこ、端っこという意味だろう。墨(すみ)で隈(くま)取りしたら恐ろしい鬼の顔になるが、そういう芸事の伝統から出てきている。

 もう一つ、穢多・非人(えた・ひにん)の、穢多頭の矢野弾左衛門(やのだんざえもん)について、明治になってからは弾直樹(だんなおき)と名乗った。彼は13代目だ。下町一帯で靴づくりを部落民の生活保障の手段として近代工業に育て上げることを目指した。靴づくりは、実は被差別民だけの仕事である。江戸幕府も明治政府も、皮革、牛馬処理は被差別民の専業にした。

 今も、自由貿易体制で関税引き下げの協議、協定がある。しかし、靴の話は絶対に面には出ないし、出さないことになっている。靴に関しては、してはいけないことになっている。イタリアでも日本でも靴には税金がしっかりかかっている。なぜなら、はっきり言うと被差別民がやっている仕事だからだ。しかし誰も言わない、書かないから、みんな分からなくなって、黙ってればいいかと思っている。だから私が言ってやる、になる。

 穢多頭(えたがしら)と非人頭(ひにんがしら)の関係は、江戸中期に、一度、ぶつかって死人が出て、非人頭の方が負けた。ぶつかって何人か死んだ。たった何人か。それで、江戸幕府としては穢多頭の矢野弾左衛門の言うことを非人は聞け、と言って非人頭の車善七のほうが負けた。
 非人はどうしして生まれたか。江戸の近郷在郷、関八州(かんはっしゅう)、関東地方全部から、もう田舎にいられない、食べていけない人たちが流れ着いてきて集まってきた人たちを非人と言う。彼らは人別帳(にんべつちょう)から外れてしまっている。人別帳は、それぞれの村のお寺の坊主が管理していて、坊主たちは実は国家公務員だった。

 人別帳から外れて、人非人(にんぴにん)、非人になった者たちを、食べさせるために人足寄場(にんそくよせば)というものができた。佃(つくだ)の人足寄場や、品川の人足寄場に何万人も食えなくなった人たちが、寄せ集まった。その親分が非人頭・車善七だ。
 映画『男はつらいよ』の「フーテンの寅さん」の「車寅次郎」は、日本共産党系の監督である、山田洋次という監督がつくった、非人の系統だ。寅さんは、テキ屋の人たちだ。彼らは、全国ネットワークを持っている。それは関東二十日会(かんとうはつかかい)などがある。やくざの系統は3つからできている。

 近代やくざである山口組のような沖仲仕(おきなかし)、港湾人足たちの系統と、どこまで本当か知らないが稲川会は、ばくち打ち、博徒系と言われている。初代会長の稲川聖城(せいじょう)の本名は稲川角二(かくじ)です。
 
 それに対して、神様の農業、と書く神農(しんのう)は、神農神を奉(まつ)っている日本全国のネットワークを持っている行商人の系統がある。神社仏閣の縁日のときの、今もずらーっと夜店を並べる人たちは、みんなこの車善七系の人たちだ。これも言ってはいけないことになっているが、彼らには親分衆がいて登録してあって、それと警察がきちんとつながっていて、場所を管理して許可を出している。それが的屋(てきや)系だ。これらの話は言い出すと切りがないから、歌舞伎の話に戻す。
  
●人を育てた6世尾上菊五郎
 6世尾上菊五郎(1885-1949)が戦前、歌舞伎役者たちのための学校の日本俳優学校をつくって人を育てた。菊五郎が死んだ後、残された人たちが心を決して「菊五郎劇団」として結束した。その親分になったのが尾上松緑(おのえしょうろく)(2代目)(1913-1989)だ。2世尾上松緑を、私はNHKのドラマで見ている。温厚そうな立派なおじい様だった。

 3世尾上松緑は、2世の長男です。屋号は音羽屋という。彼は、日本舞踊の藤間(ふじま)流の家元でもあって、五代目藤間勘右衛門(ふじまかんえもん)も兼ねた。だからこの音羽屋が、一門で今もいる。国立劇場が、私が学生のころできた。歌舞伎十八番(かぶきじゅうはちばん)をやっていた。この国立劇場とは、現在もお堀端で、最高裁判所の隣にある、一番立派な劇場だ。歌舞伎十八番を一所懸命、復活させた人が、6世菊五郎と、9代目團十郎だった。彼らは人を育てる人格者でもあった。

 3世尾上松緑は、藤間勘右衛門というから、女優の藤間紫(ふじまむらさき)という人も縁者だろう。この3世尾上松緑と7世尾上梅幸と、この中村芝翫(7代目)(1928-2011)がみんなで跡を継いだ。これが歌舞伎界の主流だと私は思う。だから高島屋と音羽屋だ。

 次が大事で、最初に市川團十郎と海老蔵の話しをした。それから市川猿之助3世(2代目市川猿翁)の話をした。これが澤瀉屋(おもだかや)です。スーパー歌舞伎の「ヤマトタケル」をやって、私は好きじゃない。ところが、ここからが大事な、大きな秘密だけど、どうも2世市川猿之助(1888-1963)が左翼だったようだ。昭和の初めに、実は社会主義者になった。これは今も大きな歌舞伎界の秘密だ。秘密というほどではなく、みんなが知っているが言わない。戦前から戦後までです。この話が歌舞伎界の最大のタブーだろう。

(つづく)

このページを印刷する